R.シュトラウス : 歌劇『ばらの騎士』 序章

   
T. 『ばらの騎士』の誕生
 全15曲残したR.シュトラウス5作目のオペラが『ばらの騎士』です。1911年1月26日、ドレスデン宮廷歌劇場で初演されました。批評家からはその不道徳性とウィンナ・ワルツが生まれていない時代を舞台としながらそのワルツを使用したことへの批判をされたものの、大多数の聴衆からは好評をもって迎えられました。2月にはミュンヘン、3月にはウィーンと各地で繰り返し演奏され、ベルリンからドレスデンへ臨時の特別列車『ばらの騎士』号が運行されたほどでした。ウィーンではこの年だけで37回も上演されとことを見るといかに人気を博したかがわかります。なお、わが国では1956年に初演されています。

   

  『サロメ』(1905年)、『エレクトラ』(1909年)と前衛的な作品を世に問い、一躍音楽界の最前線に踊り出たはずのシュトラウスが、一転して長閑なウィンナ・ワルツを用いたロココ風喜歌劇とも言える『ばらの騎士』を作曲したのです。シューンベルクが1908年には無調音楽を手がけて十二音技法への一歩を踏み出していたことを考えると、シュトラウスの逆行ぶりは音楽史上の七不思議かもしれません。しかし、この作品がシュトラウスのオペラの中で最も上演回数が多いだけでなく、すべてのオペラ作品の中でも圧倒的な人気を誇っているのも事実です。2001年に音楽の友社がわが国で行なった人気調査では、全オペラの中では10位、ドイツ・オーストリアものではモーツァルトの作品を除けばワーグナーを抑えて1位を獲得しています。

 この作品の台本はオーストリアの作家フーゴー・フォン・ホフマンスタールによるもので、シュトラウスのオペラでは6作品の台詞を書いたことになります。しかもどの作品もシュトラウス円熟期の作品として傑作と言えるものばかりで、いかにこのコンビが理想的であったかがわかります。ウィーンを舞台にし、ウィーンの方言をふんだんに盛り込んだ台詞からなるこの『ばらの騎士』はドレスデンで初演された後は各地の歌劇場で取り上げられていますが、とりわけウィーンの宮廷歌劇場および後の国立歌劇場を中心に上演回数を重ねていきます。現在発売されているこの曲のCDや映像の半分以上がウィーン国立歌劇場もしくはウィーンフィルハーモニー管弦楽団が演奏しているというのも興味深いところです。また、この作品について語るときに引き合いに出されるモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』との関係も興味深く、同じ時代、同じような瀟洒な館で演じられ、結婚をテーマにし、「ズボン役」が登場し、計略が張り巡らされ、最後はハッピーエンド・・・。しかも、シュトラウス自身の「私はモーツァルト・オペラを書く」という言葉。しかし、内容は全く異なり、むしろワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に近いとする説もあります。このことは後で論じます。

ホフマンスタールとシュトラウス(1912年)       ホフマンスタールとシュトラウス(1911年)
 
 このオペラの正式な名称は『《ばらの騎士》、フーゴー・フォン・ホフマンスタールによる3幕からなる音楽のための喜劇、リヒャルト・シュトラウス作曲』で、歌劇とか楽劇という呼び方は正しくないようです。最初は『オックス・フォン・レルヒェナウと銀のばら』として構想され、「道化オペラ」という副題も考えていましたが、最終的には上記のものに落ち着きました。この「銀のばら」とは、「婚約の証として花婿がその親戚から使者選び、銀のばらを持たせて花嫁に贈る。その時花嫁の父親は家にいてはいけない。」という慣習からとられたものですが、実はホフマンスタールの作り話です。


U. 時代背景
 オックス男爵という田舎貴族の滑稽な姿を交えつつ、若い恋人から身を引く大人の女性の諦念を描くこのオペラは、オーストリア=ハンガリー帝国の絶頂期の最後を飾り、黄昏の始まりでもあった女帝マリア・テレジア時代のウィーン(治世は1740年から1765年)が舞台に選ばれました。18世紀半ばのウィーンは、オスマントルコの脅威から解放され、ロココ芸術が花盛りのオーストリア帝国の首都として見かけは華やかさを保っていました。しかし、政治的には、ウィーン会議後のメッテルニヒの反動政治がその頂点にありました。凶作、失業、インフレが庶民の生活に打撃を与え、体制は警察強化と検閲に血道を上げ、1748年3月の学生と労働者の蜂起(48年革命)によってメッテルニヒ体制は崩壊しますが、10月には宮廷勢力が盛り返し、市民側は敗北します。

