縮刷版2019年9月上旬号


【9月10日】 120億円だからまだ250億円の「君の名は」の半分にも届いていないけれど、新海誠監督の「天気の子」は興行通信社の週末ランキングでは返り咲いたT位から落ちたものの未だに2位でもしかしたら1位への返り咲きもあったりするかもしれないと考えると、125億円は突破して150億円くらいには届きそう。200億円となるともうちょっと話題性が欲しいところだけれど、大人の層に口コミドライブが広がり始めているから涼しくなって見に行く人が増えていけば「君の名は」に続いての200億円越えも夢ではないかもしれない。

 というか、日本の映画監督で100億円超えを果たしたのって「千と千尋の神隠し」の宮崎駿監督と「躍る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ!」の本広克行監督、そして「南極物語」の蔵原惟繕監督しかいない訳で、そして2度となると「躍る大捜査線」を含む本広監督と、「風立ちぬ」「もののけ姫」「崖の上のポニョ」「ハウルの動く城」が並ぶ宮崎監督くらい。5本の宮さんは別格としても2作品を100億円超えにしてなおかつ「大捜査線2」の上に並べられる可能性もある新海誠監督はもはや国民的監督と言って良いんじゃなかろーか。

 なおかつ新海誠監督は世界でも好評といった利点がある。「君の名は」は世界で3億6000万ドルで「千と千尋の神隠し」を抜いて日本映画1位。今回の「天気の子」も中国だとかインドだとかキャパの大きな場所での上映が続々と決まっているから、もしかしたら「君の名は。」だって抜いてしまうかもしれない。男子と女子の入れ替わりという割と日本的で「らんま1/2」的なサブカルっぽさも持っていた「君の名は。」と違って「天気の子」はストレートに少年と少女の今とこれからが、頽廃へと向かう世界の中に描かれている。

 荒ぶる世界の若い世代の共感を誘いそうな内容。これがアカデミー賞の外国語映画賞を取るなり、エントリーされて長編アニメーション賞をとればなお世界ではね上がりそう。そうなると次、何を作るか大変になりそうだけれど前回から今回で商業性が増したかとうと逆だから、作りたいものを作りつつ作って欲しいものも作る采配を見せ、世界に冠たるアニメーション映画監督として君臨していくことになるんだろう。その位置に先に細田守監督が収まるかと思ったけれど、家族と自分に囚われてしまった感じがあるかなあ。テレビとかで商業を長くやった反動? 対してインディーズから遣りたいことを表現してきた新海誠監督が抑制を覚えた結果、ポスト宮崎駿の最前線に立った。ちょっと面白い現象かも。後に続くのは誰だろう。やっぱりインディーズ出身かそれとも商業からのドロップアウトか。要注目。

 書けばネットならすぐさまで、新聞でも翌日とか翌週で雑誌でもムックでも数週間から数ヶ月以内には掲載されて何かやった感が得られる物書き仕事とは違って今、自分がしているこれがいったい何になるのだろうと考えてしまうところに、もやもや感の要因があるのかもしれない。とはいえそうした作業を必要だという確信をもって5年10年と続けてで結果を出した先例があるから、今の作業もきっと何かの役に経っているのだとこちらも確信するしかないのだろう。それにしても「残念くのいち伝」とはいったい何のためのものだったのか。調べてみたてら……。

 いやあ、これは分からない、HDDの内容が書かれたラベルににZNKPVっていうアルファベットが並んでいて、該当するような作品がないか自分で作ったXEBECの制作リストをしらべてもそんなものは存在しない。前鬼とかジンキとかそんな類かというとまったく関係なさそうで、こりゃあ記号のままスルーするかと思い、とりあえずWMPでは開かなかった動画ファイルをダメ元でQuickTimeで開いたら、何と中身が見えて「残念くのいち伝」だと判明した。調べたら介錯さんの漫画で単行本が4巻までリリースされている。でもタイトル名とアニメで調べてもテレビアニメ化された感じは無し。いったいどこでとネットを漁って、柱エ信義監督による単行本のおまけPVだったと判明する。

 あの「宇宙戦艦ヤマト2019」を手がけた羽原監督が、そんな時期に重なるように作っていたとは。なおかつ大々的に単行本付きビデオとしてリリースされた訳じゃなく、ショップの特別限定版として売られたものにCDドラマとともに付属していたというからレアもレア。なるほどこういうのってネットに動画が流れていて不思議じゃないのに、どこにもアップされていなかった訳だ。とはいえ貴重なXEBEC作品な訳で、それが作られた記録はやっぱり残しておかないといけないんだろう。とりあえず8月にどうにかこうにか作り上げた作品リストの1版上くらいにのっけておくか。映像がいつでも見られる状態にしたいけれど、こればっかりは権利者のいるものなので普通には無理。いつかXEBEC展でも開かれたらその時に引っ張り出されれば幸いか。覚えてもらっていられればだけど。

 大河ドラマが渋沢栄一を取りあげるとかで主演が吉沢亮さんだと発表に。大手町から日本橋へと向かう途中にある銅像の渋沢栄一は太って顔立ちも丸い爺さんだけにギャップが激しく老年になった渋沢翁を吉沢さんが演じるかに興味が募る。あと原作が城山三郎さんの「雄気堂々」じゃないのも。現代に出回っている渋沢栄一の物語でそれがほとんど唯一だからなあ。なのでこれから誰かいっぱい書けば便乗本として売れるかも。とりあえるライトノベル作家は現代に女体化転生した渋沢栄一が得意の経済と人心掌握術で経済に切り込み大改革する話だ。敵はこちらも女体化転生した岩崎弥太郎。あるいは若き渋沢栄一が異世界に転生して株式会社を作り取引所を作って経済を持ちこみ財を成さずに庶民を助ける話とか。書かないなら書いちゃうぞ。


【9月9日】 ライター仕事で朝から船橋西図書館にこもっていたので見られなかった日曜美術館の高畑勲監督特集で、出演した片渕須直監督が「この世界の片隅に」とか「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」に続く作品のイメージボードをさらりと見せたとかで、後になって知って見て平安時代の女御たちがわんさかいたりするその光景に、いったい何を描くんだろうかと今から興味津々。もしかしたらこの中にひとり男が混じっていたりして、帝の暗殺を意識しながら後宮で繰り広げられる野球大会に参加していくってストーリーになるのかな、ってそれは「硬球楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール」じゃないか。ないない絶対ないい。

 ないとは言っても他にだったら後宮めいた場所で何が繰り広げられるのか。奇妙な事件が起こってそれを女装した陰陽師が潜入して解き明かすのか、それとも女御に見えるのは全員が男性で逆に帝が女性なのを共に隠して異性装していたりするのか。集団型とりかへばやというか。まあそれもなさそうだけれど気になるのはセンターに構えた三ツ目だか五ツ目の鬼みたいな存在だなあ、悪者には見えないけれど主人公めいてもいない。というか誰が広いんだ。ひとり下女めいた娘も混じっているから彼女? でもどちらかというと親友ポジションってことで、姫に下女に化物が組んで事に当たる物語、って想像したけどこれいかに。ちなみに鬼の声は栩野智幸さん。間違いない。

 仲間内での叱咤といった範囲をもはや超えていたってことなんだろうなあ。N国党の党首の人がかつて区議会議員選挙にN国党から出たけど離党した人に向かって脅迫めいたことを言ったとかで、警察が事情聴取に乗り出したとか。自分のところから出て逃げたんだからそりゃあ憤るのも仕方がないって言えたりするのかもしれないけれど、それですまないような何か行使が伴いそうな雰囲気でもあったのかもしれない。これは市会議員選挙の方だけれど演説中に異論を示した人に党首や候補者や支援者が寄って車から引っ張り出したようなこともあったっけ。あとマツコ・デラックスさんが出演している番組への押しかけとか。相手がもっとすごい権力者なら喝采も出ただろうけど有名人とか一般人を相手に憤ってもそれは恐怖しか誘わない。流石に周囲もこれはと思い始めたところにこの件でどうなってしまうのか。気にしていこう。

