縮刷版2024年4月上旬号


【4月10日】 ライブで見た「SANKYO presents ワルキューレ LIVE 2022 〜Walkure Reborn!〜」を今日はライブビューイングで見ることになっていたんだけれど、事前に抽選で当たっていたシアターがそれほど大きなスクリーンではない上に場所もそれなりに後方で、現地では遠目にしか見られないステージを間近で浴びるように見られるライブビューイングの醍醐味をあまり味わえないのが残念と思い、他のシアターを調べたら何とTOHOシネマズ新宿が最大規模のスクリーンで上映するみたい。おまけに席も余っていたのでそちらの最前列を改めて取ってしまう。

 もちろん既にとってある席は無駄になるけれど仕方が無い。せっかくの機会を逃すと後で後悔するのは目に見えているから。という訳で新宿へと行く方向が変わったので、せっかくだからと東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアムで9日から始まった「銀河鉄道999展」を観に行く。絵コンテとかが出ている訳でも原画が並んでいる訳でもなくパネルとそれから999号の普通車の席が再現されているだけの簡素なものではあったけれど、映画ではないテレビシリーズの上映が見られるならと行った次第。

 金田伊功さんのバリバリな作画によって劇場版の評価がやたらと高まっている感があったりするアニメーション版「銀河鉄道999」だけれど、いろいろな星を順繰りに尋ねていってはそこにある現代社会を風刺したりするようなエピソードを噛みしめていく原作漫画のエッセンスは、毎週放送のテレビシリーズにこそ受け継がれている。なおかつそうしたストーリーを西沢信孝監督がセンチメンタルに演出してみせたこともあって、母親との離別から宇宙へとあがって旅する少年のストーリーとしてしっかりと今に残っている。

 とはいえ決して毎週楽しみに見ていた訳ではなく、むしろ原作版の漫画で見知っていたところがあったので上映された「第16話 螢の街」も原作くらいの感嘆で終わるかなあと思ったら放送から45年くらいが他って世の中の機微って奴を散々っぱら見せつけられ、今なお味わっていることもあって身にズシンと響く。見てくれによる差別から起こる貧富の差。見てくれにあぐらをかいて傲慢に振る舞うけれども中身の空っぽな人間の虚しさ。そんな環境で見てくれに流されず自分の実力でのしあがろうと足掻く女性アニメーション監督の頑張りが、たとえ苦境にあっても諦めないで頑張る力を呼び起こしてくれる。

 その時代にアニメーションの女性演出家というものをどれだけ松本零士さんが意識していたかは分からないけれど、ようやく名前で見てもらえる女性演出家が増えて来た今に強く響くところがある。ホテルで鉄郎たちに接している時のフライヤさんと、自分のアパートで夢を語るフライヤさんの描かれ方演じ方の違いも面白かった。そんな元気で健気な人でも体の模様で差別されるなんて……。それは容姿なり示唆なり出自なりといったものいに置き換え可能な概念。それでスタートラインを下げられるなんてと憤っても現実に起こりえるそうした自体を、どうすればなくせるのかを改めて考えなくちゃいけないなあ。

 このエピソード、藤川桂介さんの脚本が余計にアニメーション制作の現場の思いを際立たせるところもあって良かった。それにしても松本零士の美女ぶりが際立っていたビジュアルのフライヤさん。それをよくキャラクターに起こして描いてくれた。そんなフライヤさんから絵コンテを見せられ漫画映画の演出家になりたいんですと夢を語られ、自分が描いた絵コンテを買って欲しいと頼まれて、それはアニメを作る時に大事なものだと分かった鉄郎はアニメファンだったのだろうか。普通の人ってアニメに絵コンテが在るなんて知らないし、アニメの演出家が監督を意味するなんて分からないだろうから。

 「SANKYO presents ワルキューレ LIVE 2022 〜Walkure Reborn!〜」の初日を幕張メッセで見たので今日はライブビューイング。チケットはTOHOシネマズ日比谷のを抑えてあったけど今日見たらTOHOシネマズ新宿がシアター9にサイズアップしたため席が余っててリクライニングの最前列が空いていたのでもったいなかったけどそちらに乗り換える。これでくるくると舞うワルキューレの面々がでっかいスクリーンで浴びるように見られると期待したら、そのとおりにスカート姿でくるくると回る安野さんとかJUNNAとかが見られて見れた。ああ良かった。ライブビューイング向けに正面のカメラを意識しているようにも見えて劇場ではずとっと最前列でいられたけれど、会場の向こう正面は2日目どんな感じだったんだろう。円盤にするのは1日目と2日目のどっちだろう?


【4月9日】 「月曜日のたわわ」いう、月曜日の憂鬱をたわわさでもって吹き飛ばそうという作品が伝えようとしているメッセージ性を無視するどころか前向きに捉え、月曜日の新聞に掲載して企業人に向けてたわわで憂鬱を吹き飛ばそうぜと訴えた文脈が批判の対象なんじゃないかという僕の想像を大きく超えて、ハフポストが記事に取り上げ性的な表現に触れたくない人の権利論争に話を広げてきた。これはちょっと違うんじゃないかなあ。というか表現の自由と規制の綱引きという論争にいたずらに火薬を投じる恐れもあったりする。

 女子高生を起用する広告なら最近でもポカリススエットがあったしそれが女性性への劣情を誘うことを意図したものとは限らない。にも関わらずいたずらに規制してはやっぱり表現の問題に関わってくるので、そこはコンテキストを検討する必要があるにも関わらず、まるで触れようとしてない記事の書き方は、何が問題なのかを分かってないのか分かっていてもここはすべての女性性を消費しようとする空気を糾弾しようとしているのか。いずれにしても厄介きわまりない。とはいえ主流は女子高生を宣伝に使うことすべての批判。ならば男子高校生もダメだし美男子美女はすべてダメになる。表現を取り上げるジャーナリズムはだからもうちょっと慎重に当たって欲しいけど、扇情が尊ばれるネットメディアでそれは無理? やれやれ。

