モーツァルト : コンサートアリア
<どうしてあなたを忘れよう>-<恐れずに、愛しい人よ>K.505

ナンシー・ストーラス      ナンシー・ストーラスの影絵

 この曲は歌劇『フィガロの結婚』が初演された年と同じの1786年12月26日に作曲されました。このオペラのスザンナ役を歌うなど当時ウィーンで活躍していたイギリスのソプラノ歌手ナンシー・ストーラスが帰国するにあたって開かれる告別演奏会(翌1787年2月23日)のために書かれた曲として知られています。ソプラノの独唱の他に華麗なピアノ・オブリガートが活躍するユニークな作品で、この告別演奏会ではモーツァルト自身がピアノを弾いて別れを惜しんだとされています。管弦楽をバックにピアノが歌と絡み合いながら美しさと格調を湛えつつ進行するこの作品には、ストーラスに対するモーツァルトの特別な思いが感じられますが、それがどの程度のものであったかは推測の域をでません(音楽学者アルフレート・アインシュタインは、ストーラスは「モーツァルトの妻コンスタンツェが嫉妬する権利を有していたであろう唯一の女性」としています。)。

 モーツァルトより9歳年下のストーラスはロンドンに生まれ(1765年)、早くも10歳で歌手デビューします。オペラ作曲家でありヴァイオリニストでもある兄と共にイタリアに渡って歌の教えを受けた後、フィレンツェ、ピザ、パルマ等各地で歌います。その後、16歳の若さでミラノ・スカラ座に登場、翌年にはウィーンにまで活動の場を広げるなどその早熟ぶりには驚かされます。このウィーンでモーツァルトと出会い、『フィガロの結婚』の初演でスザンナ役を歌うことになったのです。

 ストーラスは高音の輝きやアジリタの見事さで聴く人を驚かすタイプの歌手ではなく、卓越した演技力を活かしたアンサンブルの中で真の実力を発揮する典型的なブッファ歌手であったとされ、コケットで機転のきくスザンナはまさにピッタリの役でした。スカラ座デビューの翌年1783年に書かれたある人物の日記によると「ストーラスは天使のように歌った。彼女の美しい眼、白い首、美しい喉、瑞々しい口は魅力的な印象を与えた」とされています。しかし、一方1787年の『ウィーン点描』では彼女の高額なギャラは正当であるとしながらも「だが、顔つきは好まれているわけではない。背も低く、太っていて、体つきに何の魅力もなく、二つの大きな目にも表情が乏しい」と容姿に関して正反対に描かれています。ちなみに当時彼女は22歳、うら若き乙女にずいぶんひどいことを書いたものです。

 この曲を歌ってウィーンを後にしたストーラスは祖国イギリスに戻って主にロンドンで活動を続けます。1796年兄が死ぬとテノール歌手ジョン・ブラハムと共に再びヨーロッパ各地を演奏して回わり、1808年に引退、1817年にロンドンで亡くなります。1802年ブラハムの子を産みますが、不倫関係だったために結婚することはなく死の前年にブラハムと別れたとされます。ウィーンに滞在中の1784年ストーラスはイギリスのヴァイオリニスト、ジョン・アブラハム・フィッシャーと結婚しましたが乱暴に扱われたために、ヨーゼフU世が夫をウィーンから追放させたとされていますが、法的に婚姻関係は継続していたからです。歌手としての名声とは裏腹に私生活では恵まれなかったようです。

 一方、モーツァルトはウィーン滞在中のストーラス兄妹や他のイギリス人音楽家グループと親しく付き合っていたこともあり、彼女たちの帰国後もしきりとイギリス行きを望んでいたようですが実現はしませんでした。

 曲は「どうしてあなたを忘れられよう」のレチタティーヴォで始まり、主人公の感情のほとばしりを表わすようにアンダンティーノ、アレグロ・アッサイ、アレグロと短い間にめまぐるしくテンポが変化します。「恐れずに、愛しい人よ」と歌われるロンドでは独奏ピアノが加わり、ストーラスが得意としなかったコロラトゥーラの部分をピアノが代行する形を取って華やかさを添えています。歌の音域もやや低めに書かれていることも特徴的です。この曲がソプラノだけでなく、ベルガンサやバルトリといったメゾ・ソプラノによっても歌われるのはそのためです。反対に、例えば『魔笛』の夜の女王を得意とするエディタ・グルヴェローヴァ、スミ・ジョー、ナタリー・デッセイといったコロラトゥーラの名歌手たちはこの曲を歌うことはないようです。

