縮刷版2020年5月中旬号


【5月20日】 予約していた日が新型コロナウイルス感染症の拡大を防ぐ外出自粛期間に入って通院ができなくなった歯医者さんが、診療を再開したということで1ヶ月ちょっとぶりくらいに行って上の右側の歯の歯石なんかをガリガリと削り取る。奥の親知らずが根っこだけになって残っている関係か、ケアが行き届かず固めの歯石が残っていたようでそれをガリガリと削り取る作業に歯科衛生士さんが没頭。途中で超音波も持ち出してえぐるように削り針とか使ってこそぎ落とすような作業は歯医者さんというより炭鉱の石炭掘りとも言えそうな雰囲気。それを若い女性の手で行うんだから歯科衛生士さんも大変だ。今は新型コロナウイルス感染症の危険性も高い職場だし。

 実際に来院者にはもれなくアンケートを行って外国に行ってないかとか、濃厚接触者が周りに居ないかを聞かれるし、額に向けて計る体温計でその時の体温もチェックする。手洗いも励行していて入ったら手洗い場で30秒間手をもみもみとして洗うことを求められる。そうやって頑張ったことでたぶん、千葉県の歯科医から感染者は出てないし全国的にもそうした院内感染は起こってないような気がする。感染者そのものも東京都で5人だとか大きく減っているし、このまますんなりと落ち着いていきそうな雰囲気。歯医者も診療が再会されて混んできたのか次ぎは2週間後。3本しかない前歯とその周辺を削るらしいから頑張って磨いて備えよう。

 終わったあとは、こちらも午後6時で閉まっていたのが午後8時まで営業が伸びたタリーズでかりかりと書評の原稿書き。ドアに近いせいもあって吹き込む風が妙に寒くて、5月じゃないような感じを抱く。雨も続くしこのまま梅雨入りなんてことになったら、押され気味の気分も湿ったままで行きそうなだけに少しは晴れ間をのぞかせて、気分を持ち上げて欲しいもの。

 去年の今頃は通い始めた再就職支援会社が仕事先を紹介するのが仕事じゃなくって、面接への臨み方だとか履歴書だとか職務経歴書の書き方を教えるのが仕事ですって言い出して、絶望のどん底に落ちていたっけ。そこから気鬱が益してクリニックを頼んで薬で持ち上げつつ1年をどうにかしのいで今、どうにかしがみついて生きているけどそこを襲った新型コロナウイルス感染症の影響が、今後どう出てくるか。もらえた仕事を粛々とこなしつつ、もらえる10万円と帰ってくるそれくらいのお金を貯め込みつつ、どういんか乗り切っていこう。

 何かのための覚え書き。あるいは交通事故で眠っている夢の中で乙女ゲーム好きの女子高生がカタリナに転生したと思いつつ、見知った破滅フラグをへし折りながら生き残ろうと日々頑張っている物語なのかもと考えたこともあったけれど、そんな女子高生が友とした乙女ゲーム大好き少女のあっちゃんが、中学時代に上っていた木から滑り落ちてきた少女につぶされ、それがきっかけでその少女と仲良くなって小説を読み、乙女ゲームをプレイしあうようになったにも関わらず、交通事故で先立たれて悲嘆に暮れる描写が登場したことで、現実にあっちゃんの友人は死んで世界からいなくなったのだと示されたのか違うのか。

 それが死んだ少女がカタリナとして転生した世界で、カタリナの友人となった少女の夢として描かれたところに、引っかかりを憶えつつNetflixで見た「乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…」アニメーション。学校の試験としてダンジョンへと探索に行く話だけれども間違えれば崩れる床ごと落下してつぶされて死ぬかもしれないハードさに、いったいどんな学校なんだと驚いたり慌てたり。それとも先生がしっかりカバーにはいっていた? いやいや最後の方でカタリナは穴の底へと落ちそうになって本当に死にそうだったから、カバーもなければフォローもなく死ぬ者は死んで構わない過酷なシステムだったりするのかも。

 そんなシリアスな世界だけれどダンジョンに仕掛けられた罠はボタンだったり引っ込む壁だったりといかにもなお約束風。仕掛けっぽさとシリアスさが同居するこのバランスも、アニメで見ると面白いから別に気にしないし気にならないということにしておこう。うん。でもってひとり落下したカタリナだけれど、そこで真っ先にお腹が空いたと歩き回ってキノコをとって大満足。いかにも毒キノコっぽい毒々しい色をしたキノコだけれど、カタリナには食べられると思えたんだろうか。農業には詳しいけれどキノコ栽培に通じているとは見えないし。

 でもってキノコを刈り取る時に拾った石が魔法の石だという偶然。破滅フラグどころか栄達フラグが立っている。2人で穴に落ちそうになった時も風が吹いて助け上げられる。漂う黒い影が気になるところだけれど、それもどうにか乗り超えて無事に卒業する、ってのは小説でも書かれていることだから予定の線上にあるんだけれど、そうした展開をなぞりつつもおバカでポンコツなのになぜか男子からモテるカタリナという女子が持つ、ほおってはおけないけれど気をかけすぎないで済む楽ちんさを味わいながら、これからのストーリーを追っていこう。

 片方は現役ではなく元記者で誘われて参加したような雰囲気だけれど、それでも所属している会社は即座に調査をして実態を掴んで問題があったとお詫びを出している。それなのにもう片方は現役バリバリの担当記者で、自宅を場所として用意して帰りには送りのハイヤーまで用意していたりする。あるしゅの供応とも言える行為でなおかつ行われたのが賭博ととられかねないものだったりする以上、叩かれる度合いははるかに高いはずなんだけれど世間では元記者の所属している会社の方が取りあげられて叩かれているのはバリューって奴なんだろうなあ。なんというか情けないというか。とはいえこの一件は根が深そうで対処を謝れば瓦解も必至。なのに取材のことだから答えられないだなんて、接待の賭博みたいな行為を取材と言ってしまって大丈夫なのか? それだけ問題を捉える認識把握がふわふわになっているってことなんだろうなあ。やれやれ。


【5月19日】 検察庁法の改正案についてはどうやら、今の国会での採決は見送られそうな雰囲気だけれど、廃案にはせず改訂とかも行わないまま成立させたい意向があるらしいことが森まさこ法務大臣の会見で明らかになったという話。何でも朝日新聞によれば「(起訴権限をほぼ独占する検察に)民主的統制をどう及ぼすのかと、独立性をどう確保するのかというバランスの問題を国民に説明したい」と話したそうで、これを受けて朝日新聞は「現行案のまま成立を目指す姿勢を示した」と書いている。

 記事を読んだ人の中には、見出しで「現行案のまま成立目指す姿勢」と言っているけれど、会見では一言もそうは言ってないからと新聞の走りすぎなスタンスを批判する声もあったりするし、そのまま見出しを受けてやる気満々だといって政府を非難する声もある。どう読むべきかってあたりになると訓詁学にも迫るような読み込みが求められるかもしれないけれど、考えるなら民主的統制が及び、独立性が確保されることを説明して納得してもらえたと感じたなら、そのまま通して良いってことになるでしょと言っているようにも取れる。

 総理とかもよくヤバげな言葉や施策について、誤解があったら申し訳ない、真意を十分に説明していくといった言い方で、誤りを認めず引っ込めないで抜けていこうとするし、実際にそれで抜けてしまったことがある。だから分かってもらえるよう説明していくという言い訳は、つまり退けたり改めたりする気はないというのと同意だと取れるんだけれど、今回は森法相の言葉であって立場としてそういわざるを得ない状況で、そのまま通すとはさすがに言いたくないからギリギリの言葉を選んだともとれなくもない。他のメディアがどう書くかにもよるけれど、動静だけはしっかり見ていく必要がありそう。

