縮刷版2019年1月上旬号


【1月10日】 始まったよ「ケムリクサ」。たつき監督に伊佐佳久作画監督に白水優子美術監督の「けものフレンズ」というか、irodoriの黄金メンバー3人ががっちりと組んで作り上げたオリジナルのアニメーション。短編版もあるけれど、テレビシリーズとして始まったことで改めて新しいストーリーとして見ていくなら、どこか分からない世界で廃墟めいたものが点在していてそこに水を取りに行ったりん、りなという少女たちが、赤虫という怪物に襲われて、戦ったりしていた最中にりなが負けて消えてしまってどういうことだとまず仰天。ところがりなは複数体いたみたいで少しだけ気分は盛り返し、赤い霧が立ちこめ赤虫を相手にした戦いが続いていく。

 少女たちは自分が人間だというけれど、水槽に汲んでいた水から、わかばという名の少年が現れ赤虫かと疑われつつ自分を犠牲にしてりんを助けたことでちょっとだけ少女たちの理解を得る。世界がどういう状況に置かれているのか、どうして現代文明が滅んだような雰囲気なのかが気になるし、強靭な体力だとか不思議な能力だとかを持った少女たちが本当に人間なのかもよく分からない。そしてわかばはいったいどこから来たのか。そこも含めてまずは放り投げられた設定がだんだんと明かされ、世界が見えて来るのを楽しんで行けそう。

 割と死が近くて見ていると不穏な気分になるけれど、それは滅亡した世界が舞台じゃないかと思われ実際にそうだった「けものフレンズ」も同様。そこに現れた“本当”の人間が示す人間ならではの知恵が、危険をかわして窮地を脱するところもかばんちゃんがフレンズたちを助けていく「けものフレンズ」と似通っている。そういった指摘を受けることも当然として、ひとつのフォーマットから派生していく物語がどこへと向かっていくかを1話1話、確かめていく展開になりそう。毎回何かしらの驚きがあって、そして次へと興味を引っ張りそしてまた驚きを与える一週間を堪能しながら、現実に自分の周囲を取り巻く不穏を抑えて生き抜いていこう。そうでないと精神のバランスが取れないから。怒りと絶望に苛まれて。

 月刊ニュータイプ2019年2月号の「平成とアニメ」は片渕須直監督が登場。60年が経った国産アニメーションの歴史がどうにも煮詰まって、再生産めいたところに陥っているなら、そこから新しいものを作るために「60年なり100年なりの歴史を俯瞰した視点を手に入れないといけない」と話して、枠にハマりがちなアニメーションが外へと向かうためのいろいろな示唆を繰り出してくれている。ひとつがアニメーション的手法で現実を描き出そうとしている世界の潮流への言及で、「戦場でワルツを」や「生きのびるために」といった戦争や紛争を描いたアニメーションが生まれ、評価を受けていることを紹介している。

 世界で始まったそういった可能性を、だったら日本のアニメーションはどれだけ気付いているのかといった指摘から、高畑勲監督が「アニメーションが現実を写し取ることに自覚的な方」だったことへと話を持っていって、これからの日本のアニメーションを考える必要性めいたものを訴えている。なぜ実写で作れるようなことをアニメーションで作るのか、といった問いかけは決して新しいものではないけれど、そこに対して高畑勲監督は「アニメーションによる異化効果というものを主張していました」と片渕監督。食事をしている人を実写で撮れば、それは食事をしている人の映像だけれど、アニメーションにすることで行為を捉え直し本質を取り出せるということらしい。

 なるほど「この世界の片隅に」の食事のシーンは、当たり前だけれど現実にはない関係性や空気間や時代性といったものが漏れ漂う。それが多くの人を引きつけたのだとしたら、今後のアニメーション作りで現実を描きつつ現実にはない何かを感じさせることが増えていくのかもしれない。そうやって生まれる映像はどんなものか。ひとまずは「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」に描かれる、日常だけれどアニメーションならではの味わいを噛みしめることにしよう。2019年公開だけれどいつになるんだろうなあ、夏かな秋かな冬でも2019年だしなあ。湯浅政明監督に新海誠監督に原恵一監督といろいろ話題のアニメーション映画も多い中、ぶつからず足を引っ張り合わないでどれもが盛り上がってくれれば嬉しいかな。

 いよいよ始まった谷口悟朗監督による「revisions リヴィジョンズ」は渋谷一体がまるっと300年以上も未来に転送されて起こる戦いの中、自分は皆を守るヒーローだと言われそう信じて自己研鑽に励みつつ、自意識を増大させてしまった高校生の堂嶋大介が来たるべき混乱の中で舞い上がって暴走を繰り返し、批判されればすねて怒り出すクズっぷりを見せて、いったいこの主人公にどう感情移入すれば良いのかと思わされるけど、それも含めて谷口悟朗監督のひとつの作戦。突出した自我を一方に起きつつ大人たちの日和見ぶりとかわがままなんかも描いて、人間の感情の醜さを示し、あるいはそうした中でも自分を保って誰かを助けようとする人間の理性の凄さも示して、危地にいったい人間はどうあるべきかを諭される。

 そんな展開の中で、自意識を増大させて自分こそがヒーローだと言って周りを見下し、巧くいかないと暴れ回る堂嶋大介がいったいどんな変化を見せるのか、それとも見せないのかを描いていく展開に視聴者はこれからも散々っぱら振り回されそう。本当に自分は主人公だったのか、なんて問いかけもあったらそれこそダメージもデカいだろうなあ。そして設定面では観測によって2017年の渋谷と300年後の渋谷を入れ替えてしまうようなSF的技をぶちこんで来るところが「revisions リヴィジョンズ」の楽しみ処のひとつ。回が進んでだんだんと明らかになる渋谷転送の理由と、それが狙っている何かをめぐる戦いの中、多層的な時間が存在するSFならではの展開に触れて何が起こっているかを考えさせられるだろう。「無限のリヴァイアス」と同様に極限状態におかれた子どもたちと、そして今回は一緒にいた大人たちがどう振る舞うかも見どころ。自分ならどこまで理性と高潔さを保てるか。考えたい。

 レジェンドノベルスから雪野宮竜胆さんの「普通のリーマン、異世界渋谷でジョブチェンジ2」を読む。喫茶店で出会ったなぞの少年によって異世界化した渋谷へと放り込まれた主人公が、奴隷の身に落とされバラバラにされそうだった女性とお嬢様を買い上げては、その費用として現代人ならではの知識を活かし渋谷近隣の宝石店から宝飾品をごっそりと持ち帰って話題になった第1巻から続いて、生活を安定させるためにいろいろと発掘しようとレトルト食品を持ち帰り、暖めるという普通のことをやったら評判になって異世界の貴族がこぞってレトルト食品を漁ったため商売にならなかったという、そんなオチ。まあ仕方が無いけど貴族から目をかけられ食と住には困らなくなった一行は、頼まれて新宿にシールを貼りに行く仕事を請け負ってそこで一悶着あったもののしのいで異世界で地歩を高める。そこに登場したのが多摩の山中に転移した女性自衛官。謎の少年から新宿に行けと言われていったい行った先で何と出会うのか。主人公とも絡むのか。続きが楽しみ。


【1月9日】 NWES ZEROでAPR KICK A’LIVE2の放送はなかったようで、テレビで躍動するシンジとREBEL CROSSのレイジとダイヤ、そしてレオンの姿や歌声を見られなかったのは残念だけれど、没ってこともなくいずれやってくれるだろうからその時を待ちたい。取材に来ていたというNHKもいつどんな番組で取り上げるかも情報を待とう。こうやってテレビがこぞって取り上げる話題のコンテンツを、始まった2016年の春から追い続けて記事にしながらも、先行者として理解されない空間に居続けるのも飽きてきたなあ。それだから傾くんだよなあ。とかどうとか。

 どうして放送が飛んだかは想像するなら、女子のアマチュアレスリング界で偉業をなしとげた吉田沙保里選手がいよいよ引退を決めたってニュースが飛び込んで来たからかなあ。リオデジャネイロ五輪で優勝できず4連覇を逃して悔しがって、そして東京五輪を目指して代表チームのコーチもしながら現役を続行するといった話も出ていたけれども途中で至学館大学の監督というか日本代表監督をめぐるあれやこれやもあってギクシャクとする中で、モチベーションを衰えさせてしまったのかもしれない。とはいえ持てる力はやっぱりトップ級なんで、代表コーチは続けて学校でもコーチ業に精出して、次の吉田であり伊調といったトップ選手、メダルを狙える選手を輩出してくださいませ。澤穂希さんにも女子サッカーの現場に戻って欲しいなあ。なでしこジャパンで高倉麻子監督の次なりその次の監督就任、期待してます。

 年末だかに安倍ちゃんが映画「ボヘミアン・ラプソディ」を見たそうで、その活動だとか音楽に感動しただろうクイーンのメンバーのブライアン・メイに対しても、きっといろいろ感じ入ることがあっただろう。彼がいたからフレディ・マーキュリーはクイーンというバンドで歌うことができるようになった訳だし、ステージにだって立ててライブエイドという素晴らしい場所へと誘ってもらえた。もちろんそれはロジャー・テイラーだってジョン・ディーコンだって同様だけれどそうした中でもブライアン・メイの達観した天文学者然とした存在感は、クイーンというバンドに重みを与えたと思ってる。

