縮刷版2021年6月中旬号


【6月20日】 そして気がつくと東京オリンピックの開会式の観客が、当初の見積もりとして明かされていた上限の1万人を大きく超えて倍の2万人になっていた。一般のお客さんに加えて選手や競技団体の関係者だとかスポンサーの関係者だとかメディアだとかが入るから、らしいけれどもそれだったらどうして他の競技は1万人が限定なのか、って話になってJリーグだとかライブだとかが5000人を上限にしているにも関わらずオリンピックだからと1万人にしたことが、すでに大きく損なわれている状況に安倍政権から続くゴールラインの勝手な引き直しがここでも出たかと唖然とする。

 やっぱりこれは拙いと1万人になるかというと、逆でそれなら競技も2万人まで入れちゃえよって話になるんじゃなかろうか。それが今の政権のやり口だしJOCとかIOCの目論見。そこで出て来て非難するべきメディアもだったらお前ら席いらないのかと言われると、途端に黙って従うしかないだろう。オリンピックの選手村が開村して川淵三郎村長が出て来てやると決まった以上はメディアも協力をと呼びかけていて、そんなもの聴けるかと蹴っ飛ばすかというとそうした会見に出て選手村を見てPRに協力している段階で、すでにあちら側に取り込まれているも同然。始まればこれまでの批判めいた言動などどこ吹く風と、日々の競技を伝えて批判はそっちのけ、ついでに新型コロナウイルス感染症の蔓延もなかったことにしてしまうんだろう。やれやれ。

 こうなってくるとやっぱりやりたくなる桐生悠々パロディ。「だから、言ったではないか、東京五輪開催よりも新型コロナウイルス感染症蔓延防止が先きであると。だから、言ったではないか、一九六四年の東京五輪に対して一部運動者が余りに盲目的、雷同的の讃辞を呈すれば、これが模倣を防ぎ能わないと。だから、言ったではないか、疾くに官邸の盲動を誠めなければ、その害の及ぶところ実に測り知るべからざるものがあると。だから、私たちは平生官邸東京五輪組織委員会とに苦言を呈して、幾たびとなく出入禁止の厄に遇ったではないか」

 「国民はここに至って、漸く目ざめた、目ざめたけれどももう遅い。官邸は――たとえその一部であっても彼等は――彼等自身が最大幸福、最も尊ぶむべき国家的行動として称揚しつつあった東京五輪の開催をまるで憚らなくなった。国民の不名誉というよりも恥辱これより大なるはない、彼等はその武器、しかも社会の木鐸なる報道を統率して開催に反対させることをなさず、却って新型コロナウイルス感染症対策分科会を軽視した。しかもこの分科会はいずれも医療機関の重席にあり、内外に感染症対策の大任にあるもの、これらの分科会を失墜せらるることにより、畏多くも如何に科学の力を侮り蔑みしことよ。罪万死に値いすべきである」

 「国民の目ざめ、それはもう遅いけれども、目ざめないのにまさること万々である。官邸よ、今目ざめたる国民の声を聞け。今度こそ、国民は断じて彼等の罪を看過しないであろう。唯有形的にその罪を問い得ないのはこれを通して問うべき『武器』を持っていないからである。だが、無形的には既にこれを問いつつあるではないか。と同時に、新聞テレビは、今次の如く言って満足し、今後は軍部に対して何等の追及をも試みないだろう。

 「曰く、今や記者の憂は彼一人の憂のみではなくなった。そしてそれは全国民の憂となった。全国民がこれを憂うるに至れば、彼の目的は貫徹されたのだ。次には国民みずからがこの憂を除くべく努力するであろうと。だが、またこれと同時に、記者は今我日本が内外共に、如何に重大なる危機に臨んでいるかを示唆するために、本稿に於てヴィヴ・シムソン、アンドリュー・ジェニングズの『黒い輪 権力・金・クスリ オリンピックの内幕』を彼等に、更に進んでは一般国民に紹介し、これをもし他山の石とし東京五輪開催を退けなければ、それこそ新型コロナウイルス感染症の一大蔓延あるべきを警告せずにはいられないものである」とかどうとか。

 すでに「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」で見たドルビーシネマが「シン・エヴァンゲリオン劇場版」でどれだけの威力があるかを確かめにMOVIXさいたまへ。「これまでのエヴァンゲリオン新劇場版」というタイトルが出た場面から背景の黒さが増してコントラストがアップ。そして映像が始まると輪郭線が黒々としてはっきりと見える上に塗られた色もくっきりとしてきて目をこらさなくても全体像がしっかり掴める。パカパカとしてテカテカとした色味ではなくどちらかといえばやや黒みがかった感じではあったもののそれがかえって目に優しく、それが良かったのか久々に寝ないで全体をしっかり見通せた。

 だとしたらドルビーシネマ版ではない3.0+1.01とどこが違うかも確認できるかと思ったけれど、こうして改めて見てみるとそれほど違いがあるかあまり分からなかった。そういえばドルビーシネマ版つまり最初の公開バージョンだとアスカが弐号機から引っ張り出される時に残されたDSSチョーカーが爆発したけど、新バージョンでは爆発しなかったなあと思ったんだけれど記憶違いかどうなのか。それから2番艦からとんでくる砲弾がATフィールドを突き抜けつつぶち当たる描写が新バージョンだと凝っていた気もするけどどうだったんだろう。やっぱり改めて新バージョンを見るしかないけどドルビーシネマで見てしまうと通常上映を見る気が起きないんだよなあ。早くドルビーシネマの新バージョン、出来ないかなあ。


【6月19日】 クリスティアーノ・ロナウド選手がEURO2020の会見場で先に飾られていたスポンサーのコカ・コーラを脇に避けて、ミネラルウォーターを置いて俺はこれだと言ったことで株価が下がったとか。日本コカ・コーラあたりだったらミネラルウォーターを出しているし海外だって何か提供しているだろうから、そちらにシフトしてくれれば売り上げ的には問題はないんだろうけれど、コカ・コーラという唯一無二のブランドを否定されては他者もいっぱい出しているミネラルウォーターではカバーしきれない。あるいはコカ・コーラゼロだったらロナウド選手も支持をしてくれたかというと、そこはやっぱり人工甘味料への嫌悪なんかもあるかもしれずやっぱり呑んでくれなかったかも。

 これがペプシだったとしてもダイエットペプシを喜んで飲むようなアスリートには見えないからやっぱり脇に置かれただろうなあ。というかアスリートにコーラとか普通はあり得ないっしょ、って意味でこうしたスポーツイベントにコカ・コーラだとかアルコール類を提供する会社だとかがスポンサードすること自体がもはや理に叶ってないってことになりそう。東京オリンピック/パラリンピックも確かコカ・コーラがスポンサーに入っていたっけ。ダイエットをして肉体をギリギリまで研ぎ澄まそうとするアスリートに甘い甘いコーラのイメージをがそぐわないとしたら何を売るのか。そこは人工の甘さに頼らず砂糖どっぷりのナチュラルな味で攻めるマックス・コーヒーだろうなあ、がぶ飲みできて月賦もでないし。

