縮刷版2020年2月上旬号


【2月10日】 映画「ゴブリンスレイヤー GOBLIN’S CROWN」を観た。映画の「ゴブリンスレイヤー」だった。以上。でも良いけれど、そこは説明するならテレビシリーズの延長で、3話分くらいのエピソードを1回で見せたと言ったところか。ゴブリンスレイヤーと女神官を基本に妖精弓手に鉱人道士に蜥蜴僧侶のパーティーができて固まって動くようになってからの物語。県の乙女の依頼でゴブリン退治に向かった令嬢剣士が消息をたったので探しに行くと村がゴブリンに襲われていた。助けて様子を聞いて令嬢剣士がどうなっているかを推測。そしてたどり着いた巣穴で祭壇にひとり、横たえられた令嬢剣士を見つけて救い出す。

 そして任務は完了、とはいかずゴブリンの本拠地を叩くことになって向かおうとしたパーティーに、仲間を惨殺され陵辱され呪いの刻印を打たれた令嬢剣士もついていくという。そこで正義のヒーローなら押し留めそうなところをゴブリン憎しの感情が塊となったゴブリンスレイヤーだけあって、同行を認めパーティー仲間も妖精弓手が逡巡した以外は認めてしまう。

 馴れ合いではなくそれが意味ある行動だから認め、かつ有能だから認めるという合理的で功利的な判断。背後にはゴブリンを憎む気持ちはゴブリンを屠ることでしか埋められないといった、ゴブリンスレイヤーの経験もあったかもしれない。その果てにどこか壊れたゴブリンスレイヤーとは違って令嬢剣士はのち、別の形で恩を返すけどそれもいったんは付き従って思いを果たしたからできたことだろう。逃げずに挑んで乗り越える。そんな思いを抱かされる映画だった。

 鏃が刺さったら外れて肉に残る仕掛けを学んで逆に返してきたりと、だんだんと狡猾になっていくゴブリンにいつまでも人間が善戦し続けられるのか。知恵を巡らせ作戦も立てるゴブリンにいつか人間が敗れ去る時がくるのか。いつか融和なんてものもあるのか。ゴブリンの殲滅こそが醍醐味だった作品だけにそうした展開が予想できないけど、だからこそ挑み乗り越える価値はあるのかも。原作は追ってないけど少しは読んでみようか、それともアニメ化を待つか。

 京都アニメーションへの放火殺人で被害者の方々を実名で報じるべきか否かといった問題について、京都新聞社の記者らしい人が個人の立場で書いていた。曰く「私の考える実名で報じなければならない記事のタイプとは、『犠牲者の名前だけを載せる記事』である。写真にあるような一覧表は、京都新聞を含めた各紙で1面に載っていた」。え? 実名はあるかもしれないという考えに理解は示すけれども、そこじゃないだろうという感じがして仕方がない。

 記者はこう書く。「第一に、不正確な情報が流布することを防ぐという点である。京アニ事件では事件当初、犠牲者の名前が明らかになっていないため、さまざまな臆測がインターネット上で飛び交った。しかしインターネット上で臆測が広がることは、時に人の心を傷つけることがある。2019年8月に茨城県の常磐自動車道で起きたあおり運転殴打事件では、容疑者とは無関係な女性が、『同乗者の女』だという誤った情報をインターネット上で拡散される被害を受けた。これは無関係な人が加害者側に間違われたケースである」。<BR>
 なんという勘違い。事件の加害者を実名で報道することと、事件の被害者を実名で報道することはまるで話が違う。なおかつ加害者を実名で報じれば、無関係な人が間違われないとも限らないのでそこは報道が無関係を強調し、えん罪を晴らせばいいだけのこと。実名でなくてはならないという絶対の理由にはならない。それなのに、「一方で今回の京アニ事件では、たとえば生存している方が犠牲になったという誤った情報が広がったわけではなく、大きな被害は生じなかったかもしれない。しかし大きな被害がなかったのは偶然だった、とみることもできる。誰かに被害が生じてからでは遅い。できるだけ早い時期から、犠牲者の実名という正確な情報を伝える必要がある」と言ってのける。ここがどうにも繋がらない。

 京アニの犠牲者で取り違えられて起こる被害って何だ? 間違われて困る人って誰だ? 分からないだけに例示が無理すぎな気がする。被害者の親族が、亡くなられた方のやって来られたことを世に知ってもらいたいと実名に応じることはありかもしれない。歴史に名前が記録される機会だから。すでに長く活躍していた人なら作品を通して名前は記録されているけれど、若手ではそうでもなかった。そいういう人たちの無念を名前を出すことによって晴らす意味はあるだろう。ともあれ難しい問題に、記者が実名で書いた意義は讃えたい。叩き台であり叩かれ台であってもそこから進む議論はあるはずだから。

 第92回アカデミー賞でボン・ジョノ監督の「パラサイト」が作品賞を獲得。旧外国映画賞で今は国際映画賞も獲得をしてなおかつ監督賞と脚本賞も獲得と、映画作品としての栄誉のほとんどを持っていったことになる。これは快挙。国際映画賞なら過去にいろいろ獲得しているし、アニメーション映画賞なら宮崎駿監督が「千と千尋の神隠し」で獲得をしているけれども映画中の映画に与えられる作品賞であり監督中の監督に与えられる監督賞を受賞したのはアジア映画では初のこと。世界に通じる映画作品を目指し競ってきた国ならではの到達点とも言えそう。だったら日本映画は、ってところでいろいろ議論も出そうだけれど、日本には得意なアニメーションで賞を取ったという実績があるとここは考え、次ぎもそれを狙えば良いじゃんと思うのだった。「トイ・ストーリー4」相手なら勝てそうな気がするんだよなあ。来年こそは「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」で受賞を。


【2月9日】 世界観が壮大すぎて壮絶すぎてエピソードにもテクニカルなものが多くあって誰が誰やら分からなくなってしまった関係で、最後まで何が起こったか理解が及ばなかった「新約 とある魔術の禁書目録」がいちおうは完結してそしてアレイスターとローラ・スチュワートが共に退場となった世界で、上条当麻と御坂美琴がクリスマスイブにデートよろしく2人でコスプレしながらダーツ大会なんかをやっていたりする状況が、羨ましくも応援の無印「とある魔術の禁書目録」のドタバタとして愉快な感じを思い出させてくれた。

 これならついていけるかもと思いつつも登場した金髪ウイッグの新キャラがいったい何者かといったところ。なおかつ魔神のオティヌスですらギョッとさせる新キャラクターが出て来て上条当麻にキスをしてなおかつ何かのませたみたいで、ここから始まるストーリーがまた現実を超えて涅槃の世界へと行ってしまわないかが心配。何しろ何度も消されては作り直されたからなあ、新約の世界は。それでもキャラクターが楽しげなのが結構。一方通行も出てくるしラストオーダーにシスターズも健在。あとは吹寄整理のおでことか、五和の恋情とかが観られれば。何より我らが神裂火織の超絶エロメイド衣装が観たいのだけれど、出してくれるか鎌池和馬先生!

