縮刷版2018年1月下旬号


【1月31日】 花澤香菜さんの新境地、ってところに声優好きにとってはやっぱり落ち着くんだろう「宇宙よりも遠い場所」。南極のあだ名がつけられた小淵沢報瀬のまっすぐで居丈高な役柄は普通はあんまり花澤さんには回りそうもないんだけれど、大柄でパワフルなその内側に持っている繊細で恥ずかしがりな雰囲気を時折のぞかせるような演技はやっぱり花澤さんといった感じ。1人に2つのキャラクターが混在しているような難しい役だけに、今やベテランで上手さも持った花澤さんに任せたって考えるのがここは良いのかもしれない。

 そんな「宇宙よりも遠い場所」の第5話「Dear my Firiends」は民間のプロジェクトに乗っかって玉木マリも三宅日向も含めて当然報瀬も入れ、本来誘われていた白石結月もいれた4人が早くもどうにか南極に向けて旅立つことに。それがペンギン饅頭号という不思議な名前の船なのはきっとペンギン饅頭を売り出しているお菓子メーカーがネーミングライツを買ったんだろう。南極にはいないシロクマアイス号でなくて良かったよかった。そうやってとんとん拍子に進んでいく展開の中、置いて行かれる感じがしていたのが眼鏡の高橋めぐみで、ずっと自分を頼ってくれていたキマリが自分の脚で歩き始めたことがどうにも業腹だったらしい。

 そんなことってあるかとういと、女子に限らずあるものだったりして、それをしっかり物語の中に織り込んで折々に見せるめぐみのキマリやその仲間たち、そしてプロジェクトに対するネガティブな言動として観る人に感じ取らせ、その結果としてのあの「絶好」の告白へと結実させたシナリオの仕事ぶりがやっぱり素晴らしかった。ストーリーアニメの真骨頂って奴。けどそうした告白に怒らず迷わず理解して受け入れるところがキマリのまっすぐなところ。報瀬の南極へのこだわりにも憧れ一緒に行こうと言い出したところもそんな性格を示してる。性別は才能に関係ないとは言え、女性心理の諸々に気づいて描くところにいしづかあつこ監督の才能を感じた気持ち。

 性格が未だ見えないのが日向かなあ、陸上にこだわりがありそうだけれど学校には行ってないのは過去になにかあったのか。それもいずれ描かれるだろう。あと気になるのは民間南極プロジェクトの3人組の年齢か。報瀬の母親で南極で行方不明になった貴子と隊長の藤堂吟はずっと一緒だったというからそれこそ子供がいてもいい年で、22歳で生んだとして38歳から39歳でぎりぎり40歳前といった感じ。その仲間の前川かなえも鮫島弓子もそうだとするならなかなかに熟した方々だけれど、歌舞伎町での追っかけっこで16歳とか17歳に引けを取らないランを見せていたからやっぱり南極に行くのは体力が必要ってことで。報瀬にはそんな体力あるのかなあ、そしてキマリも結月も。日向だけは大丈夫そう。そんな4人が南極に無事立っていったい何を見つけるのか。最後まで見守りたい。

 日向だけれど三宅ではなく森日向さんによる「声なき魔女と星の塔」(アスキー・メディアワークス、1200円)は下働きの男の子が救った少女に秘められた力があってそれを男の子が助けて古代文明に行き着きながらも世界を崩壊から救うために行動するといった「天空の城ラピュタ」フォーマットにとても即した物語、って言えば言えるのか。魔法を詠唱によって繰り出すことが可能な世界で若くして優れた魔術師の少女ステラが何者かに追われているところからスタート。どうやら宮廷魔術師のトップが国をひっくり返す悪巧みをしているようで、その秘密に迫ったステラに危険が迫ったらしい。逃げ出したものの追われ追い詰められたステラは反撃に出た魔術も妨げられて詠唱できないよう声を奪われそのまま川へと身を投げ出す。

 そして拾われたのがテーベと呼ばれる虐げられながらも屈強さを持った一族の遺跡調査を主としている集団。そこにあってテーベと人間とのハーフとして生まれ育って“混ざり血”と虐げられている少年ファルがステラを作ってキャラバンに連れ帰る。案の定仲間からは攻撃されるもののステラが持つ魔術が遺跡調査に役立つとしばらく面倒を見られていたらそこに緒って。宮廷魔導師を率いるコルヴァスが来てステラは連れ去られ、ならばとファルが追いかけていった先、渦巻く陰謀の中で正義の騎士と悪の魔術師といった構図が浮かぶけれど、そんな奥にもう1枚の違った状況があってそれが露わになった時、人への信用もグラリと揺らぐ。

 ひっくり返った善悪、とも言えそうだけれどともに強大な力を手に入れようとしている点では同じ。ならばどちらに味方する? なんて選択も迫られる。あと声が出せない魔術を出すのに式を練り上げ紙に書いて護符がわりに使うとか、または体の中でそれを意識して魔術を注いで発動させるといった“進化”も描かれていて面白い。印刷が情報の伝播を買えたように魔術式もまた魔術の世界に革新をもたらす。それならば世界は平和になる? そこで気になるテーベの存在。ルーツが明らかにされてなおテーベは虐げられず反攻もしないで世界に溶け込んでいけるのか。平穏な世界は訪れるのか。そんな可能性を感じさせられるファンタジーだった。ムスカはいたけどバルスに変わる言葉はなかったなあ。

 あの「サザエさん」の東芝に代わるスポンサーが決まったそうで何とアマゾンが名前を連ねていていったい何が起こるのかに世間も興味津々。とりあえず三河屋さんが配達員となってアマゾンパントリーからの荷物を毎日届けてくれるのと、そしてアマゾンスティックがテレビに刺さっていて見る番組は基本的にアマゾンプライムビデオとかになるんじゃなかろーか。あと伊佐坂先生が書いた小説は本ではなくてKindle端末での読書となる見通し。中島とカツオが漫画を読むのも手にしたホワイトペーパーからってことになるのかは。住む家は大和ハウス工業となって3階建ての3世代住宅化。あとどこがスポンサーだったっけ、きっとファッションなんかも変わるんだろう。ってことはまずはく続く「サザエさん」。そういう条件でスポンサーを募ったと思いたい。中身に口を出すのはもちろん、外でスポンサーになていることを誇るとかしないところが静かに応援していって欲しいなあ。それでこそおそらくは3つの元号にまたがって続くアニメーションってことで。うんがくっく。

 どうせ部屋のどこかへ埋もれてしまうタペストリー類よりもむしろ散らばりがちなパッケージを取りまとめておくのに歳敵と思い、全巻収納ボックスが購入特典につくとらのあなで「ポプテピピック」のブルーレイディスクだい1巻を購入。パロディがどうとかクソアニメがサブカルだとかいった話題性もないでもないけど、個人的には学生アニメーションの世界で活躍をした個人アニメーション作家がその後にどういったキャリアを築くかってところで、スタジオに入るなり依頼を受けるなりして自分たちならではの作品を作りつつ商業の世界にも溶け込んでいく、その結節点を表すという意味でこれは歴史に残ると思っての購入。だから第5話以降にもとてつもないクリエイターが参加してくれると売れ死因だけれど、山村浩二さんとか古川タクさんとか。放送待ち遠し。あと上坂すみれさんのオープニング曲「POP TEAM」も購入。これは良い曲だ。


【1月30日】 時のは狭間に沈んだと思われていた「Sf Japan」に掲載の古橋秀之さんによるSFショートショートが集英社のジャンプJブックスから刊行。その名も「百万光年のちょっと先」(1300円)に収録の作品は、どれこもれもが珠玉のアイデアがギュッと圧縮された作品で、読むごとにそれぞれにとてつもない物語の世界を感じさせられる。ひねれば野崎まどさんの「野崎まど劇場」のようにスラップスティックの喧噪に溢れたものになりそうだし、広げれば草野原々さん「最後に最初のアイドル」のように奇想が暴走して宇宙すら飛び越していくスケール感に溢れたものになるところを、しっとりと収めさらりと流してオチを付けてホッとさせる。

 「百万光年のちょっと先、今よりほんの三秒むかし」という同じ書き出しを持ったエピソードは、自動人形か何かの少女が床にある子供に語って聞かせた昔話とも千夜一夜物語とも言えそうなものとして綴られる。だから残酷にはならず驚愕には至らずに落ち着くところに落ち着くのだろう。どれをとっても凄いんだけれど、サッと読んで気に入ったのは「卵を割らなきゃオムレツは」で、生まれた瞬間から人工子宮であり保育器でもあるパワードスーツに入って成長しながら戦場に立ち続け、いずれ除隊して外に出て“人間”となる子供たちが、最後の戦いに臨んで起こったある出来事が楽しくて嬉しい。人権のない人間のような存在が上の思惑に生殺与奪を握られながら戦い続ける展開は、安里アサトさん「86−エイティシックス」とちょっと重なった。あれを古橋さんはこう書いたか。

 侵略してきた宇宙人に対して店番をしていたぼんくらな甥が、叔父の教えたとおりの受け答えをした結果何が起こったかを書いた「害虫駆除業者の甥」とかは、相手の事情など斟酌しないけど結果としてもたらされた幸いが面白いし、宇宙の果てのレストランへと辿り着いて食事を楽しんでいた紳士に、ある襲撃が行われながらも無事に済んでしまった理由が明かされる「お脱ぎになっても大丈夫」は、宇宙には様々な存在があって嗜好もあるけどやっぱり全裸で食事するのだけは辞めようと思わされる。宇宙のあらゆる知識を学びきってしまった男が求めた境地を示した「最後の一冊」はつまり過ぎたるは及ばざるよりつまらないってことで。教訓にSF的な発想を乗せて綴られた珠玉の作品集を味わおう。売れれば集英社から他の次元の狭間に埋もれてしまったSFもいっぱい出るかもよ。

