縮刷版2018年8月中旬号


【8月20日】 これが時代かっ! 講談社がウエブ投稿小説発の新小説レーベル「レジェンドノベルス」を10月5日に創刊とかで、何でも「『レジェンドノベルス』は、『小説家になろう』をはじめとする小説投稿サイトに投稿されたネクストファンタジー小説を出版する専門レーベル」だとのことで、つまりは「小説家になろう」からの拾い上げ。体力のある講談社ですら新人賞を作って下読みやってもらい、選考会を開いて編集者が指導し落選組からも拾って育てて世に出し何冊か書かせてヒットへと至らせる場合ではなく、フローとして触れる作品から上澄みの部分を取り合ってすでにある評価の上ですでにいる読者を誘おうという時代なのか。ちょっと愕然。

 とはいえ「小説家になろう」とかでははまったく読んでいない僕のような読者もいるし、SKYHIGH文庫のようにエブリスタから拾って良い作品を出し、その後はオリジナルで続きも書かせるところもあるから運用次第といったところか。きっかけこそネット発でありながらも、あとは出版社の編集者がノウハウを活かして作品を続けさせ、新作も書かせていけば良いんだけれど、ネットでのストックがなくなったらはい終わり、次のネタを探してネットを動き回るってんでは焼け野原しか残らない。他もそうした拾い上げに躍起となっているだけになおさら心配になってくる。

 そこと「レジェンドノベルス」はどう向き合うのか。上澄みではなく底に貯まった澱のようなものを掬い磨いて出す口か。10月刊行の4冊にまずは注目したいところ。ライトノベルを卒業した30代とか40代とかが読んで楽しいエンターテインメント小説を出していくらしいけれど、ライトノベルを書いていた作家たちが大人向けのものをリミッター外して出して読み応えがあったKADOKAWAのノベルゼロが、だんだんと売り上げ重視にシフトしていったのかSFとかミステリーといった硬派なジャンルが後退し、会社ものとかが蔓延るようになってどうしたものかと思案していたりするから、「レジェンドノベルス」もそうならないかがやっぱり不安。売れ行きに左右されず良い物を残すことを考えて欲しけれど。でも商売だしなあ。されもどうなる。

 「どぅわっどぅわっどぅわっははははははははういういういうい」みたいなことを言ってても面白い佐藤二朗さんがその至芸をキャバクラの店長として思いっきり発揮していて見ていてもう観客としてふぐふぐと含みつつ笑うしかないし出演者だって志村妙を演じる長澤まさみが役を離れて吹き出しそうになっているのが見えてそれで映画として良いのかと言えば「銀魂」のの映画だから良いのだと言ってしまうしか他になかったりする。

 同じようにムロツヨシさんが出てきて得体の知れない発明品を見せつついろいろと版権的にヤバいものを繰り出してもそれはそれとして見てぐひぐひと喉だけで笑うしかなかったりするのも「銀魂」の映画だったりするからで、これが福士蒼汰さん主演による「BLEACH」の映画だったら、福士さんが演じる黒崎一護がへっぴり腰で「かかってこんかい」と剣を振る様を朽木ルキアを演じた杉崎花さんが素に戻って笑って許されるものではない。

 漫画からアニメーションとなりアニメ映画も上映されて支離滅裂な無茶苦茶が許される作品となった上に福田雄一監督が実写版でリアルな役者を使ってそうしたパロディを存分にぶち込みつつ、実写ならではの役者たちによるアドリブを解放してしまったことで生まれた独特なシチュエーション。映画でありながら演劇的でコント的でもあるそんな状況を見てこれはこいうものだからと理解し、だから笑っても良いのだと感じてうひうひと腹をよじらせる。「銀魂」で見られたそんな状況が「銀魂2 掟は破るためにこそある」でも冒頭から突き抜けるようにして繰り出された。

 ワーナーブラザースのマークが現れること何度だったか。パロディにすらならないピー音ばかりのキツいコメントがもしもそのまま流れたら誰かの首だって飛びかねない気もしないでもなかったけれど、それすらも衆知の事実としてきっと映画界はスルーしてしまうんだろう。そこはもはや恐怖ですらある。それとも今回こそ小栗旬さんは「銀魂2 掟は破るためにこそある」の演技で日本アカデミー賞主演男優賞を獲得するのか? 無理ならせめて「カメラを止めるな!」の濱津隆之さんに与えられて欲しいけれどもそれもきっと無理だろう。そういうところが日本アカデミー賞の世界とは。

 そして始まった映画はパロディとギャグとコメディと漫才とがアクションも交えつつ繰り広げられて大丈夫なのかと思わせつつ、真選組に起こったクーデーター騒ぎの中で標的にされたクール過ぎる柳楽優弥さん演じる土方十四郎が"ヘタレオタク"となってしまってゲームにフィギュアに邁進する一方で、中村勘九郎さん演じる近藤勲に対する包囲網がじりじりと狭まっていってそして怒濤のトレインアクション&カーアクションへとつながっていく。自分を過信して勝手に孤高という名目の井戸の底へと落ち込んでいた三浦春馬さん演じる伊東鴨太郎が自分を認めさせたいと足掻いてクールに暴れ回ったけれど、本当に大切な物は近くにあったというメーテルリンクの「青い鳥」のような結末が繰り出されて人は見誤るとずっと間違えてしまうものなのかと思い知らされる。信じることの大切さも。

 敵対から理解があって友情になりかかっても責任は果たされそして元に収まるという、1本通った筋を描きつつ周辺で万屋の坂田銀時や菅田将暉さんの志村新八、橋本環奈さんの神楽が絡んで邪魔する者をぶっとばしていく。どちらかといえば脇役といった役柄ではあったけれど、ラストにすべてお見通しとばかりに暗躍する堂本剛あんの高杉晋助が放った窪田正孝さん演じる河上万斉との死闘があって銀さん的には見せ場があった。神楽も吉沢亮さん演じる沖田総悟の車両でのバトルに乱入してしっかり見せ場を作っていた。新八は……存在がもとよりモブなので今回もまあそこそこに。三つ編み眼鏡姿はまあ、可愛かったかもしたりしなかったり。

 しっかりとした筋を起きつつ変奏のようにギャグを絡め見飽きさせないところに上手さがあった「銀魂2 掟は破るためにこそある」。妙さんの太もものような見せ場があったかどうかでいえば、とりあえず夏菜が演じる猿飛あやめの胸とお尻がまあ見られたので良しとしたい。1000年ポーズを決める橋本環奈も可愛かったけれどあのあたりもやっぱりアドリブだったのかなあ。顔が素に戻っていたものなあ。ともあれ、きっと相当に面白がられるだろう「銀魂2 掟は破るためにこそある」からさらに続きが作られだろう。期待して待とう。

 そこで気になるのはお妙さんの太ももか猿飛あやめの胸と尻に匹敵する何かがあるか、そして佐藤二朗さんがまたしても登場して場をしっちゃかめっちゃかに引っかき回して、それでいて観客も出演者も笑わせられるかといったところか。前回は中村勘九郎さんが近藤勲として喰らった全裸を今回は勝地凉さんが演じる将軍徳川茂茂が喰らっていた。あれを例えば前田敦子は見ているのかと考えたときに笑いも少し強さを増しそう。家でああした演技をしていたら前田敦子さんも笑い死ぬだろうなあ。それくらい面白かった。では次は誰が? 次こそは出来れば女優でと思うもののそれをやったらピー音やモザイクでは住まず映画全体がオミットされるので仕方が無い。せめて若いイケメンのピチピチ肌を見せてくれることを願おう。

 さてそんな「銀魂2 掟は破るためにこそある」が週末の映画興行ランキングで1位を獲得して人気のほどを見せつけたけれど、5位には「劇場版七つの大罪 天空の囚われ人」が入ってこちらもしっかりとした支持があることを見せてくれた。「オーシャンズ8」や「ジュラシックワールド/炎の王国」を押し下げたんだからアニメーション映画ながら強いかも。同じアニメーション映画では「未来のミライ」が前週に6位まで上がりつつ今週は9位であと1枚といったところ。上映回数も減りキャパも狭くなるだけにいよいよ来週はランク外へと行ってしまうかも。変わりに劇場に満杯の人を集めるようになって来た「カメラを止めるな!」は何と8位に躍進。前週は11位だったらしいから大きくジャンプアップ。今もまだ満席状態が続いているからしばらくベスト10に止まるだろう。「ペンギンハイウェイ」はどうなるかなあ、「未来のミライ」と入れ替わりつつ9位10位に踏みとどまってくれると良いんだけれど。どちらも好きな映画だから。もっといっぱり見られて欲しいから。


【8月19日】 ワルキューレ・リレーと銘打たれた「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」の応援上映は、1回目に登場したフレイヤ・ヴィオン役の鈴木みのりさんだけは、たぶんニコニコ超会議と重なっていて、記事を書いたり「超歌舞伎」を見たりする用事もあって行けなかったけど、2回目以降はちょうとMX4D版の上映もあって改めて作品への興味も湧いたこともあって、見に行くことにしたんで5回中4回を見物できたし記事にもできた。っていうかチケットを買っておいたら取材の案内が来たんで、自腹で見つつついでだからと記事にもしたといったところ。1回はともかくすべてそうるかは人それぞれだけれど、最前列の記者席に座って取材してからそのまま居座り映画を観ても面白くないから、応援上映の場合は。

 ファンが集まりペンライトを持って振りつつ声も出す応援上映の場で、ひとりそんなお客さんみたいな真似はしたくない。だからやっぱり自腹での入場が必須だったってこと。2回目の西田望見さんの回は応援上映の存在に気付いて一般発売で購入し、安野紀世乃さん東山奈央さんの回は先行で抽選が当たって行けた。小清水亜美さんは先行の抽選で外れてこれは最前の記者席で見ないといけないかもと心配したけど、発売当日に普通に変えて脇だったけれど2列目で見られたから良かった良かった。もらえたフィルムもゲストの小清水亜美さんに合わせたように美雲・ギンヌメールがライブで『チェンジ!!!!!』を多分歌っているところ。「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」の応援上映にふさわしいラストを飾ることができたのも、通い詰めたご褒美かもしれない。でもこれで終わりは寂しいのでもう何回か、応援上映があると嬉しいかなあ。MX4D版の再上映も是非。

