2000中国(庄河→日本)
2000年12月13日
長途汽車站へ行き、切符を買う。なぜか時刻表に無い8:30発。バスは面包車(マイクロバス)である。前回の教訓から早めにいい席を確保すると5分早発。しかし、ちょっと走っただけで停まり、しかもみんな降りはじめる。どうやらバスを変えるらしい。せっかくいい席を確保したのに、次のバスでは最後部の真ん中の席になってしまった。みんな着膨れをしているので、ダークダックス式に肩を互い違いにしないと入りきらない。すこぶる体勢が良くない。乗り心地もボロバスの方がましである。暖房も無いらしく、運転手は窓の氷を拭きながら運転している。とにかく寒い。スピーカーからは雑音とともにテレサテンが流れている。
途中いきなり停車。エンジンボックスを開けている。エンジンボックスは車内にあるので、開けるとその熱で少し暖かくなる。しばらく踏み込んだりした後出発。バスやバイク、トラックなどを激しく抜いてゆく。エンジンは大丈夫だろうか。 遅れを取り戻し、3時間半で長途汽車站へ到着。
近くの餃子屋へ入る。餃子を頼むと3人前くらいありそうなのが出てくる。しかし、隣の中国人はこれプラス2品と白酒を飲んでいる。 港へ行くため有軌電車に乗る。しかし、市電が港に行くというのは私の勝手な思い込みで、関係無い所に着いてしまった。仕方なく少し戻って港まで歩く。港で今夜の煙台行き夜行便の切符を買う。四等72元(1000円)。再び街をふらふらする。
港は巨大で、人が多い。電光掲示に従って改札が始まり、連接バスに便乗して船まで行く。2000tクラスと思われる小さな船に乗り込む。一〜三等と四〜五等では明確な区別があり、入り口まで違う。我々下層階級は低い入り口から入り、鉄のネットでできた二段ベッドが並ぶ薄暗い8人部屋に入る。しかし、これはかつての三等であり、一応一人分のベッドが確保されるので慣れてしまえば快適である。五等は船底で、大部屋に二段ベッドが多数並ぶ。厠所は中国標準タイプである。船は航行中、波に乗り上げ前方が高くなる。そして一番前の高い位置にこの厠所は存在する。この位置は風上でもある。明らかに設計ミスではないかと思う。海は凪で快適な航海。
2000年12月14日
4:00入港の予定が3:30入港。迷惑な早着である。フェリーターミナルに待合室がなく、仕方なく火車站へ。朝早くから沢山の人がいる。旅館の客引きが来るが、習慣的に断る。でも、ついていけばよかったかなとも思う。大連ほど寒くなく、まだ楽である。未明の暗い街を歩き飯店を探す。友誼賓館というところに電気が点いている。言葉がかなり通じにくい。どうやら、ツイン相部屋なら90元、貸切なら180元と言っているらしい。90元でいいと言うと、貸切150元でどうだと言う。じゃそれでいい。今までで一番高い部屋だ。四楼(4階)の小姐は寝ていたらしい。起こしてすまん。まだ6:00だった。
少し仮眠してから街へ出る。長途汽車站で南京行きのバスの時刻を尋ねるが、言葉が全く通じない。結局分からず。並木の美しい坂道を歩く。
汽車站前の餃子屋に入る。やはり言葉が通じない。大肉麺を頼む。日本人だと言うと店の男がいろいろ尋ねてきて、大筆談タイム。彼は「君は万里の長城を見たか。あれは中国の龍のようなものだ。」と書き、自分のしていた龍のネックレスをはずし、私にかけてくれた。食事の後、太平洋餃子という看板の前で記念写真を撮った。そして、また来なさいと、住所とポケットベルの番号を書いた。
駅で切符を買った後、いい地図帳を見つけたので入手する。広い中国全土がメッシュになっていて大変に興味深い。それから、一つ気になっていたものがある。中国人はよく青島ビールの傘を差しているのである。どうしても欲しくなり、探してみたが、傘屋自体が見つからない。日本なら洋服屋か靴屋辺りで置いてあるが、中国でそうとは限らない。いったいどこで売っているのか。あるいはよっぽど雨が少ないのか。
「駅はどこ。」と道を訊かれる。「あっちだ。」大分中国人らしくなってきたらしい。 結局傘の件は謎のまま、餃子と煙台ビールを飲んだら、まいいかとなってしまう。
