縮刷版2020年7月中旬号


【7月20日】 「千と千尋の神隠し」が2位となり「もののけ姫」は3位となり「風の谷のナウシカ」も4位となってそれぞれ順位をひとつずつ下げ、スタジオジブリのリバイバルがトップ3に君臨する状況にいちおうの終止符が打たれたってことになるのかな。代わりに1位となったのは西森博之さんの漫画が原作となった「今日から俺は!!劇場版」でさんざんっぱら映画館の予告でも流れていたから、惹かれてファンも集まったのかどうなのか。

 昭和めいたヤンキー&スケバン総動員な中身であるにも関わらず、令和の世にこうした作品がヒットする流れが今一つ理解できていないけれど、平成にだってヤンキー漫画はいろいろあったからそうした需要は半グレ全盛な時代でもやっぱりあるのかもしれない。あとは出演している賀来賢人さんのファン層か。わざわざ見に行くかというとそこはちょっと遠慮したいけれど、こうした漫画原作のギャグ系をしっかり実写映画にして観客を動員する福田雄一監督という”才能”は、抑えておいた方が良いのかもしれない。

 土曜日に見た「進撃の巨人クロニクル」は10位でそれなりに健闘。やっぱり大きなスクリーンで見る「進撃」は一味違うし、あとはMAPPAに”移籍”する「進撃」にとってWIT STUDIOでの集大成にあたる映画ってことで馴染んだファンが駆け付けたってことなのかも。あのキャラクターにあのアクションはWITならではななろうけれど、それが再現されるのかまったく新しい雰囲気になるのか。「ドロヘドロ」みたいなセルルックの3DCGになったりするってこともあるのかな。それはそれで立体起動装置でのアクションがどう見えるかに興味。巨人の重量感も。

 CECIL McBEEもか。といってどれくらいのバリューがあるブランドなのか、109カルチャーにも女子のファッションにも詳しくはないからはっきりしたことは言えないけれど、いわゆるDCブランドだとか洋物のブランドだとか原宿ファッションといったものとは違って女子に人気のファッションブランドとしてそれなりにファンがいて人気もあって売れていたブランドらしいとは類推。浜崎あゆみさんが愛用していたといった話もあるから、そうしたエリアで支持を集めていたんだろう。

 それでも新型コロナウイルス感染症の影響で全体的に消費が鈍る中、店舗を維持できなくなって来たというのはなかなかに大きな話。ブルックスブラザースがスーツ需要の停滞もあったりした上に新型コロナウイルスの影響で全世界的に売れ行きが鈍って連邦破産法の適用を申請したのにも驚いたけれど、それなりのカテゴリーでしっかり支持を得ていても、支えきれないくらいになっている状況が何となく可視化されて来た。

 ただ、新型コロナウイルス感染症の影響以前にやっぱりファッションに対する意識なり立場が変わってきているのもあるんだろう。ユニクロのようなファストファッションで十分といった意識があり、その裏側には若い世代で共通のファッションにお金をじゃぶじゃぶ注げない境遇がありといった感じ。つまりは日本が貧乏になっているってことで、それはいずれ今もまだお金をある程度動かせる世代が高齢者になっていった先、中間層がまるっといなくなってあらゆる消費が滞り、生活に必要なファストファッションと食料品しか売れない時代が来る、なんてことになるのかな。実際、ユニクロとGUと無印良品があればどうにか回るものなあ、今の生活。

 「ハイキュー!!」が完結したというのでジャンプ+から週刊少年ジャンプを購入して読んでみたら「鬼滅の刃」ほどではないけれども後日談的な内容で、それはそれでいろいろな人のその後が見られて面白かったというか、潔子さんは田中とくっついたと見て良いのかというか、単に昔の仲間で集まってオリンピックのバレーボール競技のテレビ中継を見ているだけだと受けとめるべきなのか。

 2020年に東京オリンピックが開催されているというのは今となっては架空の歴史になってしまったけれど、若い人にとっての1年は結構な長さの時間になってしまうから、2021年にはずらしたくなかったんだろう。というか2021年にオリンピックが開かれる保証はどこにもないし。だったら架空もで2020年に開かれたことにするのが落ち着きも良いってことで。問題はここがテレビアニメになった時、果たしてどういう展開にするかだなあ。2021年に開かれたらそこに合わせるかな。

 そして1000年後に「ハイキュー!!」が読まれた時、2020年にいったい東京オリンピックは開かれたのかどうかが議論されるという。いっしょに収録されている「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を読むとどうやら2021年に持ち越されたことになっているみたいで、同じ雑誌なのに矛盾したことが描かれているからややこしい。あるいは今の過去の史料なんかにもそうしたズレとか誤謬がいっぱいあったりするのかも。

 陰山と日向はしかし相変わらず賑やかな奴らだ。見方だったり敵だったり。それでも最後はこの2人が登場して終わるところが「ハイキュー!!」という作品の鍵なんだろう。どちらが主人公かというとどちらも主人公だけれどより主人公なのは日向かなあ、やっぱり。陰山が「今日は俺が勝つ」というのに対して日向は「今日も俺が勝つ」という。この差から、そして最後のコマに登場していることからやっぱり日向が主人公ってことで。


【7月18日】 1年から1日が経つとさっと引く京都アニメーションに関する報道だけど、ここ数日で発信された中では剽窃されたと訴えていた作品が弓道をテーマにしたアニメーションだという話で、いやいやその作品はもっと前にKAエスマ文庫から原作が出ていて、それより以前にコンテストに応募があった作品だから剽窃しようにも無理なんじゃないかといった冷静な声がわりと挙がって一安心。ちゃんと皆さん状況を見ている。でも中に果たして本当に受賞者はいるのかといった声もあって、ゴーストに書かせて応募させて賞を与えているんじゃないかといった話も出ている。

 それが証拠に顔写真が出ていないとかインタビューも出ていないとか他に本も出していないといった声が挙がっているけれど、少なくとも「サクラの振る町」の小川晴央さんはメディアワークス文庫から何冊も出している作家で、電撃小説大賞の金賞を獲得した時に贈賞式に姿を見ている可能性があるから実在は確か。それ以前にもスニーカー大賞での受賞歴があるから、半ばプロとも言える人がそうして応募して受賞をしていたりする。決して架空の賞なんかじゃないと分かって他も見渡す方が良いんじゃないかなあ。でもネットの噂って一人歩きしては拡散されるから厄介。今回も原作の人にいらぬプレッシャーがいかないよう、護ってあげて欲しいし今後も起用し続けて欲しい。期待してます第2期を。

 高校生が環境に関心を示すことは悪い話ではなくて、普段の生活から気がついた事柄について企業なんかにどうですかと問い合わせたいと思ったものの、個人ではちょっと弱いからとネットの署名サイトで賛同者を集めた上で数を味方に話題性ものっけることで相手に話を聞いてもらうといった手法を取ることは間違っていない。ただ、環境に悪いことをしている企業を見つけたのでもの申したいんだけれど拒否されるかもしれないから応援よろしくといったような風体を見せてしまっている以上、そこにどうしてその企業を“やり玉”に挙げたのかを問われて当然だと言える。