 千葉あたりを直撃した台風のせいで船橋市も港の方とか浸水がありそうだったり、山側では崖崩れがありそうだったりしていろいろ勧告も出ていたみたいだけれど、駅の回りはいたって静かで風雨で寝られないってこともなく、気付いたら朝になっていた。吹き込んだ空気で蒸し暑さもあってただでさえ気鬱な頭をどんよりとさせたけれど、ちょうど3週間ごとのクリニックだったんで行ってまだまだお世話になろうと思ったものの、果たして開いているのかが心配になって、気鬱さがグッと深まった。

 それというのも、ちょうどその日に薬が切れてすまうことになっていて、文字通りに気休めではあっても齧らないと余計に沈むことは分かっているので、休んでもらっては困ると思いつつ行ったらひとり先生が開業の準備をしていて、ほぼほぼ時間通りに診療してもらえた。泊まったのかな。車なら普通に来られる場所に住んでいるのかな。ともあれいろいろとご相談、といっても状況としては進んでも退いてもいない膠着状態。今の作業賃で当面はどうにかなるという金銭的な楽観を抱きつつ、名古屋人気質が邪魔して不安を誘って落ち着かない。

 あとは何かを伝えて読んでもらうという染み付いた承認欲求がなかなか抜けず、残っていればまだ目もあったかといった気分が浮かんで早まった感をあおり立てる。そういう保証はないし過去、7年も塩漬けにされたんだからあり得ないとは分かっていても、潮目が変わればなんて思いもやっぱり浮かぶのだった。そうした後悔や未練をどうにかするには伝えて稼ぐ仕事でも始めるしかないんだけれど、そんな根性ないから今があるわけだといった不甲斐なさを、抱え続ける限り状況は変わらずいつか目的と化したクリニック通いが続いていくのだろう。

 なんて話を先生として退散。事務の人もいないので会計は後回しにして処方箋だけもらい近所の薬局で薬をもらってこれでしばらくは大丈夫か。効いているなら楽観ばかりに浸れるのかというと問題の先送りでしかないとわかっているので大きく沈ませない程度の役の立ち方か。それでもない時はひどかったから随分とましになった。薬をもらい駅に行くと船橋駅は人でいっぱい。戻って寝てしまおうかとも思ったけれど、仕事が気持ちの生命線になっているところもあるので行くにはいこうと東葉高速線で西船橋まで出て。直通がないので乗り換えて東西線で西へ。こういう融通が効くのはフリーのありがたみであると同時に、行かなければ何もないというのがフリーのつらみ。晴耕雨読とはなかなかなれないのだった。今日もこうして生きている。

 なろうとかエブリスタといったプラットフォームはまだなくて、個人が自分のサイトだとかブログだとかに小説を“連載”していた時代がしばらくあって、そこから川原礫さんも登場してきたしカルロ・ゼンさんも現れたって言えるのかな。一方でトラックに跳ねられ異世界転生といったある種のフォーマットもまだ固まってなくって、異世界に行って何をするのかを大喜利的に考え打ち出していく今の状況なんて考えられなかっただろう2006年に、こうして異世界転生の物語は書き始められたって感じをあたえてくれる小説が登場した。

 伊藤ヒロさん「異世界誕生2006」(講談社ラノベ文庫)は交通事故でトラックに跳ねられ死んだニートの息子を思って母親が、息子の残した設定を元に小説を書くことで、息子は死んでおらず異世界を旅しているだけだと思い込もうとしているという設定のストーリー。ある意味であり得る動機なだけに世にはびこる異世界転生物語には、本当にそうした無念を晴らそうとしたものが含まれているのかもと思えてきた。当初は異世界転生ものへのカウンターめいた話だったらしいけれど、母親の息子への思いがあり、息子のどうにかなりたいという願いがあってそれが交わらないまま重なるような寂しさと悲しさを、味わわされる話になってちょっっぴり泣けてきた。親不孝してるものなあ、俺。せめて異世界に逃げずに今を生き抜いて、晴れ晴れとした顔を見せられるよう頑張りたい。頑張るぞ。頑張るのだ。何が何でも。


【9月8日】 東京オリンピックに関わることと、メディアに関わることはそれがポン酢っぽいなら徹底的に批判して良いような風潮がネットにあって、まあ確かにメディアはやり過ぎるし東京オリンピックもポン酢ばかりを繰り出しては来ているけれど、中に真っ当な事があるにもかかわらず、それをポン酢めいて報じたり受け取ったりするから、いざというときにそれが受け入れられなくてとんでもない事態にならないかとちょっと心配。何かって夏のマラソンの向けてかち割り氷を配りゴールに氷風呂を用意して熱中症を防ごうという施策のこと。

 かち割り氷を配って脇とか首とか冷やすのが果たして適切なのか、そんなものを持たせるよりミストを降らして涼んでもらうべきなんじゃないかとは思うけれど、早急に冷やすにはやっぱり局所を集中して冷やすしかないのならそういう手段もあるだろう。でも氷水じゃなくそうした専用のパッドかなにかを作って提供して欲しいなあ。商品としてそれが良い物なら灼熱化が進む日本の夏に大いに売れるし。そして氷風呂。すなわちアイスバスは熱を持ってゴールに飛び込んだ選手をいきなりつけて大丈夫かって声も出ている。

 ただこれは、海外なんかだとアイスバスとして実際に導入されている熱中症対策で、アメリカで8月後半に開かれる11キロメートルのロードレースで50人を越える熱中症を思わせる症状の人たちを守り死者を出さずに済ませたという。ただ要点として直腸温を測定して40度以上であることを確かめる必要があり、そしてアイスバスに浸けている間も低体温症にならないかを調べるために、常に直腸温をモニタリングしておく必要がある。とはいえ脇の下とかで測るのと違って、直腸体温計は器具も特殊だし使い方も難しい。すぐにやれと言われても出来るものではない。

 何しろお尻に体温計を刺す訳で、測られている選手も大変なら測っている周囲もなかなかに大変。必要なこととはいえ恥ずかしさも伴うそうした行為を、必要だからとすんなりできる空気なり体制を東京オリンピックの競技の現場にこれから1年未満で作れるか。そこが課題になる。AEDの女性への使用がセクハラ問題を取り沙汰されて躊躇を読んでいる国だけに、メディアの小ばかにしたような報道とそれを受けた一般の蔑みを越えて、真っ当に議論され検証され導入されて欲しいなあ。ボランティアで直腸体温計を担当したい人とかの育成も含めて。

 夜に雨が降るらいしので遠出は避けて、いつもの船橋西図書館で朝から3時間ほどこもって電源とネットを活用しながらCEDEC2019のセッションリポートで書きづらかった、自動運転とゲーム技術の関係に関する本を仕上げ、船橋駅前のドトールに戻って細部を整え送っててとりあえず依頼分は完遂して収入を確保する。これを元手にすればイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンで「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」だって見て平気だった気もするけれど、舞台挨拶付きのが当たってたんで見るのはそっちまで我慢する。あと帰って来られなくなる可能性もあるし。

 でも以前だったら関係ないと出かけていって違う環境だからと見たんだろうなあ。そこが前と今とで違うところ。こういうストレスが心を静めてしまうのかなあ。以前ほどにはもう絶対に稼げないという確信も得て、こういう気分が一生続くのかなと思うとなかなかに気分も沈むけど、残ってしばらくむだ遣いをしまくったところで6年後にはもっと高齢で似た境遇になっただろうから早いうちに慣れておけたということを是とみるべきか。早くに次の楽しみが得られれば気鬱も晴れると思い、とりあえず手持ちも豊かな今をのんびりと過ごして、来年にどうにかなるような気楽さで過ごせば良いだけなんだけれど。

