縮刷版2019年3月中旬号


【3月20日】 退社日がだんだんと迫って、そして来る無職の日々に相変わらずどうしようもない不安を覚えて明け方に目が覚める日々。それでも幾つか入っている仕事を黙々とこなしてその日を迎えることにするしか、今は気持を落ち着ける方法がないのだった。誰かが是非うちにスカウトしたいからと声をかけてくれるだけの実績を持っている訳でもなければ、やって来たことを並べて雇って欲しいと声をかけて回れるだけの甲斐性もない。だったらこれからの時間で何かを成して、そしてまだまだ続く5年10年20年の人生というやつを生き抜く基盤をここで作るしかないんだろう。何ができるか。何をしたいのか。もうちょっとしたら否応なしに考えなくちゃいけなくなるんだろう。それまでは眠れない毎日が続く。沈まないように気を強く持とう。持てないけど。

 氷川竜介さんでも称賛はせず否定もしないで、いろいろと考えてみたくなる結末だったんだなあと、新宿ピカデリーで開催された「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第7章 新星篇」のヤマトークで登壇した福井晴敏さんと氷川さんのトークを聞いて思ったり。前の「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」の一種特攻エンドもやっぱり称賛はできず、かといって否定も難しい中でどういうものだったのかを考えて考えて40年が経ってそして、登場した今回は「ヤマト2にはしない」という縛りを受けつつ全滅エンドも避けるという制約の中、出した答えについてそれがどういう意味を持つのかを、これから40年かけて検討していく楽しいが出来たってことらしい。

 今時のアニメはそうした感じに、3者3様の意見がでるような曖昧さは製作側によって否定され、明快な結論へとまとめられられてしまいがちだとか。その方が宣伝も広がるし大勢に届きやすい。でも、それで一瞬の盛り上がりで終わってしまっては作品として息が続かない。それで良いなら良いんだけれど、やっぱりもったいない気がする。幸いというか「宇宙戦艦ヤマト」なり「機動戦士ガンダム」といったタイトルは、さまざまな冒険や実験をしてもそれで観客がそれなりに付いてきてくれる。だからと挑んだ「新星篇」のあの結末を、僕は肯定的に感じたけれどそれでも浮かぶなぜ3人だけ、といった疑問やらガミラスのこれからやらを考えながら、しばらく過ごすことができそう。そうこうしているうちに続編が発表されたら驚くんだけれど。あるかなあ、この続き。

 他が気にしないでピエール瀧氏が出演している番組だって放送し、CDだって販売していれば、東映が映画の「麻雀放浪記2020」を予定どおりに上映すると会見を開いたところで、目立つこともなければ宣伝になることもなかった。当たり前に当たり前の行動をとったら目立ってしまうことの奇妙さを、ここはやっぱり理解しておく必要がありそう。とは言え、人に罪があったとしても作品に罪がないと果たして、綺麗に割り切れるものかどうかは迷うところであって、薬物依存という例えば低年齢層に対して示したくない罪ならば、そうした層に届く範囲での出演はやっぱり削るべきだと思っている。作品後の精査が必要だろう。

 その流れで言うなら、「麻雀放浪記2020」は子供が見るものではない。ならば出ても構わないといった意見も出て当然だし、そもそもが推定無罪原則の今、逮捕され起訴され裁判になっても被告であって罪人ではないのなら、そこは確定まで無罪として扱っても良いような気もする。暴行なり殺人なり詐欺なりのように明らかに被害者がいて、迷惑を被っているのだったら心情を鑑みて手控えるといった判断も必要だから、ケースごとに精査する必要はやっぱりあるんじゃなかろーか。それはそれとして「麻雀放浪記2020」って面白いの? どういう内容なの? モノクロで撮られた和田誠監督の「麻雀放浪記」のイメージが強いけど、こちらは2020年の近未来、新たな世界大戦の勃発で東京オリンピックが中止となった東京というSF的設定だけにフィクションとして見てみたい気がする。政治とかどうなっているんだろうなあ。

 iPadでだってゲームアプリをほとんど遊んでいなければ、テレビにつないであるプレイステーション3だって眠ったままだったりする状況で、Blu−rayディスクすら再生させずもっぱらネットのサブスクライブでアニメを見ていたりする昨今、新しいストリーミングのゲームプラットフォームが登場したところで、すぐに遊びたいとは思ったりしないんだけれど、プレイステーション4とかXbox Oneといったコンソールビジネスを展開している企業にとっては、そうしたハードの壁に左右されずにどこでも誰でも何でも遊べるゲームプラットフォームの登場は、今後に関わってくる問題だけにいろいろと気になっているだろー。Googleが送り出すというSTADIAは、果たしてどれだけの内容と実力を持っているのか。そこで何が遊べるか、ってのも肝心だけれどたいていのことは出来るんだろうなあ。

 それにしても、本当にゲーム市場というものが語りにくくなっている今日このごろ。20年前ならゲームセンターには業務用ゲーム機があり、家には家庭用ゲーム機があってそれぞれにタイトルが作られていて、あとはどのゲーム機がタイトルを集めて賑わっているかといったことで市場の勢力図を見当できた。携帯型ゲーム機もあったけれどこちらも任天堂のゲームボーイがトップであとはプレイステーションポータブルがあったかどうかといったところ。それが今では家庭用ゲーム機での争いに加えてPCがありストリーミングもあってHTML5のブラウザゲームもあってそして携帯向けのゲームアプリなんかもあったりして、誰がどこに出してどれだけ儲かっているからゲーム業界の牽引役だと指摘しづらい。ソニーと任天堂とマイクロソフトはどれくらいの位置にいる? EAやUBIはどんな感じ? 掴めないけどそれだけ新参でも入り込んでは活躍できる余地がまた、生まれているのかもしれない。インディーから大ヒット、なんてこともあるし。そのあたりをウォッチできると面白かったんだけどなあ。伝わない我が身がちょっと残念。

 単行本というか講談社BOXとして出ていた朝霧カフカさん「ギルドレ 世界最弱の救世主」をちゃんと読んではいたらしいけれど、改めて講談社タイガから出ていたのを読んで宇宙から襲ってきた「敵」とどうして少年は拳銃一丁で倒せたのか、そこでいろいろと選び取っている成功の未来がどいう条件で発動しているのか、あるいは誰かが発動させているのなら何のためなのかといった疑問はやっぱり残っていたようで、その辺りが解明されていく展開が気になって仕方が無い。講談社タイガではすぐに続きも出てくるみたいで、さらにその先もあるのなら読んで行きたい。「文豪ストレイドッグス」の人なのにSF、書けるんだなあ。ちょっと驚き。


【3月19日】 疑惑があって国外に出れば逮捕されるかもしれないトップをいつまでも、担ぎ上げていては行動にも支障が出ることにやっと気づいたってところだろーか。JOC日本オリンピック委員会の竹田恒和会長が辞任の意向を表明。即座ではなく6月というあたりに悠長さも見えるけれども改選時期とか理事会の開催とかがその辺りってことなのかも。公認は柔道の山下泰宏さんが有力だそうで、嘉納治五郎が「いだてん」で話題となっているこの時期に、嘉納以来の柔道出身のJOC会長というのも何かの運命なのかもしれない。まあ偶然だろうけれど。嘉納くらいのアグレッシブさを出せるのか否か。迫る東京オリンピック/パラリンピックに向けた言動に注目。

 TOHOシネマズが映画の料金を1800円から1900円に100円値上げだそうで、諸物価上昇の折りになかなか手厳しいとは思いつつ、人件費の高騰も理由に入っているならそれはそれで働いている人たちのアメニティにつながると思えば納得するしかなさそう。本当に給与が上がっているかは確認のしようがないんだけれど。とはいえTOHOシネマズはドルビーアトモスの料金を別に上乗せしたりしていて、映画を観るのに結構なお金が必要になる。シネマイレージデイは300円安いからその日に合わせつつ6回観たら1回無料のシネマイレージもしっかり含んで鑑賞プログラムを立てるのが良さそう。まあイオンシネマに行けばULTIRAだってドルビーアトモスだって通常料金で見られるんだけれど。幕張新都心をやっぱり贔屓にするべきかなあ。

 14歳で身長が160センチあってスレンダーではあってもやせっぽちではない少女がパツパツのジーンズ姿で登場しては立ったり歩いたりする姿を大きなスクリーンで目の当たりにできるだけでも眼福なのに、そんな少女が謎めいていて自称するところの宇宙人で死んでしまった少女とシンクロしてそこにいるだけでいつか戻ってしまうといって小学生の少年を戸惑わせるストーリーから、思春期における成長であり性徴の戸惑いを感じ取れる映画が公開されているなら見るしかない。西加奈子さんの原作を鶴岡慧子さんが監督して映画化した「まく子」だ。

 温泉宿が並ぶ集落に暮らす南雲慧ことサトシは浮気性の父親が苦手でそれでいて自分の体がだんだんと大人になっていくことにジリジリとしている。そんなサトシの両親がきりもりする宿に中居のとして働く母親とその娘が越してきた。その娘がコズエ。おなじ学年ながらも長身でそして美少女のコズエはサトシのクラスに転入してきて、そして学校ではサトシに近づいてくるもののサトシは恥ずかしいのか逃げ出そうとする。それでも追いかけ回されたりしながら交流を深めていくサトシは、コズエからいろいろと秘密を聞き、そして関心も抱くようになるけれどもコズエは誰とも仲良くするようなタイプで、特定の付き合いを深めてそれで誰かが嫉妬に燃えて虐めが起こるようなこともないまま日々が過ぎていく。