 この場合、亀田製菓とブルボンについてお菓子の包装が過剰で環境に優しくないと言っているみたいだけれど、調べるとどちらも環境への取り組みを始めていて、亀田製菓は2030年を目標にエコな企業へと完全移行するようなスタンスを表明。そしてブルボンも環境に優しいパッケージを目指して、中にいれるトレイは植物由来のバイオマスプラスティックを試用し薄型にすることで全体のパッケージも少なく済むようにしている。つまりは極めて先進的な企業を相手に、そうしたネットで調べればすぐに分かる情報を知らなかったか隠して署名を集めているようにすら見えてしまう。

 結果、話題になってブルボンだとか亀田製菓は高校生のやり玉に挙げられた企業として印象づけられてしまった。でもどうやら高校生は、亀田製菓やブルボンが環境への取り組みをちゃんとやっているからこそ、話を聞いてもらえるんじゃないかと名前を挙げたとか。それはちょっと筋が違う。というか気になったなら調べてそうした取り組みを行っていることを紹介しつつ、どうしてそれが必要なのかを尋ねてルポするべきだった。数を頼みに脅すようなことをしたらやっぱり批判も集めるだろう。そういうつもりじゃなかったと言っても立て付けがそうなってしまっている以上、批判は免れない。

 とはいえせっかくの興味深い振る舞いを批判で潰すのは勿体ないし、相手もそこで受け答えすることで取り組みをアピールできると感じたみたいで話し合いは行われる模様。そうした状況を見守りつつ、お互いが納得する線に落ち着き、そして全体へのアピールが始まればこれは署名を行った甲斐もあったというもの。正しい振る舞いの作法が乱暴でもそこを整え導くことで生まれる明日に期待しよう。それにしても当該の提案者、女子高生らしいけれど、制服姿の後をさらしているから見る人が見れば誰かはともかくどこのくらいは分かってしまいそう。どうなんだろう。

 目覚めたらそこは2000年後の地球から遠く離れた惑星で、ロボット姉妹に見下ろされていて裸なのはいけないからと妹のパンツを脱がせて履かせようと姉が言い出したりするエロティック描写もいっぱいなコメディに見えたりするのに、芯にあるのはロボットというかAIたちが主たるべき人類を失った中で迷いつつある状況下、どうやって快復を目指そうかと探求する物語と、そして人間的なAIを作ろうと懸命だった若い研究者と、その病気がちな恋人の思いがどうやって受け継がれていったのかといったメロウな物語が合わさった立派なSFだった佐藤ケイさん「星継ぐ塔と機械の姉妹」(電撃文庫)。

 人間がいなくなってしまって100年とかの時間が流れる中、AIだけではうまく制御が働かず崩壊へと歩み始めたその星で、マザーコンピュータの姉妹として生み出されたうちの2人が挑んだのは人工的に生体を持ったAIを作り出すということ。ところが目覚めたのは2000前にAIを研究していたけれど、階段からすべって転んで気がついたらそこにいたという地球の男性。もしかして転移でもしてしまったか。それともタイムマシンでも作動したか。理由は分からないまま男性は、姉妹が目指すマザーコンピュータの覚醒のために、コンピュータが眠っている場所へと冒険する。

 途中、AIの邪魔が入ったり、プログラムによっていろいろと働くけれどもそのプログラムが固定されてしまったため、ロボットたちには驚異になってしまった虫ロボットにおそわれたりして大変で、なおかつ別の思惑を持った姉に襲撃されて全身ががたがたになってしまったけれど、どうにかたどり着いたマザーコンピュータがいる場所で、嬉し恥ずかし直結を果たした地球から来たという男性は、そこで今いる惑星のロボット達の由来を知り、自分自身を知っていく。なるほどそういうオチか。人間の記憶が転写されてもそれは同じ人間なのかという疑問が一方にありつつ、愛し合う2人が同じように完璧に記憶を転写されたらやっぱり愛し合うのかという疑問もあって、その答えめいたものが示される。継続はされなくても受け継がれるのならそれは本望。というか人間だってそうやって遺伝子を残すことで希望を未来に繋げてきた。その意味では新しい時代の“生殖”と“遺伝”を示す物語ってことになるのかな。AI×SFとしても注目しておきたい。


【7月18日】 夏でよかった。これが冬だったら吹きすさぶ風で降り落ちた雨滴に濡れた肌が冷えて震えながら劇場を出たことになったかもしれないから。ただし心は見終わった楽しさでぽかぽかと温かくはなっているから辛いとか苦しいといったことにはならない。ましてや今は夏だ。外に出れば蒸し暑さに塗れる状況で、涼みに入った映画館で心躍る活劇を場面の中の雨や風とともに楽しめるのだからこれはもう極上のエンターテインメント。いやもはやアミューズメント。レイバーという架空の二足歩行ロボットとともに東京の街を、そしてバビロンという人工島の中を歩き回っては戦い暴れ回る興奮でいっぱいになれる。そんなコンテンツだ。

 作品についてはもはや言うまでもないから置くとして、4DXとしてさまざまなギミックや演出が乗った「機動警察パトレイバー the movie 4DX」は冒頭の帆場のシーンから風が吹いて現場にいるような感覚にさせてくれて、そして自衛隊のレイバーが暴走するシーンへと突入して激しい戦闘の場面で暴れ回る兵器や放たれる銃弾などの衝撃を全身で体幹できる。そうしたシーンがもっとあればそれこそアトラクションにも匹敵する肉体への負担を得られたかもしれないけれど、押井守監督の映画はアクションの合間に哲学があって今回も松井刑事が東京の待ちを歩き回るシーンが挟まり、動きはあまり感じられない。

 そんな時にコロナ対策で1列離れたところに座っていた人が、足をガタガタさせるものだからつながっている席も連動してガタガタとして気にはなったけれど、それも含めて体幹する映画ということで深くは気にせずやり過ごす。やがて工事中のレイバーが暴走して東京の街で暴れ回るシーンがあり、いろいろな探索を経てたどりついた方舟での激しい戦闘があってそうしたシーンの中で動き揺れては背中に衝撃、両耳に風の噴出などが繰り出されては現場にいるような感覚にしてくれる。

 これが実戦の現場だったら衝撃が命取りになる訳だけれど、そこは映画だから危険はないからご安心。クライマックスに戦闘シーンがある映画ってことで、途中の休憩から一気に躍動へと引っ張っていってその衝撃がまだ体に残っている中でエンディングを迎えられたことも良かった。その意味では「機動警察パトレイバー the movie」は4DXに向いている映画かもしれない。二足歩行ロボットのガチバトルでは「パシフィック・リム」の4DXが初期に評判になったけれど、日本にあれだけあるロボットアニメでこうしたギミックが合わないはずはない。その証明をしてくれる企画だったって言えそう。

 個人的には動きの激しさという意味合いから「劇場版マクロスF〜サヨナラノツバサ〜」なんかから始まったマクロスシリーズのMX4D化におけるバルキリーでの戦闘シーンのシート可動がなかなかに衝撃的で、浮遊感から急制動してバトルへと行くギミックなり、お風呂シーンでの香りなりを味わえたという意味ですごく心に残っている。エンディングテーマのビートに合わせて背中がどんどんと動くギミックも面白かったので、機会があればまた上映されて欲しい。

 「パトレイバー」についてだと「機動警察パトレイバー2 the movie」も最初にバトルがあり最後のバトルがあってそれはそれで楽しめそうだけれど、間の探索とかがギミックの提供場所に欠けそうなのがちょっと難点かなあ。いずれ企画として上がるなら別のギミックを仕込むとか必要かも。南雲隊長の香りあたり。どんな香りなんだろう。ちょっと気になる。

