縮刷版2021年3月中旬号


【3月20日】 TOHOシネマズ新宿のIMAXレーザーで「シン・エヴァンゲリオン劇場版」。通算で3度目。見ている途中でなんか地震があったようで劇場でも揺れを感じたけれど、誰の緊急地震速報が鳴るでもなく上映も中止にならなかった。決定するだけの震度には達していなかったってことなのかな。音響の具合で振動を感じることもあるし、もとより揺れには強い構造なのかもしれない。というかMX4Dで見ている最中だったらまったく気づかなかったかもしれない。そんな程度。

 相変わらず北上ミドリのギャル系なセリフが面白い。ハズイだとかボスキャラだとか激ヤバだとかナッシングだとかエヴァっぽい何かですとか愉快痛快。そんなセリフが飛び出すタイミング、伊吹マヤのプラグスーツ紛いのピチピチスーツでお尻がスクリーンの右に左に映しになるシーン、パンツ1枚でアスカがごろごろとするシーンなんかを追っているうちに、寝る暇もなくずっと見ていられるのが今回の映画の個人的な勝因か。どんな勝因だ。

 とりわけ最前列で見ていると、IMAXレーザーの巨大なスクリーンサイズもあって目の前のすべてが伊吹マヤのお尻だとかアスカのパンツになったりするから愉快というか。そういうレイアウトを好んで描いてみせるところが面白いというか、好きなのかも知れない庵野秀明総監督。手前に大きくおいて向こうに小さく並べると、奥行きが出るし背景を細かく描かなくても良いし関係性も洗わせるからいろいろ便利なのかもしれない。マヤのお尻は向かって右側にあるほうが好きかなあ。今度見る時はもうちょと右よりの席で見るかなあ。

 これまで3回見たけど3回とも途中でトイレには立つことはなかったのは事前にしっかりとトイレに言っていることもあるけれど、自律神経が多少は持ち直して頻尿気味だったのが持ち直していることもあるのかあ。いやいろいろと切羽詰まってはいるけれどとりあえずジムニーに同乗してあちらこちらを回るシンジくらいには回復しているから多少は周囲の状況も客観的にみられる感じ。誰のジムニーなのか、誰のところでアスカがゴロゴロしているのかってのも別に言っちゃっても良いんだろうけれど、それでもまだ見ていない人もいるからそれはそのうち。

 3回見て流れがだいたいわかって綾波は破で初号機に取り込まれていてQではそのままブンダーの主機にされてアスカは13号機に取り込まれて綾波式波で2本の槍を使って事を起こそうとまでしたゲンドウだったけれどシンジに持っていかれたと。そんな感じだったのかな。あのリアルすぎる顔のモデリングだけは納得がいかないけれどまあ、そういうものだと考えよう。すべてをマリがかっさらっていくのにリアルな人間関係を持ち込み介錯するのもありだけど、そこはそれ、人はメガネっ子に弱いということで。

 ラストに宇部の町が見える話はしてもいいのかな。そんな宇部にどうやらシンクロニシティしているようで、千駄木の島薗家住宅へと見に行った中村和子展の主、中村和子さんは庵野秀明監督と同じ宇部高校の出身だった。生まれは満州らしいけれども帰国して宇部高校では美術部というから庵野監督の大先輩にあたるのか。どいう伝説を残していたんだろう。それが庵野監督に何か影響を与えているんだろうか。ちょっと気になった。宇部市でも1番くらいの高校なんだろうから、そこに庵野総監督も通っていたってこともちょっと驚き。優秀だったんだなあ。でも突飛過ぎるから突飛な人の集まりだった大阪芸術大学に行ったのかな。

 そんな宇部高校ではない宇部市にあるという架空の宇部岬高校が舞台となった高島雄哉さんの「青い砂漠のエチカ」(星海社FICTIONS)を読み終える。2045年の日本は致死性の感染症が大流行して人はあまり外に出歩くことがなくなって、あらゆることがVRでこなせるようになっていて、そしてARの方も盛んになっていてそうしたデバイスを眼鏡だったりコンタクトレンズを介して誰もが利用するようになっていた。そうした状況下、宇部岬高校に進学した時田砂漠という少年は入学式にリアルに参加。そこで事件が起こる。

 飛び込んで来た車に段上でナイフを振り回して暴れる男。総代として立っていた鳴神叡智花という少女を襲って首をかききりこれは事件だと思わせておいて、実はXRに介入したテロだと判明。視覚も聴覚もデバイスを通していろいろと情報を付け加えられるようになっている時代なだけに、そうしたデバイスを乗っ取ることで人に現実にないものを見せ、現実には鳴っていない音を聞かせられるようになった。そんな騒動がいったい何のために行われたのか。同級生になった砂漠と叡智花が謎解きに挑み始める。面白いのは入学式ではリアルで登場した叡智花が以後、VRとして登場すること。実際にはいないにも関わらず、生徒達も先生たちもレイヤーをVRに切り替えることで、そこにVRで参加している生徒達も加えた状況で授業を行える。

 拡張現実への介入も含めてテクノロジーが少し進んだ状況で起こりえる生活なり社会の風景を描いたSFであり、同時にそうしたテクノロジーの存在を了解の上において謎解きを楽しむミステリーとも言える。事件はさらにいろいろと起きて、1000機ものドローンが乗っ取られて暴れ回ったりした文化祭の騒動では、宇部が生んだ英雄、庵野秀明監督にちなんで零号機、初号機、弐号機の色に塗られた生徒達による手作りのパワードスーツが登場するからよっと笑う。

 そんなパワードスーツでも束になってかかってくるドローンにはかないそうもなかったけれど、中に入った砂漠を外から叡智花が動かすことで通常以上のパワーを発揮できるようになった描写にも、テクノロジーの可能性が感じられる。叡智花は実在するのかと不安になって、死んでいるのにゾンビアバターが動いているだけかもしれないと思って、けれども時々はリアルでいるから実在しているんだろうなと思ったけれど、そうとも限らなさそうな展開もあって迷った果てのエンディングに、そうだったのかと驚きつつ思うあれこれ。アニメで見たいかもしれないなあ。


【3月19日】 サンシャイン通りからいろいろな店が消えているという。シネマサンシャインは場所を変えてグランドシネマサンシャインになったし、跡地はキングレコードなんかがエンターテインメントの殿堂にしたけど新型コロナウイルス感染症の影響でライブが壊滅な中、今ひとつ活用できているって感じじゃない。飲食店は桂花ラーメンとかちゃんとまだあるけど、2階が安い牛めしを出していた松屋は閉店してしまった。ブックオフはまだあるしユニクロもちゃんとあるけれど果たしていつまで残るのか。

 なんて想像をしてしまったのは奥にあってサンサインシティへに繋がる地下通路の入り口がある東急ハンズ池袋店が9月に閉店になってしまうから。規模でいうなら渋谷の店に匹敵するくらいの高さがあって物量も豊富な基幹店。それがなくなってしまうというのは東急ハンズにとっても、池袋にとっても結構大きな影響がありそう。理由は不明だけれどやっぱり客足が遠のいていたのかおしれないなあ、DIYでもちょっぴり高級なイメージがあって景気が良ければそれなりに需要もあったんだろうけれど、こうまで冷え込んでくると高い材料で何かを作るなんてあまりしたくないのかもしれない。

 むしろ郊外型のDIYで日曜大工をするとか、ダイソーで安い品物を買って埋め尽くすとかそんな感じ。出来合のものもニトリとかIKEAとかで買えるならわざわざ東急ハンズまでは行かないなあ。ってことでやっぱり需要が下がっているからこその閉店ってことになるのかな。跡地が何になるかは気になるけれど、居抜きで買うならそれこそダイソーの大きな店舗なんかが入って上から下まで埋め尽くすなんてこともあったりしそう。ユニクロは近くにあるし家電ならビックカメラにヤマダ電気が基幹店を構えているから必要ないし。

 こうなるとその延長にあるサンシャインシティも今後が気になって来た。ナンジャタウンはあってもMAZARIAは消えてアミューズメント施設は撤退戦。ファッションも飲食も特徴がないとあとは水族館だけになってしまう。それと即売会や展示会。どっちもこのご時世は厳しそう。そもそもあれだけの高いビルの中にいったい何が入っているのか気にかかる。大昔に確か気象庁関係のネット情報提供会社が入っているのを取材で見た記憶があるけれど、ほかに大企業が本社を構えている訳でもないしなあ。今さらアパートにする訳にもいかにあかつて東京都庁が出来るまで日本最高だったビルのこれから。気になります.

