R.シュトラウス : バラの騎士 CDレビュー I



T.  1930-1959年録音 (11種)
    ♪ヘーガー♪ボタンツキー♪C.クラウス♪E.クライバー♪セバスティアン♪
    ♪セル♪ライナー♪E.クライバー♪クナッパーツブッシュ♪カラヤン♪ベーム♪

                ( )内はマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィー、オックス男爵の順

ロッテ・レーマン(マルシャリン) ヘーガー指揮  ロッテ・レーマン(マルシャリン) ボダンツキー指揮  ウルズレアク(マルシャリン) C.クラウス指揮

◆ ヘーガー/ウィーンフィルハーモニア管弦楽団(1933年9月 EMI)★★★☆☆
(レーマン/オルシェフスカ/シューマン/マイヤー)
 『ばらの騎士』の初演から僅か20数年しかたってない時期にカットがあるとはいえ録音が存在することだけでも驚きであるのに、この時既に現在演奏されるスタイルがほぼ確立されていることに驚きを禁じえません。しかも、古い録音にしては少なくとも歌は極めて鮮明に収録されていますし、オーケストラも貧弱な音ではありますがウィーンフィルの特質はしっかり聴き取ることができます。

 マルシャリンを歌うレーマンは名指揮者ブルーノ・ワルターの薫陶を受けて、ゾフィー、オクタヴィアン役からマルシャリンに転向してこの役を完成させ、作曲家からお墨付きをもらったことは人口に膾炙する話です。またこの演奏は、史上最初の録音としての価値だけでなく、レーマンの歌声の他に、同じく作曲家から支持されたエリザベス・シューマンのゾフィー、作曲の時点からオックス役としてイメージされていたメイヤーの歌を聴くことができ、しかもそれらがすべて極めて高い水準にあるということです。なお、この録音は短縮版と記されていますが、シュトラウス自身によるものかどうかは不明です。カットされているのは、第1幕での男爵とマリアンデルのやりとりのシーン、客人が大勢やってくるシーン(イタリアの歌手のシーン含む)、第2幕の冒頭、男爵とオクタヴィアンの決闘などです。これがもし舞台だったらストーリーがよく見えてこないことになりますが、音だけ聴くCDではかえってわかりやすくていいかもしれません。出演者も少なくて済むし、演奏の困難な個所がだいぶカットされていまし、2枚組で安くなるなどいいことが結構あります。

 レーマンの声は中低音の充実さが光っています。この役で表現すべきあらゆる要素、その歌唱、語り、重唱のすべてにおいて自信を持って聴かせてくれています。第1幕で彼女とやりとりをする男爵役のメイヤーは初演こそ別の人に譲りましたが(ウィーン宮廷歌劇場が初演をしたドレスデンにメイヤーの貸し出しを拒否したらしい)、長きにわたって極めつけの男爵を歌い続けました。その語り口の自然さ、細部まで丁寧な歌い方、充実した見事な歌は単なる喜劇役を超えたものがあります。

 第2幕の前半ではエリザベス・シューマンの一人舞台と言っていいでしょう。レーマン同様、中低音の充実さに加えて高音における芯のある安定した歌唱は、フレーズや言葉ごとに様々な思い入れを加えることでその深みを増しています。昨今の美しさと可憐さだけが強調された演奏と一線を画すものと言えます。遅めのテンポでじっくり歌うところは貫禄さえ感じさせます。とりわけ、ばらの騎士が到着する前でこれほど余裕を持って花婿を迎える気持ちを切々と訴える演奏は他にありません。男爵のメイヤーは意外とあっさりとした演奏に終始し、オーケストラもポルタメントを多用することはなく、アクのないすっきりしたワルツを聴かせます。シュトラウス自身の演奏を念頭に置いているのかもしれません。

 第3幕の三重唱では速めのテンポでいささかの逡巡することなく音楽が進行します。マルシャリンがたっぷり時間をかけて未練を綿々と歌わずに諦観をきっぱりと表現するあたりは、シュトラウスが望んだスタイルに近いと思われますが、淡々としすぎていてやや物足りないところもあります。しかし、わざとらしさのない自然な歌い方はオペラの本来の在り方を思い出させてくれます。続く二重唱では一転してテンポを落とします。オクタヴィアンがややのんびりした歌い方なのでこの役とのギャップを感じます。ゾフィーのシューマンもそれにつられてどこか安定しすぎるような歌い方になっていて、三重唱の活きの良さからすると二重唱は少々重くなっています。なお、この演奏はマルシャリンの最後の歌詞「ja, ja」をレーマンの代わりにシューマンが歌っていることでも知られています。手違いでレーマンが録音セッションが終わったと思って家に帰ってしまったためにシューマンが急遽歌ったのでした。このおかげでゾフィーとオクタヴィアンは歌ってもマルシャリンは生涯一度も舞台で歌っていないシューマンがこのときのことを言って『ばらの騎士』の3つの役を全部歌ったことがあると冗談で人に話していたそうです。 


