事実論2
搾取を資本主義社会で廃止することはできない。搾取を労働者が廃止できるのは社会主義社会になってからである。たとえば社会主義社会とはその国の共産党が単独与党になっていなければならないし(政治的条件)、完全条件としては衣食住が無料でなければならない。搾取は資本主義社会では自然と死滅していくのみである。あげることは非搾取(ひさくしゅ)である。搾取利益(さくしゅりえき)は資本家が受け取る時、賃金化することはできないから、搾取利益には税金がかからない(資本家丸もうけである)。しかし資本家はこの搾取利益を賃金化することしかできない。資本家は資本主義社会の上ですべてを手に入れるが、なにも手に入れることはできない。それは闇の中で闇を手に入れること。それは光りの中で光りを手に入れること。資本家が労働者から搾取した賃金で誰ひとり救うことはできない。剰余価値学説がいつも結論付けることは、搾取は悪であるということである。社会主義社会になるということは、すべての資本家が労働者になるということである。資本家よ労働者になれ。搾取とはなにかということを知っているだけでも一定労働者の性質を得る。搾取に対抗するには科学的社会主義とはなにかと問い、勉強することである。科学的社会主義だけが搾取に対抗できる唯一の手段である。
資本家が搾取された賃金にうるおう時が労働者にとって不況であり、資本家が搾取にうるおわない時が労働者にとって好況である。日常的な不況、恐慌は資本家による搾取がその一原因となす。恐慌は労働者の労働より資本家の搾取の方が日常的に多い時に発せられる(搾取普遍)。労働運動と積み重ねられた労働だけが搾取を弱体化させる。たとえ組合に組織されていなくても、雇用は労働運動の成果であるし、リストラは搾取の一形態である。資本家は人間以外の動物や機械から搾取することはできない。搾取は資本家によって人間を労働者を中心に進められる。資本家は労働者の労働からしか搾取をしぼりだすことはできないのだ。搾取だけが資本家の仕事である。いくら労働運動で賃金を獲得しても労働者の夢や理想が帰ってくるわけではない。労働者自身が根本的に社会を変える必要がある。
資本主義社会において軍隊は、搾取方法を守るための資本家の道具である(強制搾取手段)。軍事費はその年の搾取量に比例する。社会主義社会では軍隊は自警団となり、搾取とは一線をかくす。資本主義社会において軍隊は資本家の搾取利益を確保するためにだけ存在する。共産主義者は資本家の搾取によって賃金化されてしまった労働者の労働、夢や希望を再び再現する存在である。資本家の搾取が労働の性質を決定する。それを労働の量による質的変化させることができる者が共産主義者である。資本家は労働者の労働を搾取によって賃金に変化させる。資本家にとって労働者の労働は賃金によってしか計れないし、おきかえることができない。労働と賃金の交換が搾取を生みだすのであり、搾取が労働と賃金の交換を生みだすのではない。資本家にとって搾取だけが神であり、絶対的な物である。
資本主義社会、市場経済、お金による物の交換をする国において、資本家も労働者も賃金に束縛される存在であることは変わらず、資本家が労働者になる時は、資本家が賃金を労働者に配るのではなく労働転化物を両者で分け合い、労働者にあげる時である。分けることができない労働転化物は資本家と労働者の両者の共有財産とし、賃金は両者で分け合う。それが社会主義社会の第一歩である。それが実現されるのは共産主義者による科学的社会主義理論の元、労働者の労働によってのみ、達成される。労働者が働くことだけが、賃金の害悪を薄める効果を発揮する。賃金の量によって人は資本家と労働者という階級差別におちいり、賃金の質によってのみ、労働という社会を動かす歯車はさびつき、賃金によってのみ、人は自分の立場をその人生を鏡を見るように認識する。人は働くことによって、米や麦などに始まる労働転化物、いまの賃金によって分業や高い技術、分け合う方法の幾多を手に入れたが、同時に人のあいだにも同質の壁を作り出してしまい、資本家は賃金を労働者に配分するという社会的使命を得てしまった。賃金の配分は働く同じ人間に差を作り出し、労働者のあいだに争いを憎しみを生み出した。長く続く資本主義社会、市場経済はすべての労働者を賃金の配分差別の一点で団結させ、その反映ですべての資本家を団結させる。資本主義社会が続けば続くほど、市場経済が続けば続くほど、労働者の労働が賃金を無力化させ、お金の交換による物の利用を次の段階へと進歩させる。お金はその意味を失い、労働者の労働物が労働者同士の譲渡のくり返しによって純粋にめぐり合い、労働は賃金から解放される。賃金は労働によってのみ、人と人をへだてる壁から道へと変化する。社会において、働くことだけが自分が生きていること、心、人間であることの証明である。社会の上にすべての人は労働者である。それを労働によって証明し、すべての人が認識するのが社会主義社会である。
