縮刷版2019年5月中旬号


【5月20日】 「僕のヒーローアカデミア」では雄英高校の1年B組に所属する拳藤一佳の役だから、メインではなかなか登場せずどんな声か印象が薄いけれど、これが「ガールズ&パンツァー」でプラウダ高校に所属するニーナと知れば、ああ東北弁で喋るKV−2に乗った娘さんだと気付くあたりにキャラクターがどれだけ多くても、しっかりと印象を残す場面を作る「ガルパン」の巧みさであり優しさが感じられる。モブがいないっていうか。そんなニーナの役を演じた声優の小笠原早紀さんが舌がんで急用とのこと。声がお仕事の人にとっては厳しい病気だけれど、幸いにしてステージ1だったようで治療すれば回復もすると信じたい。最終章には出てるのかな。出てなくてもこれから出て欲しいな。

 ローマとか、ジャンヌ・ダルクといった歴史上の人物を取りあげてファンタジー小説を書いてきた高橋祐一さんの新作「千億亡国 死の螺旋にあらがえ黒騎士」(スニーカー文庫)はまったく架空の世界が舞台のファンタジー的シチュエーションなストーリー。とある青年の騎士がいて、戦場でまるで相手の動きを読むようにして戦っては強敵を倒して見方を救う。いったいなぜそんなことが出来るのか。それは何度もおなじ事を繰り返してきたから。とある王国が滅びる運命にあった時、そのラシードという若い騎士も戦場で死んでしまうけれど、なぜか目覚めてまだ攻められていない時から時を刻み始める。

 つまりはリセット。あるいはリターン。最初は意味が分からずすぐに殺されたりもしたけれど、だんだんと事情が見えてきてだったらと死なず滅びない道を探ろうといろいろなルートを試すもののやっぱり国は滅びて王女は殺され自身も死んでしまう。それでも終わらない繰り返し。まるで地獄のような日々だったけれど、その結果割といいところまでいったりする。だったらいつか、ってことで描かれたのが多分この作品のストーリー。王女さまを誘い出しては連れだし、国が滅びる可能性をまずは減じつつ先を読んで敵を攪乱。そして良いところまで進んでいく。

 でもやっぱり初ではないルートはどこかに帰結があると分かっている。それを乗りこえられるのか。そもそもどうして繰り返しが行われるのか。王国に伝わる秘宝が国を滅ぼさせまいとラシードを動かしているとも言えそう。だったらやっぱり滅びないルートが存在するのか、ってあたりも見えないけれど、そこを探りつつもうちょっと別の、そして画期的な方法によって繰り返しの運命を断つ道も浮かぶ。それでは終わってしまうのでは? でも割と良いところまで行って残り少しのピースをどう埋めるかくらい、自分の頭で考えたいよなあ。そんな気分を運眼も受け入れたのかどうなのか。それで進んだ果てにまた、示される陰謀めいたものはラシードたちにどんな苦難をもたらすのか。続くようなら読んで行きたい。でも続くかなあ、「復讐の聖女」とか続いてないしなあ。

 インタビュー仕事の前に見た映像は、コンテとも設定画とも背景ともつかないモノクロの線を並べてつないだだけで、それでもだいたいの展開は分かったものの、色とか動きについてははっきりしたところまでは掴めなかった。そしてようやく見た上映版となるだろう長編アニメーション映画「プロメア」は、キャラクターのデザインからプロダクトのデザインから背景のデザインからカラーリングから、何から何まで派手で斬新で尖っていながら、クールだとかスタイリッシュといった言葉で表されるうような、ツンケンとした感じのまるでない、熱くて柔らかくて抱きしめたくなるような雰囲気に満ちていた。抱きしめた途端に燃え出しそうだけれど。

 リミテッドと言ってしまうと定義にそぐわないかもしれないけれども、枚数をかけて動きをなめらかに見せながら繋ぐようなか感じではなく、時に大胆にデフォルメなんかも交えながら直線的というか幾何学的な動きをキャラクターもメカも見せていて、それらが展開にテンポというかリズムというか抑揚のようなものを浮かび上がらせ見ている人たちの心を引きつけ躍らせる。黄色に赤にオレンジに少しの緑が目立つようなカラーリングは目に優しいとは言いづらいけれど、輝度がとてつもなく高い感じでは無く眼に馴染む感じに塗られて燃えて温かい物語の雰囲気をそちらから常に醸し出している。

 そんな舞台の上で繰り広げられる物語は、火を燃やす衝動を持ったミュータント「バーニッシュ」が生まれて30年、共存は出来ず虐げられてもいたりする状況で、ミュータントに限らず火事が発生したらかけつけ消すバーニングレスキューという組織もあって、そのひとり、ガロ・ティモスという新人ながらも熱さでは誰にも負けない気持の持ち主を一方の主人公に置き、そしてバーニッシュにあってテロを起こすマッドバーニッシュを率いるリオ・フォーティアを一方の主人公に置きつつ2人の対立めいた軸をまずは立てる。

 そしてガロとリオとのメカアクションの凄まじい展開があって後、リオやバーニッシュたちの背景を知り事情を知ったガロとリオとの”共闘”めいたものが成り立った後は、都市を率いて人類の命運を握る司政官、クレイ・フォーサイトを一方の極においてガロとリオのチームによる一大バトルへと進んでいく。そのバトルもまた凄まじい上に、移住した惑星でのことを実に深く考えていたクレイの実直さも感じさせられて笑いながらも感動したけど、そうした展開のさらの奥にある、そもそもどうしてバーニッシュが地球に誕生したのかといった部分まで踏み込んでいった時、そこにとてつもないSF的なアイデアが見えて来る。よく考えたなあ。

 そこに至る以前に、差別されるミュータントという「スラン」をはじめとしたSFの伝統もあったりして、SF好きとして楽しんで味わえるアニメーション映画になっている。なおかつどんでん返しに近い設定も、ってところに中島かずきさんのSF好きが見えるのか、それともSF設定の人の趣味が繁栄されているのか。分からないけれどもそんな大仕掛けの中に、ミュータントを燃やそうとかいった突拍子もないアイデアも仕込まれていて、ともすれば残酷になりそうな描写を図案的でデフォルメされた画面がくるんで楽しくというと語弊があるけど悲惨さを感じさせない雰囲気で描いている。

 総じてだから明るくて楽しくて、しっかりとメッセージ性も味わえてSF的な醍醐味も楽しめる長編アニメーション映画。そんな作品を松山ケンイチさんであり早乙女太一さんといった演劇の世界で活躍する、そして中島かずきが座付き作家を務める劇団☆新感線を彷彿とさせる外連味にあふれ言い回しも独特なセリフであり、歌舞伎的大衆演劇的なセリフもあってクールでスタイリッシュに絵だけだと見えてしまう画面をホッとでベタなものへと変えてしまう。よくもこんなことを考えたなあ。というか元より「天元突破グレンラガン」に「キルラキル」から続いている手法なんだけれど、火消しという日本の伝統文化がモチーフとして混じったことで、より世俗性が乗った感じ。

 動きもめまぐるしく展開も敵が味方で見方が敵と入り交じりつつ、悪すらも含めて守り導く爽快さを感じさせてくれる希代の映画。同じ111分でもひたすら心を奪われ続ける「海獣の子供」とは違った、気楽に構えて大向こうでも心で入れながらサイレントな喝采を浴びせたくなる作品だ。っていうかこれ、応援上映やらなきゃ嘘でしょう。まとい持ち込みOKにして東京中の火消しが集まりまといを振り回したら楽しいだろうなあ。うるさいだろうけど。

 出してくる再就職先候補の弾幕が薄いんじゃないのと、辞めた会社があてがってくれた大手のキャリア支援サービスに尋ねたら、うちの仕事は再就職先をズラリと並べてさあ選んで下さいと紹介することだけじゃなく、履歴書や職務経歴書の書き方を指南すること、面接の受け答えをトレーニングすること、SPIとか適性試験の受け方を指導することも仕事なんだからと言われて、こりゃもうこちらのスキルにマッチしてなおかつ、採用してもらえそうな企業を紹介してくれるのは期待できそうもないと感じる月曜日。

 誘い文句として9割が1年以内に再就職していると言っても、そこの支援サービス経由は5割であとは別のルートだったり口コミだったり。つまりは他力も含めて9割なら、最初からそう言えば選ぶ時に考えただろう。こうなったらもう再就職支援サービスの利用などという選択肢は脇に置いて、ここでも上がっている個人的な伝手を通して頂いている話を検討するしかなさそう。そちらで半年なり1年の経験を積みつつ業界に伝手を広げた方が、後に繋がるかもしれない。繋がらないかもしれないけれど、その時はまた半年1年続けるというか、そんな感じでありますのでご厚情を頂いている皆様には今しばらくのご猶予を頂きつつ、ご検討させて欲しいと伏してお願い申し上げます。


【5月19日】 30年ほど自分の後なり横なりで1日中、テレビがついている状態だったのが、今はまったくテレビを見なくなっていて、世情のインプットが減ってしまっていることにふと気付く。どこの国で何が起こっていようと、経済的に大変なことになっていようと気がつかない。ソニーとマイクロソフトがクラウドゲームで提携した? そういやあ流れて来た情報を見た記憶。ファーウェイをアメリカが排除に動いている? それがどういう意味を持つのか考える頭が働かない。点でしか届かない情報を咀嚼して知識に変えようとする気力が起こらない。

