2000中国(日本→上海)
2000年11月24日
雷鳥8号大阪行き。この特急列車に乗るのは1年半振りだ。そしてこの列車に乗るということはすなわち、中国に行くということを意味する。慣れた足取りで再び殺風景な港からこの船に乗り込む。前回と全く同じ。違うのは乗船名簿の年齢が一つ増えただけである。ニ等B船室、乗客は6人。当分口にすることは無いと思い、コーヒーを持って甲板へ上がる。
同じ船室の鬼頭さんは西蔵あたりから印度へ流れるらしい。「これが無いと落ち着かない」彼はギターを抱えている。この点では彼と同じ考えである。やはりギターを持っていく事も検討した。しかし結局一ヶ月こいつを抱えて歩く自信がなく断念した。ところがこうして持ってきている人が現実にいることを知ると、「持ってくれば・・・」などと思ってしまうのだった。査証の手続きが済んでから甲板に上がり、ベンチを出してゲリラライブ。天気がいい。鬼頭さんは山崎まさよしやブルーハーツを弾いてくれた。私も古い歌を弾かせていただく。
その他、二等船室には栃木出身の二人旅。高校時代の同級生、常世さんと室井さん。親しいのかと思っていたら、卒業して以来、あまり会っていないという。この旅のために結成されたユニットは中国南部からベトナム方面へ流れるという。常世さんは旅慣れた人で、韓国で十数万をぼったくられた話や、新聞の勧誘で長島監督の家に行った話など、実に話題が豊富で面白い。スキンヘッドの室井さんはこう見えて意外にシャイな人で、海外は今回が初めてだという。このユニットに付いてったら面白い旅になるだろうと思う。が、これに付いていったら三ヶ月は帰ってこれないだろうと思う。
夕食は四川風肉炒めと酢豚。例によって青島を飲みながら。
2000年11月25日
今日は雨。やはり今回もロビーに卓球台が出ていて、参戦する。一勝もできず。電視机(テレビ)を見ていると。趙さんという人が話し掛けてくる。この人、上海で写真屋を経営しているらしい。照像机(カメラ)の話で盛り上がり、昼食をご馳走になる。魚のスープと炒飯と鉄板焼。上海で彼の写真屋へ遊びに行く約束をする。「上海で古い街を見たい」と言うと、「周庄に行きなさい」と言う。初めて聞く名前だ。「日本人カメラマンの桜井始氏を案内したら喜んでいた」と言う。有名なカメラマンである。先を越されたのは口惜しいが行きたくなった。何よりも、マイナーである。しかし、後で最新版の地球の歩き方を見せてもらうと、周庄が出ていて、更に口惜しい。
二等船室にはもう一人スキンヘッドの兄ちゃんが遊びに来ていて、何かの宗教のようだ。彼は中国人だが、アメリカと日本の方が長く、中国は海外旅行のような感覚らしい。彼も写真を撮る。美しいポートレートを見せてくれた。個性が強く、濃い男達が車座になる二等船室でかわいらしい女性が一人挟まっている。新幹線で車内販売をしていた森田さん。そして、二等船室ライブが始まる。
鬼頭さんが山崎まさよし「One more time One more chance」をしみじみと弾き、室井さんが長渕の「素顔」をベースランを入れながらかっこよく弾く。森田さんが「禁じられた遊び」を美しく弾いて、私もさだまさし「恋愛症候群」を弾く。こう見ると実にバラバラな曲目だが、個性的で楽しいライブになった。
餐庁(レストラン)が閉店すると隣の酒場が開店する。船の服務員の小姐は水商売の女に変わる。紹興酒を飲みながら夜は北京時間で更けてゆく。やがてギターが持ち込まれゲリラライブが始まってしまう。カラオケもあるから営業妨害である。
2000年11月26日