 とは言え、今をどうにかしないとという焦りはなかなか抜けないもの。どうしたら良いか考えあぐねているところに流れて来た、折しもデンマークに行ってるアニメーション作家の幸洋子さんのツイートが、日本だと妙に焦ったりやることがあるのに退屈してしまうのが、デンマークにいると目の前のことに集中しなくちゃいけないから焦りも退屈もなくなるって書いていた。自分もどこか遠くの島にでも行って、他にやることがない境遇に自分を追い込んで退屈からの焦りを吹き飛ばすって手もあるかもしれない。沖縄に3カ月とか1年とかいたらどうなるかなあ。それなら実家に1年引きこもるか。それだともっとダメになるかな。今はまだ新しいことを誘われても自信のなさに逃げ出しそうな心境。例えば番組ディレクターとかやってと言われてやれるだろうか。夜に出来そうと思っても朝に出来ないと沈むモメンタム。ここをまず、突破するにはやって成功しないと。頑張ろう。

 そしてぐるりと回って「ヒマワリ」が「ミスマルカ皇国物語」へと繋がった第8巻。ウィル子をさらに発展させたようなゼネフが立ち上がっては世界を支配しようとして、川村ヒデオとそして情報体となったヒマワリによって阻止されたもののヒデオはやがて亡くなりウィル子は存命ながらもテクノロジー事態が衰退した中で力を出せず。けれどもヒマワリはボディを何かに換装してはマヒロとジェスによって掘り返されたみたいで、ここから「ヒマワリ」であり「レイセン」であり「戦闘城塞マスラヲ」であり「お・り・が・み」といったシリーズとのミッシングリンクが埋まり、人類がふたたび勢力を盛り返す物語へと発展していくことになるのかな。

 エーデルワイスらがグランマーセナル帝国とは違った回路で動いていたのはゼネフと関係してたからだっけ。その辺り、忘れてしまっているので掘り出してミスマルカを読まないと。アニメ化もされず漫画も途中で終わるのによく続く。そしてこれからも続いて欲しい。もはやアニメ原作と化さねば生き延びられないか、ネット発で読者の洗礼という振るいにかけられたものしか出せない中、媚びず阿らないで作者の世界観だけで勝負できるライトノベルって貴重だから。本当に貴重だから。頑張れ林トモアキさん。


  【9月7日】 山下達郎さんのライブで今、世界でシティポップが人気になっているという話から「GO AHEAD」に入っているBomberを歌ったり竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」をカバーして、流れてネットで世界で「プラスティック・ラブ」が人気なのを確かめたりしていたけれど、そこからどうやら日本のアニメーションとシティポップをくっつけるMADなムービーがいっぱい作られていることを発見。「プラスティック・ラブ」もあって達郎さんがカバーしたのはたぶん「スペースダンディ」がバックにつけられていて、腰を振る2人の動きがマッチしていてついつい見入ってしまった。

 続けざまに竹内まりやさんの「プラスティック・ラブ」が流れたけれどもこっちは日本アニメ(−ター)見本市から吉崎響監督の「ME! ME! ME!」でキャラクターがいっぱい出てきて腰を振るシーンが延々。これもまた見入る絵ではあるけど、歌と関係があるかとうとそこはまあ微妙かも。とはいえ絶妙なタイミングであることは事実。これは別の映像だけれど達郎さんの「Daydream」に、なぜか列車でドア口に発って外を見る女子学生とつり革につかまった勤め人たちが登場したアニメ(多分ジブリ)が重ねられてあって、リズムに合わせて勤め人の腰が少し揺れるだけなんだけれどこれもタイミングがばっちりでつい見入ってしまった。

 「スペースダンディ」とか「ME! ME! ME!」は選ぶセンスと切り取るタイミングがなかなかで、「少女革命ウテナ」とか「美少女戦士セーラームーン」なんかからも抜かれていて内容とのマッチはともかくリズムと動きのシンクロが抜群。「マクロスプラス」なんかもあってこれもしっかりハマってた。他は1980年代のアニメーションからいっぱい抜いてきている感じでどこから持ってきたんだという驚きと懐かしさ、あと楽曲そのものの懐かしさはあってもマッチングは今ひとつ。センスってのはやっぱり編集に現れるものらしい。いっそだからアニメとシティポップのオーソリティが手を組みシンクロ率の高いものを作れば受けそうだけれど、そうしたプロが介在すると揺らぎが消えて面白みが減るのもネットの勝手映像の世界。だから我はという人たちの積み上げる成果を日々、待ち望むのが良いのかも。

 視聴者としては現役でも取材者としては縁遠くなってしまったNetflixが発表会を開いて4K HDRの手描きアニメーションをプロダクション・アイジーといっしょに制作していることを発表して、その一部とかメイキングの様子がネットで紹介されていた。まだ途中だからエフェクトだとかモーフィングとかいった部分のデジタルくささは残っているけれど、キャラクターの手描き感はやっぱりあってかわいらしくって、そうした部分と融合して効果も乗っていけば観て目に新しく、それでいてアニメーションならではの柔らかさも感じられる映像が仕上がるんじゃなかろーか。

 そんな映像が日々、通っては箱に詰められたアニメーションの原画とかタイムシートが収まったカット袋を段ボール箱から取り出して、撮影をしている部屋のほとんど横で作られているというのも何かの縁。とはいえ向こうは最先端の仕事を世界から求められてやっていて、こちらは未だ晴れないリストラからの気鬱を薬で抑えつつ記録をとるのも重要な仕事といった使命感を覚えて精一杯にこなしているといったところ。間にある壁はだから実際の厚さの何億倍もあって彼我の差に改めて自分の何もなさに震えてしまう。

 そうは言っても積み上げてみたものが違うんだから仕方がない。こちらはこちらでやれるだけのことをやるしかないと心を持ち上げよう。それのしてもフルデジタルの作画に撮影の映像作品を、アーカイブ的にどうやって保存とか収集とか管理とかするんだろう。そこが謎。過程をすべて記録しておく訳にもいかないだろうからなあ。かといって成果物としての映像だけでは何か違う。制作記録も撮っておくべきなんだろうか。

 モメンタムが下がり気味なのか朝イチで図書館にこもって原稿を1本2本と片付ける気力が出ず、ペットボトルのお茶だけ飲みながら今くらいまで部屋でうとうと。前だったら恵比寿に「ロングウェイノース」を見に行って池袋にIMAXの「ブレードランナー」を見に行って「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」も見て「いなくなれ、群青」も見てと歩き回っていただろうけど、懐が気になるのかそうした気概が衰えつつあるのが何か痛い。いやまあ口座が空っぽって訳じゃなくむしろ……なのだけれど根が貧乏性なのか名古屋人だからなのか宵越しの銭を持ちまくりたいのだ。

 とはいえ、それでは沈み過ぎて立てなくなるので柏まで出てキネマ旬報シアターで「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」を観ることにする。「ヴァイオレットエヴァーガーデン外伝」は舞台挨拶が当たったので来週に。合間に「JK無双 終わる世界の救い方」(レジェンドノベルス)を読む。ゾンビが暴れ出すようになった世界で異能を持たされたプレイヤーがゲームのように示唆されるスキルを得ながらミッションに挑むという展開。クリアしてもフェイズが変わって敵が強くなり他のプレイヤーとの戦いもあって平和は来ない。それどころか滅亡必至という状況にあって未来を知る者が現れ今度こそといった展開が混じって未来は混沌。今回はハッピーエンドなのかバッドエンドなのか。いろいろと要素が混じって面白い。売れてるのかな。

 そして到着した柏のキネマ旬報シアターには嬉しいことに京都アニメーションのキャラクターがいっぱい。ポップを立てて「京アニ魂は永遠に不滅です!」と訴えて、僕たちが楽しんできた京都アニメーションへの感謝とそして激励をアピールしていた。嬉しいなあ。これくらいの特集をだったら本誌のキネマ旬報でもやってくれればと思わないでもないけれど。そしてもう何度目かの、でもって7月19日の事件が起こってからは初めての「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」では関西大会が終わったあと、チューバで出場した1年生の鈴木美玲が出られなかった1年生の鈴木さつきや2年生の加藤葉月に「来年はいっしょに吹きましょう」と言っている場面にジンと来る。