あげることもらうこと、新しき計画経済において、資本家による労働者への搾取は共産主義者の裁定に決まる。社会主義社会では賃金はあってもなくても関係ない存在であり、その存在意義に悩む。賃金は搾取の道具ではなくなり、それは誰にもあってあたりまえのものとなる。賃金が王者の冠(かんむり)となることはなくなり、労働がそれにとって変わる。働いて得るお金はその労働の意味を問う。答えは現実には無い。計画経済(あげることもらうこと)や社会主義社会(その国のすべての人の意見一致)、科学的社会主義(すべての人が理解、納得、実践できる理想)など、タイトルだけは決まっているが、実現したことはない。夢や希望、理想などの約束手形ばかりである。結果はその人がなした労働のみが答えをだす。働くのは賃金のためではない、自分のため、その後ろにいる家族のためである。
経済は賃金の積み重ねによって成立しているが、利益が出なければ搾取はその意義を失う。利潤から資本家は利益の分配をして、労働者から配分名義の分を搾取する。搾取は労働者による労働の利益から資本家が生み出すが、利益が出ない場合は搾取はリストラと化し、労働者自身を搾取の対象とし、労働者は資本家の毒牙にかかる。利益を出し、利潤の追求が経済ではなく、賃金の安定した供給が経済の本質である。資本家が労働者をリストラさせたりしないためには利益が出ることが条件となるが、それは目標であり、結果ではない。リストラが前提となる会社は資本家が暴走しており、これは労働者による労働運動によってしか沈静しない。賃金は搾取の一形態、道具ではなく、利益のあり方である。資本家の利益は搾取となり、労働者の利益は賃金となる。労働者だけが賃金を獲得していくのであり、資本家は利益を追わず、労働者となる道を模索して賃金を得なければならない。労働者は資本家に搾取ではなく労働転化物、賃金をあげなければならない。搾取利益だけが糧の資本家はいずれ没落する。それを救うのは労働者が自然と獲得している賃金である。その時は労働運動の最後の段階として資本家達を労働者として受け入れる心構えが必要とされる。労働という扉は常に開いていなければならない。その時が賃金の限界を越える地点である。労働を利益とし、賃金に還元させ、搾取に変えるこの利潤は労働によって終わりを告げる。資本家は労働の利益から賃金の配分した分を搾取利益として受け取るが、それは同時に資本家から労働利益を奪う。資本家が搾取の量によってじょじょに労働者となる時、搾取は忘れられていき、賃金は分けるまでもなく、利益の存在は変化をやめる。搾取は労働者達の労働の量によって賃金から不要となり、利益は労働者に幸福を生む。共産主義者は資本家に労働者に利益を賃金から搾取から解放する者である。搾取の害悪、賃金の害悪、利潤の害悪、これらを労働によって資本化し、共産にまとめあげることが生きる本質である。
労働は労働者にとってねりあげられた利益であり、賃金は目標でなく結果である。市場経済という場は、搾取と賃金と利益から成り立ち、その質と量をせめぎあう。自然経済では人は物々交換によって利益を算出し、市場経済では賃金によって利益を算出し、計画経済では無料譲渡によって利益を算出する。市場経済において利益は賃金のあり方であり、搾取の害悪の形としてあらわれる。利益は労働の賃金と資本家の搾取の温床であるが、利益自体はなんら循環することに問題はない。労働は常に利益を生み出すが、搾取は資本化されなければ害悪以外のなにも意味を持たない(共産益)。
