縮刷版2018年6月上旬号


【6月10日】 ココロがミツル寝たことはパパたちだて把握済みで、それによって何が起こるかってことだってオトナなんだから分かっていたはずなのに、記憶は消しても健康診断はしなかったのか戻ってきたココロの体調は明らかに妊娠の兆候を示している。あの世界で人工的に生み出されては兵士として使いつぶされるコドモに生殖能力なんてものがあったのが驚きだけれど、第13都市部隊は変わり種が集められていたみたいだから、規格物とは違ったイレギュラーの因子が埋め込まれているのかおしれない。

 野生に近いというか。だから戦っていて多大な力も発揮されるし,逆に精神がダメージを受けて動かなくなることもあるという。とても危険な賭にとりあえずパパたちは勝ってきた。だからグランクレバスを取り戻せた。でも、そんな彼女たち彼らにもいよいよ終わりの時? グランクレバスの奥にある何かとゼロツーおよびヒロが駆ったストレリチアを近づけることが求められて赴いた先に現れたのが叫竜の姫、すなわち001。ゼロツーの元になったその存在はもしかしたらヒロが本当にあっていた少女だったりするかもなあ、何か似てる。そこからコピーされ記憶も受け継がれたのがゼロツーかもってちょっと思った。じっくりアニメを見てないんで間違っているかもしれない。

 そんな001を乗せてヒロとともに最奥部へと進んだストレリチアを鍵として、星の防衛システムが甦っては遠く異星より訪れた敵を相手にした戦いが始まった。そう、叫竜の敵は人類なんかじゃなかったのだ。人類の星を叫竜から守るため、あるいは叫竜たちが人類が蔓延るのを妨げるための縄張り争いかに見えた構図がもっと別の大きなものへと膨らんで、人類なんてものがちっぽけな存在、脇役へと押しやられた。もう存在する必要もなさそうだし、そもそも星を放棄するなんて決定まで下してしまった。コドモたちは勝手にやって勝手に死ね。そんあ状況にあってそれでも主人公のコドモたちがイニシアティブを持って作品い絡んでいく道がちょっと見えない。

 叫竜はパパたちとは敵同士でもコドモとは同じ星を守る存在、叫竜の携帯にも似たフランクスの操縦形態をよりどころに共闘なんて可能性もあるのかも。そうやって守られた星で叫竜もコドモたちも一緒に進化し発展し、パパたち人類も攻めてくる敵もこの宇宙から駆逐する、なんて壮大な展開へと向かっていったら面白いかも。残る話数も多くは無いけど見ていこう、その結末までしっかりと。

 死にたいのならどうしてひとりで死なないのかといった問題は、こうした事件ヶ起こるたびに言われてきたことだけれども22歳の男が死にたい死にたいと言い続けて失踪した挙げ句、新横浜から小田原へと向かっていた新幹線の中で刃物を取り出し女性を切りつけ止めに入った男性も襲って命を奪ってしまったという。いったい何がしたいのか。死にたいけれども死にきれないから死刑になりたいと死刑になりそうなことをしたのか。その割には計画性はあっても主導的で、どこか心に崩れた部分を感じざるを得ない。だからこその衝動なのか。いずれにしても痛ましい事件によって公共の場における危機管理へのコストが上がって生活を厳しくさせる。

 それでどこまでも完璧に守れずはずもないのに。つまりはやりやすい場所から管理が強化されていくだけという。秋葉原で頻繁に職質は行われても駅頭では行われないこの差異が、偏見に根ざすものだとしたらちょっと改めて欲しいもの。その属性にライティな思想も噂されているだけにオタクが不気味という以前い思想が危険という前に、そうした思想に傾いて伊方ざるを得ない若い人を生みやすい社会の世知辛さをもっと問うて欲しい、そこから直していかないと10年前の秋葉原、今回の新幹線と同じ事はまた繰り返されると断言したい。

 かつしかシンフォニーヒルズでのライブがことのほか楽しかったんで、その場でリピーターチケットを買ってのぞいてきた中野サンプラザでのi☆Risのライブはやっぱり楽しくて面白くて明日から月曜日というちょっとした憂さをからりと晴らしてくれた。この空間に一生浸って至られたらなあ、でもそれは難しいので瞬間の喜びを噛みしめながら次の喜びへと渡っていくのだ細い綱を踏みしめて。なんて。演目の方にはそれほど違いはなく、会場もそれほど大きさに違いはなくて2階席からステージ上にいあるメンバーの表情までをしっかり見て取ることができた。ライブハウスだとスダンディングでステージが見えず、アリーナだと粒になってしまう間の2000人規模がやっぱりライブとして最適な箱。それをつぶして大きなありナーを作ろうと考えているなら中野区はポン酢としか言い様がない。まさに角を矯めて牛を殺すの所業。改めよそして存続させよ中野サンプラザ。僕では買えないのでぜひ、中野区が。

 かつしかシンフォニーヒルズで見たときは若井友希さんが結んでいた腰のリボンが取れてしまったけれど今回は芹澤優さんの青いリボンが外れてしまった感じ。ダンスもしっかりと踊りながら歌うユニットだけに衣装もいろいろとほころびが出てしまうんだろう。そんなライブも残すところ名古屋の2回とか。とても行けないけれども夏になればフェスもあるし出る舞台を出来れば見に行きたいなあ、といってもアニサマはちょっととれないか。「Make it!」とか「Realize」といった楽曲はやっぱり流れるだけで盛り上がる。それを聞きに行くだけでも価値があるのだi☆Risのライブには。ソロ曲に良いのが多そうな新譜の「WONDERFUL PALLET」も早く買わないといけないなあ。

 そうそう、最近いろいろと語られているけれど、30を越すと新しい音楽を聞かなくなるなんてあれは嘘だね、アニソン好きは常にかかる様々なジャンルの音楽をアニソンとして買って追いかけ聞き込んでいくし、アイドルファンは登場するアイドルをアイドル歌謡ではない新手の音楽として受容していく。そこから新しい発見をする。自分の場合はこの数年でi☆Risを聞き込むようになったしORESAMAは新譜を買ったし牛尾大輔さんのノイジーな楽曲にもハマって来ている。「僕のヒーローアカデミア」や「打ち上げ花火、横から見るか下から見るか」の米津玄師さんだって「君の名は。」のRADWIMPSだって関心を抱いた。回路されあれば、意欲されあれば人は常に新しい音楽を探しに行くもの。そこにアイドルなんてアニソンなんてといって壁を作るスノッブが新しい音楽なんてと言ってるだけに過ぎないんじゃないかな。少なくとも僕は今でも新しい音楽を探している。ORESAMAのライブを見たいなあ。

 40周年を迎えた「月刊アニメージュ」と400号の「月刊ニュータイプ」で富野由悠季監督が相談に答えたり質問を受けたりしていて未だ言論での現役ぶりを感じさせる。アニメージュでは「プリンセスチュチュ」の佐藤順一監督から絵コンテにまつわるあれこれについて質問。富野監督に教えられたからと絵コンテの脇のセリフにはカッコをつけないでいたのを時間の節約ととらえていたのを違うと言われ、あれは絵とセリフを分断しないで同じ流れの中で感じさせるものだと説明。なるほど絵と音が一帯となった芸術を設計するのに絵とセリフを別々に切り分けるとそこに違った空気が生まれてしまうのかも。

 あとアニメを作りたいという人は文学であるとか基礎学力をもっと身につけて来ないとコンテマンにはなれないし演出もできないと語っていて、そしてニュータイプでは「Gのレコンギスタ」を見た人が歴史学へと進みたいと言ったことを挙げて、次へとつながるものを作るべきだと語っている。アニメを見てファンになり作り手となってアニメを作ってそれを見た人たちが感動してアニメを作る連鎖の濃縮がいったい何を生む? って考えた時にやっぱり必要な他への関心。なんだけど今はアニメの中だけで気持ちもビジネスも完結できてしまう。その未来に何が来る? ってことをやっぱりアニメ誌とアニメの作り手たちは言わないと、アニメ誌で。それが今いちばん求められていることなんじゃないのかなあ。


【6月9日】 親密すぎるボディタッチの多さがセクハラだと言われてしばらく役職をしりぞいていたディズニーでピクサーのジョン・ラセター監督がどうやらディズニーを離れるみたいで「トイ・ストーリー」あたりから続くピクサーの3DCGアニメーションの雰囲気であり技術力の象徴とも言える存在で、同様に3DCG路線へと転換したディズニーの立役者ともいえる人間が去って大丈夫かと言えば言えそうだけれど、「リメンバー・ミー」とかの大ヒットもあるし「トイ・ストーリー4」は放っておいても売れそうで、しばらくは路線はつながれそう。新しいアイデアがどうなるかと問われれば、それは若い人が頑張ってくれるってことになるんじゃなかろーか。

 基本的に宮崎駿監督のスタジオであり高畑勲監督のスタジオでもあったスタジオジブリが高畑監督が去り宮崎監督が引退気味の中で米林宏昌監督には去られ宮崎吾朗監督はもう何も作らない中で終息したかと思ったら、復帰してきた宮崎監督をもり立ててどうにか何か作っていこうといった感じになっている。属人性の高いスタジオならではで、そこはウォルト・ディズニーの名の下に才能が集まり去って行った繰り返しのディズニーにとって、一時代は終わっても次の時代が始まるだけだと割り切っていたりするのかも。問題はラセター監督の処遇だけれどそこは宮崎駿監督の下でアニメーターとして活動すればどうだろう、きっとお金なんていらないと言ってくれるし、逆にスタジオジブリくらいポケットマネーで買ってしまいそうだし。