 そんな貢献者を天下の総理大臣が見て知らなかったとは言えないし思わない。言ったらそれこそポン酢の誹りは免れない。だからきっとそんなブライアン・メイが辺野古の自然を破壊するような埋め立てに反対したら、刮目して聞き入り何とかすると思いたいけれど、そういうことになるときっと知らない人が何か言ってるようですといって逃げるんだろうなあ。過去も親しかった人とかが何か起こすととたんに遠ざけていったし。だからだろう、そんな安倍ちゃんと中が良い作家で歴史風読み物を書いていろいろと大評判の人が、ブライアン・メイなんて知らないし有名人だからって知ってなきゃいけないのかって言い始めている。

 何だって貪欲で好奇心を持って接するのが作家という商売の人たど思っていたし、元はテレビの人でもあるんだからブライアン・メイとかクイーンくらい知ってなくちゃと思うけど、知らないことにしたいんだから仕方が無い。そう言うのが格好いいかどうかといえば、やっぱりかっこわるいよなあ、世界屈指のギタリストだからって、余計なことは言うんじゃないとモデルさん相手の時みたいに罵声を浴びせればクールなのに。そう言って「ボヘミアン・ラプソディ」のファンまでも敵に回すのはいやだったのかなあ、同じようにモデルの人に罵声を浴びせたクリニックのおじさんはブライアン・メイに政治的発言をするなら音楽業界から干されるぞって行ったのかな。私気になります。

 そんな「ボヘミアン・ラプソディ」の応援上映があったんでせっかくだからと見物に。慣れてないのか「エーオ!」ってコールも館内がそれでいっぱいになることはなく、「ウィーアザチャーンピオン!」といった合唱が起こることもなかったけれど、拍手だけはそれなりにあって一緒に応援している気持にはなれた。ほとんど人が周囲にいない最前列で見たから歌の場面は歌詞に合わせて口をぱくぱくさせては吐息で歌うくらいのことはできた。というかあまりにメロディに乗せられたワードが多すぎてとてもじゃないけど目で追うのが精いっぱいだった。あれ、歌詞を覚えて発音してたんじゃあ追いつかないよね、やっぱり流れで全体をカタマリのように覚えるしかないよね。

 2度目なんでどんな当りからフレディが自分のセクシャリティを意識するようになり、そしてハマりこんでいったかが分かって自分が自分に気付く瞬間といったものへの意識を高められた。マネージャーのポールは最低な奴だったけれど、ひとりフレディ・マーキュリーという人間を崇め守ろうとしていたことだけは確かで、それがフレディにとって本当に望ましいことだったかどうかの行き違いさえなければ、他のメンバーも含めてもうちょとうまくいったような気もしないでもない。まあ強欲で独占しようとした節もないでもないけれど。

 そんなポールに比べればジム・ハットンはクールで格好いいよなあ、そのたたずまいといい物腰といい人あしらいといい声といい。いたらグッときてしまう。フレディが惹かれたのもそこかなあ。最期を看取ってくれてありがとう、本物のジム・ハットンと改めて言いたい。自らもHIVで亡くなった彼が晩年まで寄り添ったからこそ、フレディ・マーキュリーは今なお伝説として語られるアーティストたり得たのだから。映画ではパーティで汚れた部屋を片付けに来ていたサービスマンとしてフレディと出会ったジム・ハットンだけれど、実際はバーで出会ってフレディを知らずその場はやり過ごし、2度目にあって交際が始まったとか。それもまたドラマティックだけれど、名前と思い出だけ残したのをフレディが追うってのもドラマティック。映画のそうした脚色も、盛り上がりを考えるなら仕方が無いと思いたい。結果は同じだし、ライブエイドへと至る感動には関係がないのだから。

 「うちのメイドがウザすぎる!」に続く百合枠アニメと言うんだろうか「私に天使が舞い降りた!」。大学生らしいけれど引きこもり気味でいつもジャージ姿の女子は実は衣装作りが得意でいろいろと作って妹に着せていたりする。そんな妹が家に連れてきた同級生らしい小学生の白咲花に一目惚れ。怪しまれ疎んじられながらもお菓子で釣って家に呼び寄せ服を着せようとする。オトナがコドモの女の子に感じいるパターンの百合は「うちのメイドがウザすぎる!」と同様。あっちは元自衛官の上に家事スキルも高かったからお近づきになれたけれど、こっちも服飾の技で仲良くなろうとしている。やっぱり技かあ、幼女と仲良くなるために必要なのは。いやそれは女性だから可能なのであっておっさんが料理上手でも服作りが得意でもお近づきにはなれないのだった。残念。隣に越してきた女子が女子大生のコスプレ趣味を目撃していろいろ騒いできそう。そんな展開も含めて今後が楽しみ。見ていこう。


【1月8日】 さすがに練馬は遠いのでプリパラ映画を見るのは止めて夜にTOHOシネマズ上野で劇場版「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over the Rainbow」を見る。沼津は取材で船橋はもらったムビチケとどちらもタダだったんで今回ばかりはお金を払ってちゃんと見る。もちろん最前列でSaint Snowの衣装を見上げるように楽しむ。TOHOシネマズって全体にスクリーンが暗い気がしてSaint Snowの衣装も黒つぶれが多い感じでもったいない。イオンシネマだとどうなんだろう? 週末に幕張新都心に遠征してくるか。

 そして観終わって改めて沼津駅前でのライブ前、3年生も含めたAqoursの9人が浦の星女学院の前まで行った時、千海がちょっとだけ開いた門の中に入らず締めて大丈夫と言ったシーンにジンと来た。過去に甘く浸るのではなくしっかりと区切りはつける、そして受け継いだものは中に残して新しい道を歩むと決めた心が感じられたのだった。そういういろいろなシーンの積み重ねがあるから何度で見られる映画になりそう。Saint Snowの衣装も含めて。そりゃあ当然含めるさ。

 横浜F・マリノスの中澤佑二選手と名古屋グランパスエイトの楢崎正剛選手が共に引退を表明。40歳近くまでプロのサッカー選手で居続けたということだけでどれだけ素晴らしい選手だったかが分かるけれども中澤選手は怪我が治らないようで、ピッチに立てないのなら引退となった感じで、まあ納得のいく引き際だったことが伺える。気になるのは楢崎選手で当人は現役続行の意思はあったものの、クラブ側が強化から外れ満足いく練習がさせてもらえないなか、引退を選ばざる得なかった感じがあってW杯にも出場した偉大な選手に対する仕打ちかといった思いも浮かぶ。

 客観的に見ればやはり体力的に厳しく、代表からも離れる中でチームが若手に切り替えていこうとする意識があっただろうことは理解できる。カズ選手のように現役で有り続ければ観客を呼べる選手でもないから、そろそろ引退となってもおかしくはなかった。だからこその引き際を用意して花道を飾ってあげるくらいのことはあっても良かった。横浜フリューゲルス崩壊後、名古屋へと移って長く第一線で活躍し、チームの顔となって来た楢崎選手を笑顔で送り出してあげたかった。とはいえすでに決めた引退ならそこは受け入れ、花道を用意してあげてとクラブにはお願いしたい。トヨタ自動車が豊田スタジアムを貸し切って引退試合をするくらいの大盤振る舞いをしてでも。

 Syousa.さんという人による「コボルドキング 騎士団長、辺境で妖精犬の王になる」(レジェンドノベルス、1200円)が面白い。とてつもなく強靭な肉体と武技で50人斬りだの人喰いだの味方殺しだのと言われ畏怖された騎士団長のガイウスだったけれど、王が代替わりして宰相も変わって政治に関わることになり、あまり役に立たないこともあって騎士団を辞め爵位も返上して地元に帰ることに。けれども帰った先の村はすでに人影がなく、どうしようか思案していたところにコボルドが人に蟲熊というモンスターに襲われていたところに居合わせ、助けてそして怪我をしていたコボルドの女を隠れるように住んでいた村へと連れて行く。

 フォグという名だった女コボルドが前に住んでいた村はは金目の物を探して奪いに来た人間たちによって荒らされ仲間も大勢殺されていた。逃げるようにして移った先で隠れるように住んでいたこともあり、トロルが4分の1入ったガイウスでも人間としてコボルドの村で疎んじられ、最初は捕らえられたような形になるものの、崩れた家から子供を助けるなどして信頼を得て、コボルドの村で食客のような形で暮らし始める。

 そこに騎士になる学校で助けられたこともあり、卒業して騎士となってからはガイウスが率いる騎士団に彼を慕って入ったりもしたハーフエルフの女騎士とか、ガイウスとは訳あって娘のような扱いを受けていたダークという公安騎士も仕事を放り出してガイウスの元へと駆けつけ、ちょっとした賑やかな光景が現出する。もっとも平穏な日々はありえず、コボルドの村をはじめ異種族を襲って金目の物を奪う人間たちがいてガイウスが暮らしているコボルドの村にもそうした手が及びそうになる。

 俺TUEEEの権化のようでもあるけれど、決して無敵ではなく不死身でもないガイウスは、何度も繰り返し襲ってくる人間たちを相手に苦戦も見せる。友人となったコボルドを失ったりもするし、慕ってやってきた女騎士にも決して消えない傷をつけられてしまう。そういった部分はシリアスでリアル。敵は数にまかせてコボルドの村を襲いガイウスを退けようともする中で、話し合いでは行き詰まると決心したガイウスは王となり、コボルドたちが安心して暮らせる国を作ろうと動き始める。そんなストーリー。

 コボルドがいてエルフもいてトロルにドワーフもいたりする世界であるなら、そうした人間以外の種族も村を持ち国を持って人間たちと互して生きていても不思議はない気がするけれど、数で負けるのか虐げられたいるようなところがあり、殺害しても文句はないとまで思われているような節があって、そのあたりの関係性がちょっと掴みづらい。弱ければ滅ぼされているか奴隷扱いされていても不思議はないのに、そうとも言い切れないところにバランスのズレめいたものを感じないでもない。