 3月16日の締め切り日が新型コロナウイルス感染症の影響で外出がままならなくなったこともあり、4月に延びたこともあってなかなか手が付けられなかった確定申告。それでもほおってはおけないと、書類をどういんか作って4月16日の締め切り日当日にコンビニでプリントアウトし、レターパックに詰め込んで郵便局に持ち込み当日消印がつくよう郵便ポストに投函した。

 大学を出てからこのかたずっと会社勤めだった関係もあり、また年収が制限を超えるなんて超優良企業でもなかった関係もあって、これまで確定申告なんてしたことがなかったから、いったいどうやったらいいのかまるで分からない。それでもリストラクチャリングの煽りで会社を辞めてどこかに再就職する手立てもなく、当面はフリーでやっていくしかないことが見えて開業届を出した際、青色申告もオッケーなように申請したからには、控除額が大きい青色申告でやってみようと思い弥生のクラウドを使って数字をあれこれ打ち込むこと約2日。

 原稿を書いた先からは源泉徴収票が届いていたのでそれを収入として束ねて書きつつ、しこしこともらっていた領収書とかを日付事に入れていって費目もしっかり記載し積み上げ、あとは保険だとかの控除を証明書から記載してとりあえず完了。これで果たして大丈夫なのか、まるでさっぱり分からなかったけれど、税務署まで歩いて行って聞くには遠かったし、時期的に大混雑が予想されてそこで新型コロナウイルスをもらってもわりに合わないんで、えいやっと郵便で送ってしまってから1か月が経過した。

 果たして通ったかどうか心配していたけれど、1か月が経って税務署から国庫金送金通知書が郵便書留で到着。還付金の額とかが書かれていたということは、つまり確定申告が無事に通ったということで、初にしてなおかつ青色申告でどうにかなったことをここは喜ぶべきなのか、それとも戻ってきた金額の方をうれしがるべきなのか。どうせ地方税で持っていかれるだろうから、パッと使ってしまう訳にはいかないけれど、特別定額給付金の10万円もこれから書類が来るだろうし、目減りの著しい財布を埋めるくらいにはなりそうで有難い。これで良いなら来年も同様にこなせば、さらにうまく還付金とか得られるかも。今は大混雑らしいけど、電子申請できるようにマイナンバーカードを作っておいた方が良いかなあ。

 何かのための覚書。「鳳暁生編」から「黙示録編」へと至る展開もやっぱりパターンを踏襲しつつ最初の「生徒会編」で敗れ去っていった面々が、再び「世界の果て」からの手紙を受けて天上ウテナに挑んでいくという展開が積み重ねられていく。理事長代行の鳳暁生が出張ってきてはスポーツカーに桐生冬芽会長ほか生徒会メンバーを次々に誘いつつ世界の果てを見せてやろうと夜のハイウェイをぶっ飛ばす。

 そして途中でオープントップの運転席からひらりと倒立してはフロントウィンドウを乗り越えボンネットの上に座ってそのまま直進。そしてウテナに挑み階段で登るのではなくゴンドラに乗って上までたどり着いては、スポーツカーが直立しつつ周囲をパートナーが乗ったスポーツカーが走り回る中で決闘をして、やはり次々と敗れ去っていく。パターンを踏襲しながらズラしていくのは「黒薔薇編」と同様。展開はヒロインというかヒーローを立てる作品だから当然として、そうした挑戦の果てにウテナがたどり着いた場所、そして見た世界の果てとは何だったのか。

 考えるならそれは「新世紀エヴァンゲリオン」の最後とも通じるものになるんだろうなあ。つまりは「大人になれよ」ってこと。そこにとどまっていれば心地いいし楽しいけれども、いずれ出ていかなくてはいけない場所から、果てを乗り越え踏み込んだ先に待つ本気で生きていかなくちゃいけない世界。塔の最上部にあってプラネタリウムが設置された部屋が、さらに上にある幻の城なんてものよりも、どれだけ貴重ですごいものかは夢の世界に生きているものには分からない。現実の世界で働いて稼いで生きている人だからこそ、滅多にたどり着けない地平だと分かる。

 そのことを突き付けられて嫌だなあ夢の世界におぼれていたいなあと思ったところで、時がたてば誰もがそうした世界に放り出されるのが現実だけれど、それを当時アニメとして見ていた人たちは感じ取っていたのか、まだ未来が明るさにあふれていた時代だったらそうしたメッセージも当たり前のことととして受け止められ、だからこそ今を精一杯に楽しもうってスパッと割り切れたかもしれない。でもこうして未来すらうすぼんやりと不安に満ちて、出て行っても負ける勝負しかできなさそうだと勝てる場所にずっととどまっていたくなる。学園とか。

 その意味で理事長代行として何度も同じことを繰り返している暁生などやっぱりただの子供で、世界の果てから向こうにはいけない臆病者、そして乗り越えて歩き出したウテナこそが先達ということになるのかもしれない。当時の1997年12月24日の日記にもこう書いている。「でもっていきなり主題歌もなしに突入した物語、後ろからアンシーに剣で貫かれたウテナを後目に、暁生が薔薇の門をこじ開けようと懸命になってけれども果たせず、そこにお約束なウテナが立ち上がってえーと大団円だったっけ? いや違う決して心躍る展開でも心休まる集結でもないのだが、それが不思議に思えないくらいに『少女革命ウテナ』という作品はとことん人の欺瞞に満ちた優しさの仮面をはぎ取って、真実の姿を見せようと務めて来た」

 「それこそ『本当の友だちがいるなんて思っている奴はバカですよ』ってな生徒会長のセリフもそのままに、徹頭徹尾首尾一貫して主張を貫き通した、その成果がこの残酷なウテナのラストなのだとしたら、人の住む世はあまりにも厳しすぎるし寒すぎる。だが本当のラストシーンを見さえすれば、外には無限の空間が広がっていることに気づき、『卵の殻』を破って飛び出したウテナ、未だ殻に篭ったままで世界の果てを夢みるディオスの図式を見出して、希望を持つことが出来るだろう」。夢見つつそれでも現実を生きていける道はないものか。そんなことを22年半を経て改めて思わされる、大人のアニメであったなあ。


【5月18日】 アニメのスピンオフというか、前日譚にあたる伊瀬ネキセさんの「BNA ZERO ビー・エヌ・エー・ゼロ まっさらになれない獣たち」(ダッシュエックス文庫)が面白い。今はアニマシティ市長のバルバレイ・ロゼが昔、ナタリアという名の少女だった時代、ある場所で大神士郎に救われ、欧州からアメリカへと旅しつつ得た経験が綴られる。そこには獣人を虐げる人間たちがいて、一方で人間を理解しようとしない獣人たちもいて、獣人を友人と認める人間がいて、獣人が邪魔だと排除しようとする人間たちがいる。そして人間をひたすら悪だと牙を剥く大神がいて、人間を信じたいナタリアがいる。

 一方を善とはせず、いっぽうを悪とも決めつけず、双方に問題を抱えお互いに憎しみをぶつけ、無理解をおしつけあっていた状況の中で、獣人と人間たちは長く時を過ごしてきた。それが一朝一夕に変わるはずがないんだと思わされる。だからこそアニメ版「BNA ビー・エヌ・エー」でナタリアが正答して大学も出て博士号をとってロゼ市長としてアニマシティを作り、そこでやろうとしていることの大切さが感じられる。大神が憎み続ける理由も同時に。

 アニメ版はこれからロゼことナタリアと大神が出会ったきっかけから、銀狼としての大神の身にに過去に起こったことが語られ、獣人の歴史、そして今の状況が明かされる。一方的ではなく人間も獣人も共に相手を尊重しようとはしない悲惨さをつきつけられる。それはナタリアと大神の旅でも散々につきつけられたこと。だからそのままで良いのかを、人でもあり獣人でもあるタヌキ少女の影森 みちるが加わった物語が教えてくれる。

