リヒャルト・シュトラウス:『アルプス交響曲』

ガルミッシュ・パルテンキルヒェン

 リヒャルト・シュトラウスがこの『アルプス交響曲』に本格的に着手したのは1910年頃、既に最後の交響詩を世に送り出して17年、『家庭交響曲』で交響曲の作曲を再開して以来8年ぶりの取り組みになります。一方では、1905年から『サロメ』、『エレクトラ』と革新的なオペラを立て続けて発表し、1911年には一転して保守的なスタイルに転向、『ばらの騎士』を初演して世界各地で一大ブームを巻き起こしていた時期ということになります。いわば管弦楽からオペラに軸足をほぼ移行させ終わった頃に、突如、管弦楽作品の作曲を取り上げたのでした。結果的にこの曲が、シュトラウスの大規模な管弦楽作品としては最後の曲となります。


ハイムガルテン山
                    ハイムガルテン山

 シュトラウスが『アルプス交響曲』を着手するきっかけとされているのは、彼が14歳、15歳の時に、ドイツ・バイエルン州とオーストリア・チロル州の国境にある標高2,962m、ドイツの最高峰ツークシュピッツェZugspitzeに向けて登山をしたときの体験とされています。しかし、文献を見ると「ツークシュピッツェ登山を試みた」というのは明らかに間違いです。実際登ったのは、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの街を挟んで反対側、北東に位置するハイムガルテン山( Heimgarten, 1790m)だったようです。

 この曲と少年シュトラウスの冒険を結びつける証拠は現存する友人宛の手紙なのですが、そこには肝心な山の名前を記されていません。しかし、その手紙には「夜中の2時に出発して・・・5時間歩いて頂上に着いた・・・そこからの眺めは素晴らしく、シュタッフェル湖、リーク湖、アンマー湖、ヴュルム湖、コッヘル湖、ヴァルヒェン湖、・・・ツークシュピッツェを見渡せた・・・」と、登った山はこれらの湖や山を眺望でき、少年でも登れる山ということから、現在もハイキング登山で人気のあるハイムガルテン山と研究者は推定しているのだと思います。


ハイムガルテン山からの眺望   ハイムガルテン山からの眺望
          

 なおその手紙の中では、シュトラウスの記述は登頂についてはわずか1行で済ましていますが、下山で遭遇した嵐についてことこまかに報告しています。また、この体験を基に、「ワーグナー風の取るに足らない」ピアノ曲を即興で書いたとも記してします。この少年時代の思い出とそのとき果たせなかった音によるアルプス冒険譚を、シュトラウスは20数年後に、自ら鍛え上げ磨きをかけた作曲法を駆使して、116人もの奏者を必要とする大オーケストラの壮大な音の大伽藍で描くことを成し遂げたのでした。しかし、この曲を語る際、「アルプス登山」以外にもう2つの点について触れる必要があリます。それは、ニーチェとマーラーです。

グスタフ・マーラー(1906年)   リヒャルト・シュトラウス   ニーチェ
       マーラー      R.シュトラウス       ニーチェ                

 この曲に着手した年から10年前の1900年、シュトラウスは両親への手紙で、「もう1曲、交響詩の作曲を考えていて、それはスイスの日の出から始まる」と書いています。1902年には全曲のアウトラインを記し、4つの部分に分かれた交響曲としています。

① 夜:日の出、登り、森(狩)、滝(アルプスの妖精)、花咲く牧場(羊飼い)、氷河、嵐、下山、休息
② 田舎の楽しみ:踊り、民衆の祭り、行進
③ 夢と幻影
④ 作品を通じての解放:芸術的創造、フーガ

 この構想は時間を経るにつれて変化していき、第1曲目だけが残り、残り3曲は放棄されていきます。ところで、この4曲目の「解放」とは何のことでしょう?