 という訳で幕張メッセで「SANKYO presents ワルキューレ LIVE 2022 〜Walkure Reborn!〜」の初日を見る。「Walkure Reborn!」のコードからの応募でとれた席はOブロックの8でいったいどれだけ後ろかと思ったら、幕張メッセ−のHALL4.5.6をぶち抜いた中央にステージを着くって八方を見つつライブをする状況でも調整台とかメインカメラとかの方向を向いた「正面」が8番で、それのKLNOとステージ前から割り当てられたブロックのOだから遠目に並ぶワルキューレが真正面から肉眼で目視できるそれなりにグッドな席だった。

 ただ中央に設えられたステージの向こう正面にも段が設けられていてそこをメインに向こう正面を向いて歌う楽曲も幾つかあった上に、四方に花道をのばしてそこにメンバーが入れ替わりながら進んで歌う場面も結構あるから、そちら方面に割り当てられた人も決して見づらいということはない配慮がされていた。センターステージも結構な高さがあったから、メッセの平場で席から全員が立ち上がっても頭越しにちゃんとメンバーが見られた感じ。頭ばかりでストレスが溜まるということがなく2時間ちょっとのライブをしっかり楽しめた。

 その内容は基本的にはアルバム「Walkure Reborn!」からの楽曲で、映画「劇場版マクロスΔ 絶対LIVE!!!!!!」のストーリーをなぞるかのように楽曲が組まれていて映し出されるモニターの映像で流れるストーリーを改めて噛みしめていく感じがした。それだけに「ALIVE〜祈りの歌〜」が持つ意味も大きくてあのシーンが浮かんでじんわりとくることも。ある種映画を音楽劇として再現したようなライブだったとも言えそう。

 具体的な演出なんかは明日の楽日ががまだあるので詳細は書かないしライブビューイングで見る人もいるだろうからそれらをそれぞれに見て感じ取って戴きたい。言えることはJUNNAちゃんはやっぱりボーカリストとしてすばらしく、フレイア・リオン役の鈴木みのりさんもフレイアになりきってしっとりとして凜とした歌声を聴かせてくれる。カナメ・バッカニア役の安野希世乃さんは「AXIA〜ダイスキでダイキライ〜」が聴きたかったけれど今回は新譜からなので別の曲でリーダーらしさを発揮してくれたと言えそう。

 凄いのはマキナ・中島役の西田望見さんか。だって4月1日に出産したってエイプリルフールとしてではなく真っ当に報告をあげてから10日に満たないでステージに立っている。リハーサルだって練習だって相当にやりこんでいないとできないステージをいつ作ったのかが謎めくけれど、歌声はちゃんと愛らしいマキナ・中島でありました。東山奈央さんはワルキューレの中でもキャラクター性を出しているレイラ・プラウラーの役で歌いそれと聴かせるからやっぱり凄い声優さん。起用なだけにこれがヒロインにして代表作と推せる作品を挙げづらいのがずっと残念に思っている。何かやらせてあげたいな。

 終了後はブロックごとの規制退場で正面だった8番ブロックは結構後になったけれど外に出て海浜幕張駅まで歩けば幕張本郷行きへのバスにはすんなりと乗れてそのまま家に帰り着けた。こういう時に船橋市民は便利。劇場でもらったカードのシリアルコードを使って応募しておけば千秋楽のチケットも当てられたかもしれないけれど、1回見てとりあえず満足できたので明日は劇場でアップで見られるライブビューイングで楽しもう。


【4月8日】 フジテレビの「ノイタミナ」で放送が始まるアニメ「うる星やつら」のラムは上坂すみれさん、諸星あたるは神谷浩史さんがすでに発表になってピッタリ感を醸し出していたけれど、そんな主役を固めるメイン級の脇役で面堂終太郎に宮野真守さん、そしてしのぶに内田真礼さんが決まったと発表になって声も公表されてていた。島津冴子さんのしのぶは唯一無二の声質だからそのままではないけれども内田さんも優しげでかわいげがありながらしぶといところもある声を感じさせてくれていたから、これならしのぶと思ってもらえるだろう。

 もう少しだけ時代が前なら野上ゆかなさんだっただおろうけどちょっと、時代が10年遅すぎた。面堂の宮野さんはもう他にないくらいのはまり具合。その時代を代表する美声中の美声が当てるべきだといった観念が当時の神谷明さんから流れているなら他にないと再アニメ化の時に思っていただけに、当たったことが嬉しいしそうしたキャスティングを考えてくれたスタッフにもお礼が言いたいし、何よりしっかりと面堂を演じてくれている宮野さんに心からのお礼を言いたい。ありがとう。

 小野大輔さんとかいろいろ雰囲気は合わせられそうな気がするけれど、甘さがありつつ爆発した時の弾けっぷりでは宮野さんがバッチリなんだよなあ、「ゾンビランド・サガ」の巽孝太郎役を見ても、っていうか巽孝太郎自体が面堂終太郎的な雰囲気。いずれ再アニメ化されるなら自分がとチューニングを合わせていたのもしれないなあ。こうなってくると錯乱坊が誰って話になりそうだけれど、永井一郎さん亡き現在においてああいった役を出来るのは千葉繁さんがやっぱり挙がってくる。でも千葉さんは前の「うる星やつら」でメガネという主要キャラを演じて強く印象を残しただけにそちらもという声もあがりそう。

