縮刷版2018年9月上旬号


【9月10日】 大坂なおみさんがいて奈良くるみさんがいるなら京都なんとかさんというプロテニスプレイヤーがいるかというといないところが残念至極。同じ近畿に枠を広げて滋賀とか和歌山といった名字なら存在していそうだけれど、同じテニスプレイヤーとなるとさらに幅が狭まるからなあ。アスリートに枠を広げれば神戸ブライアンとってのがいた……いやいやそれはコービー・ブライアントで父親が神戸牛の店でみかけた言葉に触発されてコービーと着けたという話。兵庫県とは縁もゆかりもないらしい。有名人に枠を広げれば三重野瞳さんが……って野がつくじゃん。問題は三重は関西か東海かってところか。どっちなんだろうなあ。ナガシマスパーランドは名古屋だというのは確かなんだけど。うん。

 とりあえず講談社Birthと講談社BOXと講談社BOX−AiRの全作家をサルベージしておいでと、講談社が始めた「NOVEL DAYSリデビュー小説賞」の担当者には言ってあげたい気がしないでもない。そういう自分から探しに行って何を書いているかを確かめ、時代に合わせてチューニングして世に送り出すという、編集者にとっては当たり前すぎる行動すらコストに見合わないものとして今は考えられているのか、過去に1冊でも本を出しながら、今は書いていない作家なり元作家なり前作家なり裏作家の人たちに、自分から名乗り出て書いているものがあるなら持ってきたら出してあげるかもしれないよと言うのが「NOVEL DAYSリデビュー小説賞」。だから、自分から、数ある刊行物で素晴らしかったけれどもレーベルの沈滞とともに埋もれてしまった作品と作家を、見つけて今一度だなんてことは考えていないんだろう。

 というか、過去の埋もれた名作を“復活”させる計画とかはなさそうで、書きためてあるものとか刊行できなかったものなんかを持って来てっていったレギュレーションになっている。でも、刊行されなかったものって往々にしてシリーズの続刊だったりする訳で、それを持っていったところで分かった最初から全部うちで出し直すなんてことはしないだろう。過去に売れなかった作品は売れなかったから出しても売れないっていうのももちろん一理はあるけれど、それは作家についても言えることで、そのタイミングでは売れなかったとしても、今のタイミングで同じのを書いて出せば売れるかもしれないのなら、当時の作品も改めて今の時代に問い直してみれば良いんじゃないかと思うのだった。その方が手間もかからない訳だし。でもやらない。なぜなんだ?

 あと、散々っぱら出しては放り出しておいて何を今さらといった感じが漂うところも、素直にこうした賞の創設を喜べないところか。講談社BOXから「緋色のスプーク」とか出していたササクラさんは次がなく、文学フリマで短編とか書きつつSFを書いてハヤカワSFコンテストに応募し、藍内友紀という名義で「星を墜とすボクに降る、ましろの雨」という、とっても切なくてドライな傑作SFをものにしてリデビューを果たした。岩城裕明さんや織守きょうやさんは講談社BOXの新人賞を取り本も出しながらも後を続けさせられず、角川のホラー大賞へと移ってそっちで賞を獲得し、本もいろいろと出し続けている。もったいないにも程がある。戻ってきてと声をかければ良いのにそうしたことはしないみたい。

 一方で、「ぐいぐいジョーはもういない」で女子野球という素晴らしい世界を描いてくれた樺薫さんや、「ハイライトブルーと少女」や「そよかぜキャットナップ」といった青春を描いた作品を持つ靖子靖史さんは、その後の活動が聞こえてこない。そうした人たちにこそ声をかけ、何かありませんかと誘ってこその後始末なんじゃなかろーか。そこに労力を払うよりも、リデビューと喧伝しては大勢が今一度と思い応募してくる作品の上澄みをすくう方が確立も高いってことなのか。もちろん、再デビューを狙う大勢の元作家なり前作家なり裏作家なり地下作家なりが机に仕舞っておいた作品を引っ張り出し、挑戦することに異論はなく、むしろどんどんとやって欲しいと思うしそこから再デビューがかなえば嬉しい限り。でもその先、いつまで面倒を見てくれるかとなるとそこにもやっぱり“出版不況”の波は及ぶ。次から次へと馬を乗りこえ駿馬を選ぶ焼き畑的稼業に編集がなりつつある中で、つかんだチャンスを逃さずデカくできる自信と突破力を掲げて、臨んでは上澄みだけを飲み続けたい編集を、ここは粉砕してやって欲しいも。何が出るかが今から楽しみ。

 8歳らしい娘が基本的には寄りつかないライトノベルのコーナーに置いてある本のティーンを誘うような表紙絵を見て気持ちが悪いといったことを、親が受けて本まで勝手に撮影してさらす行為のヤバさはやっぱりちゃんとしておくべきで、自分の管理不行き届きで情操に良くないものを見せたならまずは自分が恥じ入ろうと言いたいけれど、でも公衆が利用する本屋にそういうビジュアルがあって良いのと言って来そうだから返すなら、公衆が集う本屋でもさまざまな世代に向けた本があって中にはバストもあらわなお姉ちゃんたちが表紙になっが写真集だの週刊誌だのが置いてあるコーナーもある。それらをいちいちゾーニングしていたらどれだけのコストがかかるのか。だったら利用する側で制約を設けるのが表現の自由が保障された国での振る舞いで、そこを外して自分たちが嫌悪するものを一方的に断罪する危険性を、ここはしっかり考えて欲しいものだけれど正義の使徒には届かないんだろうなあ。「境界線上のホライゾン」の表紙絵でヤバイのは胸じゃなく帯に隠れた股間の方だってことも。

 加工されたものとか言い訳をしているからには、映っているのが本人であることに違いはないんだろう。そしてそれは別に加工なんかではないことも状況から感じられる訳で、日本から台湾まで出向いていっては、台湾に初めて作られた慰安婦像に蹴りを放った人物は確かにいて、その行為に対して台湾から激しい怒りが起こり始めている。台湾が親日だなんて言うのは単に中国とかとの比較の問題であって、台湾人にとっては犬か豚かの違いでしかない日本と中国の統治を経験した彼らが、諸手を挙げて日本のすべてを歓待しているとは考えづらい。そうした空気の中で自分たちにより近い台湾人の同胞が、意見こそ違え何かを作って世に示したものに対して無関係な国であり、かつての支配者でもあった国から来た人間が、靴で蹴りを放てば当然に自分たちの誇りに蹴りが入れられたものだと感じるだろう。

 意見は違えど同胞が蔑ろにされたとも感じて反撃に出る。それが今、台湾で起こり始めている。慰安婦の問題についてはどこまでを事実と認めるかといった問題が常につきまとっているけれど、強制性という言葉の上で決してゼロではなかったといった判断くらいは可能な気がしないでもなく、そうした状況を完全否定してまったくのゼロであり一切の責任はないと開き直ることが困難なのは、これだけ世界に恥をさらしている国ですらしっかりと認めていることからも明かだろう。そうした状況下で相手がちょっと大きく出たからといって、話し合いによって解決へと向かうのが妥当な対応で、そうした手段を求めて赴いたらしい人間が蹴るという行動に出たことは、まとまるものですらぶちこわして一気に状況を悪化させかねない。

 それこそ国が頭を下げるような事態にでもなったら、愛国的行為どころか売国的な振る舞いと糾弾されてもおかしくないけど、界隈だけが愛国だ何だと称えていたりするから不思議というか。サンフランシスコでも過去にそうして騒いだ挙げ句に恥を知れと言われ相手を圧倒的に有利にした。そうした振る舞いを止めるどころか繰り返すのは、自分たちが界隈で英雄と称えられれば、あとは国が面倒を被ろうとも関係ないってことなんだろう。いよいよ火が着いた時に話を持ちこまれた国は何と出るか。親日国からの窘めを突き返して敵に回すならそれもありだけど、そんな度胸が安倍ちゃんにはないだろうからなあ。かといって愛国な人たちを敵に回す度胸もない。どっちつかずで両方にいい顔をしてますます事態は泥沼へ。後を引き継ぐ人は大変な外交を強いられることになりそうだなあ。


【9月9日】 12時間くらい寝ていたらテニスの全米オープンで大坂なおみ選手があのセリーナ・ウィリアムズ選手を破って優勝していた。日本に国籍を有するテニスプレイヤーが4大トーナメントで優勝するのは男女を通して初のこと、かな。大昔にウインブルドンテニスで佐藤次郎選手がベスト4まで行ったことがあったけれど、優勝ではなかったし全米オープンでも錦織圭選手が決勝まで行きながらも敗れたから、やっぱり初の快挙と言えるだろー。セリーナ選手がいろいろと試合中にクレームをつけ、ペナルティも課せられ自滅した感じはあるみたいだけれど、圧倒的なアウェイの中ではなくむしろホームと言っても良い場所で、気持ちを保てなかったのはやはりアスリートとして至らなかった部分があった。だから負けたし大坂選手は勝った。そこに何ら臆する部分はない。

 表彰式でも少し波乱があったみたいで、大坂なおみ選手やセリーナ・ウィリアムズ選手らが立っている場所にブーイングが浴びせられた。たとえセリーナ選手にペナルティを与えたジャッジに対してであっても、それにブーイングを浴びせたら、結果として大坂なおみ選手の勝利にブーイングを浴びせたことに等しいわけで、それに大坂選手が涙ぐむような姿で謝罪の言葉を述べることになった事態に、ブーイングを浴びせた観客は恥じ入るべきだろう。どうであっても勝利を称えられない観客に正義はないのだから。一方で状況を察知して自分を落としてセリーナ選手を称えた大坂選手はやっぱり凄い。これが謙譲の美徳というか、あるいは日本人らしさということか。これにはニューヨークの観客もさすがに自省したことだろう。次に迎えた時は拍手が飛ぶ。すいう国だと思いたい。

