マーラー : 交響曲第1番

 ウィーンフィルハーモニーを振るマーラー(マックス・オッペンハイマー画 )

I.序章

 マーラーの交響曲第1番は俗に『巨人』というタイトルで呼ばれています。『巨人』というタイトルは日本ではとりわけ野球チームの名前として馴染みがあることからごく自然に受け入れられています(大阪でこの曲の人気調査をやったら面白いかも)。確かに、『Titan タイタン』と名づけたのはマーラー自身であることは間違いないようです。しかし、マーラーは後にこのタイトルを外してしまいます。ここでは、その経緯を交えて曲の成立についてご紹介します。

まず、マーラーの交響曲第1番を中心にした簡単な年譜を掲載します。
1860年7月7日  グスタフ・マーラー誕生。
1875年9月    ウィーン音楽院入学(15歳)。
1881年9月    リューブリアーナ歌劇場指揮者就任(21歳)。(オケ18人、合唱14人!)
1881年12月   『嘆きの歌』がウィーンの作曲コンクール、ベートーヴェン賞で落選。
1883年1月    オルミュッツ(現モラヴィアのオルモウツ)市立劇場指揮者。
            同劇場が資金難のため閉鎖により、マーラー失業。
1883年6月    カッセル王立歌劇場第2指揮者に就任。『さすらう若者の歌』に着手。
1884年      交響曲に着手。
1885年8月    プラハのドイツ劇場第2指揮者に就任。すぐに第1指揮者に昇格。
1886年8月    ライプツィッヒ市立歌劇場第2指揮者に就任(第1はニキシュ)。
           ウェーバーの孫から未完のオペラ『3人のピント』の完成を依頼される。
1888年3月    交響曲完成(28歳)。ウェーバーの歌劇『3人のピント』補筆完成初演(1月)。
1888年10月   ブタペストのハンガリー王立歌劇場の音楽監督に就任。
           モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』をハンガリー語で上演。ブラームスがその公演を聴いて絶賛。
1889年11月   『2部からなる交響詩』というタイトルで初演。
1891年3月    ハンブルグ市立歌劇場の音楽監督に就任。チャイコフスキーの歌劇『オネーギン』ドイツ初演。
1893年10月   『〈巨人〉交響曲様式の音詩』というタイトルで初演。
1894年6月    『〈巨人〉交響曲様式の音詩』ワイマールで再演。
1896年3月    『交響曲ニ長調』というタイトル、ベルリンで初演。
            4楽章版、〈巨人〉のタイトル削除。スコアは1899年ヴァインバーガー社から刊行。
1897年4月    ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督に就任(37歳)。
1898年9月    ウィーンフィルの指揮者に就任。プラハで『交響曲ニ長調』を演奏。
1899年3月    フランクフルトで『交響曲ニ長調』を演奏。
1900年11月   ウィーンフィルの定期で『交響曲ニ長調』を演奏、ウィーン初演。
1902年3月    アルマ・ヴェルフェルと結婚(マーラー42歳)。
1903年       レムベルクで『交響曲ニ長調』を2回(4月)、アムステルダムで1回(10月)演奏。
1906年       ユニバーサル社から刊行(1楽章提示部のリピート追加)
            ブリューンで『交響曲ニ長調』を演奏(11月)。
1907年       リンツで『交響曲ニ長調』を演奏(1月)。ウィーン宮廷歌劇場を辞任。
1908年1月     ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場デビュー。
            ヴィースバーデンで『交響曲ニ長調』を演奏(5月)。
1909年       ニューヨークフィルで『交響曲ニ長調』を2回演奏(12月)。
1911年       マーラー没(51歳)。
1967年       ユニバーサル社から全集版として刊行  
            マーラーが実演のときに加えた書き込みを反映。

☆ マーラーは生前15回この曲を指揮しています。

II.生い立ち

 1860年7月7日、七夕の日にグスタフ・マーラーはボヘミアのカリシュト(現在チェコのカリシュテ)にユダヤ人の次男として生まれます(長男はマーラーが生まれる前に亡くなったため、実質マーラーが長男。母親は全部で14人の子供を生みますが半数は幼児期に死亡。)。マーラー家は直ぐにモラヴィアのイグラウ(現在チェコのイフラヴァ)に移住し、マーラーはそこで少年時代を過ごします。近くにオーストリア軍の兵舎がある丘陵地帯で、自然に囲まれてはいたもののラッパ・太鼓や兵士たちが歌う悲しい民謡や軍歌を聞いて育ったとされています。マーラーの歌曲集『子供の魔法の角笛』などには少年の兵士を題材とする歌が数多いのと、マーラーの交響曲の中に軍楽隊の音楽が挿入されることはこうしたマーラーの少年時代の環境によるものと一般的に言われています。読書の好きだったマーラー少年はピアノ演奏に特異な才能を示し、音楽の道を歩みます。