 ザ・コクミンネンキンをシングルマッチで倒しザ・シミンゼイとザ・ケンミンゼイのペアもタッグでまとめて倒したと思ったらついにラスボスのザ・コクミンケンコウホケンが登場。これがやっぱりなかなかの重量級で実質年収の1割を超える金額を持っていかれることになりそうで、どれだけ日本は大変なんだと思いつつも実際に恩恵が得られているのはこの国民健康保険だけに、値段には釣り合っているかなあと思わないでもなかったのだった。クリニックとか歯医者とか通っているし、これから来るかもしれない新型コロナウイルス感染症や、別の病気なんかの際にもきっと絶対に役に経つと思うと支払うしかないのだった。払った分は控除の対象にもなる訳だし。

 安くあげようとするならどこかの団体の健康保険に加盟する手もあるけれど、フリー3年目ではそうした団体に入るだけの実績もないし、入ったところで会費と合わせると今の国民健康保険料より高くなる可能性もあるのでそこは見合い。いずれ年収が上がってきたとしたら、あるいはこれはなさそうだけれど家族が増えたとしたら固定されている保険に入るのが良さそうだけれどそこまでまずは生き延びることが肝要。目の前の新型コロナウイルス感染症の壁をくぐりぬけつつ仕事という山を登ってそこに留まり続けられるか否か。勝負の年かもしれないなあ。

 ポンポさんに来たぞー、ってことでロフトプラスワンに久々に赴いて「映画大好きポンポさん」のイベントを見物。平尾隆之監督が登壇して小黒祐一郎さんが質問していく形になるかと思ったら、思いの外にキャラクターデザインの足立慎吾さんがリードする形で平尾監督に疑問点とか所感なんかを聞いたり話したりしてクリエイターから見たクリエイターの特質なんかが聞けて面白かった。そもそもナタリーに当て書きをして彼女をヒロインとして輝かせる脚本をポンポさんが書いたのなら、どうしてそれがナタリーをお姫さまにするような話じゃなくってダルベールという指揮者の話になったのか、って点で原作だとそこは違和感なくテンポで押し切るところがあるけれど、平尾さんは森山さんからそれを最初期に尋ねられ、改めて考え込んだとか。

 結果としては「マイスター」という映画はダルベールという指揮者を甦らせる映画であると同時に同じクリエイターであるジーンくんという存在に対する当て書きでもあって、彼らを通してもの作りに携わっている人たちに届くような作品に「映画大好きポンポさん」をする役割を果たせるようになった、って感じ。何となくで済ませそうなところもちゃんと考えて理由をつけることで、絵空事であってもそこに生きているキャラクターたちにしっかりと動機が生まれ心情が育まれて感情を入れやすくなるってことなんだろう。演出家って凄いなあ。そういった意図まで汲んで見ないとやっぱりいけないのかなあ。

 足立さんのキャラクターデザインではジーンくんもポンポさんもナタリーもミスティアもそれぞれに目のハイライトの入れ方なんかが違っているそうで、死んだ魚みたいな目のジーンは言うに及ばずナタリーは中心が白抜きなのにミスティアは逆に黒目があったりして、そしてポンポさんは目の下に小さく黒い三角形の突起が飛び出していたりする。それは何かってことで下まつげを上に出すことで丸い目の形は保ちつつ目の下にアクセントを作れた格好。気付かないけれどもそのあるなしで目力が変わってくるのか何となく分かる。次はそこにも注意して映画を見たい。

 アランというキャラクターは映画オリジナルだけれど基本、クリエイターたちの物語である「映画大好きポンポさん」の中にそうしたクリエイターの世界を応援し、そこからいろいろと勇気だとか喜びだとかをもらう普通の人たちを配置することで、誰もが共感できる映画にできたってことらしい。彼が融資を依頼するプレゼンテーションで行ったことはそれこそクビになっても当然の所業だけれど、やってしまった以上はどうやって収拾を付けるかってところで、頭取がさらりと登場しては寛容なところを見せ、周囲もそれにのって役割を演じきったことで銀行に対するダメージは逆に好感へと変わった。

 そのきっかけを作ったアランにもネガティブな態度はとれないとなれば居場所は確保するしかない。あとは干すかそれとも使うか、ってところで生来の優秀さを発揮して踏みとどまったってところかな。ただの逆転の感動とも読めるけど、心理を探っても納得が得られる線は残す。滅多にないけれどもあっておかしくないことを描いているとはそういうことなんだろう。ほかにもいろいろと聴けて楽しかった「映画大好きポンポさん」のイベントを観終わって、もう1度くらい見たくなってきた。幸いにして館数も増えるみたいなんでコメンタリー上映をまずは見て、それから環境の良さそうなところでもう1度くらい見ておくかなあ。10億円には届いて欲しいなあ。


【6月18日】 「終末のワルキューレ」のアニメ版がNetflixで配信スタートしたので見始めて12話分を一気に見る。沢城みゆきさんが演じるブリュンヒルデの口の悪さが悪女な沢城ボイスの真骨頂といった感じでとても楽しいし、神様と人間のバトルといった格差のあり過ぎる戦いで、それでも人間側がとてつもないパワーを見せて神様をいなし追い詰める展開もウキウキとさせてくれる。呂布だとかアダムだとか佐々木小次郎といった規準もバラバラなら由来もメチャクチャな英雄たちが登場するのも楽しいけれど、肝心のアクションでところどころヌけている感じがあってちょっと迷う。

 ネットには「ネトフリアニメに当り無しは今回も健在なんだな」ってコメントが載り始めていて、それがいかにもそうらしさを醸し出し始めているところにちょっと厄介さを感じてしまう。入江泰浩監督が台湾のCG会社と作った「エデン」は良いできで海外でも評価が高いけれど、日本の作品になると企画は格闘が人気だからとか異能バトルが話題だから、サイバーパンクが受けるからといった規準で選ばれている感じがあったりするし、企画もクオリティも最初こそプレミアム感があったものが、今はどこかチープでズレた企画のオンパレードといったイメージになってきている。

 あと話題になってから静まるまでが早すぎる。「YASUKE」だって誰も噂にしなくなった。そんな状態で果たしてNetflixが日本のアニメの救世主であり続けられるのか。監督や一部演出、そしてトップクリエイターだけ買われて海外との合作に持って行かれる1980年代の再来となるんじゃないのか。考えてしまうけど果たして。とりあえず「終末のワルキューレ」は続きがあるだろうからそちらでの立て直しに期待。一方でNetflix以外で立ち上がった中澤一登監督作品の「海賊王女」にも期待。どんな話なんだろう。ミニスカでモーレツな宇宙の海賊がクイーンエメラルダスだと名乗って宇宙の海を旅する話なんだろうか、ってクイーンとう時点で王女じゃないか。ワクワク。

 ネット媒体とはいえ朝日新聞系列のサイトが匿名のYouTuberによるコラムを載せる時代になっているのは、書き手よりも中身が重要だってことの現れだとも言えて権威主義からの脱却が見えて好ましいんだけれど、そんな書き手による内容がどうにも周回遅れ的というか、権威主義の側が狭窄した視野で見た世界をそのまま言い表せることができる書き手が選ばれているようで、なかなかに厄介な状況になっている。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」が豪華な来場者特典を配り始めたことで観客動員が一気に膨らんだことをマクラにしたコラムでに「エヴァンゲリオンの人気を支えるオタクとの親和性」ってタイトルがついていた。