 滋賀大学から目白大学に移った山中智省さんの「『ドラゴンマガジン』創刊物語 狼煙を上げた先駆者たち」(勉誠出版、1800円)を拝受にて、ペラペラとめくって読んで思ったのがどえりゃあ細かいってこと。富士見書房が刊行してライトノベルという今を隆盛のカテゴリーへの入り口を作ったと呼ばれる雑誌であり、ファンタジア文庫というレーベルの創刊前から起こっていた、イラスト入りアニメーター表紙絵文庫とか追いつつゲームブックの流れも抑えライトノベルへと至る混沌と騒然の時代を探求によって書き止めていった労作となっている。

 個人的には大学の卒業から就職そして東京への転居となってちょっとポップカルチャーから離れていた時期に起こったムーブメントだけに、リアルタイムで体感していなかたりするから、呼んでなるほど現場ではこういうことが起こっていたのかと分かって面白かった。もちろんSF畑だったので火浦功さん岬兄悟さんといったポップな文体の書き手に出渕裕さんやゆうきまさみさん、とり・みきさんといった、マンガ家やイラストレーターの表紙絵がついた文庫が出始めていたことは知っているけれど、そうしたムーブメントが月刊誌の「ニュータイプ」で取り上げられて「アニメーター&マンガ家のイラスト小説(ノベルズ)。これからのニュータイプ・ノベルズの人気の秘密と未来をレポート」といった具合に紹介されていたとは気づかなかった。

 というか、ヤングアダルトでもライトノベルでもないニュータイプ・ノベルズという言い方もあったのか。まあ掲載誌がニュータイプだからそれもあったかもしれないけれど、ひとつ言い方としては当てはまらないこともないだけに、主流にならなかったのはなぜかがちょっと気になった。そこで挙げられていたとり・みきさん表紙の岬兄悟さん作「魔女でもステディ」だけれど、このお2人の組み合わせを1982年の文化出版局刊のポケットメイツ「バルーン・バルーン」で見てへえと思ったことを思い出した。今から考えればパラクリ周りの人たちってことでつながるんだけれど。

 そんなビジュアル重視の文庫ってのだから系譜を掘ればコバルトやソノラマ以外にもいろいろあるんだよなあ、でもそこにこだわっても仕方が無いからとりあえず、ドラゴンマガジンを主軸に置いて調べていくといったこの本のスタンスは正しい。「小説ハヤカワHi」なんて歴史のどこにハマる余地ってなかなか探すの面倒そうだし。あと「『ドラゴンマガジン』創刊物語 狼煙を上げた先駆者たち」でへえと思った所は、初期のアイドルが起用された表紙で使われていたコスチュームの制作は「安田猛さんのお母さんが行ってくださったんです」という竹中清さんの証言。デザインは出渕裕さんだそうな。そうなった背景は角川歴彦さんが「表紙はアイドルにジオラマを着せるんだ」と言ったことを、元編集長の小川洋さんが受け止め「ファンタジーっぽいコスプレをさせようってことだと理解」したからだという。細部にも歴史あり。そういうところを掘っていった労作だと改めて著者に喝采。

 とある全国紙が大々的に報じていた、沖縄で起こった米軍の曹長による日本人救出活動の美談が、実は違っていたといったという展開のあまりに予想通りの顛末に驚きはまるでないんだけれど、だったらどうして沖縄の地元紙がその取材力を活かして“真相”を究明して、フェイクな記事による自分たちへの誹謗とも言える言説を窘めなかったかという点で、アメリカの海兵隊に所属する曹長が、事故を起こしていた自動車に乗っていた人を救い出そうとして車を止めて向かったところをはねられ、重傷を負ったといったストーリーが前提にあって、それを否定すると実際に重傷を負っている曹長へのいらぬ誤解を生む恐れもあって、そういう可能性がまったく否定できないのなら(たぶんできないことはないだろう、実際に救出された人に聞けば済む話なんだから)黙っておこうと考えたといったあたりに、人権と名誉への配慮といったものが感じられた。

 そんな地元紙がそれでもぶち切れてこの嘘つきめと記事に書いたのは、根も葉もない事実を根拠にして沖縄の地元紙は「報道しな自由」を駆使してアメリカ嫌いを貫こうとしているんだといった誹謗を浴びせられたからで、あまつさえ「これからも無視を続けるようなら、メディア、報道機関を名乗る資格はない。日本人として恥だ」とまで書かれては、そんなことはないと言わざるを得ないだろう。結果として「報道機関を名乗る資格はない」のがどちらか明らかになってしまった。これは書いた全国紙にとっては恥であり不名誉でありそれこそ捏造を指摘されたに等しい事態であるにも関わらず、動じている節がないのが気にかかる。

 普通に調べれば、それこそ警察に聞き救出された人に聞けばすぐに分かる事実をまるで調べず、誰かの言葉をそのまま書いたよう。でもそれは調べれば分かることなのに調べなかったというよりは、調べたら分かってしまうことなので調べなかっといった雰囲気。米軍の美談を紹介したがらない沖縄の地元紙を批判したいという目的を果たすには、その美談がどうしても存在している必要があった。けれども聞けば確定してしまう事実を未確定の中でシュレディンガーの猫状態にしておくために、詳細を聞かず調べずにおいたといった雰囲気すら漂う。まさかそこまでするのかって、そこましまくっているからなあ、つい先日も沖縄県が基地収入の割合を低く見せようと、観光収入を統計的に水増ししてるとかって記事を出して、沖縄県から聞いてすらいないことを書いてと否定されていた。今回の件も警察に聞いてなかったりするあたりまるで同じ。それを平気でやれてしまう現場も、そうやって上がってきたシュレディンガー猫記事を載せてしまえる媒体も凄まじいとしか言い様がない。ここまで状況が露見してなお続けるか。続けそうだなあ。やれやれ。


【1月29日】 大相撲の1月場所で優勝した栃ノ心関には心からおめでとうと言いたいけれど、その師匠の春日野親方がかつて栃ノ心関をゴルフクラブで殴っていたことが、それで荒れていた生活態度を改め相撲に取り組むようになって今に至ったきっかけになったと美談仕立てで語られるようになるかどうかが、目下の心配事だったりする。殴られて怪我をして引退していた可能性だってあった訳で、それ以外の方法をこそ今はやっぱり模索して推奨すべき。かつてそうだったからやっぱり良かったと言ってしまうのは絶対に避けて欲しい。

 そこはもさすがにメディアも別の一件、兄弟子に殴られ弟弟子があごを骨折して今も後遺症に苦しんでいる話が気になっているんで、暴力肯定と行きづらいみたいでまずは幸い。これもなかなか不思議な案件で、春日野親方はちゃんと当時の北の湖理事長には報告していたって話している。たぶん本当なんだろうけれどもどういったニュアンスで報告したのか、骨折で重症で警察沙汰になって刑事裁判を起こされ有罪判決が出たといったところまでちゃんと報告しているのかがひとつのポイント。それも報告済みだとしたらそうした重大案件が北の湖理事長やその周辺からちゃんと危機管理委員会へと報告されて議論されたのかってことが問題になる。

 メンバーの宗像紀夫元東京地検特捜部長はまったく聞いてないというからそのあたりがボトルネック。危機管理部長だった貴乃花親方が耳に入れていてば今の態度から当然に宗像さんに相談していたはずだろうからそこにも行ってない可能性がある。だとしたらやっぱりモヤモヤの中に収められ、だからこそ貴ノ岩関の一件で貴乃花親方は協会を当てにしなかったなんて想像も生まれてしまう。こじれる前にこれはどこで誰が止めたかを明らかにしないと、相撲協会はとんでもないことになりそう。どうなることやら。

 「緋色のスプーク」のササクラが帰ってきたとも、ササクラの「緋色のスプーク」が蘇ったとも言えると読み終えて思った藍内友紀さんの「星を墜とすボクに降る、ましろの雨」(ハヤカワ文庫JA)。かつて地球に幾つも落下して街を消滅させたような隕石がまだ後にも続いているとうことで、そんな地球に迫る星を狙い撃って破壊する任務に就き、それだけを使命と思い誇りとも思っているスナイパーたちがいる。手にした銃器を撃つのではなく、軌道上の庭園と呼ばれる場所で地球からデータを得て特殊な眼で観測してトリガーを引くと、離れた場所の巨砲<トニトゥルス>が発射され地球圏に迫る星を撃ち抜き砕く。そのために生み出され育てられたスナイパーの物語が「星を墜とすボクに降る、ましろの雨だ。

 そんなスナイパーのひとりで、霧原という名を持つ少女が物語の主人公。神条という整備士を専属にして星を撃ち続けていた彼女の日々に変化が起こる。ひとつはスナイパーとしての限界。チップを埋め込まれ駆使された脳はいずれ崩壊する。その時を霧原は恐怖しない。なぜ? スナイパーは星を撃つことを至高と思い星に自らを砕かれ死ぬことを厭わない。むしろ望んでいる。刹那的といった感情すら持たないスナイパーがいずれ迎える終焉を霧原も感じていたけれど、そこに神条という整備士と同じ名字の女が現れ物語が動く。

 整備士の神条の元妻で、当人は籍は入れたままだから今も妻という神条ハヤトの登場で霧原は家族という概念に気付きそこからいろいろと学んでいく。やがて軌道庭園に星が迫り霧原の環境も激変する。もう止めれば? でも止めない。そして終焉へと物語は進んでいく。砕かれても星を撃ちたいと願うスナイパー。その心理に訪れた変化も目的を変えることはなかった。愛や家族といった旧弊な観念に囚われず、かといって拒絶もせいないで自分を貫く霧原に世代間、あるいは種としての隔絶を見た。そう、これはある種の断絶の物語だ。大人たちは子供たちを慈しみ理解もしてその思いに取り込もうとする。でも子供たちは自分たちの価値観を持ちその観念に従って生きようとする。知ったかぶりをしても子供たちは笑って退ける。そんな隔絶を物語から感じた。

 それはこの小説への理解も同様に刺す。その帰結を歓待したいかというと大人には苦みがある。でも子供にそれは無い。分かったふりをするより認めて眺めるしかないその行く末に、それでも大人として苦渋を感じるしかないのだろうか、例えウザいと思われようと。そして思い出す、「」緋色のスプーク」におけるエース戦闘機乗りの“赤の死神”ニケと整備士アガツマとの関係。諦観か虚無かといった感じに戦闘機を駆り飛び続けるニケとアガツマは霧原と神条に少し重なり、けれども「星を墜とすボクに降る、ましろの雨」はもっとピュア。機会があったら読み比べて欲しい。