 そこへと至るプロセスをしっかりと語り積み上げてくれる伊勢ネキセさん「BNA ZERO ビー・エヌ・エー・ゼロ まっさらになれない獣たち」は、だからアニメ版と共に読まれるべき1冊だろう。伊勢さんは前に「HELLO WORLD」のスピンオフにあたる「HELLO WORLD if ――勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする――」(ダッシュエックス文庫)も書いていて、これも本編を補完してくれる物語になっていた。こちらも本編以上に本編のテーマを深くえぐる差別と対話と融合と理解の物語になっている。テレビでの次の放送が待ち遠しい人、ネトフリで全話を観終わった人の飢えに応えてくれる小説だ。

 日付が5月18日に代わるのと同時くらいにアプリの「少年ジャンプ+」から「週刊少年ジャンプ」の2020年24号を落として「鬼滅の刃」の最終回とやらを読んでああ良かったと心を穏やかにする。というか別にどんな終わり方が来ようとも、それが続編を示唆するものであったとしてもそれはそれでジャンプの連載マンガの常だし、終わるなら終わるでいたずらに話を長引かせては終わる機会を逸してお話も作者もすり減っていくような事態に陥らせずに良かったと思っただろう。

 そんな最終回は、噂されていたとおりにしっかりと終わって、竈門炭治カと禰豆子と仲間達の戦いは大団円を迎えた。世界も平和になったようで善哉。ひとつの物語世界がちゃんと膜を閉じ、次の新しい世界へと足を踏み入れる時が来たっていう気になってもらえたんじゃなかろうか。すでに現代へと話が映ることは前週の第23号の最後のコマで示されていたから驚くことはなく、そこでいったい誰がどういう係累を残しているかが気になったけれどもなるほど炭治カはしっかり伴侶を得たようだった。

 そしてあろうことか我妻善逸にもしっかり伴侶ができた模様。そして生まれ育った子孫たちが何というかそれぞれに似ているというか。家の入れ違いはあっても子どもたち4人が並ぶとそのまま大正時代の主要キャラ4人が並んで立っているようにも見える。ひとり猪頭が見えないのが残念だけれどそこはそれ、脱いだ美顔がうっすらと。そうやってキャラを現代に持ってきた感じに見せることで、最終話の原稿を提供する試みもちゃんと嬉しがれるようになっている。そこまで意識したかは知らないけれど。

 平穏な日常を行く鬼殺隊の面々の子孫たちには他に活躍している人もいて、中にはひとり大正時代から生き延びて最高齢に達してしまった人もいたりして、あの世界が決して善逸が書いた小説の中の出来事なんかではないことを裏付けてくれる。それは竈門の家に受け継がれた刀であり耳飾りであり写真も物語っていたから、夢とか幻に逃げずちゃんと今に続いてなおかつ平和になったという展開を見せ、これでおしまいだという気分を改めて植え付けてくれる。寂しいけれどもうれしさが増す終わり方、のような気がする。

 ところどころに大正時代に見たようなキャラが混じっているのも愉快というか、大きな保育士さんとか蛇の置物が置かれた定食屋の胸の大きな女将さんに目つきの鋭いご亭主とか、楽しげに歓談しながら歩く女子学生2人連れとか景品を見せ合いながら歩く男の子2人に女の子1人の子どもたちとか、あの時代ではなく今の時代に生まれていたらそうなったかもしれない姿を感じさせてくれた。そりゃあ生きて残した子孫たちだった嬉しさもますけど、そうはならなかった人にも道を与えてくれた優しさに感謝したい。

 でも鬼たちにはどうも居場所はなかったみたい。悪事を行い大勢の人をあやめた鬼たちがなおもその残滓を残しては懲悪の物語が成り立たないということか。死ねば平等とはいえやっぱり罪は罪。購って後にこそ浮かばれるものなのだろう。それは珠世さんでも同様だったけれど、無惨の係累ではない愈史郎によってその思い出は今に繋がっていたようで、これも悔いて改めたことへおご褒美なのかもしれない。

 などと思った最終回。さて今後はどうなるか。小説が書かれる可能性はあるだろうし、「NARUTO―ナルト―」の続きとして描き手が代わって話を続ける「BORUTO―ボルト―」のような繋げ方もあるかもしれない。ただこうしてすっぱりと終えてしまったところを見ると、世代を変えて続く鬼との戦いのような、収拾がつかなくなりそうな展開はどうも避けそうな気もしないでもない。隙間を埋める外伝的な小説、あるいは大正の後日談のような物語があり得るところかな。そう簡単にはいかないのがヒットしたIPを扱うビジネスだけに、何が来たって驚かない覚悟はしておこう。それがハリウッドで映画化であってもだ。

 月曜日にも強行採決と噂された国家公務員法の改正を理由にした検察庁法の改正案が今国会での成立すら見送られる公算だと読売新聞が報じてきた。観測気球を上げる場にされてはガセだデマだと言われるお隣とは違ってこちらはしっかり何筋もの裏も取っての報道だろうから、そのとおりになって一気に政局になだれ込むことはなさそう。そうこうするうちに新型コロナウイルス感染症の騒動も落ち着き景気回復へのポーズが整えば、すっかり忘れれて汚点失点にはならず支持率も快復して、来年の総裁任期満了まで勤め上げることになりそう。そうは問屋が降ろすまいと動く政党がでるか、それより先に市民の拳が振り上がるか。いずれにしても新型コロナウイルス感染症の状況次第かなあ。


【5月17日】 ツイッターのハッシュタグでトレンドに上がって来ていても、それがどういう経緯かを確かめる暇もなくさまざまな意見が積み重なったり、別の話題を被せたりして原典にあたれず批判なのか紹介なのか批判への批判なのかさっぱり分からないことが多くなっている。利用者の増加に情報の精査が追いついていない感じだけれど、そういうことが果たして叶なのか。グーグルならやりそうだけれどツイッターがそういう手間をかけるとは思えないから、このままノイズばかりのSNSとなって利用頻度が下がっていくんだろう。そんな印象。

 今回の話題でいうなら「鬼滅の刃」の作者で漫画家の吾峠呼世晴に関して女性だということが広まっているみたいだけれど、それってもう以前から知られている話で今さらだし、女性だからどうなのって話で話題になる筋合いでもない。だからなおのことどういう文脈でトレンドに上がったのが気に掛かる。漫画家でいうなら「鋼の錬金術師」の荒川弘さんが女性で結構驚かれた過去があるし、「荒川アンダー ザ ブリッジ」の中村光さんも「聖なおにいさん」とかキッチュな作品を描いているけどやっぱり女性でおまけに美人。「BEASTARS」の板垣巴留さんも「ブルーピリオド」の山口つばささんも女性だったし少年漫画で女性の作者なんて珍しくもない。

 そういう時代に意外だとかいった反応ですらやっぱり不思議な気がするけれど、ひとつ引っかかるとそれにのっかっていろいろ言いたくなる人が積み重なって、中心の見えない話題になるのもまた時代なんだろう。逆に少女漫画でバリバリ書いてた弓月光さんや望月あきらさんが男性だということの方が驚きだった記憶。誰が何というよりも描かれたものがどうなのかってところで見るのが昔も今も変わらない作品との向き合い方だと改めて心に刻みたい。んでもって「鬼滅の刃」はいったいどうなってしまうのか。現代まで生きていそうなのは竈門炭治郎くらいだしなあ、その中に眠った無残の血が騒ぎ出して現代編? それもありがちだし。さてもどうなる。

 安里アサトさんのシリーズ最新作「86−エイティシックス−Ep.8 −ガンスモーク・オン・ザ・ウォーター−」を読む。海からいろいろ出て来て大変そう。レギオン相手の戦いはなかなか相手の殲滅には至らず、その命令系統を動かしてストップさせるしか道はなさそうだけれど、そのために必要な皇族の血筋と、そして指令を出す秘密司令所が揃ええる必要があって、血筋はフレデリカが担えても司令所については探す必要がある。そのためにはレギオンに取り込まれた人間の脳から、情報を知ってそうな立場だった者を探して引っ張り出すしかない。

