縮刷版2019年6月下旬号


【6月30日】 「センコロール コネクト」を観る前に昨日はEJアニメシアターで2度目の「薄暮」を観たんだけれど1回目でも気になっていた、妙にはしゃいでいる佐智の母親や姉や妙に佐智を気遣っている父親について、これはやっぱり震災の後、ふさぎ込んで泣いてもいた佐智を元気づけようとして家族がそうした役割を担い、喜ばせ持ち上げ元気づけようとし続けていた名残なんだと理解した。だから佐智がいないところでは母親と姉ははしゃがず騒がず静かに見守ろうとしている。そういう心境になるくらい、厳しい時間を経ていたんだなあ、東北の人たちは。

 そういう気持に映画としても寄り添っているところがやっぱり素晴らしい「薄暮」。遠くカナダのモントリオールで開催されるファンタジア国際映画祭で今は今敏賞となったアニメーション部門にエントリーされたらしく、上映日時も発表になっている。それが夕方の5時半でまさく薄暮の時間帯。英語のタイトルはTwilightでまさしく薄暮だけれど、そういうニュアンスが通じるかはちょっと分からず普通に夕暮れとか黄昏として理解されてしまうかも。とうよりこの頃のモントリオールの日没は午後8時過ぎだからまだ明るい。それでも近づく夕暮れの中に観る福島の薄暮にモントリオールの観客は何を思うか。震災への多いも馳せてくれるか。観終わった人の感想が聞きたいなあ。受賞すれば何かコメントも出てくるかな。

。  RADWIMPSの野田洋次郎さんがツイートで、新海誠監督の新作アニメーション映画「天気の子」について7月19日の公開が20日後に迫ってもなお追い込み作業をしているといった話をしていて、徹底した調整によってさらにクオリティの高いものへとしていこうという意思が感じられた。いや違うまだ出来てないから必死で絵を描き色を塗ってるんだなんて想像も出来ない訳じゃないけれど、そういったスケジュール感では動いていないだろうから、ここはゲームで言うところのバランス調整が行われていると感じて公開を待とう。朝9時からの一斉上映。これから始める仕事場だったら行けるかな。

 2019年という年も今日で半分が終わってしまう。5月1日に令和へと年号が変わってからも2カ月が過ぎたことになる。昨年の末ごろから浮上してはプレッシャーをかけてきたリストラ話が頭を埋め尽くし、必要とされていないことへの絶望感もあって身心ともにしおれてしまい、そのまま押し出されるように飛び出してしまったものの行く場所もなければ居る場所もないことに呆然とし、どうしようかと思い悩んで日々を過ごしてきたこの半年であり、飛び出してからの3カ月間ははっきり言って地獄のような日々だった。その苦悩が自分のこれからの生涯においてどれだけの影響を残すのか、今はまだ考えることができない。

 というより、今もなお現在進行形で溺れるような日々が続いていて、どこへとたどり着くことのないまま流されていった先にいったい何があるのか、まったく見えないことも心を苛みいてもたってもいられなくしている。今日の食事に使えるお金はいったい幾らなんだろうとか、見て見たい映画を見に行ったらどれだけかかるんだろうとかいった、ここしばらくやらなくなっていたお金の計算をするようになっているのも、心を落ち着かなくさせている。CDだってBlu−rayだって欲しいと思えば変えた時間はもう来ない。そんな事実も気落ちを促す。

 いや、お金だったらそれなりに持ってはいるから3年5年と同じようなペースで使っても大丈夫なことは大丈夫なんだけれど、そうやって放蕩を日々を過ごすこと以上に、自分が社会にコミットできていないことのほうがやはり相当に身に応えている感じ。何かを報じて得たリアクションにある種の喜びを感じていたものが、そうした場に立てなくなって報じるという役割を失ったことがどうにも寂しくて堪らない。結論として自分などいなくても世界は回り、事柄は報じられ続けていて誰も困っていない。つまりはその程度の歯車だっただけのこと。そう割り切れば良いのだけれど、だったら割り切って従来どおりの禄を食みつつ別の仕事をこなしていればといった悔いが浮かんで身を苛む。

 日々の仕事は苦痛でも、それなりにこなして給料だけはしっかりもらい、週末は自分のやりたいことをやる。本を読んだり映画に行ったり遊びに出かけたり美味しいものを食べたり。お金だったら大丈夫。そんな生活も悪くはなかったかもしれない。それだったら令和という年を地獄と感じなくて済んだかも知れない。でも、それで果たして生きていると言えるのか。この数週間、部屋からいったいどれだけの積み上がって床を埋め尽くした本やら雑誌やら紙くずやら服やらを捨てたのか。人間が生活しているとはとても思えない状況になっていた部屋を、さらにいらないもので埋め尽くして数年を乗り切って、それで良かったと言えるのか。

 言えるかもしれない。でも言えないかもしれない。そこはやっぱり分からない。残って何か書き物を続けさせてくれた可能性もない訳ではないだろうけれど、違う仕事につかされた可能性もやっぱりあったりする中で、それをこなして帰ってゴミに埋もれて眠り起きてまた通ってこなす日々の中から、いったい自分に何を加えられたかを考えた時、やっぱりひとつの潮時だったとここは言い聞かせるしかない。だいたいが時間は戻らず自分はどこにも戻れない。だったら前にある事柄をこなしていくしかない。そうすることでしか生きていけない。

 ということで、7月1日からしばらくは、三鷹に通ってアニメーションの関連資料を整理したり発掘したり分類したりする手伝いをして、自分が今、何をやれるのかを考えることにする。それがすぐに何か長い仕事につながるとは限らないし、3年後に何をやっているかといった想像も出来ない。どこかの会社がアニメーション関係の資料を整理する経験者として雇ってくれるようになるとも思えない。愛知県の長久手町にできるアニメーション関連のテーマパークが雇ってくれたらUターンもできるといった甘い夢が叶うこともないだろう。ひたすら資料を整理し袋に入れ箱につめて上げ下げしたり出し入れしたりで終わってしまうかもしれないけれど、そんな作業の中に見いだせる何かがあるなら、頑張って学び取り入れ応用できるようなナレッジとしていくしか今は道がないのだ。

 そうした勉強を、お金を払ってではなくもらってできるならむしろ僥倖。もらった分とか貯めた分を減らす速度を遅くしつつ、学んでいった先にぐわっと稼げる金脈を、掘りたいものだけれどそんなものはないのなら、せめて水脈だけでも得て生き延びる算段を考えよう。知り合いが増えて伝手もできれば何か道はつながるか。それもまあ甘い考えではあるんだろうけれど、何もない場所からみんなどうにかこうにか這い上がっていったのなら、自分もそうするしかないのだ。食べるものとか見る映画とか読む本とか制約がかかっても、まったくできない訳ではないのが30年前とは違ってる。そう言い聞かせ、そして何ができるかを考え何をしたいかを見つける時間を今しばらく、泳いでいこう。せめて1年は泳がせてくれると有り難いなあ。


【6月29日】 かたや黒犬のようなマスクを被り、ナイフや拳銃で全身を武装し、体術を駆使して犯罪者を追い詰め捕らえる正体不明の掃除屋チューミー。こなた名家の出身ありながら治安維持組織に身を投じ、粛正官として犯罪者の取り締まりにあたる美しい少女シルヴィ。そんな2人がバディとなって巨大都市に暗躍する神出鬼没の誘拐犯に挑むのが、第13回小学館ライトノベル大賞で優秀賞となった呂暇郁夫による「リベンジャーズ・ハイ」(七〇四円/ガガガ文庫)だ。

 舞台となっている世界では、宇宙から飛来したとも言われる人体に有害な「砂塵」によって人口の9割が死滅し、文明がいったん滅んだ近未来の地球。砂塵は体を蝕む一方で、特殊な能力を発生させることもあってそんな異能を使った犯罪も後を絶たない。スマイリーと呼ばれる、笑顔の仮面をかぶり笑い声を上げながら出没する誘拐犯もそんな犯罪者のひとり。そしてチューミーもシルヴィも、共に過去にこのスマイリーに家族を奪われるという悲劇を味わっていた。

 つまりは復習という目的でつながった2人。物体を操るような攻撃的な力もあるが、シルヴィに力は独特すぎて攻撃には不向き。そんな彼女に相応しいと、カボチャのマスクを被った一級の粛正官は体術と武器で戦うチューミーを監獄に送らず殺しもしないでシルヴィの相棒にする。用心深い上に強大な力を持つスマイリーや、付き従うパワフルなモンステルをまずはおびき出し、懐に入り込むまでに計略があり、失敗かと思わせて裏を行くような策謀のやりとりを楽しめる。