 降り注ぐ星という戦慄を抱えつつ人造の兵器によって凌ぐ人類に未来はあるのか。そんな環境に置かれた地球はどんな政体や社会を持っているのか。そういった設定も気になるマクロな状況下でミクロの関係が描かれそれがマクロに跳ね返る所が想像の成果だ。地球にとっては重大な状況でも現場では淡々と事が進んでいく辺りの空気感とそれを紡ぐ筆に<雪風シリーズ>を始めとした早期の神林長平の雰囲気も感じられたその筆致と突き放したような世界への視線は独特。だからこそ次にも期待できる。そんな作家だ。

 NHKを辞めて移ろうとしたアナウンサーに過去のあれこれが持ち上がってお引き取りを願わざるを得なかった1件は過去に似たような1件もあってどうしてそんなことになっているか感をグッと顔しだしたけれど、そんなお台場のテレビ局が起死回生をと打ち出してきた新番組の内容が、これまた後追い感に濃く漂うものだったりして不安がグッと増してくる。なんだよ「世界! 極タウンに住んでみる」って。世界の秘境めいた場所にスタッフが出かけていって起こるあれやこれやをスタジオからタレントが論評して笑ったり驚いたりするってそんなもの「世界の果てまでイッテQ」がやってるしディレクターに汗をかかせるのも「陸海空 世界征服するなんて」がナスDでグッと先を行く。

 珍しい場所に長く住んでいるならテレビ東京に「世界ナゼそこに?日本人 〜知られざる波瀾万丈伝〜」が人間ドラマも含めて地域を描いて評判になっているような番組を、追いかけるように作って放送しても目新しさは感じない。最初のうちは新味もあって見られるかもしれないし、それでいくつかの類例に並んだとしても、それを進取の気風で売ってきたテレビ局がやってしまて良いのかどうか。そこがどうにも気になってくる。「極」って極端をアピールする内容だけにいつか現地の思惑を超えて大げさに伝えてそんな場所じゃないと現地から反発を暗いそうな予感。あと他の番組で司会に起用するのも梅沢富美男さん坂上忍さん石橋貴明さんとあまり代わり映えはしない人たち。そしてどちらかと言えばイジりの言動で笑いを誘うタイプばかりで、そういうのを見せられて心はついていくのかどうか。過激な言動が受けているのも今だけなんじゃないのかなあ。どうなのかなあ。

 近所の本屋で売ってた「けものフレンズ一番くじ にばん」があと4枚でラストということでその場で購入してラストワン賞のサーバルちゃんクッションを確保。ほかにもアルパスリのクッションも入っててなかなかの収穫になった。残り3つは缶バッジでかばんちゃんのアライグマとあと何だったっけ、ともあれ結構なくじ。さんばんにはフィギュアもあるみたいだけれど当たる気がしないからなあ、でも余り物の福を頂いたからには普通に運試しをして還元しないといけないのかなあ、今度寄ったら何枚か引いてあげよう。問題は結構なサイズのあるクッションを家のどこに置くかだ。どうせ山積みの上に積まれてそしてまた何かを積まれて埋もれていくだけなんだ。悲しいなあ。巨大な家が欲しいなあ。


【1月28日】 配信された「けものフレンズぱびりおん」を淡々とプレイする。最初はさばんなちほーから始めてちょっとづつあそびどうぐを増やしてそれなりにフレンズたちを集めてさあ、次のちほーへと行くかと同じ300コインで選べるこうざんちほーとみずべちほーから先にこうざんを選んで次、コインが溜まったらみずべに行けけばいいやと思ったら、こうざんを経てそっちにいくには5000コインが必要だった。なんだ2択かよ。1日に500コインくらいは勝手に貯まるから10日立てば新しい地方へと行けるみたいだから課金なんてしないけど、一気に攻めたい人は課金しまくりちほーもあそびどうぐもそろえてフレンズ総まくりするんだろうなあ。それって楽しい? だから僕は1日に少しずつ。PPPも3人まで来たし。ツチノコはいつ来るかなあ。

 ポップでキュートな「パモン」を作った当真一茂さんと、ダークでシリアスな「澱みの騒ぎ」を作った小野ハナさんがユニットを組んで、どうしてファンキーでグルーヴィーでソウルフルな映像になるのかさっぱり分からないけれども、そこが「ポプテピピック」という作品が求めるシュールでキッチュな映像といったところ。アース・ウインド・アンド・ファイアーだなんて僕らは知っていてファンキーだと思えるけれど、若い人には冗談にしか見えないプロモーションビデオの映像を、フエルトのキャラクターでもって演じさせ、撮影して効果も乗せて見せるとか、いったい誰が得なんだという捻れを面白さに変えて突きつける。

 これがいきなり登場したら何だって話になるところを、すでに第2話でもって当真さんと小野さんのユニット「UchuPeople」による映像を1本見せてあるから、その延長にして発展以上の何かだと感じさせてくれた。こういうところが上手いプロデュースワーク。声優のとっかえひっかえとはまた違った探求と発見の楽しみも味わわせてくれる。これで4話まで来て仕切り直しとなるのか否か。次もまた新しいアニメーション作家が起用されるのか否か。分からないけどとりあえず、「ポプテピピック」でフェルトアニメーションを手掛けた当真一茂さんと小野ハナさんを輩出した東京藝大院映像研究科アニメーション専攻の第九期生修了制作展は3月2日から4日まで横浜美術館レクチャーホールで開催、あと21日から25日まで上野キャンパスでも。行けば次代の「ポプテピピック」クリエイターが見つかるかも。

 そんな小野ハナさんが「澱みの騒ぎ」で獲得した大藤信郎賞を第72回毎日映画コンクールで獲得したのが湯浅正明監督による「夜明け告げるルーのうた」。毎日新聞の2018年1月28日付けに選評が出ていて片渕須直さんが講評で「『ルー』の真骨頂は軽やかなアニメーションの感覚にあり、そこは確実に独創的だった」と書いていた。これは前提として他のアニメーション映画賞も含めてノミネートされた作品が、総じて「『既視感』を強く感じて」しまうものが多く、大藤賞を獲得することが多い短編では「既作品の『内省的な暗さ』に似せた雰囲気を持つことで作品たらしめようとして」いるということだった。

 すなわち「澱みの騒ぎ」のようなトーンであり、そうした作品なら大藤賞でありメジャーな栄華ならアニメーション映画賞、そんな切り分けが誰の頭の中にも出来つつあったところを、今回の審査ではひっくり返そうとしたことが窺える。アニメーション作家の黒坂圭太さんが講評で「『実験的な作品に与えられる大藤信郎賞を【ルー】とし、固定観念にとらわれていない【こんぷれっくす】に映画賞を授与することで、昨今のアニメ界に対する提言とすべきだ』との意見が大勢を占め」たことを引いてふくだみゆき監督の「こんぷれっくす×コンプレックス」がアニメーション映画賞に輝き「夜明け告げるルーのうた」が大藤賞となった背景を指摘している。

 こういった“作為”が果たして純粋に真正面からアニメーションという表現であり娯楽を評価する上で適正かどうかは正直分からないけれど、少なくとも見て普通に楽しく笑えて泣けたりもする「こんぷれっくす×コンプレックス」がたとえインディペンデントでも、そしてFlashによる長くないアニメーション作品だったとしても、アニメーション映画賞を取ったことに異論はまったくない。どうにかしたいと考えていたところに飛び込んで来た格好の作品だったと言えるかも。だからといって来年にもまた個人制作のユニークな映画が入るとは限らないからそこは間違えないように、ってことでもあるんだろう。何が取るかなあ。やっぱり細田守監督の新作かなあ。

 「けものフレンズ」で「一騎当千」という意味が分かった「キリングバイツ」を3話まで一気に見る。TBSだからなのかアンダーウェアに湯気も光も入らずしっかり見えるのはなかなかだし、バトルシーンもスピーディーで迫力があって楽しめる。さっきまでいっしょにいた知り合いが惨殺されて恐怖に怯えても、翌日とかしばらくしてすぐ学校にいって同じ部活の仲間たちと会話できるところに野本という人間の弱いようで案外に芯の強いところも感じられるけど真相は不明。ライオンよりもヤマアラシよりも強いラーテルって「けものフレンズ」には出てきてないよなあ、出てきたらどんなフレンズになったんだろうか、ちょっと気になる。第2部では主役交代もあるみたいなんでアニメは第1部までかな、深夜アニメの娯楽っぷりを味わえる作品として眺めていこう。

 あと1週間くらいで終わってしまうんで2度めの上野の森美術館は「生ョ範義展 THE ILLUSTRATOR」へ。入り口に行列はなく中もそれぞれの作品を流れるようには見ていける感じ。超混み混みにはならないもののそれなりに人がいるのは「ゴジラ」であり「スター・ウォーズ」といった映画のポスターを手掛けた人っていった認識が、僕よりも下の世代には広まっているからなんだろう。でなければ小松左京さん平井和正さんの表紙絵を描いていた人っていった認識の僕たちだけの世代になってしまうだろうから。もちろん今でもそっちを見るのが中心になるんだけれど、あとSFアドベンチャーの表紙絵の美女たちとか。

 そんな生ョ範義さんの作品で今回目を引かれたのはタバコの「HOPE」のたぶん広告用ポスターで、アメリカの街角とかストリートにたたずむ男性のスタイリッシュなタバコ吸引像を描くことによってそうした嗜好への誘いかけを行ったといったレイアウト。凄いのはレンガの壁も奥へと伸びたストリートの両脇に並ぶ店も金網もすべて手描きだってこと。今なら写真を撮ってフォトショップなりで張り込んでイラストレーターで加工して背景にするとかやってしまいそうだけれども、生ョさんのイラストは1枚1枚表情の異なるレンガを全部手で描いて積み上げてそれが寸分の狂いなく壁となっていたりするし、クロスした金網の金属的な輝きもそして影もしっかりと手で描かれ色が塗られてそうした質感でありフォルムを再現している。

 ハイパーリアリズム絵画ならあり得るけれどそれを広告なんてシーンでさらりとやってのける才能は、正規の画壇で認められ芸術院賞でも取って不思議はないのに市井のイラストレーターで居続けた。そこが凄い。ただそうした才能がもっと世に知られ影響力も持ち得たならば、晩年いかけて描いただろうオリジナル作品から醸し出される反戦平和への強い意識も含めて世の中に伝わったことだろう。それこそ藤田嗣治さんとかが戦争絵画に仮託して結果として描こうとした戦争の残酷さを、ベトナムであり重慶でありイランといった場所で繰り広げられた爆撃や攻撃への批判めいた作品を通じて世に問うていた生ョさんのメッセージが、市井のイラストレーターだからといって伝わらなかったらこれは寂しい。だからこそ今回の展覧会でそうした作品を見て感じて世に問う人が出てきて欲しい。継ぐのは誰か?


