縮刷版2019年月下旬号


【8月31日】 京都市立芸術大学がそう呼ばれるべき京都芸術大学の名前を、京都造形芸術大学が持っていってしまいそうだからといって京都で異論が出ていたけれど、静岡の方でも静岡大学と浜松医科大学との統合があって再編なんかも行われた結果として、今は浜松にある静岡大学の工学部とか情報学部なんかが入った浜松キャンパスが、浜松医科大学と統合されて浜松医科工科大学になりそうだってことで情報学部が蔑ろにするなと怒って文句を言ったらしい。なるほど分からないでもないけれど、静岡大学のままなら情報学部も工学部もあることすら分からないなら、工科の文字を入れてもらえるだけで十分って見方も……できないなあ、工学と情報学はやっぱり違うし。

 ってか静岡大学浜松校じゃいけないのか、って話でカリフォルニア大学とかだとバークレー校とかロサンゼルス校とか地域の名前で分かれていて、それぞれにいろいろな学部をもって屹立していたりする。浜松校となってそこに工学と医学と情報学があることを活かしてバイオサイエンスとかデータサイエンスとかコンピューターサイエンスとかいろいろ立ち上げカリフォルニア工科大学とかマサチューセッツ工科大学みたいな最先端のイメージを打ち出せば良いのに、医学とか混ぜて折衷案めいたものを出してパッとしない印象を与えてしまう。そこが文字通りのお役所仕事。もうちょっと考えれば良いのに。ハママーツ工科大学とか。略称はハマテックかHITか。どうでしょう。

 面白い本を読んで、面白い展覧会に行って、面白い映画を観てその感想を日記に書いて満足していられた時代から、本とか展覧会とか映画の話を記事として新聞だとかネットに書いて発表していた時代を経て膨れあがった承認欲求がなかなか落ち着かず、メディアを通して紹介されている諸々のイベントレポートだとか映画の評判だとかを見るにつけ、その場所に自分がいられない悔しさが先に立って居たたまれなくなったりする状態がやっぱりまだ続いている。

 落ち着くまでにはしばらくかかりそうだけれど、一方でだったら自分でメディアを立ち上げたら良いじゃんって話もあって、実際に個人で始めた情報サイトを事業化している人も周囲にはいて、続きたいと思うかというとそこに混ぜてと思ってしまうくらい、自分から動こうという気力がなかなか得られない。それが性分なんだろうなあ。だからもう自分では諦めているけれど、そうした状況で自分からアニメーションのアニメーターの言葉を残そうと動き始めた人がいて、クラウドファンディングを行っていたのでちょっとだけ支援する。

 アニメーターズ・ファイルというそのサイトではその世界で師匠と呼ばれるような大物アニメーターというよりはしっかりと実績を重ねてきて、知っている人は知っているベテランを紹介しようとしている感じ。1人目はスタジオぴえろで「うる星やつら」なんかにも関わっていたという遠藤麻未さんで、どういう経緯でアニメーターになたかが語られ、そしてどんな仕事をして来たかが話されていて1980年代のアニメスタジオの雰囲気とか、自身の仕事ぶりとかが分かるようになっている。これもあの時代の貴重な証言。言葉として残しておくことで後進に伝わり次のアニメーターを生み出す力になるだろう。

 あと何人かインタビューすることが決まっていて、集まれば立派に時代の証言集となりそう。例の京都アニメーションで起こった悲しい事件で、残されるべきアニメーターの人たちの言葉が伝えられないままで終わってしまったこともあり、話せる人たちに話せるうちに話して欲しいという気が高まっている。そうした状況にあって自分からメディアを亜立ち上げ、クラウドファンディングを始めた人がいるならこれは応援するしかない。本当に続くのか、怪しくないのか、誰が出てくるんだというのはこの際構わないし、1人目2人目3人目といった名前を見る限りにおいて、人選は確かで言葉も正しい。ならば応援するしかない。

 問題はまだあまり広まっていないことか。再就職もままならないくらいに影響力の無い自分だけに、メディアに属していればと歯がみもするけれど、今はSNSとかブログとかで個人が簡単にメディアを持てる時代。そうした時代に個人で情報を発信し始めたという話題を、個人が伝えることで広まっていけばこんなに嬉しいことはない。というわけで日記に書いてSNSにもアップして、プロジェクトの存在をここに喧伝しておこう。リターンとかもう良いから、頑張って仕事を続けていって下さいな。誰が登場するかなあ、最近働きに出ている場所に関わる人も出てくれるかなあ。楽しみ。

 デストロイヤーの開発者が生みだしたから紅魔族はおかしい感じになったのか、元からおかしい感じだったから紅魔族の面々はデストロイヤーの開発者の改造を受け入れ、そして珍妙な名前だとか名乗りのスタイルだとかを使うようになったのか。今となっては分からないけれども地球の日本あたりが源流になっていそうな14歳くらいで罹りそうな病を子どもの頃から大人になっても背負って発揮して恥じない紅魔族が、大量に出てきて見せてくれるその技はやぱりどれも凄まじくって素晴らしくって、誰に魔を退ける活躍はしてないと思わされる。

 そうした中に入るとめぐみんが割と普通に見えてしまうけれど、それだけに唯一を極めようと爆裂魔法に拘り続けてここまで来た。カズマもそれを分かって粋な計らいを見せて頭のおかしい展開が最後に頭のとてつもなくおかしいクライマックスを経ておかしくされた頭をスッと冷やしてくれた。そんな映画だった「映画 この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」。どれだけ攻めてもやられるのなら魔族も攻めるのを止めれば良いのに、やっぱり魔法を封印する秘密の兵器があると聞かされては行かざるを得なかったんだろうなあ。

 そこに現れたカズマの働きもあってシルヴィアという魔族の幹部が見事にその対魔法兵器を奪取。日ごろの恨みも発憤させるように大暴れしては、寂しいきもちを見たそうと受け入れたカズマの捨て身というかもはやすり身の活躍もあって無事、世界は平和を取り戻す。まあ封印を解いたカズマのせいでもあるし、紅魔族と作りながら天敵も作り秘密兵器まで作ったデストロイヤーの開発者のマッチポンプでもあるんだけれど。そうやって手のひらで転がされながらも見せ場とあれば名乗りを上げてポーズを決め、魔法を繰り出して照れない紅魔族はやっぱり凄いなあ。あれだけの自信と根性を僕も欲しい。それにはやっぱり魔法を極めるしかないのか。黒いマントと眼帯、用意するかなあ。


【8月31日】 京都市立芸術大学がそう呼ばれるべき京都芸術大学の名前を、京都造形芸術大学が持っていってしまいそうだからといって京都で異論が出ていたけれど、静岡の方でも静岡大学と浜松医科大学との統合があって再編なんかも行われた結果として、今は浜松にある静岡大学の工学部とか情報学部なんかが入った浜松キャンパスが、浜松医科大学と統合されて浜松医科工科大学になりそうだってことで情報学部が蔑ろにするなと怒って文句を言ったらしい。なるほど分からないでもないけれど、静岡大学のままなら情報学部も工学部もあることすら分からないなら、工科の文字を入れてもらえるだけで十分って見方も……できないなあ、工学と情報学はやっぱり違うし。

 ってか静岡大学浜松校じゃいけないのか、って話でカリフォルニア大学とかだとバークレー校とかロサンゼルス校とか地域の名前で分かれていて、それぞれにいろいろな学部をもって屹立していたりする。浜松校となってそこに工学と医学と情報学があることを活かしてバイオサイエンスとかデータサイエンスとかコンピューターサイエンスとかいろいろ立ち上げカリフォルニア工科大学とかマサチューセッツ工科大学みたいな最先端のイメージを打ち出せば良いのに、医学とか混ぜて折衷案めいたものを出してパッとしない印象を与えてしまう。そこが文字通りのお役所仕事。もうちょっと考えれば良いのに。ハママーツ工科大学とか。略称はハマテックかHITか。どうでしょう。

 面白い本を読んで、面白い展覧会に行って、面白い映画を観てその感想を日記に書いて満足していられた時代から、本とか展覧会とか映画の話を記事として新聞だとかネットに書いて発表していた時代を経て膨れあがった承認欲求がなかなか落ち着かず、メディアを通して紹介されている諸々のイベントレポートだとか映画の評判だとかを見るにつけ、その場所に自分がいられない悔しさが先に立って居たたまれなくなったりする状態がやっぱりまだ続いている。

 落ち着くまでにはしばらくかかりそうだけれど、一方でだったら自分でメディアを立ち上げたら良いじゃんって話もあって、実際に個人で始めた情報サイトを事業化している人も周囲にはいて、続きたいと思うかというとそこに混ぜてと思ってしまうくらい、自分から動こうという気力がなかなか得られない。それが性分なんだろうなあ。だからもう自分では諦めているけれど、そうした状況で自分からアニメーションのアニメーターの言葉を残そうと動き始めた人がいて、クラウドファンディングを行っていたのでちょっとだけ支援する。

