縮刷版2021年8月下旬号


【8月31日】 角川キャラクター小説大賞で奨励賞となった春間タツキさん「聖女ヴィクトリアの考察」は幽霊なんかを観られる能力をもったことから聖女に引っ張り上げられたものの、たいして活躍もしないまま後ろ盾になっていた聖女が亡くなったことで派閥争い的なものに巻き込まれ、無能扱いされて放逐されそうになったヴィクトリアが主人公。哀れ追放も間近というところで現れた騎士が、ヴィクトリアを連れ去って自分が王様の隠し子だという噂を否定してくれと頼む。

 予言者でもないヴィクトリアができるのは、騎士の亡くなった母親か、あるいは実の母親かもしれないお后さまの幽霊を呼び出して尋ねることくらいだけれど、それもままならないうちに騎士の周辺では彼を担いで王家に異論を述べようとする勢力が起こり、一方で騎士を継承権争いの邪魔者とみて排除しようとする別の王子やその一派による圧力もかかり始める。そうした中でヴィクトリアが繰り出すのは幽霊にあって言葉を聞くより、現実に起こった状況から推察して正体を確かめること。た王子にしか行われない加護の魔法が騎士にもあったこと、その正体をほのめかく王妃からの手紙の文面等々から推察した騎士の正体は。無能だけれど有能な聖女の物語。次はちゃんと幽霊を見ようね。でないと本当に未来を見られる後ろ盾だった聖女がヴィクトリアを抜擢した意味がなくなるから。

 図書館にもタリーズにも出ないで家で粛々と下読み的な仕事をこなす。なるほどいろいろな表現があるけれどもやっぱり内外には差があってメッセージ性を持たせた海外勢に対して内面的な感覚を持ち出す国内勢といった印象。そうした違いのどちらを尊ぶべきかといった指標がなかなか持ちづらいけれども、そこは下読みなんでどちらも良いととらえて優劣は考えずに通してあとは本番の人たちに委ねてしまおうか。それも無責任なんでやっぱりある程度は絞ってみるか。本格化するだろう締めきり後に向けて今は規準作りをしつつ粛々と読んで行こう。

 ただの風邪だと言うけれど、家の中で奥さんが倒れてそのまま亡くなり、そして家の外で旦那さんが倒れて意識不明のままやっぱり亡くなってしまうような事態はただの風邪では起こらない。それは朱戸アオだんの漫画「リウーを待ちながら」で肺ペストが大流行して、それまで普通に暮らしていた人たちが発揚をしてバタバタと倒れていく状況と同様で、それこそフィクションの世界で起こっていたことが目下の世界で起こっているのだということを、ただの風邪だと言い張る人たちがどうして認めようとしないのかが分からない。

 具合が悪くなった人がいて、療養していたもののそのまま意識を失ったのか保健所からの連絡に答えなくなって、そして亡くなってしまうような事態が相次いでいるのもただの風邪とはちょっと違った状況。そこで保健所がこれは拙いとより強く連絡を取ろうとするなり、緊急事態だからと押しかけるなりするどころか頼りのないのは元気な証拠とばかりに連絡を打ち切って、亡くなるに任せてしまうような事態がただの風邪で起こるのか。ただのミスというよりはもはや連絡がない人により密なケアをできないくらいに保健所の業務が逼迫しているということで、そんな状況になってしまったこの感染症をただの風邪だと言い張り続けられる意識がなかなか理解できない。

 隔離しなくちゃいけないから普通の病院で普通に診られない、だから逼迫するんだといった意見もあるみたいだけれど、この感染力の強さを鑑みるならただの風邪として誰でもいつでも診てもらえるようになった瞬間、病院中で感染が広がり大変なことになる。そして発症すれば風邪なんかよりも重篤な症状が続いて亡くなる人が出たり、長い後遺症に苦しめられる人が出たりする。だからこその2類指定な訳だけれどもそうした病院側の苦渋を横目に街中で、ただの風邪だとばかりに集まり騒いで感染させ合う人たちの何と多いことか。結果、収まらずいつまでも続いてその度に波が大きくなる。

 ワクチンが普及し始めても同様というこの状況が仮に今、収まったとしても本場を迎える冬にいったいどうなるか。想像したくないけれども8月が終わって秋が来る。そして程なく冬になる。地獄がすぐそこで口を開けている。にも関わらず菅義偉総理はその地位に連綿としがみつこうとして総選挙だなんてものをすぐそこで開こうと感がているみたい。解散せずに人気に任せていたら総裁選が開かれて再選されずに総理の座からも降りざるを得なくなる。だったら早めに解散をして取り繕って総裁選を先送りしようという腹みたい。その過程で人流は促進されつつ一方で対策はなおざりになる。そして冬を迎えた時に何が起こるのか。想像するだけで恐ろしいけど、そんな国にしてしまったのは他でもない国民だからなあ。皆が滅びの道を歩んでいる。


【8月30日】 落語家の三遊亭多歌介師匠が新型コロナウイルス感染症で死去。船橋市に住んでいたのは知らなかったけれどもfacebookあたりでずっと反ワクチン的な言説を繰り返し、反ワクチン界隈の人たちとトークなんかにも出ていたからやっぱり当然接種はまだだったんだろう。それで新型コロナウイルス感染症で死去というのは自ら選んだ道だと覚悟していたものなのか、そうなるとは予想だにしていなかったのか。分からないけれどもこれで少しはワクチンを打とうという人が増えてくれれば何か貢献はしたって言ってあげられるんじゃないかなあ。

 愛知県の方では常滑市でヒップホップのフェスが開かれマスクをしない人が密で押し寄せ大変なことになっていたとか。酒も飲む人が続出。終わったあとの会場も酷いことになっていた。当然に世間は怒り心頭で大村秀章愛知県知事も二度と同じ団体には使わせないと言っていたけど同じ団体がまたイベントをできるともちょっと思えない。ヒップホップの大立て者、ZEEBRAの兄貴が代表して謝罪していたからには参加するアーティストもDJもそうは出て来ない気がする。後出しじゃんけんとその場で辞退しなかったのかとか言う人もいるけれど、きっと会場でも相当に呼びかけたんじゃなかろうか。そうやって自らが責任を果たしつつ責任を負って発言することで進む対策があるならそれは認めたい。渋谷の健全化にも尽力してくれた人だけに、これからも頼りにしたいのだ。

 タリーズからサイゼリヤを経て5時間くらいパソコンに向かって入力業務をこなしてから、TOHOシネマズららぽーとTOKYO−BAYへと移動して「ドライブ・マイ・カー」を6ポイント無料券で。見終わって語るなら僕はこの映画が大好きだ。村上春樹の原作小説は未読で織り交ぜられている「シェエラザード」も「木野」も読んでないけれどもそれらが別の短編とは思えないくらいにひとつのストーリーのひとつのテーマに収斂されていた気がした。それは自分の中を見ず相手の中も見ないで生きる気楽さと気まずさだったりする。

