シューマン : 交響曲第4番ニ短調 CDレビュー III



V.  1988-1998年録音
         ♪ドホナーニ♪シャイー♪レヴァイン♪マズア♪エッシェンバッハ♪
         ♪ヴァント♪フォンク♪ムーティ♪アーノンクール♪メルツ♪
         ♪アーノンクール♪ヘルヴェッヘ♪♪ガーディナー♪マリナー♪


◆ドホナーニ/クリーヴランド管弦楽団(1988年 DECCA) ★★★★★
 1984年にクリーヴランドの音楽監督に就任したドホナーニは、この頃までにベートーヴェン、ブラームスの交響曲をランダムに録音していますが、同じ作曲家の作品を連続して録音していないところがユニークです。ちなみに、この年の後半からブルックナーの録音を始めています。シューマンの4番ではこの4年間の成果を存分に発揮させて、オーケストラを完全に自分の楽器にしていることを強くアピールしている演奏です。

 第1楽章の序奏におけるヴィオラ・チェロの対旋律の強調は興味を引きます。主部に入ると速めのテンポながらせわしさを全く感じさせず、全体に引き締まった響きで弾むように進められます。この明快なリズム感はティンパニの軽やかな音色とあいまって、聴いていて爽快さを覚えます。とりわけここぞという時のテインパニの絶妙な音量による一撃が大きく物を言っています(この演奏で初めて序奏におけるティンパニの連打の意味がわかりました。)。また、弦とかけあう木管の音色といい音の勢いといい出色の演奏で、フルートの音が突出して聞こえますが違和感はありません。金管も威圧的なところは全くなく、曲の色づけに貢献しています。コーダに入ってもこうしたフォームは崩れません。

 第2楽章は、冒頭のクラリネットを主体とした和音(ホルンの音を抑える)はこの楽章を室内楽的にまとめることを予感させます。オーボエとチェロのソロは精緻そのもの、逆にヴァイオリンのソロには動きを与えてコントラストを際立たせます。ヴァイオリンがスタカートを無視しているのはやや速めのテンポであることから軽い音楽にならないようにするためでしょうか。 第3楽章、溌剌としたリズムの中をフルートの音が天空を駆け巡るといった感じで、弦主体の演奏が多い中極めて新鮮に聴こえます。中間部は木管がやや前面に出ていてヴァイオリンの細かい動きが不明瞭なのが惜しまれます。

 第4楽章の序奏では、闇夜をつんざくラッパの音が鳴り響いた後(この曲で初めて聴くラッパの主張です。)、一瞬ピアニッシモにダイナミクスを落としてからクレッシェンドするという粋なことをやっています。主部に入ってからは心地よいテンポで全体に明るい雰囲気で進みます。ここでもフルートが自由に泳ぎまわっているという感じがあります。第2主題でもほんのわずかにテンポを変えることで音楽の方向(「おさまる」とか「前へ行く」)がわかり、これが結果的には歌として聴こえてきます。提示部のリピートは省略されていますが、この楽章の序奏のクライマックスからコーダへ一気に聴き手を導こうとする指揮者の意図がよくわかります。 「フルートとティンパニに座布団2枚ずつ!」と思わず言いたくなりますが、全体としても素晴らしい演奏で第一に推薦したいCDです。


◆シャイー/ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1988年 PHILIPS) ★★★☆☆
 1988年にハイティンクの後任としてロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の常任指揮者となったその年の録音です。ハイティンクはこのオーケストラを振って同曲を1984年に録音しています。第1楽章。のんびりとした雰囲気の序奏で平坦な感じで始まります。主部に入ってもふんわりした感じの丸みを帯びた音が特徴的です。弦はやや薄く、ヴァイオリンと低弦の間に距離を感じます。木管ははっきりしていますがティンパニはハイティンクの時の心地よさはなく、終始妙な響きで叩いています。各パートが小さくまとまって聴こえるせいかテンポは遅くないのになかなか前に進まないといった印象を受けます。

 第2楽章もなめらかで平和そのものといった調子で、ヴァイオリンのソロもレガートでよどみなく流れます。第3楽章はゆっくりめのテンポで各パートをていねいに聴かせます。ヴァイオリンが引っ込んでいてティンパニや木管が前面に出ているという変わったバランスで演奏されています。トリオではヴァイオリンの旋律がもやもやしていて物憂げに聴こえます。

 第4楽章。ひそひそ話しをするように序奏が開始され、金管が入ってきてもなかなか盛り上がりません。なだらかな丘をつくりあげる程度でいつのまにか主部へ入ります。主部ではゆっくりしたテンポで始まりますが、第2主題でさらにテンポは落ち着いていきます。提示部の終結部にさしかかってもテンポは上がらないので奇妙な感じを受けます。弦と木管の音階の掛け合いでは音量のバランスに工夫が凝らされていて普段とは変わった響きが楽しめます。コーダに入ってやっとアクセルが踏み込まれますが、あまり緊張感を感じさせないまま終わってしまいます。こうしたソフトタッチで描かれたシューマンもたまにはいいかもしれません。シューマンの普段と違った側面をみせてくれるとも言えますが、好みは大きく分かれるでしょう。ドイツ的な重々しい演奏に飽きた方にはお勧めの1枚となるでしょう。


◆レヴァイン/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(1990年 GRAMMOPHON)
 レヴァインにとってフィラデルフィア管弦楽団に続いて2回目の録音です。オペラでは高い評価を得ているレヴァインですが、管弦楽作品の演奏(いつもトップクラスのオーケストラばかりを相手にしているのですが)での最近の評価はパットしません。この演奏では、基本的な解釈は前回とあまり変わらないようです。演奏時間の比較はあまり意味ないのですがほとんど差がありません(第1楽章は24秒の差ですが、他の楽章は4秒以内です)。