 アニメーターズ・ファイルというそのサイトではその世界で師匠と呼ばれるような大物アニメーターというよりはしっかりと実績を重ねてきて、知っている人は知っているベテランを紹介しようとしている感じ。1人目はスタジオぴえろで「うる星やつら」なんかにも関わっていたという遠藤麻未さんで、どういう経緯でアニメーターになたかが語られ、そしてどんな仕事をして来たかが話されていて1980年代のアニメスタジオの雰囲気とか、自身の仕事ぶりとかが分かるようになっている。これもあの時代の貴重な証言。言葉として残しておくことで後進に伝わり次のアニメーターを生み出す力になるだろう。

 あと何人かインタビューすることが決まっていて、集まれば立派に時代の証言集となりそう。例の京都アニメーションで起こった悲しい事件で、残されるべきアニメーターの人たちの言葉が伝えられないままで終わってしまったこともあり、話せる人たちに話せるうちに話して欲しいという気が高まっている。そうした状況にあって自分からメディアを亜立ち上げ、クラウドファンディングを始めた人がいるならこれは応援するしかない。本当に続くのか、怪しくないのか、誰が出てくるんだというのはこの際構わないし、1人目2人目3人目といった名前を見る限りにおいて、人選は確かで言葉も正しい。ならば応援するしかない。

 問題はまだあまり広まっていないことか。再就職もままならないくらいに影響力の無い自分だけに、メディアに属していればと歯がみもするけれど、今はSNSとかブログとかで個人が簡単にメディアを持てる時代。そうした時代に個人で情報を発信し始めたという話題を、個人が伝えることで広まっていけばこんなに嬉しいことはない。というわけで日記に書いてSNSにもアップして、プロジェクトの存在をここに喧伝しておこう。リターンとかもう良いから、頑張って仕事を続けていって下さいな。誰が登場するかなあ、最近働きに出ている場所に関わる人も出てくれるかなあ。楽しみ。

 デストロイヤーの開発者が生みだしたから紅魔族はおかしい感じになったのか、元からおかしい感じだったから紅魔族の面々はデストロイヤーの開発者の改造を受け入れ、そして珍妙な名前だとか名乗りのスタイルだとかを使うようになったのか。今となっては分からないけれども地球の日本あたりが源流になっていそうな14歳くらいで罹りそうな病を子どもの頃から大人になっても背負って発揮して恥じない紅魔族が、大量に出てきて見せてくれるその技はやぱりどれも凄まじくって素晴らしくって、誰に魔を退ける活躍はしてないと思わされる。

 そうした中に入るとめぐみんが割と普通に見えてしまうけれど、それだけに唯一を極めようと爆裂魔法に拘り続けてここまで来た。カズマもそれを分かって粋な計らいを見せて頭のおかしい展開が最後に頭のとてつもなくおかしいクライマックスを経ておかしくされた頭をスッと冷やしてくれた。そんな映画だった「映画 この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」。どれだけ攻めてもやられるのなら魔族も攻めるのを止めれば良いのに、やっぱり魔法を封印する秘密の兵器があると聞かされては行かざるを得なかったんだろうなあ。
 そこに現れたカズマの働きもあってシルヴィアという魔族の幹部が見事にその対魔法兵器を奪取。日ごろの恨みも発憤させるように大暴れしては、寂しいきもちを見たそうと受け入れたカズマの捨て身というかもはやすり身の活躍もあって無事、世界は平和を取り戻す。まあ封印を解いたカズマのせいでもあるし、紅魔族と作りながら天敵も作り秘密兵器まで作ったデストロイヤーの開発者のマッチポンプでもあるんだけれど。そうやって手のひらで転がされながらも見せ場とあれば名乗りを上げてポーズを決め、魔法を繰り出して照れない紅魔族はやっぱり凄いなあ。あれだけの自信と根性を僕も欲しい。それにはやっぱり魔法を極めるしかないのか。黒いマントと眼帯、用意するかなあ。


【8月30日】 京都造形芸術大学とうのがあって、そこが名前を京都芸術大学に変えようとしたことにいろいろと異論が興っている。筆頭は京都市立芸術大学で運営する京都市の門川大作市長が声明まで出して混同される名前を使うなんて何を考えているんだとお冠。確かに京都で芸大と言えば公立の市立芸大がやっぱり筆頭に来るだろうから、そこが京都芸大なる略称を使うべきだしすでに使われていると訴えることには一理ある。京都造形芸術大学も名前を変えるなら造形の部分も残すような何かにした方が分かりやすかったかもしれないけれど、造芸では意味不明だし京都造形大学ではやっぱり押し出しが弱いと思ったんだろう。

 だったら京都市立芸術大学が京都芸術大学に変えればいいかというとそこはそれ、しっかりと「市芸」といった名前が浸透しているそうで変えて市立であるというアイデンティティが損なわれては残念といった声もあるかもしれない。というかそもそも市芸の方が通りが良くって「京芸」とかあまり呼ばれてないなら気にする必要もないんじゃないか。まあそこは京都でトップの芸術大学というプライドもあるから譲れないってことなのかも。OBもいっぱいいて重鎮も多いだけにどういう反応を示しているか。とりあえず開田裕治さんがどう考えているかがちょっと気になる。

 三鷹へと通い始めてだいたい2カ月。最初はカット袋の山にバーコードを貼っては撮影する繰り返しで、沈んだ心に単純佐合はありがたかったものの将来の何かにつながるかがまだ見えない頃でもあって、迷い惑う気持ちも浮かんで頭がグルグルしてたっけ。途中、京都アニメーションの件があってアニメーションの制作資料を集めて束ねて分類して記録する意味を感じたこともあって、誰かがやらなきゃいけないものなんだと分かって気持ちも持ち上がったけれど、ホットスポットに出向いて行っては最先端に触れてそれを自慢するような仕事ではなく、自分の価値といったものを計れないところに寂しさを感じていたりもした。

 それはたぶんまだしばらくは晴れないだろうけれど、この1カ月くらいは1990年代の終わりごろに人気だったアニメーションに関連して作られた版権イラストの原画だとかセル画だとかを見ながら登録していく作業を続けていて、懐かしい顔に出会えて嬉しさも感じつつ、そうやって改めて記録をすることで20年くらい動いてなかった作品に今また出会えるチャンスが生まれるかも知れないといった使命感もあって、気持ちにちょっぴりの張りも生まれて頑張って来られた。

 ムックに初出があれば分かりやすいけどそうでないのはネットを検索して該当する絵があるかを見つけなきゃいけない。それが結構大変で、1枚を特定するのに5分10分かかったりして8時間とか座りっぱなしで画面を見続け、すっかりソラでユリカとかルリとか描けるんじゃないかと思えてきた。いやまあ描けないけれど。あとはムックが作られて以降の劇場版だとかゲーム関連の版権あたりは初出が確かめられず、いろいろと気になるところも残してしまった。

 雑誌が全部そろいっていればめくれば確認もできるけど、カードとかテレカとかになるともうお手上げ。オークションサイトに出ている画像とかからこれだよと特定するようなこともあったりした。結局分からないものもあったりして、そのあたりを調べていくのがこれからの仕事になるのかな。2000年代に入ると原画はあってもデジタル処理でフィニッシュまで行くのでセル画なんてものがなくなってしまう。データで残っていれば活用もできるし、原画ああれば再スキャンして彩色とかもできるけど、移動の中で果たしてどこにいったのやら。セル画ってのは残っていれば活用が可能なだけにやっぱり物理的にデータを残す必要性ってあるんだなあと思った次第。さても何ができるやら。気長に待とう。

 大手の新聞社を辞めてロンドンを拠点にいろろと書いているおじさんがいて、京都アニメーションの件に関して匿名はおかしいって話をし始めた。結論として犯罪の被害者に対して地元の新聞が寄り添うようにいたわるように長い時間をかけて悲しみや悔しさをくみ取りながら報じていく姿勢を称揚する態度は納得できるけれど、そこで遺族の人たちの気持ちに配慮しようとしているにも関わらず、同じ筆で「人間の『生き死に』は社会の記憶であり、歴史の記録です。死者のプライバシーを守ることにどれほどの意味があるのでしょう」と書いてしまっているところがよく分からない。

 死者のプライバシーとはすなわち残された人たちのプライバシーでもあって、それを守らずして遺族の人たちの理解なんて得られるはずがない。そこを無視して「それより被害者が最後の瞬間までどのように生きたのか、その不条理な死は避けることができなかったのかを伝えてほしいと思う遺族もいらっしゃるはずです」と自分勝手な解釈をしてまで報道する意味って何だろう。結局は報じることで得られる興味を埋めたい人たちの関心を呼び集めたいだけなんじゃって思えてくる。

 弁護士の人は会社の代弁者であって会社がそういう態度ならそう言わざるを得ないから、その意見に納得できないこともあるけれど、メディアの側で自制ができない現状を鑑みるならそう言いたくなる気持ちも分かる。そのメディアはプライバシーなんざ知ったことかと言うんだからもう会社も遺族も原則非公開に気持ちが傾くだろー。失っているメディアの信頼をどう取り戻すかを訴え、地元紙のように慎重かつ冷静かつ熱意をもって接する態度を少々しながらも肝心なところで袈裟の下の鎧をのぞかせるよう。その鎧を外せないところに日本のメディアの衰退もみえてしまう。どうしたものかなあ。もう関係ないとはいえやっぱり気になる。