 やがて春になって祭りのために学校でクラスごとに神輿をつくって温泉宿を練り歩く。そして河原まで運んでそこで壊して燃やすのが恒例だったのに、サトシは壊さないでと急に言い出し大人を戸惑わせていたら、そこに家事の知らせが入ってサトシの宿が小火になる。消し止められたけれど誰がいったいやったのか。深まる謎はサトシの父親の浮気相手に向かうけれどもそうした原因ともなった浮気性の父親を受け入れられないでいたサトシが、朝ご飯に降りてきて父親がその場で握った大きなおにぎりを食べる場面でちょっとわだかまりもとけたのか。身持ちは崩していても父親らしさを見せようとするその場面、草薙剛がなかなか良い演技を見せている。

 やがてコズエとその母親から不思議な指令がとんで皆が集まるなかを2人はどこかへ。ってそれはSFなのか白日夢か何かなのか。続いて越してきた中居の母親と娘との関係が始まって終わる映画からは、思春期の自分自身への葛藤、女子への関心、親へのわだかまりなどが描かれ小学生だったことがある大人も小学生も引きつけそう。何よりやっぱりコズエを演じた新音さんが可愛らしすぎる。ジーンズ姿の脚のパツンパツンとしていてお尻は丸々としていてずっとだって眺めていたい。胸は薄くてふくらみもほとんど感じられず中性的なのにどこかエロい。ほかの小学生女子たちもそれぞれに生命感あふれた肢体を見せてくれる。今度は最前列に陣取って見上げるように見たいかなあ。つみきみほさん久々に見たなあ。

 何かと話題の脚本家が何かと興味を誘うシナリオの世界について書いたますもとたくやさん「きゃくほんかのセリフ!」(ガガガ文庫)が圧倒的にマジでそしてガチだった。書いた脚本がクソ化されてしまう恐怖とか、手柄が横取りされてしまう不安なんかを指摘しつつ、いろいろと自分を曲げつつ要望を叶えつつ、それでも媚びないでベストを送り出す脚本家の仕事ぶりが読める。鳴かず飛ばない脚本家の竹田雲太が脚本を書いたアニメをテレビで見たら書いた覚えのないシーンが登場した。いや、書いたり話したりしたかもしれないけれど状況が変えられ大げさになり辻褄も合わず脚本家に非難集中。それって自分の責任? 脚本家あるあるがまずは登場する。

 でも雲太は我慢する。なぜって人気声優も出ていたアニメは円盤になり二次利用があれば脚本家は潤うから。ところが出演声優に不祥事があって円盤は出ないことになり、再放送もなさそうで期待していた二次収入はパーに。それでも仕事はしなくてはいけないと、雲太の美人マネジャーの葛葉から持ちこまれた人気ラノベ原作アニメの劇場版の仕事に取り組もうとする。もっともその作品の制作プロデューサーは、かつて横暴な振る舞いを見せて雲太が訴えて引っ込んでもらい、いろいろと恨みを勝手そう。また当該の魔法少女アニメのテレビ版では、監督を蔑ろにして公衆の面前で殴られもした。主演声優はそれで降りてしまったものの、人気はあって劇場版が作られることになった。

 そして打ち合わせに行くと陰険Pや代理店のお調子者P、寡黙な監督に原作者絶対信奉の編集者が雁首を並べてアニメ映画化に向けてあれやこれや口を出す。変えるな、変えたい、変えるなら、スポンサーに配慮しろ、等々。それらを雲太はどう処理する? 悩む雲太の前に盟友だったものの死んだアニメ監督の妹が現れ叱咤に罵倒。それに煽られ頑張りあらゆる難題を、それでも自然に入れていく雲太。人気芸人を出す。被害者を変える。犯人を救う。無茶も承知と挑んでいく。そんなストーリーには脚本家あるあるあ満載。誰もがぶち当たった壁を蚊にてのたうちまわりそう。ますもとさん自信の葛藤も? それは今やっている作品にも? 想像はしたくなるけれど、どれと決めず一般化された状況から、諦めない脚本家の頑張りを感じるのが1番の読み方かも。

 マンガ大賞2019が発表になって篠原健太さん「彼方のアストラ」が受賞。9人の少年少女がいきなり宇宙空間へと放り出されて試練にさらされるという展開に、萩尾望都さんの「11人いる!」を思い出したけれども作者の篠原さんは確かに意識はしながらも、そのまま使わずもっと苛烈で過酷な運命を少年少女に与えた。より源流にあるのは藤子・F・不二雄さんのSF短編「宇宙船製造法」だそうで調べるとなるほど宇宙船を限りある資源から作って動かそうとする部分に重なりがある。ただ「彼方のアストラ」はもっと壮大でとてつもないフェイクもあって、その上で人類が行おうとした非道に少年少女が翻弄される展開がなかなかにもの悲しい。

 そんなにも人間は自分自身が可愛いのか。でも助け合って行きようとする少年少女もいる訳で、決してそうではないとも思える。授賞式では篠原さん、このマンガを週刊少年ジャンプの企画会議に挙げたら1発ボツの爆死を遂げたそうで、何でと驚いたけれども今にして思えば主人公が暗かったとか。それを直して媒体もウエブマガジンの週刊少年ジャンプ+に映して連載。「SKET DANCE」のようなメガヒットを持ちながらも描きたい作品のためには媒体だって変えるところに漫画家のクリエイティブへの飽くなき意欲が見える。今は次の作品を構想中だけれどどんな話しになるかなあ。一度考えながらもボツにした格闘物になるんだろうか。その前にアニメ化もあるから合わせて外伝執筆とか。「東の地平、西の永遠」に匹敵する。


【3月18日】 すでに2回、同じ劇場で見ているけれど、とてつもない化け物級の音響を作った岩浪美和音響監督の舞台挨拶があるってんで、幕張新都心にあるイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンにて「劇場版 幼女戦記 幼女の皮を被ったULTIRA(化け物)9.1ch」の上映を見る。やっぱり大迫力。いつもよりちょっと後ろ目で見たんだけれども渦巻く音が自分を戦場に立たせているように感じさせる。それでいて爆音で頭が痛くならないのはそのあたり、きっちりと整えているからなんだろう。確かそんな話もしていたっけ。

 舞台挨拶にはこの日が初登壇という角川だかの宣伝の人が司会に立ちつつ紹介くらいで、あとはもっぱら岩浪さんの引っ張りによって監督の上村泰さん、音響効果の小山恭正さん、そしてプロデューサーが喋ったといった感じ。総評ではやっぱりスクリーンサイズの大きさが好評だったみたいで、ビスタサイズのをしっかり横まで映しきるあたりは立川シネマシティよりも上々らしい。9.1chの音響環境で「劇場版 幼女戦記」を見るのは最高のシアターとも。そもそもスクリーンサイズが立川より大きいし。とはいえ爆音に関してはあちらもあちらで整えてきているから、そこは趣味で分かれるといったところか。

 舞台挨拶では、そんな爆発の音にこだわりがあって湿地帯だと水気のある爆発音を作って響かせるようにしたとか。あと冒頭に出てくる「マッドマックス」にインスパイアされたらしい砂漠のトカゲの足音は、どこか焦げているようにしたらしい。熱いからトカゲの脚だって焦げるよね、といった認識。本当に焦げるかは知らない。クライマックスでターニャとスーがど突き合ってる場面で音楽を入れなかったのは、2人の痛みを伝える必要があるからと岩浪音響監督。そしてテストでは血の飛ぶ音もつけたけと本番は減らしたとか。まるで血まみれだと映画館から出る時、全身がべったりしている感じになるからなあ。それくらいのリアルさを感じさせる音響。

 でも、本物をそのまま使うことはしていない。爆音だって銃声だって足音だって乗り物の音だって、すべてが加工して架空の音にしてあるんだと小山さん。だってアニメだもん、架空の世界を描いた作品でリアルを追求して、結果として合わなかったら意味が無い。そう聞こえる。それっぽく聞こえる。アニメの場合はそれが重要になってくる。あるいはアニメに限らず、映像作品において音響の意味は重要なのかもしれない。監督の上村さんは作画と音響が並び立ってのアニメーションだと話してた。突っ込んで岩浪さんが制作出身の監督だね、作画出身ではそうは言わないと。そりゃまあそうだ。作画こそが至上というクリエイター魂の持ち主たちだから。でも総合芸術たる映画は音響も音声もなくしては成り立たない。そこを分かって起用し、答えて調整してこういうイベントを仕立てて大勢の観客を集める。映画ってまだまだ工夫のしがいがあるし、すれば答えも出るってことを、教えてくれるイベントでした。

 「ハシビロ家族」のシュールな温かさとはまた違った雰囲気を持っている水島ライカさんの「シオンの庭」(駒草出版)は、植物が絡んで人に不思議を起こす病気を診る医師シオンにかかる患者たちの物語。林檎に触ると枝が飛び出す症状を持った少女が出てくるイントロダクションを経て、最初のエピソード「春〜共生〜」では植物人間なのか再生が効く妹と兄がいて、兄が土壌汚染を憎む宗教だかセミナーの会員になっていて、水耕栽培の植物しか食べないようになっていたり、妹が大事にしている植木鉢の植物を爆破したりして妹を戸惑わせる。