◆ ボダンツキー/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(1939年1月7日 MAXOS)★★☆☆☆
(レーマン/スティーヴンス/ファレル/リスト)
 この曲の初のライヴ録音ということになります。オーケストラの音は貧弱ですがノイズは少なく、全く鑑賞に耐えられないというほどではありません。しかし、歌の音質はオケと同等でマイクのそばで歌うスタジオ録音ほどのクリアさはありません。開幕直後、オクタヴィアンを歌うスティーヴンスの力強さと潤いを併せ持つ見事な歌唱に思わず引き込まれてしまいます。キビキビしたテンポに乗って活き活きとしたマルシャリンとのやりとりが始まります。しかし、音楽をじっくり鑑賞するというほどの音質には至っていません。モノローグでのロッテ・レーマンは不安な胸の内を切々と訴えます。しかし、オクタヴィアンが戻ってくると恐ろしく早いテンポで情熱を爆発させます。音が割れて聴きづらいところはありますが、ふたりの迫真の歌唱には心打たれるものがあります。その後テンポを緩めることはなく、高い緊張感をずっと維持することできっぱりと自らの運命を受け容れる姿をあらわしているようです。最後に、去ったオクタヴィアンを追おうとする時の激しさは凄まじく、幕が下りるまで芯のある充実した声で歌いきるところも見事です。

 第2幕。冒頭からばらの騎士が入ってくるまではとんでもなく速いテンポで演奏されます。その後はウソのように突然普通のテンポに戻るのですが、一刻も早く見せ場へ行こうとお客さんへサービスしているみたいです。二人ともめいっぱい声を出して歌います。昨今の可憐なゾフィーとは一線を画す、くっきりとした明確な歌唱をファレルは聴かせます。ここでの音楽はすべておいて完成されたものが感じられ、実際のステージを見たいと思わずにいられません。ワルツでの男爵はよく鳴り響く声で歌われ、かつ随所に観客の笑いを誘っています。なお、終幕間際のオーケストラだけで演奏される個所ではとんでもなく速いテンポになり、「ウィーン風の」というスコアの指示とか遅めのテンポ指定なんてどこ吹く風です。お腹を空かしたお客さん、トイレに行きたいご婦人のためでしょうか。

 第3幕の冒頭は大幅にカットしています。男爵とマリアンデルのやりとりでは観客は爆笑の連続です。三重唱では、速めのテンポで3人がそれぞれ自分の歌に溺れず、音楽に対して厳しい姿勢を貫いている様子がうかがえます。シンプルでもったいぶったところがない演奏で、なぜかこの個所の録音状態は良好であるため、大きな感動を呼びます。ここだけでも聴く価値のあるCDと言えます。二重唱でも淡々と端正な歌を聴かせます。いくぶんそっけない印象を受けますが、こういうスタイルでもシュトラウスの世界を表現できるということを証明している演奏と言えます。


◆ C.クラウス/バイエルン国立歌劇場管弦楽団(1942年6月 ARKADIA)★★☆☆☆
(ウルズレアク/ミリンコヴィッチ/カーン/ウェーバー)
 シュトラウスから絶大な信頼を得ていたクレメンス・クラウスが棒を振っていることと、その奥さんのウルズレアクがマルシャリンを歌っているところがこのCDの価値を大きくしています。この時代の録音の都合なのかフォルテもピアノもない皆同じ音量で収録されていますが、演奏の水準が極めて高いのには驚かされます。しかも、歌とオーケストラ(弦楽器はひとりずつしかいないのではないかと思われる程です。)のバランスが見事で、歌の鮮明さも鑑賞に十分耐えられるものです。ウルズレアクもオクタヴィアンを歌うミリンコヴィッチも共に極めて正確な歌い方をしていて、とりわけミリンコヴィッチの突き抜けるような高音の輝きに思わず耳を奪われます。クラウスの指揮は素っ気ないくらいテンポの変化が少なく、シュトラウスの棒によく似ています。ウェーバーの男爵も得意な役だけに見事に歌っていますが録音のせいか一本調子に聴こえます。モノローグでのウルズレアクの歌い方は、この時代のスタイルなのかゆっくりしたテンポで少々もったいぶった感じに聴こえます。キビキビした前後の音楽運びからするとどこか浮いた感じがします。

 第2幕でも一定のテンポでテキパキと音楽が進みます。ばらの騎士が登場する個所もハッタリも何もないのはいいとして、あまり感動が伝わらない演奏です。オクタヴィアンとゾフィーの二重唱はゆっくりと一音一音噛みしめるような歌い方です。まるでスローモーションでも見ているような遅いテンポで、触れると割れそうなガラス細工のような繊細さを併せ持っています。しかし、遅いテンポを最後まで通すため聴く方は辟易してしまいます。クライマックスでは失速気味です。ウェーバーは歌でも語りでも張りのある声を朗々とたっぷり聴かせます。しかし、ワルツではテンポが遅いままで変化が少ないためにメリハリに欠けます。オーケストラもウィーンでないせいか全くワルツの雰囲気がなく、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを振っていたクラウスらしからぬ演奏です。

 第3幕。ミリンコヴィッチの声はそのままでオクタヴィアン扮するマリアンデルにぴったりの声です。男爵とのやりとりではほとんど演技がないため、のりの悪いやりとりに終始します。舞台のライヴではないために調子がでないのかもしれませんが、オーケストラも生気に乏しく、クラウスの棒に問題がありそうに思えてなりません。三重唱の直前のやりとりは、まるで昔の映画のワンシーンを彷彿とした独特の抑揚の語りが交わされところが面白く聴こえます。しかし、歌になるとややぎこちないところがあります。三重唱は遅いテンポで悠々と歌われます。聴かせどころになるとたっぷり歌う傾向にあるようです。それぞれが自分の得意な音域や音符をめいっぱい鳴らしているようであまりまとまりはありません。しかも、この遅いテンポではそのバラバラの様が一層増長され、クライマックスに近づいてもテンポの変化がないため音楽そのものも停滞気味です。聴いていてじれったくなります。これはシュトラスが望んだ真の姿なのでしょうか?二重唱でもテンポは遅いまま。オクタヴィアンとゾフィーの音質が近く、ここでの効果が半減しているようです。後半も止まりそうになるくらい遅くなっていきますが、二人とも最後のスケールを楽々歌っているのには驚かされます。


