縮刷版2021年7月中旬号


【7月20日】 21日が「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の上映最終日ってことで、やっぱり最後にもう1回くらい見ておくかといろいろな劇場をあたったら、結構な割合でチケットが完売になっていた。同じことを考えた人が多いってことなんだろう。何度見ても新しい発見があるし、何度でも見たいシーンもあるといった具合にリピーターを呼ぶ映画。ブルーレイとか出るタイミングできっと上映とかありそうだけれど、大きなスクリーンで見られる機会がしばらくないなら目に焼き付けておくのも悪くないってことで、とらいえずTOHOシネマズ日本橋の予約。17度めとか18度目くらいになるのかな。もはや覚えてないけど見納めてこよう。

 とか言っていたらアマゾンプライムビデオで8月13日から「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の配信が日本でもスタートするということで、加入していればそれこそ毎日だって見られる状況になるという。これで家に60インチくらいの4Kテレビとかがあってアマゾンを再生できるようにしたら劇場並みとはいかないまでも相当な迫力の映像を楽しめそうな気がするけれど、圧倒的な情報漁を持った映像をネット経由で見るのも負担がかかりそうなんで、散々っぱら見て目に焼き付けた迫力はそれとして、物語の細部を確かめる意味で1日1回は「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を見ることにしよう。

 ここで居座って詮索でもされたら傷口を広げると思ったのか、東京オリンピック・パラリンピックの関連文化イベントの1コーナーに名前が挙がっていた絵本作家が参加を辞退したことを公表。追求の目は病んだもののそうやって問題にされたこと自体は消えた訳じゃないから、何か公の仕事が回ってくるたびに掘り起こされては叩かれるスパイラルに入ったってことになるのかな。絵本の仕事自体が子供を楽しませるというよりは、子供を持つ親の不安にそっと寄り添うような内容で、財布を握った親に買ってもらっているといった雰囲気があったりするから、公職に関わるよりもそうした信者を相手に講演し執筆していった方が深く長く活動できるって分かってもう出て来ない可能性もありそう。あるいは政治に手を回して総理大臣御用達を得るとか。菅総理ってヤバいネタとか調べず周囲の方針に乗っかる感じがあるから、そういう事態も起こりえるんだよなあ。どうなるか。

 そんな絵本作家が沈んだと思ったら今度は開会式や閉会式などの式典を仕切るプロデューサーとやらが出て来て突拍子もない言動をインタビューで吐き散らしていてちょっと炎上しそうな予感。何というか尊大というか、復興五輪という国も称揚したキャッチフレーズが式典のどこにも見当たらないことについて聴かれると、省いたつもりはないけどコンセプトにはたまたま書いてないだけって意味不明の返事をしている。書いてないということは書いてないということの以上でも以下でもない訳で、省いてあればそれは無いに等しいにもかかわらず、あるような雰囲気を保とうとする。そりゃあ除きましたとは言えんわなあ。

 あと「ダイバーシティー&インクルージョン」って言葉がお好きみたいで、それがいったい何かを寄稿と「ダイバー」と口にした記者に対して「それを言えない段階でだめ」ってナニサマな言動を繰り出して来る。いやいや記者だって意味が分からないから聞き直そうとしたんじゃなく、具体的に何かを尋ねようとしただけかもしれないじゃん、にも関わらず鬼の首でもとったかのように不勉強さをあげつらうのは大坂上がりでバリバリ言わせてる政党の得意技とどこか似ている。繋がってる? それはなくても尊大なのには変わりがない。

 コンセプトの説明書きに日本語がないのはって聞かれたら、世界に分かってもらいたいから英語にしたって平気で言う。おいおい世界にゃ英語の倍も使われている中国語って言語があるんだぜ、それでどうして英語だけでオッケーなんだ、というかダイバーシティを重んじるなら全言語対応だって良いじゃないか。それがどうして英語だけでオッケーとなるんだろう。まったくもって意味不明だけれど、一読して読んでそうと分かるインタビューを直さず掲載したのは記者たちが、インタビューしていて受け答えに何か感じるところがあったってことなんだろう。それこそ読めば分かるその人となり。そんな人に率いられて開会式よどこへ行く。

 そんな東京オリンピックの取材のために来た外国人を含めたプレスが陣取るプレスセンターで提供される食事が最低価格のカレーですら1000円するとかペットボトルが280円するとかいったぼったくりが横行。オフィシャルスポンサーなんだからコカ・コーラが大量の水とコーラを送り込んでは浴びるように呑んでもらって改めて好感を抱いてもらうチャンスなのに、それをしないのか組織委員会がさせないのか。謎めく。一方でカシマスタジアムに呼ばれた五輪観戦の子ども達がペットボトルを持参するならコカ・コーラ社のものに限定で、そうでないならラベルを剥がせと言われたとか。法的根拠もない強制をなぜ出来るのか。謎めくけれどだったらMAXコーヒーを全員が持っていけば良いとも。あれも立派にコカ・コーラ社の清貧なんだから。


【7月19日】 朝から「週刊少年ジャンプ+」に掲載された「チェーンソーマン」の藤本タツキさんによる読み切り漫画「ルックバック」が話題騒然。それは思いも寄らない事態によって夢半ばで道を断たれた人を思う内容が、前日に2年目を迎えた今日とアニメーションの事件に対する追悼を含んでいるものとして受け止められたからで、タイトルを含めて仕込まれた言葉もオアシスによるテロに沈んだ人たちへの追悼を歌った楽曲にちなんだものだったところに、藤本さんの事態への深い憂慮が感じられ、それを漫画にして描いて無料で読めるようにした意図への賛意を覚えて、改めて追悼の思いを深く抱く。

 一方でクリエイティブへの思いを抱き才能への自信を持っていたのが凹まされ、諦めるかと思ったら称賛を浴びて前向きになって一緒に歩み始めようとする展開が、才能は鍛えれば伸びるものだし自分は卑下するものではないってことを語っていて、何もないと諦めている人や挫折したと嘆いている人に励みになった。多くのクリエイターが読んで参道を表明したのもそうした内容にクるものがあったからだろう。一方で激しく讃えられた内容において敵となった存在への、無条件での憎しみも惹起されたけれども現実世界で事件を起こしたものたちへの、憎しみの一方でそうした人になってしまった状況への懐疑が失われては拙いという気も。そこはそこでしっかり把握し改善に努められるようにしたいと改めて。

