2000中国(上海→烏魯木斉)

 

2000年12月1日

 明るくなると雪の中を走っている。その雪が次第に消えると西安到着。向かいのおいちゃ んは降りる間際に、「我こそは烏魯木斉人である。数日後烏魯木斉に向かう。電話はこれだ。」 と、筆談帖に電話番号を書いた。面と向かっても言葉が通じないのに、電話で通じるわけは ない。しかし、気持ちは通じた。私はうれしくなり、お礼にと自分の絵葉書を渡した。舞妓 さんの絵葉書である。京都の写真だと言うとしきりに頷き、何やら歌を歌ってくれた。それ が京都の歌なのか、私は知らない。

 列車はしばらく走り、山峡にさしかかる。山紫水明、水墨画そのままの風景だ。水墨画と いうのは意外に写実主義なんだなぁと思う。

 甘谷という站に停まる。唐辛子が特産らしいからあなどれない。

 向かいのベッドに家族が来る。しばらくして車掌が連れてきた人に、日本語で話し掛けら れる。ウイグル人のEさんだ。そのきれいな日本語に 驚かされる。そして、彼の向かいのベッドへ引越しとなる。この人、大変にワイ 談が好きである。大いに笑い、ちょっとテレた。周りがわからないのをいいことに、大きな 声でワイ談タイム。

 「新彊に来たら、カシュガルに行かないと意味がないよ。」カシュガルはウイグル人が多 く、最も新彊らしい街ということらしい。そうは言っても地図で見るとお隣のようだが、 実際は列車で24時間かかる。

 夕食に盒飯を食べていると、Eさんはタッパーを出してきた。中には干し肉が沢山 入っている。ウイグル人はイスラム教。豚肉を食べないので、こうして羊の肉を持ち歩いて いるのだ。「これを食べないと立たないよ」ウイグル語で肉はgosh。それがbosh(やわら かい)になるらしい。それではと、いただいてみる。タッパーを持ち歩きたくなるくらいう まい。辛くしてあるので、ビールに合いそうだ。

 Eさんが食堂車からウイグルの酒を買ってきて、乾杯。46度をそのまま飲む。高粱 酒独特のフルーティーな香りがするが、とにかく強い。乾杯はウイグル語でhosh。干すに似ていて面白い。ちなみにさよならも同じhosh。ウイグルには高知のような献杯返杯の習慣がある。一つのお猪口で酌み交わすのだが、相手が飲んだら飲まなければいけないので、強い酒を相当飲まされる。ついにKO負けし、厠所で返杯することに。

 

2000年12月2日

 8時になっても夜が明けない。西に来ているらしい。ひたすら続く沙漠を列車は黙々と走り続ける。天山山脈に挟まれたまま、人や車や水のある川をほとんど見ずに2000kmを走る。車内販売を捕まえ、「牛乳はあるか」と尋ねると餐車(食堂車)に行けと言われる。そして餐車に行くと閉店したと言われる。仕方なくお茶で面包(パン)を食べる。おいしいパンだけに残念である。ウイグルにはナンがあるという。西に来ているのだ。

 ただひたすら砂礫の大地が横たわる。昼食は餐車に行き、羊肉麺を頼むと「没有(無い)」。手書きの汚い字のメニューを適当に指差すと、冬瓜と海老の炒め物が出てきた。ちょっと塩が強い。盒飯にしておけばよかったと思う。食べていると列車長が話し掛けてきた。日本人だというと、「サヨナラ」と言った。中国で一番有名な日本語は「コンニチハ」ではなくて、「サヨナラ」と「メシ」である。彼は私のカメラを奪い、写真を撮ってくれた。お返しに、嫌がるのを強引に撮る。

 Eさんに言われ、時計を2時間戻す。建前では中国は全土が北京時間を使っていることになっているが、実際はウイグル時間がある。昼飯を10時に食べてしまったらしい。

 駅の売店でカップ麺を買う。清真と書いてある。豚肉を使っていないという意味で、ウイグル人も食べられる。夕方5時を待てずにお湯を注いでしまう。

 終点近くで、ベッドを交替した家族のおばあちゃんが「うちに遊びに来なさい」と電話番号を書いてくれた。日本では他人に電話番号を教えなくなったなと思う。

 上海から50時間49分、4077公里、定刻烏魯木斉到着。最高気温−5度、最低気温−16度。キリっと冷えている。おばあちゃんが素足にGパンの私を見て、ももひきを買わないと駄目よと言っていたのも頷ける。駅を出ると、Eさんが強引にタクシーを捕まえてくれる。私はそれに乗り込み、Eさんにhosh!と叫んだ。