 これまでは職場や記者クラブでずっと点いてるテレビから流れてくる雑多なニュースや情報を、どういう広がりを持つのか、どういう意味合いを持つのかと考える必要があって、新聞とかのサイトで確認してそこから他の情報を拾い追って見聞を広めていくといった流れがあった。今はそうした情報が自分にとってどんな意味があるかと思い、探求する意欲が生まれない。だから使っているSNSとかに流れてくる大きな話題しか眼に入らなくなって、そこからの広がりも生まれない。そこから新聞サイトに行くこともない。

 アニメであるとかゲームであるとか、自分いとって興味のあることと、そして大きな動きしか知ろうとしなくなり、他のことが分からなくなる。それがたぶん普通の人たちの情報へのアクセスの仕方なのだとしたら、なるほど情報が網羅されて即座に必要とはされない情報も載ってる新聞だとか雑誌だとかに、人の関心が向かうはずもない。かつてはそうした雑多な情報でも得られれば得だと考えていたアタマが、今はそうした無関係な情報に向かうことを損だと思うようになっているのかもしれない。新聞や総合誌が売れなくなる訳だ。やれやれ。

 法政大学イベント研究会によるエヴァンゲリオン関係のライセンスを扱っているグラウンドワークス、神村靖宏代表の講演の続き。面白かったのは「負ける勝負はしない」といった指摘で、それはエヴァンゲリオンが必要とされているか、それとも他の何かと同列なり下位なりに置かれているかといった状況を考えるってこと。例えばエヴァンゲリオンが使われるコラボレーションがあったとして、それをガンダムじゃなくヴァでやる理由が分からず、同じじ事をガンダムでやっても成り立つのなら避けるようにしているらしい。

 逆にエヴァンゲリオンだから面白くなるなら飛びつく。そういう企画をだからライセンスを求める側は考え持っていく事が重要になりそう。もっとも、1990年代むしろ積極的にガンダムでありウルトラのポジションをトレースするように商品展開をしていたそうで、神村さんの先代が先人に追いつけとばかりにプラモデルを出し、フィギュアもいっぱい出してガンダムやウルトラが得ているポジションまで広げ高めることに成功した。ただ現在は、そうした先人がいない場所を狙っているとか。それは例えばハローキティでありドラえもんといったもののトレースになる。

 なぜそこにキティがと言われるような展開を、エヴァでもしていくことで格好良くで可愛いエヴァというキャラクターでありブランドのイメージが作られていく。範囲も広くなり手に取る人も増えていく。オタクな会社のオタクな人が作り送り出したエヴァンゲリオンだけれど、今はもう違うところにいるんだなあ。そんなひとつの例がRADIO EVAって展開。クールでスタイリッシュなファッションブランド、というか最初はファッションに限ってない一種のブランド内ブランド的、あるいはプロジェクト的雰囲気があったけれど、今はキャラクターをそのまま使わない、文字だけとかイメージだけとかパターン化され意匠化されたデザインとかカラーリングだけとかを用いながらもエヴァンゲリオンらりさが漂うアイテムを出して受けている。

 あと「A.T.FIELD」っていうワークブランドまであって、安全靴からドライバーからプライヤーから工具箱から様々な工具にツールがエヴァンゲリオン的カラーリングとロゴをまとって登場している。キャラクターは宣伝パネルに出てはいるけどキャラクター商品ではないそれらが成り立つのも、エヴァンゲリオンロボットやキャラクターでのみ広めず、イメージとして認知させてきたからなんだろう。ガンダムでそれが成り立つか。ガンダムで新幹線のラッピングが可能かを考えた時、エヴァンゲリオンが持つ意匠性のライセンス化の価値が見えて来る。ハローキティだってキャラがなければ成立しないんだから。

 ゴジラvsエヴァンゲリオンについての話しもあって、ゴジラで徹底的に情報を出さない戦略に出ようとしてまあ、何かあったか分からないけど何かやらなきゃって話を言われて、だったらエヴァンゲリオン使っていいかと尋ねて良いよと言われて打ち出したものが、映画の前宣伝にもなったしエヴァンゲリオンの宣伝にもなった。それで東宝なりゴジラファンが納得したかは分からないけれど、結果としてゴジラもクールでスタイリッシュなエヴァンゲリオンと“同化”できたんだから良しってことなのかも。とまあ、そんな話を2時間ほど。今の僕には何の意味も持たないお話なので、ここにまとめてライセンスビジネスな人のお役に立つならどうぞ。

 家にいたって沈むだけなので、久々になでしこリーグでも見ようと調べたら、何でも男子の試合とのダブルヘッダーになっていて、男子の試合分の値段でしか見られないようになっていたけど、そこはやっぱりトップに肉薄する試合を繰り広げているジェフユナイテッド市原・千葉レディースを見ておきたいと、フクダ電子アリーナへと駆けつけ強豪INAC神戸レオネッサとの試合を以前はシーズンシートを買ってたSAバック自由席で見る。ややレオネッサより。だから応援も入り交じってはいたけれど、男子と違って分けないと喧嘩が起こるころがないのがなでしこリーグって奴だからそこは安心、一喜一憂する姿をお互いに見せる感じになっていた。

 試合の方も一進一退といったところで、お互いに攻めてはゴールを割れないまま行ったり来たりするきっ抗した試合。ジェフレディースは守備が良くて神戸になかなかゴールを割らせない。大滝麻未選手っていう、オリンピック・リヨンをはじめフランスのチームを渡り歩きつつ浦和レッドダイヤモンズレディースにもいた選手が今季から加わって、トップから中盤へと動いて試合を組み立てたりしていて前線にもまとまりがあって、これに船田麻友選手の堅守も重なりなかなかの仕上がりを見せていた。

 試合は残念にも引き分けだったけれど、ワールドカップに4人も代表を出すチーム相手に引き分けなら十分以上。そして順位もとりあえず5位ではあるけれど、3チームが同じ勝ち点で並んでいてそして首位と2位には勝ち点3差と1試合の勝利分。着いていけば首位にだって迫れそう。崩れれば引き離されるから、そこを注意しつつ堅守でもって挑んでいけば、期末には良いことありそう。男子はなあ、どうしてこんなに弱くなってしまったのか。選手が揃ってない訳じゃないんだけれど。そこはだから堅守を徹底するべきなのかもしれない。今季はもう諦めたけれど来季こそは。その時には自分も笑って試合を見られる身になっていたいなあ。


【5月18日】 はぐれ者たちが実は一芸に秀でた当千の戦士たちで、エリート集団からは普段は小ばかにされ、虐げられいながらも、気にせず飄々と任務をこなしていたらエリート集団がより強大な相手に見えて危地に陥り、そこに駆けつけあっさりと敵を片付け見方を勝利に導くといったシチュエーションが、過去にまったくなかった訳じゃないしむしろ定番にすらなっていたりするけれど、それでもやっぱり面白いのは自分はエリートにはなれなくても、何者かにはなれそうだって期待を身に感じさせてくれるから、なんだろうか。エリートで居続けた方が絶対に得ではあるって最近は、身に染みて感じていたりするんだけれど。

 「対魔導学園35試験小隊」の柳実冬貴さんによる新シリーズ「コール・オブ・メディック」(ファンタジア文庫)も、まさしくそんな構図を持ったストーリー。王国には「星」と呼ばれるある種の異能を持った存在が突出していては、責めてくる鋼国を相手に戦い守り退けてもいたけれど、時に強大なパワーを持った敵が現れ「星」ですらかなわない状況が来た時、普段から貴重にして重大戦力の「星」を守っている部隊とは別に、あらゆる犠牲をはらっても「星」だけは生還させる部隊があった。通称ガルガンチュア。そのメンバーは、魔導士としては高い地位にはなかったものの、そぞれに突出した力があった。

 治療の力だけはすごいレヴィとか、強烈なドラッグを生成できるフローラとか、物体をとてつもない重さにできるレディとか、どれだけの攻撃も跳ね返すメディックとか。ただそれだけでもそれらが組み合わさり、また最適な時に使われれば最強となり得るらしく、ガルガンチュアの面々は危地にあった少女で新米の「星」、リリスを戦場から助けて連れ帰る。守っていた部隊は全滅し、心痛めるリリスだったけれど、メディックたちの中にいて自分を取り戻し、まだだった「星」としてのお披露目会に臨んだところ、そこに鋼国が襲ってきた。

 そんな戦いが幾度となく繰り返されるいちに、メディックが持つとてつもない力と、その代償も分かって万能だけれど万能ではない厳しさが見えてくる。そして最高戦力の「七星」たちを温存して戦おうとする王国の戦略の厳しさも。そこまでやって生き残れるか危うい鋼国との戦いの向こうに平和はあるのか。「星」のなりそこねと良いながらも圧倒的な防御力を誇るメディックは救世主になっていくのか。リリスがガルガンチュアに入って戦力としてより兄弟になった星守部隊の活躍を、続くなら見ていこう。