 その美貌とそして描く絵の柔らかで強く印象に残るアニメーターの中村和子さんだけれど、同期の大塚康生さんが最近まで存命で矍鑠として言葉も発していたり、高畑勲監督や宮崎駿監督が映画を作って高い知名度を誇っていたのとは対照的に、何時の頃からかあまりお名前を聞かなくなっていた。NHKの連続テレビ小説「おひさま」で貫地谷しほりさんが演じた女性アニメーターのモデルだとも言われて、脚光を浴びてもご本人の登場がなかったのは気になったけれど、19日から千駄木の島薗家住宅で始まった「中村和子展」で配布されていた、夫の加藤眞人さんがしたためた冊子の中に晩年は歩けなくなって認知症も患い、外に出ることはなかったらしい。

 それでも1980年代とか90年代なら宮崎監督や大塚さんらと活動していても不思議はなかったけれど、ご本人は「火の鳥2772」で作画監督を務められたあと、アニメーションの世界から身を退くようにして絵画の世界へと行きつつ、そこで鬱を患って表立った活動をあまりしていなかったという。自分としてもやる気が削がれた状態に陥ったりして今も回復とまではいかないからそんな時のすべてに絶望しがちな気分は何と無く分かる。苦しい中でそれでも油絵なんかを描いていたのは、やっぱり絵がお好きだったんだなあと展示してあった絵画を見ながら考えた。カシニョールのようなタッチで描かれた女性像。天才的な絵のセンスを持っていたアニメーターだけにやっぱり感じられるものがある。

 「火の鳥2772」の設定画や「白蛇伝」「千夜一夜物語」「リボンの騎士」のセル画があったり「リボンの騎士」や「W3」や「おやゆび姫」の原画のコピーがあったりして、そのアニメーターとしてのお仕事にも触れられる展覧会。その一角に同じ時をアニメーターとして過ごしていた大塚康生さんへの弔意がしたためれて飾られていて、遠くなる昭和のアニメーション界を少し思い起こさせられた。朝イチで行ったら「ワコさん」とあだ名で呼ぶ御姉様方が来られていた。女性ばかりのその集団に黎明期の日本のアニメーション界を女性が支えていたんだなあと思うことしきり。大学や大学院でアニメーションを学ぶのも女性が圧倒的に増えている。テレビアニメの監督も半分以上が女性になる時も遠くないのかもしれない。

 「クローズアップ現代」から武田真一アナが退いた。最後に取りあげたのが愛知県の大村秀章愛知県知事のリコールを求める投票を行うための署名活動で、不正が行われ偽造された署名が大量に出て来た件で、それだけ民主主義への挑戦であり冒涜的な出来事であって、徹底的に原因を究明して禍根を断たなければダメだと言った思いがあったんだろう。余すところなく情報を掻き集めて報じた模様。代筆が良くないということを現場で指摘されながらも大丈夫だと虚偽を伝えていたらしいから、意識して罪を犯したってことになるかもしれない。

 しかしリーダーを辞任して責任は全部自分にあると良いながら美容整形外科医は、申し訳ないと思って入るかと問われて「申し訳ないわけないじゃないですか」といって自分がやったことではないから自責の念はまったく抱かないと吹いたらしい。リーダーなら運動自体が汚辱に塗れたことを申し訳ないと思って当然なのに、そうした穢れは被りたくない意識が透けてどころか全身から放たれている感じ。ここはやっぱり本当の意味での罪に問われて罰を受けないと分からないのかもしれないなあ。どうなっているんだろう捜査。どうなっていくんだろうこの事件。


【3月18日】 振り返ると14ヶ月前の2020年1月7日に、2020東京オリンピック・パラリンピック組織委員会から依頼を受けて、開会式と閉会式の演出を手がけるメンバーに入っていた電通の菅野薫さんが、パワハラを理由に処分を受けたということでクリエイティブチームから抜ける事態が発生していて、その時に菅野薫さんといえば、ライゾマティクスの真鍋大度さん、そして振付家のMIKIKOさんとともにリオデジャネイロ五輪の閉会式後のハンドオーバーセレモニーを手がけて、電子に彩られた壮麗なパフォーマンスを作り上げた人で、東京ではもっと壮大に、それこそPerfumeだとかのステージで見せているような、21世紀の歴史の残る未来的なビジョンを見せてくるものだと信じていただけに、これはちょっと不安が募ると感じた記憶がある。

 そんな懸念は残念ながらも見事に当たってしまったようで、今回の渡辺直美さんに対する扱いの酷さが、クローズアップされた2020東京オリンピック・パラリンピックの開会式や閉会式を仕切る電通の偉い人による行き過ぎた提案が、LINEによる応答の暴露という形で露呈した件が、問題のキャッチーさで事態に目を向けさせたその奥に、ドロドロとした内紛劇が菅野薫さんの退任後に繰り広げられていたことを浮かび上がらせた。そして、もしも東京オリンピック・パラリンピックが開かれるとしたら、とてもじゃないけど間に合いそうもないこの時期になって、統括責任者の退任などという事態へと発展した。だいたいが開催されるかどうかすら怪しい雲行きとなっているこのご時世、いよいよ中止が水面下で決まったので処分も含めて事態を明るみに出したのかもなんて穿った見方も浮かぶけど、内紛劇があまりに酷くて闇に葬るにしのびないと義憤に駆られ、暴露した誰かがいたのかもしれない。

 週刊文春の報道によると、それ以前からいったいどういう演出をすればいいんだといろいろと話し合われていながらも、これといった決めてが出ない中で世界を相手にショービジネスの世界で具体的な演出を打ち出して来たMIKIKOさんが案を出し、それが入れられることになったものの、菅野薫さんが抜けたことでMIKIKOさんが打ち出したそうした案を具現化させてストーリーに乗せつつ、技術面でも事務の面でも支える人がいなくなって、身動きが取りづらくなってしまったところに、本来だったらパラリンピックが仕事だった電通の偉い人が、自分のアイデアをぶち込んできてはいろいろと台無しにしてしまって、これはやってられないとMIKIKOさんが退任。椎名林檎さんも降りてしまって、あとは電通の偉い人の独壇場になりかけていたって感じらしい。

 現実にオリンピックが目の前に迫っているのだとしたら、そこで披露される開会式だとか閉会式の演出プランというのはすでに決まっていて、人の手配も資材の調達も粛々と進められている時期だろうから、それはそれで尊重するとして問題やそうやって新たに立ち上げられる以前に、IOCも絶賛していたというMIKIKOさん側の演出プランをどうして電通の偉い人がひっくり返して、自分の色に染め上げようとしたかって話。そこにどうにもモヤモヤとした日本の国の抑圧というか序列めいたものが漂ってくる。つまるところは前の組織委員会の会長だった森元総理が失言して退任へと追い込まれた問題と同質のもので、下に置かれることを潔しとしない気分でもあったりするのかもしれない。