 せっかく劇場まで来たので「進撃の巨人クロニクル」も観ることにする。ノーパソサイズでしか観てないのでスクリーンサイズは実は初めて。WIT STUDIOの底力を堪能しつつ送り出すといった作品になてっているのかと想像したとおり、見終わった映画はなるほどWIT STUDIO版の総集編であり集大成といった感じになっていた。ストーリーについてはとくに大きくはいじらずseason1から3までをダイジェストにしつつエレンを中心に据えて流れを追ったといった感じ。そこにミカサが絡む。あとリヴァイも割と多めに登場して、迫力のバトルとこわもてのセリフを見せて聞かせてくれるからファンは見て良いんじゃないかな。

 もちろん端折られている部分はずいぶんとあるけれど、ステイホームな間にテレビシリーズを全部見切って何度も見直したのでほぼほぼ頭に入っているから気にしない。むしろよくぞ映画の時間の中でラストの海まで行くところまでやりぬいた。まったくの知らない人がみたら何だろうってことになるけど、知っている人なら懐かしくも嬉しい展開をふたたび味わえたといったところ。

 ここから始まる新たな戦いがまた、「進撃の巨人」のある意味でSF的に大きく広がる展開を表しているんだけれど、逆に言うなら対巨人といった作品の醍醐味が薄れていく展開でもあって、そこに絡めないなら作り手としてもう良いかなと思ったのかもしれない、って実はそこからあとの展開を漫画で読んでないからどういう感じに進むのか分からないけれど、ここまでのような巨人を相手に空中戦と肉弾戦を挑み勝ち抜いていくような、スリリングでエキサイティングな映像にはあまりならない気がする。

 そういう意味でも荒木哲郎さんが監督を退きWIT STUDIOがMAPPAに制作を預けたのも分かるような気がしないでもなかったり。引き継ぐMAPPAの方がより謀略と人間のドラマになる展開をどう描いていくか、大変かもしれない。何をどうやっても比べられてしまうから。ともあれひとつのシリーズの総まとめとして楽しめたので良し。あとやっぱり大きな画面で見る「進撃の巨人」は迫力あるなあ、立体起動装置でびゅんびゅんと飛び回るミカサとかカッコいいから。

 あの日から1年。悼む気持ちはあって遠くからyoutubeの中継を見つつ黙祷を捧げる。失われた才能はあまりにも惜しい人たちばかりだけれど、残された人たちがその後を継いで立ち上がりつつあるなら、今からそうした人たちを応援していくのがやっぱりファンとしての役目だろう。9月には新作の劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンも公開となって本格的にアニメ制作に戻ってきたところを見られる。そしてKAエスマ文庫も5カ月連続の刊行が終わって次のステップに入ってくれるだろう。そこから生まれるアニメもあるかもしれない。期待がふくらむばかり。「当社の理念のもと、仲間とそのご家族、そして支えてくださる皆様と心をつなぎ、ゆっくりでも一歩ずつ、進んでいくことを改めて誓います」。八田英明社長の言葉。分かりました。ついていきます。ずっと。ずっと。


【7月17日】 本屋さんで津堅信之さんの「京アニ事件」(平凡社新書)をぺらりぺらり。とりあえず評論家はどうして沈黙したのかという、どこか事件そのものなり京都アニメーションなりについて語るのとは逸れた話に、冒頭での第一報に対するリアクションとして足りていないのではという指摘、そして一段落してどういったリアクションがあって何がやっぱり足りていないのかといった分析と2度にわたって言及しているのがどこか不思議な気がしないでもなかった。

 津堅さん自身はそれこそ何件も取材を受けてコメントも出していたようで、自分なりに一所懸命やっていた一方で早々に依頼があったけれど断ったといったことを、SNSなんかで言及うしている人たちがいたことが気になった様子。気に障ったかは分からない。ただアニメーションについて語り評論する者として、どうして京アニでこうした事件が起こったのかについては語るべきなんじゃないかといったスタンスを示していたのを見ると、その沈黙ははやり奇異に見えたのかもしれない。

 ただ事件性があまりに強いこの案件で、どうしてこうした事件が起こったのかは犯人の動機も見えずほのめかされても本当か分からずそして前代未聞の広がりもあって言及したくても語る言葉がない。一方で京アニについて語ろうと思えばその存在感は語れるけれども、そうした京アニがどうして狙われたのかなんてことは分からないから事件とは乖離した語り方になってしまう。それが事件と絡められる不安というのはあったのかもしれない。

 いわゆる宮崎事件でオタクバッシングが起こった中で、こうした案件について不用意に語ることがバッシングを招くのではといった指摘もされていたけれど、そうした時代をくぐりぬけて語る言葉を持ち、語れる場所も以前よりはずっと広い状況で今更バッシングを恐れるということはあまりない気はする。むしろ専門家として語った言葉が、アニメに対して認識の乏しいメディアを介在することで薄まるなり曲げられるなりする可能性を懸念したことはあるかもしれない。

 ただ津堅さんは京アニがあまりにも知られていなかったというけれど、それを言ったらアニメ制作会社なんて大手も中堅も含めて知られているところなんてないんじゃないか、ジブリとディズニー以外。東映アニメーションだってトムスエンタテインメントだってタツノコプロだってぴえろだってプロダクションアイジーだって並べて分かる人が一般にどれだけいるだろう。ジブリとそれ以外の認識で攻めてくるメディアの人たちにいちから説明する徒労感は、津堅さんも感じていたけれどそれでも頑張って語った自分に比べて他はといったがっかり感もあって、ああいった指摘になったのかなあ。

 自分の言葉をそのまま出せる場でだんだんと声が出て来たことについては言及していて、東浩紀さんや岡田斗司夫さんが語った話を引用している。あと大阪芸大だっけ、炎上した例の一件とか。ヤマカンについても言及があって、まだ内情に詳しく先達なり同僚への言及もあったから指摘はわかると書いていた。ほかで名前が触れられていたのは氷川さんくらいか、具体的な引用はなかったけれど。そうした部分よりも本当は、津堅さんが京都アニメーションという会社をアニメ産業なりアニメ史の上にどう位置付けているかを読まないといけないんだけれど、読めば浮かぶいろいろな思いもあるだけに手を出していいか迷うところ。まあ資料で史料でもあるのでいずれ手に入れ目を通そう。

 数日前からジェイソン・メンフィールドという人が週刊少年ジャンプに1969年か1970年くらいに掲載された漫画について探している話が流れてきて、聞くと「Geka Kuma」という主人公でパープルとピンクのピンストライプのスーツを着て煙草をくわえている漫画だという話。それこそ名うての古書収集家とか漫画評論家が聞いて考えてみたものの、分からないといった返答だったけれどもそんなジェイソン・メンフィールド自身がツイッターに「Geka Kuma」とはこれだといった画像を挙げていて、週刊少年ジャンプの表紙でそれを見てどうやら小室孝太郎さんんいよる「ワースト」らしいと判明した。