 それが妻を亡くした演出家であり俳優の男性と、そしてドライバーを務める年若い女性の2人の生きてきた経験を通して明らかにされ、打ち明け合うことで認め合いわかり合って抜け出すきかっけを得る。そんなことが、チェーホフの演劇でありながら、俳優達がそれぞれの自国語で演じ合うというコミュニケーションに背く舞台の、だからこそ心底からのコミュニケーションが浮かび上がる様子も重ねられ、よりくっきりと見えてくる。そんな映画でありながらも3時間を飽きも疲れもしないで見られたのは、語られるセリフの起伏が乏しく抑揚が削がれて感情をぶつけられて緊張感を抱くようなことがなかったからだろう。

 淡々として流れていく展開にサーブ900のドライブというものも織り交ぜられ、それが流れに乗ってスムーズに動いていく様が見ている人の気持ちもすーっと整えてくれた。そこに加えてセックスであり車でありといったフェティッシュを誘うモチーフが見ている心を誘ってスクリーンに引きつけた。あるいは幾度となく吸われるたばこも。そういったモチーフの扱いが巧みだった。恋愛にしても不倫にしても普通はそれが感情を刺激して心をざわつかせるものだけれど、誰かが感情を露わにして怒ったり嘆いたりする場面を挟まないことで緊張感を抱かずに済んだ。

 そうした中で、ひとり岡田将生が演じる若い俳優だけが、自分にギラギラとして衝動的で感情的で、場違いな雰囲気を感じさせた。それも狙いだったのだろう、彼に絡んだドラマがだんだんと物語の中で超然と生きているように見えた演出家でありドライバーを刺激し、現実的にも動かざるを得ない状況へと追い込んで情動が浮かぶクライマックスへと連れて行った。ラストは演劇の場面も、そして抱擁の場面も情動があって感情がうかがえて、それが見ている人の感情も揺さぶってああ良い物を見た、凄いものを見たという気にさせた。明らかに日本と違う場所をドライバーが演出家の持ち物だったはずの赤いサーブ900で犬を載せて走る場面が何を意味しているかは意味深だったけど、それも含めて開かれた結末で心地よい気分で映画館を出られた。これはだからいい映画だ。

 しかし本当に自民党の総裁選は行われるのかどうなのか。岸田文雄前政調会長が立つといって下村博文現政調会長も立ちたいといったもののどうも推薦人が集まりそうもなく菅義偉総理に逆らう訳にもいかないのか引っ込めた模様。そんな菅総理を支えるはずの二階俊弘幹事長を菅政権が衆院選前に降ろして党三役を刷新するとか言ってたりして誰がどんな思惑で何を狙っているのかまるで分からない。それで内ゲバで潰れてくれれば得する人もいるんだけれど、現在の政治を担っている人たちでもあるだけに混乱はそのまま日本の混乱につながりかねないからやっぱり真っ当になって欲しい。どうなるんだろう。そして解散はいつなんだろう。その前に人気取りの凄い政策は出てくるのかな。1人100万円至急とかあったら嬉しいなあ。


【8月29日】 池袋に行く用事があったので、松屋のあとに入った羽田市場食堂で天丼でも食べようと寄ったら正午ということもあって行列ができていたので諦める。聞くと平日でも昼頃は行列ができているそうなので、時間を見計らって別の映画でも見に行く平日なんかに寄ってみよう。お昼ご飯は久々に牛焼きジョニーで定番の牛焼き定食。もやしとたまねぎいと牛肉とパスタが鉄板の上でジュウジュウいってる奴をライスに装ってかき込むと何か元気が出てくる。いつもだとこっちも人がいっぱいなんだけど、夏に牛焼きってことでもないのか店内には3人だけでゆったり食べられた。久々に御茶ノ水のカロリーでカロリー焼きを食べたいなあ。

 そして池袋で「サマーフィルムにのって」を舞台挨拶付きで見た。やっぱり最高だった。もう3度目になるけれど、ややっぱりラストシーンで劇中劇となる時代劇「武士の青春」のラストシーンとも重なるところで観ていてグッと感慨がせり上がる。後味も最高。それはたぶんハダシとビート板とブルーハワイの3人娘を中心としたハダシ組とはライバル的な立ち位置になる花鈴組も本当に映画に関して前向きでそして同じ映画好きとして台頭にハダシ組に接するからだと思った。

 「好きだ」「大好きだ」としか言わないようなキラキラ青春恋愛映画しか撮らないように見えているし実際に撮っていたりする訳だけれどその映画を誰もが楽しそうに撮っている。そして出演を依頼して演じたハダシやビート板の演技も讃えて立場が違う相手を出してやったといったような上からの態度は一切見せない。そしてラスト。「大活劇だよ」という花鈴の言葉から始まる場面で誰もがハダシ監督のその瞬間に輝く映画のために一肌脱ぐ。その心意気が気持ちいい。

 花鈴は本当にキラキラ青春恋愛映画が大好きで、自分の映画を編集している合間にもやっぱりキラキラ青春恋愛映画を観るけれどもその結末が別れになっていることを受け入れつつも自分が撮るなら絶対に別れさせないという確固とした信念を持っている。ハダシが時代劇に妥協しないように花鈴も恋愛映画には妥協しない。その意味で並び立つ2人の巨匠といった感じ。ハダシが将来において時代劇の巨匠となっているなら花鈴はきっと青春恋愛映画の巨匠になっているんじゃないのかな。なんて想像したくなる。

 結果としてハダシ監督の時代劇が切り結ぶことによって愛を語る一種の恋愛映画めいたものとして捉えられ直すところで、花鈴が撮ってきた青春恋愛映画と一体になって映画というものの構造の違っているようで実は似ているものだといった真理めいたものを浮かび上がらせる。裏と表、右と左に分かれていたハダシと花鈴が折り重なって紡がれた時代劇であり青春恋愛映画の総体。それが「サマーフィルムにのって」なのかもしれない。 などと思った晩夏。もう何回か観に行きたいなあ。

 家を出がけにiPad miniが落っこちて打ち所が悪くホームボタンのところからディスプレイにひびが入ってしまった。これまで普通に落としてもよらなかったひびだったけど、落ちた場所にあったパソコンの門がちょうどホームボタンの縁に食い込んだ格好になったみたい。なので、入っていたAppleCareを利用して新しいのに交換してもらうために銀座へと立ち寄り30分かからずに交換。4400円で新品になるならまあ許容範囲かなあ。持って帰ってフィルムを新しく貼ってから、セッティングにとりかかること2時間ほど。諸々のアプリでパスワードからのログインが必要なのもどうにか元通りになったの、これで安心して「ウマ娘」がプレイできる。こちらもIDを引き継いで元通り。最初からなんて流石に気力が削がれるから引き継げて良かった。

 3日間にわたるアニサマがさいたまスーパーアリーナで開かれたそうで、あれだけのキャパシティに5000人ならそれこそ埼玉スタジアム2002に5000人と同じくらいの感覚で観られてそれは観客としてもそれなりに間隔を保てたんじゃなかろうか。室内だからというなら映画館だって室内だけれどそれでも興行が行われているなら、空調さえしっかりしていて中で声とか出さなければ許容範囲といったところだろう。おなじこともフジロックフェスティバルにも言えて、写真ではみっちりに見えても現地ではそれなりに間隔が空いていたかもしれないから、あとは発生状況を見つつ評価するしかない。

