ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』

第2章 ラジオ放送とバルトーク

 
           1940年代のラジオ

ラジオ放送 1940年代の家庭


 ショスタコーヴィチの交響曲第7番が作曲された時期が世界規模におけるラジオ放送の普及と重なっていたことは注目すべきことと考えられます。1920年にアメリカのピッツバーグで放送局が発足し、1926年、NBC(National Broadcasting Company)が創設され、全米でラジオ放送が聞かれるようになります。1930年にはアメリカの家庭の4割がラジオを所有しその数は約1,300万台、5年後の1935年には2,100万台、保有世帯率は67.3%に達していたとされています。英国でも同じく1920年に放送が開始され、その年にオペラ歌手ネリー・メルバのライブ音楽放送が三カ国語で欧州大陸へ向けて放送されたのが世界初の国際放送と言われています。その後、軍事的な理由で一時中止されましたが、1922年に再開され、英国放送会社(British Broadcasting Company、後にBritish Broadcasting Corporation)が設立、1939年までに908万台のラジオが普及していました(外国語放送は終戦時に45カ国語)。ちなみに、日本では戦時中のラジオの普及は戦時中約600万台でした。

 こうした背景の中、ショスタコーヴィチの交響曲第7番の放送が英国のBBC、米国のNBCで放送されたのですから、世界中で3,000万人近い人がこの曲を聴くチャンスがあったことになります。放送局設立当時「音楽を聴くためにピッツバーグのデパートでラジオを購入している」という米国の調査報告を見る限り、ラジオ放送で音楽を聴くということは今も昔も変わらずウエイトがあったと考えられます。クラシック音楽が流れるとプチッとスイッチを切る方もいたでしょう。しかし、仮にラジオ保留者の1パーセントがこの曲の放送を聴いたとしても30万人にもなります。まして、「敵国ナチス・ドイツによって包囲されているレニングラードで作曲された曲」と大々的に宣伝して放送したのですから音楽に興味のない多くの人も聴いたであろうと思われます。

 作曲家は誰しも自分の曲が演奏されることを望み、演奏される機会を得るためにたいへんな苦労をするものです。しかし、運よく演奏されても会場に1,000人前後集まれば御の字、しかも二度と演奏されないこともあったことでしょう。そんな中、わずか1、2回の演奏で30万人以上の人の耳に自分の作品が届けられたなんて、例えばマーラーがこのことを知ったら卒倒するかもしれません。ただ、この交響曲第7番が現在も人気のある曲であるかどうかはまた別の問題ですが・・・。


同業者たちの反応
 この時、ショスタコーヴィチの交響曲第7番のアメリカ初演を放送で聴いた作曲家の中には、アーノルド・シェーンベルク、イゴール・ストラヴィンスキー、ハンス・アイスラー、セルゲイ・ラフマニノフ、パウル・ヒンデミット、ベラ・バルトークらがいたとされています。このうち、シェーンベルクは「こういう作品を聴かされると、人は交響曲第77番まではまだ作曲されていないことに感謝するにちがいない」と文句を言い、ヒンデミットは汚れた空気をきれいにするかのように、自作のピアノ曲『ルードゥス・トナリス』のフーガの続きを書こうと机に向かい、ラフマニノフは放送を聴き終わると不快そうな顔をして「まあまあかね、それよりこれからお茶を飲みに行こう。」と言ったとされています。

 自分の作品すらめったに放送してもらえないのに、ソヴィエトの片隅にいるどこの馬の骨ともわからぬ若造(当時37歳)の作品が何度も放送されるのかというやっかみや嫉妬、羨望の念が込められていることとはいえ、長大でまた必ずしも耳に優しくないこの曲を最初に聴いたときの感想としては大きく外れたものではないとも言えます。

                バルトーク
                            ベラ・バルトーク
ベラ・バルトークの場合
 この放送を聴いたリアクションとして、バルトークの逸話が最も有名です。バルトークは、自作の『管弦楽のための協奏曲』の第4楽章でショスタコーヴィチの交響曲第7番第1楽章の主題を引用したということは、バルトークのこの作品を解説する文章には必ず触れられていることで誰もが知るところです。ハンガリーを逃れて米国にやってきても自分の作品の受けは悪く、経済的に苦しむ中で健康も害してしまったバルトークは、ソヴィエトの作曲家が書いた交響曲が全米のオーケストラが競って演奏し、ラジオでも放送されることに腹を立てて、パロディとして引用して揶揄したということまでもまことしやかに書かれています。バルトークって真面目そうで意外と了見の狭い心が貧しいヤツなんだ、と信じてしまった方も多いのではないでしょうか。

 バルトークはこの曲を1943年の8月15日から10月8日にかけて作曲したということをスコアに記入しています。指揮者のクーセヴィツキーは病院に入院中のバルトークを訪問して作曲の依頼をしたのは同じ年の5月。トスカニーニによるショスタコーヴィチの交響曲第7番の放送は前年の1942年7月19日ですから、この放送をバルトークが聴いた時はクーセヴィツキーから作曲の依頼がくることも、自分が『管弦楽のための協奏曲』を作曲することになるということは夢にも思っていなかったはずで、放送を聴いて1年も経過した後にその曲の旋律を引用しようと思うのでしょうか。それとも、1年もの間その陳腐なマーチのメロディーが耳について離れなかったのでしょうか。