バンプトン(マルシャリン) E.クライバー指揮  ロッテ・レーマン(マルシャリン) セバスティアン指揮  マリア・ライニング(マルシャリン) セル指揮

◆ E.クライバー/コロン歌劇場管弦楽団(1947年10月8日 Eklipse )★★☆☆☆
(バンプトン/カヴェルティ/シェラヴィン/リスト)
 クライバーの息子のカルロスがその少年時代を過ごした地であるブラジルのコロン劇場でのライヴ録音です。父親のエーリッヒはこの後、デッカに『ばらの騎士』の記念すべきスタジオ録音をウィーンで残し、息子のカルロスはバイエルンでプライベートですがCD録音と映像作品を、さらにはウィーンで2回目の映像作品を残しました。親子2代でこの曲の演奏史に偉大なる足跡をしるしたことになります。
 残念ながら録音の質はあまりよくなく、歌そのものはよく収録されてはいますが、オ−ケストラの音が大きすぎて歌をかき消しています。しかし、コロン劇場の演奏水準は極めて高く、舞台の動きに敏感に反応した効果音においても見事な演奏を聴かせます。また、ニューヨークの花形スター、ローズ・バンプトンのマルシャリンが聴けるのも貴重な録音と言えます。

 序奏はクライバーがオーケストラを急き立てて一気に駆け抜けるように演奏されます。細部がよく聴こえるのはいいのですが、バランスは最悪です。しかし、幕が開くとバンプトンの艶のある声と気品の漂う歌いに思わず耳をそばだててしまいます。彼女の歌唱はそればかりか力強さも備わっていて、手を抜くことはしません。モノローグでは、相変わらずオーケストラがうるさく、とりわけクラリネットが突出しているのには閉口します。腕前は超一流なのですが・・・。

 第2幕では、最初遅めのテンポであったのが、ばらの騎士の到着直前ではとんでもなく速いテンポに変わります。これでは歌手は何を歌っているのかさっぱりわかりません。ばらの献呈でもオーケストラがうるさく、歌がよく聴こえません。しかし、ゾフィーは明るく張りのある声、高音での溢れるパワー、健康的でコケット、弾けるような若々しさといった人物像をしっかり表現しています。オクタヴィアンは少し影が薄いようです。

 第3幕では、冒頭部分をバッサリとカットしていて、いきなりワルツから開始します。ふたりのやりとりでは共にきっちり歌われて、取り立てて面白おかしく見せようとはしていない様子ですが、ときおり観客の笑い声も入っています。オクタヴィアン扮するマリアンデルもそれらしい声色ですがしっかり歌われています。男爵が退散してからのマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーのやりとりに古めかしさはありません。クライバーのやや遅いテンポの音楽に乗ってきちんとしたアンサンブルを聴かせます。クライバーの棒は歌の動きに敏感に反応した見事なものです。三重唱では、バンプトンの色っぽさを湛えながらも自然なフレージングに耳を奪われます。3人のバランスは完璧に近く、それぞれが力のこもった歌唱を聴かせます。クライバーの指揮も音楽の流れるに任せた自然なもので、特別なことをせずに大きなクライマックスを作っていきます。後にデッカが行なったオールスターによるスタジオ録音の指揮に抜擢された理由がよくわかる演奏と言えます。二重唱ではオクタヴィアンの歌が弱いところがありますが、ゾフィーの明確な発声による素直な歌いが光っています。後半の二重唱でもテンポを緩めずに淡々と進めるところは、この時代の演奏にしてはモダンな解釈と言えます。最後だけ、大きくテンポを落としてたっぷり歌わせています。


◆ セバスティアン/サンフランシスコ歌劇場管弦楽団(1945年10月18日 Eklipse)★☆☆☆☆
(レーマン/スティーヴンス/コナー/アルヴァリ)
 第3幕だけライヴ収録されたCDです。とても鑑賞に耐えられる音ではありませんが、この時代の公演の模様を生々しく伝える記録として貴重な録音と言えます。オックス男爵とマリアンデルのやりとりでの観客の笑い声を聴くと、この曲が初演されて30年しか経過していない時期における、ドレスデンから遠く離れたアメリカ太平洋側での楽しまれ方の一面を教えてくれます。また、レーマンのマルシャリンが登場するところや三重唱が終わって退場するところで大きな拍手が沸くのも、いかに彼女の人気が高かったかがわかります。引退の6年前のこの公演でレーマンは57歳くらいと思われますが、年齢を感じさせない張りのある見事な声を聴かせています。三重唱の最初にロ音を歌わず前の音を伸ばしています。スティーヴンスは余裕たっぷりに若々しいオクタヴィアンを演じ歌っています。最後の上降音階で時間をかけて歌っているのに、オーケストラが先に行ってしまったのは惜しいところです。CDの余白にはレーマン85歳の誕生日に行ったインタビューが収録されています。