帰って風呂をと思ったが湯が出ない。服務員を呼ぶとしばらく出しっ放しにしておけと言う。しかし、出ない。3回目苦情を言いに行くと、「今日は駄目だ。明日でいいか。」「明日の朝か?」「夜だ。」もちろん明日は出発である。150元奮発の部屋でこれはないよなぁ。諦める事も中国の旅である。
2000年12月15日
9時過ぎチェックアウト。「風呂が使えなかったからまけろ。」と言ってみる。「だから150元にまけただろう。」筋が通らないが結局こっちの語学力が致命的となり敗北。駅で荷物を預ける。前の人が5元なのに私は2元。いったいどういう料金設定だろう。時代広場(タイムズスクエア)という妖しげなマーケットを歩く。屋台で食材からG-SHOCK、ブラジャーまで何でも売っている。誰かのお土産用にと中国語でしゃべる腕時計を買うことにする。「多少銭?」「20元だ。」「10元でいいか。」「話にならない。」帰ろうとすると「仕方ない、15元でいいよ。」「12元でいい?」「持ってけ。」
快可立(クイックリー)というジューススタンドがあり、杏仁乳茶というのを注文する。甘いホットミルクティーに小さい杏仁豆腐が沢山入っていて、太いストローで飲む。結構クセになる。CD屋に入ると怪しいパソコンソフトも売っていた。1枚5元(70円)でフォトショップやWindowsMEもある。店の小姐が音楽CDと間違えているのではないかと声を掛けてくる。ワープロを探しているのだと言うと、一緒になって探してくれる。中文版ワード2000を見つける。それから中国電子地図も。小姐は「外国の音楽はこっちです。」宇多田やキロロがある。「中国の音楽がいいな」と言うと「これなんかはどうですか」といろいろすすめてくれる。社会主義はどこへ行ったのだろうか。ついでに記述しておくと、美人である。
上海西行きは一番ボロいので来た。向かいのベッドは上海の人で言葉が意外と通じてうれしい。彼女からひまわりの種を頂く。中国人はこれを歯で殻と中身を器用に分離し一定のペースで食べ続ける。真似してみるが難しい。3回に1回くらいはできるようになった。ひまわりと胡桃を上手に食べられるようになったら貴方も中国人である。 再び筆談タイムに。彼女は「拉網小調」と書いた。テレサテンが歌った北海道の歌だと言う。襟裳岬かなと思ったら、違うらしい。実はソーラン節だった。それからおなじみ北国之春。中国で一番有名な日本の歌だ。そして、佐田雅志・・・。むむ、さだまさしを知っているのか?山口百恵は歌よりも映画が有名らしい。「血凝」って何のことだろう。そう言えば煙台の彼もそんなことを言っていたが。
2000年12月16日
向かいの人に、青島ビールの傘はどこで売っているのか尋ねると、あれはプレゼントで非売品だと言う。残念である。石庫門を見たいと言うと、淮海路にあると言う。名刺を渡すと名刺をくれた。経理と書いてある。中国の経理は事務系一般職の意味ではなく、社長の意味だ。「何かあったら電話しなさい。24時間OKよ。」と言った。降りる間際干柿と方便麺をくれる。 列車は上海西駅と言うマイナーなターミナルに到着する。彼女たちは浦東、私は浦江。同じ方向なので同じバスへ。バス代まで出してくれ、回数券も数枚くれた。
バス車内で日本語で話している人がいる。二人ともイントネーションからして中国人なのだが、なぜか日本語。しかも離婚について話している。このバスで私だけが彼らの秘密をわかってしまうのである。
石門一路で人を掻き分けて下車する。ここで教えられた通り71路に乗り換え外灘へ。貧乏旅行者はまたも浦江飯店なのである。601号室はまたも違う部屋だ。このホテル、いったいいくつドミトリーがあるのだ。ここはシャワーが無いかわり風呂がある。しかし、栓の規格が合っていないため水圧を利用してうまく水を止めなければならない。
街へ出る。道を訊かれるが、言葉がわからない。「ワタシー、外人。ワカラナイネ。」と断る。上海の神保町のような本屋街に出る。中国の写真集を探したがあまりない。外国や日本のものが多い。なんと味千ラーメンがある。味千ラーメンと言えば、九州のラーメンチェーンである。一食15元〜20元とあるから、安くないと思うが多くの人で賑わっている。少し歩いて炒麺4元(60円)。屋台でごまにくるまれた餅のようなものを食べる。うまい。