 ライトノベルの作家リストにはない名前に、いったいどこの新人かと思ってよくよく考え、そうだよ「劇場版 空の境界 矛盾螺旋」だとか「魔女っこ姉妹のヨヨとネネ」を作ったアニメーション監督の平尾隆之さんだと気付く。そういえばライトノベルを書くだの書いたといった話が前から漂っていたっけ。そんな平尾監督のライトノベル「のけもの王子とバケモノ姫」(ファンタジア文庫)は、人間が分厚い壁に守られた場所に王国を築き、そして外にバケモノとみなされている異形のモール族が、お互いに分離されつつ対立してる世界が舞台になっている。

 そんな王国にあって第三王子のシュウが放逐されてしまう。理由は不治の病に罹ったから。何でも体から種がはき出されるようになって、それが10個にたどり着くと命が失われてしまうといったもの。すでに3個4個とはき出されては、もう先がないシュウは伝染させる可能性もある病気だからと追い出され、メイドだけれど強い少女を伴い壁の外に出て、列車で走っていたらモール族に襲撃された。その中にひとりというか1匹というか、顔立ちが人間によく似た“異端”のモール族がいた。

 名をミサキという彼女はモール族の王女だったけれど、シュウたちを襲ってそこから移動している途中、人間に拉致されその先でシュウたちとも合流。連れだって逃げ出してはモール族のクラス場所へと行く。メイドにとっては“蛮族”とも見なしたい相手だけれどシュウはそうは思わず違いに理解を深めていく。それはミサキがいわゆるネコミミの少女のようにしか見えなかったから? 完全に動物のような姿だったらそこに交流が生まれたか、ってあたりがちょっと見えないところに、結局は顔立ちなのかといった思いも浮かぶ

 けど、相手にとっては人間なんて極悪な種族。それでもシュウに理解を見せるところにむしろ、出自も容姿も関係ない交流を見るのが良いのかも知れない。そんな交流からそしてどうして人間とモール族が対立しているのか、分厚い壁まで作って閉じこもっている人間たちに未来はあるのか、そしてシュウが罹っている病気の招待と、その治療法はといった疑問に対する答えも示され、世界が変革へと向かって動き出す。

 全体に柔らかくて読みやすい文体と、そして引っ張っていくストーリーテリングに優れた作品。壁は壊され融和は進んだものの、その先にはまだいろいろと乗りこえていかなくてはいけない課題がありそう。そこにシュウとミサキはどう挑む? 完治はしないシュウの病にいつか来る終わりはある? 気にしつつ続きがあれば読んで行きたいけれど、それだと平尾監督の新作は見られないってことなのかな。「GOD EATER」が大変だった後にしばらく作ってないからなあ。「桜の温度」をだからパッケージで出して欲しいけれど、作った会社が大変だからそれもしばらく無いかなあ。

  眠れば不安も及ばない夢の中へと入り込めると思っていたら、そんな夢の中でまで状況への切迫感を煽ったり、在職していた時の気楽さを感じさせたりするようなシチュエーションが出て来て、早々に目覚めて焦りと不安が身を苛んで目を閉じられなくなる感じがしてきて、これが行き過ぎると不眠症になったりするのかもしれないと思うと、やっぱりどこでも居場所を見つけて入り込むなり通うなりした方が良いんじゃないかと思えてきた。とはいえどこでも良いとは言えず、1年なら1年で何か知識かスキルを得られるところに身を置いて、学びつつ次につなげたいところ。そんな場所があるかといえば、心当たりがわい訳ではなく、5月中に何も動かないようなら置いてとお願いをしてみようかどうしようか。1時間半かかったって好きそうな現場だし。

 辛いからといって家で寝てたって脂肪が増えていくだけなんで、法政大学イベント研究会がグラウンドワークスという会社でエヴァンゲリオン関係のライセンスを手がけている神村靖宏さんていう、古いSFやアニメの人だとGAINAXで見かけた人が出て来て喋る「『エヴァンゲリオン広報補完計画』〜アニメをビジネスに! 革新的なライセンス事業を語る〜」ってのを開催したんで四谷三丁目まで見物に行く。基本的には学生さん向けなようだったけれど、でも案外に年配の人もいてマーケティングとかやっていたり映画の自主制作をやっていたりする がいて、お仕事だとかの役に立てようと話を聞いていた。

 エヴァンゲリオン関係のライセンスはなかなか構造が独特で、今時の製作委員会方式みたいにリスクが分散しているのと同時に権利も分散していて中心が見えず幹事会社がいたとしてもその独断では進まない。原作付きなら作者と版元も混じってくるからさらに構造が複雑化する。エヴァンゲリオンの場合は権利がカラーに集約されててなおかつ庵野秀明監督が決定権者として存在が認識されていて、その長い知人として「自分の中の庵野」と言える神村さんという人がいて、ある程度の庵野監督の趣味嗜好を理解して独自の判断で薦めていけるところがある。製作委員会に回して原作者に尋ねて戻してといった手間はない。

 今時の権利も復雑でまったくの新作とは展開の方法も違ってくるけれど、それを踏まえて聞くならば、ライセンスを求めてくる相手ではなくライセンスを出す会社側として、作品のパワーアップになり作品認知の拡大につながるか、というのがひとつの判断の基底にありそう。「作品を好きになるためのツール」とも。そう考えるならそれを出すことで作品を嫌いになられるようなライセンスは違うってことになる。とはいえ、何でそれやるのと言われそうでも、公開前に宣伝費を確保しておきたい時とかはやったりもする。そこには企画ごとに“勝利条件”というのを想定しているという判断が神村さんたちにはあるみたい。

 認知を向上させる、イメージを高める、ブランド価値を向上させる、ファンや制作者にサービスする、収益を確保する、等々。そうした条件を勘案しながらライセンスの可否を判断することで、数だとか金額ではない納得を得られるということなんだろうなあ。あと池袋にあるエヴァンゲリオンストアの意味がなかなかで、そこがあるから1種類20枚のTシャツだって作って売れるようになっているとか。これをユニクロの規模でやったら入るお金は膨大だけれど大量のキャラクターの中に埋没する。数点が何十枚かでも印象が高められるならOKする。ミニマムギャランティーをとらず個々に許可できることも強みなんだろう。その意味でも独特。もっといろいろ聞いたけれども、この話の続きはまた明日。


【5月17日】 夢にまで責め立てられているようで夜、寝るのも億劫になってきたけど眠くなれば寝てしまうからあとは野となれ大和なでしこ。それでも目覚めてしまうと寝付かれないんで適当な時間に家を出てスターバックスだなんてノマドの巣窟に行く甲斐性もないんでドトールでもって朝のセットをがっつきながら、懸案だったAIとSFの関係を指摘するレビューの必要とされている残りの4作品を一気に仕上げる。大型連休中に5作品まで挙げたけれどもその後、気鬱も激しくなって自分に出来るかって自信もしぼんで手を付けられなくなていた。でも5月下旬までには仕上げなくてはいけないからやるしかない。そういった切迫感も少しは気鬱の原因になっていたかも。

 慣れていない仕事をするときはたいていそうで、評論だって自分には書けるだろうかと不安でいっぱい。資料を読んでもメモ書きをつくってもまとまらないけど、それでも仕上げなくては締め切りが過ぎてしまうからえいやっと書き上げてはどうでしたかとおずおずと差し出す。そしてオッケーが出てホッと胸をなで下ろしても次にまた来る新しい仕事に一喜一憂。あるいはフリーっておうのはそういう緊張と安心の繰り返しなのかもしれない。永遠な。なるほど血管も神経も参る訳だ。でもすべてが自分だからなあ。止められないのもよく分かる。果たしてつとまるか、別に行くか。思案のしどころかもしれない。

 まさか社長の人が実売部数を出してほら、こんなに売れてない作家の本を頑張って出してあげたのにまた売れなくて、それでも出してあげてなおかつ文庫にまでしてあげようと言ったのに、向こうは恩義を感じず出している本を批判しては文庫の出版を引き上げたってニュアンスでツイートをしたら、さすがに世間もこれはヤバいとなりそう。おまけに1度は引っ込めたツイートに、さらに情報を載せてツイートしたんだからもう本気。これには付き合いのある作家もない作家も、こぞってちょっとどうなのといった言葉を出して、社長の人に苦言を呈していた。

 さすがにヤバいとなったのか、2度も出しながらもやっぱり引っ込めた実売部数のツイートだけど、こんなに担当編集者は頑張っているんだというのを見せたかったという理由の提示も、かばうのは編集者なのかといった話に行っていて、言葉は悪いけれども“商品”として取り扱って食べさせてもらっている作家の戸惑いを、まずは解消すべきなんじゃないのといたった気分も漂う。可愛がっているそんな部下のひとりがまた、引き受けて矜持をかけて出すといった他者の編集者に祈ってるだけじゃダメだとツッコミをかけて、どこに祈ってるなんて言葉があるんだと言われ、態度が祈っているようなものだとこれもズレた理由を話していた。