 参ったなあ、「君の名は。」の劇盤を作って歌も唄って国民的なバンドといった位置づけになったようにも見えるRADWIMPSが何を思ったか「HINOMARU」だなんて曲を出してきた。歌詞もいわゆる国旗の日の丸の元に生きていることを美化したような感じ。それが童謡のようにかわいらしければ良いんだけれど、妙に文語調を入れつつそれが微妙に御用だったりしてどうにもギクシャクとしているというか、最近になってライティに傾いた人がそれ格好いいじゃん的に使ってみたような感じが出ていて、右だろうと左だろうとかまわないけれどそれは右的美意識にすら挑戦している行為だって声も出始めている。

 それはまるで生前退位に臨んで無用な混乱を避けるべく新元号を早くに発表したい今上陛下の大御心とは真逆に新天皇即位まで新元号は公表するなと言いつのる保守みたい。何がしたいのかさっぱり分からない。でも当人はそうした意見はどこ吹く風だし、自分としては生きている国が大好きでその国の象徴たる日の丸も好きだから歌っただけで右とか左とか関係ないって意見。それはそうだけれども歌が世に連れ世が歌に連れる中で今、こうした歌を出すことが何を喜ばせるかは分からない訳でもないだろう。それが自分とは関係ないというならあまりにもピュアだしスイート。そして自分の歌の影響力を軽んじている。

 軍歌なんかを研究している辻田真佐憲さんは、そういった歌が出てきた時に騒ぐと相手の思うつぼだから聞き流すんだ、影響力を削ぐんだ、そしてげ歴史を学のうといったことを言っている。でも、もはや聞き流せるレベルにはない影響力持った人間が提示したこの曲に対してどういった歴史が有効かは分からない。かつてその旗の下でいったい何が行われたのかといった過去を言っても通じないところが悩ましい。行為は行為であって旗は旗であり、なおかつ法に定められた国旗なんだからと言われそうで。そうした国旗への煽られた忠誠をよりどころにして、右向け右で行われたことが何かを言ってもまだ遠い。どうしたものか。どうしようもないのであるか。

 わたしはVR−25メサイア。あるいは早乙女アルト。そんな気にさせられたのが「劇場版マクロスF イツワリノウタヒメ」のMX4D版。先に「劇場版マクロスΔ 激情のワルキューレ」がMX4D化されて空を行くバルキリーを駆って風を感じる気分、そしてワルキューレたちのライブを間近に見る感覚を味わわせてくれたけれど、今回はライブのシーンもあるにはあるけどやっぱり早乙女アルトをはじめとしたS.M.Sの面々がバルキリーで空を飛びつつバジュラ相手に戦うシーンでの挙動が強く反映されていて、「マクロスΔ」以上にバルキリー乗りになった気にさせてくれる。

 もちろん香りもあってシェリル・ノームの良い香りとか感じさせてくれるし、ライブシーンでのビートも伝わってくるけれど、「マクロスΔ」ほどの比率でもないからそれとは違ったものだと思うのが良いのかもしれない。もちろん映画としてはスクリーンにいっぱい広がるシェリルのおしりなんかが楽しめるので映画として見る分には最高。ストーリーは久々に見てこうだったのかと思い出した。でもって続く「サヨナラノツバサ」でどうなっていくんだっけ、その辺りすっかりと忘れているだけに遠からずMX4D化されたら見に行こう。自分もたい焼きケータイになってシェリルの胸に仕舞われたいなあ。そういう気分にさせてくれるMX4Dはないんだろうか。それはVRの方がふさわしいんだろうか。

 ってことでTOHOシネマズ六本木を出たら六本木ヒルズのでやっていたショートショートフィルムフェスティバル&アジアの関連イベントで、VR360度映画を見せるコーナーに立ち寄って3本ほど作品を見る。違うコースでは前に見た田口清隆監督による「ウルトラマンゼロVR」も流していた見たいだけれども空いていたのはプログラム3で海外作品が3本。むしろ初見でどういったものが出てくるか気になったけれど、最初の1本「Naive New Beaters’ Heal Tomorrow」はぐるりと自分を取り囲むようにしつらえられたスタジオで歌の収録があり歴史ドラマの収録がありといった具合に4つか5つの場面があってその中を1人の人物が何周も巡っていくって感じ。

 後ろでドラマの収録があってそっちを見ていると、背中の方では女性歌手が歌う準備をしているといった具合で抜けがない。すべての行為を見たいならそれこそ何回も見る必要がありそう。歌手だけ見ていても楽しいんだけれど。続く「Ashes to Ashes」は死んで灰となり骨壺に入ったじいさんからの視点で起こる遺族か関係者のドタバタを描いた作品で、背の高い美女とかが出てきて男も出てきていちゃついたりしたりするかたわらで幼女が何かしていて拳銃を撃ったりしてそして居場所が動いて幼女が目の前でダンスをしたり男が置いた時限爆弾が炸裂したりとめまぐるしい。もちろん周囲でもセットのバラしとかいろいろ進む。

 それがスタジオ収録を再現したものか、スタジオ収録まで見せてしまっているのかは分からなかったけれど、視点をいろいろと動かしながら様々な場所で起こる諸々を感じることができて楽しかった。何より本当に目の前で幼女が踊ってくれているように感じるところが。平面の映画だといくらスクリーンが大きくて高精細でも自分の前にいるようには感じない。VRならではの没入感。そこを繰り返し見るために使われていたLenovoの「ミラージュソロ」を買っても良いかと思えてきた。買えばこの映画が観られるかは分からないけれど。配信しているのかなあ。

 もう1本は「Kinoscope」という作品でジョン・メリエスから始まるようにしてユニバーサルモンスターズとかバスター・キートンやハロルド・ロイドといった無声コメディとかヒッチコックとか西部劇とかキューブリックとかニューヨークが舞台の映画とかハリウッドの大作とか「キル・ビル」とかいった映画の歴史を影絵みたいな周囲をぐるりと囲んだ絵でもって振り返って行くような作品。視点が前だけになる場面もあるから360度である必要があるかとも思わないでもないけれど、映画に囲まれてている気分は味わえる。3本とも楽しくて最後まで見入ってしまえる映画。他のプログラムも試してみたいなあ。いつまでやっているんだろう。調べておこう。


【6月8日】 航空自衛隊を舞台にしてそこに鎮座し続ける護国の獣を出しておきながら、どこか国なり勢力なりとの戦いへと向かう予兆は感じられず、ひたすらに平穏な現状を維持するために女子に自己犠牲を強いる構造の上で、嫌っていた相手が格好いいところを見せただけでチョロくときめく女子がいて、鈍感なのかずっとそれとは気づかなかった自分の恋心に気づく女子もいて、そんな2人を前に出しつつ脇に下がってしまう女子が2人がいて、そして今後は護国の獣か最愛の人かどちらを選ぶかといった三角関係が、単純な二項対立からアウフヘーベンしてみんな大好きな結論へと収まる展開が見えない「ひそねとまそたん」。

 恋をしてしまったDパイはもう自分の腹の中に入れておくことはできず、むしろ積極的に消化してしまうなんて残酷だけれどそれは作中における変態飛翔生体(OTF)にとっては当然のこと。むしろそうした設定から否応なしに浮かび上がる、恋はダメでもちろん性行の類なんてもってのほかな女子への旧態依然とした認識、そしてそうした女子だけが生け贄に選ばれる後進性をよくもまあシリーズ構成の岡田麿里さんが認めたなあといった気がしないでもない。とはいえ作品を振り返っても、そうした圧迫をこそ突破し走り抜けていく女子を描く人だといった感じも無いと言えばないんで、スイートな雰囲気の中でどちらを選ぶんだ展開から少し先の落としどころを用意して終わるのかもしれない。そうでないことを期待しつつ残る3話くらいを見ていこう。

 東京おもちゃショー2018へ行く前に、今年も秋葉原へ寄って昔はソフマップで今はビックカメラになった建物の前にある交差点で手を合わせる。10年目となると以前はうず高く積まれた献花の数も減って来た感じだったけれど、それでもちゃんと献花があるということは未だ訪れる人は途絶えていない現れ。それだけの重さを感じた事件だってことなんだろう。僕としても決して他人事ではなく、ほとんど毎週くらいに行っていたあの場所にたまたまあの時いたかいなかったことで今へと分岐した人生の、もしも言っていたら、そしてあの時間にあの場所にいたらそこで途絶えてしまったかもしれない方を思うと、どうしてもそこに行かざるを得ないのだった。行くことで今もまだ続けていられる人生を噛みしめることにもつながるし。

 最近はというか当時から、一方で加害者の側にだって陥っていたかもしれない人生の分岐も思えて仕方が無い。決して友人知人は豊富ではないし、生活だってバリバリと充実して金銭的にも豊かといった感じはない。そこで踏み間違えていれば同じような孤独感にさいなまれ、自己顕示欲にとりつかれ、強迫観念に怯えた挙げ句に暴走していたかもしれないし、これからの人生だってますます苦境へと陥る環境の中、ふっと踏み越えてしまう可能性だってゼロではない。そうした思いをぎゅっと抑えて悪事は悪事だと噛みしめる意味でも、被害に遭われた人たちのことを忘れない必要がある。だから10年通い続けたし、これからも通い続けるだろう。東京にいる限り。住んでいるのは千葉だけど。

 それにしても10年眼ということで例年より多かった気がしたメディアの数。献花場所へと近寄って手を合わせると、両脇にいたカメラマンたちがしゃがみ寝そべってカメラを構えたりする。座って手を合わせると思ったんだろうなあ、残念、そんな余裕はあたえず5秒でその場を離れる。すっとラジオの記者らしい人が寄ってきたけど残念、同業者なんでと言って下がってもらった。同業者がどうして来てるんですかと聞かれれば上記のような理由、それは僕だったかもしれない可能性を噛みしめるためだと答えてあげたけれど、すっと引いたので答えず。結局は誰かに聞いたんだろうなあ。