 来年のその場面、3人が一緒に吹いたとしてもそれを一緒に描けなかった少なくない人たち。キャラクターデザインの人もそうだし総作画監督の人もそうだし色彩を手がけた人とかいろいろな人たちが、黄前久美子が3年生になった時の映像にもう携わることができない。亡くなった人の言葉はもう聞けないから分からないけれど、たぶん残念だろうし悔しいだろう。それ以上に残された人は悲しいしやっぱり悔しいはず。時間は永遠ではないし未来は確実ではない。そんな思いを改めて抱かされた次第。まあ自分も明日すら確実ではない中で浮かぶ気持ちもわんさかあって、どうしたものかと迷うけれどもこれも半年が過ぎればいい加減諦めがつくのかな、それとも未来に向かって手がかりを得られるまでは続くのかな、残っていたら楽して稼げて週末は映画三昧だったかもしれないけれど、それが自分にとって何を意味したか。来年になればもうちょっと分かっているかもしれない。それまでは毎日を確実にしっかりと生きていこう。エクセル覚えよう。


【9月6日】 フジテレビというか名古屋では東海テレビの午後7時台といったらだいたいがアニメーションで「マジンガーZ」やら「ドラゴンボール」やら「うる星やつら」やら「北斗の拳」やらと様々な番組をそこで見てアニメーション好きってやつにさせられた。なるほど「機動戦士ガンダム」とかは土曜日の夕方で「新世紀エヴァンゲリオン」だって午後6時半とちょっと外れてはいたけれど、そうしたマニアックなアニメとは違って国民的な人気と認知を得るならやっぱり午後7時台。そうすることで日本のアニメーション文化が広い裾野を持つに至った。

 でも今はアニメーションでは視聴率がとれないということで、ゴールデンからどんどんとアニメーションが消えてフジテレビなんかは日曜朝とそれから日曜日の6時台に集められてしまった感じ。TBSかはら土曜日6時台も日曜日の5時台もともに消え、深夜帯に押し込められてしまっている。日本テレビも夕方で「ポケットモンスター」なんかを放送していたテレビ東京も引き気味の中、かろうじて橋頭堡を保っていたテレビ朝日から「ドラえもん」と「クレヨンしんちゃん」が午後7時台から撤退して土曜日の夕方に枠を移す。そこにはすでに日本テレビがいるんだけれど前後を挟む感じにするのかな。そうやってアニメを見る層を協力して固めようって腹なのかもしれない。

 アニメ時代は深夜にわんさかやっているし、夕方だって朝だって見ようと思えばそこで見られるしネットを開けばあらゆるアニメがそこに揃っている。だからもうゴールデンだという限定された時間にアニメを放送する必要なんてないって言えば言えるけど、それはバラエティだってドラマだって同じこと。でも続いているのにアニメだけが軽んじられているのはやっぱり少子化高齢化でもってアニメを主流としている層が減り、効果が期待できないって判断なんだろう。

 問題はそんななけなしの子供たちがアニメを見る機会を奪われ親しむことなく成長していった果て、アニメ市場全体がシュリンクしてしまわないかってこと。今やゲームですら子供たちがやらなくなっているそうで、将来において新しい流入が期待できないとか。だからもう大人たちを対象にして大人たちのためのアニメを作っていくしかないんだとしても、それも30年くらいで限界が来た時にいった日本のアニメ文化はどうなってしまうんだろうか。ゲーム文化は残っているんだろうか。ポップカルチャーの勃興から隆昌を見た目がその終焉ももしかしたら見るかも知れない。そんな国になってしまたんだなあ。

 消費税の引き上げに伴い導入される軽減税率の適用をどうするかってあたりで様々な議論が飛び交っているけどどうしてそこまで人は間抜けになれるのかといったレベル。コンビニでイートインがあったとしてそこで腰掛けて食べるのを飲食店と同等だと規定して軽減税率を適用せず、購入して外に出てコンビニの前でしゃがんで食べれば持ち帰りとなって軽減税率の対象になるとかどうとか。見た目もあまり美しくないコンビニ前のたむろを助長するような施策を、国が作り出して平気ってところに民度といったものの衰退が見えて悲しくなる。何が美しい国だよ。

 最近聞いた話では、映画館でポップコーンを買ってその場で食べればそれは外食になるけれど、シアターに持ち込んで食べればそれは飲食が目的ではなく映画が目的だから持ち帰りと同等になるとか。いやいや映画館という場で食べているんだからそれこそレストランと同じ外食であってロビーで食べる方が持ち帰りに近いじゃんと思うんだけれど、もはやそうしたまっとうな議論も起こらないほど人の考える力は低下しているみたい。いっそだったら近所同士のコンビニで連携して,買って別のコンビニのイートインを使えば持ち帰りになるから軽減税率ってなれば楽しいけれど、そうした了解は認められないって感じなんだろう。もう本当にめちゃくちゃ。そして始まればさらにめちゃくちゃな現象が起こりそう。一流レストランでサーブされるなり持って外に出て食べ戻るなんて食べ方が出たりして。

 電撃小説大賞の読者賞という斉藤すずさんの「由比ヶ浜機械修理相談所」が文庫じゃなくってソフトカバーの単行本として登場。TOWAと呼ばれる精巧なアンドロイドを作りだした会社に念願かなって就職できて、さあ少女のTOWAを世の中に送り届けるぞと張り切っていたものの、そんな仕事で自分は何をやっているか気付いて愕然としてしまった若宮氷雨という青年。事件もあって社長が会社をたたんでしまい、自身はニートになって実家でごろごろとしていた。そこに朗報。親戚が一軒家を相続したけどもてあましているので行って住んで欲しいと頼まれた。

 家にいるのもしのびないからと出向いた氷雨は、工学部出身だったこともあって知識と技術を活かして修理屋を始めたところ、そのTOWAが持ちこまれて買い手を探してくれと頼まれた。アンドロイドでロボットだから決して人身売買ではないけれど、人間以上に人間っぽいTOWAを世話して親しくなったにも関わらず、誰かの慰み者にされていた実態に気づいて立ち上がれなくなったことが過去にあり迷う。でも、別の誰かに介在されてひどい引き受け手に当たってはいけあにと引き受ける。

 そして始まる結という名のTOWAとの暮らし。人間そっくりというかほとんど人間な感じで、親切で清楚な女性と暮らし始めた青年の日常として描かれても違和感がない。ロボットなのにAIだとかライフハックといった技術関係をめぐるやりとりは少なく、人に生み出された“命”でもやはり”命”として認めたい、認めなくちゃと思うに至る過程が綴られる感じ。エイミー・トムスンの「ヴァーチャル・ガールや山本弘さん「プラスティックの恋人」のように機械知性と人との関わりに迫るSF性は薄いけれど、いつか訪れるそうした社会でどう振る舞うべきかは諭される。あと手に技術があればニートも安心といった示唆。リストラ渦中の身にこれが1晩刺さった。TOWAに幸あれ。


【9月5日】 CEDEC2019では「ファンベース」という言概念を流行らせようとしている佐藤尚之さんのセッションも聞いて、新規の顧客を獲得しようと頑張るよりは既存の顧客を大事にした方が、売り上げの大半を占めていることもあて収益的には安定するって話にそりゃそうだろうと納得。もちろん新しい顧客を取り込んでいかないと売り上げはなかなか伸びないものだけれど、今時の少子化高齢化社会で市場がどんどんと縮んでいく中で、小さなパイを奪い合ったところでなかなか勝てるものではにあ。それならやっぱり確実な既存顧客を大事に使用ってことになる。

