縮刷版2021年13月上旬号


【3月10日】 フィクションとして立ち上げたシリーズで果たせなかった結末に落とし前をつけるという意味合いもあった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」だけど、やっぱりメタ的に作り手の意識がそこに存分に込められたものとして見てしまうのは、碇シンジが「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」の終わりでグダグダになって立って歩くことすら困難になっていた状況が、続いて完全に引きこもりの自失状態に陥ったあたりが庵野秀明総監督と重なって見えてしまったから。「Q」を作って完全に壊れてしまった庵野総監督は、1年間もカラーに行けなかったってことを、「大きなカブ」という自伝的な漫画でありアニメーションの中で語っている。そんな状況は、あらゆる外部からの刺激に反応を見せないシンジそのものだった。

 同時にそれは会社を放り出されて行き場もないまま、どうにかしなきゃという焦りだけが募って起き上がれなくなり、うつぶせになってうんうんとうなっていた自分とも重なって思い出すほどに胸が痛んだ。どうにか起き上がれるところまでは来た自分よりも庵野秀明総監督は進んでいて、「シン・ゴジラ」を撮って「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を作りそして「シン・ウルトラマン」の公開を控えて今制作を進めている。完全に復調したかどうかは分からないけれども活動は順調に見えるだけに今回の好評を受けて気をとりなおし、なおいっそうの飛躍を遂げて欲しいけど、ゴジラにウルトラマンといった外の作品ばかりではやっぱり寂しいので、ここはオリジナリティあふれるカラーならではの企画を、立ち上げて欲しいもの。何があるかなあ。何を見せてくれるかなあ。ワクワクだ。

 追い出された前後から将来においてもうヤバさは見えていたけれど、いよいよもって元いた会社の出していた新聞が休刊のカウントダウンに入ったとの報。2月末には決定したそうで6月末には休刊となってしまうそうで、1958年の復刊から63年、還暦は超えられても古希には届かなかったその寿命に今の環境で新聞というメディアが置かれた厳しさを改めて思い知る。元より経済系のメディアは日本経済新聞が独壇場で、参加に日経産業新聞や日経金融新聞、そしてMJなんかを持って幅広く展開している。一方でいったんは日本経済新聞に統合されながらも独立して戦後に復刊した日刊工業新聞は、経営難を経つつもどうにか持ち直して今も発行を続けている。

 一紙、日本工業新聞はもともとが1933年の創刊でそれが西日本での経済紙統合でもって東の日本経済新聞と並び立つ産業経済新聞になって戦後に一般紙転換、そして1958年に源流となった日本工業新聞を復刊させて戦後の経済成長の中でとりあえずそれなりの地位を確立させた。でも1990年台に入ってからのバブル崩壊から金融危機、ITショック等々があって経済の低成長期に突入して経済メディア全般が苦況になる中で、いろいろと模索をしたものの選択し過ぎたりしなさ過ぎたりしたこともあってか波に乗れず、改革を行ったものの広げられず元に戻そうとして戻しきれないまま、半端な状態が続いてしまった。それからだいたい13年。新型コロナウイルス感染症という激震もあっていよいよ保たなくなっったってことなんだろう。

 見渡せば経済系のメディアは東洋経済にしろダイヤモンドにしろネットでそれなりの存在感を見せているし、IT系のメディアはいっぱいあってそれぞれにアクティブな報道を続けている。産業専門紙にもそうした生き方は可能だし、何より新聞という日刊でそれなりに形に残ってひとつの価値も与えられるメディアがどうして生き残れないのかが分からないといえば分からないんだけれど、目先の収益のために信頼を切り売りしてきたことで真っ当さを求める人たちが離れていって、そして残った部分に特化しようとしてさらなる離反を招いたってこともあるのかもしれない。これは決して経済メディアに限ったことではなくメディア全体の縮図。ライティな言動にすり寄って特化した挙げ句に苦況を招いた親媒体の将来をもしかしたら示しているのかもしれない。どうだろう。

 最新刊が出た「ダンジョン飯」を読んで話がただダンジョンで魔物をとらえて料理してくらう冒険&グルメのギャップ萌え漫画だったものから変わって、生命を尊び命を大切にして分け隔てをせず接する大切さを称揚するような内容になっていて驚いた。初期からそういう構想だったのだとしたらこれはいろいろ見逃していたかもしれない。それは「進撃の巨人」でもいえることで、怪獣が巨人に置き換わったモンスターパニックに見えたものが、世界の成り立ちから善悪の相対性にまで踏み込んだ凄い話になることを、当初の段階ではたいていの人が見落としていた。マンガ大賞の推せなかったもそういった既視感があったから、転じて全容が見えてきたころには規定を超えてしまっていた。「ダンジョン飯」は平均して高い面白さが故に、新奇性を求める目から外れていってしまった感じ。そういう漫画を救う賞はやっぱり日本SF大賞か。手塚治虫文化賞マンガ大賞か。見守りたい。


  【3月9日】 初日だけで8億円となった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の興行収入は、月曜日という条件を思えば異例ともいえる多さでさすがは8年待たせたエヴァだけのことはあるといったところ。主要なIMAXだとかのスクリーンはほぼほぼ埋まったけれど、それ以外の小さいスクリーンにはまだまだ空きもあったからそれらが土日で全部埋まっていればそれこそ10億円超えの数字だってたたき出せたかもしれない。月曜日だけで前回の週末の128%というから実質的には倍以上? ちょっと凄まじいかもしれない。

 だったら今度の土日はとなると1周回って2度目を見に行く人と、それから待望の週末だからと駆けつける人でごった返すか、それとも初日をピークに落ちていくものか。さすがに385億円とかいってる「劇場版『鬼滅の刃』無限列車編」に迫るのは無理だろうけど(無理って言うなby伊吹マヤ)、それでも前回の53億円ははるかに上回って100億超えは達成するだろうから、やっぱり大勢の人で溢れそう。8年を置いてその間に「シン・ゴジラ」を撮って、より国民的な映画監督へと近づいた庵野秀明総監督作品なだけにそれも当然。その前にもう1度言っておくかな、マヤのお尻を見つつ詳細を確認するために。

 そんな「シン・エヴァンゲリオン劇場版」で気になったところがひとつあって、碇シンジと式波・アスカ・ラングレー、そして仮称アヤナミレイがてくてくと歩いてL結界密度が濃い中を歩いている冒頭、オープニング部分で流れる音楽がどうにも聞き覚えがあって、いったい何だろうと頭を捻ってまる1日が経ってそうだ「太陽がいっぱい」の音楽に感じが似ているんだと気がついた。まったく同じではなくちょっとずつズレた感じが世界の虚構ぶりを表しているような気がしたけれど、そこまで考えての作曲なのか雰囲気に合わせたらそうなっただけか。