 音の分離に優れた録音で、輝きのある木管、力溢れるヴァイオリン、迫力ある低弦と聴き応えある演奏となっています。ベルリンフィルは最初からパワー全開。油絵の絵の具を分厚くキャンバスに塗りたくった感じで音の洪水が絶えず押し寄せてきます。しかし、全曲を通じてこんな風ですと聴く側は疲れてしまいますね。シューマンの孤独、愁いを探したい人にはお奨めできません。また、細かいところへの配慮が今ひとつで、力任せに弾いているのが散見されるのが気になります。ベルリンフィルというスーパーオーケストラといえども磨かれないと光らないようです。ベルリンフィルのテクニックとパワーに「おんぶにだっこ」の印象は拭えず、2回目としてこの曲を録音する理由がよくわからないといわざるを得ません。また、第4楽章の第2主題でフィラデルフィア管弦楽団のときに盛んにやっていたテンポ・ルバートもここでも健在で、これでは「ドキッ」とするより、「またか」とうんざりしてしまいます。

 筆者は、この録音(1990年2月)の直前の1月30日に収録された放送録音のテープをたまたま持っていまして、ベルリオーズの幻想交響曲の前プロとしてこの曲が演奏されています。そのテープを聴きますと、録音のせいかもしれませんが、ベルリンフィルはベルリオーズの大曲を控えているせいか、シューマンのこの曲を演奏するにあたりだいぶ肩の力を抜いているようです。このCD録音に見られる激しさや威嚇といった面は影をひそめて聴きやすい演奏になっています。実は、このベルリオーズも同じく1990年2月にCD録音されていまして、定期演奏会のプログラムを効率よくCD化しようとするレコード会社の注文にテキパキ応えているレヴァインの姿が目に浮かんでしまいます。これではいい演奏は生まれませんね。余談ですが、シューマンのこの曲が「交響的幻想曲」とも呼ばれていたことを考えると、ベルリオーズの幻想交響曲といっしょにプログラムに組んだベルリンフィルの慧眼にはただただ脱帽するばかりです。だいぶけなしてしまいましたが、ベルリンフィルのファンにはこたえられない演奏であることは確かです。なお、第2楽章のヴァイオリンのソロはスタカートを付けずに弾いています。


◆マズア/ロンドンフィルハーモニー管弦楽団(1990年 TELDEC)
 マズアによる2回目のシューマン交響曲全集です。1回目はゲヴァントハウス管弦楽団でして、この曲を初演した(が、失敗した)オーケストラです。2回目はその初演時の譜面(ヴュルナーの手が加わっていますが)を使って何故かイギリスのオーケストラで録音しました(英国のオーケストラはこの曲をあまり録音していませんが、ロンドンフィルはこれで3枚目です。)。なお、メジャーのオーケストラ&レーベルが1841年版を現代楽器、現代奏法を用いて録音した唯一の演奏ということで貴重な1枚です。

 第1楽章は序奏から速めのテンポを取っていて、主部に入っても軽快さと透明な響きが印象的です。最終稿と較べて楽器の重ねが少ないのがこの版の最大の特徴ですが、マズアはこの透明感を鮮やかに浮き彫りにさせています。聴いていてそれ程違和感がないのは、この版における最終稿との相違個所がそれなりの音楽的効果を出すことができるからで、1841版でも優れた作品であることをこの演奏は雄弁に語っていると言えます。全体的に速いテンポではありますが、マズアは各フレーズ毎に煽ったり抑えたりほんのわずかながら微妙なテンポの変化をつけていて、リズミカルで爽快な雰囲気を常に維持しています。伝統にどっしり根をおろした当時自分のオーケストラであったゲヴァントハウス管弦楽団を敢えて使わなかったのもうなずける演奏です。CDの解説によると、提示部の繰返しは譜面に指示がないそうです(第4楽章も)。

 第2楽章。あまり抑揚をつけない平坦な感じで進められていて間奏曲風に仕立てています。オーボエとチェロのソロは音色はいいのですが、やや響きすぎるきらいがあります。ヴァイオリンのソロは速めのテンポで譜面に忠実な演奏をしています。第3楽章。主題に戻る直前のリタルダントは譜面に指示があるのかアーノンクール(後述)も同じようにやっています。しかしアーノンクールほど最終稿との相違を強調はしていないので安心して聴けます。

 最4楽章。序奏の最後のところは最終稿と決定的にちがうところですが、その弦楽器によるスケールを聴くとゾクゾクするくらいで、演奏効果は抜群です。序奏から主部にかけてのテンポの移り変わりにはだいぶ苦心の跡が見られますが、アーノンクール程の違和感はありません。全体に速めのテンポの中、楽器の重ねの少ないオーケストレーションやリズミカルな伴奏部の利点を活かして、とりわけ木管の音色を楽しませてくれます(特にオーボエが素晴らしい。)。室内楽を少し大きくしたような感じをさせる個所もあれば、バランスの取れたシンフォニックなところもあり、その弾き分けが見事です(古楽器・古楽器風の演奏にはこのバランスに首を傾げる演奏が多いですね。)。ロンドンフィルの演奏水準は極めて高いのですが、残響が多すぎて細部がはっきりしないところがあるのが残念です。


◆エッシェンバッハ/バンベルク交響楽団(1990年 Virgin Classics) ★★★☆☆
 本業がピアニストだった指揮者によるこの曲の演奏はバレンボイムに次いで2枚目となります。二人ともシューマンをレパートリーとしていただけにたいへん興味があります。というのは、シューマンは交響曲第1番と続くこの曲を作曲するまでは(習作の管弦楽曲は別として)ピアノ曲と歌曲ばかり書いていたわけで、この曲の語法がピアノ曲の延長上にあるという見方もできるからです。自らの10本の指で音楽を紡ぎ出すピアニストがオーケストラからどんなシューマンの音楽を引き出すか楽しみです。