 ヤバい国になって来ているとは思っていたけど、これほどまでにヤバい状態になって来ているとはちょっと考えつかなかったというか、きっと導入されるだろう消費税の引き上げに伴う軽減税率について、出版社が刊行物に関して適用を求めているって話がずっと前から出てはいた。文化の振興に資するものだからといった理屈は新聞業界が軽減税率を求めるのと同じ理屈で、それが良心的な意味で適用されれば国として決して悪い話ではないとは思う。世界にもそうした理屈での軽減税率はあるようだし、人が文化に接する機会がそれで増えることによって国が栄え富んで人の暮らしが豊かになるなら歓迎すべきことのような気がする。ただ。

 軽減税率を適用する範囲をお前らちょっと考えろといった感じなところがあるのが目下の大きな問題で、たとえ法律に反していなくても公序良俗の範囲で条例なんかに触れていたりするような刊行物に関して、果たして軽減税率を認めるべきかといった議論がたぶん国の方にもあるし、出版社の方にもありそう。いや出版社の側としては公序良俗に悪かろうが道徳的に良かろうが、出版という文化であり表現の自由という当たり前の権利の範疇で平等に保護されるべきものだといった考え方を持っていてくれると思っているけれど、軽減税率を適用する側において選別めいたものを行いたい意向があった場合、出版社の側である程度の選別を行ってお上の歓心を得る必要があると感じているのかもしれない。

 検閲になるし表現の自由にも反するから国とし規制はしないし分け隔ても表向きは行わない。ただ態度として一律の適用はどうなんだろうねえといった思案の構えを見せておけば、それで適用をすべて除外されて大変なことになるかもしれない出版社として分かりました自分たちでお上が気に入らないだろうものは除きますから認めてくださいと言い出すことになる。いやいやそれは自己検閲であって出版という権力に対抗できる刃を引っ込めるのは敗北にほかならないといった声も出版の側にあるだろうし、なくては出版なんてやってる場合じゃないとすら思うけれど、もはやそうした態度で出版という事業を回していける状態にはないんだろう。

 背に腹は替えられず、我々の側で検閲ではなく編集権の範囲で選別しますからと言ってお上の理解を求める。そんな弱腰で軽減税率の選別導入を進めようとしている節がある。受けてお上はいやいやそれは自己検閲じゃないですか、そして軽減税率の適用範囲を業界が決める権利なんてありませんよと表向きには苦い顔を見せるけれど、内心は自分たちが憲法違反を行ってまで検閲をして適用除外の対象を決めて突きつけるなんてことはやりたくないから、現場が裁量の範囲で行っているなら検討しましょうといったところだろう。

 その意味では落としどころが見えての丁々発止に過ぎず、国と出版業界は別に対立もしていない。ただやっぱり出版業界といっても裾野は広く、大手と呼ばれるところが経営判断からそうした弱腰を見せても全体として呑むことはできないし、出版界で活動しているコンテンツの送り手たち、すなわち作家やクリエイターもきっと反対してくれる。と思いたいけれども自分は健全だから関係ないといった理解で見ぬ振りをするのが大半か。でもそれはいずれ自分にも跳ね返ってくる。ボーダーは常に後退させられ自由は常に狭められる。そうなってしまってからでは遅いんだけれど、そうなる道を自分たちで選ぼうとしている出版界はいったい何がしたいんだろう。そこが知りたい。緩慢な死を選んで出版人としての良心は咎めないのかと。

 総作画監督がいて総作画監督補佐がいて作画監督がい作画監督補佐がいて原画がいて第二原画もいたりして、それが1人2人じゃなかったりする映画っていったいどれだけの手間暇がかけられて、緻密に作られているんだろうとクレジットを見ながら思ったけれどもそれはすまり今見た映画のことであってそれぞれがどういった役割を果たしているのかまるで分からなかったりするのが現代のアニメーションってことなのか。そんな「劇場版 七つの大罪 天空の囚われ人」はつまりホークママ万歳。あとマーリンがエロい。ディアンヌに抱きしめられもしたいけれどそれは命がけになりそうだからいざという時までとっておく。以上。

 いや以上じゃなくって鈴木達央の漫画を原作にしたテレビアニメーション「七つの大罪」のオリジナル劇場アニメーションはエリザベスの父親のバルトラ王が誕生日ということで七つの大罪団長のメリオダスが何か料理を作ることになったけれども面々が贖罪を集めていた場面から実際にアップルパイを作る展開を経てとんでもないものが完成し、それを食べたそうかもうこの段階では登場しているのかと原作漫画を途中まで読んでいた時にはついぞお目にかかれなかったエスカノールが大変なことになり、全身がぐちょぐちょになった豚のホークとメリオダスが泉に行ったらそこで事態がひっくり返った

 天翼人なる存在で騎士めいた家系に生まれたソラーダという少年が、天空に浮かぶ場所から秘密の通路を通って泉から現れたのと入れ替わるようにしてメリオダスとホークは天空へと移動。ソラーダとそっくりだったメリオダスは勘違いをされて捉えられ監禁され逃げ出して復活した魔人を倒して騎士の継承を受けることになったところに3000年前にオシロサマなる巨大な存在によって封印された魔人たちがぞくぞくと復活。相当な強さをほこり天翼人たちを追い詰めていき、メリオダス自身も見た目は苦戦を強いられていたその時、ソラーダを連れて七つの大罪たちがホークママごと豚の帽子亭で移動してきて参戦。メリオダスにちょっとしたアクシデントも起こったけれど、悪い奴だと言われていたって良い奴だっているという当たり前のことに気付いたソラーダが頑張ってメリオダスを戦線に戻して復活した魔人を退ける。

 バトルバトルバトルバトルのストーリーでありなおかつ七つの大罪のバンにディアンヌにキングにゴウセルにマーリンにエスカノールといった面々がそれぞれに持ち味を発揮し魔人を退けていくというカタルシスを味わえる。団長相手に戦って平気な七つの大罪が3000年も封印されていた魔人ごときに後れを取るはずないもおなあ。メリオダスだって本気を出せば指2本で剣を挟んでぶち壊しちょちょいと撃退。でもそれでは話が終わってしまうんで苦戦もさせたその先で、いよいよヤバい展開となったところで現れたあれがオシロサマ? いや色が違うけど。でもどうなんだろう。見ればそうだと思いつつ、それなだどうしてとも思ってしまうその活躍。世界にはまだまだ不思議な生き物がいるのです。たぶん。

 オールスターキャスト的でなおかつ少年の成長もあって相互理解もあったりして楽しいストーリーを、アクションについては圧倒的な作画で楽しめるし、キャラクターもマーリンがエロくてマーリンがエロくてマーリンがエロくてマーリンがエロい。あとディアンヌが大きくても可愛い。それがあるからずっとだって見ていたくなる。バンも強いよなあ。そんな面々の俺TUEEEEを味わい良い物を見た気になれる意が。ラストの落ちも楽しいけれど、to be c0ontinueと出たのはまた劇場版が作られるってことなのかな。マーリン見たいしディアンヌも見たいので是非に続いてくれると良いな。時に対立もしていたりした七つの大罪が仲良く修行とかしていたりする状況がどうやて生まれたのか、しばらく単行本を読んでないので読み返してみるか。ってかどこまで読んでたっけ。


【8月18日】 エロがいけないという訳ではないし、これくらいのエロなら店頭に並んで普通に売られていたって問題はないんだけれどもそれが大人向けのエロ小説を集めたレーベルに入っているのと、ライトノベルのような印象を持たせライトノベルが多く並べられた棚に並べられるレーベルに入っているのとではちょっと意味合いも変わってくるかどうなのか。鏡遊さんという人がKADOKAWAのノベルゼロから出した「セックス・カンパニー」は生きているだけでラッキースケベを連発してしまう男がいて、就職したらそこに入ってきた後輩にラッキースケベを繰り返し、下着を見たり胸に触ったりしてその都度、不可抗力だからと許しをもらっていたというから羨ましい。

 いくらラッキースケベをしようとも、恋愛感情にまで至ることはなかったのも不思議だけれどもラッキースケベたる所以か。そんな能力に目を付けたのが会社の後輩に見えて実は親会社の親会社のはるか親会社にあたる巨大企業を任されようとしている女社長で、引っ張られて自分を守護する9人の極めつけの女性を見つける手伝いをしろと言ってきた。ラッキースケベの能力ならば才能はあっても性格に難のあるそうした女性に近づき籠絡できると考えたらしいけれど、そうはうまく行くかと思われたらそれ以前に呼び出されて出社する途中、追われていたらしい美少女とラッキースケベ絡みで知り合いになってそしてその娘が対象の1人だったと判明する。

 実はアイドルユニットのナンバーツーだった美少女は、やっぱり性格が少し難しくってアイドルとして続けるか辞めるかの瀬戸際にいた。そこで出会った主人公がラッキースケベで籠絡し、ついには処女すら頂いてしまうというから驚きというか。そこでの描写がもう実にリアルというかエロ小説なみちうか。読んで少年なら手をのばしていろいろとやりたくなってしまうだろう。どこにのばすかは内緒だ。さらにはもう1人、どころか双子の姉妹をまとめて突き刺して破って抜き差しして出してといった展開で、ライトノベルを好んで読む中学生がもしも手に取り読んだらどれだけ吹き出してしまうか想像もできない。何が吹き出すかは内緒だ。

 まあでも今時の世間にはそうしたポルノチックな小説なんてありふれているし、ネットにだって転がっているだろう。ならば本としてまとめストーリーに組み入れることで、暴力的な圧力によるものではなくラッキースケベからのおこぼれとしての交流を持てるのかもしれないといった安心感と縁遠さというやつを感じ取れるだろう。誰もがそうそうにラッキースケベはないけれど、もしかしたらと思わされるところで希望を抱いて町に出て物色に励むのだ。合計で9人くらいは集めるみたいなんでまずは2人をゲットし残る人数も含めて描かれていくのかな。アイドルと来て文学少女と来て次は何だろう。格闘家か女教師か兵隊か。シチュエーションプレイが楽しめそうだ。楽しんでるじゃないかしっかりと。そりゃあ、まあ。年頃だし。