 ただし群馬県だっけ、オシャレマスク歓迎で不織布マスクNGをうたったフェスは論外。普段マスクをしない輩にマスクをして欲しいというマイナスからの許容がウレタンマスクや布マスクという発想そのものが逆。マスクは必須という地点から始められなければやっぱりやるべきではなかった。でも行われてしまったからには現地でどれだけの意識がコロナ対策に向けられたかを検証するしかないだろう。その結果として発生が抑えられたのなら次回以降の開催の参考とすべき。そうでないならやっぱり拙かったとこれも反省の糧として、そしてより安全に音楽フェスを開けるような方法を考えていくべきだろう。フェスなんてなくなれば良いというのだけはやはり論外だから。


  【8月28日】 ねっと時代あるある話。とある大学生がリポートを書いて2000頃に遡って検索をかけたらLGBTという言葉がひかっからなかったのでその頃にLGBTを支援するような運動はなかったと結論づけたと朝日新聞で原田朱美さんがメディア空間考として書いていた。いやいやゲイ・パレード自体は1970年代からあるしゲイ&レズビアン映画祭なんかもずっと開催されてきた。概念が広がってレインボーパレードとかプライドパレードといった言葉へと変わっては来たけれどずっと津津生きた運動でも、現代の言葉で規定して検索したら引っかからなかったから存在しなかったと結論づけてしまうリポートの書き手の思考がちょっと不安になる。

 とはいえ現代においてネットにアップされてそして検索に引っかからなければ存在しなかったと見なされてしまう時代。1990年代にもいっぱいあったカルチャーであってもネットが未発達だった前半と少しは発展してきた後半とではネット上に残っている情報量も違っている。それが文化的な認知度ど同列に語られて1990年代には語られるべき文化はなかったと結論づけられてはたまったもんじゃないし、2000年以降にリアルタイムで膨大な記録がネット上に残されるようになって以降とそれ以前とを比べて1990年代は文化的な暗黒時代だったと結論づけられてはたまらない。でも実際にそうなりかけている。

 以前だったら大宅壮一文庫なり国会図書館に雑誌が保管されてそれを調べることでカルチャーの実相に迫れたけれどもそうしたアーカイブを利用する壁が一方にあったりすると、手軽に手元から検索できるネットに頼ってしまう。そしてネット上にある情報が2000年代以降のものに偏っているならそちらを中心に考えてしまうようになる。ネットで流行っていることがすべてでありネットで配信されているコンテンツが実際であるといった思考の埒外に存在する紙の雑誌もリアルな飲食店も生きている人すらもしかして、存在していないように認識されてしまった先に来るネットにシフトしアクセスに頼りすぎたコンテンツであり生き方の蔓延がいったい何をもたらすか。ちょっと怖くなって来た。せめてそうならないよう25年半刻んできたこの日記に少しでも日々を記録していこう。マリトッツオが現時点で大流行しています。

 夏休みも終わりがけなので図書館も混むかと思ったけれどパソコンを使える席があいていたので座って3時間ほどお仕事。といっても眺めて感想を入れていくだけのものだけれど対象となるのが現時点でも数百あるし締めきりが近づいてくると倍くらいになるので今くらいからやっておかないと追いつかないという話だってので訥々と眺めては考えていく。印象としては世界は広いし才能に国境はないということか。いやあ素晴らしい。そんな合間に買った「竜とそばかすの姫」のサウンドトラックをiTunesに落としてiPadに入れて聴いたりネットを眺めたり。出渕裕さんと田島照久さんが「機動警察パトレイバー」のアートワークスについて語った対談記事が公開されていた。渋谷パルコで開催中だけれど平日の動員がちょっと寂しかっただけにこれで増えてくれると嬉しいな。

 時間が来たので立ち上がってTOHOシネマズららぽーとTokyo bayまで出向いて宮崎吾朗監督「アーヤと魔女」を観る。ネップを混ぜたヘリンボーンツイードの、繊細ではないものの柔らかそうで温かそうなウールの質感に驚いた。貼り付けただけのテクスチャではない、身にまとわりついて包み込む立体感をもったモデリングの確かさに感心した。リアルに存在するものならその質感をどこまでもおろそかにしないという覚悟が見えた。それは最後まで揺るがず、メリノウールのようなフラットな素材のニットであっても、蛇を細く刻むために走らせるナイフの下におかれて無数の痕が刻まれた木製のテーブルを始めとしたインテリアも、ぐつぐつと煮込まれた挽肉にトマトソースが混ぜられたラグーのような食べ物も、リアリティをもってその世界に存在しているように見えた。

 人が歩けば背丈や足の長さの違いによって当然に生まれる歩幅の違いや歩数の差にもしっかりと気が配られていた。大股で歩く長身のマンドレークのあとをいそいそと着いていく青い髪の魔女ベラ・ヤーガ、そのさらに後ろを小走りで着いていくアーヤ・ツールのシンクロしない自由な歩き方に世界をそこに再現しようとする心意気が感じられた。草や花に覆われた屋敷も含めて素材としてのリアリティを感じさせつつ、フォルムとしてあアニメーションの世界におかれた物たちに囲まれて、動くキャラクターたちはデフォルメされたアニメーションならではの頭身や顔立ち。そのことが、リアリティを持った世界にファンタスティックな魔女や悪魔が生きて日々の暮らしを送っているのかもしれないと思わせた。日本のフル3DCG、良いじゃん。あとはストーリーがもっとちゃんとした結末を持ったものだったらなあ。ちょっと投げっぱなし。原作がそうなのか今のジブリの力がここまでなのか。続きが観たい。

 東京都の新型コロナウイルス感染症で現在の重症者は前の日より3人増えて297人になっていた。患者の発生状況は3581人だから減ってはいるけど検査数との兼ね合いだから何とも言えない。それよりやっぱり重症者が増えている方が問題だし、亡くなられた形も19人とこれまた大きく増えてしまった。全国的にも増えている感じで1日100人とまではいかなくても50人規模で増えて行っているから1カ月後には1万6000人になるかもしれないし、冬になればさらに急激に増えるかもしれない。そこはワクチン接種の広がりと見合いかなあ。一方で渋谷では若い人向けのワクチン接種が抽選制になったけど抽選券を求めて1キロ近い行列ができたとか。整理券がなくなればそれで終わりじゃなだけにそりゃあ増えるよなあ。そんな人たちを発表まで彷徨かせ発表後も対象者を彷徨かせちゃあ本末転倒な気もする。都庁とか他の場所では打てるんだからそっちを告知して回さないのかな。いろいろ手詰まり感が見えてきた。


