縮刷版2019年5月下旬号


【5月31日】 なぜと知らないふりをするのも何なんで、色々あってちょっと身動きがとれない感じになっていたみたいと、ここは感じておきたい「ラブライブ!」のμ’sだったけれども遂に、2020年早々に開かれるさいたまスーパーアリーナでのフェスティバルに登場してグループとして“復活”。2016年4月1日の東京ドームを最後に“単独”での公演は終えるといった説明はあったものの、そうじゃないならいつだって復活してきて良かったにもかかわらず、3年以上かかってしまってもう本当にあり得ないんじゃないの、なんて空気も漂っていた。

 後発のAqoursが頑張って東京ドーム公演を成し遂げ、紅白歌合戦にも呼ばれてμ’sに追いつき追い越すような勢いだったこともあり、もう良いんじゃないかっていった雰囲気さえあった。でもやっぱり寂しい。あれだけの実績を残したユニットが、よくわからないまま表に出てこなくなってしまっては持ったいない。だからずっと待っていたらここに来て堂々の復活。あの2016年4月1日の公演を目撃した者として、そこからの再スタートを今はただ、嬉しいとしか言い様がない。

 さいたまスーパーアリーナではどれくらいのパフォーマンスを見せてくれるか、予想もつかないけれども虹ヶ咲学園スクールアイドル部ともども3代のユニットがずらり並んで計算だと27人だっけ? 競い合うようにパフォーマンスを見せてくれたらもうファンも狂喜乱舞の中に浮かれてしまうんじゃなかろーか。誰がどれを推しているとか関係なし。そこはラブライブ!という共通の土台の上で誰もがアイドル、そして誰もがファンだという空気感の中、一体感を持った上演が行われると信じたい。それぞれに登場した他のスクールアイドルも勢ぞろいして、賑やかな公演になりそうな予感。行きたいけれどもチケット、とれないだろうなあ。取材じゃもう行けないし。本当は発表会も行きたかったなあ。

 どうやら2階建てで最初に芸能人とか声優さんを交えた内覧会とセレモニーがあったみたいで、そっちには呼ばれてなかったからか到着して何かメディアが少ないなあ、テレビも来てないなあと思っていたら記事がポツポツと出始めて、そういうことかと理解したけどどうしてそっちっではなくこっちへと回されたかは不明。媒体がゲーム系だったからかな。でも芸能が混じるとそういう人の挨拶をメインで持っていかなくちゃならなくなって、肝心の河森正治さんの言葉が省かれるから逆に良かったんじゃなかろーか。ってことで東京ドームシティにあるギャラリーアーモで始まった「河森正治EXPO」の内覧会、関係者の内覧も混じってごった返していたけれど、その中に高千穂遥さんとかいたのを見られたんで、河森さんの交流が判ったし。

 とにかく膨大な資料が並んでいたといった印象。そこの撮影は出来なかったけれども「超時空要塞マクロス」がまだ別の名前で呼ばれていた頃の企画書から、まだレゴではなく紙で作られていたバルキリーの動作確認模型とか、富野由悠季監督と組んで当たる予定で書き上げていた「アステロイドワン」という企画のイメージボードとか企画書なんかが並んでいて、これだけの数をこなしてようやく表に出るものもあれば、ボツになって眠ってしまうものもあるんだと判って天才クリエイターと言えども努力と執念を欠かさないんだと気がついた。20代のころは10本出して9本はボツ。通るだけまだ良いとは言ってもこれだけの膨大な企画を練るならそれは相当の労力。それを厭わず続けたからこその今なんだろー。

 河森さんはずっと「好き」を貫いていこうと言ってきたけれど、これは逆に残酷なことで今は「好き」ではなく「得意」を貫くことが重要だって思うようになっていた。好きなことはそれは自分勝手と取られるけれど、得意なことは他の人にとってもハッピー。求められてこその才能ならばそれを好きだからと押し通すのではなく、得意だからと見てもらい、認めてもらうことによって繋がっていける、広がっていけるってことになるんだろー。河森さんの場合の得意は変形であって、これをメカだけじゃなく脚本にもキャラクターにも演出にも活かして作り上げてきた。

 そう聞くと自分の得意って何だろう、まとめて色々と書くことならばそれを求めてくれそうなところに落ち着くのが、ひとまずは正しいのかもしれない。自分の「好き」は判っても、自分の「得意」なんて自分では気付かないものなのだから。ちなみに河森さん、今も4本5本と並行して企画を手がけているというから流石なもの。作品性とか芸術性とかで世に強烈に認められる人たちとは一線を画しながらも、愛され認められるクリエイターってちょっと珍しいかも。富野さんほどピーキーじゃないし。「劇場晩 誰ガ為のアルケミスト」の公開で原作ものに初挑戦。これへ評判とか気になるなあ。見た人間として言えば面白い。以上。

 展示ではあとK−40ドームシアターという直径が10メートルの仮設ドームを場内に設置してドーム映像を見せるコーナーがあって「誰ガ為のアルケミスト」のキャラクターを誘導役にするようにして、河森作品からキャラクターが総出演しメカもたくさん登場し、そして敵もあ現れ倒して行く展開が繰り広げられて40年の集大成を感じられた。変形合体等々が見られまくるって訳じゃないけれど、多彩な作品に関わってきた軌跡が判る映像。本人もドーム映像をもっとやりたいって言っていたし、2次元の映像とは違って体感する感じがあって良いとも話していたから、もっと作って押井守監督のお姉さんが出演している「HIRUKO」と合わせ上映とかして欲しいかも。内容違いすぎるけど。

 作者名を見ず、タイトルと内容だけでこれは面白そうだと買ってみて、後で神野オキナさんだと気付きそりゃあ設定がいろいろと凝ってて奥深いわけだと納得した「幼なじみが反対しますが秘密結社を廃業することにしました」(講談社ラノベ文庫)。悪の組織の三代目を次ぐことになった高校生の少年が、いきなりその秘密結社ダークハドーを廃業すると宣言したから誰もが驚いた。無職になる構成員はもとより、日本政府だって慌てたのは、この悪の組織というおのが日本経済において重要な存在だからだったりする。

 政治や行政が決めて後戻りできないこととか、官憲がなかなか立ち入れないこととかを秘密結社が悪事という名目でぶっとばし、そこに公共投資だとか設備投資だとかを呼び込んで日本経済を活性化させ回してきた経緯があったから。つまりはマッチポンプのような関係? それはちょっと違うかも知れ名いけれど、表裏一体となった仕組みを崩すというから経済がどうなるか、誰もが不安に思った。

 とはいえ公共投資ばかりしてては日本おn財政も破綻するから仕方がない。解散を貫こうとする三代目。それに反対する参加の秘密結社が名乗りを上げて三代目らを封じようとする。いわゆるクーデータ。その首謀者が言うには、すこしズレた次元には秘密結社が政府と結託してない世界があって、素人の悪が立ち振るまっては社会を混沌に叩き込んでいるという。そんな非合理なといった声もあがるけれど、それってつまりは現代の日本。そういう社会にしてしまいたいと画策するクーデーター派に対し、三代目や幼なじみで怪人の少女が立ち向かっていく。

 とっても理想的な架空の社会システムを持った世界を構築し、現実とは違った幸福を描いてるという意味で、映画が至高の芸術と尊ばれ敬われている世界が舞台となった筒井康隆さんの「美藝公」みたいな世界観だとお言えそう。秘密結社は果たして文字通りの必要悪か否か。そしてその存在におんぶしたままで日本経済や財政が破綻しない道はあるのか。いろいろと気になる。どうやら存続したみたいでまあまだ続いていきそうだけれど、続きが出ないことも割とアルレーベルだけにちょっと気になる。「傀儡のマトリョーシカ」とか続きが出るのかな。それが出るならこっちだって。


【5月30日】 観ているアニメが今期、これだけになってきた感じがある「キャロル&チューズデイ」はいよいよオーディション番組が始まってキャロルとチューズデイも1回戦に登場。ギャングだという男のロックオペラな歌声には驚かされたけれども、おばあちゃんの登場で経歴がオーバーだったということで審査員から批判され、一方でAIを使わない自分たちだけの音楽を認められてキャロル&チューズデイが見事に突破しベスト4へと駒を進めた。

 99歳の双子のデスメタルもなかなかだったけれど、蒼井翔太が演じる人気動画配信者のピョートルが、地声とはまるで違う歌声で歌って踊って1回戦突破。吹き替え版だと歌に合わせた声になるんだろうなあ。元子役でAI作曲家のタオに鍛えられたアンジェラは今回は歌わず。でもキャロル&チューズデイに対して悪態をついたからきっと気になったんだろう。それ以上にアンジェラをバックアップしているAI作曲家のタオが何かしてくる可能性があるかも。AIを使わないってことにピクッと反応していたみたいだし。

 そうした細かい描写を積み重ねて雰囲気を表現していくのが巧みなアニメーション。あとはやっぱり窪之内英策さんによるキャラクターがしっかり描かれているのも良いかなあ、アニメであの繊細さを出し切るのって大変だし。そういえばまるで焼け石に目薬の部屋の整理をしていて本の山を掘っていたら、「まむがや大図録」って窪之内さんの画集が掘れた。リベストギャラリーで買ったんだっけ。凄い値段がついていたので捨てるのは保留。大塚ギチさんのサイン入り「THE END OF ARCADIA」も掘れたし、いろいろと埋まっているんだなあ、話が部屋には、栄光と散在の日々とともに。