 それのどこが「Geka Kuma」でそしてピンストライプなのかは分からないけれど、表紙の絵を見ると紫がかった色なども含めた格子柄になっているのをピンストライプと言ったのかもしれない。小室孝太郎さんは手塚治虫になれなかった漫画家として知られていて「ワースト」なんかも後に朝日ソノラマとかいろいろなところから刊行され、今は復刊ドットコムから完全版としてリリースされていたりするから読むのはたやすい。ただし値段は7700円もするけれど。それが本当にジェイソン・メンフィールドさんの求める「Geka Kuma」かはまだ確定はしていないけれど、そうだとしたらどういう経緯で知ったかが知りたいかも。

 感染者数293人ってそれはもうやっぱり市中感染が始まっているとしか言いようがないんじゃないのかなあ、検査数に対する比率が低かろうとも絶対数がそれだけいるってことなんだし。それが3月4月の感染拡大期の潜在的な患者も含めた絶対数と比べてどれだけ多いか少ないかなんて関係ない。過去だて分からない中で絶対数と入院患者から大変そうなことを感じてきた。今も病院はまだ余裕があるとはいえだんだんと逼迫している感じ。そんな中で「Go To トラベル」だなんてやったら東京から地方へと拡散し、そして大都市圏で増えつつある患者もあちらこちらへばらまかれる。

 だから早急な中止を、といったところで止めやしないんだろう。東京からの出発はダメだと言って、次に埼玉や千葉や神奈川も東京に近い市はダメだと言い出したりしてだんだんと拡大しつつある。さらに若者はダメで老人もダメだとなったらいったい誰が行くんだろう。中年の人たち? でも今度は既往症の持ち主はいっちゃダメだとなったらそうした世代に多い成人病の人たちもやっぱり対象になってしまう。もはや誰も旅行にいけにないにも関わらず、旅行に行けと背中を押す施策が出るこの無茶苦茶を、許してしまうというよりはもはや呆れて誰も何も言わないんじゃないかなあ。そんな日本に誰がした。やれやれ。


【7月16日】 いくら検査数が多かったとはいえ、それで263人もの新規感染者を出したとなったらやはり感染が拡大しているとしか思えない新型コロナウイルス感染症。その割合で数十万人が「Go To トラベル」のキャンペーンに乗って一気に動いて地方にいけば、数千人規模で感染者がバラまかれてそこから広がる可能性もある訳で、これはちょっとヤバいんじゃないかと地方からあまり来ないで欲しいといった声が起こっていた。

けれども政府はどこふく風と決まったことだから実行するのみといった感じでGo To キャンペーンをやる気満々。こうした態度にただでさせ政権への不信感と募らせていた人が、さらに懸念を抱くようになったらさすがに拙いと考えたのか、政府として東京からの発着に限ってはキャンペーンの対象から外すといった方針を打ち出してきた。曰く「赤羽一嘉国土交通相は16日夕、政府の観光支援策「Go Toトラベル」事業について、東京発着の旅行を対象外にする考えを表明した」

 行く気満々だった東京の人にとって、これはいったいどういうことかと憤りも出そうだけれど、これだけ流行が再燃しはじめている中で地方に行っても歓迎されないとなったら、やっぱりやめておこうと思っていたかもしれない。ここは諦めるのが吉と家でごろごろするなら良いけれど、だったらと都内に繰り出し繁華街での感染を増やしたら元も子も無いわけで、そこについてはやはり対策を打って欲しいもの、もちろん補償も込み込みで。

 気になるのは東京発着に限られている点で、だったら横浜発着とか千葉発着とか大宮発着だったら大丈夫なのか、といった点。そうしたところの支店経由でいったん出てからまた出発の旅程を組んで提供するようなところが出てきて、果たして選別ができるかが気になる。個人的には船橋在住なので市川発着とか船橋発着だと認められるってことなのかな。だったら行こうかどこか遠くに。それより帰省したいけれど、今のこの状況を考えると先に延ばした方がいいかなあ、悩む。

 渡辺明棋聖・棋王・王将に藤井聡大七段が挑戦したヒューリック杯棋聖戦は第四局で藤井七段が勝って棋聖位を奪取。17歳11ヶ月での戴冠は同じ棋聖位で屋敷伸之九段が18歳6ヶ月で成し遂げた史上最年少記録を大きく更新して、そして現役高校生としては初のタイトルホルダーとなった。白鳥士郎さんがライトノベルの「りゅうおうのおしごと」で16歳の九頭竜八一に竜王位をとらせて現実味が云々されたけれど、強ければ10代でもこうしてタイトルホルダーになれるのだということを現実に示してくれた訳だから、決して絵空事ではなかったことになる。

 逆にいうならフィクションに現実が追いついてしまったということでもあるけれど、そうした想像力で言うなら「りゅうおうのおしごと」には女性のプロ棋士四段というこれまた現実には未だ誰もなしえていない偉業に挑む話がある。そちらで想像力の限りを尽くしているのでまだまだ大丈夫。とはいえこちらも追いつかれる可能性は否めないんだよなあ、三段リーグで次点をとった女性棋士がいるから。

 ちなみに九頭竜八一は16歳だから藤井聡大新棋聖よりは年少だけれど高校には通ってないからいろりと違う。なかなか行けないとはいえ高校生でありなおかつ現役のプロ棋士でそしてタイトルホルダーというのは今後もなかなか出てこないだろうなあ。今の三段リーグを見ても藤井聡大新棋聖ほどの若さで駆け上がってくる人は見当たらないし。その意味では数十年にひとりの天才。羽生善治九段とか屋敷伸之九段なんかと並ぶっ、ってこの2人は同時代か。渡辺明二冠だって少し下。その意味では同時代にもう少し、藤井聡大新棋聖と互角に戦えるラバル棋士が欲しいところかもしれない。

藤井聡太新棋聖の誕生で嬉しいのは、東海に拠点を置いて将棋の普及に努めた故・板谷進九段が念願としていた東海にタイトルを持って帰るという夢を、孫弟子が叶えたというところか。板谷九段には小林健治九段、杉本昌隆八段といった弟子がいるけれどタイトルにはちょっと無縁だった。板谷九段自身も挑戦にあと1歩及ばなかったりして、それを叶えようと普及に努めていただけに、弟子の杉本八段の弟子だから孫弟子にあたり藤井聡太新棋聖がタイトルを奪取したことを、きっと喜んでいるだろう。

 「オーバーライト ブリストルのゴースト」という池田明季哉さんが書いたグラフィティをテーマにしたライトノベルの紹介をした時に、グラフィティを権力に挑む正義の振る舞いと位置づけ紹介するのはどうだろうかといった意見をもらっていろいろと工夫して書いたけれど、そういう例にならえばたとえバンクシーだからといって、地下鉄のような落書きが厳禁された公共交通機関に落書きをすれば消されても仕方が無いといったことになるのだろう。たとえバンクシーだからといって、それがとてつもない価値を持つものだからといって、地下鉄への落書きを許せばだったら有名なら良いのかという話になってしまう。

 私有地とかビルとか地権者なりが認めればあとは話し合いになるけれど、公共交通機関なら公平にすべてを扱うのが筋。そこを曲げたら通らなくなるといった判断をしつつ、かといってあのバンクシーの落書きを消してしまっては配慮が足りないといった避難も喰らうと考えて、ルールに厳密な清掃員によって消したといった理由を前面に掲げたのかもしれないなあ。分からないけれど。ただ絵としてとっても面白く場所にもまっちしていただけに、ステンシルか何かにして新型コロナウイルス感染症の流行防止のキャンペーンとして、すべての車両に貼るなり描くなりすればそれはそれで美しいんだけれど。