【8月29日】 初めて買ったアルバムが山下達郎さんの「ON THE STREET CORNER」なら、初めて買ったシングルは鮎川麻弥さんが歌う「風のノーリプライ」。言うまでもなくテレビアニメーション「重戦機エルガイム」の後半の主題歌で、ヘビーメタルな感じを出したMIOさんの「重戦機エルガイム」とはまた違った爽やかさでもってダバとかレッシィとかファンネリア・アムとかクワサン・オリビーとかが出てくるストーリーを彩ってくれていた。

 他にもいっぱいアニメを見ていてどうしてこれが最初になったかは多分タイミングで、1984年から放送が始まった番組を見ていたのは主に大学1年生の時。外に出かける機会も増えたしアルバイトも始めて使えるお金もあったことが、レコードにも手を出させたのかもしれない。でもさすがにアルバムをいっぱい買うのは無理だったので、レコードはだいたいレンタルして聞いていたっけ。買ったのは村田和人さんとか飯島真理さんとかいったあたりで、あとは山下達郎さん。初のCD作品となった「ポケットミュージック」の前まではLPを買い揃えたっけ。

 そうやって買ってはすり切れるまで聞いていたのがだんだんいい加減になり、CDを買ってiTunesに取り込んでも聞かないようになっていったあたりで人間としてダメさが出ていたんだろうなあ。部屋をのぞけば山積みになったCDがあるんだけれど全部を聞いていたのっていつまでだろう。お金がなくてレンタルCDをカセットに録音して聞いていた1990年代前半と、お金ならあって買いたいCDなら買えた2010年代後半のどちらが自分にとって有意義だったか。本を買っても読まなくなったことも考えると、やっぱり人間の幸福はお金にはないんだと思いたい。でもお金欲しい。そういうものだよ人生って。

 さて「風のノーリプライ」の鮎川麻弥さんがデビューから35周年ということでアルバムを出したそうで、もちろん「風のノーリプライ」も入っていれば「機動戦士Zガンダム」で最初の半分使われた主題歌「Z・刻を越えて」も入って往時のファンにはなかなかに垂涎。アニメーション関係ではほかに「機甲戦記ドラグナー」の主題歌とエンディングが入っているくらいで、アニソンで大活躍しているかとうとそうではなかったところに今と違ってアニソンシンガーが屹立せず、かといってアイドルも成り立っていなかった1980年代半ばから90年代半ばの事情が伺える。それでも消えず歌い続けて35周年を迎えたのはなかなかの根性。歌い続けたいきおちが支えになったんだろうなあ。そんな強い気持ちのひとかけらでも受け継げたら。ってことで買おうかどうしようか。そこで迷うところに今の心の弱さもあるのかも。

 じっくりと見る。その手から生み出されたキャラクターを、楽器たちを、動きを、表情を、仕草をじっくりと見ながらとてつもなく素晴らしいことをやり遂げて来られたんだと改めて実感する。その素晴らしさをけれども、これからの作品で発揮することができない悔しさをご本人たちに代われるものではないけれども感じ取り、それでもきっと誰かが受け継いで言ってくれるだろうと信じてじっくりと見た「劇場版 響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」。

 新宿ピカデリーの1番大きなシアターがほぼ満席となった中、始まった映画のどこもかしこもキャラクターデザインの、楽器設定の、演出家の、作画監督たちの、そして大勢のスタッフの手仕事に溢れていて、眺めていていろいろな感慨が浮かんで来た。とはいえのべつまくなしかというとそうではなく、シナリオのユニークさに引っ張られ、絵の綺麗さに引きつけられて作品そのものにのめり込んで気がつけばクライマックス。「三日月の舞」が演じられる全日本吹奏楽コンクールの京都府大会にいっしょになって臨んでいた。そんな気にさせられた。

 途中、大吉山へと登った麗奈が座るシーンでばふっとスカートがふくらんでは縮む場面のばふっとぶりがやっぱり目に付いたのは、京都アニメーションの「響け!ユーフォニアム」を取りあげたアニメスタイル007号で石原太一監督と演出の山田尚子さんの対談の中で触れられていたからで、ふわっと下がるんじゃなくしっかりと布地の質感とそして重量感を絵で表現していて、それだけでやっぱり半端ない仕事ぶりだと感じた。あとはやっぱり「上手くなりたい!」と久美子が叫びながら橋を走る場面。三好一郎さんこと木河益治さんがコンテに上乗せして背景動画でたたき付けてきた部分で、痛む心を抱えて走る感じがにじみ出ていた。

 そしてキャラクターたち。小説は出ていても一部しか描かれていなかった北宇治高校吹奏楽部のメンバーを全員、描き出しては存在感を与えた池田晶子さんの仕事ぶりを改めて存分に味わった。池田さんの手がなかったら果たしてあのキャラクターたちは命を吹き込まれていたんだろうか。もちろん誰か別のキャラクターデザインが手がけても作品は成立しただろうけれど、全員を描いてくれたかどうかは分からない。そこに北宇治高校吹奏楽部を創り出す、っていう熱情があって全員のキャラクターを描き、小物から楽器立てからすべてをパーソナライズするといった仕事を誘って作品のリアリティを高めていった。全員を厭わず描いた池田さんあってのリアリティなのかもしれないなあ。

 そして楽器設定。高橋博行さんがテレビシリーズでどこまでも丹念に、そして映像としてのパースに収まるように楽器を描いてあてはめていったこともまた、演奏を描いたアニメーションにリアリティをもたらした。CGでだって描けただろうしモデリングもされていたようだけれど、そのままあてはめてはやっぱりズレが生まれてしまう。硬質だったりソリッドだったり。それを手描きにして画面いマッチするように形を整え影をつけ映り込みを乗せていった結果が美しくて楽しげで、そして厳しい吹奏楽の演奏というシーンに重みと深みを与えた。競い合うように探求を極めたからこその人気。その熱情を今、後進に継げというのは残酷だけれど、言われなくてもやってやろうという人たちばかりだったから、京都アニメーションは進化していった。だからこれからも、頑張ってくれると思いたい。僕も頑張るから。共に拓こう、未来を。


【8月28日】ジョン・W・キャンベルといえばSFを囓った人ならだいたい聞いたことがある名前でSF誌の「アスタウンディング」編集長として権勢を振るい数々のSF作家とSF作品を世に送り出したことでヒューゴー・ガーンズバックとはまた違った意味でのSFの父祖とも言える人。あまりの権力者ぶりにアイザック・アシモフなんかから批判というか批評めいた言葉も出ていたみたいだけれども、実力者なんだからそれは仕方がない。ただやっぱり1937年という時代から活躍している人だけあって、振る舞いにおいて今の風潮とは絶対的に合わないし、思想面だって現代からは遊離した部分があったりする。

 基本的にマッチョだろうし金髪の白人の女性がエロティックな媚態を見せるようなパルプフィクションにも関わっただろうしファシズムにだってあるいは傾注していたかもしれない。それをそういう時代だったからと言うのはなるほどたやすいし、だからといって過去においてその業績がゼロになるってことはない。SFに多大な貢献をした。だから新人賞にジョン・W・キャンベル新人賞というものが将来性のある作家に与えられてきた。ただ過去においてその名前は有効でも、現代の価値観いおいて果たして引き合いに出して良い物かどうか、って疑問があるらしく今年、ダブリンで開かれたワールドコンでジョン・W・キャンベル新人賞の贈賞式が行われた際、受賞した香港の女性作家、ジョン・ヌーが今時こんな名前を掲げた賞を運営していて良いんですかと問いかけたらしい。

 なるほどそれも分かる。そしてなかなかに反論が難しい問題なだけにいろいろとかんがえた結果、名前がアスタウンディング賞に変わるかもしれないって話をワールドコンから帰って来た藤井大洋さんが話してた。あり得る話だし、ポリティカルコネクトネスだの言論弾圧だのと言ったところで始まらないから、きっとそうした方向に行くんだろう。ただ、そうなると過去の功績からメモリアル的につけられた個人の名前が、過去の振る舞いから現代に使いづらいことになるケースが続出しそう。自殺した芥川龍之介や太宰治の名前が冠された文学賞なんてどうなんだ、とか自衛隊に乱入して脅迫をして自決まで遂げた三島由紀夫なんて犯罪者ではないジョン・W・キャンベルより酷いじゃないかか、言い出したら切りが無いけどそこはそれ、みそぎは済んだし名前は文学への貢献だからとそのまま使われるんだろう。受賞者がそれはイヤだと言えばまた別かもしれないけれど。