 三部作の最終刊となる綾崎隼さんの「世界一かわいそうな私たち 第三幕」(講談社タイガ)が登場。バスジャックの中で言葉が発せなくなった少女が、おなじバスに乗り合わせていたとある作家による事件の真相に迫り小説によって少し救われ、彼と妻が運営するフリースクールに通うようになって、そこにひとりの元教師という青年が現れて、杏という小説家の妻とともにフリースクールに通うようになったひとりの少年にまつわる事件を解き明かす、といったのが第一幕。そして第二幕では詩季という小説家とその妻の杏との間に、夫婦といった関係とは違う何かがあることが浮かび上がる。

 あともうひとつ、バスジャック事件の犯人による告白もあっておなじフリースクールに集う事件の関係者たちの間に、もうひとりの“被害者”の存在が浮かび上がって来る。舞原詩季と杏は元より敵対する一族の出身で結婚などできる関係ではなかったのに、それでも結ばれたのは愛があったからか? どうも違うらしい。足を踏み入れない互いの寝室。ぎくしゃくとした関係。捨てられた花。夫からのものと違う指輪。そうした状況から浮かび上がってきた杏という女性の真実。壊れてしまった人間の理解を超えての振る舞いというものが見えて来る。

 才能とは残酷で、努力によってなかなか覆せるものではないけれど、努力を積み重ねることによって少しずつ迫っていけるものではある。それならば一端は諦めても、次を目指せば良かったけれどもつきつけられた格差があまりに大きかったのか、それが絶望と重なって悲劇が起こる。その場での栄誉など一生の中では瞬間に過ぎず、そこから長い長い苦衷が始まるということを人間はもっと深く噛みしめなくてはならない。って何か自分に言い聞かせたくなるような言葉。瞬間の憤りが生んだ苦衷はなかなかに深いからなあ。でも仕方がない、後戻りできないのなら前に進むしかないのだ。その前が……。

 そちらを選べば最先端の分野に居合わせられて、それなりの収入もそれなりの期間、得られるだろうとして、勉強も含め日々をかかりきりになって書評などは仕込みが難しくなり、日々の記録も止めることになるかもしれない。あちらを選んでも日々にかかりきりにはなるけれど、時間をフレキシブルに活用しながら諸々の仕事は続けられるかもしれない。何よりずっと関わってきた分野で意義もある。ただし収入と将来は当座安定しておらず、永続的な模索と努力が必要となる。どちらにしても大変ならどちらの大変さが自分にとって心地良いのか。そしてより将来に繋げられるのか。考えなくちゃいけないなあ。今度はやっぱりいろいろな人に相談をしてみよう。

 コナミ退社から3年半くらいになるのか。「メタルギアソリッド」シリーズの小島秀夫監督が独立してコジマプロダクションを設立して、ルーデンスとかイメージキャラクターは発表してもゲームの方はどうなるんだと期待させつつ不安がらせてもいたタイトル「デス・ストランディング」の発売がいよいよ11月8日に決定したみたい。ステルスゲームではなくアクションゲームのようだけれども新しいジャンルに挑まなければ小島秀夫監督じゃないから、きっといろいろな仕掛けも用意されているんだろう。新川洋司さんとかコジプロメンバーも結集。どんな内容になるかなあ。プレイステーション4だってXbox Oneだって持ってないからプレイできないけど、eスポーツ絡みじゃないタイトルがどこまで行けるか、注目して行こう。

 原宿のプリパラカフェでの発表とか、JAPAN EXPOの概要の日本向け発表会とか、いろいろあったけれどもおおむねパス。だって書く場所持ってないから。そういう状況が続くと、いずれ収まるというか収めざるを得ないんだろうけど、こうした発表会の模様が報じられたりすると、その場にどうして自分がいないんだろう、いられないんだろうといった寂しさが浮かんでしまう。もちろん世間の多くの人たちは、そういう場になんかいないしいたこともないし、いることを普通とも思わない。長くそういう場にいたからこそ、浮かぶ寂しさだとも言える。

 職業として情報の先端を拾い集めていた関係で、そこにいることが半ば当たり前になっていて、それを紹介することによって何か一仕事した気になっていた。でもしょせんは情報の仲介者に過ぎず、それを掲載する媒体を後に持っていてこその重用であって、何も媒体を持たない人間など、伝手を頼って潜り込んでも発信できないまま虚しさだけを味わうだけ。自分にとってはそれが自分でなくてはならないという奢りがあっても、世間にとっては誰でも良いし発信元にしてもどこでも媒体さえあれば良い。媒体を持たない人間にいつまでも関心を向けている義理などないのだから、こちらだって退くしかない。そうした状況もまた寂しさに拍車をかける。こうした気分が抜けきるまでにどれくらいかかるか。むしろ発信していく場に今度は身を置きたいなあ。頑張ろう。


【5月29日】 やはり頭が良いんだなあ。そして視座がしっかりしている。だから成功するんだメンタリストDaiGoさん。ニコニコチャンネルっていう、ニコニコのサービスでもどちらかといえば企業とか団体とか有名人が使って、動画の配信や生放送の中継を行ったり、ブログを書いたりコミュニティを運営したりといったことができるプラットフォームの発表会があって、そのトップ100でもさらに上位、すなわちトップに立ったということで夏野剛社長から表彰された。記念の盾に加えてDaiGoさんが生まれた1986年の算出のロマネ・コンティもプレゼント。調べたら200万円くらいするんだ。車だって買えるというのもまんざら嘘ではなかった。

 なんでワインがそんな値段にってなるけれど、元より味が良いのもあるだろうし、33年もワインセラーでしっかり寝かせて品質を維持し続ける手間なんかも考えたらこれはやっぱり高くなって当然か。でも飲まなければただの瓶な訳でそこを今回の“放出”によって流動化させ、DaiGoさんに開けてもらいつつ夏野剛さんもご相伴にあずかるといった展開かな。そういうことを言って平気なパーソナリティは、ニコニコチャンネルだとかテレビで活躍するDaiGoさんにも響いたみたいで、テレビに出るからといってヘコヘコしていた態度は改め、会費をもらっていても540円ならそこまでのサービスだと割り切りあとは、暴言も許せといった態度で臨んでいるらしい。

 そしてお金を払った会員はまたあまりうるさくないとも。投げ銭のようなものだと投げたことによって何か主張したがる人もいるから善し悪しで、無料の広告モデルではそれがなくなってしまう場合もあって安心できない。そんな判断からサブスクリプションの課金モデルによるニコニコチャンネルは良いプラットフォームだって話をしていた。始めるならここだとも。それがリップサービスかどうかは判らないけれど、100万人に達した月額会員のうちの1割を越える人数をひとりで集めている人が言うんだから、きっと使いやすいんだろう。

 とはいえ苦労もしているようで、ひと月に22本とか投稿したって読み切れないからと止めてしまうけど、6本ならむしろそれだけしか読めないんだからと会員を続けてくれるという。試行錯誤しながら適正な規模や中身をを探っていく努力。そこがメンタリストのメンタリストたるゆえんか。540円という値段だってそれに見合わなければ止めてしまう人もいる中で、本を5冊10冊紹介することで得をしたといった印象を会員に与えられるとDaiGoさん。自分が好きで読む本なり論文でもまとめて言葉にすれば商売になる。なるほど見習いたいけれどそれを動画でやれる自信がないし、何よりニコニコチャンネルなんて開設できるかどうか。できたらメディアとして認めてもらえるならやるけれど……。ホームページはメディアにはなれないからなあ、23年やって来ても。潮時かなあ。

 面白かったのはいろいろ終わったと言われているニコニコだけれど、それはプレミアム会員の数が減っているってことであって、ニコニコチャンネルの月額会員は順調に増えて100万人を突破した。それは目出度いけれどもだったらどうしてあれだけ巨額の赤字になるのか、ってことで減価償却した分の成果物だとかサービスだとかが徒労に終わった現れでもあって、そこをうまくビジネスに繋げる努力がないとニコニコチャンネルも爆発的に伸びる訳じゃないから先は見えてしまいそう。プレミアム会員である意味があるかどうかって、コンテンツの内容によるけれどもNetflixなりで事足れりな場合もあるし。かといって対抗するのも難しい。オリジナル作品なんて作れないから。だったらどうする? ってところで夏野剛社長の手腕に注目。とりあえずしばらくはやってくれそうだし。

 「VR ZONE SHINJUKU」が閉鎖となってしまって来る東京五輪にいったい、日本の最先端アミューズメントをどこで楽しんでもらえば良いのかと思っていたら東京は池袋のサンシャインシティ、ナンジャタウンのあるところに新しく「MAZARIA」という施設を作ることになたっとか。単体のVRアクティビティを並べるというよりは、施設全体にVRだとか他のアトラクションが混ざり合って存在しているような感じ。ゲームの中に入り込むっていうか、そんな体験を与えてくれる施設になっているんだろう。オープンは7月というからもうすぐ先。具体的な内容は見えないけれどもきっと楽しい施設になるんだろうなあ。取材したいけどそういう立場でももうないし。雇われライターで行ける時期だったらちょっと拙いし。なので今は遠くからその成功を祈ろう。

 というかナンジャタウンって他にもいろいろ入っていたはずだけれど、何を締めてこれを作るんだろう。週刊少年ジャンプの世界を再現した「J−WORLD」ってのがそういえばあったけれど、ちょっと前に寄ったらすっかり店を閉めていた。キャラクターはそろっていてもアトラクション的なものが弱かった気がするだけに、それで池袋まで引きつけるのはちょっと無理と考えたのかもしれない。代わりがデジタルテクノロジーの屋内型遊園地。その下にはナンジャタウンというアトラクションにちょっとだけデジタルが重なるテーマパークがあって相互に補完しあえるような感じかな。行き来できればなお良いけれど、行く層も違うからそこは別の入口にするのかな。ってことも考えても仕方がないか。明日はどっちだ。