【8月27日】 東京都が40代を差し置いて20代30代の新型コロナウイルスワクチン接種を喚起しようとして開いた予約無しでワクチンが打てる拠点だったけど、午前1時から並ぶ人がいたとかで午前7時には予定していた200人分が“完売”となって普通に来た人にはまるで行き渡らなかった模様。というか数百万人規模でいる20代30代のために用意されたワクチンが200人分ってのが異常だけれど、担当者が「ワクチンを接種したい人がこんなにいるとは」といった認識で、若い人の間にはワクチン接種を渋る動きが蔓延していたと思っていた方も大間違いだったりする。

 そういう人もいるにはいるけど大多数は打ちたくっても打つ場所がなかったり、予約が取れなくて打てずにいただけで打てるとなったら午前1時からだって並んで打とうとする。そういった認識もないままアプリを作って特典を付与するとか言ってた阿呆はアプリを作る会社なりクーポンを仲介する会社に何か手数料でも落としたかったんだろうか。どうにもそうとしか思えない。だいたいが40代を差し置いてそうした方へと対象を広げた段階で、何かやっている感を出して世間の注目をそらそうとでも思っていたんじゃないかって勘ぐりも浮かぶ。

 まあ実態が可視化されて打ちたい人がいると分かってそれならと連日数千人分を用意するかと思いきや、毎日300人分をその場で抽選によって決めるというから阿呆の上塗り。密になっても抽選券を求めて大量の人が訪れるだろうし、その中には打ちたい気はなくても抽選に応募して当たれば権利を転売しようなんて考えている輩も混じるだろう。それで競争率が上がって本当に打ちたい人に行き渡らなくなるという悪循環を止める手立ては用意しているのか。そこが分からないだけに今後の成り行きが気になる。そんなワクチンも何やら異物の混入で不安視する動きが出始めているからなあ。どうなるんだろうこれから。ファイザーの3度目ってのはあるんだろうか。

 そんな東京都では新型コロナウイルス感染症の重症者が昨日から18人増えて294人と過去最高を更新。この数字も国の規準だったら重篤者として数えられる数字で重症者となるともうちょっとちうかずっと多くなって1000人規模に達しているんじゃないかと言われている。陽性者は4227人で高止まりしている中で重症者が増えているのはそれだけ感染規模が拡大している現れだろうし、亡くなられた人が前日から7人増えて18人となっているのも差し引きでの重症者の増加を感じさせる。そこからさらに対数的に重症者が増え死亡者が増えていった先にいったいどんな世界が広がるのか。ちょっと怖くなって来た。

 とはいえ映画には行きたいということで芦田愛菜さんと大竹しのぶさんが登場した長編アニメーション映画「岬のマヨイガ」の舞台挨拶を観て映画も観てと爆心地の新宿でしばしの時間を凄く。縁側を少女が雑巾がけをするアニメーションにハズレはないと言うことで、こちらも面白かった「岬のマヨイガ」。キャラクターは決してリアリティには寄っていないが、描かれるマヨイガの構造であり作られる食事はどれも真に迫って暖かそうだし居心地が良さそうだし美味しそう。ジャージ姿で怪物に立ち向かう強さを見せるキワさんは料理の腕も確かで野草の天ぷらからミルクプリンから味噌おにぎりから何でも作ってくれる。温かい食事が心地よい場所を生んで健やかな心を育むのだと教えられる気がする。

 そんなキワさんが語るマヨイガや岬に伝わる伝承が、ほかとは違ったダイナミックなアニメーションで描かれるところもアニメーション好きには大いなる魅力だ。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」で突然に大平晋也さんのアーティスティックなアニメーションが飛び出し驚いたのと同じような気持ちになれるだろう。声についてはユイを演じた芦田愛菜さんはさすがの“ベテラン”ぶり。ひよりはずっと声が出ない演技を強いられながらも息づかいなどによって存在を感じさせ、そして発声できるようになってからはユイを姉と思って慕い頼る妹の声を粟野咲莉さんが聞かせてくれた。

 そして大竹しのぶさん。「漁港の肉子ちゃん」で肉子ちゃんの奔放な関西弁の女性を聞かせてくれたばかりで今回は東北の老女を演じる。嗄れた老婆ではなくお茶目で若さも感じさせるお婆さんという難しい役を、そこはさすがの演技力で乗りきって見せた。感嘆だ。 ほか、大勢のゲストも仰いで描き出された東北の海辺の街が舞台の物語から、2011年に起こった哀しみへの思いを改めて抱きつつ懸命に生きて今に至った人たちが、さらに前向きになっていけるようになって欲しいと願いつつ、新たな脅威に覆われているこの世界で歩みを止めることなく進み続ける意気を持つきっかけにしよう。

 ターリバーン政権下で抑圧された少女や女性の姿を描いたカートゥーンサルーンの長編アニメーション映画「ブレッドウィナー」が再上映されることになったとか。その場所がMorc阿佐ヶ谷ということでいろいろと脳裏を重いが走る。その前身となったユジク阿佐ヶ谷がいったいどういう理由から休館となって、その過程でどういったことが行われていたかを考えるなら、とてもじゃないけど弱者への抑圧と虐待を告発するような映画をターリバーン批判だからといって掛けられない。そういった批判があることを承知でかける異常は、ユジク阿佐ヶ谷のようなことにはならずさせずしないという覚悟と自省を持っての上映だと思うべきなのか、それとも。現場で運営にあたる人たちの勇気と覚悟を組みつつ背後の動きにも注視したい。


【8月26日】 シネマカリテで「僕たちは変わらない朝を迎える」という映画を観た。映画監督を志望しているかすでに活動も始めてはいるようで、演劇めいたワークショップの講師めいたこともしていて演技を見せてもらっては、コメントなんかしている主人公の藤井薫という男性の部屋にある本が、せいぜいカラーボックスに収まる程度でDVDとかBDなんかが棚いっぱいに収められている感じもしない状況にいったいどうなのと思ったというのが真っ先に抱いた感想だったりする。

 そんな藤井薫は多分映画プロデューサーの渋谷にある事務所に通っていて脚本を見てもらったところ「理想しか書かれていない。そこには君の希望が描かれていない」と突き返されるけれど、総じて言うならこの映画自体がある意味で理想しか書かれてなくって映画というものをもっとこうしたいんだという希望が伝わってこないという問題があったりするところも、やっぱり見ていて同じ映画がテーマになった「サマーフィルムにのって」との天と地の底くらいの違いを覚えた。

 それとも映画作りというテーマはテーマというよりアクセサリーみたいなものであって本意はうだつの上がらない映画監督と元彼女で間もなく結婚すると明かした女優との恋が生まれて育ちかけてはすれ違い枯れて廃れて消滅する様を描こうとしたものであって、あるいは別の女優が彼氏との間にちょっと行き詰まって別れる別れないとなった時に自分の言葉をはっきり伝えられないで悶々とする様を通して上っ面で恋愛を語る言葉の無意味さを訴えようとしたものなのかもしれない。つまりはぐるぐると回る恋愛サーキュレーション。映画への情熱が語られるのかと期待した人にはこんなんじゃダメだしこんなんじゃイヤだけどでもこんなんが好きな人には響くところがあったかもしれない。