 第1楽章。序章では非常にていねいな音の処理をしているという印象を受けます。主部に入る直前のヴァイオリンの音色にもかなり気を使っていていい雰囲気を出しています。主部に入ると、16分音符のスタカートを強調したリズミカルな演奏を繰り広げ、ここでもていねいな音の出し方に徹しています。ff(フォルテッシモ)でも決して荒々しくならず、四分音符をきっちり時間通り伸ばすところなど、決め所はしっかり押さえています。弛緩のないテンポに終始し、コーダに入ってもがなり立てずに適度なアッチェランドをかけていきます。

 第2楽章。オーボエとチェロのソロは息の長いフレージングが印象的です。ヴァイオリンのソロはスリムな響きで譜面にあるスタカートをほんの少し効かせています。このソロをつなぐ部分での微妙なルバートにたいへん興味が惹かれます。第3楽章。中庸なテンポを採用していて、響きが透明なために各声部がよく聴こえます。ヴァイオリンが弾く四分音符が連続するところではフレーズの頭にアクセントをつけているのが面白く感じられます。トリオでの楽器のバランスもよく、チェロ・バスの第1拍目の音も心地よく響いています。

 第4楽章。序奏冒頭の弦のトレモロがよく聞えます。息の長いクレッシェンドでスケールの大きな盛り上がりをみせてくれます。主部に入っからはこれまで通りの落ち着いたテンポを維持していて、しかも重くならないようテンポへの細かな指示を感じさせる程よくコントロールされています。ティンパニ、金管共にバランスよく全体に溶け込んでいて、終始明るい雰囲気を出しています。激するところがないので物足りなさを感じることもありますが、お奨めの1枚です。


◆ヴァント/北ドイツ放送交響楽団(1991年 BMG)
 最近ベルリンフィルを振ったシューベルトやブルックナーの録音が話題になっているヴァントですが、この演奏を聴いての第一印象はやはりもっといいオーケストラで活躍してほしかった(80歳を越えていますがまだ健在です。)というのが正直なところです。北ドイツ放送交響団も重心の低い音で雰囲気は出していますが、もうひとつ自在なところがないというか切れがないというか物足りなさを感じます。速めのテンポで引き締まった音はいいのですが、木管がかなり奥まっているのとティンパニがやたら重たいのとで、とりわけ展開部以降の音楽に歯切れが失われています。コーダに入っても今ひとつで、最初の勢いが持続できないのが残念です。

 第2楽章。全体にこじんまりとした室内楽的な音楽づくりが興味をそそります。オーボエとチェロのソロは実に素晴らしく、これが交響曲のひとつの楽章であることを忘れてしまうほどです。ヴァイオリンのソロは対照的にソリスティックな弾き方をしています。第3楽章はあまり厳しさを感じさせませんが、トリオを含めてやや重い感じがします。

 第4楽章。序奏では息の長い音楽の進行が特徴的で、盛り上がった後いったんピアニッシモに落ちてからなかなかテンポが上がらず、完全燃焼しないまま主部に入ります。ほとんどの演奏は主部の直前、序奏の最後で大爆発させるのですが、考えてみるとそこで曲は終わりではなく、第4楽章の主部が始まるのですからあまり羽目をはずしては序奏の意味がないわけで、ヴァントのこうした節度ある解釈が成り立つのももっともだと思います。ただ、この曲のトレードマークみたいな個所であることも否定できませんから、ついどんなドラマを演じてくれるか期待をして聴いてしまいます。主部は落ち着いたテンポで進行していまして、あまりスケールの大きさを感じさせません。むしろ室内楽的な緻密さを随所に聴くことができます。しかしそれもティンパニが入るとがらっと気分が変わってしまうのが残念です。どうもティンパニがやかましすぎるようです。なお、提示部のリピートは省略されています。コーダに入ってしばらく妙にテンポが遅いのがユニークですが、最後までオーケストラをフルパワーで鳴らさないのは何か意図があるのでしょうか。どこまでがオーケストラの限界なのかヴァントの意図なのかよくわからない演奏です。是非ともベルリンフィルでこの曲を指揮してほしいものです。


◆フォンク/ケルン放送交響楽団(1992年 EMI)
 筆者にとってあまりなじみのない指揮者でして、そのぶん先入観なしに聴くことが出来ました。第1楽章の序奏はしっかりした足取りで進行するところなど新鮮な感じを受けます。主部に入ってからも堅実で無理のないテンポを維持し、ていねいに音楽を作っていきます。弦の16分音符のスタカートがよく弾んでいるのと、キザミ(32分音符で同じ音を2個ずつ弾くところ)がきちっと決まっているのとで快感を覚えます。それぞれのパートのバランスもよく、とりわけオーボエがいい音を出しています。展開部あたりではもう少しテンポを速めてほしいと思うこともありますし、フレーズ毎に細かい変化があってもいいように感じます(全奏のところで唸り声が何度も聞けます。)。コーダでようやくテンポはアップしますが、その時アンサンブルがやや乱れるのと速いテンポになって全体の響きが薄くなるのが惜しまれます。

 第2楽章。オーボエとチェロのソロのところで、オーボエはとてもいい音を出しているのですがもう少し抑制がある方がいいように感じました。ヴァイオリンのソロは抑揚のきいた実にソリスティックな演奏で、譜面では9つの音符についたスラーを3ずつに切っています。また、スタカートもつけていません。交響曲のひとつの楽章というより幻想曲の一節として聴けば特に違和感はありません(シューマン自ら交響的幻想曲とも呼んでいましたからあながち間違った解釈ではないでしょう。)。