 着手してしばらくたった1911年5月、作曲家グスタフ・マーラーが死去します。このことはシュトラウスの心を大きく痛めることになります。彼の日記には、「長い闘病の末にマーラーが亡くなった。この懸命に戦い続け、理想を追い求め、そしてエネルギーに満ち溢れた芸術家の死は計り知れないロスである。」と記しています。さらに続けて、「ユダヤ人であるマーラーはキリスト教世界において何かを高揚させることを見出すことができた。・・・キリスト教からの解放によってのみ、ドイツは行動のための新しいパワーを得ることができると私は思う。・・・私はこの『アルペンシンフォニー』を『アンチクリスト』と呼びたい。」

 また後年の記述に、「私はエジプトでニーチェの著作を読んだが、彼のキリスト教への攻撃には、まるで自分の気持ちを代弁しているような気がした。私は15歳以来、知らず知らずの間にこの宗教に対して嫌悪を抱くようになっていた・・・」とあり、この「アンチクリスト」という言い方は、ニーチェの著作『アンチクリスト - キリスト教への呪詛』から取っていることがわかります。

 「解放」とは、「キリスト教からの解放」と考えられ、つまり、少なくとも1902年の段階で「アンチクリスト」というテーマがシュトラウスの頭の中にあったということになります。この時は、「アルプス登山」は曲全体の四分の一でしかなく、計り知れない自然の力に無力な人間の姿か、キリスト教以外の何か大きく偉大な存在を暗示するために、アルプスの自然が選ばれたにすぎなかったのかもしれません。「自然」、「人間の営み」、「現実に存在しないもの」と描いた後に芸術至上主義を謳うという、シュトラウスがこれまでのいくつかの作品で示してきた自伝的かつ自己陶酔的なスタイルに落ち着くものだったのです。しかし、このアイデアは曲が完成に近づくにつれて「アルプス登山」にウエイトを置き始め、サブタイトルとして残っていた「アンチクリスト」という言葉もいつしか削除されてしまいました。その理由についてシュトラウスの口からは語られていません。

 それともうひとつのこと、亡くなったマーラーへのシュトラウスの気持ち、想いというものがこの曲に反映されているということです。はっきりと指摘でいる旋律や和音はありませんが、随所にマーラーの語法が見え隠れします。とりわけ、マーラーの交響曲第3番と4番の雰囲気があるとされ、マーラーがこの2曲のシンフォニーに最初につけた題名、3番=『夏の朝の夢』、4番=『大いなる自然への賛歌』といったことや、第3番でニーチェの『ツァラトゥストラ』の一節が歌われることから、キリスト教ではなく、自然に対して何かを求めるというテーマがシュトラウスの狙いと一致していたからに他ありません。アルプス交響曲では主に、終曲近くの「終末」あたりがマーラーの影響を色濃く反映しています。

 こうしたことを経て曲は順調に完成に近づき、1914年11月にオーケストレーションを開始し、1915年2月に完成します。折しも、第一次世界大戦が始まって2年目の年でした。戦争当事国の様々な事柄がこの曲に全く反映されていないというのも興味深いところです。


 1915年10月28日、ベルリンのフィルハーモニーにおいてリヒャルト・シュトラウス自身の指揮、ドレスデン宮廷楽団の演奏によって初演されました。歌劇『ばらの騎士』の初演を行なったドレスデン宮廷歌劇場のオーケストラをことのほか信頼していたシュトラウスでしたが、残念なことにオーケストラに負けないオルガンがドレスデンになかったためで、コンサートオルガンがあったベルリンが初演の場所として選ばれました。当時、『ばらの騎士』を観るために、ベルリンから「ばらの騎士列車」がドレスデンまで走ったことは有名な話ですが、今回はその逆になったわけです。その初演に立ち会った聴衆の中には、著名な音楽家やヨーロッパ中の指揮者が含まれていたと記録されています。初演は大成功で、盛大な拍手で迎えられましたが、批評家の間では賛否両論がありました。いくつか例を紹介しましょう。

 オーガスト・スパナス( August Spanuth:ピアニスト、教授、リストのピアノ曲の編纂者として有名)は、作曲技法の欠如を指摘し、「極めて華麗な技巧がありながら芸術的な純潔さに欠ける」、「拍手さえもシュトラウスによってオーケストレーションされていた」とこき下ろしています。一方、音楽評論家オスカー・ビー( Oscar Bie )は、「音楽面でも技術面でも両者は完璧にブレンドされている。この作品は極めて成熟し・・・禁欲主義者のように厳格で・・・よけいな贅肉をそぎ落とし・・・」と記しています。また、あるベルリンの批評家は、「シュトラウスの最新作は子供でも理解できる」と書いています。なかなかリヒャルト・シュトラウスの特徴の一面をよく捉えていますね。