【7月15日】 料亭を借り切りつつ個室をいくつも確保して、そこに選考委員を1人ずつ配置してはネット回線を通してリアルタイムでビデオ会議をしながら選考するのかと思っていたけれど、そこはやはり合議でなければ感じがつかめないからなのか、直木賞の選考はいつもより大きめの部屋を用意して、そこに選考委員を集めて話し合いを行ったらしい。ソーシャルディスタンシングに配慮しアクリル板なんかも設置。殴り合いになったら足元からロボットを前に押し出して、リモコンでバトルさせるとかしたのかな、それはさすがにないか。

 島田雅彦さんがキャリア的に最長老に近いような芥川賞の選考委員だと、平野啓一郎さんや川上弘美さんのようにネットワークに通じていそうな人もいて、リモートでの会議もありえたような気もしないけれど、やっぱり同じような広めの部屋で選考が行われたんだろうなあ。いつか日本各地のホテルに部屋をとって回線で結んでビデオ会議として行われるようになるかも。他の文学賞では行われたんだっけ、三島由紀夫賞は4月に候補作を出しながらも選考は9月に先延ばし。そこでも新型コロナウイルス騒動が収まっていなかったらリモート会議とかするのかな。

 さて直木賞は「不夜城」の馳星周さんが「不夜城」から24年経って「少年の犬」で受賞。7度も候補になっていたとは驚きだけれど、そこまで取れなかったというのも驚きで、それでも取れるんだということも驚き。あきらめないで書き続ければ浮き沈みはあってもいつかはと思う作家もこれで増えるかもしれない。中身は読んでないけどノワールとは違うみたい。馳さんといえば別名義でライトノベルも書いていたけど、こちらのペンネームでは一貫してノワールとか一般小説だから、ラノベ作家が直木賞とはちょっと違うかも。

 芥川賞はついに高山羽根子さんが「首里の馬」で遠野遥さん「破局」とともに受賞。創元SF短編賞から出たSF作家で日本SF大賞の候補にもなっていた人だからSF作家の芥川受賞と言えるだろう。すでに前例として円城塔さんもいるけれど、円城さんの場合は文学界新人賞という純文学の賞からのデビューが小松左京生候補よりも先にきそうだから、SF作家と言い切っていいかが悩ましい。高山さんなら堂々と言える。川上弘美さんのパスカル小説短編賞はSFかというとそれも悩ましいし。ともあれ見知った作家がとって、話題性としては太宰治の孫とかよりすこし下がりつつも読んでみたい感はぐっと高いので、余裕があったら手を出そう。でもこちらはライトノベル読みが本職なのでそちらから。いつか評した中から芥川賞直木賞作家を送り出したいなあ。

 この数日、「Go Toキャンペーン」に関連して地方に新型コロナウイルス感染者をばらまくような政策であってすぐさま引っ込めてくれという声に抗うかのように、いやいやもはや地方の観光地は壊滅的な打撃を受けていて、ここで新しい旅行客が来ないと絶滅するといった声も起こってどうしたらいいんだろうかと日本中の人たちの頭を悩ませている。ただし政府以外。彼らはそこまで考えてというよりは、方針が出たからにはそれに沿ってといったところだろうし、方針を出している政府とうか内閣だって、どこかで誰かが言い出したから止めるに止められないといった感じ。誰かってのがあの辺りだろうというのがいつものことながら、この国の政策運営の厄介さを表している。

 そんな状況もあるだけに東京都の小池知事が政府が「GO To キャンペーン」について、「現在の感染状況を踏まえると、実施の時期であるとか、その方法などについては、改めてよくお考えをいただきたいとお伝えをしたい」と言って政府に見直しを求めたそうな。それはある意味で正しいけれども、一方で東京都民なり首都圏の人たちに限ってといった但し書きをつけないと、日本中で旅行が起こらず観光産業は壊滅から絶滅に至ることになってしまう。

警戒を緩めたこともあって新規の新型コロナウイルス感染者が続出している東京都か、近隣の県とか大阪府とかに関しては出るな、家にいろと訴えつつ補償もさらに乗せてこれ以上の感染を防ぎつつ、おちついている地方から別の地方への旅行だったら促して支援して増やして盛り上げるといった2段構えの施策をとらないと、助かる命も助からなくなってしまう。新型コロナウイルス感染症と観光産業という2つの方面の命という意味で。

 それにしても小池都知事は「Go To キャンペーンを引っ込めろ」と訴える大きな事由になっている東京都での感染拡大に何か有効な策をとっている感じがなく、軽症者を隔離しておくためのホテルも契約を切ってしまって確保している部屋数が足りなくなって来た上に、このところの感染者数増大で部屋がいっぱいになりかかっているとか。はみ出せば病院に収容せざるを得ず、それが重症者の入院時にいったいどうなってしまうのか、また院内感染とか医療従事者への感染といった可能性を高めやしないかといった不安も招く。そうした施策をとってなお、安全を考慮して政府に物申すならまだしも、そういっていれば自分カッコいいかも的なニュアンスで何か言っているのだとしたら、政府と罪深さでは変わらない。せっかく当選したのだから、ここで大きな施策を講じて欲しいのだけれど。できるかな。

 木村一基王位に藤井聡太七段が挑戦している王位戦の第2局も藤井七段が勝ってこれで2連勝。5番勝負のヒューリック杯棋聖戦とは違って7番勝負だからあと2勝しなければ奪取はできず、先に2勝して1破した棋聖戦の方で勝てばそちらが最年少タイトル獲得の当該タイトルとして名を残すことになるけれど、16日という連戦度合いで果たして体力がどうなっているかが気になるところ。渡辺明棋聖も竜王戦に臨んではいるけれど、ここまでの過密なスケジュールではないからなあ。そこは若さで乗り切っていくかもしれない藤井七段。とりあえず今月いっぱいは注目の人になるだろう。勝利したらそこで「りゅうおうのおしごと」に絡めてまた紹介できるかな。


【7月14日】 誘われるように「となりのヤングジャンプ」で迫稔雄さんの「バトゥーキ」を第1話から第85話まで一気に読み切る。カポエイラで戦う少女の話。カポエイラというとメディア・アーティストの八谷和彦さんが確か習っていて、取材の時にそんな話も聞いたことがあったっけ。カポエラではなくカポエィラだよって強く言われた記憶。なんでまたと思ったけれど、ボディバランスと柔軟性が大事な格闘技というか音楽やダンスも含めた文化なだけに、オープンスカイで空を飛ぶ八谷さんにとって心身を整えバランスを整える意味でも重要な要素だったんだろう。今も習い続けているのかな。

 あと平井和正さんのウルフガイシリーズに属する「リオの狼男」でもカポエイラ使いが出てきた記憶。とても強かったけれど当時はやっぱりというか手の使えない奴隷が足技を発達させた格闘技といったとらえ方だったかな。読み返してみないとはっきりしないか。ともあれそうしたイメージだけはあったカポエイラが、「バトゥーキ」ではさらに広くて深くてそして強いものとして描かれていた。父母がいなくなって置き去りにされた赤ん坊が3日間、生き延びた末に父母らしき人たちに育てられる。そしてある時期、公園にいたホームレスに見えるけれどもそうではないらしいレゲエめいたおっさんと知り合い、カポエイラを習うことになる。

