縮刷版2019年9月下旬号


【9月30日】 カネゴンが居並ぶウルトラマン通りを抜けてたどり着いた「カフェムリウイ」という場所で見た原初舞踏家の最上和子さんによるソロ公演《 水花 ―みずはな― 》は、屋上にしつらえられたペントハウスのような会場の奥に段上の座席がしつらえられ、手前に向かってスペースがあってその向こうにバルコニーに面して入口の扉があり、窓が開いたロケーションでもって開催された。まずは時間となってしずしずと登場した最上和子さんがしばらくは息を整えるか気持ちを入れ込むかしてからゆっくりと動きだし、力を入れず自然と身体の声に答えるような所作でもって中央へとたどりつく。

 しゃがんでは手にした花を口元へと持っていく動作は、7月にワークショップで体験した、座った姿勢で湯飲み茶碗を手に馴染ませ、そして10分かけて口元へと運ぶ稽古と同じ感じ。その時の経験から、湯飲みなり花を脳からの命令でもって筋肉を動かし腕を口へと運ぶという意識はなく、そうするんだという思いから自然と手が動き、知らず口元へと運んでいることが分かっているので、今回外部から見ていてこれがあの時の動作だったのかと了解する。

 意外だったのは音楽にあわせる踊りがあったことで、飯田将茂監督のドーム映像「HIRUKO」だと、無音の中を身じろぎするような動作がメインだったしワークショップでも音楽は使われなかった。だから、無音の中を内なる声に従い動くのが原初舞踏とも思っていただけに、音楽のそれも「ピアノ・レッスン」だとか「アヴェ・マリア」といった良く耳にする音楽に合わせ躍るのはどこかダンスの舞台っぽかった。なので音楽を使う時はどういうものかと尋ねたのだけれど、最上さんは音楽にはすごく影響を受けるとは話してくれた。

 ただリズムに乗りメロディにのって動くのとは違っている感じ。それはおそらくは音楽が漂い作られた雰囲気に身を委ねて感じた動きを外に出すと言ったところか。音楽に御されるのではなく音楽と共にある。だから見ていてゆったりとして悠然としていたのかもしれない。そして、これも驚きだったのは途中、ドアを開けてバルコニーに出て行ったことだけど、会場に来ていた最上さんお弟の押井守監督はそれは予想していたと話してた。ただ使い方が面白くって今までとは違ったとも。どこか躍動感があって楽しげに見えたのかもしれない。演出家はそういったところを見るのかと最上さんの解釈。押井監督はそのままバルコニーから階段を降りて去って行けば作品になったとも話してた。ただしこれは公演だからそうはならなかった。

 窓の外で躍っている場面は、場内からだと切り取られたスクリーンの向こうに現れた女優を見ているよう。ドーム映像で全天周から動きの全体を見下ろすのとはまた違った経験で、ある意味制約の中に囚われたようでもあったけれど、そうした演出を飯田将茂監督は此岸から彼岸へと移ったように感じたという。あと見ている側には切り取られた画面であっても、躍っている最上さんからは広い空間から逆にテレビの中、スクリーンの中にいる観客をのぞき込んでいる感じだったかもしれない。主体がどちらかで解釈も違ってくる。そこが舞台公演という場の面白さでもある。

 舞台の奥にある壁を越えて向こう側へと行く演出。音楽に合わせて躍る演出。それらを含めて全体に流れがあってメリハリも生まれて40分以上をひとりで踊り抜くという、当人にとっても大変だけど見る側もなかなか大変な公演が成り立った。これと同じ演目を繰り返して果たしてお客さんが納得するか、ってところでソロ公演を何度もやれないと話してた最上さんだけれど、ワークショップを経験するとその所作の奥にいろいろな思いがあってその動きに取り着いていることが分かるから、同じ演目でもそれぞれにどういう思いがその所作につながっているかを考えることができる。なのでワークショップを経て公演を見よう、とはちょっと言えないのが難点か。でも見る人もある程度は最上さんの舞踏における無意識の発露を分かっているから、演目は同じでも違いを感じてくれるんじゃないかなあ。

 日本動画協会のチャリティで落としたり、シナリオ本の復刊ドットコムでの発売だとかでもらったりしたセル画が何枚かあるから「serial experiments lain」に関しては今さら高級な印刷によるイラストも、デジタルによるアートワークの所有権もいらないといえばいらないんだけれど、世界で知られるタイトルだけあって持っていればあるいは転売で一儲けできるかお、って考えるとちょっとだけ欲も出てしまう。以前に「進撃の巨人」でブロックチェーン技術を使ってデジタルアートの所有権を世界で1人にだけ販売するようにしたアニークって会社が、今度は「lain」でもって同じデジタルアートの販売に乗り出した。

 タイプが2つあってひとつはキャラクター原案を手がけた安倍吉俊さんによるイラストから何点かと、そしてアニメーションの場面から何点かを販売。まだセル画が存在した時代の作品だけあって、「進撃の巨人」のように改めてセル画を作るってことはせずに今回は動き続けるシネマトグラフを特典を付け、別に安倍吉俊さんのイラストについてはリミテッド・エディションを注文できるとか。ファンにとっては嬉しい話ではあるけれど、「lain」についてはアニメーションがまずはすべてでそして安倍吉俊さんによるイラストがあってあとはゲームもあるって感じ。だから基本的には十分な気がする。

 それでもやっぱり気になるのは、これが世界でどこまで受け入れられるかってところかなあ。あとは話題になることで、それこそリブートめいた動きが起こらないかってこと。中村隆太郎監督が亡くなられているので上田耕行プロデューサーとしても動かし様がないって話はしていたけれど、例えばテレビで再放送されるとか劇場向けに作り直されるといった動きがあったら面白い気がする。それか実写化とか。それが成功する気はあまりしないけれど、作品として生きているところを見せてくれたらそれはそれで嬉しい。20年以上追いかけ続けている甲斐もあるってものだし。応募しようかなあ1枚くらい。

 Facebookの過去の思い出機能で5年前に書いたドワンゴとカドカワの経営統合に関するエントリーが出て来て、大塚英志さんが出した「5年後に離婚しているか、両方とも沈没しているよ」というコメントが5年経って改めて強烈に響いてきた。離婚こそしないけれどもドワンゴはカドカワの傘下に入って立場が下がり、握手していた川上量生さんと佐藤辰男さんはとおにカドカワの経営から退いた。「メディアミックスでありコンテンツ、それ以上でもそれ以下でもない」「いまはどこの出版社も本を作ることからコンテンツやメディアミックスになってしまっている」はまさしくそのとおり。

 そして「ドワンゴは自分たちをプラットフォームと定義したでしょ。そこの内容に責任がない。社会的な責任がないメディアが巨大化していくことが良いこととは思えない。終わりの始まり。終わり方には興味がない」。ニコニコ動画の存在感は下がり終わりの終わり感すら漂う。こうした言葉を5年前の発表会で、編集して冒頭で流していたんだけれど、それは自覚して改めるためではなくって自虐しつつ自嘲するためだけだった、ってことになるのかな。N高校を立ち上げた志倉千代丸さんはMAGESともども去って果たして、面白いことを生み出す余力はあるのか。5年後について大塚英志さんに尋ねてみたくなった。


【9月29日】 見てどこかに記事が書ける訳でもないけど、これまでだって見て記事を書いた訳でもないし、来訪していた真狩さんだってどこに書けそうという話でもなく、後から記事などで検証するのは不可能みたいでそれならやっぱり自分で見ておくしかなし、これから出てくるかもしれないアニメーション作家なりクリエイターへの関心を、純粋な趣味としてでも自分の中に抱いておきたいと思い、船橋西図書館にこもってSFマガジンとかの原稿を書くのを止めて国立新美術館へと出向いてICAF2019の各校選抜プログラムを観る。

 参加している大学なり専門学校なりから寄せられた各校選りすぐりの作品から、さらに選ばれた1冊ずつを上映するプログラムが各校選抜プログラム。以前に比べて参加している学校が多いためか2時間近くの上映になっている。なおかつ5分は超えられないという制約もあるそうで、作品によっては良いのにそこで落とされてしまうものもあったかもしれない。だから全部見たかったけれどそれはかなわず。昔だったら夕方に通ってでも見たかもなあ。自由業は不自由業。