 第3楽章。主部の中間部(音量をおとしてリズミカルになるところ)でスラーのついた音をヴァイオリンが押すような弾き方をしていますが、古楽器の奏法を意識したのでしょうか。コーダでも同様な弾き方をしていてなんだか「こぶし」がきいているように感じられます。トリオでヴァイオリンが遅いテンポできちんと弾いているのはいいのですがやや重たく感じられます。真面目で色気を感じないとでも言いましょうか。

 第4楽章序奏。おさえどころをきちんとおさえていて、音もよく鳴り響く演奏です。主部は音の勢いを失わない、いいテンポで開始され、ここでも生真面目なところがよく出ています。音をすべて鳴らしていますが、第2主題では四角四面な感じを受けてしまいます。もう少し遊びというか色っぽいところもほしいものです。コーダでの盛り上げ方も堂に入っていて、破綻のないテンポでうまくまとめています。水準の高い万人向けの演奏と言えます。


◆ムーティ/ウィーンフィルハーモニー管弦楽団(1993年 PHILIPS) ★★★★★
 この演奏はウィーンフィルにとって8回目の録音で、この記録はベルリンフィルの7回を抜いて第1位です。ムーティにとっては2回目のシューマン交響曲全集となり、イタリア人にしてはシューマンの交響曲を好んでいるらしく、手元にはFM放送からのエアチェックしたテープが3本あります。ひとつは1回目の録音の4年後、1980年フランス国立管弦楽団(この曲をフランスのオーケストラで聴くのはめずらしい)を振ったもので、1回目の録音での解釈の延長上にあって、前回の不自然なところを改善したという印象を受ける演奏です。全くフランスのオーケストラであることを感じさせない(シューマンの曲として違和感のない)、スケールの大きな演奏です。もう1本のテープは、この1993年のCD録音(5月19日−26日ムジークフェライン)と同時期の演奏で、5月24日コンツェルトハウスで行なわれたウィーン芸術週間での放送録音です。22、23日にムジークフェラインでウィーンフィルの定期演奏会が24日と全く同じプログラム(1曲目:フォーレの「ペレアスとメリザンド」、2曲目:ベートーヴェンの交響曲第1番、3曲目:シューマン)で行なわれているという記録を見ると、このCD録音は3日連続の本番と前後して録音されたことになります。このコンツェルトハウスでの演奏はムジークフェラインでのCD録音とほとんど同じスタイルであることは当然のことでして、ホールの違いによる微妙なテンポの差(フェルマータの長さなど)はありますが、聴衆がいるライヴだからといった興奮した雰囲気はあまり伝わってきません。というか、最近のCD録音によくある、演奏会の本番とそのゲネラル・プローベ、ステージ・リハーサルのいいところをつなぎ合わせる方式に慣れた演奏家たちですから、聴衆のあるなしで演奏のフォルムが大きく変わることはないのでしょう。

 1980年から1993年までの13年間でムーティのシューマンへの考えが変わったかと言うと否です。驚くことにテンポから細部の表現に至るまでほとんど変化がなく、しかもオーケストラが変わってもその影響を受けずに自分のスタイルを守っている(というか押し付けている)ようです。3本目のテープは1995年8月15日ザルツブルグ音楽祭祝祭大劇場での同じくウィーンフィルを振ったもの(プログラムのメインにショスタコヴィッチの交響曲第5番を置いています。)で、ライヴとは思えない完成度を誇る演奏です。ムーティの解釈はこのCDと全く変わっていません。

 第1楽章の序奏では、バーンスタインの時と同様にヴィオラ・チェロの対旋律を前面に出しているのは興味深いところです(この楽章のコーダでも低弦がかなりよく聴こえます。)。テンポはゆったりしていて一音一音踏みしめているように進みます。主部では無理のないテンポを採用していて、時おり程々の重さと熱っぽさが伝わってきます。展開部における全奏時でのスケールの大きさはさすがで、とりわけフェルマータが長いのが特徴的です(第4楽章でも同じ傾向にあります。)。クライマックスにのぼりつめるところも不自然さがなく、コーダに向けてのアッチェランドも快適そのもの、しかもその後の開放感がなんとも言えません。最後の和音の美しいこと!落ち着きと熱っぽさが同居する見事な演奏です。

 第2楽章、しんみりした雰囲気で始まるオーボエとチェロのソロは絶品です。ヴァイオリンのソロはスタカートをつけずに全体がレガートで流れるように奏されます。この楽章と第3楽章の主部とトリオのそれぞれおいて採用されたテンポが絶妙な組み合わせとなって聴き手に心地よさを与えています。

 第3楽章では、荒々しくないけれど力強さを湛えた演奏で、とりわけ弦と木管の見事なバランスに支えられています。四分音符が続くヴァイオリンのフレーズは速い弓で全弓を使っているせいかやや重たい(引きずり気味)のが気にかかります。コーダに入るとムーティは丹念に音楽を作り始めますが、オーケストラの室内楽的な反応には舌を巻きます。この辺のところはフルトヴェングラーの演奏を思い出します。