 飲料ブランドだと8%のコアな顧客が売り上げの45%を占めているって話もあるし、なんとかの法則じゃないけれど2割の顧客で8割を占めるのがだいたいのマーケット。それでも右肩上がりの経済なら既存顧客から少しこぼれても新しい顧客で上回れたものが、そうではないなら既存顧客をこぼさないようにするしかないって話らしい。ただゲームの場合もこれが当てはまるかどうか、ってなるともはや「ドラゴンクエスト」だって「ファイナルファンタジー」だって新しいタイトルが出るまで相当な時間がかかる。その間をつなぐ非ナンバータイトルにまでコアなファンだからといって群がるかどうか。ブランドだから、会社が好きだからといっても時間を奪われるゲームに心を寄せるのはなかなか厳しい。

 一方でスマートフォン向けゲームとなると上位ブランドがなかなか揺るがないレッドオーシャンと化していて、新規のゲームで打って出るなら新しい顧客を獲得しなくちゃいけないのにそれが出来ない状況でファンベースもなにもない。その辺り、ゲーム業界にマッチした言説にチューニングしていく必要があるかもしれない。大枠の理念としてファンを得て育て育み囲い込むのは正解。「艦隊これくしょん 艦これ」も「刀剣乱舞」も「Fate/GrandOrder」もそんな感じで確固としたファン層を得て揺らがない訳だから。そしてコアなファンの言説で新しいファンも巻き込んでいく。そうなるためのとっっかかりをどこで得るか。ブランドがキャラクターか。考えないと。

 あとファンといっても中身はやっぱり濃淡があって傾向もあって、その中の濃いところだけに向かって突き進んでいくと濃縮が高まってちょっとおかしなことになる可能性なんかも想像してしまう。どことは言わないけれどもとあるメディアとか、ライティな層へのアプローチでどうにか話題は得たけれど、そこから濃縮が進んで韓国嫌い中国嫌いな言説をエスカレートさせては一部の喝采は得つつも、周囲にいたまっとうな保守は眉をひそめて離れていって、結果としてシュリンクが続いている。そこで振り返って広げるかというと、それこそファンベースしか縋るものがないのかさらに濃さを増していこうとしているから果たしてどうなってしまうのか。気にしたって仕方が無いけどやっぱり気になる。未練だねえ。

 一気にきな臭ささが増してきた「キャロル&チューズデイ」はアンジェラのAIを作り上げたタオがパトロンの要請をことわりチューズデイの母親が立候補している大統領選挙の協力を拒んだことで検挙され、残されたアンジェラは母親が怒り心頭の中で倒れてちょっと先行きが見えず。そしてグラミー賞だかにアンジェラ、キャロル&チューズデイと供にノミネートされていたラッパーは移民排斥への反対を煽る楽曲を出して煽ったことが咎められ、不法滞在だとされて検挙されてしまう。もうグラミー賞でまともに歌えるのってキャロル&チューズデイしかないってこと? でもキャロルの幼なじみだったラッパーの逮捕は心痛だし、母親の移民排斥運動にチューズデイも心痛めている。そんな中でまともな音楽祭になるのかどうか。暴動とか検挙とか陰謀とかいろいろうごめくんだろうなあ。

 そうした中で浮かんでくるのが「奇跡の7分間」って奴で、いったい何が起こるのかが第1話からずっと気になっていたけれどもやっぱり移民排斥で大暴動が起こり大混乱に陥った火星で一触即発の危機一髪を2人の歌声が救う、ってことになるのかな。それじゃあ単純すぎるけれども常に単純な定番ストーリーを美麗な絵とそして素晴らしい楽曲で彩り引っ張っていったのが「キャロル&チューズデイ」。ここで変化球なんか投げずとも最後までストレートに音楽は世界を救う展開を見せてくれると思いたい。火星人襲来とかあり得ないから。あったりして。

 もう、何度目になるか分からないくらい見ているけれど、今回ばかりはやっぱり見ておきたったので新宿ピカデリーへと出向いて「リズと青い鳥」。あの事件があってちょうど49日となるらしい9月5日の劇場は満席で、そして一瞬たりともその音を聞き逃すまいとする人たちで物音のまるで立たない静かな空間を、鎧塚みぞれのオーボエが響き渡って改めて離別の悲しみにじんとくる。

 8月に帰省した際にブルーレイを持って帰ってオーディオコメンタリーを再生しながら見たこともあって、いろいろなシーンで石田奈央美さんが関わった色彩設計の工夫だとか、西屋太志さんによるキャラクターデザインの要点だとかを見に入れてまた見直して、それらがどれだけ映画の中に溶け込んでいて生かされているかが感じられて、1本のアニメーション映画に込められた思いと努力のすさまじさを知る。

 ラストに近い理科教室へと鎧塚みぞれの覚醒を耳にして逃げるように入り込んだ笠木希美をみぞれが追いかけた場面は、確か最初と最後で明るさが結構違うそうだけれど、それを気づかせないでじわじわとやっているという。見て沈んだ気持ちがだんだんと持ち直して理解から信頼へと戻っていくのを目からの情報でも感じるんだろう。最後のシーンでは山田尚子監督が西屋さんの顔色をうかがいながら絵コンテを切っていたそうだからそこにはやっぱり思いも遺されているのだろう。

 そうした知恵の結集は、誰のためといえば観客のためであり、自分たちの思いのためでもあったそうした努力の結晶を、こうして劇場で見られることはある意味では幸福であってこれまでも、そしてこれからも上映さえ続けばまた会えるし味わえる。だから今回ばかりとしないでまたいつか、来年とは言わないから何年かおきに上映されて欲しい。それは京都アニメーションの作品に限らず、いろいろな映画についても言えること。映画ってやっぱり映画館で見るためのものなのだから。

 「響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」に1年先だって公開された映画のために、黄前久美子たちから1年後輩の生徒たちが先んじてデザインをされてそれらが改めて、池田晶子さんによって本編の中に取り込まれていったとするなら、そうした西屋から池田さんを経て次に久美子たちから2年後輩の生徒たちが、どういった形になるのかを今はいろいろと気にしている。期待とか心待ちというとやはりちょっと違うし、残念さと悔しさが募るけれどもそれでも続いてくれるなら、続けてくれるのなら池田さんを、西屋さんを受け継いでくれる人がいるだろう。そんな新顔たちを見て僕たちは、歩みを止めないで進み続けてくれている京都アニメーションに感謝と喝采を贈るだろう。悼みつつ願う、その時の訪れを。合掌。


【9月4日】 ふと気がついたら「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」の続きにあたる「宇宙戦艦ヤマト2205 新たなる旅立ち」の制作が発表になっていて、今まで作っていたXEBECが既にないのにどこがスタジオを持つんだろうかといった興味が浮かんで仕方が無いのは、XEBEC絡みの仕事をしているからなんだろうけれど、スタジオが過去形になってしまったひとつの理由でもあるかもしれない作品を、今また手がける度胸があるというのはなかなか。コントロールさえできれば市場が見込めるって判断があるのかも。でも監督は誰がやるんだろう。出渕裕さんはありえないし柱エ信義さんはサンライズに言っちゃったし。興味津々。元請けはともかくサンライズビヨンドが現場を引き受けたりするのかな。謎めく。

 「JOY」で歌っているのを聞いたから竹内まりあさんの「プラスティック・ラブ」を山下達郎さんが歌ってまるで違和感はないんだけれど、どこかの外国人が日本語で「プラスティック・ラブ」をカバーしていて、それが男性だという映像がYouTubeにあったりして、映像を見ないで聞いているとこれがなかなかにハスキーな竹内まりあさんに聞こえなくもなかったりするから面白いというか、つまりはとっても上手いというか。シティポップが全世界的に人気だそうで、そうした中で筆頭に並ぶ山下達郎さんと竹内まりあさん。カバーする人が増えてくれば面白いなあ。「Love Space」を男性でカバーしたら褒め讃える。

