第1話:兄と弟

八幡太郎義家の奥州征伐


源義家は、清和天皇の第六子貞純親王の曾孫源頼信の嫡子源頼義の長男として生まれ、 石清水八幡で元服して、八幡太郎義家と称した。

源頼義は永承六年(1051年)、陸奥守を任ぜられたが、このとき前九年の役が勃発、 義家はこの前九年の役に父頼義に従って奮闘勇躍し、その戦いぶりから 天下第一武勇之士とさえ称された。

しかし、ひとたび平定された陸奥六郡に清原氏の内紛によって再び紛争 (後三年の役)が起こる。当時、陸奥守に着任していた義家は、清原清衡 (平泉藤原氏の祖)を助け、後三年の役の鎮定にあたるが、豪雪酷寒のために苦戦を 強いられる。さらに、このころには朝廷が義家の勢力が強大になることを恐れ、 後三年の役は朝廷の命による奥州征伐ではなく義家の私闘であるとして一切 支援することはなかった。

京の都で左兵衛尉という官職にあった義家の弟、新羅三郎義光は兄の苦戦をみかね、 朝廷に対し兄の援軍に向かう許しを請うたが、朝廷はこれを認めなかった。朝廷の 謀略を見抜いた義光は、ついに官職を捨て奥州の兄の元へ援軍に駆けつける。 義家は、この援軍に感激し大いに力を得て、寛治元年(1087年)ついに後三年の役を 平定した。

義家は、奥州平定の後、京へ戻るが朝廷からは何の恩賞も与えられなかった。義家は やむなく私財をはたいて部下の功を賞したが、それによってますます東国武士達は 源氏への信頼を厚くしたといわれる。一方、義光は、奥州平定の功により刑部丞に 任ぜられた。兄を冷遇し、弟を厚遇することによって、兄弟間での争いを誘発しよう という朝廷の意図は明白であった。


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