 第4楽章の序奏は堂々としたスケールで始まり、じっくりと盛り上げていきます。厚みと透明感との両方を併せ持った弦の響きはとても真似の出来ないところです。主部に入ると溌剌としたリズムに乗って(けっして速くはありません。)どんな局面でもそれしかないという完璧さを維持した演奏を繰り広げます。テンポの微妙な変化も全く自然で、聴いていてなんの抵抗も感じません。コーダに入ってもそれほどテンポアップしませんが、最後のプレストでようやく一目盛り速くなります。ここに入る前のff(フォルテシモ)による全奏のアウフタクトは、ムーティお気に入りの個所のようです。このアウフタクトをこれ程までに見事に決めた演奏はバーンスタインと唸り声付きのチェリビダッケだけではないかと思います。するどい音といい、音の勢いといい、そのタイミングといい偶然にしては出来すぎで、コンツエルトハウス及びザルツブルグ祝祭大劇場でのライブ録音も全く同様に決まっているところを見ると相当リハーサルしたようです。しかも、1980年のフランスでの演奏会でもムーティは足踏みのおまけまで付けて同じことをやっています。きっとこの個所にくると1stヴァイオリンに向かってあの太い眉毛で睨みつけているのだなと思わず想像してしまいます。もちろんのその演奏効果は絶大なものがあります。ここのアウフタクトをきちんと音にしている録音は少なく、次の小節の頭の音を出すとき、こらえきれなくて前に飛び出してしまったパートと重なってもお構いなしにプレストへなだれ込むといった演奏ばかりです。もっとも、クライマックスへと駈け上がっていく途中における突然の全休止の直後ですし、多少ずれようが何しようがそんなことより音楽の勢いのほうが大事であるというのもよくわかります。

 こんなにいい演奏なのに音楽評論家の間で何故か無視されている演奏です。運動会みたいな演奏や力で押しまくるだけの演奏、奇抜さを売り物にする演奏とはひと味もふた味もちがったムーティの料理をお試しください。ウィーンフィルということを前面に出さないけれど、ここぞという時にウィーンフィルの特質を発揮させ、全体の構成を重視したレヴェルの高い演奏です。


◆アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団(1994年 TELDEC)
 室内オーケストラによる初のシューマン交響曲全集で、4番を1841年の第1稿(解説にはシューマンの自筆譜を使用とあり、ヴュルナー/ブラームスの手が加わっていないものと思われます。)で演奏しています。基本的には現代楽器を使用しつつ古楽器奏法を随時織り交ぜているといった演奏です。この録音は1994年の7月に行なわれたとされていますが、手元には同年の7月2日グラーツでの演奏会のライブ録音のテープがあり、ベートーヴェンの「エグモント」序曲、シューマンのヴァイオリン協奏曲(独奏:クレーメル)、それにこの4番の交響曲というプログラムとなっています。ヴァイオリン協奏曲ではソリスト共に現代奏法で弾きとおしているのに、交響曲だけ古楽器奏法を採用するのはいかがなものかと疑問を抱かせる演奏会です。現代楽器を使用したり、近代的な大コンサートホールでの演奏会で古楽器奏法を用いることの矛盾点が露呈されているような気がしてなりません。

 いわゆる古楽器奏法について筆者は専門的実践的知識を持たないために、以下の評はかなり偏ったものになっていることをあらかじめお断りしておきます。第1楽章。フレーズのクライマックス(決め所、難易度の高い音など)での置くような弦の弾き方(音の取り方)が、思いきりが悪い、歯切れのない音楽に聴こえるに原因なっているようで、リハーサルでの音取りの練習みたいで生気のない音楽になっています。音を取ってから膨らませたりして音楽をつくる傾向にある古楽器奏法(まちがっているかもしれませんが)を現代楽器で用いるとこのように聴こえてしまうのでしょうか。もちろんすべてがそうなのではなく、元々テクニックのあるオーケストラですからメカニカルな個所では現代奏法が勝っているようで見事なアンサンブルを聴かせてくれます。金管は比較的おとなしく、音を割ったり威嚇したりしません。劇的な盛り上がりを見せないところは、この曲を小交響曲として捉えているのでしょうか。提示部のリピートがないのは元々シューマンが指定していないためかと思われます(第4楽章もリピートなし)。展開部で1stヴァイオリンの歌謡風のフレーズにつけた中低弦の16分音符の動きはベートーヴェンの「コリオラン」序曲の一節を思わせますが、なぜシューマンは改訂の時にこの16分音符を削ったのか想像するだけでも楽しいものです。

 第2楽章。冒頭のホルンの音色や長いフレーズを短く切ってしまうところはいかにも古楽器的ですが、ヴァイオリンのソロはごく一般的な現代奏法で、譜面に忠実に演奏されています。テンポは速めで、全体的にスルスル前に進み、フルートのカデンツもそっけなく吹かれています。第3楽章は猛スピードで弾き飛ばしていて、極端なスタカート、派手な金管、突然のルバートとやりたい放題です。トリオでのヴァイオリンの上降半音階では真中のあたりを膨らませていてわざと優雅さを出さないような弾き方をしています。

 第4楽章。1841年版の序奏は改訂稿とかなりちがっていて結構楽しく聴けます。主部の直前での弦楽器による音階は、まるでハリウッド映画のクライマックスシーンを見るようです。ところがせっかく立派な序奏であるのに、主部に入ると遅いテンポの上に軽い調子の和音が奏されます。このアンバランスさはどう冷静に聴いても滑稽なあまり吹き出してしまいます。シューマンの稚拙な作曲技法をわざと見世物にしているような気がしないでもありません。提示部の途中から遅いテンポも徐々に上がり、透明感のある響きで軽快に進みます。テンポ・ルバートを多用していますが、この版で聴いているとあまり違和感はありません。版の問題なのか指揮者のせいなのかよくわかりませんが、コーダでテンポを上げていくところがどこかぎこちなく感じられます。もっと他の指揮者によるこの版の演奏を聴いてみないと、このアーノンクールの演奏について論じることはできないと思っていますが、とりあえず現時点での感想を書きました。