 午前8時過ぎではまだそんな感じだったけれど、昼近くになって関係者とか来るようになるとさすがに混乱を来してきたようで、おそらくは警察か地元が出て周囲を囲ってメディアしか入れないようにしたみたい。それで献花できなかったら本末転倒だと思うけれど、混乱を避けるためには仕方が無いと言えばいえる。ただなあ、その場でしゃがみ込んでパソコンを開いて写真や原稿を入れ始めている記者がいたのには驚いた。どうやら当時の被害者が献花に来られた直後らしく写真が撮れてコメントもとれたのをその場で記事にして送り込んでいるんだろう。速報とはそういうものだけれど、そこでやらんでもと思わざるを得ない。だって歩道だよ。せめて退去してUDX前で書くとか出来ないものか。これが20年前なら現場から勧進帳でデスクに原稿をとってもらうんだけれど。いっそスマホで取ってラインでショートメッセージにして送れば良いの。そこは相変わらず旧態依然のメディアはやっぱり支持を失っていくだけなのかなあ。

 東京おもちゃセンター2018では初日に見切れなかったブースなんかをさらりと見物。噂になっていたセガトイズにあった野原ひろしの靴下も見て臭いをかいだけれどなんだこれなら自分の方が臭いんじゃないかなと思ったというか、それは拙いんじゃないかと感じたというか。あとJUST TOYSという初音ミクとかストリートファイターのキャラクターがぶら下がったプラスチック系のキーチェーンを出している会社が、ぷにぷにとした人形でサンリオキャラクターを出してきていて、そこにAggretsukoことアグレッシブ烈子が混じっていたんでちょっと驚く。日本ではまだまだマイナーだけれどアメリカを含め世界では人気のキャラクター。それを見て本国も作り日本へと送り込んだんだろう。逆輸入で盛り上がっていくかな。今度のコミコンでどれだけのムーブメントが起こるかが楽しみ。

 発表会はひとつだけ。タカラトミーが出してくる「ねえ HelloPika」という手のひらサイズのロボットの発表で大昔に流行った手のひらピカチュウを思わせるサイズ感ながら、首を振ったり声に応えたり目を光らせたりと中身のグレードアップが進んでいる。前はどうだったっけ、泣くだけだったっけ。それでも「ポケットモンスター」が爆発的な人気になりつつ「ポケモン事件」も起こってどっちに行くかが迷われた時期、そこから盛り返して今に至るまでトップの人気を誇るキャラクターであり続けたポケモンとピカチュウに改めて感嘆するより他にない。

 ロボットとしては2990円と安価で胸ポケットに入れて会社とか学校に連れて行きたくなるけれど、そんなピカチュウたちが通勤電車で会話をしつつ人間への反抗計画を練っていつか実行に移すとか、考えたらちょっと面白くなった。クラウドになってAIがかまされたらあり得るか。それだとバンダイから出る「ガンシェルジュ ハロ」の方があり得るか、ネット上のクラウドからデータを取ってくるタイプだし。ただ13万8000円はちょっと高すぎるなあ。足を出して手も出してえっこらよっこらと歩くのはさすがに無理でも、中の重心を移動させてごろごろと転がるくらいのことが出来ればその値段でもOKだったのに。というかどうしてそこまで高くなるんだろう。きっとクラウド上にガンダムマスターの脳を直結させているんだ、そのメンテナンス費用が高いんだ。そんな莫迦な。それが莫迦じゃない時代も遠からず来るんじゃないかな。

 飯田橋の東京創元社で春のパン祭りならぬ初夏の本祭りが開かれていたんで見物に言って東京創元社の倉庫だかどこかから発掘された専用の原稿用紙を買ってくる。ペラだけれど東京創元社の文字が入ったマジもんで、これで鮎川哲也賞に応募すると通りやすくなるかとうとそれはさすがにないだろう。手近な短編でも書き写して文章の勉強をするかなあ。そこから歩いて市ヶ谷にある東京アニメセンター in DNPプラザで「血界戦線 &BEYOND展」を見物、といっても見るべきものはチェイン・皇しかなくそのおっぱいを眺め人狼の回とかで活躍するチェインとか、胸元を大きく開いたチェインとかの原画なり修正原画を間近にみてやっぱり良いなあと感嘆。どうしてもっと活躍させなかったんだとアニメにぶつぶつ言いつつ会場を後にする。ショップでチェイン・皇のストラップを買った。やっぱりそこか。そこしかないじゃん。


【6月7日】 そして二度目の人生を異世界で迎えるはずだったライトノベルは版元による出荷停止となり、テレビアニメーションの方も制作が中止となってベストセラーからのコミカライズを経てアニメ化という栄光から真っ逆さまに最低な状況へと墜ちてしまった。18巻もあって読み切れず検証できないから本の内容においてどれだけツイートのような思想が反映されていたかは分からないし、版元がそこまで読んでこれは拙いと判断しかたはうかがい知れないけれど、作者がコメントしているように中身においても問題があったのだとしたら、それを刊行する際に編集の人がチェックを仕切れなかったのだろうかといった思いは残る。

 作家の当該ツイートなりを事前に把握し、そうした志向があるのだと判断した上で原作を読めば何かしらバイアスめいたものが浮かんだかもしれない。それが後にいろいろと突っ込まれる原因となると判断し、改善を行っておけばこうした状況は生まれなかっただろうと思う一方、そうした志向が今時の日本TUEEE的思考をくすぐってヒットへと結びつけた可能性もあると思うと、それをスポイルしては出版できないといった判断があったのかもしれない。小説として日本国内で止まっているうちは良かったけれど、ヒットしてアニメ化までされるとなっては黙っていられない人がいた。その声が大きく響いて届いてしまった。声を瞬時に拡散させるツールの登場ともあいまってスピーディーに事態が進んでしまったとも言える。

 まったくもって内容は発言とは無関係だったとしたら、それはそれで読む価値があるのかもしれないけれど、ロザンヌ・バーの一件からこっち個人であってもその発言が非道と取られた場合、出演している作品なり番組にも影響が及ぶ可能性を考慮せざるを得なくなっていたりする。そこで役者がそのまま出演しているテレビドラマのように、ヘイトな言動を放った口からそのままセリフが出てくるものとは違って作家の顔は見えない小説の場合、価値があるならそのまま出し続けるというのもひとつの判断だろう。ヘイトな発言がいつも世間を賑わせている永遠のゼロな作家の本は、今も出続けているし映像化だってされている。絶版もなければ映像化の中止もないのは作品として真っ当だから、なんだろうか。いや最近あまり読んでないので分からないのだった。

 版元としてケチがついたものはもう売れない、アニメ化によって大きく伸びると思っていたら当てが外れたといった判断から、ここで商売を仕舞うとうのも文化というより商業としてのひとつの道。そのことを文化的に批判はしたいものの、損をかぶれとも言いづらい。どういった道が開けるか。永遠に絶版となるか拾ってどこかの版元が出すか。18冊で100万部というアナウンスが正解だとして1冊あたり5万から6万部は売れるなら、今時のライトノベルの文庫よりも出ている訳で、拾って出し直そうとするところが出てくるかもしれない。アニメ化とか気にしなければそれで商売は完結する訳だし。ライティな本を出している版元が拾いに行くかなあ、青林堂なんてサブカルも出しているだけに手を差し伸べそうだなあ。

 いよいよ始まった東京おもちゃショー2018を見物に東京ビッグサイトへ。応援合戦が飛び交う日本おもちゃ大賞2018の紹介なんかを見つつタカラトミーアーツは「トミカ4D」とか「人生ゲームタイムスリップ」とかで取りバンダイは「DX超合金魂 超電磁ロボ コン・バトラーV」で取ったりしてロングセラーのオリジナル玩具のバージョンアップと、キャラクター玩具の究極といった違いに同じ玩具メーカーでありながらもその業容の違いといったものが感じられて面白かった。優秀賞まで含めてもバンダイは「ウルトラマンR/B」の新しい変身用アイテムだとか「アンパンマン」の玩具だとかキャラクターが乗っている感じ。もちろんそこに工夫はあるんだけれど、遊びの面白さだそのままブランドになった玩具となるとあまり見かけないように思える。

 系列のメガハウスが出してきた「さけべ!トントンボイス相撲」なんかはトントンと指先で台を叩く代わりに声を出してそれをマイクで拾って台に伝え震動を起こしてトントン相撲を行う玩具で、キャラクターに頼らずアイデアが形になったもの。「ベイブレード」とか「ハイパーヨーヨー」みたいに過去の遊びを現代の技術でグレードアップした流れのひとつとも言えそうで、そうしたところから次のアイデアも生まれてくるような気がする。とはいえやっぱりキャラクターに乗せればテレビ番組と連動して数が出る。そっちに頼りたい気も分からないでもないし、そうやってキャラクターそのものを共に生みだしドライブさせていくのもアイデアのたまもの。そういう生き方を選んだバンダイが、どこまでキャラクターを転がし続けていけるかが今は問われるといったところか。

 そんなバンダイのブースで開かれた「ウルトラマンR/B」の発表会にはウルトラマンが2体×2組登場。つまりは4体のウルトラマンが暴れ回るステージでどれがどれだと即座に言えない混乱が、子供たちにはど写るかが気になった。展開の中で兄弟が増えていったことはあっても、最初から兄と弟のウルトラマンという珍しい設定を持った「ウルトラマンR/B」は、湊兄弟のそれぞれがウルトラマンロッソでありウルトラマンブルで、それしてウルトラマンロッソはタロウクリスタルを使うことでウルトラマンロッソ フレイムになり、ウルトラマンブルはギンガクリスタルを使ってウルトラマンブル アクアの姿になる。

