事実論
本書の関連にエンゲルス著『自然の弁証法(べんしょうほう)』レーニン著『カール・マルクス』マルクス『資本論(しほんろん)』をすすめる。この著作は非権力者層の性質に属する人に理解実践進化できるように作った(そうなっていない箇所があれば、私の責任である)。
科学的社会主義を発展、熟成、体系づけたマルクスが重視した三大支柱
政治・経済・哲学
国家権力
警察・裁判所(法)・議会・軍隊・刑務所
デューリングのように唯物論、科学を標榜する人が観念的著作を書き、ヘーゲルのように唯心論、宗教を標榜する人が事実的著作を書いている。また、宗教家(自称でなく)でありながら共産主義を標榜する人がいる。これは科学と宗教が相反しない存在であることの証明に他ならない。
ヘーゲルは自然の原理の基本原則のいくつかを解明して国家の枠組み、法にいたるまで研究した。しかしドイツ民族至上主義者であり、ドイツ国家主導で世界的な調和を考えていたのではないか。マルクスは各国に民族の自主独立の党(前衛政党<共産党>)、他のすべての国家と対等な立場を保つ党を構築して世界的な調和を模索した。
マルクスは人間という存在を常に社会、社会存在に属していると考えた。そうであるならば、社会的共有意識(世論?)、社会我(しゃかいが)とでもいうものに人間は常に属しているのではないか。人間は必ずその時代のどれかの階級に属している(共産主義社会は階級が無い、無階級の社会)。自我(利己主義<自分をふくめた世界中のすべての人が自分に貢献することがみんなの幸福であるとする>意識)を精神の中心、下層、深層意識(土台)にして、上部構造、上層、表層意識に社会我(共産主義<自分をふくめた世界中のすべての人に自分が貢献することがみんなの幸福であるとする>意識)を持っているのではないか。普段、言葉の意味が違う対立階級の人とも話しができるのは社会我のおかげではないか。
社会主義社会をマルクスは共産主義社会の最初の段階としている。社会主義社会は共産主義社会の第一段階であり、共産主義社会では国境はなくなる(誰でも国境をフリーパスで通れるし、他の地に本人の希望で住める)。共産主義社会では階級はなくなり、裁判、警察、軍隊、商品、賃金、貨幣、価格、値段、敵、犯罪、殺人、哲学、経済、政治、国家、改革、革命といった存在が建前でも誤魔化しでもなく、なくなる(問題はそんなことが可能かどうかではない)。科学的社会主義、共産主義社会は科学的認識、世界中のすべての人が認めて出現する(強制でなく、多数決でなく。<形から入るために多数決という手段をとっても、最終的目標は認識の統一>)。資本家と労働者の階級(世界的分断)の対立を無くすためには、賃金奴隷制(資本主義社会)、つまり人間の努力の蓄積と人間の努力の換算の交換により成り立つ制度を発展させるためには、官僚制(社会主義社会)、人間の努力の蓄積と人間の感謝の気持ちを交換することにより成り立つ制度に移行を必要とする。共産主義社会は社会主義社会のさらに発展した社会であり、世界中のすべての人の合意と、全国家の認証を必要とする。
事実(じじつ)。真実(しんじつ)、正義などは常に階級の数だけあり、常にその階級に所属する人あるいは特定の集団の味方をしてくれる。事実は平たく言えばひとつしかなく、どの階級の人、集団の味方もしてくれない。事実は誰の味方でもない。事実は一瞬でそれまでのその人の人生、あるいは特定の集団の歴史を否定する。その人が事実を認めた分だけ分析し、実践し、現実に立ち向かった分だけ、それまでのその人の人生、特定の集団の歴史は、ゆっくりとゆっくりと世界中のすべての人に肯定されはじめる。事実をねじまげない人、集団の理想だけが、現実になる。
唯物弁証法(ゆいぶつべんしょうほう)。弁証法に弁証法をもちいた一定の完成型。唯物弁証法によれば、いま現在の限界に向き合って挑戦すればしただけ、限界が広く深くなることを示している。たとえばいまは本を読んだり勉強する集中力が続かなくても、毎日習慣づけていけば、その限界を越えることができる。唯物弁証法によれば、人類の歴史が続く限り、人間がどんな問題でも解決することができる。
非我(ひが<無主義>)
自我以前(生後から三歳<三年と半年>前後程度という説もある)
非我
↓
自我(じが<利己主義>)
↓
社会我(しゃかいが<共産主義>)
非我→自我 幼年期(ようねんき)、本能期(ほんのうき)
↓
自我→社会我 青年期(せいねんき)、反動期(はんどうき)
↓
社会我以降 成人期(せいじんき)、理性期(りせいき)
非我(ひが)。ここでは非我から自我までの期間を幼年期(ようねんき)あるいは本能期(ほんのうき)、自我から社会我までを青年期(せいねんき)あるいは反動期(はんどうき)、社会我以降を成人期(せいじんき)あるいき理性期(りせいき)とする。青年期には、だれでも大なり小なり、なんらかの至上主義を経験する。
無主義(むしゅぎ)
↓
至上主義
↓
共生主義
↓ 全共生化(精神内ですべての至上主義を共生主義が内包した状態)
共産主義
ここでの共産主義は狭義の意味(個人の精神的成長の主義に限定された定義)
人←→環境
階級←→共同
自分←→他人
集団←→他集団
自国←→他国
権力←→責任
観念←→事実
発展←→退廃
増殖←→固定
形而上学←→弁証法
経済競争←→階級闘争
エンゲルスは同時に同じであり、同時に違うという表現で、エネルギー(質量)保存の法則を簡易化して説明している。
相反する存在。常時同じであり、常時違う存在。同時にあなたはおなじ場所にいて、同時に違う場所にいる。地球は常時回転しており、地球は太陽のまわりをめぐり、太陽系は銀河をまわり、銀河は別の銀河との距離をちぢめているし、また他の銀河から遠のいている。
正義と悪というふるいわけは宇宙の法則を得るのに用をなさない。しかし、人間の間に特有のことであれ、それもまた宇宙の一面であることは事実であり、これをあきらかにすることも十分に科学である。人間が宇宙のすべてを瞬時に認識することはできない(宇宙は脳に入るかどうか<形而上学的〈絶対〉命題>)。脳の容量、人間の能力、現在の科学水準からしてそれは現実的即物的ではない。しかし、理論としての圧縮、機械的法則などによって部分ながら理解する量を増やし続けることはできる。
正確、誤謬、定否
定否(ていひ)。常に他者は間違っていて、自分は正しいという前提の意志伝達姿勢。[者(しゃ)]定否状態の人。
非性(ひせい)。否定するために認めること。他人あるいは特定の集団の行動を否定するために、自分あるいは特定の他集団の同じ行動を認めること。
否定。人間は形而上学によって作りだされた観念で事実を包み、現実の苦しさ生きる苦しさを緩和してきた。しかし事実を否定することは誰にもできない。事実を否定しょうとすれば(未熟運動)、無力感を生み出すだけである(事実否定の量による質的変化)。人間が事実に対して最初にすることできることは認識だけである。事実を認識し続ければ(成熟運動)、苦しみは生き甲斐(がい)に変化する(事実認識の量による質的変化)。
狂気あるいは悟りの状態も苦しさを緩和する。