 1875年ウィーン音楽院にマーラーは入学し、ロベルト・フックスに和声学、フランツ・クレンに作曲と対位法を学びます。また、ブルックナーによる和声学と対位法の講義を聴講したとされています。このフックスは日本の音楽辞典の中には記述がないほど一般に知られていませんが、当時ブラームスが弟子として育て、かつ大絶賛したほどの作曲家で、マーラーより10年以上長生きしています。1920年頃の作品117のヴィオラ・ソナタが最後の作品ですから相当長生きし、しかも大量の曲を作曲していることになります。しかし、その作風はこの時代にあってもロマン派の域を出るものではなく、現在演奏されることはめったにないようです。ただ、マーラーの他にシベリウス、シュレーカー、ツェムリンスキー等を育てたということから、名教授であったことは言えるようです。

 当時のヨーロッパ楽壇はブラームス派とワーグナー派に分かれた大論争に明け暮れていて、若いマーラーはワーグナー派に属していました(ブラームス派は音楽院をおさえていましたので体制派であったわけで、学生はえてして反体制寄りになるものです。)。また、1877年に初演されたブルックナーの交響曲第3番の初演にマーラーは立会い、反対派によって大混乱となった会場に熱烈な支持者として最後まで残って聴いたとされます。さらに、マーラーはこの交響曲の4手用ピアノ版への編曲を行なっています(余談ですが、ブルックナーの弟子たちがこの曲の改訂を強く勧めたのに対してマーラーは改訂の必要がないことをブルックナーに進言したとされています。後にマーラーはブルックナーの交響曲第6番を全曲初演しています。)。このブルックナーの3番のピアノ版編曲作業は、この時期のマーラーの作風を考える上で重要なポイントと考えられます。*註)

*註):ブルックナーの交響曲第3番はトランペットが弱音で主旋律を吹くことによって曲が開始されますが、演奏したウィーンフィルや聴衆、批評家は「トランペットの使い方を知らない」と激しく非難しました。華々しいファンファーレを吹く楽器としてしかこの楽器を認識していなかったのです。こうした時代にあって、マーラーは敢えてブルックナーと同じようにトランペットを扱っていることは注目に値します(交響曲第1番の第1楽章など)。

 1878年に卒業したマーラーは作曲家として身を立てるべくカンタータ『嘆きの歌』でウィーンの作曲コンクールであるベートーヴェン賞に応募します。しかし、このコンクールは反ワーグナーの旗手ハンスリックをはじめウィーン音楽界の重鎮ブラームスが審査委員長をしていたため、マーラーはあえなく落選します。失意のマーラーはこの時以来、生活のために指揮者としての道を歩むことになります。年表にあるように地方の歌劇場を転々としますが、着実に実力を上げていき大都市へと進出していきます。作曲では全く評価しなかったブラームスもブダペストでマーラーの指揮を絶賛し、ハンブルグではチャイコフスキーをして「とんでもない天才」と言わしめています。本来はチャイコフスキー自身が指揮する予定でしたが、言語のトラブルで急遽マーラーが指揮をとって大成功をおさめたのでした。ただ、指揮者としてのあらゆる資質(政治的かけひきなど)を持ち合わせていたわけではなく、音楽への妥協を許さないマーラーの厳しい練習も原因となって各地でトラブルを引き起こしたようです。しかし、転任先は常にランクが上の劇場であったことは事実で、指揮者としての地位は着実に上昇し、ついには世界の頂点であるウィーン宮廷歌劇場及びウィーンフィルの指揮者の両方を掌中におさめたのでした。
 マーラーがのちに交響曲第1番となる曲を作曲しはじめたのは地方の劇場を転々としていた時期にあたります。

  1896年ハンブルグ時代のマーラー  1903年ウィーン宮廷歌劇場でのマーラー


III.「大恋愛」と曲の成立 

 マーラーの交響曲第1番の成立につきまして、今回は作曲家の個人的な側面にスポットをあててみましょう。「個人的」といえばなんといっても異性と恋愛関係が最大の関心事となります。マーラーは晩年、精神分析の大家フロイトの診察を受けたこともあって、幼児期から青年期にかけての心理的抑圧などがマーラーの後の性格や作品にどのような影響を及ぼしているかについて様々な考察が行われています。詳しいことは関連図書に譲るとして、ここでは交響曲第1番成立期のマーラーのプライヴェートな活動(まるで芸能週刊誌みたいですが)にスポットをあててみます。

 異性や結婚ということについていろいろな問題をかかえていたマーラーですが、それなりに恋多き若者であったことは間違いないようです。ただ、凡人と違うところは、その時の夢や情熱、挫折などといった体験を芸術のレヴェルに昇華させて創作のエネルギーを爆発させつつ危機を乗り越え、(次の女性を求めて)新たな人生を切り開いていったということでしょうか。
 