マルクスは不況は商品の過剰供給から起きることをあきらかにしている。ここから不況の時は量より質の商品供給が重要であることがわかる。また好況の時には国内国外の大企業の商品が過剰供給されないように、その商品と同価格の資本が大企業に必要であり、政治的に規制をかけることが重要である。しかしこれは短期的な政策であり、計画経済(無償譲渡)まで不況と好況は経済という船を社会の土台をゆらし続ける。市場経済は商品と賃金と搾取から形成される。商品の過剰供給は賃金の価格を下げ、労働者の賃金をカットしたり、労働者自身をクビにしなければ会社はたちゆかなくなる。商品の過剰供給は搾取量を上げ、労働者の賃金を減らす。商品が労働者の賃金の価格に見合った量市場に投下される時、搾取はその価格を維持する。商品の価格があがる時、賃金の価格は維持され、搾取の価格は下がる。資本家が搾取量を上げる時、商品は過剰供給され、労働者の賃金は下がりはじめる。労働運動により、大企業が搾取よりも商品と賃金のバランスをとる時、常況(じょうきょう)となり、一定不況好況はなりをひそめる。
賃金は労働者の労働物であり、それを商品に転化するところに搾取に収束される。商品は資本主義社会における市場経済の土台だが、商品が搾取と賃金をとりなすわけではない。賃金と商品のバランスを価格がおこなうが、資本家はそこに搾取利益を労働者は労働を共産主義者は賃金の資本化をそこからおこなう。労働者の労働はその労働者をやしなうだけの資本を蓄積しても、資本家の搾取によって足りなくなる。賃金では労働者の労働を十分分配することはできない。賃金ではなく、共産益、あげることにより労働はそのすべての人をやしなうことが可能と化す。
労働は賃金と交換されることにより搾取という矛盾に直面する。賃金には搾取の要素はない。賃金が労働と交換される一点において、搾取は過剰となりつつ、不況の一因となる。賃金は商品の影となり、労働を吸収するが、搾取という矛盾に、労働の意味を問う。商品の無料化は搾取や不況を吹き飛ばすが、それは積み重ねられた労働と労働運動の成果である。経済は哲学という理想と政治という現実的実現によって進歩するが、それは労働のただ労働の力により、賃金を変化させる時である。賃金というルールは商品さえ変化させずにはおかない。商品という場は無料化により自由を得る。それにより商業主義はなりを潜め、芸術的商品は天地を占める。あるだけの賃金は商品とともに、あり方が進歩して、労働は義務となるが、また労働の質も変化する。ありつづける賃金は誰にとってもあたりまえの存在となる。賃金は労働との鎖を叩き落とし、商品は無料物となる。賃金だけが商品の使用物としての役割を終え、労働者の労働はストレートにその労力を発揮する。不況を否定するために、搾取を否定するために労働を否定してはならない。労働と賃金の交換の商品への変化だけが搾取の不況の原因であり、その矛盾を解決する必要性が市場経済には求められている。労働により賃金は商品は増える。商品の過剰を征するには、労働の規制ではなく、労働と賃金の交換による商品の過剰を抑えるのが重要である。商品と資本のバランスは、商品の供給過剰を征するが、労働による賃金の増加には共産主義者がその賃金の資本化が必要とされる。商品の過剰を抑えるためには、労働の質が高いことが条件となる。
商品は無料になることによりその場を変え、その量と質は天井知らずとなる。この商品のビッグバンともいえる状況に続くのは労働の蓄積のみであり、資本の蓄積は無と化す。商品の資本質は失われるが、労働量は維持され続ける。資本家は存在を否定の否定され、労働者と成る。商品は無料物と名を変え存在を変え、気持ちと同じような観念的な感じの物となる。目に見える気持ちである。労働と資本をつなぐ橋となる商品は、労働にのみ、労働者のみに所有される。それまでの労力は影となり、労働は資本という結果より光り輝く。労働と賃金は商品を軸に交換され、資本化される。市場経済において商品は哲学における存在と同じく、最初の規定であり、市場経済は商品にはじまり商品の無料化に終わる。商品が過剰だと不況になるが、商品が少ないと好況というわけではない。商品が適正な価格で循環する時が好況である。気持ちがこもっている商品ほどお金がかかっても無料に近づいている物である。
市場経済において労働は万能商品だが、賃金は商品の付随物であり、賃金量は待遇改善というだけでなく、労働の質さえ影響を与える。商品と賃金は労働の結果であり、重要だが、市場経済では労働にこめた思いは商品や賃金には反映されにくく、労働はその力を発揮できない。あらゆる労働はつながっており、この目の前の商品だけ無料にすればいいというわけでなく、全方位に労働の自由は確保されなければならない。それは労働量によってのみ、労働の自由は広がっていく。自分の労働を自分で決められる時が社会主義社会である。マルクスによれば、自分の就きたい職業に就ける時が社会主義社会である。労働の自由も商品の無料化によって実現される。