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世界樹の枝の分岐。
いまあることは良いことも悪いことも分岐の上にその土台の上に成り立っている。
どこから来て、
どこへ行くのか。
いまいる場所はどこなのか。
それは世界樹の分岐たる元枝を見ること。
それがこれから枝が分岐する予感を感じることが出来ます。
幾つもの分岐の上に成り立つ今。
幾つもの分岐をシャッフルした時、また新しい分岐へと今は変わって行きます。
いま、待つ、未来で会いましょう。















2007−1−3 水曜日午後1時4分カキコ。
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ページ内リンク。

戻る、でここに戻ります。


−−−。
世界樹の分岐(まえがき)

ひるがえりの項目

ブレイク

ダークスタイルの項目

ひらめきの圧縮の項目

安定の項目

世界樹の分岐

バランスの分岐

アイディアの分岐

家庭用ゲーム機の分岐   ラス

ゲームソフトの項目   ラス

パソコンの分岐   ラス

メディアの分岐   ラス

アニラジの分岐   ラス

マスメディアの分岐   ラス<

作品ジャンルの分岐   ラス

フィギュア・プラモデルの分岐   ラス

歌の分岐   ラス

RPGの分岐   ラス

アニメの分岐   ラス

お笑いの分岐   ラス<

車の分岐

機器の分岐

経済の分岐

課金の分岐

主義の分岐

政治の分岐

刑罰の分岐

戦争と平和の分岐

仕事の分岐

福祉の分岐

学校の分岐

科学の分岐

常識の分岐

精神の分岐

性格の分岐

人生の分岐

生活の分岐

季節の分岐

鈴鷹さんの分岐

アタクする人たちの分岐

サウンドデュアル  サンデュラス


バランススタンダード

否定の否定の分岐

時間の分岐

場の分岐

本質の分岐

最近チェックしたようなしないようなリンク

思考の分岐

気持ちの分岐







#

















2006−12−4 月曜日午後1時8分カキコ。

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ひるがえり。
水面が波紋する一瞬。
光りの瞬き。
軸線からのずれ。
基本基礎からのずれ。
じょーしきからのずれ。
状況のリアクション。




2006−12−4 月曜日午後8時59分カキコ。
基本基礎からのずれをするためには、基本基礎の技術が出来て初めて出来ること。
時間と空間と量数のバランスを取り続けることによる本質の確立。
2006−12−5 火曜日午後11時59分カキコ。
ひるがえりとは世界樹の実であり、ツリー状の枝の分岐を辿ってひるがえりをとらえるのは技術と感覚であること。
2006−12−6 水曜日午後10時00分カキコ。
ひるがえりとはバランスが取れていること。
四菱のバランサーは秀逸だ。
ということ。
つまりバランス取りということは独楽(こま)のようなものだ。
ロケットにはバランス取るための独楽が入っている。
いまはもっと別のものになってるかも知れないが。
いきおい良くバランスを取ることもあれば、不安定にくらくらしてる時もある。
それがまあ存在というものだろうか。
形の無い時間のひとつの表現でもあるかな。
本質という独楽を回転させることがひるがえりと言える。
歌ならばメロディラインが独楽を回転させる紐であるのだ。
2006−12−16 土曜日午前3時22分カキコ。
ひるがえりとは不思議と思う感性のこと。
不思議に思うことを大切に思う場。
当たり前とか、現実がそうだからということでなく、そういう感覚を守ること。
それが情操教育や自由な雰囲気の職場につながると思います。
まー検索出来るものはまずは検索してみるといいのでは。
検索クセはつけときましょう。
とかなんとかね。
2007−1−14 日曜日午前5時35分カキコ。
ひるがえりとは人が生き生きとした顔を見せる時。
生きているって素晴らしいと思えた時。
今日も頑張った自分と思った時。
風を感じた時。
仕事の後の一杯がうまかった時。
思わず踊り出す時。
上手く歌えた時。
歌がへただった時。
笑顔。
いい歌を聴いた時。
感謝の時。
2007−1−14 日曜日午後8時37分カキコ。
イラストを描くのではなく、ひるがえりを描くこと。
コンテ、ネームを描くのではなく、ひるがえりを描くこと。
文章を書くのではなく、ひるがえりを書くこと。
作品を作るのではなく、ひるがえりを作ること。
番組を構成するのではなく、ひるがえりを構成すること。
人生を生きるのではなく、ひるがえりを生きること。
機器を作るのではなく、ひるがえりを作ること。
歌を歌うのではなく、ひるがえりを歌うこと。
楽器を弾くのではなく、ひるがえりを弾くこと。
ゲームを作るのではなく、ひるがえりを作ること。
2007−1−25 木曜日午後12時49分カキコ。
人が表現するひるがえりはつまらないことが9割。
  面白いひるがえりを表現することはとても珍しいことであり、またそれは仕事になってしまうほどなのである。
これは対になっているにもかかわらず、そのほんの一瞬を表現することはとても難しいと言われている。
この対いがいにも、風景を感じる自然のひるがえりや、ひるがえりの無い静かな時間などがある。
本を読むことはとても静かなひるがえりを自分の歩幅で得ることが出来る。
対となる概念が往復すること。
過去と未来がいま交差すること。
その連鎖。
続く地平。
常にここが出発点。
いまが変わる一瞬。
それがひるがえりである。
そしてあなたに昨日も明日も無い。
いま変われ。
チェンジングナウ。
で、ある。












2006−12−4 月曜日午後11時45分カキコ。

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ブレイク。
サンデュによってバランスが上手く取られて本質が確立すること。
それにより、作品または機械などの技術や経済、政治制度が世界樹の分岐を見ること。
たとえばそれはセラムンが魔法少女とバトル物の組み合わせであること。
それがまあ、オリジナルかは分かりませんが、それをより強く本質の確立させ、分岐を得たこと。
ハイブリッド車など。
プレステ路線、DSWii路線等々。
社会主義市場経済等々。
言葉としては、ブレイクすると言う。
狭義の意味では作品がヒットするなどの意味でも使われる。
これは分岐すれば、その波及効果がでかいため。
弁証法では否定の否定による量の質への転化、または質から量への転化などの言葉になります。
2006−12−7 木曜日午後12時14分カキコ。
また、個人や特定のグループがデビューしたような、その人にとっては大きな人生の分岐、転換点になったこともブレイクと言う。
カキコ。
サンデュというものは、個別から現実をとらえて、ある程度個別がたまったら共通から一気に特殊をとらえる。
それは分岐を作り出す時もおんなじ。
探して来た分岐を個別に作って並べて行って、共通が見えて来たら一気に特殊、つまり本質の確立へと至る。
そしてこれがブレイクであること。
受け手のほうは共通の流れを楽しみますが、作り手にはまずゼロから始めるため、共通がありません。
ですから、個別から地味に作り出します。
2006−12−22 金曜日午後6時16分カキコ。
個別から地味に別個に時間を積み重ねて行きます。
だいたい失敗するのは、一辺に共通となる時間をつかもうとすること。
個別にひとつひとつ地道にちまちまと行きます。
そして一定たまった個別の時間を共通からとらえ、特殊たる結果へと行きます。
これが時間との付き合い方です。
そこまで行けば、積み重ねた分岐は新しい枝へと古い枝を変えてブレイクしています。
時間に近道無し。
あったら通りたいのが道の抜け道。
だけんども。
出来る人や企業や国には当たり前のことでも、出来ないとこでは、凄いということになる。
一言で言うと凄い人だとか、豊かな国ですねえというもの。
それは特別高い技術では無いのだ。
出来るとこは個別に幾重にも幾重にもアイディアや分岐や知識が活かされている。
素人は共通だけ見て、なんて凄いことかと圧倒されてしまうのだ。
けれども玄人は個別から地味に時間をかけて延々と見て行く。
そこが玄人と素人の違いなのだ。
分岐の共通を見てもいいが、基本的には地味に個別を見ていくこと。
それがブレイクスタイルなのだ。
2006−12−24 日曜日午前3時11分カキコ。
個別がそろそろそろったら共通でがばっと特殊に行く。
この個別をそろえるとこが地道にとか積み重ねるというとこなのだ。
2006−12−25 月曜日午後4時36分カキコ。
ぶっちゃけ世界樹の枝の発展系でないと上手くいかない。
というとなんだか味気無いでしょうか。
それが基本ということ。
そこからずれるにしても、基本基礎というものはあります。




古きブレイクを得て古きブレイクから新しきブレイクへ。













2006−12−6 水曜日午後12時10分カキコ。

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ダークスタイル。
あらゆる要素を入れてサンデュすること。
ようは闇鍋。
通称闇鍋スタイル。
その中で、いいものをバランスを取り続けること。
たとえば歌であれば、フォークとポップスと演歌と歌謡曲とロック系とラップ系にと、とにかく聞いたものをすべて入れる。
その中でいいものだけを強調するひとつの方法。
作品ではギャグとシリアスと魔法少女とバトル物とスポーツとロボット物と美少女ものと恋愛ものと怪獣にヒーロー等々。
RPGにシミュレーションにアクションにシューティングにパズルに その闇の中でひらめく方向を見つけること。
斬新なスタイルを発見する一方、洗練されるとこれしかない一品になってしまい、そこからまたひとつひとつのジャンルへと戻すことになる。
これはまあ量から質へと至ったものが、質から量へとまた転化すること。
最近のメジャーな歌はこういったスタイルを取ることが多いと言える。
もちろんそれほどはヒットしなくても、アニソンとかコミックソングにも需要はあります。









2006−12−6 水曜日午後12時10分カキコ。
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ひるがえりのコンボ。
ひるがえりを連ねて行って、どれだけつなげるかで、螺旋上昇する度合いとなります。
これはひとつひとつの基本基礎が出来て、さらにそのひるがえりが表現出来て、それを連ねるので、かなり高度なものとなります。
サウンドデュアル、簡易弁証法では面(つら)練りはみっつでおっけい。










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ひらめきの圧縮。
テレビゲームなどは容量が入らないために、かなりデータを圧縮して入れる。
さて、これはひらめきにもあることなのだ。
その時間内にどれだけ幾重にも何面にも幾何学的にもひるがえりを織り込めるか。
それがヒットするかどうか。
いいものになるかどうかの鍵と言っていい。
たとえばいい歌にはこの短い曲の中にひるがえりがこれでもかと入っている。
どれだけ作品とか番組とか経済とか政治とか芸術とか商売とか運動とか機器とか生活とかは、この個別の分岐をどれだけ入れて積み重ねの固定化から、共通の場から変化させる柔軟性が確立した時に、それは良いものと成るのである。
ひるがえりは積み重ねた量を質へと変えることも、質を量へと変えることも出決る。
そしてひるがえりは場を作り出す。
2006−11−28 火曜日午後10時42分カキコ。
時間と空間と質量のバランスがサウンドデュアルであり、ひるがえりであること。
技術とひるがえりを普段は修練しておきます。
練習では巧さの技術よりもバランス取りよりもひるがえりを重視します。
もちろん技術を地味に覚えることもふつーにあります。
それぞれ技術とひるがえりを練習して、そしてバランスへと行きます。
螺旋上昇の中で、おんなじ場の過去を拾い、未来の場へと投げる。
すると未来からいまに戻って来る。
これが否定の否定、ひるがえりのひとつとなります。
出来るだけたくさんの分岐を深くから取り、なるべく遠くの未来へと投げる。
これがひるがえりとなります。
時間の流れというものは言うことは出来ない本質であり、まあこれはたとえ話です。
ひるがえりとは時間をどう感じてどうそれをひるがえらせるかということ。
時間をどうとらえたか、どう空間描画したか。
表現とは表出とは時間をどういう角度でとらえたかの結果。
そのバリエーション。
時間は常に進んでいて、とらえた時間は直ぐにそれは過去になること。
なので、ある程度は長いスパンにとらえた長い表出、表現がある程度時代を超えて残ること。
個別で言えば、あらゆる表出は時間の一面であること。













2006−12−7 木曜日午後12時16分カキコ。

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安定の分岐。
お笑いでは芸人とかのありがちな誰でもそうそうと思うコントが安定性があります。
時事ネタだとびみょ〜というかマニアックになって行きます。
だって知らないと分からないし、人によってとらえかたも違うため。
ドラマでは家庭を舞台にしたファミリーもの。
とゆーか日常のノリかな。
アクションと恋愛ものも比較的安定して楽しめる。
それは最近の作品作りがそういうものに比重を占めているのもあります。
けれどもまー基本的に安定して楽しめるのは日常を題材にしたものです。
歌ではバラードのような静かなメロディライン。
絵ならば簡素なもの。
テレビゲームでは操作性のいいものが安定性があって安心して楽しめます。
会話では話を聞いてあげること。
新聞やニュースは時事ごと。
経済では労働と賃金の交換。
機器やソフトならば安定した動作。
乗り物は安全性。
生活では三食バランス良く取って、夜にぐっすりと眠ること。
人生では衣食住医療福祉など。
等々。


別にだからどうだということでもないのですが、これはまあ基本のひとつとゆーことで。
これが丹念に出来て初めてそこからずれることでひるがえりが生まれます。
基本基礎となるものは、シンプルイズベスト。
ひとつだけ選ぶならばこれというものです。
そこから始まるということを知っていること。
乗り物の安全性はずれたら危ないだろうという話ですが、たとえばカーレースなどはある面危険と隣り合わせです。
ずれを感覚すること。
それが自分のバランス感覚を確立する始まりでもあります。
感性を磨けと言う時、この基本基礎とそのずれ具合のことを一般的には言います。
生活においては三食バランス良くとか、夜はぐっすりと眠るなど、まあありますが、なかなかこれは出来ないことが多い。
これは言葉では説明するのが難しいことであり、また個性によってばらつきもあります。
この科学的な時間割の生活を誰もがしないといけないというのも変な話です。
まあ共通する面とでも言いますか。
それはそれとしてケスバイケスでね、よろしくー。
2006−12−7 木曜日午後10時24分カキコ。
ドラマでは日常を題材にした、人と人とのドラマが見たい。
これがもっともな欲求なのだ。
テレビゲームならばスーパーマリオとかインベーダーとかテトリスのようにすぐに動きにつながるものが求められている。
ドラマでは平行線な人と人。
それはどちらもだめな人だろうけれども、頑張っているには違いないということ。
ノリノリの日常でもいい。
もちろんヒューマンドラマだけでなく、アクション大作だって見たい、ほんわかアニメだって見たいだろう。
けれどもその基本となるものがなければ、ずれということも無いということ。
ここをまずは抑えたいという話なのだ。
この基本基礎技術に裏打ちされたずれが本質という独楽を回転させる紐となる。
そして、独楽は螺旋上昇を始める。
アニメーションではその動きが独楽を回転させる紐となる。
もちろん演技も音楽もそれぞれにある。
2006−12−10 日曜日午前3時57分カキコ。
車は日常はのろく走ったほうが、カーレースでは速く走ったほうが安定性があること。
鈴鷹さんは作品や哲学書き出しているほうが安定していること。
鈴鷹さんを視聴している人は鈴鷹さんに言われたことをしてるほうが安定していること。
軍隊は戦争してるほうが安定性があること。
ならぱ軍隊は平和な時は不安定かと言うと、それはそうです。
戦うために整備されているわけですから、平和な時には無用の長物なわけです。
そもそも安定性というものは、真に自由で自在な時間のその流れに上手くサーフィンするようなものなのです。
だもんで、ネットすることをネットサーフィンなどと言ったりしました。
直訳すると網波乗りでしょうか。
いまある時間にどうバランス取り続けることによる本質の確立をするか。
それが現実なのかも知れません。
タイムサーフィンとでも言ったら変な感じかな。
2006−12−10 日曜日午後9時25分カキコ。
アタクしてる人はアタクしてる時が安定しています。
まあ、痛み系だけでなく、アタクにはいろいろありますから。
楽しいアタクもあるでしょうよ。
個別と共通の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が特殊であること。
たとえば集中力というものは、個別と共通の両立が出来た結果であり、それは狙って出来るものでもないものです。
それはひとつの結果に過ぎないのです。
もちろんヒット作も本質の確立であり、狙って出来るものでもありません。
いやまー作る前にヒット作つくるでーと言ってもいいけれども、まー厳密に科学的には、なのかな。
たとえば鈴鷹さんと会わないことで成立している本質があり、そのバランスを取り続けているいま。
そしてそれとは別にあるようだけれども、会うという本質を確立させたいがバランスを取れなかったいま。
私の人生こんなはずではなかった〜という場合は、人生の分岐を幾重にも得ている場面。
まずはどんな分岐が自分にあったのか、ある程度距離を取ってバランスを取りながらもう一度見直すことが出来るといいと思います。 2006−12−11 月曜日午後1時9分カキコ。
ネットにおいては、自分の意見を率直に書いたほうが安定すること。
それは誹謗中傷と紙一重ですが、言わないよりは言ったほうが安定すること。
かな。
いやまー口の悪いのは生来ですよ。
フォローもいい、そしてひるがえりもね。
2006−12−25 月曜日午前1時29分カキコ。
癒し旋。
癒しの本質たる独楽を回転させること。
もちろん人に癒されることもありますが、一人で癒しの場というか、時を持てることも自立と言えるかも知れません。
















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2006−12−19 火曜日午前2時35分カキコ。
世界樹の分岐。
仕事や生活の質や量、場などを作ることは世界樹の発展系であること。
発展系とは正確には古き分岐の個別と共通の両立のバランスを取り続けることの本質確立した特殊であること。
個別と共通をサンデュすればまったく新しいように見える特殊も物理的には世界樹の枝先であることが分かる。
作業時間を早くすることも世界樹の枝先であること。
ひるがえりも世界樹の古き分岐を感じ取ることで得ること。
世界樹の枝の古き分岐を得て、新しい枝先に新たな分岐という実を付けること。










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2006−12−21 木曜日午前1時37分カキコ。
バランスの分岐。




アンバランスというものはバランスが取れていて初めて表現出来ること。
そのずれ。
独楽が回転していて、それが安定する様。
またアンバランスは独楽がふらふらして不安定な様。
いま現在進行形の時間をうまくとらえることが出来ること。
その人の個性や生い立ちを理解出来ること。
これは国や文化、機器系統などもそう。
世界樹をとらえる感性。
2007−1−11 木曜日午後8時45分カキコ。
そしてそれは無くすことが目的ではない。
限りなく無害にすることが目的なのだ。





均衡




いつでもどこでもいまでもいいものはいい。
だからそれも時間があればだいじょうぶである。

古きバランスを得て古きバランスから新しきバランスへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
バランスをひるがえらせるバランス。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。










2007−1−6 土曜日午前1時25分カキコ。
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アイディアの分岐。


アイデアとはなにか。
それは場の面から見れば、人がアイデアを出せる雰囲気とでも言うだろうか。
まずは駄目出しするにしても、まずは聞いてくれるような感じ。
それが場のアイデア(共通)。
古い分岐というか、昔の歌とかが、あ、これは新しいと思う感性(新性)。
パラムグラム(多彩虹光色彩)という既存の工夫の組み合わせ(集合)。
その積み重ね(蓄積)。
理念の想像はひとつのイデアです
(普遍)。
夢(一般)。
常識が練習にも似たそのつまらない繰り返しであるがそのじょーしきにとらわれない奇抜さ(特殊)。
ひとつひとつの共通(個別)。
多様性(唯一)。




アイディアの分岐。


イデア(普遍)、場のアイデア(共通)、夢(一般)。

奇抜さ(特殊)、組み合わせ(集合)、新鮮さ(新性)。

一の共通(個別)、積み重ね(蓄積)、多様性(唯一)。




2007−1−7 日曜日午後8時33分カキコ。
まずはアイディア出し。
それから優先順位を出して、締め切りに入るものだけ入れて行って、入らないものは次にまわす。




アイデア アイデア




いつでもどこでもいいものはいい。
だからそれも時間があればだいじょうぶである。

古きアイディアを得て古きアイディアから新しきアイディアへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
アイディアをひるがえらせるアイディア。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。










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家庭用ゲーム機の分岐。


プレステ路線。
ネットへの接続。
前の世代のソフトが使えること。
他メディアとの提携(音楽を聴く、DVDやBDなど)。
空間描画能力(プレステ3)。
ビジュアルとゲーム性の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。


プレステ3では空間取りのコントローラーも付属して、DSWii路線も継承しています。
また円盤を基本として使うのは据え置き型は共通。
追加機能としてメモリーカセットを使うというものもあります。
正確にはこの前にドリキャス路線やPC−FX路線などがあります。
PC−FXのアニメーションの描画能力というものとドリキャスのネット接続などはプレステ路線DSWii路線に引き継がれています。
Xbox路線というものはプレステ路線とおんなじであり、また最近はパソコンとの連動を歌っています。
ゲームボーイ路線というものは携帯機であるという意味で考えています。
この派生系としては、携帯電話もゲームボーイ路線を継承しています。
ヴァーチャルボーイ路線というものは、3Dでゲームをするというもので、これはこれでいま練っています。
プレステ路線と言った場合、大まかにはPSPも含まれています。
2006−12−1 金曜日午後8時50分カキコ。
いま持ってるのはプレステ2のみ(2006−12−1 金曜日午後8時40分)。
まーパソコンは持ってるけども。
パソコン無くてネット構築した鈴鷹さんとはいえ、それぞれのゲーム機とかなんか送ったり、渡したり出来ないもんか。
いやまーくれと言いに言ったらもらえるのかも知れないが。
金は足で稼ぐ。
頭脳労働はその質を高めるためにある。
営業様々だな。
うんうん。
いやまあ私も掃除のバイトで毎日駆けております。
ソフトではスーチーパイの恋愛ゲームをプレイ。
これを企画した時のことを思い出す。
懐かしいなあ。
いまやっとプレイ出来る。
マクロスVF−Xも。
確かマクロス7の頃で企画参加。
なかなか変わった操作感覚。
指が疲れるなー。
3ミッションのとこでくじける。
いまは300円で中古入手のフロントミッションセカンドをプレイ中。
外国の方は缶ジュース一本日本では100円〜120円程度とお考え下さい。
2ミッションで早くも途中挫折しそう。
一作目は途中挫折した。
なにかフロントはオンラインもあるらしいなあ。
オンラインゲームてしたことないなあ。
フロントミッションも企画したんだよなあ。
まーそこそこ行こうな。
かなあ。





いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれも時間があればだいじょうぶである。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
プレステをひるがえらせるプレステ。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。






DSWii路線。
空間描画能力。
おもちゃ屋等の台に接続すればゲームネットに無料で接続可能。




この路線のコンセプトは画面からずれること。
それまでのファミコン路線にしろゲームボーイ路線にしろひとつの画面を基本基礎として確立したゲーム性であること。
ここからずれること。
その一例として、液晶ふたつだったゲーム&ウオッチ(ドンキーコング・マルチスクリーン)があげられる。
これは画面移動が秀逸であったが、これもゲームボーイには受け継がれなかった分岐のひとつ。
パソコンゲーム
ゲーム&ウオッチ
携帯ゲーム機
アタリ
Odyssey
コンシューマーゲーム






DSWii路線。
ファミコン路線とでも言うものがあれば、それはなんだっただろうか。
当初のゲームソフトの内容は、縦に移動するとか、横に移動するスクロールアクションが大半であった。
大ヒットしたドンキーコングやインベーダーなどは一画面であり、スクロールすらしない。
パソコンゲームではウィザードリィが画面の移動に3D移動でウルティマが一画面でなくスクロールする移動(元祖はさらに幾つかあるのかな(?))であったりした。
ローグはダンジョンが毎回変化するという斬新さ。
まさにあるぴじいの原点はここに帰依(きえ)すると言っていい。
この亜流をというか、派生した枝先をいま作っていると言っていい。
当初のファミコンはこれらのパソコンゲームやゲーセンにあるアーケードゲームも移植されて来る、すごいものだった。
ファミリーコンピューター
音声入力がツーコンのほうにあって、それに声を出すとゲーム画面に変化があるということにはずいぶんひるがえりを感じたものだ。
ここはスーファミ以降には継承されなかったので、DSにはサウンドデュアルしてあります。
プレステ路線は高機能、他メディアとのサンデュ、ネットへの接続でしたが、これはXbox路線にも、DSWii路線にも多少受け継がれています。
2006−11−30 木曜日午後8時50分カキコ。
そして、猿が投げた骨はなにに変わっただろうか。
2006−12−3 日曜日午前1時19分カキコ。
2001年前後。
この時私は家庭ゲーム機ではプレステしか持っていなかったと思う。
パソコンはあったが、オンラインゲームなどいまだにまだ未プレイである。
だもんで、ビデオゲームなどはほとんど大作あるぴじいしかしなくなっていた。
いやもうそれさえも途中挫折する始末。
えふえふの7とか8とかね。
いやまーソフト無くしただけなのだが。
もうゲームはしないかなあとか。
けれどもそれは私だけのことだろうか。
友人も世の中も、そんなにがっつりゲームしてるかと言うとそうでもなさそうな感じがした。
なぜか。
それはプレステ路線やニンテンドー64路線というものが、ゲームを楽しみたい人たちをないがしろにしてるように思えた。
ではどうするか。
その前のファミコン路線にまずは原点回帰で戻って考えて見た。
その時のゲームというものは、まずリアクションものなのだ。
なにかが動いていて、それに対して押したボタンがすぐに動きにつながる。
その連携の楽しさ。
打てば響くものがあった。
だから毎日のように夢中になって遊んだ。
けれども良くも悪くも2000年前後のゲームというものは、なにか人のサガを見せて、悩む姿を見せてうんうんうんというものばかりで、これは楽しめない。
これはフォーマットから作り直さないといけないとは思っていた。
DSのソフトはあっさりし過ぎていて、マニアには物足りないと言われる。
けれども、比較対比出来るあっさりしたシンプルなゲームが当時はなかったとゆーか弱かった。
本来はそこがゲームの原点であるはずなのに。
プレステも故障してしまって、プレステ2を買うのは2002年か2003年になるので、かなり機器を持たない中でのDSWii路線やプレステ(3、PSP)路線とXbox360路線の構築になります。
古いの一言でなにか技術が向上すればそれで良いということも無い。
高い技術と広いひるがえりの両立がバランスを取り続けた時に確立する本質。
そんなゲームがしたいんだ。
DSWii路線は高いCPUは積んでないかも知れないが、ある意味空間描画能力としては最新の高機能かも知れない。
カキコ。
DSが発売から一年経つというのに、品不足。
これは何故なのか。
ここまで来るとムーブメントというよりもなにかの分岐を見ている。
いわゆるブレイクというものだ。
そもそもDSWii路線とはなんだったのか。
それはタッチディスプレイとか、空間をとらえるリモコンの採用。
いえいえ、それは技術に過ぎない。
それを使ってゲームソフトをする。
それもそう。
けれどももうひとつ姿としては、ホームコンピュータという姿がある。
まあつまりはパソコン。
そもそもゲーム機というものはファミコンの頃からインテル積んでるのだ。
別に最初から中身はパソコンである。
ハードの印税のようなものが供給会社には入るので、本体は安く販売して、ゲーム機市場は広がって来た経緯がある。
独特の販売方式に加えて、ゲーム機の本体はパソコンであること。
ならばパソコンとして使えるようにしてしまったらどうか、というのがDSWii路線だった。
これは別にDSWii路線からではなく、ファミコンの時にキーボードが発売されている。
けれどもその内容をフロッピーなどの外部メディアに移すことは出来なかった。
ファミコンのディスクシステムなどはフロッピー付いてたけども、記録出来たのはゲームソフトがまだまだ多かった。
いやまあ当時はフロッピーはまだ始まったばかりで珍しかった。
日本ではだから、パソコンと並ぶくらいゲーム機が販売されていて、その内容はパソコンなのだ。
さて、パソコンの定義とはなんだろうか。
計算機の発展系(?)。
0と1のワルツ(?)。
いやいや、一般的な答えは違う。
一般の人が考えるパソコンとは、ソフトが使えて、ネットにつながり、メールが出来て、ブログに動画や写真などのコンテンツが使えること。
プレステ3とXbox360とDSWii路線はブログやホムペこそ作れないが、いやまーそれくらい作れないこともないが、ようはそれは簡易的にパソコンの機能が使えることなのだ。
それもネットはゲームネットという限られたものであり、またウィルスにヒットしにくいという特性もある。
たいした自作とか組み立ても出来ないものにパソコンとは馬鹿らしく思うかも知れないが、誰もが馬鹿でかいパソコンを使いたいとは思わないのだ。
実際、ノートが手軽でいいと使う人も多い。
ぶっちゃけ、ライトユーザーにはメールが出来て、ネットサーフィンが出来て、そこそこ使えるだけでもいいのだ。
そういった意味では、手軽なパソコンとしての意味もありなのではないだろうか。
2006−12−19 火曜日午前12時23分カキコ。
私はゲーム機のコントローラーとかにも参加していて、ミニスティックをプレステに付けたのもそうかな。
それと、手元でくるっと回すレーシング用のとか。
けれどもDSWii路線では、DSはまータッチパネルの採用ですが、Wiiのリモコンは、これは足で踏むタイプのコントローラーがあったんです。
それはシートに丸い点が幾つかあるものでした。
その点のとこに当たり判定というか、ボタンになってるんですね。
これは凄いいいなあと思っていたのですが、いまいちそれはヒットしませんでした。
それはひとつにはテレビ画面を見ながらそして足下にも意識を向けるというか、足の位置を確かめるために下を見たりすることがあり、いまいちゲームに集中出来ない。
そこがネックだと思いました。
ふつーのゲーム機のコントローラーで手元ってあまり見ないものです。
なので、Wiiリモコンでは手元を見るのではなく、空間そのものを感じてとらえるようにしました。
2006−12−25 月曜日午後3時29分カキコ。
DSWii路線とは。
それはタッチペンとWiiリモコン。
これはパソコンにあるマウスの発展系としてあること。
元々マウスというものは空間描画能力であること。
これはマックに採用されたインターフェースですが、いまだにこれを越えるものは無いと言っていい一品。
私もマウスにはスリーボタンの真ん中の回転式ホイールにブラウザー移動の構成で参加したりしました。
スリーボタンマウスは前からあったのですが、まだ2ボタンが一般的な時でした。
マウスを携帯機に取り入れるならばタッチペンであり、据え置きゲーム機ならば、ジャイロの独楽を入れたリモコン形式だと思ったり。
そこいらへんの構築であること。
携帯機にタッチペンというのは前からあったかも知れません。
タッチペンとジャイロリモコンはマウスの発展系であること。
これはマウスのブレイクと言えます。
まーだからと言って、パソコン画面でジャイロリモコンしょうとは思いませんが。
2006−12−26 火曜日午後4時49分カキコ。
DSとはダブルスクリーンの略であること。
ダブルスクリーンとはなにか。
これは新聞雑誌とか本は実は見開きと呼ばれるダブルスクリーンであること。
そんなの当たり前じゃないかという話ですが、これが本とか新聞雑誌を強力にサポートしている技術であること。
それを液晶で再現すること。
それがダブルスクリーンという概念と言えます。
漫画とかではページを開くと二面が提示される。
見開きの大ゴマとか言われます。
これが表現としては強味であること。
また、そんなアナログさに慣れ親しんでいるそのひるがえりを液晶というデジタルに取り入れること。
2006−12−26 火曜日午後6時9分カキコ。
Wiiリモコンというスタイルは、ジャイロリモコン。
またはジャイロコントローラー、ジャイコンとでも言ったほうがいいかな。
それまでの身体の動きをとらえるものは、なにかばかでかい装置が必要で、とても個人負担出来るものではなかった。
こういったジャイコンというスタイルは、ちょっと足や手に付けたもので空間描画能力を発揮出来る。
それでいて、手元を見る必要が無い。
そんな感じだろうか。
2006−12−29 金曜日午前2時43分カキコ。
そもそもは、リモコンにメモリー組み込んだり、ミニジョイパッドを入れてみたりしていた。
いまのツーミニジョイパッドの構築はプレステから。
これはいまでもスタンダードとして使われています。
ジョイスティックは格ゲーを家庭用機でプレイするために出ていましたが、最初はそれだけで3万円とかしました。
それがいまはミニジョイスティック二個付いて二千円程度で買えますから、ずいぶん安くなったものです。
2007年3月21日水曜日午後3時20分カキコ。
DSWii路線ヒットに沸き立つ場面もあるが、結構失敗してる(?)路線も多い。
たとえば、リアクションゲームからビジュアルゲームへの路線では、コアなファンには圧倒的な支持を得るが、広い意味で、一般ユーザーが遠のき、いまではリアクションゲームとビジュアルゲーム路線の両立並列路線に変わっている。
また、ゲームキューブをソニーと共同のDVD円盤機として開発していたが、ロムカセットもいいものだと言うクリエイターやゲーム関係者も多くいて、ではソニーはプレステは円盤機路線として、ゲームキューブはロムカセット路線として企画構築するが、ゲームキューブ路線(ロムカセットのみの路線)は商業的には大失敗となっていく。
この時の分析は円盤機はビジュアルゲーム路線がヒットしていて、ロムカセットゲーム機ではリアクションゲームがヒットしていること。
この時リアクションゲームからビジュアルゲーム路線への方向性を示す。
いまはこれは改めています。
DSWii路線はビジュアルゲーム路線からリアクションゲーム路線へ戻したように見えますが、いまは両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立たる第3の路線を提示しているとこです。
これはもちろんPS路線Xbox路線でもそうです。
時間と空間の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が宇宙(ひるがえり)であること。
ゲーム機とて、宇宙を作り出すことに違いはないこと。




マウス(コンピュータ)




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれも時間があればだいじょうぶである。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
DSWiiをひるがえらせるDSWii。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












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ゲームソフト。
良い物にするには、100万本越えするソフトにするには、たとえばテトリスのような画期的なゲームプログラミングを入れればいい。
分岐を得ること。
それがひるがえりであり、それだけで金字塔は越える。
もちろんそれは一例であり、基本としては従来の技術にひるがえりでバランス取りではある。
−−−
締め切り前でもなければ、仕事の時間の三分の一とかは自由に使える時間として認めること。
これはまあ開発系の仕事にはなるべくということかな。
自分なりの技術がそれはまた力になること。
−−−
脳トレ系はファミコン黎明期に算数ゲームがあった。
これを発展させた。
Wiiのリモコンはガンタイプの光線銃のゲームがあった。
これを発展させた。
2006−12−8 金曜日午前1時4分カキコ。
テトリスクラスのプログラミングがあれば100万本、金字塔一本行きます。
2007−1−3 水曜日午前12時52分カキコ。
一生懸命機器関係を普及させてみると、漢字を書かなくなったという意見が目立っていた。
ならば、タッチペンで書くのがいーでしょうという話。
アイディアとしてはありましたが、なかなか採用はされなかった。
ので、これはもーゲーム機に割り振ってみようと思い。
これは大ヒットになったのは、記憶に新しいとこです。
英語とて、これは同じことなのかも知れません。
英語でものーとれ。
かな。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
ゲームをひるがえらせるゲーム。
千の言葉よりもひとつのプログラミング。















2006−12−4 月曜日午後1時8分カキコ。
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漫画の分岐。




1ページ1コマに一作品ほどのひるがえりを入れること。
2007年5月5日土曜日午後4時36分カキコ。
一日1コマ描くこと。
それが出来て始めて早く描くことも出来る。
これは小説でもそう。
一日一行書くこと。
それが出来て始めて早く書くことも出来る。
アニメでも一日一枚上げること。
そこから速度に持って行くこと。
それが基本基礎であること。
ラジオのパーソナリティであれば、一言が言えること。
その程度では仕事にならないよと言うなかれ。
このひとつの構成要素がすべてを構成するのだ。
このはじめのひとつが出来るかどうか。
これによって自在に自分で質も量も左右出来るようになるのだ。
一辺に壮大(?)でかいことしょうとしても出来るはずがない。
それは誰でもそうなのだ。
実に地味な作業の積み重ね。
それでいながら、時にひっくりかえるようなこと。
それが柔軟性。
ではないかな。
時に時間を取ってゆっくりと過ごすことが柔軟性であること。
柔軟性を養うということ。
まあ仕事上あまり休めないこともあるだろうが。
そこそこになんとかなるかなあというとこ。
いやまあそんな上司には誰も着いて来ないか。
ぜってーなんとかなるに違いない。
それも嘘ぽいなあ。
まあそこそこ。
とかね。










奇想天外。
いきあたりばったりな。
なんとかなるな。
そうなるな。
そこそこな。
てきとうな。









漫画の分岐ラス。




時が過ぎて行く景色。巡る季節。時間をかけて考えよう。

そこそこやろう何事も。とかね。

最大の敵は自分。背負い過ぎてる自分。脱力と気合いの波にたゆたう時も。

仕事と生活に時間を使う。家族と自分の気持ちを整えるために時間を使うこと。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き作品を読んで見て聞いて古き作品から新しき作品へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
作品をひるがえらせる作品。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