 あるいはもっと単純に、電通という組織の中での主導権争いめいたものだとか。事態がここに至った経緯には、菅野薫さんの退任が大きく影響していたりする訳で、その理由となったパワハラも現場での諍いに対してリーダーとして叱責を行ったといったものらしいから、言うなれば正しい指導をしただけのことなのかもしれないけれど、折しも電通社内ではリアルでシリアスなパワハラで自殺者まで出てしまった一件があって、ナーバスになっていたところに讒言でもあったかパワハラが取り沙汰されて、退任に追い込まれてしまったような感じすらあったりする。そうした一件の裏でなにがしらの策謀でもあって、そして主導権を握った誰かが子飼いを守り立てるために、前からの一党を排除に動いた、なんて企業小説だかスパイ小説だかにありそうな謀略を、想像してしまったけれども真相やいかに。

 そんな謀略をめぐらす理由が、クリエイターのちっぽけな権勢欲だったら、それで排除されたMIKIKOさんも救われないけれど、そんな我欲に塗れた開会式とかを見せられる全世界の人もたまらない。どんな感じのものになるのかとくとご覧あれ、ってなるかどうらすら実は危ういけれど、一方でリバウンドの傾向が見られるにも関わらず政府は緊急事態宣言を引っ込めて、世間を表向きは通常に戻すことによってオリンピックの開催にお墨付きを与えようとしている。世界がヤバいと思って入るのに、それに気付かないのか気付かないふりをしているのか、必至になって進めようとしているのはいったい誰のため? そこがさっぱり分からない。いるのかなあ、ディープステート。表向きは正統とされながらも実質は断絶へと追い込まれた南朝の亡霊めいた存在が。あるいは滅ぼされた聖徳太子の怨霊が。

 ネトフリマネーが日本の映画界にもじわじわと。あの東宝が持っているスタジオがネットフリックスに貸し出されるそうで、そこを使ってどうやら日本の漫画なんかが原作になったようなドラマを撮ったりするらしい。別にネットフリックスがプロダクションを持っている訳じゃないから、企画の下にどこかのプロダクションがつくか、それとも企画を持ちこんだプロダクションがあるかはともかくとして、そうしたプロダクションがいつでも使えるスタジオがこれで用意されたってことで、路頭に迷わず露天に彷徨かないで良い作品をしっかりとした体制で撮れるようになったら、日本のドラマだとか映画の質も上がったりするのかもしれない。

 そこで仕事の段取りもアメリカ並みになってユニオンシップにのっとったような決められた時間の中で適切な賃金が支払われての撮影が恒常的に行われたら、映画産業の仕組み自体も変わったりするのかもしれない。どうだろう。デジタル・フロンティアとの提携もしたようでネットフリックス、今時の映画に必須のポストプロダクションのリソースも手にいれた。いろいろと期待。アニメーションに関してはすでにスタジオなんかと提携をして、新しい作品を持ちこんでもらったりはしているけれどそのうち業を煮やして資金をぶっ込み最低賃金を決めてアニメーターを集めて制作体制を整えたりしてくるかもしれないなあ。ついでに新聞社も……ってそれはさすがに門外漢過ぎるか。かといって海外のメディア企業が買うには外資の参入規制があったりするし。残念。
BR>
【3月17日】 越谷オサムさんの小説「いとみち」を原作にした横浜聡子さんによる映画「いとみち」が初戴冠。第16回大阪アジアン映画祭でグランプリと観客賞を受賞したようで、これで6月の公開にもちょっとした弾みついたら嬉しいけれど、どうだろう。それほそ知られている訳ではない映画祭だけれど、決して沖縄あたりで開催されている映画祭のように芸能プロダクションが割と抱えていたりして、そうした作品が優遇されているっぽい雰囲気が醸し出されているような感じもなく、フラットにアジアの各国から出品された映画が、しっかりとグランプリを受賞しているから目のある審査員たちが選んでいるんだろう。

 そのラインアップもマニアックというか、インド映画もあれば台湾映画もあって中国映画に韓国映画にタイの映画も並ぶうといった具合に、過去ざっと見たところでは日本映画がグランプリを受賞したことはないみたい。観客賞も同様だったりする中で、青森県のローカルな日常を描いた映画で大手のプロダクションが作ったわけでもなく、一部をクラウドファンディングで集めた「いとみち」のような映画が受賞したということはそれだけ中身に期待が持てるってことになる。いっそうみたくなって来た。こうやって話題になれば文庫版の解説を3冊とも手がけた自分に何か出番はあるかなあ、なんて期待もしちゃったりしているけれど映画化が発表されて撮影が終わり完成しても特に何事もないので、解説まで読んでくれている人はそんなにいないのかもしれない。まあでも本が売れてくれたら推した人間として嬉しいので映画にもヒットして欲しい。是非に。

 「新解釈・三國志」に登場した貂蝉という傾城の美女を演じていたのが渡辺直美さんで、その起用にどこか釈然としないものを感じていたのはやっぱり何かしらのギャップをそこに感じさせ、笑いを取ろうという意図が感じられたからであっていくら時代が違ったといっても、スタイル的に渡辺直美さんをキャスティングして良いかどうかといった話がこれありで、だからこそ広瀬すずさんも同じ役を演じて違いを感じさせていた。そういう起用を渡辺直美さんが理解して、受けているのだから外野があれこれいうところではないんだけれど、そういう役を作ってギャップが笑いになるんだということを、知らしめるのは果たして妥当なのかと考えた時、やっぱり違うやりかたがあるんじゃないかと思ってしまう。歌に優れてダンスも得意な渡辺直美さんの使い処。ハリウッド映画なら格好良くできただろうなあ。

 ましてや「オリンピッグ」などというダジャレにもならないネーミングでもって渡辺直美さんを登場させては、鳴き声から雰囲気から人外のモノマネをさせようなんて発想は、やっぱり浅ましいしそれを全世界からあらゆる人種が集まって開かれる平和の祭典の栄えあるオープニングで披露しようと考えること事態、あってはやっぱりならないことだと言えそう。おっさんがダジャレ的に思いついたからといって、外に向けて意見を問う以前にこれはヤバすぎるから無理だと理解し封印して開かさないのがやっぱり正しい態度だったと言えるだろう。バレてしまった時点でだから退任は当然。たとえ仮にこのまま東京オリンピックが開催されることになったとしても、その4カ月前という切羽詰まった時期であろうと置いておくわけにはいかない。

 問題はだから、そうした人が参画したプログラムを公開して良いかどうかって話にもなるけれど、見た目の上で大丈夫なら完成物に罪はないとするのか、その栄誉を残すことすらまかりならんとひっくり返すのか。時期が時期だけに難しいところだけれど主催者の判断が問われそう。ここで森元総理が組織委員会の会長だったら失言をしまくって賑わせてくれたかもしれないけれど、橋本聖子会長では逆にまかりならんとなったりするのかも。どっちにしたって開催そのものが危ぶまれている感じ。散々っぱら準備をしながら受け入れられず退任していった大半の関係者もやれやれだし、今も残って失言の主の下で頑張っている人たちもやれやれといった感じ。チキンレースの上で繰り広げられるデスマーチはいつまで続く?
 kalafinaがTwitterのトレンドにあがっていたので何かと思ったらNHKの「歴史秘話ヒストリア」が終了だったとのこと。スタート時から音楽を梶浦由記さんが担当して、kalafinaの歌がテーマソングとして使われていて、そしてkalafinaにいろいろあってからも以前として変わらない歌声を響かせてくれていただけに、終わってしまうのは本当に寂しい。続いていたら将来の復活にも期待が持てたんだけれど……。いやでもまだ可能性はないでもない。KeikoさんにHikaruさんが載っての再会はあったりするから、そこにWakanaさんが加われば……。他の方ではダメなんだ。やっぱりあの3人じゃないとkalafinaという音楽は出来ないと思うから。いつまでも待ちます。ともあれご苦労様でした「歴史秘話ヒストリア」。