 私小説はフィクションか否かと言ったボーダーの問題がまずあって私小説でもフィクションなんだから物語に表現も奉仕していてなかったこともそれが面白いと思えたから添えたといった書き手だったらあまり大ごとにならなかった気もする「文学界」と朝日新聞の文芸時評の界隈で起こっているちょっとした出来事。私小説は小説だけれど身内のことも書かれてあるからそれをノンフィクションだと捉えて読む人もいることに配慮をしたことで、人物に対してちょっとばかりネガティブな印象がつきかけない解釈はヤバいと感じて配慮を求めているように遠くからだと見えないこともない。

 包括的にそう捉えた批評に対して前後の文脈からそういう風に意図しては書いてはいないんだと書き手が主張し、そう捉えるにしても書かれていないことを勝手に解釈してもらっては困ると訴えているのが目下の状況みたいだけれど、書かれていないのは前後の文脈からそう判定して欲しいといった部分もたぶん同様。あとは書き手という神様の絶対的な解釈が正しいといった立ち位置に、いやいや読み手だってそう読めたんだからそれもまた正しいものだといった反論が通れば良いんだけれど、絶対の書き手が表明した意図に事実が付随してしまっている以上、違い解釈もまた事実だといった意見を受け入れてはくれなさそう。

 そりゃちょっと頑なすぎると言ったところで通らないならあとは双方、意見を出し合ってどちらが正しいかをそれこそ読者に問うのが表現の世界のオープンな解決法という気もするけれど、ことが身内の名誉に関わっているとフィクションであるにもかかわらずノンフィクション的な解釈を許容する立場から認めてしまっているスタンスには、許容といった道はないようで引っ込めるなり自分か引き下がるといった択一が迫られているらしい。あとは媒体がどちらをより大事にしているかといったところまで来てしまった以上、解釈といった文芸的な論争は無用のものとなってしまった。勿体ないなあ。でもそれを望むんだからもはや誰もその作家について語ることはなくなるかも。どうだろう。

 朝の9時半に図書館に入って3時間ばかりネットで映像を見ていろいろと考えて、それから近所のサイゼリヤへと移って2時間ばかりネット経由であれやこれや作業をしてどうにかこうにか1日分くらいの糧を得る。いやいや食費意外の光熱費だとか住居費とかも含めればきっと足りてないとは思うけれど、2年半ちかくやって来てリストラされた当時からそれほど預貯金が減ってないような気もするから収支トントンあたりは維持できているのかもしれない。フリーなんで喫茶店でのお仕事だとか本代だとかを経費に入れれば税金を圧縮できるのが助かっている理由かも。サイゼリヤは3時間くらいで出てイトーヨーカ堂へと移りそこでも1時間くらい仕事をしてから地下で半額になった弁当類を買って食べて1日が終わる。また誰とも喋らなかったなあ。

 モデルナのワクチンに金属微粒子が混入していたとかで、打つと磁気共鳴装置だとかで微粒子が欠陥を突き破って細胞をメチャクチャに破壊するぞといったデマゴーグに信憑性を与えてしまうんじゃないかとちょっと不安。あり得ないんだけれどそれをいうなら金属微粒子の混入だってあり得ない話であって、なにがいったいどうしてそうなったかの解明が待たれる。結果、クリエイター向けに文化庁が行っていた職域接種が中止になって打ってなかった人がちょっと困ったことになっている。すでに終えた人の2回目までは確保されているそうだけれど、これからという人も少なくないだけに早い回復を願いたい。クリエイターは国の宝なんだから。文字通りに。


【8月25日】 キャップこと小林昭二さんをほぼ25年前になくして寂しくなっていた科学特捜隊からまたお一方、イデ隊員を演じられた二瓶正也さんが亡くなられて昭和は遠くなりにけり。奇妙な発明をしては仲間たちを助ける役割は「こんなこともあろうかと」といって秘密道具を取り出す「宇宙戦艦ヤマト」の真田さんの先達のようなもの。そうした存在が今に受け継がれてマッドサイエンティストのポジションを作ったのだとしたらオタク占的にも大きな存在を演じられたって言えるかも。「ウルトラマン」の50周年あたりでフルハシ隊員役の毒蝮三太夫さんやハヤタ隊員役の黒部進さん、フジ・アキコ役の桜井浩子と会っていたみたいだけれどその後の再会はあったんだろうか。いつまでも中の良さげだったチームから現実には欠けていくけれど、でもドラマの中では永遠にその活躍は残る。見て行くことでつないでこう、特撮を支えたものたちの息吹を。

 それほど熱心なリスナーではなかったけれどもロック史に残るバンドとしてザ・ローリングストーンズの偉大さは身に染みて分かっているから2014年に来日した時には絶対に行こうと東京ドームのチケットに申し込んで見事に当選、布袋寅泰さんがステージに上がった日ではなかったけれども出かけていっては舞台上を右に左に動き回って歌い続けるミック・ジャガーの凄さに簡単しつつキース・リチャードのサウンドに耳を傾けた。そんなバンドの後で淡々と叩き続けけていたがドラムのチャーリー・ワッツ。すっかり老年の紳士然とした風貌で確かスーツ姿でドラムを叩いていたんじゃなかったっけ。フロントに立つ者たちとは違った物静かな感じでなかなかの健在ぶりを感じさせてくれていた。

 そんなチャーリー・ワッツがミック・ジャガーよりもキース・リチャードよりも先に死去。80歳は若くはないけど二瓶さんよりは年下な訳でまだまだ長生きはできた気がする。でもしばらく前から体調を崩していたことが伝わっていて、ストーンズがツアーを始めるといったニュースの中でもチャーリー・ワッツは参加を辞退といった話になっていた。結成からずっと叩き続けて来たドラマーの不在を誰で埋めるかといった話になっていた訳だけれど、これでもう復帰は叶わず永遠の不在の中でバンドが続くことになった。それともレッド・ツェッペリンみたいにジョン・ボーナム亡き状態で誰もカバーできないと一旦の解散になってしまうこともあるんだろうか。それも納得はできるけれども可能ならミック・ジャガーとキース・リチャードの2人が立っていられる間は続けて欲しいし来日して欲しい。チャーリー・ワッツには天国から2人を支えて下さいとお願い。

 「開運・なんでも鑑定団」にあの「新・八犬伝」から辻村ジュサブローさんが制作した玉梓の怨霊の人形が出たって話で経緯を聞くと父親が誰かから100万円で譲り受けたものをチェコに留学したい息子が売れたら売りたいと鑑定に出したとか。ある意味で日本の人形劇ドラマの草分けであり大ヒット作でもある「新・八犬伝」の中で八犬士たちに勝るとも劣らない人気を誇り2人で支えるという意味では存在感も半端じゃなかった玉梓の怨霊の人形が、そもそもどうしてNHKのミュージアムに収蔵されておらず売りに出されているのかが分からない。あるいは何体か作られたうちの1体かもしれないけれど本物なら100万円なんてはした金で取引されるものでもない。

