縮刷版2020年1月中旬号


【1月20日】 最初に発表があったときから“歩く”とは言わずに“動く”と言っていた横浜は山下ふ頭の等身大「機動戦士ガンダム」だったけれども、ようやく発表になった概要で立像であることは確かになって、キャリーカーに横たわったところから上半身を持ち上げ、片足を降ろして「こいつ、動くぞ」と見た人に言わせるのではなく、一応は立った姿でどこかを動かして「こいつ、動くぞ」と言わせるものだというところまでは分かった。あとはだから膝が動いて足が踏み出されるのか、それとも腕が動いて前倣えをするのかといったところ。右向け右ならこれまでのガンダム立像だってやっているから、普通にやてくれるだろう。

 とりあえず膝にモーターが入っているから、そこが曲がるだろうことは予想。そうなると2本の脚だけで直立させておくのは困難ということで、腰の部分から支持装置が伸びて支える恰好にならざるを得ない。そしてケージに入れて倒れたりしないようにしっかりガード。それを果たして“動くガンダム”とすら言って良いのか迷うところだけれど、嘘は言ってないわけだし、そうやって周囲を囲いつつ歩かせたりするのは2脚歩行ロボットでもよくやっているところ。まずは大きさを実感させ、それに必要な技術を確かめるところから初めて、巨大なロボットを動かし歩かせるところまで行くんだろう。そしていずれ実戦投入、と。何の実戦だよ。

 スチルだけをみてアニメーション映画「音楽」をヘタな絵を何千枚も重ねて動かしてみせた、個人による自主制作アニメーションの延長のように捉えていた。ビジュアルは奇妙でもそこにかけた情熱、そして物語から溢れるパワーに引き込まれて感動するタイプのアニメーション映画だと見なしていた。大間違いだった。1月20日に新宿武蔵野館で観た岩井澤健治監督のアニメーション映画「音楽」の絵は上手かった。フォルムも上手くてモーションも上手くて背景も上手くてそして見せ方もとてつもなく上手かった。

 大橋裕之さんの原作こそあふれ出る情熱で読む人をねじ伏せるタイプの漫画だが、それをそのままニメ−ションにしたところで画ニメにしかならない。岩井澤健治監督は描線をすっきりとさせつつも原作の味を絶妙に残し、それをロトスコープという実際に人が動いてみせたモーションを撮影なりして描線に写し取る手法によって描いて全編を作り上げた。

 だから観ていてしっかりと動くし、立体的に見えるしサイズ感も整っている。映像としての違和感はまるでなく写真から写し取ったような街並みの中にしっかりと存在し、ひとつの世界を形作っている。なおかつカメラワークも時に横移動のみで捉え、ずっと止めっぱなしで間を作り、激しく回して迫力を出して単調に見えた映画をだんだんと盛り上げラストへと引っ張りそしてライブシーンで引きずり込む。

 そこでは平面だった絵に影が入って厚みが生まれて奥行きも出る。ロトスコープだからといって写せばそのままアニメーションになるものではない。どう塗るか。何を残すか。そしてくわえるかといった操作をしっかりと行った上で描き出したアニメーション映画「音楽」の世界は、完璧なまでに優れたアニメーションになっていた。たいしたものだ。

 そんな絵によって描かれるストーリーは、これは原作に依るところが大きいにしても、最強の不良と黙されながらもその存在だけで周囲を威圧、あるいは納得させてしまう研二を中心に、太田と朝倉という良き理解者、良き友人たちが突然に唐突にバンドを始める展開からは、誰にでもある衝動を逡巡せずに形にしてしまう強さを感じる。考えたって迷ったって意味がない。だいいち面白くないならやってみよう。その意気に引かれた。

 演奏される音楽を上手いと言ってはいけないのだろう。ひたすら叩かれるドラムに合わせて調弦もされていない、コードも押さえられていない弦を鳴らすだけの演奏にどうして「古美術」のメンバーが感動するかは、マンガだからというのがひとつは正しいのだろう。とはいえここも、考えず迷わず衝動によって生み出される音のパワー、あるいは波動に惹かれたという理解も成り立つ。だからこそ惹かれてフォークソングを奏で歌っていた森田は”ああ”なった。

 ぎりぎりまで引っ張って、そして良いところをすべて持っていく研二のそれを秘められていた才能と見しまうと、異世界に転生なり転移して俺TUEEEEを演じる昨今の物語と同類のものと思われてしまう。自分には縁遠いからこそ憧れるタイプの作品になってしまうけれど、そこに巧さや凄さを見て感嘆したというよりは、わき出る衝動めいたものだと感じて引っ張られたと思いたいし、その程度のものだからこそ周囲は臆さず併走し得た。結果として組み上がった集団のパワーがステージ前の観客を、そして大場ら不良達をねじ伏せた。そう思いたい。重ねて言うがアニメーション映画「音楽」はヘタウマではなく極上の、優れた、素晴らしく上手いアニメーションだ。間合いも効いて音楽も響く極上のアニメーションだ。まだ見ていない人はかけつけよう。そして見て思おう。亜矢ちゃんの家のネコは可愛いと。


【1月19日】 4Kからさらにアの8Kを称揚する「BS8K1周年記念番組 躍進する世界の8K」というNHKの番組を手伝っておいて何だけど、山賀博之さんが監督をして貞本義行さんがキャラクターデザインを担当したという4Kアニメーション「砂の灯」がどうして4Kであるのか、といった必然が今ひとつ浮かんでこずに逡巡。ぼやけた風景が繰り広げられて、キャラクターが表れるのは後半でそれも深く描き込まれたという感じではなくHDとそれほど変わらない。あるいは大きなスクリーンになったら見えるものがあるんだろうか。時代は8Kならアニメも8Kである必要は奈辺に位置するのか。これをきかいに考えたい。

 いやいやこれほどまでにライトノベルが豊作となのは、小説投稿サイトの傾向に引かれて異世界転生・転移やらがわっと世に出た反動めいたものが書き手や読み手や作り手の中に出ているのかもしれないと思ったりもする。それが売れるかどうかはまだ分からないけれど、振り返って2020年がひとつの転換点になったかもしれないと言われたらちょっと面白いかもしれない。ってことで今月に出た筑紫一明さん「竜と祭礼 魔法杖職人の見地から」(GA文庫)に続いて竹町さんという人の「スパイ皇室01 《花園のリリィ》」(ファンタジア文庫)が年間ベスト級にしてミステリランキングすら伺う面白さを持った小説だった。

 大戦で大勢が死んだこともあって各国では、表だって軍事力をぶつける戦争を回避しつつ裏で謀略だとか諜報をめぐらせるスパイ戦を繰り広げるようになっていた。そんな1国に作られたスパイ学校であまり好成績ではなかったリリィに卒業してある部隊に行けといった指令が下る。そこは一度、スパイが失敗した“不可能任務”をカバーするために作られた部隊で、名を「灯」とつけられていた。

 リリィは生存率1割だと脅かされながらも、そんなことはないだろうと部隊に向かったらそこには同じように各地のスパイ学校の落ちこぼれが集められ、そして部隊を率いるボスも超優秀ではあっても優秀すぎてそのノウハウをまるで教えられない人物だった。これはダメだ。全員死ぬ。そんな予感が漂う中、生き延びなくちゃとリリィ以下、女の子のスパイ達はクラウスという上司が真っ当な授業を行えるように誘導し、果たせないならその実力を身をもって感じて成長を促す挙にでる。

