ドヴォルザーク : スターバト・マーテル II

4.曲について

 ドヴォルザークの『スターバト・マーテル』は10曲で構成されていて、明確な音楽的つながりを持っているのは第1曲目と終曲の第10曲目だけです。また、その終曲の一部がアレグロで書かれているだけで、他はすべて遅い速度で書かれています。随所でバロック音楽、とりわけヘンデルの影響を受けたと思われる箇所があり、この曲の着想段階でドヴォルザークが目指した音楽を垣間見ることができます。なお以下に掲げる歌詞の訳は、通常の教会での翻訳のように節ごとではなく、一行毎に逐語訳してあります。

註:平仮名の「らりるれろ」は《 R 》、カタカナは《 L 》です。なお、イタリア式の発音に従っています。これは三ヶ尻 正 氏の著作『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック』の表記方式を参考に筆者が作りました。また、日本語への翻訳は複数ある英語訳から筆者が行なったものです。


第1曲「四重唱と合唱」
 この曲の演奏時間は20分弱と全曲の4分の1も占め、5分も続く管弦楽だけの序奏に始まり、合唱、独唱のすべてを用いています。このときまでドヴォルザークが書いた作品でオペラを除くと最も長い曲です。冒頭から上へ上へとオクターヴの飛躍を重ねる嬰ヘの音が連続しますが、ドヴォルザークの研究家ショウレックは「十字架上で死に絶えた息子を見上げる聖母マリアの姿を描いている」と指摘しています。或いは、魂が昇天する様という見方もあります。やがて現われる下降する半音階は深い悲しみへ沈んでいくマリアの心情ともいえます。第1節から第4節を含み、全体はA-B-Aの3部形式となっています。第1節が提示部、第2、3、4節は中間部、再現部では再び第1節が現われ、コーダで第4節が回想されます。

第1節
Stabat mater dolorosa
スターバト マーテる ドロろーザ    母は悲しみに暮れて立ち続けていた。
juxta crucem lacrimosa
ユクスタ クるーチェム ラクりモーザ  涙にむせびながら十字架の脇に。
dum pendebat fillius.
ドゥム ぺンデーバット フィリゥス   わが息子がそれに磔にされている間。

 この歌詞は第1曲で最初に合唱が登場してからテノールの独唱の直前まで繰り返され、大きなクライマックスを築いて提示部を締めくくります。その後、第4節まで歌われると再現部(276小節)となり、再びこの歌詞が繰り返されます(286小節)。


第2節
Cujus animam gementem
クーユス アニマム ジェメンテム    泣き叫ぶ母の魂を、
contristatam et dolentem
コントりスタータム エト ドレンテム  悲しみ、苦しめる(魂を)、
pertransivit gladius.
ペるトらンスィヴィット グラディウス (その魂を)剣が貫き通した。

 テノール独唱でまず第1節を歌った直後にこの第2節が歌われます(176小節)。2回続けて繰り返されます。


第3節
O quam tristis et afflicta
オー クワム トりスティス エト アフリクタ  おお、なんと悲しいことか、(神の)親となり
fuit illa benedicta
フーイット イッラ ベネディクタ    祝福された(母)
mater unigeniti.
マーテる ウニッジェニティ       ひとり子の母として。

 ソプラノの独唱で歌われ(200小節)、次いで混声四部合唱で繰り返されます。1行毎にソプラノ独唱、合唱が交互に歌います。さらに第4節のバスの歌に重ねて、ソプラノ、アルト、テノール及び混声四部合唱によって繰り返されます(227小節)。


第4節
Quae maerebat et dolebat
クウェ メれーバト エト ドレーバット  悲しみ、苦しんだ彼女は、
pia mater, dum videbat
ピア マーテる ドゥム ヴィデーバット  愛に満ちた母、彼女は見ていた。
nati poenas incliti.
ナティ ペーナス インクリティ      わが子が受けた周知の贖罪を。

 バス独唱によってまず歌われます(220小節)。その後、歌詞は第3節に戻ります。その後再びこの歌詞に戻り(240小節)、全員で歌われます。再現部(286小節)では第1節と混ざるように歌われます。最後は3行目を全員で唱和し(367小節)、「poenas=苦痛=贖罪」を2回唱えて静かに曲を閉じます。


第2曲「四重唱」
第5節
Quis est homo, qui non fleret
クウィス エスト オモ クウィ ノン フレーれット 涙しない者はいるだろうか?
Matrem christi si videret
マートれム クりスティ スィ ヴィデーれット   キリストの母を見て、
In tanto supplicio?
イン タント スゥプリチオ        このように苦悩している(母を)。