 そしてテロまで。起こる惨劇の中、 兄の兄であることの負担を妹が知り、そして妹の思いを兄が知って自分たちの道へと戻っていく。抜いた歯からIPS細胞よろしくいろいろな器官が発生し、一方で歯もまた生えてくるという不死身に近い兄妹の体ってやっぱり人工物なんだろうか。気になった。そして第2話は、体内に植物の影響があって熱が出る少年が海辺の診療所に療養に来て入院をして過ごしているうち、美人なんだけれど夜は顔を出さなくなる女性と出会う「夏〜真夏の夜の海〜」というエピソード。美人と出会ってお近づきになりたいけれど、病気の身では叶わないし美人がどうして顔を隠すのかを暴くのもはばかれる。それでも迫りたい思春期の少年の危うさが感じられる話。少年はどんな症状だった? それもお楽しみ。

 ほか、記憶をリセットされ続けながらずっと若い頃の姿で生き続けている少女の病の原因と、そんな少女に負い目を感じ続けてる青年の葛藤が描かれたエピソード、死んだ少女から心臓を移植された、裕福だけれどどこか我が儘な青年が見る幻影に驚きつつ勝手に心臓を移植されたと無茶な怒りを発しつつ、それでもだんだんと打ち解けていくエピソードが綴られる。植物が絡んだ病気を担当するシオオンってあまり名医という感じじゃなく、手術で凄い腕を見せる訳でもないけれど、患者の症状とその心理をちゃんと感じてサポートするって役回りとしては完璧。そうしたサポートを受けつつ、身に不思議な病を持った人たちが育む人間関係を楽しみたい。

 どれだけ諭されても、どれだけ説得をされてもアウシュビッツでユダヤ人の大量虐殺はなかったと世界に向けて公言してしまえるその神経は、もはや尋常ではない何かに絡め取られているとしか思えないだけに、良識と判断力を持つ周囲がしっかりと支えなければ暴走の果て、周囲を巻き込んで大爆発を起こしてしまうような気がする。世界規模で。今はスポンサーという大きな“武器”を持ってメディアの中に存在感を今は保てていたとしても、そうしたマネーに色があると見て例えば同じ番組なり、同じ局なりに広告を出している企業が一緒にされたくないと逃げ始めた時、テレビ局がどちらに傾くかとなればやっぱり真っ当な側だろう。いずれご遠慮を願われるようになるのではなかろーか。

 沖縄における無茶苦茶なルポを報じた番組をそのまま切ったのと同じ。そうなってなおメディアだったらネットで発信し続ける意味があるけれど、スポンサーとしてそこに提供したって見返りはない。むしろイメージは下がる一方。それでも構わないというのが主義ならそれまでってことかなあ。どちらに傾くか。それにしても報じるメディアも真っ向、その言動を否定するのではなくそういう意見もあるくらいの捉え方で報じては、世間にそうか理があるのかと思う人も出て来かねない。そうした人たちが改めて理不尽な言動をまき散らし始める前に、はっきりと否定をして潰しておくのがメディアの役割なのに。どちらのもいい顔をしようとしてメディア本来の“事実”を掘り起こす役割に及び腰になっている。旧来メディアこそそうなら、やっぱり変わるべき時なのかもしれない。

 内田裕也さんには会ったことはないけれど、ジョー山中さんには会って久々のフラワー・トラベリン・バンドに向けた意気込みを聞いたことがあったっけ。そのフラワー・トラベリン・バンドが日本を飛び出しカナダの地で大活躍をして日本のロックが世界に通用することを証明した立役者が内田裕也さん。ほかにも沢田研二さんを表舞台に引っ張り出したり、ロックは英語か日本語かで論争したりと音楽の方面でもちゃんと実績を残してきたけれど、世間の印象はシェケナベイベのおじいさんで樹木希林の分かれていない旦那さんで本木雅弘の舅といった立ち位置。訃報をきかっけに音楽の世界での実績がもっと知られると、先に逝ったジョー山中さんも嬉しがるんじゃないかなあ。合掌。


【3月17日】 ニュージーランドのクライストチャーチといえば2011年2月22日に大きな地震が発生して、185人もの方が亡くなった。日本からの留学生も多く居たようで28人が死亡。これはとてつもなく大変なことだったけれど、翌月の3月11日に起こった東日本大震災のあまりの衝撃が、ほんの少し前だったクライストチャーチでのカンタベリー地震の記憶をもしかしたら薄れさせているのかもしれない。そのクライストチャーチで今度はヘイトクライムによるテロが発生。モスクが狙われ銃撃されて49人が亡くなった。ニュージーランドでは最悪の銃乱射事件だという。

 想像の範囲でいうなら理由はやっぱり人種の問題であり宗教の問題なんだろう。クライストチャーチには地震で崩壊した後に日本の建築家、坂茂さんが得意の紙パイプなんかたを多用した紙の大聖堂を立てて宗教により所を求めたい人たちの心が向かう場所を作った。そうした施設ではなくパレスチナなどから移ってきたイスラムの人たちが、心のより所として作ったモスクが狙われそして、諸々の差別的言動が伝わってきているという状況は、ここに限らず世界各地で起こっている対立の一方からの攻撃と見るのが正しそう。その逆もあって世界は疑心暗鬼の中にある。

 ことイスラムに関して言うなら日本はまだそれほど激しい敵意が向かうことはないけれど、隣国に関して理由なき敵意を燃やして攻撃的な意識を向ける人たちがいたりするのも確か。あるいは身心に障がいを追った人たちに対する敵意もまたあったりして、それらが暴力となって噴出することもあったりする。単なるテロというよりもそうした理由を持ったヘイトクライムを起こさないようにするなら、やはり意識の中にある敵意を緩和し払拭していく必要があるんだけれど、果たして政治はそうした融和や対話へと持っていくのか。むしろ敵を集めてきれいさっぱり排除する方向へ向かいはしないか。この国にジワジワと広がる異文化なり異国民への反意が、クライストチャーチのような暴走を招かないと良いのだけれど。

 外を出歩くとお腹が空くので、イオンシネマ市川妙典で「君は月夜に光り輝く」を見終わったらそのまま船橋へと戻ってフレッシュネスバーガーで電源をとりつつ映画の感想などを執筆。そして近所のイトーヨーカ堂へと寄って夕飯でも買おうかと思い入ったら前は薬局とかが並んでいた一角がフードコートになっていた。前は地下の食料品売り場の隅っこに、焼きそばとか日本蕎麦とか売る店があった程度だったけれども今はリンガーハットが入りいきなりステーキも入ってと本格的。それだけに数百円で蕎麦をすすって夕飯替わりとは行かず、見送って地下で割引の総菜なんかを買い込み1日の糧とする。こんな暮らしがしばらく続くんだろうなあ。

 帰り際にヤマト運輸の営業所で注文してあったノートPCを受け取る。LenovoのX280で一応は米沢生産モデルだけれどもなぜか到着は船便だった。組み立ては米沢で行ってそしていったん外に出してからカスタム類の装着やら挿入を行っているんだろうか。単純にサイトが船便として輸送するように表示されるだけなんだろうか。ともあれWindows10は初めての使用になるのでこれまで使っていたメーラーだとかFFTPだとかが使えるかどうかが不明。日記を書いてアップしてメールを受け取って返信する環境をしばらくは頑張りながら作ろう。それまでは今のX201を併用かなあ。ブロードバンドが使える環境に持ちこんでデータのやりとりだけはしときたい。

 相変わらず寝られたり寝られなかったりと揺れ動く心理状態。だからそれなりの年収で5年は遊んで食えるんだと慰撫しても、その後どうするんだといった思いが募るという小心さはやっぱりちょっとやそっとじゃ崩れないものらしい。それでも気持を楽しくと「えんどろ〜!」。ゆきやまちほーで遭難をした4人組が夢の中でなりたいものとかやりたいこととか思案している状態で、ユーシャは勇者になって魔王を倒そうとしていてファイは釣りをして7色のシーラカンスをつり上げて食べまくり、メイはカルタードと結婚してカルタードの指輪をもらって幸せそうな中、セイラはひとり胸が大きくなりたいとか、部屋をきれいにしたいといった身近な悩みで悶々としている。そりゃあ大事だけれども他にないのかというと、お金が欲しい部屋をきれいにしたいという辺りは僕と共通なだけに心に響く。頑張れセイラ。僕も頑張って部屋をきれいに……なんてできないよ、もはや。参ったなあ。

 「聖戦士ダンバイン」のオーラバトラーは確かバイストンウェルに生息している強獣の外骨格だとか筋肉だとかろ利用しつつ、オーラ力(おーら・ちから)でもって操縦できるような装置がとりつけられ、コックピットも作られていたって記憶があるけど、安彦薫さんによる「骸龍興亡記 人食い龍と聖女の降臨」(電撃文庫、630円)はかつて大量発生してそして死んでいった龍の骸を再利用する形で人間がいろいろと装置を組み込み、操縦席を付けて操れるようにしたもの。似ていると言えば似てるし違うと言えば言えるけれどもともあれ、生体形のモビルスーツといったところだろーか。そんな龍骸甲なる兵器が生産されては各国に戦力として配備されているファンタジー世界が舞台。

 とある領国でドレッドという名の領主に使えていたリセルという少年だったけれど、領主とともにアレクサンドルという王に呼び出されて都へと向かう途中、そのアレクサンドルがなぜか出張ってきていてそして、天幕の中で巨大な龍に食われてしまう姿を目の当たりにする。その龍はアレクサンドルが使ってきた龍骸甲のひとつ。いったい何が起こったのか。その裏にはリセルの周辺でも起こっていた、龍骸甲の搭乗者が突然に狂乱する事態と関わりがあった。死んでいるようで骸になっているようで龍たちは死んではいなかった? そして人類を取り込んで反旗を翻そうとしている? 不明な部分はまだあるもののアレクサンドルという君主を失った世界は、4人いる姫たちの3人が後継を狙って動き出し、ドレッドをアレクサンドル殺害の謀反人と言いつのって攻撃を始める。