 とにかく優秀過ぎるクラウスは、生徒たちが裏を読んで行動してもその裏を読み撃退するからかなわない。何段にも重なったそうした読み合いがまず面白い上に、「灯」が挑む不可能任務がどうして不可能任務となったのか、その理由に関わる展開の中で圧巻の仕掛けが繰り出されて何だって? と驚かされてはページを戻って繰らされる。クラウスの言葉を借りれば「極上」とも言えるその設定、その仕掛け。とはいえ1度しか使えないだろう手を繰り出して、これから続くだろう展開で何を楽しませてくれるのか。異なる能力を重ね合わせて難事件に挑むような“ありきたり”でも楽しいとは思うけど、それ以上の設定を見せてくれると期待しよう。ファンタジア大賞の大賞受賞作品なのだから。

 メディアワークス文庫から「時は黙して語らない 古文書解読師・綱手正陽の考察』が出たばかりの作家、江中みのりさんがnoteに書いた「一枚の手紙で生活が変わってしまった」という一文は、作家に対する感想であり批評といったものが持つある種の”破壊力”について深く考えさせられるものであり、およそ表現活動をしている、端っこながらもそこにぶら下がっている自分も含めた人間にとっても、意識せざるを得ない要件を含むものとしてとらえざるを得ないものだった。

 発端は、新著をお世話になっている方々に献本してもらった返事を読んだこと。そこには「ざっくり言うと、『あなたの作品は、こういうところがおかしい(中略)以上、辛口のコメントですが』云々と書かれて」いたという。読んで江中さんは「ありがたいアドバイスです。でもそのアドバイスというのが、正直的外れなものだと私は感じ」たとのこと。元より生真面目な性格らしく「的外れであっても、自称『辛口』のアドバイスが、きつくきつく刺さりました」

 ここで、作家なら、あるは文章でも映像でも表現をしている者なら、そうした表現に対して異論も含めた反響があることは当然の成り行きで、江中さんも「レビューを気にしすぎちゃいけないのは、作家の鉄則だと思います。それは私も分かっています。そしてたとえどんなに的外れでも、ネットで見かけるレビューなどならここまで気にしないんですが」と書いている。ただ、「見本誌を送った相手からの言葉だ、というのが大きかったんだと思います」。そうした言葉が心のバランスのどこかに作用したらしく、年が明けてから身心のバランスが崩れていって、動きたくても動けない状況になってしまったという。降りなくちゃいけない電車を終点まで乗っていってしまったりとか。

 原因はまるで違っているものの、リストラされて後の暮らしにおける行き過ぎた杞憂に押しつぶされて、生きていくだけの金銭には不自由していないんだからおいったその日ぐらしの気楽さにたどり着けない適応障害が長引いて、今も出かける時に立ち上がるのに逡巡していたりする身としてが理解が及ぶ状況。あるいは江中さんのは作品への批判が、自分の場合は自分という人間がして来たことへの全否定として突き刺さり、今なお身心を縛っているるのだとも言えそう。先んじている分、江中さんの文章に引きずられることはないけれど、これから読む人はそのあたり注意が必要と言っておく。

 ひとつ、作家として幾つも本を出してきた方が、たった1人からの手紙えいまうものかといった不思議はあって、人間の心というのは繊細なのだなあという気になる。そこはだから飛んできた弾が放たれた場所の問題なのかもしれない。それでも言葉が人を傷つける可能性があることは、言葉の送り手として自覚しつつ受ける側として意識もしておかなくてはと思うのだった。しかし一枚の手紙が身心を崩し、休職にまで追い込んでしまうという状況はやはり厳しく、そして辛く寂しい。早い回復を祈りたいし、自分の回復も早くしたい。ちなみに「時は黙して語らない 古文書解読師・綱手正陽の考察」は横溝正史的な瀬戸内海での小島にまつわる御発端に事件を、現代的な解釈で解き明かしつつ陰惨さを終えた幸福を見いだす話として面白いので、興味を持たれた方がいたら是非に。


【1月18日】 去年の夏くらいから版権のセル画だとか原画だとかを存分に眺め、昨年末あたりからは本編の原画とセル画と背景がも眺めてはドラマCDについていたセル画と付き合わせてどの場面かをチェックしカット番号なんかを記録していった関係で、ストーリーについてはだいたい理解し画面もほぼほぼ頭に入っていたはずなんだけれど、ドリパスでの上映が決まって秋葉原UDXシアターで上映された「機動戦艦ナデシコ −The prince of darkness−」、いわゆる劇場版ナデシコを見てそのスピード感というかテンポの良さノリの良さにやっぱりアニメーションは映像作品なんだということを思い知る。

 それと同時にそうしたテンポなりノリを生み出すために原画や動画や彩色が頑張り背景が頑張り演出が頑張り撮影が頑張って音響声優諸々が頑張っていることも感じ取る。背景だけを1枚絵としてながめていてもすごい完成度だし、原画も動画もそれぞれがきっちり描かれているんだけれど、動くとなるとそれは一瞬しか映らない。テンポを出そうとしたらなおのこと細かい作業も必要になるんだけれど、それを何時間もかけてこなして作り上げていくのがアニメーションという仕事。動かないものを動かし存在しないものを描き出すための努力を、成果として見てもらうのは当然として、やっぱりその過程も見てもらうことで改めて、作品への関心を抱いてもらうという意味で、ドリパスの上映会にホシノ・ルリとミスマル・ユリカの並んだセル画と、そしてルリが艦長席に座っているセル画が飾られたのは良かったんじゃなかろーか。

 作品そのものについては、前に見たのはまだ新宿バルト9が出来る前の新宿の東映会館だっただろうか。1998年8月6日に東映の試写で見た感想が日記にあったので再掲すると、『「もって始まった「劇ナデ」はTVシリーズ知らない人には絶対にさっぱり解りません。登場人物は重複しているし物語の根幹を成す『ボソンジャンプ』の秘密もやっぱりTVを見ていないと意味が通じない。逆にしこまたTVシリーズに酔ってハマってた人にはただのオールスターキャストだけでない、骨太な物語がつけ加えられるまさに理想の「続編」てことになり、土曜日以降の封切りに集まった大勢のそんなTV以来のファンたちを、感涙にむせび泣かせることだろー」といった具合に、あまり初見には親切ではなかったことが綴られている。

 ここから21年半が経って見た感想は、やっぱり本編を見た人には楽しい劇場版であることには間違いないけれど、アルペジオとかガルパンとかカヴァネリとか先に劇場版とかOVAの上映だとかを見てから本編にさかのぼって見てハマることが増えてきた今だと、このストーリーとしていろいろとフックがあってキャラクターに魅力がある映画を先に見て、コレハナンダと想いテレビシリーズにさかのぼりつつ、続編を期待する人が出てくる可能性なんかも想像して良いような気がしている。

 試写の感想の続き。「それはもうルリルリのファンに限らず、すべての女性キャラのファンたちに。おっとハリー君って可愛い少年が映画から初めて登場して、制服はともかく普段着ではとっても楽しませてくれるから、んな男の子が好きな方は物語知らなくっても目に優しく心に熱い映画ってことで、見てもそれほど損はないと思います」。本当にハーリー君かわいかった。日高のり子さんの声は男の子と女の子の間くらい。髪をあげてる艦橋のハーリーくんだと女の子にも見えるのだった。今だと男の娘扱いされそうな。

 「『テンカワ・アキトは死んだ』とアキトが喋ってるCMがすべてを語る展開は、やっぱりそうだったんだと安心させてラストでさらに安心させて、けれども根本的な戦争とかクーデターの原因となった遺跡は残る訳だから、作りよーによってはあらに次の話なんて出来ないこともなさそうう。折角登場したラピス・ラズリって可愛い妖精、だけど声はがらっぱちでセクシーな仲間由紀恵さんだったりする所が良く解らなかったりするけれど、そんな新キャラをセリフはほとんど1言で使い捨てるってのは余りにももったない」。なので続編を試写の感想では訴えている。