 とはいえ原作準拠でいくならメガネはメインたりえず白井コースケだけがあたるの男友達として残るとなると浮いてしまう千葉さんを錯乱坊という声もまんざらない訳ではなさそう。一方ではっちゃけた声となると「夏目友人帳」でニャンコ先生を演じている井上和彦さんも捨てがたい。あたるの神谷浩史さんと夏目&ニャンコ先生のコンビを復活なんてことになったら関心を持つ人も多そうだけれど、2人はまた「夏目友人帳」を続けてほしいからイメージが流れるキャスティングは遠慮してここは千葉さんでということで。サクラは血祭血比呂がそのまんまだったのでぱくろみさんしかいないだろうなあ。さてもどうなる。校長は西村知道さんで是非。

 池袋に行く用事があったので東池袋大勝軒でつけそばを1杯。午後の2時を過ぎると行列も途絶えてすぐに席について注文を受けてもらえる状態になっているのはありがたい。平日に出歩ける無職の特権とも言えるけれど。本店本家のつけそばは実は初めて。散々っぱら南池袋の店には出入りてそっちでつけそばは食べていても東池袋は混んでいることもあって出入りしていなかった。味はなるほど東池袋よりも甘みがない感じですっきり系。そばはちょっと茹で過ぎだったかもしれない。かみ応えという意味では青梅街道の方があったかな。ともあれ池袋の3店はのぞいたので次はどこをのぞこうか。

 東池袋に行った理由とも言える、サンシャインシティで始まったアニメ原画展「黒子のバスケ ANIMATION GALLERY 〜10年のキセキ〜」を見る。100人中で男子が2人くらいという構成比が作品の受けている範囲を彷彿とさせるけれど、原作自体はバスケットボールに熱をいれる高校生たちのストーリー。本当だたら「スラムダンク」的に男たちのファンがついても不思議じゃない内容の濃さも持っているけれど、現代という時代は男子が出てくると女子のファンが喜び讃える傾向がまず前に出て、男性のスポーツアニメファンを寄せ付けない雰囲気があるのかもしれない。「ハイキュー!!」もそうだしなあ。「テニスの王子様」はミュージカルという媒体を経て女性ファンが増えたことが分かるからちょっと別か。

 あて原画展あけれどもアニメの原画がここまで並べられる展覧会は珍しいかもと思えるくらいの物量で、登場人物たちのいい顔やいい仕草を選び取って並べている。シーンによっては原画を番号順に並べ動きが想像できるようにしてあるし、それらを繋いだ映像も流してパラパラ漫画的に動きを感じることもできる。アニメーター志望者が見れば動かし方や見せ方が感じ取れるかもしれない。でもその場面をアニメでどうなっているか確認したくても何話のどのカットなのかが分からないのだった。もちろん原画を誰が描いたかも。そこが惜しい惜しい押井守。


【4月7日】 テレビアニメの「おばけのQ太郎」とそして「新・おばけのQ太郎」を見た方が藤子不二雄との出会いとして先かもしれないけれど、漫画をがっつりと読んだのはたぶん「週刊少年チャンピオン」に連載の「魔太郎がくる!!」だったという記憶がある。従兄弟が毎週買って読んでいたのをその家に行ったときに読んでいたからで、手塚治虫さんの「ブラック・ジャック」とか吾妻ひでおさん「ふたりと五人」なんかも合わせて読んで漫画の面白さにずぶずぶと引き釣り混まれていったその中に、藤子不二雄作品があった。

 そう、当時は共通の「藤子不二雄」だったけれども後にコンビ解消となって「魔太郎がくる!!」や「ブラック商会変奇郎」なんかが藤子不二雄Aさんの手によるものだと明らかにされてなるほど「おばQ」だとか「ドラえもん」といったタッチとは違った荒々しさを持った作品群だったことに納得した。ただ「忍者ハットリくん」や「怪物くん」といった子供向けの作品も藤子不二雄Aさんのものだというあたりに、子供が熱中した藤子不二雄は決して藤子・F・不二雄さんばかりではなく藤子不二雄Aさんでもあったことが分かって嬉しかった。「ドラえもん」のヒットでそういうのは全部藤子・F・不二雄さんがになっていたかのように思われがちなだけに。

 「プロゴルファー猿」なんかもあって少年漫画でも活躍できる力を見せつつ「笑ウせえるすまん」のような「魔太郎がくる!!」を彷彿とさせるダークな世界が夜のワイドショーでアニメ化されて、大人からの支持もしっかりと得ていった1980年代末から1990年代は同時に藤子・F・不二雄さんも「ドラえもん」の映画が大人気となって決してロートルなんかじゃないところを示してくれた。そうした中で藤子・F・不二雄さんが泣くなってどれだけの落胆を覚えたことだろう。

 幸いにして「ドラえもん」はその後も世界を席巻し藤子・F・不二雄ミュージアムも出来て作品は今に伝えられている。一方で藤子不二雄Aさんも活動は続けていたけれど、最近はあまり消息を聞かなくなった中での死去。これをきかっけに改めて作品が振りかえられるのは良いけれど、残した原稿だとかがどうなってしまうのかが少し心配でならない。まさか藤子・F・不二雄ミュージアムでひきとるという訳にもいかないだろうしなあ。それともここでまとめてひきとって、再びの「藤子不二雄ミュージアム」となってくれるのか。館名はともかく精神としてそんな殿堂ができれば往時からのファンとしてちょっと嬉しい。改めてご冥福をお祈りします。

 莫迦でなければ阿呆だし、阿呆でもなければ戯けだろう。誰って朝日新聞記者の峯村健司氏のことで、安倍元総理から頼まれて週刊ダイヤモンドが安倍元総理に対して行ったインタビューのゲラを見せて確認をさせろ、自分は安倍元総理の顧問で全権を預けられていて自分がOKを出さなければ掲載は認められないと言ったとか仄めかしたとかで朝日新聞社から停職1カ月の懲戒処分を受けた。っていうか当人は20日で辞める気になっているから1カ月の停職なんて特に大きな意味もなく、懲戒免職でもないから退職金も出るはずで金銭的には痛くもかゆくもないだろう。