 そこに立ちふさがったのがリセル。その素性は……といった興味から、ずっと龍外甲に載ることを拒否していたリセルが迫る危機に逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだとばかりに立ち上がって立ち向かう展開がまずは第1巻のストーリー。姫たちが画策する後継争いに4女の巫女姫を引き連れ、それ以上に自分自身の出生の秘密から大きく絡んでいく中で、どういった戦いが繰り広げられるのか。モビルスーツなりオーラバトラーが大活躍して、それが諸刃の剣でもある世界が舞台の戦記ファンタジー。すべての龍骸甲が破壊された世界を滑るだけの力はあるのかそれとも。そんな世界は平穏無事でいられるのかどうか。結末を待ちたい。


【3月16日】 宝島社より拝領の丘野境界さん「異性禁止のパーティーを作ってみたけど、ウチのメンバーどこかおかしい ミルク多めのブラックコーヒー」をやっぱり不安から寝られずに起きた朝方に読了。元はサブタイトルの方でネットにアップされていた小説で、今も小説家になろうの方で書かれ直したものがずっと掲載されている。内容はといえば異世界転生ではなく俺TUEEEEでもない。そこ驚かない。ファンタジー調の世界が舞台で、勇者のパーティーめいたものが活動をしていてそのひとつに加わっていたシルバという男は、戦闘では前に立つことなく後衛として指揮をしたり回復の支援をしたりしてパーティを助けている。あと片付けとか情報収集とかも。

 ところが、サークラ的な女性メンバーから働いていないと避難され、仲間もそれに同調するそぶりを見せたことからやってられないとパーティーを抜けたシルバが、いっそそれならと女人禁制を歌い新パーティーを作る。集まって来たのは美形の用心棒に性別曖昧な小鬼に自称するところの動く鎧にやっぱり美形の吸血鬼と、本当に女人禁制なのか怪しいけど気にしない。気にしてはいけない。心棒も小鬼も強いし鎧は防御に長けているけど圧倒的ではなくシルバも魔法に長けてはいても最強じゃない。それでも情報を仕入れ作戦を立て臨機応変に指揮して向かい突破していく理知が読んでいてより強い悦びをくれる。面白い。続きはなろうで読めるけど、これは本で追っていこう。

 有楽町 にある映画館で、いつもハイブロウなプログラムを見せくれていた有楽町スバル座が2019年の10月で閉館とのこと。そもそもそこになんで映画館って今だと思われかねないロケーションで、どう見たってただのビルの中にあってスクリーン数は1つだけで、同じ場内にいくつもスクリーンがあるシネマコンプレックスが当たり前になった現在の状況では、施設の状態なんかも含めてそこで映画を見ようだなんて思ったりできないかもしれない。でも、スクリーンがあって座席があって映写機が備わっていればそこが映画館なんだと思えば立派以上に映画館。300席近い観客席もそこそこの規模感があって、都心にありながらも落ち着いた気分で映画にのめり込めた。

 大林宣彦監督の映画を上映することでも知られていて、最近だと「花筐 HANAGATAMI」って結構な長さを持った映画を見に行って、大林宣彦監督の今も元気な姿を目に焼き付けた。梶尾真治サンの小説が原作の「つばき、時翔び」なんかを撮るって話も出ている大林監督が、果たしてロードショーのメイン館として有楽町スバル座を使えるのかが目下の気になる点だけれど、そこは映画館が閉まってしまうからと、撮りあげて編集して映画に仕立て上げて最後の興行を飾るかもしれない。そうでなくても大林映画特集をやって欲しいなあ。最近の映画で見てないものも結構あるから。評判になった「この空の花 長岡花火物語」とか野のなななのか」とか。もちろん「時をかける少女」とか「ハウス」とかも期待しちゃうけど、有楽町スバル座って雰囲気じゃないからそれは無くても良いかな。

 もっとも、個人的な有楽町スバル座の思い出はといえばなかむらたかし監督の「パルムの樹」を観たことで、アニメーション映画なんか上映されるんだと今にして思えば謎だけれど、当時は今ほどシネコンも蔓延っていなかったんでどこで何が行われても不思議はなかった。「ガンドレス」の完成披露上映会が上野スタームービーで開かれたくらいだから。そんな「パルムの樹」を封切り初日、セル画がもらえるからと見に行って並んでセル画ももらったんだけれど、映画の方は圧倒的な画力に対して主人公の性格がなかなかに難ありで、見ていて結構キツかった記憶がある。

 とはいえそれ1度の鑑賞だったので、後になって観れば納得の性格だったのかもしれないし、やっぱり違うかもしれない。なかむらたかし監督は後に「寫眞館」という短編を撮り「ブブとブブリーナ」という楽しい短編も撮って作家性を見せてくれた。「ハーモニー」もマイケル・アリアス監督と共同とはいえ伊藤計劃映画3本の中では1番好きな部類に入る。だからもう1度、見返して今とのつながりを確認した方がいいかもしれない。DVDどこに行ったっけ。それよりセル画はどこに閉まったっけ。大家捜しをした方がいいかなあ。暇ならたっぷりある訳だし。

 ライトノベル読みなんでライトノベルが原作の映画はとりあえず観ておこうかとイオンシネマ市川妙典へと出かけて「君は月夜に光り輝く」。佐野徹夜さんの小説が原作だけれど、観て思ったのは絶叫したり、号泣したり、激走したり、葛藤したりする展開が、朗々と鳴り響く音楽の中で繰り広げられては男女の永遠の離別のような展開を描き、落涙せざるを得ない雰囲気に観客を陥れ、そして繰り返されるように劇場で、テレビで流された人気アーティストによる耳にこびりつくような楽曲をエンディングに流して感動ストーリーの一丁上がりといった具合に、映画を作って送り出す勢力が一方にあるとして、そうした勢力とは正反対の映画だったということ。

 叫ばず、騒がず、怒鳴らず、焦らせず、音楽も抑えて淡々と、静謐の中で少年が少女と出会い、じんわりと感じて関係を作り、深めていく中で人が人を失うこと、そして失われても続く人生のことを思わされる。見終わればそこに滲む涙。けれも決して強要されたものではない、不思議を感じる。舞台はとある高校で、クラスメートのはずなに登校してこない渡良瀬まみずという少女に寄せ書きを贈ることになって、クラスにあってもどこか淡々と、あるいは超然としてるように見える岡田卓也が届け役を務める。ノリで動くタイプではないのか、寄せ書きに最後まで書かなかったことで任された格好。そんな寄せ書きに早く病気が良くなってと書くところも実に淡泊で、そして残酷だ。

 なぜなら渡良瀬まみずは発光病という、その時代に存在していて未だ治療法が見つかっておらず、全員が10代のうちに亡くなってしまうことになっている病気に罹って入院してるからだ。不可逆ともいえる症状だと知っているはずなのに、良くなってと書く心に果たして心と呼べるものがあるのか。読んでまみずも卓也のことを薄情だと思ったかもしれない。卓也だってまみずに嫌われたからといって、何も感じなかったかもしれない。会って、寄せ書きを渡して、分かれてそれっきり。そんな関係だってあり得ただろう。小説も映画もそこで終わってしまうけれど。

 けれども、そうはならにように卓也の心情を誘い、まみずとの関係を続けさせようとする部分があったから物語は続いた。そこが巧い。死んでしまった姉の存在。自殺なのか事故なのか。いずれにしても突然に失われてしまった姉族の存在、そんな姉にこだわり続ける母親の存在が卓也の中にあって、遠からず失われるだろうまみずへのある種の同情、それとももっと薄い興味を卓也に抱かせたのかもしれない。結果、まみずがノートに書いた死ぬまでにやってみたいことを卓也が代わりにやり続けてはまみずに報告するようになる。自分でやらなくては意味が無いと、卓也が最初にまみずに行ったことは確かに常識的ではあるけれど、そうやって自分がいろいろとやってのけると面白がってくれるまみずを、もっと喜ばせてみたいといった思いに変わっていった感じ。姉の死からしばらく、置いて行かれ放り出されて漂っていたような卓也の人生に、必要とされる核が出来てそこにしがみつきたいと思ったのかもしれない。

 そうやって深まっていった関係が、双方にとって重荷となる可能性もないでもなかった。父親がどうして母親と離婚したのかを知りたいという思いを聞き入れた先、卓也が訳あって離れて暮らしている父親にまみずに会ってと説得に向かうのはともすれば出しゃばりに映る。まみずへの過度な同情が、自分よりもはるかに辛いだろう思いを日々、抱えて生きている父親を蔑ろにしてはいないかといった思いも浮かぶ。鬱陶しいと感じたくなる。そこで、北村匠海という役者が持つ淡々として静謐な雰囲気がものを言う。言っていることは強要に近くても、その静かな演技と口調が居丈高ではなく、媚びてもいないで必要なことを端的に必要なんだからと伝えることに成功している。