 大坂なおみ選手が日本にいたのが3歳までで、ニューヨークに移り住み、フロリダで専門的に練習してきたからといって未だ日本の国籍を持ったままだし、国別の代表では日本を選んでくれている。日本が育てたとか日本が凄いとかって話にはつながりにくいけれど、アスリートってのは国籍とか関係なく育つものなんで、敢えて国をバックに持ち出すことは避けるべきって気がしてる。それでも国籍で言うなら同じ日本から出た選手。その意味では嬉しいという思いは持って悪いものではない。同時に移住して来て日本国籍を有した選手がメジャーな場で活躍することも、同じくらいに喜ぼうという気も改めて抱く。これからどんどんとそういう風に人の移動が起こる中、何をより所にするかどうかはやはり個人としての資質であり、その結果。それを忘れないでいよう。

 それにしても20歳での快挙はやっぱり凄い大坂なおみ選手。若すぎる選手が早々に燃え尽きるのを防ぐ意味もあってか、18歳からそうしたツアーに参加できるようになっている仕組みの中でわずか数年でトップにまで上り詰めた。これまでの大会でそれほど活躍はしてなかったけれど、それもまだスタート地点から間もなかっただけのこと。2年が経って本格的に体も作れてきた中で、いよいよもって伝説作りが始まったとも言えそう。次の四大大会となる全豪オープンまでちょっと間が空くのが悩ましいところだけれど、間に東レパンパシフィックもあるだろうし、トップ選手だけが出られる大会もある。そうした場所で改めて活躍を見せれば、実力がフロックでないことも分かりそう。見守りたい。

 そうだ川越へ行こう。石井颯良さんの「川越仲人処のおむしびさん」(角川文庫)にも出てきた川越の雰囲気を改めて感じようと何年かぶりに埼玉県の川越市へ。前に行ったときがちょうと川越祭りの真っ最中で、駅前からもう人波が続いて小江戸と呼ばれる通りは車も入れず山車が行き交っていたけれど、そうした祭りでもないと目抜き通りになった道路は普通に車が走っていて、気軽に観光できる感じではなかったのがある意味で生活の拠点、生きた街である証であり、ある意味で観光という商機をやや逸している部分も感じさせる。とはいえ小江戸的な建物が並ぶ部分だけを閉鎖したら、車も遠廻りしなくちゃいけなくなって大変なんで、そこは交通量との見合いってことなのかも。危険はそれほどなかたし。

 とりあえず東武川越市駅から西武川越本町の駅を通り抜けてぐんぐんと歩いて小江戸的な通りへ。中程に時の鐘ってのがあって鐘楼になっていて結構な高さがあっていったい、何に使われていたんだろうといった気になる。時間を告げるだけではあれほどの鐘楼はいらないものなあ。そこから歩いて歩いて氷川神社へ。縁結びで有名な神社らしくちょうど神前での結婚式も行われていて神主さんが新郎新婦を前に祝詞を詠んでいた。その後、神殿から出てきた新郎新婦ご一行は氷川会館で披露宴でもあげたのかな。神前の結婚式といえば前に原宿の東郷神社で知り合いの結婚式をのぞいたっけ。名古屋じゃ結婚式場が発達してるんであまりなかった経験。氷川神社だとなおのこと格式も高そうだけれど、それで結婚した人が別れない確率がどれほどのものか、縁結びの神様の実力というのをちょっと図りたくなった。統計は……出てにあよねえ、さすがに。

 帰りもとことこと歩いて戻って時の鐘が鳴るのを見物し、とくに何も食べずに西武新宿線でとことことを戻る。熱かった。2週間くらい前に行った群馬県の高崎市も暑かったけれど、そこから時間も経って9月に入ってこの暑さっていうのは、天気もそうだし内陸部っていう気候もそうなのかもしれない。暑い上に湿度もあって歩くとそれだけで汗が出る。同じ気温でも千葉はもうちょっとさらりとしているような気がするけれど、今日とそれから2週間前は特別に暑かったかもしれない。その日に千葉に行けばやっぱり同様に暑いかな。高田馬場で降りて松屋でごろごろチキンのトマトカレー。普通のカレーのチキン煮込み版よりもトマトとチキンとの相性が良くて好きなのだ。期間限定じゃなくずっと置いて欲しいなあ。

 という訳で千葉の暑さを確かめにフクダ電子アリーナへと行きなでしこリーグのジェフユナイテッド市原・千葉レディースと浦和レッドダイヤモンズレディースの試合を観る。風が吹いてまあ涼しかった。そんなフクアリは久々でなでしこリーグもいつ以来? カップ戦では今ひとつだったジェフレディースだけれどリーグ戦ではとりあえず6位につけていて、負け越してはいないものの引き分けが多い内容に、まずはここから星を落とさず上にじりじり上がって行ければ良いんじゃないかといったところ。そして試合もとりあえず順位的に上にいるレッズレディースに引き分けて勝ち点1を確保して、何とか順位を1つあげてこのまま食らいついていってくれれば降格だけは避けられるんで残る試合を頑張って欲しいところ。アウェイの日テレ・ベレーザ戦とホームのINAC神戸戦は観ておきたいなあ。

 選手ではベテランの深澤里沙選手が厳しく当たって相手の攻撃を見逃さなかったことが大きく引き分けに貢献したんじゃなかろーか。攻撃についてはまだまだフィニッシュが甘いけれどもその寸前までは持って行ける組み立てはできていたし、何よりボールを奪取する能力がすごくあったように見えたんで、あとはもう半瞬、判断力をあげてすぐに放り込むとかすれば相手に察知される前にゴールへと迫れる気がする。山崎円美選手の頑張り次第か。守備では名簿にある2番の上野紗稀選手と4番の千野晶子選手がロングヘアーで色白で美人なんだけれど、ピッチに立つ2人は髪をお団子にして上にあげ、色も日焼けで黒くなっててとってもアスリートしてた。そこがやっぱりプロ意識って奴だろう。プロって訳ではないけれど。

 対するレッズレディースでは右サイドバックに入っていた北川ひかる選手が守備力もあって走力もあって展開力にも長けていて、これからのチームのみならずなでしこジャパンでも主力になっていってくれそうな気がした。下の世代の代表には割と入っていた感じ。髪型がミドルで他にあまり見ずなかなか良かった、って結局見栄え? いえいえやっぱり選手としての身体能力の高さっぽさが見えたので。菅澤優衣香選手はもうしっかりレッズレディースの1員としてしっかりトップを固めてた。トラップからシュートにいく体勢とかやっぱりなでしこジャパンに呼ばれる選手。ほかにそうした選手が海外移籍なんかで少なくなる中で、国内組としてしっかりプレーをしてくれていた。来年のワールドカップでも活躍を期待。元ジェフレディースだけに応援したい。


【9月7日】 ダブルブッキングではあったけれどもチケットを買ってあったんで東京佼成会ウインドオーケストラという日本でも屈指の吹奏楽団によるエヴァンゲリオンの音楽を吹奏楽で演奏するコンサート、「エヴァンゲリオン」ウインドシンフォニーを半分だけ見物。もとがアニメーションのオリジナルサウンドトラックだから曲的にはシーンを印象づける役割は果たしても、音楽そのものを聴かせる訳ではないので印象的なフレーズが続くだけで、盛り上がりには欠けるものになりがちだけれどそこをある程度の起伏をつけ、楽器にもコントラストを交えてテクニックも見せるようにして耳をステージへと引きつけた。あれは鉄琴なのかヴィブラフォンなのか即答できる知識はないけど印象的な音を響かせていたし、トランペットもトロンボーンも時として音を響かせてテレビで聴いた音を耳に届かせてくれていた。

 ゲスト奏者として招かれていたのがエヴァのシリーズでずっと吹いているらしい世界的に知られたトランペット奏者のエリック・ミヤシロさんで途中に登壇しては有名な、とてつもなくハイトーンのサウンドをぶわっと響かせてくれていた。あの高さでずっと出し続けるとかいったいどういう吹き方をしているんだろう。ピストン操作では当然音域は限られるから息の吹き込み方なんだろうなあ。「響け!ユーフォニアム」のような高校生の吹奏楽部にはまずいそうもないタイプというか、いたら全体のバランスが崩れるからソロとか任せられないだろうし。完璧にこなすなら別か。指揮は天野正道さんでブランスバンドでは有名な人であり、アニメーションの音楽もたくさん手がけられている人。だからこそ聞き慣れたエヴァのOSTをしっかりと再現できるんだろう。後半の木管によるアンサンブルは時間もあって聞けず少し残念。次があればまた行くか。

 そうやって「エヴァンゲリオン」ウインドシンフォニーを抜け出して赴いたTOHOシネマズ新宿でサンライズフェスティバルのオールナイトプログラムとして「境界線上のホライゾン」の第2期一挙上映を観る。まずは葵・トーリ役の福山潤さんとホライゾン・アリアダスト役の茅原実里さん、そして監督の小野学さんと原作者の川上稔さんが登壇し、御広敷・銀二役の白石稔さんを司会に1時間ほどトークイベント。久々ではあるみたいだけれどもあれだけの有名声優がぎゅぎゅうづめになりながら収録されたアニメーションだけあって結束も固かったようで、当時の思い出をポジティブに振り返ってくれた。あの分厚い原作を読んで収録に臨める人もそうはいない状況で、福山さんはしっかりと原作を読み込んで行ったとか。それで何でも聴いてくれと。プロだなあ。当時は第3巻くらいまで出ていたのかな。それだめでも7冊。なおかつ設定は超複雑。それでも仕事ならちゃんと読む。声優は瞬間芸では出来ません。

 そして半ば今回の上映がプロモーションにもなっている「境界線上のホライゾン」と「境界線上のホライゾン2」をまとめて収録したBD−BOXの紹介で、特典映像として紹介されたものにひっくり返った。ずっと第3期はないのかと言い続けてきたけれど、繰り出されたのは1巻を1期としてとらえるならばほとんど第9期とも言っていいもので、つまりは羽柴十本槍がその出自も明らかになって武蔵に乗る“関係者”と相対をするといったもの。ミトツダイラと糟屋・武則とか本多・二代と福島・正則とか観ればもう興奮のバトルが繰り出されてはこれで映画が作られればきっと凄いアクションシーンが観られるに違いないと誰もが感じる。直政と蜂須賀・小六なんて武神を操っての戦いだからもうロボットアニメ。さらにはオリオトライ・真喜子を追い詰める石川・数正! そして割って入る葵・喜美! それが動くなんて原作を読んできた人間としてひたすらに歓喜し感涙し感嘆するしか他にない。