 そして8月8日に公開を劇場で見た感想。「場内はほぼ満席状態で、何とか席を見つけだして座り、グッズ集めに燃えた時代を思い出してパンフレットとかルリルリ下敷きとかを仕入れて開幕を待つ。始まった映画は一昨日に試写で見たのと当たり前だけど変わらない」「北辰ってパパチャじゃんとか見学案内のお姉さんは胸の形が最高とか『僕こどもだからわかんなーい』と喋るハーリーくんが可愛いとかいろいろ、改めて見て思うところもあったけど、やっぱり既存のナデシコファン以外を排除しがちな物語として、決して万人向きの映画ではないと断言する」。この感想も今だと少し変わるかな。

 とにかく触れてもらえる機会を作ることで広がるのだと想っているので、劇場版だろうとテレビシリーズだろうと露出をさせては盛り上げ原画動画セル画背景なんかも見せて当時のアニメのすごさ楽しさ面白さって奴を分かってもらうことが先だろう。そんな機会にドリパスの上映はなったかな。前回は1枚だけだったセル画の展示を元XEBECの佐藤徹さんによる尽力などで2枚に増やし、艦長席に艦長服で座るホシノ・ルリの版権セル画を展示。2枚に増えた訳だけれども佐藤さんが登壇しては、次の機会があれば3枚に増えるし、画展だって開けるので応援よろしくお願いしますと呼びかけた。反響は上々でSNSなんかにもルリルリのセル画とか流れてた。

 知ってもらうこと。感じてもらうこと。そんな機会を作るためには日々、資料を整理し利活用できる状態にしておかないとってことで、改めてお仕事に向かう力をもらうのでありました。それで生きているかは分からないけれどもまあ、目先数年を生きていくだけの蓄えはあるのでその間に、ナデシコ画展とかを見られたら幸せだろうなあ。今回の上映会に来てセル画をながめ写真を撮って拡散してくれた大勢のファンたちにとっても。

 「“邦画がつまらない”と感じる理由は?『泣かせたいにしても、もうちょっと工夫しろよ』『テレビで見る役者やアイドルばかり』」というネットニュースが流れていて、たしかにそういう傾向はあるものの探せば邦画にだって素晴らしい作品はいっぱいある、たとえば「わたしは光をにぎっている」とか「アストラル・アブノーマル鈴木さん」といった松本穂香さんが出演している映画はその演技力その存在感でもって見る人をひきつけ話さないところがあるし、新津ちせさんが出ていた「駅までの道を教えて」だって見れば感嘆するような展開で引き込まれる。邦画がつまらないんじゃなく、つまらない邦画しか見ていない、ってことなんじゃないのかなあ。

 とはいえ、漫画から2・5次元のミュージカルとかアニメとかなって評判を呼んだ「弱虫ペダル」を実写映画化するって話で、ドラマ版「弱虫ペダル」に舞台版から出演者がいろいろと出て同じ雰囲気を楽しめたってことでファンに好評だったにも関わらず、アイドルの人を主演に引っ張ってきてまるで舞台版とかドラマ版とかアニメ版といったものとは違う雰囲気にしようとしていたりするのを見ると、邦画もそりゃあ大変だなあと思わないでもない。アイドルだからファンもいるから見に来てくれるという期待はあるけれど、これまで作品を支えて来たファンには挑戦状をたたき付けたに等しい所業。それを乗りこえ広がるファン層がいるのか、そのファンは「弱虫ペダル」を演じてもらって嬉しいのか、といった部分がちょっと見えない。橋本環奈さんが出るなら見に行く気はあるけれど、でも果たしてどんな感じになるのか。8月の公開を待とう。


【1月17日】 例の「桜を見る会」で出席者の名簿を早くに処分した内閣府の担当者が厳重注意という処分を受けることになったとか。いやいやそうした名簿の処分はそもそも誰が決めたのかってところが問題で、野党から照会があったとたんに処分を行いどうしてそのタイミングなんだと突っ込まれ、前々から処分は決めていたけどちょうどその時にシュレッダーの担当者が空いていたんだといった返答をして苦笑を買っていた。つまりは聞かれるとヤバいとう判断からの緊急処分であって、誰がヤバいと感じるかというと「桜を見る会」を利用したいろいろなことをやっている偉い人ってことになる。

 そんな偉い人がこれはヤバいと感じるならば、その前に急ぎ処分して誰が招かれたのかを分からなくして差し上げようという判断があったんじゃないかって話になっている。つまりは上意下達的な動きからの処分であって、現場が勝手に処分なんてするはずもないような話なんだけれど、しばらく前から官僚の世界はそうした上のご意向をしっかりとくみ取っては先回りして動いて上の覚えをめでたくするような状況になっていたりする。あるいは言われたらすぐに動くとか。でもそうやって頑張って上にいい顔をしても、問題化したとたんに勝手にやったと言われ処分されるんじゃあ、官僚もたまったもんじゃないよなあ。

 以前にも似たようなことがあって、尻尾切り的な状況に陥ると分かっていて、なおやってしまうのは将来を見据えた賭けなのか、それとも処分が何の意味も持たないくらいに目出度い覚えが得られるのか。その両方のような気がしてきた。ただしそれも一定以上に地位が上がった人の話で、末端では上の命令に従い奮励努力しても、問題化すると責任をとらされ糾弾されたりする中で命を自ら絶つような事例も出たりしている。その場合はまさに犬死にで無駄死に。そうならない官僚の社会を目指そうと誰かが立ち上がるよりは、最初から行かない方がマシと優秀な人材が逃げている。かくして空洞化した官僚組織が導くこの国の行き先は? そう言う意味でもこの長期政権は国を本当にズタズタにしてしまった。参ったねえ。

 2019年の12月発売だったけれど、集計期間から外れてしまったんで2020年の年間ベストに入れたいライトノベルとして、木質さんの「サイコパスガール イン ヤクザランド1」があって、そして三田千恵さん「天才少女Aと告白するノベルゲーム」があってもう2冊が決まってしまったと思ったら、年が明けた1月にはやくもまた1冊、年間ベスト級のライトノベルが登場してしまった。GA文庫から出たGA文庫大賞奨励賞の筑紫一明さんによる「竜と祭礼 魔法杖職人の見地から」(GA文庫、610円)だ。

 高名な杖職人がなくなって、見習い職人だった弟子のイクスは遺言に従い店を閉め、工房があった街を出ようとしたらそこにユーイという名の少女がやって来て、父から受け継いだ魔法の杖を直せと言って来た。師匠自身なり弟子でしょの文面を見た最初の人間が直すという約定もあって、引き受けざるを得なかったイクスだったけれど、これがなかなかの難物だった。魔法の杖に使われている芯材が特殊過ぎた。竜の心臓。そして竜は千年前に絶滅している。どうやってそんな芯材を手に入れるのか。そもそも存在するのか。

 とはいえ、師匠がそう言っていたからには何か根拠があるはず。とうことで始まった依頼人のユーイとイクスによる探索の旅。杖を作ることだけに特化しすぎて店は乱雑、経営も身の回りの世話も天才少年に任せきりの姉弟子を頼りつつ、近所にある図書館などで古い文献を調べ、そこで出会った館長の助言なども入れつつ竜に迫るヒントを見つけ、じりじりと近づいていく展開は戦わない冒険、或いはミステリ的な楽しさがある。情報として本を読んでも真実には近づけない。そんな助言など文献に頼りがちな調査に全体の流れを見る大切さを教えてくれる。