 畠中恵さんの「しゃばけ」シリーズがアニメになった。一気にテレビシリーズとはいかないまでも、「夏目友人帳」を手掛けている朱夏がやはり「夏目友人帳」の劇場版を手掛けた伊藤秀樹監督で作っただけあって。ほんわかとした空気の中に人間と、妖(あやかし)たちとの交流めいたものがつづられていてちょっとした興津店を感じる。文庫最新刊「てんげんつう」で解説を書いたときに、「しゃばけ」シリーズと「夏目友人帳」との共通点について触れたけれど、その時は同じ座組でアニメ化が進んでいるなんて知らなかったからちょっと驚いた。やっぱり同じ雰囲気だと意識している人がいるんだろう。これで若だんなの声が神谷浩史さんだったらもう「夏目友人帳」だけれどそこは榎木淳弥さんになっていた。いろいろなエピソードをスポット的に映像にしてついだアニメからはシリーズの魅力が伝わってくる。

 そもそもがどうして間際になってのメンバーの発表だったのかが気にかかるところで、ここで人選でミスがあったら取り返しがつかないと分かっていたならもうちょっと、リカバリーできる段階で発表をして世間にもんでもらった上で確定すれば、どうにか東京オリンピックの開会式には間に合っただろう。それとも間に合わないタイミングで発表すれば、メンバーがどうであってもひっくり返すなんて無理だとわかってもらえるとでも思っていたのか。だとしたら世間をなめていたってことになる。というかそれだと小山田圭吾さんの過去の問題を知っていて起用したってことになる。どうなんだろう。

 そこはわからないにしてもさすがにこのタイミングなら降りろとは言わないだろうと考えたのか、東京オリンピック組織委員会の武藤敏郎事務総長は小山田さんをそのままで行くことに余人をもって代えがたいようなニュアンスでもって了解を求めていたけれど、燃え上がっていく火に政府の方がこれはまずいと思ったのか解任をあるいは要求して、それでは体裁が悪いとみたのか本人の方から辞任を申し出てそこに関しての火は消えた。

 消えたけれども一方で残り4日間でいったい音楽をあてはめられるのかが難しいというか無理筋というか、自分がプロデューサーだったらそんなスケジュールで新しい音楽なんて作ってもらえないし、音楽に会う映像だって作れないということで逃げ出すかその時間自体を削るかしただろう。それができないとなった場合にいったいどういった取り繕い方をするのか興味が及ぶけど、テレビがないのでリアルタイムで開会式を見ることはなさそうなんで世間がどう騒いだかを耳に聞いて理解に努めよう。

 ともあれこれで一件落着かと思ったら、別の方面から火の手が上がり始めた。オリンピックに関連した文化プログラムがウエブ上で繰り広げられるそうで、その中のひとつのプログラムに子育てに関連して母親の承認欲求を満たすような内容の絵本を書いては母親に大うけしている絵本作家を起用した映像なんかが作られるてあって大炎上。過去に先生をいびっていたってエッセイか何かにも書いているらしく、小山田さんに続いてバッシングが向かっている。そもそもがどうしてそういう人が起用されたかってあたりで、知り合いベースでつながっていく文化のある意味で好ましいあり方が、精査の必要な場で逆に作用したとも言えそう。燃え尽きるかどうなるか。燃えたら次を燃やしに行くのも世間だし、猥褻写真で逮捕され罰金を支払った写真家に今度は向かうのかな。それはそれで厄介な現象。


【7月18日】 日本のアニメスタジオがあの「スター・ウォーズ」をテーマにしたアニメを作る「スター・ウォーズ:ビジョンズ」のジャパンキックオフで登壇した監督達が喋っていたことから少しずつ。神風動画の水ア淳平さんはどんな話かと聞かれて「個人がライとセイバーを手に取ったら? という話ですね」と答えていた。「僕とデザイナーの岡崎能士さん、CGの水野貴信で取り組んでいます。和っぽいのは岡崎さんに乗っかったからかな」。だから「ニンジャバットマン」的な雰囲気のアメリカ甚も好きそうな和風侍なビジュアルが出来上がったって印象。そして「『スター・ウォーズ』を手がけるようになったきかっけ」については「どうもポリゴンピクチュアズの塩田周三さんだと思います」と話してた。

 「ある日、ロスから連絡をしてきて、今、ルーカスのPDと飲んでいるんだけれど、淳平は『スター・ウォーズ』好きだった? って聴いてきたんです。嫌いな人いるの? って。紐解いてみると、そこから企画の話があったんじゃないかな」。ネットワークは重要だ。「やると決めるきかっけですか。会社のテーマとして“家族孝行””親孝行”というのがあるんです。作品を作ることで、スタッフの誰もが家族孝行や親孝行をできるかというものです。『スター・ウォーズ』は若いスタッフにはあまり関心がないかもしれませんが、親とか家族には見ている人がいます。そうした作品を手がけることで親孝行、家族孝行になるんじゃないかな」神山健治さんは自分孝行になったけど若い人でも『スター・ウォーズ』をやったんだと言えば親も親戚も分かってくれるからなあ。そういうものだ。

 昨日は中山競馬場でワクチンを接種してから渋谷のユーロスペースで「いとみち」を見るまでの間、新宿のK’s chinemaで「片袖の魚」という短編映画を観たのだった。文月悠光さんによる同題の詩を原案にして、トランスジェンダー女性が日々の生活で経験していることや感じていることを描いた30分とすこしの短篇映画で、制作にあたって主役のトランスジェンダー女性を演じる人を、トランスジェンダー女性からオーディションによって選んだということでも関心を集めた。結果、選ばれたのはイシヅカユウさんというモデルなどの世界で活躍している人で、演技が専門ではないけれどもナチュラルに映画の世界に溶け込んで役を演じきっていた。

 そのストーリーは今という時代にあっても決してナチュラルな、良い意味での無関心の対象としてトランスジェンダーの人たちが生きてはいないといった状況を感じさせるもので、イシヅカユウさんが演じた新谷ひかりは、アクアリウムを設置してメンテナンスもする会社で仕事をしているけれど、出向いた仕事先で普通に仕事を終えたあと、トイレを貸してといった瞬間に応対していた人が躊躇いを見せ、上にだれでもトイレがあると行ってそちらを使うように示唆する。瞬間にふっとさす影。とはいえそこで反論も異論もしないひかりは、次に出身地に近い場所にある会社に設置の見積もりをとりにいく。

 そこでひかりが好きな熱帯魚のクマノミの話になって、群れの中で雌が死んだら1番からだの大きいオスがメスになると説明すると、相手側の担当者は「ふうん、ヘンな魚だね」と何の気なしに言った言葉にやっぱりひかりの表情に戸惑いが浮かぶ。追い打ちをかけるように担当者が「もしかして男性ですか」と尋ねてくる。そこに悪気があるようには見えず、次の仕事も約束して分かれるけれどもそんなちょっとした描写の積み重ねが、何かしらの好機を向けられているか、あるいは向けられているのではと感じざるを得ない社会のトランスジェンダーに対する空気なようなものを浮かび上がらせる。