 それは川上稔さんも話していたことで、12月にだい11巻の下が出て完結を迎えるらしい「境界線上のホライゾン」シリーズを、テレビアニメーションが放送はされなくてもずっと読んで読み続けてきたファンに対するクリスマスプレゼント的なものらしい。なおかつ映像の後半はその最終巻からの映像化なんてものあるみたいで、連載の終わりと同時にアニメーションが放送された「鋼の錬金術師」みたいなことになっている。とはいえアニメーションって制作にも時間がかかる訳で、それをよくぞ刊行と間に合わせたもの。ちゃんと設定も展開も出来ていたんだろうなあ、それこそ第1期が放送された当時からすでに、オリオトライの出自とかいろいろな。そうした“確認”をしていく楽しさもある第1期と第2期のアニメーションのリリースに、さらに乗っかったとてつもないご褒美を、じっくりと味わうためにもこれは買うしかないかなあ。「ガールズ&パンツァー」のBD−BOXも出るけどそっちも含めてこれは必買だ。しゃあなしだ。ボーナス全注だ。出ればだけど。出ないかも。

 上映の方もユニークでそのままではなくオーディオコメンタリーというかキャラクターになり切っての映像にかぶせる音声が使われていてもう何がなんだかしっちゃかめっちゃか。制作のポイントをバラしたりキャラクターに妙なことを言わせたり。何しろフリーダムだからテレビでは絶対にピー音が入りそうな男性器の呼称とかもガンガンと喋られ、それも女子のキャラクターによって口に出されていて言っててどんな気持だったかを聴きたくなった。BDは全巻揃えているけれどテレビシリーズを見て録画もしてあったから、改めてBDを見返すなんてことはしてなかったんだよなあ。だからオーディオコメンタリーも聴いたのはこれが初。ここまでぶっ飛んでいたとは。聞き直すしかないなあ、割と目の届く範囲にBDとかは積んであるし。

 あと湯気も飛んでいて英国の隅っこで温泉に浸かっていたシーンで、向井・鈴に意外とあったことが判明。着衣でもまあ膨らんでいるけれど、連んでいるのがアデーレ・ヴァルフェットだから流れで真っ平らだと思うところもあった。鈴とアデーレは明らかに種族が違ってた。ミトはまあアデーレに近いかな。そんな“確認”もしつつ原作から端折られた部分があり、それでも頑張って入れた部分があったことも教えられた「境界線上のホライゾン」のもしもアニメーションが特典を飛び越して作られるとしたら、もはや第3期として第3巻の六護式仏蘭西行きとか対羽柴の三方原戦ではなく一足飛びで第10巻と第11巻を特典映像のボリュームアップによる映画として登場することになるかも。とはえい読んでる第11巻の中はヴェストファーレン会議が延々続いて対話がメインでアニメにしたら大変そう。そこはさらりと流して戦闘場面と「運命」との決戦で2部作くらいの映画を作ってくれたら僕は行く。オールナイトに来ていた人も行くだろう。やってくれないかなあ。

 いったん帰って今日が初日の「こんぷれっくす×コンプレックス」をK’s cinemaで観ようと家を出たものの、途中で完売と知って引き返す。荒木飛呂彦展でも診ようと思ったもののこちらは日付指定の入場券のため入るのも面倒そうなんで何もしない週末として今日はのんびりと「境界線上のホライゾン」の第11巻中を読んで過ごすとしよう。それだけでもう1日が過ぎてしまうんだけれど。とりあえず竹中・半兵衛が武蔵を相手にポンコツ続けたところから一変して最強なネゴシエーターぶりを発揮し、そして羽柴と武蔵との戦闘中に少しだけ姿をのぞかせていたルドルフ2世と源・義経がしっかり復帰してきて大きな戦力なり支援者になりそう。この勢いなら北条・氏直もとも思ったけれども襲名を終えて一般市民なのでこちらは無理そう。ってか梅組の面々でもヘルムバケツのペルソナ君の“正体”明かしが済んでない。イトケンとネンジのように異種族というだけで発揮できる存在感ではないだけに、最後に日の目を見せてあげて欲しいなあ。


【9月7日】 「なでしこジャパン」という言葉ができた2004年のアテネ五輪へのサッカー女子日本代表出場というビッグウェーブに先駆け、2003年のワールドカップ出場に向けた苦闘を続け、10万人の完全アウェーというメキシコはアステカスタジアムでのプレーオフ引き分け、そして国立競技場での勝利でどうにか出場権を得た女子サッカーに対してひたむきさを称える声が出始めていたあたりで、女子サッカーを盛り上げたいという機運に答えてくれたのか、女子フットサルチームを率いて看板役を務めてくれた人がモーニング娘。の面々であり、リーダーをしていた吉澤ひとみさんだった。その後もしばらく続いた芸能人女子フットサルチームの顔役として、サッカーをする女子への関心を誘ってくれていただけに、女子サッカーを応援していた身としては大変にありがたかった。

 だから、吉澤ひとみさんが酒気帯び運転をした上にひき逃げ事件を起こして逮捕されたというニュースは残念であり腹立たしくもあって、どうして酒気帯び運転なんかをしたのかというその部分で、厳しい指導を受けて欲しい気がしてならない。露見したらどうなるかなんて分かっていただろうし、自分が運転しなくてはいけないような立場でもなかっただろうはずなのに。気が緩んだのかなあ。そうして酒気帯びなんてしていたから、交通事故を起こしてしまったら露見を恐れて逃げなくてはいけなかった。ただの酒気帯びでもまずいのに、そうした事故が重なっては言い訳もできない。今後にも差し支えるだろう。どういった罰が下るかは分からないけれど、それをまずは果たした後、改めて真っ当な道を歩み直して欲しい。女子サッカーへの貢献は忘れてないから、その返礼も含めて応援はしていきたい。

 なんだそりゃ。2020年の東京オリンピック/パラリンピックに向けて組織委員会だとか国だとかがボランティアを集めようとしているけれども大金を掻き集めた割に市場へと戻すお金の少なさを、世間が訝ってどうして無償で知識や経験を差し出さなくちゃいけないんだといった声も出始めているのを気にしてか、だったら大学生は積極的にボランティアに参加しろ、期間が試験に重なるのなら大型連休を潰して授業をすればいいじゃないかと言い出し、それを大学の方に求める動きを取り始めた。日ごろから大学に対して授業が少ない出欠をとってないからもっと増やせといってる国が、動員のために真逆のことを言ったりするこの矛盾に大学関係者も怒り心頭となっているところに、今度はボランティア活動を単位として認めるから参加を促せと言い始めた。

 おいおい、いったいどういうことかと世間も頭をひねるこの施策、補助金をちらつかされて国に頭が上がらない大学ではすでにこうしたボランティアの単位認定を容認するような態度を見せ始めているらしいけれど、しわ寄せをくらう現場ではやっぱり異論が渦巻いている。というか、どうして東京オリンピック/パラリンピックのボランティア活動“だけ”が単位に認定されるんだ? 今まさに西日本で豪雨のために大勢が困り、大阪でも正規の風害に大勢の人が難渋し、そして起こった北海道での震度7だったところもあった自信でやっぱり困っている人がいる。そうした喫緊の課第に臨むボランティアの学生いんこそ、単位を与えそれこそインターン代わりと認めて就職にだって便宜を取りはからうべきなのに、そうした方へと制度改革をする動きは見えない。

 そんな矛盾を世間も感じて入るから非難の声も上がるんだけれど、決めたことは正しいことでやるべきことだと頑なな国はきっと東京オリンピック/パラリンピックのボランティアをのみ、単位に認め逆に参加しない者から単位を剥奪し就職も不利にするような無茶をするんだおるなあ。いやいや学生だけで済む話でもなくって高齢者にもボランティアの義務を押しつけ参加すれば生きる権利としての“単位”を与えて、それをもって年金支給や生活保護の認定の有利不利を判定し、参加しないものには反逆者の汚名を着せて頭に星形の焼き印を押し地下で都市鉱山の発掘をやらされるんだ、廃棄された携帯電話やPCから貴金属を抽出する。それはどこのインダストリアだ。でも本当にそうした施策が現実になりかねない風潮を、止めるには国を、政府を変えなくちゃいけないんだけれどあと3年は今のままが続きそうなこの雰囲気。国民全員がインダストリアの下級市民として強制労働させられる日も遠くない?

 ボランティアといえば西日本の水害とかで観光客が減っていることを懸念して、連泊してくれるような人には補助金を出すことにしてそれはボランティアにも有効で、ちゃんと活動していると証明されれば1泊あたりで6000円だかが支給されることになったらしい。それで宿泊が補助されれば行こうという気にもなりそうだけれどだったらどうして東京オリンピック/パラリンピックのボランティアには宿泊費やら滞在費を出さないのか、って話にも跳ね返ってきそう。地元の人を使うんだから宿泊なんて必要はないし、そもそおが繁忙期となるだろうその時期に宿泊なんて無理といった声もあるけれど、ボランティアに対する“対価”があっちで認められるなら、こっちでだってという話にもつながってくる。いろいろと斑模様。こうした態度が世間への不信を醸成させていくのかも。やれやれ。

 うーん。北海道での地震で自民党の総裁選を少し先送りしたらどうかといった意見にも執行部は耳を傾ける様子はなく、ただ喫緊の日程を後にズラしてぎゅうぎゅう詰めにして対応することにしたらしい。一応は会見だの討論会だのは開かれるみたいだけれどもこうした日程の過密化を言い訳にして公開討論を避けようとする動きがどちらかの側に出てくる可能性もあって先がぼんやり。震災を理由に逃げたのかと突っ込まれても震災にあたって現職の責務を果たしているまでと返されてはそれ以上、何も言えないものなあ。そして活躍している姿を見せて支持を得る。新規の候補者は見せ場を失い埋没する。だからこその延期による再充填なんだろうけれど、それをやられたらやっぱり都合が悪いんだろうか。もやもやとする9月。