 決して人前では脱ごうとせず、声も変えて話す黒犬のマスクの下にあるチューミーがいったいどんな顔立ちを持った何者で、どうしてスマイリーを恨むのかといった設定にも、ひねりがあって面白い。すべてが終わって新しく誕生したバディでは、殺伐とした雰囲気が取れた2人の愛らしくも凄まじいビジュアルを楽しめるかもしれない。カボチャ頭のタイダラ・ボッチ警一級粛正官も何か腹に一物ありそう。より強大な敵、巡らされる策謀といった展開に2人が挑む展開を見て見たい。

 黒のニーハイから絶対領域が少しだけのぞく肢体でなおかつ眼鏡の強気な女子が出ていて「センコロール2」が駄作であるはずがないという決めつけをして良いかというとそれは良いんだけれど、そうした目にも嬉しいキャラクターでもってしっかり引っ張っていってくれたからこそ「センコロール2」のきっと何かが起こっているだろう展開を飽きず意識を向け続けていられたのだとひとつ思った。

 説明がない。餅というかのぽぽんとした生物たちを使役する少年たちがいて戦っているのか争っているのか。テツという名の主人公らしい少年が使役している生物はセンコという名で何にでも形を変えられるようで、学校で自転車になっていたところをユキという同じ学校に通う少女に見つかって正体が露見。そしてくっついていたところにシュウという名のやっぱり巨大生物を1つならず2つも操る少年と遭遇して戦ったりしていた最中、ユキがセンコを操る力を得てしまったりして戦いはテツの勝利に終わってシュウは透明になれる4本脚のものではない、大きな生物を失ってしまう、というのが『センコロール』のだいたいのストーリー。

 そして説明がない。何で戦うのか。何者なのか。そうしたストーリーだとか設定といった部分はだから醸し出される雰囲気だとか、仄めかされる展開から想像をして埋めつつとにかくくねくねと動いて膨らんだり変形したりする巨大生物の動きの凄さ、アクションの激しさ、キャラクターの愛らしさ、背景の確かさといったものに目を向けて、これを宇木敦哉監督がひとりで描いたのか凄いなあといった感心をするのがひとりアニメーションが賑わっていた時代においてのひとつの見方だった。

 その中でも突出した絵のうまさがあり動きの凄さがあってキャラクターの可愛さも乗り音楽の良さもあって「センコロール」は話題になった。宇木敦哉監督のキャラクターデザインのセンスは認められてあちらこちらに起用されるようになったけれども、「センコロール」という世界観はしばらく掘って置かれてひとつのビジュアルを、アクションを、ストーリーを、テクニックを見せるショウケース的位置づけに置かれていた。それでも良かったのかもしれない。

 それも「センコロール2」が作られ「センコロール」と合わせて「センコロールコネクト」として同時上映されるまでのこと。動きが凄いとか絵が素晴らしいとか音楽が格好良いといったことだけで、より長いストーリーをして見てもらえるものではない。だから黒のニーハイの眼鏡女子だ。冒頭から登場するその存在に目を引かれ、カナメという名の少女がどんなアクションをとり表情を見せボディラインを示し水着にもなったりしながら動き回ってくれるか、気絶してくれるのかを見守ることで最後まで関心を維持することができた。

 というのは半分は冗談だけれど半分は本気。「センコロール2」になっても説明は乏しく、巨大生物がなぜ存在してどうして少年や少女たちは操っていられるのか、それで何をしようとしているのかは明かされない。ただ、巨大生物が出てくれば、自衛隊などが動いて攻撃するくらいの社会との接続はあるようす。ユキの同級生も巨大生物が暴れたことを知っているから仮想世界で起こっている訳ではなさそう。そうした社会との関わりをそれでも希薄にしているところに、やはり世界を構築して物語を組み上げる作品というよりは、条件のある設定の中でキャラクターどうしの関係とか、動きのユニークさとかアクションの凄さとか花澤香菜や高森奈津美の声だとかを喜ぶ映像作品、といった位置づけを大きく脱してはいない気がした。

 それで良いんだけれどね。楽しいから。同時期にいろいろとあった吉浦康裕監督の「イヴの時間」はアンドロイドと社会の関係に触れていたし、アオキタクト監督「アジールセッション」にも若者たちのエネルギーの発露といった核があった。「センコロール」はその意味ではやはり特殊な作品。それが大きく進化をせず、キャラの良さと絵の巧さとアクションの凄さと動きの素晴らしさでもって観客を引き寄せてしまうところにこの国の、アニメーションというものが持つ多様性めいたものを感じてしまった。

 とはいえやはり2作も続けばいよいよ社会性といったものも生まれてこざるを得ないだろう。新しいキャラクターも示されそしておじいさまといった権力中枢にも触れられ社会の中でセンコほか巨大生物たちが何をもって存在し得ているのかを語るだろう続編が期待される。そうすることでまだ顔見せだった1作目と2作目が物語の様相を帯び1本の映画となって屹立する、なんて思ったけれどもそうならなくなって黒ニーハイのカナメが出てきてくれさえすればそれでOKと多分思うのだろう。それもまた多様化するアニメーションをパターンによってこれはこういうものだと理解し受け入れる訓練がいた日本らしい作品なのかもしれない。

 遠く大阪でG20なる世界各国の首脳が集まった会議が開かれているけれど、そこでどんな話し合いが行われたのかがまるでさっぱり分からないというか、成果らしい成果が聞こえてこないというか。個別で逢えば北方四島がどうとか次期戦闘機をいっぱい買うとか言った話も出てくるのに、大勢があつまってわちゃわちゃと会議をやる中でそうした突っ込んだ話が出来ないのか、突っ込んだように見せかけて体裁を整えて発表できうりょうな会談には至らないのか、いろいろきっと理由もあるんだろう。とりあえず議長として頑張ったって印象さえ伝えられれば日本の総理大臣としては万々歳。そこで無茶して揚げ足を取られるくらいなら、何もしないのが良いって判断なのかもしれない。かくして影響は遠く関東のゴミ箱までが閉鎖されることでしか分からないという、そんなG20。次に開かれるどこかに日本から行くのは誰なんだろう。


【6月28日】 本を読むのもしんどい気分がずっと続いているものの、読まないと進まない仕事もあって手に取り読んだ吹井さん第25回電撃小説大賞のメディアワーク文庫賞受賞作「破滅の刑死者」(メディアワークス文庫)は内閣情報調査室に特務専門部隊というのが作られ、CIRO−Sと呼ばれて新米捜査官の雙ヶ岡珠子が配属されては国家機密ファイルが消えた事件を担当する。そして出会った大学生の戻橋トウヤという青年。馴れ馴れしい上に危険を危険とも思わず飛び込んでいく性格のトウヤにタマちゃんと呼ばれて振り回された珠子は、やがて見るだけで相手を自殺に追い込む凄まじい能力を持った殺し屋に挑むことになる。

 異能力を持ったものがそれなりに生まれてくる世界。トウヤにも何か能力があるみたいだけれどそれが使われることによって事件の真相が暴かれ謎へと迫っていく展開がある。でもどういう能力なのかが分からない。そこを推理する楽しさがあるのかもしれない。そして見るだけで相手を自殺に追い込む殺し屋を相手にどう戦うのか、といったところも。珠子の肉弾戦があってそしてトウヤのある種の頭脳戦。それがハマって起こった能力の反作用の凄まじさを見るにつけ、相当に恐ろしい能力だったのかと分かる。よく戦ったなあ。

 そんな展開が最後にどんでん替えし。なんだって? って驚くけれどもいったい何が目的だったんだろう。どこかお金が出ていたんだろう。ってあたりから正義とは国家権力にのみに認められるものなのか、大勢の人間の幸福のためには私的であっても認められるものなのか、といった問題も浮上してくる。そんな曖昧でどっちつかずの正義のために振り回されたタマちゃんはちょっとかわいそう。もっとも彼女が信じた正義とはいったい何だったんか、合法という認められたものこそが正義なのか、ってあたりも気になった。いずれにしても“失業”したタマちゃんとトウヤはどうするのか。2人で何か始めるのか。本物の正義が現れるのか。続きがちょっと気になった。

 前売りはせず試写会もしないという許に出て「君の名は。」とはまるで正反対の絞った露出を取ることになったみたいな新海誠監督「天気の子」。初日の午前9時から359館でいっせいに初回の上映を行うとかで、この瞬間に初めて見た人が観終わってぞろぞろと外に出て、ツイートだとかSNSだとかに情報を拡散することによって観客の輪が爆発し、その口コミによって招き寄せられることになるってある種の勝算が、配給や宣伝の側にはしっかりあるってことなんだろう。