 さてICAF2019の各校選抜プログラム。まずはアート・アニメーションのちいさな学校から佐藤亮、田代彩奈、植村真史による「I SEE YOU」。ストップモーションで幽霊の少年がいる家に入って掃除を始めた女性を怪異が襲う。ストップモーションならではな造形と動きが見られる作品。テレビがSADA.coで笑った。続いて大阪芸術大学の谷ありす「リフレクション」はダンスにエフェクトが重なる感じでアニメーションだけど同時にVFXな実写映像というか。ダンスがうまかったなあ。

 大阪電気通信大学の鈴木雄吏、阿倍拳仁「トマルノヲト」は「トから始まる音の集合体をシェイプアニメーションで表現した」ものとか。幾何学的で生前としていてシンプルでスタイリッシュ。ありがちだけれど綺麗だから良い。岡山県立大学の梶原伸司「CURSED」は3DCGに見えたけれど「視覚的なトリックで立体的に見せ、観客に奥行きを印象づける」というから違うのか。森の中でブロンズ像めいたキャラがエイリアン的怪物に襲われる。静謐さの中に不気味さが漂う。今はCAPCOMにいるらしい。

 女子美術大学の大野史織「くじらのまち」は花丸あげたい作品。寝ている女性の顔が綺麗でそのまま商業アニメに言っても動画原画を描けるんじゃないかと思った。そして女性が目覚めると窓の外は海。見上げて泳ぐ海洋生物たち。楽しそう。でも足下にはゴミ。見上げると魚もくじらも骨になっている。海へのゴミの投棄がもたらす環境被害を訴えるアニメーション。ACで採用して流してもらいたい。

 専門学校東京クールジャパン、って何だ? それはともかく小犬救助会「マギとカズィ」は誰かを助けるために魔法を使う2人組が材料を集めて冒険、そして巨大な猫の悲劇を切ろうとして1人が犠牲に! 商業アニメーションに最も近く完成度も高かった。伸ばしてOVAとかにしたいねえ。多摩美術大学の周小琳「四月」は立体の上を切った紙を並べ動かしているのかな。子供の経験を描いた懐かしさを覚えさせるテーマ。これが投票による観客賞の第1となたみたい。丁寧でなおかつノスタルジックなテーマだったから多くに日びったかな。

 東京藝大院のキヤマミズキ「くじらの湯」は過去にも言及したように神話と先頭がつながったビジョンと豊穣な女性像が素晴らしい。オイルだろうか? 東京工芸大学、今関拓也、カシキ、鈴木七海、星野拓「きつねの帽子屋」は背景美術をセットで組み動画を載せて動かしていくアナログさが良い。罠にかかった子狐を助けたら売り物を壊され、それでも困ったとら子狐が助けてくれるとう交流。いやその解決で良いのかとも。カユいだろ?

 東京造形大、江連秋「to bee continued」は絵本めいた絵柄で描かれる蜂による困った騒動。船上を飛び交う蜂たちといつの間にか共生しているというか。そこに孤立していた少女が入っていくというか。アナフィラキシーショックがやや気になる。だからフィクションということで。東北芸術工科大学の澤田めぐみ「paraiso」は観て感じたようにヘンリー・ダーガーがモチーフ。少女たちの戯れがゆがんでいく。長岡造形大学の黒木滉希「僕を待ってる」は精緻な街が模型に見えたけど3DCGらしい。台詞を載せてPVとして流すような作品。完成度は高い。名古屋学芸大学の山本響子「mine」は線画から2Dへ、そして3Dへとキャラクターが変わり戻る流れが面白かった。

 日本芸術大学の鈴木絃太「スロウ・スナイパー(第一話)」は、1昨年くらいに見た内沼なつみ「最終ロケット・イェイ&イェイ」に迫るかもしれない快作。スナイパーがあの動物ってだけで笑える。会社辞めてえと冒頭で言うミミズクに個人的にドキッとしたけど以後はフクロウとスナイパーのやりとりでグフグフさせらえるICAF2019各校選抜、日本芸術大学の鈴木絃太「スロウ・スナイパー(第一話)」。続きが観たいなあ。そして鈴木絃太は良い声をしていたなあ。FROGMANになれそうなくらい。

 比治山大学短期大学部の郷原由依「ENEMY」は青髪美少女がかわいかった。広島市立大学の小田普音「nobody knows」は太陽がにこにこしていた。文化学園大学の仲上仁望「ボーダーとカット」は少女とカエル少女のアニメーション。自分と内面を表した? よく動いてた。北海道教育大学岩見沢校の桑田真帆「いきつまるばしょ」はシンプルな線で表現された部屋にこもる人物に妙に共感。

 武蔵野美術大学の松島友恵「ほぼ完全に空洞になった都市」はCGで描き混まれた爆撃か何かで崩壊した都市をカメラの引き1本で見せる。緊張感があり最後に驚きも。って感じのICAF2019各校選抜プログラム、「くじらの湯」は既に凄いし「くじらのまち」と「マギィとカズィ」と「to bee continued」も楽しかった。そして「スロウ・スナイパー(第一話)」。作った人はやっぱり商業に進んだんだろうか。気になった。

 ICAF2019の各校選抜プログラムを観終わって振り返ったら真狩祐志さんがいていろいろと立ち話。ライターは大変だけれどそれをずっとやってきた真狩さんはいっそう大変だろうなあ。ICAFだって取材したって書ける媒体があるのかどうか。それこそ新聞が夕刊にページを割いて学生の最近の傾向とそしてここから巣立つ才能の多さを論評させても良いと思った。そんな真狩さんがその後に見るといっていたので、離れて原稿書きでもしようかと思ったのを変えてICAFとらのみちという企画を見る。ICAFに出たこともある学生としてアニメーションを学んだ人たちが今、世の中に出て何をやっているかといった話で「WONDER」の水江未来さんがまず答案。「LOST UTOPIA」とか「TATAMP」とか「WONDER」といった作品をざっと振り返りつつ時々に何に取り組んだかを話してた。

 「THE DAWN PF APE」ってのはチンパンジーに見せる作品だそうでアイトラッキングを取り付けたチンパンジーに見せたら1匹が覚醒したそうな。何に? 気になった。それこそヴェネチア映画祭に出てベルリン映画祭にも出てアニメーションはアヌシーザグレブオタワ広島を足して23回も出場している世界的アニメーション作家。受賞は30に及ぶけど傘下は延べ700だから打率は……。そこで見里朝希さんに聞いたら打率5割といわれたそうな。いやあでも水江さんがあちらこちらに出して切り拓いてきたからこそ、日本からアニメーション作家が映画祭に参加しようって気になった。その貢献は大きいと思うよ。

 それは続いて登壇した久保雄太郎さんも言っていた。東京工芸大の卒展が秋葉原のUDXで開かれていたときに見た「crazy for it」をスゲえと思って日本のライアン・ラーキンだと称賛してから幾年月。当人もラーキン好きだったそうで東京藝大院でも凄い作品を作ったけれど、その間に海外を夢みてアヌシーに自費で見学に行って水江未来さんや大山慶さんや土居彰伸さんと会ったらしい。院を出てカナダに1年いてあちらこちら見て歩く仕事をして帰国。東京藝大院の助手をしていたけれどそれも4月で終わって今はフリーで活動している。

 近作は勤め先とも関わりの深いWITスタジオが手がけた「とつくにの少女」の単行本付録アニメーション。ばりばり商業だけれど作風としては同じ東京藝大院アニメーション専攻を出た米谷聡美さんと汲んでどこかインディペンデントな雰囲気が残る映像を作り上げてきた。まだ買ってないんで手に入れないと。そんな久保さん、アニメーション教育を大学で受けた人たちがテレビアニメの業界にも増えててそれなりのポジションになってるって言っていた。

 「垣根はもっとなくなっていく。それは凄く良いことだと思う」と久保雄太郎さん。「テレビアニメーションのスタジオと組むことで今までなかった面白い物が生まれてくる可能性が広がる」とも。東映アニメに入った石谷恵さんの例もあるし、CMやアートで活躍している人もいる。いろいろな出口がありそう。とらのみちにはほかにdecovocalの2人や中田彩郁さん、サノヤス造船を手がけた田中紫紋さんと藤井亮さんも出たけど長いので今日はこのへんで。そうそう、ひとつ、中田彩郁さんはダークな雰囲気のアニメーションを作りつつ商業として「少年アシベGO!GO!ゴマちゃん」の1〜4期OP演出なんかも手がけている。壁を壊した1人。それをいうならいしづかあつこさんもそうだよなあ。壁はあるようでないのだけれどこれからどんどんと無くなるかも。石谷恵さんがシリーズ監督をやる日が来るのが楽しみだ。