 東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻の第十一期修了制作展では1年次生の作品と、それから交換留学生や+αとしてたぶん海外に行っていた時の作品だとか、研究生なり助手なりの優れた作品を見せるプログラムも上映されて、6作品しかなかった修了生の上映の間を埋めていた。1年次生ではまず池田夏乃さんの「While You Sleep」がフエルトを使ったアニメーションで、かわいらしく動いたりするところが当真一茂さんの「パモン」ぽかった。暗いシーンでは森の中に開いたあれはアミガサタケか何かを囲んだ祭りのシーンがあって、当たる光が美しかった。

 石井太以さん「イヌ」は版画のような絵を少しずつ作って繰り返しつつ場面を動かし、それを繰り返すことによってストーリーを紡ぐ絵本的な作品。動いているからアニメーションではあるんだろう。正岡子規の作品がモチーフになっているらしい。松岡美乃梨さん「かめさんぽ」は勤め人の女性に飼われたかめが散歩に出かけて喫茶店でお茶。パフェを頼んで平らげ支払いとなって甲羅からお金を出したら足りず、飼い主に電話して助けてもらう。なんかほっこり。絵も可愛い。

 フランス国立高等装画芸術学校(ENSAD)からの交換留学生というマドリア・デュボアさん「コスモスの月」はスケッチのような線画によって日本を旅した記録をつづっていくという作品。タッチが山村浩二さんの作品のようだった。たどたどしくつぶやかれる「コスモスの月」という言葉が日本の風景のはずなのに、どこか海外の風景を感じさせる。これがエスプリって奴か。林増亮さん「Grey Zone」は粘土を使ったストップモーションアニメーション。タイトルどおりにダークな雰囲気が漂う。

 黒澤さちよさん「光の表層」はピンホールカメラの原理をつかって曾祖母の若い頃の写真と遺影を定着させていくという作品。長い時間の間に起こった変化を長い時間かけて撮影して現像する中で人間というものが生きた時間、過ぎた時間を感じつつもういない人のことに迫るといった作品? その意味では個人的で内省的。技法のアイデアとしては面白い。島尚比呂さん「WOKE」は撮影された風景の前でキャラクターの取りが歌っていたっけか。PVで活躍しそうな作風。

 松村なおさん「鉄工所」はエッチングなりコンテのドローイングのように黒いタッチで鉄工所の変化を描いた作品。これもまた内省? とはいえ今の時代の家族経営だった工場が立ちゆかなくなる現象は社会的な主題ともいえる。見えない先行き、閉塞感をその絵柄とともに示した作品は先行きの見えない僕に重くのしかかり鋭く突き刺さる。増田優太さん「化猫ヤス」はストーリー性をもって猫の生涯を独白で描いたアニメーション。映画性があったので短編アニメーションの上映では喜ばれそう。

 岡田章吾さん「Strangers in the Alley」もやっぱり猫が出てきてこちらは街で暮らしているというシチュエーション。うまかったけれど俗っぽさでは「化猫ヤス」の方が受けそうかなあ。ここまでが1年次生。そして修了生でもある村田香織さん「Inters et flueurs de voyage Dessins Naturalistes in November」は女性と植物の対比を描きついでいく、イラストレーションが動くといった感じの作品でやっぱりうまい。広告とかの世界で活躍しそうだなあ。

 岡田詩歌さん「Keep Listening」は線が良かったかな、ちょっと記憶が曖昧。ハルマンダール・チャールさん「かんがえ中」は線と面を繰り返して動かすアニメーションで、動きがとてもユニークだった。西野朝来さん「No Other one」はきいろいゾウが動き回る絵本的アニメーション。実写による車窓でもって背景を動かしその上に重ねるのはやり方としてはうまいけど、アニメーションかどうかはさてはて。象がミシンのように動いて描いたその言葉に笑いが起きていた。

 小林真陽さん「母の手、娘の髪」はストップモーションらしい作品。鏡に写る少女の顔に手を伸ばし整えるという、こっちと向こうが突き抜けるマジックが驚きをもたらしつつ親子の似て非なる関係も描き出していた、かな。そして宮嶋龍太郎さん「CASTLE」は戦国時代の城で戦う兵士や武将たちを3600枚ほどの手描きの絵でもってつづったストーリー性を持ったアニメーション。とにかく動きのダイナミズムさがすごい。カメラを振り寄りえぐり迫って場面を切り替え城の中なり砦のそばなり攻め手なりを描いていく。乱暴のようでちゃんと整っている武将たちの顔とか、山村浩二さん的というより大平晋也さん的だった。

 宮嶋龍太郎さんといえば「RADIO WAVE」という作品があってそこでもすごいカメラワークを持った世界を描いてくれていた。「AEON」という作品でも確かとってもすごいものを見た記憶があるけれど、「CASTLE」やそれらより人物をもう少し増やしてその表情、その動きを見せつつストーリーを示し、変幻自在ぶりを示してアニメーションを観たなあという気にさせてくれた。すでに海外で幾つも賞を獲得している作品らしく、日本でもこれからぐいぐいと評判を呼んでいきそう。それなのに国内での受賞は第6回新千歳空港国際アニメーション映画祭の観光庁長官賞くらいというのが謎。もっと評価を。そして仕事を。


【2月8日】 なんだ別にAIが漫画を描くわけではないのか「TEZUKA2020プロジェクト」。数ある手塚治虫さんの作品を読み込んだ上でストーリーだとかキャラクターの雰囲気なんかをAI技術が生成したら、それをもとにクリエイターが絵を真似てストーリーも完成させて描くといった感じ。そこになるほど手塚治虫感は漂うものの、評判を伝え聞いたり状況を見聞きした上で捻ってみせる手塚治虫さんなりの天邪鬼な思考がそこには入ってない。

 完成作品ですら描き変えるくらいな人の漫画を、過去の傾向から作り上げたってそれは本当に手塚治虫さんの作品と言えるのか。常に競争意識を燃やして最前線で戦い続けた手塚治虫さんにはやっぱりAIは似つかわしくないかもしれないなあ。いっそそうして出来上がったAI作品を、田中圭一さんによって描き直してもらうってのはどうだろう。そういったカウンターが入ってエロスも挿入されてこそ、本来の意味での手塚治虫作品と言えるんじゃなかろーか。だったら最初から田中さんがイタコ芸を見せれば良いのか。そっちの方が圧倒的に面白そうな気がする。

 前はまだ会社員だったけれども今年はリストラで放り出されて初の東京藝大院アニメーション専攻の修了制作展。その第十一期となる修了制作展の内覧会に行く。いつもなら10数作品が並ぶけど今年は6作品と少なめ。山村浩二さんに尋ねると海外へ留学していたり、制作しないで修了を先延ばしにしたりといった人がいたためこの本数になったとか。その分、短い時間で見られるのは鑑賞者としては嬉しいかもしれないけれど、多くあってこそのバリエーション。そこから次代を担うクリエイターも生まれると思えば少ないのはやっぱり寂しい。