−*/−/−*/−*/−*/−*/−*/−*/−*/−/−


アイポッドウォークマン路線。


パソコンを編集機として使うこと。
ネット配信による音楽ダウンロード。
MP3形式などの圧縮と解凍のデータ形式。


アイポッドの名称はその前の湯沸かし器から来てるかな(?)。
こちらはなにを元にしたものだったか(?)。
アイコットから来てるのかも知れない。
MP3のような圧縮データ配信は音質の良い固定CDの権益を守り、またデータにおける圧縮技術になにかひるがえりがあるからだと考えました。
アイポッドのほうが先になりましたが、元々はウォークマン路線を発展させたものです。
これはある程度の規模になってる企業は保守派であり、新派という新風が必要という判断なのかも知れません。
これにはプレステが次世代機の中で、ニンテンドウ64と対峙した時にもありました。




アイポッド
ウォークマン




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き漫画を得て古き漫画から新しき漫画へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
アイポッドウォークマンをひるがえらせるアイポッドウォークマン。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。










ウィンドウズとマックとリナックスとパソコン。













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パソコンの分岐。


大型コンピュータという黎明期。
マイコン。コンパクトなパソコンの登場。
ソフトを入れ替えることでパソコン本体を買い換えないですむシステムの導入。
キーボードとマウスディスプレイの設置。
OSの導入。
ネットワーク構築。
順不同。
2007−1−5 金曜日午前12時7分カキコ。
パソコンを越えるパソコン。
パソコンを否定の否定すること。
それはネット構築であること。
一台のパソコンには限界があっても、並列することによって、社内LANやネットでのパソコンの力は飛躍的に広がりを見せること。
当時はパソコンの能力が比較して低くて、回線も電話線のみ。
光コードなんてなかった。
いやあったけども、設置されてなかったから。
電話代もネットサーフィンの時間だけとられた。
なので、かなり短い時間のあいだにデータをダウンロードすることを前提とした。







パソコン
コンピュータ(歴代)
コンピュータポータル
Altair 8800
タケル
コンピュータ用語一覧




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
パソコンをひるがえらせるパソコン。
ネットをひるがえらせるネット(Web2.0)。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。




ウィンドウズへの参加は95からです。
まーそもそもネットへの参加が95からであり、これがまさに最初のウィンドウズへの参加でもありました。
パソコンがうちに来たのも95が入ったマシンで、そのちょい前に古いパソコンも貰いましたが、こちらは95の入った当時のメーカー製が来たことで使わないで廃棄してしまいました。
いま考えてももったいものですが、なにせでかいディスプレイだったので、置いておくのもたいへんだったのです。
いまでこそ液晶が出回っているパソコンですが、当時はブラウン管のでかいのが主流で、持って歩くことなど不可能なでかさでした。
これはテレビは液晶とかの薄いタイプへひるがえるべきという路線によります。
パソコンは中学の時にパソコンに学校で触れた以外は、きつねうどんさんとこで見せてもらったりしていました。
私は高校時代からお古のワープロ機をもらい、これで小説とか作品の設定などを書いていました。
それで絵を描く時間が減ってそれからだらだら文章を書くことも多くなりました。
それからずっとワープロで、それにはハードディスクというものはなかったので、フロッピーディスクに記憶してはまた書くという地味〜な作業の繰り返しでした。
まだ当時はパソコンは30万とかする時代。
ワープロは6万くらいでした。
きつねうどんさんとこでパソコンソフトの同級生(18禁)をちょこっとプレイしたり、ネット前の個人運営の掲示板を読んだりして、これは時代はネットが来るなーとか思っていました。
セラムン(魔法少女もののひるがえり)が放送が始まり、それを横目で見ながらネットの構想に入っていました。
当時は通信カラオケとかうまく行って手応え十分とか思って、パソコンを越えるパソコン。
パソコンをひるがえらせると言ってネット構築に入っていました。
ネット構築の時にはパソコン持ってなかったよ私。
いやまーたとえばDSWiiなんて誰も持ってないもの作るのに、なにを持っていても意味ないけども。
大学作った人は大学行ってないという話し。
ひるがえりは地味〜な作業の積み重ねで、昔の枝の分岐を調べてはそれをサンデュ、組み合わせて新しい分岐にすることでした。
201?−11−19 月曜日午後7時46分カキコ。
OSの入ってるCドライブにプログラム入れていくと相性(?)の問題でパソコンの調子が悪くなります。
USBメモリーや内付けまたは外付けのハードディスクにデータは入れておくだけでだいじょうぶ。
OS入れなおすと直りますが、時間がかかるのと、Cドライブのデータを移す必要があるので面倒です。
パーティション切るだけでもいいのならば、OSの認識の問題なのかも知れません。
OS入れなおしは長いこと使ってるとたまにすることがあるので、データはCドライブには入れないほうがいいでしょう。
いやまあUSBメモリーは便利だけれども、失くしたら困るよねえという話。
とかね。
またメモリーがいっぱいになってパソコンの調子が悪くなることがあるので、たまには電源入れなおしましょう。
ネットの動画サイトで動画視聴などしてると動作が遅くなりますが、これは電源入れなおせば直ります。
ネットではなく、テレビパソコンでテレビ見てる分には関係ありません。










パソコンの分岐ラス。



いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きパソコンを得て古きパソコンから新しきパソコンへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
ウィンドウズマックをひるがえらせるウィンドウズマック。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。




機器のパソコン化というスタイルを作り、カメラやビデオデッキなどをパソコン化する。
アナログからデジタルへというのが10代後半の時に作ったテーマだった。
それが機器のパソコン化とかになっていく。
CD−Rの規格は前からあったので、それを発展させてDVD規格を構成。
このネーミングも作った。
DVDのDとかVはどういう内容の言葉なのかはまかせている。
ので、いくつか読み方が出る。

商用ネット構築。
ネット前夜
別段ケータイを一般化する普及に一役買っただけで、ケータイ自身は前からあった。
いまのネットの前にも大学間ネットというものがあった。
商業ネットの話しもあったが、まだ実現はされてなかった。
私が聞いた限りでは大学間ネットというのは少数の大学のあいだを電話回線でつないで、データ移動するというものだった。
そのためにはプログラミングが出来ないといけなかったようだ。
いわゆる簡易にネットが出来るブラウザーソフトというものがなかった。
ネット前にはあたりまえだがファックスというものはあった。
絵とか手書き文字をデータとして電話回線で送る。
一見するとあたりまえのような話しだが、私にはずいぶん不思議なものに感じられた。
ファックスで漫画の原稿も送れるのではと言ったら、解像度が低いのでそれは無理とのことであった。
それはそうか。
してみた漫画もあったようだが。
シンプルな絵では原稿をファックスで送ることもあったようだが、やはりネットほどの解像度を実現出来てはいなかった。
それだけの需要もなかった。
ファックスは設置するのもなかなか難しく、人を選ぶ機械だった。
機種によっては電話線をつなぐだけというものもあったが、やはり難しいイメージがあった。
95年代前のパソコンには自分の家の個人サーバに掲示板を作ってパソコンを使ってこの個人サーバに電話回線からアクセスすることが出来た。文字がメインとはいえデジタル文字データを送ることが出来るのはなかなかすごいなと思った。
この当時の個人サーバというのはみんなからの電話を受け入れて、自分とこのパソコンにみんなから送られた文字を掲示板として置いて置く。もちろん自分のパソコンに電源入れっぱなしで、電気も食う。電話線も使う。課金は無し。無料である。パソコンはとても性能が低く、まさにボランティアがなしたものであった。
フロッピーディスクからデータをパソコンに移動するインストールというものはあった。データをインストールすること。それを電話回線で出来ればネットはぐっと力強いものになる。その前哨戦としてのサスケは惨敗ではあった。サスケの場合、店頭で課金するために、店頭まで歩いて行くので、ダウンロードサービスとしては限定的なものであった。
カラオケボックスへの電話回線でのデータ移動は商業的に成功となる。ダウンロードの明確な目的が分かる。サスケの場合、ゲームソフトのダウンロードとはいえ、まだ電話回線がふつーの速度であり、フロッピーディスクに入れたゲームデータはたいした内容ではなかった。
ちなみにダウンロード(下り道)の逆はアップロード(登り道)であるが、インストールの逆はアウトストールとは言わずに、データ移動と言うのかな。えーとアップデータと言う。と。これに対して、んじゃその逆はダウンデータだと。データのとこをロードにして、ダウンロードとアップロードという話し。 ポケベルというものもあった。公衆電話などで数字を打って、それを送るとポケベルには文字として出るというものである。ケータイでメールを打つということはポケベルを元にしている。ポケベルの場合打っている文字は相手が受け取るまで分からなかった。だから誤字があっても分からない。画面がなく、見えない文字を心に描いて打つのはまさに名人芸の域であった。
0990。なんの番号かと言えば、当時はこの番号プラス8ケタの電話番号にかけると有料電話サービスが受けれた。電話代にプラス課金される制度である。歌や演劇の案内やえっちな声を聞くことが出来るというものまであった。このえっちな声を聞くのに熱中して月何十万もかかってしまう人がいて、ちょっとした社会問題になっていた。確か私も構成に参加して声優さんの声が有料で聞けるとかやったかな? これは後にネット回線に電話回線料金プラスネット料金を課金するモデルとなる。
0990有料サービス、ポケベル、ファックス、データ転送、大学間ネット、個人のパソコンをサーバにしている等々。これらをサンデュ(組み合わせ)してネットというものの構想は書き出されて行く。








ホームページの分岐(ホムペの分岐)とメールの分岐。
ネットの特色は網の目構成である点はもちろんだが、ホームページとメールというものが基本構成であった。
平たい白い画面に書き込んで、それを世界から閲覧することが出来る。ホームページにはイラストとか写真、そして文字という組み合わせ。
動画も将来的には見越してはいても、当時の電話回線ではまだまだ難しいとこでした。
それとデータのダウンロード。
これがだいたい最初の頃に考えたものだと思います。
ずいぶんシンプルですが、後から足して行けるように願いますと言っときました。
メールはデータの添付と文字の移動。そんだけ。
これまたシンプルですが、確かにいまに至ってもそんなにメールで他のことはしないなあと思います。
ホムペが簡易プログラミングで作れることで、パソコンのプログラミングに興味を持って参加して欲しいという思いが当初はあった。
空間を自分で作り出せること。
これはいいものになると思ったような。
基本的には横文字での読みと書き込みとなる。
これはパソコンのソフトとかワープロが横書きで縦書きは基本的にはサポートしてなかったことに習った。


ブログ
ネットが出来た当初、私はイラストや写真を取得するだけにほとんどネットを使っていて、実に活用範囲が狭かった。ネットには掲示板とかチャットとか日記とかあったが、いやいやそれがメインだろうという人もいたが、掲示板とかホムペとかを無料で簡単設置とか使いやすくする課程で、プログラミングを打ってホムペを作るのが非常に困難であるという結論に到達する。ので、誰でも簡単に出来るホムペというスタンスでブログというものは考えていた。文章打つだけですぐにページが表現されるものを。それだれなら似たようなものもあった。これが空間構成され、人と人がつなぐ架け橋となる空間であること。掲示板のように勝手にどんどん自分のコメントを付けることが出来て、簡単にページが作れてそれが日記とかニュースサイトというように明確な方向性があること。コメントだけでなく自分が作ったブログにリンク出来ることで、ネット本来のリンクによって空間が広がるというものがうまく機能するかなという感じはあった。ホムペによっては変なサイトにリンクされるのは困るといったことも言われており、あまりリンクというものが活かされていないようであった。ならば最初からリンクフリーの空間構成をお約束にするものは出来ないかと思っていた。
ブログのネーミングは街を自転車で走っていて、そんなに高くないビルにBLDGとか書いてあって、ディーをオーに読めばブログ、ブロックを連想する。ブロックはレゴブロックのように積み重ねる楽しさみたいな感じがある。楽しんでコメントを積み重ねることが出来るホムペという意味で付けた。とかなんとかね。
ホムペをひるがえらせたものがブログになります。








ホームページの分岐ラス。ホムペの分岐ラス。メールの分岐ラス。



いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きホムペを得て古きホムペから新しきホムペへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
ブログをひるがえらせるブログ。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。











2006−12−6 水曜日午後12時52分カキコ。
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ブラウザー。
兄弟、ブラザーのように世界中の人たちとネットでつながるという意味で名づけました。
ウはUS(アス)でみんなとでも言う意味でしょうか。
って、駄洒落かい(!)




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きブラウザーを得て古きブラウザーから新しきブラウザーへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
ブラウザーをひるがえらせるブラウザー。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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メディアの分岐。




2007−1−5 金曜日午前12時26分カキコ。
メディアが真実を伝えないこと9割。
情報は自分の足で稼ぐこと。
それが真実のひるがえりであること。
メディアとはなにか。
それはひとつには、噂話がある。
ねえねえ聞いたーあ(?)、隣の旦那さん、昇進ですって、なのにうちの旦那ときたら……。
どーでもいい噂話もメディアの原点のひとつです。
なにかが伝わる時、それはまずはこんなだべりというか、どーでもよさげな話から始まります。
そんな些細なことがメディアのひとつであること。
つまるところ、メディアとは人なのだ。
いやもう、技術だってなんだって人だろう。
もうひとつには歴史を記した本。
2007−1−5 金曜日午後12時18分カキコ。
史記が現存する最古(?)に近い歴史書と言われている。
歴史書もメディアの走りのひとつである。
それはもちろん過去方向という時間の性質に深いメディアではあろう。
歴史書はなにかと言ったらば、真実を記した本。
真実にも幾つか方向性があると言ったら変に思うだろうか。
たとえば、きみいつ結婚するの、子供まだなのかなと聞いたら、相手がセクハラだと言う。
そんなつもりでもない、はずであるが。
とらえ方によっては相手のご機嫌をそこねてしまう。
笑うことなかれ、それで離婚する人もいるのだ。
ひとりひとりにとらえ方があり、また多くの人に伝えることの出来るテレビなどのメディアや、また著名人の意見などがある。
私なども著名人(多くの人が認めるいーこと言うなもう)の一人。
メディア側というわけ。
最近ではネットのブログで、容易に簡易なメディアが手に入る時代ではあるが。
本質の場合は、これは時間などと一緒でとらえ方は自由な代わりに、まったくもってとらえどころがない。
ので、これは見えないし、そして聞くことも出来ないだろう。
たとえば千年後の絵や言葉をどこで聞くことが出来るだろうか。
なんつったりして。




真実の分岐。


普遍、共通、一般。
メディア。

特殊、集合、新性。
本質。

個別、蓄積、唯一。
個人。




2007年6月22日金曜日午後10時50分カキコ。
メディア。


表現報道の自由。
普遍、共通、一般。

本質という自由。
特殊、集合、新性。

知る権利。
個別、蓄積、唯一。




戦争が終わった時に聞こえて来た玉音。
それを信じないで長いこと戦い続けた日本兵士も多くいた。
当時は長い空爆の後で電話や無線がなかなかつながらない状態であり、日本全国に情報を伝えるのにはラジオがもっとも広い範囲をカバーしていた。
けれども多くの人がそれを直感的に受け取ったのは、連日の爆撃からして、かなり状況が窮していることを知っていたからだった。
大本営発表は国が流す情報を新聞やラジオがそのまま流して、状況に批判を加えたりはしなかった点において、真実を伝えるという報道の意味を問うものだった。
戦争に反対していた平和主義者はその多くが沈黙して、さらには日本共産党はレジスタンス活動する前にそのほとんどがすっかり捕まってしまっていた。
手書きの赤旗が少数の人に読まれた程度だった。
だからまあ戦後の報道はなにか年に何回かはいまの報道は真実を伝えているかといった点検すらも込むようになった。
特に赤旗の躍進は著しく、全国紙に名を連ねて、さらには多くの知識人がその指針とするまでになった。
その販売費はそのまま共産党の最大の収入となり、まさに報道によって収入と訴える力の両立を成して来たと言って良い。
その信頼は実に大きなものだった。
が、今回の鈴鷹さん関係のことにおいては一気にその根幹が揺らぐことになる。
伝え聞けば、何度伝えるべきと言っても却下されて来たという。
戦後いやさ党結党、赤旗発刊からの初の負けごとであり、戦後ソ連とアメリカという両者を批判して来た報道の一角の担い手が現実に敗れ去るという自体に陥った。
いやまあ作ってるのは人間なのだから、現実に負けることなど何度もあるもんだと達観しないでもない。
それに鈴鷹さん関係のことについてはどこもほとんど報道しなかったのだから、戦後の報道そのものが二度目の大敗を現実に喫することになった。
鈴鷹さんが6歳の時にはこの状況(?)があったという。
けれどもオウム真理教の時にはかなり戦い挑んだのに対して、アタクする人たちに対しては、後手後手に回って、実にその闊歩を許してしまった。
いやまあ鈴鷹さん関係はあり得ないことが良く良く起きるからという見方も出来るのかも知れない。
これは英雄主義の再来か。
なにかの社会現象か。
カリスマというバランサーはどう機能するのか。
それはまあいまも研究者のあいだでも議論のあるところだろう。
どうしたらいいのか。
既に戦後の復興期を担った報道マンは引退してしまっているだろう。
まあ話くらいは聞けるかも知れないが。
ひとつには、鈴鷹さんの言葉は全データが読める場所を用意して、読めるだけでなく、話をしてくれる人がいるといいかな。
ちょと聞いただけでは混乱するばかりでね。
人に話を聞いてもらうと自然と感覚を取り戻すように、社会も報道によってその感覚を取り戻す部分があるのかも知れない。
とかね。
まあそこそこ行きましょう。
とかなんとかね。









史記
中国の歴史






メディアの分岐ラス。







ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を得て、自分の歩幅で歩いて行くこと。


なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。


古きメディアを得て古きメディアから新しきメディアへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
メディアをひるがえらせるメディア。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












///////////////////////////////

アニラジの分岐。


ハガキを読む。
歌や音楽を流す。
ドラマを流す(テレビの出現で下火となる)。
バラエティスタイル。




アニラジにバラエティスタイルを持ち込む。
それは毒舌とかきわどいトークで面白可笑しく作るバラエティ番組。
それは民放に多くて、かなり知識層からは低いものだと言われていたもの。
けれども国営のお堅い番組は堅実な一方で楽しく無いことも多い。
ではこのサンデュは出来ないのか。
バランスというよりも。
その両立。
それを求めて来た路線がある。
これは出来た時は凄いいいものになるが、だめな時は楽しくなくて、きわどいだけという内容になってしまい、かなりきりもりが難しいという一面がある。
2006−12−2 土曜日午前2時57分カキコ。
情報の伝達。
ひるがえりを伝えること。
日々嫌なことや苦しいことがある。
それをひるがえらせることを伝えるひるがえり。
それでもまーねー、今日のお茶はいい濃さだったよ。ということを伝えること。
今日感じたいま感じた失望を伝えたならば、今日感じたいま感じた希望を伝えること。
その両立によるバランスを取り続けることの本質の確立。
これがトークにおけるサンデュとなります。
2007−1−7 日曜日午前1時58分カキコ。
新人の声優さんがかけあいで、メールを読んでおまえインポかいとか言っても、誰もひきつけられたりしない。
ただの一発屋で終わってしまう話だ。
巨大メディアといえども人が作っていること。
人と人の真剣勝負なのだ。
たとえば、話のかけあいではお互いの中で完結するのが基本だ。
おまえインポなの〜とかパソの相手に言うならば分かる。
一人であっても、自分の話で完結すること。
これが基本なのだ。
その基本が出来ていない、聞くほうもシラけてしまう。
安定して聞くことが出来ないのだ。
パーソナリティ(ゲストアシスタント)を知らない人にはこんなだよと教えてくれること。
知っている人には今日はこんなだよと教えてくれること。
その両立のバランスを取り続けることの本質の確立が基本基礎。
そこからずれること。
それは基本が出来て初めて聞いてる人は着いて来てくれるのだ。
初めての人の話なんて誰も聞く必要なんてない。
若いから内容が薄いのは分かるが、それではちょいやって番組は終わってしまう。
ほんとにいい番組を作るには、そういう自分なりに内容を良くする必要がある。
それはあたりまえの話ではあるが、頑張ってるのはみんな頑張ってるのよ。
そこで残って行くのは、自分の確立した本質で勝負すること。
誰も口先の技術だけの奴の番組など聞くことはないのだから。
技術も必要、そして内容も必要。
その両立のバランスを取ることの本質の確立。
涼風のような見えない本質が聞きたい。




アニスク路線、ブギナイ路線。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きアニラジを聞いて古きアニラジから新しきアニラジへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
アニラジをひるがえらせるアニラジ。
トークをひるがえらせるトーク。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。
















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マスメディアの分岐。




印刷技術による新聞。
レコードやカセットテープやCDや電子配信。
ビデオテープやDVD。
ラジオ。
テレビ。
ネットワーク。




広範囲をカバーする初の空間構成面。
この前には掲示板(立て板や地域配布)や瓦版や新聞等々が紙媒体であったのに対して、初めて声という実際に人の感覚のひとつを直に提供することに成功した。
レコードなどを聴くことも出来たが、やはりこれだけフォーマットされたものが聞けるということは画期的であった。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きマスメディアを見て読んで古きマスメディアから新しきマスメディアへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
メディアをひるがえらせるメディア。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。














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作品ジャンルの分岐。作品の分岐。


その状況を、仲間と力を合わせて乗り越える一話完結。



ファンタジー。
2006−12−8 木曜日午前2時54分カキコ。
不思議と感じるそのじょーしきからのずれ。
そのひるがえり。

ジュブナイル。
少年という分岐し続ける時間が分岐する状況の中で、大人への階段をまた一歩上るお話。




ファンタジー
サイエンス・フィクション




作品のこと。
シリアス。
シリアスというものは、伽羅が思い詰めているとか、生き死にとか、恋愛がーとかそれは共通のとこ。
人生の岐路に立たされて悩んだり行動したりスルーしたりといったこと。
もちろん悩むこともある。
笑うこともある。
最近のホラーのスタイルはこの人生の岐路に立つことの生死でリアクションがきゃーというものが多い。
作品とは立体を色んな角度から彫り込むこと。
彫像を彫るように、ひらべったい絵でも立体空間を作り出すこと。
これは話でもおんなじで、ギャグでもシリアスでも立体的な作りをします。
それはこう思っていたのがこうだったというのも、立体的に作品世界をとらえていないと、なかなか出て来ません。
これはまあ漫画でもアニメでもゲームでも映画でもテレビドラマとか、共通のことかな。
色んな角度から面をとらえることで、多彩さやその透明さなど、自在に表現することが出来るようになります。
これは伝えるというか、説明する技法になります。
だから違うと思っていたものが、実は地球を一周したらおんなじ自分の服であったとか、そんな感じかな。
自分の背中が見えないということ。
本質も見えないけれども、その反射や機械の使い方による反射によっては見ることが出来ること。
ギャグは笑った者が勝つこと。
笑わせた者が勝つこと。
ギャグはそうゆーひるがえりであること。
笑顔の花。
シリアスもそうゆーひとつのテーマのひるがえりであること。
リアクションの反射のひとつですが、リアクションみっつが伽羅と伽羅にリレーされた時にひるがえりがひるがえること。
これはシリアスでもギャグでもそうです。
つまらないということなどは慣れのひとつであること。
慣れるとは、その物事の共通が見えて来ること。
これはサウンドデュアルで見つけた理論や理屈の共通ということでなく、やはり感覚としてのものであること。
2006−12−4 月曜日午後10時47分カキコ。
スカイスーツスタイル。
プラグスーツやフェイトのバトルコスチュームなどのスタイル。
競泳水着のようなものに、ちょいなにか機器やデザインのようなベルトなどを着けるスタイル。
カキコ。
ドラマというものはヒューマンドラマであること。
受け手はファンタジーだろうとSFだろうと、人の変なとこや仕草など、人間味ある行動などに感情移入すること。
完璧な伽羅が完璧な行動をしても受け手はそうですかとしか言えないということ。
ツンデレで言えば、ツンとしている天才が失敗してデレを見せるから人間味があること。
弱虫くんが頑張って前に進むとこにヒューマンドラマとしての凄みがあるのであって、勇敢な奴が勇敢でもそうですかーという話しなの だ。
乱暴者が見せるやさしさ、逃げているのに向かって行く時。
そんな一瞬が見ている人にひるがえりを感じさせるのだ。
それはまー基本であって、そこをひねって行くのもまたひるがえりではある。
2006−12−8 金曜日午後9時22分カキコ。
伽羅には平行線がある。
相対の方向性とはとてもいい響きであり、とても民主的で家庭的なようだ。
けれどもその反面、もうひとつの一面として、他人とは平行線になりやすい、また、自分の中にも平行線を生み出すという一面がある。
これは時間の性質であり、また時間の別個としての人の内面的一面でもある。
別に対立は悪いことではなく、時間の性質上、良くありがちなことなのだ。
それを隠すほうがどっちかというまずいような気すらする。
だからまあ、作品では対立する伽羅がそのまま描かれていたりする。
これは個人においては内面的葛藤と言っていい。
状況において、マイペースを崩さない伽羅が一人や二人は面白い作品にはいること。
ふつーは困難な状況を仲間と力を合わせて乗り越えるということが作品の醍醐味。
けれども悟っているような、まるで状況と無関係な仙人か神様であるかのような伽羅がいるのも確か。
それはそれで究極のツンであるような。
そんな伽羅がデレしたら……ファンはまいるだろうねえ。
人にはいえまあ存在には絶対の方向性と相対と全対のみっつの時間の性質の方向性があります。
ふつーならば人にはあるこの時間の方向性。
けれども作品では描かないと出て来ません。
これが伽羅の魅力であり、まさに人間味というものですが、なかなかここを描ける人は少ないのも確かです。
いやまーこうやって書いてるから書き出す人ももっと出て来る……かなあ。
他人には譲れない気持ちとか、葛藤する相対にすべてをとらえる全対。
これは存在が本来持っている性質、いえいえ、時間の性質なので、これは別に存在する以上誰でも、どんな存在でも持っています。
まーそんな概念で認識するのは人の特権かも知れません。
たとえば驚いている伽羅。
それはその伽羅の絶対と相対とさらには全対の性質がひるがえることであるはず。
そこまで描けて初めて、見ているほう、聞いてるほうもびっくりするわけです。
たとえばそれが絶対の方向性、主観だけだったらその伽羅がフェイク、騙されているだけなのかも知れません。
トリックものにはそういう相対的に他の人から見た視点で新しい面が見つかる場合もあります。
絶対の方向ばかりの頑固な伽羅が相対的に物わかり良く成る一瞬とか。
そんな一瞬のひるがえりを描くために。
今日もしゅくしゅくと働いておりますですはいですな。
嫌な奴なのにいい奴に見える一瞬とか。
これは恋愛に近いかな。
さてはてな。
などなど。
かな。
2006−12−9 土曜日午後12時46分カキコ。
ヒットする作品を作るには……、アトムくらいの作品を作ればいいのだ。
ファンタジーならば指輪物語クラスね。
単純な話だよ。
もちろん、それは神業に近いけれども。
2006−12−12 火曜日午後10時53分カキコ。
いい作品にはリズムがある。
台詞の間、文字と文字の流れ。
立ち位置、空間取り。
音楽の流れていないシーンでもリズムがある。
そしてそれは風のように画面から、書面から吹いて来るのだ。
シリアスギャグ関係無い。
リズムを聴け。
リズムを歌え。
−−−。
レイアースでは、第二期では、声優さんの役柄を変えて登場させるというスタイルを取っています。
これはファン獲得と声が聞きたいということ。
緒方さんが女性声での役柄というのは、当時は話題になりました。
そこからひるがえらせて、また男性役ということ。
2006−12−13 水曜日午後7時56分カキコ。
ぶっちゃけ作品なんて作っても儲かりません。
手塚先生がアトム作ろうが、白いライオン作ろうが、手塚プロの倒産で憂き目にあう。
これは作家だけでなく、エジソンも後年電気配線の交流と直流の戦いの中に消耗して、破産、梃子入れが入って雇われ社長になります。
まー車の分業確立して、車を普及させたフォードもエジソンの会社にいたことがあり、エジソンの生涯の友人であったと記されています。
もうかんねーと。
それは本人の問題とか会社やろと言われればそうかも知れませんが、まあ一生働いて、必ず儲かって終わるとは行かないものです。
いやもーそもそも儲からないと言ってもいい人のほうが圧倒的に多い。
では作品なんてなんで作るのか。
そのほうが死ぬ時に過去形としていい人生だったかなと思って死ねるからとか。
まーそのほうが助けてもらえるからかなあ。
そこそこ勝って終わること。
作品作りなど、みんないいものを作ろうとしている。
最初からくそげ〜やらだめアニメやら作ろうと駄作作ろうと思ってはいまい。
それは結果なのだ。
なんでか。
バランス取れて無いから。
あるいはその時の生活が良くないから。
それはそーかも知れないな。
−−−。
創作の両立。
分岐と枝の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
この分岐は必ずしも新しいものでなくてオッケイ。
−−−。
たとえばポケモンのサトシはポケモンたちや仲間との友情とポケモンバトルの両立をしてるのが一面としてはあること。
魅力的な伽羅というものは、本質の確立へと常に動いているものなのだ。
いやまー飲んだくれも好きだけどもね(笑)。
機器にも両立してバランスを取っていることがあります。
いやまー経済でも福祉でもなんでもそうだけどもね。
−−−。
ライトさとヘヴィさの両立。
技術と素朴さの両立。
−−−。
ポケモン。
ポケモンバトルと仲間との旅の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。普遍共通一般。
ポケモンゲットと仲間との友情の確立の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。特殊集合新性。
ポケモンハートと仲間との相互理解の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。個別蓄積唯一。
この仲間にはポケモンも人も含んでいます。
ポケモンハートとは、言葉が通じないポケモンとの気持ちの交流ということ。
2006−12−14 木曜日午後1時53分カキコ。
作品の三点。
普遍、共通、一般。
ファンが作品のバランスを取り続けることの本質の確立。
特殊、集合、新性。
クリエイターが作品のバランスを取り続けることの本質の確立。
個別、蓄積、唯一。
ひとりひとりが作品のバランスを取り続けることの本質の確立。
2006−12−15 金曜日午後1時35分カキコ。
作品にどれだけ実は何々でしたということを入れられるかが勝負。
人に対しては、どれだけ話すかで勝負が決まるように、それは足で稼げということとおんなじことなのだ。
2006−12−18 月曜日午後9時8分カキコ。
伽羅スタイリング。
なにかと言えば、私はこの作品作りのスタイルを基本的には取ります。
作品を作るのではなく、その伽羅たちの人生をすべて大まかにとらえて、それを描いて行くこと。
なので、作品としてはいいとこをピックアップするだけなのです。
もちろん、これは監督やシナリオライターや原作者とはバッティングしないようにはしています。
2006−12−20 水曜日午前1時25分カキコ。
ガンアクションががんがん撃つのが作品の根幹のひとつであるように、剣劇アクションは剣劇が。
そして拳(こぶし)とても。
2006−12−20 水曜日午後10時8分カキコ。
シリアスな作品は人生の分岐の連続。
ギャグ千発。
静かな雰囲気の作品はその雰囲気の醸成。
これは極端な話ですが、ジャンルというものはそういうものです。
もちろんこれらをサンデュすることもあります。
2007−1−3水曜日午前12時39分カキコ。
作品がつまらないとはなにか。
それは作品の最近のパターンからずれてないこと。
受け手はそのパターンに慣れてしまうこと。
それがつまらないということ。
気持ちが宇宙にふわふわとあるような星であるとするならば。
それは気持ちがその方向に慣性で進んで行ってしまっていること。
なので、その方向の進行には良くも悪くも慣れてしまっていること。
もちろんすべてのその方向、枝先がいまいちなわけではありませんが。
その慣性方向にこーんと、こつんとなにかが感じること。
これが新しい方向を見せてくれます。
これはまーお笑いとか歌とかしょーばいでもそうですが。
2007−1−3 水曜日午前3時32分カキコ。
作品において、人の人生がーとか、そういうぎりぎりのような内容のものは、たとえ鉄腕アトムといえども、かなり流行廃りがあること。
逆に、家族をテーマにしたファミリーアニメなどは流行廃りが無いこと。
これは安定性の違いでもあります。
2007−1−4 木曜日午後7時00分カキコ。
エンタメとは、受け手が真面目に頑張っていることを分かった上で、人は9割嫌なこと考えてしまうことふまえて楽しいことを考えようという提案である。
2007−1−5 金曜日午後6時43分カキコ。
テーマニング・リファイニング。
たとえば、一話について副題が付いたりします。
これがテーマニング・リファイニング。
激戦! あんたとおれ。
というタイトルであれば、あんたとおれが戦う話なんだなーと思う。
キスしたあなたは白馬の王子様 恋愛は物語。
とかあれば、次は恋愛話なんだなーと思います。
つまりはとっかかりのひとつであること。
なんでもいーよということは、実は困ってしまうこと。
次はこれだ、とある程度提示されたほうが分かり易いこと。
もちろんそれは基本であり、ずれることも可能。
まずは個別のタイトルのとっかかりがあったほうが受け手も作り手も分かり易いこと。
これは小さなことですが大事なことです。
たとえば哲学とはテーマについて論じることがひとつにはあります。
ポケットモンスターであれば、ボールに入ってポケットに入ってしまうモンスターの話であること。
デジタルモンスターズであれば、デジタルなモンスターの話。
ここはまさにシンプルイズベストで作品の内容を左右することもあります。
これは伽羅にもあって、その伽羅がどういう人生のスタイルを持っているのか、どこへ行くのかは、その伽羅が抱くテーマによって決まってくることさえあります。
伽羅の数だけあるテーマ。
ひとつひとつは小さなことでも、これが丁寧にひとつひとつ描かれた時にその個別は作品のテーマへと大きく変化して、共通となり、作品の本質たる特殊へと変わります。
これが世界樹の枝の分岐たること。
古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
テーマニング・リファイニングとなります。
これは作品だけでなく、哲学全般、世界樹の枝の分岐方法のひとつと言えます。
いま共通の分岐へとちょいとブレイクしましたよ。
分かりました(?)。
−−−。
神様のご機嫌いかがでしょうか。
しょーばいの神様。
恋愛の神様。
戦いの神様。
そも、神様とは時間とかいった、とらえることの出来ない存在。
そも時間とはなにか。
真に自由な存在。
それを一定の時間をとらえることが概念や物品に至る物事。
そのためにはテーマがあると格段に時間をとらえやすくいいものになるのです。
商品とは作品とはなにかと言ったらテーマにそった具現化とでも言ったらいいでしょうか。
一日の、一ヶ月の、あるいは今年の目標などという場合もテーマになります。
テーマとは時間をここからここまでねと言った具合にとらえる目安となります。
表現するのが上手い人というのは、時間をここからここまでねと提示することが出来ること。
それは絵でも歌でも文章でもおんなじこと。
一気に今年の目標だーと言って1年分の時間を表現することが出来る人などいません。
まずは今日その都度ケスバイケスで365日それぞれひとつづつ。
それを一週間、一ヶ月、そして一年のテーマへと共通へと変わること。
個別たるテーマをちまちま積み重ねて一気に共通たるテーマへと至ること。
これがテーマの特殊たるテーマニング・リファイニングとなります。
さてさて、今日も今日とてサウンドデュアルかな〜。