 でもって敵も侵攻の手は緩めず新たにレールガン発射のための列車砲とも言える「電磁加速砲型」レギオンがまたしても現れ400キロ先を狙える威力で船団国郡を射程に収めようとしている。護らねばってことで出張るシン・ノウゼンたち86の死神部隊。もちろんついていくレーナだけれど、彼女に着せられたピチピチな衣装〈ツィカーダ〉に対してシンが静かに憤り、開発したヴィーカの周囲からは「あのエロスーツ」「全然笑えないセクハラスーツ」「何の罪滅ぼしにもならないド変態スーツ」といった言葉が吐かれる。ヴィーカは無事に帰れるか? そして海から現れるレギオンと原生海獣(クジラ)を相手にした人類の立場は? 気になる余韻を残しつつ戦いは続く。このあたりがアニメになるのはずっと先だろうけど、見たいなあ〈ツィカーダ〉姿のレーナが動くところ。

 姉もの年上彼女もの女性教師ものが大人気で果ては娘じゃなくて母親の方を対象にしたラブコメが流行っている状況だからだろうか、第8回集英社ライトノベル新人賞で銀賞の景詠一さん「吸血鬼は僕のために姉になる」(ダッシュエックス文庫)は両親を事故出なくして祖父の家に預けられていた少年が、祖父の死亡とともにとある家に行くことになってそこで出会ったのが歳のさほど変わらないように見える霧雨レナという少女。実は彼女はハーフの吸血鬼で80年くらいは生きていて、近隣に現れる幻想種とよばれるある種の妖怪めいた存在を調停する役割を担っていた。

 そんな家にお世話になってレナからはお姉さんと呼んで欲しいと懐かれたりしてなかなか羨ましいというか。一方でそうした幻想種に気付かれる(気付くんじゃなく向こうが気付くみたい)ことによって幻想種が見えるようになった少年は、学校のクラスメートだった桐生心音という少女の“正体”にも気付いてしまってちょっとした騒動を引き起こす。そこで出番のお姉ちゃん。2人の間を取り持ったけれどそれで良いの? ってところはだからやっぱり姉気質ってことなんだろう、もともとが少年の曾祖父によって助けられたようなものだから。さらに虚構種なる存在も現れ少年に寂しさを引き起こす。それも必然の離別から生まれた新しい出会いを喜びつつ、続く幻想種との出会いとお姉ちゃんとの不思議な関係を追っていきたい、続くなら。

 千葉県では新型コロナウイルス感染症の感染者がゼロになったそうで、東京都の減り具合も含めてとりあえず終息に向かっている感じはしている。もちろん油断をすれば一気に広がり元の木阿弥になりかねないので、注意はやっぱり必要か。吉祥寺に人が溢れているとうことで、相変わらず圧縮効果ばりばりの写真が掲載されていたけれど、普通に撮った写真も結構な人出だったから、やっぱり街に出始めているんだろう。映画館が再開されてデパートも開店していけば、元の生活が戻って来るかというとライブの会場は人が制限されるし舞台はマスク着用原則だし、変わった状態が始まりそう。そんな世界を生きていけるかどうなのか。頑張らないとなあ。


【5月16日】 廃棄戦争が起こる前の日本に飛ばされた陽菜やナナ、ジェイル、リィン、ペレがまだ若い離人ことリヒトーに出会って撃墜王になるのを阻止しようとするとかしないとかが描かれた「プランダラ」の過去編がアニメ版でも終わったみたい。殺さない軍隊を作るといって自分が殺してしまった離人が、だったら他の人の代わりに自分が全員殺すと言ってそれ殺さないって意味じゃないじゃんと突っ込む間もなくバロットに誓約を刻んでしまってさて世界はどうなった、ってところで未来へ。陽菜が胸に離人の手を当てさせていろいろ記憶にすり込んだ分、きっと違うリヒトーになっているのかそれすらも過去に繰り返されたことなのか。このご時世にちゃんと新エピソードが追加されるアニメだけに最終回まで続くと信じて見続けよう。

 元よりテレビがつかない状態なので見られなかったEテレでの映画「若おかみは小学生!」の放送だけれど、仮にテレビが見られたとして果たして見たかというとそこは迷うところかなあ、上映されていた時期は終末への予感に今にして思えば調子を崩していたとはいえ、足回りは安定していて生きていくことに不安はあまりなく、何度も映画館に通って観ることができたけれど、そうした状況から一変した今の立場だと、当時の安定感が思い出されて今の不安定な状況に身震いが起こってしまいかねない。「けものフレンズ」も同様な感じで今はまだ平静には観られない感じ。とはいえ一生このままって訳にもいかないし、今できることを頑張ってやっていって少しずつ居場所を固めていこう。

 ってことで何かのための覚え書き。とある小説にVRゲームが登場するんだけれどそれは現実世界の合わせ鏡みたいな世界で、とてつもないチート能力が与えられる訳でもなく、世界を侵略する魔王がいる訳でもない。始めたらそこで何かをやって稼いでお金を貯めて、許されているリアルマネーへのトレードを行いゲームの代金を支払いつつダイブの料金も納めながらだんだんとレベルを引き上げスキルを獲得していく必要がある。遊び始めれば誰でも別世界に行けてすぐさまヒーローになれる訳じゃないゲームが果たして楽しいのか。そういう苦労をしたくないからゲームに耽溺するんじゃないのか。そんな疑問が浮かぶ。

 でもそれは、現実世界で何かを新しく始めるよりはずっと楽しいことなのかもしれない。そに入れば状態はまっさら。何だって始められるし何にんだってなろうとすることができる。現実のしがらみだとか経験だとかは無関係。新しい自分を始めるきっかけになれる世界で成長していく人たちを見ていることで、自分も何かを始めてみようという気になる。もちろん、その世界がすでにAIによって管理されていて、働く必要がなくなっていることもやってみたい自分になれる場所がもはやゲーム内にしかないからこそ成立する設定なのかもしれないけれど、挑戦という気持ちだけは感じ取れる。そんなことを教えてくれる小説なのかもしれない。

 主人公は始めて間もない新米だけれど、それが持ち前のコミュニケーション力のようなもので、いろいろな人と知り合いになっていく過程が面白い。そうやって知り合いになるゲーム世界の有名人たちが、それぞれに特徴がある上に現実世界での事情をいろいろ引きずっていて、ゲーム内で自分を変えようとしてあがいている姿も見ていて新しいことに挑戦しようという気にさせる。ひたすら正義を貫くことで得られる信頼がある。誰かとの交流を避けていたけど慕われることに喜びを覚えていく。才能を嫉まれ逃避した先で須直な称賛を聞いて気を取り直す。鬱憤を決死の覚悟で稼いだ金で晴らしていた自分を見直し虚勢を捨てて誰かのためになろうとする、等々。そうしたキャラたちの快復も読んで勇気づけられる部分なのかもしれない。

 新米でたいした力も持たない主人公だけれど、放っておけない魅力を持っていて先輩たちから慕われあるいは挑まれ絡まれつつ育てられ、世界を救うヒーローになっていくところは「BLEACH」の黒崎一護に似ている感じ。圧倒的な強さを持って敵に挑んでいくベテラン勢の能力だとか戦いぶりでも「BLEACH」の護廷十三隊の隊長副隊長格を思い起こさせられた。ラストに出てくる10回生き返るとてつもなく強い相手との戦いとか、千年血戦編で挑んできたユーバッハが率いる滅却師のトップクラスとの戦いみたい。あいつらやられてもやられてないかったから。そんなラスボスに1人また1人と見方が加わり戦って倒し続ける展開に、次は誰が加わりどう倒すのかっていう興味を誘われる。そこへと至るドラマも長大なだけにたどり着けるかが鍵だけど、クライマックスこそが読み所だけど過程を端折るわけにはいかないからなあ。3期くらいかければ出来るかなあ、って何のこっちゃ。

