第5話:甲斐の武田

武田氏繁栄の礎


武田義清・清光父子がいかに非凡な武将であったかは、常陸國の在地勢力の注意を 引きつけ義業の佐竹郷土着を援護したのみならず、新天地を求めた甲斐國においても 「甲斐の武田」という大輪の花を咲かせていることに表れている。

義清・清光父子は、清和源氏という血脈の良さを利用しながら、甲斐國において 着々とその勢力を拡大していった。父義光が、かつて甲斐守を歴任していたことも 大きな武器になったに違いない。さらに、甲斐には甲斐駒という名馬があり、 同様に名馬の産地であった奥羽の平定で名を馳せた清和源氏の戦術を活かすことの 出来る環境であったことも見逃せない。

清光は、多くの男子に恵まれ、これらの諸子を甲斐國の要衝に次々と配していく。 清光の嫡子は、光長・信義という双子の男子であった。

光長は八ヶ岳山麓の逸見荘に土着し逸見冠者光長と称し、甲斐駒の産地である逸見牧を 治めることによって、後に戦国最強と謳われた武田騎馬隊の基礎を築いていった。

一方、信義は武田太郎を名乗り、甲斐國武河荘に土着して甲斐武田氏の祖となった。 その他の諸子も秋山、小笠原など甲斐國の有力豪族となる多くの分脈を生じ、 甲斐源氏は天下屈指の名族として発展していく。

やがて、信義の武田家は、新羅三郎義光から十八代ののち、 甲斐の武田信玄という 希代の名将を生み出すことになる。

その信玄の座右には、新羅三郎から義清・清光父子に伝えられ、 清和源氏の誇りとともに脈々と受け継がれてきた 御旗楯無鎧、孫子の兵法 が置かれていた。


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