古き分岐をとらえる時も、テーマでとらえること。
つまりは時間的な尺度とでもいいましょうか。
その時間のとらえ方が個性とか独自性と呼ばれることのひとつになります。
2007−1−6 土曜日午後5時32分カキコ。
お笑いとは。
馬鹿だから笑うのではなく、頑張っているから笑ってあげようというスタンス。
一生懸命だからちょっと小笑いみたいな。
それが基本としてあること。
そこからのずれとはなにか。
とかね。
2007−1−7 日曜日午前4時54分カキコ。
実は何々であると前向きさの両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
これが作品の極意。
歌とか絵でもそう。
なんのテクニックすらも無くほんとにそんだけであること。
2007−1−8 月曜日午前6時33分カキコ。
作品とはなにか。
それは情景と軽快さの両立のバランスを取り続けることの本質の確立である。
情景とは見えない風を花びらやカーテンのゆらめきなどで表現すること。
それを伽羅が感じ取る様。
軽快さとは伽羅たちがノリやリズムで時間を表現すること。
つまりは起承転結の承と転である。
承だけでなく転の表現も木々や自然の季節のみで表現することも出来る。
実際のとこ、作品はこれが出来るか出来ないかと言っても過言ではないのだ。
シリアスな話は、伽羅が分かり易いひるがえりを舞うことが少なく、比較的にコミカルなノリよりも軽快さを表現しにくい。
ので、コミカルなノリでリズムを取ってからシリアスな面も出す。
それでまたコミカルでノリを取ることの連なりとかね。
これはどちらがいいということではなく、コミカルもシリアスも一面では対となっていて、どちらがいいということでは無いと思う。
2007−1−11 木曜日午後8時1分カキコ。
話の展開にびっくりするのは、もうひとつの世界樹を感じるから。
これは属に裏設定とか呼ばれるものですね。
2007−1−17 水曜日午後8時8分カキコ。
評論とはなにか。
それは評価と批判の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
一方的に批判して上手くいっても、それは受け手と送り手の絶対的な一方向になってしまい、交流することには成り得ず。
褒めているだけでは甘やかしていると言われます。
まーそこそこということでしょうか。
2007−1−20 土曜日午後6時44分カキコ。
メカや伽羅デザインはデザイン優先。
もちろん基本基礎としては、その作品世界をとらえたデザインというか系統樹としての機器や伽羅のスタイルがあります。
ストーリーは話の筋よりも楽しさや迫力やほのぼのさや自然描写を優先。
もちろん、これは基本基礎となるストーリーの系統樹がしっかり出来ていて初めて成り立つことなりて、な。
−−−。
クリエイターが前向きな時は作品を作っている。
商売人が前向きな時は商売している。
技術者が前向きな時は機器作っている。
歌手が前向きな時は歌っている。
役者が前向きな時は演技している。
前向きな時の鈴鷹さんは作品を作っている。
生活に前向きな時は生活を楽しんでいる。
−−−。
作品を作るのではなく、ひるがえりを列ねること。
作品を作るのではなく、本質を作ること。
2007−2−5 月曜日午前1時34分カキコ。
いい作品には時間の経過が描かれている。
質(クオリティ)の高いものには悠久の流れ時間の流れが感じられる。
2007年2月23日金曜日午前3時16分カキコ。
作品を作るのではなく、ひるがえりを列ねること。作品を作るのではなく、本質を作ること。
作品や歌を作っておいて、寝かせておく。
つまりは醸造するというかね。そんな感じ。構想とも言う。
いいものは構想時間に比例する。
−−−。
現実に負けないパワー。
力を抜いてフラットに軽く行こう。
このふたつのバランスを取り続けることの本質の確立。
2007年2月28日水曜日午後7時32分カキコ。
構想時間は時の風景である。
成長考察。
成長とは、その伽羅が古い分岐を得て、古い枝から新しい枝へと古い道から新しい道へと歩き出すこと。
それは一面としてはね。
他の伽羅の分岐を得ることもある。
また伽羅だけでなく、世界の古い分岐を得て成長すること。
これはその世界の人たちに共通の古い枝から新しい枝へと移行すること。
2007年3月16日金曜日午前12時17分カキコ。
哲学ファンタジー政治ファンタジー経済ファンタジー。
ファンタジーにもいろんなジャンルがあるが、
私がジャンル分けしたものに、哲学ファンタジーという概念がある。
この作品の代表例としては不思議の国のアリスとかモモとか星の王子様だろう。
アリスは不思議の国に迷い込み、そこでグリフォンてこんな姿だと説明したり、アリスが大きくなったり小さくなったりする。
モモでは、亀がゆっくりと歩けば歩くほど速く進むなどの表現がある。
時間と空間というものが不思議と感じ取れる感覚の表現を楽しめること。
時間泥棒という概念も、とても面白いものだ。
星の王子様は星の王子様だ。
これらに共通してるのは、素朴な疑問の提示とそれに答えるという構図があることだろうか。
政治ファンタジーとは、ずばり権力をどうこう言うもの。
これは王よ騎士よ、とか、神々がドラゴンがどうこうというとこ。
剣と魔法のファンタジーに多い表現だ。
ロードオブザリング(指輪物語)とかロードス島戦記とかコナンザグレートなどがこれに当たる。
剣と魔法のファンタジーに対して哲学ファンタジーを夢のファンタジーということが出来る。
哲学というものが考え方とすると、哲学ファンタジーというものはファンタジー作品に共通だと言える。




哲学ファンタジー(夢のファンタジー)。
普遍、共通、一般。

経済ファンタジー(数学のファンタジー)。
特殊、集合、新性。

政治ファンタジー(剣と魔法のファンタジー)。
個別、蓄積、唯一。




−−−。
数学のファンタジー。
それは見えない世界。
たとえば空気は見ることが出来ない。
空気の運動たる風も見ることは出来ない。
風を見ることが出来たら、それは変わった姿をしていることだろう。
これは精霊として良く描かれる描写だ。
そして精霊とはファンタジー世界において、万物の法則を表していること。
数学がこの世界の法則を示しているように。
数学はあらゆる法則を示すことが出来る。
また、数式だけ先に見つかったが、それが物質の法則として確認されることもある。
見えない数式が物質の運動を幾つも示していること。
音楽や歌も見えない。
そう、歌と音楽は数学のファンタジーなのだ。
音声も空気の運動であり、風の一種と言えないこともない。
気持ちも見ることはない。
見えないものがある。
またそれを見せる力は魔法のようだと言われること。
そしてファンタジーの世界では魔法は万物の法則として機能しているのだ。
気持ちの中にある風景が描く世界。
心の中に風が吹く時、それは歌になり、またそれは世界を思い描くのかも知れない。
幸福とは心にある自然がどれだけ豊かな緑と風と水と季節があることではないだろうか。
もちろん人工物だってある意味宇宙の中にある自然には違いない。
光りはその反射によって見えないものを見せてくれます。
けれどもそれによって闇は見えなくなっていること。
色彩は闇というキャンバスに光りが描かれているのかも知れません。
闇と光の両立並列のバランスが取られ続けている本質の確立が色彩なのかも知れません。
この世界では数式を使うのは人のみと言われていて、見回しても確かにそう見えます。
ファンタジーの世界では魔法に類するまた精霊そのものも良く良く表れます。
−−−。
これはファンタジー作品を分析、考察したもので、
作品作りをするために、スパロボリアルロボ対比考察、魔法少女成長考察、美少女もの考察と並んで93年当時構築したものだった。
いやまあ、正確にはそれまでにだらだら言っていたことを弁証法によってまとめたものなのだが。
あまり書き出していないので、まだ知らない人もいるかな。
これらの考察、分析はそのまま戦略となって路線となって構築となって行く。
この他にもSFとファンタジーをサンデュしたサイエンスファンタジーとかバラードポップ対比考察、ギャグシリアス対比考察、アナログからデジタルへ、テープからディスクへ、コマンドからボタンへ、ボタンからタッチパネルへコマンドから検索へ一画面から二画面へ、機器のパソコン化、台本からフリートークへ、セルからCGへ、ゲーム考察によるポケモンドゥームトルネコの冒険サウンドノベル家庭用ゲーム機で美少女(美少年)ゲームBL百合ゲーム構築ゲームのビジュアル路線いやいや携帯機で原点回帰路線などなどがある。
もちろんボタンとタッチパネルという対比ひとつ取ってもそれは対と成りうるので、アイポッドやニンテンドーDSではどちらかではなくサンデュしている。
2007年3月21日水曜日午後6時15分カキコ。
時空のファンタジー。
時間と空間は対であること。
時間の経過を描けば空間も変わり、空間が変わったことを描けば時間が変わること。
時間と空間について述べていれば、それは時空のファンタジーであること。
だから、物語だけでなく、相対性理論もそう。
それだけ時間と空間というものは密接な関係であり、また、なににも共通することなのだ。
時間と空間を感じるものがいいものであること。
これはまあなんでもそうですけどもね。
2007年3月21日水曜日午後11時16分カキコ。
魔法少女成長考察。
若草物語は少女たちの成長物語であること。
魔法こそ使わないが、その活き活きとした気持ちの描かれ方は素晴らしいものだ。
魔法少女ものとは、こういった少女の生活において魔法が使えるようになって、それによって起きるドタバタや少女の気持ちの成長を描くことを主題とする作品のことである。
元祖魔法少女はその名も魔法使いサリーである。
サリーは魔法の世界からやって来た、魔法が使えるのがあたり前の世界からやって来る。
このため、サリーはなんの苦労もなく魔法が使える。
みんなに魔法のことは内緒という制約があり、これがひとつのリミッターとして機能している。
ヒーローは正体は内緒というのはここからの系譜と言える、と思う。
サリーの構築は巨大ロボットもの元祖鉄人28号の構築でもおなじみ、横山先生であったりする。
いよっだいとーりょー。
死んでる場合じゃないよ。
やっぱり新作は鉄人が変身するメイド鉄人危機一髪だね。
決まり。
うがうがっずしんとコーヒー入れられても、コーヒーのプールで泳げてまうよというお話。
さてさて、魔法のコンパクトを拾った女の子が変身してどたばたというのがテクマクマヤコンの呪文で有名なひみつのアッコちゃんである。
いやいや、元祖変身少女はリボンの騎士と言っていい。
アイマスクを付けて牢屋から抜け出して、悪い大臣一派をやっつける。
けれども、アッコちゃんでは魔法によって変身するとこが違う。
これによって、猫にでもなれた。
アッコちゃんは普通の少女であり、そこから魔法使いになるという目新しさがあった。
また杖ではなく、コンパクトという携帯化粧道具である点も新しかった。
やっぱり化粧をした女性は変身してるよね。
すっぴんはなにも装備してない騎士に等しいよね。
いやいや、すっぴんこそが結構強いのかも知れないけどね。
魔女っ子メグちゃんはライバル魔法少女が出て来るなど、既に魔法少女が二人という図式があること。
花を探して世界中を旅する花の子ルンルンなど、いろいろと目新しいものが続く。
そしてミンキーモモとぴえろ魔法少女もの。
この流れは魔法少女ものを決定的に変えて行く。
子供から大人へと変身するのはふしぎなメルモから来ている。
まさにそれまでの少女ものの総サンデュと言える。
少女の成長を描き始めた魔法少女。
それまではフラットなスタイルで、魔法を得てもそのどたばたを描くのが主題であり、あまり少女の成長を描く作品は少なかった。
というか、70年代の作品はサザエさんスタイルとでもいうか、おんなじ年月が続くような感じがそれまでの作品には一定あった。
80年代の作品は子供の成長を描く傾向を得ており、それは魔法少女ものにも描かれるようになって行く。
そのため、落ち込んではまた明るく頑張るというスタイルなど、かなり暗い(?)描写も増えていくことになる。
魔法によって手品師になる夢を叶えるが、魔法なしでもまた手品師になることを目指すなど、非常にその成長を描くことに主題が置かれて行く。
それだけ奥の深いテーマを持つようになる。
一方でノリで軽く楽しむ作品が少なくなり、暗い描写の多い作品が増えた時期でもあった。
魔法少女がこんなにいいものであるのだから、魔法少女が戦隊ノリで5人も出て来たら、もっといい作品になるに違いない。
というセラムンがモデルとなったバトル魔法少女路線は新しい路線として確立することになる。
−−−。
リアルロボスパロボ対比考察。
まずはスーパーロボットだね。
アトムの活躍が地球を救う。
スーパーロボットであるアトム。
この系譜は鉄人28号やマジンガーZに受け継がれていく。
これらのロボットはほとんど一機だけでその場の危機を助けてくれる。
また正義か悪かとか、人とはなにかといった普遍的なテーマが良く使われる。
それに対して、リアルロボットものは基本的に群雄劇であり、出て来るロボットも一機では戦局を左右しない、ものほんに兵器としての登場であること。
リアルロボットに出て来るロボットは量産物なのだ。
ファーストガンダムのガンダムは新型と言われてはいるが、一機では大戦を左右したりはしない。
そこでは宇宙戦争の中で成長する若者の姿が描かれていた。
またスーパーロボットに出て来る主人公は基本的にはあまり成長する姿を見せない。
アトムなどは成長しないからといって天馬博士にサーカスにうっぱられるが、ロボットであるのに成長して行く姿が描かれている。
けれども、一定フラットに描かれていて、気持ちの移り変わりを丹念に描くまでには至っていない。
そもそも人のような年齢というものがロボットでは描きにくいという一面はあるかも知れない。
少年探偵正太郎君もそういった意味ではある程度動揺した姿を見せたりするが、あまり成長する姿を描くまでには至っていない。
いやまあ主人公を始めとしたメイン伽羅はフラットに描くというスタイルが基本にあり、これはノリがいいので、多くのヒット作品には共通するものだ。
それに対して、リアルロボットものではかなり暗く(?)主人公達の成長が描かれていて、身につまされる話も多いのが特徴だ。
実にリアルなのだ。
現実味がある分、暗い内容が多いのも確かだ。
もちろんスーパーロボットならばいいのかというと、アニメの打ち切り作品のほとんどは原作の無いスパロボものという有様があった。
それを一定リアルロボット路線は越えたという一面があった。
スパロボからリアルロボへ。
この流れはかなり顕著で、ガンダムに始まりマクロスとボトムズとパトレイバーなどに続くこの路線はまさにヒューマンドラマを極めて、リアルな世界、リアルロボット路線の黄金時代を築いた。
マジンガーZで頂点に達したスーパーロボットもの。
鉄人タイプの巨大ロボットに人が乗り込め、必殺技を使えて異星人とか異世界人と戦うというアイディアは以降、すべてのスパロボが路襲することになる。
けれどもその一方で、あまりに似たような設定の路襲に人気はなくなって行くことになる。
これに活を入れたのはロボットものではなく、宇宙戦艦もの、宇宙戦艦ヤマトであった。
ヒューマンドラマを基調とした物語は、地球を救うということは路襲しながら、宇宙へと出て行くという画期的なスタイルを取っていた。
それまでのロボットものが一定地球を舞台にしていたのに対して、そのスケールは大きくなって行く。
ファーストガンダムも宇宙を舞台として、地球も出て来るが、宇宙から見た地球という、新しい観点から物語を展開した。
また、ヤマトでさえも一艦であるのに対して、ガンダムでは量産型の概念が登場する。
数が多いほうが勝つ。
この当たり前の論理を作品に導入した。
そのため、ガンダム自体は一機では戦局を左右しない機体となる。
作中でもガンダムは目立つため、ホワイトベースを囮に使われるなど、とことんリアルな展開が成されている。
これはかなり画期的な一面ではあるが、一方で作品の持つダイナミックな展開が抑えられることになっていく。
リアルロボとスパロボ。
この両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立は第3世代のロボットものを作り出して行くことになる。
2007年3月23日金曜日午後8時29分カキコ。
ロボットのサンデュ(デュアル、組み合わせ)の文式。


リアルロボット(反)。
普遍、共通、一般。

デュアルロボット(合)。
特殊、集合、新性。

スーパーロボット(正)。
個別、蓄積、唯一。




唯一のロボットという意味でスパロボは唯一の存在であること。
リアルロボは共通一般の量産機であること。
デュアルロボはリアルロボとスパロボの左右混合(サウンドデュアル)されたロボットであること。
スパロボが正(スタンダードな基準)とすれば、リアルロボは反(アンチスタンダード、対基準(ついきじゅん))であり、デュアルロボは合(ダブルスタンダード、左右混合基準)であること。
ダブルスタンダードは両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立、ということ。
2007年4月7日土曜日午後10時14分カキコ。
時空+時空。
時空×時空。
時空人(じくうじん)。時空旋風。時空旋。時空会話。
時空砲。時空撃。時空剣。時空獣。時空機。時空神。時空人。時空ロボット。時空魔法。時空斬。時空力。時空光。時空闇。
時空双機。時空猫。時空眼鏡っ娘。時空メイド。時空スーツ。時空迷彩。時空空気。時空天使。時空警察。時空少女。時空波。
時空の癒し。時空戦闘。時空鍵。
時空劇。時空展開。時空共鳴。THE時空。
時空風景。色彩時空。時空自然。時空音楽。時空疾風。時空雪。時空道。時空空。時空大地。時空宇宙。時空惑星。
時空相対。時空絶対。時空全対。一点の時空。平面の時空。立体の時空。二次元の時空。三次元の時空。四次元の時空。
ひとつの時空。幾重かの時空。過去時空。未来時空。いま時空。透過時空。時空否定。




全盛期の作品、エヴァンゲリオンなどはこの時空何々を表現すること。
時空の表現を心がけたこと。
たとえばエヴァンゲリオンは四次元の時空の機体であること。
それを三次元に止めていること。
三次元の時間と空間のそのすべてがこの一機に詰まっていること。
裏設定ではあったが。
たとえば魔法は二次元を三次元に再構成すること。
または四次元を三次元に再構成すること。
そんなふうな感じのような表現であること。
また時空機体の力は詠唱を必要としない魔法であること。
その機体起動時間が魔法発動中であること。
これがデュアルロボットとしての構築であった。
これを説明するのではなく、絵で見せること。
これ構築が当時は若干(?)22歳だったよー。とかなんとかね。
まあ10歳から業界にいたとするとこの時点で既に12年のキャリアがあった……のかなあ。
歌からゲームシステムから作品からコンテワークから終いには建物とか経済システムから恋愛まで時空、時間と空間の両立並列のバランス取り続けることによる本質の確立が場である。
ということで一時代を築く。
とかなんとかね。
ヴァグランツで搭乗者の能力による次元移動にパワードスーツまで着けてるテレポート機体とか。
超時空要塞とか。
なにかそれまでの作品を見ていて一言でまとめると時空かなあと。
時空の表現とか言っていた。
これが高校生くらいの時かな。
FSSなどこの時だらだら言っていたことが一定反映されている。
なるへそう。
そうするとヴァグランツも鈴鷹さんの当時の影響から作られていたのかあ。
まあエヴァンゲリオン作る前に既に一定鈴鷹さんは業界にいて、ある程度いやもうほとんどの作品は鈴鷹さんの作劇術の流れに作られていた。
メインスタッフ(?)くらいの扱いであるのに、意識してセラムンとかにん参加して行った時にはある意味後発であったこと。
なんとも不思議な感じではあった。
もうその時には各スタッフは鈴鷹さんの作劇術を一定熟知していた。
後発である(?)私はどうするか。
ひとつにはそれらのスタッフと組んで仕事すること。
つまりは一人では無理して作品を作らないこと。
絵などのデザインとか、とにかく任せることが出来ることは任せること。
私が一番得意なのは設定作りや話しの流れ。
いやもうその時にはそういうスタッフとして業界で巨匠扱いであった。
気づいたらトップであること。
どーしたものか。
まずは肩の力を抜いてレイアースとかエヴァンゲリオンとかGガンダムとかセラムンなどを構築して行った。
ネット構築や機器構築も始めていて、熱狂は頂点に達しようとしていた。
全盛期。
であったなあと。
2007年4月16日月曜日午後1時27分カキコ。
スパロボリアルロボ対比考察。
まずスーパーロボットは勧善懲悪であること。
リアルロボットは自分たちが正義かどうかも分からない。
宇宙戦争に巻き込まれるなど、なし崩し的な展開で激動に呑まれて行く。
迷ってばかり(?)でちょっと爽快感に欠けること。
これはリアルで繊細な心情が描かれる一方、なにかをすっ飛ばしていくダイナミックな展開に欠ける。
またスーパーロボットはかなりの頻度で地球を守るために戦う。
リアルロボットはロボット犯罪やロボット戦争に参戦するなどの展開が多いこと。
リアルロボットは地球を守ることが特に理由ではないことが多い。
これらの要素はリアルもスーパーも鉄腕アトムから得ている。
ぶっちゃけ鉄腕アトムからその要素を取得するのがロボットものであること。
その派生系であること。
いやまあこれは最近の漫画とかアニメとかの流れはすべてここから得ているのだ。
近代の剣と魔法のファンタジーがザロードオブザリングから要素とか流れを受けている派生系であるのに同じこと。
であるからには、鉄腕アトムの要素を最大限入れながら、新しい展開を見せる作品が新しいロボットものであること。
最大限ザロードオブザリングの要素を入れながら、新しい展開を見せる作品が新しい剣と魔法のファンタジーであること。
これはまあ放送番組でも作品でも経済システムでも政治哲学に機器からなにからそうであるが。
なんの枝から来た道であることか知っているか。
それは何者であるか知っているに等しいこと。
これが前向きな姿勢とか、いわゆる概念的な進化というものであること。
主人公が前向きに地球を救うために戦うというスタンスがスパロボには多いが、リアルロボットものは巻き込まれ型の主人公が多い。
スパロボの主人公がほとんど迷わずに正義や地球を救うために行動するのに対して、リアルロボットでは、何故戦っているのかの葛藤のようなものがある。
状況も単純明快なのと、複雑怪奇なのとの違いがある。
一概にどちらがいいとは言えない。
また混合基準たるデュアルロボットものではこれらが混在しているが、それでいて、展開は明快である。
エヴァンゲリオンでは風呂好きということを意識して、風呂に入りながら操縦してエヴァンゲリオンは風呂に入ってメンテされるという描写にしました。
この風呂シリーズは宇宙人と風呂でニアアンダーセブン。
お風呂魔法少女ものワるきゅーレ。
神様たちもお風呂大好き千と千尋などになって行きます。
これをお風呂シリーズと呼びます。

−−−。
ジュブナイルが目指すもの。
ジュブナイル作品とはなにか。
それは冒険活劇とか銘打たれることがある作品。
大抵は少年少女と動物が賢明に生きてる姿を描くこと。
これは名作系のアニメに多い。
アルプスの少女ハイジではヤギとの交流が明朗快活に描かれている。
ラスカルとスターリング少年との成長とか。
2007年4月23日月曜日午後11時45分カキコ。
過去の自分たちと出会うことで、いまの自分は未来の自分と出会う。
4月25日水曜日午前5時1分カキコ。
カンティニオン。
この一言をどこまでリズムで洗練させることが出来るかどうか。
ありがとう。
でもいい。
一言からすべては始まるのだ。
幾重かの一言(リズミングスペル)から構成されること。
だから。
2007年4月28日土曜日午後6時30分カキコ。
見えないものを表現する時、気持ちは広がり深く時と空間と成ること。
これは歌でも作品でもそうそうだろう。
見えないものを表現すること。
その一瞬のために作ること。
時間は見ることが出来ない。
時間をかけて見えない時間を表現すること。
それは時に空間と成ること。
2007年4月29日日曜日午後3時48分カキコ。
魔法少女成長考察。
スーパーマンやバットマンなど、歴代のヒーローはみんな着替えていること。
つまり服など単なる格好に過ぎないこと。
これは元祖魔法少女ものというサリーちゃんでもそうだ。
サリーは魔法の国から来た少女で、服に左右されたりはしない。
服に意味を持たせたのは魔法のコンパクトで変身したアッコちゃんからである。
アッコちゃんは変身することで、いろんな物事に対処していた。
これは後にキューティーハニーでも変身能力として受け継がれて行く。
裸身からの変身シーンはエッチだと話題となり、本放送が午後10時からになった程だった。
またメルモちゃんは年齢が変わる、成長するというスタイルを取り入れている。
魔法少女ものは魔法の国から来た魔法少女という流れが主流と成って行く。
ララベルや花の子ルンルンなどなど。
似たような流れが続くことになる。
そこで現れたのがミンキーモモの出現である。
モモは魔法の国から来たので、魔法が使える魔法使いであること。
これは従来通りの展開だ。
が、モモは変身して大人になり、さらに衣服も変えることで、さらにはその職業能力を手に入れることが出来る。
つまりはそれまでの魔法少女ものの要素をほとんど入れた内容となった。
使い魔をマスコットにして、さらには移動には空飛ぶ車まであるという豪華さ。
裸身から大人になる変身シーンはとても刺激的だ。
この組み合わせは魔法少女ものの流れをまったく新しいものにしたと言って良い。
それまでひとつの要素で一年間作られていた魔法少女ものは、すべての要素を入れるということで、多彩な展開が可能に成った。
もちろん難しくなりかねない選択ではあったが、そこはスタッフが上手くバランスを取ったと言える。
これ以降、魔法少女と言えばこれという感じになり、ぴえろ魔法少女などは大半がこの流れを汲むことになる。
またこれとは別にロードオブザリングの流れを汲む魔法の国の騎士や魔法使いの冒険を描くロードス島戦記や、ジブリアニメの魔女の宅急便など、魔法が当たり前にある世界も多く描かれている。
そしてそして、セーラームーンの登場。
それまでの魔法少女が変身したり魔法を使って現実をきりぬけるというスタイルだったのに対して、セラムンは戦うことで現実を越えるという、なんともある意味即物的な内容となる。
これはさらにバトルものの要素も入れるという大技であったが、これは見事に大ヒットとなり、以降はいまに至るまでに主流となっている。
2007年4月29日日曜日午後4時29分カキコ。
紅の豚ではヒロインが主人公の豚(?)にキスして、そして人になるシーンがある。
これは当時私が美女と野獣対比理論をでらでら話していたのを参考にされたと思われる。
そしてそれは千と千尋やもののけ姫やハウルや猫の恩返しやゲド戦記にも受け継がれる要素となっている。
では美女と野獣対比理論とはなにか。
つまり恋愛要素とは美女と野獣の関係性であること。
どちらかが道を踏み外すような時にもう一方が助ける。
これが恋愛また少年少女ものでは基本基礎としてあること。
だから未来少年コナンでは、シータか野獣であり、それを助けるコナンが美女であること。
これはシータに博士が強力な力の鍵を持たせたことで追われており、それをコナンが助けること。
これはラピュタでもカリオストロの城でも路襲されている。
いやいや、別にジブリの特権ではなく、恋愛ものや少年少女ものではこれが基本基礎であること。
もちろん群雄劇の話もあり、必ずしも美女と野獣でなければならない話でもない。

−−−。
19歳の時にプロの業界に入り、それは直に現場に入ったわけではないが、自分のアイディアが採用されるようになり、実に作品作りというものはかなり場当たり的なものであることを知った。
それまではジブリ凄いスクウェアエニックス凄いと言ってる1ファンに過ぎなかったが、少なくともそう思っていたが、実際に作品作りに参加してみれば、みんなストックもなく、ほとんどその場のノリで作っていることに驚いた。
いまで言えば、京アニ凄いとかなんとか言う話。
実際には、現場の人の馬力頼りであったこと。
確かに技術としての蓄積もあるが、だからと言って、コンピュータなどほとんど当時の現場にはなかった。
その技術は職人が持ってるもので、それも新人のアニメーターは見て盗めと言われた時代だった。
教えるための本も出てはいたが、ちんぷんかんぷんな専門用語が並ぶ新人には意味不明な研究書ばかりであった。
良くこんな適当(?)なやり方で作れるものだと関心したものだった。 時に分かり易く難しくバランス良く、ひらめくもの言いで説明出来る人は一握りの人だけであった。
これでは新人は自分で現場にしがみついて来る人だけが残るというものである。
いやまあ確かに現実は厳しいのだ。
それで残れない人は残らないというのは競争社会(?)では当然のことなのかも知れない。
もちろん本来のライブという意味での即興もあるだろう。
即興こそがいまと対決する時ではある。
それまでの仕込みをするところが職人として積み重ねるところでもあるだろう。
そして柔軟性の一端は蓄積によった即興に違いない。
2007年4月29日日曜日午後5時37分カキコ。
時は揺り戻されながら、いまと過去を行ったり来たりする。
その時間の表現。
歌も作品などなども。

−−−。
妄想するのはあまりいいことではないと言われる。
出来てもいないのに思っただけではいけないと。
けれども作品作りにおいてはこの妄想は重宝する。
それは読んだ人が面白がるとか、そういうとこを予測(?)と言ったらば変だが、思い浮かべながらすること。
妄想がなんの意味になるのかと思うかも知れないが、作品というものは、読んだ読者がこう楽しんでくれるとこまで妄想すること。
そんな妄想の積み重ねる時間が実際に作る時にいいものになるのだ。
まあ妄想というか、構想時間と言ったほうがいいかも知れない。
恋人に花を贈ってからワインを出してと想像すると楽しいと思う。
作品作りだって、それに似たようなものなのだ。
将棋やチェスでは数手先まで読むという。
いやまあ変に計算高くなっても仕方ないが、頼りになる人というのは、ここぞという時に現実の先を一手読むものなのだ。
現実の先を読むのも古い分岐をとらえているかによる。
いやまあ知識なくても行く時もあるけれどもね。
そういう時を人は無策とか無謀と呼ぶものなのだ。
勉強とは過去の古い分岐を探すことではないだろうか。
そこから先を読み、そしていまに一手を打ち出す時。
そんな一瞬。
固定観念によって止まっていた時も動き出す。
とかなんとかね。
2007年5月1日火曜日午後8時1分カキコ。
シリアスとギャグの違いは主人公や良く出て来る伽羅が笑うかどうか。
それだけの違いでしかないこと。
真面目なシリアスの作品であれば、出て来る伽羅たちは真面目な顔でじみじみ話す。
ギャグ作品であれば、出て来る伽羅たちが笑ってばかりいること。
その程度のことと言うかも知れないが、そもそもがシリアスとかギャグという概念というか、考え方そのものが人のあいだにしかないものなのだ。
そんなことの積み重ねから構成されること。
なにかいい人だなと思う人は、リアクションが柔和な笑顔系であること。
こういう人とは一緒にいたいものだ。
つまりいい感じの人であること。
これ、ひとつの極意であること。
小さな差ではあるが、この積み重ねは年を重ねればさらに大きくなって行くものなのだ。
好かれる人ってそういうものである。
これは作品における伽羅もそうであること。
好かれる伽羅は良く笑う。
たとえばレイや長門のような無表情伽羅も笑っていること。
アスカやハルヒもたまには落ち込むこと。
見えない表情に気づいてくれるしんじくんやキョンであるから、見ているほうはぐっと話に引き込まれるのだ。
これは歌でもなんでもそうではあること。
ラーメン一杯作っても食べてみてもそれは見えるものなのだ。
音楽の一曲から一枚の絵から一枚の書類まで。
これが時間と空間のある時空のあるいいものなのだ。
受け手は馬鹿ではない。
見えるのだ。
作り手が見えてないものは伝えることは出来ないこと。
これはまあ基本基礎ではあろう。
プラネテスでルナリアンの見えない海がハチに一瞬見えること。
ククリにしか見えないニケの大活躍。
人に笑いや感動を伝えるのは、常に見えないものが見える時。
寅さんの無駄な(?)努力と家族の人情に笑い泣く。
両さんの破天荒さに笑う。
まあこれはまだ分かり易い(?)ほうなのかも知れない。
ちょいとしたこういう見えないことの積み重ねのひとつひとつが見えない柔軟性となるのかも知れない。
調理のための仕込み。
これなどは何時間もかけたりする。
材料探しから漬け込みなど。
これは歌でも絵でも小説でもその他の作品でもそうなのだ。
見えない部分でじっくりと作り、時間をかけておくこと。
つまり、作品で放映されたり、本になる部分は氷山の一角であること。
放送や出版など、長い人生のほんの一瞬ではあろう。
けれども、それはバランスの取れた(?)いい生活を家族として、いい仕事を仲間とすること。
それが端的に表れて来ること。
だから、結果は嘘を付かないのである。
笑顔の仕込みをしてる人は良く笑うことが出来る。
ほんとうに好かれる人、幸福になれる人は違うとこがある。
余裕のある人は笑うことが出来る。
余裕のある人は柔軟性を発揮することが出来る。
余裕のある人は見えない風をいつでもどこでも感じることが出来る。
そして、いじわるばあさんはやっぱりいいばあさんよりも嫌われてしまうのである。
とかなんとかね。
2007年5月3日木曜日午後4時20分カキコ。
脱力日常系。
ようはサザエさんのような日常がだらだら続く作品。
作者の無理な作品展開がないため、だらだらと読みたくなった時にちょっと読むのに適している。
その分引き込まれる度合いも少ないが、まあだらだらと読むにはいい。
4コマで圧倒的に多くはこのパターン。
逆に言うと鉄腕アトムはそれまで常識とされて来たこのパターンを崩して、まったくドラマティックに展開することに成功したと言える。
脱力日常系はちょっと笑える程度の作品が良く、これは黄金のヒットパターンのひとつである。
最近では苺ましまろやらき☆すたなど、女性伽羅がだらだらとするのを眺める傾向のある萌え作品が多く作られ、美少女系と言われるのも多くがこの流れを継いでいる。
脱力日常系。
略して脱力系。
これは基本のひとつなので、押さえておいて損はないぞなもし。
2007年5月27日日曜日午前10時41分カキコ。
テーマ。テーマの体現者としての主人公。テーマバランスする世界。




テーマのサンデュ。


見えないもの。
普遍、共通、一般。

本質。
特殊、集合、新性。

伽羅。
個別、蓄積、唯一。




見えないものとは気持ちであったり、いままで見たことのない風景であったり時間の経過であったりすること。
そういったものをちょっとした動作やなにかの印象的なシーンで描写すること。
そもそも変に(?)報道で伝えられることも多い宗教ではあるが、本来の宗教とは見えないものを感じることにひとつの意味があると言って良い。
見えないものを感じることは、気持ちを豊かに醸成するものなのだ。
これは作品においてはテーマの普遍性として常に共通してあると言える。
受け手が作品をつまらないと言っている時、常にそれは共通してこの見えないものが感じられないと言っていると見て良い。
テーマの普遍性を描ける人は気持ちが豊かであり、またそういった作り手のコラボの時には、さらにいいものが出来る場合が多い。
これはまあ一般の仕事や生活でもそうではある。
本質は本来言葉には出来ないものだが、あえてするならば、ひとつには新しいことが言える。
新しいとは、古い時代のものをいまに作り直すことや、バランスを取ろうとしてバランスが崩れた一瞬。
などだろうか。
伽羅はその伽羅の成長や冗長や情調を描くといったこと。
長く続く作品はたいていが群雄劇となり、一人と風景の関係性をえんえんと描くことなどはあまりない(→ヨコハマ買い出し紀行)。






だからそれも時間があればだいじょうぶである。


2006−12−25 月曜日午後10時30分カキコ。
作劇術






作品ジャンルの分岐ラス。作品の分岐ラス。


時が過ぎて行く景色。巡る季節。時間をかけて考えよう。

そこそこやろう何事も。とかね。

最大の敵は自分。背負い過ぎてる自分。脱力と気合いの波にたゆたう時も。

仕事と生活に時間を使う。家族と自分の気持ちを整えるために時間を使うこと。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き作品を読んで見て聞いて古き作品から新しき作品へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
作品をひるがえらせる作品。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。


















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フィギュア・プラモデルの分岐。




2007年3月23金曜日午後2時1分カキコ。
私が小学生低学年の時にガンプラブームがあった。
小遣い手に持ってプラモ店に入っても、バーゲンでおばさんが服を奪い合うような状態。
すぐにお目当てのプラモはなくなってしまった。
誕生日祝いにもらったプラモデルは嬉しかったものだった。
そのブームたるや凄かった。
けれども、テレビゲームが出るや、プラモデルブームは収束していくことになる。
私が高校生くらいの時は、ファイブスターストーリーズの1万円くらいするフィギュアがあった。
とてもいい出来なのだが、細かいパーツを繋げるのは神業に近かった。
色も付いてはいなかった。
まずは接着剤は使わず、パーツのみで組み上げられるようにする路線。
また、高い値段のものは完成品も用意すること。
もちろん塗装済みで。
これらの路線はプラモデル路線からフィギュア路線へとして打ち出して行くことになる。
また比較的安価な、がちゃがちゃでもミニフィギュアとしてフィギュア路線を展開する二段構えとして行くことになる。
もちろんガンプラなどもガンダムの新作に合わせて企画して行くことになる。
素朴なプラモ路線も最近はまた見直されて来ている……かなあ。
とかなんとかね。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古いプラモを作って古きプラモから新しきプラモへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
歌をひるがえらせる歌。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。















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歌の分岐。




サビは繰り返す。
サビは誰もが口ずさめること。
スルーしてだらだら聞ける歌でもあること。
じっくりと聞くことも出来ること。
愛しさとせつなさと心強さと〜と、この1フレーズだけで固定CD10万枚は行きます。
愛を下さい〜うぉうおぅとか。
最近は電子配信でそんなに枚数出ないのかな。
それでも1万枚は行くでしょう。
2006−11−27 月曜日午後10時12分ここから三行カキコ。
このサビのフレーズは自分が言われて嬉しかった言葉や感じた言葉にします。
自分が感覚してひるがえっていない言葉を相手に伝えることは出来ません。
これが個性にもなります。
もちろんひるがえりとは別に技術も必要です。
技術とひるがえりを鍛えて、そのバランスを取ること。
2006−11−29 水曜日午後12時5分ここ上2行カキコ。
あー電子配信の聴取率カウントダウンも出るといいかな。
私はずっと両立の路線を取って来た。
それはメジャーな歌とマニアックな歌の両立。
マニアックな歌というかノリノリの楽しい歌というかね。
それと安定して聞けるバラードの特性。
けれどもだめな時は楽しくなくて不安定な歌になる。