 同じ年の12月と翌年1916年の2月、ウィーンフィルハーモニーでシュトラウス自身の指揮で演奏され、さらに同じ年に、オランダのアムステルダム・コンセルトヘボウでメンゲルベルクとシュトラウス自身の指揮で演奏されています。なお、ウィーンで開催されていた3つのオーケストラによる合同演奏会「モンスターコンサート」(ウィーンフィル、ウィーン交響楽団、フォルクスオーパーの3団体)では、1921年、1924年、1931年、1937年、1942年の5回に亘ってシュトラウスの指揮でこの曲が取り上げられています。

 では最後に、1916年10月26年、ニューヨークフィルハーモニーによるニューヨーク初演の際に、音楽評論家W.H.ハミストン( W. H. Humiston) によって分析された各シーンの解説を紹介します。なお【 】内に、他の曲との類似点や借用について筆者のコメントを付記しました。

    

1.夜 Nacht : 弦楽器、バスーン、クラリネット、ホルンによる「夜のテーマ」である下降音階で曲が開始されます。程なくしてミュート付きの弦楽器が変ロ短調のスケールが何重にも重なってそのすべての音が鳴っている和音の中をトロンボーンとチューバが「山のテーマ」を奏します。【ワーグナーの楽劇『ラインの黄金』の冒頭を想起させます。】

2.日の出 Sonnenaufgang (練習番号7):この後直ぐに「日の出」を迎え、ほとんどフルオーケストラで下降音階が奏されます。エドガー・スティルマン・ケリー( Edgar Stillman Kelley 米国の作曲家、指揮者、教師、評論家 )はこの様子を「最初に山頂が太陽の光に照らされ、その後、光はどんどん深く広がり、最後には谷までが光で満たされる」と評しています。【「太陽のテーマ」と呼ばれます。チャイコフスキーの交響曲第6番『悲愴』第1楽章第2主題の副次主題との類似を指摘されることがよくありますが、仮にシュトラウスが意図的に借用したとしてもその真意は量りかねます。偶然かもしれません。】

3.登り道 Der Anstieg (練習番号12の7小節前):エネルギッシュな「登りのテーマ」は最初チェロとコントラバスで奏されます。作品全体の中で重要な部分となっています。【リヒャルト・シュトラウス研究家ノーマン・デル・マーは、ベートーヴェンの交響曲第5番の終楽章のコーダのテーマとの類似性を指摘しています。】

4.森に入って Eintritt in den Wald (練習番号21):狩りのホルン(舞台裏で吹かれる)が森へと誘います。【途中、弦楽四重奏によって演奏される箇所がありますが、この曲と同時期に筆を進めていた歌劇『ナクソス島のアリアドネ』に通じるものがあります。また、小鳥の囀りが描写されていますが、ベートーヴェンの田園交響曲やワーグナーの楽劇『ジークフリート』の「森のささやき」を誰もが連想するところです。】

5.小川に沿っての歩み Wanderung neben dem Bache :流れるような旋律は小川を表わします。


6.滝 Am Wasserfall (練習番号41の3小節前):滝にさしかかると金管楽器の「スコッチ・スナップ」の印象的なリズムが聴こえます(「スコットランド切分法」とも言われ、スコットランドの民謡によく見られる普通と逆になっている付点音符を用いたリズムのこと。)。急激な下降音階によるアルペッジョやグリッサンドとベル、トライアングルなどによって滝が描写され、最初はフォルティッシモで、終わりは極端なピアニッシモで演奏されます。【1917年の段階で既にこの箇所は、ポール・デュカスの1907年に初演された歌劇『アリアーヌと青ひげ』からの借用だろうと指摘されていました。たぶん第3幕の前奏曲の後、宝石が散らばった大広間で、青ひげに囚われていた女性たちが宝石をまとっているシーンの音楽と思われます。宝石がきらきら輝く様を弦楽器の細かい音符や打楽器で表現しています。余談ですが、フランス語の「アリアーヌ」はイタリア語では「アリアンナ」、ギルシャ語では「アリアドネ」で、シュトラウスの歌劇『ナクソス島のアリアドネ』にも登場します。】

7.幻影 Erscheinung (練習番号42):オーボエとクラリネットが幻影を浮かび上がらせます。弦楽器の細かい分散和音のきらめきは「滝」から続いています。【ここの音楽が静まりつつある中をホルンが3度、4度、5度と下降跳躍を繰り返します。「登りのテーマ」に次ぐこの曲で重要なテーマ。このテーマはマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(1866年初演)のと極めて類似していることから初演当時から話題になっていました。】