 そこは弱者よりさらに弱い立場だと思いつつ、そうした状況からの反撃にガイウスが問う関わり、慕ってついてきた2人がどう支援し、そしてコボルドやほかの異種族たちがどうまとまっていくのかといった興国の物語をこれから楽しめそう。今の時代ではお荷物でも、かつての王族たちに慕われていただろうガイウスの人脈と人徳が発揮され、そしてたぐいまれなる武力も乗って繰り広げられる戦記であり政治の物語を楽しみたい。楽しませてくれるよね。

 録画をやっと見た「キラッとプリ☆チャン」の最新エピソードは白鳥アンジュのプライベートな島へと連れて行かれたMiracle KiratsとMeltic STARがいろいろと競い合う姿を見せてアンジュを喜ばせてはいたけれど、島から一行が帰ろうとする場面でアンジュがちょっと暗い顔になって声を乗せまいまま口で何かつぶやいていた。サヨウナラ? なのかそれとも違う言葉なのか。いろいろと浮かぶ不穏な予想が当たらないといいけれど、これまでずっと順調に来ていた2組6人のプリチャンアイドルを目指す動きに何か暗雲が立ちこめ、試練が与えられてくる可能性は大。それが新しいアイドルたちの登場なのか、プリチャンそのものの嬉々なのか。分からないとはいえ気になるのでこれからもずっと見ていこう。2期が始まるまでには片付くだろうと信じて。


【1月7日】 ユークスがVTuberなんかよりずっと速い2016年から始めた、CGキャラクターをモーションアクターが動かし、声優でシンガーがセリフや歌を載せるARP。ベルサール秋葉原で4月16日に開かれた「AR performers βLIVE」の時からほとんどシステムとしては完成していた印象だったけれど、そこからディファ有明やベルサール高田馬場なんかを経て横浜市体育館へと会場を移し、2019年の1月5日と6日に開いた「ARP KICK A’LIVE2」だと、より進化だとか進歩なんかがあったような気がする。それは表層のCGの描写だけでなく、内容にも呼ぶことで、リアルタイム性が増してそこにキャラクターがいるような印象が強まっている。

 今はシステムが安定したのか、人間のMCを置いて機材の不具合が起こった時をカバーする必要もなくなって、パフォーマーたちがMCを担当するようになった。トークが当意即妙なのは前からだけれど、今は歌にもアドリブが入って観客へのアピールもあるようなないような。あらかじめ仕込まれていては無理な歌とかあったように聞こえたんだけれど、それがもしも本当にその場でダンスに歌を乗せて出力して描画しているなら凄いなあ。VTuberでは当たり前って言われそうだけれど、あの激しいダンスを出力しつつ歌も乗せるなんてなかなか考えられないし。その意味で、VTber程度っていった限界を突破する可能性を示してくれるコンテンツと言えそう。いったいどうなっているか、運営に聞いてみたいところだけれど、書く媒体なんて持ってないのが寂しいのだった。

 経済とか文化とかを扱っている新聞とかテレビがやればそれこそvTuberに負けず世界に広がる可能性もあるんだけれど、大手と呼ばれるメディアは腰が重いのか関心が薄いのかそもそも気付いていないのか、あまりAPRを取り上げようとしない。っていうかご近所の新聞なんかはVRだってARだって無関心。自分ひとりがそういうところを最初からずっと取材していても、本流ではないから点数にはならず、将来の金脈をいくら掘ったところで今は金が出てないからと知らん顔をされるのがオチだったりする。だから傾くと言えば言えるんだけれど。今年はKICK A’LIVE2にNHKとか取材に来てたみたいで、3年遅いと言いたいけれども仕方が無い。僕はいつも3年早いのだ。NHK紅白歌合戦に出て横浜アリーナで「最高のGood−bye」が歌われるのを夢みて家で爪に火を灯そう。

 ガチャガチャしていて時代が行ったり来たりして、誰が誰だか判別もつかないうちにぶっ飛んでいって見づらいことは見づらかったけれどもNHK大河ドラマの「いだてん」は、顔見せの第1回目ってことで主人公らしい金栗四三の生い立ちとかから始めたりせず、いきなりひとつのクライマックスともいえるストックホルム五輪への出場選手の選考会を描いてそこで、金栗の従来記録をとてつもなく上回るマラソンのタイムを示してとんでもない奴が現れたんだってことを印象づける。プラスして柔道家の嘉納治五郎が柔道家だからと行って武道に固執せずスポーツというものへの理解を示して勝敗ではなく「参加することに意義がある」と言って軍隊的な体育主義者を論破するところも描いて、教条的になりがちな五輪と選手を描いた内容を軽くて楽しいものにしてのけた。

 現実の嘉納治五郎がそこまで軽い人間だったかは別で、天狗倶楽部にのめりこんでは一緒に五輪代表を選ぶ競技会を開いたとかいった話もどこまで本当かは検討がつかない。これはフィクション混じりだといった断り書きも大河でありながらあったりするらしく、縁故者も多い近現代を取り上げた内容だからこその脚色なんかも随所にありそう。それでも肋木なんてものが日本の学校体育に蔓延っては、スウェーデン体操だなんて今では誰もやらないし知らないものを広めようとしていたなんって知識が得られて、そこは勉強になった。そういえば学校の体育館に肋木とかってまだあって、ぶら下がったりしていたなあ、それで結核の予防になる? 違う場所で注意を払うべきでしょう、大気だとか栄養だとか。

 大気といえば「いだてん」ではタバコを吸っているシーンがいっぱいあって、なるほど今ほどタバコが人前では吸えなくなっている時代ではなく、誰もがどこでもプカプカとやっていた時代ならではのドラマなんだってことを教えてくれた。昭和39年の東京オリンピック開催時なんかもきっといっぱいのタバコ描写があるんだろうなあ、スタジアムでもみんな吸ってたんだろうか。あのビヨルン・ボルグがジョン・マッケンローと凌ぎを削り合った時代を描いた「ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男」の中でもボルグの恋人がボルグの前で吸ってたし、記者会見の席上でも記者が吸いながら質問をしていた。そういう時代だからこそそういう風に描写しただけ、なんだけれども今だとそれすらもタバコの害を軽んじるといって倫理規定に引っかかるのかもしれない。見て格好いいだなんて思わないからCMと違う基準で考えないといけないんだけれど。大河ドラマはだから平気で喫煙を見せたとか。いやいや第1回だけは暴走させて2回目以降は遠慮する? 続けて見ていこう。

 難詰されたり非難されたりするのが自分のプライドに響いて頭が沸騰してしまう性格なんだろうなあ。だから非難がましい見解をまずは否定してそれに適当な理由をつけるんだけれど、後になってそれが絶対にあり得ないことだと判明して慌てて別の理由をくっつけていく連鎖として、自分以外の誰かが迷惑を被り酷いと命すら落とす羽目になったりする。大阪での財務局員とかがそんな感じだったっけ。今回は辺野古の珊瑚を含めた自然が脅かされているじゃないかと非難され、その矛先をかわそうとして非難は当たらない、なぜならすでに珊瑚は移設したからだと言ってのける。

 でも現実、そうした自然の生物なんて移設のしようがない訳で、それを行うにも環境省とかの許可がいる。もしも本当に移設していたらアウトだし、その場しのぎのデタラメだったらなお逢う。でも、そうした言い訳が嘘にまみれている場合でも、その言い訳を本当にするためにまた嘘を重ねることによって誰かが嘘つき扱いされて、居場所を得られなくなったりこの世にいられなくなったりする。今回だとさしづめ誰かが珊瑚は移設しましたといったことを吹き込んでいた、なんて言い訳を用意するのかな、そして自分はそれを信じただけで決して嘘は言っていないと訴える。いつものパターンだけれど、実在しない助言者は実在したことにされていったいどういう処分を受けるのだろう。珊瑚が埋められている海にいっしょに埋められるなんてことはないだろうけど、珊瑚とともにキャリアも途絶えたりするんだろうなあ。やれやれ。

 リバイバル上映が始まっていた「劇場版プリパラ&キラッとプリ☆ちゃん〜きらきらメモリアルライブ〜」の「オーロラドリーム」回を選んで鑑賞、やっぱり春音あいらから始まり天宮りずむ、高峰みおんと続く3人の歌は良いなあ、長岡成貢さんのメロディが存分に活かされている上にビートも整えられていて、1本のリミックスDJ作品のように感じられる。それは全体にも言えることで、プリパラにしてもプリ☆チャンにしてもライブシーンがカメラワークに優れて繋ぎにも工夫がされていて、合間の会話を息継ぎとして利用しながら全体を1本のライブ的映像として見ることができる。

 こういう工夫が仮に「ラブライブ!」系の映画にもあって、かずかずのライブを中心につないでいって1本の映画に仕立て上げたら、応援上映で観客席も盛り上がってまるでライブのような様相を見せる気がするけれど、それで椅子とか破壊されたらかなわないし、やっぱり少女たちが選んで進んでいく道を描くのが「ライブライブ!」というシリーズとの真骨頂。そういう訳で、物語性を排除しないでしっかりとした映画として描いているのかも知れない。2つの映画が同時期に公開されていろいろ比べられて面白い。プリキュア映画はほとんど見てないから比較の対象外。どうなんだろう?


