在地勢力との対峙
さらに、常陸國の中部、武田郷(現在の茨城県ひたちなか市武田)に三男の義清を配し 勢力の扶植を図った。源義清は武田郷に居を構え、武田冠者義清と称した。 これこそが「武田」姓の始まりである。
当時、常陸國中部には常陸平氏の吉田氏、鹿島神宮の中臣氏が勢力を振るっていた。 その目と鼻の先に、清和源氏という良血の武将が現れたのである。 当然、在地勢力との勢力争いを招いたことは想像に難くない。
武田冠者義清には、清光という男子があった。清光は、黒源太清光と称したが、 近隣の武将からは「悪源太」(当時、悪という字は強いという意味で用いられた)と 呼ばれるほどの武勇の将であった。やがて義清・清光父子の武勇は常陸國全域に 響きわたっていった。静かに佐竹での拠点づくりを進行していた義業に対し、義清父子 の武勇はまさに「静」と「動」の対極をなしていた。いつしか、常陸國において もっとも注意すべき人物は、佐竹の義業ではなく武田の義清 という風評がわき上がった。
大治五年(1130年)、常陸国司により清光の濫行が朝廷に訴えられた。このときの
常陸国司、藤原盛輔は鹿島神宮の中臣氏とは深い関係にあった。すなわち、義清・清光
父子の武勇を恐れた在地勢力の反発により、清光「濫行」のゆえをもって
告発されたのである。
この告発によって、義清・清光父子は甲斐國への配流を命じられることとなる。