 カバーは日本にも広まっていて、気がついたら森高千里さんと一時コラボしていたtofubeatsさんが「プラスティック・ラブ」を歌っていたけどしっかりtofuだった。そりゃそうか。あとネットで最近カバーしたという人がいて、お台場とかを歩きながら合う立ってるPVを挙げていたけど声がクールなんだけれど情感があってソリッドなんだけれど揺らぎがあるといった不思議な声。竹内まりあに椎名林檎と宇多田ヒカルが混じったようなとでも言うんだろうか。そういうシンガーが市井にいてネットに動画を挙げて全世界に見てもらえる時代はやっぱり素晴らしいなあ、たとえ音楽が金儲けにならなくても、いやなって欲しいけど。そこはやっぱり考えないと。

 流石にNHKホールのキャンセルは当たらなかったようで、これで2019年の山下達郎さんのツアーは聞き納めとなった感じ。2020年は演らないそうだしアコースティックライブなんて当たる気がしないから、あるいは一生の最後の生達郎になったかもしれないと思うとグッズのタツローくん人形は勝っておけば良かったかもしれない。まあ今の部屋だとどこかに埋もれたまんまゴミになる可能性が高いから我慢我慢。誰かが買って持っているならそれは僕も持っているのと同じなんだという気になることが、貧乏になった身で生きる知恵かもしれない。とか言ってたら「舞台けものフレンズ」のチケットがしっかり当選してた。困ったなあ。でも良いんだ、見たいものを我慢していたら気鬱がさらに沈んでしまう。明日のために頑張る糧として見たいものを見て、また見られるために頑張ることで生きていけるんだと思いたい。

 生きていくには稼がなくっちゃと今日はアーカイブをお休みして、雇われのライターとしてCEDEC2019へ。新聞記者時代もずっと通っていたから慣れたものではあるものの、フリーとして行くのとではやっぱり気分が違うなあ、適当に面白そうなものを眺めてVRで遊んでいつか記事にするかもしれないと思っていられるのと、発注を受けたセッションを確実に効いて記事にするのとでは余裕が違う。逆にいうなら記事にすればお金がもらえるという状況が1日だけでなく継続的にあればそれで稼げるんだけれど、そういう感じでもないのがやっぱり厳しい。とはいえ1日で割と稼げるんだから、それを糧に祝日の多い今月のレギュラーをカバーしよう。

 そんなCEDEC2019で、なぜか中国武術のデモンストレーションが。北京とかで本気でジェット・リーの師匠から中国武術を学んだという人が壇上に上がって太極拳から蟷螂拳から見せて歩いて手を使い蹴りを見せては剣を振りライトセーバーを振ってモップまで振っていた。いったいなぜ? ってのはつまりゲームに欠かせないキャラクターとしての中国武術使いをより、リアルに見せるには何が必要なのかといったアピールで、それには正しい中国武術の知識を学び、「型」を知る必要があるっていうのがセッションの理由。そしてスクウェア・エニックスでVFXを担当する傍ら、学んだ中国武術を使ってモーションアクターをしている人が登壇。これが本場といった動きを見せてくれた。

 迫力が違う。どんと足を踏めばしっかりと音がなるし、ブンと棒を振り回してもやっぱり音が鳴る。バンダイナムコで「鉄拳」とかを手がけたクリエイターもそれなりに武術を学んでいたみたいだけれど、半年程度ではやっぱりそうした音はならない。体は小さいのに動きは重く打撃も強そう。そして飛べば空中を舞い構えれば鷹にも虎にもなって周囲を緊張させる。相手の攻撃をすりぬけるようにして自分の掌を相手に当て、指を曲げてのど笛をつかむといった攻撃を目の当たりに見られた参加者は、本気で本場の本当な中国武術はこんなに格好いいと分かったんじゃなかろーか。それを後は応用してゲームに取り入れば、そこでモップを使おうとネギを振り回そうと強そうに見える。まずは型をしっかりと。そのために教室なんかを開いたら、スクウェア・エニックスに日参する人とか出そうだなあ。


【9月3日】 明日からCEDEC2019が始まってその取材を幾つか頼まれた関係で、今日はちょっと休めないんだけれど一方で夕方に市川市文化会館でもって開かれる山下達郎さんのライブのキャンセル待ちが当たってしまってこれは行かなくてはいけないとなった時、いつもより早くから入って何時間でも良いから仕事をしようと思って午前11時前には三鷹に到着。まだ終わっていなかった松屋で朝定食を食べて入ったアニメーション会社は既に人が働いていた。

 まあ当たり前だ、午前11時なら普通だったら重役出勤。でも制作となると本格的なスタートはもうちょっと遅いのかもしれない。棟が別なんでアニメーターさんが実際に動いているのを見ることがないからその辺りは分からないけれど、働き方改革もあって夜遅くまで働くことを良しとしない風潮の中、もしかしたら午前中から集まってせっせと鉛筆を走らせているアニメーターもいたりするのかもしれない。アットホームさで大勢のクリエイターを魅了していた京都アニメーションも午前10時過ぎには大勢がいて、だからこそのあれだけの悲劇に至ってしまったとも言えるけど、その特別さを多くの制作会社が取り入れて、生活と品質を両立させるような業界になっていって欲しいかな。そんなお手伝いが果たしてできているのかどうか。そこが問題なんだよなあ、目下。

 杉谷庄吾[人間ポンプ]さんによる「映画大好きポンポさん」のスピンオフ漫画「映画大好きフランちゃん NYALLYWOOD STUDIOS SERIES」(KADOKAWA)を読んで、古傷を抉られているというか尻を蹴飛ばされているような気がしてちょっと立腰が砕ける。ポンポさんの2巻でポンポさんが撮った映画のヒロインに抜擢されたダイナーのウエイトレスのフランちゃんを主役にして、夢だった女優になるまでを描いたストーリーでは、やりたいことをやるためにやれる場所を自ら作って動かなきゃって語られていて、やってきたことをやり続けられるために自分は何かしたのかと振り返って思わされて悔いが浮かんで気が沈む。

 女優を夢みてオーディションを受けまくっても演技が硬直していて自分ではよくやっているともりでもスタッフには通らず、落ちてばかりいるフランちゃんにポンポさんがアドバイスめいたことをして、だんだんと立ち直らせていくといったストーリー。ただあからさまなアドバイスではなく、例えばオーディションに言ったら台本なんか読んでないで他の人の演技を見ろと諭して自分がどれだけヘマをしてきたかを分からせるあたりに、敏案プロデューサーとしての才気って奴がのぞく。自分から気付かなければ意味が無い。そういう意味でのスパルタであり愛情あるアドバイスにちゃんと気付けたフランちゃんを主役に1本、映画を撮って終わりじゃないところが凄い。

 スターに近づいたもののその後、映画のオファーを断り続けたフランちゃんがやっていたのは企画を考えること。自分がやってみたい映画のための企画を練り上げてポンポさんに見せることで、誰かの顔色をうかがって過ごすんじゃなく自分の力で自分の居場所をつかもうとする。そうした前向きで積極的なスタンスにポンポさんものって仲間の脚本家や音楽家を引き込みフラちゃんを守り立てていこうとする。そんなストーリーからはいくら自分では頑張っている気になっても、誰かに必要とされているとは限らないから必要とされるように努力しなきゃいけないってこと。そのためにフランちゃんは自分が輝ける場所を自分で作った。

 振り返って僕はどうっだっただろう。与えられた場所で目一杯にやっていれば次もちゃんと続けられると思っていたし、実際にどうにか続けてこられたんだけれども気がつけば経営が妙な方向にシフトする中で不要とされて次の居場所はもうなさそうに。そこでしばらく雌伏をすればまた必要とされたかと思っていたりするのが未練となって、今をなかなか前向きにさせてくれない。そんな状況になる前にフランちゃんじゃないけど手練手管で居場所を作って居座ってしまえばよかったか、なんて後悔も浮かぶけどそんな可能性があったか否か。それこそ10年とかけて準備をしなきゃいけなかったんだろうなあ。