今日も甲板でギター。鬼頭さんは一日中兵兵球をしている。私は服務員の写真を撮らせていただく。アップで迫ると「近すぎます」とはにかんだ。この船の服務員は全員美人できれいな日本語を話す。相当エリートでないかなと思う。仕事は大変そうだが。
この船の出港は一定だが、入港は12:00と16:00がある。潮の満ち引きで長江が浅くなるためらしい。そして今日は遅い日である。長江には霧がかかり岸が見えない。波を蹴立てて走る輸送船の舳先に男が立ちシルエットになっている。甲板で森田さんのポートレートを撮らせていただく。絵になる。
16:30入港。薄暗い港の待合室に浦江飯店の若い男が迎えに来ている。知らないとかなり怪しいが、ライトバンに上海大廈と書いてあるので、信用してみんなで乗り込む。日暮れ間際のモノトーンの街をバンは走り抜け、無事浦江飯店に横付けされる。我々は夕方に入国し飯店に直行したので、元を持っていない。飯店は持ち金が少なく、換銭(両替)は一人1,000円までにしてくれと言う。1,000円は75元ほどになり、そこから多人房(ドミトリー)宿泊費55元(770円)が引かれる。持ち金20元は見ず知らずの街を歩くのに大変心もとない金額だが、何とかなってしまうのも中国だ。船のメンバーの中で私だけがなぜか隔離され426号室。他のメンバーは608号室。遊びに行くと、厠所から外灘の夜景が美しい素晴らしい部屋だった。とにかく宿に落ち着いたということで、シーバスリーガルで一杯。この部屋のもう一人の住人はオランダ人のミッシェル。彼の女朋友は上海の画家で、彼女の絵を見せてもらう。美しい原色の薔薇が女性の秘所をほのめかす、前衛的な絵だった。上海が想像以上に進んだ街であることを知った。「どうだい?」「グレイトだ」。
船のメンバーで晩飯を食いに行こうということになった。東大名路のぼろい餐庁に入る。常世さんがガイドブックの例文を指し、「おすすめの料理は?」と尋ねる。店のおばちゃんは菜単(メニュー)を指し、「シャングーチンツァイ!」我々はそれを復唱し、おばちゃんはそれを見て笑っている。店のおいちゃんが出てきて「マーラードーフ!」我々「オー!マーボードーフ!」おいちゃんは首を振り「マーラードーフ!」と言って、荒く息を吐いた。ラーはラー油のラーだ。「オー!マーラードーフ、ハオハオ」その他、なんだか分からないが、すすめられるがままに頼んでゆく。そして、「青島アルカ?」と聞くと、「三得利(サントリー)でいいか?」と言う。「ハオハオ」。中国の三得利はすっきりアルコール度3.5%の中国ビールに仕上がっている。実は青島は日本で手に入るが、三得利は手に入らない。しばらくすると次から次へと料理が運ばれ、食べきれないほどの量になった。そして、おばちゃんは我々のすすっている麺に醤油付けの肉隗を放り込むのだった。
ガイドブックの中国語会話のページを見ながら、「請結張(おあいそ)」と言うと、我々は耳を疑った。明らかに計算が違う。我々は抗議したくなった。安すぎるんじゃないのか?一人9元(126円)である。ビールとラーメンだけでオーバーするはずなのである。私はおいちゃんに店の名前はなんと言うのかと尋ねた。おいちゃんは笑顔のまま、「没有(無い)」と言った。
2000年11月27日
7:00に起きて、恒例となった朝の散散歩をする。廃墟ビルを撮影。上海の近代化のスピードは日本人の理解を超えている。古い街が新しい街にどんどん飲み込まれてゆく。このビルも1ヶ月もしたら更地になっていそうな気配である。古い街でおしゃれな女性を撮る。街角の屋台で1個4角(6円)の包子を売っている。「2個頂戴」と言うと、なぜか4個来て1元(14円)。全く通じてないのがおかしい。しかも大幅値引きになっている。