第6節
Quis non posset contristari
クウィス ノン ポセット コントりスターり  悲しまずにいられる者はいるだろうか?
Christi matrem contemplari
クリスティ マトれム コンテンプラーり   キリストの母を見て、
Dolentem cum filio?
ドレンテム クム フィリオ         彼女の息子と共に苦しむ(母を)。

 この曲も4つの節を含み3部形式で書かれています。アルト、テノール、バス、ソプラノの順に第5節と6節が続けて歌われます。再現部(120小節)に入ると、第1節から3節まで通して歌われます。「涙しないものはいるか?」、「悲しまないものはいるか?」という質問のところでは堅苦しい雰囲気で、第7、8節の「責められるの見た」、「息絶えるの見た」という行為では痛ましさを対比するかのように表現しています。


第7節
Pro peccatis suae gentis
プろ ペッカーティス スーエ ジェンティス  彼の民の罪のために
Vidit Jesum in tormentis
ヴィディット イェーズム イン トるメンティス  彼女はイエスが責められるのを見た。
Et flagellis subditum.
エト フラッジェッリス スブディトゥム   そして鞭打たれる(のを見た)。

第8節
Vidit suum dulcem natum
ヴィディット スーウム ドゥルチェム ナートゥム  彼女は見た、愛しい子が
Moriendo desolatum
モりエンド デソラートゥム        見放されて息絶えんとするのを。
Dum emisit spiritum
ドゥム エミーズィット スピりトゥム    そのとき彼は自らの魂を解き放っていた。
 
 中間部(67小節)から第7節と第8節が続けて歌われます。コーダに入ると4人のソリストが低いホ音を繰り返して再度この歌詞を繰り返します(168小節)。その時オーケストラはティンパニが主導的な役割を果たしていますが、これはまさに息絶えようとするキリストの最後の鼓動を描写しているかのように聴こえます。


第3曲「合唱」
第9節
Eja, mater, fons amoris
エヤ マーテる フォンス アモーりス   さぁ、母よ、愛の泉よ、
Me sentire vim doloris
メ センティーれ ヴィム ドローりス   あなたの悲しみのほどを私に感じさせ、
Fac, ut tecum lugeam.
ファク ウト テクム ルーッジェアム   あなたと共に私が嘆けるようにしてください。

 第1主題は行進曲風で幅の広いドラマチックな音楽となっていますが、それを和らげるかのように美しく叙情的な第2主題が応えます。二つの旋律で同じ歌詞を歌います。この曲ではドヴォルザークのイタリア・オペラへの傾斜が顔をのぞかせます。オーケストラでヴィオラを弾いていたころから生涯ヴェルディへの賞賛を絶やさなかったとされています。


第4曲「バス独唱と合唱」
第10節
Fac, ut ardeat cor meum
ファク ウト アるデアト コーる メウム  私の心を燃えさせてください。
In amando Christum deum
イン アマンド クりストゥム デウム   神なるキリストへの愛の中に(燃えさえ)、
Ut sibi complaceam.
ウト スィビ コンプラーチェアム     神もし許し給えば。

 バスのアリアは、力強い演説調の部分と美しい木管を伴奏にして語りかけるような歌いの部分に分かれます。


第11節
Sancta mater istud agas
サンクタ マーテる イストゥド アガス   聖母よ、こうしてください。
Crucifixi fige plagas 
クるーチフィクスィ フィーッジェ プラーガス 十字架で釘打たれた傷を刻んでください。
Cordi meo varide.
コるディ メーオ ヴァリデ        私の心にしっかりと(刻みつけてください)。

 バスのアリアに続いて、間奏曲風のきわめて穏やかで優美な合唱がオルガンを伴奏に歌われます。オルガンの出番はここだけです。


第5曲「合唱」
第12節
Tui nati vulnerati
トゥイ ナーティ ヴルネらーティ     その苦痛を私にも分けてください。
Tam dignati pro me pati
タム ディンニャーティ プロ メ パーティ 傷ついた(あなたの)子の(苦痛を)
Poenas mecum divide.
ペーナス メークム ディヴィデ     (その子は)私ために苦難を受けることになった。

 田園風とも舞曲風ともいえる長閑な雰囲気で開始される曲で、バッハ風の対位法を使用するなど疑いなくバロック音楽の香りを漂わせます。「Poenas」(=Pain=苦痛)という歌詞を繰り返すところはアクセント付きのフォルテ(43小節)やフォルティッシモ(80小節)で、十字架上で釘打たれた傷の痛みを表わしています。


第6曲「テノール独唱と合唱」
第13節
Fac me vere tecum flere
ファク メ ヴェーれ テークム フレーれ  あなたと共に、私に真の涙を流させてください。
Crucifixo condolere
クるチフィクソ コンドレーれ      十字架に懸けられた(イエスの)苦しみを味わうために。
Donec ego vixero.
ドネク エゴ ヴィクセーろ        私の命ある限り。