◆メルツ/南ウエストファーレンフィルハーモニー管弦楽団(1994年 ebs records GmbH)
 メルツという指揮者はすでに古楽器の団体でシューマンの交響曲全集を録音していますが、その時の4番は最終稿によって演奏しています。この2回目の4番の録音にあたっては、ヴュルナーによって改訂された1841年の第一稿(厳密には1891年版)を使用していながら、何故かオーケストラは古楽器の団体ではないようです。なぜならこの南ウエストファーレンフィルは解説によると、デュッセルドルフ、ケルン、エッセンのオペラハウスに常時招かれているとあり、また団員の集合写真を見る限り普通の現代楽器を手にしているからです。しかし、演奏を聴いてみるとびっくり仰天の連続でして、音色もスタイルも古楽器的、その上マニア向けとも言える過激な解釈といい、バリバリの古楽器の団体としか聴けません。記録に残っている当時のゲヴァントハウス管弦楽団の人数(VnT−VnU−Va−Vc−Cb、10−8−6−6−6、1840年)通りで演奏していることはCDのブックレットには書かれていますが、それ以外の説明はなにもありません。こういう学問好きな団体による演奏のCDにはもっと詳細な情報(使用している弦の種類、楽器のタイプなど)を掲載してほしいものです。なお以下は、現代奏法による現代のオーケストラの観点から論じていますのでかなり偏った書き方になっていることをあらかじめお断りします。

 第1楽章。スラーのついたフレーズを短く切り、伸ばす音では中ほどで膨らませ、スタカートをことさら強調するあたり古楽器奏法の典型と言えます。ティンパニの音は楽器の音というか何か物をぶったたく騒音にしか聞こえません。確かに古来太鼓は軍隊で発達したのですからそういう音だったかもしれませんが、宮廷や教会で音程を与えられた音を出すのになにがなんでもこの音だったと考えるのはいかがなものでしょう。また、金管がf(フォルテ)で吹くとその割れた音量に弦はかき消されます。ただ、木管の音色は現代楽器のように聞こえます。演奏はといいますと、薄いオーケストレーションを活かした透明感のある(見通しのいい)演奏です。音符ひとつひとつに細かい表情をつけていますが、sf(スフォルツアンド)やクレッシェンドがかなり誇張されていて少々やりすぎといった感じです。正直言って筆者の耳にはエキセントリックにしか聞こえず、単なる音の遊びに興じているだけのように感じられ、しかも笑いをこらえる個所も少なからずあります。学問的裏付けがあるからこその演奏だとは思いますが、初演の時に聴衆が聴いた音がこんな感じだったと百歩譲ったとしても、この演奏からシューマンの情熱や思索、さらには心の底にある複雑な思いなどを聴き取ることはできないのではないでしょうか。

 第2楽章。速めのテンポでどんどん進みます。ヴァイオリンのソロは至ってまともな演奏(譜面に忠実)で古楽器的雰囲気はガット弦の音色くらいですが、その伴奏はうるさいくらい様々なこぶしをつけて歌いまくっています。第3楽章。やはり管が入ると弦が聞こえなくなってしまいます。現代の木管・金管の音量でプルトを減らした弦といっしょにやればこうなってしまうのでしょう。歴史を遡ることは学問的にはできてもその成果を現代に再現するのは至難の技なのですね。楽器や奏法をコピーするだけでなく、演奏会場の造りやステージの照明からプログラムの進行(曲順や休憩の取り方)をはじめ、演奏者や聴衆の日常の生活観、交通手段(馬車、馬、徒歩)、食生活に至るまで(かなり極端な言い方ではありますが)考慮しないと完璧にはいかないのではないでしょうか。相変わらずスタカートを目いっぱい強調しています。ショスタコヴィッチやバルトークのような指示はないのですからここまでやらなくてもと思いますが・・。ティンパニが節度なく叩きまくるのには辟易します。楽器の音というより応援団の太鼓のように感じるのは筆者だけでしょうか。

 第4楽章。主部に入る直前にはアッチェランドはなく最終稿にないスケールもいまひとつ盛り上がりに欠けます。主部に入って最初はそのままの遅いテンポですが、9小節目で急にテンポを速めます。相変わらず机を叩くようなティンパニに乗って何なら何まで極端な表情がつけられた演奏が続きます。


◆アーノンクール/ベルリンフィルハーモニー管弦楽団(1994年 TELDEC)
 古楽器演奏のパイオニアとしてのイメージが強すぎて、ベルリンフィルを振るとなるとどんな奇抜なことを仕掛けるか、それに対してベルリンフィルはどう反応するか、といった変な聴き方についなってしまいますが、この演奏はキャリアを積んだ一指揮者がベルリンフィルと真正面からシューマンに対峙している姿を見ることが出来ます。ベルリンフィルらしい重心の低い音をベースにきわめてオーソドックスなテンポで進行し、意外にも(と言ってはいけないのですが)スコアに記されていない慣例的なテンポの自然な変化を織り交ぜています。ベルリンフィルはその書かれている音符のどんなに困難な部分も思い通りのテンポとダイナミクスで弾ききっていまして、ただ唖然とするばかりです。なお、ベルリンフィルのこの曲の録音は7回目となります。