 とはいえ少なくっても充実の6作品。まずは丘山絵毬さん「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」は一種の群像劇。画家が居て絵を描いていて女性がATMの前で電話をかけて父親にお金をふりこんで欲しいとお願いし、歌手が練習してこなかったことを咎められホームレスが空き缶を集めて1000円もらってソーセージとおにぎりと缶チューハイを買い込んで浮かれお坊さんがタクシーで駆け回る。そんな脈絡のないエピソードの登場人物が少しずつ重なっているところがポイント。見れば一続きの大きな絵になる。

 丘山さんは挨拶で自分が描きたいものがなかなか思い浮かばない、自分を語るような作品は作れないと作りあぐねている中で、だったらいろいろな人を描きたいと思い群像劇にしたとか。いろいろなところでアルバイトをした経験なんかも入っているらしい。よく見れば画家のモデルが親にお金を要求していた女性で、その親が研究者でホームレスを助けようとして車にはねられた、その横を走っていたタクシーにお坊さんが乗っていたりと重なっている。そういう具合を再見して確かめると、また違った見え方がしてくるかもしれない。

 あとはこの作品で声を担当していたのが新津ちせさんと三坂知絵子さんだったのに驚き。これも尋ねると劇団ひまわりといつも付き合いがあって、頼んだらちせさんがやって来たらしい。そりゃあ吃驚。でもって大人の役を誰かと見渡してそこに同伴の三坂さんがいたので頼んだと。そりゃあ正解、だって月蝕歌劇団の女優さんなんだから。上手い訳だよ2人とも。USBで作品は観られるけれど、期間中にもう1度くらい見ておくかどうしようか。迷います。

 中国とかからの留学生が多い今期。羅絲佳さん「私はモチーフ」はモチーフと呼ばれる三つのものが自分はモチーフだとすることで起こる混乱と収斂を描いた作品。音楽形式の最小単位である音符と、着想と、ほかなぜか月が現れ語り合う。同じ言葉ながらも違う存在なのはなぜかを考える作品かもしれないけれど、1見ではやっぱり難しい。何度か見返してじわじわと湧いてくるものを感じないといけないかも。劉鉄男さんは多分女性で「家の前に大きな木がある」を制作。水墨画のような絵が動くアニメーションで中国の文化大革命がモチーフになっているようで主題はシリアスだった。

 「あなたはどっち?」という問いかけは攻撃する側かされる側かという問いかけか。ところで毛沢東とその一派による歴史的な人災とも言える文化大革命って中国における指導者層の汚点ではあるんだけれど、語るのに別にタブーではないのかな。ベストセラーの「三体」にも文化大革命による被害めいたことが語られているし。ちょっと気になった。「わたしたちの家」の村田香織さんは前に「女友だち」を観た人か。イラストのようだったり油絵のようだったりと少しずつ違うタッチの絵で色々な人の家を描いていく。とても綺麗でまとまって商業シーンでそのまま活躍できそうな才能だった。

 李念澤さん「いちご飴」は可愛らしい絵だけれども中身はおじさんによる幼女への性的虐待がテーマ。そうした行為への思いが夢とも現実ともつかない曖昧なものとなっていく様がアニメーションならではの変幻の中に描かれる。シリアスな主題と絵のギャップがちょっとユニーク。川上喜朗さん「蛍火の身ごもり」はエッジの効いたマンガのような絵で少年が妊娠するというストーリーをSF的なシナリオではなく当事者の葛藤を主に描いた作品。劣等感や焦燥感をアニメーションの中で表現したかったと川上さんは話してた。

 以上6作品の東京藝大院アニメーション専攻修了制作展。総じて感じたのは、作家個人の記憶であるとか葛藤なんかを表現したものが多かった、ということか。いや「おうさま・ひめ・ぶた・こじき」はそうした個のなさに感じた限界を群像劇にすることで突破したもの。「いちご飴」は「マイリトルゴート」に続く性的虐待の告発。それぞれが迷い選んで表現に取り倦んだ珠玉の6作。ただやっぱりドキュメンタリー的な濃さを持ったものとなるとやっぱり少ないかもしれない。上映された1年時作品と交換留学生+αについては後日。とりあえずやっぱり宮嶋龍太郎さん「CASTLE」がとてつもなく上手かった。松岡美乃梨さん「かめさんぽ」はかめが可愛かった。マドリア・デュアボさん「コスモスの月」は山村浩二さん「サティの「パラード」」みたく線が変幻していく様が美しかった。今日はそんなところで。


【2月7日】 さすがはナイキというか、実は裏で国際陸連と情報をやりとりしていたんじゃないかと思うくらいに素早い対応策が出て来た厚底のマラソンシューズ。これはダメだと規定された厚さからほんの少しだけ少なくし、そして中にいれるカーボン製の板バネも複数枚がダメだということならと1枚だけにしつつ性能はグッと上げてきた。どういう感じに制約がかかるかを知っていなくちゃできないような開発速度。禁止する代わりにここまでだったら大丈夫だなんて情報を、与えていたんじゃないかと疑ってしまう。

 とはいえIOCとか国際陸連ってどっちかといえばアディダスの牙城。アディダスによるナイキ潰しはあってもナイキに便宜を図るなんて思えないだけにそこはやっぱり開発力の差か。これでまたしても禁止なんてなったらそれこそナイキもぶちきれ国際陸連を脱退して独自のマラソンツアーとか始めるかもしれないな。規定はそれなりに守りつつもコースは最高、ペースメーカーもつけて賞金は億円単位とか。それで選手を掻き集めれば国際陸連のマラソンなんてつぶせるし。とはいえ選手層はアフリカ勢がやっぱり強そう。欧米人がそれで納得できるかってところも別の課題か。とりあえず東京オリンピックのマラソンでどの靴が履かれるかに注目。

 とある新聞から「魔法科高校の劣等生」が1000万部を超える人気になったのはどうしてでしょうかと尋ねられ、こんなことなら答えられるかもしれませんとメモ代わりに地下鉄でカタカタと打って送ったら、ここから取るのでよろしくお願いしますと返事が届いて電話とかせず原稿とかにしなくて済んでちょっとラッキー。ちなみに書いたメモとはこんあ感じ。

 初期には主人公、司波達也の劣等生とは分類されながらも圧倒的な能力と才知にて劣等組を束ね、優等組を圧倒していく面白さがありましたし、秘められたその魔法の能力やエンジニア、研究者としての才知が分かってからは、それらを使い圧倒的な強さを見せて立ちふさがるものをねじ伏せていく戦いぶりに爽快感を覚えるようになりました。敗北に苦悩しながらも修行を重ね鍛錬を経て強くなり、逆転へと至るのが、かつてのヒーロー物が持っていたスタイルでしたが、今は強いなら最初から最後まで強い方が、読んでいてストレスがかからないのかもしれません。生きづらさが言われる現代、物語の中であがく主人公に自分を添え逆転を味わっても、現実に戻ってその変わらない様に絶望するのがオチ。ならば物語の中だけでも、絶対の強さに浸っていたいと思う人が多いのでしょう。