 ただ、そうなったいきさつの部分で記者として、ジャーナリストとして甚だしくヤバいところが出てしまって今後の活動には相当な影響を与えそう。だって自分のところで行ったインタビューのゲラを出すことだって原則としては御法度な新聞社の社員記者が、他社の行ったインタビューのゲラを見せろと要求すること自体が筋違いだし記者としての倫理にもとる行為で、それが一介のフリージャーナリストだったらまだしも朝日新聞社という看板を見せると見せないとに関わらず背負っている人間が行ったら、相手だってこれはと驚きプレッシャーとストレスを覚えるだろう。

 そうした行為であり立場に自覚的ならまずやらないことを平気でやった上に、事前に誤報が出るのを防いでやったのだからありがたく思えと開き直っているところが何ともはや。それはあなたが関知するところではなくダイヤモンド社と安倍元総理との間でのやりとりであって、外野が口出しすることではないにも関わらず、当然といった口ぶりで今なお顧みようとしないところにジャーナリストとしての信頼はもはや地に落ちたと言っても過言ではない。とはいえそれは真っ当なジャーナリズムの界隈であってライティな論断しにおいて反朝日で親安倍の看板の論調は大歓迎。ついでに反中のカードも切れるなら重用されるだろう。

 問題はすでに一部のアカデミズムが教員として雇用しているところだけれど、ジャーナリストとしての倫理にいささかの不都合がある人物をいつまでも雇用しておけるのか。そんな人に教わった人がマスコミだとか企業に採用されるとは思えないとなると忌避される可能性もある中で、雇用するアカデミズムの側の判断が求められることになるだろう。まあその点でもライティな方面にやたらと強い大学があったりするからそちらで三顧の礼で教授として迎え入れられることになるんだろうなあ。美味しい右は3日やったら止められないってことかなあ。しかし本当にどこでねじ曲がってしまったんだろう。そこだけが気になる。


【4月6日】 顎木あくみさんが富士見L文庫で出している「わたしの幸せな結婚」がついにテレビアニメ化されるということで、キャラクターのビジュアルとかPVなんかが発表になっていたけれども文庫版の表紙絵とか、スクウェア・エニックスから刊行されているコミックス版に使われているキャラクターのビジュアルとギャップがあってファンの戸惑いもいかばかりか。既存のものは割とヒロインがゴージャスな衣装をまとって美しく描かれているけれど、テレビアニメのそれは下働きの下女のように粗末な着物をまとっている。

 名家の長女として生まれながらも異能の力を受け継がず母親は死んで後妻が入ったことで継母に虐められ父親からも見放されたヒロインの斎森美世は、粗末な着物で下女のような扱いを受けていたから本来ならそれが正しいんだけれど、最初のビジュアルにそれを持って来られると新しいファンは「おしん」のような作品化と思い、既存のファンは美麗なイラストがすでにあるのにこれは違うと迷いそう。嫁いだ先で久堂清霞から姫のような扱いを受けてからはきっと文庫のイラストのようにゴージャスになっていくと思いたい。声は上田麗奈さんに石川界人さんならバッチリだろう。キネマシトラスが作るならクオリティも安心。期待して待とう。

 アガサ・クリスティー賞から直木賞は逃したものの本屋大賞を受賞した逢坂冬馬さんの「同志少女よ、敵を撃て」(早川書房)。独ソ戦の時代を舞台に少女のスナイパーが活躍する話らしいけれど、ときわ書房船橋本店でサイン入りを買って部屋のどこかに置いたっきりで見失ってしまって未だ呼んでいないのだった。そうこうしているうちにウクライナ侵略が始まってロシアの軍隊に関するいろいろなことが浮かび上がっている中で、旧ソ連の軍隊の話がどれだけ現代をとらえているかも興味が浮かぶ。それだけに読みたいんだけれど出てこないんだよなあ。どうしたものか。

 早川書房からは「声の優」とそれから「鈴波アミを待っています」という2冊のライト文芸が出ていてそれぞれに声優の卵たちが頑張る姿と、VTuberが消えてしまったのを嘆き惜しんで探し回るファンの姿といったポップカルチャーの最前線が描かれている。声優なんて大勢がなろうとしてもまるでなれないと音響監督の長崎行男さんが書いていたりして、大変なんだけれどそれでも狭き門をくぐってなってやろうとする人たちでごったがえしてる。そうした意欲を組んであげたいけれど世間は声の質よりもはや知名度を優先するサイクルに入っていて新人の出る幕がなかったりするんだりょなあ。声でアニメを観る習慣がない自分には理解できないけれど、当たるための保険を少しでもうっておきたい製作サイドにとっては重要なんだろう。

 「鈴波を待っています」は登場から1年待たずして評判になったVTuberが1周年記念生配信をするといって出てこなかったという事件から、その後の展開を追う中でVTbuerがどうやって世間に認知されていくかが紹介され、そしてVTuberが本当にこれから大勢になっていくのかに対して懐疑を挟む叫びめいたものも綴られていて最先端だからこその揺れる状況って奴を強く感じさせられる。推しのVTuberなんておらずホロライブだとかにじさんじといった集団で推してくる状況にも辟易としている身からすれば将来なんてとんと不明。でもなりたい誰かになれる技術には魅力があるだけにアプリ感覚で扱えるようになればきっと誰もがアバターに身を包むことになるんだろう。その時にはVTuberなんて言葉すらなくなる。どうなるか。