 東京都でも福岡県でも全国的にも新型コロナウイルス感染症による感染者の発生は抑えられている感じ。検査をしていないからだって言う人もいるけれど、死亡者数だって急増はしておらず日本はその意味では現時点で押さえ込みに成功したって言えるかも。いやいや隠されている死者がいるはずだなんて声も、そうした人すら浮き彫りにする超過死亡者数も見られていない。インフルエンザによる死亡者数は逆に減ったらしいから、新型コロナウイルス感染症への警戒感がそうした季節性インフルエンザへの予防にもつながったって言えるかも。どうして感染が広がらなかったのか、死亡者数が少ないのかは別に理由があるかもしれず、免疫だとか予防接種だとかを調べる必要もあるけれど、これをなにか人種なりの特殊性におかず習慣なり風習の独自性と見て、世界に伝える努力をしていく方が喜ばれるんじゃないかなあ。


【5月15日】 以前だったら意見陳述だけは行って早々に採決で決着だったものが、今回は法曹界が挙げていろいろヤバいと言っていることもあって強行採決できなかった検察法の改正案も含んだ国家公務員法の改正だか何か。それだけやっぱりヤバいって空気があって、ここで押し切ったら内閣だってぶっ倒れるかもしれないという感覚が働いたのかもしれない。そういうところの勘はいいから。でもって国益を守るような必要性が出て来て尊ばれ持ち上げられる中で延命してきたこれまでに倣えば土日に何か起こるかな。そうは都合よくはいかないか、病気は忖度してくれないから。有名企業だって潰れるから。

 ってことでイェイイェイ娘のレナウンが民事再生負を申請とか。カードの会員向けだかにレナウンが取り扱ってる品々を安く売るセールが年に4回くらい幕張メッセで開かれていて、仕事をしていたころは毎回行ってセーターだとか靴下だとかを買っていたし、そろそろ必要かもとフォーマルもダーバンのを買って揃えたっけ。あと今もって滞っているというか、そもそもやる気がないんじゃないかと自分でも思えて来た再就職に向けて、越谷レイクタウンのアウトレットにあるダーバンの店でスーツを安く買ったりもした。

 そういう意味では割と身近なレナウンが、民事再生手続きを申請して事実上の倒産という状況は、もとより業績が芳しくなかったとはいえ、新型コロナウイルス感染症に伴う消費の低迷に追い打ちをかけられたって格好か。いやその前の消費税引き上げでもダメージは受けていただろうけれど。ファストファッションが普及してブランドものへの関心が後退し百貨店が販売の窓口として機能しなくなり路面店も集客できない中でアパレル会社がどこに向かえばいいかはずっと議論されてきたこと。これでテレワークなんてものが定着したらますますスーツの需要は薄れるだろう。

 女性のファッションがこういう時代にどこへ向かうかは見当がつかないけれど、そこにレナウンのようなアパレル会社が活躍できる余地があるのかどうか。そこが鍵になりそう。これで景気が良ければブランドものだって売れただろうけど円安誘導で輸入品は高くなりデフレ下で賃金はあがらず昔ほど誰もが来やすく変える時代でもなくなった。というかブランドファッションという概念が果たして今も存在するのか、DCブランドの洗礼を受けた僕らの世代ではまだブランドに対する信仰があり知識もあるけど、今の若い人たちってファッションブランドにどれだけの興味もなさそうだからなあ。セレクトショップだって危ういかも。いろいろ変わるこれからの時代。どうなる?

 国公立の劇場とか音楽堂なんかを束ねる全国公立文化施設協会が、文化施設での公演は「演者原則マスク」にするって通達を出したとか。どういう意味かちょっと分からないんだけれど、ホワイエなんかで来場者と歓談する時にはマスクかと思ったら「出演者がハイタッチなどで観客と接触しないように主催者側に求める」とあるから、そうした接触はもとより禁止。ってことは舞台の上に立って演じるにあたってもマスクをしろっていう意味なんだろうか。そうなんだろうなあ。「表現上困難な場合を除き原則としてマスク着用を求めるとともに、出演者間で十分な間隔をとるようにしてください」と要請しているそうだから。

 でも劇場や音楽堂では演劇だってコンサートだって行われるわけで、これで歌舞伎でも狂言でもマスクなんてしたら表情は見えず声だって通らずどうにも閉まらないものになってしまう。能だったら面をつけているからマスクの代わりになるかというと面は面だらマスクをしろってことになったりして、般若でも翁でも小面でもマスクをかけて出てきて舞ったらそれは果たして能なのか。ちょっとだけ興味がわいてきた。文楽だって人形にマスクはいらないけれど、語り手はいるからそれをマスクで語ってはやっぱり切れ味が鈍る。

 落語は無理だし講談もだめだしシェイクスピアだって新劇だってマスク姿じゃ閉まらない。それでも原則マスクをしろというんだろうか。音楽だったらヴァイオリニストや打楽器奏者はマスクをして演奏できないこともないけど、繊細な音楽を奏でるうえでやっぱりマスクは邪魔だろう。吹奏楽ならなおのことマスク越しにマウスピースを吹いて果たして音が出せるのか。それも興味はあるけれど無理だろうとしか思えない。

 喋るだけの講演だとかは可能であっても芸術には向かない原則マスクを言い出すあたりに、国が文化をどう思っているかも伺えそう。いやいや、こういう時期だからこそマスクがあっても可能な芸術ってやつを作り送り出す気概があってもいいのかもしれない。社行くスピアだったらやったかも。今なら機材は発達しているから、セリフはすべてプレスコで録音をしたものを流しつつ、演者は全員がお面をかぶって走り戦い呼びかける……ってそういう公演、あるぞあるある。「プリキュアショー」だ。国立の舞台で求められるのは着ぐるみによる「プリキュアショー」なのだ。それは見てみたい。きっと子供も大喜びだ。仮面ライダーショーでも良いけど、ライダーマンだけは出られない……。やっぱり仲間はずれかよ。

 今日も今日とて歴史に向き合う時々刻々。といっても割と最近の歴史だけれどその絵コンテのあまりのエッチ感に本編が見たくなったというかコンテ描いてた人も楽しかったんじゃないかというか。ところどころ原作マンガからの構図が引っ張ってあって、その完成度とにじみ出るエッチさをアニメに落とし込む大変さと大切さを感じたのだった。テレビではパンツをギリギリ見せてビデオでは全部見せてといった指示を読むとビデオ買わなきゃいけないかなあという気にさせられる。いやアニメデータベース充実の為に。日本のマンガとアニメのパンチラ文化が表層ではオミットされていても底流にはしっかり受け継がれているということを記録するために。そういう費用を文化庁は出してくれないのか。のか。


【5月14日】 第26回電撃小説大賞の銀賞を獲得した 小林 湖底「少女願うに、この世界は壊すべき 〜桃源郷崩落〜」(電撃文庫)をやっと読む。いわゆる伝説だとか伝承だとか神話といったものの要素が濃くなって人間を変え世界を変えてしまった結果、化物が人間を虐げるようになって随分と年月が経過。島が空を飛ぶくらいにもなった場所で狐の耳を持って生まれてしまったが溜めに虐げられている少女がいた。その少女が島の守り神に祈ったところ、予定されてた1000年が経過して復活した。全裸で。

 最強の兵士でもあった神津彩紀は圧倒的な力を少女に貸して天狗を倒し、弁財天とか寿老人あたりとも対峙する展開。その途中で少女の妹が大変な目にもあうけれど、どうにか島は平和になってそしてこれからどうなるか。七福神が実体化したような化物たちが次から次へと現れてくる中、神津彩紀が少女と組んでどこまで戦い抜けるかって展開が見どころだけれど、一方で科学は衰退して伝説伝承神話の類が前面に浮かんでくる。そうした古代の思想や技術で人類は戦い抜けるのか。先が見たい。