市場経済における労働と賃金の交換による商品への転化は哲学的理想と政治による現実的実現によって経済はお金を廃止する。物々交換にはじまる経済は、物の交換の間にお金をはさみ発展段階である市場経済となった。お金ではなく、気持ちによって物を交換する時が計画経済である。市場経済では商品に労働を詰め込むことになるが、それは賃金という結果に終わる。賃金は重要であり、賃金を獲得することは労働者に課せられた使命であるが、それが最終的な目的ではない。賃金量が結果としての労働の質ではなく、大事なのは労働にこめた気持ちである。労働という商品には限界があるが、気持ちをこめた労働は圧倒的な圧縮率を誇る。商品が無料化された物には限界さえない。資本主義社会の上で完全な無料物という物はあり得ないが、気持ちで補うことはできる。大事なのは賃金の方向性である。
労働という商品は賃金によって完成するが、賃金は労働者の資本の一面に過ぎない。資本は価格のバランスのとれた商品を作り出す潤滑油であるが、労働者から搾取した賃金を資本家は資本化することをしない。それは商品のための物であり、商品の価格を決めるための利益である。搾取利益は労働者の労働から生み出された賃金を資本家が根こそぎ持っていくが、残った資本では商品の価格を適正に保つことはできず、商品市場は荒れ狂う。賃金は商品の無料化には関係しない。なにであれ、無料にするためにはお金を使わないことである。ボランティアという例外はあるが、それはまた別の資本である。お金を否定するためにお金を使ってはいけない。賃金は商品の贈り物ではない。ただ労働の労働物の恩恵である。商品を増殖させるのは労働である。賃金を増殖させるのは労働である。商品の価格のバランスをとるために労働運動で適正な価格を資本家から獲得しなければならない。搾取に休日が無いように、労働運動に休日は無いのである。
賃金は唯一商品になりえない。賃金の資本化は労働者ができる唯一の商品の無料化への方法である。これを先導するのが社会主義者であり、その組合である。賃金を使うことで世の中は変わらないが、それを労働の労働することにより、賃金を越える効果を上げる。資本化された賃金はさらに進み、労働の資本化される。資本の労働化は労働者の労働運動によって資本家を使って行われる。資本の蓄積によって資本家の存在を維持する資本家には、賃金の資本化はできない。資本家を労働革命の担い手と見るのは間違っている。労働の自由は労働者によってのみ、達成される。賃金が、労働で獲得した結果から労働者は希望を導き出す。もちろん、労働者の労働があっての商品の無料化である。賃金に労働させられないように、労働者は労働を、ただ労働を蓄積しなければならない。賃金を蓄積することしかできない資本家に労働を期待してはならない。期待できるのは自分の労働だけである。商品の無料化が成されても賃金は残り、どの程度商品の無料化されたかの指標は誰もが仕事に就けているかどうかで解る。市場経済という賃金の場では、労働者に配られる賃金の質、賃金の量は酷くアンバランスである。労働運動で要求するのは賃金の量だけでなく、賃金の方向性、労働者における賃金のあり方を資本家に要求する必要がある。労働は常に賃金のバランスのいい配分を資本家と労働者に求めるものである。
労働は誰にでも平等だが、資本そのものは人を差別する。賃金によって立場が違うことはあっても、労働だけは誰も差別しない。賃金の平等な分配は不可能だが、賃金を商品への土台とすることにより、平等は達成できる。資本量が商品への質へは無条件に転化しない。商品を根本的に変えるためには資本や賃金、労働のあり方を考えなくてはならない。資本質は労働量によって確保されるが、賃金量は商品の質へは転化されない。変えなくてはならないのは賃金の分配の仕方であり、それは商品へと結果へと変化する。労働は空気のようなものであり、市場経済にはあって当たり前の商品である。商品を無料化するためには目標が労働の自由であり、結果が賃金の資本化でなくてはならない。労働者の賃金はありったけ労働のために使われ、資本家の搾取利益は賃金の蓄積に使われる。この賃金は崩され、労働のため、商品という結果のために使われなくてはならない。無条件の労働は市場経済の上ではなにも生み出さない。条件はただ一つ、労働の自由である。労働の自由に見合う賃金は一円だって無いのである。