【9月28日】 「セルフ・クラフト・ワールド」やら「この空のまもり」なんかを書いている芝村裕吏さんがMF文庫Jから出した「やがて僕は大軍師と呼ばれるらしい」は最近はやりの軍師物。人間ながらエルフに育てられた少年ガーディは、戦乱に巻き込まれそうになったエルフの集落を救うため、お姫さまと出会って面識があったイントラシアという国について、各地に侵略を進めるグランドラ王と対峙する。理解力に優れて戦中に敵の意図を呼んで狙撃があると気付いてイントラシアの姫を守り、また空を飛ぶ小人のピクシーを味方につけて偵察に使い劣勢からイントラシアを救うガーディ。異能ではなく情報の分析で戦う彼がが、大軍師と呼ばれるようになった戦いではどれあけの戦術が繰り出されるか。作者の想像力に期待がかかる。

  明日になったら気も変わっているだろうけど今のこの『舞台けものフレンズ「JAPARI STAGE!」〜おおきなみみとちいさなきせき〜』を観終わった今ならきっとこれからも続いていく「けものフレンズ」の世界、とりわけ物語を物語として紡いでてくれていくだろう舞台を見続けるために毎日を、少しずつでも重ねていこうと思っている。5年先が見えなくのたうち回っても10年先が怖くて固まっていても『舞台けものフレンズ』がまたあるぞと言われれば、その時までは頑張って毎日を繰り返していこうと思っている。そんな目標となる楽しみが映画だとか漫画だとかにあたりするなら少なくともこれからの1年なり2年を生きていくための力を無理にでも絞り出す。そんな気に今はなっている。

 もうすっかりテレビアニメーション版1期のメンバーはいなくって、動物ビスケッツもPPPも声優がそのまま衣装を着て出て来て喜ばせてくれる旧サクラ大戦的ミュージカルではなくなった。すでに=LOVEが出演した舞台だとかで声優のいない舞台が成立することは分かっていたし、前回の乃木坂48の2人がキタキツネとギンギツネを演じた舞台「ゆきふるよるのけものたち」で声優とは違ったキャストによる2.5次元へと軌道を向けつつ日替わりでサーバルを出しPPPを出しアライさんとフェネックを出してそちらにも配慮していた。

 そうやって変わって来たところに浴びせかけられたテレビアニメーション「けものフレンズ2」の驚きを経て、アニメーション版の世界線がグイッと変化を遂げたところにあって舞台は初回のサーバルがオカピを向かい入れたところをを基点して、同じ世界線の上で少しずつ広がっている形。オカピがいてクロヒョウがいてホワイトタイガーがいてタヌキがいてヒツジがいるあたりは初回の舞台から来る系譜。そこにオオミミギツネだとかシベリアンハスキーだとかアムールトラだとかブタだとかキンシコウが加わり、オオタカやらハシブトガラスやらハシビロコウが加わって増えたメンガーが、最初はサバンナのフレンズと鳥のフレンズの対立を魅せつつパークに訪れている危機を描き、それをどうクリアするかといったところで今までになかった手段を使って驚きのコミュニケーションを実現してみせた。

 SFだ。いやすでに「けものフレンズ」はSFなのだけれどさらにSFならではのビジョンを魅せてシチュエーションを作り上げてその上で過去の思いと現在の願いをつなぎ合わせ、未来を創っていこうとする気概って奴を魅せてくれる。繋がっているんだなあ。過去から現在、そして未来は。その流れを例えば今の自分は断ち切ってしまったのか、それとも新しい未来を創るために現在を迷っている最中なのか、分からないけれども言えることは未来は現在からしか作れない。ならばそれを作っていけば良いんじゃないか。なんて思うと少しは気も持ち上がった、かもしれない。気のせいかもしれない。

 とにかく驚きの舞台。その内容は説明できないけれども見ればこういう手があったかと驚ける。フレンズが生まれたのはどうして。フレンズにはヒトの記憶があるの? フレンズたちを支えるおひさまシステムはどういう仕組みなの、等々。それらへの説明とともにヒトとフレンズの関係も描かれそんなヒトへの思慕も抱きつつ生きるヒトと暮らしていた動物たちの生態も見えて来る。「けものフレンズ2」で見られたイエイヌの生態。あれに近いかも。

 そんな感涙の物語の後に、歌が続くコーナーがあって「けものみち」だとか「けものとおどろう」なんかがが演じられて舞台ならではの楽曲が続く流れに舞台の繋がっている世界線を感じ、重ねられてきた歴史を味わう。そしてやっぱりな「ようこそジャパリパークへ」。泣く。これを楽しんで聞いていておっかけましてリリースイベントをのぞいて動物園のコラボを回って最初の舞台を見てライブも行ってそして迎えたた925。そこで沈んだたつき監督が「ケムリクサ」で復活を遂げたなら自分だってと思うけど、才能なんてない自分が出来るのは日々をどうにか生きること。その中で可能な限り「けものフレンズ」を応援し、その応援する気持ちに応援してもらってこれからの何年かを生き抜こう。その先に落ちつける土台が見つかることを願いつつ。

 2.5次元といえば成田良悟さんの人気シリーズ「デュラララ!!」がいよいよもって2.5次元ミュージカルになるそうで、とりあえずヘルメットを被ったままとなるセルティを誰ガどうやって演じるのかとか、そんな興味が湧くとともに平和島静雄が果たして舞台の上から自動販売機を投げるのかにも興味が向かう。発泡スチロールで作ればそりゃあ軽くはなるけれど、重量感も含めて再現して欲しいからなあ。だとしたらそこはやっぱり役者が上演までに鍛えて自販機くらい投げられるようになるか。重さを表現する元気を学んで模型を重そうに投げるか。いろいろ問われそう。大量に出てくるキャラクターの誰を出すのかにも関心。サイモンは出て欲しいかな。


【9月27日】 なるほどそういう筋書きかだったか文化庁によるあいちトリエンナーレへの補助金カットの段取り。愛知県とかから文化庁に応募書類が寄せられたけれど、あいちトリエンナーレの実行委員会事務局が展示の内容にとてつもないものが混じっていると知ったのが応募の後。もちろん実行委員会事務局はいろいろと想定をして展示方法や警備の必要性なんどをいろいろ検討はしたみたい。ただ、文化庁は申請を受理したもののそれは愛知県がトリエンナーレでいろいろ起こることを知らなかった段階での申請で、愛知県はその後にあいちトリエンナーレの実行委員会事務局から、「表現の不自由展、その後」の展示内容や展示方法について報告を受けた、って文化庁では事の経緯を紹介している。

 つまりは応募時にはそうした展示があることは盛り込まれていなかったし、それに多大な批判が集まり危険な事態が起こることを想定されながら、文化庁へと報告しなかったことは最初に言ってた話と違うじゃないかといった理屈で、そんな嘘っぱちの申請は認める訳にはいかないとなったって感じかな。なるほどそこは役所だけあってしっかり段取りを踏まえて“できない”理由を整えてくる。展示の内容がヤバイから却下したんじゃなく、ヤバイからいろいろ対策を講じるような展示が混じっていることを言わず、そして問題が起こって一部展示が中止に追い込まれて事業が中段され、その後も再会されてないのは問題だから払わないって言っている。

 でもそれはごくごく一部の展示であって、あいちトリエンナーレというイベント事態はちゃんと始まり今なおしっかりと運営されて来場者を集めている。実現可能な内容であり継続的な事業として営まれている訳でそれが出来ていないと文化庁が異論を言えるかどうかはちょっと難しい。仮に一部であっても欠ければそれは最初の仕様とは違うものだからお金は払えませんというなら、以後の展覧会で予定されていたアーティストがやむを得ない事情から出展を諦めた段階で実現不可能だったと文句を言われる。たとえ全体が継続されていても。これはデマからもしれあいけれど、東日本大震災で一部の公演が中断だれたことに文化庁が実施されなかったんだから払えないと言ったとか。それを時の文化庁長官が止めたとか。まだ文化助成の意味がちゃんと理解されていた時代だったとも言える。