【3月16日】 「自分がアニメーションの仕事をする時、色々な方にお世話になりましたが、一番お世話になったのが大塚康生さん。たまさか今朝方、不幸なことに生涯を閉じられました。それが今日この日に相当したことで印象深い日になりました。大塚さんには本当にお世話になりました。ご冥福をお祈りしたいと思います」。東京アニメアワードフェスティバル2019でアニメ功労部門の顕彰を受けたスタジオジブリのプロデューサー、と鈴木敏夫さんが挨拶でいきなりこんなことを言ってサッと血の気が引いた人も、きっといっぱいいたんじゃなかろうか。

 何しろアニメ関係者がわんさか集まっていた会場で、フェスティバルディレクターは大塚さんとも関係が深いテレコム・アニメーションフィルムの方。功労賞には「未来少年コナン」に絵コンテで参加していた富野由悠季監督もいたしテレコムにいたこともある片渕須直監督も審査委員のひとりとして来場していた。アニメーターの井上俊之さんもいたなあ。そんな人たちにとって先輩だったり大先輩だったり神様だったりする大塚康生さんの訃報がいきなり何の前置きもなく発信された訳で、その場で立ち上がって天を仰ぐ人がいても不思議はなかった。それともさすがにそうしたクラスの人たちには伝わっていたんだろうか。

 その後、授賞式の模様を伝えるメディアの報道でもって事態が明るみに出て、これはしばらく沈黙を守ろうにも難しいとご遺族の方のコメントが叶精司さん経由で出たりして新聞一般にも訃報が載って体裁が整った。朝の連続テレビ小説で昭和のアニメーションスタジオを描き、大塚さんらしき人も登場させたNHKもちゃんと訃報を流したのはやっぱり大塚さんが日本のアニメーションでは最大のバリューを誇る宮崎駿監督や高畑勲監督ですら一目を置く天才アニメーターだったから、なんだろう。その影響たるや日本のみならず全世界のアニメーションに関わっていたり楽しんでいたりする人にも及んでいる。衝撃も大きいだろうなあ。アニー賞で特別表彰されたりすることもあるかもしれないなあ。

 インタビューとかはしたことがないけれど、東映アニメーションがまだ古い建物だったころ、中に作られたミュージアムが立て替えのために一時閉鎖されることになって、せっかくだからと最終日に見物にいったとき、待合室にご老体の方がいてよく見たら大塚康生さんで驚いたことがあったっけ。ご近所にお住まいだそうでよく来られては座ってらっしゃったって後から聞いた。その場ですぐに隣のスーパーに行って色紙を買って、何か描いてもらおうかとも思ったけれど恥ずかしいので遠慮したのが今も痛恨。ひとり、色紙を持っていて何か描いてもらっていた人がいたけど、そこで大塚さんが描いていたのが次元大介だったのでお好きなんだなと思った。東映アニメーションのスタジオなのに東京ムービーの次元。ちょっと面白かった。その業績ははるか未来まで残るでしょう。合掌。

 TAAF2021といえばコンペティション部門での片渕須直監督による講評がとても興味深かった。長編アニメーションでグランプリのオーレル監督「ジョセップ」については「映像を見ると分かるが始めの方はあまり動かない。審査員の一人のレミ・シャイエ監督が、あれは老人の薄れゆく記憶だからと言っていた。そういう風に見ることが出来たとき、人の人生とか、国と国との諍いが差別を生んだこととか、差別をしたりされた側とした側とが協力して作品を作っているといった、非常に深い思いをこの作品から受けることができる。グランプリに相応しい」と話してた。ぐんと見たくなって来た。

 優秀賞のヘルマン・アクーニャ監督「ナウエルと魔法の本」については、「審査員のアンカ・ダミアンが作品を評価する時に、この作品の先に何があるかを言っていて、本当にそうだと思った。沢山のものを動かす技術や深いテーマがあっても、その先に何があるかを思ったときに、チリで初めてに等しいくらい、誰もいないところで1人ずつアニメーターを集め、10人集めてアニメーションを作ったのが『ナウエルと魔法の本』。技術的に足りないところもあるが、その先に新しい世界のアニメーションを作るもう一つの何かがあるならそこに期待したい」。その場の完成度を絶対の規準にすることも大事だけれど、賞を与えることで生まれる未来の可能性も考えるべきといったスタンスは、賞というもを行う意味を考えさせられた。

 それは16日に発表された「マンガ大賞2021」にも言えることかもしれない。過去、たとえば「進撃の巨人」だとか「呪術廻戦」だとか「鬼滅の刃」だとか「よつばと!」といったベストセラーを落としたり、ノミネートすらさせなかったりした賞なだけに何を観ているんだといった声もあるけれど、一方でまだ見ぬ才能を世に問うて後の人気作に押し上げる力も見せてきた。いろいろあった末次由紀さんの「ちはやふる」がまだ数巻の時代にマンガ大賞に推した結果、今に続く大シリーズになって競技かるたという文化への注目も集まった。ヤマザキマリさん「テルマエロマエ」なんて1巻の段階で賞を出したらこれも人気シリーズへと発展した。

 今回の「葬送のフリーレン」も2020年のスタートという比較的新しい作品で、山田鐘人さんもアベツカサさんも大ヒットを持った漫画家さんではないけれど、そんな2人が生みだした「葬送のフリーレン」は圧倒的な面白さを持って読む人を喜ばせている。最初の2話だけでも読めば魅力が伝わり、ずっと読んでいたくなるけれどそこへと至らせるための窓口として、こうした賞が昨日するならそれはとても重要なこと。有名な作品や大家の漫画家さんを讃えたい気持ちも一方にあるけれど、そういうのは朝日新聞の賞に任せてマンガ大賞は権威化を逆手にとってこれからの作品をブーストさせる機能を果たして欲しいもの。来年は何が取るかなあ。


【3月15日】 フジサンケイビジネスアイが6月30日で休刊との報。できれば中で看取りたかったけれどもそれを待っている余裕もなく叩き出されたので今がどういう状況かはちょっと分からない。とはいえいっぱい叩き出してなお保たなかったという状況が昨今のメディアにおける紙媒体のヤバさ、そしてニュースというコンテンツのマネタイズの難しさを感じさせる。経済系ならITメディアがあったりビジネスインサイダーがあったり週刊東洋経済やダイヤモンドのオンラインがあったりと決してダウンはしていない。問題はそうした方面に対応できるだけの人を確保しコンテンツでもって引きつけようとする施策をとらなかったことにあるんだろう。誰が悪いってそれは知らない。知りたくもない。