 Eさんのおかげで、極寒の街で路頭に迷うことなく、紅山賓館というホテルに辿り着いた。ツイン90元(1260円)。部屋は暖かい。

 

2000年12月3日

 陽が差しているのに、耳がちぎれるように痛い街を徘徊する。凍てつく街だが、滑る人を見ない。滑るとよそ者がバレそうである。しばらく歩くと街の雰囲気ががらりと変わる。モスクが立ち、店先には大きな羊の肉塊がぶら下がる。ウイグル人の領域に入ったらしい。

 更に行くと中山路。一番の繁華街、大都会である。不思議なことに、この零下の街、乞食がいる。片足の男が歩道橋の階段に倒れている。この街には慈悲深い人が多いようで、お金を置いていく人が非常に多い。そして、帰りに同じ場所を通ってみると、彼は何事もなかったかのように起き上がり、札束を数えていた。

 銀行の前でいきなり、西遊記のコスプレをした人たちが出てきて、太鼓を叩き、蛇踊りを踊る。賑やかで楽しげだ。

 妖しげなウイグルの食堂に入る。メニューはない。言葉もウイグル語らしく、全くわからない。しかし、中国の食堂より活気があって親切。隣の人の料理を差して、「これを」と言う。しばらくして、太目の麺の焼そばが出てきた。ベースにトマトを使ってあり、ピーマンなどが入っていて、かなり辛い。

 中国の顔と印度の顔。ニンニクとトマト。仏教とイスラム教。ここはシルクロードの交差点。西と東の遺伝子がぶつかり合う街だ。

 賓館に戻り手紙を書き、郵電局へ出しに行く。係の美人小姐は「出しておきます」と言う。中国の役所でこんなにサービスがいいと本当に届くのか心配である(中国の名誉のために記すと、1週間ほどでちゃんと届いた)。

 賓館に戻り、昨日のおばあちゃんに電話をしてみる。が、うまくかからない。0発信でかけてみると「現在使われておりません」。いろいろ試してみたら、知らないところへかかってしまった。「NO!」とか言われて切られる。服務員に尋ねるとやはり0発信だという。

 夕食の為に夜の街へ。走り去るバスを大声で追いかける人がいる。凍てつく街は夜もエキサイティングだ。小西門の近く、食堂の前で炭焼きを担当している男の呼び込みに負け、入る。葱爆羊肉とご飯を頼む。しばらくして二人分くらいの料理と、日本昔話にしか出てこないような大盛飯が出てくる。これが激しくうまい。喰い倒れの街である。

 

2000年12月4日

 体調が思わしくない。寒さの為、夜通し暖房が効いている。その為部屋は極度に乾燥している。寒さもさることながら、これが良くないらしい。

 公共汽車7路で団結路へ。地球の歩き方によると、恒源飯店前のバスターミナルから吐魯番行きのバスが出るという。しかし、バスターミナルと思われる位置は更地になっている。じいさんに尋ねると、かなり熱心に親身になって探してくれたが、結局わからない。

 エキゾチックな少女をカメラに収める。とにかく寒い。今日の宿はまだ決まっていない。恒源飯店に入ってみる。しかし、やってるのかどうかもわからない。言葉も通じない。途方に暮れる。寒いので厠所へ行きたいが、こんなときに限って公厠がない。街に行きそうなバスを発見。しかし、小銭がない。疲労困憊。ふらふらとウイグルの下町を抜け、繁華街まで辿り着く。農六師招待所というのに入る。身分証をと言われる。どう考えても外国人不可の宿だが、パスポートを見せるとすんなりOK。ツインで100元(1400円)。初めての招待所だが、ちゃんとしたホテル並みの部屋だ。服務員の小姐が案内してくれる。薄暗い廊下で床を足で「ダン!」と打つと電気がつくのが面白い。

 公共汽車44路で駅へ。中国のボロバスは信号待ちでエンジンを切る。最初、あまりのボロさにエンストしているのかと思っていたが、切れるときと切れないときがあるので、どうやらアイドリングストップをしているらしい。しかもこれをやるのはボロバスだけだ。何か条例とかがあるのだろうか。

 切符売り場ではその人の多さに圧倒される。烏魯木斉から出られないのではないだろうか。オフシーズンでこれなら、オンシーズンはどうなってしまうのだろう。ちょっとひるんだが、とにかく並ぶ。列の横をダフ屋がうろうろしている。「西安行きはどう?」中国にしては、列が大変に良く守られている。公安が割り込むやつを追い払っているし、前のおいちゃんが割り込むやつを怒鳴りつけている。30分程で窓口へ到達。しかし、「没有(無い)」と言われる。しかし、しばらくするとちゃんと発券される。どうやら寝台の下段は無いよと言われたらしい。中段だった。全く問題が無い。

