第1章 成立と台本(付:E.T.A.ホフマン)

モーツァルト(1756-1791)      ロレンツォ・ダ・ポンテ(1749〜1838)
モーツァルト:歌劇『ドン・ジョヴァンニ』
ドン・ジョヴァンニは14世紀には実在したとされる人物で、スペインの伝説的な好色の若い貴族で、スペイン名ではドン・ファン・テノリオ。16世紀後半から17世紀前半にかけて、スペイン文学の興隆期に格好の素材となり、様々な文学作品に取り上げられてきました。以下に関係年表を掲げます。

『ドン・ジョヴァンニ』または『ドン・ファン』年表
1613年 ティルソ・デ・モリナ 『セヴィリアの色事師または石像の客』マドリッドで初演。最初の劇作品。
1654年 オノフリオ・ジルベルティ 『石像の曲。散文劇』ナポリで出版。
1655年 モリエール 喜劇『ドン・ファンまたは石像の客』パリで初演。
1712年 ル・テリエ オペラ・コミック『石像の客』パリで上演。最初のオペラ(仏語)。
1734年 バンビーニ作曲 『罰せられた放蕩者』最古のイタリア語のオペラ。
1736年 カルロ・ゴルドーニ 『ドン・ジョヴァンニ・テノーリオまたは放蕩者』ヴェネツィアで上演。
1756年 ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト誕生。
1761年 グルックのバレエ『ドン・ファン』ウィーンで上演。
1787年 2月5日ベルターティ台本、ガッツァニーガ作曲『ドン・ジョヴァンニ・テノーリオまたは石像の客』ヴェネツィア初演。
1787年 2月上旬、モーツァルトがプラハで新作オペラの依頼を受ける。
     10月29日モーツァルト歌劇『ドン・ジョヴァンニ』プラハで初演。


 1787年1月モーツァルトは、自作の歌劇『フィガロの結婚』がその前の年の12月から大当たりしているプラハへと旅に出ます。ウィーンで今ひとつ受けの良くないモーツァルトがプラハ・ノスティッツ劇場の支配人パスクヮーレ・ボンディーニの招きに応じたのでした。プラハでモーツァルトは『フィガロ』の上演に立会い、熱狂的に迎えられます。記念演奏会ではいわゆる『プラハ交響曲』K.504が初演されました。貴族や市民から思いがけない歓迎を受けたモーツァルトは、さらにボンディーニから100ドゥカーテンの報酬で新作オペラの委嘱を受けます。2月にはウィーンに戻ったモーツァルトは意欲的に新しいオペラの作曲に取り組みます。それが、『ドン・ジョヴァンニ』です。

 しかしこのプラハ行きには、実はもうひとつ理由があったとされています。それは、前の年の12月26日に作曲されたK.505のアリア『どうしてあなたを忘れよう、恐れずに、愛しい人よ』(この曲についてはこちらを参照)を捧げた歌手、ナンシー・ストーラスがイギリスに帰国したことに関係します。彼女とは作曲家と歌手以上の関係にあったモーツァルトは、一時期彼女を追いかけてイギリスに渡る決心をしたとされているのです。英語を勉強したり、父レオポルトに子守りを頼んだり手を尽くしましたが、当然ながら許される話ではありません。逆に父からはこっぴどく叱られてしまいます。失意のモーツァルトは気を晴らす必要に駆られてプラハに旅立ったのでした。もしモーツァルトがわがままを通してイギリスに渡ったら『ドン・ジョヴァンニ』は作曲されなかったかもしれません。

 さて、気持ちよくウィーンに戻ったモーツァルトは、『フィガロ』の台本作者ロレンツォ・ダ・ポンテに再度台本を依頼し、3月には台本の一部を受け取って作曲を開始します。5月には完成された台本を手にして夏頃には大部分の作曲をすませるというスピードぶりでした。なお、ダ・ポンテは、上記のベルターティの『ドン・ジョヴァンニ・テノーリオまたは石像の客』を元にしています。