 さて、この曲の歌詞の由来についての説明をするためにはもうひとつのオペラ『イドメネオ』について語らねばなりません。1781年ミュンヘンにて初演されたこのオペラはモーツァルトがオペラ作曲家として大きな一歩を踏み出した重要な作品とされています。しかし、モーツァルトが生きていた時もその後も長らく演奏されることはなく、現在でも必ずしも頻繁に演奏される曲ではありません。それなりの成功を収めたミュンヘンでの初演後、モーツァルトはこのオペラをウィーンで上演をしようと試みましたがなかなか叶いませんでした。1786年3月16日、ようやくウィーンの音楽愛好家アウエルスペルク侯爵の館で舞台上演ではない演奏会形式というかたちで実現することになったのです。しかし、スポンサーである侯爵家の要求(ないし事情)や演奏会形式におけるウィーンの慣習などに従うべく、いくつかの改編が行なわれました。例えば、初演時はイダマンテ役をカウンター・テナーが歌ったのですが、その役をテノールであるブリーニ男爵が歌うためにテノールの曲を新たに加えるなど、出演者の都合に大きく左右されつつ改作が行なわれました。さらに、ソプラノを歌うハッツフェルト伯爵夫人の義兄が優れたヴァイオリニストであったことからそのソロも加えなければならない事情もあり、第2幕の冒頭でバリトンが歌うアルバーチェのアリアを削除してテノールとヴァイオリン独奏が入るアリアを作曲し、そのための歌詞もオペラのストーリーに即して新たに与えられました(作詞者不詳)。このようにモーツァルトは貴族たちにたいへんな気配りをしていたわけです。なお、このアリアは現在、オペラからは切り離され、K.490のコンサート・アリアとして歌われています(テノールのための曲ですが、ソプラノでも歌われます。)。

 この曲は、イダマンテとその恋人イリアの会話の形をとっていますが、その男性役のイダマンテの歌詞だけを取り出して新たにソプラノ用として作曲したのが、このK.505のコンサート・アリアなのです。K.490とK.505とは形式も歌詞も同じ事から主旋律は異なるとはいえ類似している箇所が少なからずあります。では、何故この歌詞をモーツァルトは殊更に選んでストーレスに歌ってもらったのでしょう。そのためにはさらに『イドメネオ』のストーリーを説明する必要があります。

 このオペラの時代は古代ギリシャ。木馬で有名ないわゆるトロイア戦争の最中、ギリシャ側のクレータ島の王宮を舞台にしています。クレータ王イドメネオはトロイアに遠征中で、クレータには息子のイダマンテがひとりで残っています。そこには、アルゴス島から逃れてきた王女エレットラ(アガメムノンの娘。R.シュトラウスがオペラ『エレクトラ』で描いていますが、世界史上烈女として名高い。)がいてイダマンテに心を寄せています。しかし、さらに王宮には敵方トロイアの王女イリアが捕虜となっていて、彼女も密かにイダマンテを愛するようになっています(どこかで聞いたシチュエーションですね。そう、2000年に演奏したヴェルディのオペラ『アイーダ』と『ナブッコ』! アイーダはエジプトの敵国エチオピアの王女で捕らわれてエジプトの奴隷となっていますが、エジプトの将軍ラダメスと時ならぬ恋に落ちます。『ナブッコ』では、ヘブライの捕虜となっている敵国アッシリア王ナブッコの娘フェニーナがヘブライ王の甥イズマエーレを愛しついにユダヤに改宗します。共に恋敵がいて前者はアムネリス、後者はアビガイルレ、いずれも気の強い女性たちです。)。

 さて、クレータへの帰国の際、イドメネオの一行は嵐に遭遇します。その時イドメネオは、無事上陸できたら自分が最初に出会った者を生贄として海の神ネプチューンに捧げると誓います。しかし、この誓いによって九死に一生を得たイドメネオが最初に出会ったのがなんと我が息子のイダマンテ。十数年ぶりにやっと再会した自分の息子を海神の生贄に捧げなくてはならないのです。苦悩するイドメネオは親友のアルバーチェに相談すると、息子をどこか遠くに行かせることで神の怒りを静めてはと提案されます。王はそれを聞いて喜び、イダマンテをアルゴスの王女エレットラと共に彼女の母国に送ることにします。

 この直後のシーンで、先に述べたイダマンテとイリアのやりとりをモーツァルトは挿入します。イリアはイダマンテがエレットラを愛しているのではないかと思って彼をなじり、それに応えてイダマンテがレチタティーヴォとアリアを歌います。まさにこの時のイダマンテの「どうしてあなたを忘れられましょう、他の人と結ばれて生きていけとおっしゃるのですか?」という思いをモーツァルトはストーラスへのそれと重ねたと見ることができます。行ってしまうのはモーツァルトではなくストーラスですが、イダマンテの歌詞をストーラス自身に歌わせるというややこしい形を取ることでモーツァルトのストーラスへの気持ちを強く訴えてかけているように思えます。