 そこは両方の編集者の知り合いから窘められて矛先を治めたみたいで、今後もし2人の編集者ががっちり組んだら面白いことおできそうだけれど言葉を繰り出しても届かないなら態度で、サロンめいたリアルな空間で届ける努力をしようとすることに長けた編集者と、言葉の力をパッケージに凝縮させつつそれへの支持者を募って盛り上げていく編集者がガチで組んだ時、それが融合に向かうかで相当な変化が起こりそう。そういうところは双方にノリが良いから共同キャンペーンとかやったりしちゃったいるすかもなあ。問題はだから上に立つ人が、作家への嫌悪を募らせそれを引き受けた版元にも憎しみを向けかねないってあたりか。そこはビジネスに長けた人だけに、下からそうじゃないといった言葉でもあればまとまるかな。でも上から横から諫言が飛んだら分からないか。どうなることか。

 「スレイヤーズ」の神坂一さんに「ロードス島戦記」の水野良さんに「伝説の勇者の伝説」「終わりのセラフ」の鏡貴也さんがそろい踏みして背広姿で写っているから何事かって思うかというと、一緒に写っているのがKADOKAWAグループを率いる角川歴彦さんだからそりゃあ当然。そんな4人による対談がネットにアップされていて、富士見書房系のライトノベルの成り立ちといったものに触れることができた。勃興期の話とかそこのボードゲームの「ダンジョン&ドラゴン」が絡んで来るとかいった話は同時代的なものだから感覚として分かるけど、今の若い人たちにはきっと目新しく映ったんじゃなかろーか。

 あと水野良さんが「〈ライトノベル〉という言葉は、作家の立場からすると、電撃文庫が登場して以降のパラダイムを示すものだという気がするんですよ」という言葉が印象的で、この頃はまだライトノベルは主流じゃなくってヤングアダルトとかジュブナイルとかがきっ抗もしていたけれど、質としてのシフトがあってそれが今のライトノベルブームにつながっているというならやっぱり電撃文庫とそして上遠野浩平さんによる「ブギーポップは笑わない」と時雨沢恵一さん「キノの旅」の登場をもって電撃文庫でありライトノベルの時代が本格化した、っていう印象は正しい。こういうあたりは角川歴彦さんよりは佐藤辰男さんが渦中にいたから詳しいんだろうけれど、今はKADOKAWAの方ではないからなあ。呼べないか。どこかで電撃作家と佐藤さんとでライトノベル談義をして欲しいもの。誰もネクタイしてこなさそうだけど。

 あと水野さんがいわゆる「なろう系」についてポジティブにとらえているのも印象的。「もともと文芸には、同人誌からデビューするという流れがありました。それの拡大バージョンではないかと思うんです」と水野さん。「好きで書いているうちに人気が出てきて、デビューする……実はこの流れは、一番まっとうなものかもしれない」とも。とはいえ、そうした方面ばかりに気が向かいすぎて新人賞よりも手っ取り早く、そしてコストもかけずに新人を集めては出して次へと行けてしまうところに見いだされ鍛えられた果てに強くなる作家と作品が生まれづらい状況もある気がしないでもない。なろう系だったらブギーポップってデビューできたかな。そこは不明だけれどでも、選択肢は広い方がやっぱりいいから新人賞は続けてね。下読みを僕に回してとお。最近やってないなあ、下読み。

 何もないと意識が飛ぶんで用事でも入れようと前に気になっていたトンコハウスでの細田守監督のトークイベントを見たら売り切れに。ちょっとしまったけど「LUPIN THE VRD 峰不二子の嘘」の新作公開を前に小池健監督の「VRD」シリーズ第1作「LUPIN THE VRD 次元大介の墓標」のリバイバルが新宿バルト9であったんで見に行く。ほら無職だし。でも割と浅めの時間で満員近いのはそれだけ世間に無職が溢れているからか。違うって。ヤエル奥崎と次元大介の死闘、その間で仕込まれるルパンの策謀はやっぱり鮮やかで格好良く、そして締めの2人のやりとりもクール。これがルパンだって感じをファーストルパンのそれもおおすみ正秋さんを知る人には与えてくれるねえ。小池健監督もそこを意識しているようだし。あと峰不二子がどこまでもエロい。要員としてエロ役だけれどそれが「峰不二子の嘘」では主体性を見せて動くから、過去にない姿を拝ませてくれる。こんな峰不二子がいたのかって。だから「次元大介の墓標」を見てから行くと違いが分かって良いと思うよ。本当だよ。


【5月16日】 無職で昼間が暇なら行くのはやっぱり図書館だろうと移転してからもう20年は経った船橋中央図書館に入って貸し出しカードを作って物色したものの、読みたい本がなかったからやっぱりここは暇に飽かせて移動だと、こちらも東日本大震災後の耐震補強が及ばず移転となった船橋西図書館に入ってサリエーリについて書かれた本を借りて読む。仲良かったんだなモーツァルトとサリエーリ。それはまた別の話として、今時の図書館は借りるときもカウンターとか患わせずに仕込まれたチップで貸出を認証するみたい。台に置いてスキャンさせればはいオッケーで、出る時もガードにひっかからない。勝手に持ち出せば仕込まれたチップが反応するんだろう。現代だなあ。省力化も図れるし。

 あとはパソコンを使える席ってのがあって申し込めばそこでコンセントを指していろいろと書き物も出来そう。使える時間が限られているだろうからコワーキングのスペースとして選挙するのは無理そうだけれど、30分ちょっとくらいを充電しながらメモ書きにだったら使えそう。ただし平日だから空いてるんであって土日はきっと混んでるんだろう。毎日が休日な身には関係ない? だんだんとそれも苦痛になって来たなあ。夢にまで仕事しろ定職に就け攻撃が来て睡眠すら安心できる場所でなくなって来た。早く落ち着き処を決めないと。1年で構わないから三鷹に置いてもらおうかなあ。

 なんだ、いちごアニメーションって、って100万人がきっと思った押井守監督による新作アニメーション制作に関するプレスリリース。「スカイ・クロラ」からこっち、アニメーションと呼ばれるジャンルの映像からは身を退いて、実写ばかり撮ってきた押井守監督が、久々にアニメーションを制作するということで世間が騒然となったものの、その拠点がいつものプロダクションI.Gではなくって、設立されて間もない資本金が10万円のスタジオだったから驚いた。資金源はどこかの不動産屋かそれとも何かなのか。調べてはないけれども、アニメーションとはあまり縁のなさそうな資金が動いて押井守監督をバックアップするってことになったと想像はできる。誰だってお金があれば押井守監督の新作アニメーションを観たいから。

 ただ、アニメーションは役者がいてカメラがあって監督がいて助監督が何人かいれば撮れる実写とは違って,絵を描いてそれを何千枚何万枚と描いて動かすだけの人出が必要。コンピューターグラフィックスのアニメーションだってモデリングをしてモーションをつけて表情を変えて動きを細工してエフェクトをかけるスタッフがやっぱり相当数必要になる。作画にしても3DCGにしてもそれだけのスタッフを、まったく見知らぬいちごアニメーションが揃えて集めて押井守監督の手足として提供できるのか、っていったあがりがやっぱり謎めく。

 あくまでもプロデュースを行う会社で資金は提供するけど現場はアニメーション制作会社に置くって感じになるのかどうか。ただそうした下請けをプロダクションI.Gが受けるとは思えないからなあ、自分たちで権利を持ってハンドリングできる作品をいっぱい持ってこそのアニメーション会社だといった自負があるから。なのでやっぱり現場はこれから作ってそこで押井守監督の作品をしこしこと作るのかも知れない。2020年の公開なりはだからそれだけの作業を見越してのことか。あとはいったい何が出てくるか、だけれどすでに話に上がっていた夢枕獏さんの「キマイラ」ではないだろうなあ、あれはあくまで「映像化」って話だから。それともこれがスライドするのか? 本人でないと分からないか。

 ってことでご本人登場、はしたけれども基本はお姉さんの最上和子さんが原初舞踏を見せたドーム映像作品「HIRUKO」の上映に関するトークイベントに登壇した押井守監督に、質疑応答でもストレートにいちごアニメーションって何ですかってとてもじゃないけど聞けないし、どんなアニメを作るかってのも聞くに聞きづらい。終わりの挨拶でもこれからのご予定は、って定番の質問がなかったら、アニメーションについて何を考ているかはちょっと分からなかった。まあでも普段は聞けない押井監督のトークが聞けたから面白かったドーム映像「HIRUKO」のトークイベント。

 見たのは試写に続いて2回目だそうだけれど、感想として「打ちのめされた。ショックを受けている」となかなかの絶賛ぶり。人を誉めない印象があるだけにちょっと驚いた。「実を言うとかなり期待していなかった。舐めてかかってた。僕自身も最上の舞踏を撮ったことがあって、バレエや芸者の踊りは形があるけど形が無い。映像的に距離感が生まれてどうしても劣化する。見たようには再現できないと思っていた」。そう感じて至らし。それが、ドームにどんと魚が出て来てぎょっとしたという。

 「立体的に見えた。どうしてそう見えるのか考えた」。づやらドーム映像のフレームのなさ、映画でも絵画でもついて回るフレームの存在してないことが「窓から乗り出して見ている」ような感じを醸し出したらしい。「目の前で起こっている出来事を1対1で目撃している。映像だから再現はできるけど、それでも体験としての1回性がある」。そんなことを話してた。映画というものが、最初は魔術的だったものがエンターテインメントになってその魔術性を失っていく。そんな初源の魔術がドーム映像にはあったみたい。「自分の仕事を考える機会になった」。