 悪気はないのかもしれない。応援しているのかもしれない。けれども完全にはナチュラルでスムースでバリアフリーではいられない存在としてのトランスジェンダーの今を、短い中に描いた佳編。欲を言うならイシヅカユウさんが言葉も容貌も姿態もスレンダーな女性にしか見えず、最初の店員も次の担当者も何を臆して”区別”の意識を持ったのか不思議に思えたことか。とはいえそこで途上の人を選ぶことが、映画を通して容姿を土台にした偏見の在処を顕在化させかねないとなれば、物語の中から何となく”区別”という名の”偏見”が存在することを、感じさせるしかないのかもしれない。

 演じるにあたってイシヅカユウさんは、トランスジェンダー女性が過去、メディアの上で担わされていたある種のロールに沿った役柄や演技をさせられるのではないかといった不安があったそうだけれど、映画は逆にそうしたものとは一線を画して、ナチュラルに生きることへの渇望をにじませるものになっていた。とはいえある種のロールを負わされた人たちへの批判はなく、そうした人たちが登場して踊ったり、酒の相手をする店を出して生き方として称揚している。何にだってなれること。それを誰も好奇と嘲笑の対象にしないこと。大事なのはそこなんだろう。未だ途上だけれどいつかそこにたどり着けるまでの指標として、「片袖の魚」という短篇の存在を刻んでいこう。

 イオンシネマ幕張新都心のULTIRAで細田守監督の「竜とそばかすの姫」を観る。2回目。やっぱり最高。展開が分かっているから間合いもつかめて繊細な演出も見えるようになって来た。サックス吹きながら暴れ回るカミシンが気になって仕方が無いルカちゃんとかが実に愛らしかった。あと、もしかしたらしのぶくんはこっそりすずの後を付いていって遠巻きに見てたんじゃないかと少しだけ思った。シチュエーションについては説明しないけれど、結構批判を浴びているシーンだけにそういう解釈が成り立てば状況的にも許せるし、展開的にもきれいに収まる。

 「あの子たちを守る鈴を見て、なかなかやるなって思った」「かっこよかったぜ」という小説版にもあるしのぶくんのセリフからの類推。どうなんだろうなあ。それこそすずを〈U〉に招待したヒロちゃんを招待したのがしのぶで、実は5賢人の1人だとかだったら凄すぎるけどそれは流石にないか。ともあれ見れば見るほど“分かる”映画。やっぱりクライマックスのライブには圧倒されて分かっていても涙がにじむ。その感慨を味わいにあと5回は見に行きそう。ドルビーシネマ版とか出来ないものかなあ。


【7月17日】 「わくちーわくちーわくちー、わくちーをうつーうとー、うでがーうでがーうでがー、いたくなーるー」。という訳で行ってきた船橋市の新型コロナウイルスワクチン集団選手で会場となっている中山競馬場へ。接種券が届いて家から徒歩5分の旧船橋グランドホテルとか、徒歩10分の船橋市役所とかには脇目も振らず、真っ先に集団接種の場所として挙がっていた中山競馬場に行くと決めて申し込んだのだった。だって面白いじゃん、競馬場で、それも直線が短い中山競馬場での接種だなんて一生に一度くらいしかない経験、やっておかないと勿体ない。

 でもってネットから17日の朝9時半からの予定を確保。まずは1回目だけれど2回目はどうするんだろう、月末当たりに申し込みが開始するんだろうかと思っていたら、ワクチンが不足していて募集はしばらく行わないという告知が出て、いったいどうするんだろうと心配になる。それでも読むと1回目の接種の募集を停止とあったから、これは2回目の分を確保してあって1回目を接種したらその場で次が決まるんだろうなと思っていたら案の定、そういった仕組みになっていて3週間後に中山競馬場へとまた行くことが決まった。人生は二度あった。シュシュトリアン三度あるかも。

 そんな中山競馬場には西船橋前からシャトルバスも出ていたけれど、とりあえず船橋法典からの地下道を歩きたいと西船橋から武蔵野線でひと駅乗って、降りて改札を抜けるとそこはすぐさま中山競馬場へ向かう地下道に入る。馬の絵が描かれた地下道を歩いて10分経たずに到着した法典門で、午前9時の開門を待って入って予約時間の9時半まで潰すかどうか考えたけれど、そこから両脇を皐月賞と有馬記念を制した馬たちの肖像が固めた通路を歩いて5分とかそれなりの時間がかかったんで、そのまま列の後ろについて申し込みをして次回の予約時間も確定させて、そして流れ作業的に問診票の確認から医師の問診、そして注射を経て15分の待機といった具合に、30分ほどで終わってしまった。

 病院よりも広々として空調も効いた屋内で快適に過ごせてこれはなかなかのオペレーション。もっともまだ1回目の接種を予約できていない人には、1カ月とか先になっても見えない予定に気分は時刻かもしれない。僕は年寄りなので許せ。帰りは西船橋へと向かうシャトルバスを使ったら道路が混んでて結構かかった。これはやっぱり通路を戻って法典門から返って船橋法典から武蔵野線に乗るのが速いかも知れない。あと場内の飲食店はことごとくが閉まっていたけど、タフィーショップはやっていてキタサンブラックだとかいろいろな馬のぬいぐるみは売っていた。さすがに大昔の名馬はなかったけれど、今の馬たちはいるんでその中から「ウマ娘」にいるのを仕入れておくのも将来においてたのしいかも。

 今日も今日とて横浜聡子監督と駒井蓮さんのトークがついた映画「いとみち」の上映に渋谷のユーロスペースまで。映画を観るのは3回目でそのうち3回で駒井さんや横浜監督を観ているのはなかなかの確率か、ってそうしたイベントを選んで行っているからお目にかかるのは当然か。さて今回は駒井さんが横浜監督に映画の気になるところを質問していく感じで進行。どうやら脚本上では相馬いとが青森メイド珈琲店の楽屋で黒川芽以さんが演じる先輩の葛西幸子に髪をとかされ涙を流す場面から、三味線を持って店内に向かおうとするシーンだったとか。

 でも髪をとかすシーンは本編ではいとが演奏をする前に使われていて、かつて母親に髪をといてもらった思い出とリンクして幸子さんの優しさを感じさせつついとが過去にひと区切りを付け、決意を持って新しい自分へと向かう決意をするような印象を醸し出している。だからあの場面にあって今となっては正解だった気がする。というか髪をとかして楽屋から出て行くシーンガラスとだと演奏シーンはその前ってことになるから、継続したメイド喫茶でずっと演奏できるって喜びをそこに込めようとしたんだろうか。気になった。