 曰く「キャラクターグッズを購入することもあります。ここまでが普通のファンです」「好きなキャラクターを絵に描いたりフィギュアにしたり、コスプレや読み物などの二次創作をして楽しんだり、二次創作物を購入する層が、アニメオタクとの境目です」。ううん、この定義にあてはめるなら二次創作はしないしフィギュアも作らないしコスプレもしない自分はオタクじゃないなあ。っていうかそれがオタクだなんてことはオタクの側だって御持っちゃいない。

 どこまでも作品本位で深く探求するのがオタクの奔流であって、二次創作だのコスプレだのに走る人はむしろオタクの概念が膨らんだところにいる人たちじゃないかなあ。それにエヴァがここまで時代を超える大ヒット作になったのは、オタクの狭い範囲だけじゃなくってオタク以外のカルチャー好きから普通の物語好きな人まで広い層に人気となたからであって、にも関わらず命題が「エヴァンゲリオンがなぜオタクにウケたのか」になっているから話がこんがらがる。

 デザイン性が先鋭的だからとかキャラクターが特徴的だからとか謎が多くて論じる部分が沢山有るからといった要素があってオタクは作品に飛びつくんじゃなく、飛びついた作品に対してどこをもって称揚するかを考えるからオタクなんだってことを、分かっている感じでもないのが辛い。そういう記事が堂々、載ってしまってオタク受けからエヴァは広がったというならエヴァほど広がってない作品はオタク受けしてないってことなのか。違うよなあ。そんな違和感がありつつもそういったコラムが朝日新聞系の媒体に載ること自体が、エヴァのオタク以外に広まっている証拠な訳で、そうした理由をオタクじゃないサイドからアプローチして考え出せてこその現代だと思うんだけれど、どうだろう。

 オリンピックを開くのだ。そして観客も可能な限り入れるのだ。そこでは酒類も提供するのだ。という命題を規準にすべての施策が決まっているからそれを邪魔する緊急事態宣言は解除され、まん延防止とはいっても酒類の提供が認められて夜の7時までだけれど飲食店の営業も可能にされる。ワクチンは65歳以上についてだけれど感染リスクが高い層はたとえ80%ほどでも100%が接種を終えたことになってそして、PCR検査は抑制されて感染者の数は減って必然的に重症者の数も死者の数も減ったように見えたりする状況が、この7月から8月まで作られることになるんだろう。
 結果、海外から来た選手たちや役員たちやメディアの人間は待機期間をおかず動き回っては各地で新型コロナウイルス感染症のウイルスをもらいあるいはひろめて混淆した状態を作り出す。そうやって攪拌されたウイルスが日本に8月中盤あたりから一気に広まるとともに、世界各地でも同様に広まっていってかつてない未曾有のパンデミックが発生しても、政府は知らん顔をしてオリンピックのせいではないと言いつのるんだろうなあ。

 挙げ句に再びの緊急事態宣言でパラリンピックは選手へのリスクが高いからといって中止にされる。なぜってオリンピックほど視聴率を稼げないから。そりゃそうだ。でもやる意義ならオリンピックと同等かそれ以上。そちらに照準を絞ってオリンピックを取りやめるのが人道なはずだけれど、オリンピックにそんなものはすでになく商道のみで動いているから止められないのだった。今はいっしょになって喜んでいるパラリンピックの選手の方々を、政府やJOCの人たちがどういって斬り捨てるかに今は興味津々。そうならないことを願っているけれど……。


【6月17日】 まさか21世紀にもなって飾り窓やら張見世がまかり通るとは。自民党の女性議員たちがメインで作っているっぽい女性局の活動を、世間にアピールするために何やら宣伝カーを作ったとか。それがまたワゴンの後部座席をガラス張りにして中に乗ってる女性議員が外から見えやすくしただけの代物で、いかにも女性ですよってのを世の中にアピールするためだけの車にしか見えないとこが、どうにも前時代的というかオランダで身を売る女性が並ぶ「飾り窓」的、あるいは吉原のような妓楼で遊女が格子越しに姿を拝ませる「張見世」的で女性をそういったものあ扱いしているとしか思えない。

 発案したのが二階俊弘幹事長というところもまた爺さん的な発想。普通だったら女性たちもこういう差別的で侮蔑的な施策に文句のひとつでも言うはずだし、メディアもフェミニズムが盛んな今にあり得ない仕掛けだといって非難をぶつけて当然なのに、誘われた自民党の女性議員たちが嬉々として受け入れ二階幹事長と一緒に乗って笑顔を見せているからたまらない。自分たちが見世物にされているといった感覚はないんだろうか。自分たちを見てもらう上でこれが最高だと思って入るんだろうか。だとしたら男性議員だって同じように全身を見せてその精力をアピールすべきなんだけれど、ガラス張りのワゴンに乗せようなんて話にはならないところに、やっぱりこの件の非対称性が見える。果たして議論なく進むのかそれとも。

 という訳で「『宇宙戦艦ヤマト』という時代 西暦2202年の選択」を新ピカで。2199も2202も総集編とか方舟も含めて見ているからストーリーとかキャラクターとかだいたい覚えていたはずだけれど、2202の方は新規に作られたエピソードとか設定がてんこ盛りだった関係で、旧作をリファインした関係で意識にしみこませやすかった2199と違って深くはしみいってなかったようで、そうだったそうだったと思い出すことも多かった。とはいえ刺激されれば浮かんでくるその展開。「銀河」なんてものが出てきて活躍したあたりもしっかり思い出されて、最後までついていけた。ラスト近く、突っ込むヤマトの艦橋に残っていた雪は古代との記憶を失ったままで良かったんだよね、確か。

 ストーリー的にも2202できっちりと落ちている訳で、続きなんていらないって気にもなったしそうすることでしか散っていった人たちの供養にもならないと思うんだけれどビジネスという奴はなかなか厳しく改めて2205なんてものを作らせる。そこで果たして2202の「愛」という薫陶、そして犠牲を最小限に治めるという姿勢がどこまで生かされるかが興味津々。せっかく残った者たちをまとめて皆殺しなんてしてはやっぱり居心地が悪いのだ。

 とはいえ流れた「『宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち』前章 TAKE OFF−」の映像を見るにキャラクターの顔が何か微妙にあれというか少しずつそれといった感じでもしかしたら並行世界のドッペルゲンガーが先祖返りしてループに陥ったところを踏んづけられただけなのかもしれないから、そういう気持ちで見ればあまり感情を引きずられないのかもしれない。個人的には西条未来が永遠に活躍し続けてくれたらそれで良いのだ。あとせっかくなのでメルダ・ディッツの再来にも期待したいのだ。見たいのは藪じゃないのだ。