 だったらいちごアニメーションではドーム映像をやるかというとそれは違うだろうけれど。これは押井監督から飯田将茂監督への質問で、途中、人がいっぱいでてきて木の枝を捧げる場面があって、あそこに違和感があったのでどういう意図かと尋ねて、飯田監督は死をそこで祭って終盤の最上和子さんの生と死を引き受けるような舞踏へと持っていこうとしたと説明。押井監督はそこで挟むよりも、「出来事としての映像の力が圧倒的に強い」からと、魚や魚男や舞踏にのみ絞った映像にした方が良かったかもといったことを伝えていた。物語性は失われるけど体験としての映像の色は増すかもしれない。

 あと、これはドーム映像だったからでもあり、他の映像にも言えることかもしれないけれども「ものを見るとは見ちゃだめってこと」だと押井監督。「1点に意識を集中させてはだめ」。ドームに投影された最上さんの舞踏の1点を見ても全体はつかめない。そこはだから体験として感じることが大事ってことなんだろう。「全体のリズムや空気感、時間と空間を共有する。空間に自分を馴染ませる」。テレビがあって絵画もあって人間はフレームに切り取られたシーンを観ることになれてしまった。それでしか外部の状況を見られないようになっているかもしれないけれど、それは「人生を規定する」。そうじゃない見方、あるいは感じ方をドーム映像はもたらしてくれるのかもしれない。いつかご自身でも試すかな。VRに言ってしまうかな。

 Yoshiki、ではないビジュアルと言動がぶっ飛んだミュージシャンの予測不能なパフォーマンスに振り回されながらもちょっとだけ、大規模フェスのステージに立ったキャロルとチューズデイの2人組。臆さずまっすぐに歌っていたことが評価されたか、楽曲自体も認められたかフェスに来ていた大物ミュージシャンたちから声をかけられ誉められるあたりもやっぱり“成り上がり”なストーリーの定番だけれど、そうした展開の合間合間にそれぞれのミュージシャンたちがしっかりと自分たちの音楽を聞かせてくれるから言葉にも説得力が出て、そしてストーリーにも重みが出る。歌がなんで英語になるかはまあそこはそれ、日本語吹き替えはせずとも分かるだろうって配慮だし、海外に持っていってもそのままセリフだけ吹き替えれば済むからコストもかからないって話かな。

 引きがなかったらとりあえず、大物たちに誉められてて次への可能性がふくらんだって展開の「キャロル&チューズデイ」。例の元子役が全然出てこなくって、キャロルとチューズデイが少しとはいえフェスのステージに立った話を耳にして発憤するかとうと、まだお互いの存在を知らなかったりするからそういう絡みはなさそう。あるいは歌っている2人を見て声を聞いてAI作曲家がそちらに靡き、投資家もお金をもっと出すと言い出して火が着くような展開があったりするのかな。それもまたパターンではあるけれど紆余曲折のサクセスストーリーとしては分かりやすい。とにかく奇跡の7日間に誰が参加し何が起こるのか。そこへと至る道程は着々と埋められている。あとはそこで起こされた奇跡とは何かってこと。星が滅びるのを2人が歌で止めたとか? 一気にSF味が増すなあ。それもありかも。どうだろう。


【5月15日】 持ち株会社のカドカワが参加にある出版社のKADOKAWAから事業を引き受けつつ名称もKADOKAWAに変えると発表。これまで出版社のKADOKAWA傘下にあった会社群は新生KADOKAWAにぶら下がる形となって、そこにドワンゴも並ぶ。持ち株会社のカドカワから孫会社だったのが子会社にはなってもその上に出版社のKADOKAWAが来る形には変わりが無く、KADOKAWAとドワンゴで並列だった状況はもはや復活しないといった状況が見えてきた。世紀の合併と呼ばれながらも吸収されたか売られてしまったワーナーとAOLの合併を思い出すなあ。

 ドワンゴと経営統合をした時は、ホールディングス的な会社だった角川グループホールディングスをKADOKAWA・DWANGOという名称に変えて下にKADOKAWAとドワンゴが並ぶ形にして対等ぶりを世に見せていた。時価総額だけならドワンゴの方が上だったんじゃなかったっけ。それだけ勢いがネットの側にあったんだけれど、すぐさま名称がカドカワと変わってそこにドワンゴがないって話題になった。いやいやドとワはドワンゴからですよっていた説明があっても、納得した人が果たしてどれだけいたか。その頃から今を見越していたって訳ではなくても、どこか統合の先に見えるものがあったんだろう。

 音楽なり映像の配信といったプラットフォームを持って世間に存在感を示していたドワンゴだったけれど、オリジナルで何かを生み出すというよりはそこに集まっている人たちからコンテンツを借りて盛り上げる手法を提供していただけ。やがてより広範囲からアクセス可能なプラットフォームが出て来たら、そっちへと移ってしまってプラットフォームは伽藍堂になってしまった。ユーザー・ジェネレイテッド・コンテンツとはつまりユーザーにおんぶにだっこの他力本願。そこで切り替え自前のコンテンツを提供するプラットフォームになっていければ良かったんだけれど、KADOKAWA側でそういう用意があったかどうか。お互いに歩み寄る姿が見られたかどうか。そんあ当りがすれ違ってシナジー効果が得られなかったように見受けられる。

 VTuberにシフトしたくてもVTuberだってアクセスが多いYouTubeに流れてなかなか来てくれない。簡単にできる仕組みを提供してもなかなか増えない状況で未だ利益が出ないまま、VTuber人気が廃れていったらこれは目も当てられない。そんな未来も見越したのかどうなのか。ドワンゴを傘下に入れて減価償却も行って、大きな損益を出しつつ一気に精算まで持っていった。あとはドワンゴが収益を生み出す体質になれるかどうかだけれど、それがかなわない時は売却ってこともありえるのかなあ、いつかのアスミック・エースみたいに。

 期待するとしたら本格化するだろうデジタル化のプラットフォームなり技術の収奪。はてなと組んでるカクヨムとは別に、ユーザーをまとめ人気作を送り出す仕組みを作れれば、どうにか生き残っていけるんだけれど、元電撃さんがLINEで大々的に初めてしまったからなあ。そっちに乗り換えドワンゴは……。20年ほど前に人形町で初めて会った金髪兄さんの川上量生さんの最近までの栄光の、その未来やいかに。いったんの棚上げから返り咲いて当初の期待どおりの座に就くか。やっぱり元アニメックにして角川のエンターテインメント分野を象徴する井上伸一郎さんが頂点をつかみ取るのか。そんな興味を向けても多い世界のことだなあ、今の僕には。まずは自分の居場所をどこかに作らないと。

 津原泰水さんの書籍の文庫化をめぐって版元だったところが別の本に対する意見が受け入れがたいといって、営業が動いてくれなくなって文庫が出せなくなったといった話がだんだんと広がって、花村萬月さんだなんて大物が出て来て過去からのその版元へのけんかいなんかを綴っていたりして、ずいぶんと昔からいろいろあったんだなあと改めて考える。とはいえ一方でそこから良い本を出してもらった人たちも多く、頑張ってくれよと激励する声もあったりする。「鹿男あをによし」を出した万城目学さんなんかもそのひとりだし、日本SF作家クラブの理事をしている太田忠司さんもそれはそれとして自分は出すけどなんとかしてといった苦言は呈している。さらに広がればやっぱり代表の人としても言葉を発しなくちゃいけなくなるんだろうか、それとも今の旬の人を守っていくんだろうか。気になる。

 津原さんの本については早川書房が引き受けたみたいできっとハヤカワ文庫JAから登場することになるんだろう。すでに依頼していた解説だとかもそのままくっついてくるのかな。そうだとしたら結構な侠気。判断した編集者の人というか塩澤さんは、帯にこれが売れなければ編集者を辞めるとまで書くそうな。それが煽りではなく心底からの言葉だということは、これまでの態度なんかからも伺える。作品としても結構なものらしいから人気は出るし、騒動からの関心もあって評判は呼びそう。これで早川へと津原さんへのプレッシャー側の矛先が向いたところで、元からそうした方面とは付き合いの少ない版元だから影響も少なそう。逆に頼って移籍する作家も出たりするのかな。報道がどれくらい乗っかってくるかも含めて見ていこう。

 4年の命とはまた短いと見るべきか、それとも日進月歩なネットの世界では保った方だととらえるべきか。ポップカルチャーの情報を集めて配信してくれるDeNAのニュースアプリ「ハッカドール」が8月をもってサービス停止。経済ニュースに強いニューズピックスのオタク版とでも言えそうなコンテンツ特化型のアプリだから、ファンもきっと多かっただろうしキャラクターまで作られアニメにもなったりして、それ自体がコンテンツとして回り始めていたようにも思うけれど、そうした情報配信サービスをマネタイズする部分で行き詰まったのか、もっと別の理由か。ニュースの元を締められるってことはないだろうから、単体でのサービスがなかなか儲からないってことかなあ。広告を混ぜるとか課金するとかいったことが必要だった? そこは不明。DeNA自体の経営問題? そこも分からないけれど、でもやっぱり気になるその行き先。サービスごと売れば引き取るところも出そうだけれど。どうなることか。