 巻が進むにつれて、そうした司波達也の、司波深雪という妹を絶対の存在と思わされていて、彼女を守ることがすべてであり、友人を助けるのも日本を守るのもその延長に過ぎないという冷徹さも見えてきました。ただ強いだけで良かったヒーロー像に奥行きが出てきた今は、どうすれば司波達也を敗北させられるのかといった興味もわいています。絶対的な存在としてヒーローをひたすら賞賛していた楽しみ方が、司波達也という人間を知るにつれていっしょに乗り越えようとする楽しみ方に変わったのかもしれません。

 ネットに掲載されていた時から魔法に関する用語の使い方が独得で、読解するのに鍛錬が必要だったと聞いています。電撃文庫から出す際に編集者の三木一馬さんが、ハードボイルドでSF感が強かったネット版から読者層を下げるべくイラストを考え「俺の妹がこんなに可愛いはずはない」の作画監督さんにまずお願いして絵を得て作者にアプローチしたことを証していました。そうした編集上の努力があってもなお、独得な用語に難渋していた人も、テレビアニメーション化によって目に見えるキャラクターが動いて魔法を発動させ、向かってくる相手を倒していく展開のわかりやすさを糸口に、キャラクターを理解し世界を理解した上でまた、原作に戻っていくこと、あるいは新しく入っていくことによって一気に読者層が広がったと思います。

 アニメ化が書籍の売り上げをブーストするのは「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズにもありましたし、最近のネット発の作品でも「転生したらスライムだった件」などで見られる傾向です。強大な力を持った魔法師たちがコミュニティを作って一般の人たちに恐怖心を与えないよう抑制しながらも、その力をのぞかせ世界を動かしているような構図があり、そうした構図の上で師族たちが勢力争いをしている様も、社会情勢への関心を抱く人たちの心に働きかけました。これは果たして正解か分かりませんが、東アジアの国々による侵略と対峙するといった構図もまた、今の情勢に潜む心理を誘っているかもしれません。

 今は異世界に転移・転成した主人公たちが前世の記憶や能力を生かしたり、転移・転成の際に得た強大な力を使って優位に立ち、勝ち上がっていくようなスタイルの作品が多く見られ、人気となっています。それなりに知識や能力、経験がありながらも現実ではうまくいかないもやもやを、晴らしてくれる場をフィクションの中に求めていると言えます。「魔法科高校の劣等生」はそうした転移・転成ものではなく、舞台は近未来ですが、似たような心理もあり、また社会を反映した奥行きもあって人気を誘っているのでは、などと考えています。以上。本当にメモでしかないんだけれど、まあこれくらなら20分もあれば出せるのでどうということはないのだった。あとはコメンテーターとして名が売れてバンバンと依頼が来て左うちわで生活できるようになれば。ならないか。なれないなあ。


【2月6日】 中国の湖北省に滞在したことがある外国人は、日本に入る前に別の場所で2週間ほど滞在していなくては入れないといった措置を日本政府が実施したけど、そんな日本でだんだんと増える新型コロナウイルスの感染者数を見て、外国なんかが日本人は入国前に別のところで2週間、滞在していないと入れてあげないと言い出す日も近いかも。というかミクロネシアの3カ国はすでにそうした措置を実施。ミクロネシアとかツバルとかニウエにすぐ行く用事の人もいないだろうし、観光だってメジャーとは言えないから影響は大きくはないけれど、その例に倣って豪州だとか東南アジアの国々だとか米国だとかが入国禁止に踏み切ったら、影響はとてつもなく大きくんらいそう。

 日本において新型コロナウイルスの感染が、パンデミックと呼ばれる事態に陥るとはあまり思っていないし、発症したらしい人たちも重症ではなくすでに快復している感じ。病院が患者で溢れて死者まで出るようになったらそれこそ大変だけれど、先進国なら発症してもカバーできると考えれば入国を拒否するまでにはいかないかもしれない。ミクロネシアとなると発症したらあとの治療が大変だろうから仕方がないと。というかむしろインフルエンザが猛威をふるって死者も結構な数出ているアメリカからの便の方が、大変な気もするけれど。やっぱりアメリカだと医療費が高くてインフルエンザといえども医者にかかれないのかもしれない。そんな国に日本がならないとも限らないだけに注意深く観察したい。

 早川書房から「SFが読みたい!2020年版」が発売となって国内の1位に伴名練さんの「なめらかな世界と、その敵」が輝いた。書き下ろされた「ひかりよりも速く、ゆるやかに」の傑作ぶりからすれば当然かもしれず、日本SF大賞だって可能性もあったりするけれどそこで立ちふさがる小川一水さん「天冥の標」をランキングでは3位に抑え、酉島伝法さんの「宿借りの星」も2位に下げての1位獲得だからそれはもう結構な支持を集めたと言えそう。とはいえ10冊中で早川書房の本が6冊というのはなかなかの寡占というか、東京創元社が1冊だけだったのが寂しいというか。他は講談社からの宮内悠介さんとKADOKAWAからの上田早夕里さんと文藝春秋からの森見登美彦さん。常連が並んだとも言えそう。

 そうした中での1位だからやっぱり伴名練さんは凄い。いつもだったら来ている草野原々さんが来なかったのは、唖然呆然の短編ではなく普通に面白い作品を出してしまったからなのかなあ。ライトノベルとかは相変わらずひっかかりもしないのは寂しいところ。草野さんも「これは学園ラブコメです。」という圧倒的な傑作SFを出しているんだけれど、タイトルからラブコメと思われてしまったのかもしれない。そっちは僕がライトノベルのSFで推したから広がってくれると良いな。あとは「境界線上のホライゾン」シリーズを推せたのが良かった。本編完結でないとなかなかタイミングもなかったし。来年はすでに「サイコパスガール イン ヤクザランド1」とか「モボモガ」とか凄い作品が並んでいるから競争激しそう。何が来るか。それまでどうにか生き延びよう。

 東京アニメアワードフェスティバル2020のアニメーション・オブ・ジ・イヤーは映画部門が新海誠監督の「天気の子」でテレビシリーズは「鬼滅の刃」と結果だけならとても順当。他にいろいろあったとしても人気ぶりと成績からこの2作をおいて他にないとも言える。とはいえ途中の過程において一般投票で上位に選ばれた作品からしか選考できない状況で、幾つも話題のアニメーション映画が漏れてしまっていた記憶。毎日映画コンクールでアニメーション映画賞に入っていた「海獣の子供」も確か候補に入っていなかっただろう。それを審査員が選びたいと思っても選べない苦渋。結果として引き算の果てに「天気の子」が選ばれたのだとしたら、それは本当に年間ベストなのかどうなのか。そこの部分はシステムをどうにかして欲しいものであります。

