3rd [1989.11~1994.09]


  • 方向性 やコンセプト面で、kamadouma?の中心であったリーダー本橋の音楽活動停止により、事実上の解散状態となったkamado-uma?。方向性がはっきりしていなかった佐々木は暇になった身体を持て余し、スキーなどの遊びに興じる。しかし音楽に興味が無くなった訳ではなく、再び始めるきっかけを探していたのだった。

     ほどなくして、佐々木は以前知り合っていた須田と電話で連絡を取り合う・・・徐々に次の活動の下準備が進めれらて行った。
  • 1990年春 佐々木と須田は佐々木の六畳間で頻繁にセッションを重ねる。曲は前kamadouma?時代のものであったが、moonの安藤まさひろモデルに酷似したストラトタイプのギター(長い・・・)を奏でる須田の、切れの良いカッティングと歌うようなソロはkamadoumaサウンドが確実に変わりつつある事を予見していた。もともとギターサウンドに特別な思い入れを持ち「次はギター中心のサウンドのものを演りたい」と切望していた佐々木は、今ここにあるサウンドに喜々とした。

    1990~1991 ichiro&suda session
    01.NOT FOR ME...KITAKU-BU (ichiro sasaki)
    02.EL'ORENCE (ichiro sasaki)
    03.SHORT CUT BOY (ichiro sasaki)
    04.THE 3RD MAN (ichiro sasaki)
    05.TIDAL WAVE (noriyasu motohashi)
    06.NAP OF MOSQUITO LARVA (ichiro sasaki)
  • だが 須田は「バンド」とゆう組織に組み込まれるのを殊更拒んでいた。常に自由な立場を好む男に、定住の足枷を付けることは困難に思われた。が、佐々木は「辞めたくなったらすぐに辞めていいし、好きなように弾いていいよ」と言葉巧みに持ちかけ(嘘つき)、ここに新しいkamadouma?が動き出すことになる。余談だが、この時期プロのバンドで「かまどうま」という「ひらがな」のバンドが存在する事を知る。バンド名を変えるか否か考える佐々木。
  • 1991年冬 またも南稜高等学校で試験的に演奏。実験的段階のため、ユニット名は「NICE BEAVER CLUB]。意味は映画[裸のガンを持つ男」を良く見ること。

    1991.12.13 Nice Beaver Club at nanryo high school
    01.DAY TORIPPER (j.lennon&p.maccartney)
    02.NAP OF MOSQUITO LARVA (ichiro sasaki)
    03.EL'ORENCE (ichiro sasaki)
    04."NISHI"SAHARA POINT (mamoru suda)
    05.RED RUM (ichiro sasaki)
    06.TIDAL WAVE (noriyasu motohshi)
    07.THE 3RD MAN (ichiro sasaki)
    08.NOT FOR ME...KITAKU-BU (ichiro sasaki)
    09.BEHIND THE MASK (ryuichi sakamoto)
    10.THE END OF ASIA (ryuichi sakamoto)
  • 1992年夏 リハを重ね、ライヴへの欲求が高まった二人は「都内のライヴハウス」「インストでも出れるところ」を条件に調査開始。すでにあの「バンド・ブーム」は一段落しており、どこの店もチケット料金はあがり演奏時間は減っていた。そんな中、四谷のライヴハウス・フォーバレーで良い感触を得た二人は「オーディション・ライヴ」と称するものに申し込むことに。バンド名を「kamado-uma?」に変更する。
  • 1992.09.02 at FourValley
     
    実に3年3カ月ぶりのライヴ。その音は以前と大きく違ったものであった。シーケンスシステムはMacintosh Classic IIでMOTU社Perfomerを使用し視覚的にもアピール。ギターの加入によりライヴ感は増し、サウンド全体に厚みを増していた。

     この夜、対バンしたグループに現メンバーの渡辺良和(わたなべよしかず)がいた。kamado-uma?の音が気になった彼は「ドラムを入れる予定はないのですか?」と佐々木に聞いたらしいが、佐々木は「ドラムとか入れると練習が面倒になる(練習の度に楽器を運ぶのが嫌だった)のでいらない」と明るく答えたらしい(須田談)。なんともつれない返事である。だが、渡辺とはこの後ひょんな所で再会することに。
  • 1992年秋 突然電話が掛かってくる。相手はSilverElephantの人。確かTAPEを持っていったのは夏前だったが、今になって聞いてもらえたらしい。丁度お店のスケジュールが空いていたのかブッキングの誘い。願ってもない話なので、出演させてもらう事に。この店はプログレ関係で有名であり、プロの方も多数出演する店とあって、佐々木上機嫌になる。
  • 1992.11.08 at Silver Elephant
     
    対バンがとにかくメチャウマ。プロとしてのレコーディング経験もあるバンドで、各メンバーのテクニックも華麗かつ確実なもの。曲も実に良く練られたもので、佐々木感心することしきり。われらkamado-uma?だが、演奏自体は安定したものであったのに、アンケートでは「二度と来るな!/27歳,会社員」とまで書かれる。厳しい批評に佐々木落胆。世の中そんなに甘くない。
  • 1992年冬 佐々木の高校時代の同級生で、須田の旧友であったギタリスト田村仁良(たむらよしふみ)を引き入れようとするが失敗。田村はアドリヴを取るタイプではなく、アンサンブルを重視するギタリスト。これを入れてバンドの強化を計ったが、当時既に古典音楽に傾倒していた田村に、kamado-uma?の音は魅力的な物ではなかった。田村は現在、リューティストとして活動中である。
  • 1993.07.23 at FourValley
     
    前年からほぼ1年ぶり。ギターのラックシステムが肥大化した頃。二人しかメンバーがいないのにラック数は合計で20Uを越えていた。
  • 1994年4月 「近くのライヴハウスで気軽に演奏もしてみたい。実験的な事もできそうだし」とゆう佐々木の発案で、地元のライヴハウスに。埼玉県の南浦和には、小さいけれど良心的な料金体系で営業しているお店があるので、こちらに申し込むことに。
     
     同じ頃、佐々木は昨夏にボーナスで手に入れたMacintosh PowerBook 160の中古にモデムを装着、パソコン通信のNIFTY-serveに入会する。そしてここでCASIOPEA & JIMSAKU PATIOなる個人主宰の場所に出会う。最初は友人と電子メールでのやりとりが主な目的でモデムを購入したのだが、次第に音楽仲間との交流や情報交換の場としても重要な手段となっていく。
  • 1994.06.03 at Potato Hause
     
    高校生などに混じって出演。まわりがビート系やビジュアル系のなか、kamado-uma?は異様な雰囲気であっただろう。場違いな所に迷い込んだ感は否めない。このあと佐々木はパソコン通信にはまりkamado-uma?はしばし休憩。
  • update~1997.07.09

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