 受けて及川光博が演じている父親も、淡々と受け止め考えている様子。そこで口論となり激論が交わされ反目を倦むようなダイナミックな展開を、これまでの映画だったら想定しまうだろうにも関わらず、繰り広げられる理知の勝った会話の模様が見ている観客にストレスを与えない。喜びも悲しみもすべてが発光病には負担になるから、もう会ってくれるなと告げるまみずの母親に対して、憤らず食ってかからずに淡々と応じつつ、けれどもしっかりとやるべきことをやろうとする卓也の態度も、北村の演技があって成り立つものだと言える。元よりあった静謐で淡々とした展開にこれほどマッチした役者を揃えたことが、映画「君は月夜に光り輝く」を世に数多ある難病物の典型に陥らせず、評価のテンプレートに落とし込ませないで最後まで、フレッシュな気分で展開を追っていけるようにしたんじゃなかろーか。

 終わり近く、卓也の母親は卓也の姉を失った哀しみから立ち直って車を運転し、卓也を海へと連れて行く。エンディングではまみずの両親が共にある法要の場で、卓也は医大生として忙しい中を生きていこうとしている姿をのぞかせる。悲しみの淵に足を取られたままではいない姿は、最初に見せた無関心からの薄情とはまるで違う、しっかりと関心を残しつつ依存のような情を薄れさせた前向きなものだ。そこに浮かぶ涙には、離別への哀しみも皆無ではないけれど、生きていて、覚えていられる喜びも混じっているような気がする。だから見終わっても落ち込まないでいられる。スッキリとした気でいられる。「君は月夜に光り輝く」はそんな映画だ。見れば思うだろう。生きていこうと。生かされているこの世界を、自分の意思で生きていくのだと。


【3月15日】 おやおやおやおや。NHKはコカイン使用の容疑で逮捕されたピエール瀧氏が出演している大河ドラマの「いだてん」を中止にしないで放送するって話が流れたばかりなのに、同じピエール瀧氏出演の「あまちゃん」総集編の続きは放送しないと決定。そして「いだてん」についても再放送分は削ったりして調整して、以後は出演がしばらくないからそのまま放送、そして途中から代役を立てると言ったらしい。つまりは排除。他の放送局なり映画会社と対応は同じで人は人、役は役だなんて美しい対応はしてくれないみたい。残念。とはいえいかにもNHKらしい。だからこそ踏ん張って新しい基準を作って欲しかった。代役は誰になるんだろうなあ。やっぱり高木渉さんかなあ、顔出しOKな大河俳優でもあった訳だし。

 Kalafinaの解散についてプロデュースを行い全楽曲を手がけていた梶浦由記さんが、すでに同じ事務所でもなく離脱の際にいろいろとあったにも関わらず、コメントを出して宙ぶらりんだった状態が解消されてホッとしたと思いつつ、色々とやっぱり寂しそうな心情をのぞかせている。思惑としてはKeikoとHikaruが抜けてWakanaだけとなったKalafinaはひとまず封印とし、休止という形でとどめ置くんじゃないかと考えていたのかもしれないけれど、事務所から出された「解散」という強い言葉にやや驚きを感じた様子。とはいえ実質的に再起の見通しは立たないまま、何もアナウンスがないと抜けたKeikoやHikaruにだって未練が残る。ならばいった「解散」として、そこから再出発をまずは期するのが最良だと、梶浦さんも考えているんじゃなかろーか。

 ユニットとしてのKalafinaの欠片を引きずったままでは、KeikoだってHikaruだって新しい場所に参加しづらい。それこそ梶浦由記さんのFiction JunctionにKeikoが入ってHikaruも入るような状況が、事務所を離れた状態の梶浦さんではやりづらかったか独立してからのライブにKeikoは参加していない感じだったけれど、これでKalafinaに遠慮することなく混じって歌えるってことになるのかな、どうなんだろう。Fiction Junctionもまたライブをやるみたいなんで、行って確認したい。その前にWakanaの中野サンプラザでどれだけKalafinaの歌が歌われるかが気になるなあ。赤坂BRITZではそれなりに歌われていたけれど。ちょっとドキドキ。

 フジテレビにアニメラインナップ発表会で明らかにされた「PSYCHO−PASS サイコパス 3」の設定で新しく出てくる梶裕貴さんと中村悠一さんが声をあてるキャラクターが共に厚生省公安局刑事課一係の監視官だということが分かって、いよいよもって常守朱監視官と霜月美佳監視官の命運も尽きたかと不安になる。執行官は殉死が普通だしシビュラシステムに始末されてしまう執行官もいたりするし、監視官だって青柳璃彩のように色相を濁らせドミネーターに始末されてしまう者もいる。いくら濁りにくい体質だからってエリートだからって常守も霜月も人間ならどこかで踏み外してしまうかも。そしてチュドーン。あるいは執行官落ち? そんな刑事課一係に入ってきた若造監視官にどんなドラマが作れるんだろう。そこにひとつ不安がある。

 第1期では新米の常守朱監視官に狡噛慎也執行官とか征陸智己執行官といったベテランたちがついて物語の芯を作っていった。刑事ドラマとしての深みとか人情味というやつをそこから汲みつつ、若い常守監視官の空気を読まずに突っ走る姿を見せて時代の変革といったものを描いていたけど、今度のは若い2人が暴れ回るだけだったら、「あぶない刑事」以上に傍若無人なアクションだけで終わりそう。それとも常守朱が局長となって座って2人を操るか? そこに帰国した狡噛慎也が外務省のエージェントとして絡むのか。決して単独の作品ではない、シリーズの第3作目として作られる「PSYCHO−PASS サイコパス 3」がBLチックに2人の青年のアクションだけを見せて終わるはずがない。その意味で10月が待ち遠しい。どうなるのかなあ。

 漫画としてどうかと問われれば、いろいろと既視感もあってそれほど好きにはならなかった「空挺ドラゴンズ」だけれど、空を行く竜を狩っては喰らうというダイナミックな展開はアニメーションという場所に移って広大な空、巨大なドラゴン、それを狩るアクションといったものを映像によって見せることで、とてつもない魅力を発揮しそう。ジュウジュウと焼かれる竜の肉とかいったいどれほど美味そうに見えるんだろう。滑空して竜に迫るアクションはどれだけの爽快感を覚えさせてくれるんだろう。想像するほどにワクワクしてくる。監督が吉平“Tady”直弘さんという、「BLAME!」なんかで副監督もやっていた人が手がけてシリーズ構成と脚本を上江洲誠さんという、原作をアレンジさせてはナンバーワンの脚本家が担当するなら、きっと面白くって美しい空戦のドラマを見せてくれるんじゃなかろーか。2020年1月だっけ、放送を待ちたい。原作続きを読もうかな。マンガ大賞にもまた入ってくるかもしれないし。

 新聞社の看板はある意味で無敵だったりするので発表会とかイベントとか出入りも容易なんだけれど、それがなくなっていったいどこまで出没が可能かを想像した時に、自分から積極的に脚を運ぶしかないんだといった考えに至ったので今日も今日とて吉祥寺まで佐藤美代さんというアニメーション作家の個展「MIYOATURE」を見物に行く。にじ画廊という東急百貨店の真横にある雑貨屋さんの2階のギャラリーに並んでいるのは佐藤さんがガラスに砂とか絵の具で描いたペインティング作品が幾つか。アニメーションだと砂をはらって違う絵を描いて動かすし、オイルペインティングもだんだんと動かしていってそれを撮影して連続させるものをその瞬間、1枚の絵にだけ切り取った作品として世に問うというのは使う筋肉も違うんだろうか。ちょっと気になった。

 佐藤さんと言えば東京藝術大学大学院アニメーション専攻の修了作品「きつね憑き」が毎日映画コンクールにノミネートされたり、他にいろいろな映画祭で活躍したりと期待されているアニメーション作家。なおかつ商業作品でも「モブサイコ100」のエンディングとか、「ポプテピピック」の「ポプテピピック昔話」なんかを担当してアニメ好きの中にもその存在は知られている、と思う。そうした人が個展を開いてアニメ好きとしてどうして行かないでいられよう。まあアニメが飾ってある訳じゃないから楽しめないと思われるのも仕方がないけれど、大学とか大学院でアニメーションを学びながらも個人のアニメーション作家として立つ道の乏しさに迷っている人も多い中、独立してアニメーションを作りつつ個展のための作品も作る活動のアグレッシブさは見習うところも多そう。独立というより放り出される身としても、その活動に倣い何かを初めてみるのも悪くないかもしれない。何があるかなあ。昔経済界の偉い人の似顔絵を描いて新聞に載せたけど、そっち方面で頑張って見るかなあ(無理だって)。


【3月14日】 承前から言及が続く、所属している某新聞が行う大構造改革に伴い近く無職となる身に怯えて夜もろくすっぽ寝られず、昼間に薄ボンヤリとする日々が続いているここしばらく。するかどうか、という以前にできるかどうかまったく見えない再就職活動用として、もうずいぶんと作っていなかったスーツを越谷レイクタウンにあるイオンモールレイクタウンのアウトレットに入っているダーバンで1着、あつらえたけれどもそれだけだと一張羅になるんでもう1着作っておこうと、同じアウトレットにある銀座山形屋とかサルトリアプロメッサとかミスターナ・ブレフといったブランドが並んでいるらしいJSファクトリーアウトレットで調達する。

 50歳を過ぎた中高年なので大人のブランド・銀座山形屋の並びからAB6のサイズのを探し、吊るしグレーのピンストライプのシングルスーツを見つけて購入する。パンツが2本ついて2万円(税抜)はやっぱり安いよなあ、ウール100%だし。2万円ならいわゆるスーツ専門店とかと同じくらいの値段だけれど、新品でそれだけの上に素材はポリエステルが50%くらいで縫製も海外。それで品質が落ちるとは限らないし、ポリエステル混は扱いが簡単で皺にもなりにくく、着倒すにはベストなチョイスなんだけれどそんな風に着て毎日歩き回るようなシチュエーションが現時点では想定できないのと、あとはやっぱり気分でウール100%を選んでおきたかった。バブル世代の見栄として。

 まあ、それを着たところで太ってしまって寸胴な上に禿げてしまってみすぼらしい感じしか出ないし、靴も適当なのしかないんでエグゼクティブには雰囲気的にほど遠い。今さら起業してひとりエグゼクティブを気取るだけの才覚もないから、そこはせめてもの誠意としてスーツをまとい、似合わないフォルムを晒して助けを乞おう。ITからエンタメまでオタク的視点も経済的分析も含めて書く記事とか、映画祭やら部隊挨拶やら2.5次元のゲネプロといったエンタメ系イベントのリポートとか、ライトノベルにミSFにミステリに文芸の書評とか書けそうな記者&ライター、いりませんか?