 なおかつ戦闘状況に合わせて兄弟がクリスタルを交換し、ウルトラマンロッソ アクア、ウルトラマンブル フレイムとタイプを変えて変身する設定も用意されている。頭の形と色からきっとそれがウルトラマン何かを判断できるんだろうけれど、慣れるまでには今いったいどのウルトラマンが出て戦っているのかを判断するのに時間がかかるかもしれない。子供だったらすぐに見分けられるのかなあ、考えるんじゃなく感じるようにして。そうやって能力を入れ替えることによって戦い方もいろいろなバリエーションがとれそうな点が面白いかも。家族でショップを経営しているという点も生活感があって面白いかも。コメディ要素とファミリー要素を入れたいと武居監督も話していたから、ほのぼのとしつつアクションも楽しいウルトラマンが見られるかも。最後に謎の黒いウルトラマンも出てきたから、それがどういう存在かも気になる。オーイシマサヨシさんが歌う主題歌も格好いいことだし、ちょっと見てみてみようかなあ。

 宝島社から是枝裕和監督による小説版の「『万引き家族」が届いたんで映画より先に読んでみて、映画の予告編から浮かんだリリー・フランキーさんや樹木希林さん、安藤サクラさんらが演じているあの家族がどういった関係にあるのか、そんな家族によって行われていることと、そしてストーリーの上で起こることへの想像がだいたいその通りだったことが分かった。だからこそ今にとても必要な映画なんだろうということも理解できた。貧困やら虐待やらで行き場を失ってしまった人、這い上がろうにもそんなステップなど見つけられない人が大勢居たりするこの苦境を活写した映画だった。

 小説版では描かれる終結がどうしようもなく痛ましく、救いはないのか、あった救いが奪われただけなのではと歯噛みした。折しも5歳の少女が虐待の果てに命を落とす事件が発生。どうして防げなかったという問題は、だからこそ逃がすでもさらうでも良いから親元から話せる道を作るべきだといった可能性につながる。それが映画のようにと言うわけではない。映画がダメなら違う方法を作るしかないし、実際にあるようだからそれを広げるしかないのだけれど、大学の部活動で起こった事故には熱心なマスコミも政府も、こうした問題が過去も含めて頻発しているにも関わらず、効果的な手段を打てずにいる状況をこそ即座に改善されるべきなんじゃないのかなあ。映画がヒットしてくれればそんな道は開ける? それはないかなあ、安倍ちゃん是枝作品なんて見てなさそうだし。やれやれ。


【6月6日】 思ったより静かだったというか、日ごろから接しているアイドルとかの歌唱に対するコールが決まっているならそれに合わせて全体で叫べば、相当にまとまった応援になるんだけれどジワジワと広がっていった映画となると、どこで何かを言うタイミングが確定している訳でもないし、同調圧力だってそれほどないからそれぞれがめいめいに考えつつ、なんとなくタイミングを合わせてタンバリンを叩きコールをするといった感じで、その意味ではユルさと自由さが感じられた「バーフバリ 王の凱旋 完全版」絶叫上映だった。

 実を言うと前作にあたる「バーフバリ 伝説誕生」を観てないので、子バーフバリがどうやって成長してどうやって力を貯めてどうやって尊敬を勝ち得たのか、そして母親をどういう風に救い出したのかといった感じに分からないところが多々あった。そこは気持ちで穴埋めしつつ、父バーフバリの圧倒的な強さとそして高潔さを感じ取る映画として楽しめた。その分、子バーフバリに物足りなさを感じたのでそこはBDか何かを観て埋めよう。3時間近くあってもまるで飽きないのはどの場面もしっかりと見せることにこだわっているからか。ストーリーは別に難しくなくむしろ予想通りに進んでいくけどそうした期待を満たしつつ上回ってくるスペクタクルがあるから驚きつつ楽しんで観ていけたのかもしれない。ああ面白かった。

 歴とした器物損壊であって、街頭や駅の監視カメラでも何でもフルに駆使して出入りした人物を洗い出しは犯人を見つけ出し、逮捕して刑罰を与えつつ民事でも損害賠償を請求して素寒貧にさせるのが真っ当で正しい対応だと、沼津市における「ラブライブ!サンシャイン!!」のマンホールに対する数々の損壊活動については思うのだけれど一方で、どうしてそんな悪いと分かっていて、そして捕まるだろうリスクを想定しながらそうした悪事を働いてしまうのか、といった心理がどういったものかが分からない。

 寂れた商店街のシャッターにスプレーでグラフィティを描くのだって犯罪だけれど、そっちは表現したい、何か伝えたいという自己顕示欲の発露といったものが見えない訳ではない。でも、キャラクターが描かれたマンホールに傷をつけたり、スプレーでイラストを塗りつぶしたりするのはその作品が徹底的に嫌いだとかいった理由でもなければできないけれど、嫌いだからといってわざわざ沼津まで行って行動を起こすだけの資金も暇も普通はないし気力だって起こらない。でもやってしまうところにそれをやることによって得られる自分自身の満足なり、自己の確立なんかがあるんだろう。

 他人に迷惑をかけ世間の顰蹙を買ってでも、自分自身がやり抜かなくてはならないと思うその理由。衆人の憎悪を浴びながらも、それが喜びにすり替わってしまう心理。そんなあたりを解明して諭していかない限りは同じ事がまた繰り返されそうだし、別のところでも似たようなことが起こりそう。というか、声優とかのライブで歌を聴くでも応援するでもなくひたすら体を動かしオタ芸を打ち、止めてという声に逆らって複数本のペンライトを振り回し奇声を上げ飛び跳ねる厄介と呼ばれる人たちがすでに存在している訳で、つまみ出されても裁判で賠償を請求されても止めないだろうその心理をつまびらかにしていかないと、いつまで経ってもなくならないだろう。運営なり警備が即座に処断しやれば損だと分からせることが必要なんだろうけれど、それも対お客の関係では難しいし、肉体的な痛いみを感じさせるとか法治な世では無理だろうし。どうしたものかなあ。

 分からないといえば嫌韓反中といった心境にも分かりづらいところがあって、別に自分自身が何か責め立てられている訳ではなく過去に当時の政治体制下で行われた所業に対して批判をされたところで、それは自分とも自分が暮らしている今の国とも違う話だから昔はいろいろあってすまなかったと思いつつ、それを我が身の恥とまで感じることはない。だから反感は浮かばず大人同士政治家同士で話し合ってくれればこっちはこっちでお互いに文化や経済を認め合って行こうと思うんだけれど、そうした反感がツボに入ってしまった人たちは相手が何をやるにも憎しみと蔑みを向けないと気がすまないらしく、それで自分が得をする訳でもないのにことあるごとに嫌韓だとか反中といった言説を書き記しまくっている。

 それでも普通の人なら何かそれが問題となることもなかったんだろうけれど、物書きとなって広く世にライトノベル系の小説を問うようになって、大ヒットしてテレビアニメーション化まで決まった時、過去に繰り広げていた根拠の乏しい理由を挙げての嫌韓であり反中といった言説が問題視され、出演が決まっていた声優が次々と降板を表明する事態になってしまった。作家と作品は別だしアニメーションはもっと別といった言い訳も出来ない訳ではないけれど、一方でオバマ大統領の関係者に向かって暴言ツイートをした女性コメディアンがいて、出演して大人気となっていた番組が即座に打ち切りになったという事例がアメリカで起こったばかりの状況下、座組の中にリスクの高い言説を持った人間が存在すること、それ事態がもはや許されない時代が来ているのかもしれない。

 作品そのものに罪はない、それを言ったら零戦が出てくる小説が大ヒットしたナイトスクープな作家が日々、発している言動に即座に配慮して小説は絶版となり映画化なりテレビ化の話も立ち消えになって不思議はないのに、売れる作家ということなのか絶版の動きはあまりなく、未だに命脈を保っていたりする。同じような言説でも新鋭のライトノベル系小説家の場合はアニメ化に黄色信号が灯り作品そのものにも影響が出そうな雰囲気がある。版元が「当社は今後の当該書籍の取扱等につきましては慎重な対応をおこなってまいります。ご不快な思いをされた読者をはじめすべての皆様にお詫び申し上げます。ならびに書店、流通の皆様、作品にかかわる関係各位におかれましては、多大なるご迷惑をおかけします事をお詫び申し上げます」とサイトで発表。刊行への影響が出そうな雰囲気がある。読んでないから中身にも思想が反映されているか分からないけれど、番組とは直接の関係はない差別的なツイートで番組が打ち切りになる時代なら、こういう対応も起こりえるってことなのかもしれない。どうなることか。表現の自由と言論の責任のバランスを考えていこう。

 保守ってことはつまり国体護持、天皇陛下を中心にして臣民はその意に従い、徹底的な忠誠を誓い働いていくことを称揚しているのかと思っていたら、保守系と言われる日本会議国会議員懇談会の所属議員が総会を開いて、元号は今上陛下が生前退位をされて皇太子殿下が新天皇に就かれたその時に公表すべしといった見解をまとめたとか。無用な混乱を起こしたくないとの思いもあって、生前の退位を望まれたと言われる今上陛下のその大御心とはまるで沿わない見解を、どうしたら保守を標榜する国会議員が思い抱けるのかが分からないけれど、想像するなら彼らにとって伝統、といってもたかだか明治以後のものでしかない一世一元こそが絶対で、それに背くなら今上陛下といえども違うと断じて止まない心境のかもしれない。

 悩ましいのはそうした考えが一部のゴリゴリ保守に限った話かというと、日本会議国会議員懇談会に所属している議員は自民党だけでも200人以上はいそうで、閣僚にだって10人くらいは入っていそう。安倍総理だって麻生副総理だって特別顧問になっている集団が、まとめた見解ってことは内閣だって国会だって了解させられるだけの勢力があるってこと。そうした国政の大半が今上天皇のご配慮はまるで忖度せず、一方で総理大臣の気持ちは忖度しまくっているこの状況を、なるほど国民主権であり国民の代表たる総理大臣こそが日本を代表する存在なのだと言ってしまえばそれまでだけど、それが保守を名乗るというのがどうにも不思議。天皇の間の二重権威は認めないのに、天皇と総理の二重権威は許す人たちの二枚腰が国政を覆った状況下で、いったいこの国はどこに行ってしまうんだろう。考えるほどに恐ろしい。