 今回は天災の類ではないとはいえ、むしろ個人なり集団がその思想信条なり目的なりから展覧会を妨害し中断へと追い込みさえすれば、文化庁はそうした事態を予測できていなかったな、そして事業を継続していないなと言って補助金を払う必要を認めないと言い出しかねない可能性をはらむ。だったら分かった文化庁が中断されていることが問題で安全性に問題があるから補助金は認めないというなら、堂々と再会をしてそして安全な中で運営をすれば良い。最初の報告どおり。何も問題はありません。そして外に向かって文化庁がやれと言ったに等しいんだからやったまでと言えば矛先は文化庁へと向かう。それでも良いのか文化庁。そういう突っ込みが起こるかどうかに今は注目。

 メディア芸術の分野でデータベースの整備をして時代どころか時間とともに消えてしまう漫画とかアニメーションとかゲームなんかをちゃんと記録し、後世に伝えていこうとしてくれている文化庁への感謝は尽きないし、メディア芸術祭を開催して国が認めて公の施設もちゃんと受け入れてそうした展示を行う意味を世間に印象づけた功績も称えなくてはならない。心理学者の河合隼雄さんとか文学者の三浦朱門だんとか、思想信条は左右前後にいろいろあってもちゃんと文化を守る意義を分かっている人をトップに据えて運営されて来たからこそ、信頼も得られ権威になっていた文化庁が文化を縛り間接的にとはいえ見張ることまでやるようになって、これで世界は日本を認めてくれるのか。不穏な空気はますます濃くなりそして向かうはいったいどこ? 戦っても勝てる世界なんて無い中で、誰もが飢えて滅びていくんだろう。もちろん僕も。フリー半年。業務委託で食いつないでます。

 そんな業務委託先で健康診断をやってくれたんで朝から電車で出かけて若い人たちに混じってレントゲンからスタート。体重身長と回って4月からこっち、取材にも出歩かなくなり1日中、建物の中にいて座りっぱなしで資料の整理だとかをしていてそして、9時くらいに家に帰り着いて弁当とか買って食べて2時間待たずに眠り朝の9時頃に起きるといった怠惰な生活を繰り返していたから、体重もグッと増えているに違いないと思ったら逆に下がってここのところなかなかたどり着けなかった60キロ代になっていた。まあ69キロではあっても73キロとか75キロあった昨年度末に比べたら確実に落ちている。それとも体重計に細工がしてあって軒並み低めに出るようになっていたのか。それはさすがにないかなあ。

 思いあたる節があるとしたら朝とか食べない上に昼もたっぷりとは食べないし、夜もどこかお金に配慮してもうひと品とかいかないようにしているから、全体として食べる量が減っているのかもしれない。あるいは不摂生が粋すぎて糖尿の気が出て体から養分が全部尿に混じって流れてしまって痩せているのかもしれない。粗食か不摂生からの疾患か。普通に健康になったとだけは言えないんだよなあ。まあそれでも土日は頑張って出かけているし、椅子に座っていたってそれなりに体力は使うし気も遣ってストレスもなかなかに溜まっている。そうした要素が重なっての体重減ならここはせっかくのチャンスと思い、頑張って63キロくらいまで落とせないか検討しよう。今のままならプレッシャーと小食で普通に落ちそう。そして栄養失調で倒れるんだ。

 霜月美佳が率いる厚生省刑事課ってだけでもうイメージが浮かばないんだけれどそれだけ物語中の時間が経ったんだろうなあ「Psycho−pass3 サイコパス」。10月に入ってすぐにも始まるかと思ったらスタートは17日でその日も放送はスペシャルだから実質的には10月24日スタートとほぼ1カ月遅れ。1回が1時間あっても全体では8話らしいから30分にすれば16話。1クールよりちょっと長めと思えば送らせて始める分、頑張っているととれなくもないけどそこはやっぱり始まってそして終わってみないと何とも言えない。残り4話は年明け回しとかってならないとは限らないし。ストーリーはイケメン2人の監視官によるバディ物っぽくてそこに刑事課一係の執行官たちが絡むといった感じ。雛川翔と唐ノ杜志恩しか残ってなくて須郷徹平や六合恂生の行方が気になるし何より常守朱の所在が気になる。あるいは局長やってたりして。ともあれ注目はSSで成長した霜月美佳の態度かなあ。やっぱり居丈高なのかなあ。


【9月26日】 これはまた難しい事態が発生したというか、あいちトリエンナーレに対して文化庁が提供する予定だった補助金の7800万円を出さない方針だというニュースが流れて、表現界隈がいろいろ騒然としている。大きな大きなあいちトリエンナーレという展覧会のごく1部、つまりは「表現の不自由展、その後」が目下、見られない状況になっていてあと幾人かのアーティストも抗議の意味から作品を引っ込めたり、変えたりはしているけれど大部分の展覧会は今なお実施されている。つまりは立派に開催されている。

 そんな展覧会に対して一部、騒動から閉鎖へと追い込まれたことを理由に全体を推進する上で手続き上の瑕疵があったから全部まとめて認めないというのが文化庁の方針。あるいはその上かさらにその上かもしれない。理由としては「開催にあたり、来場者を含め、展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識」していたにも関わらず、それを報告しなかったこと。いやいや、トリエンナーレ主催者側は運営を脅かすような事案を想定して、警備を置き配置を考え応対の用意もしていたけれど、ことのほかリアクションが激しく、また前代未聞のアニメーション会社に対する放火事件を模すといった声も届いて、これは危険だと判断して中止した。そんな流れ。

 ここで安全性が確保されて再開されれば、「運営を脅かすような重大な事実」は後退し、展覧会はちゃんと運営されるようになるんだろうか。そうなったらそうなったで文化庁はきっと別の理由を持ち出して交付金を出さないようにするんだろうか。出したら出したでどうして“日本を貶める”と一部勢力が主張する展覧会に日本として出すのかといった非難を喰らうだろうから。そこで検閲になると言って突っぱねるだけのロジックを、示すことはできれば良いんだけれど。ある意味で判断の責任を回避して手続き上の瑕疵に理由を求めて支払わないという段取りなのか? これがまかり通るなら後でいろいろ瑕疵を問われてお金が出なくなるような企画を最初から持ち込めなくなってしまう。

 もちろん最初からしっかりとすべてを想定してペーパーを用意し手続きをしながら言質をとっていけば良いんだろうけれおd、そこへとたどり着く前に気持ちも折れて企画も倒れる。そんな空気が積み重なっていった先に何が起こるのか。展覧会に限らず映画だの演劇だの文化庁の助成はあちらこちらで行われているけれど、そういう場所にも中身への吟味が及んで後からお金が出ないなんてことになったりするのかな。是枝裕和監督の「万引き家族」とか言われたものなあ、あれも今回のロジックで内容に対するリアクションが大きくなることを申請していなかったって、お金が出なかったり返金を求められたりするのかな。いろいろと厄介な国になって来た。そんな国で生きていけるんだろうか自分。

 ただでも良いから書かせてもらう場所を用意してもらい、かわりにパスを出してもらえるようにするとかすれば行けたかもしれないけれど、それもみっともない話なんでとりあえず東京国際映画祭のラインナップ発表会はパス。本番にいろいろと発表とかありそうならパスだけとっておいて後は交渉するとかできるかもしれないけれど、どこまで乗ってくれるか分からないからなあ。まあでも1カ月かあるから考えよう。そんな東京国際映画祭で、ひとつ注目は「この世界の(さらにもうひとつの)片隅に」の招待上映があることだけど、もうひとつはアニメーション関係の企画で監督特集ではなくなったこと。

 細田守監督に原恵一監督に湯浅政明監督と来たら佐藤順一監督とかに来て欲しかったけれど、そういう名前で句切って呼ぶことは今回はなし。代わりに行われるのが「ジャパニーズ・アニメーション THE EVOLUTION OF JAPANESE ANIMATION/VFX」って企画で、「海獣の子供」や「プロメア」や「天気の子」や「きみと、波にのれたら」や「若おかみは小学生!」といった今も時々劇場でかかるような映画がピックアップされて劇場にかかるらしい。掘り起こして並べて価値付けするようなキュレーションがあまり効いてない気がするけれど、それもいろいろ大変なんだと想像できるだけに、旬の作品を並べて足を運んでもらう方が映画祭的に嬉しいのかもしれない。