 常打ちの小屋だったディファ有明が閉鎖されてどこへ行くかと思われたユークスのARPが高田馬場にあるベルサール高田馬場のホールで開催となって見物に。時々展示会とかが開かれてのぞいたことがあったけれど、仕切りを外された部屋は結構な広さがあってディファ有明よりもステージが遠い感じでそんな会場いっぱいに観客が入って、まだまだ人気は健在、それどこかより大きく発展していきそうな可能性すら感じさせてくれた。実際に次は横浜文化体育館での開催となった模様で、アリーナに席を並べれば5000人は入れられるという会場でいったいどんなパフォーマンスを見せるのか。観客とのインタラクションあってのARPだけに客席が遠いのも困るだろう。かといって花道から出島を作る訳にもいかないところがARPならではの制約。そこをどう乗りこえていくかが注目だ。

 そんなARPで今回大きく変わっていたのが司会を森一兆さんではなくARPのシンジとレオンとダイヤとレイジが行っていたこと。普通のバンドだってメンバーがMCなんかをしてステージを進めていくから、それがARPでも行われただけって言えば言えるんだけれど、問題はARPがデジタルテクノロジーの粋を集めて作られていることで、最先端だけに途中で事故とか起こればすべてが止まってしまう。そうなった時に回復までの場つなぎを実在する人間の司会が行っていたケースが、過去の幾度かのARPで見られた記憶がある。そうしたバッファーを外してもトラブルを表に見せずに進行させられるだけの技術的な蓄積が、ようやくできた現れってことなのかもしれない。

 そしてステージはシンジやレオンが進行を務めREBEL CROSSのレイジとダイヤもちゃんと喋って普通に場を進行させていた。トークの場面では観客席とのやりとりをしっかりしていて、バトルソングでの勝利者がどこにいるかを一丁さんからの案内無しにしっかり見極めていた。どこかにいる声の人がステージを見渡せるようになっているんだろうけれど、そうした背後関係を知る人は知っても声高には言わずにステージ上にいるARPのメンバーがその場で観客席を見ているように感じさせていた。回を重ねてそういう見方ができたってこともあるけれど、違和感を感じさせないくらいに技術が進んだってことでもありそう。それがより大きな会場でどうなるか。楽しみでもあり不安でもあり。注目して開催を待とう。

 2回目から参加した「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」のブルーレイとDVDの発売を記念した応援上映のワルキューレ・リレーも5回目を迎えて千穐楽。美雲・吟宇メールの声の方を演じた小清水亜美さんが、それこそ「マクロスΔ」のテレビ放送直前イベントに登壇していらの出演となって、どういった気持で実は3才児の美雲・ギンヌメールを演じたかを話してくれていた。テレビシリーズとは順番も違っているんで込めた気持ちや思いに違いがあるということも面白かったし、3才児という美雲が他のメンバーとあまり交流を持っていなかったことを演技に入れるため、4人とは離れてアフレコで座っていたという。そこまでして役を作る繊細さが声優さんにはあるってことなんだなあ。勉強になった。

 応援の要点については、普通とは違う生まれ方をした美雲のいわゆる誕生日とされている8月17日が昨日だったこともあって、上映中に美雲が見えたら「おめでとう」とお祝いすることが奨励された。とはいえチラとでも見えたら声援が飛んだ先月のレイナ・プラウラーよりは緩かったのは美雲を見たら「セクシー」と声をかけることも奨励されたから。なおかつエロティックな格好の時には「ハタナカー」というビックウエストの宣伝の人の名前も言うようにお達しが出ていて、どれを言えば良いか迷ったてこともあったみたい。そんな応援上映では小清水さんから求めがあって、ワルキューレが拠点にする巨大戦艦マクロス・エリシオンのアーネスト・ジョンソン艦長が出た時にも声をかけていた。

 「マクロスΔ」でアーネスト艦長を演じていた声優の石塚運昇さんが8月13日に亡くなられていたことが理由で、小清水さんは「アーネストに『大好きだよー』と言ってあげたら喜ぶと思う。楽しいのが大好きだったから」とコメント。実際に上映ではアーネスト艦長が出てくると「艦長」「ありがとう」といった言葉が飛んで、エンディングの後にも感謝の声がかけられていた。本当は追悼なんかしたくなかった、もっと生きていてい欲しかったけれどこれはもうどうしようもないことなら、せめて親しかった声優さんたちの求めも取り入れ、自分たちの思いを乗せて叫びたい。ブルーレイとDVDが出たら買って見ながらアーネスト艦長に「ありがとう」と声をかけてあげよう。


【8月17日】 人気のアニメキャラクターでもプリントされたTシャツを着ていけば、日本好きと言われるファイサル殿下の目にとまってユーはクールなジャパニーズなので宮殿に招待したい泊まってるホテルに話をしに来てくれないかと言ってくれるかもと想像はしたけれど、さすがにサウジアラビアと日本との間でeスポーツの国際親善試合が開かれるという、その調印式の場に水着のシャルがプリントされたフルグラフィックのTシャツを着ていく訳にもいかないんで普通に黒いシャツで行った「日本・サウジアラビア eスポーツマッチ」調印式。サウジアラビアなんて遠い国で開かれる日本にとってのアウェイ戦をどうやったら取材できるんですかと聞いて、エミレーツ航空をチャーターして取材陣も選手も招待するとか言ってくれるかもと妄想したけど、それもさすがになさそうだったんで黙っていた。

 でも来年1月にホーム&アウェイで開催されるゲームの大会で、現地に招待された選手たちが受けるだろう待遇を想像するとそれと同じだけの待遇をサウジアラビアから来た選手たちに返せるかがちょっと不安になって来た。どれだけ頑張ったってサウジアラビアのオイルマネーで作られたゴージャスなホテルにはかないそうもないものなあ。まあゲームの上でなら平等だからと戦って勝てば良いんだろうけれど、日本なら想像がつく選手像がサウジアラビアの場合だとまったく想像がつかない。王族なのか、庶民なのか、庶民というのはあの暑い国で普段はなにをやっているのか、移民なのか、出稼ぎのインド人なのか、シンガポール人か中国人か等々、浮かんでは消えるそうした想像を超えてゴージャスな王族たちが手に黄金のコントローラーを持って登場してきたらちょっと楽しいかも。どんな大会になるのかなあ。

 その人と意識したのはやっぱり「カウボーイビバップ」のジェット・ブラック役だったか。他にも様々なアニメーションでその声を聞かせてくれていて、世界的には「ポケットモンスター」のオーキド博士役で知られている声優の石塚運昇さんが死去。とくに療養していたといった話はなく、周辺の声優さんたちも元気かはともかくちゃんとお仕事をされている姿を見ていたようなんで、やっぱり急な訃報だったんだろう。大塚明夫さんや中田譲治さんなんかと重なりつつもやっぱりちょと違った声質で独自のポジションを築かれていた方。内海賢二さんが亡くなられた後は野太い系の男性声優の中にあってその役を引き継いでいたこともあっただけに、さらにどなたに引き継がれるんだろうかといった関心も浮かんでしまう。目先では「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」の土方竜艦長か。まさに佳境の中でどうなってしまうだろう。最後まで収録されているはずもないだけに後が気になるけれど、今はとにかくありがとうございましたとお礼を言い、安らかにお眠りくださいと悼みたい。黙祷。

 厳しいとは伝えられながらもいったん9位まで落ちた週末ランキングが7位へと盛り返したりしてじわじわと口コミが効き始めている印象も浮かぶ細田守監督の「未来のミライ」。公開からずいぶんと遅れて1カ月くらい経ってようやく始まる東京ドームホテルでのコラボレーションも、映画の評判とともにスルーされるのかと思ったら盛り返していく中でしっかりとファンの関心を得ているみたい。そんなコラボレーション企画がいよいよ始まるってんで前日に使われる部屋をちょっと見物。事前に案内があったようにベッドで頭が位置する上の壁には「未来のミライ」のキービジュアルが大きく張られて映画の中に入ったような気にさせられるし、ベッドスローには赤ちゃんの未来ちゃんとくんちゃんが描かれ、枕はくんちゃんがうずくまった格好で描かれていて、寝ると「未来のミライ」に包まれたような気にさせられる。

 ベッド横の鏡にも洗面台にもくんちゃんや未来のミライちゃんのシールがはられてなかなかキュート。壁には映画の名シーンからキャラクターたちが抜粋されて並べられ、映画の美術も複製画として飾られていて映画を観た人ならその世界に入り込んだような気になれそう。ドアにもちゃんとくんちゃんと未来のミライちゃんのイラストが。ほか、ガイドブックや原作小説が置いてありフィギュアも並びお土産まで用意されていて、これで泊まりが1万円なら嬉しけれどもさすがにそういう訳にはいかない都心の一流ホテル。そこそこではあるけれども記念にはなるし、隣でやってる「未来のミライ展」の入場券もついてくるから作品のファンなら、そして細田守監督のファンなら試してみて損はないって言えるかも。細田監督がコラボレーション企画のために描き下ろしたメッセージカードもあるし。これなんて絶対に手に入らないよね、泊まらなきゃ。だったらやっぱり行くしかない? 独り身では無理かなあ。

 「ポストペット」を作った八谷和彦さんや真鍋奈見江さんらが設立したペットワークスが創立20周年を迎えて青山スパイラルガーデンで展覧会を開くというんで見物に行く。やあメーヴェだ。そしてナウシカだ。もちろんそられがモチーフになったひとりのり飛行具でありモデルの女の子なんだけれど、フィクションを現実にしたいという強い思いで作り続けられたOpenSkyの成果物はそのままやっぱりメーヴェにしか見えないし、それをバックに立つ女の子もナウシカにしか見えないのだった。虚構を力業で現実にした八谷さんにまずは脱帽、そして喝采。ちなみにナウシカみたいな女の子はパーツがガチャガチャと貼り付けられたメカニカルなイメージのマスクを着けていて、見たら池内啓人さんの作品だった。どこか先端だけれどレトロな印象のメカがもうナウシカという作品にピッタリ。八谷さんもそれを意識してピックアップしたんだろう。何という目配り。イタリアのVOGUEに登場し渋谷西武で展覧会も開かれた池内さんのこれからにも期待大。どこか大々的にファッションショーで使わないかなあ。