 そして映画のラストには、いとが雲ひとつ無い岩木山に向かって手を振るシーンを持ってきたことで、直前に岩木山の頂上から自宅に向かって手を振る場面とリンクして、山に見下ろされた青森であり弘前であり板柳という場所に生きている人々に、そこに生きているんだという実感を改めて与えた。それはご当地の称揚にとどまらず、そして日本なり世界のどこかに生きている人たちの足を改めて地に着けさせた。そういう意図があったかは分からないけれど、ご当地映画であるとともに開かれて普遍的な映画になった。さすが。改めて映画は編集次第ってことを思い知らされた。そこで使える素材を撮っておいた監督とカメラマンの感性もやっぱり凄いなあ

 「竜とそばかすの姫」について少し補足するならもうちょっと、歌のシーンが欲しかったというかもっとあって良かった気はする。少なくともベルが50億人を集めてライブをするシーンではいったん、歌わせて聴衆を大いに盛り上げたところに竜を突入させてライブを壊された怒りを聴衆と、そして映画を観ている観客も含めて竜に向かわせた方が盛り上がっただろう。これが「マクロスF」とか「マクロスΔ」だったら確実にやっていた。というか「マクロスΔ」はライブのただ中に空中騎士団を突っ込ませて台無し感を増幅させていたからなあ。そういう意味では音楽アニメは河森正治さんに一日の長あり。その意味で細田さんには音楽面でのサポートが必要だったかも。フライングドッグなりランティスなり。マシマシバージョンを作って音楽をもっとぶっ込んで欲しいなあ。ささやかな願い。


【7月16日】 オリンピックに関連して一時、取り沙汰されていたのが1964年の東京オリンピックで公式ユニフォームのデザインをしたとという“定説”だったけれども、それは間違いであることが服飾研究家の安城寿子さんによって明らかにされていたことに気がついた。VANの創業者として日本の服飾にある意味で革命を起こした石津さんを祭り上げたい気分はやっぱりあって、海外にも引けを取らない真っ赤なブレザースタイルをその仕事の筆頭に挙げたら収まりは良いけれど、どうしゃらそれは秩父宮さまのナショナルカラーをという意見から、テーラーの望月靖之さんが考案したものだったとか。ほどほど“俗説”ほど疑ってかからなくてはいけないという話。もしかしたら100年後、東京オリンピック2020のシンボルマークは佐野研二郎さんがデザインしたっものだって“俗説”が広まっていたりは……さすがにしないか。

 シンボルマークの事実かどうかは分からないけど似ているということから持ち上がった剽窃騒動に始まって東京オリンピック・パラリンピックに関連した騒動は間際になっても続いているそうで、新しく開会式や閉会式の音楽を担当することが決まった人が過去、雑誌で告白していたいじめの問題を取り沙汰されて結構な騒動になっていた。確かに読んで気分が悪くなる情報ではあるけれど、事実かどうかを確認しないで雑誌を掘り起こしてこう喋っていたと報じるメディアもまたいじめに荷担しているという構造が露わになって、今のこの社会の足腰の弱りっぷりが感じられて仕方が無い。

 というか組織委員会側でそうした情報をすでに把握した上で、過去に対して謝罪なり撤回なり言い訳なりをさせるかリアクションを考えた上でどうするかを決めてから発表するなり依頼すればいいものを、そうした身体検査すらままならない状況で進めなくちゃならいないくらいに切羽詰まっていたりするところに、すべてを完璧にこなそうとしてきた日本のある意味での美徳も、ぐずぐずに崩れ去っていることが分かる。女性の少なさも際立っているし。クリエイターに女性がもともと少ないなんて意見もあるけど、見渡せば作曲だろうと建築だろうとプロデュースだろうと衣装だろうと選ばれた人に匹敵する女性はいる。組み合わせの問題だと言うならそこを調整するのも組織委員会なのに出来ないんだろうなあ、する気もないのかも。やれやれ。

 誰にだって隠したいことはあるし、忘れたいこともあるし、守りたいこともあるし、逃げたいことだってあるけれど、それで本当に良いの? ということを、物語に乗せ歌を通して語りかけてくれたような物語だった。細田守監督の長編アニメーション映画「竜とそばかすの姫」のことだ。世界の50億人が集うというインターネット空間の〈U〉に、ベルという名の歌姫がいて絶大な人気を誇っている。美しい容貌としなやかなボディスタイルをもった美人だが、顔にはそばかすとわかる文様があった。

 それは、〈U〉という仮想空間がプレイヤーの単純な容姿だけではなく、生体情報を読み込んで”内なる自分“とでも言えるものがアバター、〈U〉では〈As〉として再現されるから。ベルの本体には顔にそばかすがあって、それがスキャンされ再現されたものらしい。VRゴーグルのような大仰なものではなく、ワイヤレスイヤホンのようなものを両耳に取り付けるだけでスキャンも、そして意識の没入も行うデバイスの近未来感のある設定はユニークだった。

 だったらベルのオリジンは美人でスタイリッシュなのはありのままなのか。違う。ベルの正体は高知の田舎に暮らして山間部からバスと電車を乗り継ぎ学校に通っている内藤鈴という女子高生。皆からすずと呼ばれる彼女はまだ子供だったころ、水難事故で母親を失い父親と二人暮らしをしていた。その容姿はといえば平凡を絵に描いたよう。なおかつ母親を失ったことが心に傷を残していたのか、人前では唄うことができなかった。そんなすずがベルになったのは、誘われて〈U〉に入った時、ふっと歌が出てきたから。群衆が自在に動き回ってそれぞれに仮想世界を謳歌している中にあって、いわばストリートミュージシャンのように歌い始めたベル=すずを誰もが讃えて、シンデレラが誕生したかというとそうはうまくは運ばない。最初は誰も注目せず、むしろうっとうしい存在として貶して誹る。

 自由とはいっても他人のやることにもの申したい人たちの集まりで、なおかつ〈As〉という仮面を被っていれば何だって言えるネットならではの状況が、そこに映し出されていた。ネットを決して楽園のようには扱わず、違う自分として簡単にやり直せる場所として描かないところに、細田守監督の状況を見る冷静さが感じられる。そんなベルだったけれど、すぐさま友人の別役弘香ことヒロちゃんの立ち回りもあって、たちまちのうちに〈U〉の世界に広がりベルをディーヴァになっていく。そこに現れたのが正義の味方に追われる謎の竜。ベルは竜が誰なのかを知ろうとする。