 だからいったい幾らで鑑定されるかが気になるところだったけれど、放送では500万円の値段がついたそうでとりあえずまずは本物だと証明された格好。その上で高いか安いかとなると例えば舟越桂さんが作った人形が25年くらい前で600万円くらいで今なら2000万円くらいはいくだろうと推定するなら、玉梓の怨霊だってそれこそ1000万円級の値段がついても不思議じゃない。ただ時代が流れて作品自体の知名度が下がっていることもあり、また芸術品というよりは番組のプロップでもあると考えるなら500万円というのも妥当な水準なのかもしれない。たとえば犬塚信乃とかだったら幾らだろう。主役級でも存在感だと玉梓の怨霊の方が上だろうから300万円くらいなあ。いずれにしても売るなんてって話になるからNHKが頑張って買って川口のミュージアムに飾って欲しいなあ。「プリンプリン物語」の人形ってどこにあるんだろう。

 新型コロナウイルス感染症で東京都の重症者が277人と結構な人数で高止まりしている一方で、陽性者は4228人と横ばい気味なのはやっぱり検査が追いつかない関係でそれだけの人数が上限になっているからなんだろうか。一方で亡くなられた形が11人と2ケタ台にのって来て一時期の0人とか続いていた状況から一気に悪化してきた感じ。テレビがクリニックの提供として流した映像で1型糖尿病の人が発熱してコロナが疑われて入院させてもらえないまま長時間外で治療を受けた果てに、どうにかこうにか入院先まで運ばれたものの亡くなってしまったと様が映し出されていた。

 レアケースではなく普通にこうした自宅放置の挙げ句の死者が出てしまう状況に、首都圏がなってきたことが見えてきた。幸いにしてワクチンは受けているけど世間にはまだまだ未接種の人も多い中、罹らないことが肝心とはいえ動いていればどこかで罹らないとも限らない。生き延びさせるために政府は動くな家にいろと厳命する一方、お金を渡してこれで食いつなげというしかないんだけれど今は外に出るのも罹って亡くなるのも自己責任めいた雰囲気。見捨てられた若い人たちの怒りがいったいどこに向かうのか。選挙がやはり気になって来た。


【8月24日】 訃報そのものを知ったのは8月25日だからその意味では11年ちょうどではないけれども亡くなられた日が8月24日ということで今敏監督がお先に逝かれて11年。もしも存命ならば「夢みる機械」のほかに3本くらいは作って細田守監督も新海誠監督も届かないアカデミー賞の長編アニメーション映画賞あたりを受賞しハリウッドでリメイクもされて世界の巨匠となって荻窪あたりを闊歩していただろうけれどもそれは叶わぬ夢でしかない。それでも残されたわずか4本の映画と1本のテレビシリーズだけで世界は魔術師と呼んで崇め讃えてその死を悼み続けているのだから、やはり凄い監督だったということを改めて思いつつ残されたそれらを永遠に繋げていこうと心に誓う。まだ逝きませんよ。

 酸素ステーションとやらができたけれども診る医師も看護師もいないそうで小池百合子東京都知事が誰か派遣してよと言っているそうだけれどだったら探してきなさいよとしか言い様がない。東京は逼迫している訳でそれなら少しでも余裕があるところから幾人なりとも頼んで県知事にも断って招けば良いのにそれができないにもかかわらず箱だけ作って中身がないと言ってしまえる神経が謎めく。仮にいたところで酸素を与えるしかできない訳で点滴だの投薬だので症状を抑えなければ悪くなる一方。まさしく一時の安らぎしか与えられない場所を作るくらいなら、総出で面倒を見られる療養所を作れというのももっともな声だけれどそこには向かわないのが謎なんだよなあ。まあ向かってもやっぱり人手は足りないんだろうけれど、この1年半何してたんだって話だよなあ。

 そんな東京都ではまもなく始まる2学期に向けて児童生徒の間の感染を防ぐために教室での机を離して並べろだの予防に注意しろだの言っている一方で、開会式が行われて25日から本格的に始まるパラリンピックには児童生徒の観戦を推奨して教育委員たちが止めてもまるで聞こうともしないんだから何をか況や。チグハグ過ぎるメッセージを出して現場もどうしようもないって思い始めているんだけれど、きっと言っている方はそれはそれでこれはこれだからって頭の中では何か理由があるんだろうなあ。それがパラリンピックに引っかかっている諸々の利権絡みだったら厄介な話。そうやって推進した挙げ句に感染が広がりなおかつ自身の進退も取り沙汰されてきたオリンピックでの菅義偉総理大臣の態度に学ぶどころか追随だから、きっと来る結末も似たようなものになるのかな。さてもはても。

 図書館へと出向いて行って3時間ばかり入力の作業をしてそこからタリーズへと移って2時間ばかり入力の作業をして本日は完了。映画化も近いからと上橋菜穂子さんの「鹿の王」とか読み始めて、今のこの状況を随分ど先取りしていたんだなあと思うと同時に、どんどんと先を行く現実に対して学ぶべきところはないのかを考え始める。すでに予告編なんかでも明らかになっているように大変な熱病が流行っていて、その中で生き延びた男と少女を追う医師がいて熱病の治療にあたっているといった構図。そんな医師の科学的な見地からワクチンを開発し投薬によって症状を抑え血清によって毒素を薄めようとする治療法への探求が、新型コロナウイルス感染症の時代にあって全力を挙げて治療方の確立に取り組む医師や研究者と重なって見えて頼もしくなった。

 一方でファクターXじゃないけど何か要因でもあるのか熱病に罹りにくい民族がいることを神のご加護めいてとらえて悦に入る一派があったりして、そんな一派でも決して罹らないわけではないし安心していると強烈な波に推されて一気に広がる可能性があることを示していたのも予言的。日本やアジアの民族にあると言われたファクターXもデルタ株の前では無力らしいと言われ始める中、優越感がどれだけ取り返しのつかない事態を呼ぶかを教えてくれている訳で、そこに今からでも学んでフラットな対策を取る必要を教えられた。あとはやっぱり分断か。恐怖や嫌悪が分断を呼んで差別を招き戦いに至る道を現実が歩まないために遍く誰もがフラットに事態を見つめ冷静になって最前を求めていかなければ。そんなことを思わされる物語だった。フィクションは先を行くけれど現実もそれを追い越すならフィクションの示唆によって現実を改める。そんな関係を大事にしたい。

 噂になっている河村たかし名古屋市長の謝罪文とやらの字の汚さは他人のことを言えた身ではないので不問としてもせめて楷書で1字1字にしっかりと心を込めて文章を綴り、最後に添えることばも「以上」ではなく自署にするなりした方が体裁も整ったと思うんだけれど、それをやったら自分が負けとでも思って入るんだろうかこの後に及んでの走り書きにやっぱり起こる批判と非難。それこそ土下座でもしなければ許されないというのはちょっと拙いけれどもそこへと至る道を自分で切り開いている訳で自業自得感は否めない。南京事件の問題だとかあいちトリエンナーレへの反発だとかライティな層に受けるネタでは喝采を浴びて批判をかわし選挙には落ちなかったものが、大人げないみっともない所業には大量の批判が起こるというのも日本らしいと言えば言えそう。それだけに立場にヤバさも感じ始めているだろう。次はなにをやるかな。坊主にして土下座かな。