 引きの凄さは相変わらずな上に、不安の色もぐっと濃さを増して1週間が待ち遠しくもあり、そこで描かれる物語が恐ろしくもあってリストラの不安も吹き飛ばしてくれるテレビアニメーション「ケムリクサ」。10島へと入って新宿バスタあたりで増えてきた赤虫を相手にりつ姉がみどりちゃんを伸ばして一挙粉砕し、りなたちも跳ね回っては戦いどうにかこうにか前進し続けてはいられるものの、電話ボックスに汲んであった水も尽きてあとは7島まで戻れなければ乾いて消えるだけといった分岐点に立って、りつとりなたちがひとつの決断をして見る僕たちを動揺させる。すぐにどうってことではなくても、いずれそうって状況だけに前進を続けるりんとわかばがしくじれば、全滅エンドに至ってしまう。何という悲劇!

 それをやってはさすがに寂しさも募るから、圧巻の逆転劇ってのを仕込んでくれてはいると思うけれどもそれはたぶん、りんの中に入り込んでいるようなりくやりょうやりょくといったところが現れ、最後の力を振り絞って戦い消えていくという展開で、それもやっぱり寂しさと悲しさを味わわせてくれそう。そしてもうひとつ、りんの中にあった記憶の葉をわかばが開いたところに現れた、わかばのような服を着てシロを2台、かたわらに置いてダイダイ色のケムリクサに何か書いている少女の存在。あれは誰だ? そしてそこはどこなんだ。りんの目に見えた風景は白くて平和そう。そんな世界が戻って来るのか。そこにりんやりつやりなたちの居場所はあるのか。見えないわかばの正体、そして世界の成り立ちも含めて残る2話で圧縮された状態から弾けだしてくるエピソードにノックアウトされることになりそう。それを味わうまでは生き続ける。絶対に。

 コカインの使用で逮捕された電気グルーヴのピエール瀧氏が出演していたセガのゲームの販売と配信が中止になって、どうしてと言われながらもそこはアウトローを描いたゲームであっても、プレイする人たちに配慮して子供は痛めずドラッグも出さないといった作り手側のポリシーがあって、それをリアルで侵す人物を起用しているのはダメだといった判断があったと想像。一方で、NHKは大河ドラマ「いだてん」に出演している関係で、速攻の判断が求められていたけれど、収録分はどうやらそのまま放送するそうで、今さら差替は難しいという物理的な判断と、逮捕はされても容疑者であり量刑は確定しておらず、よしんば有罪にはなっても、人は人で役は役といいった判断もあっての“続投”だったのかもしれない。出来れば後者を前例として、封印された作品を復活させて欲しいけれど「いだてん」も配信はストップしているみたいで、放送という一過性のメディアに限定しての配慮といった実例として定着してしまうかもしれない。どう転ぶか。目が離せない。

 1年間を探ったけれどもやっぱり再生は不可能だったということで、Kalafinaの解散が所属している事務所から発表された。コンポーザーとしてすべての楽曲の作詞作曲を手がけてきた梶浦由記さんが先に事務所を抜け、そして3人いるメンバーからKeikoが抜けHikaruも抜けてWakanaひとりとなっていたKalafinaだったけれど、Wakanaがひとりで歌ってもKalafinaならではのハーモニーは生まれないし、KeikoのパワフルなボーカルとHikaruの情感にあふれたボーカルが、Wakanaの透明で天にも届くボーカルと組み合わさって混在してこそのKalafinaの楽曲だった以上、他の誰が加わってもKalafinaたり得なかったとも言えそう。似せられてもそれは違うKalafinaになってしまう。それはもうKalafinaとは言えない。ならば……。そんな判断だったんだろう。

 「劇場晩 空の境界」の第一章「俯瞰風景」のエンディングとして流れた「oblivious」を聴いて打ちのめされて以来、繰り出されるさまざまな楽曲を耳にしてそして第七章まで終えても活動を続けてライブなどをやり始める中、たぶん2010年のO−EASTあたりから実際の歌声も聴くようになっていったKalafinaを、僕はそれ自体がひとつのジャンルであり、“Kalafinaという音楽”だと思い訴えてきた。唯一無二の存在であって何かが足されても、あるいは引かれても崩れてしまうコーラスワークだと感じていた。いや、もしかしたら草創期から3人へと至ったようなプロセスが繰り返されて、途中の段階で梶浦由記さんも含めた話し合いの中で加わったり減ったりしていたら、また違った印象を持ったかもしれないけれど、固まった3人のメンバーが固めていった音楽の形は、もう動かせるものではなくなっていた。

 だから、コンポーザーが抜け、KeikoとHikaruが抜けてKalafinaは封印された。解散となってしまった。残念だけれど仕方が無い。ただ、ひとりWakanaはWakanaとして歌を歌い続けてくれていて、4月には中野サンプラザでのライブも控えているからそこで、WakanaならではのKalafina時代の楽曲の昇華があり、またソロシンガーとしてその澄んだ歌声を響かせる楽曲を聴かせてくれる場面がありそう。前に赤坂BRITZでも見たソロでの活躍を、解散という決定を受けて本格的に始めるWakanaにまずは幸あれ。そしていつかまた、解散したバンドが再結成される事態を幾つも目の当たりにして来た気持をここでも抱き、梶浦由記さんも含めてKeikoとHikaruも参加して、Kalafinaという音楽が甦る日も夢見続けたい。待ってます。


【3月13日】 大リストラに伴う無職化が近づいて不安と楽観に苛まれながら寝たり起きたりする日々。浅い眠りが続くと時々、スッと意識が途絶えてそして数時間後に目が覚めて、そこから気持がダウナー方向へと沈んでいくのを止めようと、枕元に置いたiPadで検索をしたり遊んだりしていたら、電気グルーヴのピエール瀧氏がコカインの所持ではなくって使用で逮捕されたといったニュースが飛び込んで来た。新井浩文氏の暴行による逮捕があって映画やドラマに出まくっていた役者の逮捕が上映や放送の中止や再放送・配信等の停止へと広がって、いろいろと話題になっていただけに今回もやっぱり出演作の多い役者であり、ライブも控えたミュージシャンでもある人間の逮捕はそれらに大きく影響しそう。

 もちろん個人の犯罪は犯罪であり、出演はしていても作品は作品であってそこの関係は別に考えるべきだという意見はあって、個人的にはそちらに賛成だけれど世間はそうはなかなか思ってくれないし、子供への影響なんてことも考えるならディズニーの「アナと雪の女王」で日本語の役を演じたオラフなんかは、かつてのアラジンを演じた羽賀健二氏のように声も差替になってしまうのかもしれない。そう考えると誰がピッタリなのかをちょっと考える。アラジンの場合は三木眞一郎さんが新しくアラジンを演じているけれど、オラフは二枚目じゃなく剽軽で楽しげ、ってことはううん、高木渉さん? だとちょっとジョーカーめくかなあ、いや「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of System」の第3部で演じた武装勢力の男とか、軽薄だけれど良いヤツだったんでマッチするかな。さてもさても。

 しばらくは(もしかしたら永久に)入るお金もグッと減るので、せめて自炊くらいは出来る部屋に戻そうとしてあちらこちらを掘ったり捨てたりしていたら、今敏監督の「千年女優」のセル画が発見されてハテ、これはいつどこで手に入れたものだおろうかとしばらく思案。新宿眼科画廊でまだ今監督が存命だった時代に展覧会が開かれて、そこで5000円以上を買った人には箱にいっぱい入れられた「PERFECT BLUE」のセル画をカット袋ごと持っていっていいよってイベントがあってそれならとDVDとかBlu−rayとか持ってないのを買い足して、4袋ほどもらって帰ってカウンターにいた今監督から苦笑いされた記憶があったっけ。選んでも良いよと言われたけれどもそこは公平に順繰りに。今にして思えば本田雄師匠のカットとかもらっておけば良かったかも。

 でもこのときは「PERFECT BLUE」のセル画であって「千年女優」は混じってなかった。ではどこでと日記を掘り返して2002年の9月14日に「千年女優」が公開された時、上野スタームービーで先着50人にセル画を配ったことがあって、そこに並んで手に入れたものだと判明した。主人公の千代子さんが子供ではなく、お祖母さんでもない小山茉美さんが声を担当していた大人の千代子さんのアップ。その頃はやっぱり折笠富美子さんが声を担当していた少女の千代子の方が良いなあと思ったけれど、今敏監督が亡くなられて作品が世界的に評価される中で、「千年女優」への関心も高まっているだおるから誰がどれでも貴重な資料となりそう。背景原画がないのは配られなかったからで、動画からのセルかどうかもちょっと不明。でも良い表情をしているからこれはこれで嬉しい。保存。あと「VIRUS」のセル画も出てきた。これはアニメワールドスターで買ったものかなあ。これも資産。