 新宿ピカデリーに寄ったついでに紀伊國屋書店新宿本店の地下にあるカレースタンドのモンスナックでカツカレーを食べる。7月15日に建物の耐震補強工事が行われる関係でしばらく閉店となってしまう関係で、しばらく前から行列が出来ていると聞いていたけど寄った時間が良かったのか並ばずすぐに入店できた。他にメニューはいろいろあったけれども、食べるのはやっぱりカツカレー。カラリとあがった薄めのカツがしゃびしゃびでとろみのないカレーがかかったライスの上にのっかって、ルーがしみつつ衣のカリカリ感も残った状態で食べると本当に美味しいのだった。同じようなしゃびしゃび系のカレーを出している場所もないので、閉店後に移転して運営する仮店舗がなければしばらく食べ収めになりそう。カツカレーが大流行している英国から来るオリンピックの代表選手も、間に合わず残念がりそうなので少し早く入国したら、外出を認めてあげるか出前を許してあげて欲しいなあ。モンスナックは世界の宝物なんだから。


【6月16日】 22日で終わってしまうので東京都現代美術館に久々に赴いて「ライゾマティクス_マルティプレックス」展を見物。ライゾマティクスといえば世間的にはリオデジャネイロ五輪の閉会式で安倍総理がマリオの格好が登場するちょっと前に、輝くキューブなんかをダンサー達が押したり引いたりしていた演出で、テクノロジー面を担当した真鍋大度さんが率いる組織だって認識されれているか、あるいはPerfumeのライブとかでテクノロジー絡みの演出を担当している組織だって認識されているけれど、それよりずっと以前から本田のF1が鈴鹿サーキットを走った時の再現だとか、あるいはいろいろな情報を可視化して表示する実験めいたメディアアートなんかを手がけて来た。

 そんなライゾマティクスの作品というかテクノロジーを紹介する展覧会だったって感じで、もちろん新作めいたものもあって無人のフィールドで四角いキューブが動き回っているのを、別室で見るとその上だとか廻りでダンサーが躍ったりしている映像が重なっていたりして、想像するならキューブの位置に合わせてダンサーの3D映像を当てはめつつさまざまなエフェクトをかけているんだろうけれど、分からないと過去のプレイ映像を一方で流しつつ別室ではその再演を人間抜きでやっているように思われてしまうかもしれない。だからメディアアートって難しい。

 別室に行くとそうした作品に関する解説があって、どこかの地形を取り込んで3DCGでモデリングしつつ一方ではダンサーたちをぐるりと撮影してモデリングした上にテクスチャなんかをのっけて部品かして、フィールドの上に自由において動かしつつぶらしたり彫刻のようにしたりと質感を変化させた映像なんかを見せてくれていた。そうした場所と動きの連動及び自在なエフェクトといった組み合わせを、別室でのインスタレーションでも使っているのかもしれない。

 あとスペースワープってバンダイが過去に出してたワイヤーの上を球体が転がり落ちてくる玩具の巨大なものが設えられて、上をボールが転がりながら輝くインスタレーションも作られていた。仕掛けは単純そうだったけれどサイズ感に圧倒された。個人的にはPerfumeのライブ映像くらいもっと流して欲しかったけれど、それだとPerfume展になるからまあ別の機会に是非に。SXSWでのリアル空間でのダンスとバーチャル空間でのパフォーマンスをシームレスにつなげる映像実験を始め、過去からずっとやって来たテクノロジーだけでそれこそ美術館級の材料があるだろうから。待ってる。

 あと2週間くらいで休刊になってしまうフジサンケイビジネスアイ(日本工業新聞)について思い出したことをつらつらと。そもそもどうして日本工業新聞がフジサンケイビジネスアイになったのかを書くと、丁寧な接遇が待っているので内緒と言いつつフジサンケイビジネスアイになって何が変わったか?それは 産業なり工業の動きを伝えることに留まらず、世の中の動き全体からビジネスの要素を広い伝えようとしたこと、だったかな。題字変更があってすぐ、アテネ五輪があってそれに関連して例えば国産の砲丸が世界から求められていること、データバレーというバレーの解析ソフトが重宝されていること等、世間の関心を惹くジャンルで動いているビジネスをチェックして紹介することで、企業の広報的な媒体になっている日経とは違った角度を見せようとしたみたい。

 今でこそスポーツビジネス、エンタメビジネスが話題になるけどその意味では先見性はあった。ただ体力がね、本気を出した日経等にはかなわない。部数的にも届く範囲は限られる。日経流通的なコンシューマでも読んで面白い新聞にするには販売力も及ばず一般には届かない。企業の広報に割り切れば記事が載ってる会社に買ってもらえた訳で、理想と現実の差を超えられずだんだんと…って感じに見えたなあ。こっちはエンタメで記事いっぱい書けたけど。まあ結局、今のタブロイドで産業記事中心のスタイルに戻ったんだけれどその頃にはそれこそ100人規模でいて、あらゆる分野に担当記者がいた時代とは違って情報を集める力が足りず、報じる紙面も足りない状況になっていたという。それでも10数年よく保った方だ。休刊で取材網も記者クラブに席を置く権利も途絶えるか。

 記者クラブといえば、何時だったか週刊誌か経済誌かにホリエモンか誰かから買収の話があったなんてネタが載ったことがあった。事実かどうか経営陣でもないので確かめようはないけれど、値段次第でアリかと思った。日本工業新聞(フジサンケイビジネスアイ)は産経とは別会社で別媒体として官公庁や業界団体の記者クラブに加盟し常駐の席もあって取材の拠点にしていた。会見にも出られて取材先との接触も密に取れる立場は雑誌にはないメリット。それをネットと絡められればオンラインでもアドバンテージになったかもしれない。

 あれで参入障壁も高い記者クラブメディア。警視庁の七社会に産経が入れないのもそうした伝統に拠るものだろう中、まるっと取材網が手に入るならと買ってみたくなる気持ちがネット企業に生まれても不思議はなかったけど、実現しなかったということは折り合わなかったか、話がなかったかどちらかだろう。雑誌か何かのネタでは相当な額をふっかけ折り合いがつかなかったなんて話になっていたけど、今となっては産経と編集が統合され日本工業新聞が持つ席を埋めるだけの人もおらず保守されているか不明。一方で役所も企業もクラブに頼らず情報発信をする仕組みを持つようになってメリットが感じられない。商機は過ぎた。

 あと、媒体だけ買ったところで印刷をどうするかとか販売はどこがするのかといった問題が残る。産経の印刷工場で刷ってもらって合同配送に乗せて送り出せていたから保っていたけど、それができなくなった時、工場は借りなくちゃいけないし販売も頼まなくちゃいけない。そこはアウトソーシングしてもらってお金を払えば相手も収益源になるから、産経も引き続きやってくれるかもしれないけれど、それを払って買収資金を払って得られるメリットがあるかというと、そこは見合いになってしまいそう。新聞の題字はひとつの財産だろうから、どこかお金のあるところが是非にと引っ張るかもしれないけれど、「東京タイムズ」だって消えて久しい中、新聞の復刊なんておよそあり得ないとなると日本工業新聞もまた、歴史の彼方に消えていってしまうのだろう。唯一の著名人OBとして森喜朗元総理の名を残して。やれやれ。