【6月5日】 もう上映館も少なくなって上映回数も減ってしまってこのまま見る機会もなくなってしまうかもしれないと思い「リズと青い鳥」へ。何度目になるんだろう。音響とかに気をつけて観ようとしたけれど、前目で観てスクリーンが大きかったこともあって映し出される登場人物の目の色が、それぞれにくっきりと描き分けられていることに気がついた。鎧塚みぞれはピンクで傘木希美は青で吉川優子が緑、中川夏紀は紫といった具合。以前から「響け!ユーフォニアム2」でのみぞれも瞳は赤っぽく優子は緑っぽかったからキャラクターによって使い分けはされたいたんだろうけれど、アップの多い映画で観ると改めてその違いが伺えた。

 どうしてみぞれがピンクなのかはキャラクター設定をやった人に聞いてみたいところだけれど、希美が腕にはめた腕時計もピンク色をしていてそれが何度も視線の先に入ることから、色が転写でもされたのかなって勝手な想像も浮かんだり。というか希美ってフルートを吹く時も腕時計を外さないんだなあ。ちょと変わっているかも。アニメーションだとよく髪の色でキャラクターの描き訳をするけれど、シリアス系の世界観を描いた作品でピンクの髪の少女はいないのならこうやって、目の色で感じを変えるのもひとつの手法なのかもしれない。ちなみに黄前久美子は唯一に誓い金色。これはユーフォニアムの色が転写されたのか。これから作られる新作でもどう描かれるかに気をつけよう。

 「サガワノブヒサ ゼン リザイキョクチョウ ハ アベソウリ ヘノ タマ ヲ クライマシタ ガ、ショブンサレテモ シンジツ ヲ クチ カラ シャベリマセンデシタ」という文章が、遠からず道徳の教科書に忠臣の誉れを代表する事例として載るかもしれないとすら思えるこの情勢。公文書の改竄問題について財務省の処分が発表されたけれど、改竄の首謀者が佐川寿宣前理財局長ひとりになっている上に、どうしてそんな改竄をしてしまったのかという動機の部分がまったく説明されず、事件だとしたら捜査の入口にすら立っていない状況であるにも関わらず、終結宣言めいたものが出てしまって世間は唖然呆然。上司としての責任が存分にあるにもかかわらず、まるで他人事のように振る舞い、動機について聞かれて「分からないから困っちゃう」と言い抜ける財務大臣の姿にも、それで通る世間があっては拙いだろうといった憤りが日本中から起こっている。

 どんな事件であっても動機の部分を解明するのが捜査のイロハのイ。肯定するにしても否認するにしてもそれが量刑に大きく関わってくるし、再発を防止する上でも同じような動機が生まれ得ない状況を作るために動機の解明と公表は不可欠だと言える。これが被疑者死亡の裁判だったまだしも、そこに自分だけが犯人でございといった態度をとり続ける人間がいるなら、引っ張り出して徹底的に問い詰めて聞き出すのが調査というもの。それをやってやり抜いてもなお動機を喋らなかったというなら、調査した人たちにその資質はなかったということで、その責任をとって退任するのが筋なのに居座って再発防止に努めたいというから本末転倒。動機も分からずに何をどう取り組むんだ。そんな基本すら貫けない人が政治の中枢にいるというだけで、もうこの国の未来が危なく見える。

 あの政権べったりの正論が売りな新聞ですら、社説にあたるコラムでもって「佐川氏は国会の証人喚問で『訴追の恐れ』を連発して証言のほとんどを拒んだ。大阪地検が佐川氏を不起訴処分と決めた以上、改めて説明責任を果たすべきだ。すでに退職したからと、財務省がこれを阻むことは許されない」とまで書いて、証人喚問の要を唱えている。そして安倍総理についても「麻生氏に続投を頼むなら、責任を全うするために何を断行すべきか明確な指示を開示してほしい」「自らや夫人の言動の影響力についても反省が必要である」と指弾し「この問題をいつまで引きずるのか。長引かせているのは財務省であり、政府である。その反省が何より足らないのではないか」と批判している。

 もしかしたら安倍ちゃんべったりの政治部でなく財務省担当の経済部から出ている論説が書いたのかもしれないけれど、それが掲載されるって時点でさすがにこれはおかしいといった認識を、もはやも足らずを得ない状況にあるとも言える。そんな瀬戸際にあってなお証人喚問はせず責任はとらず調査もこれで打ち止めとなって守られるのはいったい何か。自分が徹底的な間抜けとなって悪人にもされてなお口とつぐみ続けるのはなぜなのか。ってあたりで浮かぶ守りたい存在、まもりたい人物。そして守った結果称えられ忠臣であると任じられ、人間かくあらねばといった手本とされて教科書なり副読本なりに掲載されるという将来。それによって教えられる人々が大勢になった日本がいったいどんな国になっているのか。想像するとやっぱり笑ってしまうなあ。理由は語らず。責任は負わず。それで世界は何を思う? やれやれだ。

 日本マンガ学会というのが開かれて、そこで円谷プロダクションが先だって会見してアメリカでの著作権訴訟に勝ったんでウルトラマンの全世界展開もやりやすくなったって話したことについて、円谷一族の誰かがそれは違うと講演で話したって記事が流れてきて、どなたかと思えって見れば以前、何かと話題に上った新書「ウルトラマンが泣いている」を書いた円谷英明さんだった。たかだか地方裁場所で勝っただけで高裁があって最高裁があるとか、アメリカでの裁判が中国ほか世界に影響を及ぼすはずもないとかいった話に加えて、最近のウルトラマンにはスピリッツがないといった話も喋っているんだけれど、そんな円谷英明さんの「ウルトラマンが泣いている」が出た時に言われたのは、円谷英二の孫なのにどうしてこんなに間違いが多いんだろうということだった。「きんじょうてつお」ってルビとか。

 もちろん生みの親の孫として、そして元社長として知っていることもあるだろうし言いたいことだってあるだろうし、そうした意見に賛意を示す人たちだっていてもいい。かつてのウルトラマンのようなスピリッツがないという意見も同感だけれど、それはだいたいが「帰ってきたウルトラマン」から「ウルトラマンレオ」へと流れていった時代にだって言われただろうこと。「ウルトラセブン」なんて今でこそ評判だけれど当時はいったい何をどれだけ言われたか。おかげでしばらくシリーズが途絶えてしまった訳だから。そんな異論を聞きつつ記事では、講演で差し挟まれた裁判に対する円谷プロへの異論に対して円谷プロに確認をとっているところが面白いというか、公正性への配慮がある。さすが「封印作品」を追い続けた安藤健二さんの記事だけのことはある。

 そして読んだらあの時の会見でだいたい聞かれていたことで、日本と違って証言とかさせず書類審査になるアメリカの上級審とか、裁判の結果が他の国に同様の判例を生みだしていく可能性があることとか。それを見知っていたんで今さらな異論に思えたのだった。ちなみにスピリッツを失った今の今のウルトラマンの市場規模は、バンダイナムコホールディングスに限った売上高では、グループ全体のウルトラマン関係のIPの売上高は2018年3月期で60億円で前年度の43億円から増収になっている。

 バンダイが取り扱っているだろう国内トイホビーだけでは43億円でこちらも32億円からの増収。そして今年度は全体75億円でトイホビー55億円と伸びては来ているのだった。アクションの坂本浩一監督とか特撮の田口清孝監督とかを起用して新しいドラマを生みだしキャラクターも作り出してファンを広げている効果。次に始まる「ウルトラマンR/B」もきっと新しいファンを生みだしてくれるだろう。そして「レディ・プレイヤー1」への登場も……ってこれはやっぱりまだ先か。期待しつつ待とう。むしろ気になるのは発表された「成田亨賞」の話がまるで滞っていることかなあ。金城哲夫賞も第2回があるようには聞こえてこないし。謎肉。


【6月4日】 みかこしこと小松未可子さんのご尊顔が拝めるとあって、日曜日ながらも出向いた「エブリスタ・マンガボックス presents 豊永・小松・三上の真夜中のラジオ文芸部」の公開収録第2回。「Project ANIMA」というアニメの企画を募るプロジェクトに向けて声優さんたちが部員となって企画を練るというのが番組の趣旨で、前に「SF・ロボットアニメ部門」の企画を作っては青森が舞台でねぶたがロボットになるという無茶な設定を考案していたけれど、今回は「異世界・ファンタジー部門」への応募ということで、前回は豊永利行さん小松未可子さん三上枝織さんの3人が合同で1つの企画を考えたものが、1人づずそれぞれに考え応募することになったみたい。

 でもって出てきた企画案に「マージナル・オペレーーション」の芝村裕吏さんがガチでアドバイスしていくといった展開で、豊永さんが出した1000年前に倒された魔王が復活しておじいちゃんの勇者がこれに立ち向かうといった設定は、1000年前というのが複雑さの原因になっているから50年前にして、そこで活躍した勇者が50年経って文明の発達なんかも間にはさんでどうも無理をしていうりょうな感じを出した方が良いんじゃないかといったアドバイスが飛んでいた。ロートル勇者の過去にすがった勘違い。そこに笑いを見いだしつつも勇者ならではの芯が魔王を相手に大活躍、なんて展開に行くのかな。通れば期待。

 小松さんが出していたのはスマートフォンのゲームアプリが現実になってしまうといったところで、異世界じゃないじゃんとは思ったもののファンタジーだからまずは良し。でもってガチャを回して出てくるモンスターとかが自分の反映で、周囲に出てくるモンスターなんかも知人の反映。それぞれの性格とか特技なんかが属性となって発言していて、そうした鏡に映った自分を観るような戦いの中で自分を知って生長していく展開になっている。芝村さん的にこれはありだけれど競争も激しくなるから工夫が必要とのこと。だからといってゲームアプリでエイリーにもらえるボーナスがコインではなくエノキというのはどういう発想か。