 家を掘っていたら大昔に出た「プラスマッドハウス1 今敏」というムックが出て来て開いたら、今敏監督と筒井康隆さんが対談していてアニメーション映画「パプリカ」が出来た経緯を話していたい。ちょうど8月24日に池袋パルコで開かれたイベントで、元アニメージュ編集長の大野修一さんが登場して、アニメージュでの対談がきっかけになったと話していたけどそのことが冒頭から書いてあって、最初はいろいろと対談相手を挙げたけれどもピンと来なかった今監督に、筒井康隆さんの名前を挙げたらこれがどんぴしゃ。筒井さんの方も「千年女優」を見てこういう作品をつくる人ならとOKしたことが発端となって対談し、そこで「パプリカ」も作れるんじゃって話になったらしい。

 ならばと即座に企画書を作って持っていったらしい今監督。結果として素晴らしい映画が仕上がって世界中が狂喜乱舞したものの、それがまさか遺作になってしまうとは公開当時は思わなかったなあ。ムックではまるまるとしたお顔を見せていた今監督だけれど数年後には病気で死去。人生、どこに何が潜んでいるか分からないものだ。ほかにもびっしりの今敏ワールドが記録されているムックは、長く増刷もされていなかったけれど大野さんが現在務める復刊ドットコムから2015年に復刊されていたとかで、ちょっぴりお値段は高めになっているけど読めるので気になる人は確保を。現時点において今敏監督に関する総論とかデータとかの集大成的な1冊になっているから。本当はロシアかどこかで作られたドキュメンタリーなみに新しい紹介が欲しいんだけれど。噂だと海外発でドキュメンタリーが作られるみたいなんでそっちに期待。関心を持った誰かが大金を出して「夢みる機会」が動き出さないともかぎらないし。

 なんかキレキレというかYouTubeの配信でメンタリストDaiGoさんが冒頭から激しい口調で京都アニメーションの被害者を実名で報じたNHKとそして実名で報じる言い訳をしていた毎日新聞を批判して、NHKにはもう絶対に出ないとまで言い切っていた。それを言うなら他の民放も実名で報じたところがわんさかあって、等し出ないと言えば良かったんだけれどまだ確認がとれていなかったのかそれはせず。ただ言ってしまった以上はテレビには出にくくなるとも話していたから覚悟の上なんだろう。

 とはいえちょっと前、ニコニコチャンネルの発表会にゲストとして登場したDaiGoさんはテレビに出たからといって何か影響があるかというとまったくないってことを断言してた。配信にお客さんが来るわけでも本の売り上げが伸びる訳でもない。宣伝にもアピールにもならないテレビなんてって話していたから、今回こうしてテレビや新聞の批判をしてテレビから追放されても新聞から追い出されても、当人としてはいっこうに気にせず100万人を超える視聴者を持つ配信を見てもらって本を買ってもらうことで十分に生きていけるし意見も世の泣かん何時耐えられると感じているに違いない。

 それはそのとおり。ただメディアは出ない相手に対してネガティブな情報をばらまくことはできて、その影響力はやっぱり未だに根強い。ネット配信すら潰され本の出し口すら閉ざされたらどうなるか、ってあたりも含めてインディペンデントな発信者がマスメディアを頼らず活動していけるかどうかのひとつの試金石にしたい。それにしても明快で論理的に京都アニメーションに関する実名報道を批判していた。ひとつ、公益性という部分で京都アニメーションの中でも世に知られたクリエイターの実名を取りあげることで、ファンが安否を確認してその功績を悼むとうこともできるので、決してメディアの金儲けばかりのためではないと分かって欲しい。そうした追悼の気持ちも何も実名が出ずとも想像の中でそうなんだろうと感づき進めることも可能だけれど、発表された以上は改めて功績を讃え死を悼みたい。DaiGoさんもそれはみとめてくれるよね。


【8月27日】 警察が名前を公表すること、それ自体は権力が情報を統制しないための道筋として必要なことだという認識は変わらない。問われるのは、それを受けてメディアが名前を報道することが必要かどうかといった点であって、控えて欲しいという要望が家族から出ているのならそれを受けてメディアは報じないというのが懸命な判断だろう。けれどもメディアは警察の公表をイコール報道へのお墨付きだとねじ曲げ、警察を通して公表して欲しくないといった名前も含めて京都アニメーションを襲った放火事件の被害者を報道してしまった。そこには遺族や親族に対する情もなく、そして自分たちで何が適切かを判断する理もない。

 なるほど報じられたことで僕たちはとてもとても大切な人が亡くなられていたことを知った。大好きな作品でキャラクターをデザインしてそこに命を描き出した人だとか、キャラクターたちが手にする楽器を精緻かつ暖かみも持たせて描いて演奏する素晴らしさを醸し出した人だとかが被害にあっていた。大好きな作品にとてとてもとても重要な2人を失ってしまっていったいどうなってしまうのか、といった不安がまず募る。発表されていた続きは果たして作られるのかといった心配も浮かぶけれどもそうしたことはいずれ作られて名前を見れば分かるもの。あるいは作られなかったらそうだったんだと思えば良い。

 教えて欲しくなかったとまでは言わないけれど、教えてもらいたくなかったのなら教えてくれなくて良かったという気持はある。その2人がどちらに入っているかは分からないけれど、もしも止める遺族や親族を振り切って報道したのだとしたらメディアはやっぱりどこかが歪んでしまっている。すでにしていろいろと信頼を失い、収益が鈍っている中でいったい何をそんなに焦っているのだろう。カウンターとして登場したトンデモな言説を振りまく政党が国会議員を誕生させてしまった背景にも、そうしたメディア不信の根強さがある。そういう状況の中でどう振る舞えば良いか、分かっているのかいないのか。若い世代は分かっていても上のどっぷりと業界にハマった世代に理解は出来ないんだろうなあ。やれやれだ。

 それはそれとして、京都アニメーションの活躍を改めてスクリーンで広く世の中に市ってもらおうと始まった上映で、木曜日に「響け!ユーフォニアム〜北宇治高校吹奏楽部へようこそ〜」が上映される。時間は午後の7時過ぎからだから午後の6時に仕事を上がれば見に行けそう。いろいろと立て込んではいるけれどもこればかりは仕方が無い。本当は普通にフラットな機会に良い映画として観たかった。立川シネマシティで極音として見た時のようにまた出会えたねって喜んで観たかった。悲しい上映にさらに悲しさが乗ってしまうのは作り手としても本意じゃないだろう。だから泣けてもそこはグッとこらえて喜びを見つけ、未来へと向かう勇気をもらいに見に行こう。

 というか、これだけいろいろと話題になっていながらテレビはまるで京都アニメーションの映画なりを放送しようとしない。グッズだって作って売ってたTBSが「映画けいおん!」を放送するとかしたって不思議はないのに気配はないし、「響け!ユーフォニアム」の劇場版だってどこが放送するような動きもない。TOKYO MXからの放送で映画は松竹が配給・上映していてポニーキャニオンがパッケージを販売している座組だとテレビではすぐに動きづらいってことがあるのかもしれないけれど、そういう時に割ってはいってNHKが放送するとかありそう。

 「この世界の片隅に」だって「映画 聲の形」だってNHKが放送したなら「響け!ユーフォニアム」だって出来そうだけれど。それをやって便乗と誹る声も出るかもしれないけれど、観れば分かるその素晴らしさによくやってくれたと感謝も出るじゃないのかなあ。ほかにも例えば「氷菓」の一挙放送とか、「リズと青い鳥」の放送とかやってくれれば京都アニメーションがどれだけ凄かったのか、武本康宏監督と西屋太志さんがどれだけ素晴らしいクリエイターだったのかが知ってもらえる。名前を報じて近隣の声を伝えるよりも生み出してきたものを見せて凄さを讃えてよ。それがメディアってものじゃないの。そう言っても届かない我が身の小ささに今はギリギリと歯がみする。偉くなりたかったなあ。でも偉くなっていたら傲慢で不遜なメディアになっていただろうから偉くならなくて良かったのかなあ。

 石田敦子さんが描く「HeiSei七色いんこ」がなかなかユニークというか、手塚治虫さんが生み出した「七色いんこ」というキャラクターを甦らせては演劇人が挑む舞台に代役として臨みつつもそれぞれの演劇人たちが思うことを綴って演劇の面白さや素晴らしさを浮かび上がらせようとしている。加えてそうした人たちが演じるのがいずれも手塚治虫さんの原作だというところで、「火の鳥」だったり「リボンの騎士」だったり「ブラックジャック」だったりといった作品の紹介にもなっている。

 「紙の砦」を演じる劇団のエピソードとか、灰皿を放り投げる演出家がダメだしを繰り返して劇団員が皆逃げ出す中でいっいどうその主題、戦争のすさまじさと向き合えばいいのかを惑う女優の葛藤が描かれていてなかなかに胸苦しい。そして最後に繰り出された驚きの展開。そうかそこまで。けれどもだからこそ人が観て感じ入る舞台になるんだろうなあ。七色いんこはそれを知っていたのかどうか。知らずとも感じてはいたかもしれない、演出家の声音から。でも黙っていたのかな。二代目という七色いんこの“正体”Moなかなか。それが宝塚で男役を代演してサファイアを演じるという設定の重なり具合を、すぐに紐解けないのも当然だろうなあ。その時に心はどうで体はどうだ。ああややこしい。