 第1楽章ではその激しい感情の噴出を余すところ無く表現しています。ティンパニの音色がドホナーニのそれと似ているのが興味深いところです。第2楽章のオーボエとチェロのソロの美しさは群を抜いていて、ここを聴くためにだけこのCDを買っても損はしないでしょう。荒々しい第3楽章の主部に対してトリオはゆったりとしたテンポに落とし、ヴァイオリンの上降半音階は気持ちリタルダントをかけているところは、聴く耳にある種の心地よさを与えてくれます。この指揮者がこうしたことをするとは思いもよりませんでしたが、考えてみると、アーノンクールは彼の本拠地であるチューリッヒの歌劇場で様々なオペラの他にオペレッタも手がけているわけで、音楽のツボは心得ているということを感じさせます。第4楽章でも、ベルリンフィルの実力をみせつけつつこの曲の劇的な高まりを見事に表現しています。難点を挙げるとすれば、両端楽章の序奏から主部に入るところにおいてベルリンフィルは注文通りの音を出してはいるのですが、あまりドラマを感じさせないことでしょうか。ベルリンフィルのある団員がアーノンクールのリハーサルはとても勉強になる話しが多くていいのだが本番ではちっとも面白くないと言っていたことと関係がありそうです。それでも、この演奏は推薦できる演奏に違いありませんが・・。


◆ヘルヴェッヘ/シャンゼリゼ管弦楽団(1996年 harmonia mundi)
 古楽器による演奏ですが、改訂稿を使用しています。筆者はこの古楽器の世界についての知識が乏しいのでこのオーケストラがどんな団体かについてここで述べることはできません(何時だったか来日したはずです)。

 第1楽章。序奏の冒頭における重々しい響きは古楽器にしては意外なものを感じます。しかしその後は軽く流れるように進行します。金管も古楽器特有の響きは出していません。シューマンの苦悩とかはあまり伝わってくる演奏ではないようです。主部に入っては幸福感溢れるスタイルを維持して進みます。古楽器演奏にありがちなスタンドプレイやエキセントリックな解釈、威圧的な金管打楽器の爆発は全く無く、弦楽器による音の中間部を膨らませる弾き方や従来奏法と異なるイントネーションを強調して弾くこともありません。何も知らずに聴いたら古楽器とは気がつかないかもしれません。CDのブックレットにメンバー表が書かれていますが、ファースト・ヴァイオリンが7プルトというのは(全員が弾いているとは限りませんが)けっして少ない数ではありません。採用しているテンポ終始遅めで、変化はあまりつけられていません。コーダに入っても速くはなりません。楽器間のバランスは非常によく、全体的にていねいに細部まで弾きこんでいます。その姿勢には好感が持てますが、何か欠けるような気がします。悩めるシューマンの音楽に身を委ねたい人、激情に浸りたい人には向かないかもしれません。 

 第2楽章。チェロのソロが聴き取れないのが残念です。素人が判断するのは危険ですが、音量の面でガット弦と木管では後者に軍配が上がるのでしょうか。また、快速なテンポで弾かれるヴァイオリンのソロは古楽器風というよりやや古い(19世紀的)スタイルが想起されるのは不思議に感じられます。やはりここでもバランスが気になるところがあります。

 第3楽章は熱気を感じるというより、極めて明るく満ち足りた雰囲気を出しています。トリオでは統率のとれたアンサンブルを聴かせてくれます。上降半音階における微妙なリタルダントは見事です。第4楽章。序奏では譜面の指示通り再現はしているのですが何も起こらない、盛り上がりの欠けるものになっています。しかし、これまでの楽章のスタイルからすればこういう表現もありうるのかもしれません。主部に入ってからは適度なテンポで溌剌としたリズム感で進行します。しかし、響きに透明感がないのは古楽器であるせいでしょうか。つき抜ける音や音の勢いがないのと、中音域が不明瞭なことが原因だと思われます。また、金管が全開するところなど、音量の出ない弦楽器を必死で弾かせているのが音に表れています。しかしどんな楽器を使用するにせよ、音色の魅力とか歌い回しといったところを通じて作曲家と触れ合うわけですから、この辺の主張がもっと感じられる演奏だといいのですが・・。結成が1991年という若いオーケストラですからやむを得ないかもしれません。


◆ガーディナー/レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク管弦楽団(1997年 ARCHIV)
 オリジナル楽器の真打登場といったところでしょうか。この団体はすでにベルリオーズの幻想交響曲などの大曲も録音していて、交響曲の演奏には十分なキャリアを積んでいると言えます。ガーディナーは1841年の初版と1851年の最終稿の両方を同じ時期に同じこのオーケストラで録音しました。両方の版を録音するその意図はCDのブックレットにガーディナー自ら記した解説文からはわかりません。どうも初版が優れていることを言いたげなのですが明言はしていません。せっかく音楽以外の手段を講じて自分の主張をリスナーに伝えるのですからこちらとしても是非知りたいところです。ここでは、1841年の初稿について評を書きます。

 第1楽章。序奏では、室内管弦楽団を使用したアーノンクールの演奏よりは重みのある充実した音で弾かれています。しかし、初版とはいえ、この序奏でシューマンが表わしたかったのがこのように乾いたsf(スフォルツァンド)や虚ろなクレッシェンドだったかどうか、大時代的な演奏に慣れた筆者としては疑問を持たざるを得ません。主部に入ってからは急に速いテンポに変わりますが、この版での序奏から主部への移り方では特に違和感はありません。オリジナル楽器特有の奇抜な表現や受けを狙った演奏ではないのですが、ダイナミクスの幅は極めて広く、しかもその移り変わるスピードが極めて速い、すなわち急にp(ピアノ)になったりf(フォルテ)になったりします。それはそれとして新鮮に聞えますが、演奏する側はたいへんというか、古楽器奏法を実施すれば結果的にそうなるということなのでしょうか。細部にわたって神経の行き届いた水準の高い演奏ですが、各楽器の出す音に艶がないのが残念です。というかそういうものを求めてはいけないのか、この音を艶があると言うべきなのか、考えると頭が痛くなります。しかし全般的に速いテンポでスイスイ音楽が進むためにどこか変化の乏しい、シューマンの霊感を感じる暇もないといった感じがします。