 そして公開されたロングバージョンの「天気の子」の予告編でどうやら少女は晴れ女でいろいろと頼まれていたりするけれど、それが喜びなのか辛さになるのかまだ見えないし、少年の方がどういう関わり方をするのかも判らない。空を飛ぶというのは事実かそれともイメージか。いずれにしても言葉の選び方とそれを演じる役者たちの感情の重なりはやっぱり見事で、それに映像が加わってとてつもない凜然とした雰囲気を漂わせている。こりゃあヒットするよなあ。キャラクターは「君の名は。」よりさらにポップにチューンさrている感じだけれど、それをリアルな街並みが包み込む。謎の男がいたりして拳銃まで振り回して一体何者? そんな期待を誘いつつ繰り広げられるストーリーが明らかになるのももうすぐか。試写、どこか取ってでも行きたいなあ。暇だったらだけど。暇だったらどうしよう。


【5月28日】 舞踏家で、それも原初舞踏という内在するものを体に伝えることで起こる変化めいたものを尊んでいるからか、時に体すらほとんど動かないこともあったりするする舞踏をしている最上和子さんが、出演したドーム映像「HIRUKO」の上映以来、チェックしていたツイートの方で興味深いことを発信していた。和太鼓がずっと日本発のパフォーマンスとして取りあげられているけれど、今はその演奏が“スポーツ化”してしまっていて、もっと霊的な演奏がしたいと「HIRUKO」に出ていた和太鼓奏者の人から聞いたとか。

 なるほど鼓童にしてもDRUM TAOにしても和太鼓という楽器は演奏して、その奏法も和太鼓のものにかなっているからちゃんと和太鼓としての音は出ているけれど、激しいアクションなりコミカルな動きなりといったものを舞台上で追求しようとして、どこか形にはまって体力を求められるものになっている気がしないでもない。そうじゃない、気持から出てくる太鼓を打ち鳴らしたいという騒動を、バチに乗せて太鼓を通して音にするという、そういう演奏こそがもしかしたら「HIRUKO」に出ていた太鼓奏者の人が求めているもので、同時に和太鼓の原初に迫るものなのかもしれない。

 舞踏というのが、西洋から入ってきたダンスの勢いなりに推された日本で、そうした形にはまったものではない体の動きを表現したいといった思いから生まれたもので、それすらもパフォーマンスと化していった中で原初に戻った舞踏を追求している最上さんにとって、同じような思いをそこに感じたのかもしれない。バレエも悪くはないけど舞踏も面白いというならば、和太鼓がスポーツ化してもそれはそれで西洋のドラムロールにも似たパフォーマンスとして受け止め、評価することは可能だろう。

 一方で太鼓を叩いてその音により鎮魂でも除霊でもするような気持を演奏に乗せたものを和太鼓の神髄ととらえ讃えることも悪くない。ようするに演じる側の考え方の問題であり聞く側の趣味の問題。とはいえ西洋的な演奏になれた耳に霊的な演奏がいきなり届くとも思えないんで、そこは最上和子さんとのコラボの中で表現していくようなこと、あったら面白いなあ。今やあの押井守監督の姉として知られる最上和子さんなのだから。本当、お顔がそっくり。

 川崎市の登戸で通り魔事件が発生して16人が刺されて現在までに女児が1人、亡くなられたとのこと。心肺停止の30代もいるそうで、これ以上被害が広がらなければ良いとまずは祈るけど、こういうのってどうやったら避けられるかというと、突然に路上へと突っ込んでくる事故車と同様に被害者の側で避けられるものではないところが大変。学校への侵入ですら大人の教師がいながら大勢、亡くなる子供を出してしまった訳で路上でいきなり襲いかかられては瞬間に立ち向かおうにも立ち向かえない。幼稚園の件のように子供を散歩に出さなきゃなんて指摘も今回は不能。それを良い始めたら子供は家から出すなって話になってしまう。

 だから断つのは根源ってことになる訳で、加害者がどういう状況にあったのか、どうして事件に至ったのかを知りたいところ。とはいえ、不満の種が積もり積もってドカンとなっての自暴自棄を、秋葉原での件も含めて社会は止めきれずにいる。そして守るも守れないとなるといったいどこに不安を持っていけばいいのか。なかなか見えないところが寂しいし辛い。自分だってこの心境だとどこでどうなるか、って感じなんで早いところ気持ちを落ち着け生活のリズムを取り戻し、不満はあっても溜まらず爆発しないようにしないといけないかも。まあ暴れるより引きこもって泣いてる可能性が高いけど。

 主人公の九重大樹くらい、人生に関する計算が出来て行動も慎重なら、自分も後先考えず飛び出すとかいった無茶をしでかすことはなかったかもしれないと思ったポンポコ狸さん「朝起きたらダンジョンが出現していた日常について 迷宮と高校生」(ダッシュエックス文庫)。タイトル通りに世界各国にダンジョンが出来て日本では政府が管理し探索とか行わせるようになったけど、九重大樹は自分の部屋の引き出しにダンジョンが現れスライムがいたりして、政府に報告せずこっそり探求をしてレベルを上げていたら、同級生2人からダンジョン探索のパーティーに誘われた。

 ひとりは武道場の跡取りでダンジョンで鍛え上げてこいと言われ、もうひとりはラーメン屋の娘で怪我をして店を一時休業している父親に代わり、ダンジョン食材を持ち帰ってライバルの中華料理店に勝とうと意気込んでいる。そんな3人はダンジョンに挑むことになるけれど、いきなり飛び込むような真似はせず、隠していた引き出しのダンジョンでスライム相手にレベルを上げ、スキルを配分してからダンジョン探索に向かう。冒険はせず確実に倒して行くその大人ぶりを今、ちょっと見習いたくなった。なるほど、見通しのないことはしちゃいかんよなあ。

 そうやって入ったダンジョンで、そろそろと進めていって徐々に階層も深めてたどりついた場所で待望のオーク退治に成功。ラーメン屋の娘がチャーシューにするらしい。美味いのか? そんな展開の中に死んでもリセットはなく即死につながるというシリアスさがあり、ダンジョン内ではモンスターとは言え殺して命を奪う行為の大変さをしっかり添えて描くあたりも社会派な感じ。表紙だけ見るとどこの警備員かと思うけど、鎧甲なんて存在しない現実では妥当な装備。18歳未満にナイフなどは売れない設定も巧妙。3人は別の方法で刀剣類を手に入れられただけましかも。アイテムを買い取って蓄えている政府に何か企みがあるようで、それが明らかになるこれからの展開は起伏もあるのかな、第1巻は淡々とオーク退治をして終わりだっただけに続きが気になる。

 ずっと伸ばしたまま、自分で先っぽをカットしていたから理容店も美容院も10年以上言ってなかっただけに、5月の頭に髪を短くしてサイドはバックはバリカンで刈り上げにもしてしまった関係で、伸びたらまた切らなくちゃいけなくなっている。それがいったい何週間で行くのか、ずいぶんと切ってないだけに判らないのでとりあえず、ちょっとだけ伸びた3週間をめどにまた、薄毛の人がカットをすると格好良くしてくるINTIのと八丁堀にある店に行って前回と同じ人にカットしてもらう。なるほど短くなったなあ。でもあと1週間くらいは保ったかもしれないので、今度はそれくらいのスパンにするか。6週間だと左右が伸びてはねて来そうだしトップもふわっと仕上がらなくなるかもしれないから。ああでもそんな余裕がないなあ。だったら縛っても平気な職場に潜り込むか。でも短いままでいたいしなあ。悩む。


【5月27日】 AIが登場するSF作品について調べてどういったAIが登場しているか、それはどんな作品から影響を受けていたりするのか、どういった作品に影響を与えていたりするのか、なんてことを調べて記入していく作業なんてものがあって3月下旬からスタートはしていたものの、こちらは思いのほか深い退職に伴う心理的なダメージに作業が進まず、本も読めない状態になって手を付けられたのが大型連休で実家に引きこもって何もやることがなかったあたり。そこでとりあえず布団に横たわりながら課題の5冊をとりまとめ、東京へと(千葉だけど)に戻ってやっぱり沈む気持をどうにか振り絞って5冊を追加し、どうにかこうにか自分の分は書き終えた。

 とはいえそうした作業をグループで100冊は行わなくちゃいけなくって、なおかそれなりに手間暇をかけないと良い答えが出せない感じになっている。本気で記述を埋めようとスルなら、それこそ1冊まるまる読み返さなくちゃいけないし、シリーズだったら何冊も繰らなきゃ分からないこともあって結構大変。もしかしたら書評を書くよりも面倒なだけに筆も進まないところもあったのか、なかなか100冊までたどり着けなかったけれども頑張る人がいて、っして追い込みもあってどうにかこうにか100冊に到達できた。ホッと安心。

 これで人工知能に関連した学会へと出せるデータが集まったかというと、そこはSFには関心があってもAIには疎い人たちもいたりするだけに、そぐう内容になっているかがちょっと分からない。トップダウン型のAIとボトムアップ型のAIっていったい何が違うんだ、とか。「ソードアート・オンライン」のユイとか作者はトップダウン型の究極って行っているけど、自分でいろいろ成長しているようにも見えるからボトムアップとも取れそうで迷う。そこはだから専門家の多い学会で揉んでもらって、SF的なAIへの視線と、プロの学者たちの意識とがぶつかる中からAIってものが人間の社会にとってどういう存在になっているんだろう、文学においてどういう役割を果たしているんだろうってことを、考えていくきっかけになれば気力を振り絞った甲斐もあったけれども、果たして。