 圧倒的に巧いイニエスタ選手に周囲がどうにか合わせ中盤を形作っても、トップが動き出してパスを受けてゴールに突き刺すなんて佐藤寿人選手だとかインザーギ選手みたいなことができない以上はヴィッセル神戸に勝利の扉は開かないんじゃなかろうか。大迫選手が最前線で体を張って受けて流してそれを誰かがたたき込めればまだ良いけれど、左右に揺れ動いているだけでまるで機能していないからなあ。たぶんサイドと連係しての崩しからシュートというパターンならマッチするんだろう。そういうシステムとイニエスタ選手を中心にしたパスからの突破といったシステムがガチ合っている不思議なチーム。どちらかに合わせないとこれは大変だなあ。そんなFC東京対ヴィッセル神戸を観戦。世界の至宝・イニエスタ選手を見られてとりあえず良かったけど神戸は未だ勝ち星なし。新監督が来ても同じようだと三木谷オーナーが我慢できずにぶち壊してくるからなあ。どうなるものやら。


【4月5日】 演習中の米兵にカメラマンが銃口を向けられたとしつこく書いている琉球新報が「スライドショー」と銘打ってその過程を連続写真で出してきた。映像で出せないのはそのシーンだけカメラを切り替えて写真にしたからか、それともやっぱり映像があるけど分かりやすいように1秒スライスして切出したのか、そこは分からないけれどもいずれにしてもそうやって掲載された連続写真で1番正面方向を向いたのが、前にアップになっていたライトが正面を向いて銃口はそれていたアレだった。

 つまりはやっぱり記者の方なんて向いてないんじゃないかと突っ込んだところで、記者の方ではなく民間地方向を向いたと言い換えて言い募るので如何ともしがたい。もちろん沖縄における基地の問題は議論されるべきで米軍の存在を疎ましく思う人もいるだろうことは承知してる。けれどもそうした反基地運動のために記事を盛り盛りしても良いかというとしれはやっぱり拙いのだ。それをやってしまっては真面目な報道、必要とされる報道が世の中に受け入れてもらえなくなるのだ。一時の衝動を狙って長期の信用を切り売りしした果てに何が来るかは自称全国紙が証明しているのに、どうして他もそうなってしまうかなあ。やれやれ。

 ジェノサイドを避けるなら逃げろと元首長で元政党代表者の弁護士がいて、でも全員が逃げて国が空っぽになるまで逃げる先なんてないと返せば元首長で元政党代表者の弁護士はきっとすぐさま降伏しろと言って、でも降伏したらやっぱりジェノサイドが起こるのではと返せばその元首長で元政党代表者の弁護士は何と言うんだろう。持論をまくしたてるだけで降伏して国民を守るのが為政者の役割だと言った手前、その言葉を永遠に曲げることはなんだろうなあ。謝れない症候群の代表者みたいな感じだから。けれども現実にウクライナではキーウ近郊の街で400人以上が虐殺され、その様子を衛星画像がしっかりとらえてウクライナ軍が入ってから作ったフェイクではないことが分かっている。

 そんな蛮行を振るう相手から逃げても逃げられず降伏すれば蹂躙される事態に有効な手立て、つまりは蛮行を振るう側を止めさせる方策に頭をめぐらせることはあるんだろうか。もちろん相手が第二次世界大戦後のアメリカ軍のようだったら降伏もあり得た選択だし、ロシアも一応は文明国だから非道なことはしないといった想像の範囲で降伏を進めた可能性もあるけれど、現実にシリアだったりチェチェンで繰り広げたのと同じ事を、西欧が見守る中でも平気でやってのけるお国柄だったのはちょっとした誤算。それが分かった今はやっぱり持論は引っ込めるべきなんじゃないかなあ。どうなるものか。

 家にいると電気毛布にくるまれて夢見心地となるので家を出て、ショッピングモールへと出向いていろいろと読書した後、映画館に入って「やがて海へと届く」を見る。彩瀬まるさんによる小説が原作で岸井ゆきのさんと浜辺美波さんが出演している映画を「わたしは光をにぎっている」の中川龍太郎監督が脚本とともに監督した映画。アニメーションスタジオのWIT STUDIOが製作幹事をしているとう点も「わたしは光をにぎっている」と一緒だけれど今回は、WITの「とつくにの少女」で短編と長編のアニメーションを手がけた久保雄太郎さんと米谷聡美さんが組んだ短いアニメーションを冒頭に入れ、そしてクライマックスにも入れてある種の幻想と現実との間で見る人を行き来させる。

 ホテルのバーで給仕をしている湖谷という女性のところを遠野という男性が訪ねて来て、すみれという女性の荷物を片付ける算段を付け始める。遠野の家にはすみれの荷物がいっぱいあって同棲していたような印象がまず浮かぶ。けれどもそんなすみれの荷物が湖谷のところにもあるという。いったいすみれとは何者なんだ、多分死んでしまったのだろうけれどもどうやって死んだのだろうといった想像を浮かべさせつつ、そんなすみれと湖谷の出会いがまずは湖谷の視点から振りかえられ、大学の新歓コンパに連れて行かれて気分を悪くしてしまった湖谷をすみれが介護したあたりから、2人の関係が始まっていく。

 訳あってどこかからか湖谷の家に転がり込んできたこともあったすみれは、やがて遠野と仲良くなって湖谷の部屋を出て遠野といっしょに暮らし始める。そんなすみれに少し心を引かれつつ彼女が選んだ道だからを見送る感じは普通に青春のよくある光景だけれど、それは一面に過ぎなかった。どういう理由でどこですみれが死んだのかが明らかにされて以降、すみれの視点から湖谷との接触とそして同居、それから別々の道を歩み始める経緯がつづられ、心理を感じさせては届かない思いの歯がゆさといったものを感じさせる。向かい合っていたのにすれ違っていたそれぞれの思いが、どこかでしっかりと絡み合っていたら。そう思わずにいられない。