【5月14日】 「アニメ界の秋元康」と言われて浮かぶのはやっぱりあかほりさとるさんで、1990年代に山ほどの原作を送り出しては小説にアニメーションにイベントにと八面六臂の大活躍。メディアに対する影響力もきっと絶大だったろうそのクリエイティブの広さをもって秋元康さんと比べておかしくはなかったと思うけど、現代においてそういった人がアニメ界にいるかというとプロデューサーでもクリエイターでも見当たらないのが実情。移ろいやすい趣味の世界で1人がずっと権勢を誇っていられるはずもない。そんな時代に文春あたりが「アニメ界の秋元康」だなんてキャッチフレーズを持ち出して来たから、いったい誰だと思って記事を読んで噴き出した。

 梶浦由記さんのことか? いやいや確かに作曲家でありコンポーザーとして人気アニメーションの楽曲を多く手がけ、Kalafinaというユニットのプロデュースも引き受けては来たけれどもそれだけと言えばそれだけで、常にメディアの中心になって楽曲のリリースが話題になる訳でもない。NHKの連続テレビ小説「花子とアン」の音楽を手がけた時だって、別に広く話題になった訳でもなく一部のメディアがとりあげて話題にし、そして1回だけのライブが東京国際フォーラムで開かれて終わり。その後もNHKに絶大な影響を及ぼしているってことはない。そういえば「歴史秘話ヒストリア」の楽曲って今、どうなっているんだろう。

 だからやっぱりアニメを知っている大勢は吹いたみたいだけれども、そんな記事でKalafinaの行く末が書かれていたことには興味も浮かぶ。Keikoが抜けてHikaruも抜けてしまって今、事務所に残っているのはWakanaが1人。それもいずれ合流したいっていうのが記事の趣旨ではあるけれど、騒動のあともひとり残ってソロライブを行いツアーも展開してCDやアルバムも出してとしっかりひとり、音楽活動を続けているところを見ると特段に困っているといった感じはない。Kalafinaの曲が歌えない訳でもなくてライブでは「空の境界」の楽曲なんかも歌ってた。だからすぐの合流はないだろう。いずれ合流して欲しいという気持はあるけれど。

 看板アーティストだったKalafinaが抜けて困っているといった話から、上坂すみれさんへの影響なんかも出ていたけれど、そんなに音楽部門って重要だったんだろうか。元々は女優とモデルの事務所に音楽と声優もくっついていた感じだったから、抜けて影響がどれだけかってのは図りにくい。あったとするならそれは残念で、原因を求めて欲しいものだけれど話に上がっていたプロデューサーの人は今はバンダイナムコグループでランティスと関わりがありそうな会社に所属。そこには梶浦由記さんも業務委託をしていてコンビが“復活”している。だからもう戻りそうもないならそっちはそっち、あっちはあっちでしばらく走っていくんだろう。それを見守るのがファンで、騒動なんか望んでないのに煽って騒ぐところが週刊誌の業ってことか。騒いでもらえるうちが華でもあるか。

 噂になっていた徳島県徳島市で開かれているマチ★アソビの立ち上げを担い運営の中心にもなっていたユーフォーテーブルの一件で、社長の人がマチ★アソビの実行委員会を退いたことが分かったそうで、秋からの開催がいったいどうなってしまうかがちょっと心配になって来た。会社の経営やイベントの運営にあたっていろいろあったことは承知しているけれど、一方で立ち上げの時からほとんど独力で出展者を募り頼んで掻き集め、徳島という地にそれまであまり縁のなかったアニメーションとかコミックといったポップカルチャーのイベントを作り上げた。徳島にはスタジオも開き映画館も開いて雇用と育成と紹介を行って来た。そうした貢献は貢献として認めたい。と同時にそれらが騒動からの撤退ですべてなくなってしまうのは勿体ない。

 大型連休のマチ★アソビでユーフォーテーブルが参加を辞退した影響がどれくらい出たかはちょっと分からない。ユーフォーテーブルシネマでのイベントとか上映はどうだったんだろう。関連の作品に関するイベントはあったんだろうか。既にブッキングが終わっていたなら遂行されたと思うけれども秋以降、それがゴソッと消えてしまうとマチ★アソビから核が消え求心力も失われて営利の感覚が入り込み、熱より功利のイベントへと移行してしまわないかと不安になる。すでに功利と化しているかは知らないけれど、そこから熱まで失われてしまったら全国から見に行こうとする気も削がれてしまいそう。いったいどうなるんだろう。続けたい意思はあっても1人に頼っていた影響は避けられそうにないからなあ。関心を持って見ていこう。その時までにこっちの状況が片付いていたら行きたいなあ。

 渡辺歩監督による、五十嵐大介さんの漫画原作を長編アニメーション映画にした「海獣の子供」がド作画アニメーション映画で驚いた。あのSTUDIO 4℃が手がけているんだから、「鉄コン筋クリート」なんかを手がけた森本晃司監督の映像だとか、映画やテレビアニメで展開された「ベルセルク」みたいに人物も含めて3DCGバリバリな映像かと思っていたらまるで違った。人物なんかは多分作画で、独特なタッチで描かれていながら超絶動くし表情も多彩。背景も江ノ島あたりの風景だとか南の方の島だとかがちゃんと隅々までしっかりと描かれていてい、どれも濃密で自分がそこにいる気になれた。

 「ホーホケキョ となりの山田くん」とか「かぐや姫の物語」で超絶作画をデジタルに乗っけて違和感なく見せた小西賢一さんが総作画監督で演出もやっていたからか、そうした作画や背景にCGIの海だとか魚だとかが混ざり合って、ハイブリッドな世界が作りあげられてていた。違和感なくぶつかり合いもしないで自然に見られるその世界は、あの独特な五十嵐大介さんのタッチをスクリーンの上に醸し出していた。ビジュアルとして凄い映画。そして深淵なお話にもちゃんと引きつけられるから最後まで目を離さず眠りもしないで見てられた。隅々までいろいろと描かれているから、見るなら前目で見て魚と街並みとキャラクターの表情を味わいたい。目の中に対面しているキャラクターが描き込まれているんだから驚きだよ。

 声もいわゆるプロの声優を起用しないで、芦田愛菜さんとか森崎ウィンさんといった女優さん俳優さんがキャスティングされているけれど、映像の中で自然に動いて表情も変えながら繰り広げられるキャラクターの演技にマッチして、111分という時間の中で一体化してこれもまったく違和感がなかった。20数分のインパクトを重視するテレビシリーズとは違って、長い時間が釘付けになる映画は見ているうちにだんだんと物語世界とキャラクターと声と音楽が一体化してくる。そこに俳優さんたちによるシチュエーションを意識した演技が溶け込んでいく。そうした映画ならではの特徴であり効能をにらんでアニメーション映画を作る監督さんたちは、いわゆる声優さんではなく俳優さん女優さんを起用しているのかも。とりあえず稲垣吾郎さんがナチュラルすぎて気付かなかったよ。富司純子さんは凄みがあったなあ。公開されたらまた行こう。それまでに自分の身が(以下略)。


【5月13日】 すでに1度、見てきてその際に図録もちゃんと手に入れた「シド・ミード展」では会期をまだ3分の2も残しながら図録が品切になってしまうという事態。この時代にシド・ミードなんてといった声もあってどれだけ入るか予想をしていなかったけれど、驚くことに1万7000人もの動員が開幕から2週間であって、入場待ちの行列もできる状況にもなって図録も売れに売れたみたい。だったらすぐに刷り増せばってことになるんだろうけれど、展覧会の図録ということで契約もしていて刷り部数なんかも決められているだろう状況では、会期中に増刷して出すってことは多分できないみたい。印刷所とか紙の問題というのではなく。

 そして普通だったら再版すらもあり得ないものだったのを、主催社が頑張ってくれたみたいで会期が終わってから、中身は同じではあっても新装版という形で、表紙も買えて違うものとして出すことになったとか。その会期も延びて6月2日まで延長というから、10連休でも来られなかった人がこれで行けるようになったんじゃなかろーか。図録の新装版は会期の終了後から通販という形での提供だそうだから、注文するタイミングも延びたし刊行も7月くらいになるとのこと。それでも今、シド・ミードが見られて図録も手に入るのなら、これはやっぱり喜ばしいと言っておこう。これで全国への巡回があればなお最高なんだけれど、それはやっぱり無理かなあ。

 「彩雲国物語」シリーズの雪乃紗衣さんが気がつくと出していた「エンド オブ スカイ」(講談社、1700円)がマジにまっすぐなSFだったけれど、果たしてSF方面に気付かれているかどうなのか。22XX年の世界はゲノム編集をしまくって、病気だの知性だのに影響するような遺伝子をすべて「正常」にした人たちが暮らすようになっていた。ゲノム編集が始まってもう3世代目くらいになっていて、病気もしなければ老いもそれほど見せない人たちが繁栄を謳歌していた。