 ただ来年はやっぱり監督として、歿後10年を迎える今敏監督を取りあげて欲しいというのは切なる願い。新作はないけれど旧作から例えば「ジョジョの奇妙な冒険」だとか「MEMORIES」だとか「機動警察パトレイバー2 The MOVIE」といった携わった作品も含め上映して全貌を今一度、示してくれたら嬉しいもの。あとは海外で作られているらしいドキュメンタリーもう上映して、「夢みる機械」の一部が世界に出て行くようなきっかけをつくって欲しい。映画祭ではほかに「白蛇伝」とか「劇場版エースをねらえ」といった懐かしい作品や、「ウルトラQ」のリマスター版の上映もあって、これも街の映画館でやっているものをどうして映画祭でと思わないでもないけれど、省エネしつつ評判を広めるという意味合いがあるのかもしれない。そういうことにしておこう。

 ピクチャーエレメントというVFXなんかを手がけている会社が破産したそうで、ちょうど「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」にも関わっていたそうで、映画の不入りが会社の首をしめたかのような受け止められ方をしていたりするけれど、映画事態は山崎貴総監督が慣れ親しんだ白組であり、ROBOTでもって作られていて、ピクチャーエレメントの倒産は映画の不入りとはまるで関係がなさそう。でも敢えて「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」を持ってくることによて関連づけつつ映画の不入りを印象づけようとしている雰囲気があって、本質が隠れてしまう気がちょっとした。頑張れば頑張るほどコストがかかるVFX。アカデミー賞で賞をとりまくってたリズム&ヒューズが破産したのと同じ理屈。そこをどういんかしていかないと、日本の映像産業もクオリティは上がっても会社が続かない連鎖に陥ってしまうぞ。かといって質を落として生き延びるのも本末転倒だし。難しいねえ。


【9月25日】 「ジョーカー」のトッド・フィリップス監督にテレビ通話でインタビューした記事が出て、そして悪のカリスマ・ジョーカーが登場する「バットマン」シリーズを刊行しているDCエンターテイメントの共同発行人で自ら「バットマン・ハッシュ」なんかを描いていたりするジム・リーへのインタビューも記事が出て、同じ日に「バットマン」絡みの仕事を2つこなした甲斐もあったと一安心。トッド・フィリップス監督についてはやっぱり気になる「ジョーカー」の続編があるかってことで、かねてから続編はないって言っていたのを分かって共同インタビューの中でどこかのライターが、だったらホアキン・フェニックスがやりたいと言ったらどうかと尋ねてトッド・フィリップス監督がその場合はあるかもって答えてくれた。

 仮定の質問には答えられないとかいうどこかの官房長官なんかとは違って、自分のその発言がどう報じられるかを知って答えたんだからそれは冗談でもはく真剣に、ホアキン・フェニックスの意思次第でジョーカーとなったアーサーの立志伝中の物語が描かれる可能性もあるって考えていそう。とはいえホアキン・フェニックスがテレグラフかどこかのインタビューで、「ジョーカー」を観た人がアーサーみたいになってしまうんじゃないと尋ねたことに起こったか呆然としたか、そんなことはないと席を立ったりしたそうなんで自分がアーサー=ジョーカーと同一視され、引きずられることを嫌がっている節がある。そうなるともう1度ジョーカーだなんて考えられなさそうだけれど、これでアカデミー賞音主演男優賞でも獲得すれば映画会社だって黙ってはいないだろう。可能性はあるってここは観ておいた方がいいのかも。

 ジム・リーのインタビューでは新たに誕生したジョーカー像がDCのコミックなり映像なりに何か影響を与える可能性を聞いたけれど、映画についてはトッド・フィリップス監督もジム・リーが誉めてくれていたことを開かしていたように、ジム・リーはちゃんと認めていた感じ。DCエクステンディッド・ユニバースからは外れた映画って立ち位置にはあるものの、こうして新しく提示されたビジョンに対してクリエイターというのはやっぱり影響を受けるもの。ジム・リーが言うにはフランク・ミラーによる「ダークナイト・リターンズ」あたりは当初、ミニシリーズとして描かれていたものが影響されるクリエイターが多く、映画「ダークナイト・ライジング」にもなって今に続くシリアス系バットマンの根本になった。それと似たようなことが「ジョーカー」でも起こらないとは限らない。

 「どんな作品も、素晴らしい作品であればクリエイターたちのコミュニティに少なくない影響を与えるものだ。ヒーローという存在の描き方は不変であっても、進化は遂げていくもの。新たに出てきた作品が、後のDCやバットマンの伝説に盛り込まれ、直接的な影響を与える場合もあるし、間接的に未来のバットマン像に影響を与えることもある。若いクリエイターが新しい作品の影響を受けてコミックスを描くことになるかもしれない」とジム・リー。彼自身もやっぱりフランク・ミラーによるシリーズから影響を受けていることもあって、ホアキン・フェニックスの主演でトッド・フィリップス監督が作り上げたジョーカー像、その生い立ちから悪のカリスマへの変幻がシリアスを超えてリアルなジョーカーという像を造り出すことになるかもしれない。アメリカン・コミックスとして面白いかは謎だけど、でもやっぱり何か新しいことを呼びそうな予感。見守りたい。

 9月29日までの上映予定分が早々と完売してしまっていたらしい中国のアニメーション映画「羅小黒戦記」が上映館のHUMAX CINEMA池袋で続映が決まったそうで、9月30日から10月6日までと1週間ではあっても週末を含む日程に、諦めていた人でもこれで観られると駆けつけそう。とはいえ5日6日の土曜日曜は席がセンター付近から埋まり始めていて、すでに前方の左右くらいしか開いてない。自分なんかは最前列でも平気で観られる口なんで、余裕と言えば余裕なんだけれどももう1度見に行くかどうかはちょっと考え中。同じ中国から来ている「白蛇:縁起」は続映の報もないんで見に行くなら日曜日の午前9時からが唯一のチャンスってことになっている。この日は最上和子さんの舞踏の公演が夜にあるから昼間で寝ていたいけれど、チャンスを逃すのも勿体ないから予約だけはしておくか。考え中。

 映画といえばキネカ大森でもって今敏監督の「PERFECT BLUE」と「千年女優」の2本立て興行があるようで、「羅小黒戦記」なんかと被る週末がチャンスなんだけれど「PERFECT BLUE」は先だって池袋マルイでイベントついでにプロジェクターとはいえ観たばかりだからどうしたものかと思いつつ、「千年女優」はやっぱり大きなスクリーンで観てこそなのでチャンスは逃したくない気がしてる。出来ればキネカ大森よりはもっと音響の素晴らしい劇場で、響き渡る平沢進サウンドを堪能したかったけれど、一方で映画の素晴らしさと映画女優の凄まじさを描いた映画は場末感の漂うレトロな映画館で観てこそという気もする。三軒茶屋の映画館で見た時はそんな面白さを空間ごと味わったっけ。その気分を今一度、堪能しに行くのも悪くはないかなあ。考えよう。

 海外でファニメーションだとかワカニムだとかマッドマンといったパッケージを出している会社がいずれもソニ・ピクチャーズなりアニプレックス傘下にあったものが事業統合の方向に向かいつつあるとか。効率化によってより世界へとアニメーションが届くようになりそうだけれど、そちゃってチャネルが統合され世界の隅々にまで供給網が広がっていくとして、その上に載せる作品の供給元、というかそれが製作会社としたら、そのさらに源流に近い制作会社に絡んであれやこれやと厳しい話が出て来ているのはどうしたものかと思うのだった。広がった世界網によって実入りも増えて源流も潤うのなら嬉しい話ではあるものの、そうはならずにどこかにお金が消えたりするか、新興勃興の各国にお金が回ったりするかで日本の制作状況は大変なままだとなったらこれは寂しい話。「ダンジョンに出会いと求めるのは間違っているだろうか2」の11話とか大変そうだったものなあ。どうなることか。これも注目。