 フォークな「フリクリ」ともメロウな「フリクリ」とも言って言えそうな気がした石田祐康監督の長編アニメーション映画「ペンギン・ハイウェイ」は既にして人生に疲れている小学生のナンバダ・ナオ太とは違って世界には研究対象が溢れていてそれらを調べて調べて調べ尽くしていくだけで、日々成長が実感できるという明晰で知的な小学生のアオヤマ君がベスパに乗って現れた乱暴で無礼なお姉さんのハルハラ・ハル子にはね飛ばされることもなく、ギターでぶん殴られることもなしに歯科医で働く胸の大きなお姉さんへの私情を募らせつつそれを理性的に理解しているつもりで実は情動から出ているものだけれどもそれすらも無理矢理押さえつけつつ胸を意識する一方で研究にもしっかり取り組んでいった先、お姉さんが何か不思議な行動を見せてそれが近隣で起こっている不思議な現象の原因になっているかもしれないと気付く。

 意識はしても恥ずかしいのか知性が邪魔をするのか甘えず立ち向かってはいかないけれどもそれとなく関心を示すことによって向こうからの関心をもらって嬉しがりつつそれを認めようとはしない小学生のアオヤマ君の純情で捻くれて真っ直ぐという不思議な心理が垣間見えるストーリー。そんなアオヤマ君に迫って押し倒してぶん殴って自分のやりたいことを貫こうとするハル子とは違ってお姉さんは純朴で自分を好いてくれているらしいアオヤマ君を憎からず思いチェスに付き合い実験にも立ち会って自分の謎を解くようにと迫る。それが自分自身への影響をもたらすことも知っていたのか知らなかったのか知ろうとしなかったのか。ラストにそれが受け入れるべき運命のように描かれてちょっぴり理不尽さも覚えたけれども今をそうやってくぐり抜けた先、巡り巡ってふたたび出会える可能性なんかも感じさせてくれるところにバッドエンドではない希望を見た。そんな気がした。

 散々っぱら引っかき回した挙げ句に結局は自分のことだけを追い求めていたハル子とのそこが結構な違い。主体性のあり過ぎるハル子をこそ人間は人間として尊び支えるべきではあるんだけれど、客体としてどこか受け身の人生を辿ることになったお姉さんにもまた儚さを覚えてキュンとする。大人でもそうなんだから人との離別になれておらず決定的なものとして思ってしまいがちな子供にはどれだけの驚きだったのか。直前、アオヤマ君の妹がいつか母親が死んでしまうことに気づきを得て無く描写があったことも離別の永遠性めいたものを突きつけられて心を乱される。それでもやっぱりその気を信じたくなるのが人情。あれだけの勉強を重ねていくアオヤマ君がきっとどこかからペンギン号よろしく引っ張り出してくれると信じたい。アトムスクを追って飛び出していったハル子をナオ太は追わなかったけれど、アオヤマ君ならどこまでだって追っていけるさ、頭が良いから。

 そんなアオヤマ君の声は北香那さんでなかなかの上手さ。小学生みたいにちゃんと聞こえるけれどもその割には高い知性といったものも潜ませているのは中身が20歳の女性だからか。絶好のキャスティング。そしてお姉さんは蒼井優さんでどこかほくそ笑んでニマつくような声はハル子の新谷真弓さんも感じさせてくれるけれど、もうちょっと優しさがあって胸に比例してのエロさもある。あの声で喋りかけられあの胸を押しつけられたら小学生だって誰だって昇天しちゃう。すでにアオヤマ君にそんな兆候が出ているかは知らないけれど。

 ペンギンがいっぱいの作画はどうやったのかが知りたいところ。そしておっぱいがいっぱいの絵はきっと描いていておっぱい好きには嬉しい仕事だっただろうなあ。違う人は分からない。そんな人がいるかどうかもよく知らない。「フミ子の告白」のノンストップなスピーディー映像が得意な人かというと、卒業制作だった「rain town」のようにしんみりとした中に過ぎていく時間を盛り込む演出もできる石田祐康監督がそうした両面を出して描いたような「ペンギン・ハイウェイ」。スペクタクルな場面もあればしんみりとして寂しげなシーンもあって、何が起こっているかドキドキとさせるシーンもありと多彩な映像を作ってくれている。人って成長するものだし、ますますこれからも成長していってくれそう。「陽なたのアオシグレ」にも重なる少女との邂逅。離別はないけどその分きっといろいろな付き合いが始まるんだろうなあ。そんな2人のこれからも見て見たい気が。お姉さんが割って入るとかあったら大変だけれど面白そう。そんな将来をいつか続編が書かれる可能性を信じて望つつ待とう。


【8月16日】 そういえば3泊4日の名古屋滞在中で食べた名古屋めしはといえば、到着してから寄った大須で食べたどてめしと、帰りがけに新幹線に乗る前、名古屋駅の東海道線下りホームに立ち寄って住よしという店でかきこんだきしめんぐらいで、いつもだったら立ち寄るあんかけスパも行かず寿がきやにも寄らなかったのはやっぱり暑さのせいかなあ、ふうふう言いながらあんかけスパを食べたり、寿がきやのラーメンをかきこんだりするのはなかなか大変。もちろん味噌カツも暑そうだし、味噌煮込みうどんは暑いどころの話じゃないし、ひつまぶしは高いしシロノワールはご飯じゃない。だからこの死ぬほど暑い夏はパスってことになったのかも。台湾ラーメンは逆に暑い時こそ良いかもしれないけれど、それにも限度があるからなあ、暑さの。

 大須のどてめしは古谷徹さんが良く行く店の大須店らしく名古屋名物みたものを丼で出している感じ。とはいえ1つ1つが小さい腕でそれを本当は2つ3つとアラカルトで食べるのが良いみたい。僕はといえばそれに気付かず1つだけを頼んだけれど、夕食も控えていたんで特に気にはならなかった。どてというのは豚の臓物あたりを味噌で煮込んだもの。臭みを取るために下ごしらえをしっかりとして、生姜なんかといっしょに長く煮る必要がある。大学の学園祭で所属していた東洋史研究会がこれを名物にしてたんで、誰かが住んでたアパートで夜なべして仕込みをやったっけ。それだけのことはする価値はあった。今もやっているのかなあ、愛大東洋史「赤鬼」は。

 きしめんについては新幹線のホームが有名だけれど、高いしいつも混んでいるんで入ったことがない。東海道線は大垣に出かけた時に店があるのに気付いて、ここなら混んでないと分かっっていたので帰りがけに新幹線に乗る前に昼食をさっと書き込んだ。ワンコインというきしめんだけど出来合のかき揚げは使わずその場でエビを1本天ぷらにして揚げてから載せていた。ほかの注文でも受けてから揚げるのが信条みたい。冷房がきいているとはいえ真夏の店の中で天ぷらを揚げきしめんをゆでて出す店員のおばさん偉い。だからこそ隠れた名古屋駅の名店として長く愛され続けているんだろう。きしめんは新幹線にあらず東海道線にあり。上りの店もあるそうなんで今度帰ったら寄ってみよう。

 キネマ旬報シアターでの「この世界の片隅に」の上映は今週では終わらず来週も続いて金曜日の8月24日でいったんは終了の見通し。いずれまた復活する可能性もあるけれど、年末には長尺版とかつて言われた「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」の公開もあるんでそちらを中心に劇場の方はプログラムを埋めていくんだろう。そうなると今のバージョンもしばらくお蔵入りかなあ。バランス的にはとても良いからやっぱりいつまでも見られて欲しいし劇場でも見せて欲しいもの。キネマ旬報シアターには頃合いを見ての上映があるものと期待しよう。家から電車で30分で行けるシアターはやっぱり便利だし。

 とはいえすでに上映されるのはパッケージ向けに修正されたものに変わっている感じ。前に見た時も思ったけれど、呉港が見える畑でのすずさんと周作さんとの界隈の間合いが、さいしょの上映版ではちょっとタイミングがずれていたのが整っているように思った。ほかにも幾つか。きっと最初に周作さんを吹き込み、絵を作りのんさんほかの声もいれてはめたら窮屈になってしまったんだろう。修正でそれを直したと。そう思うんだけれど片渕須直監督に聞いてないから本当のところは分からない。長尺版ではどうなるのかなあ。そこも気になるところ。公開が待ち遠しいけど取材の案内とかはやっぱり来ないんだろうなあ、マイナーメディアの下請けライター風情には。寂しいねえ。

 赤澤燈さんといえば舞台「クジラの子らは砂上に歌う」で主役のチャクロを演じた役者さんだけれど、泥クジラの中ではどちらかといえばきまじめな役割を与えられていたチャクロと違って舞台「戦刻ナイトブラッド」で演じる豊臣秀吉は、戦国ならぬ戦刻の世のトリックスターというか明るくて楽しげで卑怯でもあってそれでいて信望があってと不思議なキャラクター。いつも飄々として本心を見せないようでいて、決めるところでは叫び怒り慟哭するといった難しい役を、その持ち前のバリエーションいっぱいの演技力でもって転じていた。天王洲 銀河劇場で16日から上演の舞台「戦刻ナイトブラッドでのゲネプロでの話。

 すでにスマートフォン向けゲームアプリでリリースされていて、テレビアニメーションも放送されていたりする作品だけれどどちらも詳細には見ていなかったから詳しい内容は舞台のゲネプロを見に行ってようやく知ったという次第。それは手にスマートフォンを持った少女が光に包まれ気がつくと神牙なる世界に来ていて、そこで戦国武将ならぬ戦刻武将たちと出会いチームを組んで戦うといったストーリーになっていて、織田信長率いる織田軍と上杉謙信の上杉軍、そして豊臣秀吉の豊臣軍があって三つどもえみたいな駆け引きを繰り返していた。そこに入り込んだのが結月という現代から転移してしまった少女で、右も左も分からない状況の中でそれぞれの軍に入り込んでは中で自分ならではの見方を意見し、怖い織田軍や静謐な上杉軍、そして卑怯も辞さない豊臣軍の良いところを引き出し少しずつ変えていく。