 などと言ってももう遅い。だったら今から自分で自分の居場所を作れば良いと言われても、今となっては果たして自分がやりたいことって何だろうって気分もあってすぐさま動ける感じでもない。そんな状態で示された今の道が自分にとって、あるいは誰かにとってどんな意味を持つのかを今は考えるしかないんだろう。そこにおいてやるべきことが浮かぶか否か、やってほしいと思ってもらえるか否か。2ヶ月じゃあまだ何もわからないんだから、迷っている暇があったら手を動かしていくしかないのかな。3年後にどうなってるかなんて考えて焦るより。

 さて山下達郎さん。2年ぶりくらいという市川市文化会館は自分にとってもその時以来になるのかな。キャンセル待ちでも2階席では前目で達郎さんが近くに見えて声もよく聞こえた。幅がなく奥行きがある感じの中野サンプラザよりキャパはだいたい同じなのに近いのは設計がそういう感じになっているからなのかも。楽曲的には割と知っているものが多かったというか、新しいところのシングルってあんまりやらないんだよなあ、「未来のミライ」の2曲ともやらなかったし。「ナミヤ雑貨店の奇跡」の主題歌ややったから最近の曲だからやらないって訳じゃない。やっぱり自分たちにとっても観客にとってもやって欲しい楽曲を集めるってことなんだろう。「スパークル」とか「ライドオンタイム」とか。

 そんな中で珍しかったのは大滝詠一さんの「君は天然色」か、カラオケに行って大滝さんから君にやるとか言われたそうで、だったらといってすぐにはやらなかったけれども今年の末で7回忌となる大滝さんをしのんで歌ってくれた。上手かった。あとは竹内まりあさんの新譜が出たこともあり、またシティポップが全世界的に人気ということで達郎さんと並んで世界が聞いた「プラスティックラブ」を披露。以前からライブではやっていてライブ集にも入っているけど僕は生で聞いたことがあったっけ。忘れっぽいんで覚えてない。でも大好きなので嬉しかった。竹内さんのアルバムとシングルを買って応募することで竹内さんのライブに行けるかもしれないんで、それに行けたらご本家のも聞けたりすると嬉しいな。

 来年の東京五輪で首都圏に限らず地方もホールやホテルの手配が夏場に難しくなるそうで、それならと来年はツアーを休むらしいから今回がしばらくの見納めになりそう。ってか身分も不安定な中で達郎さんのライブにいつまでも行ってられるものではないから、今回を今生の別れとも思っておくのが良いのかも知れない。でも2021年から再開されたツアーに自分の居場所をしっかりと得た状態で行けてこそ、それからも続く人生を歩んでいけるのかもしれないのなら堂々と行けるよう、今を頑張り明日に繋げて明後日から来週来月来年再来年を確かなものにするのが先決か。どうなることかなあ。じゃない自分でどうにかするんだ。そう教わったじゃないかフランちゃんとポンポさんに。でもそう簡単には前向きにはなれないんだよなあ、そんなお年頃。


【9月2日】 とある漫画の評論を仕上げて、ミステリマガジン向けのレビューを送って、さあ未読の本を読むタームだとなっても気力が高まらず、枕元に積んだままiPadからNetflixで「このすば」の1期2期とOVA2本をだらだらと見て週末を過ごしてしまって、アニサマだ何だと盛り上がってる世間から遠ざかっている感じに、はじき出されて置いていかれてしまった諸々浮かんでシンミリとする。

 まあ、アニサマは去年から取材を拒否されていたから、今年いたって自分では記事に出来なかっただけれど、とある漫画とかライトノベルは読んで紹介を書けるのだから自分はまだ、居場所をもらえていると思えばそれで納得できるかというと、もうちょっとかかるのだろうなあ。とか思いつつ、とりあえず日本SF大賞にエントリーしたくなる作品を、小説漫画ラノベアニメとジャンルを問わず引っ張り出して書き出す書きものに向こう2週間ほど取り組もう。

 これも2月あたりからの半年間、濃い霧の中に沈んでしまっていたようであまり読めても見られてもいないので、これぞという索引があればいろいろ教えて欲しいものである。小川一水さん「天冥の標」と飛浩隆さん「零號琴」と伴名蓮さん「なめらかな世界と、その敵」のとりわけ「ひかりより速く、ゆるやかに」が並びつつあることは何となく分かるかな。草野原々さんは何か入れられたっけ。アニメーションだと「ケムリクサ」に「revisions リヴィジョンズ」は分かるけど他にアニメは何があったっけ。映画なら「天気の子。」が抜群だけれど「プロメア」も良かったし原作はあるけど「海獣の子供」も迫力だった。漫画は「彼方のアストラ」かなあ。とか考え出したら止まらない。そのあたり拾っていこう。「天冥の標」と「境界線上のホライゾン」を選考員に読ませたいなあ。

 「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」に続いて「劇場晩 響け!ユーフォニアム〜届けたいメロディー〜」を新宿ピカデリーで。満席の中で始まった映画はテレビシリーズの第2期を編集したものだけれど、関西大会のあとに合宿が持って来られていたり、傘木希美と鎧塚みぞれの関係が削られていたりして本編とは随分違った感じになっている、というのは本編を見た人だったら思うことで映画が初見だとそれはそれでスッとまとまっていて基本、黄前久美子と田中あすかとの関係を軸に久美子と姉、あすかと母親といった家族の近しいけれど難しい関係が描かれた映画になっている。

 そして演奏シーンは冒頭から関西大会の課題曲があって途中に駅ビルコンサートがあってそれはテレビシリーズより長尺で更に最後に全国大会の「三日月の舞」が入ってくるという大盤振る舞い。演奏シーンだけ見ていても演者が切り替わり過去の回想が混じり応援している人たちのカットがはいってと耳だけでなく目も引きつけられる。そうした展開を支える演出の巧さがあり、高橋博行さんんいよる楽器の設定と作画があるんだけれど、事件によってその仕事が今後は続けられないとなった時、果たしてどんな映像ができるのだろうか。前も書いたけど後進からその才能に追いつき追い越す人が出て来欲しいのだけれど……。

 あとはキャラクター。駅ビルコンサートでアルトサックスのソロを吹く岡本来夢とか原作にだって姿は書かれず挿絵なんかもないのをしかりとデザインして、屈指の美少女に仕立て上げたりした池田晶子さんの冴えを次の展開、久美子たちが3年生になった時に入ってくる1年生について見ることができないのだなあという残念さがあらためて浮かぶ。これもだから後進から越えてやるといった気概を持った人が出てきて欲しいのだけれど、やっぱり池田さん流の想像力を見たかったなあ。改めて失ったものの大きさを噛みしめながら最後まで見て拍手。次は「リズと青い鳥」で西屋太志さんのキャラクター、石田奈央美さんの色彩を存分に味わい噛みしめて来よう。

 多分、言い抜けられると考えていたのだろう。実際に「『間欠性爆発性障害(IED)』だ。取るに足りないことに突然怒ったり暴力を振るったりする。ストレスを調節できなかったり自尊感の欠如に苦しめられる社会的弱者で起きやすい。大韓神経精神医学会によると、韓国の成人のうち治療が必要なレベルの高危険群は11%に達する」という記事が、2008年に韓国紙の中央日報に出て自分たちの怒りっぽさについて自省を交えつつ、ナッツ姫等々の権力を嵩に着て怒りまくる者たちへと矛先を向けて批判している。

 韓国の人たち事態が韓国の研究を元に自分たちは怒りっぽいと言っている。エビデンスがあるのだから、それを紹介したところでヘイトにはならない。だから週刊ポストも「10人に1人は治療が必要」(大韓神経精神医学会)といった見出しをわざわざ添えたのだろう。批判を受けて出してきた「怒りを抑えられない『韓国人という病理』記事に関しては、韓国で発表・報道された論文を基にしたものとはいえ、誤解を広めかねず、配慮に欠けておりました。お詫びするとともに、他のご意見と合わせ、真摯に受け止めて参ります」といった釈明にも、そうしたニュアンスが漂っている。