【1月27日】 デジタルハリウッド大学で毎年恒例の「アニメ・ビジネス・フォーラム+(プラス)2018」を見る。AT−Xの岩田圭介社長が毎年のように出演しているけれども今年は岩田圭助社長と対談するような形で映画評論家の清水節さんが登壇して、主に日本のコンテンツの海崖配信がどうなっていくかといったあたりから今後の展望を話してくれた。それこそ今のNetflixはアメリカで1年間に80本の新作が作られている恰好で、これを1本単位に置き換えると4日に1作の新作が世に送り出されている形になる。

 日本が映画黄金期に毎週のように新作を公開していた時よりも多いスペースで、これによって新作至上主義が横行しているんだけど逆に見るなら新作でなければ見てくれない、見られないといった雰囲気があるとも言えそう。それはとてもお金がかかることだけれど果たしていつまで持つのか。そうしたお金が例えば日本のドラマなりアニメーションなりを潤しているとして、サッと引かれた時に起こる嵐にも似た状況がちょっと不安といったことを話してた。

 だからこそ経営を安定させるためには過去の作品を引っ張って新作から遡って見てもらうようなキュレーションが必要なんだけれど、そうした機能が配信プラットフォームにはどうも弱そう。今まさに大ヒット中の「DEVILMAN Crybaby」を見終わった人は次にいったい何を見ればいいのか。過去のテレビアニメの「デビルマン」ではないし映画「デビルマン」でもなさそうだしOVAはアップされてなければ見られないし「マジンガーZ対デビルマン」から永井豪作品へと広げていってもそれはやっぱり違ってる。だったら湯浅政明監督作品? 「マインドゲーム」にしても「夜は短し歩けよ乙女」にしても「カイバ」「ケモノヅメ」にしてもそれを見て「DEVILMAN Crybaby」に感銘を受けた人は喜ぶのか。喜ばせるための文脈は用意してあるのか。そうしたあたりの弱さをどうにかする必要がありそう。

 とはやっぱり世界と勝負できる作品を作っていこうことで、過去に日本映画に注目が集まって世界展開出来る作品を模索して黒澤明や溝口健二といった監督が送り出されたものの世界市場をとらえるような作品にはならず逆に日本向けのマーケティングが強化され「男はつらいよ」のような島国マーケット向け作品が中心になっていった。それで十分食えたからなんだろうけれど、今度また同じように日本向けにこだわっていたらかつての日本映画が辿った道を日本の映像産業も歩んでいくことになってしまう。名刺代わりになった「DEVILMAN Crybaby」を押し立てて次にどこへと向かうべきかが、日本の映像産業の考える道ってことになりそう。誰が立ち何が行く? 考えたい。

 珍しく早朝に起きて新宿ピカデリーへと行き行列に並んで「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」の第四章「天命篇」のブルーレイを購入してとりあえず任務完了。前章「純愛篇」は超選択と超優柔油断と超展開が好きでは無かったので1度しか見なかった「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち」だけれど、今回の第四章「天命篇」についていうなら自分好みで展開に驚きが多くそれでいて呆れはなく、キャラクターの言動にも親しみを抱けて最初から最後まで見ていくことが出来たし、これならまた見たいとも思えた。

 斉藤始のどこまでも好戦的でガミラスもガトランティスも吹き飛ばして当然といったスタンスは、古代進のどこまでも厭戦的というより波動砲忌避から来る優柔不断さとの対比でウザったくもあったけれど、そうしたウザさが最前線で闘い仲間を大勢失った思いから来ること、そしてそんな斉藤が古代にも理解を示したことから共に当方からの距離感が縮まった感じ。この両極端な2人を取り込んで一体感を増したところに加わる楔であり重石としての土方竜“艦長”。これによってヤマトはテレザードで得た目的を果たすために決断を経て決戦へと至る、というのが次の第五章「煉獄篇」のストーリーかな。

 ストーリーはもはや劇場版『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』でもテレビシリーズ「宇宙戦艦ヤマト2」でもない独特なところに来ている感じで、自らは生殖ができないガトランティスによる「愛」によって繁殖して増え世代を受け継いでいく人類への関心と嫉妬のような侵攻が、実は宇宙のあまねく生命に対して仕掛けられたひとつの装置、それは安全装置とも呼べるし自爆装置とも呼べそうな意味合いを持っていたことが明らかにされて、さあいったいヤマトはそんなアンチスパイラル的な仕組みを相手に戦い勝ち残れるのかといった興味を誘う。

 地球だけではとうてい無理でガミラスを入れたってたぶん無理なんだろうけれどもそこは反発し合うヤマトとデスラー一派の憎しみが相転移した愛めいたものが結集して爆発するとか、これまで関わってきたイスカンダルでありネレディアたち方舟のジレル人たちも加わって古代アケーリアス文明の末裔が総動員され総力戦出挑むとかいった展開も考えられる。ただイスカンダルが絡むと波動砲めいた大量破壊兵器による殲滅はやりづらそう。かといって話して分かる相手でもないってところで鍵はやっぱり「愛」か。巨大化した裸のズォーダー相手にこちらも巨大化した裸の古代進が向き合いはっけよいでのこったのこった。なんてことはさすがにないか。

 まあきっとテレサにはお見通しなんだろうそんな未来がなぞられつつテレサすら驚きを感じるような展開があれば見ている方も感動できるし感銘を覚えられるだろう。そこはだから福井晴敏さんの筆次第か。「愛」をテーマに選んだ以上はそれを「憎しみ」へと反転させるような物語は描かないと思われるから、見ていて苛立ち呆れて投げたくなるような物語はもう来ないと思いたい。第三章はだからギリギリだったんだ。

 追い詰められては逃げ出して攻めてやっぱり追い詰められても諦めない。幸運も起こるしハプニングも起こってその中をしっかりと生き延びていくヤマトの命運に何者かの意思が介在していないとしたらいったいどれだけの強運を持った船でありクルーなんだろう。それがなぜヤマトなのかとも思いつつそれがヤマトなんだとも思う。古代が迷っても土方が助言し島大介もいて森雪もいたりする中で皆が考え決断を下していくからこその強運か。

 艦隊船があり地上戦めいたものがあってそして肉弾戦もある。斉藤がガトランティスの指揮艦相手に挑んだ戦いは文字通りに拳で語り合うようなものだったけれど、そこでわかり合えないのが人間とガトランティス。ちょっと寂しかった。通じ合ってはいたのかな。一方で永倉志織と桂木透子との格闘は空間騎兵隊の猛者でガスマスクもしていた永倉を相手に素顔で素手の桂木がもう素晴らし戦いぶり。「宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち 第四章 天命篇」を語るなら最大の見どころは桂木のローリング・ソバットかもしれない。絶対に。

 もうひとつあるとしたらテレザード星で対面するテレサの「だっちゅーの」(死語)ポーズか。正面から見てあの程度というのはなあ、それとも腕で押さえていたか、いや真横から見てもあれくらいだから、等々。あのボディがどういったいわれの物でヤマトクルーの総合的な好みを束ねたものかそれとも固有のものか分からないだけに、前者だとしたらヤマトクルーはあまり大きくないのが好みということになりそう。実際にうん、それほど大きいのっていないものなあ、森雪くらい? だよなあ。藪はどこへ行った?

 そもそもが合資会社八丁味噌とまるや八丁味噌の商品以外に「八丁味噌」といった名称を使ってないにもかかわらず、2社を除いた愛知県の味噌会社が作る組合が「八丁味噌」を登録産品として申請して、愛知県産の味噌にも使おうとしているところが問題な訳だし味噌会社としても恥じ入るべき話なのに、それを隠して「八丁味噌」をブランドめいたものとして利用していこうとしても本家の岡崎に配慮して、名古屋の人間が偽八丁味噌を好んで食べるとは思えないし思いたくない。ってか別に八丁味噌でなくても赤味噌だったらそれは名古屋飯。「八丁味噌」のブランドは岡崎城から八丁のメーカーに使わせ続ければ良いんじゃなか。でもきっと「八丁味噌」を美味い味噌のブランドか何かと勘違いした人が県外なり世界にいて、それならば買うし食べるとか言ってるんだろうなあ。違うとせつめいして名古屋の赤味噌を食べてもらう手間を省いて人気の「八丁味噌」に便乗したい愛知県の味噌会社に恥じ入れととりあえず言っておこう。

 AiiA 2.5 Theater TOKYOにて舞台「クジラの子らは砂上に歌う」の夜の部を観劇、今回の再演では2回目で位置は舞台下手の端っこの方だったけれど前目だったから役者の姿は木曜日に20列目から見た時よりもはっきりと見えてむしろ良かった。ギンシュねえさんのもちろんスパッツははいているけどそこへと至る頑丈な脚とかもう眼福。でもやっぱり前目だと殺陣の迫力が半端なくしっかりと段取られた展開をそれでも型にハマった感じじゃ無くぶつかり合うように演じているのに目を持って行かれる。団長とリョダリとの対決とかもうサイミアが行ったり来たりするから演じている方もたいへんだったろう。ここは本当に見どころ。次に見る大阪千穐楽のライブビューイングで改めて流麗な捌きを楽しみたい。