 考えることは多いけれども籠もってばかりいると沈むだけなので、3月17日はイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンで爆音で上映される「劇場版 幼女戦記」を見て、そして岩浪美和音響監督らのトークイベントを聞きに行こうと申し込む。実は同じ環境ですでに1度は見ていて、スクリーンの下に置かれた6連奏のJBLのウーファーから飛び出して来る爆音に、まるで戦場にいるようだといった感想を持った。とはいえずっと前目で見ていたので、音圧ばかりが身に響いたけれど、今回は出遅れてやや後ろになったこともあって、もうちょっとグルグルと回転するような音響として聞こえてくるかもしれない。着弾点に立つというよりは、より戦場にいる感じが高まるかな。そうした音響をどうやって調整しているか、ターニャ・デグレチャフというキャラクターにどういった演技をつけているかが聴ければ嬉しいかも。

 そのターニャ・デグレチャフを演じている悠木碧さんは、こちらも岩浪美和さんが音響監督を務めている「スパイダーマン:スパイダーバース」の日本語吹替版でスパイダー・グウェンを演じている。まだティーンだけれど主人公のマイルスよりはちょっと上のお姉さん。だからターニャとはまったく違う演技が繰り出されては女スパイダーマンというか、スパイダーウーマンの活躍ぶりをスクリーン上で見せてくれている。その「スパイダーマン:スパイダーバース」をイオンシネマ幕張新都心のULTIRAスクリーンではドルビーアトモスの音響で上映中。こちらも見たけど「劇場版幼女戦記」の戦場にいるかのごとき爆音とは違う、縦横無尽に空間を飛び回るスパイダーマンたちと一緒に飛ぶようにしてニューヨークの街の中を動き回る感じがする、って言えば良いのかな。

 難しいのは、自分がどこかに行って何かを耳にしているのと同様に、雑踏に立ってニューヨークの喧噪を聞いている体験が、とても当たり前のように感じられてしまうから、映画館という屋外でもニューヨークでもない場所でそれがどれだけ特別なことが気づかないのだ。立体に見えるとか爆音が響くといったものとは違った特徴を、感じてもらえるようにする言葉が足りない。だから日本でドルビーアトモスで映画を作ろうとする人が続かず、ドルビーアトモスで上映しようとする映画館も増えずに最高の音響体験が伸びず、最強の音響を作る職人も育たない。そして世界から取り残されていく。勿体ない話。なので世間はもっと岩浪美和音響監督という人をフィーチャーして、この5年の間に映画館にお客さんの脚を運ばせるようになった音の魔術師だと持ち上げて、後に続く音響職人を増やすようにして欲しい。それがメディアンの役割なのに……。僕にはもうどうしようもないのだった。寂しいなあ。仕方が無いのでここで書く。ここだって23年続いているメディアなんだから。零細な。零細過ぎる。零細の……だめだ落ち込む気をつけよう。

 3月28日に発売となるユリイカの2019年4月号「特集=上遠野浩平」に論考を寄せているらしい新八画(あたらし・やすみ)さんの新刊「ヒトの時代は終わったけれど、それでもお腹は減りますか?」(電撃文庫、630円)が、ポストアポカリプスな世界における人類と生命の未来を描いたSFであると同時にグルメ小説であり、お料理小説でもあったと。多能性無核細胞(PAC)なるバイオテクノロジーの成果によって人は死なずに済むようになって、打てばたちどころに傷だって治ってしまう効果でもって繁栄を謳歌すると思いきや、PACは人類以外の生物にも広がって、死なない蚊とかが生まれたりしてもう大変。植物も茂って世界は混乱に陥って、そしてどうにか近郊がとれるようになった世界は合成食料や電子ドラックが溢れかえり、荒くれ者たちが鎬を削るワイルドな状態になっていた。

 そんな日本の東京あたり、アラカワあたりで伽藍堂なる料理店を営んでいるリコとウカ。ウカが料理人であらゆる材料を仕入れてはとてつもなく美味な料理を繰り出しお客さんを喜ばせている。リコは武闘派で狩人として食材を狩り用心棒めいたこともしている。そんな2人が繰り出す料理は当世界情勢から行って当たり前ではなく、たとえば多脚砲塔めいた戦車もバイオテクノロジーの産物なら、仕入れて殻を割って中の神経とかを取りだし刺身にしたり焼いたりして食べるというからとっても近未来。毒キノコもゆでたりして毒を抜いてはペーストにして美味しく頂けるようにして食堂の客を楽しませている。

 そういう意味では漫画の「トリコ」にも似たゲテモノグルメ小説だけれど近未来だけあってネットに接続してあらゆる情報を取り込んでは、未来予測をしている少女が突然に気を失ってしまった一件では、ある種のスパイスが関わっていることを突き止めて対処し、ウカが何かを口にして眠り続けてしまった一件では、彼女の“正体”が明らかになって近未来ならではのシチュエーションといったものを感じさせる。そういう意味ではテクノロジーの進化なり、暴走なりがもたらすビジョンを見せてくれるSF。勢力争いを続ける集団もあってバトルがあるのか、それとも協力の中で進んでいくのか。そうしたのほほんとした雰囲気もなかなかに楽しい。最後はアラカワでヤマタノオロチ猟で大バトル。その正体は? そして味は? 食べてみたいなあ。今ですら食べづらくなっている食材だし。


【3月12日】 8年前のこの日は帰るに帰れず朝まで過ごした会社を出て、動いていそうな路線を乗り継ぎ船橋へと戻って部屋を開けたら、積んであった本やらDVDやらBlu−rayやらが崩れ落ちていたのを積み直し、そして店も閉まるかもしれないと近所でパスタとか買い込んで備えたのだった。幸いにして計画停電の範囲には入らず電気が消えることはなかったけれど、それでも続く余震はだんだんと明らかになって来た地震のとてつもない規模を改めて感じさせた。東京都内でも九段会館で天井が落ちて人が亡くなっていたことが分かって、決して遠い場所の話ではないことを現していた。

 それでも、1カ月も経てば灯りも点き始めてコンビニには食料が並んで、普通の暮らしに戻っていた。その頃の東北なり北関東は依然として混乱が続き、始まっていた避難は8年が経っても未だに終わってはいない。何より福島第一原子力発電所の爆発に伴う被害は、その地域に人が立ち入ることを今もって禁じている。タイプが違うからなのか、今とは感覚が違うからなのか、広島や長崎で原子力爆弾が落ちてもそれから半年も過ぎれば人は戻って街作りは始まっていた。きっと福島もそうなると考えながら8年が過ぎ、そして10年に達してなお変わらない状態が続いてしまうことに、どうして政治は向き合おうとしないのだろう。

 これもまたどうしようもないことなのだろうか、科学的に、あるいは財政的に。世界に冠たる偉大な日本だと外面を良くしたところで、内に山積した問題はこれから国土を、人心を内部から食い荒らしていく。そんな状況の中を8年越しの大構造改革という津波に呑まれて流されてしまって、これからどうやって生きていこうと思うと相当に不安も募るけれど、現状がたいして良好でもないのなだから、落ちてもたいしたことはないと思ってまずはしがみつく棒きれを探しながら泥水の中を漂うことにしよう。すべてがデフレになって物価が下がれば嬉しいんだけれど、貨幣価値は下がって物価は上がるという事態も想像できるからなあ。節約するしかないのかなあ。

 とはいえ道具は必要不可欠だからととりあえず、サポートが終わるWindows7のパソコンをどうにかしようとLenovoのサイトからThinkPadのX280を1台購入する。米沢モデル。東北産だ。中国の会社になっても大和の設計部門は残しているし生産拠点としての米沢も稼動させているのは品質とアイデアの部分にまだまだ日本には見るべきところがある、って判断が働いているからなのか、それがブランドになっているとも言えるけれど。SONYからおん出たVAIOも信州は安曇野での生産を謳って品質の良さをアピールしている。そういうブランディングが出来るものと出来ないものがあって新聞は、コモディティ化していくなかで人にコストをかけて情報を集められるところが生き残り、そうでないところはネットに淘汰されていくんだろう。どこで間違えたんだろうなあ、右旋回はブランディングにならなかったものなあ。

 PCはここしばらく中古のX201を何台も買い続けてはハードディスクを差し替えて使ってきたけれど、大きなバッテリーを付けても電池が保って2時間なので外を彷徨ってコンセントのない場所で長く仕事をすることが出来ない。かといって家では何かを書いたり考えたりするスペースが片付けないと出てこないので、パソコンの慎重が必要だった。10時間とは言わないまでも8時間くらいは保ってくれれば数時間、近所のスターバ……はマックじゃないんで似合わないから、ドトールかベローチェへと入ってペチペチと文字を書いて完成させてそして帰って寝られるだろう。それで書くものが後はお金になれば万々歳なんだけれど、それはしばらく動いてからかなあ。まずは実績作りだ。そのための糸を投げてくれるところ、ありませんか? イベント取材なら得意です。あとインタビューも。