 そんな時代の香港島に、まったくセンサーに引っかからない少年が現れ「幽霊少年」と呼ばれ始めた。そして、遺伝子工学の権威というヒナコ・神崎博士が、暮らしていた研究施設を抜け出してネオ香港へと舞いよい込んだ時、その「幽霊少年」と出会う。普通に暮らしている香港島の人たちが、食べればすぐにでも死んでしまいそうな“汚染”された海の魚も焼いて平気で食べる少年を調べると、まったく遺伝子の改変が見られないことが分かった。遡ってもそれは行われていないようだった。もはや世界にそんな人間など存在していないはず。だったら少年はどこから来た? どうして香港島に出現した? そんな謎がまずは浮かぶ。

 さらにもうひとつ、香港に限らず世界で発生し始めていた“霧の病”と呼ばれる、まったく正常に見えた人が突然に倒れて半日と保たずに死んでしまう現象が、急速に広がり始めていた。珍しい奇病だったものが、次々と発生するようになってあらゆる人たちを飲み込んでいく。その“霧の病”の原因をつきとめ、打開するための道筋に、ハルと名付けられた幽霊少年と、ヒナコ・神崎との交流が関連してし、世界の行く末に大きな役割を果たすことになる。

 人は人としての遺伝子を持って生まれ受け継ぎ人を繋いでいく。それが途中で遺伝子操作によって変えられても、それはやはり人なのかといった疑義がある。人が人として遺伝子を受け継ぎながら世界と適応してきたのなら、それはもはや切り離せないものではないのかといった見解もある。つまりは……。そんな科学が放つ表と裏の様相を突きつけられる物語。“霧の病”の真相から、人は科学を責めるかもしれないけれど、それでも必要だった時代はあたっち人もいた。それなら……。

 いろいろと投げかけられる問いに、科学を進化させる人類はこれから答えていかなくてはならない。この小説「エンド オブ スカイ」を手本にして。あと、まったく改変されなかったハルの遺伝子の謎であるとか、ヒナコ・神崎の出生とその身心への驚きであるとか、最後にいたっても驚かせてくれる部分が多々。本編が終わったあとのエピローグ的な掌編の中に描かれたそれらの答えは、本編から漂う頽廃と絶望の香りをとばしてある種の幸福感をもたらしてくれるだろう。読まなくても人類の滅亡への物語として楽しめるからそれはそれで。

 映画「シン・ゴジラの異世界モンスター襲来版とも言えそうな鷲宮だいじんさん「東京×異世界戦争 自衛隊、異界生物を迎撃せよ」 (電撃文庫)は、東京湾岸に開いた穴からファンタジー世界に蠢くようなモンスターたちが現代の東京に現れては押し寄せ起こる大騒動。人が襲われ喰われる中、政府は自衛隊に防衛出動を命じるか、米軍に災害支援を要請するかの外交的判断を迫られる。どちらを選ぶのが日本にとって正解か。迷う答えに若い防衛相の女性キャリアが道を示す。

 そんな外交的な問題と国内的な官僚の上昇志向と母親の情愛が入り交じる状況を盛り込んで、東京に異世界からモンスターが押し寄せたら何が起こるかを描いている点が、「シン・ゴジラ」と重なるところか。逆に最近割とあったりする、自衛隊のた銃火器や兵器が異世界のモンスターに通じるかと判断するミリタリー的な要素はあまりない。政治と社会を描こうとしている感じ。それは巻末に添えられた参考文献の膨大なリストからも分かる。ルビほどの小さいフォントで6ページに及び書き連ねられていて凄まじい分量。それだけの調査と確信の上に築かれた勇敢で子思いの自衛官と若くて真面目な防衛省の女性キャリアの交流というドラマを味わいたい。

 何が驚いたって「まず、400作近くの作品をプロ作家の皆様からご応募いただいたことを感謝いたします」と言われているように、プロの作家が行き場を失って悶々としていたことで、つまりはプロの作家が重複はしていたとしても数百人はいて、リデビューという企画に乗ったということはそれだけ“現役”として作品を書いては出し続けていく困難さがあるってことの現れなんだろう。講談社が実施した、プロの作家に限定して作品を募る新人賞に、結構な数の応募があってそこにプロデビューしていた作家も選ばれた。

 「放課後の帰宅部探偵 学校のジンクスと六色の謎」の如月新一さんで、デビューといっても小説投稿サイトを経てそれらが集うレーベルからのデビューだから決してメジャーな場所から出て来た訳ではない。それ1作で後が続かない可能性もあった中、プロはプロだといった自意識から書いて送って見事に受賞は、やっぱり実力があったってことなんだろう。確か「週刊少年ジャンプ」で募った小説の公募でも受賞していたし。だから勢いがあって当然。だったら他の人はと見たけど、即座にそれと気づける名前はない。ってことは超大御所の再デビューってのはなかったか? 別名義かもしれないし、調べてみないと分からないかなあ。

 それにしても、400人とか作品とかが応募されるって、それだけ元の居場所に行き詰まっているって現れでもあって、なるほど書いて人気になってもしばらくしたら書けなくなるか、書いたものが時代からズレていってしまうものなのかも。長いシリーズでもそれを修正していくことで時代といっしょに転がっていける人もいれば、ジャンルが違いすぎて修正が利かない人もいる。そうしたズレでもって漏れた作品が、場所を変えてら集まったのかもしれないけれど、そういった“発掘”される作品があったか、それともやっぱり今という時代にそぐう作品を選んだのか。選評とそして刊行される作品から想像してみよう。ともあれ如月新一さんにはお目出度うございますと言っておこう。「放課後の帰宅部探偵」をあちこちでプッシュした甲斐があったよ。


【5月12日】 せめてひとつくらいは遡らないといけないと、AmazonPrimeVideoでレンタルする形で「アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー」をつらつらと見る。ロキは分かったもののその前でサノスに蹂躙されていたアイパッチの短髪が、「エンドゲーム」で長髪にひげ面になるソーだったと気付くのにしばらくかかったのは、過去のMCUを見ていたいからなんだけれどそれでも分かればそれは良いのだ。「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」もしっかり1作目2作目を見ておけば、クイルとガモーラの関係なんかにもいろいろと思いを馳せるところもあっただろうなあ。

 あとちょっとでサノスのガントレットと外せそうな場面で、ガモーラのことで頭に血が上ったのを間抜けと誹らないためにも必要なことかも。「エンドゲーム」の終わりにクイルが浮かべる感傷の重さとかへの理解にも。他にもヌけているなあといった部分はパワーストーンの護持にこだわりすぎて、それを破壊しないままサノスに渡して宇宙の半分の生命を消滅させてしまったことだけれど、それもドクター・ストレンジがタイム・ストーンの確保こだわり、ヴィジョンというかワンダがマインド・ストーンの維持にこだわったことが後々どうなったか、って考えた時にどうして早くと思わないでもなかったりする。

 とはいえそれも「エンドゲーム」を見ることで、とてつもない可能性の中にたった1つの正解が存在し得たことが分かるから、それを見てきたドクター・ストレンジの判断として、あそこでサノスに譲るのがその道に至るために外せない行為だったのかもしれない。結果、ちょこちょこと失われはしても半分近くは取り戻せたから。それも残酷だけれど仕方が無いのかなあ。そこにもハッピーな解とか用意してあったりして。だからこそ自作「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が重要になってきそう。そっちへと誘導させる意味でも「エンドゲーム」が話題になったのは大きいかもしれない。「ガルパン」の最終章だって「これが本当のアンツィオ戦です」から入って遡って下って結果、見に行くわけだし。

 決まった訳ではないけれど、史学科上がりの人間にとってとても意義深いお仕事ではあって、興味を持たざるを得ないアニメーションのアーカイブについて書かれた「アニメーションアーカイブから見る資料を取り巻く権利とその問題点」というプロダクションI.Gでアーカイブ事業を手がける山川道子さんと金木利紀さんによる共著論文を福井健策さん監修、数藤雅彦さん責任編集による「デジタルアーカイブ・ベーシックス1 権利処理と方の実務」(勉誠出版)という専門書から読んでみる。

 興味深かったのは、ボツ企画に関する資料の扱いで、有名な監督であるとかアニメーターであるとかプロデューサーであるとかが参加しては語り合い、形作った企画はたとえ実現はしなくても、制作の過程と創作の過程をうかがわせる貴重な資料であって保管しておいて損はない。誰が権利を持っているかを判定しづらい孤児著作物になっていると同時に、未発表作品であるため、プロダクションI.Gでは会社の歴史であってスタッフの記録でもあるからと、保管する用意はしているらしい。とはいえ、外には出せない話も当然あって何が行われたかは口外できない秘密文書ってことになる。

 これが公文書なら一定期間が経てば公開せざるを得ないけど、民間では支障があるうちは公開は不可能。せいぜいが監督が自分のキャリアを振り返る際に、こういう企画に参加してここまで練り上げたんだといった“お蔵だし”をしたいと自分のPCから引っ張り出しては口外無用といってトークイベントなどで見せるくらい。そこに確実に過去から今へと繋がる企画の色があり、制作する側にとってもこの時にこうした傾向の作品に挑もうとしていた記録と言えて死蔵しミッシングリンクにしてしまうのはもったいない気もしないでもない。