 しかし、この年はモーツァルトに悲しい出来事が集中的に襲ってきた年でもありました。3月半ばには父レオポルトが病の床につき、5月にはやや回復したものの5月28日に67歳の生涯を閉じます。どんなに仲が悪くても音楽のことにおいては常に相談相手であった父親の不在はモーツァルトにとって親を亡くした悲しみ以上に極めて大きな痛手であったと言えます。さらにふたりの親友、医師のジーグムント・バリザーニと貴族のアウグスト・フォン・ハッツッフェルトを相次いで亡くし、モーツァルトの2歳になるかならないかの三男ヨーハン・トーマス・レオポルトも病気で亡くします。

 後年ダ・ポンテは、『ドン・ジョヴァンニ』を制作中、モーツァルトは「このオペラを徹頭徹尾、深刻なものにしようと堅く決心していた」と語っています。ダ・ポンテはコミックな息抜き場面を入れようモーツァルトに考えを変えるように説得したと述べていますが、その真偽のほどはわかっていません。この年のつらい経験がモーツァルトをして陰鬱な悲劇作品を書こうという気にさせたことは、序曲の冒頭を聞けば分からなくはありませんが、曲全体が悲しみに満ちているわけではなく、様々な登場人物に与えられた音楽にはモーツァルトの多彩で豊かな詩情が溢れていることを見ると、ダ・ポンテの証言が果たして本当であったか疑わしいという説もあります。

 なお、こうした悲しみの連続と新作オペラの作曲による多忙にもかかわらず、この時期モーツァルトは名作を次々と生み出していきます。また、この年の5月より少し前にボン生まれの少年ベートーヴェンの訪問を受けています。


5月    K.515 弦楽五重奏曲ハ長調
5月16日 K.516 弦楽五重奏曲ト短調
5月29日 K.521 4手のためのピアノ・ソナタ ト長調(父レオポルト死去の翌日!)
6月14日 K.522 音楽の冗談
6月    K.525 アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク ト長調
6月    K.526 ヴァイオリン・ソナタ イ長調
10月頃 K.527 歌劇『ドン・ジョヴァンニ』完成


初演後の『ドン・ジョヴァンニ』年表    1787年 10月29日 モーツァルト歌劇『ドン・ジョヴァンニ』プラハで初演。
1788年 5月7日 ブルク劇場でウィーン初演。この年15回上演。以後モーツァルト生前はニ度と演奏されず。
1789年 6月15日 ライプツィッヒ初演。
1789年 3月13日 マインツ初演。ドイツ語による最初の上演(『ドン・ジョヴァンニ』の原語はイタリア語)。
1789年 5月3日 フランクフルト・アム・マイン初演。
1789年 10月 ボン初演。この時、オーケストラに若きベートーヴェンが参加していたとされる。
1789年 10月27日 ハンブルク初演。
1791年 10月12日 ベルリン初演。
1805年 9月17日 フランス語訳初演。
1806年       モスクワ初演。
1811年 6月11日 ローマ初演。1812年ナポリ、1814年ミラノ初演。
1817年 4月12日 ロンドン初演(イタリア語)。
1817年 5月30日 英語訳コヴェントガーデン初演。

 E.T.A.ホフマン(1776〜1822)   『ホフマン物語』中のホフマン    オッフェンバック 
           E.T.A.ホフマン と オッフェンバック(右端)

E.T.A.ホフマンと『ドン・ジョヴァンニ』
 モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』について語る時、ドイツの作曲家、画家、作家として有名なエルネスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(1776〜1822)についてどうしても触れねばなりません。