【6月15日】 ザ・コクミンネンキンという敵を倒したと思ったら、ザ・ケンミンゼイとザ・シミンゼイというタッグチームに襲われてんてこ舞い。どうにかこうにか撃退したもののその後にはザ・コクミンケンコウホケンという強敵も控えているので身を引き締めておかないと倒せそうにもない。幸いにしてウエイトが減っているので体重別のリングで少し楽にはなっているけれど、比例でいけば負担の割合はそれほど変わってない訳で、今は最後の敵に備えて緊縮で行こうとか言いつつ丸ピカでドルシネを見に行くのであった。高いなあ2500円。

 というわけでドルビーシネマで「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」。始めてのドルビーシネマだったので前置きに出て来た、黒い穴が本当の黒っぽいスクリーンが、本当の意味での黒に変わった瞬間のコントラストの締まり具合に、これがドルビーシネマの威力というものなのかと驚いた。改めて示されると以後、それ以外ではあまり見たくなくなってしまう。アニメーションはとりわけコントラストがくっきりと出るので大作は以後、ドルビーシネマを規準に作って欲しいとすら思えてくる。可能なら「シン・エヴァンゲリオン劇場版3.0+1.01」をドルビーシネマで見たいなあ。今はまだ最初のバージョンしかドルビーシネマ版はないみたいなんで。

 さて「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」。原作を読んだのはもう随分と前ではっきりしたことは覚えてないこともあって、いろいろと前段をすっ飛ばしてハサウェイ・ノアがすでに大物となっているところから始まっていたことに、最初は頭が追いつかなかったけれども展開の中でだんだんそうかと分かってきたので、身にお話しが染みていく感じが味わえて良かった。こういう手探りで見る感じも楽しいけれど、全体を俯瞰できる立場になったんで2度目を観ればまた新しい発見もありそう。どのタイミングでシャトルの中二いるハサウェイがぶち切れたのかとか。

 そんなシャトルでのやりとりから、ホテルでの聴取までが長くて長くてモビルスーツ戦がメインとなるべき「ガンダム」らしくはなかったけれど、それだけ社会や政治といったものをじっくりと見せて、世界が地に足のついたものだと感じさせたからこそ、街がテログループに襲撃されて破壊されていく中で、大勢が逃げ惑い少なくない人が亡くなる状況への理解がより深く及ぶ。ホテルから逃げ出した先でのモビルスーツ戦は兵器同士の格闘が繰り広げられているその周囲で、人が逃げ惑い追い詰められ大変なことになる状況にも、実際にモビルスーツ戦が起こったらこうなるだろうと想像させてくれる。

 もっとも、逃げても逃げても現れるモビルスーツに、ハサウェイたちが追われているのかそれともわざと戦闘が激しい方に逃げているのか分からなくなった。飛び散る火炎にギギ・アダルシアのハンドバックだけが巻き込まれて燃え上がるとか、偶然にしてはラッキー過ぎてそこはちょっとアニメっぽかった。まあそこで全身火だるまになって燃えてしまったり、降下してきたモビルスーツに踏みつぶされたりしたらお話し自体が終わってしまうから仕方が無い。

 キャラクターではギギ・アンダルシアが大人なのか子どもなのか分からず、行ったり来たりしてつかみ所がないのが妙に人間っぽかった。誘惑しているようにしなを作ったと思ったら、スイートのリビングで着替えているところを観られて恥ずかしがって自分の部屋に飛び込んで起こる。かと思ったら司令官を呼んで食事をして踊りに行く。小悪魔かというともうちょっと大人びているところもあれば、純粋ににはしゃいでいたり怯えていたりと子供っぽいところもあって、悪役なのか道化役なのか主役なのかを判然とさせないところに、役割を定式化して、それへの共通理解の下、予定調和的に引っ張ることをさせない工夫が感じられた。

 その描かれ方も崩れずしっかり最後まで整っていて作画陣の力量の高さを感じた。ハサウェイ・ノアの動きも良かったなあ。アクションに関してはモビルスーツ戦もなかなかのど迫力。難を言うなら中心にいるべきガンダムがともにゴテゴテとアーマー類で着飾っていて人型に見えないこと。空を飛ばしたり高速で起動させたり相手の攻撃から身を守ったり逆に激しく攻撃したりする上で、モビルアーマー化は避けられなかったのかもしれないけれど、それなら人型である必要ないんじゃんってことになる。そういうお約束を無理にでも守ろうとして異形のモビルスーツばかり繰り出していると、ミリタリーファンは嬉しがってもロボットファンは離れていくんじゃないか、ってそれはないか、もはやガンダムはゴテゴテ化も含めてひとつのジャンルなのだから。

 政治権力というものを背後に持ちつつ「干す」といった直轍的な言葉で脅しておいて、ついつい怒っただけで他意は無いなんて言い訳が通じるはずもないのに、家族に怒られたとかいって笑いに紛れさせようとするデジタル相も大概だけれど、国が株主に対して外為法違反の可能性をチラつかせて黙らせておいて、問題がないと嘯く経産相もなかなかに大概。それだったらフランスみたいに国営企業にして株式の大半を抑えておけば良いのに、自由な市場で制限も条件もつけずに株式を取引させておいて、何かあったら国が出て来て制約をかけるなんてことをしたらこの国の資本市場は自由ではないと海外の投資家から敬遠され、だれも投資なんてしてくれなくなってしまう。中国の企業に投資が難しいのが党や政府の思惑でガラリと経営環境が変わってしまうからで、そんな中国と同じようなことをやって平気な癖に、中国は強権的で閉鎖的だと非難するから意味が分からない。結局は同じ東洋の人知に塗れた封建国家なんだなあ。


【6月14日】 わかります。って印象だった「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」。テレビシリーズで感じた絢爛たる不条理をつきつめつつ、愛華とひかりの関係を主軸に、九十九期の面々のそれぞれがひっかかってた青春のもやもやをバトルとレヴユーによって晴らしていくというストーリーの表層を、様式的に彩って見せたといったところ。そういうものだと思って見ればそういうものだとついて行けるけど、どういうものかと訝ると弾かれるかもしれない。

 作曲家の小林亜星さんが死去。5月30日は「日立の樹」を作詞した伊藤アキラさんが亡くなってから15日後で、昭和の名曲の数々を残した2人が相次いで鬼籍に入られたことに過ぎ去る時代をしみじみと感じる。「科学忍者隊ガッチャマン」に「超電磁ロボ コン・バトラーV」に「超電磁マシーン ボルテスV」に「ひみつのアッコちゃん」に「魔法使いサリー」といった昭和の名作アニメの主題歌をわんさかわんさか作ってくれた偉大な作曲家だった。今も口をつけば出てくるこれらのメロディを抱えて、僕は平成を越えて令和の時代を生きていく。ありがとうございました。

 ロールモデルとして浮かぶイメージに当てはまる役者を探して、森三中のお三方であったり山田花子であったりといった、吉本興業なり吉本エージェンシーなりに所属して、美人系とか美少女系ではない肉感を持った少し阿呆なところも見せるけれども人が良い中年女性を起用して演じさせたとしたら、やっぱりどこか定式化したイメージの中にはまり込んでしまう気がする。それが悪いという訳ではなくピッタリの雰囲気を醸し出す映画になったかもしれないけれど、そうした予定調和を避けて愛らしくふてぶてしく生々しさも持ちながらさらっとした爽やかさも併せ持ったキャラクターとして肉子という存在を現出させようとしたら、やはり絵で表現できてぴったりの声を探して当てはめられるアニメ−ションという形式が相応しかったように思う。