 シャーマンキングにちょっとだけ詳しくなったかもしれない半日。ジャンプの連載も読んでなかったしアニメも見ていなかったけれど、絵からキャラクターが誰かを調べて何に使われた絵かも確認しながら記載しては袋につめて重ねていく。「S.F.O.V」なんてものもあったのか。6種類もあってそれぞれにジャケットが違うんだなあって当たり前か。JUMP jBOOKSのイラストって高見さんでよかったのかな。表紙はわかってもイラストは調べようがないからなあ。そんな感じでいろいろ調べて退散。今週はそんな感じで終わりそう。

 そうそう、「鬼滅の刃」の最新第20巻はキンドルで買ったから、5月13日になって日付が変わってしばらくしてアマゾンから落ちて来たんで早速読んだ。上弦の壱との戦い。6つある目ってどういう役に経っていたんだろうか。そこが知りたい。柱も霞が落ちてそこから最終的に残っていたのが風と水くらいだったっけ。無惨戦を残り2巻でやって<完>のお知らせも出回っていたりするから、来週あたりの連載がやっぱり鍵になるんだろう。

 そんな「鬼滅の刃」を読んで八丁堀から担当さんが移った新宿三丁目の薄毛専門の美容院に行って帰る途中、ずっと閉まっていたJR西船橋駅構内の本屋「BOOK EXPRESS」が開いてて@鬼滅の刃」の単行本が平積みになっていた。マッサージとか眼鏡屋さんとかは閉まっているけど本屋だけ開けたのは、この最大の商戦期に占めて商機を逸するのはまずいと考えたからなんだろうか。そういえばJR船橋駅の地下にあるくまざわ書店もずっと閉まっていたのがこの日は開いていた。これからも開けるのかどうなのか。そこもカウンターでまだ単行本を売っていた。

 ちなみにずっと開いてたときわ書房船橋本店は通常版も含めて売り切れに。開いていると分かっているからいっぱい立ち寄ったんだろう。そして開いてないかもと思われた書店は見落とされて残ったと。でもすぐに売り切れだろうなあ。既刊も含めて売れる漫画ってなかなかないだけにこれは版元も書店も嬉しいだろう。20巻きってあたりがまだそろえる気概を覚えさせるのかも。「ONE PIECE」を今からって言われるとさすがに困るから。僕は雑誌サイズの総集編でそろえたけれど。最近そういやあんまり出てないな。

 緊急事態宣言が39都道府県で解除されたみたいだけれども住んでる千葉をはじめ東京に神奈川に埼玉といった首都圏は未だに解除されていないから、しばらくは店も開かず映画館も再開はされないんだろう。されたとしても自粛前のように席を少しずつ開けて座れってことになるだろうし、演劇とかライブとかは現実問題なかなか再開へとは向かいそうもなさそう。だったらいついになったら依然のような密集での歓声が戻ってくるかというと、この夏を過ぎて秋が来て冬にかけて新型コロナウイルス感染症の再流行があるかどうかが見定められてからになりそう。

 根絶が難しいならやっぱり現場で感染とかが起こるのは避けられず、それが発生した段階で世間からの非難とメディアからのスクラム的な圧迫が起こるだろうから、とてもじゃないけ再開なんでできやしない。発生しても重症化せずに回復する特効薬が作られるか、ワクチンが開発されるまではそうした状況が続くことになるんだろう。大変な世界。MANGA都市TOKYOはやっぱり延期かなあ。

 ゴダイゴのギタリストの浅野孝已さん死去。「ガンダーラ」とか「モンキーマジック」あたりでドカンとテレビからお茶の間に出て前後してその圧倒的な技術力が評判となりつつ一方で「銀河鉄道999」をはじめさまざまなポップミュージックも世に送り出したバンドだった。ボーカルのタケカワユキヒデさんにキーボードのミッキー吉野さんがキャラとして立ってスティーブ・フォックスにトミー・スナイダーの外国人2人がいる中で、地味に見えてもギタリストという華やかなパートを受け持っていた不思議な立ち位置。その存在がやっぱりゴダイゴを支えたって言えるだろう。なぜかミッキー吉野さんとその奥さんの展覧会を取材して、流れで池袋で開かれたライブを2008年ごろに観に行ったっけ。ヒットチューンはやらないライブだったけど最後に何曲か披露してくれたかな。ちょっと記憶が曖昧だけれど、1度は見ていて良かったなあ。合唱。


【5月13日】 茅原実里さんに関する週刊誌の話題があってちょっぴりネガティブ方面に傾きかけた声優界隈の雰囲気を、もしかしたら業界が一丸となって立て直そうとでもしたのだろうか、山本亜衣さんという人が結婚と妊娠を発表してそしてこちらは大人気のみかこしこと小松未可子さんが、「空挺ドラゴンズ」でミカなんかを演じていた前野智昭さんとの結婚を発表して大騒ぎに。元がアイドルだけあって顔立ちも美しいみかこしだけに、いつ結婚しても不思議はないとは思っていたけど知らず31才になっていて、ようやくのゴールインはやっぱり人気商売ならではの苦労もあったのかもしれない。

 前野さんの方もイケボイスな上にイケメンなだけに女性ファンとかへの影響もあったんだろうけれど、そうした事情を乗りこえての発表はだからやっぱりみのりん救済? それはやっぱりないだろうなあ。ともあれおめでとうございます。みかこしは何度か取材でお顔を見たこともあってやっぱり本当に綺麗な人だった。ちゃきちゃきとしていて楽しそうでなおかつ役もボーイッシュなものから切れ味の鋭いものからふんわかしたものまでいろいろ出来てしまう芸達者。花澤香菜さんと並んで人気のトップを走っているだけに、今後の活動がどうなっていくかにも興味が向かう。休業にはなって欲しくないけれど、このご時世だと声優さんも仕事がなかなか大変そう。なので少し休んで状況が落ち着いてから本格復帰って手もあるのかも。ともあれおめでとうございます。

 それにしてもアフレコとかどうなってしまうのか。緊急事態宣言は多くの県で解除されそうだけれど東京都はまだしばらく続くため、アフレコのスタジオなんかも業務が再開できるまでにはしばらくかかりそうだし、再開されてもこれまでどおりに10数人が同じスタジオに入って順繰りに声を当てていくような集合形式の録音は難しくなる。となると数人ずつが集まって1人が1本のマイクを使うようにして録音していく形にせざるを得なくなり、コストがかかるからとアニメ制作の本数が減るなり出演できる声優さんの数が絞られる、なんてことにもなるかもしれない。一気に増えた声優さんの仕事は果たしてあるのか、ってところで大変な苦労を味わいそう。

 あるいは簡単な録音ならサテライトでも可能な仕組みができるのだろうか、それこそ事務所の一角で声を入れて送ると音響の方でダビングして加工して重ねるとか。いやそれだとやっぱり芝居から大きくかけ離れてしまうから、役にのめり込むことが重要と考える声優の人からは反発も出るだろう。ってことはやっぱりスタジオでの録音に手間暇をかけることになるのか、時間を延ばして入れ替わり録っていく形をとるのか。いずれにしてもコロナ後の声優業界、そしてアニメ業界には相当な変革が訪れそう。それが経営に影響してお仕事が途絶えなければ良いけれど……。声優さんに負けず劣らずライター業も逼迫思想だなあ。早く10万円もらえないかなあ。