【1月6日】 いろいろあるんだなあ、囲碁のプロ棋士になる道は。将棋ではとりあえず奨励会の三段リーグで戦った上位2人が半年に1度、プロ棋士になるのがまっすぐな道で、別に次点を2度とった人が四段でのプロ棋士ではあってもフリークラスに所属するといった道がある。あとは瀬川晶司六段が開いた、実績のあるアマチュアの棋士が奨励会員やプロ棋士に一定以上の戦績を収めてプロになるといった道。それでも門は狭くてなかなかくぐり抜けられるものではない。女流棋士というものが別にあるけどこれはプロ棋士ではないからいわゆるプロ棋士とは別枠になっている。そして女性のプロ棋士は今に至るまで1人も登場していない。

 対して囲碁はプロ棋士という大枠に男性も女性もいたりして、なる道もいろいろと広そう。女流棋士の枠でプロになってもそれは一般のプロ棋士と同列と見なされて、あの藤沢秀行名誉棋聖の孫娘という藤沢里菜四段がその枠でもって11歳と9カ月でプロ棋士になった。最近までの最年少プロ棋士記録。それが果たして上げ底のプロ認定だったかどうかは、その後に藤沢さんが四段までしっかりと昇段して、そして女流本因坊や女流名人といったタイトルを幾つも獲得して4冠も達成したことで、女流棋士枠が決して上げ底ではなく広告塔でもなく、実力のある人をプロに認定する制度だったことが明らかになっている。あの藤沢名誉棋聖の孫だどうだといった話題性など、とうの昔に自らの実力で吹き飛ばした。

 そんな藤沢四段の記録を上回る10歳0カ月でプロ棋士になるというのが仲邑菫さんという女の子だけれど、何かの大会で優勝したとかプロ棋士を相手に好成績を収めたといった感じではなく、日本棋院が創設した英才特別採用枠でもって推薦されたというところに今ひとつ、実力のほどを掴みきれないところがあって先が気になる。タイトルホルダーとかコーチとかの賛成があって推薦があってなれるものらしいけれど、それが戦績といったもので明快に示されているのかどうか。おじさんたちがこれは逸材と認めればなれるといっても、対局の場で発揮される実力は棋力とはまた違ったものになりがちだ。そうした力を持たずプロになっても対局でへこまされ潰されてしまわないか。そうはならないだけの胆力も持っていると判断したのか。それを10歳で証明しなくちゃならない仲邑菫さん、大変だけれど、自分で選んだ(はずの)道なんだから、頑張っていただきたいと応援。本因坊秀埋先生のようにはならないでね。なっても良いけど。

 せっかくだからと家から歩いてららぽーとTOKYO−BAYまで出向いて、TOHOシネマズららぽーと船橋で「ラブライブ!サンシャイン!!The School Idol Movie Over The Rainbow」を見る。TCXの最前列。出来た当時は国内最大級のスクリーンサイズを誇っていただけあって(今はどこが最大なんだろう、万博かな?)、とにかく巨大で見上げるようで、冒頭にあるフォトセッションでも高海千歌ちゃんがiPadのカメラで顔だけギリギリ収まるほどの大きさになっていた。全体なんて捉えられないよ。そんな最前列で見ただけあってやっぱりSaintSnowによる「Believe Again」は最高に格好良かった。いやエロいとかってんじゃなく(あるけど)、パフォーマンスも歌声も2人のSaint Snowとしての活動を締めくくるに相応しいものだった。

 可能ならそんな2人のあの衣装を着てのライブをリアルでも、見たいなあと思うけれどもそれをやってしまったら卒業していった聖良お姉さまの意味がなくなるからなあ。ああそれはAqoursの3年生チームもいっしょか。ラストのラスト、沼津の道路で行われたライブには3年生チームは直接は参加していなかったけれど、イメージとしてそこに加わってAqoursの仲間たちにその存在を刻みつけた。忘れるとか乗りこえるといったことはなく、そこまではずっと一緒にいたんだと思わせた。この楽曲「Brightest Melody」がライブで上演されるとしたら、3年生チームは参加することになるんだろうか、それとも新しく入ってくると思えて仕方が無い新1年生チームがカバーをするんだろうか。12人のAqoursなんてものが見られたりするのかな。そういったことも含めてこれからの展開を気にさせてくれる映画だった。

 なんてことは沼津で見た時に感じていたことで、その確認が出来たこともあって全体を通してより深く感情を刺激された。もう冒頭の浦の星女学院で3年生たちが別れを告げる場面から泣けるというか、他にいろいろと泣ける場面が増えて全体と通して涙腺が滲んでたといった印象。最前列で周囲に人がいない状況だったからすすり泣きとか聞こえて来なかったけれど、満場の中で見れば目頭を押さえている人も見られただろうなあ。興味深かったのは観客に女の子たちが多かったことで、グッズ売り場に群がるのもそうした女の子たち。たぶん中学生とか高校生の。

 どうにも映画館だとラブライバーな男子がいっぱい詰めかけて、グッズ売り場に大行列を作っている印象があるけれど、イベントなんかない普通の劇場に観に来るのは、映画に描かれている女子高生たちとはリアルタイムな世代の子たち。見てきっとそこに憧れを抱き、誘われて導かれ、そしてその先へと歩み出す気持をもらっているんだろう。そうした感覚を外して萌えだけで語ると広がりを見落としそう。そういう気分もあって良いけど本当に届いて欲しい層に届きいていることも理解して、これからの展開を見ていこう。本当にスクールアイドル部が全国の高校に出来たりして。そうなったら面白いなあ。芸能事務所とか絡まないで自然な動きで出来ないかなあ。それこそ高体連が主導で作るとか。

 ネットでファッションを売ってる会社の偉い人が、ツイッターをフォローしてくれてRTしてくれた人の中から100人に100万円ずつを贈ると行ってフォロワー数を爆増やしてたりするとか。もはや当たる気もしないので今さらフォローはしないし、そうやって配られた100万円が何か苦学生を助けたり母子家庭に暖かい毛布を与えたりはせず、消費なり貯蓄の中に拡散されて消えてしまうだろうから感動の物語には乗りにく。主催した人もそうした意図なんてなく、どちらかといえば名前だけを知ってもらおうとしている宣伝的な試みに、乗ってあげる義理もないけれどそれで売名行為と非難する気も無い。宣伝なんで、やりたいならやれば良いってことかなあ。

 ただ、今はともかくいずれそうした売名も行き届いた先にまだ、お金が手元にいっぱいあったのなら社会の、世界の、人の役に立つことに使って欲しいと思わないでもない。才能があるけれどもお金がなくて飛び出せない人。学びたいけれどもお金がなくて諦めている人。そんな人たちがお金をもらって道を得て、歩き出せるような手助けをしてくれれば10年後、あるいは30年後の世界はもうちょっと良くなるかもしれない。ならないかもしれない。それとも名前を売る裏で隠れてそうした行為を行っていたりするのかもしれないし。

 安田財閥を作った安田善次郎は、表だって寄付とかせず吝嗇家と言われまくったけれども実は匿名でいろいろな寄付を行っていた。日比谷公会堂が出来たのも安田善次郎のおかげ。けれどもケチと誤解されて国粋主義者に敵と思われ、暗殺されてしまった。悔しかったかな。でも自分が望んで隠した名前だから、誤解されても笑っていたかも。死後に東大に安田講堂が寄付されるにあたって、名前が出されたことも存命なら嫌っていただろう。そういった匿名での篤志をファッションを売ってる会社の偉い人が實は実はやっていたなら喝采だけど、言わないのもまた篤志だからそこは想像するしかない。バスキアを買って貸しだし見せてアーティストを喚起しているだけでも良しとするかな。


【1月5日】 読み逃している面白そうな漫画をいろいろと読んでみたくなる時期に来たので、とりあえず入江亜紀さんの「北北西に雲と往け」を1巻2巻とまとめ読み。日本からアイスランドに来た御山慧は17歳だけれどクルマを運転していてそして、クルマと会話できるという異能もあってそして探偵をやっている。とあるクルマを追いかけた先で男が連れていた犬を依頼主の女性の元に連れて行く仕事では、相手のクルマから事情を聞いたりもしていていったいどういう異能なのか気になったけれど、とくにSF的とかファンタジー的な説明はないからもしかしたら、鋭敏な観察力で何か言葉を聞いた気になっているのかもしれないし、本当に声が聞こえるのかもしれない。どっちだろう。

 そんなアイスランドが舞台のクールでハードな探偵ものかと思っていたら、第1巻では祖父がナイスミドルで美女と仲良くなるのを目の当たりにしたり、そんな美女の姉の娘らしい美少女と知り合ったというか、最初は妖精か何かと思っていたら人間でその裸を2回も見てしまったこともあってか、彼女から裸を見せるように求められたりもしてアイスランドはそういった取引が普通に行われているのか気になった。自分は得した気分になっても相手が得した気分になれるとは限らないからなあ。そんな美少女には音の濁りを察知する能力があるみたいで、日本から慧を尋ねてきた弟がどうやら日本の刑事に追われていて、叔父と叔母を殺した疑いがかけられているみたいだけれど、そんなことはないと慧に言って涙まで流して慧を信じさせたものの、アイスランド美少女のリリアにはその音に濁りがあるから2度と連れてくるなと訴える。

 そこから始まる弟の裏と表を暴く物語を読めるかと思ったら、第2巻では慧とは日本で同級生だったアプリ開発を若くしてしている清がやって来て、アイスランドのあちらこちらを観光して回るエピソードが重ねて描かれる。荒涼としていて岩の隙間にたまった砂に草が生えて花が咲いていくアイスランドの大地の苛烈さを感じさせつつ、滝が流れ温泉もあちらこちらに湧いていて大地がそこからわき上がって生まれているエネルギーめいたものも感じさせる。地球の中から噴き出した大地がぐるりと回って日本で沈む。そういう意味でも日本とアイスランドは離れていながらつながりをもっているのかもしれない。そんな合間に弟が悪さをするシーンも挟まれ正体への不穏が募る。第3巻ではそのあたりも描かれていくのかな。殺人ともなれば結構シリアスな展開になりそうだけれど、それもアイスランドが舞台のままで片付くのかな。待とう続刊。