 ウィーン音楽院卒業後の1879年夏、18歳のマーラーは故郷イグラウで郵便局長の二人の娘にピアノを教えることになります。9月にはそのうちの長女、ヨゼフィーネ・ポイスルと恋に落ちます(なんとも手が早い・・)。しかし、当時の郵便局長ともなれば、平民とはいえ貴族や軍人との結婚も夢ではなかった時代ですから、一介のピアノ教師に過ぎないマーラーが相手では当然ながら親は猛反対します。早くもその年末から翌年にかけて苦い別れを味わうことになります。なお、当時のマーラーは見事な顎ヒゲをたえていますが、これはヨゼフィーネにあてがわれた婚約者が軍人と知ったマーラーの、藁をも掴む想いが込められています(哀れ・・。これ以降、遺された写真を見るとマーラーの顔にはヒゲはなく、顎は常にツルンとしていますね。)。

 さて、1880年の始めに彼女の母親からの決定的な手紙に打ちのめされたマーラーは、そのうっぷんを晴らすかのように創作への意欲を高めていきます。その2月から3月にかけて、最初の(学生時代の習作を除く)歌曲集とされる4つの歌を作曲し、既に会うことのできないヨゼフィーネに贈っています(これで縁りを戻そうとしたのでしょうか?しかし、7月には彼女は軍人と結婚してしまいます。)。

 その3曲目の「草原の5月の踊り」がのちの歌曲集「若き日の歌」の中で「ハンスとグレーテ」と改作改名されて収録されるのですが、これが交響曲第1番第2楽章の冒頭の主題に再利用されています。歌詞はマーラーが作ったとされていて、「輪になれ、輪になれ、輪舞を踊ろう!」と陽気に開始されます。「Rin-gel, Rin-gel」という歌詞を第2楽章の冒頭でチェロ・バスが「ラーミ、ラ・ラ・ミ」と弾く音符に当てはめると、その雰囲気が伝わってきます。歌詞の内容は、「踊りの中でハンスが相手を探していてウロウロしていたが、ついにひとりぼっちでいるグレーテを見つけて走っていく」といった他愛のないものです。しかし、この時期のマーラーの作品としてはそのオリジナリティーの発芽として最も重要な曲とされています。

 ハンスもグレーテも当地ではよくある名前で、グリム童話で有名な『ヘンゼルとグレーテル』とは関係はないようですが、これには面白い話があります。この童話をオペラにして名をなしたのはマーラーより6歳年上のドイツの作曲家フンパーディンクですが、彼はグリム兄弟ではなくベヒシュタインが書いた『ドイツのメルヒェンの本』を元にしています。マーラーも実はこのベヒシュタインの書いた『新ドイツ童話集』の『嘆きの歌』を元にカンタータを書いていまして(この曲でコンクールに落選し、マーラーは指揮者の道を歩んだことは前述した通りです。)、奇妙な一致を見せています。

 フンパーディンクはこのオペラを1893年に初演しますが、マーラーは早くも翌1894年にハンブルグの歌劇場でその新作オペラを取り上げ、その指揮をしています(この時の様子はマーラーの弟子である指揮者ワルターの回想録に詳述されています。舞台稽古の時、へたくそな伴奏ピアニストの代わりにワルターが初見で見事に弾いてマーラーを喜ばせたそうです。)。このオペラの第1幕でヘンゼルとグレーテルの父親が森に住む魔女の恐ろしさを歌う「箒にはもう一つの使い方がある」及びそれに続く第2幕への間奏曲(箒に乗る魔女)の旋律が、なんと、マーラーの交響曲第1番第3楽章冒頭の旋律と全く同じで、民謡で知られる「マルティン君」という曲を元にしているのです(共に最初はコントラバスで奏されるというのも一致しています。)。

 1893年時点では交響曲第1番は完成されていて既に2回演奏されていますので、フンパーディンクがその公演を聴いたのなら影響を受けたかもしれません。しかし、『ヘンゼルとグレーテル』のオペラは1890年には着手されていますので、仮に聴いたとしてもその歌はオペラの第1幕の終わり近くで既に出来上がっていたと考えられますので、このことは全くの偶然というべきでしょう。しかし、完成したばかりの自分の交響曲と同じ旋律を使っているフンパーディンクのオペラを指揮していて、マーラーはいったい何を感じたのか、想像するだけでも興味深いところです。なお、この旋律の一致について言及している研究や著書は今のところ見当たりません。

 話を本題に戻し、年代も少し巻き戻します。1883年6月、カッセルの歌劇場に赴任してきたマーラーは程なくブロンドのコロラトゥーラ歌手、ヨハンナ・リヒターに夢中になります。しかし、早くも12月までには失意のどん底にあったようです。この失恋体験に基づいて書かれたのが『さすらう若人の歌』です。この曲と交響曲第1番との極めて密接な関係につきましては後で詳述いたします。出版されたピアノ・スコアには1883年12月とあり、のちにマーラーが友人に失恋を告白した手紙にこの曲について言及されているからです。この曲は彼女に捧げられましたが、そのことを彼女は知るよしもありませんでした。なお、彼女は大石油商人との関係のためにマーラーを捨てた歌手であり、高級娼婦だったという当時の記述もあります。