 イントロダクションでの楽曲が違っていたりして最初はアレっと肩すかしも食らったけれどもすぐに覚えて頭に刻んだ楽曲なので今回はこれでピッタリといった感じにチューニングできた。泥クジラから帝国へと行きといった具合にシンプルな舞台の上にあちらこちらを再現する技にも目移りはせず、じっくりと展開を楽しんで行けた。感想は大千穐楽まで取っておくとしてとりあえずやっぱりリョダリのピュアな狂気がとても良いのとオルカの高い身長が舞台に映えてとっても強そう。サミは小さくて可愛くて健気なんでああなってしまった後ではみんな泣いていた。ライブビューイングでも泣いてしまいそうだなあ。缶バッジはまたチャクロにエマが出てダブったけれども団長シュアンも確保できたから由としよう。ライブビューイングでも売るそうなんでギンシュ姉さん絶対確保だ。


【1月26日】 とりあえず第1報として短信めいたものを掲載した後で、伝わってくる詳報を書き足していくなりして間で見当違いがあったならそれを直していくようなことが、通信社による原稿の配信では一般的でそうした案内を見ながら新聞なんかを作る人は差し替え原稿を取り入れ貼り付けていって紙面の体裁を整えていき、最後に印刷へと回して確定したものにする。その後も間違っていたからと訂正が入ることはあるけれど、それは仕方が無いこととして後で訂正を入れつつも基本として同じニュースがそこに載り続ける。これがウエブになった場合も、途中の書き間違いを何の注釈も入れずに書き換えることは行儀は悪いとは言えあったりする。結果、そのURLを叩けば同じニュースを見続けられるのが普通だろう。

 だから共同通信がしでかしたという、最初は京都大学iPS細胞研究所の山中伸弥所長が不正論文の掲載された科学雑誌の編集にも深く関わっていて、その論文が世にでる後押しをしたかのような報道をまるっと消してしまい、山中伸弥所長が不正に関する責任を取る意味もあって自分の給与を返上するといった記事に差し替えるのはやっぱり筋が違っている。というよりやっては拙いことのような気がする。訂正するなら訂正しつつ、ある意味でその覚悟を示すような記事は別稿としてURLを立てて配信すべきだった。そうすればリンクを張ってTwitter上で紹介しても当該の記事にちゃんと行ける。間違った方は間違っていた見出しは残りつつ行ったら違う記事だといったような事態は起こらない。それなのになぜ差し替えたのか。きっとこれから問題になるんだろうなあ。最近は自分を置いて余所のメディアを叩くのが好きなところもあるようだし。それで叩いた側の売れ行きがアップするということもないんだけれど。やれやれ。

 深夜アニメにCMが流れて興味を持ったOVAを遡るようにして読むようになった伊藤明弘さんの漫画「ジオブリーダーズ」に登場して、化け猫を封印する時に神楽綜合警備の面々が使っていたIBMのPalm Top PC 110が時々電話代わりに使われるのを見て、すでにPCの上で使い始めたパソコン通信からインターネットもいずれ持ち運び可能な小型PCの上からアクセスできるようになるんだろうと確信していた。それ以前にもPDAのPalmがありNewtonもあったりして、それらがスタンドアロンでの通信機能を持った時代に何が起こるかといった想像をかきたてられた。

 もっともPDAがそのまま通信機能を持ったようなスマートフォンへと至る道筋はまっすぐではなかったようで、まずは手にした携帯電話からインターネットにアクセスできる時代が訪れた。なぜそうなったのかは分からないけれど、移動体通信というテクノロジーを持っているところがそれをコンピュータに乗せて使うことを考えたからなのかもしれない。事前に発達し始めていたPHSからの簡単なメール送信を携帯電話が引っ張り発展させていき、その延長のような形で携帯電話の小さな画面でテキストベースのインターネット利用が始まった。i−modeだ。

 それは革新だった。メールをやりとりすること以外に、ウェブサイトを小型化したような携帯サイトが作られその上でコンテンツを配信するなり物を売るなりといったサービスが動くようになった。アプリの提供でありECでありといった、今のスマートフォンを支える主要なサービスがi−modeの登場によって幕を開けたといっても過言ではない。もはや音楽流通の主流となったネットによる配信も、i−modeの着メロから発達したものと言えるだろう。すなわち今のスマートフォンを核とした情報流通の仕組みで在りリアルな物流の仕組みすらも左右する巨大なビジネス形態が、i−modeから幕を開け、そしてその最初の扉を開いたのが富士通が手掛けた最初のi−mode端末「F501i HYPER」だった。そんな気がする。

 そんな富士通がFM−7を生みTOWNSを生んだパソコン事業に続いて携帯電話事業も売却との報。らくらくケータイめいたものは残すものの本格的なスマートフォンは手放すことになってこれで移動体通信なり情報機器といったものから半ば手を引く恰好になる。それで富士通にいったい何が残るのか、産業用の通信機でありメインフレームのようなコンピュータでありといったものになるのかどうか。もはやウオッチしていない企業だけにその業容は知れず、今後の展開を想像するのが難しい。とはいえi−mode端末によって手の中にインターネットを持ってくるサービスと技術の入り口を開いたところで、その上で何をするかを想像できなかったのはNTTドコモも富士通も同様。よりスマートなGUIを持って音楽配信のサービスも乗せアプリ配信プラットフォームとしても存在を確たるものにしたアップルのiPhoneに敗れ後塵を拝する形になった。

 そこから追いかけて追いつくかというとSAMUSUNが孤軍としてギャラクシー端末を世に問いアンドロイド陣営として頑張っているし、HUAWEIもモバイル端末の分野で存在感を高めては来ている。ただサービスと鳴門GoogleのプラットフォームやOSだよりでハードメーカーとしてのプライオリティは下がっている。そんな時代に富士通が何をできるかと考えるとやはり難しいというのが実際か。だから売却して安価で使いやすい端末を求めるユーザーに資することを目指した企業に受け持ってもらう。そんな道を選んだのだろう。扉は開いてもその先をさらに進まず来たものに譲っていく日本の企業。そのスタンスは寂しいけれども今、出来ることをするのが復活への道。観察していこう。これで川崎フロンターレの選手もアロウズ縛りから解放されるかな(ってそれはないか今時点も)。

 そもそもが注目を集めている人材でありながらも遠く北海道から大阪だからまずまずとはいえ東京ではなく、そして鹿児島へと回されたのかといった背景にある事情が噂ながらも伝えられていたりした訳で、そうした人材をただ不遇を託っているからといって声をかけて引っ張ろうとしても何かいろいろと言葉を投げかけられるだけだといった想像が、普通だったらつきそうなものなのにそれを知ってか知らずか堂々と満天下に公表する形で引き抜いてしまえば結果として、隠されていた諸々が浮かび上がってくるのは必至。そして結果としていつかの真夜中のニュースで抜擢されていた人材と同様に、過去の諸々が表面化して起用するのははばかられる状態へと追い込まれ、相手方の事態という体面だけは取り繕いながらも実質的には起用断念に追い込まれてしまったお台場テレビ局。

 ただでさえ視聴率の悪化にあえぎ放送事業では営業赤字という屈辱を味わっていて、そうした背景の1つに深夜のニュースにおけるキャスターの起用失敗もあったりするにも関わらず、同じ失敗をしでかしてしまうのはどこかに何か大きな問題があるんだろうか。誰も分かってない訳じゃないのに、そうと決まれば動かざるを得ないような事情。今回は過去の失敗を踏まえてのことだから上だって吟味しただろう。ニュースという公正性が求められる番組の顔にするならそうした身辺調査も行われただろう。それでも起用されてしまった事情が知りたい。誰かの熱烈なプッシュがあったとか。それに現場は逆らえなかったとか。それとも上から下までまるで事情が分かっていなかったとか。いずれにしても広がった傷口からこぼれる視聴率が招くさらなる経営悪化が、どういった結果をもたらすか。遠く大手町も知らん顔じゃいられない、ってすでに血液が回らず満身創痍なんだけれど。やれやれだ。


【1月25日】 今度はなか卯とのコラボレーションが発表された「けものフレンズ」だけれどイラストレーションとして提供されているアフリカオオコノハズクの博士とワシミミズクの助手の頭身が長くスリムになっていたりして、テレビアニメのちょこんとした頭身はもとより原案として描かれたイラストからも大きく外れていってしまっているところに描いた人の心境の変化めいたものを感じてしまう。それともなか卯の側がそれを行ってきたのかなあ。はた目にはアニメーションの雰囲気からの脱却を目指しているようにも見えてしまってそこにある複雑な状況といったものを妄想したくなる。単純に描き手のタッチの変化だとしたらこのままフレンズたちは頭身が高くなって最新の「キャプテン翼」のようになってしまうのだろうか。それもまた気になる展開。さてもさても。

 昨日あたりから取りざたされているテレビアニメーション版「進撃の巨人」Session3、すなわち第3期のNHKでの放送は、第1期と第2期とも関東がTOKYO MXで関西が毎日放送といったネットワークだったものが一気に全国区へと移ってしまうという不思議な自体。これまで第1期も第2期も見ていなかった地方のNHK視聴者がいきなり第3期を見ることになるのかといった興味もある一方で、アニメ専門チャンネル的なところもあるTOKYO MXとは違って一応はNHKと張り合う民放キー局に近い毎日放送から、NHKへと作品が移ることの不思議って奴を考えざるを得ない。

 どうしても自前では確保できない事情があったんだろうか。逆に確保したくなくなったんだろうか。放送すれば視聴率も稼げる有料コンテンツだけれど、それを確保できない理由がちょっと分からない。製作委員会が枠を買ってぶち込むTOKOY MXとはまた違う座組が毎日放送には働いていていて、スポンサー的な役割も果たしていたのが持ちこたえられなくなったとか? 分からないけど過去にも「僕のヒーローアカデミア」っていうとてつもなく面白い「週刊少年ジャンプ」連載の漫画のアニメーションを、第2期から日本テレビ放送網へと持って行かれてしまったことがあるだけに、毎日放送=TBSにおけるアニメーションの扱いへの懐疑って奴がここに来て浮かんで来てしまう。