【8月26日】 大きな戦争があって古い道徳心が崩れ、禁酒法の影響でマフィアが跋扈するようになった街で非合法の運び屋をしているシーモア・ロードに依頼が入る。行くとマフィアらしい男から預けられたのはルーミーという名の美しい少女。依頼だからと車に乗せたシーモアは、襲撃をかわしながら目的地へと向かう。そして到着した先でも襲撃が行われ、シーモアにも銃弾が迫ったその時、ルーミーが割って入って頭を吹き飛ばされて死んでしまう。

 「賭博師は祈らない」の周藤蓮さんによる「吸血鬼に天国はいらない」は、まだ導入部なのにヒロインが死亡により退場とはこれいかに。そこはご安心。ルーミーは吸血鬼で復活してそのままシーモアの部屋に居着き、水流を渡れないという掟を逆に利用する異能を見せてシーモアの運びや稼業の役に立つ。日陰を歩くシーモアとルーミーのラブストーリーの始まりか。そう思わせて展開は、街で起こった暗殺事件の謎へと向かい、真相へと迫る中でルーミーの本性を浮かび上がらせる。

 吸血鬼はやはり吸血鬼。人倫など知らず恋情など持たないで人間を喰らう恐怖の王なのか、それとも心があって恋も理解できる存在なのか。そうした疑問への答えを探るシーモアの思考の果て、すべてが仕組まれていたはずの一件が暴かれながらも、その中にぽつりぽつりと見えて来る、吸血鬼の“心”のようなものに触れていける。それもまた表面的なものでしかないのか、それとも新たな芽生えなのか。

 マーダー・ケースと呼ばれる暗殺組織がどうやって生まれたかという理由と、そのリーダーという女の片腕と片足がない姿に世界の苛烈さを感じ、そうした世界が異形の存在としての吸血鬼を産み落とし、社会のバグを喰らわせるといった説明に、もしかしたら混沌が続く実際の社会にも、ウイルスなりワクチンとしての吸血鬼が生まれているのかもしれないと思えてくる。シーモアはどう救われたのか。ルーミーとの関係は。続く余地はありそうだ。

 これだけ景気に浮上する機会がまったく見えなくって、賃金は下がる一方で消費ものびや何でいるにも関わらず、本当に消費税を上げる気なんだと今さらながらに気付いて心底から政治のポン酢っぷりにあきれかえる。新聞各紙が駆け込み需要なんてまるで出てないじゃんと書き始めているけれど、将来において賃金が上がる兆しがなく、そして現状もあまりよくないのにいったい何を買えというんだ。車だろうがマンションだろうが買える人たちはとっくに買っている。この時期になって動かないのは動きたくても動けないからであって、それは消費税が将来上がろうとも関係ない。だから駆け込み需要なんて起こらないんだと政治は気付いていないのか。行政は感じていないのか。分かっちゃいるけどやめられないんだろうなあ。1番のトップがきっと気付いていないから。

 とはいえ今出ている本なんかだと消費税が増税されれば値段が上がることになる訳だから、買うなら今のうちに買っておいた方が良いかもしれない。増税前と増税後をまたいで売られることになる雑誌なんかだと2重に表記がされているみたいで、SFマガジンの最新号は9月30日までは1200円の本体に8%の税で1296円なのが10月1日以降は1320円になるって裏表紙に書かれている。24円とはいえそれが4冊になれば100円で40冊なら1000円だ。もっといっぱい本を買っていれば1万円2万円の差にだってなりそうなら、やっぱり買えるものは買っておきたいけれど買っても読むとは限らないからなあ、読みたいときに買うのがやっぱり良いのかな。迷う。

 そして気がつくとサッカーのJ2リーグでジェフユナイテッド市原・千葉が17位まで順位を落としていた。最下位のFC岐阜が勝ち点20で21位の栃木SCが勝ち点24。そしてジェフ千葉は30ですぐ下の町田ゼルビアも勝ち点30と並んでいて、その下には28のアビスパ福岡と27の鹿児島ユナイテッドFCがいるだけ。栃木が連勝してジェフ千葉が連敗すればすぐさま降格圏に落ちしまいそうな状況にある。なおかつ残り試合は13試合と結構な数残っている。最近の連敗度合いを見ていると、いよいよもってJ1に上がるどころかJ3に降格なんて可能性も見えてきた。どうするんだろう。ってかどうして勝てないんだろう。資金は潤沢で設備も最高でスタジアムは完璧。それなのに。やっぱり甘いのかなあ。甘いんだろうなあ。

 6週目で興行収入ランキングの1位に返り咲くとはやっぱり勢いがある新海誠監督の「天気の子」。アニメーション映画だと「ONE PIECE STAMPEDE」が4位へと後退し、公開されたばかりの「二ノ国」は7位とちょっと定位置でしばらくは「天気の子」の1本被りが続きそう。米国アカデミー賞に日本から代表作品として国際長編映画賞、昔の外国語映画賞にノミネートが決まったそうで、これも追い風になったりするかもしれない。期間内の米国での興行がないとノミネートされない長編アニメーション部門が今回は無理でも、とりあえず世界と勝負できる場を与えられたことも作り手にとっては嬉しいことなんじゃないのかな。でもできれば長編アニメーション部門にノミネートされて「トイ・ストーリー4」なんかと勝負してほしかったかも。そっちはだから「海獣の子供」に頑張ってもらうか。そういう可能性はあるんだろうか。


【8月25日】 そして動き始めた女神イシュタル。ヘルメスを籠絡しては聞き出した女神フレイアのお気に入りの存在を籠絡し、フレイアを焦らせようとする企みを巡らせてベルくんをかっさらえと配下のファミリアメンバーに通達した。ベルくんはこれで捕まりフリュネの圧力をかいくぐってイシュタルのところに運ばれそして……って展開になると原作を読んで分かっているので、あとはどれだけくっきりと描写してくれるかに期待。やっぱり挟むんだろうかあの胸であれとかを。あれって何だ。

 そうしてちょっかいを出しつつも入れられずフレイアの怒りを招くところはきっと計算していた感じがするヘルメス。とはいえ春姫の存在と運びこんだ殺生石との組み合わせが生まれることまでは気付いていなかった感じ。神といえども万能ではないってことで。それにしてもどうしてフレイアはあれほどまでにベルくんにご執心なんだろう。若くてピチピチとしていてグングンと成長しているからだけなのか。ベルくんのスキルとか過去とかに因縁があるのか。シルさんを通じて見張っているようなところもあるだけに、ストーリーが進んでいって明らかにされるベルくんの出自の秘密を今は待ちたい。ただのチートじゃないよね。

 掴んで引っ張れるアホ毛が現実に存在し得るかという謎については置くとして、そんなアホ毛をもった少女が逃げていたのを助けようとした少年が、撃たれて死んではまた復活して同じ様な経験を繰り返す。何度逃げても撃たれるか、別の敵が現れ少女を殺そうとして自分も巻き添えになって死ぬ。なおかつそうやって自分を殺そうとする相手は本当に世界を救おうとしている組織のメンバーだと分かっている。いったいどういうことなのか、って展開の紺野天龍さん「エンドレス・リセット 最果ての世界で、何度でも君を救う」(電撃文庫)について言うなら、どうして自分の知人も含まれる正義の味方が言うように、少女が世界の敵だと認識して距離を置こうとせず、助けようとするのか。そこがやっぱり引っかかる。

 理不尽に見えてもやっぱりそうなら仕方がないと諦めるなり、話し合う中で妥協するなりするのが真っ当な思考だけれど、少年はひたすらに少女を守る道だけを考えようとする。純情なのか純真なのか。分からないけどそうやって結果として世界も少女も救えたようなので、頑張ればきっと道は開けるという教訓は得られそう。とはいえ少年がかかえた悪魔の腕は広がりを見せて、彼自身が世界の脅威となり得そう。そうなった時に彼は身を静かに沈めるのか、それを少女が許すのか、なんて展開に向かっていくのかな。ループ物ライトノベルの新シリーズ。楽しんで次を待とう。

 自分がなりたいキャラクターになりきるコスプレという文化であり営みは、ただなれれば良いというだけではなくなった自分がなりきったという満足を得られなければやはり意味を持たない。ファンタスティックな世界が舞台になったゲームに登場するキャラクターに分したコスプレイヤーが、その姿を工場が建ち並ぶ湾岸とか、オフィスビルが立ち並ぶ都心部に見せても当人としてはなり切ったという感じを受けるだろうか。ミスマッチという感覚を是とすることも可能だけれど、周囲の奇異な視線を浴びてでも喜んでそうした場所に立ちたいとは思わないだろう。