 やがて少女は成長し、進学した高校で女性教師がカポエイラをしていることを知ってまた倣ったりする中でコミュニティを広げていった一方で、父母だったはずの男女がさらわれBJなる男から強い奴らと戦わなければ指を切りおとして送りつけると脅される。そして少女、三條一里は空手や合気道の達人たちと戦い、そして反グレの集団とも戦うように仕向けられていく。その戦いの過程とかは「グラップラー刃牙」なんかを読んでいるよう。加えてカポエイラという分かっているようで誤解も多い文化について、成り立ちからスタイルから学べるようになっている。やってみたいと思う人も増えてそうだなあ。

 もちろん、カポエイラこそが格闘技最強と持ち上げる感じではなく、他にも空手に日本憲法にボクシングにムエタイに中国憲法といったさまざなな格闘技が出てきては一里と対峙することになる。それらに押し込まれることもあるけれど、一里という事情を抱えた少女の血筋めいたものも加わって、勝利していった先にあるのは血族との命をかけた抗争らしい。その域にまでたどり着くのに国内で、どれだけの戦いを経ていくのだろう。そうした戦いを経て敵を味方に引き込むような展開がしばらくは続くのだろうなあ。ブラジルへと乗り込んでいった先にある、とてつもないスケールを持った果てしない強さを競うような戦いまであとどれくらい。そうなった先に霊だとか異能だとかオカルティックな方向へとエスカレーションしていかないことを願いたいなあ。

 来て欲しい、という地方からの声はたくさんあるようで、夏休みという大型連休に並ぶ旅行のシーズンまで失っては大変だという意識から、GO Toキャンペーンを歓待している観光関連事業の従事者はたくさんいるだろう。旅費が安くなるのは鉄道会社を儲けさせるだけだとか、中抜きする事務局だとか宣伝に携わる広告会社が潤うのはけしからんといった声ももちろん正しいけれど、それで動いた旅行客が地方に落とすお金は皆無ではない訳で、ようやく始動するキャンペーンに期待する人たちには、ぜひに潤って欲しいと思ったりする。

 とはいえ、一方で東京都では相変わらず100人200人といった数の新型コロナウイルス感染者が出ていたりする状況があって、検査数に対して比率は低いといっても絶対数がそれだけいるとするなばら、周辺に感染者がもっといたりする可能性は低くない。そうした人たちがGO Toによって動き出した時に何が起こるのか、といった部分まで考えるなら行って良い人たちと、あまりよくない人たちがいることも事実。感染の可能性が心配される地域から、いっせいに飛び出していって地方に感染者を増やしてしまって、それで重症者が出るようならGo Toはむしろ経済を増進させるどころか停滞へと追い込みかねない。

 だからといって自重するかというと、政府が旗を振ってキャンペーンを行っている時にどうして自重なんかと思うだろうし、それ以前にすでにこれだけ感染者数の拡大が取りざたされているにもかかわらず、東京都では人出が日に日に増えている感じがあって、繁華街も通勤列車も大勢の人で満ち溢れている。夜の街とかホストまがいとかいった言葉でくくって後ろめたさをもたせつつ、抑制しようとする策略でもあるのかもしれないけれど、だったら昼間の繁華街は良いのか、カラオケとかおしゃべりとか構わないのかとなって、そこで感染者を増やしている。

 4月あたりからの外出自粛がうまくいったのは強く呼びかけつつお金をちらつかせて押さえ込んだからで、それがなくなれば当然に誰もが外に出て悪気なんて感じない。感じたとしても一部におしつけ自分達は関係ないという顔をする。それはGO Toキャンペーンでも同じ。政府は東京問題だと言うけれど、東京都は政府が悪いと罪をなすりつけ会いながら、押さえ込むための施策を繰り出さず自重させるためのあめ玉も持ち出さない。結果として何が起こるのか。始まってみたら、そして8月に入ったらどんな感染状況になっているのか。心配だけれどでもそろそろ、帰省もしたいしなあ、部屋も暑くなりかけてきたし。

 電通の「アマビエ」の商標登録に続いてに続いてまたいろいろ言われそうな予感。集英社が「鬼滅の刃」に登場するキャラクターのトレードマークになっている羽織の模様を商標登録しようと申請したとのこと。もっとも、富岡義勇や胡蝶しのぶは特徴があるからまだしも、竈門炭治郎は市松模様のカラーバリエーションに過ぎないし、禰豆子も麻の葉文様のやっぱりカラーバリエーションで、それを独占なんてされたら他が困ってしまう。煉獄杏寿郎だってホットウィールじゃないけどおもちゃとかによくある炎柄。それらを独占ではなくても登録をして他が使うのにプレッシャーをかけることを、古来の模様だからと衣装に採用しただろう吾峠呼世晴さんは納得しているのか。異論が向かう矛先になりかねないだけに集英社の対応が気になる。取り下げかなあ。


【7月13日】 「テラスハウス」のような番組としてのリアリティーショーだったら、完全なるノンフィクションではなく関係性において演出があって仕込みもあって台本めいたものも示唆されて、その上で進んでいるんだろうといった予想を踏まえつつ見ていくことは可能だろうし、出演している方だってそうした了解の上に演じていたりするところはある。ただそこに配慮がないとリアリティーショーのリアルな部分に感化されてしまった声が、演じた側への批判となってわき起こっては演じた人を傷つけてしまうことも起こりえる。

 というか起こってしまったから問題になっている訳で、そこをどういった手法で乗り切っていくかをリアリティーショーは考える必要があったりする。逆にいうならそれさえ乗り切れれば台本めいたものがあり、演出めいたものが行われていたとしても視聴者は納得の上で見ていくし、出演者も了解の上で演じていくだろう。「ザ・ノンフィクション」は違う。リアリティーショーではなくノンフィクションであって別の言い方をするならドキュメンタリーであってそこに台本だとか演出だとか作為なんてものがあったら成り立たない。

 そういうものだという理解があったら追求される事柄、描かれる事象に対する信頼が失われ、告発も紹介もすべてが虚構にまみれてしまう。そういう意識を常に持って作らなければいけなかったし、作っていただろうと思われていた「ザ・ノンフィクション」のシリーズに、過剰な演出があったことが出演者から発進されていて、「テラスハウス」に続いて放送したフジテレビを窮地に陥らせている。喧嘩なんてしていない関係なのに喧嘩をしたように演じさせ、割っていないワインの瓶の割れる音を重ねたりして、それは明らかに事実を曲げていたりして出演者の関係性もねじ曲げていて、内容に対する信頼を損ねるどころかゼロにしてしまっている。

 1つのシリーズがそうなら他もそうなのかといった疑心が浮かんで広がっていくと、過去にどれだけ素晴らしい番組を放送していたとしても信頼性を疑われてしまう。そこに作為がったのではと疑ってしまう。大勝軒の山岸さんを取り上げた番組とか、後に映画にもなって海外で賞を取ってたりするのに、それすらも疑われたらたまらないよなあ。作った人は。そうした可能性を一気に噴出させてしまい、他のドキュメンタリーにまで影響を与えかねない事態。だからこそ日本テレビで「NNNドキュメンタリー」を手がけている清水潔さんも、数々のドキュメンタリーを手がけた森達也さんも困惑と憤りの声を発している。