◆ セル/ウィーンフィルハーモニア管弦楽団(1949年 Cetra)★★★★☆
(ライニング/ノヴォトナ/ギューデン/プロハスカ)
 オーケストラが必死の形相でセルの指揮についていこうとする様子が手にとるようにわかる序奏です。どこまでも煽り立てるセルの指揮はオーケストラにとってはまさに拷問、自ら唸り声まで発している凄まじい演奏です。しかし、幕が開くとテンポを落とし、たっぷり歌う歌手にぴったり合わせる指揮に豹変します。オクタヴィアンを歌うノヴォトナはこの役を得意としていながら録音はこれしかありません。そのどこか上ずった発声がオクタヴィアンの若さを巧みに表わし、歌われる音の粒が立って聴こえるところは大きな魅力です。マルシャリンではロッテ・レーマンの後継者とされたライニングもノヴォトナの声に触発されて生気のある歌を聴かせます。その軽快なやりとりは続く男爵の登場後も継承されて劇の進行を助けています。なお、イタリア人歌手役が極端に誇張した歌い方をしているところは興味深く、昨今流行のスター・テノールを配して見事な歌を聴かせるのとは違って、イタリア・オペラ嫌いだったシュトラウスの意図を巧みに表現しています。マルシャリンのモノローグではライニングがその伸びのある声、コントロールされて引き締まった声で実力と貫禄を見せつけます。オクタヴィアンが戻ってくると今度は艶のある声で歌い、情感豊かな音楽を作り上げていきます。予想に反してセルは終幕に向けて極限までテンポを落としていきますが、あくまで自然さを失わないところが見事です。
 
 ここでゾフィーを歌うギューデンは6種もの録音を残した彼女の最初のものですが、驚くことにそのスタイルはどれも皆同じに聴こえます。エリザベス・シューマンを継承する極めつけのゾフィーと言われた彼女は、このときに既にそのスタイルを身に付けたということになります。第2幕のばらの献呈では、ノヴォトナの弾むような独特な節回しに乗って発せられる、輝くような声に、ギューデンの初々しさと成熟さの同居した力強い声が絡み合い、素晴らしい世界が作り上げられます。徐々にテンポをアップさせ、クライマックスを築いていきますが、そこには誇張やわざとらしさの微塵も感じさせない自然な音楽を聴くことができます。多声部に分割された複雑な弦楽器群の中から聴き手をハッとさせる音を聞かせるセルの読みの深さにはあらためて驚かされます。オックス男爵を歌うプロハスカは十分に響く声で演技も豊かに歌いますが、少々声質が軽いように感じられる時があります。しかし、ワルツにおけるゴシップ屋のアンニーナが驚くほど見事な歌を聴かせてくれていて、陽気な二重唱となっています。

 第3幕の序奏もセルの指揮で徹底的にコントロールされた恐るべき演奏が展開されます。単に完璧というのではなく、そこにはめまぐるしく変化する音の勢いに乗って、花火のような煌めきが随所にちりばめられているのです。もちろんここでもセルの唸り声を聴くことができます。マリアンデルと男爵のやりとりも明確に演奏されるオーケストラがあくまで音楽を作っています。三重唱ではライニングが朗々と張り裂けんばかりの胸の内を歌に吐露します。三声がくっきり分離しつつ一体感ある音楽を作っているところが見事です。息の長いクレッシェンドによってなだらかな起伏を描き、壮大な頂点を築いています。続く二重唱では速めのテンポでさらりと歌われますが、ノヴォトナが独特な声で急かすように歌うとすかさずギューデンが落ち着いたテンポに変えるなどと細かい音楽つくりが光っています。マルシャリンがファニナルと部屋に入ってきて「Ja, Ja」とたっぷり時間をかけて歌うとオーケストラは止まりそうになったり、黒人のモハメットがハンカチを探しに入ってくる直前では大きなリタルダントをかけたりと、セルにしては意外な指揮ぶりが見られますが、どれも嫌味なく聴くことができます。最後の和音では再び唸り声を発しつつ突っ走り幕を閉じます。音の悪さが全く気にならない、完璧な歌とオーケストラが楽しめる素晴らしい演奏です。


エレオノーラ・ステバー(マルシャリン) ライナー指揮  マリア・ライニング(マルシャリン) エーリッヒ・クライバー指揮  マリア・ライニング(マルシャリン)  クナッパーツブッシュ指揮

◆ ライナー/メトロポリタン歌劇場管弦楽団(1949年11月21日 Naxos)★★★☆☆
(ステバー/スティーヴンス/ベルガー/リスト)
 1949年のシーズン初日を飾る公演のABC放送によるテレビ中継用の音源がCD化されたものです。同年2月に『サロメ』を振って衝撃的なメト・デビューを飾ったライナーによる『ばらの騎士』で、この曲が初演(1911年)されたドレスデン歌劇場で1914年から24年まで指揮をしていたのですから、R.シュトラウスの指揮を間近に見ていたことでしょう。大袈裟にならず常に冷静に音楽を進めるあたりは作曲家の影響を受けているのかもしれません。

 1938年にオクタヴィアン役でメト・デビューしたスティーバーはかつてメトに君臨したロッテ・レーマンのマルシャリンと組んだ録音が残っています。そのスティーヴンズがここではマルシャリンを歌い、1940年にゾフィー役でメト・デビューしたスティーバーがオクタヴィアンを歌っています。ゾフィーを歌うのはこの公演がメト・デビューだったエレナ・ベルガー。彼女は1900年ドレスデン生まれ、17歳でドレスデン歌劇場の合唱団に入って学んだ時期があり、R.シュトラウスと接点があったかもしれません。