【8月23日】 横浜市長選が行われて自由民主党が分裂気味となった選挙の中で菅義偉総理大臣の後押しを受けていたという小比木八郎候補は立憲民主党が推した山中竹春候補に及ばず落選。代議士を辞めて出馬したからには当選して菅総理の権威も世間に指し示す尖兵だったのかもしれないけれど、それはかなわずむしろ菅総理の権勢が大きく衰えていることを満天下に見せつけてしまった。林文子前市長が出馬していなかったらその分の票が小比木候補に回ったかというと追い上げてきた田中康夫候補へと回った可能性もあって結局のところ小比木候補は落選しただろう。元から無理な選挙だったのかもしれない。

 そんな情勢が読めていたら林候補に絞って推しただろう自由民主党だったけれど、誰が何を言っても聞かなくなっているという噂を証明するかのように小比木候補を推して自爆した菅総理に待っているのは自由民主党総裁選での対立候補を挙げられての落選といったところか。そうでもしないと自民党は次の総選挙で大敗するといった思いんだろう。それだと権力から滑り落ちると菅総理が、パラリンピックを終わったタイミングで解散総選挙へと打って出て、総裁選を先延ばしにする可能性もあるけれどそれをやられたら自民党が公明党と併せてても過半数を割り込む可能性があるとか。それを許すまじと動いた先で菅総理はどのみち先がないってことかもしれない。

 だったら最後に大盤振る舞いとばかりに新型コロナウイルス感染症の流行を抑制するべくロックダウンを持ち出す一方で国民全員に10万円といわず30万円くらいをばらまいて欲しいところだけれど、本人だけは未だ権勢を保って次の総裁選も衆院選も楽勝だと思って入る節があるからややこしい。誰が言っても聞かない御仁を分からせるには何が必要なんだろう。甘言かそれとも鉄拳か。どちらにしても国の命運を左右する事態でふるう技ではないよなあ。それだけ真っ当な人材がいないってことなのかもしれない。これで引っ込んだところで次にでてくるのは岸田文雄政調会長だろうから、安倍晋三前総理の影法師くらいにしかならないよなあ。高市早苗さんにはちょっとご遠慮。だってアレだもん。

 しかし政治家は逆張りが好きなのか、ロックダウンによる人流の抑制を給付金によって担保するよりは感染が拡大したならしたで病院が引き取ればよろしい、それを拒否するなら名前をバラすぞといった脅しに出た。いやいやすでに病院は新型コロナウイルス感染症に関する受け入れ体制を目いっぱいやっていて、それ意外はほかの心筋梗塞でも脳内出血でも交通事故でも何でも入院が必要な他の疾患の受け入れに汲々している状況で、それで病室病棟病床をコロナに持って行かれたら、他の病気や怪我の人たちが受け入れられないまま死んでしまう可能性だって拡大する。妊娠している人がコロナ患者で受け入れられず早産で赤ちゃんがなくなった痛ましい事態が、普通の妊産婦にも広がりかねない改悪を平気で口にして実行しようとする政治に誰が待ったをかける? それが衆院選ってことになるんだろうなあ。いつやるんだろ。

 朝に家を出ようとしたら激しい雷と雨で出られず1時間ほど様子を見てから船橋中央図書館へと出向いて3時間くらい入力作業。一段落したのでフレッシュネスバーガーへと移動して2時間くらい作業を続けてどうにかこうにか1日何かした気になる。夜になってZOOMを使ってフランス人のアニメーション監督にインタビューをしてイシグロキョウヘイ監督による「サイダーのように言葉が湧き上がる」を薦めたけれども果たして趣味に合うかなあ、好きそうな宮崎駿監督とか大友克洋監督とか今敏監督とはまるで傾向が違うものなあ。でも色使いの独特さがそのフランス人監督の作品に似て挑戦的なんだ。今の日本でも珍しい傾向の作品にどんな反応を示すか楽しみ。まあ反応を聴く機会なんてないだろうけれど。まずはとりあえずインタビューをまとめよう。


【8月22日】 とあるアニメーション映画の覚え書き。後半生の男勝りともいえる活躍と、そしてアウトロー達との交流から女傑として名を馳せた人間の大人にもなっていな時代を描いて誰が興味を持つんだろうと思ったけれど、そうした後半生を持った少女だからこその時代にあって形にはまらない言動を見せては虐げられ疑われ訝られても自分を曲げずに突っ走っていくその姿が、未だ世界の中で決して立場が平等となったとは言えない女性たちへの賛辞となり勇気を与え立ち上がる道を開くことになっていると言えるのかもしれない。

 折しもアフガニスタンではターリバーンの政権が誕生して一時は自由を得ていた女性たちに厳しい状況がもたらされるような雰囲気が出ている。同じアニメーション映画の「ブレットウィナー」に描かれたような女性が男装をしなければ通りも歩けないような時代が訪れるかもしれない状況にあって、男装をしてでも突破していこうとする少女の姿を示すことによって少しでも自由の維持であり発展につながるかもしれない。そんな応援の映画になっているとも言えそう。そんなストーリーを様式的でカラフルであっても個々にはしっかりと描写された美術の中に描いてのけた監督は凄い。途中の保安官との追いかけあっこはハンナ&バーベラというよりは「未来少年コナン」であり「ルパン三世」だったなあ。好きなんだろうか。監督に聞いてみたい。

 ちょっと前に行ったインタビューが塩漬けになっていたのを樽から出して文字を起こして原稿にまとめる作業を朝からタリーズにこもってせっせと仕上げる。3時間ほどでどうにかなったので松屋に入って噂のシーフードカレーを食べる。辛くはないしさらさら系ではあるけれどもこってりとして美味しかった。とはいえ個人的にはCoCo壱番屋根のどろりとしたシーフードカレーも嫌いじゃないので今度は久々にそっちも食べに行きたいけれど、高いんだよなあCoCo壱って。このご時世になかなか値下げをしないのはそれだけ味に自信がある証拠でもあるんだろうけれど。

 どうにか形だけはできたので今日も今日とてイオンシネマ幕張新都心へと出向いて行って「子供はわかってあげない」を見る。2度目。イオンシネマの決して大きくはないシアターでもやっぱりテアトル新宿波ではあるんで上白石萌歌さんの水着姿をしっかりじっくり堪能できたし豊川悦司さんのブーメランな海パン姿もたっぷりを浴びせられた。あの体型はあの映画のために作ったんだろうか、「いとみち」のお父さんはもうちょっと引き締まってたいような気もするけれど裸になっていないからそこはよく分からないのだった。超アップになった顔のシミなんかはドーランで作ったわけじゃないよなあ、それだけやっぱり歳をとったってことなんだろうか、トヨエツでも。そりゃそうだ。「NIGHT HEAD」から四半世紀は経ってるんだから。