 劇場アニメ−ション映画「漁港の肉子ちゃん」の話。西加奈子さんによる原作がどこまでその性格なり情欲の部分にまで立ち入って描いてあるかは読んでないので分からないけれど、女性としての欲望に左右されつつ男に捨てられあるいは逃げられ幼い女の子を連れて西から東へそして北へと移り住んでいくキャラクターはなかなかなエグさを持っている。そんなキャラクターに肉感を持った実在の女優なりお笑いタレントなりが重なった時に浮かぶ熱量を、果たして人は欲するかという時にそれをエネルギーに変えて圧倒する役者もいない訳ではないだろうし、見れば圧倒されることもあっただろう。

 そうはせずにアニメーションにしたことで、「漁港の肉子ちゃん」は肉子ちゃんというキャラクターに熱さと同様の爽やかで暖かく振れてみたいと思わせる愛らしさを与えた。あるいは軽さも。寝転がっているだけで重さが感じられる実写と違ってアニメーションは絵で描かれている以上、そこに重さを感じさせる何かを足す必要がある。振動だとか重力で下がる肉体だとか。逆に言うならそうしたエフェクトを操作することによって肉子ちゃんというキャラクターに楽しさも軽やかさも与えることができる。声という演技もそこに加えることで絵としての肉体表現の上にさまざまな感触を与えることができる。

 それによって長編アニメーション映画「漁港の肉子ちゃん」はそれこそ「となりのトトロ」の大トトロのような強さと暖かさと愛らしさと軽やかさを与えることに成功した。だからこそ映画の間中、ずっと親しみを持って接することができたように思う。そんな肉子ちゃんという存在への慈しみを、娘のキクコという存在を通して感じ取れるようになっている。そんな映画だ。

 男に捨てられ追いかけるとも逃げるともとれる行動の果てに東北めいた場所にある漁港へと流れ着き、今は地上に家は持たず漁港に浮かんだ漁船めいた船を与えられて暮らしている2人はよそ者であり胡乱な存在であり普通だったら虐げられ排除され抑圧される側に立っていそうなものだけれど、漁港の人たちは優しくクラスメートたちも虐めの対象に祭り上げることもなく普通に接しているところに、どこか固定観念かしてしまった特定のシチュエーションから浮かぶ関係性に寄りかからない目新しさがあった。

 人間関係に迷い戸惑い生きているような心理に引っ張られるようなことにはならないという安心の下、繰り広げられる物語の中で別の人間関係の不安定なバランス、好意が憎悪へと転じてしまう難しさなども描かれながらもいずれ元に戻るといった可能性の下、お腹のあたりをムズムズさせずに見ることができたのも良かった。あとは図々しくてちょっとおバカな肉子ちゃんをキクコが恥じず隠そうとしないで振る舞っているところも、人のネガティブな感情に弱い今の心理状態にはマッチしていて嬉しかった。

 そんな物語を描くアニメーションは、「海獣の子供」と同様にしっかりと描き込まれた漁港の雰囲気の上で、そこにクラス人々の人情めいたものがよく動き回っていて見ていて退屈しなかった。二宮という少年がどういう状況でいったい何をしているのか、想像するならADHDか何かで一種の箱庭療法でもしているんだろうかといった思いも浮かんだけれど、それをつきつめなくてもちょっと変わった男の子がいて、けれども根はストレートでキクコの心をまっすぐに戻す良い奴だったと感じられるから、たとえ変顔ばかりしていても構わないといった心境になれた。

 こうした企画をどうして明石家さんまが立てたのか、それをどうしてSTUDIO 4℃が受けて長編アニメーション映画にまで仕立て上げたのか、お金を出した吉本興業にどんな成算があったのか、明石家さんまへの年間のギャランティで映画1本が生まれてそれが最高の内容だったら吉本興業にとってメリットが大きいという計算が働いたのか。考えはいろいろ回るけれどもいいタニマチを得たアニメーション業界が最高のスタッフィングで最良のアニメーション映画を作り上げ、送り出した歴史的な作品として後年にも語り継がれることだろう。


【6月13日】 トンキン湾で小熊が走り始めたってニュースに山梨からはるばるスーパーカブで九州すらこえて東南アジアツーリングに出かけたんだろうかと思ったけれど、すぐにベトナムからラオスへと入ってしまって内陸では苦労も多かったのか旅は中断。今はもう山梨へと戻ったみたい。ってそれ小熊と名付けられた台風4号の話で、元ネタは小熊座だしいけれど今のこのご時世だとどうしても「スーパーカブ」の小熊と重ねられてしまうのだった。日本へと襲来していたらもっと大きく話題になってワイドショーあたりも「スーパーカブ」に関心を持ったかもしれないけれど、「鬼滅の刃」以外は「ONEPIECE」と「ドラゴンボール」にしか興味がない、あるいは知識を持たない民放テレビ局では気付くこともできないか。そうやって民心から乖離して滅びていく地上波。おかわいそうに。

 日産自動車がスカイラインの開発を止めて4ドアセダンからSUVへとシフトするとか。セダンといえばトヨタだったらカローラからクラウンで日産だったらサニーからセドリックあたりをひとつの流れに、車乗りが真っ先に選ぶカテゴリーだといった認識があったけれど、気がついたら街を走る車を数えても4ドアセダンがほとんど走っていない状況を見るに、もはや潮流から外れてしまった感じ。家族がいたりすると荷物も積めて広々としたSUVが良いんだろう。

 あと格好いいセダンがないってこともあるのかな。もちろん個々にスタイリッシュなセダンは作られているんだろうけれど、スカイラインにしてもマーク2にしても当時の感性でそれに乗ることが格好いいといった認識が作り出されていた。今はそういう文脈が生み出されてない感じ。ツーリングカーでレースが行われてGC10のスカイラインが50連勝したような騒動が、起こればあるいはセダンに関心が集まるかな。SUVではパジェロみたいにパリダカで勝つこともスカイラインやメルセデスみたいにサーキットで勝つこともない訳で、それなのに売れている文脈が崩されればあるいは回帰もあるのかも。どっちにしても車を持つことなんで当分ないんだろうけれど。

 「映画さよなら私のクラマー ファーストタッチ」を丸の内TOEIで。映画館で2階席からだなんてちょっと久々の経験かも。それでもしっかりスクリーンは見られた。そしてちゃんと劇場版では靴紐が結ばれていることが分かった。靴紐。重要なのだよ靴紐。ストーリーはテレビシリーズ「さよなら私のクラマー」の前日譚に当たるというか、もともとは先に描かれていた漫画「さよならフットボール」の映画化で、テレビシリーズを知らない人が見てもそこはちゃんと分かるようになっている。

 藤一中に通う恩田希はサッカー部員だけれどひとりだけ女子。テクニックは抜群で少年団の頃からずば抜けた実力を見せていたけれど、いかんせん女子だけあって筋力が男子に比べて弱くパワー負けしてしまう。それでも小学生のころは女子の方が早く成長することもあって無双を誇っていたけれど、中学に入ってぐんぐんと成長する周りいn取り残される形になっていた。1年生の時、テクニックを認められて公式戦の新人戦に出してもらえたけれど、そこでパワー負する様を見られて以降、監督からは公式戦に出してもらえなくなった。