恐慌(きょうこう)。比較できない蓄積、あるいは物を交換することにより蓄積される矛盾による制度疲労による経済制度の麻痺状態。交換できない比較できない蓄積、物については世界中の人の共同財産にすることでこの側面における恐慌の条件をなくすことができる。
狩猟→全滅(一共同体)
↓
蓄積→略奪
↓
交換→恐慌
↓
共有→安定(全共同体)
階級(かいきゅう)
諸悪の根源。世界中のすべての犯罪、殺人〈自殺もふくめた〉>の広義の原因。
蓄積方法の違いによる世界的分断。
上昇する螺旋(らせん)は弁証法において、世界は発展し続けているとされる。これを民主主義にあてはめると、民主主義は常に発展し続けている。酷い戦争(蓄積による略奪を起源とする)が続いているが世界人口の爆発に対してその規模は縮小しているのではないか。
共鳴革命(きょうめいかくめい)。民主主義革命においてはマルクスも武力革命を一定認めている。しかし、社会主義革命においては平和的実現しかないことを明らかにしている。ガンジーは共鳴革命でも民主主義革命を行えることを証明した。各国の協力者と、非暴力をつらぬいた人達の無抵抗の有運動(ゆううんどう)の上にインドの独立は達成された。もちろん、各国によって状況が違う。
個人の欲望が悪の狭義の原因である。欲望は本能の主要な構成要素であり、これをなくそうとすることは人間の存在を否定することである。欲望は理性によって安定し、理性は家族愛によって育まれる。家庭環境を安定させるためには、平和と物質的条件と精神的条件と世界的調和が必要である。
これらを実現させるためには差別を介さないで各国が対等な立場で協議し続けることが重要である。
非我→無我(むが)
↓
自我→欲望
↓
社会我→理性
科学的社会主義は世界中のすべての人の理解と支持を得られる理想。一人でも異論があれば、未完成である。
信教の自由が徹底されて、政教の分離はなされる。
哲学ライン。どんなに誹謗中傷に思える内容でも、どうしてこれが悪いのかという内容に踏み込んだ時、その内容は哲学的側面を持つ。
戦争と平和の理由。戦争は各国の蓄積の平等を、自国の軍隊の暴力による略奪によって実現しょうとすること。平和は各国の蓄積の平等を、各国の話し合いと交換によって実現しょうとすること。他国の軍隊による略奪阻止戦術が高度になれば高度になるほど戦争(他国の略奪による各国の財産の強制的平等)では経済(交換することに成り立つ社会の維持方法)は維持できなくなる。これに対抗してでてきた社会維持方法は他国の軍隊の略奪による各国の財産の強制的平等(戦争)ではなく、強力な兵器による他国の財産の消去による各国の財産の強制的平等(核戦争<経済的側面>)であった。核兵器を肯定し、核兵器を所持し、核実験をしている国が核実験を理由に他国に経済制裁をするのは核戦争を挑発しているにほかならない(核実験の比ではない)。核実験は一方的な制裁ではなく、話し合いで解決されるべき問題であり、相手国の了解を得ない強制的な制裁をつきつめれば相手国の存在の否定にいきつく。いまアメリカ帝国(資本主義社会の最終段階<資本主義社会における民主主義の最後の段階>)がすべきことは自国の核廃絶へ向けていっそうの努力を表明することである。
人類の歴史が続くとは問題が生まれ続けること。人が生きるとは無理難題を解決し続けること。
事実を認識するためには勉強し続けるしかない。
矛盾とは最強の矛と最強の盾は同時にありえないことからきている(老人と商人の物語は有名)が、実際に最強の矛と最強の盾があると思考実験してみると、両方がぶつかると両方とも消えてしまうことになる(対消滅?)。エンゲルスは相対では問題は解決されないことをあきらかにしている。最高の理想をかかげる両集団のどちらが最高の理想なのだろう。
対立は人間が蓄積をはじめた時から、いまに続くもっとも古い伝統になっている(狩猟もあるにはある)。対立の問題を解明、解決を模索する時、ふたつのままでは安定して思考することができない。ともすれば相手側に罵詈雑言(ばりぞうごん)をあびせることで自分の気持ちをそらして抑えて無理に満足してきた。しかしこれでは問題は残ったままだ。憎しみに邪魔されないためには、まずテーマに関することでよく現れる事象をみっつ選択して思考をはじめることしかない。
無限←対立対→無限
外向きの対立(同一物の二分化による定義<敵味方善悪正誤など>による対循(ついじゅん)判断)。
二者択一(百者択一だろうと万者択一だろうと同じ)では問題は解決されることはない。二者択一(百者択一だろうと万者択一だろうと同じ)では対立は解決されることはない。
二者択一では事実をとらえ続けること以前にとらえられない(百者択一だろうと万者択一だろうと対循<ついじゅん>)。とらえるためのある程度の初歩的な訓練にはなる。
みっつ、三(み)、3(さん)という数は三段論法に代表されるように必ずしも正確さとは関係ない。しかし人間の精神構成上(欲望、悟性、理性)、みっつの概念みっつの量みっつの現象から本質を探索する、思惑する、思考するのは、人間の脳の構造上、精神が安定して分析、研究、勉強を進められる(偉大なりしはヘーゲル<みっつにわけて思考することによる対立物の浸透>)。疑い信頼熱冷高低など、対立する概念にみっつめをくわえてそれぞれ対等な意味づけ(みっつにわけた項目にみっつづつ意味をいつも足していく)をして思考することにより、現実(流動的屈折的増殖的)を自分という場の中で分析することができる。みっつ以上であればいくつでもいいが、決めた数をどの問題にもあてはめなければ、結果はまちまちになってしまう(たとえばアリスは四十二回起きてアリスは四十二回冒険をしてアリスは四十二回眠りについたとえばハンプティダンプティは四十二回カラが割れてハンプティダンプティは四十二回カラがなおってよろこびハンプティダンプティは四十二回へいにのぼった)。
自分が思っているほど事実を認識していないし、自分が思っているより事実を認識している。
基準→事実←基準
人間は最初に概念から本質を認識しても、希望的予測から低く、小さくとらえる。そこで最初にとらえた本質を基準一とし、基準二を創出することによってその中間点を事実とする。この方法では若干多く高く余計にとらえてしまう。さらに正確にとらえるには、さらなる分析、研究による細心の分析が必要となる(基本的に百パーセント完全に最高に徹底して事実をとらえることはできない)。たとえば、三百年後に共産主義革命が起きると予測した場合、十倍(この数字は分析者の分析能力あるいは好みによってことなる)の三千年を基準二とすると千五百年がはじきだされる。これによって解かることは、今から千五百年前後に共産主義革命がおきるということだけである(これは最初の三百年が正しいという前提の元に成り立つ)。ただ、この方法が弁証法(事実認識方法)か形而上学(観念構築方法)のどちらの比率が高いかは計測できない(この結論が予言か予測か、事実か観念か判断できない)。たとえ予測だとしても、情勢は常に発展しており、予測した計画通りにしなければならないという姿勢は唯物弁証法とはいえない。また、正確な予測が可能になったとしても、その予測年(たとえばここでは千五百年前後)にタイムジャンプ(時間跳躍)できたとしても共産主義社会には行けない。あなた一人でも未来に行ってしまったら、構築は不可能である。タイムシフト(時間移動)することはできない。タイムギフト(時間贈呈)のみ。地道にこの間(あいだ)の人類の時間を積み重ねることが、共産主義社会へ到達する道である。地道が共産主義社会への最高最大最速の道である(それはモモにおける亀の歩みのごとく)。