 さて、次なる事件は、今日であればまさに芸能レポーターが夜討ち朝駆けで取材に走り回るに違いない、貴族の人妻との激愛という大スキャンダルでした。時は1886年、ライプツィッヒの歌劇場の指揮台に立ったマーラーは、歌劇『魔弾の射手』で有名な大作曲家ウェーバーの孫であるザクセン軍の隊長カール・フォン・ウェーバー男爵から、祖父ウェーバーの未完のコミック・オペラ『3人のピント』の完成を依頼されました。初めてのメジャーな歌劇場での仕事に追われ、しかも既に交響曲第1番の作曲に着手していた多忙なマーラーは最初乗り気ではなかったのですが、ウェーバー家に呼ばれてその妻マリオン・ウェーバーに出会ったとたん、その曲の補筆完成を引き受けます。ウェーバーの他の曲を利用したり、間奏曲など一部自ら作曲したりでなんとか翌1887年に完成させ、1888年1月に初演を行ないました。出来栄えは良かったらしく、それなりの成功を収め、2万マルクの大金をマーラーは手にします。

 しかし、問題なのはこの間、マーラーは人妻マリオンとデキてしまったのです。マーラーはウェーバー家に足しげく通い、夫人と作曲中の交響曲をピアノ連弾で弾くなどして甘い生活に酔いしれていたというわけです。当時の社交界の中心であった歌劇場の若き花形スター(とは大げさですが)であるマーラーにのぼせ上がっている妻のことは、当の男爵はお見通しだったそうですが、スキャンダルを恐れた男爵は目をつぶり、オペラの完成を待ったのでした(マーラーに決闘を申し込まなかった男爵には感謝の念で一杯です。)。初演が無事終わると、二人の熱い想いは激しくなる一方で、ついにマーラーと夫人は駆け落ちを決意します。しかし、結局約束の時間に夫人は駅に現われずマーラー1人が汽車に乗って街を去るという、なんともドラマティックな形でこの大恋愛は終始符が打たれたのでした。そして、そのわずか2ケ月後にマーラーは交響曲第1番を完成させます。

 映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガード扮するリックがパリの駅で彼女を待つ有名なシーンを連想させますが、このマーラーのあまりにカッコよすぎる青春のひとこまがマーラーの創作意欲に火をつけたことは間違いありません。後にマーラー夫人となったアルマ・マーラーは1人で汽車に揺られていたマーラーの心境は「解放」だったと伝えていますが、史実を歪曲しがちなアルマの証言であるだけに、真相は闇の中です。しかし、この道ならぬ大恋愛が交響曲第1番の作曲の最中に芽生え、完成の直前で華々しく幕を閉じたということは、マーラーの創作が恋愛との相乗効果によってこそ輝きを見せるということを証明していることに他ならないでしょう。

 この事件はゴシップとしての興味は尽きませんが、交響曲第1番のウェーバーからの影響についても大いに考えさせられます。既にライプチィッヒに来る前の1884年にウェーバーの名曲『魔弾の射手』の指揮をしていたマーラーは、さらに『3人のピント』を通じてウェーバーの語法を何らかのかたちで自分のものにしたはずです。第1楽章の序奏におけるホルンの扱いなど、どこかウェーバー風に聴こえるところもあります。「森」を舞台にする音楽は『嘆きの歌』以来マーラーの曲にとって重要な要素をなしていて、マーラーはウェーバーの音楽からひとつの回答を見出したとも言えるでしょう。なお、この点について言及する研究書は未だ読んだことはありませんので、あくまで参考ということで読み流してください。その他に一般には指摘されない類似点としては、第1楽章の練習番号24番からのトロンボーンがワーグナーの楽劇『ニーベルングの指輪』の巨人族のライトモチーフに似ていること、第2楽章の練習番号9番4小節目のヴァイオリンによる半音階進行はブルックナーお得意の音型、等があります。


IV.『花の章』

 現在発売されているマーラー作曲交響曲第1番のCDの中には「花の章」という楽章が付いているものがあります。しかし、その収録のされ方を見ると、大きく分けて4種類があります。

1.CDの最後のトラックにあるもの
2.最初のトラックにあるもの
3.第2楽章として2番目のトラックにあるもの(つまり全曲は5楽章となります。)
4.同じく全5楽章のうちの第2楽章にあるのですが、他の楽章にも何やら意味ありげな標題が書かれているもの、とがあります。

いったい、『花の章』ってなんなのでしょうか。

 ここで、マーラーが交響曲第1番を書き直した過程を順に記述してみます。
1884年  交響曲に着手。
1889年  『2部からなる交響詩』というタイトルでブダペストにて初演。《初演版・・現存せず》
1893年  『〈巨人〉交響曲様式の音詩』としてハンブルグにて演奏。《第1回目の改訂−以下これを5楽章版と呼びます》
        第1部:青春の日々より
          第1楽章:春、そして終わることなく!
          第2楽章:花の章
          第3楽章:帆に風をはらんで
        第2部:人間喜劇
          第4楽章:難破! カロ風の葬送行進曲
          第5楽章:地獄から天国へ
1894年  『〈巨人〉交響曲様式の音詩』ワイマールで再演。
1896年  『交響曲ニ長調』としてベルリンで初演。〈巨人〉のタイトルと「花の章」を削除し、4楽章となる。
       ヴァインバーガー社から刊行。《第2回の改訂−以下これを4楽章版と呼びます》
1906年  ユニバーサル社から刊行(1楽章提示部のリピート追加) 《小規模な修正》
1967年  ユニバーサル社から全集版として刊行 《小規模な修正》

