ドヴォルザーク : スターバト・マーテル

ベッリーニ「悲しみの聖母」 ベッリーニ「悲しみの聖母」 ベッリーニ「悲しみの聖母」 ミケランジェロ「サンピエトロのピエタ(1500)」
1.『スターバト・マーテル』の宗教的歴史的背景
 『スターバト・マーテル』とは、十字架にかけられたイエスの足元で聖母マリアが我が子の死を嘆く様を描いた続唱のことです。実際に、このシーンが最初に描かれたのは『ヨハネ福音書』第19章25節(何故か他の福音書『マタイ』『ルカ』『マルコ』どれにも記述はありません。)で、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とのみ記されていて、「悲しい」という表現はありませんでした。ところが、12世紀頃から中世ヨーロッパでは「悲しみの聖母」をテーマとする文学・絵画・彫刻・礼拝が数多く生み出されるようになりました。上に掲げたミケランジェロ(1475-1564)の「サンピエトロのピエタ(悲しみの聖母)」は1500年に完成された傑作で、ミケランジェロは生涯に全部で4つのピエタ像を手がけています。 また、ジョヴァンニ・ベッリーニ(1433-1515)は数多くのピエタを題材とする宗教画を遺したことで有名です。このように、この時代夥しい数の「悲しみの聖母」崇拝像がヨーロッパ中で作成され、各地で「聖母の嘆き」を題材とする演劇(中世劇、聖史サイクル劇、等)が上演されたり、民間信仰と結びついて宗教団体が生まれたりします。

 こうしたヨーロッパにおける「悲しみの聖母」に対する宗教的・芸術的フィーバーの中で生まれたのが『スターバト・マーテル』です。これはイタリアの宗教詩人でフランシスコ会修道士ヤコポ・ダ・トディ(1228頃〜1306、トディは町の名)の作と伝えられていますが、ボナヴェント・ウーラ(1221〜1274)又は他のフランシスコ修道士という説もあります。詩は、マリアの悲しみと苦しみをともにすることを通して神の恩寵が得られるように祈るという内容になっています。『スターバト・マーテル』は「聖金曜日」や「聖母の七つの御悲しみの日」、「悲しみの聖母の日」などのミサにおいて続唱(sequentiaセクエンツィア)として用いられました。続唱というのは、もともとは音を続ける(sequor)歌い方で、特に「アレルヤ唱」の中で母音を長く続けてうたう歌唱法のことを指します。10世紀頃から母音で長く伸ばすところに散文詩がつけられるようになり、その詩も徐々にリズムや押韻の整ったものが現われてきました。このトディ作とされる『スターバト・マーテル』は3行ごとに韻を踏み、さらに6行ごとに大きく韻を踏む形になっていて、3行ずつで数えるとちょうど20節まで数えることになります(各節が8-8-7音節の3行詩)。

  宗教改革が始まるとトリエント公会議(1545−1563)で4つの続唱のみを公認し、あとは公認しない、と決定が下されてこの『スターバト・マーテル』は他の幾つかの続唱と共に公認から漏れましてしまいましたが、150年以上のちの1727年にミサ典礼書に正式に採用されました。


註)
「復活祭」=「春分の日以後の満月の次の日曜日」
但し、この春分の日はAD325年のニケーアの公会議で定められたもので現在のものとは異なります。
「聖金曜日」=復活祭の2日前の金曜。
「棕櫚の主日(枝の日)」=復活祭の7日前の金曜。イエスが受難を前にイェルサレムに入ったことを記念する日でイエスが通る道に棕櫚(しゅろ)の枝を撒いた。
「聖母の七つの御悲しみの日」=「棕櫚の主日」の前の金曜。
「悲しみの聖母の日」=9月15日。15世紀にドイツのケルンではじめてこの祝日が生まれ広まった。教皇ピオ7世は、自分がナポレオンによって追放され、逮捕された時、最後に聖母マリアの取次ぎによって解放されたことを記念するため、1817年に全教会に普及させた。

★今年《2004年》では、復活祭が4月11日、聖金曜日が4月7日、棕櫚の主日が4月4日、「聖母の七つの御悲しみの日」は4月2日となります。

参考文献:
『聖母マリア』ヤロスラス・ペリヤン(関口篤 訳)青土社
『聖母マリアの謎』石井美樹子 白水社
ヤコポ・ダ・トディ イェルサレム通りにある巡礼者のための「十字架への道」 ドヴォルザーク
2.『スターバト・マーテル』の音楽
 こうして生まれた『スターバト・マーテル』は教会で詠まれるために、音楽がつけられるのは自然のなりゆきで、記録に残っているものだけでも近現代に至るまで400人以上の作曲家によって継続的に作曲され続けています。現在譜面が残っていてCDに録音されている最も古い曲は1490年イギリスの作曲家John BrowneとRichard Davyの2曲、最新の曲は2002年アメリカの作曲家Thomas Oboe Leeによるものです。この間、140人もの作曲家による『スターバト・マーテル』が録音されています。国籍も多岐にわたり、ヨーロッパはもとより、ブラジル、米国、日本(佐藤聡明)、カメルーン、カナダにまで及んでいます。なお、史上最も演奏時間の長いものはドヴォルザークの『スターバト・マーテル』です(約80分)。
(詳しくはhttp://www.stabatmater.dds.nl/)