 巷に出回るドワンゴ社長の夏野剛さんの写真は僕が去年の日本SF大賞の贈賞式で撮ったものだったりするけれど、その時の言が果たされたかどうかといった部分から、起こる諸々について何を言えるという立場ではないものの、やられて言って言われてそれで万事オッケーと引っ込め妥協もして平穏無事となったところに突っ込みが来てそれならと言い返してなかなかハードな状況になている、っていうのが今だったりするのかも。引っ込めたのにまた出たりする状況はやっぱり寂しいけれども今はそうした確執とは別に、誰がどの索引で受賞するかが注目。2月下旬には発表になるから期して待とう。そして贈賞式が華やかに行われることを願おう。


【2月5日】 三鷹ネットワーク大学でのアニメーション美術に関する講座で登壇した国立近代美術館の鈴木勝雄さんによるレクチャーの続き。アニメーション美術の鹿和雄さんと高畑勲さんは、「となりのトトロ」以外でも「平成狸合戦ぽんぽこ」だとか「おもひでぽろぽろ」なんかで組んでいる。その「おもひでぽろぽろ」で大人パートの背景がカチッとしていて子供パートの背景が薄いという描き分けがあったって話を、確か最初の講義で聴いた記憶があったけど、鈴木さんはそのカチッとした方をとらえつつ、これが霧がかかったように変化していった背景に、日本画家の川合玉堂への関心があって、男鹿さんともどもその再現を目指したのではって話してた。

 鈴木さん自身は、高畑さん当人へのインタビューはしたことはないけれど、発言を拾い関心を集め映像を見て感じ取とろうとする。文献などから断片を集めてつなぎ合わせて、作品も見て全体像を想像するところに、どちらかといえば歴史学に近いアプローチを感じた。鬼籍に入られる方々が増えて、オーラルヒストリーがだんだんと不可能になっていく状況で、残され記録されていた言葉とそして作品そのものをつなぎ合わせて想像し、迫るアプローチがどんどんと重要になっていく。そうした手法へのヒントをもらった気分。

 これは「アルプスの少女ハイジ」についても行われていて、初期のアルプスの背景美術が割と簡潔に描かれていたものが、最後の方では解像度が上がってくるという。前週、登壇した野崎透さんは美術を担当した井岡雅宏さんがだんだんと描き込むようになっていったと話していたけれど、鈴木勝雄さんはハイジがフランクフルトでヴンダー・カンマー的なお屋敷の中にあったアルプスの風景画を見て泣いた場面、あの絵を見たことによってハイジの風景を見る目がナチュラルから変化したことを、アルプスに帰ってから見える風景の解像度の高さに表したのでは、って話してた。

 それもひとつの解釈。高畑さんという人とふれあって言葉をもらっていた野崎透さんも、高畑さんが各所に残した言葉と結果から想像をめぐらせる鈴木勝雄さんも、共に巨大にして奥深い高畑勲という人物にさまざまな角度からアプローチをしている。そうした像を聞いた上でまた、高畑勲展を見たいけれども東京ではもう終わっている。ここはやっぱり4月10日からの岡山県立近代美術館で始まる展覧会に行くしかないかなあ。ゴールデンウイーク前の帰省ついでにぐっと脚を伸ばして岡山まで行き、そして名古屋に帰るって感じで。

 Netflixで「ID:INVADED」の最新話。人をさらっては樽に入れて地中に埋めてだんだんと窒息していく様をネット中継で全世界に配信、そして死後もそのままにしておくという残虐な殺人を続ける犯人を追っているシリーズで、本堂町というヒロインにいきなりキスをした男が犯人なのかといった憶測も浮かぶ中、そうじゃないんだといった推理があってそしてたどり着いた場所で、出て来た女性との対話の中から深層がだんだんと見えてきた。なるほどイドの中でかえるちゃんの死に様から推理していくパターン以外にも、リアルな推理が行われる話なんだ。

 樽にいっぱいのガソリンが引火して爆発して大勢が被害に遭う様とかは、あるいは半年前だったらちょっと放映が見送られたかもしれない非道さ。今回もあるいは気にした人もいるかもしれないけれど、展開の中でのそれが必然といったところで後はその残虐さを叩いて追求していってくれれば、現実世界での非道にも憤りがちゃんと向かうんじゃなかろーか。とりあえずまだ大団円はしておらず、犯人との対峙なんかもありそうだけれど本堂町ちゃん、また頭に穴とか明けられたりしないか心配。見守りたい。

 横浜に停泊中のクルーズ船から新型コロナウイルスに感染した人が現れたけれども、乗員乗客を検査なんてしてられないからスルーだなんてどこかの新聞が書いていたけれど、それじゃあやっぱり拙いという判断もあってか検査の上で14日間、船上に止めおくっていうお達しが出たみたい。別に緊急事態条項なんかを憲法改正で盛り込まなくたって、政令なんかで対処できる話なのに首相に大権がなければ日本は動かないんだ平和憲法はクズだって言いたいがために、どこかの新聞は検査できないんですこの国ではって言いたかったのかもしれない。さてはて。

 しかしSARSの時でも日本は結構騒ぎになって、イベントなんかでは発熱を測るサーモグラフィが出入り口に置かれたりして来場者をチェックしていたけれど、今回はそうした狂騒があまりない一方で発症者の数も死者の数も、SARSの時をすでに上回って今もどんどんと増え続けている。危機感が足りない感じだけれどもはや日々の暮らしが危機の渦中にあって新型コロナウイルスで大勢がなくなっている程度では、心が動揺しないくらいに感覚が麻痺しているのかもしれない。諦めというか無関心というか。そういう状況に陥ったから消費が落ち込み経済が低迷しても誰も騒がず座して衰えるのを待つばかり。そんな国でひとり大権を振るったところで誰も戦わないんじゃないかなあ。そんな気がする。

 いよいよ奥の親知らずが欠けて根っこも腐り始めて、このままでは口中が腐ってしまうかもしれないと歯医者にいくことを決断。お金はないけど暇ならたっぷりあるから日中をしばらく歯医者に通って治療しよう。ちょっと前なら仕事をしていても日中もほとんど自由だったからその時に行っておけば良かったと思ってもあとの祭り。まあ自由と引き替えにもらったお金の幾ばくかを治療につぎ込んで、コンプレックスのひとつを減らして心をどうにか立て直そう。


  【2月4日】 日本赤十字社の献血キャンペーンで「宇崎ちゃんは遊びたい!」が再びの登場となって今回も宇崎ちゃん自身のキャラクターが登場しては献血を誘うような漫画が展開されている。そのボディスタイル自体に変化はあるものではないんだけれど、単体で大きく抜き出された単行本の表紙絵ではないことをもって“強調”がされていないといった感覚に至っているのか騒動はあまり起こっていない。クリアファイルに掲載されている漫画がそのままポスターとなって掲示されたとしても、同様にあまり騒動にはならなさそう。それはどうして? って深く考えると頭が迷ってしまうので考えない。