 『花の章』は1884年(カッセル時代)、おそらく管弦楽作品としては最初にマーラーが書いた作品のひとつであろうと言われています。『ゼッキンゲンのラッパ手』という演劇にマーラーが付随音楽を作曲し1884年6月23日に初演されますが、その間奏曲として置かれた作品です。マーラーはその間奏曲に対して、わずかなオーケストレーションの変更を加えて交響曲の中に組み込み、『花の章』と名づけたのです。なお、『ゼッキンゲンのラッパ手』そのものの譜面は戦災で焼失し現存はしません。

 しかし上記の年表を見てわかる通り、1896年にベルリンでこの交響曲を演奏した時にはなんと『花の章』はなくなっていたのです。交響曲に組み込まれてから、わずか2回しか演奏されなかったことになります。その後、『花の章』はどんな運命を辿ったのか、交響曲第1番の成立過程を見ながら追ってみましょう。


V.『花の章』再発見と蘇演

 マーラーは音楽院卒業前後の1878年から79年の間、ウィーンでジェニー・フェルトという女性にピアノを教えたことがあるのですが、1894年以降にマーラーは彼女に交響曲第1番の5楽章からなる手稿を贈ったとされています。この時の経緯や彼女とマーラーとの関係は明らかではありません。彼女はのちにブリュッセルに住むアメリカ人の実業家ペリンと結婚し、息子のジョン・ペリンがその手稿を相続します。彼は1959年にその手稿を売却し、1967年にアメリカ人ヘンリー・オズボーンがロンドンでの競売で落札します。アメリカはコネチカット州のニュー・ヘヴン交響楽団の副責任者であったオズボーン夫人は早速「花の章」だけのパート譜を作らせたのです。なお、この譜面はエール大学の図書館に寄贈されています。
 
 ここで、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンが登場します。若きブリテンはマーラーの未亡人アルマの知遇を得てから、マーラー未完の交響曲第10番の補筆完成を依頼されます。実のところ、アルマは手当たり次第に当時の有望な作曲家にこの曲の完成を依頼しましたがなかなか引き受け手がなく、「クルシェネクに不可能を可能にすることなどできないと言われ、アルバン・ベルクに断られ、シェーンベルクにやめなさいと言われた」そうです。

 結局ブリテンも交響曲第10番に手をつけませんでしたが、マーラーの信奉者であった彼は、1967年6月18日、イギリスのオールドバラ音楽祭で『花の章』を演奏します。このブリテンこそ、作曲者以外で最初にこの曲を演奏した指揮者ということになります。しかし、残念ながらアルマはもう既にこの世にはいませんでした(1964年没)。ブリテン自身の言葉によると「アルマがこの曲を聴けなかったとは・・。私は彼女のレクイエムのつもりで指揮をする。」と。なお、ブリテンはマーラーの交響曲第1番を好んでいたらしく、アルマの前でその第1楽章をピアノで弾いたとされています。しかしその『花の章』は、マーラーがカッセル時代に夢中であったヨハンナ・リヒターか或いは別の女性との関係から生まれた作品とされていただけに、生前聴く機会がなかったアルマ(マーラーと出会うのは1901年)がその曲を聴きたかったかどうかはなんとも言えません。ついでながら、ブリテンは自作の『夜想曲』を80歳になったアルマに捧げています(1959年)。

  『花の章』だけの演奏の翌年、1968年4月19日にブリーフ指揮ニュー・ヘヴン交響楽団によって現行の4楽章版の第2楽章として『花の章』を挿入した形(折衷版)で演奏され、レコード録音もされました。さらに翌1969年3月31日、同じ演奏家によって5楽章版(ハンブルグで演奏された譜面)のすべてが蘇演されます。続いて同年5月にはオーマンディがフィラデルフィア管弦楽団を振って折衷版を録音。さらに翌1970年には5楽章版の完全全曲録音がモリス指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団によって初めて行なわれました。

  以上振り返りますと、『花の章』は1896年までには作曲者によって削除されていますので、4楽章版の交響曲第1番といっしょに演奏することは作曲者の意図に反することになります。しかし、マーラーは『花の章』や5楽章版そのものは破棄していないため、許されることは『花の章』を単独で演奏するか、5楽章版として『〈巨人〉交響曲様式の音詩』という題名で全体を通して演奏するかの2通りがありうると考えられます。なお、4楽章版では〈巨人〉という標題をマーラーは取り去っていますが、現在では慣行として4楽章版であっても標題名をつけて呼ぶことはあります。むしろそのケースの方が多いかもしれません。