 ニセモノが本物に成り代わろうとして最後に破綻する映画なだけに、そっくりさんが頑張っても果たせなかった展開に相応しいものとしてわざわざそう作曲したか、してもらったのだとしたらなかなか奥が深い。もちろん気のせいかもしれないけれど、それにしては曲調がどうしてもシンクロしてしまう。あともう1カ所、何かと重なる音楽が聞こえて来たけどそっちはどこで何か、忘れてしまったから次に見た時に思いだそう。それにしても覚えがあってもスッと出て来ないところに記憶の低下が感じられる。と同時に探れば出てくるところにもう40年は聞いていない、名作映画の音楽ばかりを集めて聞いていたカセットテープに確か入れて何度も聞いたか、そうでなくても映画を見たりラジオで聞いたりして覚えた音楽が浮かんでくるところに、記憶の凄さも感じてしまう。人間って面白い。

 あと気になったのは3人がたどり着いた場所がネルフ本部のある第3新東京市からどれくらい離れているかってこと。あれだけ巨大な、それこそ富士山を何倍も上回るサイズと質量の黒い月が地の底から浮かび上がっては落下してきたんだから、箱根も含めた一体はマリの言葉を借りればしっちゃかめっちゃかになっているだろう。そんな場所とは違っているなら結構遠くても問題なさそう。あるいは本州の西の端っこまで歩いて行ったのかもしれない。それこそ「マイマイ新子と千年の魔法」が描いた戦後の日本のある町に近い場所まで。それはすなわち故郷まで。そこからの再起。つまりはそういう映画なのかもしれないなあ。そして戦い終わっての帰着があるってことは、願望としてそろそろ畳んで戻りたいっていう思いもあるのかも。シュワッチを終えて引退も? それは困るので次の目標を。ナウシカでもアーカイブでも。側からカントクに吹き込んで。

 この「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を含む4部作が完結をもって日本SF大賞に一般から推されることは確実で、あとはそれを日本SF作家クラブの会員が最終候補として押し上げるかどうかにかかってくるけど、ここにもうひとつ、完結する諫山創さんの「進撃の巨人」も参戦してきて会員の選択眼というやつをいろいろとと問われそう。冒頭こそ巨人を相手に戦う怪獣パニック映画の亜流めいた印象しか抱けなかった設定が、外へと広がり人間が感じる善と悪とが相対的なものに過ぎない業のようなものが浮かび上がって、それを収めるために超絶的な展開を繰り出しそうなストーリーをSFと認めないわけにはいかない。

 だから「新劇の巨人」が「シン・エヴァンゲリオン劇場版」とともに一般からエントリーされるのは確実で、そんな漫画作品をアニメ作品と並べ最終候補に載せられるのか。さらには選び出すことができるのか。小説でこれら2作を上回るものは2020年9月以降に出ているかも含め考えた時、当然に上がって良いんだけれど「けものフレンズ」や「ケムリクサ」のような優れてSF的なビジョンを与えてくれた人気アニメーションでも上げてもらえなかったからちょっと大変かも。白井弓子さん「WOMBS」と「シン・ゴジラ」と「君の名は。」が候補にあがって、「WOMBS」が大賞、「シン・ゴジラ」が特別賞を受賞した2026年度のようなこともあるから、一方では安心とも言えるけれど。どうなることか。待ち遠しい。

 年間ラムちゃん大賞(ラム・オブ・ジ・イヤー)とはまったく関係のないハーバード大学の三菱教授が発表したという論文をめぐる騒動は、引用元がもしかしたら架空かもしれない問題なんかも浮かんで論文としてはどうなの的な扱いを受けそうなのは確実なんだけれど、そうした当り前のことすらすっ飛ばして、内容が“事実”ならそれは良い物だと受け止め喧伝しつつ批判されれば守るんだ、応援するんだと訴える人の濃さもあって事態は長引きそう。ひとつの“定説”として残り語られていくことになるんだろう。それもまた厄介な話だけれど、潰すにはそれこそSTAP細胞レベルの国際的な批判が必要だからなあ。いくら日本でも立証できないものには応援はできなかった訳で。いやまあそこは理系な思考をもった人たちだから通っただけで、実証ではなく思想の領域に入ったこの話は浮かんだ以上は消せないで残るんだろうなあ。やれやれ。


【3月8日】 午前5時には部屋を出て電車を乗り継ぎ池袋のグランドシネマサンシャインへ。すでに行列ができていたけどパンフレットだけを買う人を先に並べた関係で、すんなり行列の後へとついて10分くらいで1冊購入。そして12階へと上がって本日鑑賞のIMAXレーザーGT最前列の横たわって、見上げるようにしてスクリーンをながめるシートに寝そべって時間までしばらく待つ。そのままずっと寝そべっていたら早起きの影響でそのまま寝入ってしまいそうだったのでぐっと耐える。

 そして始まった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」については何を語ってもネタバレになるので黙っておくとしてとりあえず言えることだけ言っていくとしたらまずはプラグスーツばりのピチピチスーツ姿でパソコンを叩きながら「ムリっていうな」「ダメっていうな」と喋る伊吹マヤのペタンとしゃがみこんだお尻がなかなかまるかった。IMAXレーザーGTの巨大なスクリーンでそれを見上げるようにしているとなかなかの迫力。ほかの劇場ではもう視られないくらいの味があった。

 同じ様な堪能はアスカでもいっぱいあって古い劇場版では一瞬だけでてきた病院のベッドで横たわっていたアスカがもっとおおっぴらに堂々とスタイルを見せてくれたり、横たわって寝返りを打ったりして目にも嬉しいものをいっぱい見せてくれた。「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」のシンジを殴りに言ってはすっくと立つプラグスーツ姿のアスカを下から見上げるシーンですら素晴らしかったのに、それなど比較にならない露出ぶり。同じ場面を繰り返し観るために劇場に通っても良いとすら思えてきたけどIMAXだと高いからそこはTOHOシネマズのTCXで我慢するかなあ。