 「Thank you, my twilight」のための映画、って言っちゃうとアニメーションの側を蔑ろにしているように聞こえるからそうとまでは言わないけれども劇場版「フリクリ オルタナ」とそして劇場版「フリクリ プログレ」で共に流れるthe pillowsの「Thank you, my twilight」が実に良くって両方の映画を繋ぐある種のブリッジであり、そして両方の映画を貫く賛歌でもあるかなあと勝手に思っていたりする。「フリクリ」というとやっぱり普通にエンディングの「Ride on shooting star」とかバトルシーンをドライブ感で染める「LAST DINOSAUR」なんかが輝くけれども今回は、OVAに使われてなかった「Thank you, my twilight」が「オルタナ」だと引き締めるような場面、そして「プログレ」だと全体を貫く芯のようになって流れて作品を彩る。

 the pillowsの山中さわおさんんいよれば、何を使うかリクエストがあってその楽曲を劇場版の制作に当たって改めてセルフカバーをしたというからその演奏、その叫び、そのミックスは18年前と違って格段に上がっている。巻き舌の叫びとか本当に耳に響いてくる。欲を言うならもっと本編でデカく流れてライブ感を味わわせて欲しい欲しい気はするけれど、それは上映が落ち着いてからの音響を調整した上での絶音上映なんかに期待しよう。やってくれるかなあ。2本で5時間近くあるから一挙上映となると相当な覚悟もいるし、タイプもずいぶんと違うから戸惑う人もいそうだけれど、the pillows祭りであることには違いがないから、全身でロックサウンドを味わうつもりで行くんだ劇場へ。次は劇場版「フリクリ プログレ」。これもまた一種異様な作品だけれどある意味でOVA版「フリクリ」に原点回帰しているんで、こっちを好む人もいそうかな。僕は女子高生たちの変わらない日々に変わる兆しが訪れもだえる「オルタナ」も好きなんだ。もう1回は見ておくか。


【9月6日】 関西国際空港に閉じ込められた人は、片側の道路とか船とかを使って脱出できたみたいでまずは善哉かと思ったら、今度は北海道に閉じ込められた人が大量に出てしまった模様。ふと目覚めて脇に置いてあるiPad miniを見たら地震速報が出ていて、目をこらすと「震度6強」だなんてとんでもない数字が書いてある。なんだそりゃと起きてテレビを着けたら、すでに明るい北海道で道路が大きく歪んでいる映像が流れててた。そして空を飛ぶヘリコプターからとらえた厚真町というところで、山裾が崩れて家が埋まっている映像も。それだけでも酷い状況だったのに、カメラが惹かれた映像では近隣の山が軒並み崩れて地肌をさらけ出し、まるでゴルフ場が作られた平地のような感じになっていた。

 大雨による土砂崩れだったら降る場所とか溜まる場所とかにも差が出て有る程度は土砂崩れもまとまるんだろうけれど、土台となっている地面そのものが広い範囲でぐらぐらと揺れればこうやって一体の山が等しく崩れることも起こるらしい。頭では分かっていても実際に目にすると、そのあまりにのスケールの大きさに人間とは大自然の狭間で生かしてもらっているのだなあといった思いが浮かぶ。ほかに北海道の山もそうなっているのか、厚真町の一体がとりわけ震源に近い上に地層なんかの関係もあって一斉に崩れ落ちたのか。まずは人命の救出が先として、その後にいったい地球に、北海道に何が起こったのかも知りたいところ。それによって今後、いつか起こるかも知れない他の地域での大地震への備えにもなるから。まさかと思っていたような山体崩壊とか、起こったりするかもしれないし。

 そうした物理的な被害も凄まじいけれど、北海道では列車がすべて止まって電気も停電が起こっていたりして、人がどこかに移動しようにもできない状況。新千歳空港からは飛行機は飛ばず釧路だとか苫小牧まで行って船に乗ろうにもそこまで行く足がない。函館まで行けば青函連絡船に乗れるのかな? って今もまだ青函連絡船って運行されていたっけ。想像しても分からないけどとにかく移動も大変そうな状況で、夏休みの残り香を味わおうと北海道入りしていた人とか、仕事で行っていた人はしばらく大罪を余儀なくされそう。ピストン輸送なんて不可能な広さと距離だし。ってことはススキノあたりで遊んで過ごす? それも電気が来てなかったり地下鉄が動いてなかったりして大変そう。食料が尽きることはないし寒さもまだ大丈夫だけど、このまま何ヶ月も復旧しなかったらと思うと身も震える。それはさすがにないよねえ。

 歴史的な流れとか、人口統計的なものを感情もなく引っ張るならばG7と呼ばれる国々は確かに白人によって作られた国だし白人が人口の多くを締めていたりもし、一方で日本は白人ではない人種の国としてG7には唯一参加していたという状況はある。ただ現実の社会で情勢にも配慮して人間として、大人として、政治家として語るのならばアメリカはバラク・オバマが大統領であったように“白人の国”ではないし、黒人でありアジア系でありネイティブアメリカンといった人たちの存在を“無視”するような“白人の国”という言葉は絶対に使ってはいけないもの。それを政治家が公衆の面前で言おうものなら、とたんに糾弾され罷免され社会的な地位すら危うくなる。それが配慮というものだ。

 なのにこの国の副総理であり財務大臣と来たら平気で欧米は“白人の国”だと公衆の面前で言ってのける。多分突っ込まれても状況的にそうだろ、歴史を見ろよと嘯くだけで会話なんて成り立たないだろうけれど、これはさすがにやっぱり海外の真っ当な政治家なり外交官なら、つきあってはいけない言動だと思うだろう。それに味方すれば自分がレイシストであると思われかねないから。そうした方面から非難を強めていけば、いかに国内で“無敵の人”と化している副総理であり財務大臣も進退窮まりそうなのに、この国では突っ込み批判し真っ当さの前にひれ伏させることなんで起こらない。それをやっても面倒なだけなのか、何か実害を被るのか。分からないけれどもこのままスルーされてはいそいそと、3選された安倍総理の下で暴言を嘯き続けることになるんだろう。結果として日本への情愛が薄れても。やれやれだ。

 Jリーグを札束でひっぱたいてサッカーの中継を地上はから奪っていった悪の帝国、とゆーマイナスのイメージをどこか漂わせて日本に参入してきたDAZNは、ドコモと組んだどことなくセンスの悪いCMもあって気持ち的に引き気味に見ている人が多かったような印象があったけれどもここに来てサムライをイメージしたCMを作り、村田諒太選手なんかを引っ張り込んでラスベガスでの試合を応援したりしてスポーツを真剣に応援しているんだといったニュアンスを醸し出そうとしている。そして音楽配信のSpotifyと組んで相互に乗り入れなんかもやって、サブスクリプションの音楽を聞くエッジな層とスポーツ中継を見る層を重ねて感じさせようとしてた。

 SpotifyがそれなりにポジティブなイメージもあったことからDAZNへの印象もプラスへと転じかけているところにUEFAチャンピオンズリーグとELも持ってきて、欧州のクラブチームの最高峰による試合を見せようとしている。こうした戦略が果たしてどこまで訴求するかは未知だけれども濃いサッカーファンにはそれなりにアピールしそう。あとは今日のカンファレンスでサッカーに限らずさまざまなスポーツを見る人がいるといったことをアピールしていて、DD(誰でも大好き)ならぬDSD(どんなスポーツも大好き)な層を得て広がっていく可能性なんかを感じさせてくれた。スポーツって知らないものでも見ていると結構楽しめるもの。そこから関心を広げていく窓にDAZNがなれば面白いんだけれど。どんなスポーツがあったかなあ、ちょっと調べてみるか。

 山下達郎さんが細田守監督の「未来のミライ」を癖はあるしネット雀がうるさいけれども素晴らしい映画と行ってくれてひと安心。すでにして劇場の数も絞られては来ているけれどもそれでも見ておこうという人がいたら嬉しいなあ。ってことで中野サンプラザで個人的には2回目となる山下達郎さんのライブ。3時間以上に及ぶのはいつものこととして今回は寺尾次郎さんの訃報もあってかメンバーだったシュガーベイブからの曲を割とやってくれたような気がした。「WINDY LADY」とか「DOWN TOWN」とか「今日はなんだか」とか。「SONGS」を聴いてる身には慣れた曲だけれども当時のライブのままというのはやっぱりちょっと違った部分もある感じ。分かるほどの聡い耳ではないけれど、それでもテクニシャンたちが競い合って音を重ねたことが感じられる。この音源がいつかライブCDになれば嬉しいんだけれど。

 「今日はなんだか」では達郎さんのカッティングギターの妙技が炸裂。それは他の楽曲でもたびたび見られてやっぱり凄いその速度そのキレその音の積み重ねって奴を感じさせた。これをライジングサンみたいなフェスでも見せていたなら驚く人もいるだろうなあ、ライブで慣れてたってやっぱり凄いと思うんだから、始めてフェスで生の達郎さんを見てこれを聞かされたら誰だこれはってなるだろう。泣かせるメロディアスなギターとは違ったパワフルでリズミカルでキレがあるギターって奴を味わえるから。楽曲では「未来のミライ」から「ミライのテーマ」を演ってくれたのが嬉しかった。新曲ってなかなかバンドに乗せづらいからやらないってことだったけれど、出たばかりの楽曲を演ったのは映画の後押しか。そこから「RIDE ON TIME」へのギターの持ち替えが大変そうだったから無理して挟んだ? 分からないけど良い曲聞けた。もう1回くらい、映画見ておこうかな。


【9月5日】 東京ではちょっと強めに風が吹いて夜にかけて東京メトロの東西線が地上部分で運転を見合わせたくらいだったけれど、台風に直撃された関西の大阪あたりはいろいろ大変だったようで、関西国際空港が高潮に沈みつつ連絡橋にタンカーがぶつかりズレて移動も難しくなり、取り残された人が3000人とも5000人とも出たようす。鉄道が動けば脱出は可能になるだろうし連絡橋も上りか下りのどちらかが生きていればピストンでも何でも輸送をして人は運べる。ただ空港から海外に戻ったりやって来たりする人たちは、どこを使うことになるんだろう。やっぱり伊丹空港か。兵庫県の神戸空港か。船で続々と関空から神戸へと人が動いているという話もあるから、ある程度の想定は出来ていたんだと思うけど、こうまで台風に弱いとなるとインフラとしての強度を勘案し、関西での巨大イベントも見直す必要が出てくるんだろうなあ、って大阪万博のことだけれど。やっぱり海辺でやるつもり? それがアイデンティティになってしまっている首長たちは引っ込めないだろうなあ。やれやれ。