 そして我欲をむき出しにして弱肉強食とばかりに戦っていた面々が、お互いを感じるようになって最後はより強大な厄魔へと立ち向かっていくといったストーリー。見ていて人間、そんなに簡単に変われるものかと思う一方で変わることによって得られる体験の素晴らしさが、変わる必要性といったものを感じさせてくれる。なかなかに面白くてそしてためになるストリー。ダンスもあって豊臣軍の秀吉と竹中半兵衛黒田官兵衛前田利家によるユニットはなかなか軽快。歌では浪々とした歌声を聞かせてくれる上杉景勝をはじめとした上杉軍が良かったかなあ。血気盛んな柴田勝家と冷静沈着な明智光秀が対照的な織田軍はやっぱり戦いで迫力。でも前田利家を要する豊臣軍もなかなかなもの。そんな殺陣も楽しい舞台は26日まで。もう1回くらい普通に見ておくかなあ。

 いやあ、これはいくらなんでも間抜けが過ぎて時空がひっくり返るだろう。「昭和のサマータイム廃止『朝日新聞の責任』、麻生氏『記者が飲みに行きにくくなるからだろ?』」って見出しでもって自称するところの全国紙がネットに掲載した記事があるんだけれど、サマータイムは朝日がキャンペンを張って辞めさせたといった麻生財務相のゲスっぷりはそれとして、実際はまるで違っているその戯れ言を検証もせず、言い分をただ垂れ流しては「記者を狼狽させていた」と麻生財務相寄りというか反朝日万歳調で記事にする媒体もポン酢過ぎてひっくり返る。

 だいたいが戦前に日本が導入したサマータイムが終わったのは、サンフランシスコ講和条約でもって日本が独立を勝ち得たからで、アメリカさんの良いなりになんかならないぜとばかりに廃止されたようなところもあり、また日本という風土にも合わないといった判断があった。そして取りやめた時の総理大臣は吉田茂。つまりは麻生財務相のおじいさん。自分の身内が朝日の世論に籠絡されたとでもいうんだろうかこの人は。きっとそれを言われれば知らん顔してそうなのとか言って、それでも朝日がーと吠えそれを朝日はーと自称するところの全国紙が記事にする連鎖は続くんだろうなあ。やれやれ。


【8月15日】 TOKYO MXの「モーニングクロス」に文筆家の古谷経衡さんが登場していたけれど、着ていたTシャツが「ONE CUT OF THE DEAD!」すなわち「カメラを止めるな!」のロゴ入りTシャツで、そうか今日は「カメラを止めるな!」について喋るんだと予想がついたのでずっと見続ける。そして始まったコーナーで、Tシャツを1万円で買ったと話してどこかのオークションから落としたのかメルカリで交換でもしたのかと想像。買ったTシャツをプレミアム価格でオクに流す不逞の輩には、一生ゾンビの胃液がはきかけられるか好きな人にだきついたらポンされる呪いがかかれば良いと思った。そういうところから買うのもどうかと思わないでもないけれど、テレビでそれについて喋る時により強く印象に残すための衣装だとも言えるだけにここは不問に処す。でもやっぱりTシャツは正価で買いたい。増産しないかなあ、ユニクロとかで。

 番組ではやっぱり「この世界の片隅に」との関連性が話されて、良い映画だけれどスタートはそれほど大規模ではなかったものが口コミで広がり上映館も広げていった形は、もしかしたらこれからの映画の興行において重要なものとなっていくかもしれない。F層を狙い撃ちして大量宣伝で存在を印象づけ、映画館に足を運ばせる手法ももちろん悪くはないけれど、そこで登場する映画が色々ではやっぱりいつか映画産業事態が滅びてしまう。それなら良い映画を作って口コミで広げて見てもらい、良い映画というものとは何かを作り手も送り手も感じ取り観客にも知ってもらう。その上で良い映画が作られるようになって大量宣伝に乗せられて行った先で良い映画を見るようになれば映画自体が盛り上がる。そんなサイクルへと向かわせるきっかけになれば面白いんだけれど。

 あと番組では、水戸市にあるらしい映画のロケ地の紹介をしていて、現地のフィルムコミッションの協力があって短期間のうちに安価で制作できたんじゃないかって指摘があった。各地にフィルムコミッションがあって映画作りにも協力しているけれど、どこかのように撮影はされてそれに費用面でも協力したら映画が完成に向かわず持ち出し分が帰って来ないといった事態も起こった。こういうケースが重なればいかに協力する意識があってもフィルムコミッションの運営が立ちゆかなくなってしまう。作り手の側が高圧にならずフィルムコミッションの側も背後に控える自治体の強権の傘にはいらず自治体もそれがどういった意味があるかを理解して、誰もが良い物を作るような流れになってくれれば嬉しいんだけれど。そういう幸せなサイクルが見られる映画として「カメラを止めるな!」はモデルケースになるのかな。ちなみに古谷さんは現地ルポを次の「SAPIO」の載せるとか。どんな場所なんだろう。やっぱり屋上に血の紋章が? 興味津々。

 8月15日という日付にこだわって観る映画ではないということは、作品の中で8月15日の玉音放送を聞いたあとも北條サンが「明日も明後日もあるから」と言って白い米を全部使わずとっておいたことにも表されていて、いつであってもどこであってもそこが世界の片隅であって、そこから世界のほかのいくつもの片隅につながっていることを感じ取るために、特別な日を作らない方が良いといった気持が一方にありつつ、それでも日本にとって重要な日々だったことを、その原因となった戦争によって世界の片隅が揺るがされる状況を見ることで心に焼き付ける意味はあると思い、「この世界の片隅に」の上映が行われている柏のキネマ旬報シアターへと出向く。

 舞台挨拶なんて華やかなイベントはないけれど、舞台挨拶で観ることが「この世界の片隅に」にとって重要だとは思えない。それにのみ何十回と通おうとも、ふらりと入った劇場でのたった1度の鑑賞で大きな感慨を受ける人たちがいる訳で、そうした人たちを前にして舞台挨拶で片渕須直監督の話を何十回となく聞いたといったところで何の自慢にもなりはしない。むしろ自分が得ている感動が、1度の鑑賞で得た感動に果たしてたどり着いているかを改めて考え直したい気もしないでもない。熱狂がややカルトへと流れ宗教へとなだれ込む道は過去にも幾つもあって、そうした状況をもっとも嫌いそうな映画がそうなってしまうのはちょっと寂しい。何度観たとか誇らず、何度も観たからといって持ち上げられず、これが初見といった思いを抱いて何度でも観ていく。その都度都度に自分が初見で感じた感慨を思い出し、今を精いっぱい生きる糧とする。そんな思いを改めて得られた鑑賞だった。

 シネマ旬報シアターでは100人くらい入る劇場に見渡してだいたい80人くらいはいたかなあ。おばあちゃんを連れた息子さんとか割と年配の女性とかがいたりして、いわゆるアニメーション映画とは違ったそうが今になってかしっかりと入っていることが確認された。舞台挨拶のおっかけめいた人は見えず。それは片渕須直監督やのんさんがみたいから来るんじゃなく、しっかりと「この世界の片隅に」という映画が観たい人が来ているということ。本当のファンの姿を感じられることも、普通に映画に行く意味というものかもしれない。そして静かに見入って最後まで席を立たない人たちの姿に、「この世界の片隅に」は今もしっかりと広がりを続けているとと感じた次第。次はいつどこで観るんだろうか。長尺版「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を観るんだろうか。

 2週目に入って特典のポストカードも変わると気付いてテアトル新宿へ「詩季織々」を見に行く。ちょうど「この世界の片隅に」の舞台挨拶回だったようでシアターを囲むようにメディアが来ていて階段にまで行列が延びていた。公開から2年近く経った映画の舞台挨拶に来る人数じゃないのはそれだけ、この映画が注目され続けているって表れなんだろう。ありがたい話だけれど、そうした関心がもうちょっと「詩季織々」にも向いてくれれば嬉しいかなあと思わないでもない。有名芸能人が出ないとスポーツ紙とかとたに取り上げなくなるから。作品本位じゃないその取捨選択が、裏返しの意味でのんさんと片渕須直監督に向いているというのも凄いことではあるんだけれど。宮崎駿監督ではないし細田守監督でもなく、そしてテレビになぜか出ずドラマ出演も皆無な女優。それで人が集まる。痛快だねえ。

 さて2度目の「詩季織々」。やっぱり「上海恋」のリモは後悔にさいなまれて一生を生きろと思ったというか、自分のちんけなプライドでもって他人を傷つけたことをもうちょっと反省しろってことだけれど、それだと傷つけられた人に救いがない。誰かの後悔をクローズアップするためだけに作劇で別の誰かを不幸にすることはやっぱり心が息苦しい。そこをちゃんと拾って幸せなエンディングへと向かわせてくれるところに新海誠監督とは違った優しさがあるってことなのかもしれない。都合が良すぎるけれどもせめてフィクションの中でくらい、みんな幸せになって欲しいじゃないですか。ねえ。

 「陽だまりの朝食」や「小さなファッションショー」も含めて3本のオムニバスを観終わって、これもまた「この世界の片隅」たちを拾った映画だなあと感じたというか。故郷の味があり姉妹の信頼がありすれ違う恋情の苦味があって、そこに発展する中国の都会の暮らし、懐かしい田舎の日々が重なる。それは中国という社会にクラス人たちのさまざまな片隅であり、また日本人にとっっても故郷の味なり青春の苦みは同様に引っかかる片隅でもある。それを感じて世界にもいろいろな人たちがいると知り、思いをはせるきっかけにできるアニメーションを、「この世界の片隅にを見た人たちにも観て欲しいんだけれどテアトル新宿で舞台挨拶を聞いた人のどれだけが観てくれたかなあ。分からないけどそれなら改めて言っておこう。「詩季織々」もまた「さらにいくつもの片隅」たちなのだと。


【8月14日】 たぶん阿波踊りというのは連というのが幾つもあって、それらが広場などを使って女性はしずしずと踊り、男性は手足を広げて伸ばして踊りながら動いたり回ったりするのを見せるもので、そうした中に太鼓も使って音楽を付けながら踊る連もあれば激しい踊りをメインに見せる連もあったりして、それらが街中の演舞場を回りながら練り歩いていくのを楽しむものなのだろう。4つある会場というのはそうした連のバラエティに富んだ踊りを見せて楽しんでもらうのが本道だったりしたんだろうけど、いつの頃からかそうした連でも有名所が大集合して、優れた踊り手を並べて1000人規模の大集団となり、隊列を組んで通りへと躍り込む「総踊り」を行うようになって、それが見た目の迫力と美しさから阿波踊りの代名詞になっていったという、そんな感じなのかもしれない。