 昨日の沼津行きに比べれば全然近い横浜へと出かけて横浜文化体育館でAPパフォーマーによるAPR KICK A’LIVE2を見る。CGキャラクターがスクリーンに投影されてそれがリアルタイムで誰かのモーションを映して動き誰かの会話を重ねて喋るという複数人で羽織ったVTuberのようなコンテンツだけれど、登場したのはもうずっと以前でここからリアルタイムでCGキャラクターを動かすというアイデアが広がっていったとも言えそう。ダンスと歌とトークのクオリティをそれぞれに維持するために何人かで動かしているという意味では、1人でモーションからトークからこなすVTuberとより大がかりだけれど、それだけ見た目にハイクオリティのパフォーマンスを楽しめる。

 今回もダンスはキレキレで歌も多彩。トークは軽妙で聞いていてまったく飽きさせない。本当にCGで描かれながらも生身のシンジやレオンやレイジやダイヤがそこにいるようにすら思えてくる。なおかつ今回は、録画してあったものを動かしていた感じが以前はあった歌のパートもどこかリアルタイムに演じて歌っているように感じられた。アドリブが混じった歌とかあったし途中で観客に呼びかけたりもしていたし。それがあらかじめ仕込んであったもので、このあたりで盛り上がるのは確実だから「盛り上がってる−」とか言わせている可能性もないでもないけれど、もうちょっと当意即妙にいろいろと話したり歌っているようにも見える。表に見える部分は分からないけれど、中身はそこまで進んでいるのかもしれない。いずれすべてがリアルタイムの所作を乗せたAPRになるのかも。“中の人たち”は大変だけれど。ビッグデータにAIが乗ってすべてがプログラムの中からリアルタイムに創出されていくことも含めて、新しい“人間”がそこから誕生する可能性を考えたい。

 横浜といえば本牧あたりに拠点を構えてヴァイオリンの修理工房を開いている美女が登場する作品が登場。上津レイさんによる「横浜ヴァイオリン工房のホームズ」(メディアワークス文庫、610円)は大学に入って暮らしていたアパートを、ちょっとだけ子猫を拾って里親捜しをしていたことでペット禁止事項にひっかかって追い出された広大という名の青年が、大学で知り合った女子を経由して新居を紹介してもらって行ったら、そこが弦楽器修理工房「響」で広大はそこのオーナーの響子といろいろ会話して、他人のことを知りたがる響子に警察庁のエリート官僚をしている兄との確執を話したくないと思ったものの、結局は話して「響」があるビルで暮らしつつ響子の助手のようなこともし始める。

 天才ヴァイオリニストとして称賛されながらも今は辞めてしまってヴァイオリンを肇とした弦楽器の修理を仕事にしている響子は美人な上に口も悪くてなかなかガサツ。賄い付きとは良いながらも出すのはコーンフレークやカロリーメイトではさすがに広大もたまらないと、喫茶店でアルバイトをしていた時の経験を活かしていろいろと料理を作ったら響子に気に入られてしまった。そんな響子はナゾトキの才能もあってまずは広大の兄がかつてつきあっていながら自殺してしまった女性の件にすいて、自殺の理由を明らかにして広大の兄へのわだかまりを晴らす。以後も日本人がタイタニック号に持ちこんだももの沈もうとしていたストラディバリウスが脱出した少年の手を経て日本へと届けられ、評判になりながらトラブルに見舞われた一件を、謎めいた伝手によってこちらもさらりと解決してのける。

 弾けば分かるし聞けば分かる音楽と音の質や中身。そんな才能を持った響子が洞察も含めていろいろな案件を解き明かしていく展開も楽しい上に、美人ではあってもなかなかどうして、狷介で傲慢な感じを見せてくれるところにもギャップめいた驚きを感じて興味を抱かされる。そもそもが天才ヴァイオリニストとして称賛を浴びながら辞めてしまった理由が不明だし、海外のとんでもないところに伝手を持っているのも不思議だし、そうやって活躍した時期が割と昔だったりしてその本当の年齢が幾つなのかも不詳だったりする。広大がそれを解き明かしたら最後、地の底に眠らされそうだけれどそれでも興味があるので命を引き替えにして是非に響子にお幾つですかと聞いて欲しい。砂糖なら3つとはぐらかされるかな。

 平成最後、平成最後といった惹句が躍って鬱陶しい昨今、30年前のこの時期に昭和最後だと言おうものなら、病状が日々伝えられていた昭和天皇の崩御を前提にしたものだといっていろいろ非難もされただろうから、生前退位を明らかにされたことで初めて、元号の最後を予想の範囲内で振り返ることができているだけで、本来的にはあまり良いものではないといったことを認識しておいた方が良い気もする。というか、平成が次の元号になろうと、そこで何かがパラダイムシフトする訳でもなく、そのまま地続きで時間は流れてそして長い目で見て変わっていくだけの話。第69回紅白歌合戦が、平成最後と言われながらも小室哲哉もいなければモーニング娘。もいないしチャゲ&ASUKAもおらず、単に2018年あたりの音楽事情が現れたものでしかなかったのと同じこと。結果として昭和最後となった1988年の紅白歌合戦も、御三家も新御三家もグループサウンズも中3トリオもピンクレディーも出ていなかったし、あまり騒ぐのもみっともないと思いたい。


【1月4日】 そうだ沼津に行こう。などと思い立ったのは1月4日から公開される劇場版「ラブライブ!サンシャイン!!The school idol movie over the rainbow」の上映と舞台挨拶が沼津で開かれて、その取材の案内が来ていたからであって、そういう機会でもないと行く機会もないし、まだ松の内で他に仕事もないってことで朝から東海道線とかを乗り継いで小田原から熱海を経由し三島を過ぎて沼津入り。家がある船橋からだと3時間くらいで到着できて、まだ朝の9時過ぎってこともあってこれならざっと噂のオリジナルマンホールを見物し、海鮮丼でも食べて上映場所に向かえば十分かと思ったら甘かった。

 なるほど沼津駅前の仲見世商店街に置いてあるマンホールはさっと発見できたけれど、そこから歩いて島津善子ちゃんとか渡辺曜ちゃんを探すのがなかなか大変。曜ちゃんは道の歩道のどちらがわにあるかを確認しないで通り過ぎてしまって、ちょっと戻ってどうにかこうにかゲットできた。そこからさらに歩いて沼津港のそばまで言って黒澤ルビィを発見。これも案内図だとトイレのすぐ前にあるようだったけれどちょっとだけズレていて、気をつけないと別の場所に行ってしまいそうになった。

 そこでどこかから来た若い少年2人組と少し会話。曜ちゃんとヨハネが見当たらなかったというので、だいたいのことを教えて駅方面へと戻る途中にあるはずの、千本浜公園へと酔って黒澤ダイヤを探そうとしてちょっと迷った。何しろ公園だからマンホールの蓋なんてどこにもない。ありそうな場所なら通路かというとそうでもないので見渡して、朝から地元の方が掃除をしていた場所に近づき発見。落ち葉とかを避けてくださっていて見つけ易くなっていた。感謝感謝。そこからちょっと迷いつつ、どうにかこうにか仲見世アーケードへと戻り駅の北川へと向かって梨子ちゃん果南ちゃん花丸ちゃんを見つけて沼津駅近郊はコンプリート。内浦に校章というのもあるみたいだけれど、流石に遠くて行けなかった。

 それで気がつくと時計はすでに11時近くになっていて、正午には上映場所にたどり着きたかったんで食堂には寄らずコンビニがどこかにあるかと市役所方面へ向かったらどこにもなく、仕方が無いので併設の福祉事務所の売店でおにぎり弁当とパンを買ってむしゃむしゃやってから沼津市文化センターへ。すでに大勢のファンがかけつけグッズなんかを買っていた。みんなやっぱり沼津で観たいんだなあ。もちろんAqoursのメンバーが舞台挨拶に立つからということもあるけれど、テレビを観てきて映画も観て、そして歩けばそこが舞台となっている場所で映画を観るのはとても楽しいことなのだ。マンホールの蓋が用意され、ショーウィンドウにもキャラクターのPOPが飾られ、オリジナルバッジが作られ垂れ幕も下がった街の作品への理解や共感を見るのはとても嬉しいことなのだ。

 聖地巡礼と呼ばれる現象が、時に現地の反発も呼んで寂しい思いをすることもあるけれど、大洗と同様にここは街が歓迎してくれている感じがした。居心地が良かった。そうした街でありながら、置かれたマンホール蓋に悪さをする者が出てしまったことはファンとして本当に恥ずかしいことで、情けないことでもあるけれどそれすら乗りこえ、新しいマンホール蓋を置いてくれたことにはもう感謝しかない。感涙しかない。そうした歓待に応えるためにも今一度、今度はもうマンホール蓋探しをしないですむ時に言って沼津の街を歩き、近所を回って内浦まで行きたいもの。そこから見える光景から何か、得られるものもあるあろうから。前向きな気持とか。

 ってことで沼津市民文化センターへとたどり着き、映画を観て割と泣く。どこにと言うなら函館を拠点に活躍し、全国大会の出場は確実と見られながらも妹の理亞ちゃんがステージで転んでしまって立て直せず、地方大会で敗退したSaintSnowが、既に3年生だったこともあり、卒業してしまう姉の聖良を今一度、思い返して成し遂げてきたものを心に刻み、記憶に刻んでこれからを歩み続けるために最後のライブをする場面とか、統合再編された浦の星女学院が統合相手の学校から蔑ろにされ、見返してやろうとしてライブの準備を始めたところに、父兄の嫌らしい横やりを押し返して一緒に歩みたいと相手校の一部が名乗りを上げて合流する場面とか。