 主だった作曲家は、中世・ルネサンス期ではジョスカン・デ・プレ、パレストリーナ、その後はヴィヴァルディ、ペルゴレージ、バッハ、ロッシーニ、ハイドン、シューベルト(2曲も書いています)、ロマン派以降ではリスト、ドヴォルジャーク、ヴェルディ、コダーイ、近現代になってプーランク、ペルトなどが挙げられます。

 なかでも、最も美しい曲として人気が高いのがペルゴレージ(1736)で、映画『アマデウス』でサリエリが少年時代を回顧する際に、父親の葬儀の場面での教会音楽にその終曲が演奏されていました。

 次いで演奏される機会が多いのは、ロッシーニ(1837)とドヴォルザーク(1877)。オペラ的で華麗なロッシーニに対して瞑想的で敬虔な信徒の悲しみと畏怖を静かに歌うドヴォルザークの対比は極めて興味深いところです。第2節の「嘆き、憂い、悲しめるその魂を剣が貫いた」という歌詞にロッシーニはテノールに対して最も有名な独唱曲を書きましたが、その最後をハイCの半音上のD♭のフェルマータで締めくくっています。一方、ドヴォルザークはそれを意識したのか同じくテノールの独唱だけにその歌詞を与えていますが(第1曲目176小節)、最高音はAまでです。

 なお、この歌詞は『ルカ福音書』第2章35節からの引用でもありますが、ドイツの文豪ゲーテはその名作『ファウスト』で悲しみに打ちひしがれるグレートヒェンが受苦聖母(マルテ・ドロロサ)の像の前に花を捧げ、「・・聖母様、お恵みをもってわたくしの苦しみにお顔をお向けくださいまし。あなたさまはお胸に剣を刺され、限りない苦しみをお受けになって、おん子イエスさまの死を見ていらっしゃいます(高橋義孝訳)。」と書いているように、『スターバト・マーテル』を作品に取り入れています。


3.ドヴォルザークと『スターバト・マーテル』
 ドヴォルザークは1841年、スメタナの交響詩でお馴染みのモルダウ(ヴルタヴァ)川の畔ネラホゼヴェス村の肉屋と居酒屋を営む家で生まれました。早くから楽才をあらわし、村祭りでは父が率いるバンドや教会などでヴァイオリンを弾いていました。しかし、ドヴォルザークの父は長男の彼に早く家業を継がせようと、肉屋の修行と当時肉屋の職人の技術証明に必要だったドイツ語の勉強のために、小学校を中退させて叔父が住むズロニツェという町に彼を行かせました。ところがそこのドイツ語教師リーマンは優れた音楽家でもあり、ドイツ語だけでなく様々な楽器の演奏法と実用的な和声学など作曲家としての基礎を教え、さらにプラハでの勉強を勧めます。叔父から学費の援助を受けて1857年にプラハのオルガン学校に入学します。

 3年間そこで学び、学年2位という優秀な成績で卒業したドヴォルザークですが、実家の家業も思わしくなく苦しい生活を強いられます。彼はカレル・コムザークの楽団のヴィオラ奏者となって、プラハのホテルやレストランで演奏したり、日曜日には教会でヴィオラを弾いたりします。1862年にはプラハ国立劇場のメンバーにもなり(1866年からスメタナが指揮者となっています。)、さらには教会のオルガニストにも任命されます。こうして生活費を稼ぎながら、ドヴォルザークは独学で作曲をつづけたのです。この頃の作品にはベートーヴェンやシューベルトの影響が見られますが、1870年頃から次第にワーグナーの影響が目立ち始めます。なかなか作品を取り上げてもられず苦労していたドヴォルザークでしたが、ようやく1873年に賛歌『白山(ビーラー・ホラ)の後継者たち』が親友ペンドルの指揮で初演され、新進作曲家としてプラハの楽壇にその名を知られるようになります。この初演に参加したアルト歌手アンナ・チェルマコヴァと同年秋に結婚します。

 結婚後も相変わらず貧しい生活を強いられていたドヴォルザークは、当時の政府(ハプスブルグ家)が、貧乏な若い芸術家たちのために国家奨学金を出していることを知り、自分の作品をその審査委員会に提出したところ、その受賞者に選ばれたという報せが舞い込みます。この奨学金は年額400グルデン、当時彼の年収がせいぜい186グルデンにしかならなかったのですからかなりの額です。しかもその奨学金を3回(1874,1876,1877年)も受けることができたため生活の不安から解放されるようになりました。そのうえ、2年目から審査員となったブラームスはドヴォルザークの作品に注目し、楽譜の出版社であるベルリンのジムロックに彼を紹介するなど様々な援助を行ないました。