 すでにして「機動戦士ガンダムSEED」であるとかいった名作傑作話題作を送り出してきた、土曜日日曜日の夕方にアニメーションを放送していた枠がなくなったことは知っている。そしてかつての「交響詩篇エウレカセブン」を放送していた時のように早朝に改めて枠を作ったことも。そいうした枠の事情からメジャーに近いタイトルは放送することが難しくなったんだろうか。だからといって深夜には放送したくない事情もあるんだろうか。いずれにしてもアニメに対するこうした毎日放送=TBSの変化が、「コードギアス 反逆のルルーシュ」とか「けいおん!」なんかも送り出してきたアニメイズム枠にも影響を与えてアニメが潰えるようなことにならないことを願いたいのだけれども、果たして。

 リメイクされたアニメーションの「魔方陣グルグル」を見ていて主題歌を歌っているORESAMAのCMで流れるイラストレーションのキッチュで可愛らしい感じに1980年代的なとりみきさん風とも、ゆうきまさみさん的とも言えそうな懐かしさを覚えつつもそれには収まらない新しさを感じて誰なんだろうと気になっていたけれど、そんなイラストレーションを描けたUtomaruんさんという人が怪獣娘という、円谷プロダクションが怪獣擬人化計画の中で展開しているプロジェクトに沿った展開に関係して、自身ならではの怪獣娘をデザインしたものが六本木に26日オープンするエンターテインメントレストランの「KAIJU MUSUME 6」に登場。内覧会を見に行ったらそこかしこにUtomaruさんタッチの怪獣娘たちが描かれ、そのキュンとした雰囲気のある顔立ちにグッとさせられた。

 面白いのはそんなUtomaruさんによる怪獣娘が3次元になって飛び出して来ていることで、ゼットンだとかエレキングだとかキングジョーといった怪獣の特徴を残したコスチュームを着たキャストの人たちが登場してサービスしてくれたりパフォーマンスを見せてくれたりと大賑わい。そして食べられるフードも怪獣がモチーフになっていて、それぞれにしっかりと素材も味も吟味されたものになっているから食べて飲んで騒いで見てといった具合に怪獣尽くし、そして怪獣娘尽くしの時間を凄く事ができる。ポップなキャラクターとキッチュなネオンサインの組み合わせから感じられる80年代なテイストが好きで怪獣が気になって六本木も大丈夫という人なら行って楽しい見せかも。コテコテな怪獣に浸りたいなら新橋の「怪獣居酒屋」へ。そして熱血なロボットが好きな人は池袋の「映像居酒屋ロボ基地」へ。そんな興味に沿っての行き分けが出来る東京って面白いなあ。仮面ライダー酒場はライダーだけに飲酒運転になるから無理かなあ。

 中段以降の左右がガラリと空いた劇場で初演の初日を迎えた舞台「クジラの子らは砂上で歌う」を舞台の上から見た出演者たちが抱いた絶望にも似た不安の心境を、観客席から見ていた僕が想像するこは難しい。マンガ大賞にノミネートされたこともなく、アニメーション化の企画もまったく世に出ていない少女コミックとして連載されているファンタジーともSFとも言えそうな漫画が舞台となってそもそも、どれだけの観客が来るかを考える方が大変といった気持ちもあったから、前段が左右も含めて埋まっていたことを逆によくこれだけのファンが来たとも思った方だった。

 ヒロインのリコスを演じたSUPER☆GiRLSに当時はまだ所属していた前島亜美さんのファンが結構来てくれたからなのかもしれない。それが証拠という訳ではないけれど、観客における男性の割合が結構な比率あったように記憶している。自分はといえば原作のファンであってそれが舞台になるならどんなものになるのかという、純粋な興味からの観劇だったけれど、その期待は裏切られるどころか逆に圧倒的なパワーによってねじ伏せられてこれは傑作に違いない、これは世紀に残る舞台に違いないといった思いを抱いた。その感慨は他の誰もが同様に抱いたようで、その夜から広がり始めた口コミによって観客数はどんどんと増え、5日後に訪れた千穐楽の舞台は満場の上に喝采が鳴り止まず舞台に立っていたキャストを大いに驚かせ、喜ばせた。

 作品の力が観客を呼んだ。その思いはそのまま舞台の予定していなかったDVD化という奇跡を呼び、そして2年近くが経ったものの舞台「クジラの子らは砂上に歌う」の再演という大いなる奇跡を読んだ。途中にテレビアニメーションが放送されて漫画の認知度も高まったことがあったけれど、そうでなくても舞台単体での評判が高く、チケットは取るのに苦労するほどのプラチナ化が進んで千穐楽は結局取ることができなかった。それでも前回、見て空席にキャストが嘆いた初日の初回を今回は、満場の観客席から見ることができてひとつ、ここまでつないできたファンとしての思いを成就できたような気がした。もう大丈夫。ここからは自由にどこまでも羽ばたいていける。そんな舞台になったと思った。

 まだ公演が続くから詳細は省くけれどもいくつか変わっている点があることは確か。それは初演で強い印象を与えた場面なんかにも言えることだけれど、変えることによって新たな顔立ちを持った舞台「クジラの子らは砂上に歌う」が作られたとも言えるだろう。ストーリー展開そのものは初演と同じで、テレビアニメとも重なっていてつまりは原作通り。それを見せる演出において例えばグループごとで違った場面を切り替えながら進んでいくという展開、戦いの場面での殺陣などに大いなるパワーアップがあったように感じた。1対1でも迫力の殺陣がある上に、サイミアという一種の超能力をアンサンブルによって表現するのがこの舞台「クジラの子らは砂上に歌う」の特徴だけれど、そのアンサンブルが攻守を変えながら動き回ってそして決着へと至るような段取りに、心地よさがあり爽快さがあった。考え抜かれたコンテをしっかり覚え演じきった役者たちに、喝采。

 その役者は初演といろいろ変わっている。赤澤燈のチャクロと前島亜美のリコス、そして崎山つばさのスオウといった辺りは前を踏襲していたけれど、山口大地さんだった応には財木琢磨さんになり佐伯大地さんだったオルカも伊万里有さんといった具合にチェンジしてあって、どんな2人を見せてくれるかに興味があった。結論として共にオウニでありオルカであって秘めたパワーを激情の中に繰り出すオウニの強さがあり、すっくと立って冷酷なまでに妹を捨て仲間を捨てるオルカの凄さがあった。団長の有澤樟太郎さんも五十嵐麻朝さんと変わらず団長だったしリョダリも碕理人さんの狂喜を受け継ぎつつ純粋に捻れた好奇心を発露させる伊崎龍次郎さんもとてもなじんでいた。こういうリョダリもあるんだと思った。

 そしてサミ。可哀想なサミを元プリズミーでセーラームーンのミュージカルなどにも出演している橋果鈴さんが愛らしく演じてくれていた。大変な出来事があって嘆くチャクロの前に現れ止まっていた彼の時間を動かそうとしたサミのシーンには涙が浮かんで仕方が無かった。分かってはいても悲しいものは悲しい。そんな悲しみを幾度となく味わいながらも前へと進んでいくための勇気が得られるのがこの舞台なのだと改めて知った。前と同じキャストではネリでありエマの大野未来さんが澄んで可憐な声を聞かせてくれてその存在の不思議さを突きつけてきた。ギンシュ姉さんを演じた小市真琴さんはひとりそのままアニメーションに出ても違和感なくギンシュ姉さんを見せてくれそうなハマりぶり。どこまでもまっすぐなその声と、棒術によるアクションを見るだけでこの舞台の価値はある。そう思う。

 好評を受けて今回は最初からDVD化も決まっていてBlu−ray盤まで出るというから驚くやら嬉しいやら。早速注文をしたけれどそれにはCDもついてくるという。きっといろいろな音楽が聴けるだろう。それは前の初演で感動しつつ切なさを覚えたあの楽曲がそのまま入るのか、アレンジをされ新たに作られたような今回のものが入るのか。どちらも素晴らしい楽曲だと思うので入れて欲しいし、可能なら僕は変えたけれども大勢は見られずに終わった初演の様子を治めたDVDなりもまた売るか、添えるかして欲しいもの。見比べることによって進化が分かるし初演がどうしてあれほどまでに感涙を誘ったかも分かるだろう。生き物のような舞台の一瞬を切り取りパッケージ化する意味も考える時があるけれど、そうした瞬間をその場その場で残しながら進化していく様を後で追うためにも、不可欠なことなのだ。今回はどんな一瞬のきらめきを見せ、そして次につなげるか。千穐楽を終えて改めてその可能性を考えたい。


【1月24日】 自らPepperの父だと名乗ったことでソフトバンクの孫正義さんのところには、捨てられたPepperがパパだと頼りに思って集まってくることになるんだろうなあ、あるいは母親から「この子の名前は愛です。めぐみと読みます」と書かれた手紙を持たされて。ってそれは田村正和さんが主演したドラマ「パパはニュースキャスター」か。いずれにしても会社の中で堂々、開発リーダーといった言い方でもってインタビューに答えていて、それを会社系の媒体が堂々、掲載もしていた訳だから決して間違ったものではないんだろうけれど、それを今になってひっくり返すというのはどこか違和感が漂う。

 父だのパパだの親だのといった言葉だと語弊があるとしても、開発にあたって職責なりから中心的な役割を果たしたことに違いがないならそれはリーダーと言って良い。違うならメンバーだろうけれどそんな立場の人が辞めて会社を作って何十億円もの資金を集められるのか。それなりの知見もあった人を今になってヒラ扱いするのって、今社内にいて開発の中心になっている人たちにとって自分の仕事を後で横取りされるんじゃないかって不安をもたらすものになるだろう。やる気だって大いに削がれそう。そういった影響を鑑みてなお開発リーダーの称号を剥奪し、あろうことがトップが自分こそが父だといった態度を見せる会社は先がちょっと不安そう。どうなることやら。