 そんな助言を入れ、自らの探索も経てたどりついた壮絶な答え。その過程に文化人類学的で民俗学的な見地も見え隠れしていて、宗教なり祭りなり伝説なりが持つ意味であり価値などを知ることができる。なかなかに考え抜かれたストーリー。なおかつキャラクターたちが誰も一家言を持っていて、偶然だとか成り行きだとかで流されることなく、ロジカルな思考でもって受け答えをしていて、そこにキャラクター造形の深さを見る。社会はどうやって京成されるのか。そんな段取りも考え抜かれて紡がれた物語世界だからこそ、得られる納得感も大きく、そして感慨もひとしおだ。

 人は分かり合えるようで根本で理解し合えないところもあるという解釈。それを踏まえて人と付き合い生きていく大切さ。そんなテーマもあって読み込むほどに味が出る。ファンタジーであるけれど、謎に迫る展開はミステリ的で、ヒントを頼りに攻略していく冒険譚でもある。そこから漂う文化論、文明論、宗教論的な解釈も楽しい。これをやってしまって以後、続刊があるとしたらいったい何を描くのか。そんなところにも興味が及ぶ。続刊があるかは分からないけれど。何しろそのラストでとても寂しく、けれども優しい最後に触れられたから。核を失った世界で魔法学校的なドタバタが繰り広げられても物足りない。その意味でも次に注目。


【1月16日】 ナイキの厚底ランニングシューズ「ヴェイパーフライ」に対して国際陸連が使用禁止を申し渡すかも知れないという話に、アディダスの人がライバルながらも開発し続ける気持ちを失うとかどうとかいったツイートをして話題になっていた。切磋琢磨して良い物を作り出そうとする職人魂なり開発者心理に敬意は表したいけれど、反発を増やして推進力を生み出すというのはやっぱり人間の身体機能の拡張が過ぎて、それはやっぱりフェアじゃないという話になっても不思議じゃない。

 軽さを求めるというのはありだし、衝撃を吸収して体への負担を減らすとうのもあり。それでパワーが増す訳ではないから。汗を放出して体温を調整してバテにくくするというのもまあ、人間本来の持続力を伸ばすかどうかって話だからありだろう。でも例えば背中に羽根をつけるとか、底にスプリングをつけるとかして推進力を増したらそれは人間の能力の能力にプラスアルファが行われてしまっている。ヴェイパーフライの場合もそうした拡張にあてはまってしまう気がする。<BR>
 北京オリンピックの前くらいから大流行して、新記録を幾つも生みだした水着のレーザーレーサーの場合は、体を締め付け肉体を変形させて抵抗力をへらしつつ、水流も調整して前に進み安くしただけで、パワーは増やしていたなかった。それでも誰もが使えるものではない上に、やっぱり機能性の追求が過ぎたためか、2010年から使用禁止になった。水着でそうなら厚底シューズもやっぱり禁止されるべきであって、それにメーカーも文句を言うより人間本来の能力をとことん引き出す工夫で競争すべきなんだろう。次はどういう形のものが出てくるのか。そこに注目。そしてアディダスの巻き返しにも。

 すでにNetflixで全話を見てしまったけれども、リアルタイムで見て楽しんでいる感じを味わいたいと思って「空挺ドラゴンズ」の第2話をリアルタイム視聴とだいたい同じくらいの時間でネットから見て面白さを共有する。第1話ではつかなかったオープニングの神谷洋さんによる「群青」が流れて、移動するカメラワークがなかなか爽快な映像とともに楽しんだあと、クイン・ザザ号の中を案内しつつキャラクターたちも紹介するような展開でひとつ作品への理解を深めることができた。

 そして本編での20億円を食べてしまったミカたちの食いしん坊ぶりに苦笑いをして、赤い公園によるエンディングで心を盛り上げる。たぶんCGなんだろうけれども素描っぽい雰囲気になったエンディングの絵もなかなか秀逸で、色味だとかフォルムだとかにポリゴン・ピクチュアズの3DCGによるアニメーション作りの一日の長ぶりと、それをさらに塗り替えるような作画力に感嘆。ダンスの場面とか崩れず動いてなおかつ表情も変わってなななか楽しい。

 とはいえモンキーダンスを踊っているタキタとか、よく見ると体も表情も同じ動きを繰り返しているだけで、サイズを変えることで余り気付かせないようにしている感じ。ハルヒダンスとか「星合の空」とか「かぐや様は告らせたい」のエンディングでの手描きっぽいダンスが持つ生々しさに、近づけただけでも凄いけれど超えられない“何か”があるとしたら、やっぱりそこにアニメーターの持つ凄み、偶然性だけが醸し出せる揺らぎがあるんだろう。アニメはまだまだ続いてタキタによる大冒険がひとまずの帰結。その後も続く本編を描くためにきっと第2期もあると信じつつ、毎週1話の楽しみを改めて噛みしめるような見方をしていこう。その間に毎日のように何話か見返すんだけれど。面白いんだもん。

 「バビロン」の方はアメリカのFBIに入ろうとしている正崎善が、自殺法を導入しようとしたアメリカの都市まで出向いて市長に電話をかけて来たらしい女が曲瀬愛だったことを突き止めたものの、世界の各都市で自殺法の導入が進んでアメリカ大統領もいろいろ逡巡。だからと善を呼びだし話をききつつ、打開策を探る中で彼が復讐を果たそうとしていると知ってFBIの捜査官に任命しつつ大統領の権限は絶対だと前置きをして生きろと命じる。絶対遵守の力とは違っても絶対鶴首の命令とあらば従うのが正崎善という男。それを見越して守ろうとする大統領も凄い人だ。幸せでいてくれれば良いけれど……ってことで近づく原作第3巻クライマックス。君は星の涙を見る。いや血の雨か。

 サッカーのU−23日本代表が臨んだAFCのU−23選手権ですでにグループリーグでの敗退が決まっている日本代表がカタールと戦ってドロー。1人少ない中で頑張ったとはいいつつもカタール相手に1人のハンデで引き分けてしまうのが今の代表の力ってことになるんだろう。当然にオリンピックには出られない成績。なおかつ引き分けた相手もオリンピックに出られないチームってことで、今回は開催国枠で出られても次に出られる保証はない上に、今のU−23からだって上がるだろうフル代表が臨むW杯への出場の怪しくなってくる。監督に関する批判もあってどうなるかは注目として、日本人指導者では他に誰もいなさそうなのが現状。かといってハリルホジッチ監督をあっさり切った日本に来てくれる外国人指導者なんているのかな。そう考えるとサッカーの未来は明るくない。どうなることやら。それよりジェフ千葉がJ1に上がることが先決だ。森保一監督、来てくれないかなあ来年とか。


【1月15日】 箱根駅伝で区間新を出したランナーがはいていたというか、はいていたから区間新が出たとも言えるナイキの厚底ランニングシューズ「ヴェイパーフライ」が国際陸連から使用禁止にされる可能性が出ているとか。軽さと衝撃吸収性を追求しただけだったらまだしも、推進力を付けるためにカーボンプレートを挟み込んであるとかいった機構はやっぱり人間をサイボーグに変えてしまいかねない。身体機能を最大限に引き出すのではなく拡張するのはやっぱり拙いとなったのかもしれない。