 「台本のようなものを渡された…。この告発が事実なら大問題であろう」と清水さん。「『ドキュメンタリーは嘘をつく』の主旨は、どんな表現も主観や作意からは逃れられないということ。つまり視点。それはカメラのフレームであり編集でもある。1か0ではないのだ。だからこそドキュメンタリストは葛藤し続ける。(この記事が事実なら)まったく論外」と森さん。そうした声を受けて果たしてどんな釈明があり、そしてどういった対応が行われるか。気にしていきたい。

 美少女アイドルだとかイケメン男子だとかがずらり並んでファンを誘ってお見送りだとか握手会だとかも行う舞台を「ホストまがい」だの「ホステスまがい」と呼ぶメディアについては、それだって興業であって2.5次元なんかだと割と普通に行われては集客を増やす役に経っていたりして、舞台じゃないとかいって区別して貶めるのは大いに間違っていると言いたいけれども一方で、この公演がしでかしてしまったことに対しては、尾上松緑さんが「慎め、餓鬼 舞台を舐めるなよ」と憤る気持ちも理解できる。

 お客さんあっての舞台であってそのお客さんに感染者を出してしまった以上、どれだけ言い訳をしてもどこかに不備があったことは否めない訳で、大いに反省の上で今後につなげていって欲しいし、他の舞台でも同様に最大限の注意を払って同じようなことが起きないようにして欲しい。それさえかなっていれば舞台であっても歌舞伎であっても普通に公演されて観客を集めて頼んでもらって構わないんじゃないかなあ。でないといつまで経っても演劇は大学と同様に再開されないことになってしまうから。

 それにしても凄まじいクラスター発生な感じのこの公演。「全ご観覧者様(約800人)が濃厚接触者に指定されたとの連絡がございました」というのも前代未聞だろう。箱のサイズ的に800人で済んでいるというのが幸いだけれど、それでも1カ所では最大に近いくらいの指定者数。1日だけで終わる音楽のライブとは違って公演が繰り返される演劇だからこその人数と言えそう。これが大劇場だったらさらに大変なことになったかもしれない。歌舞伎なら高齢者が多いから別の意味で大変。演劇はだから気をつける必要があるってことなのかも。

 それにしても16人もの感染者が観客から出てしまったのはさすがに一大事。大元が役者だとしたらどういう経路で感染したかを、座っていた座席と演じた位置から分析して、飛沫がどう広がっていたかをスーパーコンピュータ回して解析したら、こうした小劇場における感染防止策も立てられそうな気がする。舞台の際まで役者はいかず観客も最前列から数列は空けるとか。そこまでやって公演の未来に貢献してこそ、浮かぶ瀬もあるってものだろうから。

 静岡県で逃げ出したサーバルキャットが発見されたとの報。数日を経ていてその間、何を食べていたかが気になっていたところで、専門家によれば肉しか食べないそうだから食べるものに困っていた感じもあったみたい。発見された時、ちょっとやせていたとか。「けものフレンズ」だったらじゃぱりまんを食べていたけど現実にあれだけの万能な食べ物は存在しないのだ。そしてカレーも食べないのだ。

 朝日新聞がさっそく記事を挙げていて、その中でこのニュースがネットで騒がれた理由と前Qこと前田久さんに聞いていた。ネットでは途中で切れている記事の先を想像するなら「アニメライターの前田久さん(38)は、脱走が話題になった理由を『うー、がおー』と説明する」であろうか。いや違う。5本制限で読めたので読んだらやっぱり「けものフレンズ」の人気もあって関心が集まっただろうとのこと。そういう意味では動物ファーストな関心を呼び覚ました作品として、今なお影響力を持っていると言えそう。

 その一方で、東武動物公園なんかが昨今の新型コロナウイルス騒動でゴールデンウイークの営業を停止し、再開した今も学校などからの来場者がなくてお金が足りず動物たちのえさ代を何とかしたいと通販を始めていた。こういう時にこそ動物ファーストのスピリッツを生かして「けものフレンズ」のプロジェクトが動いてライツフリーでグッズを売って餌代の足しにして良いとか、プロジェクト事態が勧進元となってグッズの代わりに寄付でも募って集まったお金を動物園に分配するとかすれば世間の耳目も集まるのに。いろいろあってかつてほど理解が及ばなくなっているIPを、蘇らせるという意味でも何かしで欲しいもの。果たして。


【7月12日】 やはり拙いと感じたか萩生田文部科学大臣は、それが差別とひとくくりにすることに考えがあると言っていたアイヌへの意識について、過去に激しい差別があって困窮させたことを認めて釈明をしたみたい。とはいえ撤回するとか謝罪するといった趣旨の言葉はなかったみたいで、どこまで本気で反省しているのかは伺い知れないところ。当人も含めた安倍政権の閣僚なり政治家に共通した、場にとってウケそうな話をしては間違っていると指摘され、誤解させたとしたら残念といったスタンスで逃げ切る意識満々。綸言汗の如しだなんて言葉、今の日本には存在しないのかも。総理大臣からして言葉が軽いから、羽根よりも紙よりも。

 「仮面ライダーカブト」なんかに出て「桜蘭高校ホスト部」とかで主演までして人気の山本裕典さんという俳優をはじめ人気の男性俳優がずらり勢ぞろいして人狼のゲームを舞台上で演じてみせる講演で、新型コロナウイルス感染症の感染者が大勢出たということでいろいろと非難の声が起こっている。スポーツニッポンが報じるところだと、体調不良者が出ているにもかかわらず舞台を強行したこと、そして出待ちしている観客に握手とかサインをしてあげたことなんかをもって、感染を防ごうとする意識が乏しかったんじゃないかと指摘している。

 それはまあそうだろう。そうした対応に拙いところはあったけれど、一方で舞台公演にお客さんを呼んで楽しんでもらおうといろいろ考えてやっている事を総絡げにして、「今回は舞台公演といっても実際はイケメンを集めて女性ファンを喜ばせるという内容。ホストまがいのイベントだ」と関係者が口走っているのにはまるで同意できないというか、舞台というものに対してまるで愛が感じられなくて嫌になる。2.5次元にしたって良く行くスタジオライフの公演だって、上演後に俳優たちが送り出しなんかをして握手もしてくれることがあったりする。そうしたサービスがリピーターを呼んで公演を盛り上げてくれるといった意識から、割と積極的にやろうとしている舞台が増えている。

 それはイケメン俳優たちに限らず女性がメインで男性ファンを呼ぶ舞台でも同様。というか美男美女だからこそ俳優として舞台に立てたりする訳で、そういう人たちに憧れて観客は集まりそして舞台が成立する。アイドルだとさらに容姿が鍵になるにも関わらず、そうしたエンターテインメントの世界、興業の基本をすっ飛ばすような言説を本当に関係者が言い放つのか。スポニチが憶測からいってるだけじゃないのか。だとしたらスポニチも相当に悪辣。だって彼らだてアイドルや女優を掲載した紙面を作って売っている訳だから。

 なのに舞台はイケメンを見に行く場所じゃない、触れ合いを期待していく場所じゃなとでもいうのか。板の上だけで表現されるパフォーマンスにのみ関心を示すべきだというのか。AKBグループの握手会をそういう言葉で否定したら、たちどころに干し上げられるというのに。まさに二枚舌。それがメディアへの不信を読んでいるとうことに気付いていないかなあ、知ってて今を売るためにそう言わざるを得ないのかなあ。いずれにしても厄介な話。もちろんやっぱり感染の拡大への配慮は必要ということで、それを護った上で観劇も交流もどんどんとやって演劇を盛り上げていって欲しいなあ、イケメンたちも美少女たちも。