労働の自由は搾取賃金の獲得、有給休日の獲得、職種選択の獲得など色々あるが、資本主義社会で権力者層である資本家が握るお金のコントロールから抜けだし、労働者が理論武装して労働運動するための契機は労働の自由である。会社のトップはアルバイトを含めた全社員の投票で決めなければ、労働の自由は完全とはならない。労働の自由は、自分の労働を足場に行われるが、実際は職に着くことさえままならないのが現実である。衣食住、医療などがまかなえれば、労働は一人でもできるが、すでに最初の条件自体が、労働の条件とも言える。市場経済は賃金を獲得することが、資本家に依存することが労働と錯覚させるが、それ以前に、生きることが労働である。自分の力は、自分が関わる商品の量と質でしか計れない市場経済ではあるが、それに頼っていては、一向に労働は自由にならないのである。賃金と商品は労働の結果だが、労働の自由にはそれぞれ必ずしも重要とは限らない。個々ばらばらではなく、それらが労働と密接に関連している場合において、労働は束縛を賃金と商品から結果として受ける。労働の自由を獲得するためには、さらに続々と労働が待っているのである。
狩猟の時代、獲得した獲物は商品ではなかった。蓄積できる物が商品の始まりだと定義するならば、獲物や木の味なども入ることにはなる。近代的な商品の定義はお金の元である作物によって物が計れる時代まで待たなければならない。米や麦の量で労働は計られ、労働は最初の商品と成った。どれだけ働いたかはそれに見合った作物によって結果となされた。食べるだけ一辺倒の労働から、分業され、農業に携わる以外の職業も開拓され始めた。それは戦う職種に代表されるが、神に使える者や道具を作る者など、多様を極めた。それぞれが自らの行動を商品としていた。商品は人類にとって欠かせない定規となり、商品の量を獲得する者がそのシステムが権力者を生み出していく。商品を分配する者が権力者となり、結果としての商品の形を権力者が決めていくことになる。商品を誰にとっても不変な物に変化させるためには、労働の蓄積しか方法はない。商品を誰にでも獲得するためのシステムが市場経済であるが、不況などはそのシステムを妨害する。また、市場経済では労働者間の競争のために、希少価値の商品や労働はほぼ、手に入らない。誰もが労働物を手に入れるためには、労働の蓄積による自然的なものから、労働運動による進歩的獲得まで色々ある。資本主義社会ではお金で計れれば、なんでも商品と見る人が体勢を占めるが、商品は労働の過程に過ぎない。結果として、商品より労働のほうが大事である。労働運動によって、固定的に職に就ける人が多ければ多いほど、商品は適正な価格で循環してじょじょに消えていく。
商品の解放は労働者である証明である。商品の自由な獲得は労働者にとっても資本家にとっても切実な要求となっている。搾取賃金を持っている資本家の方が商品は獲得しやすいが、権力では商品の解放はできないのである。資本家だからといってすべての商品を得ることはできず、それが出来るのが労働者の純粋な労働のみである。商品の解放は労働の結果であるが、労働の解放も商品の結果である。賃金で商品を買っても、商品の解放には一切関係ない。自分の労働を他の労働者に手渡しできることがベストである。商品売買の自由は市場経済でも出来る最低限のスタートラインである。こういった当たり前の商品のあり方を徹底することに、商品の解放は成される。賃金で間接的に商品を取得することには意味が無いが、賃金を商品の値段に利用することには意味がある。商品が安ければ買うのは楽になるが、商品自身の解放とはまた別の問題である。商品を解放するためには賃金ではなく、時間が必要である。
商品の私物化は労働と賃金の交換の産物であるが、これは労働と賃金を生かすための市場経済のシステムとして完成した。商品資本は労働と賃金によって産出されるが、商品を私物化する独特の仕組みは経済を活性させる。商品が私物化されることによって、労働と賃金の循環がなされる。商品を手に入れ、自分の元に置くことが商品の終着駅である。商品を労働者に解放するためには、商品の循環が結果として必要である。商品の価値は賃金で計られるが、賃金はそれによって自由を失っている。賃金の自由のためには、商品がお金の定義の中で自由に価値付けられなければならない。賃金の自由な循環は気持ちによって定義付けられ、商品量によって計られる。自由な労働、賃金の獲得、商品の循環などは市場経済を徹底させるための必須条件である。