 それがボツ企画の運命なのだと割り切ってしまうことも可能だけれど、可能なら支障を剥がして世に問いクリエイターの思考の過程に触れてもらいたいって思いもアーカイブ側にはあるだろう。そのために必要なのは法整備か、スポンサー側の理解か、クリエイターの納得か。ってことをひとつひとつ考えていくと、1年2年で終わる仕事ではないよなあ。プロダクションI.Gに限らずすべてのアニメーション会社にあって欲しい機能であり知識でもあるだけに、ここで道を探れるならという気もしないでもないけれど、いかんせん歳だしなあ。頑張って人づてを得て増えていくだろうアーカイブ施設の手伝いだとか、地元は愛知県の長久手に出来るジブリパークの管理人とかになれればラッキーなんだけれど。さてはて。

 ちょっと曖昧ながらもデザインフェスタが、パーツや素材の出展はダメだといって騒動になった件についてメッセージを出していて、昨今の混乱について謝罪めいたことを書いて来た。とはいえ具体的に何を当初は問題として、それについてどういう見解に至ったのかが書かれていない段階の声明は、余計に疑心を招いて批判めいたものを誘っている感じ。パーツといってもそれが単体でデザインであり表現であることは以前にも指摘したとおり。モールだって手作りのものを持ってきて、それを並べて単体の表現として見て見られないことはないし、ガレージキットだって組み立てる工程は必要であっても、そこへと至る道が示されているなら単体で立派に表現といえる。

 そうしたものをパーツや素材に含めてしまった言動が、批判を浴びたのが昨今の情勢、だったら大丈夫と言いたいんだろうけれど、純然たるパーツや素材、それこそ角材やネジ釘やレザーとの区別をつけられない状況でどう言おうか迷っている感じがある。だからそこは出展者の良識と良心に従ってってことになるんだけれど、某マンガ家のエロ同人誌NGというコメントに対して、表現の自由といった部分を感じつつ相手の心情も理解しつつお目こぼしの範囲であったり著作権による引用の範囲であったりを勘案しながらそろそろと進む技に挑まず、これはどうだと白黒つけて安心しないと進めないのと同様に、これは良くてこれはダメといった判断を付けづらいのかもしれない。まあお伺いを立てず自己判断で出したらダメだと言われる心配もあるから、事前に確認はしておきたいだろうなあ。しばらく尾を引く問題になりそう。どういう状況になっているか見に行くのが良いのかな。


【5月11日】 存在していない、自分で創造した神学者の意見を参考にした論文が優れたものだったのだとしたら、創造した人の論文が優れていることになるんじゃないのと思わないでもないけれど、論文というのは過去の研究なり言及への賛意なり否定が土台になるものでもあるなら自分の結論なり見解にそぐわない架空の神学者を創造しては、やっぱり拙いってことになる。これが文学なら架空の神学者のぶっとんだ意見を採り上げ敷衍して論文の形で世に問い惑わせるなんて事態もあって良かった。そうじゃないから怒られたし学園の院長を解雇もされた。ずっと指摘もされながら今まで来てしまったことに、権威のある人が出した論文を簡単には指弾できないって業界のしがらみめいたものも見えたりする。似たような話は他にもいっぱいあるのかも。

 やっぱり吾妻サラも只者ではなかった「さらざんまい」。さらったサラを久慈悠が閉じ込めようとしても、隙間からすると抜けて出て来てしまうその姿は妖怪変化かバケモノか。名前から考えるならサラで皿だから河童の類かもしれないけれど、そこは明かさずとりあえず不思議な存在ながらも世間には露見していないご当地アイドルとして、矢逆一稀たち3人とそれから河童のケッピあたりと絡んできそう。カッパ王国と関係があるならケッピはきっと正体とか知っているんだろうな。

 欲望の回収に失敗したみたいで河童から元に戻れなかったりする状況、そしてサラに一稀が化けていたことが弟の春河にバレてしまい、なおかつ2人が本当の意味での兄弟ではなかった家族状況も明らかになってと、いつもの事件が起こって警官たちが暗躍し、それを3人が解決してしまうパターンからズラしてきた感じ。そして進化して深化していくのはこうした連続アニメーションでは当然だけど、どこへと連れて行かれるのかが分からないのが幾原邦彦監督の作品が特異とするところ。結末すら見えないオリジナル展開だけに次に何が起こるかをまずは見極め、そしてどこへと進んでいくかと追っていくしかなさそう。録画失敗品用にHDDレコーダーを空けないと。

 以前は1週間でも劇場で上映してくれたから見に行くことも出来た「アニメミライ」だったけれど「あにめたまご」に変わってからは劇場での上映がアワードなんかの際の1回くらいになってしまい、テレビ放送も東京では地上波ではなかったりして上映に当たらないと見る機会がグッと減ってしまっていた。去年のあにめたまご2018なんてかろうじて、ネットで配信されたものをチラッとみたくらい。全部を見通す気力もなくって見逃したものもあったっけ。今回も24時間の限定配信があったものの見たのは2本、WIT STUDIOが手がけたウィーゴってロボットのフィギュアを取り入れた「ハローウィーゴ」と、それから宇宙を飛ぶ船のアテンダントが頑張る「斗え! スペースアテンダントアオイ」の2本。「ハローウィーゴ」はあれはたぶん3DCGだろうけれど、フォルムも動きも作画っぽさがちゃんとあって見ていてあまりに気にならなかった。

 内容としては、クラスの人気者の少年と、はぐれ者ではあっても幼馴染みに好かれている主人公少年の対立めいた軸があって、乗り切れない主人公の少年が途中で改心をして頑張るストーリーが手堅く描かれていた。ウィーゴ自体がそれこそベアブリックめいてひとつのシリーズとなっていて、それのPRのために作られたのかとも思ったけれども特に説明はないから、見た人は新しい人間が登場できるタイプのパワードスーツと思ったかも。それが地方の小学校にまで普及している世界って、どれだけのテクノロジーが世界を覆っているんだろう。ちょっと気になった。

 「斗え! スペースアテンダントアオイ」も3DCGで、こちらは「リッジレーサー」なんかのオープニングを確か手がけた由水圭さんが監督を務めていただけあって動きはなかなか。視線とか表情もちゃんと付けてあったから2Dのルックを思わせる3DCGのアニメーションとしてはまずまずの出来たったんじゃなかろうか。宇宙で歌が響くのかとか重力があるかどうかわからない場所でカンフーって使えるんだろうかとか、思うところはあってもそこは落ちこぼれアテンダントが持てる能力とコミュニケーション力で頑張る話だったから楽しく見ていられた。ここから15分ものでシリーズ化、なんて可能性があるかといえばそれはないかなあ。

 「あにめたまご」が若手アニメーターの育成事業として行われているとするならば、アニメーターはやっぱり作画の人にして総作画監督の下、そして監督も近くにいるなかで描いては指摘されて直しそして成長していくようなプロセスを体験して欲しい気がしないでもない。そうした層の不足が日本のアニメーションの将来を不安にさせているという名目があった訳だから。これだ3DCGのアニメーターの場合、原画を描いて直してもらうということはなく、モデリングをして動かして修正してく作業が中心となっていそう。そこに技能の継承があるとするなら、モーションであったり表情といった部分をどれだけ自然に、かつ楽しく描いて見せられるかって部分で旧来からの兄メータの力が必要となる。そこで技能が継承できているか、ってあたりが検証のポイントになるのかな。3Dと2D問題は今後も議論されそう。次も行われるならそこの部分での成長の軌跡を教えて欲しい。

 安全ネットを張りつつそれを1年かけて分厚くすることで将来につなげる可能性について考えつつ、それでもまだ下がってくるかもしれない糸を待ちつつ過ごす日々もやっぱり落ち着かないので、MCUの22本とかを1本も見たことない身で「アベンジャーズ/エンドゲーム」を見る、それも字幕で応援上映を見るとう無茶とTOHOシネマズ日本橋で体験。あまり騒がず声援が飛ぶくらいだったので映画にはしっかりのめり込めたし、ストーリーもおよその状況とだいたいのキャラクターを知っていれば、敗れてその後の再起から復活へと向けた物語だと分かって、その段取りをどうやってとっていくかを追えばいいだけなんで分かりやすかった。

 ヤサぐれているのや血気盛んなのや迷っているのや身を落としているのやいろいろ。でも最後はまとまってレッツゴーとなるところがマーベルヒーローだねえ。誰がどうなるって言うとまだ困る人もいそうだから言わないけれど、すべてが元通りのハッピーエンドって訳じゃあないんだ。それでもってサノスはやっぱり真っ当には倒せない相手ってことになるのかな、それじゃないと倒せないのかな、気になった。小さいのにアントマンがなかなかやるのとキャプテン・アメリカはやっぱりアメリカだけあって中心にいるんだなあという印象。何よりアイアンマンが大フィーチャーされているのが今のマーベルの傾向なのか、MCUという世界観でのことなのか。超能力者じゃないけど大金持ちならヒーローになれるというアメリカン・ドリームの体現者だから? そうしたことも含めてここから遡って調べていこう。


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