メロディラインにビブラートをかけた螺旋させた歌は、一人で歌っているのに幾重にも聞こえる。
出だしはノンビブラートで初め、サビはビブラートにするなどもひるがえりのひとつである。

2006−11−27 月曜日午後9時カキコ。
歌のひるがえりとは、歌の分岐そのものである。
たとえばまずは歌の語尾を低く歌い、次の小節では語尾を高くして行く。
これがひるがえりである。
似たメロディラインを取りながら次の時は違うメロディラインを取る。
これは分岐を感じさせている。
デジャヴのようなものは作品とか選択ゲームのひるがえりであるが、歌にも類したものがある。
ひるがえりとは時間が螺旋上昇する時、同じ場をくるくると回転しながら繰り返しながら進むが、同じ点に居るのに先に進んでいることを認識させることにある。
だから似たようなことを話してるようでも、歌っているようでも、違うという一瞬を感じさせてくれること。
おんなじ場所に立っていても違う時間にいることは当たり前と言えば当たり前だが、それを感じさせることがひるがえりである。
これまで来た分岐を感じることで人はこの先に分岐があることを実感する。
それが希望とか予感ということのひとつなのである。
ひるがえりが説明とは違う点は、やはりそれを理屈でなく感じることが出来る点にある。
もちろん理屈や説明がなければ意味不明なことですが、ひるがえりがなければそれを認識すること実感することは出来ないこと。
アニメのファミリードラマなどは分岐をどんどか提示しないことで安定性を得ています。
これはバラードのような静かな歌にも言えることです。
逆にロックなどはシャウトのようなもので、どんどか分岐を得て行きます。
トークでは最近の出来事をテーマに話すことが分岐であり、それを扱わない場合はかなり安定性を得ます。
逆にニュースでは取り上げることで安定性があり、これは役割というか、求められていることが違うと言えます。
ポップスというものはその点、バランス良くソフトなものも、ハードなものも得ていると言えます。
2006−11−28 火曜日午前1時58分カキコ。
一行というか、一小節に歌の一曲分にも相当するひるがえりの圧縮をすること。
それは曲も作詞も歌い手もね。
それくらいメジャーではしないといけません。
いやまー暢気な歌もありますよ。
もちろんね。
2006−11−29 水曜日午前11時55分カキコ。
百年先に聞きたい歌。
十年先に聞きたい歌。
明日聞きたい歌。
2006−11−30 木曜日午後7時43分カキコ。
ロック(?)ポップス(?)バラード(?)コミックソング(?)童謡(?)。
初めて聞いた歌には分岐が多少なりともあること。
そしていつも始まりの歌は誰も聴いたことが無い。
−−−
アイドル路線というものがあったらば、それはなんだっのか。
アイドル歌手、主にポップス歌手というものは、歌手活動の息が短い。
では長く歌っていたのはどういう人たちかと言えば、それは演歌歌手であった。
アイドル歌手というものは、歌の下手なものということが良く言われていた。
そして演歌歌手というものは、かなり本格派、ベテランであり、歌を聴くならば演歌とか歌謡曲と言われた時代だった。
ジャンルとしてロックやポップスなど弱いという意見もあったが、そうではなく、これは歌唱力の違いだろうと思った。
そこからアイドルと呼ばれる人にも高い歌唱力を求めて行くことになる。
これには十二分に答えてもらったと思う。
技術系がじょーしきとすれば、ひるがえりはじょーしきからのずれ。
カラオケ歌っていて、メロディラインからずれて行く奴っている。
技術が上手くなればなるほどそれは下手に思えるものだ。
けれどもひるがえりの練習とはまさに下手に歌うことなのだ。
技術が洗練されれば洗練されるほど、それはじょーしき的なものになり、上手いけどね、つまんねーとかなにも感じねーというものになって行く。
技術というものが科学に裏打ちされたものだとすれば、ひるがえりというものは自分が感じた感覚なのだ。
いやまー感覚とて科学の内ではあるだろうが。
ソウルドライブ全開(!)。
魂の叫びを歌え、聞け。
気持ちを醸成させる。
そんなこともあるよねえ。
うんうん。
カキコ。
両立が出来てバランス取り続けて本質確立する歌い手を狭義に音楽アーティスト個別にはカリスマと言います。
2006−12−3 日曜日午前2時17分カキコ。
最近の歌はいい出来だと思う。
売り上げも感動あると思う。
けれども私個人としては、どーしても固定CDが欲しいか、電子配信が貰いたいかというと、そうでもない。
最近はそんなにCDや電子配信は欲しいほどの歌が無い。
どんな歌を前には欲しいと思っただろう。
とにかく聞きたいと思っただろうか。
電子配信路線やCD路線をひるがえらるほどのものも感じない。
歌をひるがえらせる歌というものも感じない。
それは単に私がCDを購入しないタイプだからかも知れない。
いまのアイポッドウォークマンも欲しいと思わない。
どーしたら手に入れたいものにまでになるか。
それはファミコン路線に空間描画能力という最新の規格機器として入れたDSWii路線ほどのひるがえりがいま、機器も含めた音楽業界にも求められていると思うのだ。
2006−12−4 月曜日午後9時7分カキコ。
一日十曲は下手くそに歌うこと。
これは何曲歌ってもひるがえりというものは繰り返しで覚えるものではないので、十曲いやもう一曲でもいい。
いまいち〜な歌になってしまうのは上手く歌うため。
いやまあ技術としては凄いのだけども、それを伝えるのはメロディラインからどれだけ上手くずれるかによる。
いやまあ演技でも絵でもなんでもそうだけども。
時間の螺旋上昇をとらえるには高い技術がいるが、とらえたいまの時間の螺旋上昇のメロディラインを伝えるためには、その螺旋からどれだけずれるかによる。
このずれが分岐にまで達した時に、ブレイクする。
曲が作られた時点でこれは過去となり、この時期、時代がメロディラインとして一端として残っているということ。
そこから現在進行形である今歌うことは既にその作られた時間からずれて行くこと。
そのことを考慮すること。
ひるがえりのひとつ。
カキコ。
音程の高低(技術とひるがえり)。
曲にしろ歌にしろ、そのメロディラインは三段階くらい使うのが基本です。
これが出来ないと、逆に何段階使えると言ってもなにも表現不可能になってしまいます。
これは技術の話ですが、ひるがえりを表現するならば、まずはそこを覚えることが必要になります。
伸びが無いねえ、とか、もうちょい高音が欲しいとか言われる時があります。
けれども実際に高低を表現するのは三段階くらいで可能です。
まー技術は無味乾燥なものなので、そこにさらにひるがえらせます。
メロディラインの基本も高低で表現します。
2006−12−11 月曜日午後11時39分カキコ。
こぶしや声を伸ばすとこなどは、声でバランス取っている三点の軸を回転させることです。
これが出来て、歌い手としては一人前といえます。
最近は出来る人が多いけども。
2006−12−12 火曜日午後9時24分カキコ。
メロディラインとミュージックの両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
本質を確立しつつ、そこからずれること。
ノリノリの歌は勢いよく。
静かな歌は深くずれていく。
2006−12−16 土曜日午後11時50分カキコ。
歌を歌うのではなく、ひるがえりを歌うこと。
2006−12−22 金曜日午後6時11分カキコ。
テーマをまずひとつ作り、そこから幾重かに枝分かれしていくテーマブレイクによる歌詞の展開。
2007−1−9 火曜日午前12時54分カキコ。
軽快な歌とはなんだろう。
風景が舞い踊る中、その軽快さのメロディラインとは。
その歌から見えない景色が広がる。
風が吹いている。
2007−1−20 土曜日午後10時7分カキコ。
基本の積み重ねを踏まえた上で。
理屈で歌うな、感覚で歌え。
−−−。
歌について。
93年からこっち、2005年までほとんどのアニメのオプニンとエンディングを担当しました。
アニメは二番は流れないので二番は歌詞とかの構築はまかせています。
メジャーな歌も有名どこには結構参加しました。
メジャーな歌は二番も構築。
多くは歌詞だけでなくメロディラインまで作りました。
楽器は弾けないので、アカペラで作るような感じかな。
そんなに良く作れますねと言われましたが、ようは絵とおんなじで、似たような絵の伽羅はたくさんいるわけです。
そこはちょいごまかしてる程度なわけで。
アカペラで即興で歌詞とメロディラインを作る方法。
まずは歌詞というもの即興で作り、即興でメロディラインを作ること。
言うは易しでこれは凄いプレッシャーでした。
いやまあ過去形でなく、いまでもこれで作ってるんですけどもね。
文章は通りにくいので、私の場合一発撮りが多かった。
そのまま録音されたものが歌われてオンエアされてから真っ赤になることも多くありました。
歌詞を作るのは比較的簡単です。
それは春が来たよーいま来たよーとか適当に言葉並べるだけでもとりあえずは歌詞になります。
けれどもそれにメロディライン付けること。
これにはコツがいります。
つまり言葉で発するのではなく、なんらかのメロディとかリズムに合わせてメロディラインにすること。
まずは歌詞を即興で作りながら、それを音として表現すること。
これがメロディラインの作り方となります。
これは確かシンガーソングライターの人とかが曲作る時にメロディ口ずさみながら作るといったのを参考にしました。
音で歌詞を出すというのは、歌詞を音符に見立てて声を楽器のように出すのです。
もう声を楽器のものまねのように出します。
ですから歌を歌うというよりは、楽器のものまねをするようなイメージで歌います。
これだけでもぐっと歌い方が良くなります。
メロディラインという音による空間の面取りもぐっとしやすくなります。
歌は音で見えない空間に風景や気持ちを描き出すこと。
これはメロディラインの基本となります。
楽器というとなにを思い出すでしょうか。
太鼓に笛にカスタネットに木琴に竪琴にバイオリンにラッパにハーモニカにギターにピアノに口笛と。
とにかく思いつくような楽器の歌い方。
てなもんで。
2007−1−29 月曜日午後9時00分カキコ。
ソング考察。
アニソン考察。
何故アニソンは売れないのか。
ヒットしないと言ってもいい。
いや、別にヒットすることだけが目的ではない。
それは情操教育の一貫だったり、また気持ちを伝えることでもあるのだろう。
いーものであるのは分かっている。
それプラス新しいものをアニソン一曲一曲に提供すれば、アニソンは売れる、ヒットするだろうというのがアニソン考察いや、そこから発展したアニソン戦略であった。
これは大当たりしていくことになる。
別に新しいことを一曲一曲と言っても、まったく新しくなくていいのだ。
たとえばラップのリズムをサンデュ、組み合わせるとかそんなちょっとした隠し味のようなものでいい。
なにせ、アニソンというものは、当時はパンチが足りないような、質素な歌が多かったから。
2007年3月1日木曜日午前12時14分カキコ。
古い分岐たるメロディラインを得て、古い歌から新しい歌へ。
2007年3月16日金曜日午前3時11分カキコ。
音楽にはリズムがある。
これは共通してそうであること。
これは歌でもそうで、これが音の常識となります。
ピアノ弾くのにカチカチなる機械でリズム取ったりするでしょ。
それそれ。
この聞こえないリズム(じょーしき)に対して、歌や楽器の音をずらすと、メロディラインの走りやゆったりさがさらに表現される。




ビブラート
和声、ハーモニー
合唱
音域




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古い歌を聞いて古き歌から新しき歌へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
歌をひるがえらせる歌。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。
















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RPGの分岐。


分岐の始まり。
指輪物語を元にテーブルトークRPG、ダンジョンズ&ドラゴンズの登場。

ウィザードリィ(1981年)とウルティマ(1979年)の登場。


ファイナルファンタジー(1987年)とドラゴンクエスト(1986年)の登場。




コンピュータRPG




エンカウントバトル。
シームレスバトル。
リアルタイムバトル。
ターン制。




最近ではエンカウントであると上長とか、やってらんね〜ということが書いてありますが、シームレスでも中ボス戦はエンカウントであり、また作り手としては、その分岐はかなり重要な要素となります。
ウルティマの時に既に地上移動とバトルはシームレスです。
ウルティマはダンジョンに入るとウィザードリィのような画面なるとのこと。
とすると、ほとんどの要素はここにあると言ってもいいでしょう。
私はエンカウントではなく、シームレスであるべきと言って来ました。
これは採用されて、いまでは大半の新作、特にオンラインではシームレス前提となっています。
これは多くの人が集う中では、時間の流れを常に流しておく必要があるためです。
2006−12−9 土曜日午前1時24分カキコ。
ターン制とは。
用はターン制とは将棋とかチェスのように交代で攻撃と防御等の行動を繰り返すこと。
それはまあ当たり前ですが、そういったものはゲームの歴史の中で、かなり古いものです。
また、この手のチェスや将棋や囲碁には職業としてるプロもいるほど、人気のあるゲームです。
将棋とかをすることがしょーばいにまでなっているというのは、ずいぶん珍しいものです。
ビデオゲームのプロはちょっといませんね。
それをチェスの駒の代わりにゲーム内でロボットだったり、騎士だったりが腕をふるうというものが、ターン制となります。
そのものずばりチェスや将棋をするゲームソフトもあります。
2006−12−25 月曜日午後2時6分カキコ。
シームレスというと、画面が切り替わらずに戦闘に入るという意味があります。
けれども、FF12においては、どこへでも行けるという意味もあります。
移動にはそれだけ時間がかかり、またそこに旅の醍醐味があります。
モンスターが先ではかなり強くなり、一定レベルを上げてから行く必要があります。
もちろんひたすら走って行くことも出来るような。
そんな感じでしょうか。
−−−。
オンラインでも採用されているこのシステムは多人数が一緒にゲームプレイするのに適している。
たとえばアイテム錬成する職業がいたりとか、遠くのあるいはダンジョンから入手した苦労したアイテムを商人、まあ自分が商人の場合もあるけれども、そういうアイテムが貴重で高いこと。
これはアイテムのシルクロードシステムと言います。
シルクロードも、駱駝(らくだ)などを使って長い道のりを歩いて渡って、その物品は高く扱われたこと。
これはまー足で稼ぐのとおんなじかなあ。




チュートリアル。
説明書の発展系であり、ゲーム内で最初にある出来事について説明されながら、それでいてスムーズに進むこと。
難しい説明も、チュートリアルの項目や教室やネット(ゲーム内)での閲覧や師匠、仲間伽羅などとの話で勉強出来ること。
実際のネットでのホムペは閉鎖されてしまうことがあり、紙の説明書は無くしてしまうことがあるため、ゲーム内で一定の説明をすること。
2006−12−12 火曜日午後9時56分カキコ。
エンカウントとシームレスの両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
確立した本質からずれること。
2006−12−16 土曜日午後11時33分カキコ。
リアルタイムバトル。
これはようはアクションやシューティングや対戦格闘ものはすべてリアルタイムバトルです。
それをRPGとかシミュレーションに取り入れた場合のみにリアルタイムバトルと言います。
それ自体は前からあるのですが、FFではこう呼ばれました。
これはRPGのオンラインゲームに採用しました。
考えてみれば当たり前の話なのですが、多数の人が参加するネットゲーでは、誰かが考えているのに合わせるわけにはいかず、リアルタイムバトルが基本となります。
つまりはまあ時間が常に流れていること。
カキコ。
聖剣伝説2
これはシームレスバトルの原型としたものです。
オンラインRPGでも、これを原型(プロトタイプモデル)にしました。
というか、こういうゲームがしたい。
いやまあFFもドラクエも好きだが。
また企画立てるかなあ。




これはRPGの一面であること。
シームレスとエンカウントは世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
シームレスとエンカウントは表裏一体同じものである。
シームレスとエンカウントの両立のバランスを取り続けることの本質の確立がRPGである。








ストーリー
起承転結
プロット




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古いRPGを遊んで古きRPGから新しきRPGへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
RPGをひるがえらせるRPG。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−1−10 水曜日午後8時9分カキコ。
アニメの分岐。




漫画の場合は週間連載でも17枚程度×4=68枚程度。
週間連載五本とか持っていたなんつー話も聞きますが、話も作るので、これは超が付く仕事っぷり。
当然遊んでいるヒマ無し。
これに対してアニメは週間の一本30分もの(宣伝の無い実質は22分程度)で二万枚程度。
週にこんなに絵が増産されるシステムはいまもってアニメのみです。
いやいや、一人でやってる(アシスタントはいますよねの)漫画とは根本的に作りが違う。
質を量で補うやり方で、まーたいへん。
質を求めるならば、映画とかせめてOVAを企画したほうがましってものです。
これは初期、アニメ黎明期たる白黒の鉄腕アトムの時からそうであり、最初から無謀あるいはたいへんやな〜と言われた部類のもの。
そのため、幾つもの緩和策が作られました。
たまに総集編を入れること。
バンクと呼ばれる同じシーンを使い回すこと。
止め絵に口だけぱくぱく動く口ぱく。
これはいまでも有効というか、映画のアニメでも使われている手法にまでなっています。
他にも幾つかあります。
たとえばNHKアニメでは年間3ヶ月は再放送であること。
イメージイラストをそのまま原画として使うとかね。
止め絵は基本的にクオリティが高くて、動くと人海戦術に持って行くこと。
そうすると動くと質が低くなってしまい本末転倒ですが、そこはまーそういう手法もあると言いますか、テレビアニメの一面と言いますか。
実際には、ホンとかコンテの段階でかなり情景が上手ければ、止め絵に気持ちの描写ですんでしまったりします。
それはかなーり高いもの求められますが。
そうやって稼いでおいた枚数を見せ場で使うこと。
アニメってなんでしょうか。
作品とはなにか。
それは時間の進み方の軽快さと、季節の移りゆく姿を現す表現。
そもそも表現というものは時間の組み合わせで成り立っています。
伽羅の動きも自然の動きも、それは時間をとらえていること。
真に自由な時間に方向性を与えることが表現となります。
そもそもが存在や概念や物質というものが時間の組み合わせによって出来ています。
物質は固定した存在じゃないかと言うかも知れませんが、長い時間で見てみると、その電子とかなにか、その物質は常に運動していることが分かります。
時間の量、時間の質、時間の場によって存在は形成されています。
これを時間のサウンドデュアルと言います。
パズルのように組み合わせることもあれば、器を作ってから内側を作って行くこともあります。
それらは時間の方向性のひとつに過ぎません。
もし自由な時間というものにあなたならばどんな方向性を見るでしょうか。
そこにはきっと本質もあるはずです。
だってあなたはこんなにかわいいのですから。
それもまた方向性のひとつなれば。
いい作品になるかどうかは時間だけが知っている。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きアニメを見て古きアニメから新しきアニメへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
アニメをひるがえらせるアニメ。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












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2007−1−11 木曜日午後10時54分カキコ。
お笑いの分岐。




ボケとは確立しているじょーしきやバランスを崩しているアンバランスさ。
ツッコミとは、タイミング良く否定すること。
2007年6月25日月曜日午前12時21分カキコ。
フリートークのサンデュ。


みんなへの問い。
普遍、共通、一般。

本質への問い。
特殊、集合、新性。

問いかけと答え。
個別、蓄積、唯一。




だらだらと自分の思ったことを綴ったりすることかなあ。
最近はコントで出て来たりする人も、フリートークで番組を持つのが流れとなっていますね。
いやまあこれはうんお笑いだけではないですね。




−−−。
お笑いのサンデュ。


常識からずれること。
普遍、共通、一般。

本質がくすぐられること。
特殊、集合、新性。

笑い。
個別、蓄積、唯一。




お笑いもひとつひとつの積み重ねであること。
本質を問いながら笑えること。
大衆文学エンタメと純文学勉強の両立。
昔は純文学と大衆文学の対立というものが一部にあった。
勉強のために、質高くなるためにいい人になるために文学小説を読むのだというのが純文学で、大衆文学は楽しいエンタメね。
サンデュではこの両立を基本としており、そのバランス取りをするような感じだろうか。








ふとんがふっとんだ。
猫が寝込んだ。
たかさきはやとはスケベだ。
猫に小判(コンバ)ンハ。
とかね。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古きお笑いを笑って古きお笑いから新しきお笑いへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
お笑いをひるがえらせるお笑い。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












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車の分岐。




車をひるがえらせる荷車。
はしる〜はしる〜おれーたあちぃ。
2006−12−12 火曜日午前3時11分カキコ。
安全性と商売の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
燃費と環境性の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き車を乗って作って古き車から新しき車へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
車をひるがえらせる車。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












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機器の分岐。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き機器を使って作って古き機器から新しき機器へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
機器をひるがえらせる機器。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。












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DVDの分岐。


ビデオデッキをひるがえらせたものが、DVDになります。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きDVDを見て作って古き機器から新しき機器へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
DVDをひるがえらせるDVD。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。

















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経済の分岐。
2006−12−1 金曜日午後12時39分カキコ。
しょーばいと安全性の両立によるバランス取りによる本質の確立。
お金しぼって。
時間しぼって。
本質しぼって。
2006−12−2 土曜日午後12時38分カキコ。
貧困な人が金ね〜と言うのは良く分かる。
けれども、雑誌とかテレビでは、年収うん億の人が金に困っている。
経営がとかあれがこれがというが、それは実に変な気がしたものだ。
お金ではなく、バランスが取れて無いという結論にここから行き付く。
2006−12−9 土曜日午後2時32分カキコ。
山の麓にある喫茶店で、値段が高い店があるという。
登山客のために開いているので、値段を高く設定しているという。
なんだか安ければ安いほどいいような気がするものだが、場面によっては高いほうがいいこともある。
その値段に意味があることもあるのだ。
十分な資材に資金があってふんだんに人員がいて、というのであればいいが、実際にはそんなこたあない。
その状況の中で工夫するから人間味が生きて来るのだ。
いやまーあるにこしたこたあないのだが。
2006−12−25 月曜日午後5時37分カキコ。
中小企業対策費を上げれば長い目で見れば経済が良くなります。
大企業は中小があって初めて成り立つものであり、逆に大企業だけで成立するものでもありません。
これは商店などでもそうで、大型店ばかりでは、その経済交流に暖かみなども薄くなってしまいます。
道路や施設などの大型、所謂箱物というものは、作ればカンフル剤のように経済が良くなりますが、それは短期的なもので、コストはかなりかかります。
これはどちらがいいということではなく、そういう性質があり、場面によって使い分けるということです。
もちろん、この両立無くして経済は成り立ちません。
そしてもっとも小さな個人消費がひとつひとつそしてもっとも確かなものであること。
企業消費は資材を買い入れて販売する一般的なものです。




経済のいま現在の世界樹の枝先。


企業消費。
普遍、共通、一般。

道路建物、役所による大型投資。
特殊、集合、新性。

個人消費。
個別、蓄積、唯一。




市場経済
計画経済




市場経済と計画経済は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
市場経済と計画経済は表裏一体同じものである。
市場経済と計画経済の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が経済である。


2007年5月20日日曜日午後10時7分カキコ。
資本主義経済と社会主義経済の違い。
まず経済とはなにか。
それは蓄積された物品やエネルギーなどの配分方法であること。
たとえばそれは車であったり、電気であったりします。
それをどう配分するのか。
民間会社と市場に委ねるのが資本主義経済です。
これは競争社会と言われる部分であり、お金をたくさん持っている人が優位な一面があります。
社会主義経済とは国が物品やエネルギーを管理して、一定規制をかけること。
国による配送車の台数制限などによる労働者の保護や石油などの国特有の利益の国民還元などがこれに当たります。
どちらがいいということではなく、このふたつが両立バランスされて国というものが形成されていると言えます。
共産主義経済は無料です。
ボランティアなどはある意味そう言えるかも知れません。




資本主義経済。
普遍、共通、一般。

共産主義経済。
特殊、集合、新性。

社会主義経済。
個別、蓄積、唯一。




2007年7月30日月曜日午後7時21分カキコ。
社会主義社会と資本主義社会と共産主義社会。
社会主義社会はその国の人がすべて生活に一定の安定を得られること。
これに対して資本主義社会はお金での物品の流通であるため、比較的成立しやすいと言える。
ちなみに共産主義社会は世界のすべてが一定安定を得られる社会であり、……ちょと広大過ぎて想像しにくいものではある。
資本主義社会と社会主義社会は表裏一体同じものであり、このふたつの概念要素から国は構成されている。
社会主義と資本主義は国という概念を構成する元素のようなものである。
このふたつが両輪となって国を走らせていると言える。
国が借金にあえぐのも国益が商売が上手く行ってない面があり、それによって行政が国民の衣食住に補助出来ないこと。
それはつまりは生活と経済が密接な関係にあるからである。
政府などいらないという人もいるが、すべての人が企業して自分で生きて行けるものでもない。
また会社や個人よりは国が責任を最後には取る最後のラインである。
いやまあ会社や個人や国も責任が取れない時は第三者がボランティアで責任を分散して取ることになり、たとえば天災の時には会社も個人も国も動くが、第三者たるボランティアも動く。
共産主義社会では全物無料となっており、この第三者のボランティアのみで経済と生活は運営される。
既に会社も国もその時は無いのである。
もうお金に困らない。ということで、全物無料になりませんか鈴鷹さんとか聞かれることがあるが、たとえば観測方法があって、宇宙の果てまでとか何十光年先まで見ることが出来ても、そこまで行く伝達手段が無い。いまはやっと大気圏を突破するのに効率的なものはないか探している程度である。
それは経済制度においてもそうなのだ。

201?年11月14日午後10時16分カキコ。
税金は義務として国民にある。
これは福祉や医療やとにかくまあ生活を良くしてもらうために払っているのだ。
たとえば消費税は大陸では一般的だ。
これはどこの誰が国境を越境して来ても税金を課すために便利なのだ。
大陸ならではの税金と言える。
日本では石油に付いてる税金は道路にだけ使えるようになっている。
外国では石油に付いてる税金は環境や福祉などに使われたりしている。
煙草(たばこ)も大半が税金であり、福祉に貢献してると言える。
税金が個人に使われる場合は医療費の無料や生活補助費用として支出される。
また学校や道路を作ったり、共通の建築に使われることも多い。
ここいらへんのバランス感覚が政治家と役人と経済学者の腕の見せ所である。











経済の分岐ラス。




そこそこ自分のペースで歩いて行こう。

なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き経済を構築して古き経済から新しき経済へ。


古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
経済をひるがえらせる経済。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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課金の分岐。


労働と米、麦等の物々交換。
労働と賃金の交換。




実際の話、人の働きの評価をするのに、お金以上の本質というか物品というか物差しを人はまだ確立していません。
お金の代わりに感謝の言葉や感想などを書くとおっけいなどをすれば、ひるがえりも得られていいですが、そこまでのシステムというものはまだ確立されてません。
福祉などはこれに近いものがあります。
ではでは、まずは現在最高の確立である労働と賃金の交換。
市場の確立、そのためにはなにが必要か。
まずはネット決算というものは送り手には無いということ。
これはまあ本質的には受け手もそうです。
ようは人と人のやりとり。
これが基本です。
ATMという機械やカード番号の送付で勝手にやってくれていそうですが、やはりその向こうには人がいるということ。
その機械やネットは簡易的にするためのそのツールに過ぎません。
基本中の基本というか、じょーしきは人から人へと手渡しであること。
この発展系での機械でのATMやトラックの運ちゃんとの決済、カードでの決済であること。
たとえば電話線というものはレンタル業であること。
その代わりに世界中へと電話を掛けることが出来ます。
ネットもこの延長上にあります。
かなり初期の姿のネットもこのレンタルベースでのその都度の時間課金でしたが、月の上限を決め、それ以上は課金しないのが一般的です。
これはケータイにも採用され始めています。
2006−12−5 火曜日午後11時35分カキコ。
ケータイ販売では、ケータイ本体の機器が2万〜6万弱のご時世にまずは安く作って新規は0円で購入可能ということ。
2006−12−6 水曜日午後7時50分カキコ。
パソコンとネットの課金。
パソコンというものは、かなり課金としてはへたれな一面を持っています。
いやまーそもそも作り出したはいいけれども課金には至っていないものってたくさんあるのですが。
パソコンはかなり開かれた場である一面がある一方、お金というもののやりとりが確立されにくい一面もあります。
パソコンで課金が成り立っているのは、広告とか、ソフト販売とか、機器本体の販売など。
それでもパソコン本体関係はふつーにしょーばい出来ますが、ネットとなるとかなり難しくなります。
ネットそのものには課金のしょうがないということ。
アダルティーな映像など、一部の映像以外で課金はほとんどされていません。
そもそもネットの定額の使用料金というものは電話関係の会社に払っていて、ネットそのものの回線は誰でも使えるけれども逆に言うとそれは課金もされにくいという特性があります。
そもそもネットとは電話回線を視覚的にしたもので、やってることは電話回線の発展系でしかありません。
電話は使っただけ料金が発生して、0990などはそこいらへんがネックでしたが、ネットではほぼ定額制が定着して来ました。
ネットをテレビ放送に見立てて広告を立てる。
これはネットのコンテンツで唯一と言っていいほど有効な課金制度です。
その他ではもちろんソフトや機器から家具等々の物品を販売すること。
これは用はチラシ配ってやっていたのをネットでしてるということでしょう。
カキコ。
ATMは深夜でもあるいはコンビニというどこにでもある店舗でお金を貯金から引き落とせるということを考えたものですが、深夜と休日には課金されます。
金額は百円二百円ですが、これが課金になります。
もちろんコンビニでお金を出すなんてことはたまにしかないことかも知れませんが、それでもこれが結構地味にしょーばいなのです。
データ転送では、オンラインゲームのアイテム課金、また家庭用機でも、データ転送による課金などがあります。
ネットでは時間速度が凄い速く、企業は直ぐに課金制度を作らないと負けます。
ウィニーうぜ〜とか言ってるまに、それで課金出来る方法を確立してしまうほうが速いのだ。
もちろんウィルス対策も含めてね。
2006−12−16 土曜日午後11時54分カキコ。
税金もひとつの課金であること。
福祉や公共の道路や建物を提供する代わりに課金されていること。
企業ではこれはリストラが課金となります。
サービス残業は基本的に違法ですが、これが合法ならば、これはまー企業はその一時は楽かなあ。
これもバランスであり、両立のひとつに過ぎないのかも知れません。
分からないのかーというと、世の中分からないことだらけです。
けれども国というか役所ならば福祉や公共物やサービスの提供がありますが、企業の課金にはなにがあるでしょうか。
企業が商品など、消費者とか株主とか受け手にサービスするのふつーですが、ひるがえってそれをする社員にする福祉やサービスとはなにか。
たとえば、保育所というものは一企業が社員に初めたサービスが始まりでした。
社員食堂とかもありますよねえ。
ちょっと安かったり、企業によっては社員には無料だったりします。
2006−12−25 月曜日午後11時36分カキコ。
商品やサービスの質と価格の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
これがヒットとなります。
高級品ならば高いほうが良く、機器関係は保護されていないので、卸値から崩れて行きます。
本やCDなどには一定、定価があり、これは文化を守るためとされています。
もちろん中古やレンタル店などもあります。






Altair 8800
課金
賃金




古き課金を試して古き課金から新しき課金へ。

賃金と課金は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
賃金と課金は表裏一体同じものであること。
賃金と課金の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が給与体系であること。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
賃金と課金をひるがえらせる賃金と課金。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。















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2006−12−3 日曜日午後7時51分カキコ。
主義の分岐。




資本主義路線と社会主義路線。
主義というものが、幸せへのアプローチの仕方だとすれば、資本主義路線というものは、市場の活性化が世の中を良くするというもの。
社会主義は生活改善が世の中を良くするというもの。
別段それは性質の方向性であり、いまの場面を見て、そのバランス取りはその時の政治に左右されることなります。



社会主義市場経済。
国(役所)による生活の改善と企業による市場競争力の両立。
これは上手く行けば生活が改善されて企業も活性化するが、だめな時は生活が破綻して、しょーばいどころではない。
それって戦争なのか。
そーかも知れない。





2006−12−6 水曜日午前2時3分カキコ。
え、資本主義だけか、社会主義だけ、どっちかだけで行きたい、と。
まー行ってみいやあ。
強力な力でいきおいで行けるとこまで行って来なさい。
応援してるでー。
2006−12−8 金曜日午後9時25分カキコ。
金にならないから商品を廃棄する。
資本主義の限界の一端ではあるが、それは社会主義の限界の一端でもあるのだ。
対になった概念、経済方式の限界でもあるのだ。
だからまあどちらかだけ論じては画竜点睛を欠くというもの。
もちろん、人は窮地に達すると口で言ってることよりも凄い力を発揮するものだが。
いやまー温風ならはそれでいいことではある。
あるある。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き主義を考えて古き主義から新しき主義へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
社会主義市場経済をひるがえらせる社会主義市場経済。
共産主義全物無料をひるがえらせる共産主義全物無料。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。














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政治の分岐。
右派(右翼)と左派(左翼)があり、これは憲法300年の歴史を持つイギリスで始まり、王の右側にいた方を右翼右派、左側にいた方を左翼左派と言ったのが始まりとされます。
近代では法律という軸線上に右と左と考えられます。
右派は市場活性化に強く、左派は生活向上策に強いと一般的には言われます。
右派は好戦的で左派は平和主義的と言われることもありますが、国や場面において、左派も往々にして好戦的に転じることもあります。
政権に着いている与党の方を保守、野党の方を革新とする分け方もあります。
選挙相手を扱(こ)き下ろして勝つ人もいますが、内容としては、テーマとなることの両立してバランスを取り続けるひるがえりの力で判断すべきとは思います。
まー仕事というものは本来はそうかも知れません。
2006−12−14 木曜日午後1時53分カキコ。
政治の三点。
民主主義。普遍、共通、一般。
国民が政治のバランスを取り続けることの本質の確立。
官僚主義。特殊、集合、新性。
政治家と官僚が政治のバランスを取り続けることの本質の確立。
個人主義。個別、蓄積、唯一。
ひとりひとりが政治のバランスを取り続けることの本質の確立。




2006−12−22 金曜日午後6時7分カキコ。
市場経済の政治としての意味は、経済の交流があれば、国同士は上手くいくというスタンスがある。
しょーばいしてるだけで良くなるかは疑問だが、そういうスタイルがあり、一定それでうまく行っている国もあるような。
2007−1−5 金曜日午前12時8分カキコ。
第二次大戦後、アメリカがというか、なにか戦の火種を嫌ってきた感じを受けていたが、この第二次世界大戦は苛烈過ぎる。
だから小さなうちに納めて(?)しまおうと、ベトナム戦などはしているような気がする。
つまり大戦争になるまえに徹底的に潰すとでもいうか。
ソ連とアメリカの核の山のように積み上げ競争はいまだに良く分からないが。
私は、生活を敵味方良くして、話をする。
裏表なく、それだけである。




カキコ。
社会主義と資本主義は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
社会主義と資本主義は表裏一体同じものである。
社会主義と資本主義の両立のバランスを取り続けることが政治である。




政治の分岐ラス。


ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を得て、自分の歩幅で歩いて行くこと。

なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き政治を顧みて古き政治から新しき政治へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
政治をひるがえらせる政治。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−1 金曜日午後6時10分カキコ。
刑罰の分岐。




刑務所の基本は閉じこめて服役をうながすものですが、最近では交通関係であれば、車に乗って安全運転を徹底させるカリキュラムを取り入れたものや、事業系の罪であれば刑務所から企業に出て通勤するというものまであります。
発信器を取り付けて街中を歩けるものや、海外渡航禁止など、一定の行動の不自由なども服役の部類と言えます。
服役をするというものがそれまでの罰の分岐としてはもっとも有効であると長いこと言われていた方式です。
死刑制度はこれとは別で、法律が殺人を認めるかということ。
死刑制度は国が戦争や犯罪の理論を一定認める面があり、体罰は子供への虐待などが指摘されていて、最近では個人の資質よりも場が人の行動を大きく左右することも考慮され、刑務所などの服役、空間としてその人をとらえるという罰が幾つかの発展系としては見られます。
個人を罰する刑罰が罰の基本でありそれが犯罪予防と言われるが、最近は場の改善によって犯罪予防をすること、また、ひいては戦争の予防となるという場の安定性も問われることがある。




罰のいま現在の世界樹の枝先。


刑務所などの服役。
普遍、共通、一般。

死刑制度。
特殊、集合、新性。

体罰。
個別、蓄積、唯一。


2007年2月24日土曜日午後10時45分カキコ。
人の9割は罪人。
厳罰必罰に処すれば、人の3分の1は処罰されるだろう。
場が人を構成していること。
その人がその人としてあるべき姿でいられる場があること。
それが本当の罰なればこそ。