 1日置いて東京アニメワードフェスティバル2021。学生のアニメーションを紹介して講評を行うYOUNG POWER2021という企画があったんでまずは見物。以前に「あたしだけをみて」で見里朝希さんが参加して外国人のプロデューサーからクリティカルに突っ込まれたことで、素材を見つめ直した成果が「PUI PUI モルカー」へと結びついていることもあって将来のアニメーションクリエイターを探す場としても結構意味がある。そんなバックグラウンドからいっぱい取材が来ているかと思ったら来ていたのは1人くらいだったのはまだまだ学生アニメーションが世間に知られてないって現れなんだろうなあ。東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了制作展にも取材が来ている感じ、なかったし。

 さて作品はまず女子美術大学の西郡優喜子さんによる「光明は囁く」。とても上手い。もう絵として完璧な感じの女性が散歩する足先とかをしっかりとらえてゆっくりと歩く姿を描いている。そこから葉が茂ったり昆虫が現れたりするシーンへといって戻って女性が歩く場面へ。後でWIT STUDIOの中武哲也さんが尋ねていたけどロトスコープヲ使って動きなんかを取り込みつつ、想像を広げ音楽も自分でつけて綺麗な作品へと仕立て上げた。アニメーターの渡辺敦子さんもお気に入りだった様子。ただ細々と隅々まで書くよりはぱっと見て目線がいくところ、顔だったら目のあたりをしっかり書くことで後は少し手をぬいて、労力を分散することがプロとなるなら必要だって話してた。倒れたらおしまいだからな。

 しばらくはフリーで活動するみたいだけれど、上手いからきっと世にでてくるだろう。そんな西郡さんに続いて丁広之さんといっても留学生で女性の人が「A Fusiion Of」という作品を発表。ポップでカートゥーンみたいな絵柄なんだけれど女性が躁と鬱の自分に分裂して切り離そうとしても切り離せないもやもやが、描かれて居て作者自身の悩みと苦しみを感じさせる。そういう時期を経ていただけに自分にも分かる自信を失って何もやる気がおきず引っ込んでしまいたくなる自分の存在。一方で何でもやってみようと前向きな自分も思ったりするその分裂が、統合されるべきか弱気な時だかからこその集中力を大事にするべきか。考えさせられた。

 東京藝大院の岡田詩歌さんにおyる「Journey to the 母性の目覚め」は先に馬車道で見ているからこれが2度目。14歳で突然母性に目覚めていろいろと考えたという作者の感性がどいう具合に絵になっているかを改めてみてその爆発ぶりに驚いた。中武さんも天才だと激賞。とりわけ編集の巧さを讃えていた。ぱたぱたと切り替わっていくタイミングのよさ、それらがカットでたんとつながって積み重なっていく展開。すでにひとつの長編映画に匹敵する内容だって中武さんは話してた。独特な絵柄でありテーマなだけに商業という分野ではすんなりと行けそうにはないけれど、だったら抑えるべきかといった岡田さんの問いに渡辺さんは抑えることなんてない、自分を目いっぱいに出せば良い、それを商業にどう載せるかはプロデューサーの仕事だって答えてた。中武さんの責任は重大だ。

 多摩美術大学の塚原菜緒さんによる「Le Retour」は絵本のような繊細な線で駆け出しの画家が行き詰まっていたところに過去の子供だった自分が描いたクレヨン画の素朴な感じからやる気を思い出していくといったストーリー。中武さんも渡辺さんも誉めてはいたけど、割とあるテーマでそれからまとまっている絵柄にひとつの到達点があってそこから何をどうすかといったコメントが出ずらかった。やっぱり爆発的な展開なり絵柄なりテーマなりがあってこその若さだからなあ。上手すぎるのも罪深い。

 そして東京造形大のグレンズそうさんこと宮崎創さんによる「白紙」はボカロPによる楽曲につけたPVといった感じだけれどこれがメチャクチャ上手い。渡辺さんは「すしをさんレベル」とまで言っていたから相当のアニメーターとしての腕前ってことになるだろう。実際に上手かったしなによりレイアウトがうまい。どのシーンもかっちりきまっていちいち見せる。それらが全体につながっていく流れも巧み。中武さんもこれは即座に採用かって思ったかどうかは分からないけれど、フリーで家で絵を描いているようなら外に出た方がいいとは諭してた。家にいて誰とも会わないとやっぱり煮詰まるそうだから。

 渡辺さんもスタジオに席を置いてくれるならフリーでもスタジオに出かけていって散らばっているものをいろいろ見た方が良いと話していた。やっぱり先輩なり他のアニメーターだどういった仕事をしているか、それはどんなタッチで描かれて居るかを実際に見ると、分かることもあるんだろう。アニメーターに限らず演出なり修正なりの足跡をみることで、どうやって演技をさせるかってところにも生きてくるし。昔はひとつのスタジオにそうやっていろいろな職種の人がいて、影響し合って作っていた。ひとつのカットのひとつの動きが素晴らしくても全体ではどうなんだ、ってなる時にやっぱり全体は覚えておいて損は内ってことなんだろう。とはいえすでに完成されたそのアニメーション技術がこれからどこまで伸びるのか。「日本の星が来た」と渡辺さんも讃える才能がどこで爆発するかを見守りたい。

 そんなYOUG POWER2021を見たあとは、なか卯で親子丼を食べてそして東京アニメアワードフェスティバル2021の授賞式を見物。功労賞で顕彰された鈴木敏夫さんが今朝方大塚康生さんがととんでもないことを言っていたけど、事が事だけに正式な発表があるまでちょっと待ちたい。あと富野由悠季監督が会場となったとしま区民センターが立っている場所に以前あった豊島公会堂で48年前に行われたアニメイベント(「海のトリトン」絡みかな?)で観客というものがいることを感じて今までやって来られたと発言。てっきり爆弾を破裂させて顕彰なんてと言い出すかと思っていただけに、過去のそうした思いが今につながってアニメがあることへの感謝を見せてくれたのは嬉しかった。これはもう応援していくしかない、50年後の富野さんたちを生み出すためにも。


【3月14日】 せっかく池袋まで来たのだから鉈転生を見て帰ろう。転生したら剣ではなくって鉈になるやつ。違う「ナタ転生」だ。中国のアニメーションでフル3DCGは「白蛇:縁起」と同種。つまりは日本の2Dアニメーションみたいなルックではなく、かといってディズニー/ピクサーが得意とするキッズ向けとも違った大人の雰囲気、例えるなら日本のゲームムービーに近い感じを漂わせる。「ファイナルファンタジーZ アドベントチルドレン」だとか「キングスグレイブ FFXV」のような。

 ただし「キングスレイブFFXV」が記憶ではカメラがキャラクターを追い越すような揺れを起こしてとっても見づらく見ていて酔うような印象だったのに対し、「ナタ転生」は最初のバイクレースのシーンこそそうした傾向がちょっとだけ見られたものの、キャラクター芝居に入ってからは安定してキャラクターを画面においてしっかりカメラでとらえる映画のような映像になっていて安定。その中で計算されつくした動きでもって繰り広げられるアクションに存分に酔うことができた。押しては受けてひいては追いつつ殴り蹴って刺し貫くようなアクションを、しっかりとメリハリを効かせて見せる腕はやっぱり中国、考え尽くされている感じ。

 ストーリーについては「封神演義」に「西遊記」あたりで知られている那タクことナタが現代に転生しては「封神演義」で因縁のある東海龍王やら三太子らと戦うというストーリー。転生した東海龍王の側は街を牛耳り水を抑えて圧政を敷いていたけれど、そこに生まれた李雲祥が実はナタの転生で、それと知らず雲祥が乗っていたバイクをほしがった三太子のちょっかいがナタを目覚めさせてしまい、そこから過去の因縁を清算したいと願う三太子の攻撃、そしてナタの復活を阻止したい東海龍王の攻撃が激化していきナタの知り合いの少女や兄や父親に被害が出る。