 細田守監督「ミライの未来」ではそうした初動の口コミがネガティブな方向へと流れて拡散されたため、出足が鈍ってちょっと興行的に残念なことが起こったけれど、359館で平均200人としても7万人で500人なら15万人が見て口コミを並べれば、絶賛の勢いに少数の批判も押し流されてしまうよなあ。その意味では飽和攻撃的な宣伝としてちょっと面白い事例となるかも。あとは事前にどれだけの情報があって、ガッカリ感を抱かせないかってところも重要か。

 パートナーシップめいた感じにサントリー食品にZ会にソフトバンクにディップに日清食品ミサワホームロッテが応援をするコラボレーションCMを「君の名は。」の放送に合わせて流すとか。あまりに宣伝めいて辟易とさせられるリスクもありつつ、納得させてねじ伏せるだけの手応えを感じているってことなのかも。どんな“現象”が起こるのか。宣伝で沸かせてくれたジブリが沈黙している今、唯一的に派手にやってくれる新海誠作品が作品性と興行成績を両方伴いジブリを追い抜く可能性はあるのか。この夏は本当に注目だなあ。そんな夏を心躍らせながら迎えられない自分のふがいなさとともに永遠に記憶に刻まれるだろうなあ。

 バンダイナムコアーツで「ガールズ&パンツァー」の宣伝を担当していた廣岡祐次さんが大洗町にコワーキングスペースを立ち上げ新しいビジネスを始めた話は既報だけれど、そんな廣岡さんが大洗にはまだ住んでおらく川崎から通っているというのも知られた話。でもっていったいどれくらいかかるのか気になっていたら、時間とお金をまとめてコラムみたいなものにして報じてた。時間はだいたい2時間半。特急を使い水戸から大洗までを鹿島臨海鉄道ではなく車を使っているから早いのかも知れない。船橋からだと野田線で松戸まで出て常磐線で水戸まで行ってそこから鹿島臨海鉄道といった具合で在来線をのりつぎだいたい3時間? 料金は往復で1万円を切っている。

 廣岡さんの場合は毎月の通勤費が13万1000円。1日あたりだとそれでも7000円弱といったところで在来線の1日分と同じくらい。それで特急も使い川崎からといった条件を考えるならまあまあといった感じかな。移動してる間は電源を使って仕事もできるそうだからロスではないんだろうけれど、往復5時間をそのまま現地での活動にあて家賃も5万円でそれなりのところを借りられるとしたら、住んだ方が圧倒的に便利ということには変わりがない。大洗で仕事があるなら、だけど。ライター仕事を在宅でこなしつつ夏は海水浴だなんて暮らしができれば理想。そのためにも今は毎日片道1時間ちょっと、往復2時間半をかけて通おう三鷹へ。何しに? 何をするんだろう? それも含めて勉強だ。


【6月27日】 人はいつ、坂本竜馬を知るのか、といった問題について考え始める。1965年(昭和40年)生まれなので大河ドラマ「竜馬がゆく」(昭和43年)は見ておらず、「勝海舟」(49年)は記憶にあるけど竜馬がどう絡んだか覚えてない。「母に捧げるバラード」(48年)をヒットさせた海援隊を竜馬と結びつける知識はなかった。というか後に海援隊が土佐の坂本竜馬が作った会社と知って、博多弁で語る武田鉄矢がどうして土佐の坂本竜馬なんだと思ったような記憶がある。当時はそこまで武田鉄矢が坂本竜馬を大好きだと知らなかったから。

 大河ドラマでは「風と雲と虹と」に続いて毎週じっくりと見ていた「花神」(昭和52年)にも竜馬も出てきたけれど、村田蔵六=大村益次郎の話であって竜馬はメインじゃない。「THE MAKING OF おーい! 竜馬」の中で、漫画「巨人の星」に竜馬が切られても前のめりになって死にたいと言ったと星一徹が語るエピソードがあって紹介されているけれど、僕の世代が「巨人の星」に触れるのはたぶんアニメが先で、マンガは後に読んだのでそこに描かれた竜馬が誰かは知っていたような気がする。じゃあゃあいつ、どこでどう知竜馬をったのか。やっぱりはっきりと思い出せない。これでお札にでもなっていたら気付いたけれど、聖徳太子に伊藤博文に岩倉具視に板垣退助夏目漱石福沢諭吉樋口一葉新渡戸稲造野口英世では気付く機会などない。

 これからの子供は渋沢栄一には気付いても坂本竜馬にどこで気付くか。2010年の大河ドラマ「龍馬伝」で気付いた人はどういう竜馬観を持っているのか。そう、竜馬観。「竜馬がゆく」の自分本位で突っ走って日本を変えようとあがく竜馬観が強烈に残っている世代が、我こそは竜馬だと勝手に無茶やって引っかき回して何も生まれず残らないのが今の世の中。そこに違う世代が違う作品から得た竜馬観を持って、船中八策大政奉還薩長同盟開国開放博愛平等をやってくれるのか。誰とも親しくなって優しさで接して平穏で行こうと行動した武田鉄矢さん原作、小山ゆうさん漫画の「おーい!竜馬」の読者だったら。そんなことを考える平日午前。

 コミックアニメーションだなんて会社があって、そこが押井守監督によるコンテンツ「ちまみれマイ・らぶ」なんて漫画だけれどアニメーションみたいな作品を配信していたことをまったく覚えていなかった。会見もやったそうだけれど自分の押井力(おしい・ちから)が下がっていたのかスルーしていたようで、内容について知る機会もないまま今はサービスを停止していてアプリとしての配信も行われていない。だから、押井監督がいちごアニメーションなる会社と組んで新しく始めるシリーズアニメーション「ぶらどらぶ」がその「ちまみれマイ・ラブ」のリブートなのか確かめようがないけれど、どこか似通った設定から関係はあるような気がしないでもない。

 もしかしたらアニメーションの放送なり配信なりで復活するかもしれないけれど、果たして2020年に間に合うのか、というか押井監督がひとりでやるんじゃなくって「風人物語」の西村純二監督を立ててのアニメーション化。ここで河森正治さんだったら総監督の名前がついていても設定からキャラクターからメカからストーリーまでだいたい手がけた「誰ガ為のアルケミスト」のような関わり方をするんだろうけれど、押井さんだと「風人物語」とか「宮本武蔵 −双剣に馳せる夢−」のように総監督からさらに引いて原案・監修の域まで後退しそうな気がしないでもない。その方がサクサクと進んで作品も早く世に出る可能性もあるのかな。いずれにしても様子を見たい。そして次こそは押井守監督作品をプロダクションI.Gで。

 政治家の母親に連れも戻されて監禁されても、理解のある兄がいて脚立で壁を越えて侵入するという泥棒にしても素人過ぎるやり口が成功して無事に屋敷を脱出できたチューズデイをちょうど通りかかった威勢の良いおっさんが警察すら振り切るドライブテクニックとマシンでキャロルともども送り届けて無事、2人はコンテンスとの会場へと到着する。ただし時間は過ぎていてルール上は失格。なおかつ相手のアンジェラはすばらしい歌を唄ってもはや敵無しといったところに、それでも登場したならとお情けおこぼれで歌わせてもらったらこれがもう素晴らしく、ルールは破るためにあるとばかりに優勝はアンジェラだけれどデビューはキャロル&チューズデイもOKという、この予定調和にしてありきたりのストーリーなのに素晴らしい映像と歌声がアリにしてしまうところに「キャロル&チューズデイ」の凄さがある。王道でもって分厚い壁をぶち抜いていくというか。

 もうほとんど見なくなっていた「さらざんまい」が奇策と奇天烈なキャラクターのオンパレードでもって最後までもっていってはまるで分からない展開を、無理にでも納得させて感動の域へと必敗って行ったのとは対照的。それでどちらかが爆発的に人気になっているかというと、街中で「キャロル&チューズデイ」で歌われていた音楽が聞こえてくる感じはしないし浅草が河童で溢れているという風でもない。どれだけ凄いアニメーションを作っても、ネットがバズってそして社会がバズるまでにはやっぱり相当な壁を乗りこえていかなくちゃいけないのかもしれない。「キャロル&チューズデイ」がもしも普通にトレンディドラマの代わりに放送されていたら……なんて考えた時に今のテレビの編成の、硬直ぶりってのも分かる。せめて午後11時台で良いから、放送して欲しかったなあ。さても奇跡の7分間。いったい何が起こるやら。ありきたりをぶっ飛ばして欲しいなあ。