 2011年を挟んで描かれるストーリーのある出来事がアニメーションで描かれるのは、それが実写ではあまりにリアリスティック過ぎることもあったかもしれない。アニメーションという幻想を形にする手法が使われることで惨劇の傷ましさよりもぐっと個人に近いところにある離別への悔しさであり悲しさが浮かび上がってくる。同時に幻想の中にとらわれていた湖谷や遠野の時間が現実へと戻って動き始める様子を、クライマックスのアニメーションの後に戻って来る現実の光景が伝えているのかもしれない。誰にでもある捨てられない気持ちを描きそこから抜け出す道を指し示す物語を、あまり起伏を感じさせない表情で淡々と演じる岸井ゆきのと朗らかそうで内心の苦渋をほのかに滲ませる浜辺美波の2人が描き出す。そんな物語と共に葛藤と後悔が渦巻く空間へと身を委ねつつ、エンドロールとともに浮かび上がってそして歩み始めよう、今を、そしてこれからを。


【4月4日】 皿にライスが盛り付けられて出てくる洋食レストランで右手にナイフを持って左手にフォークを持った場合は、ライスをフォークの背に寄せて口に運んで食べるのがマナーというより当然の行為として行われていたけれど、いつの頃にかそれが決して世界的な主流ではなく、場合によってはフォークの腹に載せて食べて良いと分かってからは、腹に乗せて食べるようになりやがて面倒だからとナイフすら使わず右手でフォーク1本だけ持って食べきるようになっていた。

 とはいえ、左手のフォークの背にライスを載せるマナーは否定された訳じゃないと思っていたけれど、そんなマナーの本国ともいえるイギリスで、皿に盛り付けられたライスを食べる時にそうした食べ方をするんですよと映像で伝えたら、アジアの国々から非難囂々を浴びたとか。でも確実に日本ではそういう時代があったにも関わらず、そうしたトピックを伝える日本のネットメディアはまるで嘘マナーであるかのように書いているのが不思議というか、きっと若いライターでそういう時代があったことを知らないんだろう。ちなみに今もそのマナーは有効らしいけれど、フランス流では腹に載せるのが正解だとか。右手に持ち替えるのは行儀が悪いらしい。今度洋食で数十年ぶりに挑戦してみるか。

 一応は文明国のそれも正規の軍隊が、戦争における戦闘行為として軍人を相手に銃火器でもって殺戮を行うことはあったとしても、民間人を相手に虐殺を行うなんてといった思考がやっぱりあったから、ロシアがウクライナに侵攻した際に彼我の戦力差を考えて早くに和平の道へと持っていった方が、人名の損傷も少ないんじゃないかといった想定もあったけれど、ロシア兵のウクライナ国内における虐殺行為の大量発生を見るにつけ、徹底抗戦を呼びかけそれに従い立ち上がったことが結果として正解だったってことになってきた。

 なるほどベトナム戦争でアメリカ軍が民間人を虐殺したこともあったけれど、誰が兵士になるか分からないゲリラ戦の中で恐怖が募って虐殺へと発展したのかもといった心理的な想像はできなくもない。ウクライナの場合はそんなゲリラ戦なんてなく、民間人は民間人として暮らしていて成り行きをただ見ていただろうにも関わらず、その命を奪っていくロシア兵の心理がまるでさっぱり分からない。後でいろいろ言われるだろうことは分かっているはずなのに、歯止めがきかないのかそれとも後で言われることなんて無いと信じているのか。いずれにしてもこうした行為が明るみに出た以上はプーチン大統領の政権を世界はもはや認めない。廃されるまで続く圧力に暴発が起こらないとも限らないだけに、一触即発とも言える状況がここしばらく続くことになるんだろう。凄い時代を生きている。

 イチロー選手のバットといえばミズノの久保田五十一名人が作っていたものが浮かぶ人が多いだろう。そしてイチロー選手のグラブといえば同じミズノの坪田信義名人が作っていたものとなるけれど、2008年に引退する前後から名和民生さんが引き継ぐようになって、最初は受け取ってもらえなかったものが、何十個となく作り直すことによってようやく満足いくものを作れたというからグラブの道もなかなか険しい。そんな道で60年近く活動し、イチロー選手を満足させていた坪田名人が死去。世界の名プレイヤーも使っていたというそのグラブのいったいどこが優れていたのかを、ちょっと知りたくなって来た。凡人が使っても分からない微妙な差異を、プロフェッショナルは気にするもので、それに答えて微調整を繰り返す名人の技術の凄さに改めて敬意を送りたい。


【4月3日】 銃口を向けられていないことが明確に分かるにも関わらず、そんな写真だけを添えてカメラマンが演習中の米兵に銃口を向けられたと言いつのり、10秒くらいそのまま止まっていたと訴えているにも関わらず、そうした静止中の動画も公開しないまま、米軍を批判して散々っぱら突っ込みを受けまくっている琉球新報が、あろうことか同じ主張を社説に掲げてやれやれ感を誘っている。

 同じ会社の別の記者が、動画で撮影中でもタイミングを見て静止画に切り替えることがあると擁護していて、たしかに今のデジタルカメラなら動画撮影を静止画に切り替えることも可能だけれど、その静止画ですら銃口が正面を向いていないことに、明確な説明はされていない。やっぱり銃口のように見えるライトを勘違いして銃口だと思い込んでそこで動画撮影を止めて静止画に切り替えて撮影して、ほら銃口を向けられましたと送ってこれならと載せてからよく見たら、銃口じゃなかったことに気づいたけれど今さら引っ込められないだけなのかもと思えてきた。