 憤って復習したいけれども力が乏しいナタ。そこに現れたのがバイクレースの会場で声をかけてきた仮面の人物。いったい何者? といったところからそれこそジャッキー・チェンの映画でもあるような修行があってバトルがあってといった展開が繰り広げられる。凄いのはそうした展開にもしっかりとメリハリがついていて、飽きずにしっかり追っていけるところ。クライマックスには奇跡めいた描写もあって大逆転のカタルシスも味わえる。いやあおもしろい。このストーリーの面白さ、そしてアクションの楽しさを中国のフル3DCGにやられてしまっているところがちょっと悔しい。そして嬉しい。

 ナタは「羅小黒戦記」に出てきた子供のような格好ではなく「鉄拳」シリーズの三島一八系の尖った髪型のイキった青年。父親にどうにも疎まれている意識があるのか素直になれないけれど、父親と和解したい気持ちもあって近づいても受け入れられない苦しさを抱えている描写にジンと来た。歌姫カーシャはレースを観戦している時と、歌を唄っている時の差があって少女といえども女はばけると思わせる。そしてバイク乗りにして女医の蘇君竹。とにかく美しい。そしてりりしい。最後の場面までナタに寄り添い手を尽くす。造形から仕草からもう完璧。その姿態を見に行くだけでも価値がある映画だ。

 決して「封神演義」にも「西遊記」にも詳細まで見知っている訳ではないけれど、なんとなく分かっているからこそ楽しめるところがあって、そんな時にそうした中国の古典も入って来ている日本に生まれ育って良かったと思える。一方で西洋のアニメにも親しんで来られたこの国が、けれども独特のアニメーション文化を生み出した不思議。それが特徴でもあるけれども時に枷となってワールドワイドに展開できるアニメを作れているか迷うところがあることも、同時に考えさせられた作品だった。

 「まるで現代のシャーロック・ホームズだ」「ヒエダ電索官、読書がお好きですか?」「最初、きみのことをR・ダニールだと思ったくらいには」という会話が気になったり気に入ったら菊石ほまれさん「ユア・フォルマ 電索官エチカと機械仕掛けの相棒」(電撃文庫)を読みたまえ。SFでありミステリ。ミステリであるがSF。そんな両面から楽しめる。SFとしてだとロボットの感情の在処に迫り感じさせて裏切り、けれども期待させる展開を持っている。

 ミステリなら人を端末など使わず情報にアクセス可能な存在に変える技術が犯罪に使われ推理と探索の果てに事件の真相を暴き真犯人へと行き着く展開を持っている。19歳の女性電索官と美貌と人懐っこさを持ったハロルドとの馴れ合えず嫌えない複雑なバディ関係を味わいつつ、テクノロジーがもたらす利便と不便に迫れるこれが話題にならないSF界隈はないと思うけどライトノベルまで目を向けてくれるのか。試されてる。ハロルドとスティーブとあともうひとりいるならいつか出てくるか。続くみたいで今から楽しみ。

 電撃小説大賞で銀賞の土屋瀧さん「忘却の楽園1 アルセノン覚醒」もSF界隈に目を向けて欲しい1冊。戦乱の果てに陸が減り滅びへと向かていた人類が統治機構を置いて武器と科学と信仰を抑制し、一致団結して再生を目指そうとするものの動きを引っ張る「旧世界病」が世界を蝕む。原因は戦乱の中でばらまかれた汚染物質。その治療法の要となる存在をめぐるやりとりが、基本線。そこに絡んで最高統治府に新たに採用された男子2人に女子1人がそれぞれの仕事の現場でいろいろ動き、やがて重なっていくという展開が話を豊かにしつつまとめる。

 生真面目なアルムにお調子者のクリストバトル、王族の娘オリヴィアがそれぞれ何をしているかを追いつつ終盤に向けて重ねて生き絡ませる展開が美味い。汚染物質により人が影響を受ける世界観は「風の谷のナウシカ」と重なるかなあ。とりあえず一段落は付くけれど、武器科学信仰を統制したままで良いか、ってな懐疑を抱かせつつ世界再生の鍵となる少女との出会いから解放を経て動き出した世界の行方がこれから描かれるんだろう。楽しみ。キャラでは最高統治者グレン・グナモアの歳はともかく姉御っぷり、それに物怖じせず減らず口をたたくクリストバルが良いかな。

 「月刊創」の「新聞社の徹底研究」で他が記事に関する質的量的な展開方法としての組織や技術の開発に取り組んでいるのに対して1社、DXだのアンリミテッドだのといった技術やプラットフォームの話ばかりで上に乗っけるコンテンツの質的量的拡充の観点がずっぽり抜けてるところがあって腰が砕け散った。そんな記事で紹介されているアンリミテッドとかいうネットサービスが発表から2年半、その時に予告された時から1年半経ってまだスタートしていないことにも膝が崩れ落ちた。新型コロナウイルス感染症の接触管理アプリだって3ヶ月で出来たのに。バグがあったから慎重を期せばもかかるといったって、2年3年かかるかっての。OSなみだねえ。


【3月13日】 東京アニメアワードフェスティバル2021で「風の谷のナウシカ」を見る。映像はきれいだったからデジタルリマスター版かな。音響もしっかりききとれた。上映後に鈴木敏夫さんがスクリーンに映し出され、劇場に来ていた高橋望さんと対談。まずはアニメージュ創刊の経緯について鈴木さんからあれこれ話された。「尾形英夫から喫茶店に行こうとさそわれ、アニメージュを作って欲しいといわれたのがスタートだった。この尾形という人に喫茶店に誘われるとろくな事がなかった。僕の負担が増える話ばかり聞かされていたから」。そりゃ怯えるわ。

 「実をいうと端で見ていて、尾形さんがアニメージュを作ろうとしているのは知っていた。忘れもしない1977年12月、アニメージュと言い出して、外の編集プロダクションといっしょに月刊誌を作ろうしていた。だから新しい雑誌が出ると思って見ていたら、ゴールデンウイークが始まって少し経って、この雑誌を作って欲しいと言われた。編集プロダクションがやることになっていたんじゃないですかと聞いたら、揉めて首にしたと。それで突然、僕の方に話が降って湧いた。僕はそんなにアニメーションについて詳しくもなんともなかったから不安だったけど、3時間かけて口説かれた」

 それで鈴木さんの方からもいろいろと聞いたらしい。「何のためにアニメーションの雑誌を作るのかと聞いたら、尾形さんの息子がアニメファンだから、その息子のために作ってくれないかと言われて驚いた。公私混同だから。でも、そこにほだされた。雑誌が個人的な事情で生み出せる。やってみたらおもしろいと考えた」。そして高橋さんから、アニメージュは作家主義と言われることについて尋ねられた鈴木さん。「作家主義といわれるが、結果としてそうなったと思う」と話してた。

 「アニメージュを始める時に3人の女子高生にアニメーションのことを聞いた。彼女たちが訴えていたのはキャラクターのファンだということ。キャラクターマガジンを作れば良いとなったが、これが人間だったらインタビューしていろいろ聞けば良い。人の描いたアニメーションではキャラクターは何も喋ってくれない。だったらと思いついたのが、絵を並べるだけでなく絵を描いた人、演出した人の話を聞けばキャラクターに膨らみを出せると考えた」。そうやって始まったアニメージュでの仕事で出会った人で影響を受けた人について。「初期の仕事で付き合いがあったアニメーションの人では、やはりヤマトの西崎義展さん。世間でいろいろと言われている人だけれど、良いところで言うとプロデューサーというシステムで作品を作った最初の人なんじゃないかな」