 「うー、がおー」で全世界のけものフレンズファンを虜にした尾崎由佳さんが所属していた事務所の響を退社して、芸能音楽事務所としては大手の研音に移籍と発表。ブシロード系で声優さんが多く所属する響とはちょっと違った場所だけに、最近増えつつあったグラビア仕事や顔出し仕事もこれからはもっと増えていくんだろう。元々が子役だったらしいから演技だって出来そうだし。ただこれでアニメーションから切れて「けものフレンズ」からも切れてしまってサーバルキャットが登場しない「けものフレンズ」になったら寂しいなあ。

 「けものフレンズ」といえば準主役級のアライさん役の小野早稀さんもフェネック役の本宮佳奈さんも、第1期の頃からたしか所属事務所が変わったか、フリーになっていたりする。おざぴゅあが研音という大きな事務所に入ったことで、3人が組んでの「どうぶつビスケッツ」が稼動するのだってこれからはいろいろ大変になりそうで、そうなるとやっぱり簡単にはライブとかイベントとか舞台とかでは見られなくなるんだろう。3人が揃ったかつしかシンフォニーホールでのライブを見て置いて良かったかな。でももう永遠に見られない、ってことだけは止めて欲しいなあ。SOS団だって時々には復活するんだし。是非また。すぐにでも。

 貧乏なので昼に都心部で昼ご飯を食べるとなると、八重洲地下街の安いカレー屋かそば屋に行くしかないので朝、キャリア支援会社に寄って担当者が転勤でいなくなってしまうという話を聞かされて、そりゃあなおのこと活用がしずらくなるぞと落ち込んで、重たい足を引きずるようにして丸の内から地下を抜けて八重洲へと抜け、今日はそば屋で冷やしたぬき蕎麦とミニ天丼のセットを頼んでかき込んでから、地下街を歩いていたらビジネスレザーファクトリーという名のショップがオープンしていたのに気がついた。店頭には端正な顔立ちをしたストレートチップがあって値段を見たら9990円、だったかな、とにかく1万円を切る値段でソールもレザーの革靴が並んでいた。

 内羽根のウイングチップとプレーントゥもあって値段も同じ。ひっくり返すと底は革で、こりゃあ安いといろいろ眺めてまずは製造がバングラデシュのものだと判明、そして製法もグッドイヤーウェルトに見えてセメント式で底は縫い付けられてはおらず張られているだけと、手間のかかっていない分だけ値段も抑えられていたようだった。あとはショップがオリジナルで作っているからか。底の革も牛革というよりは水牛の皮らしいけどその辺はちょっと不明。ただはいている分には分からないしセメント式はそれで水にも強いから、これからの季節でゴム底のビジネスシューズを履くよりはこっちを選んだ方がスーツには合うかも知れない。でもこの暑さじゃスーツだって着られないよなあ、自分もスーツを着る仕事に就くとはちょっと思えなくなって来たし。

 そして気がついたら全国に置いてある支局の割と結構な数から、住所の表記が消えてメールアドレスだけになっていたとある新聞社。北海道から東北にかけてとそして福島に甲信越、中部と来て四国に中国もだいたいが名前はあっても住所がない。つまりは非実在ってことになるのかな。メールを入れればどこかに届いて連絡だけは行くようになっていんだろうけれど、それですぐに稼動して何かを書くってことは無理だから、必然的にそうした県の情報は入ってこず載らなくもなる。あるいはそうした情報は通信社のものでカバーするんだろうけれど、オリジナルの情報はやっぱり取れなくなる。

 そうやって細っていく情報を集めてネットから流していったい誰が読むかというと、たぶんもとよりそうした地域の情報は多くの人には“読まれて”はいなかった。だから読まれるネタだけ乗せるようにして純度を高めれば、ロスが減って収益も上がるって考えもあるんだろう。まさにネットメディアが今、そんな感じに足を使わずネタを集めて記事にして載せ、PVを追求しているけれど、それにすべてのメディアが追随した時、こぼれる情報があって蔑ろにされる何かも出てきそう。そこに手が届くところは、収益力があって財務体質がしっかりしている大手くらい。ロスも承知で公器を保ってプライオリティを高めて唯一無二の存在へと向かい、それ以外は情報発信行としてより身軽なネットと勝負する。未だ結構な数の人員と設備をかかえて。勝てるかなあ。どうなっていくのかなあ。どっちの側にも置いてもらえない身では何を言っても遠吠えだけど。やれやれ。


【5月26日】 ただでさえ不安から来るストレスのせいか、体温の高いような状態が続いて頭がボンヤリとしているところに、5月にしては前代未聞の30度をはるかに越える気温に襲われ人間として生きてて良いんですかといった心境。いや別に死なずともそれなりな年収で10年は過ごせる蓄えはあるんだけれど、年金だけでは足りないから人間、定年の時に3000万円が必要だなんて無茶な政府の将来見通しも出てきて、使わずに済むための算段を考えなくちゃいけない気がしてまた気分がグッと揺れる。

 手元に一切のスキルがないことが分かったので、この1年を無理に畑違いの分野に就職なんかしないで、やらせてもらえる場所でやれそうなことの勉強に充てたい気もしているけれど、別口もあってそちらがどうなるか見えない状況もあって決められないこともまた、不安に拍車をかけているのかもしれない。これで高気温が続いたら完全に終わりだなあ。まあ6月に入ればちょっとは涼しくなるだろうけど、そのあとに本格的な夏が来る。その時に涼しい場所にこもれる環境を作っておかないと。どこになるんだろう。今は東京の西方面が可能性として高いかなあ。速く確定させたいなあ。

 早川書房より漫画やドラマ、映画で知られる「海猿」の原案を手がけた小森陽一さんによるSF作品「G−ジャイガンティス」が届いたのでさらりと読む。しばらく前から一部の世界で騒がれていたけれど、その後に一気に顕在化して世界各所に出現し、人も動物も植物も昆虫も食らい同化していく正体不明生物「IAS」が日本の対馬にも発生。島民たちを襲って追い詰めていく。いずれ対馬から溢れたIASが本土に上陸することは必至で、自衛隊でも準備を始めていた、そんな中に対馬からひとりどうにか逃げ出した少年が確保される。その彼にアメリカ国防高等研究計画局、通称ダーバの研究者で日本人の沙村輪が接触しようとする。

 過去にチリでIASに襲われ家族を奪われた沙村は、復讐の気持もあってIASの研究に勤しんでいた。そして見つけた方法を少年にも試そうとする。一方でIASが遂に福岡に現れ空港で人間を襲撃。巨大な怪物とは限らず小さな動物でも“汚染”されれば人間を同化させるだけの脅威になり得る存在に自衛隊は手こずる。銃でも倒せないIASに弱点は見えない。とはいえ戦わなければ人類は滅びる。決定打はないかというところで沙村が案を出し、自衛隊員が出動し経験を活かして福岡に上陸したIASを倒し対馬奪還を目指した先、奇跡と悲劇が起こる。

 そして浮かぶ驚き。同化と適合の関係かと想像したくなるけれど、本文の末尾には「終」の結語があってこれから続くとは限らない。そもそもISAとは何者で、どこから来て、何をしようとしているのか、ただのモンスターがすべてを同化し飲み込むだけとは思いづらいけれど、それだけのバケモノもいるからはっきりしたことは分からない。ただ、本文のラストに描かれた光景から、次のフェイズがあり得ることは分かった。その果てにあるのはいったい何なのか、徹底的な対立からの殲滅か、それともコミュニケーションの始まりか。世界がひっくり返るような壮大な展開を期待したくなるし、逆に世界が滅び去って次代が現れる可能性も。期待して待とう。モンスター対自衛隊では鷲宮だいじんさん「東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ」(電撃文庫)と合わせ読むと良いかも。

 すでに日本eスポーツ連合(JeSU)というゲーム業界が中心となって立ち上げた団体があって、国体だとか日本サッカー協会だとかとがっちり組んで事業を行っているところに新しく登場した一般財団法人 日本e−sports促進協会なる団体が発表会を行ったとか。まったくもって予期していないところの登場だし、中心になっている人たちがゲーム業界とはあまり縁を持っていなさそうに見えるし何よりプレイヤーとの関係がどうなっているか分からなかったりするんだけれど、それでも中国の都市にあるeスポーツの団体なんかと協議をおこなったりしていて、世界ネットワークで活動していく旨を打ち出している。

 国際大会への日本人選手の推薦や派遣、国際大会の日本への誘致なんかを進めるそうだからそのあたり、JeSUの業務とガチ合いそうだけれども対立は旨はせずに協力をしていきたいといったことを話したらしい。受けてJeSUが何を考えているか、今は判然としないから分からないけれど、ただでさえいくつかの団体を束ねてようやく、オリンピックだとか世界選手権だとかいった国際的な場にeスポーツを送り込むための窓口として機能し始め、アジア競技会では金メダルの確保にも至ったJeSUだけにちょっと厄介な感じを覚えているんじゃないかとは想像できる。JeSUもまあメーカー主導で豪腕ではあるけれど、実績も出しているからあとは慣れ。そこに吹く新たな風はより良い環境の創出に繋がるか、それとも混乱を招くだけか。もう離れた取材の現場だけれど成り行きは見ていきたい。