 ノイズの多い録音ではありますが、縦の線がはっきりしていて各パートがきちんと交通整理されていることは十分に伝わってきます。しかも、旋律ラインはどこもしっかり弾かれ、その演奏には自信が溢れています。若々しさと力強さに満ちたオクタヴィアンと上品なマルシャリンのやりとりは、登場から完成された美しさを披露します。オックス男爵が登場すると拍手が起ります(退場のときも)。リストは当時よほど人気があったのでしょう。その歌も見事です。歌手役はイタリアのスーパー・スター、ディ・スティファノが歌っていますが、あまり印象に残る歌ではないように思えます。しかし、彼が歌いだす前のオーケストラはフルートを筆頭にその見事なアンサンブルと名人芸を誇らしげに披露します。マルシャリンのモノローグでのスティーヴンズは充実した低音と心持ち長めに伸ばす高音に特徴があり、明確な発音に支えられたその歌唱からは女の強い意志すらも感じさせます。室内楽的なオーケストラの緻密な伴奏に乗り、テンポを遅くせずに感傷に浸りすぎることはありません。幕が下りた後にライナーが短いインタビューに応じています。怖さそうなイメージがあるライナーですがたどたどしい英語でごく普通の受け答えをしているのは意外でした。

 第2幕。巨大なオペラハウスで演奏している割にはオーケストラと歌手たちのバランスはよく、ゾフィーも声を張り上げることなく歌いやすそうにしていて格調高い演奏を聴かせます。「ばらの騎士」の登場シーンはそれほど劇的でないのはライナーの意図でしょうか。オクタヴィアンもゾフィーも声域が広く、高音での瑞々しさはたとえようもありません。上品なオクタヴィアン、可憐なゾフィーにぴったり寄り添うオーケストラも聴きもので、さらに二人の歌がひと段落した後のオーケストラだけの後奏における雄弁さはすばらしいのひと言に尽きます。こういうレヴェルの演奏を聴くと、一層録音が悪いのが悔やまれてなりません。ワルツでは10年前のメトの録音に較べるとハメを外さない程度ですが時折会場の笑いを誘っています。リストは高音は苦手らしくあちこちで適当に音を下げていまして、クライマックスにあるF音の伸ばしはアンニーナに歌ってもらっていますがあまりうまくいっていません。アンニーナはその音をオクターヴ上げれば良かったかもしれません。

 第3幕の序奏は正確で緻密な演奏。霞がかかった貧弱な録音からもさすがに手馴れた演奏という印象を受け、洒落た雰囲気を十分に出しています。これから始まる悪戯の準備をテキパキとこなしていく舞台上の様子を余すところなく伝えています。オックスが入ってくるとテンポを一層速めてどんどん先に進みます。マリアンデルとのやりとりでは客席が大いに沸いて楽しそうです。最後の三重唱では遅めのテンポですが淡々と歌われます。残念なのは録音が悪く、オーケストラが盛り上がると歌が聴き取りにくくなり、美しい歌の競演と舞台に溢れているであろう感動が伝わってきません。マルシャリンの最後のセリフも心なしかそっけなく聴こえます。続く二重唱でのベルガーのやや古風な歌いまわしながらツボにはまったところは、彼女の常にはっきりした発音とあいまって至福の瞬間を与えてくれます。幕が下りた後、カーテンコールの様子を伝えるアナウンサーの声が収録されていますがそれによると、マルシャリンがモス・グリーンのケープ・ストゥールを羽織り、オクタヴィアンがダーク・グリーンの上着を着ているとのことでした。


◆ E.クライバー/ウィーンフィルハーモニア管弦楽団(1954年6月 DECCA)★★★★☆
(ライニング/ユリナッチ/ギューデン/ウェーバー)
 歌とオーケストラのバランスがとてもいい録音です。必ずしもウィーン国立歌劇場でめざましい活躍をしてはいなかったエーリッヒ・クライバーですが、この曲の名盤と語り継がれている録音を残しています。
 序奏では速めのテンポで活き活きとした演奏を聴かせています。ウィーンの香りも随所に発散させることも忘れてはいませんが、それを強調させてはいません。ユリナッチのやや上ずった声がオクタヴィアンの若さを連想させ、マルシャリンとのメリハリの効いたやりとりは二人の関係を瞬時にして明らかにします。フレーズのひとつひとつが舞台の動きと結びついていることを意識させるユリナッチの力のある歌唱はマルシャリンを歌うライニングを触発させて息切れ寸前まで追い込むほどで、生気溢れる二重唱を聴かせています。また、二人につけているオーケストラが素晴らしく、常に歌と対等に音楽に参加し、時には歌い、時には鋭く切り込みます。クライバーの指揮もさることながらウィーンフィルの実力を見せつける演奏で、このわずか1年後にクナッパーツブッシュ(ウィーン国立歌劇場)との演奏でも同様に見事な演奏を残しています。マルシャリンのモノローグでのライニングは語るような歌い方に特徴がありますが、やや疲れ気味で声に艶を欠くように思えます。しかし、オクタヴィアンが戻ってからの音楽つくりは見事で、二人の感情のほとばしりとオーケストラの美しさが絡み合った演奏になっています。

 第2幕では、分厚いオーケストラの中から突き抜けてくるゾフィーを歌うギューデンの輝かしい高音が魅力的です。ギューデンの声は低音から高音まで力強さと張りがあり、可憐さや清純さと同時に芯の強さも併せ持つゾフィーの役を見事に表現しています。オクタヴィアンを歌うユリナッチと共に、初めて覚える胸のときめきに震える若い男女の姿を、自然なテンポで描いていきます。オーケストラによる「銀のばら」の動機がやや耳障りで、ヴァイリンが弾きすぎるように思えます。オックスを歌うウェーバーは歌唱力を前面に出さずに豊かな表情づけを強調しているようですが、強力な女声陣を前に霞みがちです。もう少し押し出しがあってもいいかもしれません。クライバーの指揮は激しくテンポを動かすことをせず、舞台でのストーリーよりも歌主体の音楽つくりに徹しているために、少々劇的な面に欠けるようです。また、ワルツでもあまりウィンナ・ワルツを強調せず、テンポを揺らさないためにかえって重々しく演奏になっていて物足りなく感じられます。