労働(人間の努力の蓄積)と賃金(労働の価値、価格)の交換・人間が資本家階級(働く者の同じ働きに価格差、値段をつけることにより労働者より利益を余分に得る人達)と労働者階級(資本家の権力に支配され続けている人達)に分かれる根本的原因。広義の意味では権力者層と非権力者層の性質を作り出す根本的原因。世界同時に労働と賃金の交換をやめないかぎり、階級を克服することはけっしてけっしてできない。一国だけで労働と賃金の交換をやめることはできない。
共産党がその国で与党になるあたりから、資本家が資本家と労働者の同じ労働に価格差をつける行為にある程度、介入できるようになる。ここから共産党は労働者の労働の価格を上げるようにしていく。資本家と労働者の労働の価格、資本家と労働者の立場、資本家と労働者の権力の比重はほぼ対等となっていく。この時点でも労働と賃金の交換は行われており、階級は残っている。しかし、権力の権限、権限の私用による利益に共産党がその立場を投げ捨てることがある。大半の共産党はこの時点でたいてい何度か堕落し、科学的社会主義はその度に建前と化す。共産主義者がその国のすべての人の期待、希望に答え続ける時、共産党がその国のすべての集団の期待、希望に答え続ける時、社会主義革命は維持され続ける。計画経済(各国与党共産党が各国の財産の交換ではなく各国の財産をあげる<無条件譲渡>ことで成り立つ経済制度)は社会主義革命から共産主義革命までの経済制度。共産主義革命は各国の共産党が、あらゆる集団の期待と希望を担い続ける時、世界中の共産党が世界同時に労働と賃金の交換を廃止する時、はじめて行われる(この時点で共産党の役割を終える<共産党解体>)。話し合いで各共同体の蓄積は余分な価値のない、かけひきのない交換がなされ、財産の共有が常時保たれ、戦争(資本家<大資本>がにぎる軍隊の略奪による各国財産の強制的平等)の条件はすべて無くなる(経済、哲学、政治なども)。
資本家はすべての働く者の差のない働きに差、価格をつけ、労働と賃金の交換に自分達の利益を余分に多く作りだす(剰余価値<じょうよかち>)。資本家は労働者の貧困を肯定することでその立場と存在が維持される。資本家はその存在性質から労働者(資本家の搾取により働くほどに貧しくなる人)の貧困と階級対立、世界的人間の分断、憎しみの鎖、立場の差を根本から解決することはできない(限りなく)。
資本家同士は利害的競争関係にあり、労働者が団結されない時には戦争による略奪によってのみ、各国の財産の平等を保つことしかできない。自分達が起こした度重なる戦争によって多くの犠牲者を出して資本家達は自滅する(自然革命)。
常に利害関係で成り立つ資本家同士が協力する一点だけの共通点がある。労働者の団結による階級闘争に対する点である。反共の認識一点においてだけ資本家達は団結する(資本家共同<ここにいたってはじめて自分が資本家であるということが認識される>)。憎み、争い続けるのみの関係の官僚主義、軍国主義、国家主義、人種主義、民族主義、宗派主義により分断された各国の資本家達がなんの手順もふむことなくすぐに常に協力し続ける。資本家は共産主義者、共産党と対立することによって生き甲斐を得る。世界中の労働者が共産主義の名に、共産党に団結することによって平和理に社会主義革命は達成される。すべての労働者よ、すべての資本家を救え。
人は生まれてから特定個人至上主義、特定集団至上主義を必ずへて、(世界中のすべての人との)共生主義へと到達する。至上主義自体は成長の過程であって、正義、悪で断じるべき問題ではない。
資本家と労働者の階級、共同は賃金奴隷制、資本主義社会の制度的臨界(せいどてきりんかい)という問題であり、資本家が悪、労働者が正義として断じるだけでは解決されない。
民主主義革命(みんしゅしゅぎかくめい)。王をふくめた貴族の権力と民衆の自由との交換。自国内にある帝国(他国に軍事基地を強制している国)の軍事基地と帝国(植民地の年貢にうるおう国)内の民主主義発展との交換。
身分、階級、立場。連関、すべてがつながっているならば、水と油、相反するとされる存在もどこかでつながっているのではないだろうか。弁証法の基本原則のひとつに否定の否定があるが、これは相反するとされる存在の融合を証明することだと考える。民主主義革命において、王をふくめた貴族を殺したとしても、新しい貴族を生み出すだけであり、大事なことは身分を殺すことだと考える。貴族と民衆の融合、それまでの差別的な関係から民衆主導の平等な関係を生み育てることが大事だと考える。これは社会主義革命でも同じだろう。世界中のすべての人が、常時あらゆる存在がつながっていることを認識すると考える。
宗教と科学と布教。すべての宗教学者が、そのすべての著作で宗教を科学的にとらえようとしている。なぜこういったことがおこるのか。科学、科学的認識とは、世界中のすべての人々が認識の統一をしょうとすることだが、宗教、宗教的認識とは絶対的存在を信じる人の数だけ認識があるということ。主教徒が主信徒にこれが神の教え絶対的真理だ、この考えを信じるのだと言った瞬間にそれは認識の統一を迫っていて、純粋な宗教ではないのである。絶対的存在を信じる人の数だけ宗教がある。科学が宗教家から生まれ、唯物論まで到達したのは、既存宗教が認識の統一を信者に押し進めたためであり、科学認識の土壌となり、育てた一面である。布教により、科学は醸成された。
直感、ひらめき、発見。考える量による質的変換による発見をしたとしても、それは前の世代からの情報、分析などの蓄積による面も大きい。批判による質的変換、否定の否定が起きたとしても、それは前の世代の批判の蓄積があって初めて可能なことである。また、質的変換で終わりということはなく、新しい段階に達したというだけで、これを続けることは重要だと考える。
真実、正義、基準。相対的な基準をどこにおくか、対立する階級、身分、立場によって真実の認識は違うことは知られている。たとえば、ある国で革命が成功して王と貴族、身分が死に、全民衆化されたのを知った他の国の民衆は正しいととらえるが、他の国の王と貴族、身分制の賛同者は間違いととらえる。国粋主義者は平和な時代をおかしいと感じるが、平和主義者は戦争の時代をおかしいと感じる。まず、自分がどちらの側の人間か、認識することが真実を決める。また、正義もその立場により違う。
言ったり、記した時点で側面的事実と化す。事実をとらえ続けるには研究、分析、発表をし続けることである。
思惑はもっとも強力な反動を作りだす。思惑の元である自分の中に。