 データの捏造は論外として京都大学iPS細胞研究所の特定拠点助教というあまり聞かない肩書きの人が起こした一件で、日本における科学研究にまつわるきしみであり現場に生きる人たちのうめきみたいなものが聞こえてきて、状況を悪いのは悪いとしてもそれだけではないといった空気に染めるような動きがある方が、日本という国の将来を考える上でいろいろと問題にょうな気がする。どうしてこんな捏造に手を染めてしまったのかといった批判からは、大学なり研究機関で期限を気にせず研究にのめり込めるような状況ではなく、決められた期限の中で成果を出さなければ放り出されるといった不安を抱えて捏造してでも成果めいたものを出さざるを得ないといった指摘が漂う。

 もちろん大多数はそうした期限の中でも真面目にやっているんだけれど、可能性が見えながらもあとちょっとで届かない研究がそこで打ち切られ、研究者も路頭に迷うような状況が果たして将来の日本にとって有意義か、といった問題は考えられるべきだろー。そしてもうひとつ、今回の一件で責任を取ってノーベル生理学・医学賞を受賞した所長の山中伸弥さんが研究所を辞めるべきかどうかといった問題で、もう辞めて外国に行った方が山中さんのためでもあるし、そうした研究から生まれる成果を享受できる人類のためでもあるといった意見があったりすること。つまりはノーベル賞級の研究をした人でもこの国では資金集めに走り回され、下の責任を押しつけられて自分の研究が満足にできないといった状況がある。

 もちろん海外に行かれては国家的な損失になるけれど、今が人類的な損失ならどちらが良いか。これも考えられるべき問題。そうした現場からの叫びが聞こえているのかいないのか、文部科学省あたりは信賞必罰めいたものを唱えて研究費を没収するとか言ってただでさえ不足のお金を逼迫させようとしているし、メディアなんかもあるいは責任は重大とかいって山中伸弥さんを追い込もうとしていたりする。その結果起こるこの国の科学研究の大いなる弱体化は、すなわち反日的であり非国民的な振る舞いなんだけれどそれを非難するのが得意な人たちが出てきて擁護する節はない。というか文部科学大臣こそがそうした筆頭に位置するにもかかわらず、自分の責任で研究を推進するような太っ腹さはまるで見せない。やっぱり日本を出て行くべきなのかなあ。山中伸弥も失敗した助教もそして日本国民も。政権にノーをつきつける方が早いんだけれど、そこが最大の難題で……。やれやれ。

 ホテルに無料宿泊を申し出たユーチューバーが非難されるなら、タイアップを言ってくるテレビの旅行番組だって似たようなものだし、知見を貸してとネタ出しを求めてくるテレビ番組だって同様で、結果として得となるならユーチューバーでも泊めれば良いと思わないでもない。ただ知見をタダどりというのは多分にして上から目線が多く、知見への敬意がかけてたりする場合もあって是々非々で判断する必要があるだろー。そして新聞の場合は、情報のシェアと拡散が今ほどにはしづらかった時代に公器を標榜し、読者側もそれを認めて協力していただろう雰囲気を、今は特権と振りかざしつつ公器として得た記者クラブ等情報へのアクセス権を利用し、金に変えて稼ごうとしているから厄介だなあと思うのだった。今回の一件が公共としてのメディアと宣伝としてのネットの垣根をグチャグチャにしないことを願いたいけれども、果たして。

 「アイドルタイムプリパラ」で去年の4月にデビューしたばかりの夢川ゆいが1年で退場となってしまって寂しい気もするプリティーシリーズ。真中らぁらを中心にしたソラミドレッシングすなわちi☆Risの登場も減ったもののまだ世界観として地続き感があったのが、新番組となる「キラッとプリ☆チャン」ではそうしたつながりは今のところなさそうで、せっかくつかんだファンがどうなってしまうのかが今は不安で仕方が無い。一方でカード筐体を遊ぶ子供たちにとっては、それまでのデータを移行できる上に新しい「フォロー」であり「いいね★」といった仕組みを享受できるなら、そっちの方が嬉しいのかも知れない。目指すのは動画配信によるアイドルというストーリーは今どきのキッズ層におけるユーチューバー人気も取り入れたものだし。どんな展開を見せるのか。放送に注目。

 SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィンが死去。「闇の左手」であり「所有せざる人々」であり「天のろくろ」であり「風の十二方位」であり何より「ゲド戦記」で知られる作家だけれど読者としてはあまり良い感じではなくさっとは舐めてもその本質を理解するほどには読み込んでいなかった。「風の十二方位」は海野螢さんがエロ漫画の中にそのエッセンスを散りばめた同名の漫画を読んではいる割に本編の方をあまり覚えていないという体たらく。これで良いのかと言えば良くないのでここで改めて読み返しておきたいもの。問題は新刊でどれだけ手に入るか、だなあ。「天のろくろ」とかサンリオ文庫版を買ったんだけれど家のどこにあるのやら。せめて「闇の左手」だけは読みたいけれど手に入りづらければ短編集「世界の誕生日」を確保しよう。宮崎駿監督による「ゲド戦記」を作ってあげたかったなあ。合掌。

 せっかくだからと丸の内ピカデリー3でのアニメーション爆音映画祭で「映画 聲の形」を見る。劇場で見るのは数え切れない回数を重ねているけど爆音と銘打ったのはこれが発。不協和音やノイズも交えて奏でられる牛尾憲輔さんの音楽というか効果音に近い様々な音響が頭蓋骨を突き抜けて脳髄に刺さるくらいに響いて物語の中、様々なに複雑な心情をいったり来たりさせている石田将也や西宮硝子や西宮結弦といった登場人物たちにより迫れたような気がした。そしてラストシーン、学園祭の中で諸々のかたまりをようやく落とした将也が顔を上げ前を向いて周囲へと耳そばだてて聞こえてくる雑踏のざわめきなんかもしっかり伝わり見ている自分も解放された気になった。花火のシーンの響く低音とかも最高な爆音映画祭、というより高圧でしっかりと響かせてくれる映画祭。これが音響のスタンダードになれば映画はもっと面白くなり、映画館はもっと面白い場所になるのになあ。家で見られないサイズなら、家で聞かれない音で聞かせてくれないと。また機会が来たら行こう。


【1月23日】 ひふみんの日。日本SF作家クラブの名簿が更新されて、自分以外に先だっての理事会で入会を承認された4人の名前も挙がっていてその傾向として新しい書き手と同時に、新しい読み手を求めていこうといった動きがあるのかもしれないと類推する。そうでなければ一介の主にライトノベル読みに過ぎない当方が推挙されるはずもないのでここは自分が得意とするフィールドと、そしてちょっと脇にやっていた主流をしっかり合わせ読みつつ世に紹介していければと改めて思う。それにしてもサックスプレイヤーの吉田隆一さんとの同時入会は「隆一」が一気に2人増えた恰好。自分の「隆」は「生」の上に「一」が入ってないけど吉田さんのはどっちだろう。これって人によっては気にするんだよなあ、画数の問題なのかなあ。

 「イブニング」の2018年第4号が刊行されてそして朱戸アオさん「リウーを待ちながら」が最終回を迎える。ある意味ではハッピーエンドで猖獗を極めたペストのアウトブレイクも終息を迎えて新たな患者は生まれず、閉鎖されていた横走市も解放されて人の行き来が自由になった。彼氏彼女も再開できたし自衛隊員は息子といっしょに富士登山もできるようになった。万々歳。でもそこへと至る過程で大勢の人が亡くなり玉木涼穂医師にも喪失の影が色濃く差す。それでも残った者は生きていかなくてはならない。過去を噛みしめつつ未来へと向かって歩み始めたその心に、あの騒動はどんな糧となって刻まれるのか。それを考えることで今の苦衷を未来の歓喜とするための方策も見つかるのだ。第3巻も3月に出るそうでこれで完結。読み返していろいろと考えたい。

 東京新聞に「ポプテピピック」に関する記事が出ていてパロディが満載なことが1番のヒット理由に挙げられていたけれど、そうした部分はもちろんあるし声優さんのとっかえひっかえも興味を誘う要因になっているとは間違いないといいつつ、個人的にはもう少し違った映像と展開の妙味に気を引かれていると改めていって起きたい。それは何度も書いているようにアニメーション作家による商業とはちょっとニュアンスの違った表現の繚乱といった部分だったりする。東京藝術大学大学院のアインメーション専攻で学んだようなクリエイター、東京工芸大のアニメーション学科を卒業したようなクリエイターが自分の表現をそのまま持ち込みつつ商業の中に居場所をしっかり得ている。それを見つけるのが面白い。

 Eテレのショートアニメーションによく出てくるようなクリエイターがシュールだけれど妙に引きつける作品を出して、民放の深夜アニメにはない雰囲気を醸し出していることお、ついつい気にして見てしまう理由。一方で萌えを意識したパロディもぶち込み笑わせに来ているから受けて立とうといった気にさせられる。そうした確信犯的な描写を神風動画が持てる3DCGによる作画能力をぶち込みつつ2Dに見えるような絵を作って描いていたりするから何というクリエイターの無駄遣いというかこき使いというか。そうやって新たな才能を発揮させられ、あるいは新たな才能だと発掘されたクリエイターがこれから作っていくものの方へと興味を誘われる。irodoriを舞台にインディペンデントな表現を突き詰めていたたつき監督が、商業作品の「けものフレンズ」で見せた技が次に何を作るのかというのと同様に。そういった方面からの解説がまだあまりないので「ポプテピピック」を報じるメディアはそっちへの食指もしっかり伸ばしておいてとお願い。

 聞いた最初は「劇場版 空の境界 第一章 俯瞰風景」のDVDを買って観てエンディングとして流れた「ovlivious」で、その朗々と歌われる声が時に激しくビートを刻む曲調にぐっと惹かれて、その頃に出ていたリミックス版「Re/ovlivious」のCDを買って聞き込んだ。そして劇場で聞いた最初は「劇場版 空の境界 第五章 矛盾螺旋」のエンディングテーマ「sprinter」で、圧倒的なビジュアルで見せる活劇の中に1人の少年の儚くも強く優しい終末を感じた映画の終わりに流れたこの曲の、疾走感を再現したような曲調に惹かれてCDを買った。以後、『劇場版 空の境界』を新宿テアトルなどで観てそして出たエンディングテーマの歌い手たちによるアルバム「Seventh Heaven」を買って聞き込んだ。そうやって僕はKalafinaへと浸っていった。