 Kimonoは着物ではあってそれはいわゆる和服であるといった捉え方が出来る一方、着る物として日常的に着ている服装なんかも包含するといった考え方もできない訳じゃない。でも補整下着というカテゴリーに限定して、それに対するブランドとして「Kimono」を使うとなると和服からは大きく離れてしまうし、一般名詞として着る物といったニュアンスを大きく絞ってしまうことにもなる。補整下着をもってKimonoと言わざるを得ない状況が作られてしまう可能性を考えるなら、これはやっぱり違うと反対するのが態度としては正しいんじゃなかろーか。文化の盗用とかいった議論になると、日本だってアメリカ文化ヨーロッパ文化の一般名詞をブランドに使ってないとは言えないだけに迷うところはあるけれど、少なくともKimono=補整下着といった限定は行っていないんじゃなかろーか。なのでここは大きく反対を言って状況を見守りたい。


【6月26日】 運も実力のうちと言うなら、不運だってまた実力の範囲内。FIFAサッカー女子ワールドカップ2019フランス大会の決勝トーナメントでオランダと戦ったなでしこジャパンことサッカー女子日本代表だったけれど、前半にコーナーキックのシュートが見方ディフェンスの脚を抜けて角度がそれてゴールキーパーの山下杏也加選手が追いつけず選手され、その後に相手のディフェンスかするりと抜けた長谷川唯選手が確実に決めて同点に追いついたものの、後半もさあもうすぐ延長だってところで不運なハンドをとられて相手にPKを献上。これを決められてもう残り時間では追いつけず、ベスト8進出を逃してしまった。

 前々回は優勝したチームがってやっぱり思いたくもなるけれど、ここ数年のなでしこジャパンのサッカーは中盤を支配できずサイドでのパス交換もうまく行かずサイドバックの上がりは少なく無理にパスを出しては奪われ攻められる繰り返し。個人技による中央突破からのシュートは決められても、組織としての連動がやっぱり足りてないような気がした。そのあたり、オランダの方がちゃんと中盤から前線へとボールを繋いで攻めていく。ちゃんとサッカーしている訳で、そうした差がいったいどこから生まれてしまったかというと、やっぱりリーグでチームが増えすぎて、高いレベルでの切磋琢磨が出来なくなってしまったこともあるのかどうか。女子サッカーに詳しい人の検証が欲しいところ。

 まあ実力として世界の上位20チームくらいにいることは確かなので、開催国枠でオリンピックに出てもそれなりに活躍をしては何となくグループリーグは抜け出して、決勝トーナメントに駒を進めるくらいの戦いは見せてくれそう。そこで上位を相手に勝ち抜いていくには守備は実力とはいえ不運が重なったのならその不運に繋がるプレーを断ってセーフティを維持することで解決は可能。中盤で走り回ってボールを奪いバイタルを制覇するような選手がいれば有り難いんだけれど、加藤與恵選手とか澤穂希選手とか阪口夢穂選手といった中盤のタレントが今、果たしているかがちょっと追えてない。岩渕真奈選手や横山久美選手といったストライカーも荒川恵理子選手や大野忍選手といった名前に比べてどうなのか。確実に才能はありそうなのに檜舞台での輝きがまだ見えない。残る1年、日本を拠点にチーム作りをしつつゴールを奪いまくっていた時代のスタイルを思い出してもらって、来る東京オリンピック2020では大活躍をして欲しいもの。初戦が埼玉スタジアム2002だったら観られるんだけどなあ。

 明け方になると浮かぶ将来への不安とかからやっぱり残った方が良かったんじゃないかと思ったり、ライターの仕事はないかとハローワークの求人をネットで漁ったりしつつ、いたたまれなくなって部屋を埋めた本とか雑誌とか紙くずの山を掘り返していたらもう7年くらい見つからなくなっていた米軍放出品のCWU−36Pフライトジャケットが発見されて、そこに脱ぎ捨てていたことすら思い出せないくらい、もう随分と前から人間として壊れていたことが再確認されて、今はとにかく人間としての生活を取り戻すために日々を淡々と生きることを目標に使用と改めて思うのだった。背広に着替えて外面よくして仕事したって、変えればゴミ部屋で寝るだけで3年も4年も過ごしていたら、完全に壊れてしまうから。だから今は成すべきことをしよう。西へ。

 ジャンプブックスならライトノベルだろうという解釈から、東山彰良さんのDEVIL’S DOOR」(集英社、1200円)を買ってペラペラ。眼鏡で巨乳の秘書的女史が登場するという時点ですでに高い評価も得そうだけれど、設定自体もユマという名を持った、マニピュレイテッドと呼ばれるAIを搭載したアンドロイドの射撃手が存在して、そして本の形態をとっているアグリという名の悪魔とともに行動していて、悪魔払いを生業にしていたりするけれども舞台はもちろん中世ではなく未来的。過去と現在と未来が入り交じったような不思議な世界観の中、ユマはアグリとともに、シオリと呼ばれる世紀の歌姫が狙われている事態にボディーガードとして関わっていく。

 シオリの歌を聞いた人マニピュレイテッドを襲い始めるという事件が頻発。シオリ自身はマニピュレイテッド差別主義者ではないけれど、彼女の両親がマニピュレイテッドに惨殺されたという過去からそうした主義者を引き寄せているともとれそうだけれど、悪魔払いのユマが出てきてアグリも絡んだ事件がそう単純な訳はない。シオリの歌に何かサブリミナルが仕掛けられている可能性。そして悪魔が絡んでいる可能性。最後のだとしたら憑かれているのはシオリなのか。けれどもそんなシオリの“正体”が明らかになって事態は混迷を深めていく。

 ゴシックな雰囲気とサイバーな雰囲気とが入り交じったエクソシストものという設定はアウトローの世界を良く描く東山彰良の筆ならではか。マニー殺しの犯人を探すというミステリー展開と悪魔に取り憑かれたものの奇矯な振る舞いというオカルトアクションの要素も入っていろいろな角度から楽しめる。マニー殺しはいったい誰が画策したのか。その目的は。マニピュレイテッドが憎いといった感情よりも、誰かが大好きといった可能が人を迷わせ苦しませ狂わせるのだと知ろう。それにしてもやっぱり美しいルピタ女史。だからこそちょっと勿体ない気も……ってそれ以上は言えない。マニピュレイテッドという存在もロボットとかアンドロイドとは違った深みがある。深層学習の成果がそれならシンギュラリティなんて簡単に越えられるんじゃない? そうはいかないんだろうなあ。

 心臓移植というとやっぱりまっさきに浮かぶ鴨志田一さん原作で映画にもなった「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない」のシチュエーション。誰かの心臓をもらえば誰かの命が尽きるなら、別の誰かのをもらえばいいのかとうとその誰かの命はやっぱり尽きる。それが知り合いでも、そうでなくても命が失われることには変わりがない。なので映画にもなった「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢もみない」のあの展開を、諸手を挙げて喜んで良いかというと、やっぱり誰かの溜めに差し出された命への感慨がつきまとう。それと同じわだかまりを、青海野灰さん「逢う日、花咲く。」(メディアワークス文庫、610円)も持つのか否か。ちょっと考えた。

 13歳の時に心臓移植を受けて命を長らえた高校生の男子だったけれども、ときどき夢に自分が女の子になっている場面を見るようになる。それがたぶん自分に心臓をくれた女の子。やがて夢の中で女の子の名を知り家も知るようになるけれど、同時に女の子の夢に出てくるイケメン教師が今まさに自分の前に数学の担当として赴任して来ていることも知る。そこから探っていく女の子の過去とその決してハッピーではなかった展開。いつか来るその日を考えて少年は悶々とする。そしてもしかしたら、変えられるかもしれないと思うようになる。

 女の子を助ける。心臓移植のドナーになんかならないようにする。それってつまり男の子にとって自分の心臓が得られないってことになる。つまりは死。すぐではないかもしれないえれどいつか迎える死を思いつつ、それでも少年は少女を救おうとして、彼女の身辺に起こっていた出来事の真相を探り、何が起こったかを突き止める。そして……来る現在という舞台の上で少年はどんな姿になっているか。その点で「青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢をみない」とはちょっと違っていた。あり得るか? あり得て欲しいしそれが永遠であって欲しい。そうなれば「青ブタ」も違う感慨を得られたかもしれないから。過去と未来をつなぎ少年と少女が励まし合って生きようとする、流行りのシチュエーションに謎解き要素も加えたストーリー。面白いんじゃないでしょうか。