 なるほど。「悪評も含めていろいろあるけれど、付き合った中ではピュアな人だった。それだけでは作品はつくれないから、清濁を合わせ持ったのが西崎さんだと思っている。太平洋戦争で海に沈んだ戦艦大和を引っ張り出して宇宙に飛ばすなんて、西崎さんの発想でそれを考えてやったのは凄いと思う。アニメの世界に行ってびっくりした2人目が富野由悠季さん。あの方と雑誌を作っていく中でガンダムが映画になったらという発想が出てきた。実際に映画になって封切られた。そういうことも含めて富野さんはおもしろい人だった」。そんな西崎さんと富野さんの影響から映画のプロデューサーになろうと考えたかと聞かれた鈴木さん。「それは全く意識していなかった。映画を作ろうとは考えていなかった」という。

 「ただ、アニメーションという世界には物を作ろうとしている人がいると感じていた。仲間に亀山という者がいて、2人でいろいろと話していた。作家というと普通は小説の作家のことで、絵を描く人は画家で漫画を描く人はマンガ家だった。アニメーションは演出家であって作家という言葉はギャップがあった。もっとも、その時期は小説が芥川賞なり直木賞なり、難しいものから柔らかいものまで余り元がない時代だった。そんな時に、アニメーションを覗きに行ったら元気の良い奴がいっぱいいた。亀山と話していて、こんなところに作家がいたんだということになった。小説家はお酒を飲んでぐでんぐでんなるとかいった話があるけれど、アニメーションの作家は自分の作品に取り組んでいた。発見だった」。権威なんてまるでなかった業界。それだけに真剣に何かを生み出そうとしている人がいっぱいいたんだろうなあ。

 雑誌の編集者でありながら映画を作ろうとしたは異例じゃないかとの問いに対して。 「それは自分はフランスの映画の発展を見ていて、映画の歴史に革命を起こしたヌーベルバーグがフランスの雑誌『カイエ・ド・シネマ』から出てきたことを知っていた。その存在を知っていたから、ヤマトやガンダムの記事を作りつつ、雑誌から映画を出せるんではないかと思っていたことは確かだ。それでやってみた。まずは漫画でやってみた。漫画は規格書だ。シナリオを載せるのも良いんじゃないかと思っていた。映画を作るステップとして雑誌を活用してもらうのも良いんじゃないかと考えていた」

 それが日本だと徳間書店でアニメージュだった。「アニメグランプリというのを立ち上げて、ファンが集まったときに尾形が映画にしようと言ったんじゃないかな。それがすべてのきっかけ。もう一方で、徳間書店は実写映画をすでにやっていた。実写を作れるならアニメーションだってやれる。活字と映像と音楽のメディアミックスを、角川書店もすでに出版界で推進していた。角川と徳間は出版界では特殊だったが元気があった。そういう流れが作用して、徳間書店はナウシカをやったんじゃないかな」。徳間さんは大映を買っていろいろと映画を作ってたから親和性はあった。でもアニメ映画が儲かると思わせたのはやっぱり松竹の「機動戦士ガンダム」の成功。それを支えたアニメージュがあったからこそ、徳間さんも決断できたんだろう。

 自分がアニメ映画のプロデューサーとして立とうとしたきかけとの問いに鈴木さん。「それはスタジオジブリを作る時かな。『風の谷のナウシカ』はトップクラフトで作ったけど、『天空の城ラピュタ』を作ろうとしたとき、トップクラフトが機能を果たさなくなっていた。自分たちで作らないといけなくなった。メンバーは高畑勲さんと宮崎駿さんと自分しかいなかた。そこで高畠さんがプロデューサーは鈴木さんだよねと言い出した。ずるいこと言いやがってと思ったけれど、それがきかっけだったことは確かだな」。そして若い人に。「アニメージュをやって良かったのは、画像をいっぱい出せたことかな。すでに映画雑誌はいっぱいあったが、たいていは1枚のスチールを載せるだけ。でも映画は映像だから、それに対して不満があった。映画は動くもの。その動きを雑誌の中でどうしてやらないのか。アニメージュでそれを提供できたのは楽しかったね。漫画と違うものがアニメーションにはある。そこに目を向けて欲しい」。ああ面白かった。

 観終わって外に出たらすごい風と雨。避けようと飛び込んだ池袋公会堂跡地に立つハレザ有明にTAAF2021の功労賞の展示が来ていて話題の「月刊アニメージュ」創刊号も飾ってあって、表紙のヤマトのギンギラギンにさりげなく輝いている様に感嘆する。ゴージャス感を出そうと多色刷りにしたんだっけ、確か。他にも「赤毛のアン」のセル画だとか「ちびまる子ちゃん」の原稿だとかいろいろと飾ってあった記憶。「未来少年コナン」のアフレコ台本もあったっけ。こうした時代を感じさせる品物も保存しておかないと失われてしまう。アーカイブの大切さを改めて噛みしめた次第。せめて所在だけでもチェックしておきたいなあ。頑張ろう。


【3月12日】 やばいなあ日本テレビ放送網。朝のワイドショー「スッキリ!」の中でHuluの番組を紹介するコーナーがあって、そこでアイヌの文化を伝える番組を取りあげたんだけれど、それを受けて芸人がやっちゃあいけないダジャレめいた言葉でもってアイヌのことを人間じゃない何かめいて呼んでしまった。かつてそれはアイヌの人たちを人間じゃない何かめいて侮蔑するような際に使われていた言葉であって思い出す人も多かっただろうからすぐに反応があって、日本テレビも謝罪したけどそれ以前にポロリと幕間で言うんじゃなく、わざわざ映像を被せていたからにはその内容が大丈夫だと思ったってことだろう。過去を知らずとも民族を人間じゃない何か呼ばわりするコメントが適切か否か、考えつかないのかなあ。そこがやっぱりいろいろとほころんでいる証拠なんだろうなあ。

 東北新社が衛星放送の免許を申請した際に、外国資本の比率が放送法で制限として決められていた20%を超えていたにも関わらず、超えていないことにして申請を出したのが一連の総務省接待騒動の中で取りざたされて、総務省が東北新社に関連した免許を取り消すことにしたとの報。スターチャンネルとかいろいろ手広くやっている会社だけに全滅かと思いきや、ザ・シネマ4Kのチャンネルだけみたいでサービス的には一安心。そのあたり妥協点でも探ったのか、今は超えていないのだとしたら罪一等が厳じらられても良いって判断があったんだろうか。

 それにしても放送法の外国資本規制なんて、それこそ大爆発を起こしかねない爆弾なだけにテレビ局とかそれらとつながりの深い新聞社は書きたてるに書きたてられないだろうなあ。証券保管振替機構という取引された株式なんかを預かったりしている組織があって、そこが出している数字によればフジテレビを傘下に持つフジメディアホールディングスは外国任直接保有比率が32.12%、日本テレビ放送網を持つ日本テレビホールディングスは23.77%と、ともに既定の20%を超えている。

 すぐさま違法だ免許取り消しだとなるかというと、保振がこれを「外国人投資家が名義書換を拒否される可能性を判断する場合等における一助とすべく、参考情報として公表」していると言っているように、裏技があって名義を書き換えないままでいると来ての20%を下回る数字に保つことができる。たぶんとちらも19.99%なんて数字にしているんじゃないのかな。それで株主が怒るかというと、中には買収が目的の会社で騒ぐところもあるだろうけれど、こういう状況がずっと続いているのに問題化しないのは、議決権は持たないけれども配当は受け取っているから気にしないってことだろう。