文字。相対性理論において、どのエネルギーも本質的に同じものだとされるそうだ(アインシュタイン以前はエンゲルスによってこの見地に立っている確立されている)。文字もエネルギーの側面を持つとするならば、他のエネルギーとも同じであるとなる。絵(画像など)もエネルギーであるなら、それらを受け止める感性がするどいということは、植物が光合成をする際に葉をのばすのと本質的に同じであると思える。脳活動を活発にするには、そのエネルギー源であるバランスのとれた食事と、勉強や娯楽が必要不可欠だと考える。経済においては金が、政治など学問においては理論がエネルギーとしての側面を持つと考える。それぞれ文字化と数値化することもできるだろう。人間の間でしか交換できないため、正確には人間間に限定された疑似エネルギーの役割をしていると考えている。
連関(れんかん)。エンゲルスはすべてがつながっていることを連関という言葉で指摘している。これはおもに自我が利己主義であるなど、定義や、あるいは生物の進化に対して述べられたことであると考える。たとえば物質的に相手が離れていても、原子レベルで考えればつながっていることになるのではないだろうか。
言葉の作用と反作用
なにかを定義した場合、同時に反意語が生み出されると考える。
これは最高だ←→あれは最低だ
この人は悪だ←→あの人は正義だ
定義の運動。主義は運動し続けると考える。平和主義は運動し続けるし、国粋主義は運動し続けると考える。絶対正義、絶対悪はないと考える。各主義はなくなることはなく、運動し、成熟し続けていると考える。あらゆる概念、言葉は運動していると考える。
フォイエルバッハは人間論(絶対の内包的精神反映の理論)(一言で言えば「神は人間の子供である」ということ)によって一時マルクスとエンゲルスをはじめとした革新派反体制派に圧倒的支持を得た。しかし政治、経済といったことを生成発展没落するとはとらえず、保守的な立場であり続け、革命には参加しなかった(その後、資本論を読んで社会民主党に入党)。唯物論においては世紀の発見をしたフォイエルバッハだったが、これほどの人でも弁証法的唯物論を当初徹底して情勢にあてはめることはしなかった。これは形而上学弁証法宇宙を知っているだけでは自己批判、自己発展、自己進化することはできないことを現しているのではないか。常に実践し勉強し模索し続けることにより、思考は螺旋し続ける。人は情勢現状宇宙のすべてを把握することはできない(その可能性が高い)が、唯物弁証法によって自分のいまの限界を場による量による質的変化(進化)させることはできる。たとえば哲学であれば、知りたい対象、つかみたいテーマに関するよく使われる言葉をみっつ選び(量の認識)それを常にむすびつくようにしながら思考する。これによって思考は螺旋を描きはじめる(その可能性がでてくる)。それは三色のまじわる色。三色のひとつひとつの色を選び変えることによって結果、色は変わる。この結果の色の情報の量により、さらに認識は深まり、新しい色を発見することができる。
人間は集団社会宇宙に常に属している。これを意識することにより、所属している集団を選ぶことができる。
自分と所属集団と所属国家と所属社会と宇宙。人間の行動は自分ですべてを決定するわけではなく、個人の性質(個性)は所属集団の性質と所属国家の性質と所属社会の性質と宇宙の法則に左右される。しかし、これを常時意識することで、ある程度は自分の意志を確保することができる。完全に自分の行動を自分で決定することはすべての人が権力者になる(権力の消滅エーテル現象権力のエーテル化)共産主義社会までは現実にいどみ続けなければ、ほとんどできない。
天皇の同意を得て、天皇が皇居いがいの場所に住む時、日本の習慣としての天皇制は終わりをつげる(君主制から民主共和制へ)。
順位付けの量による質的変換が劣等感だからといって即、順位付けをやめることが最善とは必ずしもかぎらない。これを知っているだけでも、一定劣等感から解放される。
民主共和制が維持され続けるかぎり、自然革命と武力革命(非権力者層が自分達の協力による強力による権力の平等の実践)の性質は失われる。
事実を認識することを避け続ける時、その集団は外部からの強制解体ではなく、内部からの自発解消により、解散する。
平和
↓
戦争
矛盾における社会性質の一側面、対立形質の循環(現実性)。
理性
↓
欲望
欲望が悪の狭義の原因だとある犯罪の時に認識された時、理性を活性する啓蒙を考え、実践するのが一般的である。しかし、理性の量の質的変換は欲望であり、欲望を生み出すことになる。欲望には理性ではなく、欲望を活性する啓蒙の量により理性が結果として姿をあらわす。しかし、これはどちらも対処療法、その場しのぎであり、中長期的には、欲望と理性の両方を同時に活性していかなければならない。しかし、中長期的な対策はすぐには結果はでない。
平和、戦争…平等、差別…正義、悪等対立するこられの概念は社会性質において量による質的変化をくりかえしている。これらを実践による対立の統一によってひとつに編み上げるのが弁証法的命題の一側面である。人間は意識の固定をふせぐために、差別と平等をくりかえす(本能における対立形質の循環)。
平和プラス戦争イコール社会。
全国家は常時平和であるし、戦争であるし、さらにそのどちらかである。
社会の上に、すべての人の理想はおなじであり、達成方法、情熱はおなじである。屈折によって違うように見える感じられる思えるだけである(理想における社会性質の一側面)。
日本の資本家層は終戦時、天皇制の存続を条件に米国の資本家層に服従を誓った(契約の楔)。
マルクス、エンゲルスは哲学の発展した先の学問を模索しており、ここでは共産学(きょうさんがく<学問、実践における共産党および労働者による社会進化推進策定>)としておきたい。共産学の先を作るのはあなたであり、それは行動、資料、研究の量によってなされる(本質創造)。タイトル、形而上学的看板かけなどということはあなたがいなくなった後にあらわれる不勉強な俗物どもにまかせればいい。
子供を作りだすことによって男と女は親(遺伝的継承体的場面)となる(対立する性差の統一)。
地球は永遠であると述べた時、これを大抵の人は観念キレイ事美しい物語だととらえる。しかし、個人的主観からすればこれは事実となる。その人の一生からしてみれば、その生涯で地球自体が崩壊する可能性はきわめて少ないと考えた時、地球は一生において永遠ということになる。これを集団会社国家社会宇宙の性質として述べた時、はじめてこの言説は観念化する。
生息範囲の量が生物を作りだし、生物自身によって生息範囲が広がる時、生物の種は広がりはじめる。
自分がされたらいや(その時々、いつも)だなと思うこと(全性<ぜんせい〈人の数だけある〉>)を他人にする量による質的変化は自分の意識の固定である。
特定空間の限界特定時間の限界(有限)による形質固定(没落)のはじまり。全人類の生息範囲を軍隊武器戦場がおおう時(戦場の限界の量による質的変化)、戦争の存在発展は終わりをつげ(対立するソ連およびアメリカ二大帝国関係の崩壊<有限>を契機に)、没落をはじめた。
本と講演とメディアとは概念遺伝子継承式典場である(精神的性質の継承)。