 ファンタジーを書いている村山早紀さんから「心にいつも猫をかかえて」を拝領。長崎で暮らす村山さんが飼ってきた猫との話を綴ったエッセイと、猫に関する短編が収録されていて読むと猫を飼っている人も、猫に興味がある人も改めて猫に対してキュンとする気持ちを持てそうになる。猫を飼っていてただ可愛いってだけじゃなく、猫との離別の悲しさもちゃんと綴られているけれど、そうした悲しみを同じように抱えた人たちがネットの上にいて、それらを見て祈ったり声をかけたりするうちに、連帯が生まれていく感じがして非難と罵倒が渦巻き荒廃が進むネットであっても、コミュニケーションのツールとしてやっぱりあって欲しいと思えてくる。

 そうした気持ちを持たせてくれたのが猫に関するエッセイ集ということで、猫はやっぱり導いてくれる存在なのかも。振り返れば村山さんを知ったのもf−Clan文庫という今はもうないレーベルから出た「竜宮ホテル 迷い猫」という本で、表紙絵になっていた猫耳少女の可愛らしさについ購入して読んで感動してしまったのが始まりだった。遠田志帆さんのイラストだったけれどその出来の良さから徳間文庫で再刊された時も同じイラストが使われたほど。そんな出会いを経て本をいただくようにもなってそして初のエッセイ集に触れることができた。収録された短編も過去を振り返りつつ今を精いっぱいに生きようと思えるものばかり。いろいろと迷って彷徨っている身だけに、初心を思い出しつつ人生の店じまいへの準備なんかを始めるきっかけになりそう。良い本をありがとうございました。

 三段目というと幕下まであと少し。それを経て重量になれば関取と認められるお相撲さんが新型コロナウイルス感染症で亡くなったそうでニュースになっていた。勝武士というしこ名のお相撲産で4月頭に具合が悪くなって数日後に入院。そこから治療を始めたけれど1カ月が経って回復しないでそのまま亡くなってしまった。最初の数日間、入院できなかったことが話題にされているけれど、入院時は陰性だっただけに判断には迷うところ。その後に陽性になってから、回復しなかったのはやっぱりお相撲さんならではの既往症といった部分で健康体とは違った負担があったのかもしれない。スポーツ選手とはいえお相撲さんはやっぱりいろいろ不具合が生じやすいから。とはいえ期待されていただけに残念。同じような方が出ないことを祈りたい。


【5月12日】 何度見直しても誤字誤記があるのは情けないとしてYahoo!ニュースにも掲載された暁なつめさん「この素晴らしい世界に祝福を!」完結を受けてのレビュー記事が掲載に。なろう発だったりする作品への興味の薄さもあって他の<異世界かるてっと>組と同様に出遅れた読み手ではあったものの、いずれもアニメ化される中で見てこれは面白いと思って原作にも立ち寄りアニメを眺めて楽しんでいくうちに、それなりにハマった作品だった。それは「幼女戦記」や「オーバーロード」も一緒だけれど。「Re:ゼロから始める異世界生活」はアニメがメインかなあ、今はまだ。

 いずれもアニメの出来が素晴らしい「異世界かるてっと」組だけれど「このすば」はとりわけ特段にアニメが面白いというか展開を絵にして見せるとサトウ・カズマの外道っぷりが際立つし、めぐみんにダクネスといったキャラの変態ぶりもその美少女としてのビジュアルや声との対比もあってとてつもなく輝く。アクアのポンコツぶりも同様。そうしたギャップ萌えやらセリフの重ね方の妙味とか、工夫もこらされていて見ていて飽きない作品になった。

 「このすばっ!」って喋って場面が切り替わるのは、後期「ハクション大魔王」の「それからどうしたの?」から続くテンポを生み出しワクワクさせる手法のような気がするけれど、他にあまりやらない中でこの作品にはピタリとハマった。そんな工夫とほんわかとした展開、ばかばかしさの中に痛みもあってそしてやっぱり最後は頑張るサトウ・カズマの活躍がある。あと爆裂魔法の凄まじさ。そうした要素が絡み合って生まれた傑作だったんだなあ、アニメは。

 そんなアニメの先を行って本編は完結。ラストで見せる凄まじいばかりの爆裂魔王のオンパレードを是非に映像で見てみたいけれど、そんな時は来るのだろうか。3期4期じゃ届かないならせめてラストエピソードだけ映画でも。そう思うのだった。このアニメが作られづらい世界に祝福を。「オーバーロード」や「幼女戦記」のアニメの続きも是非に。

 芸能方面ではきゃりーぱみゅぱみゅに矛先が向かったみたいだけれど、アニメ方面では水島努監督へとあれやこれや向かった感じで良いのかな。もう見ないとか言う人もいたりして、だったら見なければ良いじゃんと思いつつ見ても別にそこに何か反権力だの反戦だのといった思想がずっしり乗って溢れている訳じゃなし、むしろ戦車だの戦闘機だのが格好良く活躍するアニメが多いんだからそれを見て戦車に乗りたい戦闘機を操縦したいと思ってそのために自分がやりたい道を考えたって良いんじゃないか。

仮に水島監督が人を殺さない戦車であり独裁を挫く戦闘機といった役割でもってどこかに思想を滲ましていたのだとしても、そこまで深読みするより先に目の前の展開が楽しくて面白くて惹かれてしまうから気にならない。アニメってそういうものだしアニメに限らずエンタテインメントなんてそういったもの。高畑勲監督が労働運動だとかへの傾倒を滲ませまくった「太陽の王子 ホルスの大冒険」だって宮崎駿監督が自然への回帰やら被差別への思いやらを注いだ「もののけ姫」だって単体で見て面白いから今に残る名作になった。そこに監督たちの思想なんて取りざたされていない。

 あとになって宮崎駿監督なんかは自然破壊への抵抗の旗頭にされてしまいがちになっているけど、一方で美少女を暴れ回らせ自身はタバコを吸いまくって健全だとか健康だとかをその身で体現はしていない。人間にある多面性の中から作品における才能ってものをのみ、受け入れて楽しめば良いじゃない? ってのが水島努監督をはじめ創作者たちに向けられた今回の一件での非難に対する印象。それはアニメに限らず劇作家だって歌手だって作家だって同じで、表現されたものが好きなら好きを続ければ良いんじゃないかと思うのだった。

 逆に表現活動がそうした思想信条を具現化させたものだったら、共に拒絶したくなるのも必然で、ライト方面で活躍する元放送作家の方とかその思想をより過激にした形で言葉にして世に溢れさえようとしているのだから、作品を厭うと同時に作家も厭うて構わない気がする。そんな作家でも面白い作品ならそれはそれで褒めれば良し。ちなみに僕は「BOX」が大好きなんだ、って誰か分かっちゃうじゃないか。

 それにしてもこうした一件で、電通が動いたんだろう歌手が自分の意見なんて表明できる訳がない事務所に言われて書いたんだろうって語っている人もいたけれど、時の政権を批判するような意見をどうして電通が案件として動かすのかって考えないのがちょっとすごい。そしてもちろん電通でも博報堂でも東急エージェンシーでもなく自分がそう思ったからそう書いただけのこと。それを認めず案件だとか事務所の求めと書いて個人を否定する言葉を放ってしまえる感覚があり、それがさも事情通のように流通してしまう空間があることが、どうにもこうにもいたたまれない。

 どうしてそんな空間になってしまたのかなあ。最初は有意義な言葉がやりとりされていたのに、だんだんと非難に炎上に揚げ足取りにマウント取りの言葉が増えていく。大喜利で沸いていたころが幸せだったよ、あるいはバルス砲とか。それはそこに限らずSNS全般に広がっていく感じ。言葉が過激化して勢力が別れ分断されてつるし上げられ撤退し寂れ滅する。そんな道をネットの言論空間が歩んでいった果てに全うな言論空間は残るのか。話題のトピックを多方面から撫でて触ってアクセスをもらう超大手ポータルサイト公認ブログもなんだかなあだし。頑張っている人も多いんだけれど。やれやれ。