 せっかく他人になりきていれるネット空間で自分をさらけだすことの恐怖。けれどもそうしなければ前へとは進めない可能性。どっちを取るかと迫られる。隠していたから歌えたし、守りたいから隠したし、隠したことで逃げられたし、逃げていれば忘れられたかもしれない。それで楽ができるなら良かったし、ネット空間はそれで楽をできる場所にも見える。でも、本当にそうなのか? そんなことを問われて考え込まされた果てに物語りがたどり着く、現実の世界との繋がりが呼んだひとつの救いを目の当たりにして、ネットと現実との切っても切り離せない関係を知るのだ。

 そんな、現実とネットとが切り離せなくなった現在において、それでも共通の衝動を呼ぶものとして「歌」を持ってきたところに、細田守監督が「竜とそばかすの姫」に乗せて描こうとした人間の情感への期待めいたものが感じ取れる。正義を執行する者たちでも、悪党のように暴れ回る者でもなく、そこに立って唄うことで50億もの存在の視線を集め耳をそばだたせたベルの歌のもつ威力。それを、中村佳穂というシンガーソングライターの声を借りてスクリーンに現出させた。

 せり上がっていった情動が、広大なネットの空間を貫いて響くベルの歌声によって爆発するシーンの素晴らしさは、2020年代のアニメーション映画の、いや全部のエンターテインメントの中に刻まれ語り継がれるだろう。見終えてネットの凄まじさに酔い、現実の素晴らしさに安心しつつそんな2つの世界を自由に行き来できるようになる近未来、をどう生きるか、現実を隠してロールプレイをするのかそれとも現実をのばしてありのままの自分で勝負し続けるのか、考えてみたくなる。言えるのはそのどちらも受け入れる度量を持ちたいということ。持ってほしいということ。それこそがベルを選び、竜を救った〈U〉の賢者たちの願いなのだろうから。


【7月15日】 さすがに1カ月くらいも溜め込んでいると心にしこりとなって気分に関わってくるので、ネット会議の議事録を船橋市中央図書館にこもって3時間くらいかけてどうにかこうにか形を作り、それからVELOCHEに移ってどうにかこうにか仕上げたものを送ってひとつ、肩の荷を降ろす。それで完成って訳じゃないけれどもとりあえず、頭の霧が晴れた感じ。ここのところ夜になると眠くて仕方が無くって軽く9時間くらい寝てしまっていたけれど、どこかやりづらいところから逃げていたからなのかもしれない。つかえがとれたら眠くならないから朝まで起きていられるかな、いやいや明日は「竜とそばかすの姫」の上映だから早くに寝よう。

 「スター・ウォーズ:ビジョンズ」のジャパンキックオフでプロダクション・アイジーを拠点に「九人目のジェダイ」を作る神山健治監督が喋ったこととかつらつらと振り返る。「エピソードナインのあとの時代が舞台です。あの後、銀河系は平和になったのだろうかと考えつつ、『スター・ウォーズ』の魅力はライとセイバーとジェダイの存在にあるから、改めてライとセイバーとジェダイの騎士達がどうなったかというところから発想した話です。ライとセイバーとジェダイの再生のストーリーですね」

 もうエピソードナインを見たのも随分前のような記憶だけれど、そこで宇宙はどうなったのか、思い出しつつ見るといいのかもしれない。そんな神山監督は13歳の時に「スター・ウォーズ」を見て感動したんだとか。年齢が一緒だから僕と同じタイミングで見ているんだなあ。それだけに「『スター・ウォーズ』を観たときに、ルーク・スカイウォーカーという銀河の中の名も無い青年が、大海原に旅立っていって冒険を繰り広げるのが魅力でした。それをもう1度、別のキャラクターで描けたら面白いと思いました」という言葉は気になる。新しい世代のルークの物語、なのかな。

 「オリジナルのキャラクターが出ていない作品を今回は作らせていただきました。『スター・ウォーズ』を初めて観た時、自分は将来、『スター・ウォーズ』を作る人になろうと思いました。今、それを作れることになったので、とにかく喜びしかありません。13歳だった時の自分に戻ったようです」。世界にどれだけのクリエイターが「スター・ウォーズ」を作れるのか。その意味では良い機会を得たって言えるだろう。プロダクション・アイジーでは竹内敦志さんが「クローン大戦」を作っているだけに、横で羨ましいと思っていたかも。そういえば竹内さんの取材に行った時、入口で神山監督とすれ違ったんだった。聞けば良かった。

 そんな神山監督は、「攻殻機動隊」に留まらず「ULTRAMAN」と作り「ブレードランナー」まで作っていろいろ手がけているから、羨ましがっている人もいるんじゃないかな。とはいえそれらは3DCG。今回は手描きだから力も入っていることだろう。「今回の企画は日本の手描きアニメーションということで、アイジーの凄いアニメーターたちと久しぶりにアニメーションを作れるとなって、ワクワクして作りました。日本が誇るアニメーター達の手描きの熱量は、CGとは違います。細かく動かしていくとなると、作画の人は大変です。短篇ではあっても『スター・ウォーズ』は凄いタイトルなので、巧いアニメーターたちが心を込めて描いています。CGとは違った方向の熱量がこもった作品になったのではないでしょうか」。そこまで言うなら見てやりたいけどディズニープラスなんだよなあ、入るかどうするか。

 「100日間生きたワニ」の上映が明日の16日から多くの劇場で1日1回になってしまうのに興業の無情を感じる。あるいはシネコンの映画を商品としてのみ扱うスタンスへの絶望も。口コミで評判が広がって来た時には時間的に見られなくなった「マイマイ新子と千年の魔法」の悲哀がまたしても。そこまで言うかと問われるなら、そこまで言いたいアニメ映画なんだと言おう。それだけに初期、見もしないでいろいろと悪評を連ねて罵倒し、悪口のための悪口でネットを埋め尽くした人たちには、ひとつの文化を潰したんだという自覚を持って欲しいけれど、そんな自覚が抱けるなら最初からやらないか。あるいはひとつの文化を作ったと自慢するのかも。やれやれ。