 ただ作者の丈さんは以前に阪神・淡路大震災に遭遇して瓦礫の下から救助された経験の持ち主で、その時にどれだけの傷害を追われたかは分からないけれども献血に対する意識、あるいは救命救急活動に対する意識の高さもあって前回も、そして今回もキャンペーンへの起用以来に応じられたとか。そう言われるともう本当に大変でしたね、そしてありがとうございますとしか言い様がないけれど、そうした情緒とは別にしてそのキャラクターが抜き出されてていろいろと象徴めいた存在として言われたことについて、内心でどう考えているかは知りたいところ。別にキャラクターも変えずスタイルもそのまま描いてくれたこと、騒動でいろいろ言われても引かず応じてくれたことが答えかな。変えられるものじゃないし。

 鳴り物入りで始まったLINEノベルが日本テレビ放送網とかアニプレックスとかも巻き込み実施している第1回令和小説大賞の最終選考候補作が出そろったようで、並んだ10作品を見たらブラスバンド小説「きんいろカルテット」の遊歩新夢さんによる「星になりたかった君と」が入っていた。「どらごんコンチェルト」が続かず残念だっただけにここで新作がヒットして、前のにも続きが出せるようになればと願いたいところ。そして「きんいろカルテット」のアニメ化も。「響け!ユーフォニアム」に対抗できるプロのユーフォ吹きによる小説だから。

 他にもプロの方がいるようで、「逢う日、花咲く。」という一種の臓器移植に伴う記憶転移を扱った小説をメディアワークス文庫から出している青海野灰さんも、「春に桜の舞い散るように」が最終候補となっていた。どんな話だろう。サイトで読めるみたいなんで読んでみないと。それからガガガ文庫で「ピンポンラバー」をシリーズ化している谷山走太さんも「負けるための甲子園」で最終選考候補に。やっぱりスポーツ物っぽいけど「ピンポンラバー」みたいにはっちゃけてるのかな。あとはネットで活躍している人とかいろいろ。誰が来てもおかしくないけど、問題は第2回があるかどうか。続きが気になる文庫も多いだけにレーベルの今後を見守りたい。たとえ赤くなったとしても。

 本日の三鷹ネットワーク大学、「第8回アニメーション文化講座 表現の追求”手描きのアニメーション美術”」で提供された、国立近代美術館の鈴木勝雄さんによるレクチャーのレジュメ冒頭。アニメージュが実施した第1回アニメグランプリで投票された美術のランキングが載っていて、1980年のアニメ美術の方々ってこうだったんだと少し驚いた。椋尾篁さんが2500票と圧倒的で2位は「宇宙戦艦ヤマト2」の勝又激さんが470票。3位が「ルパン三世カリオストロの城」があったり出崎統監督の「ガンバの大冒険」「宝島」といった作品で活躍していた小林七郎さんが454票。存命なためか小林さんの大御所ぶりが今は目立つけど、当時は椋尾篁さんが大人気だったんだってことを思い出した。

 「銀河鉄道999」とか「幻魔大戦」とか「母を訪ねて三千里」とか「セロ弾きのゴーシュ」とか。そうした作品で名を出していたこともあったからやっぱり人気はあったんだろう。ただあまりの人気ぶりが災いしてか、5年連続でアニメグランプリの美術部門では椋尾さんが1位だったみたい。それががランキングの無意味さを醸し出してしまったか、いつしか美術部門のランキングは消えてしまった。なんて話をしていた国立近代美術館の鈴木勝雄さん。当時のアニメグランプリの事情は知らないので、そうした理解が正しいかどうかは何とも言えない。当時だって「風の谷のナウシカ」」の中村光毅さんもいたし、「うる星やつら2ビューティフルドリーマー」の小林七郎さんもフィーチャーされていた気はあるけれど、それでも圧倒的過ぎる椋尾篁さんの得票ぶり。いつの時代も人の投票って偏りやすいものなのだろう。

 結果、アニメーションにおける美術への着目が再開されるのを、そうした史料的な読み解きから鈴木さんは「となりのトトロ」の男鹿和雄さんによる里山の風景がきっかけだったのではと言っていた。それはそうだといった気も半分。確かにそれまでのアニメーションぼ美術とは違い、日本の素朴な里山の原風景を、素朴な味わいの物語りとともに思い出させてくれた。強烈だったからこそ後の、里山を守ろうとする運動へも繋がったんだろうなあ。都合4回、アニメーションの学芸員から実作者から編集者から美術の額絵委員から登壇して語ったアニメーション美術の講座を、どこかで役立てる場面があれば幸い。なくてもこれからアニメーションを観る糧になったと思って生きていこう。


【2月3日】 テレビが映らなくなって久しく、NHKで放送中の「映像研には手を出すな」も見られない状況が続いていてなかなか残念。今ならたいていのアニメーションがネットで配信されていて、NetflixがAmazonプライムビデオに入っていれば見られるんだけれど「映像研」についてはフジテレビオンデマンドが抱え込んでいて加入していないと見られない。以前はアニメだけのパッケージがあって月額も安かったけれど今は1000円くらい確か必要で、それを「映像研」のためだけに払うのも財政的に厳しかったりするので断念する。

 テレビそのものが壊れている悪いんじゃなく、チューナー代わりに使っているハードディスクレコーダーが立ち上がらないのが問題なんだけれど、だったらアンテナを直接テレビに繋げばってところでアナログテレビをずっと使っていたこともあって、今のアンテナ戦を繋げても映らないのだった。こんなことならリストラ前に買い換えておくんだったなあ。今となってはもう遅い。新年度に入るとさらに財政も冷え込みそうなんで、我慢我慢で行くしかなさそう。明けない夜はないと信じたいけれど……。

 NetflixとかAmazonプライムビデオには入っているんでそっちで「メイドインアビス」の第13話を見て、劇場版でいったい何が起こっていたか、そしてナナチとボンドルドにはどういう因縁があったかを改めて理解する。上昇負荷っていうのはそうか、階段を上るだけでもかかってくるものなのか、だからリコは第5層、ボンドルドの住居で階段を上ろうとして途中で倒れたのか。それでも目をつぶり匂いだけを頼りに昇れば通過できるというのは不思議。それを見つけたプルシュカは……。思い出すとやっぱり震えが来るねえ。

 とは言え、テレビシリーズでミーティが受けた仕打ちとか見ていたら、劇場版でのボンドルドによるプルシュカへの振る舞いもまたかといった感覚で受け取られそう。だからそれほど衝撃も受けなかったのかな、単体で見ればR15+は仕方がないとしても、物語としては続いている訳だし漫画の原作も読まれているし。そんなテレビシリーズの第13話で、ミーティと分かれてリコやレグといっしょにナナチが冒険を始めたというのが劇場版。そして第6層へと降りていった先もあるってことで、そちらもいずれ映画になるんだろう。完結していない物語だけにあと2年とか、3年は付き合わされるのかな。体調を整えて見守りたい。