 トランプ大統領が来日しているそうだけれども、ゴルフをやったり相撲を見たりと何か政治経済外交その他のことが動いているような気がしない。てのはまあ、新聞ラジオにテレビも含めてそうした情報の渦から離れて毎日転職サイトばかり眺めているせいかもしれないけれど、それで何か得られたこともないからちょっといい加減にしないと世間から遠く離れてしまいそう。一方でそうした世間から離れて何か問題が? ってのも置かれた境遇。いやいや将来の福祉だとか保障といった問題についてはちゃんと考えないといけないんだけれど、今必要としない情報に人はなかなか接しようとしないこともこの数カ月で分かってきた。そういう余裕がないことも。そんな国だからこそスルスルと、ヤバい制度がどんどんと通ってしまっていったのかもしれない。押さえつけて関心を遠のかせてそして都合の良い国に作り替える。誰が? それが見えないんだよなあ、為政者の趣味って訳でもなさそうだし。じゃあ誰が? ちょっと怖くなて来た。


【5月25日】 まったく訳が分からないというか。平成を治められた天皇陛下が退位して、新しい天皇陛下が即位されるにあたって行われた「退位礼正殿の儀」でもって安倍総理が「已みません」と書かれた言葉を読めず「いません」と読んだという話が伝わっているというか、中継を見ていてそう聞こえた人が大勢たっぷりいたりする状況であるにも関わらず、首相官邸が「国民代表の辞は、同日の閣議で決定されたものであり、安倍総理はそれに従って述べています」とツイートし、その上で「閣議決定された国民代表の辞の当該部分は、『・・(前略)・・。天皇皇后両陛下には、末永くお健やかであらせられますことを願って『や』みません』とひらがなです」と添えて読み間違えはなかったと主張し始めた。

 いやでもそう聞こえたんだからということがひとつあるし、閣議決定された当該部分がいくら「や」みませんであっても当日の、式典へと持ちこまれたペーパーも平仮名だったかどうなのか。そこがちょっと分からないし、よしんば平仮名で書かれていたとしても、実際に聞こえてくる言葉から何か違うぞと思った人もいる訳で、それを読み間違えととらえるか、滑舌の悪さととらえるかといった問題が浮上しそう。いずれにしてもここまで話が広まったのには、安倍総理なら読み間違えそうだという印象が根強くあるからで、そこを払拭しないといけないのに官邸からツイートでそんなことはないというだけなのが何かもの悲しい。

 浮世絵の横浜絵を見ておく必要があって関内にある神奈川県立歴史博物館で開かれている「ハマの原点大公開 横浜開港160年 横浜浮世絵」へ。今日が前期の終わりですべての展示が入れ替わるそうで、遅れたら見たかったものが見られなかったので行けて良かった。まあ半分は関内ホールでのi☆Risのライブを見るのが目的でもあったんだけれど。さて目的はといえば安藤広重というか歌川広重として知られた「東海道五十三次」の作者の弟子にあたる二代目広重と、その弟子で三代広重とは呼ばれながらも自信は頑なに二代広重を名乗った絵師の作品。この2人、共に「横浜絵」と呼ばれる横浜の浮世絵あるいは錦絵を、ほとんど同じ時代に描いている。

 初代広重が亡くなって、後を継いだのが重宣という名の弟子で、周囲に推されて初代の仕事を受け継ぎ娘も嫁にして順風満帆かと思いきや、確かに周囲も認めるくらいに絵の腕前は良いものの、生真面目なのか絵に華がなく、融通もあまりきかず凝るため彫り師や摺師からの評判もあまりよろしくない。当人は絵のタイプに合った彫り師を選びたいという、至極真面目な理由から彫り師を変えたかっただけなのに、長年の付き合いもある世界だけに反発も多かった。それでも貫こうとして生まれた軋轢がだんだんと周囲との距離を生んでいく。もらったおかやという初代の娘とも。

 何しろ歳がまだ幼く子供とすら言える歳での祝言では女房としての役割は果たせない。姑も口を出して来て家庭の方でも追い詰められるものの、それでもストイックに絵を描いていく中で当人にも焦りのようなものが生まれていく。そんな中で注文が増え始め、自身も興味をもったのが横浜絵と呼ばれるジャンル。開港して外国人の来訪者や居留者も増え外国風の建物も作られたその光景は、江戸の街並みや街道の風景とはまた違った魅力を二代広重に覚えさせたらしい。また描けば外国人が絵はがき感覚で求めていくから商売にもなって描き始めて、ろいろと評判もとるもののそれもつかの間、弟子の寅吉がおかやと懇ろになってそれを知った二代広重は名を返し、横浜へと流れそして寅吉が三代広重となって同じく横浜の絵を描き始める。

 そうやって始まった対決の頃がしっかりと見られた展示。一ノ関圭さんが「茶箱広重」で描いたエピソードに登場する。遊郭の岩亀楼の江戸的な浮世絵らしさに横浜らしいスポットが重なった作品から、海外の写真を元にして描いた二代広重の「亜墨利加振之図」「英吉利西龍道大港」もちゃんと並べられていた。なるほど巧いし日本では珍しいモチーフではあるけれど、写実であるとかいったものとは離れたポートレートになっている。絵画芸術としてはどうにもまずく、英吉利西龍道大港なんてイギリスなのに橋が和風の間借り橋で欄干には擬宝珠まであるからメチャクチャなんだけれど、それでもそれっぽさがあれば受ける時代であり環境。だから当人もそれで良いと描いたんだろう。

 そうやってだんだんと横浜絵で名を売っていたところに割って入った三代広重。当人は二代目を名乗るといっていたそうで、本来の二代目は立祥と号も変えていたから当時の記録なりには二代と立祥の名が落款なりで残っているんだろう。そうした事情は示さず普通に二代広重、三代広重として作品を並べる神奈川県立博物館の分かりやすさを追求した展示は、観客目線で勉強になりそう。そうやって並び立った二代目と三代目を比べると、広重と二代目との間にもあっただろう画力や想像力の差なんてものがやっぱりあったと言えそう。

 岩亀楼の絵だと二代広重の描く人物には美人画ならではの画風とフォルムが見えるけど、明治に入ってしばらくたった横浜錦絵の人物はもはや誰もがモブと化し、馬車とか馬といったモチーフも置けば画面が賑やかになるだろうといった判断からの書き足しっぽく、横浜っぽさを醸し出す記念の絵はがき的に求められそうだけれど当時の風俗を正確に写したものかというと違いそう。二代広重の場合はまだ正確性は求めつつ人物にも生身の感じがあるというか。初代広重との違いを誹られながらも自らの弟子の寅吉とはまた違う品位と才能を二代広重はちゃんと持った絵師だったことが見えてきた。それでいて初代に焦り寅吉に憤りつつ諦める心理が彼を、初代をも超える絵師と認めず自身でも認められなかったのかもしれない。

 二代広重が描いた「横浜本町海岸仏郎斯役館之全図」を、ほとんど同じ構図で横に引き延ばし、ワイドにした「横浜本業海岸通リ仏蘭西役館之図」を三代広重が描いて来ても、行き取らず弟子だから似た絵になるのは当然といった態度なのは信念はあっても貫く自信がなかったからか。そこで主張できていたら二代広重をこそ幕末の名浮世絵師として世に伝えたかもしれない。二代広重は44歳で死去し、その後に三代広重は横浜の名所を鉄道のような最先端のトレンドも含め描く絵師として活躍する。そんな三代目に仕事を奪われた立祥が代わりに描いたという茶箱の絵が、海を渡って欧州の好事家たちを喜ばせ、日本の浮世絵への関心を誘い評価を高めたというならあるいは、世界の窓を開いた存在として茶箱広重、すなわち立斎広重こそが世界に冠たるクールジャパンの立役者と言えるのかもしれない。

 2階1列ってどこかと思ったらサイドに張り出したテラスみたいな席でステージがめちゃ近くに来ていたホールでi☆Ris。そんなの見ている暇があるのかと言われれば暇だらけで見にいくことでしか時間が埋まらないのだけれど、見ている間もどうなるんだろうかといった不安が浮かんで地団駄踏みたくなるのをミニスカートからにょっきりのぞくメンバーの鍛えられて筋肉質の脚を見ることで押さえつけ、コールを叫ぶことで逆に気を紛らわせるのだった。

 すでに三郷でも見ているけれどもスロットの形式でランダムに選曲されるコーナーがあって今回は前回とも違っていたし初めてのもあったみたい。『漢』だっけ。そういった楽しみもあるし後半戦は「プリパラ」からの楽曲が増えて耳に馴染むしと時を過ぎるのも忘れてのめりこめた。短くて広がったスカートなのにしゃがんだり座ったりとなかなかおしゃまなi☆Risメンバー。1階の前の方とか視線が向かいがちにならないか心配。そんな席とか行ったことないから分からないけど。

 「Make’ it!」って確か三郷ではやらなかったよなあ、なんて記憶だけれど最近、昼に食べたものすら思い出せなくなっているのでちょっと分からない。脳細胞が死につつあるのか。それにしても良く動くし良く躍るし良く歌う。なおかつ全員ちゃんとアイドルしていてそして声優もしているという奇跡のようなユニットなんだけれど一般の歌番組とかで話題にならないのは何でだろう、そっち方面で一般性を取るよりファン層の多いところで固める路線で行くのかな。下手に知れ渡るとそのバリューを利用してあら探しをするメディアもいたりするし。残る中野サンプラザは2公演ともとってあるけどやっぱり行くんだろうなあ。家にいたって仕方が無いし。まあ不安は不安だけれど6月にもなれば動けば動くし止まれば決めなきゃいけないだろうし。それでしばらく様子を見ながら先を考えることにしよう。