 全員がはけば平等って考え方もあるんだろうけれど、値段だって決行するし選手によってはメーカーが手厚いサポートをして何足だって履き替えさせるし、身体機能にマッチした推進力を持たせそう。そうした不平等を認めてはやっぱり国際陸連としても立場がないという判断が出れば、一律禁止となっても仕方がない。以前に水泳でサメ肌の水着があまりにスピードが出るということで禁止になったのと同じこと。あれも特別すぎて着るのが大変だったとか。もう全員裸で泳げば良いじゃんとか思ったりもしたけれど、それだと出ている人と出てない人で差が出るからなあ。それこそ肉体に平等? 大きくなりたくても大きくならないのと同様、小さくしたくても小さくならない人だっているのだからやっぱり不平等ということで。

 日本アカデミー賞の優秀賞が発表になっていて、アニメーション作品賞には長井龍雪祈監督の「空の青さを知る人よ」、新海誠監督の「天気の子」とそれから山崎貴監督「ルパン三世 THE FIRST」が入り、あとは「名探偵コナン 群青の拳」に劇場版「ONE PIECE STAMPEDE」が入った。ここから最優秀が決まるとなったらやっぱり「天気の子」だとは予想がつくけど、プログラムピクチャー的ではない長編アニメーション映画も結構公開された中で、「海獣の子供」も「きみと、波にのれたら」も「プロメア」も入らない寂しさに、日本アカデミー賞という舞台の事情なんかも感じてしまう。

 つまりは映画会社による映画会社のための賞ってことで、東宝からコナン、そして東映から「ONE PIECE」が入るのが不文律って感じなのかもしれない。「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」はだから東京テアトル配給作品として落ちたのかというと、2019年12月15日までに公開された作品が対象だから12月20日公開の「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は入らないのが普通ってことかも。そして来年、新海誠監督も細田守監督も湯浅政明監督もいないノミネートの中をかっさらっていったら嬉しいかなあ。何かものすごい長編アニメーション映画って予定されていたっけ。ちょっと気になる。

 映画会社のための賞ってことで、あまり興行的にふるわなかった東映が満を持して送り込んだ「翔んで埼玉」が何と12部門で優秀賞を受賞。ここぞとばかりにノミネートをさせて受賞を狙った、なんて見るのはうがち過ぎか、実際に面白かったし。作品賞や主演男優賞、主演女優賞、脚本賞はともかく監督賞とかちょっと不思議。助演男優賞で伊勢谷友介さんはあの圧巻の登場ぶりから当然と認めざるを得ない。伊勢谷さんはともかく作品賞、主演男優賞、主演女優賞は最優秀に輝くかなあ。監督賞は「新聞記者」の藤井道人さんにあげて作品が持つメッセージ性を映画界から放って欲しいなあ。たぶんないけど。

 ネルケプランニングに小学館と集英社と講談社という、仇敵とも言える一ツ橋グループと音羽グループがともに出資という報に、2・5次元ミュージカルなりライブエンターテインメントといったものが持つ力が出版社のグループを超えて影響力を持ち得ているんだなあといったことが伺える。漫画が単行本として売れない中でアニメーション化して売り上げを伸ばしつつライツ収入を得たりしているけれど、それにくわえて2・5次元なりライブエンターテインメントの分野で世界に出て、広くライツ収入を得たり出版物の売り上げ増に結びつけようって頭なのかもしれない。

 そうしたメディアミックスにずっと取り組んでいた富士見すなわちKADOKAWAはどうしているんだろうかが気になるところ。それともすでに出資してたっけ。そこはちょっと分からない。「刀剣乱舞」の本は出しているし「けものフレンズ」だって手がけているし、そうしたミュージカルをネルケプランニングが手がけて好評ならすでに付き合いはあるんだろう。それともそうした分野のうまみを覚えて自分でやろうとしているとか。所沢にホールも作って興行を打とうとしているしなあ。それは講談社も同じで池袋に新施設を作ったけれど、そこではネルケプランニングとがっつりタッグ。餅は餅屋を任せる構えを見せている。それだけにKADOKAWAの動勢が気になるところ。所沢って場所も。どうなるか。どうなることか。


【1月14日】 ユナイテッド・シネマ豊洲での片渕須直監督とのんさんによる「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の舞台挨拶では、まじめな話とは別に、長く舞台挨拶なんかで各地を回って接触する時間も多かった片渕須直監督とのんさんのお互いの暴露話もあった。まずのんさんから。「ある日、今日は目が開かないんだよねと監督がおっしゃっていた日があって、映像の方をやっていて、画面を見ていて目が開かなくなったと言いながら、iPhoneでツイッターを見ていて、ツイッターの見過ぎじゃないかと」。

 思わず納得。やり過ぎです。でもそうした行動がファンを巻き込み作品を広めヒットにつながっているのだからしかたがないのだ。そして片渕監督からのんさんの暴露。「アフレコの時、遅い時間にお昼ご飯ですとなってうどんの出前をとったらなかなか来ず、真顔で『もうすぐというのはあと何分のことですか』と言った、早口だった。違う役も出来るんだなと思いました」。おなかが空いていたんだなあ。あるいは「のんちゃんが食いしん坊になった」。答えてのんさんも「この作品に関わっておなかが空くようになりました」。出てくる食事は粗食ばかりでごちそうは回想場面のカツレツくらいだけれど、それだけに食事への渇望がわき上がるのかもしれない。

 アニメーション映画といえば第92回アカデミー賞のノミネートが発表になって、長編アニメ映画賞で候補に挙がるか注目されていた新海誠監督の「天気の子」は残念ながら外れてしまった。国際長編映画賞でも日本代表にはなったけれど最終ノミネートからは外れていて、これで受賞の可能性がある外国の映画賞はアニー賞くらいになってしまった。でもそちらだと「未来のミライ」が昨年とっているだけに期待も膨らむ。問題は日本においてアニー賞がどれだけの興行成績につながるかだけれど、すでに140億円とか稼いでいる作品だからそれはもう良いのかも。受賞記念のロングランが実現すれば、今一度大きなスクリーンで見られるから嬉しいかな。それを期待。

 長編アニメ映画部門はやっぱり強かったピクサーの「トイ・ストーリー4」が入った一方でディズニーの「アナと雪の女王2」は入らず。どういう違いなんだろう。そしてライカによる「ミッシング・リンク」が入り「ヒックとドラゴン3」が入りアヌシーのクリスタル賞をとったジェレミー・クラパン監督「失くした体」が入ってそしてNetflixからもう1作「クロース」が入ってとこれもどれが獲っても不思議はない感じ。突出したのがないって現れだけれど全体に水準は高いから、あとは受賞が公開への後押しになって欲しい「ミッシング・リンク」に期待かなあ。ライカは本当にアベレージ高い作品作りを出来るようになったなあ。

 国際長編映画賞ではお隣韓国からノミネートされたボン・ジュノ監督の「パラサイト」が入っていて、そして「パラサイト」は監督賞と作品賞にもノミネートされていて2019年のアジア映画でトップ級の評価を受けている感じ。日本でも後悔が始まってジワジワと話題になっている。内容的に貧困とか格差が描かれていて今の身の上で見に行くとダメージを喰らいそうなんで遠慮しているけれど、評判になっているからにはやっぱり見ておかないといけないのかなあ。でも「ジョーカー」を見て数カ月くらい心理状態がメチャクチャになったんで、君子危うきに近寄らずで征くのが良いのかもしれない。

 その「ジョーカー」は第92回アカデミー賞で11部門にノミネート。もちろん底辺で喘ぐ男が抑圧の果てにぶち切れるという現代の格差社会をえぐるテーマだったことが評価の中心にあることは確かだけれど、DCが誇る「バットマン」というキャラクターの仇敵として、高い人気と知名度を誇る「ジョーカー」というキャラクターについて描かれた映画であることが最初の関心を引きつけ、映画館へと足を運ばせたことは間違いない。人気シリーズのキャラクターに関してもっと知りたいという渇望と、知っているキャラクターならきっと面白いに違いないという安心感がこうしたキャラクターの“エクスパンション”をハリウッドの映画界でも増やし、マーベル・シネマティック・ユニバースだのDCエクステンデッド・ユニバースといったシリーズを後押ししている。