 こうしためんどうな経緯がありまして、世界中の指揮者たちはこの『花の章』の扱いにはそれなりに苦心はしているようで、少数の例外(オーマンディ、小澤征爾、メータ[2回])を除いて、交響曲第1番のCDでは前とか後のトラックに入れたり、5楽章版を採用したりしているのです。現在発売されている『花の章』を含むCDが様々な形態をしているのはこのためなのです。もちろん、マーラーの交響曲はすべて演奏しても『花の章』は決して演奏しないという指揮者もいますし、その方が多いようです。


VI.『花の章』の短い命

  『花の章』は生みの親のマーラーによって拾い上げられて最初の交響曲の中に入れられたものの、継子扱いされて居心地が悪かったのか、再び飛び出しでしまったということになります。では、何故マーラーは『花の章』を交響曲から削除したのか考察してみます。この交響曲は初演以来、演奏する度に必ずしも好評をもって迎えられていません。長いとか、うるさいとか、子供が歌う民謡が使われているとか、滑稽な描写があるとか、様々な非難があったされています。俗説では、『花の章』はこの「長い」ということで削除されたとなっているようですが、事はそんなに単純ではないようです。この『花の章』自体が完成されていないとマーラー自身が認識していたとか、最初期に書かれた作品を強引に別の作品に挿入したためバランスを欠くという説もあります。また、『巨人』という曲の標題を取り除いたのと同時に『花の章』も削除したことから、標題との関連性を唱える説もあります。


VII.『巨人』という題名

 この標題は、マーラーが若いころから好んでいたジャン・パウルの小説『巨人』(1803年)に由来します。ドイツロマン主義作家パウルのこの小説は、若いアルバーノ王子がイタリアで政治上の英雄的な冒険をしたあとで、もといたドイツの宮廷の心地よい牧歌的な生活に戻るという(韻文で書かれたかなり難解な文章です。なお、けっして「巨大な人」が登場するという話ではありません。)ものですが、そのストーリーとマーラーの交響曲とは関わりはないようです。

 しかし、この小説の冒頭でかなり長々と書かれている自然描写が、第1楽章の冒頭にマーラーがスコアに記した「自然の音のように」ということや、その楽章中のカッコーの描写音などに呼応していることから、マーラーはこの小説から多くのインスピレーションを得たとされているのです。さらに、この曲の第1部とその3つの楽章につけたタイトルもこの小説のイメージからつけられたと考えられています。厳密に言いますと『花の章』というタイトルはパウルの別の作品『ジーベンケンス』(1796年)から採られたということもわかっています。

 つまりこの曲の第1部には、パウルの作品に対して抱くマーラーの思いや憧れが深く投影されているだけに、『巨人』という標題や楽章のタイトルを消し去るということは、『花の章』そのものが存在する意味を失ったと言えるのです。では、何故マーラーは標題を外したのでしょうか。マーラー自身の言葉としては、こうした標題が誤解を招いたから、というのがあります。

 ゴヤが描いた下の絵も、よくこの曲のレコードのジャケットに使用されていましたが、ゴヤは手前に逃げ惑う人々を描きつつ、絶望的な表情で後ろの方に歩む巨人を配置するという象徴的な作品に仕上げています。これをマーラーの曲に結びつけるなんてとんでもないことです。

  ジャン・パウル(1763〜1825)     ゴヤ


VIII.標題音楽との決別

 ここで注目すべきは、『巨人』など曲や楽章につけていた標題をつけた状態でマーラーが最後にこの曲を演奏した(1894年)のがワイマールだったということです。何故、マーラーはワイマールで演奏したのでしょう。当時のワイマールこそ標題音楽の祖ともいうべきフランツ・リストの終焉の地であり、その聖地とされていたのでした。当時は、次の時代の標題音楽を担う旗手として、R.シュトラウスが既に交響詩『ドン・ファン』、『マクベス』を作曲し、その地で初演を果たし、『死と変容』も他の地で初演していたのです。

 そのシュトラウスにマーラーはこの曲、『〈巨人〉交響曲様式の音詩』のスコアを送り、演奏の許可を求めます。つまり、マーラーは標題音楽としてのこの曲をその権威に認めてもらいたかったのです。シュトラウスから演奏を許可されたマーラーは勇んでワイマールに乗り込みこの曲を指揮しました。

 しかし、結果は惨憺たるものでした。リストやシュトラウスの標題音楽に慣れ親しんだワイマールの批評家や聴衆にとって、マーラーの混乱した標題(ストーリー)といささか品格と知性に欠ける音楽には耐えられなかったのです。「浅薄で、陳腐で、過度に走った不愉快な作品。なかんずく憤怒と軽蔑を引き起こしたのは『カロ風の画による葬送行進曲』」という記録が残っていて、その演奏会に居合わせた後のマーラー信奉者ブルーノ・ワルターも批評家達が一斉に非難したことを証言しています。このことこそ、マーラーをしてシュトラウスの向こうを張って標題のついた音楽を書くことを断念させたと考えるのは容易なことではないでしょうか。