 たしかに見栄えは最高だし、統率のとれた群舞というのはそれだけでひとつの芸術だと言える。大きく手足は振り回せないしひとりひとりの踊りが見える訳でもないけれど、それでも集団としての美しさがあれば人は喜ぶし、踊り手にとっても達成感が得られる。そんな喜びが40年とか続いた結果としての「総踊り」の名物化があって、それが行われる演舞場に観客が大集合するのも仕方が無いと言えるんじゃなかろうか。今やそれが代名詞なんだから。でもなぜか今年から阿波踊りの実行委員長になった徳島市長は、その代名詞を切り分けて、4つの演舞場で細かく開催することで集客の均等化を図ろうとした。まとまってこその「総踊り」を切り分けたらそれはもう「総踊り」じゃなく、見る価値だってないとなれば観客の足も遠のく。結果、例年にも増しての売り上げ不振となった。

 にも関わらず、市長は決して自説を曲げずに「総踊り」の解体を強行したから話はねじ曲がり、これまで「総踊り」にひとつのプライドをかけてきた有名連は憤って解体を認めず、集まり独自に場所を得て「総踊り」を挙行してみせたのが8月13日の両国商店街における見事な隊列を組んでの「総踊り」となったって感じ。なかったかもしれないものが見られる喜び、やれなかったものがやれた喜びが相まって会場は映像からでも熱気が伝わってきたけれど、これで自説を曲げて「総踊り」復活といかない事情が視聴の側にもあるんだろうなあ。連は連として踊ることしか認めないようにでもするとか。それで一時は集客が下がっても本道としての阿波踊りを取り戻すんだと言い切るか。それに納得できる踊り手も観客もいそうもないだけに、市長とそして徳島新聞側の先行きは厳しそう。さてもどうなる。

 “大正悪夢に異能の暴威”とでも言うのだろうか。一田和樹による「大正地獄浪漫」(星海社FICTIONS、1400円)は、大正時代に帝都を騒がす邪悪な犯罪者たちを専門に取り締まる舞台が存在。その名も内務相直属秘密組織「特殊犯罪対策班ゲヒルン」には、両親を殺し妹も四肢を切り落として死ぬに任せた犯罪者の氏家翔太や、4つの班からなりそれぞれは100人単位で精鋭をそろえた人形女給兵団を指揮する、自身も相当な格闘技の使い手だったりする美少女の人形屋藤子、そして人形女給兵団でも武闘派の第三班を率いる、見た目は可愛らしい少女でありながら実は少年という蓬莱霞といった面々がカフェに集い、普段は女給の蓬莱や男装の麗人というマスターの接客を請けつつ、事件があれば地下から出動をして帝都に起こる猟奇な事件を解決する。

 そんな特殊犯罪対策班ゲヒルンに新しく配属されたのが事務屋知解子という女性。やはり特殊な能力の持ち主で、高い記憶力を持ち且つ予知にも長けている彼女だったけれど、本当は行きたくなかった特殊犯罪対策班ゲヒルンに放り込まれ、顔に包帯をまいて片目をおさえた片目金之助というリーダーの下、まずは自殺を教義としたような集団を取り締まり続いて少女の死体を引きずり回す集団に挑む。最初は良家の子女ばかりが自殺していたものが、だんだんと出自に関係なく教義として自殺していった事件の裏にあった真相からは、木を隠すなら森の中といった格言が浮かぶ。

 良家の体面を整えるためのでっちあげが本物になってしまった挙げ句の騒動。そのことに知解子は情報を吟味し流れを整理した上で気付いていくけれど、片目は即座に真相に気付いていた様子。もとより離すことも最初と最後だけで途中がなく、どう解釈したら良いか分からないけれども絶対に意味がないことは言わない人間。そんな帰納の天才と、演繹の秀才という対照的な2人を起きつつ間で武闘派として戦い、犯罪者ならではの才知を見せる面々が蠢く展開が面白い。しかしどうしてカムフラージュが本物になってしまったのか。誰もが今を厭い死に救いを求めたかったからだろうか。大正でもそうだったのか。関東大震災に昭和恐慌、そして戦争。人間はその動物的な勘で遠くを見えていたのかもしれないなあ。

 死体を大八車に乗せてあちこちに出没する集団「屍屋」の事件では、犯罪者でありながら片目の配下で犯罪者特有の勘を働かせ、事件の解決に当たっている氏家が戦陣を切っては拉致されて、だんだんと身に覚えのない記憶をすり込まれていく展開に人の記憶の曖昧さといったものが浮かぶ。そこに関わってくるのが本の力。自分で読んでも誰かが読んで聞かせても同じように効果を発揮する謎めいた力を持った本を作り、人心を操る存在が強敵として立ち現れ、それが知解子とも因縁の相手と分かって話に対立の構図が浮かんでくる。その対決を明快に下のが片目で、そおn目的のためには知解子以外は氏家はもとより懸命に働く人形屋も実直な働き者の桂木丈太郎もすべたが駒だというから恐ろしい。いったい何者だ、片目金之助はという男は。どうしてそこまで犯罪を憎む。そんな興味も浮かぶ物語。それだけに今後も続いて知解子の因縁がどう立ちふさがり、それを片目がどう突破していくか、その過程で人形屋や蓬莱や氏家はどうなるかを読みたい。続くかなあ。

 こちらは特殊な言葉が脳を刺激し人を変えてしまう物語。真坂マサルさんの「ナトメア・ゲーム」(電撃文庫、630円)は宗教の集団が入植して来ていろいろと軋轢も起こっていた地域で、その宗教組織による、原初の言葉が発動することによるテロらしき事態が発生し、人間が「クチダケ」という怪物に変わって他人を襲い始める。一方で、人間が浮かべる悪夢が顕在化して周囲に人を襲う事態も発生。家でずっと眠っていたところを目覚めた静嶋慧吾という少年は、剣術の家に生まれたこともあって家にあった刀を手に持ち、目覚めた時になぜか傍らにいた幼なじみの澄坂儚という少女とともに家を出る。

 麓まで降りる途中に猟師をやっていた老人の孫らしい霜月オルガという少女と、そして軋轢を引き起こしている教団にいたらしい陽奏瑠璃という幼女を伴いショッピングモールへとたどり着く。そこで見た暴走するロボットに引き裂かれる声優アイドル。けれどもロボットが消えるとアイドルは死んでいながらも体に傷はなかった。顕在化した悪夢が精神を痛めて死に至らしめている。そんな悪夢がいつまた発生するか分からない恐怖と、クチダケとう怪物との戦いを経てたどりついた場所でも、発生した悪夢が次々と仲間を襲いメンバーを減らしていく。仲間の誰かが悪夢を引き起こしているなら、殺せばそれは止まるという状況が疑心暗鬼を運で殺し合いになる可能性。つきつけられる恐怖の中を慧吾たちは犠牲を払いつつどうにか切り抜ける。

 そしてたどりついた真相。教団を仕切ってテロを引き起こしたものの正体に驚きつつ、そこでヒーロー然として大活躍している慧吾の“真相”にも迫っていく展開がスリリング。結果、ハッピーエンドとは言えそうもない状況に至るけれどもそこで果たして終わりなのか、多くの悪夢によって支えられた存在が永遠たり得ることはあるのか、といった謎も浮かんで先への関心を誘う。電撃文庫では前作の「魔法密売人 極道、異世界を破滅へと導く」も続きが読みたかったけれど、なかなか出そうもないようなならせめてこちらで続刊を望みたいところ。でなければメディアワークス文庫で刊行の「死にかけ探偵と殺せない殺し屋」の続きを。面白い作品を書き続けている人だけにもっと注目されて欲しいなあ。


【8月13日】 「平成最後の」という煽りについては、昭和最後のコミックマーケットも平成最初のコミックマーケットも参加していなかった人間だからとりたてて感慨はなく、その意味で言うなら20世紀最後のコミックマーケットの方がもしかしたら感慨深かったかもしれないけれど、そういった時代の節目的な感慨とは別に、来年夏とその次の冬のコミックマーケットは東京ビッグサイトで開かれるようになって以来の、というよりはコミックマーケットが始まって以来の4日間開催という意味合いから、ひとつの大きな節目として後世に語り継がれるくらいの感慨をもたらしそう。

 東京オリンピック/パラリンピックの開催によって東京ビッグサイトの東館(ひがし・やかた)が使えなくなることに伴い、開場する南館(みなみ・やかた)を加えつつ、西館(にし・やかた)とそして遙か彼方の青海展示場を入れてもまだまだ面積が足りないから、4日間に会期を延ばして出展できる人を維持したいという思いからの臨時措置であることは承知している。オリンピックが終わってから南館を新たに得た東京ビッグサイトで4日間開催を続けることはないだろうとも思うけれど、それでも前代未聞の4日間開催は、3日間に延びて体力も大変になっているだろうスタッフがどういった影響を受けるのかが結構気になる。それも含めての検討の果てに為されただろうことではあっても、いろいろと心配になってくる。

 なにより青海展示場の使用という変則的な配置が人の流れにどういった影響をもたらすかがちょっと見えない。今の東京ビッグサイトからえっとどれだけ離れているんだっけ、1キロとか1.5キロは離れているその場所がどうやら今の企業ブースになるようで、そっち目当ての人たちが最初から分離されて行列が混まずにすむかもといった見方ができる一方で、両方行きたかった人には結構な難行を強いることになりそう。炎天下の行軍は後にバターンあるいはインパールと呼ばれるのであったというか。それともガダルカナル? 補給所とかが必要かもしれないなあ。シャトルバスはちょっと期待できないか。