 EPISODE1から登場のエミ・アナンが再び前面に出てきたEPISODE3の「ルパン三世PART5」はヒトログを駆使するエンゾ・ブロンに追い詰められたルパン一家が、ひとり逃げるのを諦め身を差し出した峰不二子の救出へと向かった先でエンゾ・ブロンの口車に乗せられ石川五ェ門が自分はルパンの手下ではないけど仲間でもなくライバルですらないコレクションではないかと煽られ守りを固めずルパンに挑むという展開。そこを真正面から受けきってルパンが倒れた時にエミ・アナンが自分は誰かと明かしてエンゾ・ブロンに呼びかける。ご対面となるだろう次回だけれどそれでエンゾ・ブロンが自分を改めるとも思えず、逆に口車でもってエミ・アナンを揺さぶる展開も想像できそう。長年の相棒の次元大介も揺さぶられていたものなあ。そいういう時に一切ぶれないのが銭形のとっつぁんと峰不二子かも。その2人のルパンへの思い、その2人へのルパンの思いが明らかになるかに注目。

 ジルクニフのナザリック詣でとなった「オーバーロード3」は、ワーカーをあっさりと全滅させたアインズ・ウル・ゴーンがジルクニフ一行は丁重に迎え入れて手打ちもしっかりと行いつつ、相手が何を画策しているかまで読んでいたりするところにナザリックの平穏とそして発展という目的のためなら、妹のために頑張っている少女ですら細切れにするのを辞さない強者の凄みが見えて、やっぱり配下になるより速やかな死を賜るのが安寧のために最適かもと思えてくる。その権力その地位からアインズの軍門に降ったふりをしたジルクニフだって、すべてアインズというかデミウルゴスに読まれていたりすることをどう感じているか、それすらも考慮して考えを巡らせることだってできそうな人間だけにこれからの関係がいろいろと気になる。原作では今いったいどのあたりまで来ているんだろう。そしてどこまで続くんだろう。結末が見えない作品はアニメーションも見ていく気力を維持するのが難しいけれど、毎回楽しいからこれは見ていくことにしよう。

 「ただの取材者です」「700時間もホンネで話したのに?」「長ければ濃いというものではありませんしそもそもホンネは話しておりません。勘違いです」をいう話を閣議決定するか否にちょっと関心。今まさに自民党総裁選が始まろうって時に700時間もつきあった人間がヤバいことをしてたってんじゃあ大変だろうから。そんな日本テレビ放送網におけるNEWS ZEROのキャスターに予定されていたらしい人がならなかった問題。週刊誌なんかがいろいろと身の下の話が理由となって就任が阻まれ関連会社送りにされたと書いていたりする一方、会社の方は違う担当者がいなくなったから次の人間をあてた人事だと説明する。でもそのキャリアなり過去の噂ベースの報道なりからそういう場所に急に行く人材とも思えなかったりするところに、いろいろと身辺に絡んだ話があるんじゃないのって誰もが穿ってみたくなるし、ここで否定しても今後いろいろと話が出てくるだろう。そうなった時が1番ヤバいんだけれどとりあえず否定から入る癖は政府からここにも蔓延って来ているってことなのかも。

 朝からクリスマスおもちゃ見本市2018を見物。バンダイグループも参加して中身も充実してきた感じだった中で、見えたのはサプライズトイという中身が見えないけれども集めて楽しめる玩具のジャンル。タカラトミーが「L.O.L.サプライズ!」で日本でも火を着けた感じがあるけれど、その後続をタカラトミー自体が出す一方でバンダイなんかでも「パーリーポップス!」というクラッカーみたいに引っ張ると人形がポンと飛び出るアイテムを投入してこのジャンルで頑張ろうとしている。「L.O.L.サプライズ!」がカプセルの部分もディスプレイに使えるのとは違ってバンダイの「パーリーポップス!」は筒の部分がどうなるかちょっと不明。でもフィギュアは小さくて飾りやすそうで、そのあたりを好む人もいるかもしれない。展開が気になる。

 個人的にはシー・シー・ピーが出していた、トイレットペーパーを引っ張り込んでは水で浸して弾にして打ち出す「トイレットペーパーブラスター」が気に行って、9メートルも飛ぶし結構まっすぐ飛ぶその弾でもってサバゲーの小さいのをやったら楽しいかもしれないと思った。BB弾と違って紙だから確実に自然い変えるし。水に色をつければ打ち出してあたって色がつくような楽しみかたもできるんで、そのあたり競技種目にしていったらいかが。あとはタカラトミーから12月くらいに出る動物フィギュアの「アニアくじ3 どうぶつのおともだち編」かなあ。ラインアップがフェネックとアライグマとイワトビペンギンとジェンツーペンギンとハシビロコウとミナミコアリクイとオグロプレーリードッグがいて「わーい」となった。理由は言わずもがな。よく揃えた。シークレットも楽しみだ。

 嫌韓だの嫌中だのといったバズワードを下品だからと封印しても、代わりに持ち出して来ているのが反日だの嫌朝日といったキーワードであり主張だったりするところに染みついたポン酢っぷりを見たりする某メディアグループ。だいたいが反日っていうその「日」とはどの「日」かを明確にせず、ただただ安倍政権に反対するような人たちに「反日」のレッテルを貼って批判したいだけ。でもってそれで煽られる一部もいたりするから世間は面倒くさい。その一部がたとえ少数派であっても、味方されていると思い浮かれる人たちの濃縮されていく思考は、結果としてその他大勢を切り捨てて隘路へと自らを追い込みやがて自滅へと歩ませるのだ。

 なおかつ今回は、「反日」とレッテルを貼りたい相手が安室奈美恵さんというところがヤバさ爆発。ダイドードリンコが感謝の気持ちを込めて、これまでの歌詞の英語をつなげた広告を作ったんだけれど、それが朝日にしか出ていないから「反日」だなんてめちゃくちゃな論旨を掲げていたりする。全国紙で沖縄でだって一定部数を出している朝日に広告を出せばカバー率も高いって判断なんだろーけれど、「『そんな朝日新聞は3日から始まった連載の初回で安室を取り上げ、翁長雄志前知事が死去した際にコメントを出したことで、ネット上で“反日”視されていると指摘しています。安室はすでに翻弄されています』とマスコミ関係者」だなんてコメントを、どこかで拾ったか近くで作ったかして掲載し、ニュアンスとしての「反日」ぶりを醸し出そうとしている。

 そう突っ込めば、朝日が悪いんであって翻弄される安室ちゃんは悪くない、そのことはちゃんとコメントで触れてあるとか言い訳しそうだけれど、誰かの言葉であってもそれを借りて紙面に定着させたのは、そう言いたい気持ちが書き手にあるからだし、読んで読者が捉えるのも「安室=反日」というニュアンス。それを掴んで広めることでそうした印象が界隈では広がっていく。そして非難の矛先を本人にも向ける。これは傷つくだろうなあ、知ったら。まあ読んでなさそうではあるけれど、周辺のレコード会社なんかが知ったら怒り心頭、こことはもうおつきあいはしないなんって言い出しそう。そうなったらグループ全体にだって影響は広がるのに、言いたいことが言えればそれがフェイクでも構わないというのもまたその媒体の習い性。そんな反日批判やら朝日批判がわんさかと出て、背を向ける人を加速させちえくんだろう。未来はやっぱりなさそうだなあ。


【9月4日】 ワシントン・ポストが6月に行われた日米首脳会談で、トランプ大統領から貿易に関してなかなかいい顔を見せない安倍晋三総理大臣に向かって「真珠湾攻撃を忘れないぞ」と言ったらしいとホワイトハウス関係者あたりから聞き出し記事にして、決して日米関係は蜜月ではないといったニュアンスを醸し出したとたんに日本の政府あたりから、日米関係にこそ安倍総理の生命線があるんだと言わんばかりにそうした言葉はなかった、いやあったけれどもそれは真珠湾攻撃をやるくらい意欲的な国だったじゃないかといった前向きな言葉だったと、取り繕うような発言が飛び出してきて相当に火消しに躍起になっているなあと世間に印象づけた。

 その後も安倍総理自身がそうした言葉はなかたっとインタビューで言ったと書いていたりして、言ったのかニュアンスが違っていたのか言ってないのか、情報が錯綜するなかでまたしても安倍総理大好き新聞が政府高官の話しとして、言うには言ったけれども別の階段でポジティブな意見交換の中から出たものだったといった記事を書いて来た。つまりはトランプ大統領から脅しなんか受けてないし仲も悪くないと言っているんだけれど、政府高官とはつまり日本の総理官邸あたりの人間であって、アメリカのホワイトハウスにいてトランプ大統領に近い人間ではない。そこから聞いただろう話を書いたワシントン・ポストと比べると、実に遠い場所からの発言を信じて記事にしてるってことになる。

 早速、安倍総理の親派とか書いた新聞の支持者あたりはワシントン・ポストは誤報だとかそれを引用した日本のメディアも全部フェイクだといったニュアンスのことが発せられているけれど、アメリカにだって取材網があるだろう上に、日本の官邸まわりにもニュアンス違いと書いた新聞以上に取材網を張り巡らせている大手で給料も良く経営危機にはなていない新聞やら放送局が、ワシントン・ポストの報道を真っ向否定はせずそして政府高官の話もそのまま書いていないところをみると、果たしてどっちが本当なのかといった疑問も浮かんでくる。まさか1紙にだけ本当のことを喋っているうなんて、日本のメディア状況ではありえないよなあ。だからやっぱりいろいろ透けて見える火消しの構図。そうまで支えても経営危機は助けてくれないのに。くれるの? くれるかなあ。ちょっとだけ気になる。