刑務所
死刑
体罰

刑罰




2007年4月21日土曜日午前9時38分カキコ。
凶悪事件の原因はネットとテレビゲームに依存してるからという指摘などがある。
ではテレビゲームやネットが出来る前はなにが犯罪の原因とされたのか。
それはテレビだったり、一部の文字の本だったりした。
また一部には悪魔が人にとりつくからとか、遺伝が関係してるなども真面目に論じられた。
基本的に、犯罪の原因は生活不安であること。
これが近代科学の常識だ。
もちろんその人がどういう生活を積み重ねて来たのかということもあるだろう。
犯罪に耐性がなかったとか、そういう側面も論じられてしかるべきだろう。




犯罪理由。


生活不安。
普遍、共通、一般。

希望の方向性。
特殊、集合、新性。

個人の趣味趣向。
個別、蓄積、唯一。




生活が安定すれば犯罪の発生確率縮小やその予防は可能であること。
衣食住医療福祉の充実。
その地味な積み重ねが必要であること。
いやまあ米とか麦の栽培がされるまでは犯罪は無かった。
その蓄積の差が出るようになって始めて争うという概念が始まる。
まあ狩猟の時代でも獲物を巡って喧嘩になることはあっただろう。
けれどもここまで組織的に戦うことはなかったのではないだろうか。
蓄積の差が差別の原因にも成った。
それは強力な対立をも作り出したが、けれどもそれは人が人になるのに世の中にはあったものであった。
蓄積を守るために防衛する武器も蓄積され始める。
人を倒すための武器。
弓や剣はここから独自の発展を見ることになる。
いまやその武器は世界を滅ぼせるほどにまで強力になっている。
希望の方向性というのは、破壊したほうが希望があるという方向性を取った場合。
随分過激な意見(?)というか方向性ではあるが、時に国の方策となることもある。
希望をなにに見いだすか。
それはまあ本質のひとつではあろう。
いま出来ることは生活の安定策を地味にちまちま尽くしていくこと。
裏も表もなくそれだけであること。
2007年5月21日月曜日午後1時57分カキコ。
財貨罪論(ざいかざいろん)と人罪論(じんざいろん)。
人が犯罪を犯す時、それはその人が根っからの悪党だから、または悪魔にとりつかれたという観点も昔はあった。
遺伝子によって悪党ぶりが遺伝するという研究までされている。
最近では、家庭や社会情勢の反映、またテレビゲームや残酷な描写のある作品などがその理由とされることもある。
また考え方が人をだめにするという観点もあり、共産主義は悪であり、共産主義者となった者は悪党とみなして、即刻逮捕されるということも起きた。
精神病が人を悪党にするという外部説もあるが、どちらかと言えば、それならばお金から解放されて純粋な気持ちになるものではないだろうか。
これらは総じてようは人に罪を見る論理であり、これを人罪論(じんざいろん)と言う。
これに対して、財貨罪論はお金が人が悪に走る理由とする。
そもそもが狩猟と木の実を取ることでその日暮らしをしていた人類は、麦や米を作るようになって備蓄が出来るようになった。
が、この備蓄は持つ者と持たざる者を作り出し、貧者と富者をも作り出した。
余裕が出来たことで、人の生活はいろんな広がりを見せ始める。
けれどももうひとつ善と悪の概念も作り出された。
つまりは備蓄を奪う者は悪、それを阻止する者は善となった。
米や麦の備蓄が多くなればなるほど人はそれを奪い合い、それは戦争という事柄にまで発展して行く。
蓄積によって人はかなり高い段階の余裕を得た。
これによって他の追随を許さない生活の豊かさを得た。
けれども、蓄積された物品やサービスを個々人に配分するためのシステムはまだまだ未熟だった。
生活の不安定さに人は容易に犯罪に走り、また戦争も起き続けていた。
居場所衣食住医療福祉によって生活が安定する時、人は余裕のある良質な時間を得ることが出来るのだ。
気持ちのバランスを崩した人の場合は人罪論で一定説明出来るが、バランスの取れている人はこれまで説明出来なかった。
人は暮らす場によって大きく左右されてしまうものなのだ。
穏やかに暮らせるかどうかはその生活の環境にかかっていると言っても良い。
2007年5月26日土曜日午前2時15分カキコ。
財貨罪論(ざいかざいろん)。
普遍、共通、一般。

本質罪論(ほんしつざいろん)(科学面)。運命論(宗教面)。
特殊、集合、新性。

人罪論(じんざいろん)。
個別、蓄積、唯一。




その人によってこそその人は生活のバランスを崩すのであり、その人に罪がありそれまでの人生の経過が悪いととらえるのが個人の罪を問う人罪論。
お金によって人は生活のバランスを崩すのであり、お金こそが罪であり悪ととらえる財貨罪論。
居場所がないことによって人は生活のバランスを崩すのであり、居場所がないことが罪であり、悪ととらえるのが本質罪論。
人罪論においては捕まえ更生施設に入れ、財貨罪論においては無償での救い、本質罪論においては居場所を探すこと。かな。
201?年11月13日午後4時52分カキコ。
ユダヤ人陰謀説などが昔からあり、悪いことはユダヤ人のせいだと言われたりしました。
またこういった話はどこの国や民族でもあります。
魔女狩りもそうですが、これは人に罪を見ているから起きることです。
人罪論ではまず人を疑うスタイルが作られやすく、誰かが悪いという魔女狩りやいじめが起きやすくなります。
考え方を問うのも広い意味での人罪論です。
宗教では人は悪くない、神がすべて決めていらっしゃるという運命論もありますが、これは科学的ではないという人もいます。
財貨罪論ではお金に罪を見るので、その人個人の個性を見ない。
どういったお金の流れが生活に影響を与えるかの状況を見る。
頼れる人がいたり、福祉が充実していて生活が良ければ犯罪は起きないと考えるのだ。
このため財貨罪論は死刑制度や戦争を警戒する考え方のスタンスが取りやすい特色がある。










刑罰の分岐ラス。


なんとかなるさ。そうなるさ。そのうちそこそこなっていくさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。


古き刑罰を罰して古き刑罰から新しき刑罰へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
罰をひるがえらせる罰。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−6−13 水曜日午後7時21分カキコ。
戦争と平和の分岐。




戦争と平和。
戦後日本には米軍がいて、北方の島国(八島〜四島程度)は当時のソ連が占領した。
これは後々ロシアの領土となり、日本のもっとも近い外国はロシアとなった。
米軍は日本に基地を置き、また新性日本政府に幾つもの政策を施した。
そのひとつは有名な憲法九条であり、その内容たるや戦争をしないという、 この手の条文ではなかなか珍しいものとなった。
当時は平和主義者がそういう憲法文を模索していた時期で、 もっとも戦争の爪痕が酷い日本にこれ適用となった。
連合国軍米軍の統治政府はGHQ(ジーエイチキュー)とか進駐軍と呼ばれ、 沖縄などはしばらく法的にアメリカであった。
平和憲法を敷いたGHQ。
これは当時の日本内外の平和主義者から絶賛されることになる。
その一方GHQはいろいろな面で日本が戦争した理由を探していて、 たとえば柔道が戦争の原因のひとつと見て、これを禁止しょうとする。
これは後々話し合いの末に認められて行く。
戦後始まったNHKの年末恒例紅白歌合戦も、 合戦のとこが戦争を意識させ、日本国民を戦争に駆り立てると、 GHQが許可に難航を示したほどだった。
その程度で戦争になるなら、しょっちゅう戦争になるまいにとは思うが、 当時はいや近代においても、戦争の原因はなかなか分かっていなかったのだ。
そのGHQの試行錯誤のひとつひとつはなんとも地味というか、 実に変にこみいったことに細々(こまごま)と指示されたものだった。
サウンドデュアルでは戦争は生活不安から起きるとしており、 衣食住医療福祉居場所の確保が必要という提示がある。
これはいまの世界的な常識として認められつつある。
人がバランスを崩す一番の理由は生活にあり。
そんな主張がいまは普通になされるようになった。




−−−。
国が集団が人がバランスを崩す時。


生活不安。
普遍、共通、一般。

労働と賃金の交換。
特殊、集合、新性。

衣食住医療福祉居場所の不足。
個別、蓄積、唯一。




まあこういうことばかり考えていると頭が痛くなるので、エンターテイメントは常識からずれることにそのひとつの意味がある。
衣食住医療福祉の中には生活に必要なものを揃える必要があり、時にそれは国が生活保護という形を取ることもあるが、フライパンまで認めるのか、エロ本まで認めるのかなど、実に悩む点である。








戦争と平和の分岐ラス。戦争の分岐ラス。平和の分岐ラス。




なんとかなるさ。そうなるさ。そのうちそこそこなっていくさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き戦争と平和を得て古き戦争と平和から新しき戦争と平和へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
戦争と平和をひるがえらせる戦争と平和。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−1 金曜日午後6時10分カキコ。
仕事の分岐。




能力主義と年功序列の両立とそのバランスを取り続けることの本質の確立。
働きと休みのバランス取り続けることの本質の確立。
2006−12−11 月曜日午後11時27分カキコ。
だめな上司をまかせられる部下。
だめな部下をまかせられる上司。
それを包容出来る会社と社会、そして地域。
−−−。
成果主義が問題があるならば、対となる年功序列にもいまある限界があること。
成果主義(能力主義)と年功序列の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
2006−12−11 月曜日午後12時57分カキコ。
イメージと集中力の両立のバランスを取り続ける本質の確立。
集中力は50分程度で、それ以降は散漫になって行くので、休憩も。
とかんなんとかん。
カキコ。
リストラとはなにか。
まずはそれは解雇の場合は規模の縮小であること。
人が力であること。
それはなんやかやそこそこ。
それを減らすのだから、それだけの規模の縮小を意味する。
無駄使いを減らす意味で使うこともある。
効果としてはなにがあるか。
まずは一時的に資金が確保出来ること。
だから決済前にリストラして、ある程度持ち直したらまた雇うとこもある。
規模の縮小としては、その部門を売却または減らすことがあげられる。
利益のあがらないとこはこの手のリストラの直にあげられ、それが長い目で見れば有益な場合も含まれることもある。
リストラとは本来の意味とゆーかスタンスは最適配置であり、たとえばそれはかなり重要な職ならば社員化して人材の流出を減らしたり、バイトならば日当日払い可能にしたりすることも一例としてはある。
人数のバランスを取る意味でも使われるが、大抵は時間というか作業が減らないのに人員だけ減らされることが多く、概ね評判は良くない。
最適配置で言えば、能力主義実力主義による配置でもっともそれを実現してる仕事は作家かも知れません。
これは本の売れ上げがそのまま仕事に直結するものです。
2006−12−22 金曜日午前12時9分カキコ。
掃除のバイトとか、交通誘導とか写植のバイトとかやっていたけども、やっぱりたいへんなことも多くてね。
アイディア出してもなかなか採用されなかったり。
でもねー。
お金出しても手に入らない経験を数多くしたなあ。
これはほんとに得難いもの。
たとえば交通誘導でこれが出来ないかと先輩が代わりにやってみても出来ない。
先輩と苦笑いしたりしたなあ。
逆にさっとお手本を示してくれたりして、かっこいいなあと思ったり。
そこいらへんは、踊る大捜査線で、事件は会議室ではなく、現場で起こっているんだという言葉で表現した。
人と奏でるメロディ。
それが人生なのかもなあ。
って、これは人生の分岐に書けば良かったかな。
まあそこそこ。
2006−12−23 土曜日午後7時41分カキコ。
調子が出ない時はバランスが取れて無いことが多い。
時間をかけてじっくりと質を磨きたい。
もちろん、一定の量をこなしていたほうが質のバランスを取りやすい。
また一定の質がなければ、量をこなすことは難しい。
量と質のバランスが取れている時、それは場となります。
2006−12−29 金曜日午前3時56分カキコ。
仕事を頑張るというのは、そもそも固定観念です。
これが過ぎると健康に害してしまいかねません。
それを柔軟性がやわらげくれます。
柔軟性とは、臨機応変とか、ケースバイケースなどの意味でもありますが、こういった固定観念と対となることにも意味があります。
固定観念は地道に積み重ねのことであり、時間の方向性では過去形です。
固定観念と柔軟性の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
これが活動のバランススタンダードとなります。
2006−12−31 日曜日午前2時14分カキコ。
知識と工夫の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
それが技術である。
2007−1−1 月曜日午前12時56分カキコ。
試行錯誤は古い枝を歩き、新しい枝を探すことに違いない。
2007−1−1月曜日午後7時13分カキコ。
ちまちまちまちまと小さな働く場の改善を積み重ねて行って、そこから大きく変える。
一気になにか大きく改善されることは無いこと。
蓄積された個別から共通へと行くこと。
それが本質たる特殊な新しき枝葉となること。
世界樹の枝は実りを付ける。
それはいまある枝の先に違いないことなのだ。
2007−1−21 日曜日午前7時29分カキコ。
一度言って改善するならミス。
二度言って改善しないなら状況。
それはもちろんひるがえって自分も、である。




雇用
解雇
リストラ
成果主義
能力主義
年功序列




2006−12−22 金曜日午前12時54分カキコ。
ここではリストラは解雇を含む再編成と位置付ける。
雇用とリストラは世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
雇用とリストラは表裏一体同じものである。
雇用とリストラの両立のバランスを取り続けることの本質の確立が企業体制の再構築である。
能力主義と年功序列は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
能力主義と年功序列は表裏一体同じものである。
能力主義と年功序列の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が給与体系である。
2007年4月4日水曜日午後12時19分カキコ。
合理化、リストラ路線。
科学的に合理的に企業や役所などの組織を運営すること。
おんなじ仕事ならばキャリア関係なくさっさと残った仕事を手の空いてる人がして、終わらせること。
途中で軽いアドバイスはいいけれども、注意すると作業の流れが途切れる。
よっぽど相手が新人か、かなり細かい仕事ならばともかく。
そうでなければ、注意は仕事が終わってからすること。
もちろんその時に直ぐにした方がいいこともある。
そこはまあ結局ケスバイケスで。
注意とは矛盾を改善しょうとしており、一言言って場所や時間構成が変わることは少ないと思う。
それよりはスケジュールやこの作業にはどれだけの時間が必要かを色々と検討すること。
それだけの時間と空間の両立並列のバランス取りがあること。


もうひとつには合理化とは少数精鋭で競争社会に戦う場のこと。
この場合の少数精鋭とは人を減らす意味あいではなく、その企画に必要な人がその時々に集まって柔軟に働くこと。
また病気や子育てや介護やなんらかのその人の事情にも柔軟に対処すること。
仕事に必要な人たちが柔軟に集まれる場。
のこと。
とかなんとかね。
2007年4月7日土曜日午前1時9分カキコ。
人は注意されると萎縮する傾向にあり、方向性をお互いに模索するほうがいいとは思う。
また注意した場合はその注意したことをメモしておいて、どういったことなのか、状況はなにか、どうすればいいのか模索しておきたい。
そういった社内掲示板を会社内ネットを作ってスタッフの意見を集めてもいい。
注意点を書き出しておかないと厳しい現実への対処に場当たり的になってしまう。
ライブ感を出す場合などを除けばだろうか。
また注意しても人には個人的限界があり、それよりはいろんな人と組んで働ける場があるほうがいい。
相性の悪い人やいい人と働くことで、人はひとつもふたつも大きくなれるものである。
注意とはポイントのとらえ方であること。
それはなかなか教えられるものではないこと。
そしていいものには決まって時間が必要である。
2007年4月8日日曜日午後6時49分カキコ。
サービス残業は日常化していると働く場がなくなる要因になること。
どうしてもまずい時や、なにかの戦略があってのことならばともかく、日常的にはなくていいこと。
たとえばこの一年を乗り切れば、お金が入る目論見があって、それに賛同するとか。
かなり賭博的な働き方だなあそれは。
重要な仕事の順番を書き出してその順にこなすこと。
それで時間になったら帰っていいこと。
それでさらに時間が必要ならば、もっと時間や人材を要請すること。
時間の倹約も有効なので、こうすると時間の節約になるとか話したりしていやまああまりにせっつかれる仕事ではねえ。
まあ機械的に(?)おんなじことするような仕事の部分的な時間ならば、効率化も有効なのかなあ。
まあそこはケスバイケスでね。
人はお金を持っていない。
お金は経営と家族のためにあること。
人にあるのはひとつの時間である。
2007年4月12日木曜日午後11時14分カキコ。
合理的な系統だった仕事をするためには、キャリア上司部下関係なくアイディアを出して職場のあり方を維持したり変えたりすること。
といって目上にはそれだけの年季(?)を一定尊敬にしたいとこではあります。
試行錯誤していいものを採用していくこと。
企画や時間配分から方向性などなど。
アイディアを出して、それに優先順位を付けてそれから決めて行くこと。
アイディアを採用する時に時間がもうない時はその場のまとめ役に取捨選択してもらって決めること。
いまという状況はほとんど的確にとらえて見ることは出来ない。
自分が所属する集団や自分のこともとらえて見ることは難しい。
そこを時間をかけてとらえて行って、さらに次の一手を打って行くこと。
それが分析と戦略であること。
裏も表も無い。
ただ時間かけてひとつづつの地味な積み重ねがあるのみである。
まあ無理せんとそこそこ行きましょうか。
無理はバランスの大敵やでえ。
あんじょうせいやあ。
2007年4月21日土曜日午前10時1分カキコ。
量販店では商品を安く売っている。
これはどうして可能なのか。
それはひとつには現金で買い込んで来るから。
街の小売店とか問屋などの中間業者は信用取引として現金を月末決算とかにすることがある。
これに対して量販店は即行で払ってくれること。
商売はお金ではないとは言っても、やはり先立つものが必要な時がある。
そんな隙間(?)を埋める商売取引となっていること。
多少ずるいような気もするが、いやまあこれもひとつの商売には違いない。
また店舗がたくさんあれば、数を買うことによって安く交渉することが出来る。
ほとんどここまで来ると邪の道は蛇である。
小売店は無くなってしまうのか。
それはまあ保護する法律や、大型店の出店反対、また量販店とは別のサービスを提供することで生き残り策を模索することもある。
たとえば小売りの電気店では、地域に密着したサポートを展開してお客様を獲得するなど。
2007年4月23日月曜日午後7時15分カキコ。
企画会議では、いま必要とされる情報を元にそこから個別にひとつひとつ状況を分析します。
それから共通を見て、この共通の状況に有効なひとつひとつの戦略を立てます。
この個別戦略が特殊となって現実と戦う武器となります。

−−−。
クオリティを上げろと、質を上げて時間をかけろとは良く聞く話。
けれどもそれで日常的にサービス残業の状態になると効率は錆び付いてしまって動かなくなってしまいます。
これによって固まった時間が固定観念になって柔軟性が失われると言ってもいい。
ので、クオリティを上げる時は、質を下げる部分を一緒に提示すること。
質上げと質下げの両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が上手く行くということであること。
これが業務を効率させます。
これは家庭でもそうでね。
家族にでらでらこれやれあれやれ言う(?)んでは優しいとは思われないのよ。
あれとこれは上げ下げでね。
そこのバランスが効率の根幹と言っていい。
いやまあここぞという時は突っ走る時もあるかも知れないけれどもね。
業界が短期間予測の好景気とかね。
とかなんとかなんつったりしてね。
−−−。
批判してばかりでは気持ちが鈍くなってしまいます。
批判したり怒ったりしたらば、その日でなくてもいいので、それよりちょい以上に褒めたり感謝したりすること。
批判と感謝の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が上手く行くということであること。
これが人間関係を滑らかにします。

−−−。
質の低い仲間と質の低い資材で仕事していたらいつまでも儲からない。
いろんな人とコラボすることで、人は質高く成れる。
質の高い資材を厳選することで、その組み合わせで高い段階へと進むことが出来る。
いやまあとにかく量数の安売りが得意というとこもあるので、一概には言えないのかも知れない。
まあケスバイケスでね。

−−−。
生活不安解消のために、衣食住医療福祉のために働くこと。
その時間の積み重ね。
世の中を良くすることは裏も表もなくそれだけである。
2007年5月11日金曜日午後11時32分カキコ。
日々人は仕事と生活の両立をしていること。
それに心配事が加わると、心配と仕事生活の両立となってしまう。
仕事は休みがあり、生活は時に弁当でも買って来たり、洗濯を家族で交代したりする。
仕事と生活には休みや変わってもらうことで、両立が可能なのだ。
けれども気持ちの心配事は違う。
心配事に気持ちのバランスを取ることが出来なくなる。
そうすると心配事のために仕事と生活の両立も取れなくなり、いずれくたばってしまう。
そんなに心配しなさんな。
だいじょうぶ。
そこそこだいじょうぶ。
まあなんとかなるでしょう。
とかね。

仕事と生活の両方を休む時があること。
これによって両立することが一定休めて心配事にも対処出来る。
両立しない時がそこそこにすることとなり、余力が出来る。
つまりは余裕や余力が出来るのだ。
余裕や余力があれば現実に勝つ。
というのは、余力があれば現実に対して柔軟に対処出来る。
現実の硬直感に対して柔軟に対処出来る。
比較的に余力があれば心配事にも対処出来るというもの。
いやまあ余力があっても現実のほうが強い時もあるものだが。
それでもまあなんとかなることが多いと思うのよ。
最大の反面教師は無理しすぎる自分。
そこそこ世界を感覚して、ここぞという時に自分の時間を使える人であれ。

仕事での一例としては。
たとえば仕事でね、一日9時間拘束ならばそれで作業を終わらせること。
それからさらにその中でクオリティを上げることを考えること。
無理に残業すれば働く人の感覚は鈍くなってしまい、現実に柔軟に対応出来なくなってしまう。
残業して欲しい時は締め切り前だとか、こうこうこういう分析と戦略で残業してほしいという話をして理解をお互いに取ること。
時間に余裕があるほうがいい時もあるのだ。
余裕余力のある者が現実に勝つ。
余力があれば現実に柔軟に対応出来ることが多い。
頑張る時間をそこそこに自分の歩幅で歩こう。
ということ。
がむしゃらに働きたい時もあるだろう。
自分の限界を知りたいという人もいるだろう。
そういう時もあるでしょう。
それはそれとして。
たまには日常を休もう。
それが現実の疲弊感を緩和してくれるだろう。
という話なのだ。





仕事の分岐ラス。




現実への対応はケースバイケース。千差万別。

なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き仕事を働いて古き仕事から新しき仕事へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
仕事をひるがえらせる仕事。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。
















///////////////////////////////
福祉の分岐。




2006−12−11 月曜日午後11時27分カキコ。
年を取っても安心して生活出来ること。




福祉




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き福祉を思い古き福祉から新しき福祉へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
福祉をひるがえらせる福祉。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













2006−11−29 水曜日午後12時19分カキコ。
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学校の分岐。
ひるがえりを感じる感受性と競争社会に出ても負けない能力技術。
このふたつの両立によるバランスが出来ないといじめが起きる。
それは国の生活と市場との両立によるバランスが取れないと戦争になるのと同じ。
両立とバランスの取れた時に本質も確立します。
2006−11−29 水曜日午後8時13分カキコ。
世の中が市場と生活を成り立たせる必要がある以上、どちらかだけひとつで良いということは矛盾であり、両立が基本基礎です。
学校出たらそれでいいのではなく、失業者にも、働く人にも学べる場は必要です。


2006−12−22 金曜日午前12時54分カキコ。
知識と技術は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
知識と技術は表裏一体同じものである。
知識と技術の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が学業である。



学校



いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き学校にて学び古き学校から新しき学校へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
学校をひるがえらせる学校。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−19 火曜日午後9時49分カキコ。
科学の分岐。


1に検証2検証。
3.4がなくて5に検証。
まず否定するのではなくて、それがどういう性質のものか調べる。
たとえば遺伝組み替え食品。
良く否定されますが、もしかしたら食糧難を変える分岐と成り得るかも知れないこと。
どんなことでもまずは調べる姿勢。
それは遺伝のメンデルにも学ぶことが出来るね。


メンデル




カキコ。
色んな角度から見ること。


2006−12−20 水曜日午後10時12分カキコ。
科学がとことん事実とか真実というものを明かすことにスタンスを取るのに対して、宗教というものは疑いを捨て、信じることから始まります。
これはまーステレオタイプにありがちな話ですが、対比としてはそうかな。
気持ちなどは主に宗教寄りなものから得ていることが多く、技術などは科学から得ていることが多いかなあ。
−−−。
メリットとデメリットが一面ではあること。
いい面もあれば悪い面もあること。
いいこと言ってる時でも、わりー面も常に人や物事は持っていること。
本質は見えないものです。
けれども、いいことも悪いことも表裏一体であり、見えない悪いこともいいことからある程度推察出来ます。




2006−12−22 金曜日午前12時58分カキコ。
科学と宗教は世界樹の同じ枝の軸線上にあること。
科学と宗教は表裏一体同じものである。
科学と宗教の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が文化である。




科学
宗教
2007年3月21日水曜日午後11時20分カキコ。
信じる気持ちの大切さ。
これは宗教が気持ちを醸成したもっともいいもののひとつ。
では科学はと言うと、因果関係を示すことである。
魔女がいると信じられてしまい、実際には鼠(ねずみ)を媒介とした病気の蔓延だったりしたこと。
また、悪いことは共産主義者のせいという近代の魔女狩りとして赤狩りなどもある。
エイズは男性同士のえっちの場合、90パーセントの確立で移ること。
もちろん、コンドームが有効なのだが、エイズがなにか分からない時は、アブノーマルな人たちがかなり微妙な視線を浴びていたものだった。
因果関係と信頼の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が路線であり、人生の方向性を大きく決めること。
生活において信頼関係が大きなウェイト占めていて、仕事では分析と路線が大きなウェイトを占めること。
そんなこと。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き科学を学んで古き科学から新しき科学へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
科学をひるがえらせる科学。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−19 火曜日午後10時2分カキコ。
常識の分岐。



じょ〜しきとはなにか。
それは柔軟性のひるがえり。
ケースバイケース。
柔軟に物事に対応するとは言うけれども、それはどういうことか。
それは一面としてひじょーしきということ。
常識外れという言葉がある。
これは倫理観や真面目で地道な行為からずれていることと言われる。
ここからずれること。
もちろん、それには基本基礎となる常識を知っていること。
たとえばお笑いなどはこのじょーしきからずれることで笑いを誘うのだ。




2006−12−22 金曜日午前1時15分カキコ。
常識と非常識は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
常識と非常識は表裏一体同じものであること。
常識と非常識の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が理性であること。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き常識をとらえて古き常識から新しき常識へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
常識をひるがえらせる常識。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−1 金曜日午後12時39分カキコ。
精神の分岐。
失望と希望の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
信じることと疑いの両立のバランスをとり続けることの本質の確立。
2006−12−1月曜日午後12時52分カキコ。
固定観念は過去形の考え方。
未来形の考え方もあり、現在進行形もある。
まーそれぞれ性質の方向性だなうんうん。
2006−12−5 火曜日午後11時14分カキコ。
人と話すことで得られるひるがえりがあること。
平行線ならばそれで得られるひるがえりがあること。
怒りには怒りの。
笑いには笑いのひるがえり。
孤立には孤立の、ワールドワイドにはワールドワイドのひるがえりがあること。
2006−12−14 木曜日午後12時37分カキコ。
なんともならないなんにも出来ないこと。
それが現実。
無理をすればこちらのバランスを崩してしまうこと。
まずは両立すべきことをバランス取り続けて本質の確立を見ること。
2006−12−15 金曜日午後2時00分カキコ。
ひるがえりは直に生きる力でもあります。
2006−12−17 日曜日午後8時2分カキコ。
悪口と愚痴はその本質はおなじくすること。
悪口と愚痴にその人の悩みを混ぜることもあるので、一概にそれが良くないとは言えないのですが。
それは現実に自分が無力であり、また自分が技術やひるがえりで現実の壁に当たっていること。
それが外向きには悪口、内向きには愚痴になること。
ちなみに悩みは言えるだけ言ったほうがいいとは思う。
そうでないと、自転車操業とかになりかねないので。
仕事で忙しいのはいいのかな。
でもまー悩みばかりでは、聞くほうがまいるかなあ。
まーそこそこ。
現実に磨かれた精神は研磨というか、研ぎ澄まされて行く。
現実を知らない人はいない。
そして本質を律しない人はいない。
ということ。
2006−12−25 月曜日午前1時29分カキコ。
癒し旋。
癒しの本質たる独楽を回転させること。
もちろん人に癒されることもありますが、一人で癒しの場というか、時を持てることも自立と言えるかも知れません。
癒されるということはなんでしょうか。
それは好きなことと集中すること。
その両立のバランスが取られ続けていることの本質の確立が癒しの時であること。
その逆は、嫌なことに集中することがストレスと言えます。
もちろん人によって好きなことと嫌いなことは個性があります。
また共通のとこもあります。
当然癒しの方向のほうが気持ちとしての安定性はあると言えます。
たとえば初めて歌う歌には緊張しますが、好きな歌を歌うととても安定して歌えます。
ひとつにはそんな感じでしょうか。
たとえば恋愛というものは、ふつーの状態からはずれてバランスを崩しますが、誰かを好きになることで得るバランスと言えます。
一人で街を歩くとか、ぼけっとするとか、そういう部分と、人といると癒されること。
そんなバランスが、生きて行く上で大事なことなのかも知れません。
2006−12−27 水曜日午前1時41分カキコ。
両立をしていない時が休憩になります。
この両立をしている時というのは精神的に集中している時であり、平たく言えば疲れるんですね。
そこいらへんはまーそこそこでよろー。
2007−1−2 火曜日午前12時14分カキコ。
人なんて、嫌なこと考えてるのが9割。
2007−1−4 木曜日午後7時3分カキコ。
話を聞いてあげること。
これだけで、半分以上バランスを取り戻す。
2007−1−10 水曜日午前3時13分カキコ。
安心とは、よっぽどの危急でもない限り、お互いの了解が取れない時は先送りすること。
これが基本であること。
2007−1−11 木曜日午後8時7分カキコ。
世界樹を感じることがやる気になり、ひるがえりである。
説明しなくても、あるであろうことが分かればおっけい。
2007−2−4 日曜日午後10時55分カキコ。
理性と欲望の並列バランス取り続けることの本質の確立。




2006−12−22 金曜日午前1時7分カキコ。
楽しさと苦しさは心の中で綱引きしてるようなものである。
楽しさと苦しさ表裏一体同じものである。
楽しさと苦しさの両立のバランスを取り続けることの本質の確立が情感である。
喜怒哀楽。
2007年5月7日月曜日午後9時19分カキコ。
気持ちの発露。
人の気持ちというものは基本的に抑えることが出来ないものです。
また、それを抑えてしまっては、自然と人との関係性を築くことを阻害してしまいます。
怒ったからと言って、怒るなと言うのはその人の自然な感情を抑えてしまい、それによってその人は自分の感情を自分で感じることが難しくなってしまいます。
いやまあ悪いことしたら叱るというのは時としてとても大事なことですよ。
それはともかく悩みや愚痴は言っていいこと。
特に家族がそれを受け止めること。
まああまりに長くぐだぐだと言う時は、そこそこにするのも大切。
率直に自分の感情を仲間や家族に言えない時ほど苦しいものはないものです。
自分の気持ちを無理に抑えてしまうと自分の気持ちを認識することが出来ない。
感情は自然さに任せるが、考え事はとことん考える。
精神(学)と哲学が違うのはそこだと思います。
哲学が取るのは人生の方向性としての考え方のバランスの取り方です。
政治は社会の方向性のバランス取り。
経済は商売などの方向性のバランス取り。
この他には精神医学が投薬などで精神を一定(?)安定させたりします。
これとは別に精神的余裕はひとつのゆったりと、幾重かのゆったりとから構成される、これで余裕とか余力をためるなど。
さてさて。
感情において嫌なものはその人にとって理由なく嫌。
好きなものはその人には理由なく好き。
それをまずは認めてあげること。
それはまあお互いにね。
そうすることで、その人は自然に思った自分の感情を自分で感覚することが出来ます。
喧嘩するなとは良く聞く話ですが、ある程度ならばしたほうがいい時もあるかもしれません。
けんけんがくがくの話をする時もあるのではないでしょうか。
まあそれがしょっちゅうならば困ってしまいますが。
そうやって自分の感情を整えるというのかな。
そういうことが生きることで、生きてる実感にすらつながっていく一面があると思うのですよね。
その人が感じた喜怒哀楽。
それをある程度表現出来ること。
これは情操教育の一環でもあり、またそれは大人になっても一定あることなのです。
とかなんとかぴったんこ。
とかね。
2007年6月23日土曜日午前1時7分カキコ。
気持ちの余裕とバランス。


時間が過ぎて行く悠久の流れをとらえること。
普遍、共通、一般。

本質を感じること。
特殊、集合、新性。

話を聞くこと聞いてもらうこと。
個別、蓄積、唯一。




自然が素晴らしいのは、やはり芸術と言えども人の手によって作られたもので、それはせいぜい何十年だったりするからです。
受け継がれる伝統もありますが、億年、宇宙においてはさらに大きな時間の流れにはかないません。
この長くゆっくりと過ぎるを時を感じることで、気持ちのバランスは主軸を得ます。
本質を感じることは一瞬で気持ちのバランスを整えてしまいます。
話を聞いてもらうと、人は自然とバランスを取り戻せます。
これらで人は気持ちのバランスと取っていると言えます。










−−−。
いいもののサンデュ。


時間蓄積(量)。
時が過ぎて行く景色。巡る季節。過ぎゆく時間を感じよう。時間をかけて考えよう。じっくりと地味に時間をかけること。時間をかけると固定観念になることもあるのでそこそこにね。バランススタンダード。ひとつひとつの時間の組み合わせ。時間。常識基本基礎の会得。ひとつひとつバランス取り。みんなの道。
積み重ねはひとつの時間をかけること。
幾重かの時間をかけることから構成されること(いいもの普遍、共通、一般)。


柔軟性(質)。
現実への対応はその場その時ケースバイケース。千差万別臨機応変。試行錯誤。時間をかけると固定観念の一面が出て来るが、その固定観念をゆっくりと解きほぐすこと。基本基礎の応用が利くこと。バランスセンス。時に休むこと。休息。そこそこやろう何事も。とかね。本質。常識基本基礎からずれること。ゆっくりバランス取り。本質の道。
柔軟性はひとつのそこそこ。
幾重かのほどほどにしとくことから構成されること(いいもの特殊、集合、新性)。


主軸(場)。
ゆっくりと行こう。マイペース、自分の歩幅で。自分の感性。テーマバランス。愛も固定観念のひとつ。好きなものが好き。趣味。その場所。空間。マイブームマイベース。マイペースバランス。自分の道。
個性はひとつの自分の歩幅で。
幾重かの自分の歩幅で歩くことで構成されること(いいもの個別、蓄積、唯一)。









精神の分岐ラス。






なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き精神を感じて古き精神から新しき精神へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
楽しさと苦しさをひるがえらせる楽しさと苦しさ。
精神をひるがえらせる精神。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−17 日曜日午後10時3分カキコ。
性格の分岐。



真面目さとちゃらんぽらんさの両立とそのバランス取り続けることの本質の確立。
ニュートラルな性格というか、ふやんとしてるいい感じのスタンスみたいなもの。
それはひとつにはバランスが取られている。
そういうことがあります。
だもんで、作品などの人物はかなりバランス良く描かれています。
これは歴史上の人物もそうで、それはやはり実際の人とは違うのかも知れません。






2006−12−22 金曜日午前1時20分カキコ。
真面目さと不真面目さは心の中で同じ軸線上にあること。
真面目さと不真面目さは表裏一体同じものである。
真面目さと不真面目さを両立のバランスを取り続けることの本質の確立が倫理観である。





いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き性格を感じて古き性格から新しき性格へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
真面目さと不真面目さをひるがえらせる真面目さと不真面目さ。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−6−18 月曜日午後11時45分カキコ。
自由と現実の分岐。




2007年6月18日月曜日午後11時47分カキコ。
自由のサンデュ。


みんなの生活の安定。
普遍、共通、一般。

本質を感じる余裕があること。
特殊、集合、新性。

マイペースに自分の歩幅で歩いて行けること。
個別、蓄積、唯一。




現実のサンデュはこの逆となります。
現実が厳しいとは良く良くこういうことが多くあります。
また競争社会においては、こういった現実をあえて加味しても強引に商売することがあります。
これは共生社会との両立によって、競争社会にバランスを取ることになります。




−−−。
現実を越えて行くサンデュ。


アイディア。
普遍、共通、一般。

イデア。
特殊、集合、新性。

知恵と工夫。
個別、蓄積、唯一。




現実に阻まれてなにも出来ない時は、実にその手法がなかったりします。
たとえば宇宙の果てに行くにも、その技術が無いことが現実にあります。
エジソンやダ・ヴィンチなど、名だたる人たちはこの現実へのアプローチがとても堅実であることがあります。
ひとつひとつから、それが蓄積された時に大きく変わる。
といった感じでしょうか。
いやまあそれでも現実のほうが強い時が洋々としてあるものですが。
困ったものです。