すべての人がのべていることは事実であるが、その言説がどのていど屈折によってゆがんでいるかは、自分で分析しなくてはならない(宇宙における人間的側面)。
ヘーゲルが保守的であった理由は、哲学(学問における増殖類型形態的側面)者であり続けたためではないか。マルクスおよびエンゲルスおよびレーニンは共産(学<学問における増殖実践形態的側面>)主義者であった(あり続けた)。
ヘーゲルは個別を軽視し、マルクスは重視した。
自然(範囲的側面)法則と社会(人間生息範囲的側面)法則では、人為要素(社会範囲的側面)の有無がある。
対立する論争(現実の学問的側面)をしている論のどちらかの論を取る時(二者択一)、自分の論は対の環の一要素になる。三つ目の論をくわえて分析すること(弁証法適用)により、対の環が触れ合っている部分を発見あるいは生成する可能性がでてくる(学問における理想的側面)。
無視というのは、その場のすべての人が無視の対象を注視(有視集中)しているということである。
意識の固定を防ぐ手段としては、自分なりに新しい(四次元形質)と思うことを自分なりに他人に迷惑をかけないで続ける(連続実践)ことであろう(弁証法における自発的積極的内面的創造)。
理論、法則は常時増殖(普遍理論、普遍法則における連続判断による連続的側面)しており、人間がくみつくすことはない(学問における否限的側面)。
権力者および権力者側の人間はその立場上、意識の固定が非権力者よりも速度がはやい。
時間(経過)の量により、物質は常時増え続けている。物質の量が増える(空間力<宇宙は広がる>)質的変化により、物質は常時細かくなり続けている。 n次元宇宙は無次元宇宙に終わり(時間<のはじまり>および空間<のはじまり>)を与え、有次元宇宙は広がり続けている。これ(有次元宇宙の量による質的変化)により、物質は常時細かくなり続けている。究極の先端の細かい物質を粒子加速器(場)による実験で測定するためには、広がり続ける粒子加速器を作る必要がある。有次元宇宙が広がる速度は速くなり続けている。
形而上学は一律(立)というその性質により、判断に基準となる人物を必要とする。正義の人と悪党の人を決める時、キリストマホメット仏陀ヒットラー昭和天皇ムッソリーニマルクスエンゲルスレーニンなどを絶対正義(あるいは絶対悪)として論拠とする。非権力者層が権力者(層)を必要とする一側面的理由。形而上学を使う時は、歴史上過去上の人物よりは生存する人物を基準にしたほうがはるかに意識転化速度が遅い。
弁証法において性質はその内に否定の内容をふくんでおり、実質的な言葉の意味付けをするのであれば、これをふまえて行わなければならない。
三次元宇宙はその内たる人間がくみつくすことはできない。ゆえにある程度限定された範囲(三要素前後)に固定した法則理論学問をすることになる。
人間に完全実現力がないとするならば、すべての人の著作には、屈折的見解が内包している。
一元論多元論無元論
平行宇宙(無次元宇宙、有次元宇宙、n次元宇宙)。
宇宙の元は一元論であるが、(多元)連続構造であるため(←無限…二次元宇宙、三次元宇宙、四次元宇宙…無限→)多元論(特殊的)の側面も内包している。また、平行宇宙として無次元宇宙、n次元宇宙(えぬじげんうちゅう<あて字読み>)もあり(平行宇宙をあらわす場合この←無限…二次元宇宙、三次元宇宙、四次元宇宙…無限→の宇宙は有<ゆう>次元宇宙)、宇宙は無元論も内包する(集合判断による特殊宇宙見解)。
その人が信じる念じる祈る絶対的存在には自己理想体の側面もふくまれており、絶対的存在を否定することは、その人の未来を否定するのに等しい。
あらゆる存在は浮動し(動い)ているということは、すべては固定して(止まって)いるのと等しい。固定と浮動という同一物の分け方は(限定の場による)相対、あるいは質平差(しつびょうさ)によるもので、同時(帯)、特定の場、条件に限定される。おなじ存在でありながら違う(表裏一体物における対立形質<ついりつけいしつ>の循環)。形而上学(同一物の二分化による対立形質の循環による人間共同体人類の向上)は自覚的知性自覚的知識(蓄積)自覚的思考を可能にしたが、同時に同じ人間のあいだに大きくはふたつの立場の違いを生み出した。
動物は(反射的)思考をする。人間が手が五本あるのも、毛がないのも人間の(反射的)思考の量による質的変化による。それも何百年、何千年、何万年単位の(<細胞遺伝子環境遺伝子次元遺伝子>蓄積的)成果である。人間が人間たるべき学問、形而上学もこれにより人間(自身)が獲得した。
形而上学は(自分が他人と)対立することによって自覚的思考を得たが、対立する相手の能力、知識(範囲)、性格に制限を受ける。また、当面対立する相手がいない場合は反射的思考の度合いが極端に増える。反射思考の量による質的変化はアルツハイマー病の一部分的原因を占める。
あらゆる存在は独自の時間をもち、あらゆる存在は特別な時間をもち、あらゆる存在は同じ時間をもつ(存在における<時間面>質的普遍質的特殊質的個別)。
あらゆる存在は独自の空間をもち、あらゆる存在は特別の空間をもち、あらゆる存在は同じ空間をもつ(存在における<空間面>場的普遍場的特殊場的個別)。あらゆる存在は独自の次元をもち、あらゆる存在は特別の次元をもち、あらゆる存在は同じ次元をもつ(存在における<次元 面>量的普遍量的特殊量的個別)。
上に回転する環(わ)があり、下に回転する環がある。このふたつの環は同じ環である。この環の回転方向はそれぞれ別々の方向である。これが対循次元(宇宙)である(無限大の環)。上から垂直に下へ下降しつづけるのが垂直次元(宇宙)である。下から上へ垂直次元のまわりを湾曲しながら上昇しつづけるのが螺旋次元(宇宙)である。螺旋次元宇宙(この宇宙)は無限大の環、この(厳密には)ふたつの環が引かれ合う(場が螺旋次元)量によって螺旋をえがく。天の川に分かたれたふたりが再会するのは一年に一度だけである。
株主が多ければ多いほど、従業員が多ければ多いほど、扱う商品類が少なければ少ないほど、会社としてはその機能を十二分に発揮し、質のすぐれた商品を生産できる(商品質の場転量<ばてんりょう>)。しかし、それに比してその会社の(大)資本家の権力質私有場資本量は制限を受ける。(大)資本家でありつづけたいと願い考え実行する人は、リストラ暴力団独占法によって対循質(ついじゅんしつ)を体現する。
絶対主義者は資本主義者を肯定し、資本主義者は社会主義者を肯定し、社会主義者は主義者の先後残(せんこうざん)たるなに者かを肯定する。資本主義者は絶対主義を継承し、社会主義者は資本主義を継承し、主義者の先後残たるなに者か(主義の否定の否定者)は役割を終えた主義の先を継承する。絶対主義者がそれから資本主義者になることはあっても、絶対主義者が資本主義者を理解することはない。資本主義者がそれから社会主義者になることはあっても、資本主義者が社会主義者を理解することはない。社会主義者が主義者ではないなに者かにそれからなることはあっても、社会主義者がなに者かを理解することはない。
人間のあらゆる(思考もふくめた)行動は次元の反映である(人倫性)。