 意地悪とか男尊女卑とかではなく純粋に、発意過程にある女子の体で男子と競り負けるようにして怪我をしたらアスリートとして取り返しが付かなくなるから。練習試合のような場にはちゃんと出してもらってはいたけれど恩田はそれが我慢ならなかった。自分の方が巧いのに。自分の方が優れているのに。弟までもがチームでレギュラーをもらうようになっていらだつ恩田の前に、かつて少年団で一緒にプレーをしていて、その時は背も低く気も弱くて恩田のことを親分と呼んでついてまわっていたナメックが、敵チームの主将として現れる。高身長で頑健なセンターバックとして。

 決して体力負けなんてしないと嘯く恩田に対して、残酷なまでに体力の差を見せつけるナメックに、どうしてもタイマンで泡を吹かせたいと思った恩田はある決断をする。それは……。ってところでまあ、だいだいの予想はつく展開が待っているけれど、やっぱり体力差というのは残酷で、それは男子スポーツと女子スポーツが混交にはなっていない状況が著している。サッカーも女子サッカーがあって男子サッカーがあって別々にリーグもあって試合も行っている。決して女子に男子が混ざれないわけでは無く、地域のリーグでかつてなでしこジャパンでエースを張った永里優季選手が混じって試合に出たこともあるから許されていない訳ではない。

 ただ現実として決定的な体力差の前にテクニックやスピードだけではいかんともしがたいということ。逆にいうなら突出したテクニックと突出したスピードで体力を補うことができればプロの試合にだって代表にだって女子が入って悪いということはない。その意味では平等だ。「映画さよなら私のクラマー ファーストタッチ」はだから女子の体力のなさを残酷なまでに描くのではなく、体力をカバーするテクニックでありそしてチームとちった周辺が大切なことを知らせるようなストーリーになっている。

 読んで不快になる女子はいないだろうし悦に入る男子もいない。いつの日にか女子が男子に混じってカンプノウに立つ日だって訪れるかも知れないけれど、そんな陽に向かって今は女子は女子で研鑽を積む時。なぜって未だに日本代表は国立競技場を満席にしたことがないのだから。新国立競技場を満席にしてなでしこたちがし合いを繰り広げるその日へと、続く道を見せてくれる物語をさあ、見に行こう劇場へ。そういやあ劇中、新人戦のユニフォームを渡す場面ですでに7番を持っている選手が奥にいるように見えているのに先生の7番と呼ぶ声が聞こえて選手が取りに行く場面があったような気がしたけれど気のせいだろうか。もう1度見る理由にはなった。あの当たりちょっと絵も怪しかった。でも靴紐はあった。


【6月12日】 ふと気がついてアクセスしたらTOHOシネマズの東京都内の朝1番から上映される「シン・エヴァンゲリオン劇場版3.0+1.01」はほぼ売り切れで特典としてつけられる薄い本の威力を改めて思い知る。あの「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」から「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」へといたる空白の時間を描いた作品だったってことで、どうしてミサトさんがやさぐれてしまったんか、そして北上ミドリはどう見てもヤンキーなのにVILLEなんて組織に入れたのかが明らかになる! って期待もあっての人気だろうか。だとしたらこれは手に入れねばならないと、イオンシネマ幕張新都心の2回目の上映をどうにかこうにか確保する。

 でもって出かけた久々のイオンシネマ幕張新都心でまずは「シン・エヴァンゲリオン劇場版3.0+1.01」。13回目だと気も抜けるのか、昨日脳みそを使いすぎた疲れが残っていたのか、アバンで左右に出てくる伊吹マヤの巨大なお尻を見てから記憶が落ちて、時々目が空いては相田ケンスケの小屋で寝返りを打つアスカだけは見逃さなかったけど、そこからまた記憶が飛んでしてヴンダーに戻ってからネルフ突入までまた飛んでそこからはちゃんと見られた。それ以前に変更があったかはだからあまり良く分からない。

 そこからちゃんと見てで「1.01の「0.01」だろうと思われるNERV本部への突入戦あたりからエフェクトが派手になった部分は確認した。例えば2番艦からヴンダーへと放たれた砲弾だかビームがヴンダー側のATフィールドを突き抜ける描写って前はあったっけ、はっきりと分かったので今回が初かもしれない。アスカの弐号機とマリの八号機がタッグ攻撃で突っ込んでいく場面も、よりど派手になっていたように見えたけどそれも前からだっけ。碇ゲンドウが過去を語る場面で葉池に出てくるラフな絵も差し替わってたいように見えたなあ、気のせいかもしれないけれど。

 IMAXなりドルビーシネマ版で従来のバージョンを見ればそうした違いもはっきりと分かりそうなので、ここは未だ見ていないドルビーシネマ版を見に行くことにしおうかなあとは切望で、やっぱりど派手な戦闘シーンをくっきりとした映像で見たいので、IMAXなりドルビーデジタルで「新世紀エヴァンゲリオン3.0+1.01」を上映して欲しいなあ。ってことで観終わって出て薄い本を確認。ああなるほど「−120」ってそういうことなのね。結局ミドリが加わってさくらとイチャイチャし始めたきっかけは分からなかった。そこはだから君が埋めろってことなのか。そこだけであと10年は商売できるし。

 得意でない分野でも語らなきゃいけなくなって語っていたらどんどんと受けを狙う方へと滑っていってその場では盛り上がっても結果としては大勢の神経を逆なですることになったということかなあ、とある映画系ウエブサイトに載った対談記事で、あの大マーベルをくさすコメントが連発されて炎上中。愛ある叱咤とか分かって狙った逆張りだったら見ている方もそうだと受け止め一緒になって嗤うけど、下からと言いつつ上から嗤ってくるようなご意見にはファンも怒り心頭なのだ。

 なにしろ2002年の映画「スパイダーマン」が大ヒットしたってことでマーベル映画に脚光があたって、2000年の「X−MEN」とか1998年の「ブレイド」が作られたかのように言っているから嗤われて当然だよなあ。それ以前からマーベルは確かに映画では下火ではあったけれど、テレビで「ハルク」のシリーズが放送されて人気はった訳だし。あと日本の東映が作った「スパイダーマン」にレオパルドンって巨大ロボットが出て来たのが、戦隊モノの乗りだって言っていて、これもレオパルドンの登場から以後、戦隊モノにロボットが出るようになったから逆だって突っ込まれていた。

 キャプテンアメリカが宇宙人とか神様とかじゃなくって元は人間だって話は本当だけれど、ただ鍛えただけの人間ではなく超人計画によって半ばミュータント化された存在だからサノス相手に戦える。それを言うならデッドプールだって元は人間なんだけれどやっぱり改造によって不死身になって感じで、そういう存在であっても超人として存在できるところにマーベルの世界があるにも関わらず、設定を知らなかったのか知らないふりをしてただの人間扱いしては怒る人も出てくるだろうなあ。丸い盾を投げて敵を倒す戦いぶりは、なるほど冗句で嗤ってあげることは可能だけれど、それもキャップへの敬意を含んでの発言でなければ莫迦にしているのかと怒るだろう。地雷中の地雷の上でアイリッシュダンスでも踊っているような対談。今後どうなるかに興味津々。