 再び44路で戻り、ウイグルの下町を歩く。子供が多い。中国では例の政策によって、兄弟で遊ぶ子供を見かけないが、ウイグル人には3人まで許されているという。被り布の間から美しい青い目を覗かせている母親がいる。残念ながら写真は撮らせてくれなかった。やはりイスラムなのだ。

 積もった雪は、さらさらと砂のようになっている。温度が低いらしい。ビルの谷間の食堂に入る。ウイグルの店。メニューはやはり無い。麺はあるかと聞く。3元と6元があるという。6元をというと、激辛焼きそばが出てきた。辛いがうまい。うまいが辛い。

 外でウイグルのナンを買う。6角(9円)。ビニールに入った牛乳は7角(10円)。固形分の多い濃い牛乳だった。

 

2000年12月5日

 強い寒さと乾燥で、まだ体調がすぐれない。列車で寝ていけば回復するだろう。9時過ぎに宿を出る。火車は12:35発。しかしこれは北京時間なので、実際は10:35発だ。再び公共汽車44路で駅へ。候車室(待合室)はすごい人だ。喉をやられているので、キオスクで量り売りの飴を買おうとするとビニールに大量に入れてくれる。もっと少なくと言うがなかなか減らない。最低販売単位はどのくらいなのだろう。だいぶ減らしてもらったが、それでも日本の市販の飴3袋分くらいある。発車30分前、放送で「北京」という言葉が聞き取れた。人民の大移動が始まる。これらしい。

 中国の寝台の下段は広いが、中段は体を起こせない。ので、1日中ごろごろしていることになる。うつ伏せになると窓から景色が見える。なかなか快適だ。向かいの中段は、茶髪の今ドキの小姐だ。日本と同様、寝台の通路には補助椅子が出る。これに座って盒飯を食べていると、向かいの人が魚の干し物をくれた。


旅のつぶやきコラムB

 1元=14円。これが旅の時点での為替レートである。しかし、実際買える物で比較すると1元=100円くらいである。ラーメン一杯が5元、バス1〜2元。ホテルツイン100元。経済力から導き出される為替レートで計算すると、中国で売られているものはなんでもかんでも安く感じる。しかし、1元=100円の購買力換算レートを導入すると、中国の物の価値が見えてくる。

 日本では機械生産品より手作りの品の方が高級である。缶コーヒーは120円だが、喫茶店で飲むと350円になる。これについて抗議する日本人はいない。しかし、これが中国に行くと全く逆になる。機械生産の500mlペットボトル鉱泉水は5元だが、ビールスタンドで飲む1リットルのビールは2.6元だった。もちろんこれは人件費の差が原因である。

 日本人は人件費、つまり給料が高くなった。結構なことだが、その代わり人件費節約の為に機械化がすすみ、失業者が増える。また、一人の人間は極限まで働かされる。一方中国では、ホテル各階の入り口から公衆便所に至るまで人海戦術が採られている。どちらがいいのか。反吐を吐くほど働いて、車を磨き上げて満足している日本人を見ていると、それでいいのかと訊きたくなる。

 中国の通貨はご存知元(ゲン)である。しかしこれは日本語であって、中国語は元(ユエン)と読む。円の発音に近い。従って、日本の通貨の単位は元だと思っている中国人は結構多い。また元の英語表記はYuanの頭文字をとって¥となる。ハンバーガー¥8とか書いてあるので、非常に違和感を覚える。更に、人民はユエンとは滅多に言わない。塊(クアイ)と言う。そして、1元は10角(ジャオ)であり、人民はこれを毛(マオ)と言う。この毛はよく省略される。1元5角を「イークアイウー!」とか言われたりするので、いくらを提示したのか聞き取るのがなかなか難しい。

 日本では定着しなかったニ千円札だが、中国で二元札とか二十元札は普及している。そしてそれぞれに新札や旧札があり、コインも新旧あってなかなかややこしい。ニセ札をつかまされても分からないだろうなと思う。

 中国を旅すると、買ったものや食べたものをいちいち日本円に換算してほくそえんだりしてしまうのだが、帰国後しばらくは、ラーメンを食べながら35元・・・などと無意識に計算していてげんなりしてしまうのである。


その先の中国へ