 あとは綾波がだいたいにおいて可愛らしく上目づかいでどこを見ているか分からない仏頂面だった「Q」の時から感情が大きく進歩したのか、いろいろなものを観て物珍しがったりいろいろなことを聞いて学ぼうとしたりする姿勢に感情の芽生えが見えて人間らしさが感じられるようになっていった。それだけにいろいろと苦しい感情も湧いたけれども最後が良かったからそこは気にしない。アスカについてもきっと大丈夫だったと思いたいって、それはちょっと踏み込みすぎかあ。マリはだいたいにおいて引っかき回しに来るだけだからスタイルだとかで感動はしなかったけれど、久々に初期の制服姿を見られるところが良かったかな。確か制服を作るメーカーが仕立てたコスプレ以上のマリの制服、グッズとして買ったんだっけ。どこに閉まったかなあ。

 そんなこんなでいろいろと楽しいところがあった「シン・エヴァンゲリオン劇場版」はなるほどぐるっと回っていろいろなところとつながってつぎはぎして補完して、ぶっつりと断ち切られた思いを見事に結んでくれた感じ。これなら誰もが納得の映画になったって言えるんじゃないかなあ、1997年の劇場版についていろいろ思うところがある人も、そして「Q」にいろいろ感じてしまった人も。僕はといえばあれはあれでありだったし「Q」は見たことがない「エヴァ」が見られたって意味では大好きだった。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」は見たことが無い場面があってそして見たかった場面へと至ったという意味で2倍に楽しい映画だった。詳細だとか解釈だとか考証だとかはこれから出てくる人のを聞いて納得の地点を探そう。とりあえずおめでとう。そしてさようなら、かな。

【3月7日】 東京藝術大学大学院大院映像研究科アニメーション専攻の第十二期生修了制作展「GEIDAI ANIMATION 12 GOMMA」に来て修士一年次作品を見た。阿部優花さん「おうふくにくふうお」は回文で描かれたアニメーションが進んで戻って回文になっていた。アニメーションという絵柄で上手かった。岸本萌さん「MUNCH MUNCH」はきれいでそしてグロテクス。あの色の玉子で作ったケーキって美味しいのかと。

 劉禹振さん「blink」は実写からアニメーションへ。人のフォルムに動き方歩き方が上手かった。そして端正。アニメーターっぽさが出てた。高村連希さん「正義紛争 conflicted」。正義とは? 正義と信じるデモが暴動に変わる。メディアは事実を伝えない。何が本当の正義なのだろう。正しいこってあるんだろうか。迷う世代の迷う心が出ていた。施楽さん「赤 Red」。新型コロナウイルスの到来を告げコロナでなくなった医師がいて、隔離中の人に物を届ける人がいる。世界を包んだ2020年の大きな事件に触れた多くの人々の気持ちが施楽さんの「赤 Red」には現れていた。

 そして作家の名前が松本伊代さんというので仰天の「エンタメストラック」。様々なテレビ番組やスマホの動画や漫肥後朱里さん「息抜きのすすめ」。疲れて帰ってきたOLさんが部屋で服を脱いで食事してふっと感じる孤独感。会社でのお小言も思い出されて懊悩する中で体から空気を抜く展開が奥行きがあって生活感も出しつつアニメならではの絵柄で描かれていて響く。翌日には気を入れて出かけていくくり返しが重い。

 伊藤真希子さん「Brother」。ギャル男の兄をいじって遊ぶ妹のストップモーションアニメーション。パラパラか? オカアマネさん「あまねにっっき」は自由自在なアニメーションが奔放に繰り出されていろいろ目移り。8歳から描き続けてきた日記が元。なるほど人は成長したりしなかったりするのだなあ。WANG Junjieさん「親愛なるウイルスたちへ」はウイルスとの共生という時代を青い牛と草花の変幻で描く。オイルだろうか。VRらしい。これも2020年ならではの作品かも。

 Wei XUさん「ネズミとプリズム」は絵本のような絵の中でネズミの孤独が感じられてやるせなかった。陳佳音さん「たらこを触ったら」はおなかがたらこみたいで触れているうちに全身がたらこみたいにメタモルフォーゼする動きが肌のぷにぷに感とともに柔らかさをよく表していた。李叔芹さん「ミミズを拾ってみた」は孤独からの自閉を打ち破ろうと足掻く様が感じられた。あと上手かった。上映は以上で別に4Kのインスタレーション作品でループする岸本夕奈さん「In My Room」を別会場で上映。少女の首が飛び鶏が玉子を分で丸焼きになり首が吊られと残酷な絵が金子国義がビアズリーかといった流麗な線画で描かれ動く。見ているとはまる。そんな東京藝大院アニメーション専攻修了制作展修士一年次作品たち。やっぱり女性が多いなあ。

 続々と辞退する東京オリンピックの聖火ランナーの代わりを探して東京オリンピック組織委員会ではオフィスの隅っこでうなだれているペッパーくんとか、倉庫で眠りにちている歴代ASIMOとか、ピンク色のボールを追うのを止めて久しい歴代AIBOなんかを引っ張り出して聖火を運ばせることにしたらしい、ってことを冗談レベルで書いていたら本当になりかねないところが怖い。それだけ払底していそうだものなあ。あるいは全国に散らばっているウーバーイーツの配達員たちをアプリで招いてある位置からある位置まで運んでもらうとか。名付けてウーバートーチ。料金は普段の3割増し。でもそれじゃあ3割引かれての3割ましだから前より減ってしまっているなあ。5割増しにしないとダメかなあ、って自転車でどうやってトーチを持つんだ。そこは専用ケースを作るかな。

 国立映画アーカイブで「超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか」を見た。国立映画アーカイブに入れる際に作るニュープリントが新型コロナウイルス感染症の影響で間に合わず、昔のフィルムで上映したから画像はときおり乱れるけれど、音はクリアでいろいろと響いてとても良かった。あとエンディングにミンメイのライブ映像が重ならない劇場上映バージョンだった。これをたぶん最初に映画館で見たんだ、僕は。2017年に「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」がパッケージ化された際に確か、TOHOシネマズ上野で記念上映されたバージョンはエンディング「天使の絵の具」にライブが重なっていたからBDでの上映だったのかもしれない。あそこにフィルム上映施設があるはずもないから。その意味では今回懐かしくも貴重だった。ニュープリント版も見に行こうかな。

 見ていて思ったのは美樹本晴彦さんが描くキャラクターはちゃんと顔に骨格が入っていて横を向けば口もちゃんと横からの描写になるってこと。唇もふくらんでいるし開けばちゃんと歯も見える。それでいてしっかり可愛いんだから凄い。今時のキャラクターって横を向いたら口が横にずれて三角に開いてたりするだけだったりして、記号としては正しいんだけれど骨格としては極めて編。同じ様なキャラクターを3DCGで作ったら絶対にそうはなららないモデリングになっている。きっと2Dでも描き易いんだろうけれど、そうした技法がまだない時代に正面でも斜めでも横でも可愛いリン・ミンメイだとか早瀬美紗をしっかり描いて動かした当時のアニメーターはやっぱり凄かったのかもしれない。同じ美樹本でも「甲鉄城のカバネリ」ではやっぱり違うんだよなあ。描き方。BDあるしエンディングの「天使の絵の具」ライブシーンつきを見直してみるかなあ。