 日本の3DCG映画は表情が乏しく酷評されているって記事が出ていたのを見たけれど、具体的にどんあ3DCG映画がどんな風に酷評されているかといった例示がなく、ピクサ−/ディズニー至上主義的な立ち位置からドリームワークスでありミニオンズで知られるイルミネーションといった海外の3DCGにおyるアニメーション映画と比べて日本のはといった印象論で語っている印象。でも現実の日本の3DCGアニメーションは「STAND BY ME ドラえもん」が中国で圧倒的な人気を得たりしているし、ポリゴン・ピクチュアズが手がけたテレビシリーズなんかがアメリカでアニー賞とかいろいろな賞を受賞している。

 酷評どころが好調だったりする実情に迫らず表情が乏しいとか行っているのはいったい誰の入れ知恵なんだろう。なるほどピクサーライクな3DCGアニメーションで日本がどこまでできているかって話はあるけれど、それすらストーリーはともかく「えんとつ町のプペル」がひとつ成果を見せてくれている気がするし、2Dライクなセルルックの場合だとオレンジが手がけた「BEASTARS」とか「宝石の国」がとてつもないクオリティの3DCGアニメーションを見せてくれている。

 あとMAPPAの「ドロヘドロ」とかも。表情付けだって2010年ともう11年も前の「コイ☆セント」で森田修平監督がモデリングをいじることで横から見ても口がちゃんと開いて見えるような工夫を取り入れていた。何よりローコストであってもたつき監督の「けものフレンズ」は豊かな表情と情動を揺るがすストーリーによって日本のみならず世界にファンを作って「ようこそジャパリパークへ」を大合唱する外国人さえ生みだしている。そうした実例をあげず印象だけで日本はダメだと言っても出口なんか見えない訳だけれど、調べず印象だけで語りたい人には受けているからなあ。そこが厄介なネットでの受け売り傾向。やれやれ。

 フジテレビの元経済部長もすっかりライティになって高市早苗さんににじり寄り。「『中日本を無力化するのは簡単なことだ。日米の衛星を破壊して、海底ケーブルを切断すれば通信は途絶える。サイバー攻撃で変電所を攻撃すれば、ブラックアウトが起き、自衛隊は通信もできず、装備も一切使えなくなる。そこに極超音速のミサイルが飛んできたらどうなるか』と懸念を示し」たって、書いているけど、通信が途絶した日本に中国はいったいどこからどうやってサイバー攻撃を仕掛けるんだろう。そもそもどうやって日米の衛星を破壊するんだろう。そういった疑問を呈するどころか受け売りを拡散しているところに政治ジャーナリズムの暢気さが見てとれる。さすがに有権者も頓馬じゃないから情動で中国ヘイトを煽ってる人には警戒すると思いたいけど、これもまた威勢の良い声に流されがちなネットの話でもあるからなあ。要注意。


【8月21日】 それはつまり事前に関わっている人たちについて徹底的に調べ上げ、これは問題だという人がいたら関連する仕事を外して練り直して完全に近いものを公開するといった気構えがないか、あるいはすでに調べた上でちょっぴり物議を醸しそうな人がいたりするのが分かったものの、ここで言ってしまうと四方八方から鉄砲玉が飛んできては蜂の巣にされてやり直しをさせられる可能性があるから黙っていようという現れなのだろうか。

 8月24日というからもう数日後には新国立競技場で実施される東京パラリンピック2020の開会式院ついて、大会組織委員会は携わっているクリエイティブなメンバーについて事前に発表しないことを決めたとか。誰が携わっているかでどういった内容になるかを想像しつつ中継なんかの準備をし、または予定稿なんかを用意するのがテレビ局でも新聞社でも普通なだけにそこで一切の情報がないまま本番を迎えた時にどんな困難が起こるかが今からとても気になる。

 それともテレビ局には事前にプログラムの段取りを渡して中継の時にちゃんとコメントを差し挟めるようにしているのかもしれない。だとしたらそうしたスタッフについての情報を得ながら報道機関でもあるメディアはだんまりを決め込んで組織委員会といっしょに秘密を守り通すってことになる。もちろん営業なり制作と報道とは違う部署だといえば言えて営業的な部部とは切り分けておかないといけないという話は分かるけれども、報道でつかんだネタを金儲けに使うんじゃなくその逆で、営業が秘密に請けおったネタならそれを報道が暴いて報じることもまた報道の責務だろう。そうした動きがないまま当日になってしたり顔でクリエイティブ関係者の名前を添えて報じるところがあったら、報道にもいよいよ焼きが回った例だと観て取られることになりそう。

 「日本は世界の子供苦しめる」じゃねえだろ日本テレビ放送網。グレタ・トゥーンベリが温室効果ガスを排出している日本を非難しているといったような見出しで記事を出しているけれど、元ネタとなったニューヨーク・タイムズの記事では日本に限らず中国やロシアやアメリカとった経済大国の上位10カ国で合わせて7割くらいの排出量に達しているという話でつまるところはいつもどおりの先進国批判。当たり前過ぎてニュースにすらなり得ないところをこうやって日本だけを非難したかのような見だしで記事にすることで、ネットなんかでバズりたいと思っているのだとしたら日本テレビ放送網もテレビ局のくせに卑しくなったものだなあ。

 やっぱりネットを運営している現場でアクセスを稼げと厳命でも出ているのだろうか。それでお手軽にバズる見出しを取るようになっていたのだとしたら、いずれ放送の現場でも似たような状況に陥っていくんだろう。というかワイドショー的な発想は放送の方が先か。扇情的な見出しで煽って視聴率を稼ぐのはUFOの時代から日本テレビ放送網のお得意だった訳だし。そんな日本テレビ放送網でディレクターをしていた人が、アーチェリーでパラリンピックに出場するってことで何やら24時間テレビに向けて持ち上げられていたにもかかわらず、7月に開かれた大会で他人の弓を勝手に触った門で咎められ事態したとか。違反として既に咎められ処分待ちだっただろうことは分かっていたのに、最近まで黙っていたのはテレビで誘って視聴率を稼ぐためだったとしたらやっぱり恥ずかしい話だけれど、どうなんだろう。

 タリーズにこもってインタビューっぽい記事を仕上げてから時間ができたのでイオンシネマ幕張新都心へと出かけて「竜とそばかすの姫」のハイグレード音響上映をULTIRAスクリーンで見る。爆音系ではないから何がどう変わっているかははっきり分からないけれども繊細になって粒が立っているように聞こえるといえば聞こえた感じ。それであのすずが身バレした中で歌い大観衆を感動させるシーンにやっぱり感動してしまう。声が詰まったところで響くペギー・スーだから誰かの誘うような「ラーラララー」という声が耳に入ってそしてだんだんと盛り上がって言ってベルに戻ってくじらの上で歓喜の声を上げるあたりが感情的にはクライマックス。そして至るすずとしての勇気ある行動に感激してエンディングへと向かうのだった。何度見ても良い映画。心が弱っているときに見ると持ち上がる感じがするので上映中はまた行こう。60億円は超えるかなあ、どうかなあ。


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