【7月14日】 やっぱり大谷翔平選手はすごかった。MLBオールスターゲームの前日、ホームラン競争に出た時もソト選手が先に22本を打ってどうだと見せたところに大谷選手も同じ22本をすたんどにたたき込み、延長戦となってソト選手が6本を加えたら大谷選手も同じだけ叩き込んで譲らない。打者が専業でパワーも桁外れの大リーガーを相手に投手もしながら打者もする日本出身の選手が、堂々パワーで互角の勝負をしているのはやっぱり驚きだ。さすがにその次の3スイング勝負で、ソト選手が3本ともスタンドに運んだのに比べて大谷選手は1本目を打ち損じてホームランに出来ず勝負あり。そこで敗退したけれど惨敗ではないところにやっぱりとてつもない打者だってことを印象づけたんじゃなかろうか。

 その勢いで本場のオールスターでもスタンドインを期待したけれど、2打席ともヒットにならず打者としてはちょっと残念。とはいえ今度は投手として栄えあるスターターとなっては3人で討ち取って無得点におさえ、アメリカン・リーグの勝利に貢献した。1ばんから3番に並んだ選手ってだけでも相当なものだろうから、それをきっちり抑えてのけたところに投手としての凄みもあるってことが証明された。ホームラン競争ではりきり過ぎて疲れが残っているか心配したけれど、これはきっと大丈夫、後半戦も活躍してくれると信じたい。

 そんな大谷選手の活躍を取りあげて、どこかの新聞が日本人として誇らしいとか書いていて枡野浩一さんの短歌「野茂がもし、世界のNOMOとなったとて、君や私の手柄ではない」を思い出して気分がちょっとささくれた。同じだけのというか、もっととてつもない活躍を見せている大坂なおみ選手に対して日本人云々と書いただろうかと調べたら、祖父や母親の日本人としての血を引いているといった取りあげ方はされていても、国籍としての日本人であることを理由とした誇らしい気持ちには言及していなかった。ダルビッシュ有投手やNBAの八村塁選手についても同じ様な言及はないだろう。そこに何があるかって、考えれば思い浮かぶけれどもそういう引っかかりを抱かせることを厭わず、大谷選手をプレイヤーとしてではなく、日本人として誇らしいと書いてしまうメディアの周囲の見えて無さに将来をいろいろ考えてしまうのだった。

 漫画の複製原稿といったら誰だって漫画家さんが原稿用紙に描いたまんまのベタとかの塗りむらがめいたりトーンのはみ出しが感じられたりした上に、フキダシには元のネームが入っているかあるいは写植が貼ってあるものが、複製されると思うものだろうし展覧会で複製原稿が飾ってあったらたいていは、そんな感じに写植とベタのあとが感じられて、そして何より断ち切りがされず枠の外まで広く使って描かれているものだって思っているだろう。そんな複製原稿を販売する側も同じ認識でこれまで作って売っていたから、買った人たちの間にも共通の認識ができていたところに、まるで違ったものが来たから購入者も驚いた。

 「鬼滅の刃」の最終回から1話前、大正が舞台になった物語の最後のエピソードを複製原稿にして販売したところ、購入者が見てこれはいかがなものかといったものが届いたという。まずは墨ベタが真っ黒になっていて、そしてフキダシにはしっかり活字がプリントされている。つまりは雑誌に載った形であり、単行本になった形なんだけれどそこで購入者が嘆いたのは、元の原稿では大きく描かれていたものが編集の段階で体裁に合うように両脇だとか下だとかが断ち切られ、ちょっとだけ小さくなって雑誌なり単行本に掲載された形のまんま、印刷されて送られてきたこと。

 つまりは雑誌や単行本のページがバラで手に入っただけで、原稿と言えるものではなかった。もしかしたら印刷データを流用して安くあげようとしたのかもしれない。改めて原稿を撮影して印影も写植の具合も含め印刷したら高く付くだろうし。買い手は当然に抗議したけれど、そこで相手は原稿とは雑誌や単行本の形になったものであって作業工程も含めて原稿だといった言い訳をしたらしい。さすがにそれはおかしいし、そもそもが展示されたものと違うじゃないかと言いつのったら、それはちょっぴり詐欺まがいになるかもと改めたのか返金は認めたものの複製原稿であることは頑として譲らなかった。

 ところが、問題が大きくなって耳に届いたのか作者の吾峠呼世晴さんが問い合わせた途端に、すいませんでしたと謝ったというから不思議というか分かりやすいというか。消費者の異論ははねつけても作者の異論は聞き届けるスタンスを、作者として今後も信じられるかが気になるところだけれど、広報あたりが平謝りしているから責任を制作スタッフに押しつけ、若気の至りと逃げる構えでいるのかも。問い合わせがあった段階で気がついて改めなかったところに若気の至りもないんだけれど。いずれにしても今後は真っ当になってくれると思いたい。  「スター・ウォーズ」が日本のアニメスタジオによってアニメ化されてディズニープラスで配信されることが発表になっていたけれど、そのキックオフイベントがるってんで恵比寿まで行ったらガーデンプレイスにあったハンバーガー店が消えていた。三越もすでになく栄枯盛衰が進む。これもコロナのせいか。今回は7スタジオがつくる9作品の監督9人がずらり登壇したところが圧巻で、中には「ニンジャバットマン」の水崎淳平監督や「プロメア」の今石洋之監督、そして「攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX」の神山健治監督がいて、作品についてあれこれ語ってくれた。13歳で「スター・ウォーズ」を見ていつか自分は「スター・ウォーズ」を作ると決意した神山監督が、55歳にしてようやく手が届いたその世界を早く見たいが、ディズニープラスにはなかなか入る気が起きないんだよなあ。どうしよう。


【7月13日】 昨日の時点では99億9000万円だった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の興行収入得がいよいよ100億円を突破した模様でロボットアニメでは初の100億円超えは確かに偉業だし、日本のアニメーション映画という枠組みでも「映画『鬼滅の刃』無限列車編」を筆頭に宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」「もののけ姫」「ハウルの動く城」「崖の上のポニョ」「風立ちぬ」があって新海誠監督の「君の名は。」と「天気の子」があるくらいだから、そこに堂々の100億円プレイヤーとして庵野秀明総監督の名前が刻まれるというのは、当人にとっても日本のロボットアニメにとってもきっと大きなことなんだろう。

 これで環境さえ良ければ「名探偵コナン 緋色の弾丸」も100億円に行った可能性はあるけれど、より条件が厳しかった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」がたどり着いたのは途中で特典を開発しプレゼントしたり庵野秀明総監督らが舞台阿札に立ったりして話題を作ったこと、そんな庵野秀明総監督を取りあげたNHKの番組も放送されて興味を喚起したことが大きい。努力なくして結果無しを地でいったからには次もその次の作品でもいろいろと、仕掛けてきてくれると思いたい。それももはや作品性だけでお客さんがかけつける監督になったとか。それならそれで嬉しいんだけれど。