 それが見たかった、そうあって欲しかったといった思いにしっかり応えてくれる場面で、待ち受けていた困難さの向こう側が見え、明るくて晴れやかな気持になれた。だからそう、これは嬉しさの涙だ。喜びの涙だ。再会とか再確認の涙などでは決してない。ままならないことが沢山あって、諦めたくなることもいっぱいあって、そして実際に投げ出したり逃げ出したりしている人生だけれど、世の中にはきっと見ている人たちがいて、支えてくれている人たちがいて、そうした人たちの思いが結実する瞬間があるのだと教えてくれたことへの感謝の涙だ。自分の場合は。

 映画の構造はある意味で、前作「ラブライブ!」の劇場版となった「ラブライブ!The School Idol Movie」と重なるところがある。水たまりを飛ぼうとして飛べなかった高坂穂乃果。紙飛行機が遠くに飛ばなかった高海千歌。そこに仲間たちが加わり、応援してくれる人たちが出てきて穂乃果は水たまりを飛び越せるようになり、千歌は紙飛行機をとてもとても遠くまで飛ばす。そんな成長のストーリーの中に、ラブライブ優勝を成し遂げたメンバーの離散があり、その前に海外へと出向いて自分たちを再確認する場面があり、タイムズスクエアがスペイン広場になった観光地でのライブがあって、帰国してからμ’sを解散するかでありAqoursをどうしていくかといった懊悩、葛藤があり、そしてそれらを乗りこえて導き出される結論がある。

 違うとしたら「ラブライブ!The School Idol Movie」が声優陣によって結成されたリアルなアイドルユニットも含めて、スクールアイドルとしてのμ’sの完全なる終わりを描き、そして彼女たちは今が最高と言い残して消えてしまった関係で、どこか閉じていく印象を与えられたのに対して、「ラブライブ!サンシャイン!!the school idol movie over the rainbow」におけるAqoursは活動の継続がリアルなメンバーも含めて前提にあって、その上でストーリー的にどういった展開を示唆するのかといった開かれたエンディングになっているように思われたことか。

 多々あるバンドでもアイドルユニットでもメンバーが欠ければそこが終わりとなるものもあれば、メンバーが替わってそれこそオリジナルメンバーが皆無になり、音楽性すら変化してもバンド名ユニット名だけは継続され、そこにいるメンバーがその時に最適なサウンドなりパフォーマンスを見せることで、魂としての名前は維持していくといったものもある。Aqoursの場合はまったく音楽性が変わることはなく、高海千歌という主人公を軸にして渡辺曜と桜内梨子のユニットがあり、黒澤ルビィに島津善子に国木田花丸のユニットもあってその総合に、欠けた3年生の松浦果南、小原鞠梨、黒澤ダイヤの記憶を維持しつつ次ぎのAqours、新しいAqoursが作られていくことになる。

 2つのスクールアイドルの違いというよりは、極めて大人的で属人的で社会的で商業的な理由から来た差異かもしれないけれど、それでもそうなると決められた上に描かれるAqoursのこれからを考える上で、解散というゴールに向かって突き進んでいってある意味で綺麗な終わり方を描けた「ラブライブ!The School Idol Movie」のようなスッキリ感とは違った印象のものに、「ラブライブ!サンシャイン!!the school idol movie over the rainbow」はならざるを得なかった。それが僕には身にピリピリときつつも支えとなって響いた。だから泣いたのかもしれない。

 そうしたストーリーの中に描かれるライブのシーンはミュージカル仕立てでウッとなりつつ、そういうものなんじゃないのかといった納得の上に平準化されたものもあり、予告編で使われて鞠梨の森岡賢ライクなクネクネとした動きが登場するスペイン広場での圧巻のパフォーマンスもあって楽しめた。卒業していくはずの3人が重なったのは、それが決別して捨てるものではなく永遠に支えになっているからで、そうした支えを、記憶を確認して終わるまでが映画だとするならそれは正解。そして続くこれからの物語の中で、あらためて新生となるAqoursを描いていけば良いのだ。それが出来るのだ、「ラブライブ!サンシャイン!!」は。

 さらに言うならSaintSnowのライブも素晴らしくて凄まじかった。もしもあの北海道予選で優勝していたら、決勝大会でAqoursは軽くひねられていただろう。衣装も完璧ならダンスも素晴らしく歌も言い。そんなSaintSnowのライブとそして屋上でのAqoursのライブを一部しか見ていないのは本当に勿体ない。これが「キラッとプリ☆チャン」でプリキャスが導入されていたら、2組のライブは全世界にプリキャスされて山ほど星ほどのイイネをもらってライブをさらに行っていただろう。そこの場面を観るために何度でも、何億回何兆回でも劇場に足を運びたいと思った。もちろん観るなら最前列だ。見上げてこそSaintSnowの印象は目に映えそして網膜に刺さるのだから。

 再話のようであって重なりを感じさせつつ違いを示してあらたなる道を感じさせてくれたという意味で、改めて劇場版が作られた意味があった「ラブライブ!」シリーズ。こうなれば今しばらくはAqoursの活躍に付き合うことにして、次の展開がどうなるかを見極めよう。リアルに登場したAqoursがロートルを未だに含めてパフォーマンスを見せる、なんてことはたまにあっても良いけれど、でもここは新生Aqoursのお披露目というものをやって欲しい。3人のうちの1人が男の娘だったらなお面白いけれども、果たして。


【1月3日】 予告めいたものを見ていた段階から、そんなものだろうと思っていたNHKの「平成ネット史(仮)」はやっぱり平成ではなく21世紀のネット史といった感じ。なるほどウィンドウズ95が登場してネットに繋ぎやすくなたっとか、テレホーダイによって従量制から定額制に変わって夜更かしする人たちがいて大変だったといった外観についての説明はあっても、そうして勃興したインターネットの個人解放から何が芽吹いたかってあたりについてはまるでオミット。後のテキストサイトへと繋がっていく個人サイトのBBSから発展したウェブ日記への言及はなく、それらを束ねることによって一種のコミュニティをネット上に創出した津田優さんの「日記リンクス」という“発明”についても触れずに通り過ぎた。

 そうやって個人サイトが勃興する一方で企業なんかもサイトを立ち上げつつあたら良い技術をどんどんと取り入れ、画像だけでなくVRMLのように3次元的な表現をネット上で見せるような試みを行いテレビや雑誌やラジオといったメディアを包摂した新しいメディアの台頭がもたらした何かを語ることもなかった。1996年って実はインターネットエキスポ’96というイベントが開かれて、ネット上に企業がいろいろなパビリオンを作ってはそこでの表現を競い合っていたんだ。大日本印刷はオノヨーコさんとか板茂さん宮島達夫さん野村萬之丞さんといったクリエイターがアーティスティックな活動を行うパビリオンを作り、ソニーも技術を見せるパビリオンを作って展開していた。

 そういった活動を支えるWEBデザイナーなんかも勃興しては今のライブドアでありネイキッドでありチームラボといったデジタルネイティブなクリエイティブワークへと繋がっている、その萌芽をまったく抑えることなくいきなり2000年代へとすっ飛んではテキストサイトが盛り上がっていただの、2ちゃんねるがいろいろと大変だったのといった話へ進んでしまう。なるほど界隈にはそうした話が受けるだろうけれど、決してそればかりではないってことを語らずこれがネット史だと天下のNHKが喧伝してしまうところに気まずさを覚える。本当に語りたいならそれこそ「電子立国日本の自叙伝」並の取材を行い回数を使って描かないと。でもそれはやらないだろうなあ、結果として日本のネットが世界のネット企業と互し上回ってるってところがあまりないから。

 というか、NHK総合の方で同じ時間帯に放送していた「アニメ『バーチャルのど自慢』」の方が今まさにネットの界隈で勃興してはこれからの日本発の文化となる可能性だってあるし、技術的にもリードできるかもしれないバーチャルYouTuberを大勢集めては、のど自慢だなんって通俗で旧態なことをやらせてその使い勝手の面白さって奴を世界に向けて喧伝していた。NHK総合でキズナアイが「思いで酒」を歌うなんてまさにそこでネット史が作られている瞬間じゃないか。それを裏では今の40代が自分たちのネット経験を懐かしんでいるような停滞気味で後ろ向きな番組を流している。これがNHKの実力で、バーチャルのど自慢をプロデュースしたドワンゴにはやっぱりネットの世界をかき混ぜる力がある、ってことなのかもしれないなあ。毀誉褒貶あるけど勘だけは働く川上量生さん。次の年号でも面白いことやってくれるかなあ。

 こちらも恒例となっている中山法華経寺へと出向いて鬼子母神に初詣。法華経といっても日蓮正宗ではない日蓮宗のお寺でなおかつ日蓮聖人が滞在もしていいた場所だけに霊験もあらたかで、男子の本厄にあたって前と後も含めた3年連続で赴いてご祈祷してもらったこともあって、身体には一切の以上が出なかった。会社はつぶれかけたけど。それから10数年が経って今また今度はより大きな規模でつぶれかけているって話が経済誌なんかに取り沙汰されて、大変ではあるけれどもきっと日蓮聖人がお導きくださるだろう、法難とか仏罰とかへ、ってそれじゃあ拙いんだけど。何がどうあっても健康だけは守りたいのでお願いします厄払い。