 ましてや、遠く日本から発祥したようなコスプレという文化に触れて純粋に楽しんできた外国人コスプレイヤーにとって、ただ着飾るだけではない場所も含めてなりきるという行為は絶対的に遵守したい作法だろう。そこでミスマッチな場所に立って、やっぱり外国人コスプレイヤーは分かってないと言われる屈辱を思えば、たとえば和装のキャラクターになった自分を東京タワーの下に立たせたいとは思わないし、ファンタスティックなキャラクターとなった自分を、古風な寺院に起きたいとも思わない。そういうものだろう。

 しかるに経済産業省がNPOを活用して京都で海外から招いたコスプレイヤーを使って名所をPRするという事業について、それが京都という場所であり紹介する名所にマッチしたコスプレをして欲しいというなら話は分からないでもない。憧れの地である日本に来られてコスプレをして大勢に見てもらえる機会を嬉しく思う人も多いだろうし、そうやって発信された同じ外国人コスプレイヤーの活躍を見て、自分もと発憤してくれる外国人コスプレイヤーが増えればとても素晴らしい。それこそ世界に広がるクールジャパンだと言える。

 けれども例えばSFチックなキャラクターの衣装だったりファンタジーRPGのキャラクターの使用だったりをまとったコスプレイヤーが、京都御所だろうと平安神宮だろうと天橋立だろうと立って紹介しても果たして世間は喜ぶだろうか。当人たちは嬉しがるだろうか。御所なら御所、平安神宮なら平安神宮に相応しいコスプレ衣装を用意するから着てねという可能性もないではないけれど、なりたい自分になろうとしてコスプレをする人たちに、日本に来られるんだから気に入らない衣装でも着てねと頼んでしまうようなケースも考えられるプロジェクトに、応じて欲しいとはちょっと思えない.

 普段から安倍晴明だとか光源氏だとか刀剣男子といった存在を真似ているコスプレイヤーなら立つ場所もあるかもしれない。「けいおん!」なり「響け!ユーフォニアム」の衣装だったら京都なり近隣で立つ場所もあるだろう。そういうコスプレイヤーを呼ぶならば、って話であって見栄えの良い外国人を看板代わりに活用しようとする考えだったら、それはコスプレという文化であり行為であり精神を愚弄したものだと言える。そういう機微まで果たしてNPOの人は分かっているんだろうか。経済産業省は熟知しているんだろうか。

 世界にコスプレという文化の存在をアピールするという意味で、海外に発信する力を持った外国人のコスプレイヤーを招くこと自体に異論はない。喜んでもらった記憶を広めてもらって世界をコスプレ好きにする尖兵になってもらえるのだから。けれども単に等身が良くて見目も麗しいその肢体を活用したいだけだったら、コスプレイヤーを呼ぶ必要なんて無い。モデルで十分だ。あるいはその場所をコスプレイで紹介したいのだったら、なりたい自分になろうとしている人と、紹介したい場所にちなんだコスプレをしている人が重なるケースを抽出し、参加してもらうのが筋じゃないのか。そういっった意向を示さないからこの一件は炎上しているのだ。いったいどんな釈明が出てくるか。気にせずぶっ飛ばしてしまうのか。続報に注目。


 チューズデイって幾つだっけと調べたらまだ17歳でしかも深層のご令嬢だから恋愛経験もきっと乏しい中、出会った無精ヒゲをのばしたイケメンなジャーナリストに心情を吐露して心を許したかどうかして、恋心が芽生えてしまったんだろうけど相手は海千山千のジャーナリスト。そして中年男だから恋人だっていて不思議はなく勝手に盛り上がってプレゼントまで用意して、喜んでくれると思ってかけつけたその場所でイチャイチャしている場面に出くわしハートブレイクするという、失恋ストーリーとしての分かりやすさが炸裂していた「キャロル&チューズデイ」。そういうものだよ恋なんて。したことないけど。

 大統領選挙に出ているチューズデイの母親は選挙参謀の口車に乗せられ過激なことを口走るようになってそれが支持率につながったりしてちょっとヤバい空気に。テロめいた事件が起こって移民が犯人だといった憶測を喧伝してさらに支持を高めているのはそれが何か大きな事件をもたらす伏線か。そして冒頭から語られている奇跡の7分間に繋がっていく、と。いやいや別にもう1本、アンジェラを付け狙うストーカーの存在もあって、アンジェラに言い寄っていたIT起業家は車にはねられ重傷を負って手を引いたみたい。常に狙っていてハッキングも自在なストーカーの正体は? これまでに伏線ってあったっけ? 気になるけれども見ていけばそのうち分かるだろう。今見ているアニメってこれと「ダンベル何キロ持てる?」くらいなんで訥々と見守ろう。

 レベルファイブのゲームを原作にした長編アニメーション映画「二ノ国」が今日から公開で、豊洲での舞台挨拶がついた上映チケットが当たっていたんだけれど月末に締め切りが来る原稿の構想がまるで固まってなくて、それで午後に池袋で今敏監督をしのぶメモリアルイベントで開かれる「PERFECT BLUE」の上映と、奥様の今京子さん、プロデューサーの丸山正雄さんのトークイベントを見る気でいたんで申し訳ないけど「二ノ国」は遠慮。とはいえ家にいても仕事にならないんで、荷物ををまとめて家を出て、池袋へと向かう途中にある永田町の駅ナカのカフェで電源をとりながらバツバツと原稿につながりそうなパーツをつくって溜めていく。

 とにかく国民的な作品で、なおかつ切り口も多いんでどこをメインにするかまったく決まらない。いわゆるTS物の原点ではなくても大流行するきっかけになった作品で、そうした文脈の上で語りたくもあるしそれが元になって男子と女子のカップルに女子が加わるという不思議な三角関係が中心にあったりする構造についても紹介したいし、出てくる様々なキャラクターたちの誰が最強かも考察したいしピンチにピンチを重ねて次へ次へと読ませる後世の妙なんかについて紹介したい。

 そうやって作っていけば制限枚数はどうにかたどり着けるはずだけれど、ぶつ切りに項目を立てても読んで面白くないんで流れの中で繋がるようにしたいもの。そのための材料作りを今日明日で進め、週中くらいに届く資料で穴埋めをしてどうにかたたき台を作って、月末までに完成させるといったスケジュール感があるけれどもどうかなあ、書けるかなあ。再就職とかうまくいかない中でそれなりに意義のある仕事を預けてもらって月に20万円くらいは稼げそうな感じになって、気鬱さはちょっぴり晴れてはいるけど別に頼まれた原稿が書けるかどうかといった不安が立って、そちらの気鬱が浮かんで居たたまれない気持にさせるのだった。こればっかりは書けば終わる話なんで書くしかない。将来についての不安はその後で考えよう。案外にあっさりと晴れたりするかも。しないかも。どっちなんだ。それが不安の種なんだよなあ、油断すると芽を出して一気に広がる。消えないなあ。

 3時間ほど原稿を書いてから池袋へと回ってマルイで開かれたイベントへ。まずは「PERFECT BLUE」の上映があってもう何度目になるか数え切れないけれど、それだけ見てもやっぱり斬新で新鮮で巧みな映画だと思わされる。同じ様な構図でシーンからシーンへと切り替えるお得意の手法はここからすでに始まっていたのか。そして劇中劇なのか本当に起こっているかの垣根を曖昧にして、未麻が犯人なのかもと思わせて劇中劇の犯人だといった展開を混ぜ込んで混乱させる。もうグチャグチャになったところに打ち出されるあの展開、あのビジュアル。これはやっぱり怖いよなあ。そして悲しい。上に行くために、未来をつかむために捨てなきゃいけない何かがあることは分かっていても、それを受け入れられない人だっているんだ。

 まさに自分を変えようとしている、というか変えざるを得ない状況に追い込まれている自分はさて、未麻になれるかルミちゃんみたいに過去に溺れるか。正念場かもしれない。そんな「PERFECT BLUE」を久々に見てやっぱり東京の街並みとか、描かれ方が映画的とうよりビデオ的で雑ではないけど簡略化されていて、新海誠監督が描く東京の街並みとの差が今さらながらにくっきりと見えてしまう。そりゃあ「幻魔大戦」だとか「X」のレベルで描けば描けただろうけれども、そこまでの予算はなくってビデオ向けに作られようとしていた作品。だから街並みも粗めだけれど、そんな映画を今の予算、今の技術でリメイクしたら果たしてどんな印象になったのか。あるいは実写化したらどうなるか。ちょっと考えてしまった。それなら今監督が不在でも何か出来そうな気がしないでもないし。

 ただ、「夢みる機械」はやっぱり今監督が不在ではプロジェクトとして凍結されて仕方が無いか。シナリオが4稿くらいまで作られていて、病床で語られた構想もあるにはあって、映像も一部が作られている。平沢進さんの音楽に合わせた旅立ちのシーンめいたもののコンテ撮による映像もあるというから作れば作れないこともない。ただそれは果たして今敏監督の作品なのか、といったところで誰もが悩んでいるんだろう。たとえ構想が語られていたとしてもそれはその時点での構想であって、作っている間に代わっていくのが人間のよるクリエイティブというもの。そうした作用が働かないものを、やっぱり今敏監督の作品として出すのは違うってことらしい。