 夕方に新宿バルト9に言ったら早速宇多田ヒカルさんのチームから興行収入100億円突破の花が届いて初号機のとなりに飾ってあった。いっしょに走ってきたメンバーだけに宇多田さんとしても嬉しかったんだろうなあ。そんあ新宿バルトナインで見た「劇場編終版かくしごと―ひめごとはんですか―」は、「君は天然色」を映画館の大音響で聴けるというだけでも最高だったけれど、そこに久米田康治による漫画「かくしごと」のストーリーがついて神谷浩史による後藤可久止の賑やかな喋りと 高橋李依による姫の愛らしい喋りが映像とともに大スクリーンで楽しめるのだからこんなに最強な映画はないだろう。

 テレビシリーズのエンディングでも「君は天然色」は使われていたけれど、途中がはしょられて松本隆によるあの素晴らしい歌詞をすべては聴けなかったのが、映画ではエンディングにフルコーラスで流れる。夏に聴く音楽としてはこれ以上のものはないものを、夏の映画館で聴ける喜びをもっと多くの人に感じて欲しいし、自分自身でも感じたいのであと数回は映画館に行くかも知れない。この灰白色の日々をフルカラーで彩るためにも。  基本的には漫画家あるある話にすれ違いのドタバタを織り交ぜて笑わせつつ、父親が娘を思う気持ちの尊さを感じさせてくれる物語だった漫画でありテレビアニメの「かくしごと」。それは描く仕事をしていた後藤可久止が娘にはそれを隠しておきたい隠し事にしてしまったところから始まる日々だったけれど、早くに後藤可久止にとっては妻で姫にとっては母親が早くに行方不明にならなかったら、たとえエッチな漫画を描いていても母親にだって隠さないことを娘に隠せないと早くに伝えて、すれ違いは起こらなかったかもしれない。

 そんな母親の行方不明になる旅行を招いてしまったある事態は、アニメ版では描かれていなかったけれどアニメが終わってから掲載された漫画の最終回では指摘されていて、それが改めてアニメーションに盛り込まれていたのが目新しかった。なおかつそこから立ち上がったあるエピソードが、大滝詠一の「君は天然色」に唄われていたフレーズとも重なって、埋めていた過去の沈めていた思い出を掘り起こし呼び戻しては、色をつけて新しく歩み出す決意を示すものになっていた。

 だからこそ強く響いた「君は天然色」。ゆえに劇場で観て欲しい「劇場編集版かくしごと―ひめごとはなんですか―」。決してテレビシリーズだけ見ていては味わえない感動があって感激があると断じたい。もちろん漫画の面白さの核になっていた漫画家あるある話の総量ならテレビアニメの方が多くて、毎週のように楽しませてくれた。それらが全部入っている訳ではないから久米田康治ならではのギャグを堪能したいならテレビシリーズを見て原作の漫画を読むべきだ。

 それをこなしてなおぎゅっと引き締まった物語の世界、父親と娘との好き合ってもなれ合わずお互いに自分を格好良く見せたいと思う気持ちが呼ぶぎくしゃくとした関係に、苦笑しつつも自分と重ねて楽しがりたいなら映画館に行って劇場編集版を観るべきだ。エッセンスは味わえるし感動にも至れる。その上に繰り出される「君は天然色」のフルコーラスへの歓喜はそこでしか得られないのだから。


【7月12日】 はやみねかおるさんの小説で児童向けに観光されている「怪盗クイーンはサーカスがお好き」がアニメ化されるってことで話題になっていたけれど、その宣伝文句が「劇場OVAアニメ化決定」でこれはいったいなんだと首をひねる人多数。OVAってのはオリジナルビデオアニメーションのことで、テレビとか劇場とかをする―してパッケージで発売されるアニメのことを指していた。元祖が押井守監督の「ダロス」で以後、数々の名作を生んだけれども今となってはパッケージの価格が制作費と折り合わないのかすたれてしまた。

 そんなOVAという概念は、だから劇場とは相いれないものなのに並んでいる。なおかつOVAのAはアニメーションなのに続いて「アニメ化」という文字が並んでいるということは、オリジナル・ビデオ・アニメーションアニメ化って言っていることになるけれど、これでは意味がさっぱり分からない。頭痛が痛いとかそんな感じに重複がある言葉を、アニメーションの宣伝に関連して言われてしまってそのアニメを信じられる訳がない。でもまかり通ってしまうのは、ニュアンスが伝われば良いって考えがあるからなんだろう。

 実際、劇場なんかでビデオパッケージも同時に販売しつつ劇場上映をするアニメーションを作りますって話なんだろう。それは目下、大ヒット中の「機動戦士ガンダム 選考のハサウェイ」と同じなんだけれど過去にはイベント上映だとか、特別上映と呼ばれて公開とは区別されていたそれらが、最近ではあまり垣根がなくなっている。とはいえチケットの割引がなく一律料金なのがうっとうしいけど、そうやって稼いでパッケージを売ってりくーぷとう計算の上に、作られているから仕方がないんだろう。

 ただやっぱり、はやみねかおるさんによる児童文学というカテゴリーからのアニメ化なら、料金体験は子供が安くなるようにしてもらわないと総すかんを食らうんじゃないかなあ。パッケージよりも配信の方が見てもらえるとも思うし。そうしたウインドウの施策を作りての側が決められないのかどうなのか。いずれにしてもまだ先の話だし、今後どんな風に表現だとか扱いが変わるかを見ていこう。

 この前ちょっとだけ大手町から日本橋まで歩いたんだけれど、その時に常盤橋公園によったら工事があらかた終わってて、近辺が整理されていてその中に渋沢栄一像もしっかりと屹立していて、驚くことに近寄って撮影をしている人たちがいた。いやまあ大河ドラマの主人公になっているから時の人でもあるんだろうけれど、30年ほど近隣を歩いていてホームレスの方々の寝床を見守るおじいさんではあっても、若い人からカメラを向けられる存在ではなかった。テレビってやっぱり影響大きいんだなあ。

 例の西村経済再生担当大臣による酒類を提供する店への金融機関からの圧力要請は、大臣が言い出したというより内閣府がいろいろと下地を通って西村大臣も含めて遂行をさせようとしたって話が報道されてた。金融庁とか経産省の担当者にも入ってもらって各省庁に発令されたものの翌日に撤回。それはそれで僥倖だけれど大臣のバカ騒ぎではなく政府官庁も巻き込んでおおまぬけをやらかしていたわけで、それを止めようとする人が内部に誰もいない状況に日本の未来も暗く映る。