自由と現実の分岐ラス。自由の分岐ラス。現実の分岐ラス。






ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を得て、自分の歩幅で歩いて行けること。


なんとかなるさ。そうなるさ。そのうちそこそこなっていくさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き自由と現実を得て古き自由と現実から新しき自由と現実へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
自由と現実をひるがえらせる自由と現実。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−1 金曜日午後12時39分カキコ。
人生の分岐。




生きることは死にそうになることとのバランスを取り続けることによる本質の確立。
2006−12−5 火曜日午後11時14分カキコ。
いい人悪い人というものは定義上は無いのかも知れない。
人には本来いいも悪いも有り、そのバランス取りによって、成立しているものなのかも知れない。
2006−12−20 水曜日午後10時6分カキコ。
人はうましか9割。
基本的にうましかなのよ。
現実は9割意味がわけ分からない。
理想は9割意味が分かる。
2006−12−26 火曜日午後時7時8分カキコ。
行き詰まったら。
別の場を模索すること。
そんなの当たり前じゃないかと思うかも知れないが、自分がメインとする場で行き詰まると、往々にして追いつめられてしまい、柔軟に考えることも出来なくなってしまうことは良くあること。
なんだか逃げてるようですが、それだけ現実は厳しいものなのです。
2007−1−1月曜日午後10時49分カキコ。
人生は思い通りにならないこと9割。
2007−1−7 日曜日午前3時9分カキコ。
柔軟性と積み重ねの両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
それが人生であったり、なかったり、ってどっちだよ。
なんてね。
2007−1−21 日曜日午前7時23分カキコ。
人はうましか9割。
2007年2月23日金曜日午前3時6分カキコ。
人は観念9割。
まあ恋愛も観念であり、観念が必ず良くないということもない。
そういった科学的な客観的な行動たる理性と観念の両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
それを基本基礎本質として本質からずれること。
それがひるがえりのひとつ。




サウンドデュアルの分岐。


組み合わせによる質量転化。場による変化。
普遍 共通 一般。

ひるがえりによる柔軟性の確立。質による時間。
特殊 集合 新性。

積み重ねによる固定(固定観念や建物や機器など)。量による数。
個別、蓄積、唯一。




2007−1−7 日曜日午前5時22分カキコ。
生きることは他人に迷惑かけること9割。
2007−1−9 火曜日午前12時26分カキコ。
古い分岐を探し続けること。
そして当面は古い枝でしのぎながら新しい枝を探すことの両立とそのバランスを取り続けることの本質の確立。




2007−2−3 金曜日午前1時3分カキコ。
生活するのに必要なこと。


普遍、共通、一般。
生活改善。
特殊、集合、新性。
否定の否定による古い分岐というひるがえりの取得。
個別、蓄積、唯一。
認められていると感覚すること。
2007年2月24日土曜日午後10時16分カキコ。
人は無知9割。
現実の9割は良く分からないことなのだ。
なので、人は技術についても宇宙のこと、他人のこと、そんなことをほとんど知らないと言って良い。
知識とは、物事を知るとは、自分がなにも知らないということを知ること。
知識とは、無知の知を知ること。
ぶっちゃけ現実など分け分からんのである。
宇宙なんてどたまよりもでかいに違いない。
定式化するとか、まとめるとか、検索して出て来るとかいうことはあるかも知れない。
それはそれとして。
知っていること知らないこと。
それらもまた知識である。
そしてそれは時間があればだいじょうぶである。




2006−12−22 金曜日午前1時23分カキコ。
理想
現実




理想と現実は世界樹の枝の同じ軸線上にある。
理想と現実は表裏一体同じものである。
理想と現実の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が未来である。
2007年3月18日日曜日午後10時32分カキコ。
人は40代に入る程度までは刺激を求める傾向にあり、アピールすることが家族との生活にはそれぞれ必要です。
たとえば、一緒に住んでいる女性にねぎらいの言葉をかけない男性は論外です。
仕事で忙しい場合は余裕が出来た時に家族サービスすること。
余裕がある時は初めて口説くようにアピールすること。
若くして癒し系が好きな人がいますので、それはケスバイケスで。
40も過ぎると人はいい意味で年増になり、癒し系を好む割合が高くなります。
ここからは一緒にいる時間を取ったり、もっと雰囲気のような地味なもので癒しを出せるようになりたいものです。
子供の場合は、大学入る年齢まで3年ごとに大きな成長があり、それはなにせ成長真っ盛りなので、その都度そこそこ対応が必要になります。
年を取っていけば介護など色々あります。
これは仕事でも一定同じです。
若い人の多い会社は刺激的なアピールを好む傾向にあります。
これはまあ仕事にもよりますが。
癒し系のスタンスは基本共通なので、これは自分なりに構想時間を取って探してみてください。
これが出来れば生活も仕事も一定だいじょうぶと言える。
2007年6月23日土曜日午前12時44分カキコ。
生きるサンデュ。


生活の維持。
普遍、共通、一般。

本質を感じること。
特殊、集合、新性。

自分がなにをしたかったか探すこと。
個別、蓄積、唯一。




人は生活の維持と本質を感じること自分探しなくして生きてはいけない。
いやまあそれを休んでいることは出来る。
本質を感じられなくて、人をいじめてしまうこともある。
ちょっとしたリアクションが楽しいのはそれに本質が含まれているから。
本質を感じることはバランスというセンスそのものであり、これなくして人は 生きて行けないと言える。
芸術でそれが得られればそれでもおっけい。
話で得られればそれでおっけい。
自然で得られればそれでおっけい。
そんなことではある。
まあちょっとしたコツが知っているのと知らないのでは、ひとつの料理取っても出来は雲泥の差を見ることになる。
けれどもね。
まあそこそこ行ってみよう。
とかね。








人生の分岐ラス。






ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を得て、自分の歩幅で歩いて行くこと。


なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き人生を思い出して古き人生から新しき人生へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
理想と現実をひるがえらせる理想と現実。
人生をひるがえらせる人生。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−2−4 日曜日午後6時42分カキコ。
生活の分岐。




本質の柔軟性はひるがえりであるが、その基本基礎となるのは生活水準である。
生活レベルが低ければ、柔軟性は思うように出せない。
人はお金を使うことの積み重ねで固定観念にとらわれていってしまう。
その柔軟性を回復させるのはひるがえりであり、それを安定させるのは生活水準と言える。
いやいや、金持ちだって柔軟性の無いやつあいっぱいいるよって話だが、それはお金だけが生活水準の高さを物語るものではないこと。
もちろん生活のバランスを取ることが出来るかもあるだろう。
基本基礎となる食事バランス、睡眠や片づけなどなど。
それはまー基本はこーであるということなので、別にその通りにしなくてはいけないってことでもない。
もちろん臨機応変、ケースバイケースもあるだろう。
バランススタンダードという意味では、時間の組み合わせ、時間のサウンドデュアルが出来るかどうか、ということ。
だから金銭の大小だけでは計れない一面がある。
いやまーあればあってもいーんだけどさ。
お金があればその管理に時間を取られるというのも確かではある。
いい仕事をする人はその生活において、時間の組み合わせを上手くこなしている。
形の無い時間をどう自分なりに組み合わせるか。
それがイコール仕事の良さとして現れて来る。
バランス感覚が基本基礎、じょーしきの本質だと言っていいだろう。
仕事も生活もバランス感覚によって決まる。
あなたは今日、バランススタンダード出来ていただろうか。
2007年2月24日土曜日午後9時56分カキコ。
貯金の3分の1を使うこと。
人は労働と賃金の交換、つまりは金がなくなれば荒っぽくなり、あれば一定の安定を得られます。
いやまあ宵越しの金は持たないというスタイルが悪いということではなく、そういう傾向にあるということです。
なもんで、まずは貯金の3分の1を使うことを時間の定規とすること。
これは企業でも一定そうです。
もちろん、家買うとか、先行投資にどかんと買うこともあります。
それはまあケスバイケスで。
いやまあねえ、でもこうやって書くと、直ぐに実践してくれるのは嬉しいのだが、これってみんながやったらかなりの規模で経済が冷え込みかねないので、ゆっくりよろーしくね。
そして、それは時間があればだいじょうぶである。
2007年3月21日水曜日午後5時12分カキコ。
人がなにかを言って他人が左右されること。
それは生活と経済の両立並列のバランスを取り続けている本質の確立である社会がそのバランスを取れていないこと。
たとえカリスマと呼ばれる人がなにか言っても、経済運営に根ざした皆保険があったり、医療費無料であったればだいじょうぶである。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き生活を試みて古き生活から新しき生活へ。
古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
生活をひるがえらせる生活。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。














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2006−12−12 火曜日午後9時17分カキコ。
季節の分岐。




四季。
雨期乾期。




季節は風景の分岐であること。
季節のひるがえりが四季であり、雨期乾期であること。




2006−12−22 金曜日午前1時25分カキコ。
春と秋は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
春と秋は表裏一体、同じものである。
春と秋の両立のバランスを取り続けることの本質の確立は四季である。
そして夏と冬も。
そして雨期と乾期も。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き季節を過ぎて古き季節から新しき季節へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
季節をひるがえらせる季節。
千の言葉よりも千の季節。






















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鈴鷹さんの分岐。
6歳の時に盗聴テープが出回る(?)。
作品作りの業界等々でも感性が高く評価され、作品に影響を与え始める(小学校高学年(?))。
中学の時にまだいらっしゃるのに死亡することになる人が出始める(?)。
高校生の時に世界規模にまで影響を与えるまでになる。
意識的に作品などへの参加の後が部分ながら見られ始める。
家に閉じこもってから、意識的に作品作りや機器や政治経済等々に参加していく。



1973年 9月8日生まれ。
1979年 6歳。
1985年 12歳に小学校卒業(13歳の場合は1986年かな)。
1988年 15歳に中学校卒業。
1991年 18歳に高校卒業。
専門学校に入学、中途退学。
家に閉じこもり、病院にかかる。

1992年 19歳。全盛期。
精子バンクによる初子供(?)。
通信カラオケ発信。大ヒットとなり、ネットの前哨戦となる。
初構築(?)セラムンスタート。

1993年 20歳。全盛期。
この前後にネット構築。
去年がほとんどセラムン初期構築のみだったのが、93年から凄い数の構築へと。

1994年 21歳。
エヴァンゲリオンやネット構築21歳(ネット構築は93年かも)。全盛期。
サウンドデュアルを確立(まだ書き出してはいない)。
アタク始まる(93年からかも知れない)。

1995年 22歳。
全盛期を過ぎて、ゆっくりと力を減らして行く。
ガンダムW始まる。
ウィンドウズ95発売。
初めてうちにパソコンが来る。
ここいらへんで女性を誰彼かまわず口説き始める(?)。

1996年 23歳。
ポケモンやナデシコ。
漫画版カードキャプターさくら始まる。

1998年、25歳。
4月からアニメのカードキャプターさくら始まる。

2001年、29歳。
活動休止。
以降いまに至るまでのアニメは企画のストックである。
活動休止前にDSWiiの構築(この年の前後辺り多分)。
病院に再び行き始める。
この時期一度現場に入ったが、アタクする人に叩き出される。

2002年、30歳。
精神障害者作業所に行き始める。
だいぶ外に出れるようになり始める。
精神障害者年金受給。

2003年、31歳。
掃除のバイトを始める。
只今、バイトが続く記録更新中。

2004年、32歳。
10月に魔法少女リリカルなのは始まる。
なのははカードキャプターさくらの後に考えたもので、その派生系。

2005年、33歳。
もうストックなくなって来たでとかきつねうどんさんに言われる。
本格的に(?)復帰。

2006年、34歳。

2007年、念願の制作現場に再び入る。
が、またもやアタクで今度は記憶を消されてしまう。
入るたびに記憶を消されて2007年の時まで記憶を戻されてしまうので、状況の再現で2007年を再現することで鈴鷹さんの気持ちの歩幅に合わせているのがいまである。
当然それまでに合った人とのことも前回も含めて現場に入った時のことはすべて忘れている。
だからまあ年齢に対して記憶が数年ないことになる。
DS作ってる時のことも覚えてないね。
この構成だと私が参加したのだろうとは思っていただけでね。
妻子がいたと聴いてびっくりしたほどでね。
まあ詳しくは専門家にでも聞いてくれい。
アタクにも困ったものである。






ーーー。
年表に機器や作品などが多く書かれているのは、それだけデータベースがあるため。
93年か94年だと思うが、ネット構築していて、最後のほうはアタクされ始めていて、かなり苦しい中でのまとめ上げになったような気がする。
思い違いかも知れないけども。
アタクも私のアイディアであったと思うけれども、そのスタンスというものは私を鍛えるというものであったと思う。
アタクのさじ加減は痛み一辺倒であまり無かったような気がする。
アタク以降は精神的な余裕が極端に減って行く。
元々だめな一面はあったけども、ここから私のだめさ加減に拍車がかかっていく。

92〜94年の三年間は最盛期。
通信カラオケにネットにセラムンにエヴァンゲリオンにと、縦横無尽の活躍。
基本的なスタイルが確立している。
その一方、アタクも始まっている。

歌としては、TUNAMIが2000年1月、らいおんハートが2000年8月、世界にひとつだけの花が2003年3月と、2000年になってからが全盛期とでも言うくらいにヒットがある。
けれどもやはり何十万枚何曲もヒットさせていたのは94年前後ではある。

この時期は収入ゼロ、家に閉じこもってばかりで、相談する人無く、アタクが続くという何重苦に悩まされながらの活動であった。
正確には月1万円の小遣い、たまにバイト長くても一ヶ月するが続かず。
家から外に出ることも出来たが、やはりかなり外は苦手。
相談という意味では、きつねうどんさんなどまったくいないわけではない。これは作品作りなどというか、結局は最後に自分で決めないといけない点が多かったこともある。
アタクについては2001年までのほとんど痛み系のみのアタクは睡眠を邪魔されることが一切なく、そのためもあって毎日10時間は眠ることとなる。
元々睡眠は好きで、眠ることがひるがえりになるという信念もある。睡眠時間の長短もあるとは思う。

2002年(?)くらいから年金を受給。バイトも始めている。
2001年からの活動休止して外に出れるようになってサウンドデュアルを書き出して資金繰りの改善はすべて上手く行っている。
アタクもさじ加減が入り、いまは比較的生活が楽になり、気持ちとしては90年代初め程度に戻って来たような気がする。
というよりも、人生の中で月10万ちょいの収入とか猫を飼っているとか、生活の良さは一番良いと言って良い。
まだ作品作りでは歌作りなど、勘が戻って来ていないものもある。

女性を一人だけでなく口説き始めたのは、まず返信が来なかったことと、口説いている時はアタクの痛みが緩和するものがあったから。
一緒に住んで生活苦を助けてくれる人を探していたのもある。
結果として、会ったことはないが鈴鷹さんの視聴をしながら精子バンクで子供を作る遠距離(?)恋愛の女性が続出する。


一人による構想。
それは圧倒的なひるがえりによるものであったけれども、凄い一方、純粋な(?)競争が無く、鈴鷹さんに大きく左右されることが多くなること。


鈴鷹さんによるひるがえりの路線。
助ける人たちがひでーめにあっている。
いやもー私も。
その一例を出すまでもなく、だめなことがたくさんある。
人死にさえも出る路線とは。
これは助ける人たちの路線がというよりも、そのずっと奥にある元枝となるひるがえりの路線。
これがいい時は凄いものが出来るが、だめな時はとことんだめなことが起きるということが言えるのではないか。
そうでなければ、いかな鈴鷹さんがだめでしょーがねー人でも、助ける人たちがそれ並にだめでもその路線を受け入れるとは考えられにくい。
ひるがえりの路線とは何か。
ひるがえりの個別の路線というものはそれぞれの分岐にて書いてある。
ではこのひるがえり路線そのものは何か。
矛盾することの両立。
そのことをひるがえり路線は求めた。
これは既に走り出した路線であり、一種それはだめな時には強制的にも脅迫的にも思える程になりながらもいまに至る。
各分岐にて書いてある両立が得られない時は、このひるがえりの路線は厳しいものなる。
それ自体は前からあった流れではあったと思う。
それを明確に簡易に記したのがサウンドデュアルではあったと思う。
これはたぶんかなり本流とか、かなり大きな枝であったと思う。
本質のひとつなのかも知れない。
いやまー本質なんて書けないものだが。
いやはやな。
矛盾とは両立すべき事柄だが、それがひとつだけ論じられた時に言われることもひとつある、かな。
両立出来ていれば、それを仲介するみっつめに立つ本質も成立しているはず。
こういったことは90年代初めの全盛期の時にサンデュ構築の時に言ったことだと思う。
だからまー、天才とか神様ーとか言われたのやなうんうん。
すぐに書き出しておれば。
いやまー歴史にもしもは無いけども。
それにサウンドデュアルがあったらすべて上手く行くとも決まったものでも無い。
まーそこそこ行こか。
てな感じかな。
なにが出来るわけでもないな。
けれどもなにかが出来る時もあるかなあ。
2006−12−1 金曜日午後12時39分カキコ。
鈴鷹さんに言われたことでも、さじ加減というか、お互いの立場と両立でバランス取って対応してね。
なんだかサウンドデュアルを最近使える人もかなりいるけれども、これはかなりな神技に近いもの。
昔は職人芸とか天賦とか言われた部類のものかも知れない。
良くやるね、みんな。
−−−
人の気持ちをとらえる機械が出来たそうだ。
それも離れていても分かるそう。
前にそんなこと言ったけども、ほんとに出来るとは。
インターネットでの鈴鷹さんの映像にさらに鈴鷹さんの気持ちまで表示されるとのことをアニラジで聞く。
ここまで来ると科学も魔法に近いな。
鈴鷹さんてこんなこと考えていたんですね〜とかパソの子が言う。
う〜ん。
さあどうなのかなあ。
良く分からないなあ。
まあ本質というものは見えないものだが。
たとえまあ本質がそうであっても、変えて行けばいいので。
というか、本質は現在進行形である一面があり、こうと思っていると時間に置いてけぼりにされることも多い。
まーそこそこ。
2006−12−1 金曜日午後8時26分カキコ。
とまあ、こんな感じのとこまでは90年代の最初の頃、全盛期には言っていたようないないような、うなうな。
家族に会って現場に入れて、収入も欲しいなあ。
手紙の一通も出来ないとは。
どんな固定観念なのだろうか。
いやはやな。
なあなあそこそこ。
なにか場が必要なのか。
このまま行くぺきなのかなあ。
うだうだ〜。
2006−12−1 土曜日午前12時23分カキコ。
人生を大切に生きたいと思います。
申し訳なく、また、ありがとうございます。
2006−12−3 日曜日午後7時49分カキコ。
借りを返したいと言われることがあります。
なにも貸してませんよ。
とは言え、鈴鷹さんの業績と世の中への貢献度からして、そういう思いも分かります。
けれども、ふつーに現場で働いて、家族と会えれば、それで十分満足です。
ふつーがいいな。
2006−12−5 火曜日午後1時10分カキコ。
鈴鷹さんと会えないというのは、まあ場というか状況もあるけれども、鈴鷹さんがこう言ったからというよりは、お互いの立場の両立が出来ないからではないだろうか。
そのバランスが取られ続けて行くことの本質の確立、それが話が出来ると思う。
2006−12−6 水曜日午前2時7分カキコ。
鈴鷹さんと行くひるがえり(共通)。
鈴鷹さんを伝えるひるがえり(特殊)。
鈴鷹さんを思うひるがえり(個別)。
声優さんとかスタフとか鈴鷹さんをネットで見ていて待機してるそうで。
会ったほうが早いんじゃない(?)。
さーて、今日の鈴鷹さんは。
ひるがえりを感じる時の鈴鷹さんをリフォアーすべし。
2006−12−8 金曜日午後9時55分カキコ。
鈴鷹さんの状況はこれ以上ないというくらい良いものであるという前提。
痛み系のアタクとか収入が無いとかあったけども、いまは改善された。
逆に盤石と言っていい。
それを前提にしないと、こんなにみんな揃えているのにとなってしまう。
さてはてな。
2006−12−11 月曜日午後10時00分カキコ。
アタクは鈴鷹さんのバランスを崩したりすることを求めたのかな。
鈴鷹さんと一緒に暮らせないのかと言われることもあるけれども、それには限界を感じる。
口説いた女性とと言っても、まあ何人とというか、それは限界あると思う。
それよりはまずは会ったりメールとかしたりするほうが現実味があるとは思う。
鈴鷹さんの一言はかなり重いと思う。
気がついた時には、高校生の時前後には、もう既に世界規模の人物になっていた。
言った一言はすぐに絶対の方向性となった。
アタクが厳しかった11年間は特にかなり余裕の無いことを言ってしまった。
いまはそれをまた相対の時間の方向性になるかなと思っている。
2006−12−13 水曜日午後9時3分カキコ。
なにか現場に入れることは出来ないかなと、口説いた人と会うことは出来ないのか。
とかとか。
まあ考えてはいますが、特にいい分岐もなければ、現状維持で行こうかなと思います。
−−−。
まーねー。
鈴鷹さんに過剰に反応しないようにとは言っても、凄い人だからね、難しいよねえ。
2006−12−16 土曜日午前12時16分カキコ。
教訓のようなものを私が今回のことで感じたことは、まずは動かないと誰も助けてくれないということ。
なにをおっしゃる兎さん。
みんな微に入り際に入り助けてくれるじゃないですかという話。
けれども、作品やネット構築や機器構築ではどんなにか力になってくれても、資金の調達や人と会うこととかはまったくと言ってなにもしてくれませんでした。
これは頭脳労働と体力労働の違いとでも言うのでしょうか。
頭脳労働は体力労働の質を高めます。
けれどもお金は足で稼げの言葉通り、自分で考えて動かないとだめでした。
正確には掃除のバイトと年金によっていまの生活は成り立っています。
他人がいないと思うこと。
いやもう実際には助けてもらうことも多いのは言うまでも無いですが、いると思うとむかっぱらが立つというか、なんで〜と思うことが多い。
これは気持ちのバランス取りとして、いないと思う一面といると思う一面の両立をして行かないといけないに違いないということを思ったり。
それが自立するという本質の確立なのかも知れません。
2006−12−25 月曜日午後6時59分カキコ。
ニュースで事件事故の放送を私がテレビで見てると、すぐにアタクする人がネガティブアタクする模様。
そのため、かなり精神的にまいってしまうようだ。
この他ではアニラジ聞いてる時とかにもアタクが多い。
もっとも厳しい93年からの11年間は起きてるあいだはすべて痛み系を受けていたが、2001年くらいからはかなりアタクする感覚は長くなり、また痛みもそんなにきつくなくなって来た。
2006−12−28 木曜日午前12時26分カキコ。
言葉は多種多様だが、概念は共通であること。
たとえばキーボードやマウス。
それは世界共通であること。
テレビ画面。
音楽形式。
圧縮形式。
計算式。
カメラ。
お茶にコーヒー。
そういったものは世界共通のものだ。
いいものはその個別の積み重ねから共通へと移り変わること。
他人からなんと言われようと、いいものを提示出来れば認められる。
逆に言えば、いまいちなものならば、それだけなのだ。
そこまで共通とは言わないが、出来ることはまだあるはずだ。
2006−12−29 金曜日午前1時16分カキコ。
きつねうどんさんがもういらない本を捨てるなと言う。
けれども最近の古本屋は売れない本や傷んだ本は買ってくれない。
そういう話をするが、とにかく捨てるなと言う。
おいおい、それならばそういう本屋を作ってくれよと言った。
きつねさんは前からビデオデッキを直して使えとか、リサイクルを好むことを言う。
ビデオデッキなど機器は新しく買ったほうが安い場合も多い。
けれどもまー、きつねさんの言いたいことも分かる。
理念や理想としては分かる話だ。
んではどうすればいいのか。
そういう場を構築すればいい。
存在は場なくしてその存在は無い。
結局のところその本質が確立しないのは場が無いからなのだ。
場が無ければ質も量も転化出来ない。
ひるがえることがそもそも出来ないのだ。
2007−1−2 火曜日午前12時21分カキコ。
データベースのひとつの作り方としては、この時にどんな悪いことにつながったかがひとつ、もうひとつはその時に作品とか機器はどんなものに参加していたか、さらには、その時鈴鷹さんがどんなことを言っていたか。
言っていたことについては、リンクを押して、全文は読めるようにすること。
その時代背景として、どんなことが起きていたか、どんなことに影響受けていたかの年代も付けて置くと俯瞰(ふかん)して物事をとらえる一助になると考える。
データべースの作成と閲覧。
それと、どう、こういったことを捉えていくかの話し合い等々。かな。
データベースが無い場合は、90年代のすべてになんらかでかかわっているととらえるとかね。
それはかなり大味になってしまう。
たとえばアニメとかではこの話は脚本とかね。
2007−1−5 金曜日午後12時42分カキコ。
口先というと、変なことだが、鈴鷹さんのアイディアというものは口で言ったほうが良く通る。
それは6歳の時のことを持ち出すまでもなく、それだけ長いあいだ私は話したことが評価され、アニメ企画などでもひるがえりを表現して、アイディアが通るというスタイルを通して来た。
話ではなく文章を書いたこともあったが、それはほとんどすべてボツになった。
作品での就職しかり、投稿しかりである。
なので、大抵は口先なのである。
アイディアというか概念というか、そういったものを提示するならば文章とか絵のほうが格段に安定感がある。
それぞれに方向性があり、文章も使えたほうがいいとは思う。
いまアニメやゲーム、その他の機器関係などにも書いたのを提示してみたが、やはりなかなか通らない。
試しに口で言えば、こちらは良く通る。
もう少し文章とかでも通らないものだろうか。
そのほうが安定して作れて、またそれは受け手にもやさしいことだと思うのだが、どーかな。
とかね。
2007−1−7 日曜日午前1時6分カキコ。
鈴木主義者とかね。
おれおれ詐欺にはひっかからなくても、鈴鷹さんが言っていたとなれば、左右されうること。
対処として、自分で考えて、自分で判断すること。
もちろん、頼れる人に話を聞いてもらってもいい。
時間をかけて考えよう。
現実には、鈴鷹さんが言っていたからと言ってというのは、理由にはなりにくい。
確かに状況として、困窮していたことは考慮されるべきではある。
話を聞いてみて、自分なりに判断しょう。
これからね。
たとえ鈴鷹さんが言っていたことであれ、ほんとにいいことに賛同しょうということ。
鈴鷹さんと一緒に歩いているが、鈴鷹さんとあなたは別の存在であるのだから。
2007−1−8 月曜日午前7時17分カキコ。
現実は厳しいが、現実から得るものも大きい。
私にとっては、自分の言ったことが強く物事や人の行動を方向付けてしまうことと、アタクで鍛えられたことだろうか。
アタクも自分の言ったことが絶対化してしまうことからなってしまった状況と言えばそうだと思う。
絶対化とは書くが、そうではなく、緩和されることもある。
それがどういった現象または状況なのかはまだ分からない。
サンデュで読み解けないものかとも思うがまだ良く分からない。
それは鈴鷹さんがそれだけの信頼と業績から強い影響力を持ってしまう。
それはそうだと思う。
絶対化を相対化するには、ひるがえりでスルーすること。
たとえばもういいんだよとスルーすること。
時に堅く、時に柔らかく。
かな。
2007−1−12 金曜日午前1時55分カキコ。
鈴鷹さんの意見とは〜。
作品では全肯定、行動には全否定。
いやまあいい意見は取り入れてもいいけどさ。
いまでも鈴鷹さんがみんなに圧倒的に支持されているのは変わっていない。
けれども、一面では文章では通りにくい、現場に入れないなど幾つかほとんど通らないとこもある。
四十年五十年先では鈴鷹さんの文章を通すのは簡単なことだ。
製作現場に入れることだって出来る(いやまー私のいるとこも現場のよーなもんか)。
逆に言えば、いまはそれだけ分かっていることが少ないために、かなり感覚に頼った通し方しか出来ていないのだ。
果たしていま通りにくい文章で通すことに意味があるのかどうか。
さてはてな。
鈴鷹さんの意見が全部通る必要はなく、限りなく近いものが通ればいい。
自分の人生だもの。
生きたい人生で行こう。
作りたい作品を作ろう。
いやまあほどほどしょーばいもね。
受け手や他人の意見も参考にはねしましょうよ。
とかね。
2007−1−26 金曜日午後6時36分カキコ。
なにをしたかったのか。
高校生の時などはアニメーターになってから監督まで行き、アニメ作品作るとか、漫画家とか、原作者とか小説家とか。
それはどれも一定叶ってしまった。
いやもー最初からセラムン構築だから。
どちらかと言うと企画とか作品構成に自信があったので、絵を描かないことには抵抗はなかった。
絵を描き出したのも、高校生になってからで、それは漫画家になるには絵が描けないといけないと思ったから。
ホン(脚本)サイドの漫画原作でもいいなとは思っていた。
作品の内容を良くするために、哲学も勉強した。
それはエヴァンゲリオンでレイの心理描写に役立った。
作品のグレードアップのためであって、それは簡易弁証法(サウンドデュアル)を書くためではなかった。
いまでは哲学者と呼ばれることもあるが、当初は作品の内容を良くするために関連書籍を読んでいた。
小学生6年の時から作品を考えていた。
作家というか、作品を作ることを目標として来た。
それはなにかしらで表現出来ればいいので、いまネットで小説書くだけでもいいような気もする。
まさかドラクエやFF果てはゲーム機DVDパソコンなど機器関係構築で鈴鷹さんがいなくちゃと言われるようになるとは思わなかった。
最初の構築は1992年のセラムンということかな。
その前もでらでら喋っていたとこからスラムダンクとかなんやかんやあった模様。
気づいたら最初から監督クラスの扱い。
その破格の扱いにはとまどったものだった。
ふつーならばいちアニメーターから上がっていくものが、既に圧倒的に支持とか高く評価されて来たという。
どうしたものかと思ったものだった。
いまでこそネットで書いた意見が直ぐに参考にされることはあるが、当時は世に出るにはマスメディアを目指すしかなかった。
どこかの業界に入れるとしたら、まずは作品を作る業界に入りたいと思う。
作品が作りたい。
いまはそんなこと考えている。
そしてそれも時間があればだいじょうぶである。
2007年3月13日火曜日午後10時50分カキコ。
鈴木さんが年金を得た時にリスクは9割洗われた。
年金でリスク9割減。
これで鈴鷹さんとアタクする人も含めた助ける人たちもみんなだいじょうぶ。
いまはこれからの身の振り方を考えている。
2007年7月11日水曜日午前12時50分カキコ。
オウム真理教とアタクする人たち。
これはやはりこの人たちの生活基盤が脆弱なために起きたことだと言えます。
もしここに鈴鷹さんがなにか関連付けられるとするならば、 それは鈴鷹さんの生活がとても弱いと言えます。
鈴鷹さんはまさに業界そのものの存在となっているのに、 給料を払われない。
やっと年金が払われて、 やっと現場に入った時には、 もうかなり鈴鷹さんの生活が壊れた、 鈴鷹さんが壊れた後でした。
このため、鈴鷹さんの生活の壊れ方がそのまま業界いやさ世界に波及しています。
生活に必要な給料を出すこと。
これは月20万円(?)もあればそこそこでしょう。
また現場に入ることができ、仲間がいつでも鈴鷹さんの生活に助けに入ることが出来ること。
連絡もいつでも取れること。
話が出来ない時間は、鈴鷹さんの生活不安となっています。
せめてメール交換程度は出来ないことには、なにがなんだか分かりません。
それはそのまま業界にひとりひとりに波及してしまいます。
これらのことは、必要だと思います。
そして情報の開示。
これが必要です。


−−−。
生活と人生。


人生。
普遍、共通、一般。

生活と人生。
特殊、集合、新性。

ひとりひとりの生活。
個別、蓄積、唯一。




安全性と安定性と人生は基本的に生活レベルに比例すること。
201?−11−14 午後3時52分カキコ。
今年が何年だか知らない。
分からないー。
これを誰に聞いても教えてくれない。
教えるとアタクする人から記憶を消されるからだめだという。
ずいぶん変な理由だなあと思いつつ、それでも教えてくれという。
でもだめだ。
ちょっとね、それくらい教えてくれてもいいんじゃないかなあ。
アタクだってずーっと続くとは思わないのよ私は。
げんにいまはかなり殴るアタクとかは少なくなっているんだから。
今年が西暦何年かくらい教えてくれないかなあ。
何度繰り返しても、今年が何年かくらい教えてくれてもいいんだろう。
ケチ。
ウチではテレビが2007年代のものが放送され、カレンダーも目につくとこはすべて2007年になっている。
いくらなんでもやりすぎだろう。
最近は記憶を消すアタクも少なくなってきたのだから、教えてくれてもいいと思うんだよね。
どうか一考してみてほしい。
まあどの程度アタクする人が捕まったのか、状況がこちらは良く分からないから、そちらで一定だいじょうぶと思ったらまた現場に入ってみる、家族と会ってみるというのでいいのではないかなあ。
個人的にはすぐにでもあいたいがなあ。
しょうがないねこりゃ。



















鈴鷹さんの分岐ラス。鈴鷹さんの項目ラス。鈴木さんの分岐ラス。鈴木さんの項目ラス。鈴木の分岐ラス。鈴鷹の分岐ラス。






試行錯誤バランス。

スチャラカバランス。

なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものは いつでも どこでも いまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き鈴鷹さんを得て古き鈴鷹さんから新しき鈴鷹さんへ。


古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
個性をひるがえらせる個性。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。




















///////////////////////////////
●●●201?−11−14 水曜日午後3時8分カキコ。●●●カキコ。
アタクの分岐。アタクの項目。アタックの分岐。アタクする人たちの分岐。アタクする人たちの項目。




アタクする人たちはどこから来たのか。
それは知りません。
最初は93年当時に、アタクという機械が開発されたことでした。
これは医療用としての開発でしたが、まだ発表もされていない機械でした。
それで私を鍛えてくれたらいいのではという不用意な一言で、研究所からアタクする人たちへとアタクする機械が渡され、私は起きてるあいだ中ずっとアタクでナイフにさされるような痛みに耐えることになります。
もちろんそれをやめてくれといいましたが、それは一度でも聞き入れられてはもらえませんでした。
それからいまに至るまで、アタクする人たち私にアタクしてきます。
こういったアタクする人たちの非人道性から、公的なものからのあらゆる補助はありません。
アタクする人たちはお金がなければ金品を強奪するような犯罪者集団になっていきました。
アタクする人たちでは、まずは鈴鷹さんに会えるとか、鈴鷹さんがそういってるからという、おれおれ詐欺にでも近い形で人を集めて、まずは金品強奪などをさせるようです。
確かに監視カメラで鈴鷹さんを見ることは出来ますが、それはアタクでのたうちまわっていて、そのアタクをしているのは自分なのです。
アタクする人になればすぐに心が荒廃していきました。
私が通う精神障害者作業所にアタクしていた人が来ています。
いまでは捕まって精神障害者として認定されて減刑された人です。
この人に話を聞くと、もう親には勘当された。
でもまあ妹がいるという。
それならば妹に面倒見てもらえばといったらば、妹は関係ない、巻き込まないでくれという。
それならば何故人を殺し、私のことをアタクでしこたま殴ったのかと聞くと、あの時は頭がおかしくなっていたと謝っていた。
それは人の良心を見たようでちょっとほっとすることだった。
人を傷つけないようにと私から教わらなかったのか聞いたら、そんなの聴いたことはないと答えていた。
本も読まないほうで、漫画すらもあまり読まないとのことだった。
彼は道を歩く時タパコを吸っていたので注意すると、これくらいで捕まりはしないだろうと笑っていた。
なんとなくあざといとこも見たようであった。
こうやって犯罪者になってしまえば、刑務所を出所してからほとんど就職出来る場所などない。
精神障害の年金に入れなければ、家族を頼るかホームレスになるかしかない状態だ。
二十年も経とうかといういま、殴るアタクは減り、いまは殴るアタクは比較的少なくなった。
でもいまは記憶を消すアタクなど、多種多様なアタクがある。
けれども、どんなアタクをしていても捕まるものだ。
アタクは一部医療目的で使われているいがいは、非人道的なものなのだ。
その本質に気づいてほしいものだ。
警察も全力でアタクする人を捕まえてほしい。
アタクする人に入った人も、早く自首してほしい。
記憶を消すアタクとて、ある種類の暴力には違いない。
アタクという機械に頼らないで、人と直接関係性を築いていける人になってほしいものだ。