9:00に船のメンバーとロビーで待ち合わせ。街をふらふらしながら北京路の切符売り場へ。売り場は意外にも閑散としている。筆談帖に「ウルムチまで硬臥1枚」と書いて窓口に出すと、700元出せと言うので出すと、1元お釣りが返ってくる。699元は正規運賃で、もう外国人料金は無い。鬼頭さんは西濘までの硬臥。常世室井ユニットは洛陽までの硬臥を入手。「なんで洛陽なの?」「拓郎の落陽がいい曲だから」なかなかいい旅のスタンスである。
宿泊延長の手続きをするため、浦江飯店へ戻る。ロビーで中国人が話し掛けてくる。流暢な日本語である。そして、日本についてかなり正確な知識を持っている。その辺の食堂で食事でもしながら日本語と中国語を教えあいませんかということになる。「ここがうまいんですよ」と彼は汚い餐庁に入ってゆく。6品ほど頼み、昼間っからビールを飲む。彼は中国で騙されないための話をとうとうとしている。どうも、いつだかのシチュエーションに似ている。彼が厠所に行っている間、常世さんと「どうも、怪しいね。」「そうだね。」というような話をする。彼が「今日の夜、焼肉に行きませんか。」と誘ってきたので、「貴方の好意は大変にうれしいが、私たちは自由にやりたいのです。」と言うと、納得した。しかし、結張すると全部で100元だと言った。高いって程じゃないが、明らかに計算と違う。100元丁度になるのもおかしい。やられたらしい。恐らく、焼肉に行くと言ったら、ここは正規の値段になったはずである。ちょっと断るタイミングが早かったか。まあ、焼肉に行かなくて良かったと思わねばなるまい。またしても受講料である。
南京路のマーケットを歩く。KAIWAのラジオ。CALONのカメラ。怪しいものがあふれていて飽きない。G-SHOCKやロレックスは信じられない値段で売られている。その代わり作りは安っぽい。常世さんはねばりにねばって値引交渉を続けている。夕食は小口乞。たらふく食べて飲んで15元(210円)。
私の部屋は欧米人部屋で、どうもやりにくい。厠所に行こうとするとシャワー中で入れない。夜中に帰ってきたやつらが騒ぐ。朝方パッキングしてるやつのヘッドライトが顔にチカチカ当たる。上海にいる欧米系バックパッカーは大陸を渡る長い旅に慣れ過ぎてしまって、常識やマナーを喪失しているのである。旅慣れてもいいが、旅に慣れてしまってはいけない。また、彼ら同士が英語で流暢にコミュニケーションをとっていると言うのが癪なのである。コンプレックスとも言うが。だいたい、必死な思いで頭の中を中国語にしているのに、いきなり英語なんか話そうとしたら、思考能力に破綻をきたす。
2000年11月28日
結局あまりよく眠れず、8:00頃ふらふら街に出てゆく。鬼頭さんがネットカフェを見つける。「公用電脳屋」と書いてある。入って「インターネットできるか?」と聞くと「ウーシー」と断られる。「無時」ということだろうか。
小さな餐庁で朝食。香菜の湯(スープ)と水餃子を食す。この香菜がクセになる。タイの方ではパクチーと言うらしい。アジアではかなりメジャーな食材のようで、これをうまいと思う人はアジアにはまる体質なので警戒が必要である。
鬼頭さんが浦江飯店の向かいにある上海大廈にインターネットカフェがあるとの情報を仕入れてきた。1時間32元(450円)だという。
今日は結局、常世さんと室井さんと周庄へ行くことになった。公共汽車65路で北区汽車站へ。そこから少し歩き、長途汽車站(長距離バスターミナル)へ。窓口で「直行便は今無いので昆山で乗り換えになる」と言われる。3元の盒飯(ぶっかけ弁当)を買う。屋台のかあちゃんは椅子を出してくれ、「どっから来た?」「リーペンレン!(日本人だ)」「中国語ではルーペンレンだ」と発音を上海語に直される。「どうだい?」「ハオチー!(うまい)」「中国語ではハオツーだ」。