 テノール独唱に男性合唱がエコーを返すのように静かに復唱します。このときのヴァイオリンは広い音域を流れるように美しく上下しなければなりません。最大の難所です。

第14節
Juxta crucem tecum stare
ユクスタ クるーチェム テークム スターれ  あなたと共に十字架のもとに立つことを、
Te libenter sociare
テ リベンテる ソチアーれ          喜んであなたと一緒に
In planctu desidero.
イン プランクトゥ デズィデーロ       嘆き悲しむことを、私は願う。

 この曲の題名でもある「十字架のもとに立つ」というくだりで、急に動きが生じドラマチックな音楽になります。

第7曲「合唱」
第15節
Virgo virginum praeclara
ヴィるゴ ヴィるジヌム プれクラーら  処女よ、処女たちの中で最も気高い処女よ、
Mihi jam non sis amara
ミキ イァム ノン スィス アマーら   私を退けることなく
Fac me tecum plangere.
ファク メ テクム プランジェーれ   あなたと共に、私に嘆かせてください。

 弦楽器による冒頭のクレシェンド・ディミニュエンドが処女を称える合唱を導きます。最初は単旋律的に歌われますが、徐々に対位法や半音階的手法を取り入れていきます。伴奏するオーケストラは軽く、しばしば無伴奏状態になります。最後の箇所でドヴォルザークは合唱に対して極めて高度な半音階手法を駆使した小節を挿入しています。

第8曲「ソプラノとテノール二重唱」
第16節
Fac, ut portem christi mortem
ファク ウト ポるテム クりスティ モるテム  私にキリストの死を負わせ、
Passionis fac consortem
パスィオーニス ファク コンソるテム      私に受難を共に受けさせ、
Et plagas recolere.
エト プラーガス れコレーれ          そしてその傷を再び負わせてください。
 
 全曲中最も短い曲で、ソプラノとテノールの二重唱にしては驚くほど控えめな作品になっています。「トリスタン的な」半音階を使用していると指摘する声もありますが、むしろ抒情性溢れる優しい旋律が印象的です。曲の大半はこの節をソプラノとテノールが交互にあるいは交差しながら歌います。

第17節
Fac me plagis vulnerari
ファク メ プラッジス ヴルネらーり   私に彼の傷を負わせ
Fac me Cruce inebriari
ファク メ クるーチェ イネブりーアリ  私を十字架(上の血)で酔わせてください。
Ob amorem Filii.
オブ アもーレム フィリイ       あなたの息子への愛で

 英語訳では「酔わせる」のは「血」ではなく「十字架」だけになっているものと、「十字架」と「あなたの息子の血」で、というものなどがあります。97小節目から終わりまで、ソプラノとテノールによって2回づつ歌われます。


第9曲「アルト独唱」
第18節
Inflammatus et accensus
インフランマートゥス エト アッチェンスゥス (地獄の)炎に焼かれないように
Per te, Virgo, sim defensus
ペる テ ヴィるゴ スィム デフェンスゥス    処女よ、私を守ってください。
In die judicii.
イン ディーエ ユディチイ           最後の審判の日に。

 確固とした足取りの行進曲風の曲です。処女による加護を求める厳かな姿を表わすとされています。低音の扱い、オクターヴのリズム音などヘンデルを思わせるところから、英国でもっとも受けがよく英国人のアルト歌手は好んでコンサートに取り上げました。


第19節
Fac me cruce custodiri
ファク メ クるーチェ クストディーり     私を十字架で守ってください。
Morte christi praemuniri
モるテ クりスティ プれムニーり        キリストの死で支えて(ください)、
Confoveri gratia.
コンフォヴェーリ グらーツィア        恩寵にあずからせて(ください)。


第10曲「四重唱と合唱」
第20節
Quando corpus morietur
クヮンド コるプス モりエトゥーる      私の肉体が死ぬとき、
Fac, ut anime donetur
ファク ウト アニメ ドネトゥーる       私の魂にお与えください、
Paradisi gloria.
パらディーズィ グローりア          天国の栄光を。

Amen アーメン アーメン。

 第1曲の素材を使用してロ短調で開始されます。中間部(70小節)で初めてアレグロの速いテンポになり執拗に「Amen」が繰り返されます。ここの二重フーガもヘンデルを想起させます。再度この節の冒頭に戻ると(155小節)、無伴奏の合唱で力強く歌われ、「Paradisi gloria」のところで属7の和音がト長調を経てからニ長調でクライマックスを築くと、『スターバト・マーテル』は至福の平和を湛えて静かに曲を閉じます。


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