 キャラクターが核になるライトノベルでも事情は同じで、人気シリーズの外伝だとかスピンオフだとかシェアードワールドといった作品が相次ぎ刊行されてはランキングの上位に顔を出す。佐島勤さんによる「司波達也暗殺計画」のシリーズなんかもそんなキャラクターのエクスパンション的作品の代表例。「魔法科高校の劣等生」シリーズの主人公で圧倒的な強さを見せる司波達也を狙いつつ果たせなかった暗殺者たちが、引き入れられては司波達也を狙うような敵を屠っていくというストーリー。そこに司波達也による俺TUEEEE的なカタルシスはないけれど、彼が漂わせる恐ろしさにひれ伏す登場人物たちの存在が、「魔法科高校の劣等生」シリーズの世界を広げて物語への関心を深めるんじゃなかろーか。

 ちょうど背景美術を触っていることもあって、勉強を兼ねてのぞいてみた三鷹ネットワーク大学「アニメーション文化講座 表現の追求 “手描きのアニメーション美術”」。山本二三さんの湿度を持った照葉樹林的美術、男鹿和雄さんの寒さ厳しさを感じさせたり抜けが良くって気持ちよく省略がされている美術と並んで動画を転写したセルに美術が絵画的に描き混んだハーモニーの高屋法子が語られたのが面白かった。「トップをねらえ!」でおねえさまと宇宙の果てまで行って怪獣と戦った人……のモデルにして樋口真嗣さんの奥さんだけれど、「風の谷のナウシカ」なんかで王蟲の表面の汚しみたいなのをセル画に描いて雰囲気を出すような技法を見せ、ひとつのジャンルになっているらしい。

 講座自体はジブリ美術館の伊藤望さんが登壇してアニメーションにおける美術の歴史を説明。のらくろなんかのシンプルな背景が政岡憲三さん「くもとちゅうりっぷ」で奥行きを持ち「白蛇伝」「西遊記」なんかを経つつ「安寿と厨子王」で作画のフラストレーションと美術の満足といった対立があり「わんぱく王子の大蛇退治」で労働争議による仲間意識からの融合が計られ「わんわん忠臣蔵」で西洋風の現代の街が描かれ「空飛ぶゆうれい船」で都市が出て「長靴をはいた猫」から「どうぶつ宝島」で宮崎駿的レイアウトなんかが目立ってくるといった歴史。

 ハイジや三千里のロケなんかも語られど根性ガエルなんかがあってジブリ作品へと至り「もののけ姫」で4人がたち得意な場面を描き「千と千尋の神隠し」で宮崎駿監督の意図を絵にし「かぐや姫の物語」の省略化された背景美術まで来たような。流れを一気に振り返るようなセミナーでありました。デジタル時代に手描きの良さを残しつつデジタルの妙味も活用する「かぐや姫」の手法後、ジブリが何をやっているかはちょっと不明。箱庭的な美術を3DCGでモデリングした上を作画したキャラなんかを動かす現代的な手法に体してジブリは何をしているか。何をしていくか。宮崎監督の新作でお目にかかれるかなあ。


【1月13日】 リストラからの適応障害的な心理的落ち込みの中で、サッカーに関する興味も薄れて日本代表とかU−23日本代表の試合をまるで観なくなっていたけれど、いよいよ五輪イヤーとなってU−23には頑張ってもらわなくちゃと思い始めた矢先に開かれたアジアでの大会で、U−23代表がグループリーグで2連敗して早々に敗退が決まったという話にこれは先が思いやられるといった印象。だっていずれはフル代表にもなるだろう若手が、世界どころかアジアですら通用していないってことだから。

 それは五輪でメダルが取れるかどうか以前の問題。いやもし五輪が東京じゃなかったら出場すら出来なかった訳で大きな問題ではあるんだけれど、同じ森保一監督に率いられたチームだけあってU−23での失策と育成の失敗が、フル代表でも発生しかねないだけに早い段階での何らかの手立てが必要だろう。つまりは解任ってことだけれど、続く人材がいないのが今の日本サッカー界だからなあ。名波浩さん長谷川健太さんあたりが登場するにはまだ早いけど、岡田武史さんでは古すぎるし。困ったねえ。

 「すずさんが、シラミの子を連れて帰るところが変わった気がしました」2019年12月20日に公開されてから4週間が経った片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」。そのヒットを記念する舞台挨拶が2020年1月13日に東京都江東区のユナイテッド・シネマ豊洲で開かれ、北條すずの声を演じたのんさんと、片渕須直監督が登壇した。

 その舞台挨拶で、のんさんが「この世界の片隅に」に38分の新たなシーンが加わった「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」となった映画で、なにが変わったかを尋ねられた時に答えた言葉がこれだった。凄いと思った。普通だったら、加わったシーンをまず挙げて、たとえば白木リンさんとの交流が増えて、すずさんに女性としての意思のようなものが見えるようになった、といった答えが返ってきそうな。ところが、のんさんは既存のシーンが持つ意味合いに、変化を感じたことを真っ先に挙げた。

 「すずさんが子供を産むという、嫁の義務について悩んでいるシーンが付け足されていました」と、新たなシーンに言及はした。朝日楼の前でリンさんと話した場面。そこでは「すずさんの葛藤だったり、北條家にいるために条件を果たすために頑張らなきゃという葛藤が大きかった」。そうしたシーンが加わった事で、映画の終わりになってすずさんが、被爆した広島の街で女の子を見つけ、呉へと連れ帰るシーンに違う意味、深い意味、濃い意味が加わったとのんさんは見た。

 「右手をなくして戦争が終わって、家事なんかも難しくなっていたすずさんが、呉で生きていく、呉が自分の居場所だと自分で決めて生きていこうとしている時に、子供を連れて帰るのには強い意思があるんです。母性、母親になるという気持ちがあるんです。だから印象が変わりました」。片渕監督は映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」について、ただシーンが足された長尺版ではなく、まったく違った映画になったことを常々口にしている。それは、リンさんでありテルちゃんといった新しいキャラクターに触れられるだけでなく、すずさんという人、あるいは他の人々の内面に深く迫った映画になったということを意味している。のんさんの言葉は、まさしくそうした片渕監督の「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」に込めた思いを、ストレートにくみ上げたものだった。

 加わったシーンも、ただ登場人物が増えただけではない意味がそこに込められていることが、舞台挨拶では明かされた。1945年(昭和20年)4月3日、北條家が二河公園へとお花見に行くシーンに現れたリンさんが、すずさんを誘って桜の木の上に上る。そこにリンさんが着ていく着物を、藤色に青いリンドウが描かれたものにしようかととして、何色だったのかを考え直し、黒い留め袖のような色にした。

 片渕監督によれば、「すずさんの頭の上に本物の戦争がやって来て、呉にいろいろなものが落ちてきた次の場面、空襲警報や警戒警報が鳴っている最中の4月3日のお花見」だったあのシーン。リンさんは華やいだ服を着ているのではなく、黒い服を着て死というものを意識しているのではないかと考えた。「ひとりで死ぬ贅沢さをリンさんは言ってしまう」。玉音放送があった日、「北條サンも最期の時に食べようと思っていお米を取り出」したように、いろいろな人たちが、死を意識して「最期の時がいつか自分の上に来るのではないかと思いながら生活していた」状況だった。