 だったら誰か別の人が、そうした構想と材料を身に入れて、自分のクリエイティブとして作ればそれはそれで見応えのあるものが出来るかも知れない。今敏監督の原案として受け止められるし。それが可能になるのはいつか。5年後か。10年後か。30年後か。分からないけど少なくとも残されたアイデアはあり素材もあるならいつか、どんな形でも披露されて欲しいもの。その時にようやく、2010年8月24日の、或いは公表された8月25日の衝撃から僕たちは脱却できるのだ。


【8月23日】 京都アニメーションに日本だけでなく全世界から多額の寄付金が寄せられながらもそれをそのまま受け取ると、収入となって税金がかかってしまう問題について日本政府がそれはさすがに非道だということで税控除の対象にするとか言い始めたらしい。京都アニメーションにとってはとても良いことだけれどそこで京都アニメーションだからといった枠がついてはやっぱり拙い。あらゆる犯罪被害に対して寄せられる義捐を遍く税控除の対象として、被害者の救済にあてるべきだといった見解をだから、京都アニメーションの代理人というか桶田弁護士がちゃんと指摘しているのは有り難い。

 そしてやっぱり真っ当な思考を持っていることが伺える。まあアニメーションの業界では毀誉褒貶あって、JAniCAの騒動に絡めていろいろと言う人もたりするけれども今もそのJAniCAは活動が続いていて、今回の京都アニメーションに関してもYahoo!と組んだりNPOと組んだりして募金の窓口が広がるようにしている。そうした“入れ知恵”もたぶん桶田さんからなんだろうけれど、一連の活動で非難は起こらずむしろ立場を良くしているところにメディアとアニメファンの心理をちゃんと勘案し、活動し発現できるだけの思慮があることが伺える。

 だったらどうしてあんな騒動が過去に起こったのか。それは謎。そしてアニメミライが持って行かれてしまったことも。そうした“謎”について業界人でもないので突っ込むことはしないけど、1度の上映と1日のネット配信で終わってしまって見る機会も乏しいあにめたまごが、、上映会も開かれ大勢が見て悦んでいたアニメミラのようになって欲しいと思っているだけに業界に渦巻く諸々が、可視化され解消されていってくれることを今は切に願いたい。ともあれ京都アニメーションの募金の税控除に可能性が見えたことは僥倖。その結果としてまた制作が活発になってくれれば、それも大きな供養になる。悲しいけれども前に、明日に向かって歩む手助けを。皆で。

 東京オリンピックを動かしている人たちが間抜け時空に浸っていることはお台場でのトライアスロンが酷い臭いとか雑菌とかで大変なことになっても場所を変える気を見せず、早朝から仕事があるボランティアを前夜から招集して徹夜で待機させるような愚策を表明していることでも明かだけれど、今度は期間中に首都高を1000円値上げして交通の流入を減らすとかいった施策を打ち出した。なるほどそれで首都高が空いて選手を乗せた車がすいすい移動できても、降りたら高速道路を避けて一般道を走る車の渋滞につかまり移動できなくなるだけなんじゃ。むしろそれならナンバーで分けてこの日は偶数、この日は奇数で走行を制限できれば指パッチンしなくても半分に減らせる。豪腕でも効果的な施策を見せずにお手軽な方法をとろうとしてドツボにハマる繰り返し。何が起こるか1年後が楽しみだなあ。

 そうでなくても暑さでとんでもないことになりそうな東京オリンピックが、さらに暑くなるかもしれない可能性。南米のアマゾンが燃えに燃えているようで木々が失われ酸素が減った地球でいったい何が起こるのか。炭酸ガスが増えて温暖化が進んで猛暑になるのか逆に日光が遮られて冷夏が訪れ寒くなるのか。地球規模での気象変動なんて誰も予測不可能なだけに、来年に限らずこれからの地球がどうなってしまうか、いろいろ不安が浮かんでしまう。結果として経済が混乱して仕事がなくなり路頭に迷うなんてこともありそう。すでに迷っているじゃないかとそこは聞かないで欲しいけど、少しはある蓄えがインフレで吹っ飛んだら喰うに喰えなくなってしまう。せめて現状維持を願いたい。そして生き延びて楽隠居したい。だからアマゾンの火よ消えてくれ。

 「紅霞後宮物語」もアラサーで武人の女性が皇后になったりするというなかなか挑戦的な設定で読ませたけれど、集英社オレンジ文庫から出た小田菜摘さんの「平安あや解き草紙 〜その後宮、百花繚乱にて〜」は32歳の女性が後宮で長官みたいなことをしていてい、そんな彼女に若干16歳の帝がご執心といったアラサー&歳の差ラブが描かれていてなかなかに挑戦的。まだきっと幼少だった帝に20歳前後の姿を見られてお姉さんとして憧れられた、その過去を引きずっているんだろうけれども32歳の現実を見せて諦めてもらおうとしても、逆に惚れ直す帝もなかなか剛毅というか、お姉さま方には嬉しい態度というか。

 もちろん后はちゃんといて子も成しているから跡継ぎ作りはちゃんとやっている。そうした皇統とは別に気持もちゃんと維持する帝は16歳にしてしっかりした人間ってことなのかも。そんな2人を起きつつ物語は藤原伊子というアラサーの尚侍が仕切る後宮に新しく来て衣装係となった女性が周囲を使わず自分で着物を仕立ててしまう凄腕を見せて、やっぱり帝に見初められたいのかといった憶測を呼ぶんだけれどそんな後宮でネズミの死骸が相次いで見つかる事件が勃発。その祇子という女性が従姉妹の后を蹴落としたいのかといった憶測も呼ぶ中、伊子が真相を喝破する。女性同士の信頼というか憎まれ口を叩いても本心は違うといった感情の機微が見えて面白い。きっと良い女性になるだろうなあ祇子さん。

 今はもうないXEBECというアニメーション制作会社が手がけた作品リストをぺとぺとと作る午後。情報が乏しいのでwikiとかXBECサイトの残滓から拾い上げ、TV局サイトなども見てアニメおよびゲームを時系列順に並べてみたら120作品くらいに到達した。結構作っていたんだなあ。そして意欲的な作品もあった。「Mnemosyne−ムネモシュネの娘たち」とか。見た記憶はあっても熱中してなかったんで覚えてないけど、眼鏡のお姉さまがヒロインっぽいのに改めて胸をキュンとさせる。配信があるなら有料でも良いから見てみよう。あと会社のリストにはなかった「Rio RainbowGate!」という作品がWikiにはあって、調べたらパチンコパチスロ系だった。でもなかなかエロティック。2011年の第1四半期というつまりは東日本大震災のただ中という時間が記憶から奪ってすまった感じ。これも見たいけど見られるんだろうか。


【8月22日】 新海誠監督の新作アニメーション映画「天気の子」が公開から34日間で興行収入100億円を突破したとこのこと。観客動員は750万人でこれは「君の名は。」が公開から29日くらいで興行収入100億円を突破した時の770万人よりは少ないけれどもそれだけ学生さんではない層が見ているってことでもあるだろうし、100円の値上げの影響もあるかもしれないけれど、100万人に到達するまでの約1週間分の遅れを考えるならやっぱり「君の名は。」の数字にはちょっと届かないかもしれないなあ。

 いやでもこの日付でもまだ公開前だった3年前で、夏休みも終わった人たちを動員できたんだから、まだ見ていない大人とかを巻き込んで伸びていったら結構なところまで行くかもしれない。今のこの暑さだと「天気の子」とか言われても暑苦しいだけなんで、涼しさが出て来た9月辺りに「君の名は。」と同じくらいの動員が計れたら……やっぱりそれはないかな。まあでも120億円くらいは超えそうなんで宮崎駿監督の今のところの最後の長編アニメーション映画「風立ちぬ」の上に行って7位くらいに入るんじゃなかろーか。

 上には「崖の上のポニョ」に「躍る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ」に「もののけ姫」に「ハウルの動く城」に「君の名は。」と来て「千と千尋の神隠し」。こう見るとやっぱり全盛期の宮崎駿監督ってのは凄かったんだなあ。下にも「風立ちぬ」な訳でベスト10に5作品を送り込んでいるんだから。新海誠監督があと10年は作り続けて2作品で100億円を叩き出してもこの5作品は揺るがない。120億円を超えても4作品でようやく対等。そこまで果たして稼げるか。細田守監督の急浮上はあり得るか。なかなか面白いことになってきた。

 アニメーションの記録を扱う仕事を始めているのでやっぱり気になった今敏監督のメモリアルイベントを池袋にあるマルイまでいって見物する。11時のオープンで10時40分くらいですでに人が並んでいたけど20人くらいで大行列って感じではなかった。物販3000円以上で上映会とトークショーに参加できるから、大勢が行列を作っているかと思っていただけにやや肩すかし。でも100億円どころか10億円だって届くかどうかといった知る人ぞ知るアニメーション映画の監督だった今敏監督が、亡くなられて9年も経ちながら未だにこうしてイベントが開かれファンが駆けつけるくらいに認知されていることだけは分かった。