 二代目デ・ジ・キャラットにプチ・キャラットにうさだひかるの発表会に新宿まで行った身としては、その二代目でじこが実はブロッコデスというブロッコリーの神様で、でじこが抜けている間に変装をしていただけって設定が生まれたことを知らずにいたのがちょっと悔しい。追いかけていたようで逃していたんだなあ。そんな「デ・ジ・キャラット」が令和になって大復活。オリジナルのメンバーが声を担当してアニメが作られるそうで、ぷちこを抜けて不二子になった沢城みゆきさんが、今もあの声が出せるのかどうかが気になって仕方が無い。ネットでの特番では頑張って出そうとしていたけれど、普通に喋ると不二子のようになるのはやっぱり今はそっちがメインってことだからかなあ。なので今からどこまでやれるか興味津々。他にもいろいろ動くみたいなんで期待して待とう。


【6月11日】 やれやれ。平井卓也デジタル相、新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐシステムの構築でNECに発注していたのを途中で止めて、値引きさせようとしてそれで文句を言ってきたら脅すだの干すだのと反社会的な集団でも今時表立っては言わないことを身内とはいえ、喋っては録音されて朝日新聞に持ちこまれ、報道されてパワハラだのブラックだのといった批判を浴びまくっている。これが本当に反社会的な集団だったら、そのまま脅しの類だと指摘されて摘発されて壁の向こうに放り込まれないところを、取り締まる側が言ったらお咎め無しとなりそうでどうにも理不尽な憤りを覚える。

 さすがにこれは拙いと何か言い訳をするだろうけれど、あまりにあからさまな言動なだけに否定は無理だと考え、「『ほす』とは我が一族では『欲す』の意であって、『オリンピックで完全にほす』とは『オリンピックでの貴社の作業を完全に欲する』ということであり、『おどす』は『オッドす=びっくりさせる』であって、『NECのおっちゃんをオッドする』とはすなわち仕事ぶりを褒めてびっくりさせるという意味であり…」だなんてごまかすかと、「国民の立場に立って強い覚悟で交渉するということで、強い口調になった。一緒に仕事をしてきた仲間なので、非常にラフな表現になった」だなんて言って、国民の利益のためにベンダーに対して厳しく当たった正義の味方なんだよって印象を醸し出そうとして来た。

 でもちょっと待て、仕事を請けるベンダーだって日本の企業であって働いている人たちは日本に税金を納めている国民であって、そういう企業なり従業員の労苦に報いるどころかただ働きをさせて搾取しようという気がバリバリ、でもってそれを咎められそうになったらワルモノに仕立て上げて分断を招こうとするトップによって引っ張り回されるこの国のデジタル行政が、ソフトウエア会社に多々あるブラックに塗れたものになる可能性が強く見えてしまって今から暗澹とした気分になる。

 というか、「10年来一緒に仕事をして来て自分の真意が分かる幹部職員へ対面で檄を飛ばしたもの」が、録音されてメディアを介して外に出されてしまったというのはつまり、10年来一緒にして来た幹部であっても、その真意がメディアにが報じてもらうに値するヤバげなものだと感じられたってことだろう。真っ当な神経だったら恥じて辞するところを居座って取り繕っていい顔をする。そんな不正義に溢れた人たちが上に立つこの国。東芝が大株主にあまり口を挟まないで欲しいよう画策したのを、当時は官房長官だった今の菅義偉総理が強く言えば外為法でパクれるんじゃと助言したりする国。外国から見たら公正な条件下で公平な競争ができない市場だと思われ進出も投資も敬遠されるだろうなあ、それこそうした上に立つ人たちが嫌いな大陸の帝国みたいに。やれやれ。

 特典漫画の後編をもらうために京成ローザ10まで言って「映画大好きポンポさん」。1度通して見ているので冒頭のインタビューシーンが映画のメイキングとかじゃなく、そして横断歩道を渡るナタリーがすれ違うモブがモブじゃないことも分かって構成がなおのことカチッとしてくる。いったん進んだ時間を巻き戻したり、同じ様な場面が繰り替えされたりってのはやっぱり「空の境界 第五章 矛盾螺旋」に共通する部分。そのタイミングが何度も繰り返したて見た頭にすり込まれていると、見て通じるものがあるなあって分かる。

 それこそ何十回となく映画を見て、そして詳細まで検討を重ねて記録して記憶して来たジーンなら、なおのこと映画の勘所がすり込まれているだろう。それを発揮できるかは別の話だけれど、そこにポンポさんがいることで後顧の憂い無く取り組めたってことなんだろうなあ。ジーンが映画を誰のために作っているかといった部分が、果たしてズレて自分の見たいものにこだわっているかどうかに疑問もありそうだけれど、ナタリーの大切なシーンであっても、完璧なまでの調和の中で撮られた最高のシーンであっても90分に収まらないなら切るジーンの行動が、ポンポさんに見せたいという思いの現れだと証明しているように思うのだった。そして監督となったジーン・フィニが書いた次の脚本が、映画になる時を映画にする時は来るか。今はそれが気になる。

 知名度に比例してまるで誰にも振り返られていないけれど、フジサンケイビジネスアイ(日本工業新聞)が6月30日に消滅するのを偲んで思いついたことなどあれこれ、1992年2月くらいから拠点を日本証券取引所の兜クラブから日本銀行にある本石クラブに変えて銀行や信金や生損保といった金融を担当した。総裁は平成の鬼平と呼ばれた三重野康。バブルの引き締めに入ってて公定歩合(そんなものが昔はあった)を引き上げバブル退治をしたら経済までが死にかけて逆に引き上げ局面に入ってた頃。その頃の金融記者にとって公定歩合の上げ下げは大スクープだったので一般紙とか日経とかはガサガサしてた記憶。

 ピーク時に6%もあった公定歩合(日銀が銀行に貸し出す金利)は1991年7月1日から下げに転じて11月12月と上がり年明けにもっって感じだった。注目は下げ幅で0.5%が有力だったけど、そう書いた新聞があってそして0.75%と書いたあれは読売だったかがあって、正解は0.75で内心(ナベツネすげえ)と思った。いやもちろん現場が頑張ったんだろうけど政治家とツーカーなボスがいる会社なら情報も回ってくるだろうかと勘ぐられていたし今はなおいっそうメディアってそういうものだと勘ぐられている印象。

 その後も公定歩合は下がり続けて実質マイナス金利まで行き今も続く。なるほど日本が貧乏になる訳だ。日銀の公定歩合がピーク時6%とかだと銀行などに預貯金する時の金利も5%とか行ったりして、日本興業銀行とか日本長期信用銀行とか日本債券信用銀行が出していたワリコーワリチョーワリシンも5%とか金利が付いてたっけ。10年の定期だとどれだけ増えた? そんな幸せな状況が30年で雲散霧消。ストックでもって金利を充てに長生きする計画は潰えた。かといって同じ様な利回りが得られる投資先もなし。そんな世界に生きている。生きていけるのか?


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