【9月24日】 トム・ゴドウィンの「冷たい方程式」を送り出したアスタウンディング誌の編集者、ジョン・W・キャンベルに関するパワハラで差別的な言動が問題視されて、彼の名前を冠した新人賞を受賞した女性作家が異論を唱えて賞の名前がアスタウンディング賞に変わるといった“事件”が起こってしばらく。他の賞にも波及が及ぶ中、「冷たい方程式」も女性を放り出すのはそこにやっぱり差別の意識があるから、なんて話も出ている。「英雄漂流エコー・ザ・クラスタ」ってタイトルに、そうした冷たい方程式もののにおいがちょっと感じられたけれど、ダッシュエックス文庫からの刊行だけあっていたって楽しく柔らかいストーリー。

 敵対する勢力があって宇宙空間でがちあって、殴り合っていたらそれぞれ1人ずつが乗り物ごと戦場を離れてしまって宇宙を漂い始めた。食料は40日ぶんくらいはあるし、酸素もあるから生きる分には大丈夫。冷たい方程式は必要ない。ただし敵対する2人が協力すればってことでこちらは男子で向こうは女子が1つ屋根の下、宇宙の中で最初は緊張感を抱きながら同居生活をスタートさせる。食べて寝て歌ってといった暮らしには、酸素がつきる食料がなくなるといったシリアスさはないけれど、どちらかについたら片方が捕虜となり冷凍なり睡眠なりに放り込まれる運命は避けられない。漂う中で関係を深めた2人にはそれが辛かった。そしてたどり着いた場所で待っていたのは……。

 驚きの展開だけれど、それはなかなの嬉しさを持ったエンディング。敵対する2人が40日間、仲の良い姿を見せるだけで世界はもしかしたら平和になるのなら、今のこの混乱が続く世界でも実行がが可能かというというそれぞれが裏切り者呼ばわりされてつまはじきにされるんだろうなあ。宇宙から聞こえてきた声、それを退屈していた人たちに見せて共感を誘うというシチュエーションなり段取りがあてこその成功ってことなのかも。戦争が起こったら両国の代表を集めてテラスハウスを作ってみるってのも、ひとつの手なのかもしれないなあ。やるところはないだろうけど。

 飲食物を持ち込み禁止にして、売店に長蛇の列ができておまけに試合開始の2時間も前に売り切れになって飢餓にあえぐ子供たち続出って話題になっていたら、これはやっぱり拙いと主催者側で静岡に限らず全体に食べ物の持ち込みを可能にしたとか。飲み物はダメだけど水筒を持って行けるから子供たちの熱中症はこれで安心。カレーは飲み物だから持って行けるかどうかが今は気になるところか。食べ物だからって持って行くものでもないけれど。

 食べ物に関しては、ひとりで食べられるくらいってことだから、お弁当とか総菜とかフランクフルトとか焼きそばとか、Jリーグのスタジアム周辺で売られているものなら大丈夫ってことになりそう。ワールドカップでは持ち込み禁止だから商売あがったりと引っ込んでいた屋台の人たちが、駅周辺から途中の道路に戻ってきそうな気がしてきた。今の新横浜から横浜国際陸上競技場までの道がどうなっているか分からないけれど、Jリーグとかあると屋台が並んでいるものなあ。見に行きたいけど時間もお金もないのだった。こういうところでフットワークが鈍っている。無駄に投資できなくなる。辛いなあ。

 それでも夜、寝る前くらいには自分には大抵のことはできるって思えて、テレビ番組だってディレクションできるし、書籍だってライトノベルだって作れるんじゃないかなって楽観できる。それが眠って起きる、といやいや無理だよテレビ番組だなんて取材も収録もセッティングも交渉もしなくちゃいけないし、書籍だって書き手の発掘から依頼から編集から造本からやることがいっぱいで、行って見て聞いて書いて出せばそれで終わりの記者業とは全然違うって思えて来て、たとえやってみないかと誘われても臆してしまいそう。やってみなくちゃわからないけどやって無理だとそこで終わってしまうと思うと、現状維持しか道がない。その現状だっていつまでも続くものではない。もうおしまいだ、なんてマイナス思考のスパイラルをどこかで止めないと、家から出られなくなりそうなんで起きて今日やっておくべきことをしよう。

 そうはいっても試してみるくらいは良いかもと、三鷹での最近だと海外版のパッケージをバーコードで登録してタイトルに関連したコードと紐付けする作業をカチャカチャ進め始めているのを今日はお休みして、今まであまりやってなかった映像関連のお仕事で手伝えることを探して渋谷方面へとお話を聞きに行く。映像についてはインターネット番組だったら大昔に出て喋ったことはあるし、最近でIGN JAPANのインターネット放送に何度か出て喋ってはいるけれど、体力知力が落ちているのかリアクションがうまく出ないし声もなかなか張り上げられない。ラジオ番組も昔は1時間番組でも出られたけれど、今は5分だって喋られそうもないからそうしたゲスト的な立場ではないよなあ。

 わかりやすいのがリサーチャーというか調べ屋さん。企画にマッチした題材を探すとか、企画になりそうな題材をあげるといったものだけれど、これも本業で出歩き回っていたからこそアンテナにいろいろとひっかかった。日々を家と三鷹の間で過ごしているとそうしたヴィヴィッドな情報から遠ざかりテクノロジーの最先端を気にしなくなり壊れてしまったテレビからすら、日々のワイドショー的情報すら得ようとしなくなる。起きてネットを見て本を読んでゲームをして仕事に行ってバーコードを貼ってエクセルに登録して時々ライター仕事をするくらい。それで生きていく分にはどうにかなるけど、生きている意味が見いだせるかというと……。

 週末の映画や展覧会も、有名人の講演やイベントも好きなアニメの聖地巡礼も、どこか仕事と紐付けられていたところがあったから、それを純然たる興味に戻すのを今は頑張るしかないか。生きていられて嬉しいという、そんな日々。いっそだったら実家に戻って月15万円で働くか? 向こう1年が決断の時期かなあ。ともあれ目の前にぶら下げられたひとつの選択。やってやれないことはなさそうだけれどやるには気持ちのジャッキアップが必要。それをこなしても次に何か来ると思うと自分にできるかって不安も浮かんで立ちすくむ。次に何をやらされるんだろうって半年ごと1年ごとの人事異動が毎日来るのがフリーってことなんだなあ。いずれ慣れると思いたいけれど……。みんなどうやって適応しているんだろう。そこが謎だ。


【9月23日】 第40回日本SF大賞のエントリーが始まって、どれを推したらいいかを紹介する記事も書いたけれど、そこでも取りあげたテレビアニメーションの「ケムリクサ」がわんさかエントリーされていてなかなか壮観。理由はどれにも納得で、最初は見えなかった世界像がだんだんと見えていくあの驚き、そしていつ誰がいなくなるかもしれない恐怖といったものに背中を押されて毎週を見ざるを得なかった。放送されていた時期が退職勧奨の面接でキツいことを言われて心が折られていた時期で、それを今も引きずっているだけに振り返るといろいろ浮かぶ思いもあるけど、そんな時期でも見通すだけのドライブ感を持った作品だった。最終選考に残るかは不明だけれど、存在感だけは示せた。受賞したら監督はやっぱりペンギンマスクで登場するのかなあ。

 とりあえず10月5日のイングランドとアルゼンチンの試合と、それから11月1日にある3位決定戦の試合のチケットは抑えてあるラグビーのワールドカップ日本大会。HDDレコーダーが故障してチューナーとして使えなくなってテレビがまったく見られず、ワールドカップも実はまだ見てないんだけれどスタジアムは心配されたようには空席がなく、首都圏とかでの試合はそれなりに満席に近い観客が来ている感じ。2002年のサッカーのワールドカップの時ほどには、街中にワールドカップの雰囲気が漂っている気はしないけれど、外国人がジャージーを着て歩いている姿を見かけるようにはなっていて、開催中なんだなってことを感じさせる。

 これでまだ社員だったらなけなしのボーナスを突っ込み釜石とか熊谷までしたかもしれないけれど、今の気力ではそれはちょっと無理みたい。退職金とか使えばすべての試合だって観戦できただろうけれど、ずっと未来のことを考えた時にそこで使ったお金が自分にとって何になるって考えてしまった。それを言うなら2002年のサッカーのワールドカップを何戦か見た意味って自分にとって何だったのって思うけど、見たことの意味を問えるのと問えないのとではやっぱり何かが違うんだろう。隙間だらけの人生って奴をそうした行為が埋めていく。埋めるための行為に及べない人生の寂しさを今さらながらに実感し、噛みしめている秋。