【6月25日】 コパ・アメリカは試合そのものをテレビで見ることはなかったけれど、いつかみたいに大敗を喫し続けることはなくそれなりの戦いは見せたもよう。もしかしたら決勝トーナメントに進める道もあったみたいだけれど、得失点差で足りず1次リーグでの敗退となった。まあ本気の南米勢とギリギリの戦いをできたんだからいろいろと糧にはなっただろう。フル代表デビューを果たした久保健英選手にとってもナショナルチームで戦うことの大変さを感じられたんじゃなかろーか。あるいは外国人選手と相対することの大変さを。

 元いたバルセロナではなくライバルのレアル・マドリードへと移籍することが決まっていて、コパ・アメリカで怪我でもしたら至宝がもったいないと思っていたから無事で済んでまずは善哉。そしてレアルでいったいどれだけの活躍が出来るかがまずは注目だけれど、当面は2軍的なチームで下部のリーグで戦いつつ、様子を見て上のチームへと引っ張り上げることになるんだろー。そしてバルセロナとの試合ののぞんでカンプ・ノウに立った時、いったい何が飛んでくるのか? それが目下の興味。恩義を感じずライバルに逃げた卑怯者? 逆に本気で取りに行かなかったバルセロナへの批判? 気になるけれどもフィーゴが投げられたような豚の首は飛んでこないと思いたい。むしろタイのお頭とか、ってそれは目出度い象徴か。つまりは歓迎? いずれにしても数年は先だろうなあ、甘くないから欧州は。

 「博多豚骨ラーメンズ」を読むと博多には殺し屋しかいないような気がするけれど、同じ木崎ちあきさん「マネートラップ」のシリーズを読むと博多には詐欺師しかいないような気になってくる。犯罪集団を扱う小説だからクローズアップされて描かれているだけなんだけれど、街の営みに自然と溶け込んでいて悪さをしたり、そうした悪さをした人たちを懲らしめたりしている姿に、もはや社会や経済のシステムとして詐欺がすっかり入り込んでいるような気にすらさせられる。そんなことはないんだけれど。

 シリーズでは第2作になる「マネーとラップ 偽りの王子と非道なる一族」(メディアワークス文庫)では三流詐欺師のミチルが主人公となって韓国財閥の御曹司というムヨンのコンビが繰り広げる騙しのテクニックが物語の中心に描かれるけれど、どちらかといえばスポンサー的な立ち位置にあるムヨンの趣味なのか、仕掛ける詐欺が誰かを騙して悲しませるというよりは、誰かを騙して悲しませた奴らを懲らしめるといいった展開で、読んでいて気持が良いのが特徴。女性実業家にとりいりお金を引っ張り出してから分かれた男が、別に派手に女遊びをしていたのを懲らしめたり、結婚願望のある女性からお金をだまし取ったり。そんなゲスい男たちが騙しに引っかかってむしり取られていく。

 ああ痛快。でもそんな展開にちょっとした事件がおこる。ムヨンお前は誰なんだ? ってところで明らかになり財閥御曹司のムヨンの過去。そして挑もうとしているある詐欺。手口は単純だけれどそれだからこそ引っかかる人も引っかかるし、その上に何枚もの安全弁が仕掛けてあるから、ヤバいと思ったそれがヤバくなかたったという驚きのほくそ笑みも得られる。人を騙すのはいけないことだけれど、騙した奴らを騙すのはやっぱりいけないことなのか。法律的にはダメでも心理的には愉快な物語を楽しめるシリーズ。ムヨンの正体がバレてしまってもなおミチルは付き合っていけるのか。立場も危うくなっていそうだけれど引き続いて騙しの人助けを続けていけるのか。博多豚骨ラーメンズの面々と絡んでいるかも気になるところ。読んでいこう。あと博多に行くときは殺し屋と詐欺師に注意しよう。

 ブシロードが株式公開だそうで、出資している人には一気に大金持ちになったりする人もいて羨ましい限り。もう10年以上前にブロッコリーを離れた木谷高明さんが新しい会社を作ったってことで新宿あたりで開かれた会に出て、これからの展開なんかを見たような記憶があるけれど、それから10余年、トレーディングカードゲームを足がかりにしていろいろと模索をして当たったり引いたりしながらもちゃんと会社を動かしてきた。いろいろと手を広げすぎてもういっぱいいっぱいか、なんて思ったこともあったりしたけど、「ラブライブ!」に絡んだり「Bang Dream!」を立ち上げたりしてゲームアプリにも参入。そうやってしっかりと足下を固めつつ、新日本プロレスも買収をして自分たちのコンテンツへと仕立て上げた。その結果としての株式公開。よく頑張ったってところだろう。

 もちろん流行は水ものだからこれからも当たり続けるとは限らないけれど、幾つも柱を立てて回していく体制は出来ている。前ほど失敗も少ないように見える。ブロッコリー時代はゲーマーズという店舗を持っていたから、そこで売る商品を作っては在庫が積み上がって償却といった悪循環も起こったけれど、今はそれほど手を広げないままカードショップに特化して展開しているから、不良在庫によるダメージも少ないんじゃなかろーか。あとあちらこちらに沢山出す広告が、世間での認知もしっかりと誘っている。前の失敗もあるだろうから無茶もしないだろーから、手を広げすぎて行き詰まったブロッコリーの二の舞はないだろー。過去の失敗を苦とせず得意な分野を見つけてしっかり経営をして2度目のIPOを成し遂げた木谷さんは希代の経営者ってことになるんだろうなあ。すがりついていけばこちらも浮く目があったかな。何を言っても詮ないだけだけど。


【6月24日】 「RISE OF SKYWALKER」だからそのまま「スカイウォーカーの夜明け」になるのが普通なんだろうけれど、ニッポンの夜明けは近いぜよとか、明けない夜はないとかいった具合に、希望めいたものを意味すた常套句として使い古された語感も張りついていて、映画をどうにも熱血なものにしてしまいそう。いっそだったら「スター・ウオーズ 夜明けのスカイウォーカー」にでもして、カイロ・レンが登場しては「僕は自動的なんだ」と言いいながら暗黒のフォースを発散させて、ジェダイに挑んでいくとかすればライトノベルファンだって喜んで観に行きそうなのに。

 逆に、レイの中に眠っているジェダイの血が「僕は自動的なんだ」と言って、彼女のあずかり知らないところで発動し、帝国を粉砕して宇宙を危機から救うとか、やってくれたら面白いかというとそれはやっぱり「スター・ウォーズ」ではないからなあ。なので陳腐でも「スカイウォーカーの夜明け」として、脈々と受け継がれたその地がいよいよ甦っては宇宙を再生へと導くとかするかというと、過去のシリーズの3部作の終わりで、帝国が滅びたなんてことはなかった訳で、せいぜいが局地戦での勝利。そこを超えるカタルシスを与えてシリーズにピリオドを打つかそれとも、新3部作のための引きを作るか。12月20日の公開が待たれる。

 アヌシー国際アニメーション映画祭ではノミネートされながらも受賞を逃した湯浅政明監督の「きみと、波にのれたら」が中国で開かれていた上海国際映画祭のアニメーション部門で最優秀アニメーション映画賞を獲得。湯浅監督は行ってなかったけど主役を演じた片寄涼太さんが登壇して賞を受け取ったみたいで、これで映画としてまずは1冠を達成。以後も数ある映画祭とかでいろいろと賞を争っていくことになるんだろう。ライバルが多くて厳しいけれど。そうした賞とはまた別に興行の面ではなかなか厳しそうでTOHOシネマズ日比谷あありではすぐさま小屋が小さくなり、ほかもあまり大きなところは宛がわれない上に観客の数も満席とはならず他の映画に比べて苦戦を続けている。

 興行通信の週末の動員ランキングでも9位と決して喜べない数字。前週に公開された「ガールズ&パンツァー最終章第2話」の8位に及ばないってのはちょっと拙いかもしれない。どこかのメディアが「リア充にもコアなファンにも刺さる『きみ波』は新時代のアニメだ!」って煽っていたけれど、リア充にもコアなファンにも見てもらってないところが問題。リア充な側は普段からアニメーションとか見ていないから、そこに描かれているのが自分たちの好きなことでも、敢えてアニメーションを観ようとはならない。そんな感じ。

 コアなファンはファンですごい動きとすごいストーリーを繰り広げているけれど、リア充がサーフィンやってデートをするストーリーをやっぱり自分とは関係ないものと思って敬遠する。見て欲しい両方が自分たちのものではない、となっている状況をいったいどうすればひっくり返して自分たちに関係のあるものだと感じさせるかが、今週あたりに再浮上を狙うための大きな鍵になるだろう。コアなファンについてはたとえば吉田玲子さんの脚本でもあった映画「若おかみは小学生!」との共通点なんかを指摘して、比肩する映画と誘えば興味をもって観に行きそう。そういう口コミで火が着いた映画の再来なんて期待したくなる。

 リア充はなあ、アニメーションを観るという動機付けがあるいは育まれていないのかもしれない。前少女マンガの実写映画には行くけど少女マンガ的なアニメーションにはいかない。そんな感じ。昔だったら「ご近所物語」とか「ハチミツとクローバー」とか「のだめカンタービレ」とか「Paradise Kiss」といった中学高校生大学生から20代の女性も含め観て楽しむアニメーションの文化、ってのがあって観ることに抵抗がなくなっていた。それがいつか途切れてしまってイケメンが出てくれば腐女子は行っても一般女子はアニメーションを無縁と思うようになっていった、とか?