 かつて報知新聞が「二十世紀の預言」として1901年に20世紀中に実現するかも知れない科学的な進歩をいろいろと書き連ねて、そこにあったたとえば通信であるとか電送であるとか自然破壊であるとか戦略爆撃機であるとか植物工場であるとか高速鉄道網であるとかいろいろと実現していていて、20世紀初頭の想像力の確かさに驚くとともに当時は夢物語であったことをかなえる人間の技術力の進歩度合いにも感心した。時代でいけば未だ明治だったころによくもまあ、そんな想像が出来たものだと思うけれど、当時よりはるかに科学も発達していろいろと実現の目も見える現在において、「二十世紀の預言」程度の未来予測をやったところで失笑されるのが落ち。考えるならもっと遙か彼方を見据え、実現しそうもないけれど実現したら嬉しいことを並べるのが夢ってものなのに、政府とやらは目先の利益実益しか考えられなくなっているみたい。

 報知新聞を参加に入れた読売新聞が報じたその名も「ムーンショット型研究開発制度」では、10年から20年といった短いスパンで解決できそうなことに国がお金を出すとか言っている。そんな目先のことくらい、企業だって十分に考えこれまでにいろいろ手を打っている。国がすべきはさらにその先、国家百年の計にのっとりそれが100年先にかなえば世界が、人類が素晴らしいことになるような夢にお金を振り向けるべきなのに、それでは実益がないからなのか実に目先の小さいことにこだわり並べて悦に入っている。もう阿呆かと。死んだ人にVR空間で出会える? 台風をそらす? 瀕死の患者を人工冬眠させて延命する? そんなの今だってやろうと思えばできるだろうし、やったら意味がないからやってないことばかりじゃん。

 死んだ人にVRで再会できると言うならば、量子コンピュータと無限のストレージを開発してそこに個人から何からあらゆるデータをデジタル化してぶち込んで、バーチャル空間でそれこそ世界を再現できるような未来を目指さなきゃ。台風をそらしたら他に行って被害をもたらすんだから、そこは台風の目となる地球温暖化を防ぐような代替エネルギーなりを研究開発の中から見つけるべきだろう。冷凍睡眠? 数週間延命させたところで決定的な治療の方法なんて見つかるわけがない。SFだったらそれこそ30年から果ては1000年先まで届く冷凍睡眠方法を発明しろと言えば良いのに、そういう無茶はしない。挙げ句にわずか2年で実現性が乏しかったらプロジェクト中止。そんんた短期でやれることなんて限られている。インターネットなんてどれだけの時間をかけて発展してここに来た? 放送だって何十年もかけて今がある。未来のために今を臥薪嘗胆してくぐり抜ける覚悟、そのための出費なくして未来を得ようなんて虫が良すぎるけれど、それで喝采を浴びてこその政治だと思っている人がいるんだろうなあ。独りよがりも大概にしておけと言おう。

 「ブラック・ジャック」が終わって「ドン・ドラキュラ」を連載した後に週刊少年チャンピオン誌上で手塚治虫さんが連載したのが「七色いんこ」。単行本で全7巻だから全3巻だった「ドン・ドラキュラ」よりは長く連載していた感じだけれども、連載時期が1981年から1982年で小山田いくさん「すくらっぷ・ブック」とだいたい被っていながらも、「すくらっぷ・ブック」ほど話を覚えていないのはその頃はあまり手塚治虫という漫画家に自分が興味を持っていなかったからなのか、それとも演劇と泥棒というテーマが難しすぎて入り込めていなかったのか。それでも一応は連載を読んでいた漫画が実に37年とかいった長大な時間を経て乃木坂46とけやき坂46のメンバーによって舞台化されると聞いて、意外なところで手塚治虫作品として評価されていたいんだなあと驚くばかり。他にもいっぱい作品はあるんだけれど、舞台がテーマというのが舞台にふさわしいと誰か考えたのかな。その企画の意図がちょっと知りたいかも。

 この後の手塚治虫作品というと「プライム・ローズ」があって「ミッドナイト」があってといった感じでだんだんと読んでいかなくなった記憶。「ブッキラによろしく!」「ゴブリン公爵」というのもあったのか、このあたりはまるで覚えてないけれど、そうして少年漫画誌からだんだんと居場所を失いつつあった手塚治虫さんが、並行してビッグコミックに「陽だまりの樹」を連載し、そして「アドルフに告ぐ」で週刊文春に登場して大人が読んで読める漫画の旗手として“復活”を遂げたあたりがやっぱり凄いというか。「ネオ・ファウスト」も相当に面白いところを走っていたけれども1989年に死去。平成に変わってすぐの訃報にこれで本当に昭和が終わったと思ったものだった。さても今、こうして舞台化されて“復活”と遂げる少年漫画誌の連載としては最後くらいに面白かった「七色いんこ」がどういう評価を受けるのか。舞台とは別に見守っていきたいなあ。読み返してみるかなあ。


  【9月3日】 歳はたぶんそなに離れていない、ちょっとだけ年上の従兄弟が急逝したと聞いてそういう歳でもないと思いつつ、そういう歳なのかもしれないと思って考え込む。数日前までよく食べよく出かけていた感じがあってもとより体は頑健で、心臓に負担なんかかけている様子もなかったけれども人間、複雑な細胞が寄り集まって出来ているその肉体はどこかがズレればやっぱりキツい状況にも起こりえるってことなのかもしれない。こちらといえばあちらこちらが軋んで痛みもあるのに、不思議と寝込んだりはしないところが弱いながらの適用か。それでこちらが生き残っても家族もいる働き盛りが倒れてしまうのはやっぱり良くない。とはいえ今さらどうしようもないだけに、ただ残された家族を思い悼むのだった。合掌。

 サムズダウンがサムズアップの6倍以上でそしてサムズダウンの数が2万4000とかになるとこれはもはやアンチによるネット上の工作というレベルを突き抜けて、事実としての不評を呼び込んでいるとしかいえなかったりするテレビアニメーション「けものフレンズ2」のPV。PPPが登場した「けものフレンズ」のライブで唐突に好評されたそうで、出演者たちもまるで知らず戸惑ったって話が伝わってくるけれど、いずれ登場してくるだろうとは思っていたからタイミングとしては悪くはない。ただやっぱりその映像がたつき監督と伊佐佳久作画監督、白水優子美術監督が作り上げたテレビアニメーショ「けものフレンズ」の設定とも世界観ともビジュアルとも違っていたりすると、やっぱりどうしてなんだといった思いも浮かぶ。

 きっとサバンナという場所だどういう風に茂っているかを調べ、広大無辺な感じも含めてロングショットとクローズアップを巧みに混ぜてサーバルとかばんとの出会いから水飲み場までの冒険なんかを描いてメリハリのきいた映像をつくっていた「けものフレンズ」に比べると、同じ長さにそろった草の中を等身の高い、それはもともとあった原案のイラストとも違っていたりするカラカルが現れバッタのように飛び跳ねているPVが、そのままアニメーションになったら「けものフレンズ」に感動して感心して感嘆して観劇していたファンはちょっと戸惑いそう。これであの雰囲気がファンを引きつけ設定がファンをのめり込ませた「けものフレンズ」とは違った映像になれば、果たしてどういった態度を示せば良いのかファンも大いに悩みそう。

 そうした差異とかいっさい気にせず、草原でカラカルがはねて丸いセルリアンをパッカーンする映像だと見れば見られないこともなく、ここに声がついて物語がついていけば1本のアニメーションとしては成立するだろう。ただそれがたつき監督と伊佐作画監督白水美術監督に音楽や音響や声優や主題歌が重なって作り上げられた「けものフレンズ」の世界と同一かというとやっぱり戸惑う人もいる。そこでどこまで重ねてくるのか、それともまったく違うストーリーを紡ぐのか。とはいえ舞台「けものフレンズ」にもたつき監督によるアニメーション版のやさしい世界が滲んでいたりする状況で、「2」と銘打たれたテレビアニメーションを作るのはいろいろと勇気もいるだろうなあ。手がけるスタッフには偉いと言いつつ、それでもやっぱり「2」を名乗るなら「タイガアドベンチャー」とつけてくれれば「ああそうなの」と分かるんじゃなかろーか。なにがそうかは「未来少年コナン2 タイガアドベンチャー」を見て考えよう。見られる機会は少なそうだけれど。

 9月1日と2日の映画興行ランキングが発表になって「カメラを止めるな!」は前週と同じ6位に。だんだんと落ちていくのが興行の常という中にあってランク外から上がって来てはずっと居座り続けているのはやっぱり相当にヒットしているってことなんだろー。週末にざっと見て見た大きな映画館のスクリーンはどこもそれなりの大きさで、なおかつだいだい埋まっていた。これだけの観客が見に来てようやく6位ならいったい1位の「検察側の罪人」だとか2位の「銀魂2 掟は破るためにこそある」はいったいどれだけヒットしているのか。「インクレディブル・ファミリー」も4位から下がったものの5位だし「劇場版コード・ブルー −ドクターヘリ緊急救命−」も3位から下がってものの4位に止まり夏興行での強さを表している。

 きっと評判になるだろうと思っていた「SUNNY」が「カメラを止めるな!」にも届かず7位というのは1990年代のJポップまみれの映画をその時代を生きた今の40代とか30代は好んでも、20代とか10代はちょっと縁遠いと避けたってことなのか。他の映画に比べて公開規模が小さいってことはないだろうから、大人が想定しているほどにはターゲットが広くはなかったってことかもしれない。自分たちが育ってきた音楽だからきっと大勢を見るとある程度、歳が上になっている決定権じゃが思っていたりするのかなあ、それはガンダムならいっぱい来るぞと思っているおじさんたちとも同じ心境。でも結論として今の10代に1990年代は遠すぎるってことなのだ。そこを意識しないといけないのかもなあ、映画っていうのは。難しい。