 そんなラグビーのワールドカップでスタジアムの売店が食料をあまり用意して折らず、観客がお腹を空かせて大変だという話。入口で食料品とか飲料品を没収するなら中でフードコートエリアを用意するなり売店をたくさん並べるなりして対応すべきなのに、売られているのはスポンサーのビールくらいであとはお菓子でそれすらも試合開始の前には品切になってしまうとか。おっさんファンが昼間に行ってビール飲みながら観戦するようなユルい大会ならまだしも、子どもだって来ている世界大会でこのホスピタリティはちょと拙い。

 すぐさま静岡なんかで持ち込みを可能にするって判断が下されそうだけれど、ここん家は地元の子どもたちが観戦する予定になっていたとかで、そこで飲料品を持ちこませず、中で買えとなって残暑で熱中症とか起こしたらどうするつもりだったんだろう。ビンや缶はダメでもペットボトルの持ち込みを可としているサッカー場も増えているだけに、そこは配慮が欲しかった。お弁当もダメなのかなあ。スポーツイベントのスポンサー至上主義もどんどんと極まっていく感じ。その究極とも言えるオリンピックの場でいったい何が起こるのか。興味津々だけれどその時に自分が何をしているかの方がいまは心配だよなあ。今の業務をずっつ続けさせもらえるのか、収入はどうなっているのか等々。考え出すと沈み込むので今ある仕事をとりあえずひとつひとつ、こなしていこう。祭日だけど業務委託には関係ないので、今日は西へ。

 もはや大ベテランの渡瀬草一郎さんによる新シリーズ「妖姫ノ夜 月下ニ契リテ幽世ヲ駆ケル」(電撃文庫)がスタート。田舎から東京へと出て来て住むことになった夜鳴川邸で椚雪緒は大きな白蛇に出会う。人間の言葉を話して眼にはまぶたもあってと普通の蛇とは違うのに、雪緒は動じず普通に話してそして彼女(女子らしい)が父親の八頭八尾の大蛇によって遊郭の主に嫁に出されそうになって逃げてきたという。そんな八頭八尾の大蛇「十六夜」はしばらく前から表に出てこず様子がおかしいとのこと。そして雪緒は妖怪変化が暮らす街へと乗り込んでいって事態を解きほぐそうと奔走する。

 十六夜の子に存在を曖昧にする男子がいるけど雪緒が住むことになった化猫堂の主人であやかしたちと付き合いのある夜霧でもひっかかってしまうその術になぜか雪緒はひっかからない。耐性がるのかそれとも人間とは違う何者かなのか。めっぽう強いこともあってその出自にいろいろ興味も湧いてくる。一方で白蛇が変じた少女は雪緒い強い関心を抱いた模様。十六夜の息子たちのことごとくが当主に向かない性格ということもあって雪緒と少女の子に期待がかかるといった寸法だけれど、それで回りが納得するか。そんな興味も持たされながら読み進めていきたいシリーズ。とりあえずやっぱり雪緒の正体が気になるなあ、憧れさえあればどこまでも強くなっていけるベル・クラネル並に。

 そんな「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」のテレビアニメーション第2期11話は一気に作画のレベルが下がった感じでベルくんもアイシャさんも春姫もちょっとずつ表情がおかしいというか平板過ぎて後でリテイクとか行われそう。酷く崩れているってことではないけどシャープさが足りないというかやっぱりズレているというか。前週までのイシュタルファミリアとの抗争でリソースを投入したことで、疲れが出たのかも知れない。お話し的にはアレスが攻めてきてはかなわないと見てヘスティアを誘拐しようとして途中で補足。そこでヘスティアが川に落ちてベルとアイズが追いかけるといった展開の先、神様との絆がぐっと深まる展開になっていくんだったっけ。まあ1クールなら次週で終わりで知恵を持ったモンスターとの交流を描く長いエピソードは第3期ってことになるのかな。それがあるかどうか。その前に「ソード・オラトリオ」の2期があるかなあ。何より小説の行く末がまだ見えない。追っていこう。


【9月22日】 映画をもう見たから「HELLO WORLD」で最初の舞台となっている世界も、そこから一行瑠璃が引っ張り上げられた世界もともにいろいろ秘密があることは分かっていて、そうした外側に何があるかも理解した上で野崎まどさんの原作を元に集英社のダッシュエックス文庫でライトノベルを書いている伊勢ネキセさんが、集英社文庫から出した「HELLO WORLD if ―勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする―」を読むと、堅書直実と一行瑠璃が親しくなっていくのをカタガキナオミが支えていた裏に、映画ではただの可愛い脇役でしかなかった勘解由小路三鈴がいろいろと、事情を知って頑張っていたことが見えてきた。

 たぶんそれは完成した原作とそして映画を吟味した上での後付けなんだろうけれど、というかそれがスピンオフ小説ということなんだろうけれど、これを読んで改めて映画「HELLO WORLD」を見直すと、そこで勘解由小路三鈴が未来から来たと自己紹介しているもうひとりのわたしと共に、何かやっているのかもしれないと思えてくるかもしれない。彼女が目指すのはひとつは未来から、という触れ込みで何度も自分を送り込もうとしていたカタガキナオミの不完全な影を消すこと。映画でもとてつもない数のトライを繰り返したことが描かれているから、それだけの数のゴーストが闊歩していたとなると見つけて退治するのも大変だったろうなあ。

 でもって成就した後、最初に描かれた堅書直実と一行瑠璃がいた世界では戻ってきた瑠璃と直実は結ばれるけれど、そこにいっしょに存在し続け、直実にいろいろな感情を抱くようになった勘解由小路三鈴さんがどういった思いを抱いて、その後の“人生”を送って行くかがちょっと気になった。大きな外側にある世界で三鈴は、一行瑠璃と組んで寝見る続ける堅書直実を目覚めさせようと奮闘していた訳だけれど、そうした関係は自分の元からの世界では築けないし、瑠璃や直実にも奮闘は気付かれていない。ちょっと可哀想。ひとつ上の世界ではそもそも三鈴は絡んですらいなかった。彼女が幸せにその後を生きられたのか。ちょっと知りたい。

 そんな宙ぶらりんになってしまうキャラクターでも、決してモブではなくって中心近くでいろいろ考え生きていて、これからも生きていくようになっているならあの世界は電子の海に作られたデータの固まりなどではなく、実態を持った本物ってことになるなんだろう。小説ではもはや実態を持って意識も持った本物たちが生きる世界になったとも書かれている。それが物質的にそうなったのかまでは判然としないけれど、データから実態となって分裂し、結実した世界が泡のように重なり合ってこの宇宙が出来ている、なんてこともあるのかもしれない。その場合の神は誰? 野崎まど? いろいろと考えさせて食えるなあ。

 月収が20万円くらいになっていて、それはそれで食えはするけど来月も再来月も来年も20万円を維持し続けられるか分からないし、そこで維持し続けることが相手にとっても自分にとってもベストかどうかが分からないとこに、今のこの落ち着いているようで落ち着かない気分の原因があるのかもしれない。離れて分かる元いた場所の安定感。利用するだけ利用し尽くせば良かったとも思うけど今さらどうしようもないのが心を苛む。いつ晴れるか。諦めた時か。それより年収が200万円くらいの家庭が増えて糖尿病とかが増えているってニュースを読んで、自分の健康がちょっと心配になって来た。

 この半年、食べるものが大きく変わったことはないけれど、というかむしろ粗食になっているけど取材に出歩いていた分の運動が激減しているのがちょっと心配。太ってはいないけど痩せてもないし、皮下脂肪が増えているような感じもある。幸いにして業界大手は業務委託にも健康診断を受けさせてくれるので、受けて心はダメでも身くらいは大丈夫かを確かめたい。悪くなっていてもどうしようもないんだけれど。今さら朝の7時に家を出て8時半から5時半まで仕事をして帰る暮らしなんて出来るかって不安もあるし。それだったら元いたところで閑職でも嫌がらせでもいいから仕事を続けていれば良かったなんて思って気分のマイナススパイラルが始まるのだった。断ち切れないなあ半年では。