 2015年くらいから立ち退くかどうかが論議されてきた大阪人権博物館ことリバティおおさかがいよいよ5月末で閉鎖となって2022年オープンに向けた移転先を探すことになるとか。人権問題に関する資料が集積されて閲覧できる日本でも希有な博物館として存在が尊ばれて来たけれど、そうした施設を作った大阪市が展示に異論を唱え、なるほど偏っていたからとリニューアルしてもなお問題だと言われ年間2700万円もの家賃を要求され、とても払えず減額を頼んでも受け居られず、立ち退きを求められる裁判まで起こされどうにもできなくなった感じ。

 子供に希望を与える施設というけれど、それだけじゃないのが人権問題で過去の人権に対する抑圧の歴史を記録し残す“使命”があるにも関わらず、対外的な所業とかフェミニズムなんかを反日と捉え批判する声を背に浴びたか、難癖を付けて結局は追い出すことに成功した感じ。全体として右も左も前も後もそれこそ戦前の日本に対する意味での“反日”も含めて記録し展示できる施設ならそれは価値があるにも関わらず特定個人の感覚でもって是非を判断して大切な資料が散逸する可能性、そして人権問題が蔑ろにされる将来を認容してでも今、閉館へと向かわせるべきなのか。慈しみや自戒といった気概がゆとりを失い敵や弱者を仕立てて攻撃して身を守ろうとする心情の中でギリギリと締め付けられていった果てにいったい誰が立っているのだろう。凍える。


【5月11日】 大型連休だしリモートワーク推奨だとか外出の自粛だとかで家にいえる時間も長くなる中で需要も増えるだろうということで書いた、「アニメだから表現できた現実と虚構のミックス――没後10年を迎える今敏監督作品を観よう」って記事がなかなか人気だったみたいでまずは善哉。Twitterでの「いいね」が1万を超えてRTも5000近くま伸びたのはこれまでもあまり経験がない。その前に書いた「京都アニメーションは進み続ける――『涼宮ハルヒの憂鬱』から『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』まで京アニの素晴らしい作品を振り返る」という記事も読まれたけれど、「いいね」は250くらい。それを思うと今敏監督が、京アニにも増して高い関心を持たれていることが伺える。

 有り余る時間であまり普段はやららない長時間視聴をやろうぜって呼びかける“イッキ見”シリーズとして、「イッキ見しよう! 20年前のカルトアニメ『serial experiments lain』は情報化社会の欲望と混乱を描いた今でも観る価値のある作品」って記事も書いて、これもカルト作品なだけに大いに湧いたけれど、今監督の記事にはやっぱり及んではいなかった。そう考えると今敏監督の作品がアニメファンという枠組みを超え深夜アニメファンというカテゴリーとは逆方向に広く映画ファンあるいはエンターテインメントのファンを取り込んで評価を得ているってことになるのかもしれない。海外にもファンは桁違いに多いし。

 そうした影響を増田弘道さんが「今 敏監督の想い出:The Memory of Kon Satoshi〜世界中の監督に尊敬される監督を偲ぶ」とう記事で津津言っている。国内はもとより課外の映画監督にも評価され、パクられもした今敏監督の作品はやはり永遠に観られ続けるんだろう。そんな今敏監督が亡くなって今年で10年。「忘れもしない」と最後のブログに綴った5月18日から、没した8月24日までの日々を歩みつつ、その作品を振り返って行こう。できたら上映会とかあると嬉しいんだけれど。
B  名古屋にいた時は「ナゴヤプレイガイドジャーナル」がメインで、東京に来てからは「ぴあ」が映画や演劇や展覧会なんかの情報を得る窓口だったから、「Tokyo Walker」はあまり読んだことがなく、どういった案配で文化情報とタウン情報が載っているかもあまり知りはしないんだけれど、「ぴあ」と並び立って存在し得るくらいに、こうした情報誌は多くに求められていた。まだインターネットも登場する以前はもちろん、インターネットが普及し始めた1990年代後半も、展覧会とか映画の網羅的な情報を手に入れるため、やっぱり「ぴあ」を読んでいた。同様に「Tokyo Walker」を読んでいた人もいっぱいいたんじゃなかろうか。

 けどネットが発達してや、がてサイトが雑誌の代わりとなって情報発信を行うようになると、そっちが便利と紙を読まなくなる人が増えた。展覧会なら展覧会、映画なら映画の情報を専門に伝えるサイトが出てきて個々の画廊や映画配給会社の情報も充実して、それらをポータルサイトががさっと引っ張る形態の便利さに雑誌を手に取らなくなってしまった。

 それでもお気に入りのコラムなんかがあれば読んでいたかもしれないけれど、TVブロスくらいしかコラムマガジン的な情報誌ってなくなっていって「ぴあ」でも「Tokyo Walker」でも読もうとする意識が薄れていく。やがてアプリの時代になるとその上に情報が集約されてダイレクトに伝えられるようになってますます映画も音楽も美術もグルメもあらゆる情報がネットからのものになってしまうと、情報誌ってものの役割があまり浮かばなくなった。

 「ぴあ」なんかはだから特定のコンテンツを取り上げ紹介するムック的なものになり、「Walker」シリーズもそうした展開を見せつつ一方で「レタスクラブ」「オレンジページ」的な生活に関わる情報なんかを伝える雑誌になっていった感じ。それすらもアプリとネットの台頭があり、また新型コロナウイルス感染症の影響で出歩かず本屋が閉まり流通も停滞する状況下で、雑誌の発行が難しくなったのかもしれない。30年の歴史を経て「東京ウォーカー」「横浜ウォーカー」「九州ウォーカー」が6月でもって休刊となる。  

 「東海ウォーカー」と「関西ウォーカー」は続くみたいだけれど、どういう内容だから続くのかは読んでないからちょっと分からない。地元密着でためになる情報が多いのかな。名古屋にも地元の情報誌はあるけれど、全国ブランドの情報も得つつ地域の情報も得られる雑誌として意味があるのかもしれない。ネットでは引き続き情報発信は行われるみたいだけれど、雑誌ならではの情報以外のコラムだとか読み物なんかは果たして続くのか。手にした雑誌をぺらぺらめくる中で目にとまったコラムを読む人はいても、情報を血眼になって検索してたどりついて確認する行動が同じサイトからとんだ先にあるページのコラムに向かうかどうか。そこはやっぱり難しい。逆にコラムで引っ張るという手もあるけれど、そうなるためには認知度が必用だからなあ。コダジマン的な。あるいはナンシー関さん級の。

 寂しいけれどもこれが情報誌の未来への分水嶺なのかも。一方でテレビ情報誌は今もまだ出つづけている感じ。これはドラマでもバラエティでも登場するタレントのグラビアとして機能している現れなんだろう。アニメ誌は版権イラスト集として続いていくかどうか。雑誌に掲載されているインタビューは作品が網羅的で自分が興味のない作品でも読んでみて興味を抱いてそっちを眺めるという効果を期待できる。あるいは絵柄から関心を抱くとか。そうした出会いの場、誤読からの広がりがピンポイントのネットで可能かどうかは古くて今も重要な問題なだけに、今後を眺めていきたい。ってか原稿料的にやっぱりなネットだけになってしまうと書き手は趣味人とリタイア者とリストラ者くらいしかいなくなってしまうんじゃ。

 9月の東京ゲームショウに続いて11月のワンダーフェスティバル2020[秋]も開催が中止になったとか。オリンピックの予定があっていつもの夏にはやれないけどいつになるんだろうと思っていたら秋の開催になっていたことに気付いたけれど、その時には中止になっていたというか。11月ならたぶん大丈夫のような気はしつつ、季節が冬に向かってインフルエンザの流行も始まる中、新型コロナウイルス感染症についても新しい波が来るかも知れないってことを懸念てしているんだろう。この類が及ぶとなると年末のコミックマーケットあたりも判断が行われる可能性。だったら翌夏はどうなるか、ってオリンピックが立ちふさがる。イベント関係の壊滅はまだ続く? やれやれ。


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