  しかし、こうした殺伐とした雰囲気や市民階級が裕福になり貴族の凋落が始まったという背景を意識させはしますが、そうした時代への風刺とか社会性といったものはこのオペラでは強調されません。華麗な登場人物達の愛人関係や漁色、成金、スキャンダル、などを甘いオブラートでくるんで聴かせるといった、シュトラウスの職人的な手腕によって豪華な娯楽作品に仕立てられているのです。

  女帝マリア・テレジアは当時では珍しいことに幼なじみの初恋の人、ロートリンゲン公フランツと恋愛結婚をし、16人もの子供を生んだ女性です。当然、彼女は「家庭」というものを非常に重要視しましたので、表向きは「風紀」を厳しく取り締まった時代であり、そこにこのオペラとの接点が生じてきます。

  象徴的なのは、シュトラウスがこの曲を書いた時代が、黄昏に向かいつつあった帝国がとどめを刺されることになる第一次大戦での敗戦、帝国の崩壊、君主制から共和制へ移行という大きな変化を始める直前だったことです。もはや体制を批判する力はなく、ひたすらよき時代を懐かしむことしか人々にはできなかった時代の産物とも言えるでしょう。

マリア・テレジア   グスタフ・マーラー   ハンス・フォン・ビューロー


V. リヒャルト・シュトラウスの軌跡 〜 マーラーとの対比
 シュトラウスの父フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは王立音楽院の教授でミュンヘン宮廷歌劇場の首席ホルン奏者でした。大のアンチ・ワーグナーで、その名物ぶりはリハーサルに立ち会うワーグナーも遠慮するほどでした。なぜなら、彼ほど完璧にワーグナーの書いたホルンパートを吹ける奏者は誰もいなかったからです。1883年ワーグナー死去の知らせを指揮者レヴィがリハーサル中に団員に告げると、全員が亡き巨匠をしのんで起立したのに、ただひとり座ったままだったのが主席ホルン奏者フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスだったとか。しかし、なぜ自分の息子にワーグナーと同じ「リヒャルト」という名をつけたかは不明です。この父親のおかげで優秀な教師に子供の頃から音楽の指導を受けます。シュトラウスは「父の厳しい保護のもとで16歳まで古典派音楽の中だけで育った」と回想しています。すなわち、幼少の頃からハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンに接してきたことはシュトラウスの音楽の本質を語るのにきわめて重要であると言えます。成人に達するまで、常に当時のトップクラスの音楽家と親交のある父親の後押しがあったのも事実です。生涯孤立無援であったマーラーとは大きな違いです。

 シュトラウスは少年時代から作曲を行ない、その作品を公衆の前で演奏される機会(父が率いる楽団で)が幾度もあったのもシュトラウスにとってきわめて重要なことだったと言えます。しかし、父が最も恐れていたことでしたが、息子リヒャルトは17歳のときにワーグナーの心酔者になってしまいます。

 21歳のシュトラウスは1884年に大指揮者ハンス・フォン・ビューローに認められて翌年にはマイニンゲン宮廷管弦楽団の補助指揮者となり、その翌年には宮廷楽長に就任。ビューローの影響で熱烈なブラームスの賛美者になります。ここに着任した直後、ビューローの友人だったブラームスは自作の交響曲第4番の初演指揮するためにこの地にやってきたのです(その演奏会の最後に演奏された大学祝典序曲でビューローがシンバル、シュトラウスが大太鼓を担当したそうです。)。シュトラウスはこの時、自作のヘ短調交響曲を聴かせましたが、ブラームスは「なかなか良い」とだけ言ったそうですが、その他に「若者よ、舞曲をよく調べなさい。そして平易な8小節単位の旋律を書くようにしてごらん」というありがたいお言葉を頂いたのでした。