 せっかくですので、オペラの続きを説明します。息子を遠くにやることでうまく切り抜けようとするイドメネオに対して海神は怒りを爆発させ、怪獣や疫病をクレータに送り出し人々を脅かします。急に天災が降りかかるのは誰か神に対して悪い行ないをしたのだと国民に責められたイドメネオはついに真相を皆に明かし、海神との誓いを実行に移すことを決心します。愛する息子の命を自らの手で絶とうとしたその時、イリアが身を投げ出してイダマンテを庇い、身代わりに自分の命を海神に捧げようとします。このイリアの行為に動かされた海神は怒りを静め、イドメネオ王の退位、イダマンテの即位とイリアの結婚を勧告します。ハッピーエンドで終わる(ひとりエレットラは絶望して退場)オペラではありますが、イドメネオの苦悩を描いたこの作品はオペラ・セリアの最高傑作とされています。しかも、その登場人物の多彩さと求められる技量の高さは並みのものではなく、優雅な歌が多いソプラノのイリア、ドラマティックなソプラノのエレットラ、恋に悩む若者であると同時に自制心と子供のような無心さを持つメゾ・ソプラノ(初演時はカウンター・テナー、ウィーンでの2回目の上演ではテノール)のイダマンテ、王としての威厳と父親としての愛情と苦悩を歌い時には感情を暴発させるテノールのイドメネオと、これだけの歌い手を一同にそろえるのはたいへんなことと言われています。

参考文献:  
『プリマドンナの歴史U』 水谷彰良著 東京書籍
『アマデウス モーツァルト点描』 
        H.クッファーバーグ著 横山一雄訳 音楽の友社

CDリスト

No.    独唱 ピアノ独奏 録音年
  指揮者 オーケストラ レーベル
1 ジェニー・トゥーレル(S) ミェチスワフ・ホルショフスキ 1951
    パブロ・カザルス ペルピニアン音楽祭o SONY CLASSICAL
2 エリザベート・シュヴァルツコップ(S) ゲザ・アンダ 1955 5 9
    オットー・アッカーマン フィルハーモニアo TESTAMENT
3 テレサ・ベルガンサ(Ms) ジェフリー・パーソンズ 1962 12
    ジョン・プリッチャード ロンドンso DECCA
4 エリザベート・シュヴァルツコップ(S) アルフレード・ブレンデル 1968 9
    ジョージ・セル ロンドンso EMI
5 シルヴィア・シャシュ(S)   アンドラーシュ・シフ 1975 12
    エルヴィン・ルカーチ ハンガリー国立歌劇場o Hungaroton
6 エディット・マティス(S)   レオポルド・ハーガー 1979
    レオポルド・ハーガー ザルツブルグ・モーツァルテウムo GRAMMOPHON
7 ジョーン・サザーランド(S) ダグラス・ギャムリー 1979
    リチャード・ボニング ナショナルpo DECCA
8 キリ・テ・カナワ(S)  内田光子 1987 6
    ジェフリー・テイト イギリスco PHILIPS
9 エマ・カークビー(S) ルービン(FortePiano) 1989
    クリストファー・ホグウッド エンシェントco L'OISEAU-LYRE
10 バーバラ・ヘンドリックス(S)   マリア・ジョアオ・ピリシュ 1990 7 4
    ミカ・アイヒェンホルツ ローザンヌco  EMI
11 鮫島有美子(S) ヘルムート・ドイチュ ドイチュ  1990
    エルネ・セバスティアン RIASシンフォニエッタ DENON
12  チチーリア・バルトリ(Ms)   アンドラーシュ・シフ  1990
    ジョルジー・フィッシャー ウィーンco DECCA
13 シルヴィア・マクネアー(S) アルフレード・ブレンデル 1985
    ネヴィル・マリナー アカデミーco PHILIPS
14 エレーヌ・シェーファー(S) マリア・ジョアオ・ピリシュ 1997 9
    クラウディオ・アバド ベルリンpo GRAMMOPHON
15 ヴェロニク・ジャンス(S) メルヴィン・タン(FortePiano) 1998
    イヴォール・ボルトン エイジ・オブ・エンライトゥンメント EMI
16  ユリアーネ バンゼ(S) ジルケ・アヴェンハウス 1999
    クリストフ・ポッペン ミュンヘンco TUDOR
17 モイツァ・エルトマン (S) エレーヌ・グリモー 2011.7
    バイエルン放送 so Universal



2001年1月現在

     
    

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