 はやりもう1回くらい見ておきたいと「ペンギン・ハイウェイ」。原作が頭からとんでいて初見に近かった1日目に比べて何が起こるか分かっていたからどういう事情をそれぞれのキャラクターが抱えているかを感じつつ見ていくとやっぱりお姉さんが謎めくというか、いつからそこにいてどういうきかっけからペンギンを出すようになってそれがどれくら続いていたのかが映画だと分からないだけに、海なるものが急に現れたので急にセーフティとしてのお姉さんが投入されたのか、特異点的な場所だけにいつ何が起こるか想像もつかないので時間をかけてお姉さんを配置して馴染ませていたのか、そこがちょっと気になった。記憶とかを操作されておらずリアルな時間を生きているアオヤマ君が、歯医者に行ってお姉さんと知り合い仲良くなってチェスをするくらいの期間はあったってことだよなあ、やっぱり。ってことは数カ月? 半年? もっと長いかもしれない。

 だとするとお姉さんが大量にペンギンとか出さずにちょこちょこと小出しにして海の成長を牽制す続けることで、ある種の均衡も保てて海もお姉さんも存続し続けられたかもしれないけれど、それを許さない状況をアオヤマ君とハマモトさんの研究が作り出してしまったとしたら、ある意味でアオヤマ君に関しては自業自得というか自爆でもなったのかもしれない。いっしょにいたいお姉さんに感心をもってもらいたくて頑張ったらお姉さんがいなくなってしまったといった。そこは原作ではどういう処理になっているんだろう。ずいぶんと前に買ったハードカバーが家にあるはずなんだけれど、当然出てこないからここはアニメーションが幅広帯としてついた文庫本を今のうちに買っておくかなあ。つばさ文庫版は読みやすいんだろうか。イラストも豊富なんだろうか。スニーカー文庫版も出せば良いのに細田守監督みたいに。ともあれやっぱり大きかったそのおっぱい。また見たいのでお姉さんに復活を。さもなければ映画をあと1回くらい劇場で。少ない回数が満席近くなってる訳だし、続映も良いんじゃない?


【9月2日】 しばらく前に日本でアメリカンフットボールというかNFLを普及させようとして、NFL Japanという組織がいろいろと仕掛けて「アイシールド21」という漫画を描いてもらいそしてテレビアニメーションにもしてもらって日本にアメリカンフットボールという競技の知識を面白さを広げようとした、って話をNFL Japanの人から聞いたことがあったけれど、結果としてまあそれなりに広まったもののメジャースポーツになったということはなく、最近だと日大フェニックスの不祥事もあって逆にイメージは底に向かって落ちていた入りする。これはいけないと立ち上がった人たちがいて、クラウドファンディングでアメリカンフットボールを応援するアニメーションを制作するプロジェクトを立ち上げた。

 そこで選ばれたのがいわゆる商業アニメーションでアクションをやっている人ではなく、個人アニメーションの人でベルリンで銀熊賞を「わからないブタ」で受賞した和田淳さんというのが何というか意外すぎるというか、細いシャープペンシルで輪郭を描いてどこか太っていたりするキャラクター立ちを動かしシュールな雰囲気を醸し出すクリエイターが、激しいぶつかり合いとスピーディーなランがビジュアル的にはまず目に入るアメリカンフットボールのアニメーションに似合うのか。そこがまず分からないけれども逆に言うならミスマッチ感から何か新しいビジョンというのを見せてくれるかも知れない。選んだ方は単純にベルリンで銀熊だから凄い人、って感覚なのかもしれないけれど、その映像のファンにとっては何が出てくるかという怖い物見たさの期待が今はある。成立すると良いなあ。って応募はしないのか? そこは状況次第か。

 そして植僕は上野で沖縄の八重山列島の竹富島まで旅行に行った。飛行に乗って空を飛び、飛行機を降りて船に乗って道を歩いて民宿に到着し、泊まって沖縄の料理をいっぱい食べて夜に沖縄そばのカップをすすり、泳いでシュノーケリングをしてカヤックにも乗って滝を見て、星砂を拾って夜光虫と戯れ空一杯の星を眺めてそして島の子とも交流をして、心にずっと刻まれるような出会いの思い出をもらったんだ。その時間はほんの70分ちょっと。いや田舎の村にもずいぶんといたからもっと短かったかもしれないけれど、そんな1時間前後の時間でもしっかりと3泊4日の沖縄旅行を楽しんだ。疲れるくらいに楽しんで喜ぶくらいに味わった。それだけの濃さを、それだけの密度を、それだけの空気を、それだけの強さを持ったアニメーション映画だった。「劇場版のんのんびより ばけーしょん」は。

 思い出したのが「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜」で、そこでも僕は昭和52年のダムがある山の中の村へと行って、数週間の夏休みを存分に体験した。寝て起きて遊んで食べて良い話も聞いてそして蛍を見た。ただ、そこが遠からず失われてしまう村だという前提があって、だからこそ最後の夏休みをめいっぱいに遊ぶんだという気持になったところがあって、ノスタルジックな情動を喚起させる方面へと傾いてしまった。命というものを大切にしようというテーマも強く突きつけられた。もちろんそれはそれで存分に意味のあることだった。「劇場版のんのんびより ばけーしょん」はそうした過去への郷愁への感傷ではなく、今という瞬間を映画館に居ながらにして楽しませてくれる映画になっていた。

 例えるなら、映画館のシートに座っている人間を、そのまま飛行機に乗せて遠く沖縄の八重山の竹富島の空気の中へと送り込んでしまうVR。ヘッドマウントディスプレイだなんて重たいものを装着させない。そこが凄い。きっとそれは、登場キャラクターたちが誰も突飛ではなく、昔だったりちょっと前だったりする僕たちと同じ種類の人間たち、子供たちで、そして今を生きている僕たちと同じ視線から沖縄を見て、喜んだり楽しんだりしている様を淡々と描いていったからなのかもしれない。起こりえる出来事を粛々と並べて体験させたからなのかもしれない。自分にも起こりえる、あるいは起こりえた出来事へのシームレスな感情移入が、観客を劇場にいながらにして沖縄の八重山の竹富島なり近隣の海なりへと引っ張り入れたのかもしれない。

 田舎暮らしの諸々へのやはりどこか郷愁なり、異邦人的なのぞき見感覚が見る側のどこかに残っていたテレビシリーズとしての「のんのんびより」とはまた違った気にさせられた「劇場版のんのんびより ばけーしょん」。それは田舎の日常を普通に生きている宮内れんげや一条蛍や越谷夏海や越谷小鞠やほかのキャラクターたちが、素直に感じた沖縄旅行の喜びを描いたからこそ起こりえた。スクリーンいっぱいに広がる感情を、そのまま映画館の中に浴びせたからこそ起こりえた。 世界でも稀な2DアニメーションにしてVRアニメーション映画の金字塔。そう称えたい。今日にまだ長い休みの思い出を作っていない人たちは、映画館に足を運んで70分の3泊4日にどっぷりと浸り沖縄の空気を味わおう。

 公開規模とか公開期間がだんだんと狭く短くなっているような気がしてならない劇場版のシリーズだけに、ここは早く見ておこうと新宿ピカデリーで「K SEVEN STORIES Episode 3 SIDE:GREEN〜上書き世界〜」。TOHOシネマズ系は朝の1回だとかになっていたり上映を取りやめていたりといろいろと機会を作るのが難しさそう。期待していた夏の大作映画たちょっと大変な一方で、飛び込んできたゾンビ映画が爆発的なヒットになっててそちらにスクリーンを振り向けた結果、いろいろと玉突きが怒っているのかも知れない。まあでも半分くらいは仕方がないかなあ、基本的にはテレビシリーズと小説を含めた「K」のシリーズとその登場人物たちにのめり込んでいる人じゃないと分からないし噛みしめられないところがあるから。イケメンが一杯出てくるところは女子に人気の要素だけれど、毎回出てくる訳じゃないし、今回の映画のシリーズでは。

 ちなみに今回は緑のクランを率いる比水流が背後に暗躍する中で、いいところの少年ながらも抑圧を嫌って飛び出した五條スクナがメインキャラクター。緑のクランの中で早く上に行こうと同じクランに所属している面々をだまし討ちするかのようにポイントを横取りしておしあがっている。そこに声がかかって「黒子」なるマスクの人物からいろいろと以来。その中身は誰もが知ってる平坂道反で、今回も御芍神紫に挑んで敗れた五條スクナを拾ってアジトまで連れ帰っては和服になって巨大な胸の膨らみを前に出し、深い谷間を 五條スクナに見せつけていた。ああ埋めたい。ああ触りたい。そう五條スクナが思ったかは不明だけれど、これが「ペンギン・ハイウェイ」のアオヤマ君だったらもう目を見開いていろいろと計算しただろうあなあ、サイズとか弾性とか。それくらい良い物だった。

 というか今回の映画の見所は、何度もカメラで抜かれる平坂道半の胸と谷間であとはオープニングでちらりと登場する淡島世理のやっぱり谷間ってことになりかねない部分もあるけれど、一方では緑のクランを率いる緑の王こと比水流のすこしばかり引っ込んでいた情熱って奴を五條スクナの貪欲さが刺激して、再び行動を起こそうといった感じになるストーリー。本編の多分第2期あたりに向かって大きな意味があるエピソードだったかもしれないけれど、その帰結もまた知っていたりするから決して明るくて前向きな出会いではないよなあ。そこがちょっと寂しいかも。まあでもそんな五條スクナがいたからこそ、功利的な平坂道反も自分をさらけ出して助けたのかも。眠っているうちに挟んでいろいろやっちゃったかは知らないけれど、ともあれひとつにまとまった緑のクランの今後の活躍を……楽しむためにはテレビシリーズを見返すしかないか。録画してなんだよなあ。ネットでは配信ないのかなあ。

 そうかあのメールを読んだか読んでないか分からず突っ込まれるADの人は朝日新聞社の記者になたのか。つまりは相当に優秀そうだけれどそんな今が果たして「カメラを止めるな!」の大ヒットでどうなってしまうのか。6月くらいまではまだ劇場で公開されてそんな映画に出てました的なスタンスでいられたけれど、これだけ大ヒットしてしまうといろいろと聞かれることも多くなりそうだしなあ。でもまあ1本、原稿を書いたしウエブ媒体にも寄稿をして出演者であるというポイントを存分に発揮していたから、それを会社も認めて今後の活動にいろいろと意識をしてくれると、均質化が叫ばれサラリーマン化も懸念される新聞記者の世界に新風が入って楽しいかも。日本SF作家クラブに入ってもとくに何もないまま窓際どころか窓外にあってそのまま遠くへ放り出されそうな会社とは違うってところ、見せてあげてくださいな。あと支局で人間ピラミッドの練習も、ってそれはだから役なんだってば。役なんだろうか?