宿に戻る。またも欧米人部屋で隣のオーストラリア人が騒々しい。20元の事をトゥエンティクワイなどと言っているのが鬱陶しい。合法的に泊まれて、外灘が近く、港も近く、1泊55元は確かに手軽で安いが、招待所も問題なく泊まれるようになったので、もうここに来る必要は無かったなと思う。
2000年12月17日
朝の散散歩へ。いつもエキサイティングな街が穏やかだと思ったら、日曜日だった。明らかにピンクっぽい映画館を発見。やはり中国にもあるかぁと思う。近くの公用電脳屋へ行くが、日曜で休み。もう一軒に行くと賑わっている。ゲームとかをしているようだ。奥の部屋がインターネット用になっていて、1時間8元(110円)。しかし、メールは駄目だと言われる。残念である。
公共汽車100路で、魯迅旧居へ。租界の古い街並みの中にひっそりとあった。文明小区を歩く。 18路で旧上海北駅の辺りへ。地下鉄を建設中で、駅や線路の跡は既に大分消えていた。しかし、この辺りのマーケットのカオス感はすごい。狭い路地は祭りのような賑わいだ。安食堂で特別菜飯というのを食べる。
123路で人民広場へ。また快可立(クイックリー)を見つける。杏仁乳茶を買って人民公園で飲む。香港市場をのぞく。日本のおしゃれなショッピングモールのようだ。酒井ノリピーの絵葉書があった。日本では可愛いアイドルだったが、こっちではかなりセクシーを売り物にしているらしい。
またも中国人に道を教える。飯店近くの超市でお土産用に、ビニールにパックされた白酒(高粱酒)と三得利(サントリー)ビールを買う。「可的」というコンビニへ行く。入ると「歓迎歓迎(いらっしゃいませ)」と言われる。昔の中国を知る人には信じられない事だろう。レジはもちろんPOSが導入されている。そして、上海電視という雑誌を買おうとすると、「これは今週ので、明日新しいのが出る」と言う。こんな事、日本のコンビニでもやらないなと思う。
夕食は飯店の下にある食堂で沙鍋。鶏ガラでだしを採ったスープに、白菜、豚肉、春雨が入り、日本の鍋物に近い。淡白な味に少し辛味がつけてある。三得利を飲んでご機嫌である。
夜の外灘を歩く。恋人達が愛をささやきあう為に使う、花束を売り歩く人がいる。いろんな事が商売になるのだなと思う。
飯店に戻り、夜寝ようとするとまた欧米人(含日本人)がうるさい。「オーストラリアとニュージーランドで、言葉は同じか?」「同じだ。SixとSexの違いくらいだ。」といった程度の事で2時半まで大笑いしている。
2000年12月18日
外灘の輪渡站(渡し舟の船着場)へ。特にあてはない。81路に乗って浦東を駆け抜ける。終点高橋下車。快餐庁(ファーストフード店)で大排麺を食べてから、街をふらつく。鳩やウサギが売られている。ここは縁日ではない。市場である。それはつまり「食材」という事である。羊の頭を掲げて狗肉(犬の肉)を売る店が本当にあって、ちょっと可笑しい。
帰りは途中で降りて廃墟ビルを撮る。しかし、中国で廃墟を撮るとどうしても人が入ってしまう。
宿に戻って、台湾生まれのカリフォルニア育ち、日系企業に勤めていた、しかも早口という人と話をする。中国語、英語、日本語、頭、混迷を極める。再びコンビニ「可的」へ行く。すると昨日の人が覚えていて、そこに新しいのが来ていると言うのだった。 部屋に戻り、上海電視を見ると、V6と宮崎駿特集。松田聖子の離婚や浜崎歩、小柳由紀なども出ている。
やたらと電話がかかってくる。「問」と出ると「Hellow!」とくる。「リチャードはいるか?」さっきからいないと言っているだろう。伝言しろとか言われても困る。
1ヶ月前に来た大名路の名前の無い料理店へ行く。主人は覚えていて、「玉子炒飯でいいか?」などと言う。高いものを食わせて儲けようなどという気が全く無いのだ。経済状況を正確に見抜かれているらしい。申し訳ないので、大排麺と三得利を追加する。とにかく良心的でとにかくうまい。