IX.交響曲第1番の誕生

 こうして、憎きワイマールの楽派を無視すべく『巨人』やその他の標題を取っ払い、たぶんマーラーにとって中途半端に思われていた楽章で、『ゼッキンゲンのラッパ手』の一部として書かれ、パウルの小説からの影響の色濃い『花の章』という楽章を削除することで、より純器楽的な作品にしたかったのだと思われます。しかし、この作品への愛着なのか、カッセル時代に思いを寄せた女性(ヨハンナ・リヒターか)への思い出があったのか、マーラーは破棄することなく5楽章版の中に入れたままある女性に贈ったのは前述の通りです。


付録

 最後に5楽章版の第2部における表題について簡単に触れます。『難破! カロ風の葬送行進曲』での「カロ風」とは、E.T.A.ホフマンが書いた『黄金の壷』の序文にある「大人のためのカロ風幻想童話」という表現を意識したものと考えられます。さすが、文学青年だったマーラーらしいところです。その「カロ」とは、フランスの版画家ジャック・カロ(1592-1635年)のことで、カロが書いた『聖アントワーヌの誘惑』(キリスト教修道主義の創始者アントワーヌの物語『聖アントワーヌの生涯』の中の一部で、砂漠で隠者として暮らすアントワーヌが美女や悪魔に戯画化された欲望と戦いの場面を版画にしたもの)という作品と関わりがあるとされています。なんともグロテスクな作品です。
『聖アントワーヌの誘惑』の全体  『聖アントワーヌの誘惑』の部分拡大  


 さらに「葬送行進曲」とは、モーリッツ・フォン・シュヴァントのエッチング『狩人の葬列』を音にしたとされています。なお、このエッチングはワイマールでの演奏会でその時のプログラムに掲載されたと言われています。「自分が殺そうとした動物たちによって葬られる狩人」というアイロニーを主題にした作品です。マーラーはこの演奏の雰囲気を「時にはアイロニカルで陽気であるが、時として陰鬱で薄気味悪い」と語ったとされています。
  


 コントラバスによって物悲しく弾かれるこの楽章(4楽章版では第3楽章)の冒頭の旋律は、民謡の引用であることで初演以来非難が絶えない箇所です。ブダペストの下宿でマーラーが毎日耳にした子供たちが歌う「マルティン君」という民謡を交響曲の中に入れるという当時としては奇抜なアイデアだったのですが・・・。

 余談ですが、アルマはマーラーの晩年、グロピウスという建築家と不倫関係にあり、マーラーの死後結婚して娘マノンを産みます。しかし、マノンが1歳にならないうちにヴェルフエルという作家と密通して男の子を産みます。しかしこの子は未熟児で1歳を待たずに死去します。この子の名前がなんとマルティンだったのです。アルマは果たして交響曲第1番におけるこの民謡の題名と自分の子供につけた名前との関係に気づいていたのでしょうか。真相は闇の中です。なお、マノンも17歳で脊髄小児麻痺により世を去ります(アルバン・ベルクがこの子を悼んでヴァイオリン協奏曲を書いたのは有名な話しです)。

  最後の楽章の標題、『地獄から天国へ』はダンテの神曲を連想させます。それにしても、何とも雑多な標題であることか。これではワイマールの人々でなくても何の曲なのかさっぱり理解できませんね。


X.歌曲『さすらう若人』との関わり
 交響曲第1番の第1、3楽章においてこの歌曲の旋律が使用されていることは広く知られており、その歌詞の内容を知ることはその楽章を演奏するときの大きな助けになると思われますので、ここで紹介します。この歌曲集は1883年12月頃に作曲が開始されたとされていますが、完成は1885年1月。この時点ではピアノ伴奏でしたが、オーケストレーションが1891年から93年にかけて行われ、その後も部分的に手が加わえられてようやく1896年3月16日にベルリン・フィルハーモニーで初演されました。

 では、交響曲第1番はどうだったかとおさらいすると、1884年に着手して、1889年11月20日に交響詩(第1稿)としてブダペストで初演、1893年10月27日にハンブルグで交響曲様式の音詩『巨人』として演奏、1896年3月16日に現行(「花の章」を削除して4楽章形式にし、さらに標題の『巨人』と各楽章のタイトルを削除)の交響曲としてベルリンで初演されました。

 ここでお気づきのように、この歌曲集は作曲されたのは交響曲より早かったのですが、オーケストレーションは同時に進行し、初演も同じ日に行われています。最終的に純粋器楽曲になった交響曲第1番は、最初は交響詩、音詩という標題音楽であったわけで、しかも歌詞のついた歌曲と同時進行で作曲され、旋律も共有しているということは、この交響曲を理解する大きな手がかりをこの『さすらう若人の歌』が与えてくれると言えます。さらに重要なのは、この歌曲の歌詞はマーラー自身が書いたということで、他の詩人を介さないマーラーの心情が直接反映されていることです。この4曲からなる歌曲集は、カッセル市立歌劇場の指揮者をしていたマーラーがヨハンナ・リヒターという劇場のソプラノ歌手に恋をして、あえなく失恋してしまった体験に基づいて書かれたとされます。この歌集は次の4曲からなり、アルトかバリトンで歌われます。