【9月1日】 公共、というのは営利では計れないものであっても現在において、そして将来において必要だから維持し運営してく必要があるのだけれども今は、公共にも営利を求める風潮が強いようで公共の場に収益化の波が押し寄せ、それで公共が担っていた将来への知見なり財産の保全が難しくなっている、ってことなのか。漫画だとかアニメーションに関連した展示をいっぱいやってくれていた川崎市民ミュージアムが指定管理者制度を導入し、それによって指定管理者制度を専門に請け負っている事業者が運営を任されたことでいろいろと現場に混乱が起こって、館長から学芸員から知見を担ってきた人たちがどんどんといなくなっている模様。

 雇い止めにあったという元副館長もいていよいよ裁判を起こして川崎市民ミュージアムの運営が法廷で云々されることになりそうだけれど、漫画やアニメーションといったものを文化として維持し保全し将来につなげようとする動きの価値といったものが、たとえば川崎市に住んでいる人たちの間で共通認識として浮かぶかというと、今時の儲からないような事業には税金を払いたくないという人の多さもあってなかなか大変そう。そうやって今を価値付け未来に残すことが自分たちにも人類にも、価値のあることなんだと説得したところで、もっと有効なところに税金を回すべきだといった声が起こればそれに勝てない空気がある。

 そう考えると、もはや公共が担ってきた文化の保護と引き継ぎは無理で、別のどこかが担うことになるんだろうけど大昔の財閥が担ってきたそうしたパトロン的な事業が、財閥の解体だとか企業の収益悪化だとか物言いすぎる株主への配慮だとか経営者の胆の座っていなさから、どんどんと縮小していった部分を公共が引き継ぎ、けれども放り出してしまった先には宙ぶらりんとなった文化の保護だとか育成は、廃れすべてが灰燼へと化していくのだろう。IT長者とかプロ野球団を持つとか海外のチームに投資するとかじゃなく、り川崎市民ミュージアムが担ってきた漫画だとかアニメーションの保護育成を引き受ければ、100年にわたって喝采を浴びると思うのだけれど。それこそそうした方面への教養がなければ無理だろうなあ。ありそうもないし。やれやれ。

 声優の今井由香さんが、子供のこともあって声優業を引退とのこと。なかなかに難しい状況にある子供のため、母親としてずっとついていてあげたいという思いは尊くで、応援したくなる一方でいろいろと聞かせてくれた声について、これからどうなるんだろうという気もして残念さも浮かぶ。「星海の紋章」シリーズのジントとか、まだまだこれから展開もありそうなんだけれど、新作も出るみたいだし。あとは「ジオブリーダーズ」の蘭東栄子。神楽総合警備にあって唯一まともな感じでなおかつ戦闘のプロでもある栄子ちゃんがいないとあの事務所、大変なことになったと思うんだ。

 っていうか連載では大変なことになってしまって栄子ちゃんも……。そこまでの展開をアニメーションで見たい気もするけれど、今井さんを始めこおろぎさとみさんや久川綾さん矢島晶子さん(高見ちゃんなんて可愛い声を出していたんだしんちゃんじゃなく)日高奈留美さん長沢美樹さん大塚明夫さん山寺宏一さんに堀勝之祐さんといった豪華すぎる面々を、今になって集めることは難しいからなあ。あとは「エクセルサーガ」だとか「トライガン」といった作品をガンガンとアニメーションにしていたあの時代のヤングキングアワーズのパワーも今に続いているかというと……残ってはいるか「プラネット・ウィズ」と連動しているし。まあでも「ジオブリーダーズ」はアニメ化よりも連載の再開の方が先。いろいろと描き始めている伊藤明弘さんがいよいよとなる日は来るか。それまではDVDで今井さんの栄子ちゃんを見続けよう。部屋のどこかに埋もれているのを掘り出して。

 それはまだ1周目なのだと思いたい。それとも何十周だとか何百周の果ての出来事であっても、いつか誰もがずっと笑顔で触れあっていつづけられる時が巡って来ることを願いたい。松山剛の「聞こえない君の歌声を、僕だけが知っている。」(メディアワークス文庫、630円)を読んで、慟哭にむせびながらそんなことを思った。どういう意味かはこの小説を読み終えた人なら分かるだろう。そうでない人にはこれから読んで欲しいと告げる。きっと同じような思いに捉えられるから。同時に変えられない運命なら今を精いっぱいに生きようと思えてくるから。

 父親を早くに失い、女手一つで育ててくれた母親も大学への合格が決まった翌日に過労がたたったか死んでしまった永瀬英治という青年は、学費を貯めていてくれた母親の思いも受けて大学へと通い始めて友人もでき、その中から「無声少女」というネットで流行り始めている動画のことを知る。歌ってみたのユーチューバーが歌っている動画を投稿しているものではない。映っている少女は確かに何か歌っているように見えるけれど、そこには歌声がついていない。だから無声。けれども真剣に歌うその仕草や表情が話題になって「無声少女」の動画へのアクセスは増え、口の動きに合わせるように歌詞をつけて投稿し直す者も現れた。

 それもまた人気になったけれど、永瀬はなぜか無声のままの動画に強く惹かれて、そのまましばらく「無声少女」を見続けていたある日、講義中にスマートフォンで再生した「無声少女」の動画から音声が流れ始めた。慌てて消して周囲を見渡し、そしてまた再生をしても周囲が驚いている様子はない。どうやら「無声少女」の歌声は自分だけにしか聞こえていない。幻聴か? そう考えるのが普通で、医者にも言って診てもらったものの原因は分からず、症状も認められない。だったら何が原因か? 分からないまま永瀬は聞こえて来た歌詞を書き留め、そこで歌われているいくつかのキーワードを抜き出してはヒントになりそうな場所を類推し、ネットの力も借りてひとつの地域が関係していそうだと割り出す。

 幻聴は止まらず、どうにかしようといった思いもあって割り出された場所を訪ねた永瀬は、そこでひとりの少女と出会う。けれども彼女は「無声少女」ではなかった。それでも「無声少女」の歌っている歌とは関わりがあった。どういうことなのか。それはサクヤと名乗った少女も思ったようで、2人はいっしょになってどうして「無声少女」がその歌詞を歌っているのかを調べ始める。そしてたどり着いたひとつの答えが、慟哭しか浮かばない運命の残酷さといったものを浮かび上がらせる。永瀬は迷う。その運命を選べば導かれるひとつの未来がある。同時に失われる現在もあったりする。永瀬に限らず誰だって迷いそうな運命の分かれ目に対し、出された答えにはただただ頭を垂れ、ありがとうという気持を送りたくなる。

 失われる何かがあると分かっているひとつの未来に向かって、きびすを返すことはせず脇にそれることもしないでまっすぐに歩み出す。それは勇気だろう。そして愛だろう。自分にも注がれてきた愛を、自分だけが独り占めにしてはいけない、後に繋いでいかなくてはいけないという思いもあったのかもしれない。そうすることによって誰かが幸福になるのなら、迷わずに運命を選ぼうとする気持の尊さを浴びて涙する。そして同時に、ここではたどりつけなかった未来へと、もしかしたらつながる運命がいつか訪れるのかもしれないと期待する。1周では変えられなかったとしても、何十回、何百回とトライし続けることでちょっとずつ変わっていった果てに、もう大丈夫な世界が待っているのかもしれない。そうあって欲しいし、そうでなくてはいけないとすら思う。

 もちろん現実はひとつの時間しか流れない。だから選び取った運命を変えることはできないけれど、それならなおのこと、誰かの幸福を最大限に願いって今をめいっぱいに生きることが必要なのだ。今もどこかから発せられているだろう「無声少女」の見えない動画から流れている聞こえない呼びかけを心に感じて、後悔しない運命を選び取る努力をしていこう。泣いていたって始まらない。怒っていても変わらないなら自分に出来ることをしよう。僕だけが君の歌声を知っているなら、それを僕たちのため、誰かたのためにつなげる生き方を誰もがしよう。そうやって生まれる世界から、理不尽な慟哭が少しでもなくなることを願って。

 旧財界展望ことZAITENの2018年10月号に掲載されていた記事が何を今さら名感じ。偉い人が「嫌韓・嫌中が酷すぎて、ジャンクメディア扱いになっている。広告収入が最低ランクのニュースサイトとみられている」って言ったらしいけれど、それやらなけりゃサイトのアクセス数が稼げなかった状況があって、だんだんとそうなっていったらそこから脱することができなくなっていったい何年? もしも止めてなおかつ「10月から紙面と自社ニュースサイトの編集を一括して行う体制に」したら、サイトのアクセスはさらに減って紙面も読まれず共倒れってことになりかねない。かといって嫌韓・嫌中路線を踏襲してネット上での“存在感”を維持すれば、価値は下がる一方で広告収入も落ちるという八方ふさがり。つまるところは遅すぎた。それだけのこと。今はもう本気で心から嫌韓・嫌中の人しか残ってないから立て直しなんて出来ないんじゃなかろーか。

 でもってそんな陣容で、「大阪本社発行の紙面と東京本社発行の紙面の共通化を進める」ことをしたら、ただでさえ反東京的な意識を持って安倍ちゃんだって決して好んではないだろう大阪でいったいどんなことが起こるのか。県紙地方紙の色が濃い大阪本社発行版が東京発の安倍礼賛&嫌韓・嫌中・反民主の記事で埋まったら、今度こそ読者からそっぽを向かれることになりかねないんだけれど、そのあたりはどうなんだろう。すでに気配を感じて読者も弾き始めている状況なんだろうか。遠く4万キロの彼方で起こっていることなんでさっぱり分からないのだった。「経営陣は、社員の3分の1を対象とする大幅な希望退職の準備に入っているとの噂も出回って」いる。どうなるんだろうねえ。まとめてぽいとはいかないから、グループ内で異動っせたりするのかねえ。鴨川シーワールドとか。それもまたユニークではあるけれど。


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