【3月6日】 立候補するとかしないとか、情報が乱れ飛んでいる名古屋市長選への河村たかし現市長の動勢だけれど、今のこの大村秀章愛知県知事に対するリコールを求める署名活動で、大量の偽造が行われていた事件の中心とは言えないまでも名簿を渡すとかいった関わり方をした側の人間が、捜査も進んでいる状況の中で立候補したら選挙妨害の可能性もあるからと捜査が止まってしまう可能性もあるだけに、それを狙っての牽制なのかもと勘ぐられてしまう。

 もちろん潔白なら立候補しようが捜査は及ばず粛々と進むだけなんだけれど、先頭に立って呼びかけている様をみるとのめり込み方は半端じゃない。そうした旗振り役としての責任は、法とは外れたところで及んでくるからここはやっぱり自重を求めたい気がするなあ。名古屋市民ではないけれど。だったら替わりに誰がってなって、3期も務めさせたことで“顔役”をそろえづらくなっているのが厳しい。以前なら名古屋市の助役なりが横滑りもあったんだけれど、人気投票化した今の自治体の首長選挙ではそれも難しいし。千葉市長から千葉県知事にスライドした熊谷さんみたいな人材がいれば良かったんだけど……。赤松広隆さんが横滑りとか、ないよなあ流石に。

 早起きができたんで東京芸大院映像学科アニメーション専攻の第十二期生修了制作展「GEIDAI ANIMATION 12 GOMMA」で見に横浜へ。まずは修了作品から岡田詩歌さん「Jurney to the 母性の目覚め」は14歳で「母性」に目覚めた少女が思い探る母性の意味や真意。子供が欲しいという感情が薄れたりする人もいれば妊活で仕事を辞める人もいる。そんな女性からの心理を生々しい描写も交えて描いたアニメーションだった。下の毛は指2本に収めるのか。絵がありクレイもあってとミクスチャな感じで繰り広げられていきます。

 続いて副島しのぶさん「Blink in the Desert」。これは造形映像とも素晴らしかった。人形を使ったストップモーションアニメーションだけれど口パクとかさせず仕草や顔の傾き、目の位置と映す角度などで表情を作って感じさせる。描かれるのは砂漠で暮らす少年が蝶に苛まれ殺しても寄ってくる蝶に怯え二本足の象に見つめられる切迫した感じ。ある種の自閉を表している感じが、巣ごもり期間が長引く今の状況を映しているような気もしたし、それに限らず繋がっては居ても実際は孤独な人間の有様を示しているような気もした。モーションも撮影も証明も造形も抜群に上手い。きっとすぐに世に出てくる人だ。

 楊健花さん「僕たちは違うんだ」は巧みな絵を巧みに動かして兄を探し讃え美化するような弟を描いたアニメーション。その信奉ぶりも振り返って弟の孤独と自閉を描いているようで巣立てず依存が過ぎる今の人心を表しているように見えた。こういう作品が多い気がするのは時代だからか空気がそうだからか。松岡美乃梨さん「Destiny」はトランプだのパンだのポラだのといった身の回りにある品々を動かしてナレーションを被せて女性が誰かと付き合っていて誕生日に祝ってもらえず悩みつつ翌日にデートに行ってけれどもといった展開をしっかり心象も含め浮かび上がらせる。こういうアニメーションもあるんだ。

 斉藤七美さん「Gradations」はどうやって描いているんだろう、塗り固めた背景の上に線を描いては消して描き直して動かしているんだろうか。そんな線画で描かれる彼と彼女の関係。変幻して混じり合う心象であり心傷が背景や動く線から浮かび上がってくる感じ。これも内在するものの表現といった感じ。

そしてこれも。石舘波子さん「わたしのトーチカ」は地上のドームで暮らす少年が潜水服を着て井戸に降りるとそこには家があり少女が暮らしていて学校があって少年は潜水服のまま学校に通い友人たちと交流し、戻って少女のわがままに付き合って寝て起きてまた学校へと行くくり返しの日々。浮かぶ孤独感。友人だと思って話しかけても、相手は友人だとは思ってくれない疎外感。そんな鬱屈した心境が井戸の底ではなく井戸の上、地上の荒野にひとり生きる姿で描かれているところが興味深い。

 この作品れには凄い部分がまだあって主演の声優が何と沢城みゆきさん。驚いた。仰天した。メイキングによれば声は絶対沢城みゆきさんで、そうでなければ全部自分で演じるしかないと事務所に聞くとマネジャーから連絡があって引き受けてくれて、他の声も素人さんだと強弱がいてバランスがとれないからとセッティングに強力してくれたらしい。素晴らしい。沢城みゆきさんの主人公ほか何役の演技のほかにも広橋涼さん水沢史絵さん田中沙耶さん角倉英里子さん原道太郎さん……はマネジャーさんか、そして石舘波子さんの声も聞ける。14分57秒もあるけど見ていて引き込まれる。どこかテレビで放送するとこ出てこないかなあ。

 石舘波子さんといえばそういえば、すでにプロとしてスタジオコロリドで「ペンギンハイウェイ」なんかに作画監督として関わっていて、NHKの朝の連続テレビ小説「なつぞら」でも刈谷仁美さんといっしょに劇中アニメーションを作ったり、マクドナルドのCMなんかを作ったりしていた人だから上手いというのもよく分かる話。ふわっとしてまるっとしたキャラクターが可愛らしいけれど、そうした表面上の愛らしさの中にメッセージ性を持ちこんで心証をこめられるところがオリジナルの修了制作の面白いところ。こっちがあるいは本当のアニメーション作家としての姿なのかもしれない。

 高木杏奈さん「朝曇りは晴れ」は子供たちの人形が動き手のひらが演技する背後で両親の夫婦げんからしきものが聞こえてきて子供たちが怯え萎縮して失敗してなお萎縮する姿がしのびない。成長と同時に調教も思わせるこれが日常なのか? もっとおおらかに生きられないのか。なんてことを思わせる作品。以上、東京藝大院映像研究科アニメーション専攻の第十二期修了制作展GEIDAI ANIMATION 12 GOMMAの作品感想集。孤独と内在、不安と自閉が目立った気がしたのは時代だからか。そして女性が圧倒的に多いのも。去年の6人より増えたけど修了生が7人なのは沈思し黙考して作品と向き合おうとしているからか。