第1曲 「君がとつぐ日」
第2曲 「露しげき朝の野辺に」
第3曲 「灼熱せる短刀もて」
第4曲 「君が青きひとみ」

では、どこが共通しているか。まず、第2曲「露しげき朝の野辺に」の冒頭から、

今朝僕が野辺を行くと、草にはまだ露が宿り、陽気なウソドリが話しかけた
「おい君! おはよう! おい君! 世の中は素晴らしくなるだろう? チッチ! チッチ!
美しい世だ! 私はこの世が大好きだ!」

と、何とも幸福感に満ちた内容の詩が歌われ、さらに同様の内容が2回繰返されます。これが交響曲の第1楽章の序奏が終わった後のチェロによる第1主題(62小節)の旋律と一致します。つまり、交響曲における旋律を演奏する時にここの歌詞を思い浮かべて演奏すれば、マーラーの心情に近づくことができるということが言えます。例えば、94小節目のフルートによる2回の合いの手が歌詞では第3節の"Guten Tag! Guten Tag!"(今日は!)と調は違いますが完全に一致します。失恋の歌にしては不思議と明るい内容ですが、案の定、最後のくだりで、

さぁ、僕の幸運も始まるのだろうか?! 駄目だ! 駄目だ! 
僕は知っている、決して僕の花は咲きはしない!

と歌われ、曲を悲しく結びます。しかし、ここで着目すべきは「駄目だ!」からは全く交響曲では使用されていないのです。つまり、第1楽章には幸福な思いや情景だけが描かれ、悲しい話を締め出していると言えます。さらに、最後の歌詞「決して僕の花は咲きはしない!」が、当初存在した第2楽章「花の章」を最終的にカットしたことと何か関係があるように思えます(まさにこの歌曲を初演した日に初めて「花の章」が外されて演奏されたのです。これは筆者の私見です。)。

 次に、第4曲「君が青きひとみ」ですが、この歌はひたすら重苦しく悲しい内容で、激しい悲しみを歌った第3曲と同様「死」について語ります。この曲の中間部でティンパニとハープが4度の2つの音を歌の伴奏として奏しますが、調は異なるものの、これは交響曲第3楽章冒頭(葬送行進曲)のコントラバスのソロを伴奏するティンパニと完全に一致します(ここの一致については一般的に指摘されていません。)。なお、主旋律は全く異なるものです。ここの歌詞は以下の通りです。

僕は静かな夜に、暗い荒野を通って出て行った。
誰も僕に別れを告げてはくれなかった、「さようなら」と。(以下略)

 さて、この曲の終結部、ハープによる8分音符から3連符に変わっていく序奏(有名なマーラーの交響曲第5番のアダージェットを想起させます)に続いて、さすらう「僕」がついに「死」をもってようやく安住の地を見出すといった内容を歌います(終曲まで31小節間)。

道の傍らに1本の菩提樹が立っている、
そこにはじめて僕は身を横たえて眠った!
菩提樹の下に、その木が僕の上に花を雪と降らせた。
そうすると僕は生の苦しみを忘れ、すべては再び好きなものになった!

 この31小節間は、交響曲第3楽章の中間部、練習番号10の1小節前から練習番号13の1小節前まで(82から112小節)の31小節間と完全に一致します(調とオーケストレーションは異なりますが)。すなわち、ここでは歌詞の内容がそっくり交響曲にも当てはめられ、苦しみを忘れた安らぎの境地が表現されていることがわかります。なお、105小節のアウフタクトから4回繰返されるホルンの音型は、

すべては! すべては! 
愛や苦しみ! 
世や夢はすべては過ぎ去ってしまった! (以上、渡辺 護  訳)

の2行目からの" Lieb' und Leid !  Und Welt und Traum ! " というこの歌曲における最後の歌詞の伴奏をしています。もっと細かくいいますと、「4分音符のアウフタクトと次の小節の頭の2分音符」という音型を4回繰返しますが、2分音符のところでそれぞれ、「愛」「苦しみ」「世」「夢」に呼応しています。ただし、この歌の音符そのものは交響曲にはありません。

 これで、歌曲集『さすらう若人の歌』と交響曲第1番がいかに密接な関係にあるかがおわかりになるかと思います。単に、旋律を拝借している程度にとどまらず、同一の素材を共有することで同じ世界を表現すべく互いに補完しているとも言えます。マーラーは交響曲第2番『復活』で交響曲としては初めて女声を使用していますが、その練習をこの『さすらう若人の歌』と交響曲第1番で行なっていたのかもしれません。


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