 さすがに業績が厳しくても無配にはならないテレビ局なら株主としてホールドすることは悪くない。ただ議決権を持ってしまって規制を超えてしまって売らざるを得ない羽目になるなら、そこは我慢だ目先の配当だってことになっているのかな。ただこうして接待だなんだといった不正が発端となって騒がれている問題だけに、事情も含めて取りざたれたら言い訳がきなない状況ではある。どうするか。知らんぷりして通り過ぎるのを待つんだろうなあ。それが日本という国の処世術だから。やれやれ。

 文化庁メディア芸術祭が発表になってアニメーション部門は湯浅政明監督の「映像研には手を出すな」が大賞に。NHKで放送されていて見られなかったけれども内容の良さと映像の素晴らしさは盛れ伝え聞いていただけに納得の受賞。「日本沈没2020」も個人的には好きだけれど一般性となるとやっぱり「映像研」になってしまんだろうなあ。優秀賞では佐藤順一監督と柴山智隆監督の「泣きたい私は猫をかぶる」が入ったようで、新型コロナウイルス感染症で公開しきれなかった映画でも、ちゃんと拾って貰えてこれは嬉しい限り。日本作品ではあと「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」も優秀賞。いろいろあったけれども完成にいたったこの映画を讃えたい。

 マンガ部門は羽海野チカさん「3月のライオン」が大賞で今になってという気もするけど今だからこそという気もする。優秀賞にカレー沢薫さん「ひとりでしにたい」が入ったのはなにか凄い。「塀の中の美容室」とか「イノサンRougeルージュ」とか「かしこくて勇気ある子供」はとりそうな雰囲気出してる漫画だものなあ。そんな中で「ゴールデンカムイ」も優秀賞。マンガ大賞受賞作品から2つが入った。やっぱりいろいろ先取りしている。エンターテインメント部門の大賞がアニメ映画「音楽」というのが驚きだったけれど、漫画原作で1人が延々と作り続けたという意味でひとつのアートでアニメーションでスタイルだと言えるかも。いよいよ案内も来なくなったけど頑張っているので応援したい文化庁メディア芸術祭。広報体制と展示会の状況をどうにかして欲しい気はするけれど。

 インタビュー取材で外に出たのでついでにイオンシネマ市川妙典で「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を見てくる。2度目。北上ミドリの「ハズいんですけど」とか「激ヤバです〜」とか「エヴァっぽい何かです」といった超テキトーな言語感覚に癒される。キット優秀なスタッフがそろっているはずのWille中枢メンバーにありながらもこの感覚はきっと別に優秀なところがあるんだろう。即時的に感性をのっけて文字面以上のシチュエーションを伝えるのに長けているとか。「エヴァっぽいなにか」って確かに他に言いようがないものなあ。これが伊吹マヤだといろいろと考え込んで難しい言葉遣いになってかえって伝わらなくなると。だから言葉より手を動かす整備長になった、と。きっとそうだ。


【3月11日】 作家として活動をしている出版社が発行している週刊誌が、医師として自信が持つ知識に照らし合わせて間違っていることを書いたからといって、それは週刊誌の編集権が及ぶ範囲での言論であって、題字を出たところで同じ主張が通るとは限らない訳で、だからこそ医師の人が持論を自分の筆が及ぶ範囲内で主張しても週刊誌の側が咎めることはない。お互いに編集権を尊重し合った上で、あとは人がどちらを信じるかという問題であって、そこで週刊誌に勝てるだけの発信力と何より正確性を持っていれば、良いだけのことでもあったりする。それが言論による戦いということに表向きはなっている。

 ただ、医師でもある作家の人が、週刊誌の反論を自分の作品として書かなくちゃいけないいわれはないのも事実で、間違ったことを書かれっぱなしにされたくないけど、反論もしている暇もないならそこはやっぱり間違ったことは書かないで欲しいという願いがあって悪いものではない。そして間違ったことが出て来ないように、自分の作家としてのバリューをそこに示してどちらをとるかと言うのもひとつの態度。そこで出版社が週刊誌が編集権を土台に言論の自由を貫くなら、そこは自分の居場所ではないと作家の人が退くこともありだろう。出版社だって商売なのだからどちらがより利益になるかを考え判断することを悪いとは言えない。

 一方でジャーナリズムの矜持というものから考えるなら、牽強付会気味に根も葉もない話から不安を煽って記事を読ませる手法は卑怯なふるまいで、そうした不正義に対して世間が態度で示すことがあっても良い。あまりに不安を煽って中身がなく、将来に禍根を残す言説を垂れ流す週刊誌には退場願うのが健全なジャーナリズムのために必要なら、そうあって欲しいもの。そういう覚悟があるならいくらでも編集権を盾に頑張って下さいと言っておこう。だから作家の人はジャーナリズムの正義を信じて自分は自分の言論を貫きつつ、作品は作品としてどこであっても出してくれればそれで良いんじゃないかなあ。右手が掏り盗った金を左手からもらっているのかもしれないと思うといてもたってもいられないのかなあ。いろいろと迷う状況。どうなるか。

 そういえばAERAが防毒マスク姿の人物を表紙に「放射能が来る」と不安を煽ったことに反発して、連載をしていた野田秀樹さんが降りた一件あったっけ。右手が掏り取った金をその右手から受け取るような感じだったらか居たたまれなくなって当然。その後に野田秀樹さんは朝日新聞社系の媒体に出たんだろうか。そこでケジメがどうなっているかが少し気になる。そんな一件から10年が経って復興は進んでいるようで進んでいないところもあってとりわけ福島県は今も入れない場所が広がっている。以前と以後でそういう状況に陥っていることがそのまま10年前の事態の凄まじさって奴を表している。なおかつ今後の10年に果たして元通りになるのか否か。昭和30年の広島と比べても雲泥の差であるところに、原子力発電所の事故がもたらす影響の凄さが伺える。爆弾は一瞬で奪うけれど、原発は永久に奪い続ける。

 しばらく前にコーヒー専門店が閉まった船橋駅の地下に何かできるみたいで近づくとコメダ珈琲でちょっと驚き。名古屋ではそこらじゅうにあって東京でもあちこちに作られてはいるけれど、千葉のそれもすぐ近所に出来るとはちょっと思っていなかった。利用するかというとドトールだとかVELOCHEだとかタリーズだとかフレッシュネスバーガーといったファストフードにコーヒースタンドは使っても、コメダとなると値段もそこそこするからあまり利用することはなさそう。ただ名古屋にいたときも食べたことがなかったシロノワールとやらは食べてみたいかもしれない。モーニングセットとかやってくれるのかなあ。開店が待ち遠しい。

 レジ袋に続いてスプーンやフォークの無料での配布を禁止する法律だかができたみたいで、このご時世にいろいろと気分をシュリンクさせるようなことをやって、小泉進次郎環境相の何かやってる感を出そうとする動きの厄介さがだんだんと気になって来た。チャーハンだとかパスタだとかは箸でも大丈夫だけれどカレーとなるとさすがにこれはスプーンでないと食べるのが難しい。コンビニにカレーを提供している弁当屋さんはいろいろと工夫が必要になってくるだろうなあ。紙製だけれどカレーに触れてもぐにゃぐにゃにはならず最後まで保つスプーンの開発だとかも行われるのかな。これだけやってもペットボトルを禁止しようという動きにならないのは、市場がばかでかくなっているからなんだろう。結局は弱い者虐めにしかならない施策。それが通ってしまうこの世界。やれやれ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る