 それを変えようとしたノイタミナが今は先鋭化に向かっているからなあ。とはいえ同じフジテレビが繰り出して来た訳で、ここで変えようとする意思があれば、今回の上海での受賞を契機に一般層にも呼びかけていくんじゃなかろーか。いかないかなあ、そういうところは妙に奥手だし、フジテレビのアニメ事業。もっと誇っていいのになあ。これだけの傑作を幾つも送り出しているんだから。松崎容子さんが編成局長くらいになれば変わるかなあ、大昔に1度、どこかですれ違ったけど目ん玉グループのアニメのトップになるなんてなあ。お友達になておけば良かったなあ。

 「新世紀エヴァンゲリオン」が旧劇場版も含めてNetflixに上がって来ていて世界中であれやこれやの興奮を誘っている模様。個人的にはやっぱり「AIR」にあたる部分でアスカの胸が見えてそしてシンジくんがいろいろやっちゃう場面とかを、タブレットサイズで凝視できて嬉しかったり、ミサトと加持がいちゃいちゃする場面の音声を聞き返したりしてやっぱりあの時間帯にしてはイヤらしかったなあと思い出したりできた。まさかNetflixでの視聴がエヴァ初体験という人はそんなにはいないと思うけれど、まったく知らない人がどれどれと見ていったら、やっぱり冒頭から何話かの展開にグッと来て、そしてアスカ登場以降のラブコメっぽさにキュンと来て、やがて始まる悲劇とそして悶絶の展開にズンと来るんじゃなかろーか。

 そうやって初体験の“復習”をしてシン・エヴァンゲリオン劇場版へと観客を呼ぶんだとしたらやっぱりカラーってスタジオはなかなかの策士。なおかつ今回は7月に入って映画の冒頭を見せちゃうって企画も繰り出すみたい。前作の「Q」の時はまるで情報を出さず試写すらやらなかった鉄壁のガードを、このタイミングで崩すのはやっぱり話題を先行させておきたいってのがあったのかなあ、あとは作られているぞという安心感か。何か株価が動く銘柄でもないとは思うんだけれど、どこかで動いているのかもしれない。パチスロ系とかあるかもしれないし。いずれにしてもしばらく音沙汰のなかったエヴァが動き始めてあとは公開を待つばかり。どんな話になるかなあ。学生に「序」と「破」しか見せないってことは「Q」をなかったことにして勧善懲悪の対シト戦を繰り広げる少年少女のバトル青春ストーリーにまとめるのかなあ。


【6月23日】 「あの竹達彩奈さんが結婚!」と驚くべきか、「あの梶裕貴さんが結婚!」と驚くべきか。演じている役とかその力量とかがどちらも隙で凄いと思っているから、どちらでも驚けるけれどもファンによっては男性だったら竹達さんの結婚を喝采し、女性だったら梶さんの結婚をやっぱり祝福……するよなあ、今時の声優ファンで結婚したら人気がなくなるなんてことはあまり聞かなくなってる感じだし。竹達さんはとにかくいろいろやっていてどれが代表作って言いづらいけどやっぱり浮かぶのが「けいおん!」のあずにゃんか。

 あとは実写映画「ライトノベルの楽しい書き方」。顔出しで演じてたなんて知ってる? 割と貴重かもしれない。梶さんはもう主役級が多すぎてどれが誰って言えないけれども世界的には「進撃の巨人」のエレン・イェーガーあたりがやっぱり知られているんだろう、日本語のまま配信されているのなら。いつか「ギルティクラウン」に面白法人カヤックが運営していたこえ部ってところから出てきたまだ素人さんが参加するってことでスタジオまで言った時、梶さんがいてすでに大人気だったようで素人さんが輝くような目で眺めていたっけ。

 あれが2011年だからもう8年も前。「ギルティクラウン」自体も結構クールでハードなSFだったんだけれど、ノイタミナ枠だとその後に出てきた「PSYCHO−PASS サイコパス」の方が人気が出てしまって忘れられた名作になっているのが勿体ない。梶さんで言うなら幼さと繊細さと熱さが混じった少年がハマっていたのが「博多豚骨ラーメンズ」で林憲明って女装した殺し屋を演じたりしてクールな感じも出て来た。「PSYCHO−PASS サイコパス3」の慎導灼役でまた人気が爆発しそう。そんな彼と竹達さんが共演なんてあるのかな。売れっ子なだけにありそうなだけに興味をもって観ていこう。そういうところからじゃないと今、アニメ観ようって気になれないからなあ。

 即引退って訳ではないのかフェルナンド・トーレス選手。アトレチコ・マドリードあたりから出てきてとてつもないストライカーになると想像させリヴァプールに移籍しコナミの「ウイニングイレブン」のキャラクターにも起用されたりしながらどこか持ち上がらず、後から出てきたクリスティアーノ・ロナウドに欧州出身のトップストライカーの座を持って行かれて以後、代表でも切り札的な存在ではありながらも第一線で活躍したという印象の薄いところがあったものの、選手寿命だけは長く,実に四半世紀を現役で居続けた。でもそろそろ現役を引退する様子。その場所がスペインでも欧州でもなくサガン鳥栖というのが何か不思議な気がする。

 戻って地元のクラブで数年だったらやれそうな気もしないでもないけれど、ここで終えておくのが人生にとって最善って判断だったのかな。ドラガン・ストイコビッチ選手の場合は出身地が戦乱で大変だったこともあって欧州でのプレイを望まず、名古屋グランパスを終の住処としてそのまま引退。欧州のクラブに復帰せず代表もEUROでの活躍を最後にしてワールドカップメンバーには入らないまま選手以外の活動を続けて現在に至る。トーレス選手もあるいは指導者として日本に残ってくれたら、決定力不足が長く言われているこの国にストライカー魂って奴を植え付けてくれるかもしれないけれど、そういう戦い方をする国でもないからなあ、ワントップからの決定力といった。ともあれ凄い選手が今、日本にいるということを改めて理解し、その勇姿を機会があれば目に焼き付けておこう。関東に来てくれるかな。

 それにしてもいったい何が起こっているのか。映画としては素晴らしく良かった山本寛監督の「薄暮」だけれど池袋での舞台挨拶では配給会社の手違いから舞台挨拶がメディアに公開されず、そしていわき市での舞台挨拶に登壇する予定だった主役の桜田ひよりさんが「配給会社の都合」で舞台挨拶に立てず山本寛監督と福原香織さんだけになってしまった。おわびにムビチケまで配られるそうだからもう1回観たい人には嬉しいことかもしれないけれど、主役の子が観たかった人には残念な展開だっただろう。そんなに舞台挨拶が行われる場所でもないだけに、ご当地映画の主役が来てくれないというのは心にグサッと突き刺さる。原因を知りたくなって当然だ。

 それだけにというかやっぱり謎めく「配給会社の都合」という理由。もしかしたら舞台挨拶というスケジュールが桜田ひよりさんの側に伝えられていなかったのか、それとも別の理由があって登壇できなくなったのを、配給会社が泥を被る形で納めたのか。いずれにしてもせっかくの傑作映画がこういうゴタゴタで汚されてしまうのはもったいないので、ここはいろいろあったと推測するに止めて、これから続く連続トークを成功させつつまずはいわき市で「薄暮」を広め、東京でも多くに見てもらってそれから全国へと広がっていって欲しいもの。拡大公開は決まっているから、その前に盛り上がってうちでも上映したいって劇場を誘いたい。名古屋でもやってくれないかなあ。

 そして完結の「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章 後編」では京都府大会と関西大会、そしてそこが通過できた場合の全国大会でそれぞれにオーディションを行うという新しい方針の下、吹奏楽部が実にピリピリとした雰囲気になって黄前久美子たちを迷いまどわす。それは自身にも関わってくることで、強豪の聖良から転校して来た黒江真由という3年生とユーフォニアムのソロを競い合うことにならざるを得ない中、田中あすか先輩が卒業してからはずっとトップだった久美子に揺さぶりがかかる。