12:40発昆山行きはかつて青島でもお世話になったターボデイリー南京だ。やはり満席で荷物と一緒にはまり込むように座る。日本と変わらない高速道路を強引に飛ばす。道がいいせいか前回よりだいぶ快適に思える。60kmほど離れた昆山に1時間で到着。周庄行きのバスは別のターミナルから出る。物乞いの子供がしがみついてくる。親が仕向けるようである。何とか振り切る。子供のあの必死さから考えて、失敗したら親に何かされるのだろうなと思う。
ここからはボロバスである。道もひどくなる。橋を渡るたびにドスンと衝撃が走る。1時間ほどで到着。適当な旅館をあたってみる。もちろん星は無い。ツインを3人で2部屋使うことに。部屋を見せてもらうと、なかなかいい部屋だ。空調もテレビもついていてベッドも広い。一部屋100元(1400円)。「都人、150塊好口馬?(皆で150元でいい?)」「好口阿(いいよ)」交渉成立。螺旋階段を登った3階の部屋で廊下の窓からは煙る河が見渡せるリバーサイドホテルだ。港監という看板が掲げてあり、詰所があるので、港湾施設の一部が旅館になっているらしい。
周庄は九州の柳川のような堀割がめぐらされた水郷で、蘇州のような国際的観光地ではないが、中国人の観光地である。石畳の路地に白いものが積もっている。「下雪!(雪が降ってる)」と言っていたが、塩だろうか。上海の近くなのでそれほど寒くないが、この街に雪というのが定番らしい。なんとなく懐かしい感じの歌が、風に乗って流れてくる。よく聞くと日本語である。チャゲ&飛鳥のひとり咲きだった。
上海ブランドの力波ビールと高粱酒を買って、旅館で乾杯。電視机(テレビ)は日本とだいぶ違う。鼻に割り箸を突き刺した、殺人事件の死体も平気で写るし、犯人のインタビューも放映される。5秒CMというのがあり、あまりにめまぐるしく、見ていて疲れる。
2000年11月29日
一人で朝の散歩に出る。朝は観光客が少なく、地元の人が自行車を抱えて太鼓橋を渡る生活の時間帯だ。絵筆を握る女の子を撮らせてもらう。電影の撮影をやっている。堀割沿いに並ぶ屋台を撮影するようで、ディレクターが店の人に「じゃんじゃん売ってくれ!」と指示を出している(ように見える)。土産屋の二階で扇風機が回り、発泡スチロールの雪が舞い始めるとギャラリーが笑い出す。
11:30発ボロバスで攪拌されながら昆山へ。ボリュームたっぷりの盒飯で昼食。13:40発のターボデイリー南京で上海に着いたのは15時だった。
再び浦江飯店313号室。11人の大部屋。今日は趙さんの写真屋に行く約束をしている。遅くなりそうなので連絡しなければならない。部屋でかけてみたが、外線発信番号があるのかうまくかからない。公用電話でやってみると交換手が出る。説明すると「不可能」と言われる。街を歩いてコイン式電話を見つけやっとかかった。雨はひどくなってくる。公共汽車42路は地図の場所に無い。路地は暗いし、人は多いし。結局公共汽車を諦め地鉄(地下鉄)へ。自動販売機にコインを入れるが何度入れても戻ってくる。硬貨の質が良くないのだろうかと考えていると横から中国人が割り込み、金額ボタンを押してからコインを入れた。なるほどこういう方式か。切符はテレホンカードみたいなので、これを自動改札に入れる。駅も電車もきれいで、公共汽車とは客層も違うような気がする。常熱路下車。公共汽車45路で漸く趙さんの店に着いた。この店に出入りするカメラマンの写真を見せていただく。「テンヤンジーシャン!」と彼は言った。藤原紀香だった。日本での隙の無い笑顔より、リラックスした感じで写っていた。「他是很有名!」趙さんは「工藤静香の方が人気あるじゃないの?」「いや、今は藤原紀香の方が人気ありますよ。」美しいポートレイトもあった。どっかで見たような・・・。そのお店の店員さんだった。