 瘤久保慎司さんの「錆喰いビスコ」がアニメ化だそうで「86−エイティシックス−」のアニメスタートといい電撃小説大賞の大賞作品がしっかりとヒットしてアニメ化までこぎ着けていることにコンテストの重要性というものを感じていたりする。もちろんなろうからの引き上げでも「転生したらスライムだった件」はアニメも面白いし今も「無職転生」が中国でのあれやこれやはともかくとして少年のエッチ心を満たしつつ世界の謎にも迫って良い感じ。そういったヒットもあって良いしコンテストから即時的な人気によらない独自の世界観を持ったものが出て来ても良い。そうやってライトノベルは豊穣になっていくのだから。監督は碇谷敦さんで作画監督は多いけれど監督は始めてか。脚本とシリーズ校正が村井さだゆきさんというのは大御所だなあ。しっかりと軸のある作品にしてくれると信じよう。


【3月5日】 日付が変わった瞬間からグランドシネマサンシャインの予約サイトにアクセスしようとしたものの弾かれなかなか中に入れず、どうしたものかと試していたらなぜかふっと入れてそこで、月曜日の午前7時というとんでもない時間から始まる「シン・エヴァンゲリオン劇場版」のIMAXレーザーGT上映回をしっかり予約することができた。30分後にはほとんどの席が埋まり、夜が明けるとIMAXは池袋もTOHOシネマズの新宿や日比谷も完売状態。やっぱりみんな明るい画面で見たいんだ。そんな映像が繰り広げる内容はいったいどんなものになるのだろう。デカいからこその衝撃があったら昼前に沈んでしまうかもしれない。気付け薬を持って映画館に行こう。

 中国が台湾産パイナップルの輸入を禁止したことで行き場に困ったパイナップルを日本が買い取ろうという動きが出ていて、愛知県の大村秀章知事に対するリコールを求める署名を行って大量の偽造が見つかった運動で、責任者を務めていた美容整形外科医の人がわんさか買うぞパイナップルケーキも食べるぞといった感じに盛り上がっている。2011年の東日本大震災の時もいっぱい支援してくれたこともあって立ち上がらなくちゃいけないって背景もあるようで、それはそれで有り難ったんだけれど一方で東日本大震災で原発事故が起こった福島県や近隣の茨城県、千葉県、栃木県、群馬県を産地にするすべての食品を、台湾はずっと輸入禁止にしている。

 震災当初ならまだしも10年が経ってこうした地域の農産物から放射線が見つかることはまずないし、千葉や群馬や栃木あたりの食品にどういった影響があるのかもさっぱり分からないけれど、台湾の人たちの住民投票があって禁輸は妥当といった見解が出たのを政権は守りその期限が去年の11月に切れても解除しようとしない。それで困っている日本の農業従事者もきっといるんだろうけれど、そうした人から何かいっぱい美容整形外科医の人が買ったという話は聞かないし、台湾に対して解除を求めたという話もない。多分知らないんだろうなあ、そういうことは。

 美容整形外科医の人も入るライティーな人たちが金科玉条のように掲げる尖閣防衛に関しても、台湾は中国と同様に領有権を主張して日本と三つ巴の争いをずっと続けている。流石に艦艇を派遣して刺激するような真似はしないけれど、それは出入りする中国の艦艇とガチ会ったらヤバいってこともあるんだろう。でも主張は主張で引っ込めていないにも関わらず、中国の尖閣に対するちょっかいには反発しても台湾の主張はまるで聞こえてないように振る舞いのは、基本的に台湾が好きというより中国が大嫌いなだけで、そんな中国と敵対している相手は味方だという思考があるだけのことなんだろう。だからパイナップルの輸入を訴えても福島など5県からの食品禁輸を解除しろとは訴えない。その程度の保守で国士なんだってことで。しかし偽造の問題はそろそろ誰かお縄につくのかな。ちょっと動きが止まってる。

 「進撃の巨人」で知られるWIT STUDIOがながべさんの漫画「とつくにの少女」の付録として短編アニメーションを制作した際に、東京藝術大学大学院アニメーション専攻を出た久保雄太郎さんと米谷聡美さんを起用して、アート色の濃いアニメーションを提供して商業アニメーションの中に学生出身のアニメーション作家が起用される動きが、「ポプテピピック」以後いろいろと増えている事例だと感じていた。その後に同じく東京藝大院出身の見里朝希さんが「PUI PUI モルカー」で大ブレイクして注目を集めていたところに改めて、久保さんと米谷さんが監督・脚本を務める「とつくにの少女」の今度は長編アニメーションが作られることになった。

 これはちょっと凄いこと。短編アニメーションが割とマジでアートしている映像だっただけに、長編となるならもうちょっと商業寄りのクリエイターが起用されることも考えられたけれど、同じ陣容を起用したってことはそれだけ作品への手応えを感じているってことなのか、独特の「とつくにの少女」の世界観を表現するならやっぱり久保さんや米谷さんのような作風を持った人が相応しいとWIT STUDIOが判断したのか。いずれにしても「PUI PUI モルカー」に続いて大きな出来事。こうして学生アニメーション出身のアニメーション作家が、商業の場で評価される作品を作る機会を得ることが、増えていけばアニメーションもいろいろと豊穣になるんだけれど。クラウドファンディングやるみたいなんで応援しよう。

 NFLのワシントン・レッドスキンズがチアリーダーチームを廃止して男女混成の応援チームを作るとか。女性職員に対するセクハラ事件なんかもあってチアリーダーにも影響があってずっと活動を停止していたそうだけれど、廃止となるとさすがに影響も大きそう。僕はアメリカ文化に詳しくないからチアリーダーという存在のヒエラルキーをどう捉えて良いかよく分からないのだけれど、青春もので1番のモテ男はアメリカンフットボールで活躍し、そんな彼氏を追いかける少女はチアリーダーだといったようなある種のロールモデルがあるのだとしたら、そうした構造も変わっていくのかもしれないなあ。日本のチアリーディングにも影響があるんだろうか。三原じゅん子さんに聞いてみたい。


【3月4日】 今でこそテレビカメラにテープをセットして取材先に行っては回して録画して、持ち帰って編集して番組に仕立て上げもすれば、スタジオでカメラで撮影してはサブへと送ってテープに録画するようは方式で、テレビ番組は作られているからそうやって映像が録画されたテープはしばらく残されて、保存もされているだろう。これが少し前だとテープも高かったから、何度も使い回されて上から別のが録画されて、前のを見られなくなったってこともよく起こった。大河ドラマでも全編が存在していない番組があるらしいし、「プリンプリン物語」なんかも全部は残っておらず誰かが録画していたのを探して集めて再現しているという。