 いっそだったら企業ブースが独立して、運営も別になってそれこそ「東京キャラクターショー」だなんて昔懐かしい名前で専門展示会を開けば良いような気もするけれど、それだとコミックマーケットという大規模イベントを通じての集客に頼り、来場者の整理などの警備もコミケのスタッフに頼っている現状から離れてしまうことになるから企業は大変。コミックマーケットだって企業ブースの出展料は収入源になるだろうから、たとえ場所は離れても運営は離したくないんじゃなかろうか。いずれにしても変則開催によるコミックマーケットがどうなるか。心配したって何とかなって来たなら何とかなる、とは思いたいけれどもそこにのしかかってくるサマータイムの恐怖があるからなあ。さてもどうなる。

 そうだ大垣に行こうと思い立って家を出て、鶴舞線から東山線で名古屋駅へと出てそこからJRで大垣へ。ドアツードアで1時間半ちょっとだからもしかしたら船橋から鷲宮神社へ行くより近いかもしれない。名古屋圏って案外に狭いものなのです。目的はもちろん「映画 聲の形」であり原作となった大今良時さんの漫画「聲の形」の聖地巡礼で、ずっと行きたかったんだけれど去年は豊橋ののんほいパークに生まれたばかりのサーバルちゃんを見に行く用事があったから岐阜までは足が伸ばせず、年末は伊吹おろしが寒いんでやっぱり行けず。なので続く山田尚子監督の「リズと青い鳥」が公開されてしまった今年にようやくの訪問となった次第。でもやっぱり夏に行きたいじゃない、「映画 聲の形」の舞台なら。

 まずは大垣駅から降りてとことこと歩いていたらすぐに新大橋に到着。映画だと自転車に乗った石田将也を引っ張って止めた西宮硝子が告白をする場面に登場してたっけ。時間は夕暮れだったけれどこの日は日中なので月は見えず。そして告白される人もおらず告白している人も見かけなかった。というか全体においてあんまり聖地巡礼っぽい人を見かけなかった感じ。新大橋にもひとり来ていなくなってまた来てといった感じでのべつまくなし人が訪れ観光地化している感じではなかった。それは西宮結絃が家出して寝そべっていた大垣公園の大型複合遊具の周囲も同じで、観察してたりパイプの中をのぞきこんで結絃が寝ているかを確かめるようなファンの姿は見えなかった。まあ映画からずいぶん経っているから仕方が無いとはいえ、夏休み中でお盆の最中にこういう感じってのが案外に観光地ではない、アニメや漫画の聖地っぽいかもしれない。

 そして中心となりそうな四季の広場の美登鯉橋にも滝のトンネルにも、いたのはほんとうに数人でやがていなくなってしばらく自分ひとりくらい。それでも自分以外の誰かがいるってこと自体が十分に聖地の要件を満たしているとも言えそう。「ガールズ&パンツァー」の舞台となった大洗町だって「輪廻のラグランジュ」の鴨川だって行った時に見かけた巡礼者はそんなにいなかった訳で、時間が経てば記憶も薄れ観光地的な賑わいも減っていく。それでも多くにとってはただの場所、日常を過ごしている町であり公園が作品に親しんで来た人には大切な場所になっているということがこの場合は重要なんだろう。そうした人のために地元でもしっかりと、デジタルのスタンプラリーを実施していてくれた。来てくれる人がいるからこその対応ってことだろー。

 デジタルスタンプは大垣駅と新大橋と大垣公園とそれから硝子が手話を習っていた総合福祉会館にQRコードが張り出してあって、あと硝子が佐原みよこに会いに行ってエスカレーターで偶然すれ違ったJR岐阜駅でもゲットして5つまで埋めることができた。養老駅と養老天命反転地にもあってそちらはさすがに足が伸ばせなかったけれど、期間もあるしもしも京都SFフェスティバルに参加することでもあったら、帰りに立ち寄ってみるってのもあるかもしれない。とはいえ京フェスは行ったことがないからなあ、出し物次第かなあ。四季の広場から大垣駅へと戻る途中で植野直花が将也と硝子を呼び止めた場所があったけれど、背景にあった旅行代理店の看板がもうなかった。映画公開から2年っていう時間がそこに出ていた。変化する背景が映画の中では永遠。そんな差異を感じる楽しみも聖地巡礼にはあるのだ。

 岐阜駅でデジタルスタンプを押して名鉄の岐阜駅へと向かう途中の自衛隊の事務所か何かに張られていた小松基地の航空祭のポスターに使われていたのがライトノベルの「ガーリー・エアフォース」。アニメーション化が決まっているそうで露出もこれからどんどんとありそうだけれど、それでもまだこれからの作品をいち早く押さえているのは自衛隊の目利きぶりを荒らしているのかも知れない。同じ事務所には岐阜基地の納涼祭のポスターもあったけれど素朴なイラストで「ひそねとまそたん」は使われていなかった。現地ではいろいろコラボ商品も出ているみたいだし作品にも協力はしていたけれど、がっつり組んではいなかったのかな。航空祭ではいったいどんなイベントが開かれるんだろう。行ってみたいけど小松基地はちょっと遠いか。習志野の空挺団でヘリコプターがテーマになった「空飛ぶ卵の右舷砲」とコラボとかすれば良いのになあ。


【8月12日】 気がついたら始まっていたけれど見る機会がなかった「K SEVEN STOREIS 『SIDE:BLUE〜天狼の如く〜」がなぜか近所の赤池で上映されていると分かって朝から見に行くと、案内されたのがMX4Dの施設で朝だとまだ誰も使ってないからサイズ的にもちょうど良いんで上映したって感じ。シートはがっしりとしていて目線もスクリーンの中央が真正面にくる感じで見やすかったけれど、抜刀からの剣戟でシートが揺れたりしないのはちょっと残念。ま対応している映画じゃないから仕方がないか。淡島世理ちゃんにボコスコやられる場面でエアとか吹きかけられたら感じは出たかもしれないなあ。

 そんな淡島世理ちゃんがいっぱい出ていたのは「BLUE」がタイトルにあるように青の王が率いる<SEPTER4>が物語の中心だったから。とりわけ先代の青の王の時代から側近やってた善条剛毅の隠棲からの再起を描いたような内容で、庶務課資料室で慣れないパソコン相手に悪戦苦闘しているおじさんが、剣をとらせれば鬼のような強さでそれが片腕になってもまるで変わらないんだけれども宗像礼司が仕切るようになってからの<SEPTER4>の面々はそうした認識が今ひとつ。そんな中にあって誰とも分け隔て無く接する楠原剛って若い隊員が善条と親しくなりまたその剣の可能性を見込まれたこともあって、表向きは庶務課資料室に配属されながらも夜に善条から指南を受けてだんだんと強くなっていく。

 そして挑んだ副長の淡島世理。いつもの制服姿とは違って剣道着ではあったものの胴や小手や面とかは付けない立ち会いでもってすっくと立ったその姿はやっぱりロケットおっぱい。和装に近いんだからカッティングとか別に体型とかに配慮されていないにも関わらず、細腰から上に一気に突き出た山のような胸の部分がその形状に沿うように膨らんでいるところにどういうカラクリがあるのか知りたくなった。淡島世理用に胴着も胸の部分は前に突き出ているのか。そうえなければ合わせが閉じられず洋服以上に谷間がのぞいてしまうはずだから。でもそうじゃなかったのは残念。でもそれでも大きな山が見られて嬉しかったのも実際。ようは見えればそれで良いってことで。

 そんな淡島世理から1本を楠原剛がとったときの楠原が持っていた竹刀の切っ先になりたいと思ったことはさておいて、きっと感触として柔らかかっただろうなという妄想も脇においてそうやって強くなったように見えながらも楠原剛は半ばで退場。そのことによって一時の師匠だった善条剛毅が最前線に復活してきた訳で、宗像礼司がもしかしたらある程度は強くても人の良さもあって失われることが“確定”していた楠原剛に、退所を命じず善条剛毅の相手をさせつつ中をとりもちその縁を半ば利用する形で、楠原を犠牲にして善条を引っ張り出したなんて謀略の可能性も浮かんでしまう。

 というかあの現場で誰かが銃器を手に持ちうとうとするなら宗像だって淡島だって気配を感じて一刀両断しているだろう。でも気付かず襲われ楠原が身代わりになった。それは身代わりになってもらったものなのか。分かっていて楠原に対処をさせたのか。<SEPTER4>結束のために生け贄にされた可能性をもしかしたら善条は気付いていたかもしれないけれど、そこで暴れても楠原は帰って来ないなら、せめてその思いを汲んでと現役に復帰したのかもしれない。そういう意味では胸のすく話ではないけれど、制服姿で揺らしつつ剣道着姿でも大きいところを見せてくる淡島世理がいっぱい見られて良い映画だった。もう1回くらいどっかで見てくるかなあ。

 出ていたのに気付いて末次由紀さんの「ちはやふる」第39巻を買って読む。周防久志名人と若宮詩暢クイーンに挑む選手を決める試合がずっと続いているけどクイーンの方が先に決着。もちろんなるようになってはいたけど途中に山を入れ谷を入れこれは危ないと思わせながらもその時間の中で乗りこえさせる展開は、ひとつの試合の中で大きく成長していくスポーツ漫画のスタイルをある意味で踏襲していてグッと読み手を引きつける。現実にそんなことがあるかといえばそこまで培ってきた成果を存分に出すのが試合だから大きな成長なんてあり得ないと思うけど、培ってきたものが出し切れてないのがふとしたきっかけで溢れ出したと思えばこういう展開もありなのかもしれない。綾瀬千早についていえば臨機応変に自分を調整する賢さか。いや賢さなんてものは千早にあるはずはないから与えられた気づきの機会をちゃんととらえる対応力か。

 慌てないで焦れないで臨めば勝てるという気づき。それを試合の中で隣で名人位挑戦者決定戦を綿谷新と戦っている真島太一から与えられていた。みせられたかるたの取り札からどうしてそれをお前は取れないと無言で尋ねられぞうなんだと思うことで立ち直る。その前に白波会の原田先生からもかつて言われた早くとろうとするなというアドバイスをその憤りから諭され気付かされていた千早が本当の自分を出したことでそこは乗り切れた。けど次は。結構な壁だけれども果たしてそこまで描かれるかなあ。映画だとエンドタイトルのバックに流される形で状況だけは描かれていたけど結果は不明だったし。どうなるか。