 もうないかと思ってのぞいた池袋のP’パルコにあるエヴァンゲリオンストアに福袋が残っていたんで購入。これから起こることの影響でもって来年も買える気がしないってのもあったし。たぶん5年連続くらいで、オリジナルのパーカーが今年もあってなかなかの格好良さだったんで手が出てしまった。詰めこまれているガラクタも今年はガラクタじゃなくってTシャツがありイラストが描かれたタオルがありiPhoneケースがあり付箋があり傘がありといった具合に総額で2万円は超えていそうな中身だった。使えるものも多くあったんでこれからの季節、家を追い出されて路頭に迷ったらパーカーで寒さを、傘で雨をしのいでタオルで肌を乾かそう。

 せっかく劇場でやっているのだからと、劇場でしか未だ観ることができないらしい「花の詩女 ゴティックメード」を角川シネマ新宿が変じてEJアニメシアター新宿で。午後6時からでも結構な人出で初公開から6年が経っていてもなお、観たい人が大勢いるってことが伺える。あるいは今になってそういう映画があったことを知って観る機会をうかがっていた人とか。そういう人は出てくるゴティックメードがかつてはモーターヘッドと言われていたりして、そこからの変化ぶりに頭を抱えつつ脳内で形状と名前を変換する作業を経験しなくて幸せだねえと言いたい。

 いやでも単行本とか昔のが全部書き換えられている訳じゃないから、読んで混乱するのは一緒か。ダッカスって何だ。破烈の人形のこの差は何だ。とかどうとか。そんな破烈の人形もラストシーンで浮かんでいたことを改めて確認した「花の詩女 ゴティックメード」は淡々と移動するばかりで間が延びる上に詩女の物言いが高慢なのか不安なのか神経質なのか優柔なのか捉えづらいところがあり、そして肝心のゴティックメード線が剣のひとつきふたつきみつきで2機とも吹っ飛ぶ”圧倒的”ぶりは健在ではあったけれど、そうした部分も含めて割と愛おしく思えてしまって楽しかった。

 たくさんなつきにならないゴティックメード戦は力に差があれば決着も一瞬と思えば良いし、移動もそれが都への巡礼の旅なんだからあって当然。そしてキャンキャンうるさいのも人間なのだからと納得しつつ、そうした展開から描かれる舞台となった惑星、植民性の置かれた窮状が感じられ、ヘッドライナーにしても詩女にしても、求められ作り出されて生まれて来たその特別さが意味する、宇宙のさまざまな層で人々が生きて神々も混じって長い時を進んでいるFFS的ユニバースの仕組みが感じられた、ような気がした。

 そうした物語を飲み込みさえできれば、永野護さんの雰囲気にどこまでも近づけられたキャラクターでありメカの描画に圧倒され、劇場だからこその入り組んだ音響から響くゴティックメードのぎゅいんぎゅいんとした起動音であり降りしきる雨の音でありといったものを全身で感じられる。高精細の映像なら家で再現できる時代になってはいても、音響となるとやっぱりホームシアターでは環境的に限界がある。劇場でこそ観せるに相応しいと作り手が思い、パッケージにせずこうして時々でも上映を続ける意味もそこにあるのだろう。凄かった。

 終わりがけに出てきて派手なポージングを取り思わせぶりなことを言っては何もしないで去って行ったエルディアイ・ツバンツヒとか、最近の「月刊ニュータイプ」での「ファイブスター物語」の連載に顔を出してたりするのを観るにつけ、6年という時間をめぐってなお「花の詩女 ゴティックメード」が一連のユニバースにおける核になっていることも感じられる。一過性のお祭りではなく、全体の核となる部分を映像にして現出させたものとして、作られて存在する価値が「花の詩女 ゴティックメード」にはあるのかもしれない。ならばこの続きなり別のエピソードなりを同じだけの音響を映像で作って欲しいと思わないでもないけれど、それをやると連載が止まるので今は勘弁。続いたところでいつ果てるとも知れないんだけれど。生きているうちには終わらないかもしれないなあ。僕も。そしてモーターヘッドではなくゴティックメードとしてメカをにんしきしている若い人たちも。


【1月2日】 全日本女子サッカー選手権こと皇后杯が元日に、それも大阪で行われる意味があるとしたら、テレビ中継がされて天皇杯が元日決戦でないこともあって遠のきがちなサッカーへの関心を引き留める効果があり、また関西のファンに女子サッカーのトップの試合を見てもらって関心をより高めてもらうといった役割もあることは承知だけれど、もしもこれが首都圏の例えば今ならフクダ電子アリーナなりNACK5スタジアムなりで開かれていたら、無料だったら1万人以上は集まったような気がするし、有料でも無料の吹田と同じくらいの人数が集まったもしれない。何しろ日テレ・ベレーザとINAC神戸レオネッサという黄金カードだったから。

 実際のところ、関東では今まさに高校サッカーが開かれているため、フクアリやNACK5や駒場なんかも含めたスタジアムの使用状況はなかなかに汲々。だから今なら関西での開催も仕方が無いところもあるのかもしれないけれど、より多くのキャパを集めたいならそこはやっぱり首都圏で、って思わないでもない。まあ自分が見たいだけなんだけれど。ジェフユナイテッド市原・千葉レディースが決勝に進出したら行かざるを得なかったかなあ。それだけに準決勝は惜しかった。日テレ・ベレーザのサポーターは駆けつけたのかなあ。兄貴分の東京ヴェルディもJ2暮らしが長くなっているだけに、トップリーグで優勝争いをするベレーザにサポーターも心を傾けているのかも。今年はもうちょっとなでしこリーグに通ってみよう。ワールドカップ前だし選手の調子も見ておきたいし。

 Amazon Primeに有料だけれど上がっていた「暦物語」をテレビ放送以来、久々に見て過ごす2019年の明け方。ショートショート的に謎かけめいたイントロがあって、そこにいろいろな意見が差し挟まれた挙げ句に真相が明らかになると怪異ではなく、他愛のない見落としだったり人為だったりといった展開は「物語」シリーズでもミステリに近い雰囲気がある。屋上に置かれた花束とか阿良々木月火が所属している茶道部で取り沙汰される幽霊部員の話とか、聞けばなんだと思うもののそうでなければどこか不思議なシチュエーション。人は見たものから勝手にいろいろと物語を妄想してしまう存在なんだろう。阿良々木火憐が通っている道場に突然木が現れた真相だけが分からなかったんだけれど、本当に突然気配を現したのかな? 道場主が何かを考えさせるために植えたんじゃないのかな。謎めく。

 やっぱり行かなくちゃと埼玉県は久喜市にある鷲宮神社へ初詣に。夏だったかに鳥居が倒れてしまった話を聞きながらも、見に行けてなかったんで今回が初の鳥居がない鷲宮神社詣で。跡となっている部分に左右、門松がおかれてそれなりに格好はついていたけど、そもそも門松って鳥居の代わりになり得るものなのか。木に神様が宿るといった信仰から迎え入れる門として門松は機能しているけれど、鳥居はある意味で神域と俗世とを分ける境目みたいなところがあって、もうちょっと神聖度が高いような気がする。それにやっぱりその偉容が神社の風格を高める。鷲宮神社もだからやっぱり速く鳥居を再建して、いつかの「らき☆すた」の風景を取り戻して欲しいもの。そのためのクラウドファンディングなら多分乗るから。

 鷲宮神社に到着したのが午前8時ちょっと前くらいだったんで行列もなく、スムースに本殿にお参りできて富久銭ももらえておみくじを引いたら大吉で運勢はまずまず。あとで立ち寄った浅草寺ではやっぱり割合の多い凶が出たけれど、去年みたいにガチャよろしく何枚も100円玉を突っ込んで大吉が出るまではやらず。去年は3回4回引いても凶ばかりで、そのため凶が相乗して身辺がとんでもないことになっているんで、ここは霊験あらたかな関東最古の大社であるところの鷲宮神社の大吉をこそ主として、浅草寺の凶を打ち消しておきたい。まあ現実は凶まみれであることに変わりはないんだけれど、2019年は。松が明けたらいろいろと事態も動きそうだしなあ。責任のある人が責任を明確にして責任を取ることがなければ納得しない、というのを基本に起きつつ対峙しよう。責任を責任と感じていない可能性があってのれんに腕押しになる可能性も大だけど。

 浅草では出店を眺めて棒にお好み焼きが巻き付いたような粉モンを1つだけ食べる。前に新宿の花園神社界隈に出ていた屋台で食べたのと同じだなあ。どこかの名物なのか。噂のチーズホットドックは五重塔側に1軒出ていたけれどそれほど行列が出きている感じでもなかった。というか店主が見当たらなかったから、、商売繁盛でうはうはって訳でもないのかなも。大久保というホームな地域だからこそ受けるのかな。とことこと歩いて浅草木馬亭とか浅草演芸場に大勢の観客がいたりして、渋谷だとか銀座だといった場所に若いひとたちがごそっと持って行かれて廃れていた一時の浅草から変わったなあといった印象。これで前みたいに映画館もあればなお賑わうかというと、御徒町から日本橋から日比谷から新宿六本木と劇場も増えてきたんで今さら感。JRの駅はなく地下鉄の駅からも遠いんで休日でないと客も来ない立地では、映画館は作りにくいのかも知れない。時代劇に任侠映画に昭和喜劇を上映する名画座的なものがあったら昭和の日本を感じられる場所として賑わうかな。どうかな。

 上野へと出てアメ横を歩きつつせっかくだからとAVIREXの福袋を1つ買う。いつもだったら池袋のエヴァンゲリオンストアで買ってガラクタとパーカーを入手していたんだけれど、パーカーも溜まりすぎて着ないのも出てきたんで今年は遠慮。ガラクタも本当にガラクタなんだよなあ。日常的に使っているものが1つもないんだよ。AVIREXの方はこれはオリーブドライブのフィールドジャケットといった感じ。ミリタリーってよりは中綿が入った防寒着でこれからの季節には重宝しそう。とりあえず金曜日に沼津に着ていこう。ほかにTシャツとかスウェットとか入っていて総額は3万円くらいかな。その値段で売れないからこその見切りであってめちゃ得はしてないかもしれないけれど、狙っては買わない何かが手に入って普段使いできるのだからこれはこれで。あとは勢いだ。そういうものだ。