 第3幕冒頭でものんびりしたテンポには拍子抜けしてしまいます。オーケストラの難所だけにやむをえないかもしれませんが、舞台での雰囲気は伝わってきません。オクタヴィアンのユリナッチは声質を様々に変えた堂に入った歌を聴かせますが、男爵は押されっぱなしと言った感じです。三重唱は、マルシャリンの歌にユニゾンで弾かれるヴァイオリン・ソロがよく聴こえる珍しい演奏で、終始3人のフレーズラインも明確に聴こえてきます。艶のある声であまり憂愁さを出さずにスリムに歌うライニング、低音でも埋もれない充実した歌唱のユリナッチ、引き締まった声で常に安定したギューデン、この3人の見事な歌にここでは絶妙なテンポの変化を見せるクライバーの指揮が加わって素晴らしい音楽が作り上げられています。一、二を争う演奏と言っていいでしょう。続く二重唱ではユリナッチの高音を強調した歌い方はソプラノであることを活用したユニークな解釈ですが、ここでのシュトラウスの意図によくあっているように感じられます。残念なのは、ここでも「銀のばら」の動機が録音のせいか高音がつぶれてヴァイオリン主体に聞こえるために違和感を覚えることです。しかし、録音されてほぼ半世紀たっていても色褪せるばかりか、今でも最高水準の演奏であることは確かです。


◆ クナッパーツブッシュ/ウィーンフィルハーモニア管弦楽団(1954年11月16日 BMG)★★★★★
(ライニング/ユリナッチ/ギューデン/ベーメ)
 第二次大戦の空襲で焼けたウィーン国立歌劇場が再建された時の記念公演のライヴ録音です。1年半前にスタジオで録音されたE.クライバー指揮の録音と主役女声3人が一致するという、当時極めつけと言われたキャストに、この歌劇場で最も回数多く指揮をしている(おそらくこの曲の指揮も最多)クナッパーツブッシュの指揮という組み合わせは誰もが当然のことと望んでいたものだったのでしょう。活き活きと弾むようなリズム感で開始されます。幕が上がっても常にオーケストラが音楽をリードしていきますが、その艶のある音色、大胆なポルタメント、張り詰めたフォルティッシモと気合の入った演奏を聴かせます。このオーケストラの音楽運びだけにマルシャリンを歌うライニングのワーグナー風の歌い方には少し重く感じられ、途中息切れがちになります。しかし、第1幕のモノローグにおいてはクナッパーツブッシュの常に生気を失わない音楽にぴったりとつけ、不安に慄くというより来るべき運命を静かに受け入れる姿を格調高く歌い上げます。オクタヴィアンが再登場した時のドラマティックな二重唱、続くフィナーレにおける張り裂けんとする胸のうちを吐露など、ライニングの激しい感情表現には心打たれますが、その起伏ある見事な解釈を聴かせる指揮者には敬服を禁じ得ません。また、歌手にぴったり寄り添い、時には急き立てるオーケストラの素晴らしさは言うまでもありません。

 第2幕の冒頭は、この演奏の指揮者がクナッパーツブッシュであることをふと思い出させるテンポの遅い重々しい演奏です。そういえば、第1幕では全く別人のような指揮だったのです。ゾフィーを歌うギューデンはオーケストラの全奏から突き抜けてくる張りのある輝かしい声を聴かせます。「ばらの献呈」におけるユリナッチのオクタヴィアンは完璧さを誇り、その前とは一転して柔らかい声のギューデンと共に至福の音楽を聴かせます。美しい「銀のばら」の動機を奏するオーケストラも見事で、この演奏を凌ぐものはないと言えます。オックスを歌うベーメはあらゆる声色を使い、芸達者ぶりを発揮します。もちろんそればかりか、終始大きめに演奏するオーケストラを従え、活きのある見事な声で観客を魅了しています。幕が下り時の大歓声を聞くと、ベーメが観客を完全に掌中に収めていることを思い知らされると同時に、元々このオペラは男爵が主役だったことも思い出させます。

 第3幕も遅いテンポで開始され、最近の演奏に見られる流麗でスマートではないながら、フレーズひとつひとつにニュアンスが付けられていて、これから何か楽しいことが起きるような気にさせてくれます。男爵とマリアンデルは本当に楽しんでいるように面白おかしく歌い、声を聴いているだけでも舞台での雰囲気が伝わってきます。そればかりか二人はフレーズのひとつひとつをカメレオンのように声質を変えつつあるときは朗々とあるときは囁くようにと自在な歌を聴かせます。オーケストラも鋭い突っ込みをしかも艶のある音で入れることを忘れていません。三重唱でのライニングは、第1幕とは打って変わって若々しい声を聴かせます。3人ともくっきりした歌い方でシュトラウスの音楽をしっかり表現していますが、なにより見事なのはクナッパーツブッシュのテンポ感で、フレーズの流れや、折り重なる三声が織り成す起伏ある音楽に、与えられたテンポがことごとくぴったりはまっているように感じられます。オーケストラの扱いもユニークで、いたずらにシンフォニックなクライマックスを築かず、頂点におけるトランペットの一吹きだけにその役を託すことで、分厚いシュトラウスの音楽からシンプルな感動を引き出します。また、頂点を過ぎた後に静かな高まりを用意したシュトウスの計算されたねらいも見事に再現しています。しかも、この三重唱が終わって転調したときに奏される弦楽器によるトリルをこれほどまでに明確に演奏させる例はほかにありません。ブルックナーやワーグナーのスペシャリストとして、またその他の曲では異様なほど個性的な「クナッパーツブッシュ節」という形容詞しか与えられないこの指揮者の全く異なる音楽性をここに見ることができます。続く二重唱ではユリナッチとギューデンの声の組み合わせが絶妙です。上気した少年の姿をユリナッチは肩に力の入った歌い方で表現し、感動を懸命に押さえようとしているゾフィーをギューデンは丁寧に歌い上げます。マルシャリンがファーニナルと部屋に入ってきてそのまま退場するときの音楽の自然な流れ方、テンポの自在に変化、息遣い、どれをとっても完璧です。しかもこれがライヴとは信じられません。まさに、奇跡的な演奏と言えます。