(エネルギー)質量保存の法則は(人間の無次元反映による)観念論における永久機関(模索)の最後(最大最高)の成果であり、同時(帯)において有効であり、これに時間(軸)を加えたのが(場における)量による質的変化(質による量<における場>への転換)である(質量における生成発展没落点)。物質の質量が常時変化および転化および進化(時間対循空間対循における次元対循)によってこの有次元(宇宙)を形成しており、無次元(宇宙)において質量の変化質量の転化質量の進化はない(時間無<じかんむ>空間無<くうかんむ>)。有次元(宇宙)において、いかなる存在も重くなり続けているし、(あるいは)軽くなり続けている。日刊赤旗1998年8月7日(金曜日)14面において小学校経論、小佐野は…「物質の出入りがない限り、重さは変わらない」など物質の基本的な認識を教えるようにはなっていません…とのべている。物質(同士)は常時(帯)において往時(帯)において出入りがあり、重さが変わらないのは同時(帯)においてである(<人工による>無次元を有次元内に作ることは可能)。記事には科学的な見方身につくかと題してあるが、観念的な見方身につくかと題してもいいようだ。
人間が実践(における時間空間<増殖分解固定>)による(人工)次元構築を可能にする時、次元の反映体(はんえいたい)たる人間は次元体(じげんたい)となる(動物→人間→次元体<暫定名称>)。
人間(自体)を作ったのは人間(自身)である(存在は存在ゆえに肯定の肯定<わたしはわたしとわたしはあなたに伝える>)。
絶対命題(による相対命題全対命題)不満分子に次元を(場における)量による質的変化を(人間自身による行動力により)実践することはできない(不可能性)。
人はストレスを蓄積しつづけているし、発散しつづけている。一般的にストレスと言う場合、発散が追いつかない瞬発的な神経細胞過剰活性にかぎられる。ストレスには循環ストレス確定ストレス不確定ストレス人為ストレスに大きくは分けられる。
問題は新しいこと独創性創造力によって進化(および転化および変化)する(問題の暫定)。それまでの(エネルギー)質量元(しつりょうげん)にかかわる紛争はまったくさらに新しいさらに効率がよくさらに豊富な(エネルギー)質量元の確保まで本質的解決をみない。たとえば、戦争が問題であれば戦争および平和および社会の先後残を、不況が問題であれば不況および好況および利潤の先後残を、死が問題であれば死および生および命の先後残を創造する必要がある。
過去は認識すること継承すること凌駕することしかできない。一見、(完全)絶対否定しているようでも、遠回しに肯定しているにすぎない。
概念(遺伝子)をたどればひとつの概念にたどりつく。それは時間である。
人間のあらゆる行動は善意にもとづいている(善内包<ぜんないほう>)。罪とは結果を問うているのであり、そうでないのならば罰(ばつ)は生まれない(法における結果質量)。
無機質体はn機質体(えぬきしつたい)によって有機質体となった。有機質体はn機質によって無機質体を作り出す(無機質否定の否定)。無数は虚数によってのみ有数化する。有数は虚数によって無数となる。
あらゆる存在は時間の一形態(ひとつの場)である。
存在はあらゆる時間の重なる場である。
あらゆる存在は(物質的)反螺旋(はんらせん)の形を内在(ないざい)している。これによって存在は同じでなく、(存在は)正螺旋(せいらせん)と違っている。
あらゆる存在は次元の反映である。
無量はn質によって有場(ゆうば)に変化する。絶対をなくすことの模索量による質的変化は相対であり、絶対はその先(後、残)を創造(人工人自実践)するまで本質的解決にはいたらない。絶対=相対(瞭然的要素)。
広がりと圧縮は対であり。圧縮を(次元をとらえるための)単位、表面積の面からとらえる時、圧縮しつづけている物質を小さくなっているとする時、同時に(宇宙は)広くなっているし、同時に(宇宙は)狭くなっているとなる。
不可能は(人為的)実践の量による本質の創造によって可能となる(全時<帯>から特時<帯>への伝播)。
スターリンおよび毛沢東が保守的であったのは、共産党を最高とし続けたからではないか。
共産主義革命がおこなわれる時、民族および国家および社会は完全となる。
生まれる前は死である。
質および量および場は時間をとらえる(最多)基本単位である。
恐慌は戦争のはじまりである(平和における社会場<的n面>)。
数次元は同時に並行して存在している。同時帯から数次元(すうじげん<宇宙〈うちゅう〉>)をとらえた場合、ブラックホールはマイナスの空間領域を占める。
人は矛盾を行動力源としているし、存在は矛盾におどる。
次元における証明はその行動が本質であれば社会現象自然現象循環現象となって現れることによって成される。
絶対は相対によって完成し、相対は全対(ぜんつい)によって完成し、全対は自対〈じつい〉によって完成する。相対は絶対に反動(反立<はんりつ>)し、全対は相対と絶対を否定し、肯定する。
感情は意識の固定を防ぐ側面を持ち、愛と憎しみ、好き嫌い、怒り笑い、悲しみ楽しみなど、相対する感情が循環しながら意識を形成している。意識の固定時に意識が外に向かっていた場合、殺人となり、意識が内に向いていた場合、自殺となる。意識の外と内の方向も間軸〈まじく〉上〈じょう<場>〉において巡っている。
絶対主義社会において共産党を展望することは意志を持ち、資本主義社会において共産党員であることは意義を持ち、社会主義社会において個人であることは意味を持つ。
人工物は人間(による実践)により作られた。動物は動物が作った(肯定の肯定)。植物は植物が作った。自然現象は自然が作った。次元(自体)は次元(本体、構造)が作った。人工現象は人間により作られた。
すべての人は共産主義者である。
見の前の宇宙が暗いのはあらゆる物質の影に(三次元)宇宙が満たされているからである。これとは逆に光りの宇宙(白い宇宙)も存在する。
犯罪は金(労働対価数量<ろうどうたいかすうりょう>)と物との交換を反映して出現する。理論上は計画経済になり、物を労働を相手にささげるあげるやってくることで犯罪原(はんざいげん)は撲滅される完成される。しかし実際には犯罪それ自体を意識に反映して完全にはなくならない(犯罪の犯罪)。
光りよりも速度が加速される時、その物質は時間を超え時間を逆行して時間跳躍する。光速をこの宇宙で超えることは絶対に完全に質的にできない。たとえばクルーズチェイサーは光速を超えることができる。クルーズチェイサーは光速を超えることはできない。これはどちらも実現できる。ただ光速を超えるクルーズチェイサーはタイムマシンであるというだけの違いなのだ。
風は空気の運動であるというのはその通りであろうし、概念は言葉の運動であろう。
観念論は外枠を作ってから内へと構築する(五次元や四次元から三次元方向)。唯物論は内の土台点(どだいてん)を作ってから外へと構築する(一次元や二次元から三次元方向)。次元論は両方重なりつつ循環しながら構築する(←五次元・→・←四次元→三次元←二次元→・←・一次元→)。