 コミックZINでもメロンブックスでも手に入らず、京都アニメーションから通販で取り寄せたKAエスマ文庫最新刊、小川晴央さんの「サクラの降る町」を早速読んで感動に打ち震えた。いつからか桜の花びらに似た物質が空から降り注ぐようになった世界。その町でも10年前からサクラが降るようになった理由と、町で暮らす少女たちの青春の懊悩が交錯する。幼馴染のツバサとヒヨリ、そしてサクラが降らなくなった京都の町から転校してきたルカといった女子高生たちの間で、サクラが降る理由への憶測がめぐらされる。

 ルカが知るサクラの正体と、2色のサクラが持つ意味。少しばかり不安にさせる要素を持って、それらの探求が進められていった先で、性格の異なる3人の少女たちがそれぞれに抱える思いや悩みが描かれていく。とても繊細な心理描写と、ピンクから灰色から黒からと、さまざまな色のサクラが時にふわふわと、時に嵐のように吹き乱れる光景を目に浮かばせる描写は、ぜひに京アニによってアニメ化して欲しい。キャラクターとイラストはフライさんが担当。その絵が京アニによって動くところも見てみたい。そういう可能性はあるのかなあ。「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」でいよいよ復活の歩みが始まるのに先んじで進む小説の刊行。そこから生まれた傑作を大事に育てていって欲しい。10年後の京アニの財産になる作品だから。


【7月11日】 「ゲド戦記」に続いて映画館でジブリ作品を見ようと、これも上映当時はまだあまり映画館通いをしていなかったから おそらくは大きいスクリーンで見たのはこの公開時が唯一だった「もののけ姫」を改めて、イオンシネマ越谷レイクタウンの大きなスクリーンの最前列中央で見上げるようにして見る。やっぱり導入部から結末までがしっかりつながって飽きさせない面白さにあふれている。あれだけ長いのに無駄がないっていうか。

 アシタカが暮らす集落にイノシシのタタリ神が逃げてきて襲って来たのを撃退する。その時に現れた3人娘の何と可愛らしいことよ。でも出演はその冒頭だけと実にもったいない。あと森光子さんが声を当てていた集落の巫女長的な老女もやっぱりこの時だけ。でも重要な役割でアシタカに道を示していた。こういうところでしっかりと地に足を付け根を張って生きている人たちの暮らしぶりを描いているところが宮崎駿監督の凄さなのかもしれない。

 それはたたら場に暮らす人たちにも言えることで、どういう風に暮らしているか、生活感めいたものがあってそれは侍によって攻められたり朝廷からのちょっかいもあったりと、決して孤立せず交易や交流の中に生きているってことが伺える。見てくれだけで無く存在に手を抜かないところがやっぱり凄い。それが特定の武将とか出さなくてもしっかりと時代性なり地域性なり経済性なりってやつを伺わせ、実在性を感じさせてくれるのだから。

 そうした背景をしっかりと固めた上で繰り広げられる自然と開発の対立というか、時の流れの中、人間がだんだんと勢力を拡大していく中でいたしかたがない営みを自然の側に立っていきたいかもしれないと感じさせつつ、それでも人間として生きるには自然を御して行かざるを得ないという現実もしっかりと突きつけ選ばせる。アシタカの目を通して見定めさせようとしているとも言えるけれど、現実にがんじがらめとなって曇った目ではやっぱりどっちとも言いがたい。なので若いサンに味方するか熟したエボシ御前に従うか。つまりは趣味ってことになるのかもしれない。

 そんな女性たちの足がしっかり地についているというか、体格を形成しているのに改めて感動した。たたら場でたたらを踏む女性達の足はがっしりとして力負けはしないように感じさせる。サンも少女だけれども足はがっしりとして山犬たちの背にまたがっても振り落とされるような気配がない。っていうかあのがに股でありながらも可愛らしいと想わせるところが宮崎駿監督のキャラクター造形でありキャラクター描画の妙って奴なのかも知れない。ナウシカのようにズボンをはいてない生足だからこそ余計に感じるその足の魅力。これが千尋になると本当に頼りなくなるんだよなあ。その意味で「もののけ姫」は女性の強さと価値を最大限に見せてくれる宮崎アニメでも至高の作品と言えるかも。

 動きのぬるぬる感というかヤマイヌにまたがってサンが山の斜面とかを走る場面でも動きがしっかり感じられて凄い。大屋根の上に現れ遠目か転がり落ちてそこからエボシ御前へと迫るサンの速度と動きも激しさ、体のバネの強さってやつを感じさせてくれるけれど、受けて立つエボシ御前の動きもやっぱり鋭くて格好いい。あの対決の場面は何度見ても興奮するなあ。って何度も見たわけじゃ無いけれど、それだけ強く印象に残るってことだ。

 ともあれ久々に見てやっぱり面白かった「もののけ姫」。人間の手に渡った自然がその後にどうなったかは歴史が語っていて、それが人間の反映にもつながったんだけれども昨今の、荒ぶる天候の中で自然が人間に牙をむくようになっている根源に、果たしてこうした開発の影響があるのかどうか。御しきれないものを御そうとしていたひずみがやっぱり生まれてきてしまったのか。山河という近視眼的なものではなく、地球という大きな自然に対して人間が挑みすぎたツケがあちらこちらで現れているのではないか。だったらどうするべきか。考えるきっかけをくれそう。そういう意味でも今、公開されることに意味がある映画だった。そしてサンの太ももに首四の字固めをかけられたいと想った。

 アニメーションの歴史を研究して第一人者の津堅信之さんをして「専門家はなぜ『京アニ事件』に沈黙したのか」ってスタンスで新書を書いていたことにちょっと驚き。見ていれば氷川竜介さんも藤津亮太さんも数土直志さんもいろいろな場所で発現をしながら京都アニメーションという会社が持つ意味なんてものを語り、事件の重大さを語ってきた。にも関わらず、そうした声がなかったって津堅さんをしてこれを書いちゃう心象が何なのか気になる。評論家のマスコミに対する不信感やら警戒心といった実態の希薄な根拠を挙げるなら、そうしたマスコミに対する不信感や警戒感を抱く評論家がいるという、自身のマスコミに対する不信感や警戒感の現れめいたものがあったのか。たとえそういったポジションからの方が語りやすかったのだとしても、でも後世に新書が伝わり評論家は沈黙したという言説だけが残るとそれはそれで困ったことになる。ネット上の言説はいつまでも残っているとは限らないから。どうしたものか。

 相変わらずの抜けっぷりというか。荻生田文部科学大臣が「原住民と新しく開拓される皆さんの間で、さまざまな価値観の違いというのは、きっとあったのだと思う。それを差別という言葉でひとくくりにすることが、果たして後世にアイヌ文化を伝承していくためにいいかどうかは、ちょっと考えるところがある」って言ったとか。もしも同じ事を合衆国で高官でもニュースキャスターでも俳優でも誰でもネイティブアメリカンで言ったらとんでもないことになるだろう。価値観の違いからぶつかり合った後、弾圧して隔離して追い込んだそれを差別と言わずしてなにという。中国のウイグル人弾圧を「価値観の違い」から出ているものだと言えるのかどうか。想像力の欠如と自分たちの正当化がこうした空虚な言い訳を呼ぶ。やれやれ。


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