 イエイヌなんて種類の動物なんていないんだけれど、それを言うならツチノコだっていないから居ていいのかどうかとなると、ツチノコはあれで独立した“種”であってただ未確認なだけだから居てもいいけれど、イエイヌとなると種類も何もない訳でやっぱりちょっと動物ファーストじゃないような気もしないでもなかった「けものフレンズ2」。オオアルマジロとオオセンザンコウのペアがキュルルを追いかけていたのはイエイヌが欲していたからで、連れて行ってまずは終わりとなったペアはきっともうこれでお役御免となって物語を通して生き残る感じでもないんだろうなあ。そこがキャラ立ちしたアライさんとフェネックとは違うというか、だったらどうしてアライさんとフェネックを出さないんだというと、記憶がすっ飛んでいるサーバルと違って「けものフレンズ」の世界を引きずらざるを得ないから、なのかもしれない。でもPPPもマーゲイも気づいたふりしてすっ飛ばしていたから、それで行く手もあるのか。難しい。

 気になったのはそのイエイヌが、ビースト相手に激しく戦って大きく傷ついたところを加勢したサーバルとカラカルに助けられはしたものの、全身が激しく痛んでいるイエイヌに対してキュルルがねぎらうようなところをみせず、家に帰ってヒトが帰ってくるのを待つというイエイヌをあっさり見逃してしまった点。いっしょに行こうよとか誘わずきっとこれからも永遠に待ち続けるだろうイエイヌへの共感の乏しさに、見ていてちょと苛立った。逆にイエイヌに同情してしまった。もしかしてそうした同情をより尊ぼうとしたのかもしれないけれど、ネガティブな行動の対比としての同情は見ていてやっぱい心地良いものではない。何かを下げて何かを持ち上げるんじゃなく、すべてをリフトアップさせて優しい世界を作り上げ、共感と感嘆を運だ第1期とのそこが差なんだろうなあ。評判も含めて。でもまだ何話かある残りをどうまとめるかで、評価も変わってくるのでそこは期待をして見ていこう。

 ヤマカンこと山本寛監督の件は双方に言い分もあってなかなかに真相を紐解けないけれども、とりあえず「薄暮」の方に影響がなければクラウドファンディングに応じたものとして有り難いというか、あれはやっぱり「Wake Up, Girls!」からヤマカンが続けて来た東日本大震災と東北への向き合い方のひとつの答えなので、それを出す前から取りあげてはちょっと切ない気がするのだった。個人的には最初の劇場とそしてテレビシリーズ第1期、そして続く1時間ほどの映画2本で描かれた少女たちのアイドルという場所に向き合う考え方、そして東北という場所から頂点を目指す心意気といったものが映像のクオリティはともかく物語としてしっかり芯を持って描かれていたと思う。それだけ体を張って作り上げた背景に、厳しい事態があったのならやっぱり残念だし、その意思を途中で断たれたのだとしたらやっぱり寂しい。自ら断つような感じだったかも分からないので、そこも含めて暗中模索だけれど、とりあえず今は目の前の作品が完成から上映、そして評価へと繋がることを願いたい。


【3月11日】 花城フレデリカに目が向きすぎて、テンジン・ワンチュクの観察がおろそかになってしまったので、確認の意味もこめて2度目の「PSYCHO−PASS サイコパス Sinners of the System Case.3 恩讐の彼方に__」を劇場で。うつむき加減で体を洗う花城フレデリカの垂れ下がったそれに目を奪われ続けることなく、湯船に浸かったテンジンに目を向けるとそれなりにあって横向きになるとお椀型でちゃんと整ってはいたけれど、やっぱり成長途上であって花城フレデリカのサイズに至るまでにいったいどれだけの補給が必要なのかを考えると、狡噛慎也をそちらに奪われかねない懸念はいっそう強くなる。というか2人は一緒に帰国する訳だし。

 でもいったいどういう身分で日本に連れ帰るんだろう。外務省が匿うんだろうか。超法規的措置でシビュラシステムの監視下から外すんだろうか。あれだけ戦闘経験の豊富な花城フレデリカが、色相を見られもしないで厚生省公安局刑事課一係に普通に出向できるんだから、抜け道はあるんだろうなあ。物語について改めて考えると、アジアはチベット・ヒマラヤ同盟王国に限らず周辺の国々が争いを続けていて落ち着かず、東南アジアはSEAUnで武装勢力との戦いが続いてやっぱり安心して暮らせる雰囲気にない。「PSYCHO−PASS サイコパス」という物語の世界でまっとうに文明が営まれているのは日本だけ、といった感じになっている。

 それはシビュラシステムがしっかりと管理し不穏分子を排除し潜在犯ですら隔離しながら厳しい監視を行っているからで、その背後にプロフィルから心理状態まで読み取り分析して割り当てる完璧なシステムがあるとはいえ、枠組みから外れたらとたんに末端まで落ちていく可能性は見えていてそれで一種、スラム街のようなところも生まれているし、「」Case.1 罪と罰」で描かれた収容所のようなところも作られている。遠く離れれば人間が住めない場所もあったりする日本から外に出て、世界は果たしてどうなってしまっているのか。そんな物語が続く第3期のテレビシリーズに出てくるのか、やっぱりミニマルに日本での監視と自由をめぐる物語になるのか。気にしないではいられない。

 人の良さそうなおじさんに見えて高畑勲監督の狷介さというのはつとに知られていて、思うところ無しに喋ったことに疑問を差し挟んで中身を追求しては相手をしどろもどろにさせるような感じもあったと伝え聞く。実際に千葉市美術館で高畑勲監督と村上隆さんが対談した時も、スリリングな会話があったような記憶があって、そんな高畑さんを動かして8年もかけて「かぐや姫の物語」を完成へと持っていった西村義明プロデューサーはやっぱり凄い人だった、ってことは言えるんだろう。氏家齊一郎さんの死去には間に合わなかったけれど、それでも高畑勲監督のフィルモグラフィーに最高に近い傑作を加えさせることが出来たんだから。

 そんな高畑さんがもしも存命で、お近づきになれるんだったらと今さら行っても仕方が無いころではあるけれど、相手が何かいろいろ知識を持って話しを振ってくるんだったら、それを学ぶというよりいっしょになって楽しんでいくような態度が必要だったって、東京アニメアワードフェスティバル2019での高畑勲監督追悼企画で3月10日に西村プロデューサーが話してた。映画だったら見てくしレコードだったら高畑さんが持っているから借りて聞くなりする。そうやって一緒になって学んでいくことが出来たとしても、友だちでしかなかったら仕事は進まない。プロデューサーとして可能なことをやる必要があって、「かぐや姫の物語」では原画の現場に人を増やして少数精鋭主義を壊したそうだけど、自分に与えられられた役割を訴えれば相手はちゃんと納得してくれる信頼が出来ていた。だから完成させられたんだろう。濃密な経験を経た西村プロデューサーにはそんな現場の雰囲気を、後進に伝えて高畑勲さんばりのアニメーション映画を送り出していって欲しいなあ。次はやっぱり長編かなあ。

 そんな東京アニメアワードフェスティバル2019もたちまち最終日となって授賞式が開催。日本橋から会場が池袋に移ってから、なぜかAMD Awardと重なることが多くて行けなかったので豊島区役所での贈賞式は初めて。劇場ほどのゴージャスさはないし、東京ビッグサイト時代の広々とした感じも減じてはいたけれど、距離が近くて取材にはそれほど悪い環境ではなかった。そんな授賞式で今日発表された長編コンペティション部門グランプリは、見てないけどこれかなと思っていたラウル・デ・ラ・フエンテ監督とダミアン・ネノウ監督「アナザー デイ オブ ライフ」が受賞。アンゴラ内戦のルポをアニメーション化したってあたりに、アリ・フォルマン監督「戦場でワルツを」をふと思い出したけれど、「アナザー デイ オブ ライフ」の方にアニメーションなればこその表現というのがどこまであるかは見てないので分からない。

 現実が幻想に取り込まれるような表現があればアニメーションで描く意味もあるってことになるとするなら、「アナザー デイ オブ ライフ」ではダイジェスト映像の中に車両の内部で銃弾が浮かぶところとかいろいろと見えたので、それはそれでアニメーションっぽいビジュアルなり動きなりがあるのだろう。いつかどこかでちゃんと上映して欲しいけれどそういう機会は来るかなあ。去年のグランプリの「幸福路上」は秋に公開で良かった良かった。優秀賞はファン・アンティン監督の「パチャママ」でこれも昔の東映動画っぽさが感じられて見たかったけれど取材があったのでお預け。来年はたぶんお客でこれるだろうからいろいろ見よう。どうしてお客になるかといえば記者を辞めざるを得ないからで、授賞式にANIMAXの偉い人がおられたので今月でクビになりますすいませんよろしくですと挨拶。すぐにどうなるものでもないけどいろいろ手を伸ばしていればどこかに何か引っかかるかもしれないと期待するより他にない。さてもどうなる。

 アニメ オブ ザ イヤー部門で気になったのは個人賞のアニメーター部門が刈谷仁美さんだったことで、個人として優秀だしNHKの連続テレビ小説「なつぞら」のビジュアルなんかも手がけているから業界が挙げてプッシュしたい人材なんだろうけれど、世にわんさかスーパーアニメーターがいる中でちょっぴり恐縮もしていしまったんじゃなかろーか。挨拶でも指導してくれている諸先輩への気遣いを見せていた。位負けするような人ではないからここで受賞を糧にして大きく伸びていって欲しいもの。キャラクターデザインとかビジュアルコンセプトとかいろいろ出来そうな方なので、その活躍を見守りたい。個人賞ではあと、原作・脚本部門で花田一輝さんが受賞をしていて、「宇宙よりも遠い場所」のようなオリジナル企画が評価されたのだとしたら、それは一緒になて作ったクリエイターたちも含めての受賞だと話してた。アニメは1人で作れない、ってこと誰もが加味しているのだなあ。そういう業界だけに皆で潤って欲しい。原画も動画も制作も。


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