 そこで高坂麗奈のように絶対の自信と実力があれば堂々とできたところだけれど、真由は自分がオーディションで勝って大会に出ることも、ましてやソロを吹くことも嫌がって辞退したいとすら言い出す。これが難物。久石奏のようにしたたかで計算もきくようだったら真由の言動に裏をみて揺さぶりをかけつつ自分がトップに出ようとしていると邪推しただろうけれど、そこは久美子でも読めないし僕にも読みづらい。引っ越し続きの生活の中、知らず身を引くことを処世術として覚えしまっただけなのかもしれない。

 それもそれで実力をスポイルしていることになる訳で、案外に強引な久美子が真っ向勝負を呼びかけたのは、真由のためにも正しかったのかもしれない。さいしょは遠慮があって真由が負け、次は臆して久美子が? って展開かどうかは読んでのお楽しみ。とりあえず完璧に完結しているので続きがあるとしたらそれはまた、別のシリーズになるんだろうなあ。奏たちの。あるいはその下の。もしくは遠い将来の。ってあれは西暦いったい何年? 2040年くらい? 書いたらSFになってしまうよなあ。楽器も変わっていたりして。会場だって名古屋じゃなかったりして。そういう未来の吹奏楽コンクールを誰か書かないかなあ。なろうとかカクヨムとかで。ちょっと楽しそう。自分で? 楽器の勉強しないと。


【6月22日】 国民健康保険の保険料を一括で納付してこれで国民年金に県税市税といっったところも合わせて3つの大きな納付を完了。会社都合の退職なので国民健康保険の保険料は減免されててとてつもない金額を払わずにすんで安心といったところだし、今年は沢山稼げないだろうから来年はもっと払わなくて良さそうだと思えばとりあえず生きていくことは出来そうだけれど、生きているだけで面白い人生なんてものはない訳で、何かをするための場所ってのをとにかく定めなくちゃいけない気がしてる。幸いにして6万円を超える年金住民税健保の分はもうないので、そこそこ稼げてストレスも溜まらない場所で日々を学びつつそなえたいけど、そんな場所が見つかるかは今週の頑張り次第か。沈んでばかりでは波に乗れないなら浮き上がる。そのための1週間。もがこう。

 表参道から北参道方面へとちょっと歩いて右手側、国立競技場方面へと向かう道を進んでいったところにあったホットトイズのショップがスパイダーマンを特集するってんで見物にいったらスパイダーマンがいっぱいいた。ソニーが超久々に実写映画を作ってからしばらく観てなかったのが、アニメーションの「スパイダーマン:スパイダーバース」で戻ってきてそして「アベンジャーズ/エンドゲーム」では消滅していたけれどもそこから戻って「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」へと戻って少年が活躍している姿を見かけて、今もってスパイダーマンというキャラクターがアイアンマンに並びマーベルでは人気なんだと知る。

 手足がねばねばとして糸を出せるくらいで不死身でも豪腕でもない蜘蛛男が、気持ち悪がられもしないで人気者であり続けるところにきっと、自分を重ねて見られるからってのが男子のばあいはありそうだけれど女子の場合は何だろう、今のMCUにおけるスパイダーマンの少年が演じている可愛らしさがあるんだろうか。ショップに行けばどういう層が買いに来ているかも分かるし、6月28日から始まる映画「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」を観ればどういう層が観に来ているかも分かりそう。「アベンジャーズ/エンドゲーム」でアイアンマンの身に起こったことの続きも分かりそうだし、その意味で観客も駆けつけたりするのかな。僕は「アベンジャーズ/エンドゲーム」で完結したので別にいいや。

 日が明けて週末となって映画館にもどっさりと人が向かうことになりそうだけれど、湯浅政明監督による長編アニメーション映画「きみと、波にのれたら」がここから本格的に大量動員を計れるかというと昨日は500人規模のスクリーンで上映していたTOHOシネマズ日比谷が今日は100人規模のスクリーンで数は回すけれどもそれを全部足しても500人規模の2回に追いつかないといった感じ。なおかつそれほど埋まってない。今や基幹店となったTOHOシネマズ新宿の方も一部の時間に混雑があるくらいであとは余裕在り。あれだけ予告を映画館で上映していてどうして一気に人が向かわないのかっていうと、やっぱりテレビでの紹介が少なかった、ってことになるのかなあ。

 これが日本テレビだと金曜ロードショーで細田守監督の新作にあわせて過去作をばんばんと流すし、新海誠監督の場合はテレビ朝日がちゃんとゴールデンあたりを明けて来る感じ。スタジオジブリ作品はいわずもがなだけれどフジテレビは湯浅政明監督の新作が来たとしても「夜明け告げるルーツのうた」も「夜は短し歩けよ乙女」も放送はゴールデンとかじゃなかった。そこで流して宣伝をして一般にも認知を高めて映画館へと向かわせる、って回路がないんじゃやっぱり大きくドライブはかからないってことなのかなあ。ノイタミナとか+Ultraとかアニメであれだけ頑張っていながら、編成の部分でメジャーに来られない構造がやっぱりフジテレビ、ってことなのかも。もうアニメ専門チャンネルになっちゃうしかないのに。そうしたら新聞のアニメ新聞になって復帰……はないなあ、新聞がなるはずもないから。残念。

 それは聖地になり得るけれど、別に聖地にして奉って訪ね体感しなければならないものではない。そこにあるかもしれない風景と、そこで繰り広げられるかもしれない出会いを思ってにっこりと微笑み、そこでかつて起こった出来事への思いを浮かべて寂しさや悲しさを感じつつ、それでも続いている日々の営みに対して遠くから、応援の気持を送り続ける。そんな心での“聖地巡礼”というものがあっても良いんじゃないかと、山本寛監督によるアニメーション映画「薄暮」は思わせる。

 福島県いわき市を舞台に小山佐智というひとりの女子が高校に進学して子供の頃から嗜んでいるバイオリンの弾くために音楽部に入って弦楽四重奏に挑戦している。メンバーは先輩が1人と同級生が2人。そんな2人と一緒に帰らず立ち寄りもしないで佐智はひとり、バス停へと歩いて行ってそこで山があり田んぼがあって林が茂る風景をながめ、そんな地平から上へと向かう空に夕方の太陽が淡く輝いて色を着ける光景を眺めてしばらく時間を過ごしている。都会暮らしではなかなか気がつかないけれど、ちょっと外へと出ればどこにでもありそうな田舎の風景。愛知県でだって随分と見かけた風景の中で佐智はしばらく時間を過ごした後、来たバスに乗って家へと戻るその途中で、違うバス停から乗ってくる違う高校の制服を着てスケッチブックを持った男子生徒の存在に気付く。

 誰だろう。何をしているのだろう。バスが終着してそこで見失う男子生徒がある日、いつものように待っていたバス停の側に現れたことから佐智の日常が動き始める。まさしくボーイ・ミーツ・ガール。というよりはむしろガール・ミーツ・ボーイ。雉子波祐介という名だった絵を描く男子高校生と仲良くなりつつ一線を越えるにはひっかかる部分があってもやもやとした日々が綴られた先に来る展開に、ガツンと脳天をやられてしまってこれはもうどうしようもないくらい、感動を感涙にむせんでしまった。ためてきたもの、ひっぱってきたものが一気に開放されるその瞬間を味わいに、また映画を見に行きたくなって来た。

 出会いが生まれる場所。心が癒される場所。そんな思いから映画の風景に自分を起きたくなる気持ちがないでもあい。聖地巡礼と呼ばれる映画の舞台に行ってみたくない訳じゃないけれど、それはどこにでもあるバス停で、どこにでもある山の端から伸びる平地に田んぼがひろがり稲穂が実る風景であって、そもそもが正しい舞台があるのかどうかすら判然としない。あっても確かバス停は存在しなかったかもしれない。そういう場所をわざわざ訪ね歩かずとも、千葉でも茨城でも埼玉でも群馬でも神奈川でも、ちょっと歩けばそこにある田舎の風景を眺め日本という国のある意味での原風景をひとつ味わいつつ、いう場所で起こりえる出会いを想像する方が、作品から放たれるメッセージに従順な気がする。

 どこにでもある風景の中で誰にでも起こりえる出会いを喜ぼう。そんなメッセージ。そしてもうひとつ、どこにでもある風景だったはずのものが触れることのできない風景に変わってしまった瞬間があり、そんな場所が今もあるという現実について考えようというメッセージ。そこまで社会的で政治的かというと、言葉で語られることはなくこれでもかと描写に盛り込まれることはない。夢の中、空から見える海岸線の白い建物にそういう場所が合って今も燻っていることを思い起こさせられるくらいだろう。そこからあの日、あの出来事が今もより濃く残っている場所があることへの思考を惹起させつつ、この国の、この世界のどこかで今も繰り広げられている薄暮のしたので出会いと告白に喜びの喝采を贈ろう。