 けれど、そこで「怒りを抑制できない『韓国人という病理』」とやってしまったことが拙かった。怒りを抑制できない人はいてもそれは11%であって全員ではない。つまりは総体としての「韓国人」ではなく、従って「韓国人という病理」ではない。傾向としてはあってもそれを一括りにして「病理」とレッテルを貼ってしまっては、ヘイト表現と見なされても仕方がない。そういったところで慎重さに慎重さを重ねて表現に気を配ろうとしても、すり抜けてしまうくらいに批判をすることを当然と感じている空気が、編集している人たちにはあるし世間にもあったりするのだろう。結果としてこうした事態になってなお、釈明してしまうところに染まってしまった意識が垣間見える。

 ヤバさでいうなら「WILL」の10月号別冊の方がさらにヤバくて「韓国人はなぜウソつきなのか」とか「文在寅に囁かれる『認知症』疑惑」といった特定の民族全体にレッテルを貼るようなヘイト表現があり、個人に対する名誉毀損的な指摘があって訴えられた負けるレベルにありそう。けそどこは「WILL」だしといったニュアンスで受け流されるくらいに、世の中にそうした表現が流布することが半ば公然とされてしまっている。これはとても拙いことなんだけれど、億歩譲ってまあ「WILL」ならとはなっても、小学館となるとそこは児童にも向けて良書を出そうと頑張っている版元であって、にも関わらずヘイト混じりの記事を堂々と載せてしまったところにヤバさがある。自分たちの立ち位置を理解できていないか、できていてもなおこれくらなら大丈夫だろうという意識が漂っているか。そんな感じ。

  公器たるべき新聞社が系列の出版社を通して出しているオピニオン誌がまた「病根は文在寅」といった記事を載せ、一方で公然と権力側でありながら民間の表現に挑みかかった参議院議員を登場させてNHK批判を載せといった具合に歯止めを失い底が抜けていたりする。たとえ経営までもがヤバい状態になっても、ここで止めたらさらに売れなくなってしまうという恐怖心でもあるのか、本気で韓国もNHKも敵だと思っているのか。「反日」などという自分たちがあがめ奉る国体としての「日本」をのみ正当としてそれに反するすべてを「反日」呼ばわりするヤバさもどんどんときわまっている感じ。もう何歩か踏み越えたら新潮45の二の舞になるのかなあ。二の舞だと感じ取る神経があればだけど。どうなんだろう。


【9月1日】 映画の日だけど今日見に行くつもりだった「映画 この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」は時間ができたので昨日のうちに見てしまって、明日は明日で京都アニメーションを偲ぶ上映の流れで「響け!ユーフォニアム〜届かないメロディー〜」を見なくちゃいけないので、連続して見るのは自重。銀行口座的にはマイナスになっていても、貯金とかできていた以前とは違って使った分をすぐさま稼げる身ではもうないので、ここは我慢しなくちゃいけない。

 一方でしこしこと稼ぐために書いていた原稿は、対象がとてつもなくビッグで何を書けば良いかわからず悶えていたけれど、締め切りということでどうにかこうにかかき揚げ送信。5000字ほど。書きあがったんで前よりは気も楽になったけれど、論旨に無理やり感があるので、これからやり直しとか出るかもしれない。そういうのがあるから原稿仕事ってなかなか慣れない。一方でこれで仕事が途切れてしまうのかもという不安もあって、やっぱり気鬱さが滲むのだった。受けたら受けたでやっぱり書けるんだろうかと悶々とするんだけれど。そういうものなんだなあ、ライターって。

 それでもどうにか仕事は確保できて、月収で15万円くらいなら稼げる状態だけは築けた。それで足りるわけではないので、週末の原稿仕事を足して20万円から25万円くらいにあげたいけれど、そこがやっぱり難しいんだよなあ。もうちょっと頑張ればカロリーの高い原稿仕事を付に10本で30万円とか稼げるようになるんだろうか。なれれば嬉しいんだ得れど、それでもやっぱり足りてはおらず、得られた仕事も1年後3年後5年後10年後にやっぱりあるんだろうかといった不安にも苛まれる。まあ6年後に定年を迎えて同じ境遇になるよりは、早くに手を打てたとここは思うのが良いのかな。残ってたって確実に将来を得られたとは限らない訳だし。自由って案外に不自由だ。

 ささやかな力でもうまく使えば世界征服ができるのか、ってあたりを軸に工夫と想像で本当に世界をとってしまう展開になるかと思ったものの、さすがにそこまでの力はなかった感じ。でも日常に変化はもたらされて個々に心の安寧は得られたとでも言うのだろうか。海老名龍人さんによる「世界は愛を救わない」(講談社ラノベ文庫)に登場する少年少女には“グリッチ”と呼ばれるちょっとした異能が備わっている。石野美香はミントガムを噛みながら手鏡を割ると姿を消せる。阿久津吾郎は手順どおりに指を動かすと差し出した手と誰もが握手をするようになる。

 壇上貫也は誰かが持っている“グリッチ”がどういうものかを見抜く能力。潜入できて握手できて能力者を探せるのなら或いは、と思ったもののガムの味がなくなると姿が見えてしまうから美香は長時間は姿を消せない。握手できたってそれが何かの契約に向かう訳ではない。能力者を探すには相手の名前を知っていてはいけない。制約も多々ある中でそれでも石野美香は能力を使って憧れの先輩のストーカーを続け、貫也は探し出してきた開田環子という少女が持つ能力を利用してあることをしようと考えている。

 その能力こそは本当にいろいろ使えそうだったにもかかわらず、阿久津吾郎も壇上貫也も他者にそれを利用はしない。では誰のため。そこに見え隠れする少年少女が抱える心の問題。思うだけならそれは自由でも行動に移したとき、決して理解されない感情を3人とも抱えていたりして、それをどうにかするために環子の能力が利用されることになった。それはでも正しいことなのか。抱えたままで居続けることはできなかったのか。人はいつ壊れるかもしれない。

 暴走するかもしれないならやはり消すしかなかったのか。それも含めて人間じゃないのか。考えさせられる。世界征服はどうなったんだろう。能力は消えた訳ではないので、再利用の中でプロジェクトは動き出すのかも知れない。そうした異能バトルが求められればだろうけど、今のままの能力をひとつの媒介にして青春のもやもやを浮かび上がらせ、その始末をどうすべきかを問いかける文学だと思ってもこれは良いかも。ライトノベルとしてではなく一般文芸として出して多くに感想を聞いてみたかったかもしれないなあ。こういうのをライトノベルとして出してくる講談社ラノベ文庫の粋さを感じてもなお。

 「キャロル&チューズデイ」の他に見ているアニメがこれくらいしかない「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか2」ではイシュタルファミリアに使ったものの春姫によって救い出されたベルくんがアイシャと対峙。そこでアイシャがイシュタルに何をされたかが明かされたけれど、アニメーションとして動く絵ではなく文庫本の口絵にあったイラストがそのままの構図で使われていたって感じ。2人の胸がぶつかりあってひしゃげていたりして、いやらしいことはいやらしいんだけれど動きとかあればどういうふうにこすれ合っていたかも分かったと思うとやや残念かもしれない。

 まあそこは、イシュタルがベルくんを捕まえて思いっきり魅了しようとするシーンに期待しよう。イラストでもあったけれどそれが動けばきっと……。裏ではベルくんにちょっかい出されてぶち切れたフレイアがファミリアを動かし始めていよいよ戦争が始まりそう。9月いっぱいかけずにあと2話くらいで決着させ、残りで第8巻を描くかどうか。それが終わっても残りをアニメ化してくとなると10年プロジェクトになるかなあ。今やGA文庫の看板。ポリフォニカもニャル子も至れなかった境地になぜダンまちが至れたのか。ちょっと考えてみたくなる。


日刊リウイチへ戻る
リウイチのホームページへ戻る