 ところが1875年9月、はじめての子、長女ヨゼファを生後2日で亡くすという不幸に見舞われます。作曲中だったピアノトリオ第2番を1876年1月に書き上げると直ぐに大規模な編成による『スターバト・マーテル』のスケッチを始めます(2月19日から5月7日)。かつて愛国的な作品で成功を収めた彼は、次の合唱作品として宗教曲の構想を持っていたとされています。しかし、他の仕事の締め切りに追われていたドヴォルザークはそのスケッチを棚に上げてしまいます(この時の「モラヴィア二重唱曲集」はブラームスから絶賛されます。)

 しかし、不幸は再びドヴォルザークを襲います。翌1877年8月、あと1ケ月で満1歳になる次女ルジェナが劇薬を誤って飲んで死に、9月には3歳の長男オタカールを天然痘で亡くしてしまいます。不幸に立て続き見舞われたドヴォルザークは、作曲中の「交響的変奏曲」を9月28日に仕上げるとすぐさま『スターバト・マーテル』のオーケストレーションに取り組み、11月13日に完成させます。もともと信仰心が厚かったドヴォルザークが愛児を喪った悲しみをしたためた作品は、彼が作曲した中で最も美しいものとなりました。全体的に民族的な要素は排除されています。テキストはオリジナルのラテン語で、現在出版されている「公教会祈祷文」と一部(第19節)異なる歌詞が使われています。

 初演は完成後3年ほどたった1880年12月23日、プラハの音楽芸術家協会の定期演奏会でアドルフ・チェフによって行なわれました。当時優れたソリストによって歌われましたが、合唱団は僅か40名、オーケストラは約30人という編成で、際立った成功ではなかったようです。次いで演奏されたのは1882年4月2日ブルノで、ドヴォルザークの友人でもあった若き作曲家ヤナーチェクが指揮をしました。国外で最初に演奏されたのは1882年5月にはブダペスト、1887年にはウィーンで演奏されますが、不運にもその日ウィーンでは反ボヘミア運動のデモ行進が行なわれて公演はパッとしませんでした。

 しかし1883年5月10日、イギリスのロンドン音楽協会がロイヤル・アルバート・ホールでこの曲を演奏するとオラトリオ愛好家の多いイギリスの聴衆は熱狂し、ボヘミアのオルガニスト兼音楽教師ドヴォルザークの名は一躍有名になります。ロンドンの楽譜出版社ノヴェロは直ちに作曲家をロンドンに招く交渉に入り、1884年3月13日、ドヴォルザークはロイヤル・アルバート・ホールの指揮台に立って、『スターバト・マーテル』を演奏しました。このホールの座席数は12,000席、合唱団は250人のソプラノ、160人のアルト、180人のテノール、250人のバスを擁し、オーケストラの弦楽器は92人だったという記録が残っています。この時の大成功は家族宛ての彼の手紙に書かれていますが、ドヴォルザークの名や作品だけでなく、チェコ文化を世界に知らしめることにもなったのです。まさにこの曲はドヴォルザークの世界的名声を高める出世作になったといえます。出版は1881年ベルリンのジムロック社からで、その際、作品番号が28から58に作曲者によって変更されました。英語テキスト版はロンドンのノヴェロ社から出版されました。

 この時以来ドヴォルザークはイギリスを9回訪問し、外国から来た作曲家としてはメンデルスゾーン以来のヒーローとなり、1884年にはロンドン・フィルハーモニー協会の名誉会員に(交響曲第7番はその協会からの委嘱作品)、1891年にはケンブリッジ大学から名誉博士号を贈られています。イギリス各地の合唱祭のためにカンタータ『幽霊の花嫁』(1885年ピルゼニ)、オラトリオ『聖ルドミラ』(1886年リーズ)、『レクィエム』(1891年バーミンガム)などが作曲されました。なお、2回目のイギリス訪問(1884年9月)でドヴォルザークはウースター音楽祭(ウースター大聖堂建立800年記念演奏会)に参加してこの曲を指揮していますが、そのオーケストラでは若きエルガーがヴァイオリンを弾いていたそうです(一説によれば、エルガーは『スターバト・マーテル』は客席で聴き、その1ケ月後に、ドヴォルザークが指揮した交響曲第6番の時に弾いたとされています。確かなことは、エルガーは『スターバト・マーテル』を体験してその感動綴った手紙を友人であるバック博士に送っていることです。「君にはドヴォルザークの曲を聴いてほしいのだ。ただただうっとりさせられる・・・響きに溢れ、手際がよく・・・私はどう表現したらいいのかわからないのだけど、とにかく聴くべきだ!」)。

 このようなイギリスでの成功はドヴォルザークの生活に余裕をもたらし、プラハ郊外に家を建て作曲に専念します。このあと、アメリカから招聘を受けることになりますが、そのくだりは『新世界交響曲』の解説をご参照ください。余談ですが、『スターバト・マーテル』を生み出す前に3人の子供を失ったドヴォルザークですが、その後3人の男子と2人の女子を授かり、結果的には子宝に恵まれた人生を送ったのでした。
1850年頃のロイヤル・アルバート・ホール ウースター大聖堂」 エルガー
続く


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