【5月24日】 昨晩は上野で舞台挨拶のライブビューイングがついた「プロメア」を見てやっぱり堺雅人さんは堺雅人さんであって堺雅人さんでしかないんだけれど、同時にクレイでもあってそのままクレイを体現している感じがあって、つまりは堺雅人としての声を演技でクレイというキャラクターをも自分のものとしてそこに存在を感じさせているというか。そのメソッドは鬼太郎を演じても孫悟空でもやっぱり野沢雅子さんなんだけれどそれぞに役を体現している野沢雅子さんに通じるところがあるかもしれない。でも深井零はちょっと違ったかな。あの時代は堺雅人さんって今ほど強烈じゃなかったし。

 舞台挨拶では松山ケンイチさんが声優さんの素晴らしさを讃える一方で、佐倉綾音さんも松山さんや早乙女太一さん堺さんといった俳優陣の演技を讃えて自分たちも奮起したエピソードを紹介していた。お互いにエールを贈りあったりしていたところは何かと俳優の声優進出を厭う風潮に釘を刺した格好。個人的には演技が出来る俳優が演じておかしくないという立場だからどっちでも良いんだけれど。問題はだから話題作りのために話題性だけで引っ張ってこられるケースか。エージェント48人勢ぞろいとか。いったい誰得なんだろうねえ、いくらワイドショーで取りあげられたってお客さん、行かないよ。

 とはいえ仮にクレイを誰か声優さんが演じたら誰になるかは考えるところで、優しいところがあって途中で豹変して叫び供覧する演技ができるとなるとやっぱり神谷浩史さんかなあ、ってなったり。あの堂々とした体躯で神谷さんがマッチするかどうかは迷う部分もあるけど、そこは堺さんだって同じことだから、聞いているうちにそう見えて来るんだろう。ガロは小西克幸さんだとグレンラガンのカミナと一緒だからそれはちょっと。でもあり得る感じはしないでもないかな。リオは優男になっちゃいそう。早乙女さんは優男だけれど甘くないんだ。そこを出せる声優さんかあ、梶裕貴さんになっちゃうんだろうなあ。それもまたパターンだからここは松山ケンイチ×早乙女太一×堺雅人で正解。だから気にせず観に行こう。

 NHKの連続テレビ小説「おしん」で幼少期のおしんを演じていた小林綾子さんに向かって、「苦労したわねえ」と声をかえた人がいるとかいった話が伝えられているけれど、現実の小林綾子さんは子役として演じただけで、別に家で大根飯を食べてもいなければ寒い家で苦労もしていなくって、それでもやっぱりテレビで見た強烈な演技によって目の前の小林綾子さんを、おしんと重ねて見てしまいがちになるのも、気持としては分からないでもない。とはいえ、幼少期に苦労した人として小林綾子さんを招いて表彰したら、それはやっぱり違う話ってことになる。

 筋ジストロフィー症患者の日々と、介護と終末に関して書かれたノンフィクションを題材にした映画「こんな夜更けにバナナかよ」が公開されて話題になったりして、主役を演じた大泉洋さんの、役に合わせて体を絞って表情もしっかり合わせてきた演技ぶりには誰もが感嘆したけれど、物語自体は筋ジストロフィー症患者とその周囲が送った日々についてであって、そうした映画に感動した時にまず目を向けるべきは介護の大変さであり、難病を生きる人たちの素晴らしさ、そのものであって讃えるならば今なお病気と闘っている人たちと、その人を支えている人たち、ってことになる気がする。普通なら。

 だったら、安倍晋三総理が映画に感動して「こんな夜更けにバナナかよ」に出演していた大泉洋さんと高畑充希さんを招いて会食をし、そして一緒に写真まで撮ってみせたことはズレた行為なのかというと、気持としてはやっぱり目を向けるなら今まさに大変な患者やその周辺であって、迎えて讃えて世間の目をそちらに向けて欲しい気が強くする。一方で、例えば安倍総理が映画という芸術において、患者になりきり周囲になりきった俳優と女優の“演技”の素晴らしさに感じ入り、それを讃えようとしたというならそれはそれで映画であり、俳優への経緯であって間違ってはいない。

 いないけれどもそうやって感動する度に気に入った俳優やらタレントやらミュージシャンやらを呼んで讃えることを、一国の総理大臣がやって良いのかというとこれもまた。それがお墨付きになり、権威になるならやっぱり手控えるのが上に立つものの矜持ってことじゃないかなあ。つまりはやっぱりどこか妙。でも世間は騒がないところに今の讃えられ持ち上げられては触れられない世界になってしまったことが伺える。そのうち総理御用達のアイテムとか人物とか出てきたりするのかなあ。それが周囲のご尊宅によって皇室御用達を上回るブランドになっていくという。それもまら不思議な世界が来そうだなあ。

 初歩の数学をまるで忘れているようで、再就職支援ということで筆記試験の予備校みたいなものに参加してSPIテストを受けたけれども数学的な問題がまるで解けずに呻吟。順列とかの予想は出来るし速度と時間の計算だとかは分かるけれども組み合わせだとか進数だとかいった、予備知識が必要なものには手がつけられず二元方程式の解き方も忘れてしまってすぐに取りかかれなかった。ある程度読み込んでおけば対応可能なテストだけれど、いきなり行ったらこれは苦労しただろうなあ。というかそもそもそんな試験が来るかも微妙。出す書類出す書類が選考に通らず面談に至る機会なんてなく、従ってその後の試験だとかもきっと不要のまま、1年が過ぎていくんだろう。というか試験なんて不要な誘いにさっさと行けば良いだけなんだけれど、ひとつくらいはちゃんとした会社に通って自分の現在地を確認したいじゃないですか。書類の通過だけでも良いかなあ。それすら今は夢だから。つぶしの利かない商売だねえ、新聞記者って、年寄りの。

 どん底から這い上がろうとする話は今、何を見ても苦悩にしかならない境遇ではあるけれど、それでも苦境にあって頑張る姿を見ればやっぱり励まされる気がす。fuji&gumi gamesのゲームアプリ「誰ガ為のアルケミスト」でオープニングムービーを手伝っている河森正治さんが、原作がありながらもそれを映像化するという挙に初めてでた「劇場版 誰ガ為のアルケミスト」の完成披露プレミア上映会が開かれたので見物に.。4月の上旬でまだまだ完成にはほど遠かったらしい映像がちゃんと出来上がっては1本の筋の通った映画になっていた。

 もちろん前提として「誰ガ為のアルケミスト」の世界観は知る必要があるけれども、そのあたりは冒頭でとある戦闘が描かれ幻影士(ファントム)とよばれる召喚された英霊たちがいてそれを使役して戦う騎士とか魔法使いなんかもいたりする世界。けど暗黒龍が現れ闇の魔人が跋扈する世界となって滅亡に瀕することになり、世界を救える光のファントムを召喚しようとしたらなぜか現代の日本で女子高生をしていたカスミが招かれた。力も持たず戦った経験のない彼女は無能で必要の無い人間と見られて現実世界の延長のように自信を失い落ち込む。けれども村を闇の勢力が襲ってきたとき、カスミの力がちょっとだけ目覚めて闇を光に変えて撃退に成功する。やっぱり救世主? でも安定しないその力にすら頼ることしかできない世界で最後の反攻が始まるも、そこにかつてファントムとして友に戦った英雄たちが闇の存在として立ちふさがる。

 そのあたりは、ゲームで見慣れたキャラクターがちょっと違った役割で得てくるというお楽しみになっていそう。ゲームユーザはそれで楽しめ初見の人も正義の味方だったはずなのに闇に堕ちているギャップを味わえる。考えたなあ。そういう改変もオッケーってことで河森正治総監督は引きつけた。原作があってもそれを河森正治さなやる意味があるものにしたgumiのプロデューサーの判断は凄かった。そして正しかった。映画は闇も光も含めてともに大切な存在だといった大きな展開へと向かっていって、「誰ガ為のアルケミスト」の世界に新たなフェーズを加えた。これを受けてゲームも変わるか。そこに興味。

 ファンタジー世界にロボットが跋扈し板野サーカスめいた軌道での攻撃も見られてと河森正治総まくり。40年間に貯めてきたものをここでぶつけてくるとはなあ。まあオリジナルにそうやって集大成をぶちこむ訳にもいかないから、その意味での原作付きでのお蔵だしってことになったのかも。すべtを包み込んでとりまとめ引っ張り導くクライマックスに、石崎ひゅーいさんの歌い上げるような主題歌がぴったりマッチ。アフタートークでは石崎さんによる弾き語りもあってこれがまた盛り上がった。見て今度は映画の中でどれだけマッチしていたかを確かめたくなった。

 gumiのプロデューサーは本当は90分で2月公開の予定だったけれど、出来上がった脚本では120分くらいになっていて、それでは間に合わないけれど削ったら河森正治総監督の魂の作品にならないなら伸ばそう、そして公開も延期しようとなったらしい。良い判断。その結果として濃密でストーリー性があって感動も得られる映画が出来た。ファンムービーでもなくゲームアプリの解説ムービーでもない独自にひとつの映画作品。瀬戸際からの反攻があって泥濘からの飛翔があってもやもやとしている自分、流されている自分を立て直して前に進めというメッセージもある。聞いて自分もと思ったものの、それが出来ないからこそ今ももがいている訳で。6月14日の公開までには立ち直れるかなあ。立ち直りたいなあ。


【5月23日】 大英博物館で始まった漫画の展示会について、英国のガーディアン紙が展評を載せたそうで☆5つが最高で2つというからこれは酷評。いったいどんなだと読んでみたものの英語だからニュアンスはあまり伝わらず、それでも翻訳とか使いながら読んで行ったら井上雄彦の「バガボンド」と「スター・ウォーズ」がどうとか浮世絵に対して漫画がどうとかいった感じで、独自の文化としての漫画をどう捉えて感じて報じるかといった雰囲気にはなかった模様。読める人たちに言わせれば展示の文脈を捉えてないとも。