             バルトーク_管弦楽のための協奏曲スコア
            
バルトーク:管弦楽のための協奏曲〜第4楽章

ショスタコーヴィチSym7
            ショスタコーヴィチ:交響曲第7番〜第1楽章

 ベンジャミン・サコフの著作『Béla Bartók: A Celebration』(2004年)に指揮者のアンタル・ドラティがバルトーク本人から作曲直後に聞いた話しとして、「あの大げさなショスタコーヴィチのレニングラード交響曲は良くない。自分が作曲中、突然レニングラードのことを思い、腹が立った。その怒りを協奏曲に入れ込み、あのロシアの曲を笑ったのだ。」と書かれています。これはドラティの著作『Bartokiana (Some Recollections)』(1981年)の記載に基づいていますが、これが交響曲第7番引用説の根拠になっているようです。

 しかし、同じサコフの著作の中にバルトークの息子ぺーテル(ペーター)が、トスカニーニが指揮しているショスタコーヴィチの交響曲第7番のラジオ放送を聴いて、「父はウィーンのキャバレー・ソングが何かの目的で何度も繰り返されるのに驚いていた」という証言も載っています。さらに息子の話しには続きがあって、「確かなことは、父はショスタコーヴィチの交響曲を引用したのではなく、キャバレー・ソングを引用したのだ。」とも書かれているのです。

 バルトークはドラティに「(『管弦楽のための協奏曲』の)「中断された間奏曲」は知っているか?」と訊いた時に、ドラティは「『メリー・ウィドウ』からの引用ですね。」と答えたところ、バルトークは「それ誰の?」と言ったとされています。このやりとりについてドラティは、バルトークは作曲家レハールのことは知っていて『メリー・ウィドウ』も聴いていたけれども、それほどその音楽に詳しくはなかったのではないかと書いています。
           レハール_マキシム

           レハール:『メリー・ウィドウ』〜「マキシムへ行こう」

 ここで、バルトークの息子、ペーテル・バルトークが書いた『父・バルトーク』の中の記述を引用しましょう。

 演奏会の模様はラジオで放送され、私たちは三人で聴くことにした。・・・中略・・・父がラジオの前に座って聞くのは、かなり珍しいことだった。・・・中略・・・長い曲目解説の後、交響曲は始まり、私たちは静かに座っていた。ところが、第1楽章の後半で父は落ち着かなくなった。「この主題はもう何回も繰り返した。数えてみようか。もうここまで6回は聴いたはずだ。」父は数え始め、変奏も入れると最終的に30回ほどになった。・・・中略・・・曲が終わってから、父はこう説明した。「主題をこれほど何回も繰り返すのは、どう見てもやりすぎた。しかもこんな主題を!」・・・中略・・・父はまだぼやいていて、これはパロディにできるかもしれないなどと冗談半分に言っていた。いたずら好きの私は味方して、「おもしろそうだね」とけしかけた。だが、父はもう一度考えて、「無理だな」とアイデアを引っ込めた。・・・中略・・・父の死後1年ほどして。私はようやく『管弦楽のための協奏曲』を聴く機会があった。第4楽章にさしかかった時、懐かしいものが聞こえてきた。ああ、ついにやってしまった!ジョークだった。・・・中略・・・父は自分だけのジョークを作って満足していた。そして誰にも話さず、一人で楽しんでいたのだ。この動機が、レハールの『メリー・ウィドウ』からの引用だと考えている方もいる。だが、確かによく似ているとはいえ、レハールの主題は第4楽章の「中断された間奏曲」の主題と同じではない。一方で、ショスタコーヴィチの主題はかなり似ている。状況的に見れば、ショスタコーヴィチの交響曲の一件があった後で、父がその時に注目したことを忘れて『メリー・ウィドウ』の主題を偶然ショスタコーヴィチとそっくりに変形して引用したというのは考えにくい。その考えには無理があり、私は1942年のラジオ放送が『管弦楽のための協奏曲』の主題のきっかけになったと確信している(『父・バルトーク〜息子による大作曲家の思い出』ペーテル・バルトーク著 村上康裕訳 スタイルノート社 2013年 p.224-228)。

 バルトークが聴いたラジオ放送は1942年7月、『管弦楽のための協奏曲』を作曲した期間は翌1943年の8月から10月、初演されたのが翌1944年12月、バルトークが亡くなったのが1945年9月ですから、それぞれ凡そ1年の間隔があります。ペーテル・バルトークは父親が1年間ショスタコーヴィチの主題を忘れずにいて、『管弦楽のための協奏曲』でそれを引用したと確信し、レハールの引用説を否定していることになります。
 
 
 バルトークの息子の話し、指揮者ドラティの話し、サコフの記述、どれが真実を語っているのか分からなくなってしまいます。なお、この『メリー・ウィドウ』の引用の箇所ですが、リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』の旋律とも似ていて、金子建志氏が唱える「少なくともショスタコーヴィチの遥か前にバルトークの頭に入っていたR.シュトラウス交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯』の引用」という説も俄かに真実性を帯びてくるのではないでしょうか(千葉フィルハーモニー管弦楽団 ホームページ 〜 バルトーク『管弦楽のための協奏曲』 の楽曲解説 金子建志)。

R.シュトラウス:『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』
       
R.シュトラウス:交響詩『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』


 この第1楽章ついては、第5章と第7章でさらに詳しくご紹介したいと思います。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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