 無駄にエノキばかりが貯まってある程度になるとシイタケにもなるけど基本は無用の長物。もらっても嬉しくないそれらの増加が可笑しさを醸し出す。なおかつ大切な場面で役に立ったら意外性があって面白そう。そうした発想の転換とずらしを重ねて企画というのは面白くなっていくんだなあ。最後に三上枝織さんの企画は擬人化されたウィンナーとベーコンの戦いだけど食品加工メーカーがスポンサーにつくとそういうのはダメと言われると芝村さん。ベーコンが悪なのはいけないし足がウィンナーになっている設定も拙いし食べさせるというのも拙いそう。どうすりゃいい、ってことでしまどりるさんが描いたイラストで浮かんだウィンナーが眉毛になったイケメンオヤジ。銀河万丈さんを声に指定していたから、実現すれば結構なインパクトを醸し出しそう。3人のうちの誰かは通るか。というか前の青森アニメは通ったのか。感心をもって眺めていこう。

 言葉通りに知らぬが仏の物語。エブリスタ小説大賞SKYHIGH文庫賞を受賞した光村佳宵さんの「柳屋怪事帖 迷える魂、成仏させます」(三交社、680円)は死者の迷える魂を成仏させる少女とその眷属といった設定で、よくあるタイプと言えば言えるけれども展開がなかなかにハードでそして書き込みが濃密。そしてラストに残る後味が良いのか悪いのか迷うところになかなかの読み応えがある。ヒロインは中学生のボクっ子で親の後を継いで「成仏屋」という仕事を営んでいる。名前の通りに死者の未練を解消して成仏させる仕事。いったいどこからお金が出ているのかは不明だけれど、代々そういう仕事をしているということはきっと何か伝手があるんだろう。

 でもって使役しているのが竜の子と黒獅子というからなかなかの戦力。柳月神奈という中学生の少女に付き従って害をはら攻撃を退ける。戦えば結構な強さがあるけど普段は青年の姿でいるから周囲には正体は分からない。そんな3人組に舞い込んできたのは何者かによって殺害されたのを知ってか知らずか、公園に現れる小坂威吹という高校生の少年の幽霊だった。出現した小坂は神奈たちから自分は殺されたと聞かされるものの犯人については知らず、そして成仏もできない。いったい誰がと探し始めた神奈たち柳屋は神社に懸かる呪いの絵馬について知り、小坂を呪っていた誰かの存在に気づく。

 呪いがだったら成就した? それは迷信と言い切れないのは実際に竜の子だとか黒獅子だとかが人間の形をして付き従っているからだけど、小坂については霊的な何かが作用したものとは思えなかった。だったら誰がといった理由を突き詰めていった先、見えてきた小坂の純情とそれを受け止める側の作為が決して善意ばかりでは出来ていないこの世界の寂しさを感じさせる。思っても思われるとは限らないという現実。小坂の場合もそれは無償の善意だったけれど、そんな彼の命を奪ったのも取りようによては無償の“善意”。その発動する部分の歪み、届いた先のズレがまるで違った結果を読んだ。こういう場合何をどうしたら良かったのか。分からせられないからこそ起こり続けるんだろうなあ、不幸な事件が。

 すべてが明らかになって、小坂の命を物理的に奪った事件についてはかたがついたけれど、そこに漂っていた無償の“善意”の向かう先、そうした”善意”を巧みに操った存在については物理的な力は及ばない。でも軽い気持ちから出た振る舞いが、周囲で増幅されて自分に降りかかってくるとやはり重さは感じるだろう。小坂の場合は発動しなかった呪いだって重なれば、そして柳屋の意図をくんで神様たちが動けば無事で済むとも思えない。どんな人生を歩んだのか。それは想像するしかないけれど、大変な目に会い続けたんだろうなあとは思う。そんな不幸を目の当たりにせず、自分のこれは真っ白な善意を信じて逝けた小坂はだから知らぬが仏という訳で。死んだら絶望から立ち直れない死者への柳屋の配慮に喝采を。

 虐待を受けて家出をした少女を“誘拐”という名目で匿って暮らすうちに感情が芽生え、交流が生まれていくといった設定らしい漫画が人気となってテレビドラマ化されることになって、いろいろと物議を醸している様子。つまりは現実にあった少女を誘拐して監禁して長く時間を過ごした事件をほぼモデルにしていながらも、そこに犯人側の言い訳めいたものを乗せ、あるいはそうだったら良かったのにといった願望を添えて描いてある点が、被害者の人権を損ないかねないといった批判で、それはなるほど一理あって決して正当化する目的はなかったとしても、そういう言い訳でもって似た事件が起こり変えない可能性、そうした言い訳が現実にすり替わって被害者を貶めかねない可能性に配慮するなら、安易な事態の借り受けはいけないといった気はする。

 逃れ得るとしたら、現実に虐待され家出してしまった少女が行き場に惑うケースがあって、それを状況として示した上で他に道がないからとかくまってしまうような展開があることか。子供をかくまうためのシェルターは各地に生まれているけれど、まだまだ情報が少なく対処できる人数も多くはなさそう。低年齢の場合だと児童相談所のような場所がまずは出てきた上で、親権なんかをたてにとられて元に戻されそして……ってケースもないでもない。だからこその“誘拐”であり“監禁”なんだろうけれど、それが拙いとなったら果たしてどういった書き方が誰も傷つけずそして当事者が救われる展開を示せるか。そこが問題だろう。

 しめさばという人による「ひげを剃る。そして女子高生を拾う」という小説の場合も家出してきた少女が帰りたくない理由を言わず、体を売ってまで誰かの世話になることを辞さないのをみて、外には行かせられないから自分の所に置き続ける青年が出てくるけれど、いつまでも置いておける訳ではないし結婚できる感じでもないなら、一時しのぎに過ぎない滞在ではなく解決につながる道を示して欲しいのだけれど、それがないからこの小説、ちょっと苦手だったりする。誘拐でもなければ監禁でもないからドラマ化される漫画のケースほど話題になっていないけれど、シェルターを機能させ得る展開、シェルターを広く知らしめる展開、それでも動かないならシェルターを広げ得る展開を描いてくれれば良いのかな、それで“面白い”話にならなくても、他人の不幸を面白さの材料にするより良いと思うのだった。難しいなあ。


【6月3日】 ようやく「宇宙戦艦ティラミス」の放送分を観たらこれは良い意味でヒドいアニメーションだった。「ポプテピピック」がサブカルを取り上げつつイジって爆破していくのとは反対に、こちらはオタクをくすぐりつつも吹き飛ばしていくような感じ。オタクなら心当たりがありまくるイタいネタをちりばめつつ、起こるオタク的なネタの数々がそれを世間的には奇妙と認識させつつ非難はされない微妙なラインに抑え、忌避感と同意の狭間を漂わせる。あるある。でもあって欲しくない。かといってあるしなあ。そんな感じ。ロボット物とか熱血物のお約束を外してくるあたりとかも楽しい。短い時間の中にネタがテンポ良く詰めこまれているから観るのも楽だった。30分枠に伸ばして声優を変えるところまでは出来なかったけれど、これもまた2018年に残るアニメになるだろう。その割にはまるで評判になっていないけれど。荒耶宗蓮が陰毛役やっているのに。

 でもってノイタミナで放送中の「ヲタクに恋は難しい」も録画分を一気に観る。だいたい予想通りの展開で、オタばれして彼氏と気まずくなって転職した女子が、そこで子供の頃に知り合いだったゲームオタクの男と再開するといった話。でもってオタバレを嫌気していたら彼の言葉で即バレしたけど聞いていたのがロリ系漫画が好きな上司とその彼女らしいレイヤーの女性上司といった感じ。まっとうな会社で働くまっとうなサラリーマンたちが、それぞれに抱えたオタク要素でつながり仲良くなって会話もし、交流もしれ恋情も交わすというとてつもなく幸せな構図がそこに浮かび上がる。非現実的でもあるけれど。

 いやまあ世間を知らない身だけに会社によっては知り合いが固まってBL話やゲームの話で盛り上がれるのかもしれないけれど、見知った範囲では漫画は読んでもアニメは観ておらずゲームだってハマっておらずライトノベルなんて見たこともない人たちが大半。コスプレイヤー? いたら絶対に見に行くけれどもそんな気配はみじんもない。あれだけコミックマーケットみたいな場に人があつまったところでたかだか50万人しかいない訳で、1000万が暮らす東京にばらまいたら、そして1億人が住む日本全体でどれくらいの濃度かというと実はとても薄かったりする。そんな中で濃いオタクたちがなおかつ幼なじみどうして出会い会話し仲良くなっていくドリームに溢れたアニメーション。観てもう泣くしかなかった、こんな現実が欲しかったと。来世こそ。

 遂に公表されたアニメーション版「響け!ユーフォニアム」の最新作となる長編アニメーション映画「劇場版 響け!ユーフォニアム〜誓いのフィナーレ〜」の公開シーズンとメインビジュアル。そこに描かれていたのは主人公とも言える黄前久美子とそして1学年下の低音パートを担う北宇治高校吹奏楽部員たち。チューバを吹くW鈴木の鈴木さつきと鈴木美玲がいてコントラバスを担当する月永求がいてユーフォニアムの後輩にあたる久石奏が並んだそのビジュアルから想像できるのは、今までのアニメでは出てこなかった下級生たちとの物語なんだけれどそれが小説版「響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部 波乱の第二楽章」をなぞるのか、それとも未だ描かれていない久美子3年次の挑戦になるのか分からない。