 元旦から話題になっていたスクウェア・エニックスによる「星のドラゴンクエスト」のCM映像を見る。元SMAPであるところの今は新しい地図に所属する稲垣吾郎と草なぎ剛と香取慎吾が登場しては、それぞれが「ドラゴンクエスト」に関していろいろと語っていくような展開になりそうで、その第1弾として実は「ドラクエ」をやったことがなかった稲垣吾郎がヤバい発言を連発して開き直って笑いを取るような映像を見せてくれている。吾郎ちゃんなら仕方が無いと思わせる人徳が滲んでいて笑えるし、他の香取と草なぎが共に濃いゲーマーといった雰囲気を漂わせているから、合わせ技的に彼らなら大丈夫と納得できるのかもしれない。

 そうした起用と展開の妙がある一方で、「ドラゴンクエスト」というある種の看板タイトルにジャニーズ事務所とはいろいろある新しい地図を起用してしまった判断にも興味津々。以前からSMAPが起用されていたなら引き続き、と思ったものの中居くんはデレステだし木村拓哉はキムタクが如くで、「ドラクエ」ってイメージからちょっと遠い。そんな2人をそれでもジャニーズに残ったからといって起用して、タイトルのイメージを違う方向に持っていくよりも、従来からのイメージを引き継ぐ3人を採ったと見るのがここは正しいのかもしれない。それで今後、スクウェア・エニックスのタイトルでジャニーズのタレントが起用されなくなったら、やっぱりいろいろあったんだと思うことにしよう。同じような意味で、今年こそのんちゃんがNHKなり民放キー局発のドラマに出るかも気にしたい。宮藤官九郎さんが脚本を手がけるNHK大河ドラマ「いだてん」がいよいよ始まるのだから。


【1月1日】 紅白歌合戦で見たかったPerfumeは、ディープラーニングがどうとか言われたところで、それがステージを取り囲む映像にどれだけ反映されていたのか窺い知ることはできないし、ステージがCGのセットみたいなのと融合してPerfumeの3人がそこに入り込んで角度が変わって映るような演出はテレビのこちら側だからこそ見られるものではあったけど、現場で見たらどうだったのかがちょっと分からないからそこが知りたい。果たして東京オリンピック/パラリンピックとかのイベントで使える手かというと、現場で見ても中継で見てもともの驚きがあるものにしていく必要がありそう。北京五輪で空を歩いた花火だって現場で打ち上げられたもののテレビではCGが重ねられたって話だし。どうなるかなあ。そもそもライゾマティクスは絡むのか。山崎貴監督次第かなあ。

 テレビに出て歌うのが初めてという米津玄師さんは徳島にあって大塚食品が作った美術館の中にある礼拝堂のような展示室を使って歌唱。ろうそくをあんなにたいてしまって陶板が傷まないのか不安になったし、激しいダンスが壁とかに震動したりしないのか心配したりもしたけれど、歌の方はやっぱりとてつもなく巧くって出てくるシンガーたちの中でもトップクラスの歌声を聞かせてくれた。ライブとかではちゃんと顔も出してる訳だしテレビという場で瞬間芸を披露するように歌うのが苦手だったんだろー。ボカロPのハチとして出てボカロを使った歌声を聞かせてくれたらさらにユニークだったけれど、そっちが紅白歌合戦に登場するのはまだ先かなあ、Vtuberはさらにその先、と。アニソンだって未だに真っ当には出られないんだから。壁は高し。その内向きに閉鎖された壁は。

 そして新年。潰れたり追い出されたりといいろいろ面倒事が起きそうな年になりそうだけれど、元旦はとりあえず平和に目覚めて近所の神社やお寺に初詣。お寺の方は別に秋葉山三尺坊大権現というものでもあって神仏習合の中で修験道の流れを組む場所として信仰されてきて、あの桶狭間の戦いに望む織田信長がこの地を通った際に戦勝を祈願したなんて話もある。本当かは知らない。そんな土着の信仰を明治政府は神仏分離を進め廃仏毀釈を行う神社側を持ち上げようとしてお寺の性格が強まった、って感じかな。とはいえ田舎なんで詣でる人は神社かお寺かは関係なしにお参りする場所、ってとらえ方をしていた。きっとそれで良いんだろうなあ、日本というこの国の曖昧さの象徴として。分ければどちらかに角が立つなら丸めて平和に。それが生きていくコツみたいなものってことで。

 名古屋は平和だけれど東京では、原宿の竹下通りだなんて人が大勢歩いてそうな道に車が突っ込んで怪我人が大勢出たみたい。季節に関係なく自爆する奴は自爆するって状況にいつ何時といった身への危険への洗い直しを考える。まずは怪我をされた方にお見舞いをしつつ、今はまだ亡くなられた方がいないことに胸をなで下ろしつつ、どうしてこんなことをしでかしたんだと犯人を思えば、それはやっぱり秋葉原での事件と一緒で、自分だけではどうしようもない気持を誰かにぶつけることで晴らした気になろうとしたといったところか。それで自分が死刑になって消えたかったのか、ただ憂さ晴らししたかっただけなのかは聞いてみないことには分からないけれど、自分ひとりの問題を自分ひとりで生きるにせよ死ぬにせよ、解決できるだけの気力すら持てなかったんだろう。

 興味深いのは、今回の事件が起こったのが、原宿の竹下通りといういわばオシャレの世界的な中心地で、集まる人たちもポップカルチャーやサブカルチャーのどちらかといえば綺麗で世間にも堂々と名乗ってされるような人たちって場所だったこと。2008年の秋葉原はオタクが集まりアニメやゲームやアイドルの聖地といった、サブカルには入ってももうちょっと鬱屈した部分が漂うような文化的集積地であって、そこでなら何か奇妙な出来事が起こっても不思議はないよねといった認識が薄い世間にはあったような気がしないでもない。同類相哀れむというか。それが今回は秋葉原というカードの裏表のような場所で発生した。どういうことなんだろう。

 秋葉原だったら起こりえた、っていった意見は今回、原宿でそうした同類への自爆テロが起こったことから、同じ胡乱さのレッテルを貼り付けることは難しくなった。等しく胡乱なんだよという見解を、原宿側のファッショナブルでスノビッシュでカラフルでクールな人種が受け入れるか、ってところが今はちょっと気になる。まあそこは単純に大晦日から元旦にかけて人が大勢集まる場所なら、渋谷でも原宿でもどちらでも良かっただけなのかもしれない。同類への愛憎入り交じった攻撃ではなく、単純に大勢に自分をアピールできればそれで良かったのかもしれなないから、そこも犯人が動機を言うようになってどういう気持の揺れ動きがあったかを聞くまで判断は下せなさそう。

 気をつけなくてはいけないのは、こうした感情は伝播し行為も連鎖しかねないってことで、秋葉原の通り魔事件が仙台で起こった車を暴走させて大勢を死傷させた一件とか、土浦で起こった通り魔事件に触発されて起こされたように、今回の一件からそうかそういう手段があるんだと感じ取ってぶっ飛ばす輩が出な来ないとも限らない。車で人混みに突っ込むなんてやれば簡単だし防ぎようもないから。そうはさせないための即物的な警備をまずは確実に行いつつ、そんなことはしたくないと思わせるような心と経済と社会のケアを行っていく必要がありそう。景気が良くなれば全部解決しそうな話でもあるだよなあ。長引く不景気が人を追い詰め人を苦しめ人を薄情にしている。その積み重ねが今なら、そうしてしまった政治の責任もまた大変なのだけれど。

 今もって吉野家よりも松屋が大好きなのか分からない松屋大好さんによる「無双航路2 転生して宇宙戦艦のAIになりました」(レジェンドノベルス)を一足早く読み終える。相変わらずに凄い。自分をアサガヤシンという人間だと思い込んでるAIが、AIに設定された規範を超えて艦隊を操作し敵に囲まれ四面楚歌のお姫さまを救い、戦いを勝利に導くといった展開がまずあって、そしてどうして人間がAIに転生したんだといった疑問から浮かび上がる、転生とはまた違った意識の転移の方法が明らかになって驚かされたけれど、第2巻ではどうにか敵をしのいだ一行に行方不明になっていた前の皇帝が捕虜として現れ、解放されて威厳を取り戻そうとして立ちふさがり、さらに敵のとんでもない勢力が攻めてきて一行はピンチに陥る。

 それをどうにかしのいだと思ったら、故国の星で政変が起こってお姫さまの一行は逆賊扱いに。そこもどうにか突破してすべてを取り戻したかに見えたとこに起こるとんでもない悲劇。ジ・エンドとしか言い様のない事態すら物語の中に組み込んで、アサガヤシンは立ち上がってとてつもない逆境からの大逆転を目指す。主人公クラスですら平気で退場させる展開を厭わないで描いていったため、お姫さまの故国奪還という大目的すら通り過ぎてしまっていったいどこに向かって何を走らせているのか掴みづらいところがあるけれど、原点に戻ってアサガヤシンという特別なAIであり人間が目覚めてから自分を取り戻すまでの物語だと軸を定め直すことで、目標が再設定できるような気もしないでもない。それもまた困難な道だし、何しろ肉体が……ちょっと羨ましいかな……でも大変そうなんでそこをどう描くのか、続きを見極めたい。


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