 それ以前となるとテレビ番組はきほんてきには生放送で、テレビカメラで撮影したものをそのまま送出していたし、そうでない番組はテレビ映画としてフィルムで撮影され、現像され編集されたものが放送という形で上映されていた。当然にそこにはテープなんてものは存在しないし、編集前のテープなんてものも残っていない。そりゃそうだ。当時の映画だって編集前のフィルムが残っていたら奇跡に近いというか、編集して切られてしまった部分が残っていたら歴史になるだろう。そんな時代、1955年に放送されたNHKの番組に対して、元NHKという国会議員がテープを出せと要求するのは事情を知らないあんぽんたんだからなのか、それともただの嫌がらせなのか。ちょっと頭が痛くなった。

 国会議員もそうならそうした話を報道するメディアもメディアで、何の異論も挟まずVTRが発明されて使われるようになったのはアメリカで1956年頃だといった説明もしないのは、正確な情報を伝えることで信頼性を確保してきたメディアにとって自殺行為に等しいだろう。それを分かっているのか本当に分かっていなかったのか、テープを出さないNHKはおかしいといった主張をそのまま垂れ流す。少し前は美容整形外科医の人が愛知県の大村秀章愛知県知事のリコールを求めて署名を集めた際に、100万筆だって届くと煽りリコール成立には確実に届くと嘯いた。結果は10万にすら届かず大半が偽造だったという体たらく。それについて誤報や虚報を発信しまくった自省は未だにない。大丈夫かというと大丈夫じゃないだろうけれど、今はそうやって煽って食いつく人でも買ってくれないと死んでしまう瀬戸際にあるんだろう。やれやれだ。

 アメリカ合衆国でジョー・バイデン大統領が就任した式典で、自作の詩を朗読したアマンダ・ゴーマンさんの作品がオランダで翻訳されることになって、30歳くらいのオランダの作家で詩人のマリエル・ルーカス・ライネベルトさんが出版社によって抜擢されたけれど、そのライネベルトさんが白人だからという理由で、黒人の機会を奪ったという意見が活動家などから出てライネベルトさんが辞退したらしい。黒人の役を白人が演じるとか性的マイノリティーの訳をヘテロな人が演じるとかいった話で異論が出たりするケースが起こっていて、同じ属性の人でなければ成り代わってはいけないのかといった疑問が浮かぶ一方で、黒人にもアジア人にも性的マイノリティーにも役者がいるなら、まずは検討するのが筋だといった話は分からないでもない。

 これが翻訳という一種の技能になると、黒人だからといってぴったりの翻訳が出来るとは限らない訳でそこはブッカー賞の国際部門を受賞したライネベルトさんが務めて悪い気はあまりしない。なるほど若くてビジュアル面でも注目を集めていたりするから、話題先行で選ばれたかもなんて勘ぐりもうかんがけれど、詩人としても活動はしていたしブッカー賞は人気だけではとれない賞だから実力も充分。それでいて世代も近いならピッタリじゃないかといった主張で押し切れないくらい、世界では機会を奪われている人が多いってことになるのかもしれない。オランダはとくに植民地の問題もあって差別の歴史があったりするから。とはいえあまりに属性を重ねすぎると、20代の人の翻訳は20代がしなければ機会損失だなんて話も出て来かねないなあ。どうなってしまうのかなあ。

 「呪術廻戦15」が出たのでAmazonから落として読んでなかなか話が進まないのは「BLEACH」的だなあと思ったけれど、「BLEACH」なら同じ相手との戦いで2巻は使うからまだ大人しい方かもと思いつつ、それでもやっぱり渋谷事変は長すぎるので、これをラストエピソードにしないのならそろそろまとめつつ、より大きな相手との戦いへとシフトしていって欲しいし、何より釘崎野薔薇を退場したままにしておかないで欲しいもの。あるいは禪院真希なり真衣をもっと出せと言いたいけれど、そこに果たして向かってくれるのか。しばらくは虎杖悠仁が暴れてそこに乙骨憂太が絡む感じで進んでいきそうだし。まあしばらくは追いかけていこう。「チェーンソーマン」もそろそろ読んでみるかな。


【3月3日】 これは難しい話だけれども選択的夫婦別姓に反対していることと、自身が旧姓を名乗ることとは少し分けて考えた方が良いんじゃないかとも思えた丸川珠代・男女共同参画担当相と社民党の福島瑞穂投手との国会でのやりとり。10回の質問に対して答弁をしないで通そうとしたものの、最後には少し答えて公務などの場において、旧姓の丸川をずっと使っていてそして大臣としての署名をする時に、そこは今の大塚という姓を使わなくちゃいけないとなって、違和感があったので旧姓でも良いようにしてもらったらしい。

 それはすなわち公式の書類であっても通称の使用が認められたという一例であって、そこを深掘りして広げていくことによって結婚等によって姓が変わったとしても、違和感なく旧姓を試用し続けられる環境を、全体的に整えていけばひとつ解消する問題でもあって、けれども戸籍の上ではやはりひとつの家として、同姓にしていくべきだといった意見はひとつ、意見として聞くべきものなのかもしれない。問題は、そうやって戸籍の上で変わった姓を通称としては使わず、公式の書類でも旧姓を使いまくって整合性に齟齬が出ないかといったところだろう。

 となるともはや産まれた瞬間に与えられた姓こそが名とともにその人固有のIDとなってマイナンバーとも紐付けられて一生使い続けることになって、すべての書類はそれを元に発行されるけれども家庭というプライベートな場においてば、同姓であるべきであってそこに生まれた子供も同姓をもらってIDに刻まれる、なんてことになるのかもしれない。家という制度において同姓によって一体感を保ちたいなら家という制度を特殊化する方向で臨み、それ以外の場では旧姓というか生まれた瞬間の固有の姓がつきまとう。それで良いのかは別として。それは“選択的”とはいわないか。でも実質は“選択的”。そんな落としどころになるのかな。どうだろう。

 2カ月ぶりくらいに薄毛専門の美容院へと出かけていって頭を刈ってもらおうとすると、新宿タイガーさんがやってきて自転車を置こうとしていた。前も確か見かけたからこれはなかなか運が良い。好きなのかなスターバックス。中に入らずともテラスでお茶できるから新宿タイガーさん的には使いやすいのかもしれない。美容院では伸びてきたところを刈ってもらってさっぱりしたので、そのまま映画でもと思ったものの原稿が控えていたので部屋へととって返す途中、地元の駅でTBSが取材に来ていて非常事態宣言の解除について聞かれたので、中途半端はよくないから徹底して根絶する覚悟を示した方が良いんじゃないかと答えておいた。