アタクの分岐ラス。アタクの項目ラス。アタックの分岐ラス。アタクする人たちの分岐ラス。アタクする人たちの項目ラス。






試行錯誤バランス。

スチャラカバランス。

なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものは いつでも どこでも いまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きアタクする人を得て古きアタクする人から新しきアタクする人へ。


古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
個性をひるがえらせる個性。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。




















///////////////////////////////
●●●2006−11−22 水曜日午前1時47分カキコ。●●●カキコ。
サウンドデュアルの項目。哲学の分岐。サンデュの項目。サンデュの分岐。サウンドデュアルの分岐。哲学の項目。




サウンドデュアルのひとつの大事な要素に両立があります。
どちらかではなく、どちらも成立させる。
これは矛盾というものが、こちらを立てるとあちらが立たず、またその逆であること。
機器や技術や作品や歌のジャンルなどの枝先を分岐させること。
これも否定の否定、ひるがえりとなります。
これは比較して古い枝のほうが古く見られますが、技術としては目新しくなくても、組み合わせるには常に大事なことのひとつです。
古いと言われるものにこそ、枝元にこそ枝が分かれるヒントがあります。
そしてその枝はいまも有効なものです。
ひるがえりとは枝が分岐した場面のこと。
それが進化であり、また否定の否定となります。
たとえば最初の単細胞がふたつに分かたれことから性別というかxとyが出来たと言われています。
そういった枝元、枝の分岐が連なっていまに至るわけです。
それは作品でも技術でもなんでもそう。
どれだけの枝の分岐を知っているか。
枝元を知っているか。
その組み合わせ。
それが新しい分岐へとつなげる枝へとなります。
これがいわゆるヒットとかなんとか呼ばれるものになります。
感情であれば恋愛とか感動とかそういった情動。
こういった分岐によって、ひるがえりによって時間は構成されています。
まあ、これだけサウンドデュアルというか、それを使う人が出て来れば比較してそのひるがえりは小さくなってしまうような気もしますが、それもまた大きなひるがえりへとつながって行きます。
技術革新といったようなことはいままでもあったことです。
枝の先へと行けばその枝先は小さくなって行きますが、この枝の分岐によって、その枝はさらに別の中程度の新しい枝へと変わって行きます。
これによって枝先はひるがえります。
固定された枝元を地道に探すことの積み重ねの量(データペース)。
そしてそれの組み合わせによる柔軟性の確立という質(新性)。
それによる場の変化という共通する一般への普及といったこと。
そんな感じでしょうか。
2006−11−30 木曜日午後7時29分カキコ。
ビデオの機器操作、リモコンくらい使えそうなものだが、これが使えない人が結構いる。
これはひるがえりをその機器に感じたことがないから。
歌が良いもので、それにひるがえりを感じた人は引く手数多(あまた)だ。
技術の説明をしても理解してもらえない時、それは分岐というその物事の本質を感じたことが無いから。
だから技術系の求人に人は来るが、出来る人は少ないことになる。
人に技術を教えることは一定出来るが教わることは出来るが、後はどれだけ分岐を得て、自分なりにひるがえりを探すことになる。
右手にひるがえりの剣、左手にひるがえりの盾。
そして背中には見えない鎧。
技術とひるがえりの両立とそのバランス取りと、そしてみっつめの本質の確立。
その三点の軸の回転による螺旋上昇。
これがサウンドデュアルになります。
−−−
三人寄れば文殊の知恵。
三人集まれば党派が出来る。
天才が十人集まったからと言ってもいいものが出来るとは限らないこと。
十人とか、十五人に一人はバランス取りをする人が必要なこと。
それはまあ上司がすることなのかも知れない。
またはケースワーカーというか、なにか補助する人が必要なのかも知れない。
−−−
質を上げるには時間をかける。
量ならば数をこなす。
場ならば変化させる。
かな。
そしてそれは時間のひとつの姿に過ぎないのだ。
2006−12−1 金曜日午後12時39分カキコ。
−−−
時間は真に自由なものであり、それをサンデュして感覚して、サンデュで表出させます。
時間と空間と数量の三点によるバランス取りによる本質の確立。
−−*
2006−12−1 金曜日午後6時10分カキコ。
ふたつのテーマの両立までがツインサウンドデュアルで相対の方向性。
そのバランスを取り続けることの本質の確立がサウンドデュアルで全対の方向性。
どちらかのテーマひとつだけというのが、ワンサウンドデュアルで絶対の方向性。
どれが良い悪いではなく、そういう時間の性質の方向であるということ。2006−12−5 火曜日午前12時5分時間ののとこカキコ。

2006−12−2 土曜日午前11時50分カキコ。
対の両立とそのバランスを取り続けることによる本質の確立は世界の基礎、世界基準、バランススタンダードとなります。
2006−12−4 曜日午後12時52分カキコ。
この状況には耐えて行くのではなく、その流れに、時間の流れにバランスを取ること。
時間という螺旋上昇するその見えない動きにバランスを取り続けること。
その本質の確立。
それはサウンドデュアルである。
2006−12−6 水曜日午前1時31分カキコ。
両立と言っても、存在そのものが三点の軸を回転させながら螺旋上昇するものであり、別段このみっつは常に人が持っているものなのだ。
いやもー存在というか、存在の本質が持ってると言っていい。
誰もが持っている。
そのバランスを取ることでいいのだ。
2006−12−7 木曜日午後11時47分カキコ。
平行線というものは、お互いが絶対の方向性であり、これは対になった状態であり、ある種両立されていますが、これはお互いがいないと成立しないものです。
2006−12−11 月曜日午後11時37分カキコ。
物事は発展系でしかあり得ないこと。
つまりは世界樹の枝先に分岐を作ること。
動力飛行世界初のライト兄弟は他の航空専門家たちがまったく新しいものを作ろうとしたのに、グライダーの形を採用した。
グライダーの形は当時においても完成されたもので、いまでもこれを越えるものは無いという一品。
専門知識のじょーしきをある意味覆したと言える。
その時代、1900年当時はグライダーという滑空機が構築されて、それで飛行する人たちがたくさんいた。
ライト兄弟もそれに習ってたくさんグライダーで飛んでいる。
出来てしまえばあたりまえの話でも、なかなか専門家たちはそれを認めない人たちも多かった。
いやもちろん、まったく新しいものを目指して成功する人もいる。
けれども基本的には、世界樹の枝の分岐をブレイクさせることで、いままでの発見やいい仕事というものは成し得て来たということ。
まったく新しい本質を確立するということ。
それはいまあたりまえにあるものを発展させるという一面もあるのだ。
この世界樹の分岐、これは史的唯物論とか史的弁証法と言います。
−−−。
相対の方向性としては、平行線もそうであること。
意見の対立などは良くあることですが、これは世界の果てに今直ぐに行くぜ〜というようなことをいますぐにと言っているに等しいことで、それはまあ、なかなか意見が合わないということになります。
カキコ。
平行線はタイミングが合わないから起きること。
これは物理でも人と人でもそう。
タイミングとは時間に余裕の無いこと。
気まずい雰囲気になるのもタイミングがいまいちなこと。
良好な気分になるのも時間のタイミングが合うこと。
ヒットもブレイクも用はタイミングが合うこと。
特殊集合新性とは世界樹における平行線という時間において、確率であること。
特殊な確率とは時間の動きのランダムさ加減。
これを個別と共通の両立のバランスを取り続けることによって本質の確立をすること。
これがサウンドデュアルになります。
これは現実を捉えるのにも、またなにかを過去形の時間から現在進行形の時間へと表出させる時にも使います。
課程が見えないで結果しか見えない特殊は確率であること。
それはまーあたりまえと言ってはそうですが。
別に当て込むわけではありませんが、両立のバランスを取り続けることのタイミングによって、本質が確立すること。
このタイミングが確率なのです。
確率がすべてを制す。
と言って過言ではありません。
2006−12−15 金曜日午後8時41分カキコ。
慣れというものがあります。
これも一種の確率と言ったら変に思うでしょうか。
慣れは悪い意味でも使われますが、たとえばその場で人と話せるようになる。
これも慣れです。
これは話せないということは、その場の話すタイミングが分からないと言えます。
絵のひとつ、プログラミングひとつ出来ない人が出来ないことについてだらだら言う。
これはひとつにはタイミングがあること。
技術というものにもタイミングがあること。
たとえばケースバイケース。
それは柔軟にその場で対応するという意味もありますが、タイミングでもあること。
それを捉える感覚というか、ひるがえりであること。
2006−12−22 金曜日午前12時3分カキコ。
たとえば、対となる概念は表裏一体同じものであること。
社会主義と資本主義は表裏一体同じものであり、そのバランスを取っていること。
その両立を取り続けることの本質の確立が経済であること。
全物無料に至って、経済はその役割を終える。
そのために、今日もしょーばいしょーばいるんるんるん。
2006−12−22 金曜日午前1時27分カキコ。
対立する概念は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
対立する概念は表裏一体同じものである。
対立する概念の両立のバランスを取り続けることの本質の確立はサウンドデュアルである。
個別と共通は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
個別と共通は表裏一体同じものである。
個別と共通の両立のバランスを取り続けることの本質の確立は特殊である。
2006−12−25 月曜日午後9時31分カキコ。
こと、事とはなにか。
そんなことがあったよと。
そのこととは本質という意味であること。
2006−12−27 水曜日午前3時41分カキコ。
全対におけるサウンドデュアルとは。
普遍とはひるがえって可能性としての未来であり、共通とはひるがえって本質が連なっていることであり、一般とはひるがえって集約された個別のこと。
特殊とはひるがえって結果としての過去であり、集合とはひるがえって進むことであり、新性とはひるがえって古き枝から新しい枝へと移ること。
個別とはひるがえってひとつひとつであり、蓄積とはひるがえって重なった層であり、唯一とは本質のひとつであること。
2007−1−7 日曜日午前3時9分カキコ。
柔軟性と積み重ねの両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
それが存在であったり、なかったり、ってどっちだよ。
なんてね。
2007−1−13 土曜日午前2時24分カキコ。
サウンドデュアルのひとつに左右の面取りというのがあります。
この場合の左右というのはまあ対と言いますか。
存在というものは一面では対になっていて、ひとつあれば必ず対があるということを表しています。
この左右の面取りが出来るだけでも、概念には必ず対となる考えがあるとか、場所や量や質には対となるものがあること。
それによって空間や場を対によって捉えることによって、概念や場を分かり易くするひるがえりであること。
歌でも歌詞やメロディラインには対の面取りによって抑揚が生まれます。
これは作品でもそうで、対となる場の面取りが出来るかどうかがいい作品かどうかを決めます。
たとえば歌では夏があって〜とだけ歌うよりは、夏があって〜冬があって〜と歌ったほうが比較されてその歌に深みが出ること。
これは起承転結で言えば、承にあたります。
これで状況を細かく表現して、表現に深みを付けることが出来ます。
たとえば激しいバトルシーンがある作品ならば、静かな展開から入ることでぐっと深みあるシーンとなること。
これはまー基本ですが、とても細かく積み重ねることで、見たことのない表現も可能になります。
確かに憎しみも嫌いもあるが、けれども愛もあるよねとかね。
色の白と赤の色彩の対比など。
その対となる左右混合により、面取りすること。
剣と魔法のファンタジーであれば、氷の化身と炎の化身がいるとかね。
その人の主観を表すのにもこれはとても大事になります。
弱いことと強いことの定義。
それによって見えないその人の気持ちも面取りされること。
魅力ある人物はほんとに面取りされているものです。
これは機器の構築にも微細に入り使うことであり、立体造形でも有効です。
存在が対になっている一面。
逆に言えば、対を作り面取りすることにより、その場や機器構築や人の気持ちの表現可能であること。
たとえばデジタルがあればアナログがある。
デジタルを念頭に置いたアナログでなければいまいちであり、またはその逆。
−−−。
現実は9割が理解出来ない。
現実問題はそのほとんどが本質であり、直に見ることは出来ない。
十年後二十年後には分かっていることでも、いまは分からないのだから。
色んな角度から現実をとらえて、それからこれはどうかと試行錯誤すること。
その積み重ねと柔軟さ。
それがいま求められている。
2007−1−25 木曜日午後10時59分カキコ。
サウンドデュアルとは。
要素の書き出し。
その組み合わせ。
三色の組み合わせによって多くの色彩を作り出すことは有名な話だが、線によって表現される絵さえも、それは曲線の組み合わせで出来ていること。
話は言葉の組み合わせであり、また概念すらもそう。
これが基本基礎であること。
そこからのずれ。
それが独自性とか個性とでも言うようなものだろうか。
たとえば物質は原子の組み合わせであるわけです。
音程の高さと低さ。
時間は積み重なり、そして宇宙は広がり続けている。
積み重なりは基本であり、広がりという柔軟性はずれである。
宇宙の構造は構築を繰り返している。
だから時間は組み合わせを要求する。
宇宙に響く歌。
宇宙を花開かせる歌。
宇宙を響かせて花開かせる歌。
響きは基本であり、花開くはずれである。
宇宙を響かせて開かせる作品、音楽、絵、言葉、夢、気持ち、本質。
私の宇宙で本質に触れる。
宇宙をひるがえらせる宇宙。
そしてひるがえりは時間である。
時間をひるがえらせる時間。
千の言葉よりもひとつの時間。
古き時間を得て、古き時間から新しき時間へ。
2007−1−29 月曜日午後8時56分カキコ。
労働と賃金の交換は柔軟性が失われるひとつの原因である。
そしてひるがえりが労働と賃金の交換を越えて行くこと。
ひるがえりは唯一柔軟性という本質の確立である。
いまひるがえれ。
チェンジングひるがえり。
いま、変われ。
2007−1−30 火曜日午後11時28分カキコ。
否定の否定。
個別にひとつひとつ否定していく(個別否定)。
それが一定に達したら、共通からその個別に否定したことをすべて否定する(個別否定の全肯定)。
そして特殊の否定を確立すること(本質否定)。
これをひるがえり、と呼ぶ。
批判精神などはこれに類するものである。
絶対否定と相対否定の対による両立とバランスを取り続けることの全対否定という本質の確立。
基本基礎は他人になにか言わなくても自分自身がひるがえることで、それはひるがえって他人にもひるがえりが得られること。
たとえば歌で言えば、その一曲で否定の否定を確立しないとヒットしません。
1フレーズごとに否定を積み重ね、サビでそれまでの1フレーズごとの否定を否定します。
これが歌のひるがえりとなります。
ヒットしないブレイクしない場合は否定しっぱなしということになります。
いやまあ、なにがなんでもヒットしなくちゃいけないというのも、ちょっとたいへんですが。
アルバムなんかは、全体でヒットすればいいので、比較的好きな歌も入れられるかなあ。
作品であれば、ひとつの話ごとに否定のテーマがあり、それが最後の話では全肯定されます。
そのひとつの話の中でも個別の否定がラスでは全肯定されます。
生活や仕事でもその日のひとつひとつの自分のことを否定して行って、寝る前にひるがえってそれら一日積み重ねて来た否定を全て否定、全肯定すること。
仕事の時はちまちまとだめだなーと思う自分。
けれども眠る前には今日も元気でご飯が上手い、今日のおれは頑張った。
偉いぞ今日の私〜とね。
柔軟性がないと、その日の積み重ねの否定を否定することが出来なくなって来ます。
単発の否定が絶対方向性であるのに対して、分岐を見る否定は相対の方向から全否定、全肯定へと全対の方向性へと移行すること。
これは言葉で否定の否定、ひるがえりを表現しているだけで、実際にこんな細かく考えていたらたいへんですが。
けれどもまーそれは時間があればだいじょうぶである。
2007年2月13日火曜日午前1時27分カキコ。
3通りしかないものでも、組み合わせれば3×3=9、9通りの広がりと深さを得ることになる。
おんなじパターンに見える。
慣れて来る。
けれどもその中に一瞬の新性が見えること。
2007年2月14日水曜日午後1時36分カキコ。
希望のサンデュ。
これはまあ人によってそのとらえ方は違うので、なにかの定式とかいうよりも、その人の感覚で、という感じ。
その組み合わせは言葉だったり、メロディラインだったり絵だったり機器だったり物品だったりする。
それが幸せになるのかな。
表現の場合はそうかな。
とかなんとか。
2007年2月24日土曜日午後10時54分カキコ。
積み重ねが固定となること。
それは一定の法則であり、たとえばそれは固定観念という思い込みだったりする。
まあ恋愛も科学的に言ってしまえば一種の思いこみではあります。
遺伝子も行動の積み重ねによって次の世代へと固定されて伝わって行くこと。
それが進化の一面であること。
そうやって環境に適した種だけが生き残る可能性が高いこと。
まあ人の場合は育って行くうちに学んで変わることが大きい。
人は環境が9割。
かな。
だからその個人個人に適した生活環境を整えること。
その地道な積み重ね。
2007年3月15日木曜日午後8時30分カキコ。
初めて歌を歌った人は歌い方を知っていたのだろうか。
初めて絵を描いた人は絵の描き方を知っていたのだろうか。
初めて話した人は話し方を知っていたのだろうか。
初めて文書(文字)を書いた人は書き方を知っていたのだろうか。
初めて道具を作った人は作り方を知っていたのだろうか。
初めてゲームを作った人は作り方を知っていたのだろうか。
初めて漫画を描いた人は描き方を知っていたのだろうか。
初めてアニメを作った人は作り方を知っていたのだろうか。
初めてお金を使った人はお金の使い方を知っていたのだろうか。
初めて麦と米を作った人は作り方を知っていたのだろうか。
初めて気持ちがあることを知った人は気持ちを知っていたのだろうか。
原始の問い。
その答えを作る時。
その時間と空間。


それはだから時間があればだいじょうぶである。




サウンドデュアルの分岐。


組み合わせによる質量転化。場による変化。
普遍 共通 一般。

ひるがえりによる柔軟性の確立。質による時間。
特殊 集合 新性。

積み重ねによる固定(固定観念や建物や機器など)。量による数。
個別、蓄積、唯一。




2007年3月21日水曜日午後5時33分カキコ。
(場における)量による質への転化。
(場における)質による量への転化。
量数と質(時間)によって場(空間)は変化すること。
質(時間)と場(空間)の両立並列のバランスを取り続ける(量数)ことの本質の確立が宇宙(ひるがえり)であること。
さてさて、量による質への転化は、物質運動をヘーゲルが一言で表したものです。
量数をこなせば質(時間)が上がる。
構想時間(質)を上げれば、量数へと転化されること。
もちろん、無理に運動というか活動すれば、オーバーワークで体が持ちません。
これは気持ちにもあることなので、十分な休憩を取って活動とのバランスを取って健康に気を付けて下さい。
仕事の量数と質(時間)との両立並列のバランスを取り続けことの本質の確立が自分の居場所となります。
無理せずに、そこそこ頑張って下さいな。
とかね。

組み合わせによる質量転化。場による変化。性質における方向性。
普遍 共通 一般。

柔軟性の確立。質による時間。性質における方向性。
特殊 集合 新性。

自在固定。量による数。性質における方向性。
個別、蓄積、唯一。

パワーは量数に比例する。
構想時間に質は比例すること。
その両立とバランスを取り続けることの本質の確立が場であること。
量数はパワーで、人の場合では働く量数と休む量数が対となり、対の両立並列バランス取りとなります。
−−−。
サウンドデュアル、略してサンデュ、簡易弁証法。
大学の先生で哲学者のヘーゲルは弁証法を著して、数々の本を出しました。
エンゲルスは自然の弁証法という本で弁証法をさらに書き進めています。
簡易弁証法、サウンドデュアルは弁証法を進めるために書き進めています。
−−−。
神学と哲学。
神学が神の言葉から世の中の方向性や自分の考え方を導こうとしたのに対して、哲学は物理的法則から考え方や方向性を得ようとするスタイル。
神学から哲学へ。
とは言っても、いまでも神の学問、それはどういうものであったか探る部門として残っている大学もある。
たとえば相対性理論では相対の概念について、立って電車を見ている人と、電車に乗って見ている人の観測はそれぞれ正しいことを告げている。
相対の哲学としての概念はこれによってひとつ新しい一面を見たと言って良い。
では神学がなくていいのかというと。
いやいや。
宗教の最高の到達点は気持ちの形成てあること。
また科学の最高の到達点は労働と賃金の交換、お金であること。
力無き正義は無力。
正義無き力は暴力。
とこういう対比の表現となる。
お金だけあっても心がなくては困る。
心があってもお金がないと生活が成り立たない。
といったとこだろうか。
神学と哲学も両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が成り立つ気持ちと言える。
2007年4月4日水曜日午前12時00分カキコ。
歌の極意を教えよーう。
歌とはフレーズで構成されていること。
つまりは生命は細胞で構成されているが、いやまあそこまで細かいと言葉という感じだが、まあとにかく歌とはフレーズで構成されているのだ。
ガッツだぜ、ぱわふるらららと。
明日がある明日がある明日がある〜さあ〜とね。
世界にひとつだけの花ぁあ。
愛をくださいぃうおぅおう。
みたいなね。
その流れを基本として、そこからずれること。
まあとにかくフレーズの組み合わせで歌とは出来ていること。
音楽はひとつのリズム。
もひとつのリズム。
とかとかと。
その組み合わせから音楽の世界は構成されていること。
ここがポイントなのだ。
アニメは一枚の絵から構成されていること。
ドラマとはひとつのシーン、その組み合わせから構成されていること。
哲学はひとつの概念。
幾重かの概念から構成されること。
話はネタから。
幾つかのネタの組み合わせから構成されること。
笑いはひとつの無駄な時間。
幾重もの無駄な時間や常識のずれから構成されること。
シリアスはひとつの人生の分岐される場所。
幾重の人生の分岐される場所から構成されること。
色彩はひとつの色。
幾つかの色の組み合わせから構成されること。
絵はひとつの線(色)。
幾重かの線から構成されていること。
演技はひとつの台詞(動作)。
幾つかの台詞から構成されること。
文章はひとつの言葉。
幾つかの文節から構成されること。
ホワイトカラーはひとつの書類。
幾枚かの書類作成から構成されること。
街はひとつの建物。
幾つもの建物から構成されること。
見えないものはひとつの数式(量数の方向性)。
幾重かの数式から見えないものは構成されていること。
気持ちはひとつの見えないもの。
幾重かの見えないものを感じることで構成されること。
恐怖はひとつの気持ちのアンバランス。
幾つかのバランスが崩される要素に構成されること。
リスクはひとつの経済のアンバランス。
幾重かの経済活動のバランスが崩れる要素に構成されること。
ドキュメントはひとつのリポート。
幾つかのリポートから構成されること。
エンターテイメントはひとつの楽しさ。
幾重かの楽しさから構成されること。
エロさはひとつの性。
幾つかの性から構成されること。
厳格さはひとつの品。
幾つかの品から構成されること。
真面目さはひとつの時間を守ること。
幾つもの時間を守ることから構成されること。
不真面目さはひとつの時間を守らないこと。
幾つもの時間を守らないことから構成されること。
安全はひとつの確認。
幾つもの確認方法に構成されること。
機器はひとつの部品。
幾重もの部品から構成されること。
現実はひとつの矛盾。
幾重かの矛盾から構成されること。
時は空間、ひとつの場。
幾つかの場から構成されること。
空間、居場所はひとつの時間。
幾つかの時間の組み合わせから構成されること。
幸せはひとつの時空。
幾つかの時空から構成されること。
物質はひとつの原子。
幾つかの原子の組み合わせか構成されること。
そんなのあたりめーじゃねーか。
いやいや、こういうポイントを押さえた作品とか歌などとそうでないものは全然違うものなのだ。
もちろん仕事と生活もね。
個別を積み重ねて共通からヒットたる特殊へと行くこと。
素人(若手)や玄人もスランプになっていると、なにを積み重ねていいのか見えなくなってしまう。
いがいとありがちなことよ。
私も良く見えなくなるから。
困ったもんだ。
うんうん。
基本基礎となるそのひとつ。
その幾つかのひとつの組み合わせが描く構成。
組み合わせが描く世界。
まあこれをサウンドデュアルと呼んだわけだが。
宇宙という時間と空間はひとつのひるがえり。
幾重のひるがえりから構成されること。
とかなんとかね。
2007年4月4日水曜日午後8時38分カキコ。
アイディアはひとつの試行錯誤。
幾重かの試行錯誤によって構成されること。
パワーはひとつの休息。
幾重かの休息で構成されている。
安心は信頼する人といること。
幾重かの信頼する人といる時間によって構成される。
幸福はひとつのありがとう。
幾つかの感謝の言葉に構成される。
爽快さはひとつのさわやかさ。
幾重かの行動の速さとスプライトなさわやかさで構成されていること。
ヒットはひとつの爽快感。
幾重かのさわやかな力から構成される。
刺激はひとつの速度。
幾重かの加速度から構成される。
癒しはひとつの丁寧さ。
幾重かのゆったりした丁寧さから構成される。
人助けはひとつの話し合い。
幾重かの話し合いから構成される。
争いはひとつの荒れた言葉。
幾重かの挑発という刺激から構成されること。
人間関係の構築とはひとつの方向性を示すこと。
お互いの方向性を相対的に示すこと構成されること。
犯罪はひとつの生活不安。
幾重かの生活不安から構成されること。
量をこなすにはひとつの質。
幾重かの質の高さから構成される。
質を高いするにはひとつの数。
幾重かの量をこなすことから構成される。
場を形成するにはひとつの高い質と量をこなすこと。
幾重かの高い質と量数をこなすことで構成される。
平行線という気持ちの壁を破るのはひとつの両立並列すること。
幾重かの対立要素を両立並列のバランスを取ることによってひとつになること。
両立並列はひとつの対比。
幾重かの時間と空間の対比によって構成されること。
進化はひとつの否定の否定。
幾重かの否定の否定から構成されること。
否定の否定はひとつの両立並列。
幾重かの両立並列によって構成されること。
認識はひとつの対比。
幾重かの対比によって構成される。
アンバランスはひとつのバランス。
幾重かのバランスから構成されること。
バランスはひとつのアンバランス。
幾重かのアンバランスから構成されること。
矛盾は科学的な理論。
幾重かの科学的な理論から構成されること。
科学的な理論はひとつの矛盾。
幾重かの矛盾から構成されること。
対はひとつの対。
幾重かの対から構成されていること。
相対はひとつの両立。
幾重かの両立から構成されること。
絶対はひとつの方向性。
幾重かの方向性から構成されること。
全対(ぜんつい)は絶対と相対。
幾重かの絶対と相対から構成されること。
しがらみはひとつの共有。
幾重かの共有から構成されること。
いっぱいいっぱいはひとつの頑張り。
幾重かの頑張りから構成されること。
面白さはひとつのユーモア。
幾重かのユーモアから構成されること。
独占愛はひとつの愛してると言うこと。
幾重かの愛してると言うことから構成されること。
現場とかの場はひとつの時間と空間。
幾重かの時間と空間から構成されること。
空間はひとつの時間。
幾重かの時間から構成されること。
時間はひとつの空間。
幾重かの空間から構成されること。
カリスマはひとつの概念。
幾重かの概念を作り出すことで構成されること。
失敗はひとつの矛盾を解消しょうとすること。
幾重かの矛盾を解消しょうとすることから構成されること。
成功はひとつの時間と空間。
幾重かの時間と空間で場を作り出すことで構成されること。
新しいことはひとつの検証。
幾重かの常識と思われていることの検証から構成されること。
余裕とはひとつのフラットさ。
肩の力が抜けたような姿勢から構成されること。
存在はひとつの時間と空間。
幾重かの時間と空間から構成されること。
生き甲斐はひとつの夢。
幾重かの夢から構成されること。
いい仕事をするのはひとつの目標。
幾重かの目標から構成されること。
経済良好生活安心はひとつの必要とされる場作り。
幾重かの場作りから構成されること。
経費削減はひとつの節約。
幾重かの節約から構成されること。
経済好転はひとつのコラボ。
幾重かのコラボレーション(いろんな人と仕事出来ること)から構成されること。
歌はひとつのリズムとフレーズ。
幾重かのリズムとフレーズから構成されること。
世界はひとりの人。
幾人もの人から構成されること。
ビデオゲームのシステムはリアクションと選択肢。
幾重かのリアクションと選択肢から構成されること。
ドラマはひとりの伽羅。
幾人かの伽羅から構成されること。
伽羅はノリとリアクション。
幾重かのノリとリアクションから構成されること。
ひとつの要素その要素の組み合わせからすべては構成されていること。
組み合わせが描く世界をサウンドデュアルと言うこと。
2007年4月9日月曜日午後9時50分カキコ。
精神的余裕はひとつのゆったり。
幾重かのゆったりから構成されること。
人はひとつの時空の反映。
幾重かの時空の反映から構成されること。
表現はひとつの気持ち。
幾重かの気持ちから構成されること。
文はひとつのテーマと言葉。
幾重かのテーマと言葉から構成されること。
話はひとつのテーマ。
幾重かのテーマから構成されること。
楽しさはひとつの軽妙さ。
幾重かの軽妙さから構成されること。
安心はひとつのだいじょうぶ。
幾言かのだいじょうぶから構成されること。
問題の解決はひとつの緩和策。
幾重かの緩和策から構成されること。




リズムとリアクションとノリ。

幾重かのリズムと歌詞の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が歌であること。

幾重かのリアクションと台詞の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が作品であること。

幾重かのノリと非常識の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立がお笑いであること。

幾重かのパズルと部品の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が機器であること。

幾重かの時間と空間の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が時空であること。


これは要点を省略しているのであって、これですべてではないこと。


本質のリズム。
本質のリズムで踏むステップ。
気持ちのリズム。
気持ちのリズムで踏むステップ。




2007年4月21日土曜日午前9時50分カキコ。
時間否定の時間否定。
過去はいまに否定され続けている。
これが現実であること。
過去の業績も失敗も嘘も真実もいまに否定され続けている。
そしていまは未来に否定され続けていること。
未来とは予測すること。
未来とは将来。
未来とは希望。
これによっていまは否定され、それまで否定され続けた過去は全肯定されること。
つまり過去はあったことだと全肯定される時間の断層だが、いまはその過去を全否定される時間の断層であること。
そして未来は過去といまが混在する今と過去の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立であること。

−−−。
時間否定の時間否定。
未来とは過去と今の時間と空間から構成されること。
どちらがなくても未来という時間は構成されない。
たとえばどこかの場所を借りないと出来ないことも多い。
誰かの時間がなければその場所は空っぽであること。
当たりまえにあるような時間と空間。
時間と空間はひとつであり、それは時空という概念であること。
時間と空間を両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立。
それは時空であり、否定の否定、ひるがえりであること。
そして高い段階での対比物の相互浸透であること。
それによって対比される事柄は混合基準の中で統一されること。
いまは古いと否定されることでも、それは未来に進むのに必要な要素になることだと、その要素は否定の否定されること。
一般に否定の否定と言われるのはこの時間否定の時間否定であること。
そもそもがわざわざ長い時間かけてひとつの映画作ったり、本を作ったりするのはそれを読んだり見たりして時間との距離の取り方をバランスするため。
自分との戦いとは良く聞く言葉だが、ようは時間とどう向き合いまた逃げてまた過ごすのか。
時間とのかかわり方が人生と言える。

−−−。
時空とは


時間配分。
普遍、共通、一般。

時間空間。
特殊、集合、新性。

時間蓄積。
個別、蓄積、唯一。




時空とはいいものであると言われること。
そこには時間と空間があること。

−−−。
空間否定の空間否定。
いまある場所は昔あった過去の幾重もの場を否定しているが、それは過去の場といまの場の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が未来の場であること。

−−−。
希望否定の希望否定。
過去にあった希望はいまによって常に否定され続ける。
過去の希望といまという現実の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が未来である。
2007年4月22日日曜日午後2時32分カキコ。
記憶は古い分岐であって、いま直に通用するものではない。
つまり自分の考えというものは既にいまの世の中に通用しなくなっているのだ。
現実が厳しいとは良く聞く話である。
これが過去の希望はいまに常に否定されること。
が、他人と古い分岐を交換すること、話すことで、人はその古い分岐をさらに活性化して、新しい時間と空間を得て、新しい時空として構成しなおすことが出来る。
古い分岐を得て、古い枝から新しい枝へ、ということ。
これは本を読むことでも可能だ。
これによっていまと古い分岐たる過去は両立並列のバランスを取られ続けて行き、その本質の確立たる未来を得るとかなんとかである。
2007年4月27日金曜日午後9時1分カキコ。
苦境を脱するのはひとつの工夫。
幾重かの工夫が苦境脱出を構成すること。
友達を作るのはひとつの声かけ。
幾重かの声かけから構成されること。




現実の構成要素。


絶対現実。
普遍、共通、一般。

全対現実。
特殊、集合、新性。

相対現実。
個別、蓄積、唯一。




絶対変わらない現実。
それを絶対現実と言う。
絶対現実をいきなり捉えることは出来ない。
絶対変わらない現実を直接変えることは出来ない。
ひとつひとつ物事を相対して見て行くことで現実を分析してから捉える。
そのひとつひとつの相対現実から現実の共通たる絶対現実を捉えることが出来る。
そこから共通な場面に有効な人の居場所を作り出すこと。
すべての人がいてもいい居場所が隅々まで作られた時に全対現実となること。
たとえばそれはネットであったりする。
たとえばそれはネット漫画メイド一般などの喫茶であったりすること。
たとえばそれは学校から福祉施設から宿から飲食店からリビングカーであったりすること。
たとえばそれは誰もがいつでもどこでもいまでもいられる場所であること。
現実を緩和するのは居場所であること。
究極のとこ、現実といういまを受け止めるひとつの場所は家であること。
それは家族であり、家族がいる家であること。
絶対に変わらない絶対現実は普遍と言っていい。
その現実は変わったりはしない。
ではどうするか。
その絶対現実に耐えうる居場所を作り出して、そこで暮らすこと。
核戦争に警笛が鳴らされれば、シェルター建設が流行ったものだった。
だが、もちろん守りだけの居場所では人はずっと生きて行くことは出来ない。
いや本当に人を守る居場所というものは、普遍に続く争いさえも囲ってしまうものなのだ。
衣食住医療福祉も居場所のひとつだ。
歌を歌うならばライブ会場や収録場所がいること。
まあ路上ライブというスタイルもあるが。
自由になりたいと夜中にバイクで走り出すのもひとつの自由だろう。
けれども基本基礎としては居場所、場を作り出すことが自由のはじめの一歩なのだ。
自由はひとつの居場所。
幾重かの場所から構成されること。
いまどこかへ行こう。
どっかへ行こう。
けれどもそれはお互いの夢を話せる場所へ行こうと私は自転車にまたがって漕ぎ出すのだ。
2007年5月3日木曜日午前10時48分カキコ。
つまりは哲学というか、考え方の基本基礎常識というものはバランス感覚であること。
ただまあ気持ちのバランスは取ろうと思って取れない時も多いので、哲学はあくまで考え方までのカバーですが。
運痴がいるように、哲痴(てっち)みたいな人もいます。
だいじょうぶかなあこの人と思う場合もありますが、そういう人が生きて行ける場所というか、そういうのがあればだいじょうぶです。

−−−。
人の能力はどれだけの現場に入り、どれだけの人と話せるかに左右されること。
裏を返せばつまりは凄いと言われている人はそれだけの現場に入れて、また人と話すことが出来ると言える。
人は場とどれだけコラボ出来るかによって非常に左右される存在であり、またそれ以上でもそれ以下でもないのだ。
だからまあ、それだけ大きな仕事をするならばそれだけの現場に入れて、それだけの人と話す必要があること。
裏も表もなくそれだけであること。

−−−。
なんでも出来る人を見て、なんでもしょうとしてはいけないこと。
なんでも出来る人も最初はひとつのことをとことんやって、それが出来るようになってからもうひとつに行ったのだ。
だからなんでも出来る人はそこを原点として、迷ったらばそこに戻ることが出来る。
まずはひとつ極めることこれ個別から始めるのサウンドデュアルなりて。
2007年5月4日金曜日午後3時57分カキコ。
損や無駄や手間がかかること。
失敗が人を育てて行くこと。
成功はひとつの結果でしかないこと。
2007年5月6日日曜日午後9時24分カキコ。
戦争はひとつの生活不安。
幾重かの生活不安から構成されること。
平和はひとつの生活安定。
幾重かの生活安心から構成されること。
友達作りはひとつの声かけ。
幾重かの声かけから構成される。
いいものはひとつの時間。
幾重かの時間かけから構成されること。
余裕はひとつのそこそこ。
幾重かのそこそこから構成されること。
2007年5月17日木曜日午後10時27分カキコ。
絶対現実。環境が変わればなんとかなる現実。衣食住医療福祉の充実。
普遍、共通、一般。