 「4月3日はお休みでした。ただ、あのあたりから沖縄での地上戦が始まっています。すずさんだけ見ていると、飲めや歌えやとなっていますが、周りにあった戦争を思い浮かべてみると、リンさんはこのまま人生をまっとうできないのではないかとう思いを抱いていた」。だから、リンさんは華やいだ服は着られなかったのではないか。そう考えて黒いいろにされたあのシーンの着物を見ると、リンさんの言葉により深く、あるいは刹那的なニュアンスも感じ取れるかもしれない。

 片渕監督の言葉、のんさんの言葉を聞けば聞くほど、」また観たくなる。観に行かざるを得なくなる。「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」にはまだまだ、観て感じ踏み込んで知るべきところがあるようだ。片渕監督の言葉では、もうひとつ自分にとっての発見があった。すずさんが草津のおばあちゃんの家で療養していたすみちゃんを訪ねてから、江波にあった自分の家に立ち寄ると、割れた窓からのぞいた中に3人の子供たちが暮らしていた。兄がいて妹がいて、もうひとりは坊主頭だから男の子かというと「まる坊主の子は妹なんです。3番目の子は髪の毛が抜けている」。

 原爆の影響。当時の江波には広島市の中心地で被爆した人たちが大勢、逃れてやって来ていた。子供たちもそんな家族だったのだろう。兄がいて妹が2人は要一とすずとすみの浦野家と同じ構成。そして末の妹に原爆に伴う放射線の影響が現れている。その前後から、広島へ救援に言った知多さんに放射線による白内障の影響か、晩秋初冬の日差しが眩しく日傘が必要になっている場面が描かれる。ゆっくりと歩く姿にも疲れが見える。北條家で暮らす小林の叔父にも体への影響が現れている。そしてすみちゃんの内出血。そうした症状の原因について、映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」では何も説明がされていない。

 同じこうの史代さんの漫画で、「この世界の片隅に」の前に描かれた「夕凪の街、桜の国」が原爆症で亡くなった女性や、被爆者たちが直接的に描かれたのとは対照的だ。それで分かるかというと、分からない人も多いかもしれないけれど、観ているうちになにかあったと感じるかもしれない。そして調べて分かるかもしれない。押しつけるのではなく感じ取り、理解する入り口に漫画「この世界の片隅に」があり映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」があるのだと言える。ただやはりわかりにくいというなら、舞台挨拶でこうして「付け足しおきたい」と言った監督の言葉を拾い伝えたい。いろいろなことがあって、そして今もそれは続いているのだということを。


【1月12日】 原作は読んでちょっと空版「ダンジョン飯」っぽさがあってグッとは引きつけられなかった「空挺ドラゴンズ」だけれど、Netflixで配信が始まったアニメーション版の方は原作の割とがっしり描かれた線とは違って繊細な線と色味によって空を行く捕龍船の活躍と、そこに乗っている人たちの活動が描かれていて拒絶する気がまるで浮かばずすんなりと引きつけられた。モニターという横長の画面だからこそ捕龍船が空に浮かんでいる感じもしっかり見えるし、船内のあちらこちらを横に移動しながら仕事をしたり、龍を獲ったりする様を伝えているのも見やすさの理由かも。

 ストーリーの方は空を行く捕鯨船といったところで、龍を獲っては肉を切り分け油を絞り骨も皮も内蔵も処理して売りさばく。そうやって1隻があちらこちらを行き来しながら一種のホームとして生計を立てている、って感じ。どこかに母港があってそこに戻る訳ではなく、行く先々で龍をとっては売りさばき、寝泊まりをしてまた空に帰って行く。そこがいわゆる捕鯨船とは違ったところかもしれない。どうしてそういう暮らしを送っているかは分からないけれど。

 デラシネな感じはだから地に足を着けた人たちから嫌われている感じも。それは龍を呼ぶかもしれないという恐怖心もあるんだろうけれど、どこか自分たちとは違う存在だとい部分もあるのかも。第1話では街に入れて貰えず寝床を用意して貰えな状況が描かれた。そこは新たに現れた龍を退治することで認めさせたけれど、普段からそうやって差別を受けながらも旅をして暮らしている捕龍船の人々が、どういう来歴をもってそこに集まったのかが気になる。男子はまだしもヴァニーとかカペラとか女子が参加しているのは特に。地上で他に仕事がなく借金の方に売られたって訳でもないだろうけれど。

 第2話では何か得体の知れない小さな龍が迷い込んできたのをタキタがおいかけ捕まえようとして捕まらず、ミカやジローも交えてどうにかこうにか捕まえて、食べてしまったら実は王室に献上するくらいの珍しい龍で20億の価値があったとかどうとか。それがどうして逃げ出したのかはさておいて、龍についていろいろと詳しいミカでも感づかなかったというのはちょっと不思議。食べられるかどうかでしか龍を見ていないのかもしれないけれど。そうやって食べる描写が必ずあるのも特徴。漫画だとそっちがメインになって異世界グルメ漫画っぽさが前面に出ていたのが苦手の理由になったけど、アニメは良いスパイスになっている。

 制作はポリゴン・ピクチュエアズ。たとえば「BLAME」だとか「亜人」だとか最近では「HUMAN LOST 人間失格」といったアニメーションを3DCGで作っているけれど、ぐにょっとしたフォルムでセルルックとはちょっと違った質感なりキャラクターの造形があったのが「空挺ドラゴンズ」では原作をブラッシュアップしたキャラクターをしっかりとセルルックでもって描き挙げている。見かけも動きも2Dライク。それでいて場面とかはしっかり奥行きがあって3DCGならではの雰囲気を持っている。

 「ブブキブランキ」なんかを手がけたサンジゲンとも違うし、「宝石の国」や「BEASTARS」のオレンジとも違うし「正解するかど」の東映アニメーションとも違うけれど、「BLAME」や「ゴジラ」といったこれまでのポリゴン・ピクチュアズさともちょっと外れた新しいルック。これは良い。この雰囲気ならいろいろなアニメを3DCGで作って行けそう。ポリゴン・ピクチュアズが一頭抜けた感じになって来たかなあ。「BEASTARS」のオレンジも負けてないけどSFでアクションでやっぱりポリゴン・ピクチュアズが先を行っているかなあ。次ぎに手がける作品にも期待。何になるんだろう。

 スニーカー文庫から出ているライトノベルの「ひげを剃る。そして女子高生を拾う。」がアニメ化進行中ということで、そのタイトルが批判されるとはまた意外な方向からだなあと思った。自分としては家出している女子校生を泊めるという行為において、そこで性的な関係とかなかったとしても、自分が追い出したらその子は性的な関係でも結んで、誰かにやっかいにならざるを得ないからという状況があって、そういった苦境におかれている未成年の面倒を見続けることが、正しいかどうかという段階において、どうもやっぱり違うんじゃないかなあと思って、読む手がちょっと止まってしまったから。

 家に帰ればネグレクトされるのなら、そういう根本問題を解決する方へと動き性的な関係を持たず虐待もされない中、女子高生が生きていける道を探って欲しかった。あるいは続く第2巻第3巻でそうなっているのかもしれないけれど。アニメ化はやっぱりいろいろ出てくるかなあ。同じスニーカー文庫だと、こちらもアニメ化が動いているトネ・コーケンさん「スーパーカブ」は大好きなんだよなあ。貧困だけれど安く買ったカブで通う内に仲間が出来て生きがいも出来た女子高生の物語。むしろ実写でやって欲しいくらいだけれど、それだと富士山をスーパーカブで登る、主人公とは友人の女子高生とかどうやって描くか大変そう。でも見たいんだ。