エリザベート・シュヴァルツコップ(マルシャリン) カラヤン指揮  シェヒ(マルシャリン) ベーム指揮

◆ カラヤン/フィルハーモニア管弦楽団(1956年12月 EMI)★★★★☆
(シュヴァルツコップ/ルートヴィヒ/シュティッヒ=ランダル/エーデルマン)
 この曲の名演として長らく語られ継がれていますが、シュヴァルツコップが名唱を聴かせてはいるもののオーケストラがウィーンフィルでないということばかり強調されてきたように思えます。カラヤンの指揮が4年後の1960年ザルツブルグで遺した2つの演奏とどう違うかについてきちんと言及されていないことは残念です。(カラヤンはこれに先立つ1952年にスカラ座で『ばらの騎士』を指揮していますが、その演奏を聴けばさらに興味深い考察ができそうです。この演奏はごく一部分だけCD化されていますが、全曲はまだ聴いていません。)

 この演奏で最も重要なポイントは、スタジオ録音であることで舞台や演出などからの制約から完全に解放されているということです。シュトラウスによって極めて職人的に組み立てられた『ばらの騎士』のスコアから、カラヤンがその緻密な音楽だけを引き出し独自の解釈で再構築している様が手に取るようにわかる演奏です。その一音たりとも疎かにしない、隅々まで磨き上げられたマニアックな音楽つくりには驚嘆を禁じえず、しかもシュトラウスの演奏において重要な要素であるシンフォニックな要素も十分に楽しませてくれる演奏に仕上がっています。また、それに応えて完璧に演奏しきっているフィルハーモニア管弦楽団も賞賛に値し、ポルタメントをあまり使用しない正攻法で取り組む様は聴いていて爽快さを覚えます。このポルタメントの扱いは、クナッパーツブッシュやクライバーらのもとで何度も演奏してきた、いわば「手垢にまみれた」ウィーンフィルのスタイルに真っ向から対抗するカラヤンの意思表示であり、決してウィーン風の甘ったるい指揮をしなかったシュトラウス自身の例に倣ったカラヤンの見識と自信の表われとも言えます。この演奏を「これがウィーンフィルだったら・・・」と評する人は、全くカラヤンの意図を理解していないと思われます。ベテランを排したソリストを起用し、フィルハーモニア管弦楽団という新しいけれども腕っこきのオーケストラを使うことでこそ、空前にして絶後とも言えるほど指揮者の意図を隅々まで行き渡らせた演奏を可能にしているのです。

 第1幕での大勢の来訪者たちの喧騒、第2幕でのオックス男爵の従者たちの狼藉、オクタヴィアンと男爵との刃傷沙汰などのシーンでのオーケストラの雄弁さは、このオペラの特色のひとつであるパントマイム的要素を十分に活かしていると言えます。しかし一方で、このオペラを知らない聴き手にとっては、音符以外の音(叫び声、物音など)が一切入らずに整然と音楽が進行するために、一体舞台で何が起こっているか全く理解できない、あるいはあらすじを頭に入れていた人でも肝心のシーンを聴き逃すことになるような演奏とも言えます。

 5種あるカラヤンの録音で最新盤を除く男爵に一貫して起用されているエーデルマンは朗々と歌う爽快さにその魅力を発揮しています。決して粗野にならず、田舎者であることと同時に貴族の端くれとしての上品さと、喜劇としてのこのオペラを引き立てる滑稽さをその良く響く声で示してくれます。シュトラウスが遺した男爵像を忠実に再現していることになります。

 1960年のザルツブルグでの映像によって理想のマルシャリン像として決定的に印象つけられたシュヴァルツコップはこの演奏においてすでに完成された歌唱を聴かせてくれます。第1幕のモノローグにおける内面を見据えた歌いぶりは、ドイツ語の発音に重きを置く、噛みしめるような唱法によって一層深みを増しています。しかしそうした唱法であるがゆえに、カラヤンの緻密な伴奏によって音楽が次第に停滞していく傾向が見られます。やはり、ソプラノ歌手に求められる華やかな歌も聴きたい気もします。また、シュヴァルツコップがその遅いテンポの中で雄弁なオーケストラに音楽表現を任せきっている感があり、やや踏み込みに欠けるところに不満がないわけではありません。しかも、オクタヴィアンが退場してから家令たちの報告の後、最も美しいシーンですが、カラヤンの音楽があまりに美しすぎるために、不安に襲われるマルシャリンの姿が見えなくなるような気がします。シュトラウスはここで音楽を停滞させないようにという言葉を遺していますが、カラヤンはそれを無視してひたすら自らの美意識を追求していると言えます。まさに、実際の舞台では実現できないことをこのスタジオ録音でやってのけているのです。