 「プール冷えてます」が広告の傑作として語られ続ける遊園地の「としまえん」が、閉園となって跡地に公園だとかハリー・ポッターのテーマパークなんかが出来るという話。今の主体となっている西武鉄道から公式に出た話ではないけれど、2011年あたりからとしまえんの閉園から改装って話は出ていた感じで、それがまたぞろ動き出したって話なのか違うのか。一方では漫画とかアニメーションといったクールでジャパンなコンテンツを活かした場所にするって話もあったはずで、何がどうなっているかがちょっと見えない。

 大阪のユニバーサルスタジオジャパンでハリー・ポッターの設備が人気だというのはあるけれど、映画シリーズも終わって小説の方も一段落しているコンテンツを、果たしてどれだけの人が現役のものとして楽しんでいるかはちょっと分からない。ユニバーサルスタジオジャパンは他にもいろいろある中のひとつだから、お客さんも来てくれるけれどハリー・ポッター単体で果たして練馬の地にどれだけのお客さんを呼べるのか。そこがやっぱり引っかかる。それとあの壮大なプールがどうなるかも。23区内であれだけの施設は他にないからこその集客だった場所を、ただのテーマパークに変えて保つのかどうか。あるいはプールでは保たなかったからこその転換なら、それは日本という国がプール以上に冷えている現れかもしれないなあ。史上最悪の政権によって。やれやれ。

 日本SF大賞の件は一瞬の言葉によって反応があってそれが広まりやっぱりといった声やら違うといった声なんかが錯綜。関係した人たちのあれやこれやも重なって、憶測ばかりが飛び交って何が本当なのかが分からない。果たしてドワンゴが日本SF大賞の協賛を降りたかどうかも公表はされていない状況だけに、そこを置いて新しい協賛がどうとか考えても詮ないんで今は今月中の選考がしっかりと行われた上で、去年と同じだったら4月らしい贈賞式がしっかりと行われることを祈りたい。今年も浮薄の身でうろちょろとしそう。それまでに何とかなっていれば良いけれど。それとも開き直っていられるかな。


【2月2日】 「家虎根絶」だなんて言葉がTwitterのトレンド蘭に躍ってて、いったい何かと見たらいわゆるアニソンなんかのライブでオタ芸的に放たれる一種の奇声「イエッ、タイガー」が厄介だからと、ブシロードの木谷高明さんが根絶を表明して法的措置も辞さずとツイートしたことが発端みたい。楽曲の合間のシーンとなったタイミングでこれを放たれると、雰囲気がぶち壊れるだけでなくライブそのものが死んでしまう可能性がある。それくらいファンなら分かっているはずなんだけれど、厄介勢というのはアーティストのファンである以上に自分自身のファンだから、奇声を発する自分を抑えることができないし抑えようともしない。

 それは長くて明るい改造ペンライトを振り回したり、群集の中で飛び上がったり躍ったりすることも同様なんだけれど、周辺には迷惑でも離れていれば気にはならないそうした振る舞いとは違って、奇声は全体に響いてしまうからなお厄介。以前から指摘されてはいたことだけれど、よほど腹に据えかねたのか今回の宣言にいたった模様。調布で行われたロゼリアのライブで何かあったのかなあ。

 対して厄介勢からはコールがなければ盛り上がらないだの、地蔵ばかりになるだのといった声も挙がっているけれど、奇声はコールではないし地蔵ばかりでもステージ上には関係ない。集団で決まりに従いコールし踊り歌うくらいなら地蔵でも良いからその場にマッチして自分がベストと思う振る舞いをすればファンとしてアーティストへの感謝は表明できるし、アーティストだってそれを喜ぶんじゃなかろーか。もちろんアーティスト側が求め喜ぶコールはあって良し。そうした共通理解を超えた展開をどうするか、ってあたりが問われているんだけれど入場制限とか出来るのかなあ、やられてしまったら終わりな訳だしなあ。難しい。

 戦闘シーンの作画が異様に凄いと評判の「痛いのは嫌なので防御力に極振りしたいと思います」の第4話が配信されていて、見たらやっぱり戦闘シーンの迫力が半端なかった。平常は2人の女の子がVROMMRPGの世界にダイブしては、キャラクターしていろいろな探索をするといったもの。草原を歩いていたり雪山を歩いている場面はほんわかとして動きも普通なんだけれど、強敵が現れた途端に主に戦闘担当のサリーが敵を相手に駆け飛び戦う時の動きの描写が半端ない。前週なんかはそれが凄まじかったけれど、今週も氷を発射するドラゴンを相手に避けたり引いたりしつつ戦って勝利してのけた。

 その間、防御力に極振りされたメイプルも盾を手にして守り戦ってはいるけれど、移動の速度もないため瞬間移動は使うものの走ったり飛んだりはしない。そのためスピードのある描写はもっぱらサリーへと極振りされ、その作画も全編を通して力が極振りされているといった感じか。結果、運営すらも驚く結果となって2人はクエストを進行。そして現れた刀使いはカスミだっけ。対人バトルとなりそうだけれど防御力に極振りしているメイプルも回避に優れたサリーもなかなか倒せるものじゃない。どんなバトルがあるか、って原作を読んでいれば分かるんだけれどそこは置いて展開を待とう。

 「歌舞伎町シャーロック」はモリアーティを刑務所だか拘置所だか施設だかに起きつつ外では探偵業の日常が。アフロな客引きが恋をした相手はマルチ商法のメンバーで、お金だけむしりとっては逃げているのを客引きが認めず探してくれと依頼したのを受けてワトソンはメアリーといっしょにマルチ商法の本山へと潜入する。そこにいたのが秘書とはいいながら実は黒幕の男。毒薬を作っていたんだけれどいったい何をするつもりだったんだろう。趣味を満足させるだけには大量。誰かの意図に添って動いていた? そういったバックがまだまだありそうな展開。モリアーティの父で区長への追求も終わってないから。そうした巨悪に対する戦いが終盤にかけてあるのかな。残り2カ月を見ていこう、脚本とか読まずカット袋の中身も見ないで。

 心理的にどん底だった初夏からとりあえず、居場所をもらって毎日をどうにかこうにか過ごしていく道筋はつけられたものの、それをいつまでも続けられる状況にはなさそうで、次のステップをいよいよ考えなくてはいけなくなっている。作業をこなしさえすれば1日が過ぎて糧も得られる状況は悪くはなかったけれど、それだったら居座って罵声に耐えつつ単純作業を高い給金で続けた方がましだったなんて気分も浮かんでなかなか相克。そうじゃない、それで自分を省みず社会的に不能者だといった自覚も得ないで定年を迎え、外に出て大変な目にあうのを先取りして感じられたと思い、自分をたたき直してこれから何をしていけるのかを、考えるチャンスを得たと感じるべきなんだろう。まだ耐えられる数年のうちに地歩を築けるかが勝負か。こちらにいようとも郷里に帰ろうとも。どうしようかなあ。