 期待したのが日本の漫画と日本の文化とのクロスオーバーなり源流からの進化であって、そうした比較があってこその展示ってことだとしたらそれは確かにアカデミズムではあるけれど、現状の文化としての漫画そのものをどう切り取ってどう評価するかといった視点に欠けている。シャーロック・ホームズのシリーズを日本でシェイクスピアから始まった文学だの産業革命が社会にもたらした変化だのと比較して紹介したって、探偵小説としての本質的な面白さは伝わらない。それをおなじ事? かどうかは分からないけれども、あまり良い展評ではなかったかも。だったら自分のめで観に行きたいけれど、それにはお金もなければ時間もなあ。お金も時間もある? 目減りする一方のお金をそこで掛けるわけには。次が決まれば良いんだけれど……。

 前に観たのが1999年1月23日で「1999年版 聖ミカエラ学園漂流記と銘打たれて大塚の萬スタジオで開催。主役となる美村亜維子を演じていたのは、月蝕歌劇団でしばらくトップを張ることになる一ノ瀬めぐみでさんで、準主役になる池田理佳はほな美りんさんが演じていた。聞くも懐かしい名前。そんなそんな一ノ瀬めぐみがさんが20年後の2019年5月22日から、Theater新宿スターフィールドで上演される「聖ミカエラ学園漂流記」で、日替わりとなる天草四郎役を1日だけど務めることになった。

 その同じ公演で、初日の5月22日と23に日は三坂知絵子が天草四郎を演じるとあって、いろいろと気持も沈みがちな中をやっぱり見に行かなくちゃと腰を上げ、「蒼穹のファフナー」を観た流れでかけつけ観たらクライマックスに登場した三坂天草が持ち味とも言えそうな高笑いと叫びを聞かせてくれた。巧いなあ。月蝕での初舞台は確か「少女革命ウテナ 魔界転生黙示録編〜麗人ニルヴァーナ来駕〜」だったから関わってこちらもちょちょうど20年。以来、様々な作品に出て来ただけあってしばらくぶりの月蝕でもしっかり溶け込み、すっかり若いキャストに変わっていた今の劇団を盛り上げていた。

 1999年版で一ノ瀬めぐみさんが演じた美村亜維子を今回、演じたのは月蝕歌劇団11代目トップ2代目代表という白永歩美さん。冒頭のとぼけた転校生としての姿からだんだんと本性を現し、やがて過去においての正体を見せた時は声も太く下がって凜々しさを感じさせた。よく絡む池田理佳役の永野希さんも姉妹のようなおかっぱ頭で悲劇へと至るヒロインを演じていた。この日のシスターを務めた里見瑤子さんは主役級の活躍ぶりで。出る場面も多ければセリフも多い上に、聖職者としての佇まいと、少女としての熱情を見せなくてはならない役を終止こなして場を去った。凜々しい軍人の狩野大介を演じた國崎馨は“暗黒の宝塚”にあってひとり宝塚から客演しに来たかのよう。格好いい男を見せてくれた。

 そんな役者たちによって、月蝕歌劇団の看板とも言える「聖ミカエラ学園」を、主宰の高取英を亡くして後、初めて公演することにどれだけの思いがあったのだろう。そして何を見て欲しかったのだろう。かなわないとは言え、高取英から感想を聞き来たかった。僕が1999年版を見た時の感想は、、「ミカエラ学園に来た転校生の美村亜維子がシスターやら同級生やらとの諍いを経てその正体を明かし、神殺しへと赴き歴史を変えてしまって幕を閉じる」といったもの。2019年版についても、おおむねそのとおりに進んでいった。

 太平洋戦争の時代があって現代があって、2つの時間を繋いで乙女3000人を宝塚ならぬ慰安婦として送り込んでは、皇国を勝利に導こうとする策略が巡らされているのを、不良で不逞な転校生の美村亜維子が引っかき回す、と見せておいてその実、亜維子の正体に仕掛けがあったり展開に奥行きがあったりして、すんなりとは企みを成就はさせない。シスターのも亜維子のも。その結果としての天草四郎の登場となる訳で、そして変わった世界線の上でしのはら実加が演じる、太平洋戦争のパートでひとりの軍人を思う女性、平岩由紀がある意味での平穏を得ることになる。

 1999年版の感想では、「援助交際が云々言われている時代にあって、貞淑さを求められる女子高生の叛乱がどれほどの意味を持つのかが個人的には謎」で、「女子高生たちは部分的にはドラッグをやったり、援助交際をやったりと現代を採り入れてはいても、全体では虐げられ抑圧されてそこからの脱出を目指す設定」の舞台が、その時点ですでに、解放されきっていた女性にどう観られたか、といった疑問を書いていた。今回の舞台は、ことさらに援助交際のようなタームをクローズアップはせず、飲酒や喫煙やドラッグも含めて、役割として少女が今なおそう印象づけられ、押しつけられているものへの反攻の記号として捉えていたような印象だった。

 抑圧と反攻、貞淑と淫乱、宝塚と戦争といった対比の構図の中で、揺さぶられて露わになる少女の本性というものを、むしろ感覚に多い男性に見せて、身を改めさせる舞台になっていたと言えるかもしれない。お前らの思い通りにはならないぜ、といったような。主宰の高取英さんが亡くなって、果たして劇団はどうなってしまうかという心配があった。残された戯曲はたくさなるし演出だって学んだ人も多くいる。出た人たちだって肌身に感じているだろうから、二代目代表の白永歩美さんを筆頭にして、それを受け継いでいけばきっと大丈夫だろう。次もまた定番ともいえる『新撰組in1944ナチス少年合唱団』。どうなるか。少なくとも心配はもうない。

 なるほど結局はオーディション番組の決勝で当たることになるのか、キャロル&チューズデイとアンジェラは。20万人とかが応募した一般からのオーディションでどうやってどんな感じにキャロル&チューズデイの2人が突破したのか、まるで分からないのが寂しかったけれどもそこはまあ、そうだったということで出てきた他の宴会芸とも一発芸とも伝統芸とも言えそうな面々の芸がちょっと面白かった。火星人とかいう人の歌はどこかクラウス・ノミを彷彿とさせてくれたなあ。お祖母さんの叫びとかおじさんのヨーデルとか。いつか出てきた撮影ロボットの歌はあれは受けたのか違うのか。腹話術はあれはあれで凄かった。お金がとれる芸だ。

 アンジェラは地方では歌わず特別枠での決勝進出。それは知られている話だろうから最初からどこかアウェイな肝心になるだろう。味方する審査員でもあるまいし。それとも審査員の評を固めるんだろうか、投資してもらった莫大なお金で。それで勝ってもアンジェラは喜ばないし、逆にキャロル&チューズデイの評判が高くなる。そういうベタな展開にはいかないと思うけど、オーディション登場自体がベタな展開だし。まあそれも含めて美しいドラマと理解。あとはだから奇跡の7分間の何が奇跡でその後にどうなったかだなあ。キャロル&チューズデイはまだ存在しているのか。チューズデイってすでに居場所、バレているのにどうして親戚は来ないんだろう。そこもまあ謎。本人は不安がっているけど楽しい毎日が埋めてくれるようで何より。こっちは動悸が続いて寝られないというのに。血管的にちょっと心配になって来た。医者に行くしかないかなあ。決めれば良いんだよ次を。それが簡単にはいかないから……ってまたマイナススパイラル。これがいけない。安静に。楽観を。


【5月22日】 ロンドンの大英博物館の萩尾望都さんとピカチュウが立ち並ぶ画像がTiwtterで流れて来て、日本の漫画でありアニメーションでありゲームでありキャラクターといった文化が英国の文化のある意味でど真ん中で紹介され、尊ばれる意味の大きさに足がすくむ。もちろん以前から浮世絵であるとかさまざまな日本の文化が紹介はされて来たんだろうけれど、そうした過去においてすでに一級の文化と認められているものではなく、今まさに最先端を突っ走っている新しい文化であっても、招いて展示して紹介する度量の大きさ、そして文化を見るまなざしの優しさに感じいる。

 日本でだって国立新美術館で新海誠さんや高畑勲さんの展覧会が開かれ、文化庁メディア芸術祭だって開かれているけれども、集客の見込める貸し画廊といった雰囲気の中での開催であって国立新美術館が積極的にキュレーションして作品を選び、展示を作ったという感じではない。文化庁メディア芸術祭に至っては、初台へと出されて又戻ってきたものの、今年は遠くお台場の地へと出されてしまう。きっともう戻って来ないだろうなあ。本来だったら木場の東京都現代美術館を使うべき展覧会のような気もするけれど、文化庁だし国の施設を使うようになってやっと国がと思ったら、流浪の展覧会と化してしまった。

 大英博物館の方はもうずいぶんと前に「ゴールデンカムイ」のアシリパさんを大きく掲げて日本のポップカルチャーを紹介するぞとぶち上げて、その下でもって確実に作品を集めてキュレーションも行い開催へとこぎ着けた。日本から萩尾望都さんが行けばピカチュウも行き関係者もこぞって参加してのオープニングを開催。展示の内容もきっと凝ったものになっているんだろう。その現場に行けないどころか記事すら書けない立場になってしまったけれど、遠くから成功してくれることを祈りたい。日本から大サブカル記者として派遣されリポートを書く身になっていたかったなあという後悔を噛みしめつつ。そんな展覧会の一助になるような資料整理の仕事をどうしようか、やっぱり引き受けようか。ちょっと足下がグラついてクスリが必要になって来た感じだし。