 パイナップルが本土中国に禁輸をくらったとかで行き場に困っているらしい台湾が、新型コロナウイルス感染症に関して徹底的な封じ込めを行ったことで、早い段階で非常事態宣言的なものから脱することができたように、日本も去年の春の段階で徹底的な封じ込めとそして外からの進入防止をやっておけば、今のような事態にはならず正月には普通に帰省とかできるようになっていたかもしれない。それをせず中途半端に解除しては一気に燃え広がった結果が今なら、ここで改めて潰す覚悟を示さないといつまでもズルズルと解除しては引き締めるような状況が続くような気がする。

 続けてもここまで広がったのなら無駄という気もするし、それならいっそ自然に免疫が広がるような状況にしてしまえばって話にもなりそうだけれど、それには高齢者やら既往症の持ち主の犠牲を覚悟しなくちゃならない。それでは政権も持たないというなら逆に徹底した封じ込めを行いつつ、休業補償をしっかり行い根絶を目指す方が将来に禍根を残さないという意味で良策なんじゃなかろーか。もちろん東京オリンピックは難しくなるけれど仕方が無い。とりあえず2週間ほど延長するみたいだけれど、果たしてどうなる「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開は。オリンピックは海外からの観客無しでやるみたいだけれど。日本の観客はオッケーなら見たかった競技が見られるようになるのかな。そもそも選手、来てくれるのかな。

 愛知県の大村秀章愛知県知事のリコールを求める署名活動で、大量の署名が偽造された問題で、関わったことが疑われている常滑市議がインタビューに答えていたけれども基本的には全く何も言ってなかった感じ。そりゃあ捜査中の案件だし答えられないだろうなあ。逆にそれだけ疑いも濃いってことだけど。気になったのは「2月27日の土曜日に受けて捜査に協力している。皆さまにご迷惑をおかけしていて、おわび申し上げます。同日以降、高須克弥会長、田中孝博事務局長、河村たかし名古屋市長の事務所などとの連絡を遮断している」という部分。口裏を合わせられないようにってことならつまり口裏を合わせるくらいに全員が事情に通じていたってことになるけど、上の人たちは誰も知らないって言っているし。それで尻尾切りされてはたまらないと、市議さんも全部ぶちまけたらどうなるか。来週ああり動くかな。


【3月2日】 そして始まった事情聴取はまだ任意の段階だけれど、愛知県の大村秀章愛知県知事のリコールを求める署名活動で、偽造が行われてそれの依頼をしてお金も払ったんじゃないかと言われているリコールの会事務局の幹部が、愛知県警に行っていろいろと話したらしい。厳しい刑事の追求に完全黙秘を通すなり自分がすべての泥を被るなりして、それでおつとめを果たした後に幹部にとりたてられるのはヤクザの世界での話。政治の世界に身を置く人間にとって犯罪者の烙印は一緒に関わる問題だけに、自分だけがワルモノになるより本当のワルモノを挙げて罪一等を減じられたいところだろう。

 だとしたらいったい誰が本当のワルモノなのか。事務局長なのかそれともさらにトップの人なのか。身びいきが過ぎる人たちは事務局が勝手にやったことで会長の美容整形外科医の人も、名古屋市の河村たかし市長も知らなかったって話すけれども市長はともかく美容整形外科医の人はバレそうになったら即座に撤収を訴えたりしてどこか動きが妙すぎる。というか事務局の人が自分たちの政治生命をかけてまでリコールの票を偽造して、会長にいい顔をしたところでバレたら終わりな訳で、そこまでリスクを背負っているとも思えないし忠誠心があるとも思えない。

 やれと言われればやるだろうアイヒマン的な立場だとしたらやらせた誰かがいる筈で、それが会長なのか別の誰かなのかってところが、捜査の胆になってくるだろう。あまりに深い闇の向こうにいる誰かがやらせたのだとしたら、そこまで届かせないためにもフロントに立った美容整形外科医の人がやっぱり割を食うことになるんだろうなあ。お金はあって世間的に顔は知られていても政治的な力がある訳ではないし、国を動かすだけのお金を持っている訳ではないから。そういう脇の甘さなり人の良さは捨てがたいんだけれど、老いて陰謀論にハマって国士とおだてられて良い思いをしたのなら、その分を体で支払うことになっても仕方が無いと諦めよう。いざ、壁の向こうへ.

 スマートフォンが出て来たり、iMacが導入されたりLINEで会話したりといった2000年代にはなかったガジェットやツールが登場する「よつばと!」の最近のエピソードについて、時代を固定せず背景は漫画が描かれた瞬間を切り取って読む人にその瞬間の気持ちにどっぷりと浸って欲しいといった作者の意図があるからといった考え方をしてみた一方で、あるいはここに来て一気に物語を進めていこうといった意図もあるのかとちょっと考えた。第14巻から3年ぶりの刊行で、iMacが板についてスマートフォンはテレビ電話的な使い方がされminiのオープンカーは海へと行ってそしてランドセルが与えられた。そこに見える小学校進学という大イベントが、永遠の子供という状況からの逸脱を示す。たゆたう時の流れに浸らせ続けた物語もいよいよクライマックスと意識させるべく、時代性を敢えて織り込み一気にケリを付けようとしたのかどうか。それは今の掲載ペースにかかってくるなあ。どんな感じなんだろう。調べてみよう。

 いろいろ話題のラム・ザ・イヤーって「うる星やつら」の作画監督の中から遠藤麻未さんか土器手司さんが森山ゆうじさんか西島克彦さんか高田明美さんか遠藤裕一さんか山崎和男さんか誰がその年で1番のラムちゃんを描いたかって称号のことだろうか。違うみたい。うん知ってる。ハーバード大学の教授で従軍慰安婦についての論文がライト方面から大絶賛を浴びる一方で、真っ当な研究者たちが恣意的すぎる史料なり資料の選択で論文以下だと批判する状況の中、本人が撤回したといった話しが伝わってきたけど当人に連絡をとって違うと言っていたという話がライト方面から出たりして、いったいどういうことなんだろうと興味を誘う。いわゆる「歴史戦」化しているけれど真っ当じゃなければハーバード大学も流石に何かするだろうから、スタップ細胞の教授と同様にしばらく表舞台から退くのかどうなのか。見守りたい。