相対現実。話せばなんとかなる現実。お互いがいられる場所の構築。
特殊、集合、新性。

全対現実。自分が余裕を持てばなんとかなる現実。ゆったり過ごす時間。
個別、蓄積、唯一。




2007年5月23日水曜日午前12時8分カキコ。
現実。
普遍、共通、一般。

本質。
特殊、集合、新性。

希望。
個別、蓄積、唯一。




現実とは戻らぬ時。それはいまがすべてという現実主義という主張。
本質とは見えないこと。一度手に入れたと思ったら、それは流れる風であったこと。見えない未来が感じられる一瞬。
希望とはひとりひとり違うこと。その人によって感じることには違いがあるから。それは雨の日に傘を持っていたことだったり、ちょいと思い出し笑いすることだったりする。
現実と本質と希望がからまって、存在は存在していると言える。
2007年5月26日土曜日午前3時27分カキコ。
バランスを取ること。
普遍、共通、一般。

バランスを崩すこと。
特殊、集合、新性。

バランスを取らないこと。
個別、蓄積、唯一。




人はバランスを取って生きようとする。
これが仕事と生活といったふたつのことの両立であること。
バランスとは両立であり、たとえばそれは天秤の重りであったり、無機質と有機質であったり、絵であったり文章であったり話であったりします。
そのバランスを取らない両立をしない時の日常を休んでいる素の自分は本来ある個性がありありと良くあります。
そういう時、素の自分を自分で感じることは少ないのですが。
バランスを取っている時に失敗またはぐらついてバランスを崩す時にまったく新しい物事が始まることがあります。
失敗は成功の母とはこういうことから言われることです。
失敗なくして人は成長しないとは確かにそうかも知れません。
2007年5月26日土曜日午後9時22分カキコ。
人は元来天然のバランサーとして自然の理と人の倫理観のバランスを取ろうとするものです。
なので、ある程度(?)変なことを言っても、それは正してもらえる(?)ものなのです。
危険なのはバランスを崩すことよりも、人になにも言えなくなってしまうような状況です。
なので、言える自由をどこまで保証出来るかに一面では物事のバランスはかかっていると言えます。
良くないこと言ったら批判しますが、まずは言えない社会ではいけないということなのです。
2007年5月29日火曜日午後11時28分カキコ。
サンデュ。


いいもの。
普遍、共通、一般。

テーマバランス。
特殊、集合、新性。

要素の量産性。
個別、蓄積、唯一。




普遍においてはいいものはいつでもどこでもいまでもいい。
特殊においてはメインテーマたる主題のバランスが取られること。
個別においては要素となる各部が多数あること。
要素とは形成される部分。
ある物はひとつの要素から形成されること。
要素の量数によって、量は質としてのいいものになる。
いいものによって質は要素の量数として質から量へと転化されること。
テーマバランスという特殊な主軸において、質と量は転化を繰り返す。
そしてこの三軸はいまも本質の中で回転し続けている。

要素の量でいいものになる。
いやまあたとえばコーヒー豆をたくさん入れれば質が高くなるとはならないことだが。
そこは入れるコーヒー豆のテーマバランスによって、さらなる質を求めたり求めなかったり。
どういったメインテーマ(主題)によって量と質のバランスを取るのか。
それが問題だ。
とかね。
このサンデュするということは、本質を響かせることでもあり、ヒット商品やサービスを作り出すことでもある。
正確には場によって量と質のバランスは取られるのだが、まあ哲学とか考え方における量と質のバランスはテーマによって取られると言えるだろう。
場によって取られる量と質のバランス。
としては、たとえば電車の駅から近いとか遠いとか。
なにか特色(?)のある地域であるとかね。
そんな場がバランスの主軸であること。
そんな感じかな。
2007年6月2日土曜日午後12時44分カキコ。
本質はバランスであること。
本質から横にずれて行くこと。

−−−。
たとえば作品であればメカと美少女(質)と伽羅の成長(量)をテーマバランス(場)でバランス取りすることで、作品は均衡を保たれるのだ。
たとえば家であれば、安全性快適性(質)と収納性部屋数(量)をテーマバランス(場)でバランス取りすることで、空間は均衡を保たれること。
家計会計であれば、収入(質)と支出(量)をテーマバランス(場)でバランス取りすることによる均衡を取ること。
これらは一例で、その場その時(ケスバイケス)でたとえば家にデザイン(質)と快適性(量)をテーマバランス(場)でバランス取りしてもいい。
テーマバランスという軸にどんな質と量のテーマを付与しても上手くバランスされます。
テーマバランスの軸にもっとたくさんの質と量のテーマをサンデュする、組み合わせてバランスを取ることも可能ですが、それはさらにバランス取りの難易度が高いと言えます。
それはある意味難解なテーマと言えます。
シンプルイズベストから言えば、そんなにたくさんのテーマでなくてもいいとは言えます。
−−−。
知識という要素の量産性と勘といういいものはテーマバランスという主軸によって本質となって回転し始める。
これをサンデュするという。

−−−。
本質はバランスであること。
バランスを取ろう(普遍、共通、一般)バランスの道を歩こう。
バランスを崩そう(特殊、集合、新性)バランスの道をずれよう。
バランスを揺らう(個別、蓄積、唯一)バランスの道を休もう。
そしてバランスの揺らぎは個人の個性であること。
これらのサンデュをバランススタンダードという。
2007年6月6日水曜日午前1時13分カキコ。
いいもののサンデュ。


時間蓄積(量)。
時が過ぎて行く景色。巡る季節。時間をかけて考えよう。じっくりと地味に時間をかけること。ひとつひとつの時間の組み合わせ。時間。
積み重ねはひとつの時間をかけること。
幾重かの時間をかけることから構成されること(いいもの普遍、共通、一般)。


柔軟性(質)。
現実への対応はその場その時ケースバイケース。千差万別。基本の応用が利くこと。時に休むこと。休息。そこそこやろう何事も。とかね。本質。
柔軟性はひとつのそこそこ。
幾重かのほどほどにしとくことから構成されること(いいもの特殊、集合、新性)。


主軸(場)。
ゆっくりと行こう。マイペース、自分の歩幅で。自分の感性。テーマバランス。その場所。空間。
個性はひとつの自分の歩幅で。
幾重かの自分の歩幅で歩くことで構成されること(いいもの個別、蓄積、唯一)。
2007年6月25日月曜日午前12時56分カキコ。
−−−。
本質のサンデュ。


本質。
普遍、共通、一般。

本質。
特殊、集合、新性。

本質。
個別、蓄積、唯一。




−−−。
イメージのサンデュ。


悠久の時を気持ち過ぎ行くこと。
普遍、共通、一般。

本質共鳴。見えないものを感じること。
特殊、集合、新性。

想像の翼を羽ばたかせること。
個別、蓄積、唯一。


















サウンドデュアルの項目ラス。哲学の分岐ラス。サンデュの項目ラス。サンデュの分岐ラス。サウンドデュアルの分岐ラス。哲学の項目ラス(この一行はページ内検索するためにある言葉です)。




バランスとは両立。両立しない時が休みの時である。

本質は気持ちを回転させる潤滑油である。

行動が上手く行かない時はとことん分析と戦略。

いまの行動を反面教師とする。

そこそこに自分のペースで歩いて行こう。

時空構築。仕事と生活に時間を使う。家族と自分の気持ちを整えるために時間を使うこと。
我慢もそこそこに。くたばらん程度にそこそこなー。




なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古きサウンドデュアルを感覚して古きサウンドデュアルから新しきサウンドデュアルへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
対立する概念をひるがえらせる対立する概念。
個別と共通をひるがえらせる個別と共通。
サウンドデュアルをひるがえらせるサウンドデュアル)!(。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。















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2006−12−25 月曜日午後6時51分カキコ。
バランススタンダードの項目。




三点のバランスが取れて、本質が確立している場と質と量。
2007−1−1月曜日午後6時34分カキコ。
練習では地道に積み重ねることも大切だが、バランススタンダードにおいては、練習ではバランスを崩して本番ではバランス取りをすること。
練習では歌をへたに歌う、絵をへたに描く。
へたくそであること。
これが本番でのバランス取りをより良いものとする。
もちろんバランスを取る練習も必要ではある、かな。
2007−1−2 火曜日午後4時43分カキコ。
両立のバランスを取り続けていることの本質の確立している時が集中している時。
本質の確立はみっつまでで、それ以上はバランスが取りにくいと思う。
2007−1−18 木曜日午前12時50分カキコ。
自由と拘束の両立とバランスを取り続けることの本質の確立。
自由だけでも一方向である絶対方向にすっ飛んで行ってしまうし、拘束だけでも絶対方向にすっ飛んで行ってしまう。
対となる概念の両立とバランスを取り続けることで、その絶対の方向は相対の方向へと変わること。
相対方向をかけあわせれば、ネット状の全対(ぜんつい)方向へと成ります。
対となる概念はそれぞれあります。
また、基本とされる概念からずれて対となる場合もあります。
これらの概念のバランスを取ることをバランススタンダードと言います。
絶対も相対も全対も方向性であり、それ自体は時間のとらえ方のひとつと言えます。
2007年2月10日土曜日午前1時40分カキコ。
時間配分を上手くすれば、生活も仕事も上手く行く。
時間配分によって否定の否定は成される。
ひるがえりとは時間配分であること。
労働と賃金の交換の積み重ねは時間配分の感覚を鈍らせる。
ので、柔軟性そのものである時間配分が上手くいかなくなり、柔軟性が失われるというわけよ。
これを踏まえて、時間配分はそれぞれの個人に任せること。
それが自由かなあ。
いやまあ仕事というものはこれやってあれやってではあるが。
そしてそれも時間があればだいじょうぶである。
2007年6月6日水曜日午前12時10分カキコ。
バランススタンダードとは、弁証法における対立物の高い段階での統一であること。




−−−。
対(つい)のサンデュ。

絶対。一点直進。いいものはいい。
普遍、共通、一般。

相対。二対天秤。両立はいい。
特殊、集合、新性。

全対。全面網状。すべていい。
個別、蓄積、唯一。




−−−。
資本主義がいい(資本主義の絶対バランス)。
社会主義がいい(社会主義の絶対バランス)。

資本主義(民間主導)と社会主義(政府主導)のテーマバランスによるバランス取り(資本主義と社会主義における相対バランス)。

共産主義(一人一人主導)(共産主義全対バランス)。


−−−。
市場がいい(市場経済の絶対バランス)。
衣食住医療福祉居場所がいい(計画経済の絶対バランス)。

市場と衣食住医療福祉居場所のテーマバランスによるバランス取り(市場と衣食住医療福祉居場所の相対バランス)。

全物無料(全物無料全対バランス)。


−−−。
能力主義がいい(能力主義の絶対バランス)。
年功序列がいい(年功序列の絶対バランス)。

能力主義と年功序列のテーマバランスによるバランス取り(能力主義と年功序列の相対バランス)。

生活保障と能力ボーナス(能力主義と年功序列全対バランス)。


−−−。
戦争がいい(戦争の絶対バランス)。
平和がいい(平和の絶対バランス)。

戦争と平和のテーマバランスによるバランス取り(戦争と平和の相対バランス)。

国境緩和(国境緩和全対バランス)。


−−−。
量こそがいい(量の絶対バランス)。
質こそがいい(質の絶対バランス)。

量と質のテーマバランス(主軸、場)によるバランス取り(量と質の相対バランス)。

量による質への転化(量と質の全対バランス)。
質による量への転化(質と量の全対バランス)。


−−−。
生活と仕事はいい(仕事と生活の絶対バランス)。
休息はいい(休息の絶対バランス)。

生活仕事と休息のテーマバランスによるバランス取り(生活仕事と休息の相対バランス)。

自分のペースで歩いて行く生活と仕事と休息(マイペース全対バランス)。


−−−。
とことん時間をかけることがいい(時間蓄積の絶対バランス)。
そこそこにしとく柔軟性がいい(柔軟性の絶対バランス)。
時間蓄積と柔軟性のテーマバランスによるバランス取り(時間蓄積と柔軟性の相対バランス)。

マイバランスワールド(マイバランス全対バランス)。


−−−。
リズムとメロディがいい(リズムとメロディの絶対バランス)。
歌詞がいい(歌詞の絶対バランス)。

リズムメロディと歌詞のテーマバランスによるバランス取り(リズムメロディと歌詞の相対バランス)。

リズムとメロディと歌詞のひるがえり(ひるがえり全対バランス)。









バランススタンダードの項目ラス。バランススタンダードの分岐ラス。バラスタラス。





バランスは本質であること。

そこそこなんとかなるだろう。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。


古きバランススタンダードを感覚して古きバランススタンダードから新しきバランススタンダードへ。




古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
バランススタンダードをひるがえらせるバランススタンダード。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。




















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2007年2月6日 火曜日午前2時38分カキコ。
否定の否定の分岐。




否定の否定、ひるがえり。
否定の否定は両立のバランスを取り続けることの本質の確立であること。
両立のバランスを取り続けることの本質の確立は単発の否定を否定して、それまでの否定を全肯定すること。
否定の否定は時間を越えて行くということでもあること。
たとえば今日という日は明日に成ることで否定されるが、けれども明日は今日に成ってしまうこと。
歌ではいまじょーしきとされるありがちな1フレーズをこの歌の1フレーズひとつひとつで否定していってサビという質の否定が否定することによって、それまでの単発の否定が全肯定されること。
たとえばサッカーでは攻め手のドリブルしている球を守り手が取れば否定の否定であること。
ドリブルで抜けたり、パスで通せば否定の否定であること。
これは野球とかでもそう。
たとえばコントではボケがじょーしきからずれる否定すること。
その否定をツッコミが否定すること。
そしてその積み重ねの否定の数量をオチの質が否定することで、積み重ねの否定は全肯定される。
ギャグ作品などもこれを基本としている。
それにさらに情景などをプラスしてさらにひるがえったりして。
これは演技でもそうで、それらの演技が最後に全肯定されること。
たとえばバトルものの作品。
強い敵、強敵は主人公の力を否定するが、それはまた主人公の成長に否定される。
ありがちなパターンだが、これが何百年も越えて来た意味あいはやはり否定の否定、ひるがえりを単純に表現しているからだろう。
世代として、子供は大人の世界を否定する存在だが、大人になることで、その存在は否定される。
その日の生活を仕事は否定するが、また生活に戻ること、これらの否定は仕事と生活の両立のバランスを取り続けることの本質の確立で否定、全肯定されます。
まーそんなことしなくても、眠りについて次の日になることで自然とその一日の仕事と生活の両方は否定、全肯定される。
それはまー自然というか、惰性にも思えるかも。
などなど。
こういったことが否定の否定であること。
時間の法則と言って良い。
そしてひるがえるいまの時かな。
そしてそれも時間があればだいじょうぶである。
2007年2月6日 火曜日午後7時50分カキコ。
作品では1シーン1シーンにおいてじょーしき、つまり基本基礎となるシーンを否定すること。
それらの単発の否定が見せ場において否定され、全肯定される。
アニメや特撮やCGなどはシーンを映像として否定しやすく、そのため突飛な画面が多い。
また、私がファンタジーとSF作品を得意とするのはここに一部由来します。
現代劇でもあり得ない恋愛があったりして、こういったものの対にはドキュメントタッチがある。
小説文やコラム文などはじょーしきの基本基礎の文章構成を否定していく。
そして見せ場でそれらの否定は否定されて全肯定される。
もちろんそれにはじょーしきとなる文章に熟知してなくてはなりません。
ニュースや新聞などでは現実のじょーしきを事実によって否定されていくが、それは日刊という速報に否定されて全肯定されていく。
雑誌などの場合は、じょーしきを否定するページ。
そのページは次のページによって否定される。
そしてそれらの否定は最後のページに否定され全肯定すること。
それはあとがきだったり、広告ページだったりかなあ。
これは漫画や文章や映画などにも当てはまる。
ページが文章では行、漫画はコマ、映像はシーンである。
ネットでもページ移動はこれに同じ。
下へとスクロールするのはちょいと違うが。
文章でもその一行一行はじょーしきの単発の否定を表現していく。
だからまー、この世界樹の枝の文章もそーなのよ(ソーナンス)。
それも時間があればだいじょうぶ、古き枝からとか等々という言葉で単発の否定を否定して全肯定してるわけです。
ゲームなどは動いている基本基礎とされるアクションに否定のリアクションしていくが、それらの単発の否定(個別)が共通の否定にたるリアクションによって否定、全肯定(特殊)されること。
それらの否定と全肯定。
じょーしきとなる番組に対する単発の否定を積み重ねて、それらの否定を柔軟性によって否定、全肯定する番組を作ること。
こういった否定の否定は感覚としてあり、あまり文章としては簡潔に表現されてこなかったものです。
なので、それが感覚出来る時と出来ない時で、仕事や生活にむらが出来ていました。
いやまー否定の否定が分かっても、なんでも上手くいくもんでもないですが。
単発の否定は、否定するために肯定するような、矛盾になりやすい一面があります。
いやもー人生矛盾が9割ですが。
否定の否定とは時間の進み方、時間という見えない流れの漕ぎ方でもある。
タイムサーフィンと言ってもいい。
ちなみにネットサーフィンの銘々はこのサンデュ(組み合わせ)に由来する。
時間は常に否定の否定を繰り返している。
そのパターンの上に存在があること。
時間の波を感覚すること。
2007年2月23日金曜日午前3時42分カキコ。
否定の否定の否定の否定の否定の否定の否定の否定の否定ーつかれたふーっ。
さらに否定の否定の否定の否定の否定の粗定の違った否定の否定の否定のひてーっむきゅー(ばたんきゅー)。
自然の否定の否定と人の否定の否定。
まあそこいらへん、くたばらない程度にバランス取ってくれい。
てな感じで。
前向きな姿勢や言葉がたいへんさを否定の否定する。
それはつまりは希望ということ。
否定の否定が希望のサンデュであり、希望のサンデュは否定の否定であること。
2007年2月23日金曜日午後9時34分カキコ。
猫が動くものに反応して、猫のおもちゃなどに反応する。
これは家猫でもそう。
つまり、遺伝子による設計図にこれは組み込まれていること。
積み重ねは固定となる。
その繰り返される動きは遺伝子に固定されること。
そうして次の世代に伝わる。
それが上手く環境に適した動物は生き残って行く。
これは進化の一面だろう。
その動きは遺伝子に固定されるが、その固定は次の世代へと伝わり、解放される。
そして進化とは否定の否定なのだ。
これは何世代もの時間を要することで、これはたとえば猪を掛け合わせて豚になる、または馬などの品種などにも見られることだ。
人の場合は生まれてからの環境のほうが比重が9割だろう。
あまりこの一面には左右されないと思う。

2007年3月15日木曜日午後8時26分カキコ。
−−−。
自然の否定の否定と人の否定の否定。
前向きな姿勢や言葉がたいへんさを否定の否定する。
成長、進化、そして一緒に進もう。
否定の否定。ひるがえりが描く世界。積み重ねと柔軟性のバランス取り。
ひとつひとつの線にそれまでの絵の単発の否定をしていて、竜の目において、それまでの絵の全肯定、それまでの単発の否定を全否定する。
話のひとつひとつにそれまでの話の単発の否定を積み重ねて、まとめにおいてそれまでの話の全肯定、それまでの単発の否定の全否定をすること。
演技のひとつひとつにそれまでの演技の単発の否定を積み重ねて行き、見せ場においてそれまでの演技の全肯定、それまでの単発の否定を全否定すること。
文章のひとつひとつにそれまでの文章の単発の否定を積み重ねて行き、見せ場においてそれまでの文章の全肯定、それまでの単発の否定の全否定をすること。
それまでの人生のひとつひとつに行動において単発の否定を積み重ねて行き、眠ることによって、それまでの人生の全肯定、それまでの単発の否定を全否定すること。
お金の使い方ひとつひとつに単発の否定を積み重ねて行き、決算においてそれまでのお金の使い方のあり方に全肯定して、それまでの単発の否定を全否定すること。
それまでのプログラミングをひとつひとつ単発の否定していく積み重ね、それを構成する時、それまでのプログラミングを全肯定して、それまでの単発の否定を全否定すること。
−−−。
否定の否定。
新しいことに挑戦する意欲。
古い分岐の組み合わせ。
古い分岐の組み合わせという単発の否定を積み重ね、その個別の蓄積から得た共通の否定によって古い分岐の組み合わせという単発の否定を全否定して、それまでの古い枝を全肯定すること。
否定の否定。
存在は螺旋しながら時間を進むこと。
存在は意識せずとも否定の否定しながらひるがえりながらあること。
いやさ存在そのものとは、物質が否定の否定している状態を言うこと。
時間とは宇宙にある全物質のひるがえる姿、全物質の否定の否定による大小の流れのことであり、空間としての宇宙はひるがえり続けていること。
それは技術の取得もそうであり、また人や他の存在との関係性もそうであること。
成長というか、生きるとは、この螺旋のひるがえり続ける舞い方を覚えること。
このひるがえり方を学べるか、周囲のひるがえる流れに上手く否定の否定が出来るかどうかで、存在のあり方を安定することが出来ること。
存在は他の存在を否定の否定すること。
関係性とはこの否定の否定のからみ方と言える。
本来存在というものはもっと不安定なものだが、人は否定の否定を使うことで、人の住む環境や関係性を一定安定させることも出来る。


−−−。
人と人の関係性における否定の否定。

客観の否定の否定。
普遍、共通、一般。

世界観の否定の否定。
特殊、集合、新性。

主観の否定の否定。
個別、蓄積、唯一。




物質運動における否定の否定。
技術とは物質運動の否定の否定の一部を、ここからここまでと定義して使っていること。
−−−。
カリスマの否定の否定とは。
鈴鷹さんがなに気なく言う一言が強い影響力を持つのは、いやさ、そういうカリスマの一言が力を持つのは、それまでに蓄積された否定の否定の量数が反映されるからである。
影響力とはその関係性や方向性に強いひるがえり、物質運動としての流れを強く作り出すこと。
この場合は人の気持ちの流れ、そのひるがえり方と言えます。
技術(否定の否定の使い方)の習得なども自分の一面の否定の否定となります。






ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を養い、自分の歩幅で歩いて行けること。

なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

そしてそれも時間があればだいじょうぶである。




古き否定の否定を得て古き否定の否定から新しき否定の否定へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
否定の否定をひるがえらせる否定の否定。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2006−12−22 金曜日午前1時30分カキコ。
時間の分岐。
(質)




過去と未来は世界樹の枝の同じ軸線上にあること。
過去と未来は時間の軸線上に表裏一体同じものである。
過去と未来の両立のバランスを取り続けることの本質の確立が現在であること。
2006−12−28 木曜日午後11時52分カキコ。
人というか、存在の時間の方向というものは、固定されやすい。
人で言えば固定観念。
それは過去形であるということ。
なにもしない時、その存在の時間の方向性は過去形を見ることが自然なこと。
それだとまったくその枝は細くなって絶滅してしまいそうです。
けれども現在進行形で存在し続けている存在というものは、その過去形の時間の方向性が個別となって、ちゃんと古い分岐を得て、共通たる未来形の時間を得ていること。
それによって特殊たる現在進行形の時間の性質へと続いていること。
これが古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へということになります。
2006−12−30 土曜日午後9時44分カキコ。
千年の分岐を読む。
二千年、四千年、万年、億年の分岐を読む。
そして古き枝から新しき枝へ。
千年聞かれる歌を歌おう。
千年伝わる時を彩う。
聞こえないことを話そう。
見えないことを表現しょう。
風を感じよう。
それこそが時間なのだ。
2007−1−11 木曜日午後7時29分カキコ。
だからそれは、時間をかければだいじょうぶである。
2007−1−20 土曜日午後9時15分カキコ。
だからそれは、時間をかければだいじょうぶであるというのは基本基礎。
そこからのずれ。
つまりは応用があること。
いい生活もいい仕事も時間があればだいじょうぶである。
いい勉学もいい遊びも時間があればだいじょうぶである。
人とのいい関係もいい言葉も時間があればだいじょーぶ。
こういったことが応用になります。
だからそこそこ頑張りましょう。
だからそこそこ休みましょー。
そこそこ夜空を見上げましょう。
てなもんや。
作りたい作品を作ることも時間があればだいじょうぶである。
作りたい番組を作ることも時間があればだいじょうぶである。
作りたい機器を作ることも時間があればだいじょうぶである。
リスクを見つつ、時間を得た楽観主義なりて、な。
えとせとらえとせとら。
2007年3月30日金曜日午前12時57分カキコ。
いまという構成空間。


現実、数の積み重ねによる固定化(量数)。
普遍、共通、一般。

本質、時間と空間の両立並列という時空(場)。
特殊、集合、新性。

変化、質による柔軟性(時間)。
個別、蓄積、唯一。




いまという時間は時間と空間と量数によって構成される。
本来数などは見えないものだが、空間と時間を得ることで、数は見える。
一定見えるものは物質の速度が遅いと言える、かな。
見えるものは、時間と量数が空間という場において一定両立並列のバランス取りされるために見えること。




過去
現在
未来




2007年4月3日午後9時46分カキコ。
時空の時空。


彼方の時空。
普遍、共通、一般。

見えない時空。
特殊、集合、新性。

ひとつの時空。
個別、蓄積、唯一。




時間と空間の両立並列のバランスを取り続けることの本質の確立が宇宙(ひるがえり)である。
時間と空間の両立並列のバランス取りが時空である。
人もひとつの時空ではあること。
時空は一曲の歌だったり、ひとつの小説だったりすること。
それがブレイクすること。
古い分岐を得て古い枝から新しい枝へと移ることが共通の時空であること。
見えない時空は一瞬だけ見えたような気がするが、それはいつまでもやっぱり見えないこと。

−−−。
作品においての時空の表現。
人は時空を内包しており、その時空と時空が響き合う一瞬を作品に描く時、作品には宇宙が広がり始める。
たとえばアニメ作品で時空が表現されていれば、神アニメとか言う。
映画ではゴッドムービーとかかな。
時空というものは時間における時間の時間。
時間における時間の時間はサウンドデュアルにおいて、神と哲学的に定義されているから。
時空の表現は機器でもなんにでもあることではあります。

−−−。
良い、いいと言われることや物や人は時間と空間の両立並列がバランス取られていること。
悪い、良くないと言われることは、矛盾を改善しょうとすること。
矛盾を改善することはもちろん目標ではあるが、それを目標にすると失敗する確率が9割となる。
現実はひとつの矛盾。
幾重かの矛盾から構成されること。
現実の方がむちゃくちゃ強いのだ。
これには時間と空間の両立並列、略して時空からアクセスすることがいい。
方向性としては、だろうか。

矛盾を正そうとすると失敗する確率が高くなる。
矛盾や問題の改善を急ぐのは分かるが、時空というか、場作りから始めたほうが現実には有効なのだ。
もちろんケスバイケスも常に必要ではある。
いいものを時空とすれば、現実が悪いものとすれば、時空と現実は対なのかも知れない。
その割合で人の世の中動いて行くのか。
時空と現実の両立並列の対を否定の否定することが必要なのかな。
いやまあこれだけでも相当凄いことではある。
現実を否定しては生きていけない。
現実を見ないふりでは生きていけない。
現実と時空の両立並列のバランスを取り続けることで始めて生きていけるのだ。
たとえば人においてひとつには居場所があること。
これだけでも人の気持ちはとても広くなるものだ。
矛盾を変えようとすれば人は完璧主義者となり、自分にも家族にも他人にも寛容にはいられない。
現実を変えるのは矛盾へのアプローチだけではなく、お互いが変われる道を模索することではないだろうか。
時間と空間のあるお互いの居場所があること。
それはちょっとしたことの積み重ねでもね。
とかなんとかね。
−−−。
両立並列の時空はひとつの時間。
幾重かの時間と空間から構成されること。
−−−。
時空圧縮から時空解放。
時空の性質方向性、時空の絶対方向、時空の相対方向、時空の全対方向。
古き時空を得て、古き時空から新しき時空へ。
古き時空を守りつつ新しい時空の提供。
時空の積み重ねと時空による柔軟性のバランス取り。

−−−。
時間と空間の対比。
時間と空間の対比、その積み重ねが宇宙を作っていること。
これを時空と言う。
時間と空間の螺旋構造が宇宙であること。
逆に言えば、それにそって行くことが、上手いこと(?)人生を生きるとか、仕事とかに活かせること。
生活と仕事もこの時間と空間の対比の積み重ねであること。
柔軟性とは、この積み重なる固定化する螺旋構造をくるっと回転させることなのだ。
想像ではなく時間と空間のある宇宙を作り出そう。
想像から宇宙へ。
とかなんとか。

−−−。
時空の否定の否定。
ひとつひとつの時空を積み重ねる、その組み合わせによって共通の時空を構築することで、それまでの単発の時空は否定の否定され、それまでの時空を全肯定すること。

−−−。
いまの構成空間。


現実の壁(量数)。
普遍、共通、一般。

本質の時空(場)。
特殊、集合、新性。

個人の力(時間)。
個別、蓄積、唯一。




時間と空間を響かせて時空を響かせる。
現実が厳しいという場合、数が出ないという意味合いがある。
ブレイクするとは、つまりは量数出るという意味でもある。
それはまあ商売であれば、数が出ることは一定意味があることだ。
また、見えない壁とか現実とはこの量数であることが多い。
いまとは現実のことを言うことがある。
物質運動の量数がひとつの現実であること。
人の世の中では労働と賃金の交換の量がもっとも大きな物質運動をうながす、いわゆる現実であること。








ひとつひとつ時間を積み重ねて、休息に柔軟性を得て、自分歩幅で歩いて行くこと。

なんとかなるさ。そうなるさ。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。



古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
古き時間を得て、古き時間から新しき時間へ。

過去をひるがえらせる過去。
現在をひるがえらせる現在。
未来をひるがえらせる未来。

千時間の平行線よりも一分分の未来。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−1−1 月曜日午前2時30分カキコ。


場の分岐。




場がなければなにひとつ作ることは出来ない。
工場なくして部品なく、本無ければ言葉も無い。
目標では無い、結果である。
いまは場を作り、結果が出るのを待とう。
家宝は寝て待てと言う言葉通りに。




2007−1−9 火曜日午後10時37分カキコ。
全物無料なども場のひとつではあります。
それは両立のバランスを取り続けることの本質の確立。
その本質の確立がちまちまと積み重なり、共通から特殊へと至ること。
それは結果であって目標ではないこと。
個別が自然と蓄積されれば、それはその時分かるので、それはまー何年かかるやらというとこですが。
まー無理せずそこそこ行きましょうという感じでしょうか。
場とは時間です。
時間とは質ですが、量も大きな意味では時間であり、存在そのものが時間の一定の側面と言えます。
そして、時間だけが唯一の資本であるのです。
だから私は宇宙の果て行くぞーと言って、それはいつになるやらと、いまはその技術を蓄えているのです。




いいものはいつでもどこでもいまでもいい。
だからそれは時間があればだいじょうぶである。

古き場を得て古き場から新しき場へ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
場をひるがえらせる場。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2007−1−15 月曜日午後11時14分カキコ。

本質の分岐。




古い本質を得て、古き本質から新しい本質へ。
古き本質を守りつつ新しい本質の確立。
歌を歌うのではなく、本質を歌うこと。
絵を描くのではなく、本質を描くこと。
作品を作るのではなく、本質を作ること。
文章を書くのではなく、本質を書くこと。
話を語るのではなく、本質を語ること。
踊りや演技ではなく、本質を動かすこと。
楽器を演奏するのではなく、本質を演奏すること。
なんつったりしてね。
まーそこそこ、バランス取ってねんごろり。
−−−。
サウンドデュアルの本質というものは、個別の本質を積み重ねて行ってある程度個別が蓄積されたら共通を見て本質たる特殊をとらえる。
これは古い分岐のとらえ方。
古い分岐を得て新しい本質の分岐を作り出す時もおんなじ。
探して来た分岐を個別に作って並べて行って、共通が見えて来たら一気に特殊、つまり本質の確立へと至る。
そしてこれがブレイクであること。
受け手のほうは共通の流れを楽しみますが、作り手にはまずゼロから始めるため、共通がありません。
ですから、個別から地味に作り出します。
ここいらへんまでの系統樹も含めたサウンドデュアルがネット構築や私の全盛期の作品作りに活躍した哲学ですね。
やっと書き出したよ。
ふー、やれやれ。
一仕事終えたな。
まーそんな感じでよろ〜。
2007−1−17 水曜日午後9時58分カキコ。
十年先、二十年先の時間を動かす本質。
十年二十年先の自分の時間を感じていまの仕事や生活へと本質させる。
2007−1−18 木曜日午後1時41分カキコ。
枝の多い、緑豊かな木。
2007年5月25日金曜日午後10時3分カキコ。
実は何々。
目からウロコ。
見えない風景が見える時。
吹いていた風が始めて見える時。
見えないなにかが感じられた時。
心にある自然が風吹き抜け、緑青々と色彩ある時。
本質という見えない一瞬。見えないことは新しいこと。見えないものは気持ち。見えないのは未来。







なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。




古き本質を得て、古き本質から新しき本質へ。
本質をひるがえらせる本質。
千の言葉よりもひとつの本質。




古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
本質をひるがえらせる本質。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2008−6−10 火曜日午前6時00分カキコ。

思考の分岐。




思考とは情報のシャッフルである。
まるでトランプをシャッフルするように、一定のパターンでランダムに情報をシャッフルすることが思考である。
睡眠とは、一定のパターンで情報を整理整頓するための思考のシャッフルである。
睡眠によって、人は情報を一定整理整頓のため記憶の洗濯のための情報のシャッフルをする。
夢を見ることは一定情報の整理整頓のための思考のシャッフルが行われているのである。
パソコンのメモリが動画を使ってると思考速度が遅くなるように、睡眠をとらないと情報が整理されずにわけが分からなくなってしまう。
睡眠を取ることでメモリを開ける必要があるわけである。
クイズとは情報のシャッフルを色々試していることである。
記憶とはシャッフルのパターンを一定整理整頓していること。
知識とは情報のシャッフルをするための力のことである。
試行錯誤とは情報のシャッフルを繰り返すことである。
哲学とは思考のシャッフルを楽しむことである。
エンターテイメントとはトランプの手品のような思考のシャッフルである。







なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。




古き思考を得て、古き思考から新しき思考へ。
思考をひるがえらせる思考。
千の言葉よりもひとつの思考。




古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
本質をひるがえらせる本質。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。













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2008−6−10 火曜日午前6時00分カキコ。

気持ちの分岐。




気持ちの交換が成されているから人生が面白い。
独占愛、家族愛、友情、孤独などとの気持ちの交換が成されているから生きることは面白い。
会話と気持ちの交換は違う。
会話の場合もあるが、基本的には本質によるものだ。
気持ちの交換は本質が感じられるのだ。
受け手と作り手の気持ちの交換が作品の感動となる。
いい歌を聴いて感動するのは気持ちの交換が成されるからである。
気持ちの交換が感動となるのである。
人と気持ちの交換が出来ることは幸福となる。
一人でも気持ちの交換は出来る。
孤独と気持ちの交換をすることが本質を得ることである。
仕事で気持ちの交換が出来るものが天職になる。
趣味も気持ちの交換が成されているのである。
気持ちの交換が成されないと人は生きていけない。
それほど大事なものである。







なんとかなるさ。そうなるさ。

いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。




古き気持ちを得て、古き気持ちから新しき気持ちへ。
気持ちをひるがえらせる気持ち。
千の言葉よりもひとつの気持ち。




古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
本質をひるがえらせる本質。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。










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最近チェックしたようなしないようなリンク先。




2007−1−18 木曜日午前1時27分カキコ。
検索デスク
2007−1−2 火曜日午前12時26分カキコ。
古代ローマ(ウィキペディア)
ポエニ戦争などは有名。
銀英伝でもヤンとラインハルトの最初の戦いでも参考にされてると思う。

2006−12−26 火曜日午後6時42分カキコ。
トレンド検索
トレンド検索はどの程度このサイトで検索があったかをグラフ表示すること。
トレンド検索した後、右上に年度と月の選択でさらに詳しく時期の特定が出来る。
下にはもっとも多く検索された場所(国別にも出来る模様)。

検索サプリメント

アニメあっとまーくにふてぃ
2006−12−6 水曜日午後11時19分検索サプリのとこのリンク切れ直し。カキコ。









ひとつひとつ時間を積み重ねて、休暇に柔軟性を得て、自分の歩幅で歩いて行くこと。


いいものはいつでもどこでもいまでもいい。

だからそれは時間があればだいじょうぶである。




古きリンクを得て古きリンクから新しきリンクへ。

古き分岐を得て、古き枝から新しき枝へ。
リンクをひるがえらせるリンク。
千の言葉よりもひとつのひるがえり。





















なあ〜ぉん















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強請(ねだ)るな、勝ち取れ、さすれば与えられん。








































































































とは言っても、とほほ……。