 米軍が基地だとか演習場とかではなく港湾の民間地も近い場所で演習することがあまり良いことではないし、沖縄の広大な土地を米軍基地が占めていることが沖縄の社会や経済に様々な影響を与えていることも理解している。そうした状況を打開するべく沖縄のメディアが頑張っていることは評価するけれど、そのためにありもしない状況をでっち上げるかの如くに報じて牽強付会どころか針小棒大ですらなく捏造に近いことをするのは、メディアとしての自殺行為に近い。それをやり果てたことで新聞もテレビも信頼を損なっている状況に燃料を注いでどうなるよ。そこを分かって欲しいんだけれど理解する感じがないのが痛い。いつ引っ込めるかなあ。見守りたい。

 「呪術廻戦」の再度放送がスタート。ヒットしていた「劇場版 呪術廻戦 0」を見て作品への興味を覚えてテレビシリーズも見ようとした人は、虎杖悠仁というらしい主人公がいったいどういう人物で、そしてどうなってしまうのかをまるで知らない状況で見始めている訳で、そうした人に向けてどうやって面白さを伝えたら良いのかを悩みながらコラムを1本書いたら載った。とりたててネタバレだとかいった異論は出ていないようなんで目的は果たせたと思いたいけれど、そんな初見のファンが次に覚える意外過ぎる展開への驚きだとか、いなくなったはずのキャラクターの登場への驚きなんかがある意味羨ましい。それだけにネタバレは避けたいけれど諏訪部順一さんがオーディオコメンタリーでネタバレ全開だったとか。しゃあないな、両面宿儺様だし。

 そんな「呪術廻戦」を手がけているMAPPAがやはり作っている「進撃の巨人 THE FINAL SEASON」がいったん終了。地鳴らしが大陸へと到達してあちらこちらを踏みつぶしている状況で止めてラストバトルを完結編として2023年に放送するらしい。話数として残り9話分だから半年くらいのインターバルで一挙放送したって悪くはないけれど、ほかに「呪術廻戦」の2期だとか「チェンソーマン」だとか「地獄楽」といった作品をわんさか抱えて忙しいMAPPAが、万全の体制でハイクオリティなクライマックスを作るのはそれくらいの時間が必要ってことなんだろう。本編完結から2年後ならそれほど間も開いたとは言えないかな。でもやっぱり一気に見たい。そうはできない今の体制の是非はちょっと考えたいかも。長生きできる歳でもない訳だし。


【4月2日】 テレビシリーズのブルーレイボックスが届いたけれど、見ている余裕も見るための機材もないので部屋の隅に積み上げてTOHOシネマズ新宿へと「オッドタクシー イン・ザ・ウッズ」を観に行く。新たについた副題は何だろう、“薮の中”感じを出そうってことなんだろうか、実際に大勢の登場人物たちに展開について語ってもらう形式で、それぞれの立場から語られた状況からは容易に真実といったものが見えてこないけれど、それでもだんだんとひとつの事件の真相が浮かび上がってくるようになっていて、これが初見という人にも理解しやすい内容だったんじゃなかろうか。

 白川さん=アルパカのカポエイラ趣味はやっぱり欠かせないということでしっかりと入れられていて、奇妙な音楽とともに左右にジンガを見せる白川さんを楽しめた。途中ではしっかりとケイシャーダを決める白川さんも登場。これと「バトゥーキ」の人気で巷にカポエイラファンが増えている……ってことはまだないかなあ、朝の公園でジンガしている人を見たこともないし、というかそもそも朝の公園に行かないし。不思議だったのはそうした調査をしている人たちがいったい何者かといった点。まだ進行形の事件に対して後に逮捕され収監されるキャラクターにも尋ねているということは、進行中のインタビューだった訳でそれには事件の真相を知っていなければ近づけない。

 つまりはこれはゲームであって、「オッドタクシー」というミステリー仕立てのゲームを攻略するために、いろいろなキャラクターの話を聞いて証言を集めて推論を加えて結論を導き出そうとしているプレーを表現したものなのかもしれない。だからラストシーンのその後で、謎めいたシーンが登場してそこで作中で遊ばれていたゲームのサウンドが流れているということなのかもしれない。上映後の舞台挨拶で司会の天津向井さんから質問された木下麦監督も、尋ねられたにも関わらず正解については言葉を濁して答えなかったから。あるいはそういう方向への展開を考えているのかもしれないし、実写映画版なんてものも考えているのかもしれない。いずれにしてもこれで終わりにはなさそうなんで追いかけていこう。映画もあと1回は見たいかな。

 終わってからは新宿を出て阿佐ヶ谷へと向かい、ご当地パスタを出し付けていたパスタ屋さんで今月のご当地パスタ「ペペたま」を戴く。福岡県で食べられているものだそうでペペロンチーノというか茹でたものにオリーブオイルと唐辛子を絡めただけのシンプルなパスタにさっと炒めてまだトロトロな卵をぶっかけるといったもの。肉類も野菜類もないけれど食べて美味しいと見た目から大いに分かるところが人気の秘密なのかもしれない。ご当地にはもうちょっと、おしゃれオムライス的に工夫された卵のぶっかけかたもあるみたいだけれど、ここん家のは家でも簡単に試せそう。というか過去にやっていたかもしれないなあ、もうちょっと卵を強く炒めてチャーハンに絡む卵のようにしていたかもしれないけれど。

 船橋へととって返す電車の中で、京都アニメーションから出ているライトノベルレーベ  アニメ制作会社の京都アニメーションが、小説を募って文庫として刊行して来た西川昌志さんによる「海姫マレ」を読む。西川さんは「小林さんちのメイドラゴン」なんかに脚本としてがっつり関わっている人。例の事件でもいろいろと心痛もあっただろうけれど、しっかりを書き上げ次の京都アニメーションの糧になり得る世界というものを紡ぎ出してくれた。「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の高瀬亜貴子さんがイラストを描いていてタッグもばっちり。あとは映像化に動くかどうか、かな。