【2月1日】 歌舞伎町のロフトプラスワンでアニメスタイル主催の「海獣の子供」のイベントを見終わる。これで家に直帰すると、春からどうなるんだろうといった不安で息が詰まって寝てしまうので、途中のドトールでメモ書き的に感想を綴る。ロフトプラスワンでは、あれば買おうかどうしようかと迷っていたブルーレイのの特別限定版が目の前で売り切れになって、残念ではあったものの今後の財政事情を考えるとここで我慢しておくのも賢明だったかも。映画館で見たい作品だしという言い訳も立つし。

 とか言いつつ予約の始まった「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の花澤香菜さん登壇上映のチケットはしっかり抑えてしまうというザル財布。見たいんだから見るんだという意識に切り替えないといつまでも書くから見るんだという打算に沈んで身動きが取れなくなるからしゃあなしだ。さて「海獣の子供」のイベントでは、まだ公開される前だったかにデジタルハリウッド大学で講演を行ったCGアニメーターの平野浩太郎さんが登壇されてて、あのクジラを小西賢一さんが望むように動かせないなら作画に切り替えようかという話をしていたことを聞いてそれはないぜと発憤した話をまたされていた。

 とにかく対小西賢一作画監督(演出・キャラクターデザイン)の壁を越えるのが大変だったそうで、登壇された小西さんはなパッケージになた今もリテイクをしたい気で満々だった。ってことはパッケージ化にあたってリテイク作業がされていないっていうことで、これは最近のパッケージではもしかしたら珍しい? いやまあここでリテイクを許したらあと3年はパッケージが出なくなるっていった田中栄子プロデューサーの判断でもあったのかも。

 その田中さん、冒頭で毎日新聞に掲載された毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を「海獣の子供」が受賞したことに関する記事を制作プロデューサーを呼んで読ませ好評も読ませていた。「4票も」というのは大藤信郎賞が決まったあとのアニメーション映画賞での得票で、残りは「空の青さを知る人よ」だったのかな。1回目では湯浅政明監督の「きみと、波にのれたら」にも票が入っていたようだけれど、「ある日本の絵描き少年」が強い人気で、そして2回目の大藤信郎賞を決める投票でそちらが受賞したことで、「きみと、波にのれたら」は同種の挑戦的な映像といったカテゴリーに入れられ、3回目では比べられなかったのかもしれない。

 とにかく元気な田中栄子プロデューサーは、小西賢一さんがリテイクしたいところ、動画に作画監督を入れたいところなんかを見つつ混ぜつつ無理なところはプロデューサー権限で通させたという話。そうでなければ夏には完成していなかったかも。DYとかDDYとかいった用語が飛び交っていた。ダミーにダミーダミー? そうまでしてフィルムにして色もつけつつ現場に見せては動けばまずまずでしょうと納得させたか説得したか。そうやって夏の上映に間に合って、そして毎日映画コンクールなら作品としては幸せか、作画監督としては断腸か。

 悔やむところがあるというのがクリエイティブの人の思いなのはしかたが無い。それは渡辺歩監督も同様で、直したいところもあるけれどもそこは我慢。そうやってできた『海獣の子供』をまた映画館で見られる日が来るか。公開1周年記念とかで上映して欲しいけれど、それこそ巨大なTCXとかULTIRAで。一方の渡辺歩監督は楽しげな雰囲気だったけれど、まじめさものぞかせていて、20年前に「ドラえもん」シリーズでやんちゃもして芝山努さんや大山のぶよさんに怒られたりもしたけれど、それはやっぱり先人達が築き上げた「ドラえもん」があっての型破りだったこを今は自覚。「おばあちゃんの思い出」で1999年に毎日映画コンクールを受賞した際には、シャイを気取って授賞式には出ず、けれどもすぐに取れるだろうといった自信もあったみたいだけれど、それから20年がかかってしまったことに、思いもいろいろあったみたい。

 20年前から知っている小黒祐一郎さんも飛ぶ鳥を落とす勢いがだんだんと薄れてきたことに忸怩たる思いもあったんだろう。今回の受賞、そして作品の素晴らしさを賞賛して、アニメスタイル大賞に早々と推すことを表明していた。そう言われるとやっぱりブルーレイをを買っておけば良かったか、見返すために、実家の大きなテレビモニターで。小黒祐一郎さんが感心していたのがCGで作画された魚たちがちゃんとフレームに良い感じに収まっているってことで、それについてCGI監督の秋本賢一郎さんが水の中は魚でしかうめられず奥行きとかも示せないといった話から魚をどう配置するかを考えたとか。

 なおかつ動くと変わってしまうその雰囲気を人工的でありながらも自然に見えるように動かし画面を埋めたあたりに工夫があったみたい。そう言われると見たくなるなあ。あと小黒さんが指摘していたのが渡辺歩監督が映像にこめたエロスで、琉花のうなじの多さなんかがその象徴。受けて小西賢一さんも確かに多かったし長かったといった話を。別の場面で出てくるハイビスカスなんかにもエロスが象徴されていたと渡辺監督も話してたように、アニメーションはすべての画面に描かれたことへの意味がある。それこそすべてのコマを止めて考えなくちゃいけないんだろうけれど、そのためにはやっぱり映像を手に入れないといけないか。うーん。どうしよう。

 イベントには琉花が坂道を駆け下りてくるシーンとか、泳ぐシーンなんかを作画した人とか、色彩設計を担当した人とかも登場していろいろあった苦労なんかを話してた。作画の人は3年目くらいまでは楽しかったそうだけれどそれが……。CGの人はまた夏が来たと感じて長期の作業を実感、渡辺監督は大晦日が来て紅白をSTUDIO 4℃で見る繰り返しで年またぎを実感したとか。それだけ長くかかっても結束して作り上げなお心残りはありつつも傑作に仕立てたスタジオはやっぱり凄いしプロデューサーの豪腕も凄いしスタッフの頑張りも凄い。その凄さがあとは興行成績に結びつくような受け手の側の意識ってやつが、高まってくれれば良いんだけれども「天気の子」以外はどれもどうにも。そこの底上げを誰がしてくれるんだろうってことで、もはやポスト新海誠監督になっているのだろうか。

 「海獣の子供」のイベントを入れていたから行かなかった立川竜飛での「荒野のコトブキ飛行隊」のイベントだったけれど、総集編に新エピソードも追加した完全版の公開が決まったとかで水島努監督、いったいどれだけ仕事をしているんだとか「ガールズ&パンツァー最終章第3話」は本当に作られているのかとか、疑問もいろいろと浮かぶ。「コトブキ飛行隊」の方はゲームが進んでいてカナリア自警団とかハルカゼ飛行隊といったサイドの面々の物語を見たいけど、そっちがOVAなり劇場版になることはあるのかな。期待して待とうミントさんの猛獣ぶりがスクリーン狭しと繰り広げられることを。


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