 池袋のHUMAX CINEMASで中国のアニメーション映画「羅小黒戦記」。午後5時からの回が満席で、見渡すとだいたいが中国の人たち。そして若い。女子もいっぱい。日本に来ているんだなあ。それとも日本で暮らしているのかな。話はとっても面白い。妖怪なり妖精が暮らす場所を追われて人間に溶け込み生きるようになる中、人間に逆らい自分たちの居場所を取り戻したいと足掻く妖精もいたりして、一方で人間との共存を遂行している会館の面々もいたりして、そんな狭間で猫みたいで熊みたいにもなって子供にもなる小黒をめぐって引っ張り合いが起こるという話。

 最初は暮らしていた森を追われ街に来ていたところを助けた反文明チームにいた小黒だけど、その中の1人をとらえようとする無限という会館側のなぜか人間なのにむちゃくちゃ強い青年がいて小黒を捕まえ島を出て旅をして都会にある会館を目指す。その道中が山あり谷あり笑いあり修行ありで楽しいというか。逃げようとしては捕まり食べようとしては拙くてはき出すような小ネタをテンポ良く重ねて笑いを取る。見ている人たちもしっかり笑う。面白いからね。どこか4コママンガ的ともいえそう。そうした積み重ねで綴られるストーリーの途中、現れた反会館のチームに小黒が狙われ襲われ奪われそれを奪還しようと無限が戦いそして……。人と妖精はわかり合えるか否か。わかり合えないまでも共存は可能か。そんな問いかけをしてくる。

 まあ「ゲゲゲの鬼太郎」だとか「夏目友人帳」だとか、人間と妖怪やらあやかしやらとの共存か離別かを描いた作品は日本にもいっぱいあって伝統となっているけれど、それを中国を舞台に描いて今の日本で見てもちゃんと分かる内容になっていて彼我の違いなんてものがないってことを教えられた感じ。アニメーション作りの技術においても。見てキャラクターはかわいくてかっこよくてよく動く。アクションもすごければ音響もすごい。街がいっせいに破壊されるような場面のズンと来るところとかAKIRAが目覚めたかと思ったよ。

 そんなアニメーションを作って見せて日本にいる中国の人がいっぱい来て日本の人も見て、ともに楽しめるところにアニメーションの良さってあるなあ、テーマには自然と人工、人間と妖精、過去と現代、といった2項の対立か共存かなんて普遍のものがあるからわかりやすいってこともあるのかも。ただし見せ方として冒頭からハイスピードハイテンポで進んで状況を理解する間もなかった感じがあったかも。自然の中で生きてた小黒が追い詰められ、追い立てられ,救われたあたりでテンポを落としてどうなんだと分からせ、そして相手が何者で何を目的としているか、分からせてくれた方がありがたかったかも。「KUBO/クボ 二本の弦の秘密」だとそいうした旅程へと至る段取りがちゃんと分かって旅路を眺めていられたから。

 キャラクターもどんどんと増えていくし見せ場をバンと作るというより次々に登場させるから誰が誰だか。ああでも会館側のちびっ子で領域に突っ込もうとして入れなかった子供はしっかり描かれていたからわかりやすかった。お気に入りなのかな。とにかく楽しめるしいっしょに見ている中国の人たちの嬉しそうな笑い声とか鑑賞前のおしゃべりとか聞けてアニメーションに国境はなく誰もが楽しめるものだと分かるのがちょっと良いので公開中にぜひに劇場に足を運んで見て欲しいとお願い。


【9月21日】 何度か着けたり消したりしていたら以前は立ち直ったハードディスクレコーダーが今回ばかりはファンが停止している影響で起動せず、そのために地デジのアナログ変換機としての機能も働かずテレビ放送が見られなくって、開幕したラグビーのワールドカップに登場した日本代表の勝利を目の当たりにできなかった。とても残念。相手がロシアとはいえ日本のラグビーがワールドカップという場で勝利するのを見る機会なんてそうそうあるものではない。現地でなくてもテレビを通して見たという記憶は、きっと永遠のものになるはずなのにそれをできずに悔しかったかというと、記憶を将来どうするんだという疑問が立ち現れて何かどうでも良くなってしまった。

 たくさん放送されているアニメが見られなくなったのも、見てそれが自分の人生のどこでどう役立つんだという気持ちが浮かんでしまったから。好きではあってもとことん内部から好きかというと、好きである自分を動かして世間に存在をアピールしていたこともあってか、そうした場をふさがれるととたんに見る意味を見いだせなくなってしまうのだった。グッズを買うのも同様で、そうやって買っておくことで得た関心を将来の発信に役立てたいという色気山気がかつてはあった。今はグッズを買う金にも乏しい中で、そこまでする意義を見いだせない。内容が現実のつらさを助長するものもキツいけど、こうして好きだったものを好きだと思えなくなってしまうことの方が怖い。

 本がまだ読めているのもどこかで感想文を書く機会を得られているからで、これが途絶えてしまったらもう身動きがとれなくなってしまいそう。そうならないためにも今、生きている意味を見いだしそに生きている中でアニメを見て楽しむ、グッズを買って微笑む、本を読んでうれしがる意味を感じ取る必要があるんだけれど、浮遊する中でそうしたモチベーションを保つのはちょっと大変。とはいえ沈んでばかりでいると身動きがまったくとれなくなって、1日をベッドの中でまどろんでしまいそうなので、気合いを入れて「HELLO WORLD」をドルビーアトモスで上映されるイオンシネマ幕張新都心へと見に行く。現実が現実じゃなく改変が可能なような設定は、自分で選んでおきながら戻れず変えられないことにクヨクヨしている自分には、とことん相性が悪いんだけれど。さてどうだ。

 そして見た野崎まどさん原作、伊藤智彦監督の「HELLO WORLD」はドルビーアトモスを巨大なULTIRAスクリーンで上映するという豪華な布陣だけれど、そこまで大きなスクリーンに見合う絵柄かというと、たってシンプルというか指が太くて手乗りらが丸っこくてかわいらしいというか昔懐かしい感じ。ちょっと「revisions リヴィジョンズ』にも通じる造形は、白組と同じ3DCGでモデリングをするグラフィニカだとそういう風になるのか、わざとそうしたのか。「楽園追放 −Expelled from Paradise−」はもうちょっと先鋭的だったら、単純に堀口由紀子さんのキャラをモデリングしたらそうなった、ってことなんだろう。つまりは「けいおん!」と同じ堀口キャラなんだけれど、京都アニメーションの作画力があってこその「けいおん!」動きと表情と仕草でもあって、そんな京アニ的2D作画の神髄を投入して、キャラクターの豊かな表情だとか細やかな仕草で見せる映画というよりは、3Dによるモデリングで普通にそこにいて動いて喋るキャラクターにしてあったといった感じ。かっこよさとかかわいらしさとはちょっと違う。

 でも、それでも物語の中で意識を持ち意思をもって動き始めるとちゃんと生き生きとしてくるから面白い。それが"アニメーション”ってことななんだろう。そんな造形の映画「HELLO WORLD」のお話については、まずひとつの予想どおりに、というか原作の冒頭を読んで分かっていたように、そこは作られた世界だけれど現実に即して厳密に作られていて、そんな現実で起こった悲劇を作られた世界では繰り返させないといったお題目から、堅書直実という高校生のところに、未来の自分がやって来て、今の直実に近く彼女になるという一行瑠璃という少女と仲良くなって、そして落雷の事故から守れと言う。

 作られた世界であってもそこに暮らしている人たちには現実だったら守りたい。そしてモデルになった現実からずれても救いたいという気持ちを出して、高校生の直実が頑張りひとつのことを成し遂げた時に分かった企み。けれどもそれすらも覆う状況が出てきて世界はどんどんと外側に膨らんでいく。どこが現実か。どこからが現実か。それとも現実なんてもう存在していないのか。ラストシーンに見られる逆転もまた入れ子の中のひとつかもしれない可能性を味わいつつ、それぞれの世界が幸せであれと願う。

 正真正銘の現実のモデルから切り離されることによって世界がいくつもいくつも存在し、それぞれに自在に発展を遂げていくという可能性は、まるで平行宇宙のように。あるいは世にある異世界だの平行宇宙は、そうやって作られては切り離されて漂流しているALTERAたちなのかもしれない。結末の部分の"逆転”はどういう解釈のものなのか、あれはいつの時代でたとえば「know」なんかから繋がっているものなのか、映画を見るまで抑えていた原作をこれから読もう。


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