 名人位の方は運命戦になったら譲るという約束が活かされ太一が生き延びたけれどやっぱり差は大きそう。そこを乗りこえるための“成長”を促す引き出しが太一にまだあったのか。周防名人との練習から学んで底上げはされてもその次は。何が出てくるか楽しみだし、結果として誰が名人に挑むかも気になるところ。それとも周防名人に何かあって試合が空位となった名人位を争う太一と新の試合になるとか。そういう展開はドラマチックだけれど周防名人に何かあるという展開はちょっと嫌だからやっぱりあっさり新と太一の力量に決着をつけ、ストーリーが綾瀬と誰との物語だったのかという点に戻っていくことになるのかな。そうなるとやっぱり新か。ずっと新のためにかるたをしてきたからなあ、千早や。そこも注目。第40巻はいつだろう。待とう。

 持てる力を振り絞ってなお届かない場所。ソフトボールの世界選手権でカナダを相手に敗者復活の道もかかった試合を戦って勝利した日本が前日に敗れたアメリカを相手に挑んでそこで、カナダ戦で投げたばかりの上野由岐子投手が引き続いて投げ続けて日本が先制してさあ完封で優勝かと期待していたら逆転され、追いついたものの延長となってそこで先に点をとっても追いつかれる。引き離してもやっぱり追いつかれてそしてサヨナラ負けを喫してしまい、この大会での4年ぶりの優勝を逃してしまった。アメリカは連覇。もうずっと日本とアメリカとの決勝が続いてはいたけれど、前回は負けたから今回は勝ってオリンピックへとつなげなかっただけに、負けたのは残念といったところだろう。

 そんな試合の間、上野由岐子投手は持てる力のすべてを出して戦ってはいたけれど、最後になって変化球が冴えるとかスピードが上がるといったことはなく、アメリカの打線につかまり守備のちょっとした軋みも重なって敗れてしまった。スポーツ漫画だったらサイヤ人よろしくスーパーパワーが発揮され、アメリカをねじ伏せ勝っていたかもしれないけれどもこれが現実の試合というもの。何人もめまぐるしく投手を替えたアメリカに対して上野由岐子投手1人で投げ続けさせたこともあって力尽きたというよりは、相手に力を理解されてしまった感じがした。こうした起用が果たして適切だったかは考えたいけど、上野由岐子投手にかけてここまでの結果を出したのだからこれはこれでベストな策だった。あとは2年後に向けて続く投手の育成をしていきたいところ。出てこないかなあ、130キロで投げる美人スーパーソフトボーラー。それこそ漫画だけれど。


【8月11日】 しばらく前からファスナーが引っかかっていたDAKINEのバックパックが荷物をいっぱいに詰めた出先で弾けてしまってファスナーが全開の状態に。前に抱えるようにしてバックを持って入口を手で押さえてどうにかあふれ出すのは防げても、いつまでも保つ訳ではないから代わりを探そうとしてとりあえずDAKINEの同じタイプが売ってないか検索しても出てこない。サイズも同じでポケットの位置も同じなら荷物を移しやすいから2つ同じのを使ってた。なのでここをしのいで幕張のアウトレットで買うかとも思ったものの、立ち寄ったロフトに良い感じのバックがあったのでそれに切り替える。

 頑丈なファスナーとポケットが多いシルバグレイのバックはB.C.+ISHUTALというブランドで、日本の十川鞄が作っているもの。そんなのあったなとは気付かなかったけれど、吉田カバンがどんどんと値上がっている中で1万円に届かないリーズナブルなバッグを作ってくれている。タイプもいろいろあるみたいだけれど、ロフト限定のものは撥水加工がしてあって表面が水をはじきそう。汚れもつかなさそうで何より布地が頑丈なんで、使っているうちにくたくたになってファスナーも歪んだDAKINEよりは長持ちしてくれるかな。1年ごとに切り替えればDAKINEも悪くないんだけれどまあ仕方が無い。店先で荷物を移し替えてさあスタート。慣れた収納位置を変えることにもなったけど、これもだんだんと落ち着いていくだろう。次また使う機会があれば選んでみるか。

 見つけたら引っこ抜かなくちゃいないと心に誓ったバオバブの木に水をあげる星の王子さまの姿に落涙する人を多数出している銀座ソニーパークでのプラントハンター氏によるセネガルのバオバブの木販売プロジェクト。もちろん童話での嫌われ者が実はとっても良い奴なんだといったカウンターをあてること、それ自体に意義はあると思うけれど、それを対話ではなくどこか強圧でもって星の王子さまに言うことを聞かせているように見えてしまう点でやり方の筋を違えてしまったような気がしてならない。説得をして納得をさせるプロセスが欠けているというか。だから怒るのだ、サン=テグジュペリの「星の王子さま」を愛する人たちは。

 そのバオバブの木が箱にごろんと突き刺さっているような感じで売られていることも、植物に詳しい人たちから異論を巻き起こしている。持って帰って植えたところですぐに育つものではない難しい木。マダガスカルにある巨大なバオバブのイメージにもとうてい届かないだろうその生育に対して知識を投げることをせず、「星の王子さま」に出てきた特徴的な木ですよといったキャラクタービジネス的に打っていることも反感を呼んでいる。そうした反感は売り場となっている銀座ソニーパーク自体に跳ね返ってきそうだけれど、その銀座ソニーパークがプラントハンター氏的なビジネスにどっぷりと荷担している感じがあってもはや一蓮托生といったところ。

 なるほど地上部分に並べられた木々にはとっても珍しいものがあって、見ているとどこかの植物園に来たような気にさせられる。でもよく見るとそれらの大半は根っこの部分は大きな鉢かプランターか何かに入れられて独立して置かれている。それらが寄せ集められて森のように見せているだけで、そこには植生の何かを再現して感じてもらうような学術的なテーマはない。というかそもそもがそれらの木々は基本的に売り物であって買うか借りるかしたい人に見せているもので、だから横に看板が出て売り物だから触るなと書かれてある。木に触るななんて公園がいったいどこにある? 公共を歌う公園ならまずあり得ないことを行って公園を標榜しているならそれはやっぱりズレている。

 とはいえプラントハンター氏は、売り物で値段がつけられた木が置いてあるとそれを買おうといった意識が生まれ、それを通して木々と自分との関わりを感じるんじゃないかと言っているからまるで正反対。どこかの豪邸の庭だとか、あるいは企業のロビーだとかに飾られるかもしれないゴージャスな木々を眺めて誰が自分との関わりなんか感じるか。はいはい売り物ですか庶民は手の届かない代物ですかと思うだけで、そこに関連なんて生まれない。いつか自分もこんなゴージャスな木々を並べて誇りたいと思う人も中にはいるかもしれないけれど、それだったらこんな珍しい木々が植わっている場所に好きなときに旅ができる身になりたいと思う方がよっぽど植物に優しい生き方なんじゃなかろーか。そんな商売に荷担してソニーも大丈夫か。この酷暑にまとめて枯れたらどうするんだ。その時はさらっと違う木々が置かれているだけ、いつまでも青々とした公園がそこにある。その影で何が起こっているか。考えると夜寝られなくなっちゃう。

 とか言っていたらソニー企業が銀座ソニーパークでの「星の王子さま」とコラボレーションしたバオバブの販売を取りやめた様子。いろいろな意見が寄せられた中でやっぱり元ネタとなった「星の王子さま」を愛してきた人たちを傷つけたっていうのが良くなかったみたい。最初からパロディでありサタイアといったもので挑むならまだしも、ふわっと寄り添ってみせつつエッセンスを引っ張り出しては捻りそこに自分を絡めて喧伝してしまったスタンスにン感が及んだって言えそう。とはいえ作ったパッケージが銀座ソニーパーク以外で売られないとは限らない訳で、どういった流通を見せるかに今後は関心が向かいそう。いっそバオバブをモチーフに純な形状から淫靡な形状まで描いている牧田恵実さんとコラボすれば良いのに。どっちも話題になって面白いぞ。

 日本で劇場公開されたのが1998年の2月28日だから実は20周年だったりす今敏監督の長編アニメーション映画「PERFECT BLUE」だけれど20周年について国内でまるで動きがなくて寂しい思いをしていたら、何と全米で20周年を記念して9月6日と10日に500館もの規模で劇場上映されることになったとか。英語字幕版があり英語吹き替え版もあってとアメリカの人にとっては至れり尽くせりの環境での公開で、見ておやこれはダーレン・アロノフスキー監督の「レクイエム・フォー・ドリーム」や「ブラックスワン」で見た演出じゃないかと思う人も結構いそう。

 おいおい日本のアニメーションが俺らのアロノフスキーをパクってんのかよって違う「PERFECT BLUE」の方が圧倒的に早いんだけれどそれに気づける機会がようやく巡ってきた。改めて世界が今敏監督の才能に気づくと思うと嬉しくなる。ただご本人はビデオ向けの作品としてテレビサイズで見るコンテでそれを貧乏ビスタで作って大画面に耐えられるか不安でいっぱいだった作品が、劇場上映されることに苦笑しているかもしれないなあ。そんな苦笑を生で見たかったけれどそれはかなわず。だからこそ才能だけでも世に改めて広く知られて欲しいと思うのだった。それで「PERFECT BLUE」の実写リメイクが動き出させばさらに嬉しいのだけれど。アイドルって存在がアメリカでも意識され始めている感じだし。どうなる?

 これは吃驚。埼玉県にある鷲宮神社の鳥居が急に倒れてしまったそうで「らき☆すた」なんかで見たあの茶屋を右手に鳥居から境内を眺める光景が今は失われてしまっている。何度も初詣に行き写真は撮ったし作品の中にも刻まれてはいるけれど、それをまた見ることがかなわないとうのは寂しい話。いずれ再建の話も出てくるだろうから前と同じ形での再建を望みたい。ただ無理でもそこにかつての光景はあったことを作品は覚えている。そして僕たちも。そうした記憶を心に刻み今と重ねて変わる時間というものを感じることもまたひとつの「聖地巡礼」ってことだろう。鷲宮神社がどうするかは分からないけれどもしも寄進のクラウドファンディングが立ち上がった僕は、僕たちは必ず応じるだろう。長く感動をくれた場所がまた、甦ることになるのだから。


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