不況を叩きのめすには、安定して商品を循環させることである。不況の時、無理に商品を安くすれば一時は活況を得られるが、それでは蓄積した資本が続かない。売った商品が次の自分の労働に即つながる仕組みを考えなくてはならない。労働と賃金を増やせば無条件で商品は増える。問題は商品の循環である。商品が売れれば、商品が循環することにはならない。それが次の自分の労働につながらなければ、尻切れトンボである。市場経済は安定した商品の循環さえ得られれば、過半数の人たちが商品を自由に手に入れられる仕組みであるが、不況の一点が自由な商品の獲得を、自由な労働さえジャマをする。市場経済を自分たちのものにするもしないも、商品の循環にかかっている。
労働すれば賃金がもらえ、労働は商品に成る。これが市場経済である。資本主義社会の仕組みは誰にでも解りやすく、商品を作り出すには都合がいい。しかし、商品を渡すというと過半数の人が受け取りづらくなる。たとえ、資本家に搾取された賃金をすべて取り返しても、生活するための商品を労働者が手にするにはほど遠い出来事である。資本主義社会における権力者である資本家たちと対決して色々な自由を獲得することと、市場経済を徹底して稼働させ、商品を適正な価格で売ることは同時にしなければならない。商品の適正な価格とは、商品が上手く循環する賃金である。純粋な労働は積み重ねれば積み重ねるほど社会を向上させるが、大半の労働は搾取されてしまう。資本主義社会が成熟するにつれて、商品だけが大量になり、それを手に入れる方法が無い状態、つまり常なる底流、不況が労働者を貧乏にする。貧乏も商品の循環によってじょじょに減っていく。商品を循環させるためには、商品を適正な価格にするためには労働者の智恵が必要である。
民主主義社会を徹底するためには、労働の自由、商品の循環、賃金の資本化が必要である。それぞれを現実に資本主義社会を否定の否定するためには、それぞれを徹底することである。賃金の資本化は、資本家から獲得した賃金を商品や次の自分の労働のために、労働者自身が獲得した賃金を労働者が管理、運営することである。もちろん生活するための賃金とは別に資本家から獲得しなければならない。労働と賃金を交換しないで商品を循環することが労働者には最善であるが、生活する以外に商品を循環するための賃金を資本家から獲得する必要がある。不況の時、労働力は必要であるが商品が次の労働につながっていかない、循環しないため、労働不足にもかかわらず労働者は解雇される。会社は借金が増え、労働者の仕事先は減る。不況の時の労働者は自分で労働先を必要とする。
労働と商品を際限なく増やせば賃金は増える。しかし、商品が過剰では、商品の適正な価格が維持できなくなり、不況になってしまう。労働は商品を通してしか賃金を獲得することはできない。賃金と商品を増やしても労働はなんら反応しない。経済は労働に始まり労働に終わる。労働者の労働だけが善である。労働の方向性に適正な商品の価格がある。適正な価格の商品と労働は人を幸福にするが、賃金はゆき場を無くす。
定価が商品の適正な価格ではないが、定価は不況の予防策としての特質がある。共産党主導の定価は、共産党が単独与党になるまでできない。それまでは労働運動で一定の定価を勝ち取ることはできるが、万全ではない。また、商品が定価であれば不況に対抗できると決まったものでもない。不況はデリケートな現象であり、人工的な経済の実体である。こうすれば良くてこうすれば悪いという上の判断ではなく、現場の労働者の機転が不況に対抗できる希望である。
貨幣は米や麦などの作物に始まり(生成段階)、金(きん)を基準物質にすることで発展段階に達した。現在は金ではなく、人自体を基準物質とすることで、貨幣は没落段階に至った。世界的資本主義社会の条件は作物でも金でもなく、人間自身を貨幣基準とすることで株のように日々レートが変わる不安定さを前提とする。代金としての人基準(貨幣没落物)は恐慌と不況の極みであると同時に社会主義社会における計画経済の生成段階でもある。計画経済では人と人(受け手と送り手)を基準物としつつ、貨幣ではなく、人の労働を直に他人に循環させる。人が貨幣の基準であるかぎり、貨幣は不安定ながらもその存在に困ることは一切ない。自分が自分の使うお金が、それ自体が自分の存在に裏付けられた貨幣そのものなのである。資本主義社会では貨幣は不安定さを増したように見える。それは人が得た最高最大の貨幣という道具が人と一体と成った証拠なのである。あなた自身が、自分の使うお金の価値を決める日が迫っている。
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