8.花咲く草原 Auf blumigen Wiesen (練習番号47):ここでは、チェロが再び「登り」のテーマを奏します。
  この交響曲は楽章によって分かれてはいませんが、第一部にあたる部分はここで終わります。W.H.ハミストンはこの後、第二部について言及していません。

9.山の牧場 Auf der Alm (練習番号51の3小節前):カウベルが鳴り、羊の鳴き声を模倣します。【カウベルを使用するのは、マーラーの交響曲第6番に先例があり、この曲の作曲中に亡くなったマーラーを追悼する意図があったのかもしれません。】

10.林で道に迷う Durch Dickicht und Gestrüpp auf Irrwegen (練習番号59):アルペンホルンを模した優しい主題をホルンが数回繰り返すうちに登山者は道に迷います。ここではフガート(フーガのスタイルの短いもの)となり、各楽器が絡み合います。次いで冒頭の「夜」で聴かれた「山のテーマ」が奏されます。


11.氷河 Auf dem Gletscher (練習番号68の3小節前):「滝のテーマ(スコッチ・スナップ)」の変形によって氷河の冷たい空気が暗示されます。再び「登りのテーマ」が力強く奏されると頂上への開けた道に出ます。

12.危険な瞬間 Gefahrvolle Augenblicke (練習番号72の4小節前):これはある種の間奏曲で、我々を頂上へと導きます。

ハイムガルテン山


13.頂上にて Auf dem Gipfel (練習番号77の6小節前):4本のトロンボーンが威厳に満ちた動機を吹き、雄大な景色を我々の目の前に繰り広げます。この交響曲の様々なテーマが装いを変えて繰り返されます。【ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』とよく似た音型で段階的に音階を上り詰めていきます。】

14.見えるもの Vision (練習番号88の4小節前):「眺望のテーマ」の変形(初めて出てくる呼び名ですが、「幻影」で出てくるホルンのテーマと考えられます。)

15.霧が立ちのぼる Nebel steigen auf (練習番号97):
16.太陽が次第に陰る Die Sonne verdüstert sich allmählich (練習番号98):W.H.ハミストンはこのあたりには触れていません。1916年の時点ではこうした呼び方はなかったのかもしれません。

17.哀歌 Elegie (練習番号100):オルガンが登場します。

18.嵐の前の静けさ Stille vor dem Sturm (練習番号103の5小節目):ここも触れていません。【雨粒を表わす管のスタカートや弦楽器のピチカートは、ロッシーニの歌劇『ウィリアム・テル』序曲での嵐のシーンでも出てきます。これは同じアルプスでもスイス側での出来事です。】

19.雷雨と嵐、下山 Gewitter und Sturm, Abstieg (練習番号110の3小節前):嵐となり、我々は下山を始めます。「登りのテーマ」を逆さまにしたものが「下山のテーマ」になるのはごく自然なことでしょう。【半音階進行で嵐を表現する手法は、先のロッシーニの他にワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』が有名です。】
shou.
20.日没 Sonnenuntergang (練習番号129):(次第に静まり)「山のテーマ」が奏されると、「日没と夜」となり、この交響曲は冒頭と同じかたち、変ロ短調の長い和音で曲を閉じます。W.H.ハミストンのこの記述からすると、当時は「日没」「終末」「夜」と分けていなかったと考えられます。

21.終末 Ausklang (練習番号134):【オルガンにより「太陽のテーマ」が奏され、その後、シュトラウスの歌劇『ばらの騎士』第3幕の有名な三重唱に良く似た進行を見せ、次いでワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』を連想させるように段階的に音階を上り詰め、頂点では、なんとワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』のテーマでクライマックスを築き上げます。】

22.夜 Nacht (練習番号144の7小節目):冒頭部の「夜」と同じかたちになり、「山のテーマ」、「登りのテーマ」が静かに奏されて静かに曲を閉じます。



参考文献:
1. Richard Strauss The Man and His Works by Henry T. Finck, Boston Little Brown and Company 1917
2. Strauss’s Musical Landscape by Leon Bostein
3. Richard Strauss A Critical Commentary On His Life and Works by Norman Del Mar
4. 『リヒャルト・シュトラウスの「実像」』 日本シュトラウス協会編 音楽之友社


     
   


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