エンゲルスは労働がサルの人間化をなしとげたことをその論旋であきらかにしている(マルクス級の発見)。労働こそが道具を生(う)みだし、人間を生みだし、文化を生み出した。労働こそが善であるという言葉もあるが、労働こそが神、仏、絶対的存在であるといってもいい。労働こそが絶対的存在を生みだし、宗教を生みだし、科学を生みだし、人間的次元、人類の次元を生み出したのだ(人間次元<にんげんじげん>)。労働は火(が自分達に使用可能であること)の発見、高度な技術による石器、役割の分担など、数々の不可能を可能にしてきた。また、労働の量は蓄積(労働量<ろうどうりょう>)へと質的変化し、場(ば)としての人間を確定付けた(サルによる自己進化<人間化>、革命始源<かくめいしげん>)。労働は権利、技術、役割などの蓄積を生みだし、蓄積は対立(蓄積量<ちくせきりょう>)を生み出した。対立は無数の革命を性急に呼び覚まし、対立物の(高い段階での)統一(弁証法的命題)により共産主義革命により次自旋(じじせん)により完全となる(人間による自己進化<次元体化〈じげんたいか〉>)。
光(ひか)りは反射する。これはあたりまえのことだろう。では、光りはあらゆる物質に反射する。というのはどうだろう。光りは反射する。ではその対(つい)はなにか。光りは反射するが影(かげ)は反射しない。影は蓄積されるだけである。たとえばワイスという男がいる。かれは走る。自分よりもはやい仲間を追い抜くために走る。朝も昼も晩も走る。ある日、ワイスは誰よりもはやくなった。それでもワイスは走っていた。そこへ走っているワイスの後ろにぴったりついてくる見知らぬ男があらわれた。ワイスは走った。体調もなにもかも万全だった。しかし、その男はワイスを追い抜いた。ワイスがどんなに必死に走っても、その男を追い抜くことはできなかった。ワイスはその場にたおれこんだ。息もたえだえにその場に横になって、三日三晩眠ることもせず食べもせず走りもせずたおれていた。そこへ別の見知らぬ男が走ってきた。そのとたん、ワイスは走りだした。体調は最悪の内にあったが、その男が前を走っているだけでなにもワイスを邪魔することはなかった。ワイスは走りながら木になる果物をちぎって食べ、走り続けた。ふいにワイスを三日前に追い抜いた男が、ワイスの遙か先を走っているのがみえた。ワイスは走った。走り続けた。半日後、ワイスはその男を追い抜いた。ワイスの前に一人、ワイスの後ろに一人。そうして、ワイスはいまも走り続けているのだった。
ヽそヽしヽてヽ物ヽ質ヽはヽ運ヽ動ヽしヽてヽいヽるヽだヽけヽでヽあヽる。ワイスを最初に追い抜いた見知らぬ男はワイスの影であり昨日の自分であり、後から来た見知らぬ男は明日の自分でありワイスの理想であるのだ。
‖1999/4/16(金)→‖戦争(せんそう)と平和(へいわ)は内(うち)と外(そと)の循環(じゅんかん)によってくりかえされる(運命<次元循環性質的側面〈じげんじゅんかんせいしつてきそくめん〉>)。戦争量(せんそうりょう)が平和であり、平和量(へいわりょう)が戦争へと転化される(共同的社会軸転回<きょうどうてきしゃかいじくてんかい>)。戦争と平和は表裏一体(ひょうりいったい)同じものであり、戦争に反対しつつ、平和を凌駕する必要がある(戦争から平和から共同へ)。戦争と平和は社会であり、共産主義革命(きょうさんしゅぎかくめい)によって完全(弁証法的連関一<べんしょうほうてきれんかんいつ>)となる。
民族主義(みんぞくしゅぎ)とは諸悪(しょあく)の根源(こんげん)(戦争および<殺人をはじめとするあらゆる>犯罪<はんざい>および貧困<ひんこん>)原因(げんいん)は経済(けいざい)である(エンゲルスにおける命題的発見<めいだいてきはっけん>)。
民族主義に対置する主義に反民族主義(はんみんぞくしゅぎ)がある。反民族主義とは他民族が諸悪(しょあく)の根源(こんげん)であるとする主張にもとづく実践。諸悪(しょあく)の根源(こんげん)はユダヤ民族だとする主張による実践(ナチス主義<個別名称〈こべつめいしょう〉>)。ナチス主義の結果はホロコーストに代表されるユダヤ民族虐殺(みんぞくぎゃくさつ)に帰結(きけつ)されたように思われる。諸悪の根源は朝鮮民族(ちょうせんみんぞく)であるとする(反民族主義における)天皇主義(てんのうしゅぎ<個別名称>)。天皇主義(てんのうしゅぎ)の結果(けっか)は南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)に帰結(きけつ)されたように思われる。戦争(せんそう)全般(ぜんぱん)に共通してみられる各他民族虐殺(かくたみんぞくぎゃくさつ)はそれらさえもすべて民族主義(みんぞくしゅぎ)である(合民族主義<ごうみんぞくしゅぎ>)。諸悪の根源(戦争および<殺人をはじめとするあらゆる>犯罪および貧困<ひんこん>)は労働(ろうどう)と賃金(ちんぎん)の交換量(こうかんりょう)によってひきおこされる(全経済<ぜんけいざい>=自然経済<物々交換〈ぶつぶつこうかん〉>・市場経済<労働と賃金の交換>・計画経済<労働譲渡〈ろうどうじょうど〉>)。
意識の固定は労働と賃金の交換量(全経済)である。
三次元宇宙(さんじげんうちゅう)はn次元(えぬじげん)と有次元(ゆうじげん)と無次元(むじげん)から(生)成される。‖←1999/4/16(金)‖
‖1999/5/8(土)→‖すべての労働者(ろうどうしゃ)がみずからの労働(ろうどう)と資本家(しほんか)が役割(やくわり)するその労働的対価価値物(ろうどうてきたいかかちぶつ)をそらす時(とき)、労働(ろうどう)は労働(ろうどう)でありつづけ(労働循環<ろうどうじゅんかん>)あらゆる人(ひと)は労働者(ろうどうしゃ)を自任(じにん)する(成労働<せいろうどう>)。資本家(しほんか)から賃金(ちんぎん)を受(う)け取(と)らないで労働(ろうどう)することができれば、それが社会主義革命(しゃかいしゅぎかくめい)である。より確(たし)かなことは共産主義者(きょうさんしゅぎしゃ)だけがそれを理解(りかい)実践(じっせん)統一(とういつ)に責任(せきにん)を役割(やくわり)を実績(じっせき)を成(せい)す。
あらゆる存在(そんざい)は存(あ)る物(もの)であり、それは言説(げんせつ)にもゆきとどく。宗教(しゅうきょう)はもっぱら同時帯(どうじたい)の世界観(せかいかん)から物事(ものごと)を洞察(どうさつ)してからとまる。科学(かがく)は大抵(たいてい)連時帯(れんじたい)から物事(ものごと)を洞察(どうさつ)してからうごきだす。次元(じげん)は宗教(しゅうきょう)は科学(かがく)と共(とも)に両一帯(りょういつたい)かららせんする。
唯物論(ゆいぶつろん)はこの宇宙(うちゅう)には物質(ぶっしつ)にみたされた・ただ物(もの)だけが存在(そんざい)を成(せい)す。観念論(かんねんろん)はこの宇宙(うちゅう)は蓄積(ちくせき)された空間(くうかん)(闇<やみ>)にみたされた・ただ影(かげ)、平面的空間(へいめんてきくうかん)と精神(せいしん)だけが存在(そんざい)を成(せい)す。次元論(じげんろん)は両一的螺旋(りょういつてきらせん)にみたされた・ただお互(たが)いを成(せい)す。‖←1999/5/8(土)‖