 自民党にはさすがにやばいといった感覚があったみたいで二階幹事長が止めに入ったようだけ酒造メーカーだかに圧力をかけて、飲酒を認めている店にはお酒を卸さないようにと圧力をかけていた件についてもやっぱりヤバイとストップがかかったみたい。とはいえ金融機関からの圧力依頼を撤回してからも、しばらくは続行を決め込んでいた訳で、西村大臣だけでなく菅総理も推進に回っていたから引っ込められなかったって事情はありそう。そんな総理であり総裁を仰ぎ続けていればいつかは決定的なミスをしそう。政権交代的には良いけれど、国難となるだけに国民としては勘弁してもらいたい。早くどうにかならないかなあ。


【7月11日】 小学館から刊行された「日本短編漫画傑作集」の選者が男性ばかりで、且つ選ばれていた作品が少年・青年マンガばかりだったことに「今回は、少年、青年漫画なんです。少女漫画は入りません」と書いて、色々あった吉田保さんが編集長の「フリースタイル」が第48号で「短篇マンガ」を特集していて、そこには少女マンガがわんさか入っていた。「短編マンガ」という括りで選べばそうなるのは当然なだけに、「傑作集」の方で初期、少年漫画や青年漫画といった括りを出さずに「短編漫画傑作集」と銘打とうとしてしまったことが謎めいてくる。

「フリースタイル」での特集も、その贖罪から或いはアリバイ作りって訳じゃないんだろうけど、やはり少女漫画も含めた短編傑作集は必要だろうなあ。ちなみに自分が選ぶとしたら、真っ先に内田善美さん「ひぐらしの森」が入ってあとは吉野朔実さん「いたいけな瞳」から1編と萩尾望都さん「半神」と山岸凉子さんのホラーチックな作品から1編が来てほか、諸星大二郎さん「生物都市」にみず谷なおきさん「ズーム・イン!」とデビュー作系が上がってそして永井豪さん「ススムちゃん大ショック」と藤子・F・不二雄さん「カンビュセスの籤」といったSF漫画の金字塔が並ぶかな。近年の読み切り短編からも幾つか選びたいところ。そうなるともはや全10巻では利かなくなるところに日本の漫画文化が持つ分厚さが垣間見える。少年・青年漫画だけで10編くらいづずで選ぶのが土台無理なんだってことで。

 舞台挨拶があるってことで16回目か17回目かの「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をTOHOシネマズで。シークレットのミニポスターはマリだった。私は運が良い。これで打ち止めにしたいところだけれど、あと1回、最終の21日にドルビーシネマあたりを決めてくる可能性はあるかも。そんな回数を見て、1度も途中でトイレに立たなかった自分を褒めてあげたい。直前まで絞り出す。これが肝心。映画については相変わらず伊吹マヤの尻と北上ミドリのヤンキー語録を追いかけながら見る感じ。途中に眠気が来てもそれが来ると目を覚ますのだった。

 そして舞台挨拶。どちらかといえば同窓会的なノリで1995年放送の「新世紀エヴァンゲリオン」の第1話で、綾波レイが現れるまでに登場した碇シンジ役の緒方恵美さん、葛城ミサト役の三石琴乃さん、赤木リツコ役の山口由里子さんに碇ゲンドウ役の立木文彦さんが登壇して庵野秀明総監督を交えて昔話に華を咲かせていた。映像だけなら道路に蜃気楼のように立つ綾波レイがいたけれど、喋らなかったからその意味では最初の4人ってことになるかな。とりわけ山口さんはこの作品から声優の道に進まれたそうで、振り返って人生を決めた作品だったと話してた。

 その時はまだ色までついていたって話から、最終話あたりだと白身があって黒味があって×が出てここから喋って次に×が3つでる1つめまで喋って2つめはSEがかぶり3つめからまた喋ってと緒方さんが言われたって話に、庵野総監督がそれは第25話で第26話はさすがにそれは拙いからと線を入れたって話していたけれどどちらが本当か。立木さんは庵野さん説を押していた。その立木さんいとってあの人の名前を何度も叫ぶシーンではやっぱり心が入ったそうで、何度もテイクをやったと話すといやいや立木さんはそんなに多くないです他では40回くらいやった人もいましたと被せてた。そんなにやったのか。あらゆるテイクが入った「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をちょっと観てみたい。

 最後の挨拶では三石さんの声が感極まったか涙声にもなっていた感じ。緒方さんはシンプルに。庵野監督はよりシンプルに「ありがとうございました」とだけ言って終わった。本当はもっと喋ろうかと考えていたけれど今はそれが精一杯だったもよう。2回目の舞台挨拶はどうだったんだろう。ちょっと気になるんで情報を見たら、空白の16年の間に碇ゲンドウ司令と冬月コウゾウ副司令が解任されて渚カヲル司令と加持リョウジ副司令になったって話が庵野監督から出たそうな。

 でもそれは予告編の段階で、本編はご存じのとおりに加持がサードインパクトを止めに特攻をかまして死亡し、以後もネルフはゲンドウと冬月が仕切ってた。つまりはだから「シン・エヴァンゲリオン劇場版」での渚司令と加持副司令は別の円環での出来事だって解釈で良いんだろうなあ。そういうことにしておこう。雷雨で中継が乱れるかもって話があったけどTOHOシネマズ新宿は無事に最後まで映像も音声も届いていた。これがゴジラパワーって奴か。

 逆張りというよりも、もはや信念としてオリンピックには観客を入れろと叫ぶ新聞が社説で無観客とはなっても中高生には観戦させるべきだといった主張をしている。個人的にはだだっぴろいスタジアムの一角に100人程度で感覚をおきつつ小中高といった生徒を招いて、実際の競技を見てもらうことは将来にとっても重要なことだから構わないかなという気はしているし、普段は練習だとか試合だとかでプロの試合を見られない小中高の児童や生徒には絶好の機会だと思うけれど、競技場までの行き来でやっぱり人との接触も増えるし、東京都民からとなると100人200人の単位では済みそうもない。

 だから公平性も鑑みやっぱり中止となって仕方が無いとは言え、サッカーのEUROの大観衆を見るにつけ、今年開くとキメながらこういう事態に至らせてしまった行政をここはやっぱり至らないと指弾すべき気も浮かんでくる。その親玉が新型コロナウイルス感染症の蔓延長期化で経済対策が必要だって講演したとか。貴方が早くに適切な処置をして閉め出しつつ財政を出動させ、一方でワクチン確保に奔走すればそんなこんな事態にはならなかったんじゃないの、って誰か突っ込む人はいないのが続く政権も含めて後手後手に回り続けている要因かも。やれやれ。って慨嘆している場合じゃない、殺されるのはこっちなんだよ。


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