 イラストレーターで「トリニティ・ブラッド」なんかを担当しているTHORES柴本さんが、手間がかかるイラストの割になかなか料金があがらず、やっていくのが大変だって話をつぶやいていて、あれだけの実績を持った人でさえ厚遇できない日本の出版文化もいろいろヤバみを感じないではいられない。それこそ海外の美術オークションにペインティングが1枚出れば、1000万円だってつきそうな画力であり画題であり画風の人だけれど、そうしたアートの文脈と、イラストレータとしての活動範囲はなかなかひとつにはならないのだった。古くは横尾忠則さん、少し前なら天野喜孝さんがアート市場に行ったのも分からないでもない。とはいえイラストとアートはまた違うものでもあるので難しい。うーん。悩む。


【1月11日】 そういうお仕事を手伝っているので、少しは勉強をしなければと明治大学の中野にある校舎で開かれたオープンセミナーの「マンガ・アニメ・ゲーム・特撮アーカイブの現状と展望」を覗く。明治大学国際日本学部准教授の森川嘉一郎さんと明治大学大学院特任教授の氷川竜介さんが登壇して、それぞれの仕事の中からアーカイブって何だといった話をしてくれた。まずは森川さん。主に漫画やアニメーションに関連する資料が海外に流出しているというトピックから入って、以前からそういう傾向はあってドイツなんかで開かれた展覧会に、ハイジであるとかビッケであるとかセーラームーンであるとかいった作品のセル画なんかが個人のコレクターから貸し出されて展示されていた話なんかに触れつつ、最近はサザビーズとかクリスティーズとかアールキュリアールといった美術系のオークションで漫画の原稿なりアニメーションのセル画なりが出品されて、高値で落札されるケースが出ている話なんかを紹介する。

 個人のマニアがイーベイなんかで取引していた間はまだ、好事家同士のやりとりで値段についてもお互いの了解があったけれども昨今の、美術系オークションでのマニア市場なんかよりも遙かに高値での落札はそうした分野への世界のお金持ち達による参加があって市場があれてしまう心配があること、そしてお金になると分かるとよからぬ勢力が入ってきては一攫千金なんかを目論んでさらに市場がとんでもないことになる可能性なんかを指摘していた。とはいえ現実にそうなって来ている以上、いつか来るだろう道だと想像するならどういった対処があるか。そんなことが気になった。

 正常なマーケットったってそういったものは存在しないし、寄贈先として期待されたMANGAナショナルセンター構想も今のところは棚上げ状態。そうこうしているうちにアニメーション関連の資料は積み上がっては廃棄され、漫画の原稿も個人では持てなくなって散逸するなり売却される可能性なんかが出てきている。ちょっと前、小沢さとるさんが預けてあった門外不出のシリーズのうちの1枚がオークションにかけられていることに驚き怒りを表明していたけれど、意に沿わぬものではなくってそうせざるを得ない苦境に漫画家さんが陥った時、あるいはアニメーション制作会社が陥った時に一気に堰は切られ堤防は決壊しそうな気がする。

 一方で、世間が注目することによって展覧会なんかが開かれる道も出来てくるけれど、日本だとセーラームーンとジブリ作品とヘンタイなアニメーションが混在して日本のポップカルチャーの流れを紹介するような展覧会が果たして可能か、っていったところで悩みがひとつ。大英博物館ではドラゴンボールとセーラームーンが並べて展示してあったけれど、そうしたキュレーションを果たして国内でも許可されるのか。ジブリは協力してくれるのか。そういった方面での意識の改革があって、利活用の道も開かれ寄贈から保存、そして展示といったルートが生まれて海外流出も避けられそうな気がする。今は酸っぱい匂いがするようなセル画に100万円以上が使われる不透明市場だけれど、ちゃんと価値が見いだされ適正な価格帯が出来た先、売りつつ残すような展開があるのかどうか。見ていきたい。

 氷川竜介さんの方は、「宇宙戦艦ヤマト」の資料なんかを放送終了後にまとめて預けられたところから、今になって深い作品研究ができることを例に挙げて残す意義ってのを語ってくれた。映像で見てもなるほどこれは凄い映像だなあと思ったりはできるものの、どうやって作られた映像なのかは分からない。従ってどういう意図が込められていたかも類推するしかないけれど、当時の資料が絵コンテでも原画でもレイアウトでも残っていたら、その場面がどういう意図の元に演出され、あるいはどういう手法で作られ、それが結果としてどういった効果をもたらしたかを立証できる。

 「宇宙戦艦ヤマト」で言うなら安彦良和さんが絵コンテを描いたらしいガミラス本星での死闘の場面で、ヤマトが上からの爆雷によって硫酸の海に沈められているシーンで監修の山本暎一さんがデスラーはあくまでもヤマトが上に来ないように爆雷を投下しているだけだから、ヤマトの下で爆雷は爆発しない、そしてヤマトを硫酸の海へと沈めようとしているのだといったコメントを添えて、上にも行けず下にも行けない状況をその場面で見せようとしていたことを伝えている。映像で見てそうした意図が感じられるか、分からないけれども何とはなしにしみ出てくる緊迫感があるいはヤマトを他とは違った作品に押し上げたのかもしれない。

 戦いが終わってヤマトが着底しているかとうとそうではなく、宙に浮かんだままだという性能的にはあり得ない描写もそういう宙ぶらりんな状態で、正義なのか悪なのか、葛藤するヤマトクルーの心境をそこに感じさせようとしたらしい。なぜそうなのか、といったことを想像はできても確証を得るには言葉が必要。残された資料群からそのことが分かる。第1話で沖田艦長の艦橋が赤いトレペによって非常灯の中にいるように演出されている一方、窓の外の古代守が駆るゆきかぜは普通の色をしている。

 マスクをかけて窓の向こうを後から撮影して合成したからこそ伺える、彼我の置かれた状況の差。無事だからこそ特攻してしまうんだとう流れを、その場面の色味の工夫で感じさせようとしている。感じられたかどうかは分からないけれど、でもやっぱり伝わるなにかがあるならやるし、やらざるを得ないんだろう。そうした意図も残された言葉なりから分かる。大判の作画だからこそ出る迫力も、大判の原画が残っているから伝わること。とにかく資料を残しておき、言葉を残しておくことで後生の研究家たちがアニメ作品についてストーリーやキャラクターだけではない、設計から構築といった部分にまで巡らされたクリエイターの意図を知り、分析でき評論できる。

 だからやっぱり中間制作物も残しておくべきなんだろうけれど、場所は足りず人出もおらず利活用が収益にも繋がらないとしたらやっぱりそこは文化的資料的価値を見出せる場を作り留めおくようにするしかない。そのためのMANGAナショナルセンターだったんだけれど……。今はそれをいってもしかたが無い。かといってアラブの王族がそのアニメ作品の資料まるごと100億円で買いたいと言ってきて売り渡す訳にもいかないなら、なにかやっぱり利活用を行って価値を認識してもらうしかないんだろう。そのための下ごしらえを今やっていると自覚し、日々を丁寧に仕事していかなくちゃ。

 そんな明治大学での講演を終えてせっかくだからと氷川竜介さんが「宇宙戦艦ヤマト」の全話を解説した同人誌を買いに阿佐ヶ谷にある切通理作さんが運営している古本屋のネオ書房へと立ち寄り1冊を購入。直前におひとかた、やっぱり明治大学での講演を聴いてこれは買わないとと立ち寄った方がおられたようで、僕が買って残りが1冊になったのをどなたかが買われてとりあえず完売。いずれ入るようなのでコミケなり通販を買い逃している方は注意しておくのが良さそう。ユジク阿佐ヶ谷で「羅小黒戦記」でもと思ったらずっと完売になっていた。人気だなあ。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る