‖1999/6/5(土)→‖労働者(ろうどうしゃ)は労働持続性質(ろうどうじぞくせいしつ)を獲得(かくとく)する労働(ろうどう)を労働(ろうどう)と賃金(ちんぎん)の交換(こうかん)、労働(ろうどう)と休暇(きゅうか)の交換(こうかん)、労働(ろうどう)と(生産物<せいさんぶつ>の売<う>り手<て>への)譲渡(じょうと)の交換(こうかん)によって成(な)す(労働革命<ろうどうかくめい>)。これが計画経済(けいかくけいざい)である。
三次元宇宙(さんじげんうちゅう)は生成期(せいせいき)には白(しろ)い宇宙(うちゅう)として現(あらわ)れ、灰色(はいいろ)の発展期(はってんき)を越(こ)え、いまの黒(くろ)い没落期(ぼつらくき)を向(む)かえた。
‖←1999/6/5(土)‖‖→2000/3/6(月)‖どんなに資本家がいい人であろうと、賃金と労働の交換が行われるかぎりそこに搾取(さくしゅ)は生まれる。これをなくすにはその国のすべての人の衣食住が無料であることが社会主義社会の単純的物質的条件である。社会主義社会において侵略戦争は、その(社会主義)国で決してその発生条件を失う。‖←2000/3/6(月)‖‖→2000/3/13(月)‖二次元宇宙(にじげんうちゅう)(平面宇宙)からビッグバン(次元自然)によって三次元宇宙(立体宇宙)になったこの宇宙においてあらゆる存在は物質である。時間は物質である。もとのもとは時間である。そして神(時間における時間の時間)は物質である。ゆえに人間は神によって作られたのではない、人間自身はその時間において人間が自分達を作り出したのだ。人間が人間を作った(存在の存在)。‖←2000/3/13(月)‖‖→2000/3/15(水)‖注、二千年三月十三日月曜記載の次元革命の箇所を次元自然(じげんしぜん)に訂正した(次元革命は三次元宇宙の四次元宇宙化<アマト>であり、これは共産主義が達成された次の目標である)。この時、人は生まれていないし、次元は存在における存在の存在である。つまり一(いち)は自然における自然の自然とすることができるからである(一次元と二次元)。さらに言うならば物質世界においてあらゆる存在は物質的後ろ盾を得る。ゆえに、観念は物質である。
共産主義社会も終わる時が来る。弁証法的唯物論も終わる時が来る。終わりが無いのは観念、卓上の議論だけである。その次に来るものをここでは個旋(こせん)と呼ぶことにする。
存在は時間のあり方である。
あらゆることはくみつくせないというのは確かだが、たとえば十という数まで作ってしまえば百でも百五でも表現できるようになる。ある程度まで作ったり発見してしまえば後は応用で済む。
革命は労働量である。社会主義社会へのもっとも近道は労働である。
この事実論(じじつろん)を宮本顕治氏にささげる。
社会主義社会では売買ではなく、あげることもらうことまたその両方によって経済が成り立つ。
資本主義社会における資本家の役割は待つことである。‖←2000/3/15(水)‖‖→2000/3/19(日)‖注、神がもとのもとである、仏がもとのもとである、というのは観念論のもとのもとであり、時間がもとのもとであるというのは理神論であり、科学的社会主義には唯物論におけるもとのもとは磁場(じば)である。‖←2000/3/19(日)‖
労働と賃金の交換は逮捕するまでもなく搾取という手錠につながれている。原始共産制が果たした役割からいえば、これは異常な日常となっている時。労働者の働きはひとたび賃金になってしまった瞬間、色を失う。その時、なかったはずの物がのさばり、あったはずの物が消えてしまう。たったこれだけのことで…である。社会主義社会では衣食住だけが中心的に無料となり、殺人は侵略戦争をふくめその条件は失われる。衣食住以外、他の物にはまだ賃金が必要とされることがほとんどであるのが理想である。労働と賃金の交換は廃止ではなく死滅する時がくる。それは飛ばされた風船がしぼんでしまうかのごとくいつも。たけり狂う搾取の嵐はその進路を閉じる時が共産主義社会であるのはあたりまえにゆえば、そうである。あらゆる存在は賃金化される資本主義社会において希望や夢など観念的理想は人々を彩(いろど)り社会主義というお祭りは毎日盛大に労働者によって資本主義に盛り込まれる。あるのはただ解放の合図であり、それこそが革命である労働するその日々に労働のみがそれを準備するその労働者達によって、ただ共産主義者は脇役としてそれに花をそえる日々を全労働者に贈る。あたりまえに少しづついつもそっと寝る前におくる言葉のように…。いま労働者から求められているのはなにかが共産主義者に風を送るのみ。二度とない日々がそれぞれ並べられ、労働がそれによって生まれる。純粋な理性の上において。そして批判だけがそれに連(つら)なる。いつもある労働は普遍化し、特殊化された労働が最後まで残る個性の上にいつも最大に個別化により。
搾取は諸悪の根源ではないが最後の悪である。資本主義社会では搾取はあたりまえの存在で空気のような物である。それだからこそそれは労働する者にしか必然的に感じられない発見できない排除できない。剰余価値科学(じょうよかちかがく)が搾取を悪と規定する唯一のものさしであり労働者の最強の武器である。剰余価値科学を獲得するにはマルクスやエンゲルス、レーニンの著作を読むことを進める。その他では宮本顕治氏不破哲三氏志位和夫氏上田耕一郎氏などの各氏の著作また、西本一夫著『唯物論の歴史』などを進める。労働者による労働運動による科学的社会主義の発展だけ搾取は少なくなる。搾取は資本家の獲得物ではなくただ流れる川の水と同じく資本主義社会ではごく自然な行為であり、これをせき止める方法はない。労働運動によって搾取の形を変えることは容易だが、それを廃止するのはどんな方法でも困難を極める常に。しかしそれをやりとげることができるのは労働者だけである。搾取における剰余価値における資本主義社会における労働者の自覚が科学的社会主義である。労働者による労働だけが資本家の搾取への唯一の予防薬である。資本とは資本家にとって搾取方法である。剰余価値学説は唯物論が唯一認める経済学である。日常の労働だけが搾取を死滅されられるが、それには科学的社会主義による理論武装を労働者に必要とする。労働と賃金の交換が行われるかぎり誰も搾取から逃れることはできない。ヽそヽしヽてそれゆえに科学的社会主義を獲得すること使用することを労働者は義務づけられるこの資本主義社会全体に。労働運動から逃げる者は資本家となる。またはその性質を得る。資本主義社会において、労働者による労働は賃金では計(はか)れない利益をあげるが、それはすべて搾取によって資本家の物となる。労働量による質的変化物は賃金化することはできない。それは誰であろうとあげることしか分配の方法はない。たとえば夢や理想を切り売りできないように…。
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