バーバー:ヴァイオリン協奏曲

サミュエル・バーバー サミュエル・バーバー スポルディングの創業者 初演者アルバート・スポルディング

 サミュエル・バーバー(1910〜1981)はフィラデルフィアのカーチス音楽院出身アメリカの作曲家で、交響曲からオペラ、室内楽、協奏曲と幅の広いジャンルに多くの作品を残しました。作風はやや保守的でコープランドやバーンスタインのような華やかさはなく、当時流行した実験音楽にも背を向けて詩情溢れる抒情的な音楽を作りつづけました。バーバーの代表作『弦楽のためのアダージョ』は弦楽四重奏曲中の楽章のひとつをオーケストラに編曲したものですが、現代曲を毛嫌いしていた大指揮者トスカニーニによって初演されたという事実はバーバーの作風がいかに当時の作曲界にあって孤立したものであったかを物語っています。しかし、当時の前衛と言われた作曲家によって書かれた大半の曲が忘れられている中、バーバーの曲が今日でも名曲として演奏されつづけているのは皮肉な話です。

 さて、このヴァイオリン協奏曲ですが、作曲時は多くの困難があったもののアルバート・スポルディング(1888-1953)のヴァイオリン(あの有名なアメリカのスポーツ用品メーカー、「スポルディング」の創始者の御曹司。 1953年没。)、オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演され、絶賛をもって迎えられました。しかし、だからといってメンデルスゾーン、チャイコフスキーといったヴァイオリン協奏曲と肩を並べるほどの人気があったわけではなく、必ずしも多くのヴァイオリニストに取り上げられわけでもありませんでした。スターンとか現在では引退寸前の人達がだいぶ以前にレコード録音しているに留まり、ハイフェッツ、オイストラフ、コーガン、シェリング、ミルシュテイン、メニューインといった巨匠達のレパートリーには入っていなかったようです。

 この曲が注目され始めたのは1980年代の後半からといっていいと思います。初めて国内で発売されたCDは、1985年に出たボストン交響楽団のコンサートマスター、シルヴァースタインが演奏したもの。その後、アメリカの日系の美人ヴァイオリニスト、アン・アキコ・マイヤーズが初来日した時のデビュー盤として発売されたのが1988年。これを契機に若いヴァイオリニスト達が次々に録音をし、演奏会でも聴く機会が増えてきました。何故かマイヤーズを始めナージャ・サレルノ=ソネンバーグ、竹澤恭子、ヒラリー・ハーンと女性奏者の録音が多いのが特徴です。筆者の記憶では、日本で近年この曲が演奏されたのも、マイヤーズ、竹澤恭子、パメラ・フランクと女性陣が目立っています。また、15種類発売されているCDのうち10種はアメリカのオーケストラによるものです(2001年現在)。

 1939年の始め、バーバーはフィラデルフィアの実業家(石鹸製造業)サミュエル・フェルズによってヴァイオリン協奏曲の作曲を依頼されました。フェルズの養子であるロシア出身のヴァイオリスト、イゾ・ブリゼーリが演奏することになっていたのです。バーバーは夏の間スイスで作曲を行なっていましたが、ナチスによるポーランド侵攻で8月の終わりに帰国、出来上がっていた第1、2楽章をブリゼーリに送ったところ、「あまりに易しすぎ、華やかさが足りない」とされます。次いで書かれた第3楽章の一部を見せると、今度は「難しすぎる」と委嘱料の返還(半額を先払いしたらしい)を求められてしまいます。 既にスイス行きでお金を使ってしまっていたバーバーは大いに困りました。

 しかし、カーチス音楽院の創設者であったメアリー・カーチス・ボックが救いの手を差し伸べて試奏の場を提供します。演奏のわずか数時間前に初めて譜面を見た一人の学生ハーヴァート・バウメルがあっさり演奏することで、演奏可能な曲であることを証明されます(実際に演奏されたのは出来上がっていた終楽章の最初の94小節)。さらにその後、上述の通り初演も成功します。今世紀に書かれたヴァイオリン協奏曲としては、ストラヴィンスキー(1931年)、アルバン・ベルク(1935年)、バルトーク(1938年、第2番)、コルンゴルト(1946年)、バーンスタイン(1954年、曲名は『セレナード』)と並ぶ傑作として知られるようになりました。それにしても、1930年代だけをとってもこれだけのヴァイオリン協奏曲が生み出されているのにはあらたためで驚かされます。

  ところが、この曲の誕生秘話には異説があります。1995年に発行された雑誌『The Strad』に演奏を拒否したブリゼーリのリクアションについて、違った見解が述べられています。それによると、彼は第1、2楽章を見た時は「不満」だったのではなく、「興奮して賞賛」したのであり、第3楽章を「演奏不能」としたのは、芸術的見地からしたもので技術的なものではなかった、と書かれています。この曲の当時の批評に、終楽章とそれまでの楽章との間に見かけ上にも内容的にもギャップが大きすぎるというのがありました。たぶんそれに関連したことと思われますが、ブリゼーリは終楽章をもっと長くして「構造的な要素をもっと明確にしてほしい」とバーバーに頼んだところ拒否されたというのです。ブリゼーリは「難しい」とは一言も言わなかったのに、作曲には素人の若造から作品にケチをつけられたバーバーはそう受け取ったというわけです。実際のところ、カール・フレッシュにも学んだブリゼーリがこの程度の曲が弾けないとは考えられず、 1992年に書かれたバーバーの伝記でもブリゼーリが弾けないとは言わなかったとし、彼が優れたヴァイオリニストであったことが書かれています(ブリゼーリのニューヨークでのデビューはパガニーニとベートーヴェンの協奏曲だったとか)。

 曲は3つの楽章からなり、第1、2楽章はバーバーの初期のスタイルである美しく優しさに満ちた作品ですが、第3楽章はその伝記作家が言う「突如自制心を失ったかのような」激しく、不協和音のぶつかりあう世界となっています。スイスで書き始め、その年の秋パリで仕上げる予定だったのが(なんとも優雅で詩的だこと!)、戦火を逃れるためにやむなく帰国し、第3楽章をアメリカで書いたということが、それまでの楽章との間に大きなギャップを生み出したと言えます。当時の危機感を反映する扇動的な雰囲気、機械文明に押しつぶされるような(チャップリンの映画を思い起こすのは筆者だけかな・・)不安感が第3楽章にはあります。


 CD評もあります。どうぞご覧下さい。

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