 「バック・アロウ」の最新話でユーフェミアみあいな姿をしたお姫さまが登場。いわゆる6人の指導者のうちの1人らしく愛が大好きだと言って優しげな表情を見せつつも、お風呂で自分の体だけ洗わせてエッジャ村から来た2人の体は洗わず出て行ったりする尊大ぶりを見せて何かあると思ったら、やっぱり裏があったというかそっちが表かもしれない豹変ぶり。二重人格なのかそれとも取り繕っているだけなのか。分からないけどギアスにかからなくても虐殺くらい平気で命じそう。そんな裏があることを同じ六大卿のプラークコントロール、じゃなかったプラーク・コンラートは知っているのかいないのか。知ってて溺愛しているなら相当なタマだなあ。そんな奴らじゃないと上に上がれない国ならいつか滅びるぞ。

 一方で壁に突きをいれても一向に埒が明かないバック・アロウはやってきたプラークの飛行能力を使って壁を越えようとしたら上にもぎっしりと防空網。そこまでして壁の中に人間たちを閉じ込めていった世界は何をしたいのか。観察なのか保護なのか。観察だとしたらそれは神なのか異星人なのかイノセントなのか。いろいろと想像も浮かぶけれど「約束のネバーランド」なんかとはケタ違いのスケールがあるだけに、理由も惑星レベルのものになっているんじゃなかろーか。だとしたらやっぱり人類というものの保護か。それなら群雄割拠させる意味はないしなあ。だとしたら人類の本性を探る実験か。いずれにしてもそうした理由、そしてバック・アロウの正体なんかを気にして壁を超える時が繰るのを待とう。


【3月1日】 気がついたら2021年も2カ月が過ぎて6分の1が終わっていた。ここからすぐに3分の1が終わって半分が過ぎて3分の2も過ぎ気がつくと2022年になっていたりするんだろう。その間に果たして東京オリンピックは開かれるのか。北京での冬季オリンピックは迫っているのか。まだまだ見えないことだらけ。それでもとりあえず「シン・エヴァンゲリオン劇場版」の公開は決まったし「シン・ウルトラマン」もきっと公開されるだろう。細田守監督の新作だとかも順調に公開されていって飽きには「鬼滅の刃」のテレビアニメの新シリーズもキットスタート。そんな状況を眺めながら1日1日を過ごしていきながら歳をとっていくのだ。それが人生。それも人生。

 1年365日の1日を切り取って浮かび上がらせているのかと思ったこともあったあずまきよひこさんの漫画「よつばと」だけれど、最新のだい15巻を買ったらよつばのばーちゃんとの会話がスマートフォンになっていて、そしてとーちゃんが使うPCもiMacか何かになっていたりして確実に、描かれた時点の時間を切り取っていることが伺えた。とはいえ「よつばと」が始まったのは2003年の3月でスタートから実に17年が経っている。当時はスマートフォンなんてなかったしPCでもまだまだCRTが普通で液晶モニターが暫時普及し始めたといったところ。一方でよつばの暮らしは春から夏を経て秋に至ってだんだと冬が近づき、ようやくこたつを出して冬に備えた。

 まだ1年も経っていない物語の中での時間なのにテクノロジーは17年分がしっかり経っている。気がついていないのか。違う。たぶん分かってそういったズレをそのまま描いている。だったらおかしいか。読んで違和感はない。それはまさに今というこの時期にそのエピソードを読んでいるからであって、lineのようなメッセンジャーを使って会話しスマホでゲームをして遊んでいるこの時代の1日を切り取って、その中によつばやとーちゃんや風花やジャンボやほかいろいろな人たちの暮らしを置いているだけのことなのだ。

 まさに今ならスマートフォンが普通に使われていて不思議はない。だから使っている。けれども10年が経ってちょっとだけ冬が進んだ時間が舞台となった時、よつばやとーちゃんが床暖房で暖まりフードプリンタで料理を作って食べていたとしても、それを不思議と思うことはないだろう。その時のまさに今という1日を過ごしているだけのことなのだから。スライドする時間とモーフィングする背景の中で登場人物たちだけが自分自身を生きているとでも言うのだろうか。

 それによって読む人は、常に今と接することができるから、「よつばと」はノスタルジーの中に埋もれて感慨をもよおすような漫画にはならない。なるほど遡って1巻を読めばそこの生活描写に古めかしさはあるかもしれないけれど、提供される最新のエピソードではそうした感情は浮かばない。誰もが過ごしているその1日の中で一生懸命に毎日を生きているよつばの姿に心をほぐされ、見守るとーちゃんや登場人物たちの優しさに心を落ち着かされるのだ。

 そうした効果を意識して中の時間を固定化させなかったのだとしたらさすがなもの。もしかしたら電子書籍では出さずアニメにもドラマにもしないのは、そうやって個別の時間にエピソードが固定化されてしまって、多層化構造になっている背景がその瞬間に合わせて選び取られてモーフィングすることを拒絶してしまうからなのかもしれない。いや勝手な憶測だけれど。あるいは誰が演じてもマッチしないなら、漫画という表現の中で動く登場人物達に触れ、自分自身の心の中で声を聞き動きを見てもらえば良いという考えなのかもしれない。「あずまんが大王」がアニメになった時もテンポのズレに最初は引っかかったものなあ。そうした中で深夜放送のアニメオリジナルエピソードだけはストレートに響いた。ゆったりと進む何気ない時間を描くようになったのも、そんな経験があってのことなのかな。ちょっと気になった。

 ラム・ザ・イヤーってその年で1番かわいいラムちゃんを選んでエピソードを表彰するイベントのことかと思ったら違ってた。当たり前だ。ハーバード大学で日本の法制史なんかを研究しているらしいJ・マーク・ラムザイヤー教授が発表した日本の太平洋戦争時の施策に関する論文が、それこそ史料にあたらず小説めいたものから引用していたりするそうで、ハーバードの同僚を含めた世界中の学者から非難を浴びていたりする。

 従軍慰安婦の問題はなるほどセンシティブではあって、その事実性を議論し出すと反発する人とか否定する人とか出て来て大変になるけれど、そうした議論以前に論文をしたためる態度として、一次資料なり証言なりといったものに当たることなく小説だとかブログ記事から引っ張っている態度が、学者的ではないし論文的ではないという非難は当然だろう。卒論を書くときにノンフィクションを参考図書に挙げたらこっぴどく怒られたし。それが論文というもの。満たしていないにも関わらずライティな方面でもてはやされるのは、書いて欲しいことが書かれているからなんだろうなあ。どこかのホテル会社が別腹でやってる論文とう名のエッセイ大賞と同じだな。やれやれ。


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