 第2楽章。オーボエとチェロのソロのバランスは極めて良好で、ひっそりした味のある演奏になっています。ただ音の出だしでヴィブラートをかけず、途中で音をふくらませるという古楽器奏法の定番と言われるやつですが、ここでは少々やりすぎではないでしょうか。ヴァイオリンのソロは速めのテンポで颯爽と弾かれていて曲全体にうまく溶け込んだスタイルになっています。第3楽章。極端なアクセントなどを排したすっきりした演奏で、オリジナル楽器にありがちな不自然さや違和感はありません。トリオでは室内楽的な緻密さの中で微妙にテンポを動かしたり、歌のあるクレッシェンドをかけたり見事な演奏を行なっています。しかし、コーダの前でヴァイオリンがトリルを奏するところでたぶん譜面にない装飾をかけています(ベートーヴェンの田園交響曲第2楽章で鳥の鳴き声を描写した個所に似ています。)。このへんの学問的な説明もガーディナーの解説には触れていません。今のところこの演奏に対する雑誌等の評を読む限り(ほとんどは大賛辞で埋め尽くされていますが)、これについて言及しているものはありません。学問好きなこの世界の方々のご意見を是非うかがいたいものです。

 第4楽章。序奏での盛り上がり方は見事です。主部に入る直前のところは最終稿と大きく違うことからよく言及されますが、どちらがいいというより、どちらも主部入る前で大きく盛り上がり、聴き手をゾクゾクさせるだけの見事な書法で書かれています。ここの部分を聴くと、もしこのガーディナーのような素晴らしい演奏を初演時に行なっていれば大成功だったかもしれませんし、最終稿も生まれなかったかもしれません。客席にいたシューマンは自分が描こうとした通りだともろ手を挙げて喜んだか、あるいは自分の描いた世界はもっと地味だったはずと嫌ったか、つい想像したくなります。しかし、現代楽器によるオーケストラでも活躍するガーディナーだけにこうした聴かせどころはきちんと決めていますが、だったらオリジナル楽器のオーケストラを使わなくてもいいのにと思ったりもします。主部に入ると第1楽章よりは自然なテンポがとられています。演奏の水準は極めて高く、楽器間のバランスもよくとれています。コーダに入ると一気にテンポを上げて興奮のうちに曲を閉じます。版の違いやオリジナル楽器であることをあまり意識させない演奏だと思います。

 1851年最終稿。この演奏におけるガーディナーの全般的な曲の取り組み方は1841年版と同じです。それもそのはず、いくつかの違いはあるものの大部分は同じ譜面であるわけですから、2つの版を同じ時期に演奏すればそこに解釈の違いが出るとは思えません。そうなると何故両方を同じ時期に演奏するのかという疑問は生じます。単なる記録として録音したのか、あるいはどうしても演奏しなくてはならない、違いの生じる何かをアピールしたかったのかといったことをガーディナーの解説から読むことができないのは残念です。


◆マリナー/アカデミー室内管弦楽団(1998年 hanssler)
 アーノンクールに次ぐ室内オーケストラによるシューマンですが、CDのブックレットに掲載されている団員名簿を見ると結構大所帯でした。知らないで聴いたら室内オーケストラとは気がつかないでしょう。しかし問題は、既にシュトゥットガルト放送管弦楽団でこの曲を録音してそれなりの成果をあげているマリナーが、敢えて手兵であるとはいえアカデミーという室内オーケストラでこの曲を演奏する必然性があったのかという点にあります。この演奏が室内オーケストラならではの特徴を備えているかという関心を持って聴かざるを得ませんでしたが、残念ながらそうしたことに思い当たる演奏ではないようです。

 第1楽章冒頭の和音からしてソフトな響きでして、序奏ではひたすら滑らかな音が続きます。主部に入ってもヘンリーウッド・ホールのよく響く音場で流れるように進行します。展開部における全奏時でも切迫感のまるでないフォルテが奏され、全体にハッピーなシューマンが繰り広げられます。テンポも最後まで変化が少なく、ただでさえ起伏に乏しいこの楽章を一層平坦なものにしてしまっている恨みはあります。第2楽章もムード音楽調で、弦楽器の撫でるような音の出し方が気にかかります。第3楽章のヴァイオリンとフルート・オーボエがいっしょに四分音符を奏するところでは、弾き方と吹き方がピッタリ合っていてこれはなかなか見事です。

 第4楽章の序奏では、トランペットを朗々と響かせたスケールの大きな演奏を披露してくれます。しかし、たいへんな盛り上がりを見せた直後、主部に入った途端なんとも軽い音楽が唐突に始まるという感じでがっくりきてしまいます。「かなり緩やかに」で始まってストリンジェンド(徐々に速く)して約2倍の速さとなって主部の「いきいきと」に入るわけですが、その過程にはたくさんの音符が詰まっていてさらにはいろいろなドラマが込められているわけで、クレッシェンドとたった3つの速度表記だけで音楽がつくれるはずはありません。初演のときにシューマンがここをどう指揮したか大いに興味があるところですが、おそらくいろいろ試して音楽効果上かつ生理的に最もいいという妥協点を探したのではないでしょうか。その結果を敢えて譜面に細かく(マーラーのように)後から記さなかったのでしょうし、どう書いていいかもわからなかったのかもしれません。つまりこの個所をどう処理するかは指揮者とオーケストラのイマジネーションに依存するわけで、譜面通りにやればいいでは済まされないのです。話しが少しそれましたが、マリナーのこの部分の処理については釈然としないものが残ります。この楽章も明るい気分が横溢してそれはそれとして好感がもてる演奏です。ただ、曲の最後で突然ブレーキをかけるのはどうしちゃったのでしょう。 

                                 1999年8月12日現在


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