日課になりつつある、外灘夜の散歩。公共厠所に入るとテレサテン「時の流れに身をまかせて」が流れている。水の流れに後をまかせて、南京路に流れる。快可立(クイックリー)に似た快三秒という店がある。懲りずに杏仁乳茶を頼むと、店の小姐にやたら笑われる。「面白い?」と言うと、更に笑われる。「箸が転げても・・・」は日本だけではないらしい。こっちも可笑しくなってくる。「ガイジン、オモシロイネ。」などと言うと笑いが止まらなくなった。これは後で分かった事だが、私は杏仁乳茶を勝手に「アンニンナイチャー」と呼んでいたが、中国語の発音は「シンレンナイチャー」である。全然違う。でもなぜかちゃんと目的のものが出てきているのが不思議である。
CD屋で「日本人ですか?」と声を掛けられる。日本人ではなさそうなので聞くとシンガポール人だという。ファッションの勉強で2年間日本にいたという。この歌手が人気だとかいろいろ親切に説明してくれる。これは何かあるなと思い、9時に約束があるからと切り上げようとすると、慌ててフランス租界のディスコに行こうと誘ってくる。丁重にお断りする。
しばらく歩くとまた別の男が話し掛けてくる。台湾人だという。「いい靴だ、どこで買った?」なるほど、靴で判断するのか。顔立ちでは日本人と中国人を見分けるのは難しい。実際、私はよく道を聞かれる。しかし、靴というのは国によってセンスがかなり違うし、流行も違う。一方、靴を現地調達する人はまずいない。手の内を見せてしまうとは君も青いな。「どこのホテルに泊まってる?」とか「東京はどこに住んでた?」とか答えにくそうな質問をして、「じゃ約束があるから」と去ろうとすると、慌てて「お茶を飲みに」と誘ってくる。丁重にお断りする。
飯店に戻り寝ていると、12時頃うるさくて起きる。オランダ人が日本人に中国語を教えているのだが、音感がなさ過ぎるのである。「中国語の発音は日本人には難しい」などとオランダ人に言われている。
2000年12月19日
帰る日。8:00頃起きる。オランダ人に日本語を習っていた日本人に「カップラーメンを食べるか?」と聞くが、汚いものでも見るような目で断られる。不快である。そこで10年ほど発声練習しているといい。オランダ人に言うと、「有難う、早速朝飯にしよう。」と言った。
フェリーターミナルに行くと守衛に制止される。「船は12時だ。まだ開いていない。」仕方なく、ふらふらと歩き出す。公用電脳屋の二階に招待所がある。次回はここかなと思う。
例の名前の無い料理店で盒飯を作ってもらう。5元で2食分はある。 港で人民元を日本円に換銭する。精神衛生上旅の終わりに多額の元を残さない方が良い。700元あれば豪遊ができるが、9000円では何も買えない。
船の乗客は総勢8人。そこにぶら下がっている救命ボートでもいいのではないかと思う。税関で制止される。いままでいつも素通りだったのだが、今日は暇なのだろう。大連のH本や、煙台の違法ソフトは没収されるだろうなと思う。酒の本数も越えている。公安は台の上に完璧なパッキングの荷物をほじくり出していく。お土産のビニール安酒が出てきて、公安に笑われる。もうひと掘りで違法ソフトという所で、今度は出した荷物を適当に詰め込み始める。ぐちゃぐちゃに詰め込んで紐をぎゅっと引いて「OK!」ってOKじゃねぇ。まあでも没収は免れてよかった。
甲板で日本人の女性と話す。中国は4回目で、会社を辞めて3ヶ月の短期留学だという。この船はベテランが多い。フェリーターミナルで会った日本人と、中国の名残を惜しんで卓球大会。白熱して、何度もフロントに球を打ち込んでしまう。BGMではなぜか中島みゆきのルージュという、マイナーな曲が流れている。
2000年12月20日
卓球と大貧民くらいしか、する事が無い。余りに空いているのも考え物である。宮崎辺りのテレビを受信しているらしく、サッカー日韓戦が行われている。1対1の引き分け。
2000年12月21日
時計を戻すと、熱に浮かされたような日々から現実へと戻った。港には井上陽水のなぜか上海がエンドレスで流れていた。