 内容はといえば、人魚や海の生き物たちが暮らす海中の国・ニライカナイに姫として生まれたマレが、海を汚す人間たちを懲らしめたいと思い、かつて人間に奪われたという「神の矢」を取り戻しに魔法で人間のような脚を作り、地上へと向かうというもの。たどり着いたのはニライカナイの伝承が残る三高島で、そこで大里天海という少年と知り合い、天海が暮らす親戚の家に居候しながら「神の矢」を探すうちに、人間の中にも自然を愛する人たちがいることをマレは知る。過疎化する小島につきまとう、成り行きにまかせていれば朽ちてるけれど、さりとて開発して伝承を失うのも困ると言った問題が描かれたり、海洋汚染の問題が描かれてたりしながら、「人魚姫」のような悲恋も味わえるファンタジーだ。


【4月1日】 不条理な夢が次から次へと現れる。何かを受賞した美少女フィギュアの写真を撮っている。大勢が集まってきて何をとっているのかを騒ぎ出す。受け答えをしてから撮影に戻ろうとして引き出しにしまってあったフィギュアを渡してもらったはずなのに見つからない。カバンをひっくり返しても本の山を掘っても出てこない。気がつくと誰もいなくなって、どうやら別室で行われている何かの授業に行ったらしい。自分も行こうと思ったが何の授業かわからないので周辺の机を回って時間割を探したけれど見つからない。

 短編アニメーションの上映会でCというプログラムを見たらしい。見ている間に作品リストにメモ書きをしていたはずなのに、上映後に外で感想を聞かれて探したらメモが出てこない。上映リストからならわかると思って探したけれど上映リストも見つからず、聞いてきた人が責任者を探して怒り始める。壁の上にある校舎の窓から早稲田大学ラグビー部だと言って誰かがラグビーボールを蹴り出してきたので、ア式蹴球部だと言って蹴り返そうとしてみたラグビーボールは四角くてサッカーボールのような模様になっていた。蹴り上げれば高い場所の窓に飛び込むだろうと思ったものの、臆してふつうにまっすぐ蹴ってしまった。忘れることが多くなっているのと関係があるのかなあ。忘却への不安が表れているような感じ。でも面白い。夢が1番のエンターテインメントかもしれない。

 いちいちチェックはしてなかったけれど、エイプリルフールでいろいろなネタがあふれかえったみたい。あの阪神タイガースがゴジラと戦う映画が公開されるというネタは松井秀喜選手1人にいいようにやられるタイガースが想像できて面白かったけれど、本当に映画はできなくてもグッズがいっぱい登場して嘘から誠が出たのも嬉しいところか。映画のポスターのようなグラフィックを使ったTシャツはなかなかの格好良さ。選手対ゴジラも悪くないけど問題は登場している選手の誰1人として知らないことなんだよなあ。掛布岡田バース村山田淵江夏江本等々がいた時代は過去になりけり。

 巨人戦と中日戦くらいしか放送されていなかった1970年代から1980年代にプロ野球を見ていてどうしてタイガースだとかあとはパリーグの選手まで名前を知っていたかといえば、試合そのものではなく夜のプロ野球ニュースなんかを見て結構な分量で取り上げられる試合の経過から選手の名前を覚えていったってことがあったかもしれない。今はネットで試合そのものが配信される一方で、テレビでは放送されないから試合に触れる機会もなければ選手の活躍を知る機会も少ない。巨人ですら今のスタメンを言えないほど。そんな時代が「巨人大鵬卵焼き」の頃に来るとは思わなかったなあ。

 沖縄で米軍が訓練をしているのを遠くから撮影していたカメラマンが銃を向けられたって琉球新報が大騒ぎ。でも動画では銃をむけるシーンは映っておらず1枚の画像だけ銃が向けられているように見えるからと記事に添えられているけれど、その銃口は正面を向いて織らずそしてとてつもない望遠でもって数百メートル離れた場所から撮っているため、その傾きではまったく別の方向に向けられていると言えそう。

 だいたいが右手ではなく左手で銃把を握り右手を銃身に添えているのは右手で持って構えていたのを解いて一休みした一瞬だともとれる。そこを切り抜いて銃口が自分の方を向いているように極力見えると言って騒いだところで、今時の読者はそうした牽強付会を見抜くリテラシーが備わっている上に、メディアが米軍だとか原発だとかいったものに対して事実を曲げてまで悪評を振りまこうとしていることもバレているから、より注意深く無極めようとする。そこに餌を撒けば当然食い散らかされると分かっているはずなのに、やらかしてしまうところに新聞の衰退していく原因が見える気がする。撮ったカメラマンも弁解しないでツイッターに鈎をかけて引きこもり中。どうなるか。

 9000万円を折半だから4500万円を出資して1年前に始めた生活者向けの情報を提供するアプリサービスが1年を持たずして実証実験を終えたとして終了に。実験だから1年で終わる予定だったといった理屈も当てはまらない訳ではないけれど、そこで得た個人情報をサービスに転用できない以上は残るのは個人向けのパーソナライズして生活関連情報を配信するのはビジネスとして成り立たないといった事実だけだとしたら、軽くない出費だったと言えなくもない。

 せめてパーソナライズのノウハウだけでも得て他のジャンルに適応できれば良いんだけれど、ジャンルが違えば求める情報の種類も違ってくるからそこは割り引いて考える必要がありそう。そんな感じで始めては潰す繰り返しばかり続いているとある新聞社の新規ビジネス。次は鉄道関係の人材不足を解消するサービスだそうで事業で鉄道展をやっている絡みもあるんだろうけれど、どれだけの情報を集めてどれだけのユーザーに適切に届けられる買って所でボトルネックが出ないことを願うしかないかなあ。

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