 しかしその後、団員のひとりアレクサンドル・リッターの影響でリストやワーグナーの決定的な洗礼を受けることになったのです。
ヨハネス・ブラームス   リヒャルト・ワーグナー

 一方、ワーグナーの心酔者としてはシュトラウスに先んじていたマーラーですが、作曲家への道は困難を極めます。シュトラウスのような強力な後ろ盾がなかったことのありますが、ワーグナー派であったことがまず躓きの始まりでした。ブラームスが審査員を務める作曲コンクールに落選した失意のマーラーは、20歳でオーストリアの温泉町バート・ハルの劇場に赴きます。楽員の世話や劇場主の子供の世話をしながら茶番劇の伴奏が最初の仕事だったマーラーと較べると、いかにシュトラスは恵まれていたかがわかります。しかもカッセルに移ったマーラーは、24歳のときビューローに手紙を書いて弟子入りを希望しますが無視されてしまいます。

 この後、シュトラウスはイタリアを旅しますが、オペラを中心としたイタリア音楽には全く関心を示さなかったとされています。このことは、『ばらの騎士』でイタリア風のアリアを歌手に歌わせて茶化していることに繋がることと思われます。帰国後シュトラウスはミュンヘンの宮廷歌劇場の第3指揮者に就任します(1886年)。この頃、シュトラウスはマーラーの交響曲第1番をピアノ連弾で弾き、初めてマーラーを体験します。「非常に知的な音楽家」という印象を受けたそうです。当時の批評家の意見と全く正反対であるのが興味深いところです。なお、翌1887年にパウリーネ・デ・アーナという歌手と知り合い、後に彼女はシュトラウスの生涯の伴侶となります。貧しかった割には数多くの女性の名前が登場するマーラーの生涯とは大きく異なるところです。

 マーラーより4歳下のシュトラウス、お互いが最初に会ったのは1887年。その時マーラーは27歳で、ウェーバーの『3人のピント』の補筆初演後で、交響曲第1番を完成したものの、各地で不評を蒙ってその改訂に悪戦苦闘していました。同じ頃シュトラウスは1889年にワイマールの第2指揮者になり、ワーグナーのオペラを盛んに上演し、作曲では交響詩『ドン・ファン』「空前の」大喝采を博しています。1894年、マーラーはワイマールのシュトラウスに交響曲第1番のスコアを送り、演奏の許可を求めます。許可を得たマーラーはリストが始めた標題音楽の聖地であるワイマールに乗り込み、まだ交響詩と称していたその曲を演奏しますが、結果は惨憺たるものでした(この詳細につきましてはマーラー作曲交響曲第1番の項をご覧ください。)


 上の写真はシュトラウスとマーラーのツーショット。『サロメ』の公演がはねて劇場から出てくるシュトラウス(左から2番目)を迎えるマーラー(シュトラウスの直ぐ右側)。

 1895年シュトラウスはマーラーの交響曲第2番『復活』の1〜3楽章をベルリンで初演します。このとき、なかなか演奏されないマーラーの作品を取り上げたシュトラウスにマーラーはたいへん感謝したそうです。1897年、マーラーはウィーン宮廷歌劇場の音楽監督になりますが、1919年に音楽監督になったシュトラウスに対してマーラーが初めて勝ったと言うべきでしょうか。同じ頃シュトラウスはベルリンの宮廷楽長でした。1902年、マーラーはシュトラウス歌劇『火の飢饉』をウィーンで初演します。さらに1906年、マーラーはシュトラウスの『サロメ』をウィーンで取り上げようとしますが、検閲当局から禁止されます。辞表を手に訴えたマーラーですがかなえられませんでした。1909年、ベルリンでシュトラウスがマーラーの交響曲4番を指揮します。1911年『バラの騎士』が初演された時にはマーラーは既にウィーンを離れ、ニューヨークで最後となる演奏会を指揮していました。

 以上、二人の接点を紹介しましたが、記録に現れている事実からすると、決して友人にはならなかった二人ですが、概ね良好な関係にあったと考えられます。また、お互いの天才を見抜く目は持っていたことは間違いないようです。一説によると、マーラーの妻アルマがシュトラウス夫婦を嫌っていたため、マーラーの手元にあった書簡などがきちんと公開されていないことが二人の関係が明確でない原因とも言われています。



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