 プロイセン、ケーニヒスブルクの法律家に生まれたホフマンは、学校で法律を学んだ後、1800年に現在のポーランド地方で法律顧問事務所を開きます。しかし、1806年ナポレオンの侵攻の後、音楽に興味を抱き、劇場監督、指揮者、作曲家、評論家として立ちます。この頃、エルネスト・テオドール・ウィルヘルム・ホフマンの洗礼名をモーツァルトにあやかって、エルネスト・テオドール・アマデウス・ホフマンと改めます。バンベルクやドレスデンで監督を務め、1つの交響曲、9つのオペラ、2つのミサ曲を含む数多くの曲を作曲しますが、自らの才能に限界を感じたホフマンは1814年に音楽界から去り、作家に転じます。ショート・ストーリーを得意とし、超自然現象を取り入れることで、人間が持つ邪悪な性格や人間の本性に潜む悲劇的でグロテスクな側面を炙り出す作品が多く書き、ロマン主義を代表する作家として名を残しました。音楽に関する著作も多く、ベートーヴェンの音楽からいち早くロマン主義のエッセンスを嗅ぎ取ったことでも知られています。

 1813年の作品『ドン・ジュアン』は、主人公がホテルに投宿すると、部屋がオペラハウスにつながっていて、たまたまモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』を観たというユニークなスタイルの小説でホフマン自らの音楽観を語っています。この著作こそ、このオペラへの史上最も影響力のあった解釈として知られています。この作品はライプツィッヒの音楽新聞に掲載された後、1814年に『カロ風幻想童話』(マーラーがこの作品集を読んで、最初の交響曲に副題をつけたのをご記憶でしょうか!)収録されました。ここでは、このオペラがドン・ジョヴァンニとドンナ・アンアの恋愛事件を中心に進行し、幕が開く前にドンナ・アンナはドン・ジョヴァンニによって操を奪われたという仮説からスタートします。「超人」ドン・ジョヴァンニの「肉体的炎」に魅せられ、誘惑され、そのために死ぬ運命にある悲劇のヒロイン、ドンナ・アンナと主人公との関係をロマン主義的に浄化していくところに主眼が置かれています。この解釈は、ワーグナーによって一層助長され、一時レヴィによってモーツァルトのスコアの原型に戻されますが、マーラーらによって再び継承され、1900年代初頭までの約一世紀の間支配的となりました。とりわけ、ドンナ・アンアの役をドラマティック・ソプラノが受け持つというしきたりができたのも、このホフマンの解釈によるものです。

 しかし、1920年代以降、こうしたロマン主義的な解釈を廃し、モーツァルトとダ・ポンテの最初の姿に戻す試みが次第に主流となっていきます。ドンナ・アンナの部屋で彼女とドン・ジョヴァンニの間に何があったかについてモーツァルトもダ・ポンテも直接何も語っていないのです。1930年に刊行されたオイレンブルクの校訂版の序文にアルフレート・アインシュタインが「E.T.A.ホフマンに始まる19世紀のあらゆるロマン派的、非ロマン派的な勝手な解釈から脱却し・・」と書かれ、これを機にこのオペラの解釈は大きく変わっていきます。

 なお、1881年に初演されたオッフェンバックの歌劇『ホフマン物語』はまさにホフマンその人を主人公にし、ホフマンが劇中で自分の3つの恋愛体験を語るというユニークな構成を持っています。しかもその3つの話は実際にホフマンが書いた著作に基づくばかりか、話を語っている間、舞台の隣の劇場でホフマンの恋人が歌劇『ドン・ジョヴァンニ』にプリマ・ドンナとして出演しているという筋書きになっているのです。3つの話が終わる頃ちょうどオペラもはねて彼女がやってきますが、飲んだくれたホフマンを見て別の男と共に去っていくという結末を迎えます。
 また、ドリーブのバレエ『コッペリア』、チャイコフスキーの『くるみ割り人形』、ヒンデミットの歌劇『カルディヤック』などはホフマンの著作を基に作曲されています。さらに、アンデルセンはホフマンから多くの影響を受けたと言われています。      
    

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