 第2幕のオーケストラはそれまでの見事な演奏に較べてやや手こずっているようです。「ばらの献呈」でのゾフィーの動機を奏するオーボエがノーテンキで出しゃばり過ぎるのと、「銀のばら」の動機(フルート、チェレスタ、ハープ、ヴァイオリンがスラー・スタカートで和音を進行させるところ)でバランス的にフルートが大きすぎるのと、テヌートがかかりすぎてシュトラウスが意図した非現実的な響きとはかけ離れている、などが挙げられます。また、ゾフィーを歌うシュティヒ=タンダルの低音部に魅力が欠けるのと、カラヤンのとんでもなく遅いテンポによく歌っているとは思いますが、時折棒立ち状態になるのが気になるところです。恍惚とした止まりそうなテンポはいいとして、クライマックスに向けてもう少し動きがほしい気もします。しかし、それ以外の箇所でのオーケストラはここでも細部に至るまでシュトラウスの書いた音符を忠実に再現しています。

 第3幕の冒頭では、どんな複雑な箇所でも破綻を全く見せない完璧な演奏に舌を巻きますが、ここでも舞台から離れて整いすぎた世界にやや違和感を覚えます。三重唱ではシュヴァルツコップとルートヴィヒは声質的にうまく溶け合っていますが、シュティヒ=タンダルがやや硬質な声であるのは気になります。テンポは極めて適切で、クライマックスへ向けて僅かながらテンポを上げ、なだらかな頂点を築いていくカラヤンの手腕は見事と言えますが、歌の方は絶叫気味であるのが残念です。また、マルシャリンが去った後の二重唱では落ち着きすぎたテンポの中、「銀のばら」が出てくると第2幕同様違和感を覚えます。ルートヴィヒが巧みに歌いつつも力任せに歌っていて、しかも成熟しすぎる印象は拭えず、シュティヒ=タンダルは少々疲れ気味で可憐さに欠けるのが残念なところです。ファニナルとマルシャリンが舞台に現れ、退場するところのでは、第1幕のマルシャリンのモノローグと同じ音楽が使われていますが、ここでのカラヤンは、諦観、悲しみ、陶酔などといったこのオペラのテーマをこれ以上ないというくらいの完璧さで美しく歌い上げています。


◆ベーム/ドレスデン国立歌劇場管弦楽団(1958年12月 GRAMMOPHON)★★★☆☆
(シェヒ/ゼーフリート/シュトライヒ/ベーメ)
 ベーム特有の溌剌とした音楽つくりは、この曲の喜劇的雰囲気をうまく作り出しています。贅肉を落とした響きで、きびきびとしたテンポで曲を進めますが、決して一本調子にならず決めて欲しい箇所はきちんと決め、たっぷり歌うところは十分に時間をかけてくれますので、安心して聴けます。マルシャリンのシェヒは芯のある明るい発声で若さを感じさせ、オクタヴィアンのゼーフリートは癖のない澄んだ声で朗々と響かせます。極めて魅力溢れるオクタヴィアンと言えます。惜しむらくは、ふたりの声質が非常に近く、とりわけ第1幕の冒頭では互いに若さを競い合っているような歌い方になっているところでしょうか。しかし、ベームが終始テンポを引き締め、音楽を活き活きと進行させているところは見事です。若干その速さに歌がついていけないところもありますが。なお、黒人の男の子モハメットが朝食を持って来るシーンでのオーケストラは雰囲気がとてもよく出ています。

 第2幕では、少年のような爽やかさで歌うオクタヴィアン、低音はいまひとつながら芯のあるしっかりした高音で歌うシュトライヒのゾフィー、この二人のどこか現実離れしたところが御伽噺の雰囲気を生み出しています。ベームの指揮も力みのない自然なスタイルで歌につけています。オックス男爵のベーメは押し出しの強い声質で明確な発音で歌っていますが、ベームの速めのテンポということもあって、ピシッとし過ぎたあまり変化の少ないワルツを聴かせます。ファーニナルが上品すぎるフィッシャー=ディースカウということもあって、あまり面白みのない演奏になっています。

 第3幕は冒頭からワクワクする雰囲気をよく出していて、決して攻撃的にならないところに好感が持てます。男爵とマリアンデルのやりとりでは、ゼーフリートが可愛らしすぎて、オクタヴィアンが扮しているという感じがしません。三重唱では、ベームの明確なフレージングに乗って、オクタヴィアンもゾフィーも輪郭のはっきりした歌い方をしていますが、ひとりシェヒだけが古風な歌い回わしをしているために浮いて聴こえるのが惜しまれるところです。しかし、クライマックスに近づくにつれてオーケストラが歌の背後に遠ざかりすぎて、音楽が本来在るべき姿になれないでします。続く二重唱でも、ハープしか伴奏していないみたいにオーケストラは静かです。しかし、二人の透明な声がくっきり際立つところはこの演奏の最大の聴きどころと言えます。ゾフィーの力強さとオクタヴィアンの若々しさが、ベームの淡々とした音楽に乗ってシュトラウスの世界を作り上げています。感傷に浸らず、もたれない音楽こそ、シュトラウスがここで求めたものと思われます。ただ、「銀のばら」の動機でテヌートがかかりすぎているのと、歌といっしょのところでは全く聴こえないという問題はあります。


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