 圧倒的な画力で紡がれているというよりは、どこか自主制作アニメーションかもしれないとすら思わせるつたなさも残って、名のある監督であってもインディペンデントな環境で作品を作ることの難しさを感じさせる。音はなっているのに止まっている校内の絵が映し出されたり、演奏が続いているのに指も体も止まっている絵が続いたりとアニメーションとしてのメリハリというか取捨選択もある。それでも要不要を切り分けで見せる場面は見せ、表情もしっかりとつけてあるからチープさは感じない。美術もしっかりとどこにでもありそうな田舎の様子を描き出している。演出家としての力量にたぶん衰えはない。

 なによりあの場面、あの瞬間にぐわっと来る感慨へと向けて積み上げられていく日々であり関係性にただただ感嘆。実写映画「私の優しくない先輩」のエンディングで見せた長回しによるダンスにも驚かされたけれど、アニメーションでも歴史に残る名場面のひとつを作り出したと断言したい。「薄暮」はだから傑作で、そして日本中のあらゆる場所で起こる出来事への想像をかき立て、日本中のあらゆる場所を聖地にしてしまう力を持った問題作だ。


【6月21日】 快挙だよなあ。NBAこと全米プロバスケットボールのドラフトで1巡目、全体でも9番目というとてつもなく高い位置でワシントン・ウィザーズが日本出身の八村塁選手を指名。その年にドラフト候補となっている選手でベスト10に入っているってことだから、これはとてつもなく優れた選手だってことになる。かつて田臥勇太選手も夢みたNBAでのドラフトでの指名は、大昔に岡山恭崇さんが8巡目の10番目で受けてはいたけれど数えれば一体全体では100何人目ってあたりだから八村選手とは比べものにならない。トップ中のトップ。それを成し遂げたんだからやっぱり快挙としか言い様がない。

 お父さんがベナン人ということもあって体格には恵まれているようだけれど、中学あたりまでバスケットボールの経験はなくて野球がやりたがっていたのを無理矢理バスケに送り込んだらこれがマッチして高校時代に大活躍。そのまま日本の大学には進まないでアメリカでも強豪のゴンガザ大学に進んで活躍して目を掛けられた。そんなワシントン・ウィザーズはかつてマイケル・ジョーダンが復帰して所属したこともあって、ジョーダンに恵投している八村選手にとっては運命とも言える指名だろう。それを知っての指名だろうから、いきなり誰かと交換で放出される、なんてことはないと思うけれどもそこはドライだからなあ、アメリカは。

 デビューがいつになるかは判らないけれど、パワーフォワードなりスモールフォワードとしてぶつかりにいくような活躍が見られると良いかも、っていうかその前に2020年のオリンピックに出て活躍する姿を見たいけれども日本ってオリンピックに出られたっけ。いろいろと問題もあったことから開催国といえども日本の出場を競技団体がすんなりとは認めていなかったような記憶。ここで八村選手が日本から出られないとなったら大変だけれどどうやら3月に開催国枠は認められていたみたいだから、晴れて八村選手も故郷に錦を飾れそう。その姿を見たいとこれから始まる東京五輪のチケット争奪戦も一段と激しさを増すだろうなあ。こっちはサッカーの女子の1次ラウンドを見るくらい。八村選手はテレビで見よう。それまでに足下が固まっていると良いな。

 水島努監督の「ガールズ&パンツァー最終章 第2話」で驚きの展開を描いて、BC自由学園の戦いを楽しくして大洗女子の戦いの先行きを厳しくしてのけた脚本の吉田玲子さんが、1週間の間も置かないで投入してきた湯浅政明監督「きみと、波にのれたら」の完璧なまでの出会いから離別、そして少しの成長というドラマの鋭さに突き刺されて見終わって身動きがとれない状態というか、いったいどうしてこれほどまでに傑作アニメーション映画の傑作シナリオを次々と繰り出せるのか。その才がアニメーションに居続けてくれるのか。いろいろ思うところも浮かぶ「きみと、波にのれたら」の公開日。

 ストーリーについては予告編とかで散々っぱら紹介されているからネタバレもなにもないといったところ。向水ひな子というサーファーの女子がいて、銚子にモデルがあるらしい海のそばの大学に進んでサーフィンをしていると、近くにある消防署に勤める雛罌粟港という名の消防士がひなこのことをヒーローだと言い、そしてひな子の住んでるマンションが隣家で行われた違法な花火が引火して燃えたところを港がやって来てひなこを助け、ボーイ・ミーツ・ガール、って歳でもないけど出会いがあって仲良くなって恋にもおちてずっといっしょにいようねってなっていく。超ハッピーにして超リア充。2人が同じ歌を唄うシーンの笑いも交えた収録とか、どうやって指示してどうやって演じたか興味ある。

 そんなキャッキャうふふの日々はけれども長くは続かない。起ここる不幸。突きつけられる離別。それを受け入れられない中に見る幻想というのは、同じ吉田玲子さんが脚本と描けた劇場版「若おかみは小学生!」にも重なる設定であり展開で、普通に暮らしているようでどこかやっぱり現実を生きておらず夢の中を漂っているような感じになっている。そこで「若おかみは小学生!」の場合は両親を失ったおっこが普段はしっかりとして泣かず認めないふりで通していたけれど、ひな子の場合は欠けたピースが大きすぎたのか泣いて嘆いて悲しんでる。そんな最中、2人の思い出に重なる歌とともに港の姿がひな子の前にだけ現れる。

 夢? 幻想? 妄想? そういった類だととるのが標準的。一方で幽霊だとか地縛霊だとかいった解釈もなりたつ状況は傍目には悲痛だし滑稽さもあって真正面から見づらいところを、湯浅政明監督が作り出した映像は感情の生々しさが強く表情に表れないこともあって笑顔と泣き顔と怒り顔を驚き顔の組み合わせの中、マンガのような平面な感じでパラパラとページをめくるように追っていける。これがもしも実写だったら、悲痛さがぶわっと出てきて居たたまれなかったかもしれない。水の表現も実写をCGIでやったら逆に嘘くさくなったかも。アニメーションでカタマリになって浮かび動く水だからこそ成り立つあの雰囲気っていうか。

 サーフィンをしている人間のダイナミックな動きだとか構図もそうだし、水の中に人が現れる不可思議な現象も含めてアニメーションならではのシンプルな描線によって作らていて、見る側が感情をそこに自在に映して見られる表現だからこそ、嘘くささを感じず気恥ずかしさも覚えず居たたまれなさに苛まれないで見ていられるうのかもしれない。そうやって紡がれる離別からの再会とそして永遠の離別という残酷なストーリー。だからこそもっと多くが足を運んでは、甘い絵柄から立ち上る残酷な運命とそこから始まる新たな波へと挑戦する意欲を、得て欲しいんだけれど初日の昼間の興行は平日ってこともあってちょっと足りてなさそう。そこは週末の口コミドライブに期待したい。

 やっぱり比べてしまうけれど、映画「若おかみは小学生!」の不幸をくぐり抜けて今に戻って明日を見ようとする物語の再来を、甘美に見える恋愛ストーリーによって味わえる作品だとも言っておきたいかな。あと声にちては、港を演じる片寄涼太あんは甘いし優しいし言葉に棘が感じられなくて委ねたくなる。ひな子の川栄李奈さんは演技も上手いから声もやっぱりとても上手い。港の妹の洋子を演じている松本穂香さんはドラマ版「この世界の片隅に』」でのすずさんでもあるんだけれど、清楚でちょっと子供っぽいすずさんなんて役はフェイク、実はもっと凄まじい田舎の怨念抱えたYouTuberを演じた「アストラル・アブノーマル鈴木さん」という作品のヒロインとして見せた演技巧者としての本領本性が声に乗って出ていた。聞き所でしょう。

 そんな感じに、声に関して問題もなく映像はスタイリッシュで可愛らしく展開は甘いけれど苦くて苦しいけれどそこから出て行く力をくれるといった具合に完璧で完全。まさいに今、水に潜ってしまって波に乗れない自分にとって、来る波をとらえて乗らなきゃって気にさせられる。潜ったままでは波には乗れないんだと言われてしまったからなあ。もちろん波はそんなに来るものじゃないけれど、そうした中に来た波だったら乗ってしまうのが一番かな。それでコケたら? またパドリングして沖に出て波を街、乗れば良いのだ気を入れ直したひな子のように。


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