趙さんと近くの東北餃子という店に行く。中国餃子の基本は水餃子である。しかし、ここでは菜単(メニュー)にはない煎餃子というのをいただく。その他様々な料理を三得利ビールと共にご馳走になる。そして、私にビールを勧めながら「一緒に商売しないか」としきりに誘ってくる。
外灘の夜景を見ながら浦江飯店へ戻る。隣のベッドの日本人はなぜか読売を読んでいる。しかも、今日のである。花園飯店で売っているらしい。読み終わったからとくれた。いつか日本語を渇望した時の為にと、ザックの奥へ入れておく。
2000年11月30日
降りしきる雨の中、海寧路を歩く。趙さんに「古い街を見たい」と言うとここに行けと教えてくれたのだ。しばらく行くとレンガの古い集合住宅が立ち並んでいる。「ここが石庫門か?」と尋ねると「そうだ」という。石庫門で女の子の写真をとる。「Can
you speak English?」と訊かれる。英語でくるとはさすが上海小姐。どうも海外では日本人は英語が話せると勘違いされているらしい。
浦江へ戻り、また隣の人と話をする。月に一回ハローワークに通って、失業保険を受け取っているのだという。それが済んだら留学するという。彼から久しぶりのコーヒーをいただく。
隣の4ッ星ホテル、上海大廈へインターネットをしに行く。1時間32元(450円)。日本と同じくらいだから、相当高価だ。一番左のパソコンだけ日本語が使えるようになっているという情報を得ている。しかし、ホットメールの調子が悪く、メールを送れたか送れないかいまいち分からない。インターネットだから見れるのは当然なのだが、海外から自分のホームページを見るのは不思議な気分である。少し歩くと公共電脳屋がある。1時間3元(40円)。しかし、インターネットはつながらないと断られる。みんな、ゲームとかをやっているようである。
汚い餐庁に入る。ニュウロウメン(牛肉麺)を頼むと「ない。グウロウメンでいいか?」と言われる。「いい」。と言ったものの、グウロウメンって何だ?菜単を見てみるとどうも該当するのは「狗肉麺(犬肉麺)」しかない。「グウロウメンって犬肉のことか?」「然り」。しっかりと醤油に漬け込んであり、唐辛子とにんにくで獣臭さを消してあり、結構おいしくいただけた。10元(140円)。犬の肉は冬の食べ物で、体が温まるらしい。
927路で上海站へ。しかし、なんとこれが裏口に着いてしまうのである。裏口は何も無い。火車の時間まではかなりある。途方に暮れていると、2階建て巴士が入ってきた。とりあえず乗り込んでみる。車掌が来て「どこまで?」私はどこへ行くのでしょう。
苦し紛れに終点までと言ったが、結構遠くに行く公共汽車で、時間が無くなり途中で降りようとすると、車掌が「まだ終点じゃない!」と止めようとする。親切なんだけど。
駅近くに金玉大酒店というのがある。この語感がおかしいのは日本だけか。
候車房で火車を待っていると物乞いの子供が前に立ち唱歌を唄う。そのまま見ていると、隣の人の前でまた唄う。私以外の人は皆お金を与えていた。6元山盛りの盒飯を買って、ウルムチ行き特快に乗り込む。割合空いている。向かいの寝台は硬い表情のおじさんである。しかし、「私は日本人です。よろしく。」と挨拶すると、筆談帖にきれいな反語表現で、「問題があったら、何でも訊きなさい。」と書き、りんごをくれた。