 2年になった久美子たちの下に入ってきたW鈴木や奏や求について描くとしたなら、その技量の差異からぎくしゃくしたり出自を詮索されたくない求の傲岸な態度が川島黄緑によって懐柔されたりといったドラマになるんだろうけれど、その後に来るコンクールでメインとなる鎧塚みぞれと傘木希美の話は映画「リズと青い鳥」で描かれてしまった。それを外して描いても締まらないことこの上ないなら、いっそ吉川優子や中川夏紀や希美やみぞれが引退して後の話にした方が良いんだけれど、それがどういう展開を迎えるのかを僕たちはまだ知らない。かろうじて冬のアンサンブルコンテストに向けて練習をして演奏会を開く話が短編として描かれている程度。あるいは小説版も既に書き始められていて、映画と同時に刊行となるのか否か。気になるけれどもとりあえず、久美子にもまして性格が狷介な奏の声を誰が演じるかを気にしていこう。黒沢ともよさ以上に含みがあって毒のある声を出せる人っていないものなあ。あっと久野美咲さんがいたっけ。それだと「ひそねとまそたん」の逆になってしまうか。さてもどうなる。

 まさか当事者たちはチンパンジーならセクハラをやっても仕方がないので今時の財務省事務次官を始めセクハラをやっている人たちはチンパンジーに等しい存在だと非難しようとして「セクハラはチンパンジーでもやっている」だなんてタイトルの対談をやってしまったのかなんて善意の解釈が浮かんだかというと、そこは正しい論だなんて仰々しいタイトルの割には世間からどこかズレている意見が載っていて表紙に居並ぶ記事の見出しを見るのも心が濡れるオピニオン誌、セクハラ擁護の文脈でこういったことを持ち出しているに違いないと思って評判を聞いたらだいたいそうだった。

 誰かが言った“フィギュア萌え族”的な概念からオタクよりは種族維持の本能に近いセクハラの方がましだといった論法もあるみたいで、これはもう社会的にいろいろとヤバい立ち位置にあるんだけれど、時の副総理であり財務大臣までもが同種同様の考え方をポロリポロリとこぼしては、避難されていつかのスノーボーダーの謝罪会見みたく心のこもっていない言葉を口にして謝罪したふりをしつつ、ガリレオ・ガリレイよろしく「それでもセクハラは……」とでも言い足そうな雰囲気をまき散らしているから、そうした論法もまかり通ってしまう感じ。指摘できる時に徹底的に指摘してその論法のヤバさを噛みしめさせないと、いつまでたってもゾンビよろしく首を持ち上げ世に広まってしまう事例がここにも及んだと言えるかもしれない。

 どうせアサヒ芸能や東京スポーツと同類で、こけおどしのネタばかりを発信している雑誌なんだからななからと笑い飛ばしてしまえば良いんじゃないのって見解も道理ではあるんだけれど、アサヒ芸能だとか東京スポーツといった罵詈雑言も芸と世間が認定をした媒体で繰り出される論法とは違って少なくとも、日本新聞協会に加盟し首相官邸から国会から霞が関から警視庁といった機関に記者クラブを置いて日々、知る権利の代行者として活動をして情報を半ば独占している新聞社の系列につらなる出版社から刊行されている雑誌であり、記事の相互のやりとりも行われている以上は中身的に一心同体とも言える状況。つまりは客観的には公器と呼ばれ税制面での優遇もあれば再販制度によって守られもしていてそして記者クラブという”特権”を享受している責任を果たすことを求められている媒体が、暴論を満天下に公言していることはやはり笑い飛ばして澄ますんじゃなく、真正面から指摘し大上段から刺激すべきなんじゃないのかと思うのだった。

 従軍慰安婦の問題にも言及して慰安婦が毎日沢山の人の相手をさせられていることを人権侵害だと主張していることに対して、チンパンジーなら1日に何回も雄と交尾するからといった解釈を持ち出しているあたりは、チンパンジーでもセクハラをするといったこと以上にヤバくって、チンパンジーもセクハラするからセクハラした奴はチンパンジーだとは言ってないと言い抜けできそうな部分とは違って、人権問題だと訴える従軍慰安婦の側に対してチンパンジーなら何度もやっているでしょと言っているようなもので、抗議され訴えられたら世界中から非難が集まっても当然なんだけれど、そこは世間に知られていないマイナーオピニオン誌だから知らず通り過ぎさられるだろう。オバマ大統領の側近を侮辱したコメディアンが出演していた人気番組が即座に打ち切りになるアメリカとの違い。まあ広く知られたところで廃刊にはしないだろうけれど。

 ただもうひとつヤバイいのは最近になってここん家が英語で発信するネット媒体を運営し始めたことで、調子に乗って英訳して世界に向けて発信したらと思うとなかなかダイナミックで興味をそそられる。まさかそんなポン酢なまねはしないかというとするんだよ、信じているから自分達のオピニオンの正義を、営業的商業的にそうすれば釣れるからなんて段階はとっくに終わって、もうそれを心底信じている人たちしかいないんだよ。それを感じてないと釣りなんだから乗らなきゃ良いと思ってしまう。でも本気だから。マジだから。自分たちが滅んだって主張は貫き続けるから。そして滅びかかっているから。参ったなあ。困ったなあ。


【6月2日】 まあ当然か。獣医学部を作りたい学校法人が時の総理と会って支持を得たと、後の愛媛県との会合時に説明したのは実は嘘でしたと、言い始めたその学校法人の担当者が知事がいない間に愛媛県庁を訪れ、嘘をついてごめんなさいと謝罪をしたらしいけれど、早速知事がいやいやメモにあったその日の会合以外にも、学校法人の関係者が時の総理と会っていることを喋っているメモがいろいろあって、それらをすべて嘘だと認定するのは無理も無理だと返したとか。

 つい場の空気でそう言ってしまったなんて言い訳しているけれど、別の日は会ったことを前提にして会合を持ちましょうと言っていた訳で、これなんて嘘を前提にして会合を立ち上げた訳で場の雰囲気なんてまったくもって関係ない。むしろ詐欺にあたるような振る舞いであって、そうした何かの威を借りるようにした愛媛県への働きかけが、結果として獣医学部設立にあたっての補助金の拠出を呼んだとしたら、前提となる事態を嘘と言った以上は補助金は詐取したも同然ってことになる。県としては返せと言いたくもなるだろうし、そうでなくても県民が嘘を前提に拠出された税金は取り戻さなくてはならないと裁判を起こしかねない。そうなった時に果たしてすべてを嘘だと言い続けることなんて出来るのか。そりゃあ無理。だって嘘なんだから。

 誰かを守ろうとして自分が悪者になって嘘をついたと言ったところで、事実が厳然としてある以上は他の事実は消えはしない。それらも含めて嘘だったと言い続けられるはずもない。でも言わなくちゃいけない学校法人の担当者の心労たるや。家族や親戚や子供に対して恥ずかしくないんだろうか。人間として心に痛みを覚えないんだろうか。そこが気になって仕方がない。それとも恥ずかしいとか痛いとか思わない人だけが働ける場所なんだろうか、その学校法人は。教育の現場で嘘を嘘とも思わず繰り返せる人間が働いているこの恐怖を、日本はもっと噛みしめた方が良い。あるいは下々に嘘をつかせて平然としている権力者が跋扈している現状の恐ろしさを。世界はどうして何も言わないんだろう。諦めているのかなあ。

 NHKホールで開幕する「初音ミク×鼓童スペシャルライブ2018 This Is NIPPON プレミアムシアター」を観る前に代々木公園で「エコライフ・フェア2018」ってのが開かれていたんでざっと見物。渋谷側からすると最奥にあたる野外ステージに行くとちょうどアイドルたちによるライブがスタートしそうだったんでそのまま居座って見物する。「エコライフガールズ」と命名されたこの日だけのユニットには、各所で活躍するアイドルたちが集まっていてその中に「はちきんガールズ」の石川彩楓さんがいたんだけれどいつかワンダーフェスティバルで見かけた頃はもっといたはずの「はきちんガールズ」が今は石川さんがひとりのソロユニットになっている感じで、アイドル道というのは右に左に大変なんだなあと改めて実感。それでも抜けずひとりでも「はちきんガールズ」を続けている石川さんに喝采を贈る。パチパチ。

 そして「乙女の純情」という昭和歌謡を歌い続けるユニットもいたけれど、こちらもかつては4人だったものが今は2人といったところ。ザ・ピーナツの「恋のバカンス」とか歌ってくれてとっても懐かしかった。もうひとり、二木蒼生さんという美少女がいたんだけれどこの子も「こけぴよ」という埼玉を中心に活動していたアイドルユニットにいた1人なんだけれど今はユニットは活動していなくって、ひとりでアイドル活動をしているみたい。もう3年とか4年とか活動しているんだろうか、それでいて未だに16歳というから若い若い。これからだってもっと大きく羽ばたけるんじゃなかろーか。

 何しろ「関ジャニ∞」の番組かなにかで歌うまキッズに認定された歌唱力の持ち主。ソロでいくかあるいは有名ユニットに参加するか分からないけれど、ピンでも歌い続けて欲しいなあ。でも今ってソロのアイドルが活躍できる場所ってどこがある? 地下アイドルの連続では満足はできても爆発はしないし。かといってAKBだの乃木坂だのハロプロに今さら加わるのもちょっと違うしなあ。でもこういった場所にユニットとして参加して歌を披露し巧いところを見せ続けていれば、いつかシンガーとして使ってくれるところも出るだろう。アニソンなんかが今はアイドルが活躍できる唯一の場所かもしれない。そっちで起用、ないかなあ。

 それぞれに持ち歌を披露したり、石川さんと二木さんのコラボがあったりして楽しかったステージは、最後に4人が「エコライフガールズ」として登壇して松田聖子さんの名曲「夏の扉」を歌ってフィナーレ。あのイントロがかかるとやっぱりドキドキするのは昭和生まれのおじさんならではだけれど、今の人たちって松田聖子さんのアイドル全盛だった曲ってどこまで知っているんだろう。「裸足の季節」とか「青い珊瑚礁」とか「風立ちぬ」とか「赤いスイートピー」とか「渚のバルコニー」とか。僕らの世代だとどれも知っててどれも口ずさめるのは毎日毎週のようにテレビの歌番組で歌われていたからだけど、今の人たちって接する機会はなさそう。でも何となく知っているのはそれだけ世界にとけ込んでいるからなのか。そして30年後のAKBや乃木坂や欅坂の楽曲は世界にとけ込んでいるか。ちょっと気になった。ともあれアイドルたちに拍手を。ソロアルバムの発売が決まった二木さんにエールを。