 というか、見渡して若い人たちが圧倒的に多くって、生前には知らなかったものの死後にその作品に触れ、こんなに凄い人がいたんだと気付いて見るようになっている感じが漂っていた。渋谷で開かれたオールナイトもその後に各所で開かれる追悼とか記念とかの上映会にも、若い人たちが結構な数いて見ては感動して帰って行く。そして新しいファンが入ってきては絵コンテを買い原画を買いパッケージを買いネットで作品を見てさらに深いファンになっていく。そんなアニメーション監督ってなかなかいない。20年も前の「もののけ姫」とか「千と千尋の神隠し」が未だものすごい視聴率を叩き出す宮崎駿監督は別格としても、今敏監督もファンの熱さでは負けてないんじゃなかろーか。

 だからこそもしも存命ならと思ってしまうけれどもそればっかりは仕方が無い。「夢みる機械」も作られそうもないし、今は残された作品を存分に味わい漫画を読んでその才能に触れるのが最大の供養になるのかも。展示は「PERFECT BLUE」が割と多めで人物の設定だとか霧越未麻の部屋の設定だとかが飾られていて、緻密な絵とカメラレンズを意識したパースの確かさに計算尽くで作られる今敏監督の凄みといったものを感じさせられる。未麻がレイプシーンの撮影に臨む場面の原画とかがあってレイアウトから作画監督の修正から並んでいて眼福。あとは漫画「OPUS」の原稿なんかがあったかな。

 3000円でトークイベントに参加できるんでそおん「OPUS」を買ったけど、そういえば最近復刊ドットコムで何か注文してたっけ、重なったかもしれないと心配になって調べたらそっちは「セラフィム」だった。ああ良かった。今敏監督がかけていた眼鏡とか使っていた筆記具とかも展示。あとマッドハウスの入館証とか。これって前も観たけどどこで見たんだっけ。杉並アニメーションミュージアムであった展示回の方が物量は多かったし、武蔵野美術大学であった展覧会では学生時代の作品もあって充実していた。その意味ではちょっと物足りない。いつか本格的に美術館で展示と上映が開かれて欲しいなあ。10年目となる来年に期待だ。

 アニメーション化が決まっていていったい誰があの超絶美形なリチャード氏の声を演じるんだろうと興味津々の辻村七子さん「宝石商リチャード氏の謎鑑定」の最新刊が出ていた集英社オレンジ文庫では、他に白川紺子さんの「後宮の烏」が出てそれから小田菜摘さんの「平安あや解き草紙 〜その後宮、百花繚乱にて〜」が出てと後宮ものが並んだ感じ。新レーベルのポルタ文庫からも後宮に女装した男が入り込んでは起こる事件を解決する作品が出ていたし、富士見L文庫では「紅霞後宮物語」が大人気になっていたりとちょっとした後宮ブームがキャラクター文芸では起こっている。だったらいっそ酒見賢一さんの「後宮小説」もキャラクター文芸っぽい表紙にして新潮文庫nexから出せば売れちゃうかもしれない。そして「雲のように、風のように」がブルーレイになって再発されるかもしれないので盛り上がって欲しいぞ後宮ブーム。


【8月21日】 ネット上で「京都アニメーション犠牲者の身元公表を求めません」という署名のサイトができて、ハッシュタグも作られて、見知った人たちも署名しているようでその中にはライターだったりクリエイターだったりといった表現者の人たちもいて、京都アニメーションの被害に心情を寄せて労りたいという気持ちの表れとしてとても尊重したくなる。でも、これはメディアの問題であって、署名もハッシュタグも「京都アニメーション犠牲者の身元報道を求めません」とメディアに向けて問うたものなら賛同できた。

 つまりはメディアが目の前に犠牲者や被害者の実名が書かれた名簿が置かれてそれを手にしても、遺族や親族の方々の公開して欲しくないという感情をおもんぱかり、読者や視聴者の公開されなくても自分たちは悲しみ怒り京都アニメーションを思うことができるといった意見を鑑み、そしてたとえ匿名であっても被害に遭われた方々の無念を伝えるだけのペンの力、映像の力を持っているんだという自負を示して名簿は見ても書かずにすまして欲しいということだったりする。それができれば良いだけのことだ。

 その上で警察が何かを理由に情報を外に出そうとしないことが、どれだけまずいことなのかを改めて調査し、報じることによって公表を求める行為を国民全体、人々にとって正しいものだといったアピールができるんだけれど、現状のメディアが実名での報道でしか真実は語れず、悲惨さは伝えられず、そこには遺族や親族の感情なんて関係なく、むしろそのお気持ち沿っているだけであってなおかつ読者や視聴者の知りたい気持ちに応えているんだと言って騒ぎ、煽るから遺族や親族は疲弊し、読者や視聴者もうんざりとして警察が身元を公表しないことに賛同してしまう。

 ボールを手にして主導権を握りながらも大暴騰として相手にボールを返すような振る舞いが、続いて来たからもう信用されていない。そして警察権力の情報統制に傾いていく。とてもヤバい。アニメーション監督の佐藤順一さんはそのあたりをちゃんと認識しているようで、2つのツイートでメディアへの提言を行っている。「新聞放送編集責任者というのであれば、報道による二次被害を防ぐ事も報道の責任と考えて、まず速やかにその対策方法を示しては?」。そして「こうして、報道に制限が必要であるという判断を多くの人がするようになったのは、知る権利・報道の義務を笠に着て野次馬報道を繰り返して、報道被害を放置してきた結果ではないでしょうか。そろそろ本気で自省して考えないとならない時期にきているのでは」。

 同業者として京都アニメーションが受けた苦しみは分かっているだろうけれど、表現者として知る権利なり報道の責務が正直な形で行使されないことで起こる報道への制約が将来において何をもたらすのか。そこまでは書いてないけれど、こうして懸念を示すからには見えている状況があるのだろう。それは決してメディアにとって、そして人々にとって明るいものではないだろう。ライターにしてもクリエイターにしても、表現に関わる人たちにとっては将来に何かしらの影響を及ぼしかねない運動でもある。だから、一時の感情ではなく、今回はこうだからといった峻別ではなくルールとしての公表と、そして倫理としての匿名なりを誰もがちゃんと認め、機能させていく方向へと持って行かなくちゃいけない。でもそうはなりそうもない今の風潮がもたらす暗闇が恐ろしい。

 もはやカウンターアートだなあ。あいちトリエンナーレ2019で「表現の不自由展、その後」が公開中止となったことを受け、参加しているアーティストが作品を引くの引かないのといった態度を示し始めているんだけれど、そこはやっぱりアーティストだけあって作品を完全に封鎖するなんてことはせず、加工したり加えたりしてそこに表現の不自由への自由な意見って奴を示している。ロックTシャツをパッチワークしてぶら下げていたピア・カミルの作品は、下の方をまくりあげつつ背後のスピーカーを見えるようにしつつ音楽は流さず抗議のスタンス。ドラ・ガルシアは「ロミオ」って作品のポスターにレターを貼り付け見えなくしている。自分の作品をアピールする機会を削ってでもそこに表現の不自由さへのアピールを載せる意志。さすがは世界のアーティストっていったところか。

 凄まじいのが豊田市美術館に展示されているレニエール・レイバ・ノボのインスタレーション。「革命は抽象である」ってタイトルの作品らしいけれど、旧ソ連の巨大モニュメントを模した立体と、絵画で構成された作品のうちの彫刻の一部は黒いゴミ袋で覆われていて見えなくなってしまっている。絵画はすべて新聞によって覆われていて、その新聞がどれも「表現の不自由展・その後」にまつわる記事を掲載した紙面ってところがなかなかにアバンギャルド。騒動そのものを視覚化してしまっていて、反対する勢力を煽っている感じすらあるけれどもそれに対して新たに抗議をしようものなら今度は何を乗っけてくるか。アーティストのリアルタイムの創作が見らるって意味で、怪我の巧妙めいたものがある。これはちょっと見てみたいので期間中の1回くらい帰省しようかなあ。豊田スタジアムでのラグビーのチケットがとれれば見るついでの寄っても良いかなあ。

 これは面白そうというか、どんな舞台になるんだと興味津々な「PSYCHO−PASS サイコパス Chapter1−犯罪係数−」。前にも舞台化はされていたけどオリジナルストーリーだったのに対して、今度はテレビシリーズの第1期がそのまま舞台化されるみたいで狡噛慎也も宜野座伸元もリアルに人が演じて舞台の上を飛び回る。もちろん常守朱ちゃんも。ただやっぱり主役は狡噛になるみたいでPVでもそれっぽさを漂わせた姿を見せてくれている。槙島聖護との対決がやっぱりメインになるんだろう。配役では征陸智己を演じる今村ねずみさんに注目か。コンボイショウの立役者ではあるけれど、俳優としてはずっと昔に「キサラギ」のオダ・ユージ役を見てなかなかハマってた。ガチャガチャした感じの役柄だったけど10年が経ってついた落ち着きで征陸さんを巧妙に演じてくれそう。見に行こうかなあ、気力を立て直して。


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