 新宿での営業が3月31日で終わってしまってあとは大阪で続いている施設と、全国に散らばったアクティビティを楽しむことになってしまたバンダイナムコアミューズメントのVR ZONEだけれど海外には着々と進出を果たしているようで、前に韓国の企業と提携して施設を送り出したのに続いて、今度はマカオの企業と定形をしてVRコンテンツをそこに独占的に供給していくことが決まったとか。その名も「VR ZONE MACAU」が2019年の秋に誕生。カジノのマカオにVRってのも面白い。もしかしたらVRカジノとか作ったりするのかな。

 提携先の企業はアミューズメントとかゲームの会社じゃなくって、マカオでカジノリゾート事業とかショッピングモール事業を手がけるどちらかといえば商業デベロッパー。そこが運営している施設を大規模改装して、中に「VR ZONE」を作るみたい。海外がこうしてどんどんと乗り出しているのに、日本の首都圏で恒久に近い施設がないのは寂しい限り。せめて2019年秋からのラグビーワールドカップとか、2020年夏の渡橋オリンピックで来日する観光客が、遊んで驚き海外に持ち帰りたいと思えるVRを提供出来る施設をまた、首都圏において欲しいけれど。場所は神宮球場の跡地とか、ってそれは別の用途に使用中か。それにそても備えるのが「高所恐怖SHOW」とか「急滑降体感機 スキーロデオ」といったノンIPなのは海外でIPが通じないからか、使えないからか。ドラゴンボールなんてマカオじゃ大受けすると思うけど。

 そうかもうXEBECじゃなくProduction.I.Gと出るのか冒頭に。というのはさておき、それまでのMCUを一本も観ないで「アベンジャーズ/エンドゲーム」をいきなり観に行った人間だから、それまでの「蒼窮のファフナー」をだいたいしか理解していなくても、そして直近の蒼穹のファフナー EXODUS」をまったく覚えていなくても、「蒼穹のファフナー THE BEYOND」をいきなり観に行って別に気にならないかというと、ならない訳はない。けれどもそこは新シリーズの最初の3話を上映するというイベント公開、XEBECの系譜を知ることも要だと思い見たらなるほどそういう展開でありましたか。

 何が起こっていないかを覚えていないのはちょっとしたファンでも同様で、そうしたファンにだんだんと物語の世界とキャラクターの関係性を知らせていくような展開になっているから、それにくっつきつつ想像を巡らせ状況だとか関係性を理解していくことは出来る。だいたいのところは。たぶん第四次蒼穹作戦後。転生したらしい皆城総士が連れ去られて3年後という島の暮らしは平和で総士は優しい父親と母親を持って友達もいて妹もいたりして、毎日を平凡に暮らしていたけどそこで抱く島の外に何があるのかという疑問。いやいやだって平和なら良いじゃんと家族は言うのに引っかかってラジオか無線機をいじっていたら声が飛び込んで来た。

 そして会って始まる変化、って展開は「蒼穹のファフナー」というシリーズが持っている構造の再話ではあるけれど、即座に激しい戦いが始まるというよりは理解を薦めた相互がどれだけ歩み寄りつつ対立するのか、なんて関心を抱かせる。あとすっかり信じ切っている総士が双方を理解した先にどんな役割を見せるかも。今はまだただ憤って暴れているだけだけれど、それもやがて醒めるはずだから。そこに来るのかな第三勢力的な存在か、ってのはEXODUSも観てないから適当に行っているだけだけれども前提をあるていど、ネットとか配信とかで埋めれば追いついて今度の「THE BEYOND」にも追いついていけるかも。追いつかずとも先にこっちを見てから遡っていけば良いんだ、ガルパンとかラブライブ!とかみたく。

 劇場ではかかっていても映画じゃないなんだからクオリティがどうかと思ったら戦闘シーンは迫力だし音響も凄まじくキャラクターも崩れないで最後までしっかり描かれる。そのキャラクターは平井久司さんのデザインで昔とあまり変わっていないというか、それでも今もしっかり通じるというか。区別が付きづらいとか言わない。総士の帰還までがだいたいのところで、ここからまた複雑な展開が始まるんだろうけれども落としどころはどこなのか。人類の全滅か敵フェストゥムの殲滅かそれとも。どういう形で公開していくか知らないけれど3話まで付き合ったなら観ていくしかないか。XEBECの流れを汲む作品でもあるし。


【5月21日】 「グランプリの鷹」で見たというよりは「赤きペガサス」の方で見た記憶の方が強いF1レーサーのニキ・ラウダが死去したとの報。1976年に大やけどをして瀕死の状態に陥りながらも6週間で復帰して、トップのポイントで富士スピードウェイでの日本グランプリを迎えたけれど、大雨の中を出走するのは無茶だと2周で降りてしまい、代わってポイントを詰めていたジョン・ハントがしかりとポイントを稼いで年間チャンピオンを奪ってしまった。もしも富士が快晴だったらニキ・ラウダも優勝はともかくポイントを稼いで年間チャンピオンになていたかもしれない。

 翌年はしっかり走って年間チャンピオンに輝き1984年にも3度めのチャンピオンとそれなりに活躍はしていたけれど、アイルトン・セナとか出てきた時代でアラン・プロストもいてネルソン・ピケとかナイジェル・マンセルも走っていたような時代ではやっぱりもう叶わなくなっていたんだろうか。1985年をもって引退したけどその年だってレースでアラン・プロストを抑えて優勝していたりするから、やっぱり最後まで力を温存しての引退だったのかも。フジテレビがF1を放送してくれなくなってすっかり縁遠くなって、誰が年間チャンピオンどころかどんなドライバーがいるあすら分からない状況。ここからまた昔のようなブームを作れるかは微妙だけれど、エコカーでそれも似たような形のばかりが走っている現在、F1が自動車メーカーのPRにならないとなると応援もせず放送もなくなって当然か。いつまで続くかなあ、F1。

 おお、Netflixで配信されたこともあって世界中に広まってはファンを増やしていたりする「アグレッシブ烈子」こと「Aggretsuko」のシーズン2が6月14日から配信スタートと発表。あの烈子がお見合いだなんて状況になって、ハイ田とかフェネ子とかゴリ部長とかワシ美なんかが絡んでいろいろとごった返しそう。お見合いとかって伝統がはたして外国の人に分かるんだろうか、という疑問ならそれはサラリーマン社会という日本に特有の状況を、しっかりと掴んで関係性も把握して、楽しんでいるんだから大丈夫だろう。というか外国人ほどそういう格差をシリアスに感じていたりするのかも。

 Netflixだからやっぱり一挙配信となるんだろう。シーズン1の配信から1年ちょっとで全12話だか13話を作り上げるとは、そしてその間に他の作品なんかもきっちり仕上げてくるとはさすがはラレコ監督、仕事が早い。絶対に面白いに違いないんだけれど、去年にシーズン1を見ていた時と自分の置かれた状況が激変していて、受け止められるかどうかが今は心配。サラリーマン社会のごちゃごちゃはサラリーマンという制度のセーフティネットの上に立った上でのごちゃごちゃだから、外に身を置いてみると実に平穏に見えてしまって、前ほど素直に見られない気が今はしている。1カ月後の配信開始までに落ち着ければ良いんだけれど、1カ月しかないとも言えるし。どうなっているかなあ自分。でも「アグレッシブ烈子」にはヒットして欲しい。ヒットするだろうけれど。日本以外で。

 池袋のシネマサンシャインが閉館となって、そして近所にできる高い高いビルに入っているグランドシネマサンシャインに移るとか。雑居ビルのそこかしこを使って平場にも近い構造の中で映画を見せていた、雰囲気としては昔が残っている映画館がこれでまたなくなって、傾斜がついた劇場で高いクオリティの映像と音響を楽しむ映画館へと代わるなら文句は何もないんだけれど、勢いを負うばかりにシネマサンシャインが持っていたプログラムの独特さ、あまり他ではかからないアニメーション映画とかがかかる状況も変わってしまったらちょっと寂しい。以前はあったテアトル池袋もなくなって、単館のマイナーな邦画とかアニメ映画とかがなくなってしまったし。そこはシネ・リーブルが頑張ってくれるかな。でもTOHOシネマズとかも出来たら映画館戦争になって潰れてしまったり。7月19日にグランドさんサインオープン以降にちょっと注目。

 相変わらずにストーリーの進みはゆっくりな「Fairy gone フェアリーゴーン」。人工妖精の甲冑が命令に逆らって動き出す事件が相次ぐものの、外で誰かが被せている描写はありながらも関係者はそれはありえないと信じて思いつかず原因不明のまま。工房の誰もがちょっと怪しいと浮かべる人物がいても、そこにたどり着くまでにはまだ行かない。一方で妖精の書の黒の4番とかいうものを手に入れた偉いさんの家にスウィーティーことビター・スウィートが尋ねてもけんもほほろだったのを、着飾ったマーリヤと眼鏡っ娘のクラーラを伴っていったら気が緩んだのか、妖精の書を持っていると言ってしまった彼女たちがドロテアと知ってちょっと大変そう。でもそこでいったんの終了で、戦闘にも行かず事件の犯人も見つからない。戦闘もなく真相のないけど、それでもストーリーが着実に進んでいる感じはあるから、見ていて飽きはしないんだよなあ。そこが十文字青の巧さなのか。シーズン2もあるそうなんでそっちに大きな展開はまかせて、まずは布石を置くのがシーズン1ってことなのかな。付き合っていこう。


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