 さて「初音ミク×鼓動スペシャルライブ2018 This Is NIPPON プレミアムシアター」は去年の確か3月にあったものの再演で、楽曲とか構成には重なる部分が多いような記がしたけれど、初音ミクや鏡音リン・レンや巡音ルカといったキャラクターのCGは何かクオリティが上がっているような感じがして、ダンスしているミクさんやリン・レンやルカの切れ味についつい見入ってしまった。というが鼓童の太鼓の響きとバンドのサウンドが大きすぎたか歌っているVOCALOIDの歌詞がまったく聞こえてこない。

 何か歌っているなあとは分かるし歌詞を知っている歌ならこのメロディではこの歌詞だろうとは分かって合いの手も入れられるけれど、それでもやっぱり滑舌が悪い、くぐもっているといた印象を持ってしまう。これでVOCALOIDの音量を上げれば場内が派手派でしくなってしまうし、かといって太鼓の音量とかバンドの音量を下げては届かないというジレンマを、どうやったら解決できるのかが謎。去年はちゃんと聞こえた記憶があるんだけれど、席が前から2列目でスピーカーに近かったからかもしれない。今回は中段センターで音がちょうど重なって打ち消し合った可能性。でもすぐ後ろがPA席でそこが基点となって音を作っているならボーカルが何を言っているか分からないのは致命的だと思うけど。単純に僕の耳が高音域を聞き取れなくなっている可能性もあるかも。耳鼻科に行ってみるか。

 さて今回が前回と違っていたとしたらアンコールがあったことか。前回は「アンコールはないからね」って言って去って行ったけれど今回は「アンコールはあるかもね」と言ってそしてちゃんと答えて登場してくれた。「千本桜」とか「桜ノ雨」だから去年もやった演目が途中でなかったり、フィナーレをアンコールにずらしたりしただけと言われればそうだけれども、やっぱりライブななからアンコールがあって満を持して登場してぶわっとやってくれた方が気持ち的にも盛り上がる。「千本桜」とか途中でやられるよりはラスト近くで場を熱するのに最高。そして「桜ノ雨」と来てしっとりと終えられる。良いライブ構成だった。また観たいけど今回はもう行けず。来年もまたやるなら行ってみたいけど次はルカの音楽をもうちょっと増やして欲しいな。


【6月1日】 ただのジョアおばあさんではないことが分かったその名も樋本貞が74年前にラバウルで戦争中の日本軍のOTFに乗って助けた話が伝わっているということは、その頃に16歳くらいだったとしても90才くらいになるのにとてもそうは見えないのは場所が岐阜で「きんさんぎんさん」の名古屋に近い土地柄だからか、それともDパイとなってドラゴンに見初められると老化がゆっくりになるのか。不明ながらも戦争に救出という名目であってもOTFが協力していたことが明らかになって、今はいったいどういう役割を果たしているのかが大いに気になってくる。

 「マツリゴト」なる儀式も考慮するなら国体護持であり国家安康な訳だけれど、それをメインの目的で描くのってやっぱりとってもライティ。なおかつ普段は他人のことなんて歯牙にも掛けない自己中心的な女子ばかりなDパイが、ジョアおばさんこと樋本貞の号令の下で真面目になって悔い改めてOTFとの親密さを増しつつお国のために働く描写は、自主性が削り取られているようにも見えてちょっと気が萎える。親切そうなおばあさんだった樋本貞がお国のためとばかりに立ち上がって自衛隊でも偉い人たちの上に立つ描写も、そうしたものになら命を捧げなさいといったメッセージが感じられて居心地が悪い。

 あらゆる制約から逃れて自由に空を飛びたい女子たちが、OTFという器を得て友人となりつつつ空へと舞い上がって世界のピンチを救う話だったらとても気持ちよかったのに、自由どころか縛り付けられ結婚や恋愛すらダメだとはじかれる中、自分自身を削られていく描写は見ていてなかなかに苦痛。本当にそれが目的なのか、甘粕ひそねという自己中心的でありながら他人も気にする性格のヒロインを据え、そんなひそねを選んだまそさんとの組み合わせで「マツリゴト」なんて吹き飛ばし日本だけが栄えるような展開も崩して世界が、誰もが笑顔になれる世界を目指す話になってくれると良いんだけれど。小此木榛人もタダモノじゃなさそうだし、そういう意味では展開が気になるんだけれど……。要経過観察。

 白泉社の「ヤングアニマル嵐」が休刊だそうで読んでいた訳ではないけれどもこのところ相次ぐ漫画雑誌の休刊話にいよいよ煮詰まって来たんろうかといった感慨が浮かぶ。アニメージュの増刊だった「リュウ」の流れを受け継ぐ徳間書店の「COMICリュウ」が休刊になり白泉社で「花とゆめ」のサイド的な位置づけて番を張ってきた「別冊花とゆめ」がなくなり集英社で長く女性向けの漫画を載せてきた「YOU」が休刊になり昔はスコラから出ていていまは幻冬舎コミックスから刊行の「コミックバーズ」が休刊となってそしして「ヤングアニマル嵐」。漫画雑誌の休刊自体は珍しい話ではないけれど、この短期間にこうも相次ぐとやはり状況はのっぴきならないところまで来ているのあと思わざるを得ない。

 不思議なのはこれらの漫画雑誌のどれも「ヤングキングアワーズ」とか「月刊サンデーGX」よりも発行部数が多そうなのに休刊とならなないことで、編集さんが頑張っているからなんだけれどももしかしたら「アワーズ」は平野耕太さんが「ドリフターズ」を連載していて「サンデーGX」は広江礼威さんの「BURACK LAGOON」が連載中で、ともにこれで休刊となってウェブに移行した日には、締め切りというものの存在を話捨てたかのように2人が描かなくなってしまいから、原稿を定期的に取るためにも月刊誌を出しておく必要があると考えているのかもしれない。その割には「ドリフターズ」は滅多に乗らないけれど。最新号でも。ウエブで週に1ページでも載せていく方が良いのかなあ。

 テレビアニメーションとか劇場映画で「クレヨンしんちゃん」の主人公、野原しんのすけを演じてきた声優の平松晶子さなしんちゃん役からの降板を発表。それこそ27年とかをひとりで演じ続けて来たからもう十分ではあるんだけれど、「サザエさん」の加藤みどりさんと同様に置き換えの効かない声のような気もするだけに、衰えがあるとは聞こえない今の降板は残念だし不思議に思う。「ドラえもん」の大山のぶ代さんはやっぱり年齢があったしのび太の小原乃梨子さんも相当に厳しかったから、そろっての交代は既定路線で半ば必然。でもしんちゃんは。個人としてやっぱり納得がいかなかったんだろう。気になるのは次だけれど誰になるんだろう、沢城みゆきさんで安心、って声もありそうだけれどああいった声は出せたっけ。三瓶由布子さんとか出来そうだけれど。7月からの登板に注目だ。

 ほぼ「銀魂」だった「デッドプール2」。ギャグがいっぱいで主人公が不死身みたいなもので感動させたと思ったらしっかりフォローがあって悲劇にならず時々画面の外に向かって語りかけたりもしれ他の作品をいじったりして下ネタエロネタ大歓迎。まさに劇場版の「銀魂」といったところだけれどそれをハリウッドで大々的にやってしまうところが面白いやらおかしいやら。でもって大勢の観客が入っているんだから「銀魂」のテイストが決して日本の楽屋話的内輪受けではないってことが伺える。もっともやってもいいんだ。でも他のマーベル映画ではできないだろうなあ、ディズニーが作る映画になるから。20世紀FOXだとこれが可能。でもずれディズニーに吸収されたら……そうならないように願おう、ギャグも下ネタもエロもグロもない「デッドプール」なんて「デッドプール」じゃないから。

 実は1の方を観てないんだけれどノリはほぼ理解し設定も確認。そして不死身のミュータントになったデッドプールが仕事をして戻ったところで恋人を殺され落ち込みながらも正義の仕事をしたらそこで出会ったのが虐待されてぶち切れた炎を出すミュータントの少年。これが結構強いんだけれど取り押さえたというか取り押さえられデッドプールともども施設に入れられたらそこにターミネーターがやって来た。何でもラッセルという火を出す少年は虐待をしていた施設の所長をぶち殺したことがきっかけになって悪へと染まり将来、そのターミネーターの家族を殺してしまうとか。止めるにはラッセルを殺せば良い。でもデッドプールはなぜかそういう時だけ殺せと言わない。悪人は殺してもまだ悪人じゃないのは殺さない? そこがなるほどヴィランではない理由かも。

 施設はターミネーターもどきに破壊されラッセルは移送。そこを襲って取り戻と考えられたおんが予告編にもあった新チームの結成で、電気を出したり溶解液を吐いたり見えなかったり運が良かったりただの失業者だったりが集まり乗り込んだ先で起こるこれは悲劇か喜劇か。あり得ないけどあったら楽しい出来事の先、逃げ出して最悪のミュータントと手を結んだラッセルが施設の所長をぶち殺しに向かうのを阻止しようとデッドプールが立ち上がり、そこにターミネーターもどきも協力をしつつ更正させられるか否かが問われるという展開は、ギャグとかエロとか下ネタばかりの中にあって信じる心の大切さって奴を実はしっかり見せてくれる。だからラッセルは。そしてターミネーターもどきも。終わってみれば大団円。ホッとした気持ちで帰れる娯楽映画になっていた。さすがハリウッド。そしてユキオは可愛かった。あまり活躍しなかったけど。次はもっと。もっと。もっと。


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