 それからほぼ1年を経て、縁あって「Shibuya O−EAST」でのライブを見る機会を得てKalafinaが、ステージでもCDなどと同様の美しいハーモニーを聞かせてくれるユニットだとわかり、以来さまざまなライブに行きCDを買って聞きインタビューも2度ほどやらせてもらいながら、少しずつでもしっかりと進んでいくその歩みを見聞きして来た。人気を得て大勢の観客を集めるようになっても、美しいハーモニーは変わらず、それでいて個々に特徴も出しながら広がりを見せるようになったユニットは、日本武道館のような大きな場所でも臆することなく声を出して遠くまで届かせ、しっかりとその音楽を聞かせてくれるようになった。

 そんなKalafinaの現時点での集大成とも言える10周年記念ライブ「Kalafina 10th Anniversary LIVE 2018.」を日本武道館で見る。まずは何をおいても素晴らしかったと言おう。座席は舞台の上手側、それもステージ前の上手寄りといったものではなくステージの真横から見るような位置で音響的に大丈夫かと思ったものの、しっかりと作り込まれたステージは3人の歌声をその言葉の1粒までしっかりと逃さず届けてくれた。なおかつ真横という関係からWakanaが、Keikoが、Hikaruが時折ステージのサイドまで寄って来てくれた時は、アリーナよりも近い位置でその顔が見えて振ってくれる手に応えることが出来た。チケット争奪戦にどうにか乗れて得られた席はむしろ個人的には最高だったと言おう。

 10周年ということでファンから寄せられたリクエストを集計したような並びになった楽曲は、それでも「魔法少女まどか☆マギカ」のエンディング「Magia」が入っていなかったり僕が個人的にエンディングにピッタリと思っている「イヴの時間」のテーマ曲「I have a dream」も聞かれなかったけれど、それでも聞き及んだ曲が並んでこんなにも沢山の楽曲を持って歌えるユニットになったんだと、2010年頃のようやくセカンドアルバム「Redmoon」が出るかどうかだった時期のライブを振り返って改めて、長く続けてきたんだなあと実感する。

 なおかつそうやって歌われる曲のどれもが素晴らしく、美しく、力強く、繊細で華麗。Wakanaの澄んで伸びるハイトーンとKeikoの太く溢れるアルトとそしてHikaruの感情豊かな甘い声の重なりが生む楽曲はすべてに違った顔があり、すべてに違った雰囲気がある。それはポップスでもありクラシックでもありカントリーでもあり民謡でもあり何でもあって何物とも言いがたい、すなわち“kalafinaという音楽”だとしか言いようがないものになっている。すでにして8年前にそう感じ、そう書いてそう訴えて来たけれど、今なお変わらず偏ることなく阿ることもないまま“kalafinaという音楽”を奏で続けていることに、世界はもっと驚いた方が良い。もちろん気付いている人は気付いているのだろうけれど、メジャーなシーンで存在が喧伝されないまま来ているこの状況は、やはりちょっとだけ寂しくは思う。

 なので10年を超えてさらなる足を踏み出したkalafinaには、巷間の風聞など気にせず吹き飛ばしてなおいっそうの音楽を、kalafinaだけの音楽を奏で歌い広めていって欲しいと願う。その根底にあるクリエイターの存在も、そしてライブという場で素晴らしい演奏を見せてくれるメンバーの存在も併せ持ったまま進んでいって欲しいと心から願う。叶うかどうかではなく、叶えるべきだと改めて訴える。もはや日本の至宝であり世界の憧れでもあるkalafinaの存在は、これからが本当の爆発を迎えるのだ。


【1月22日】 舞台「けものフレンズ」がいったんの幕を閉じたものの2月には=LOVEというアイドルユニットが絶滅した動物たちのフレンズに分した舞台がスタートするとのことで、どういったストーリーになるのかが今は楽しみで仕方が無い。けど口さがないゴシップメディアはメジャーなところが参入してきてオタクな楽しみをめちゃくちゃにしてしまうなじゃないのといった、外野的な関心から「誰も見向きしない舞台版『けものフレンズ』」といった見出しでもって記事を載せて煽ってる。

 そんな煽りに一言返すなら「フレンズなめんな!」。もとよりゼロだった地平から立ち上がってたつき監督によるアニメーションの深いストーリー性もあって気持ちを揺さぶられた「けものフレンズ」は、動物たちの擬人化という設定の先にある動物たちへの関心とも相まっていろいろと興味をそそられるコンテンツになっている。そこの出てきた絶滅した動物たちによるフレンズの勢揃いが、いったいどんなストーリーになるのかSF的な関心をそそられないではいられない。だから僕は観に行くし、ファンとしてのフレンズたちもきっと通うだろう。千穐楽はワンフェスと重なっているから無理だけれどそれ以外の何日かを選んで観に行こう。

 マンガ大賞2018のノミネート作品が発表になって早速買いそろえようと森田るいさん「我らコンタクティ」を探す旅に出る。結果として何件も廻ったけれど見つからず。アマゾンでの紙の単行本はすごい値段になっていたりして、品切れ増刷待ちの状況が続いているといったところ。仕方が無いのでそれはキンドル版でとりあえず保管するとして、他では大童澄瞳さんの「映像研には手を出すな!」が見つけづらかった。「大童」を「だいどう」と読んで違う場所を見ていたのかそれともカルト的な作風から初版が押さえられていたのか。いずれにしてもこのあたりがマイナーメジャーな人気を誘って表を伸ばしそう。

 個人的にはもう杉谷庄吾【人間プラモ】さんによる「映画大好きポンポさん」一押しで、1次のノミネートでも入れてあってpixiv発の無料公開コミックが単行本化されて一気にマンガ大賞となったらそれはストーリーとして美しいし、作品自体が持っている映画に対するさまざまな思いや苦言なんかが広く一般に響きそう。アニメーション化の話もあるみたいだけれど個人的には実写化をのぞみたい、それもハリウッドで。マーロン・ブランドとか出てくれたら最高なんだけどなあ。それは夢だよほむらちゃん。まあでも受賞すれば何だってありだ。あの「響〜小説家になる方法〜」だって実写化なんだから。作者の人が実写化されたら是非にと言ってたAKB48の誰かが響を演じるのかなあ。

 「約束のネバーランド」は2年連続だけれどストーリーが一気に動いて待望だった外に出たもののそこがとんでもなく苛烈な世界だと判明した第3巻から第6巻の展開にこれはやっぱり賞に相応しいといった思いが浮かぶ。たぶん押す。3年連続になる九井諒子さん「ダンジョン飯」はやっぱりノミネートだけに終わるのか。過去の作品を含めると5度のノミネートはやっぱり凄い。でもそうしたカルトっぽい人気だけで受賞に至るってケースはあまりないのがマンガ大賞だからなあ。その意味では「ゴールデンゴールド」もちょっと脇に追いやられそう。面白さはあっても爽快感とはちょっとかけ離れているし。

 その意味では「ちはやふる」とかと同様に頑張る少年少女が突破していくストーリーとして猪ノ谷言葉さん「ランウェイで笑って」なんかは一気に駆け上がりそうな予感。ファッションデザイナーを目指す高校生の少年と、背が低いにもかかわらずトップモデルを目指す少女のストーリーは何も持たない少年少女が未来を目指して歩く希望を暮れるから。それは白浜鴎あん「とんがり帽子のアトリエ」も同様で、魔法使いとして生まれた者しか魔法使いになれなず、魔法が使われる瞬間も見てはならない世界に生きている少女ココが、掟を外れて魔法使いを目指すストーリーが何かを与えてくれそう。これから読んで比べよう。

 ファンタジア大賞の受賞作から伊藤智彦特別賞を受賞したという長谷部雄平さんの「ジャッジメント/ブラッド 真祖の帰還」(富士見書房)をまずは読む。吸血鬼が異能めいた存在として蔓延っている日本で吸血鬼を退治する組織があってそこが最終手段として封印されていた真祖を目覚めさせて対抗させようとする。なんで真祖が吸血鬼の敵に回るかというと極めてトラディッショナルな思考の持ち主だったからで、実際ににヴィクトリアという名の真祖の少女は、薬物を使って自分を高めてかつての吸血鬼なら繰り出さなかったテレポートだの血を武器に変えての攻撃だのを行う今時の吸血鬼たちを乱れと断じて取り締まろうとする。

 暴威を誇っていた吸血鬼の組織を1人で壊滅させたりした後も、引きつづき取り締まりに当たっていたら挑戦してきた眷属が1人。吸血鬼たちを薬で誘って煽ってヴィクトリアを引っ張り出しては最初の一騎打ちで持てる現代的な異能を駆使してヴィクトリアを追い詰める。けれどもそこに割って入った吸血鬼の手足を移植された少年がひとり。ヴィクトリアの助手として活動していた彼は改めて対決の場を用意ししてそこで真祖と眷属との決戦が繰り広げられる。最先端の異能を奮う敵の存在は、吸血鬼という存在を軸にした一種の異能バトルでどういった技が可能なのかを教えてくれるけど、それをヴィクトリアは気に入らず使用禁止にしていくところが面白い。やっぱり吸血鬼は究極の不死性とパワーが命なのか。ともあれ最初の障害は乗り越えたものの残る敵はまた大勢。そこにどうヴィクトリアが挑み真祖パワーでねじ伏せていくか。楽しみにして読んでいこう。

 ナオミの帰還に付き合って残れたはずなのに育成所を出ようとしたあたりで身の程をわきまえている奴かと思ったら、ゼロツーに引っ張り込まれたストレリチアが大活躍して叫竜を倒したのを自分の手柄も入っていると勘違いしたか、別のフランクスに乗っても力を出せるはずだと思ってテストにのぞんでイチゴにキスまでさせたのに何も変えられなかったあたりにヒロという主人公の自分勝手さが透けて見えた「ダーリン・イン・ザ・フランキス」。ナオミにつきあったのも残ってひとりで敗残者扱いされるのがいやで逃げ出しただけなんだろう。でも自分にも力があるかもと思うと途端に威張り出す。嫌な奴。でもそんな鼻っ柱もへし折られてさて、ゼロツーの下でどんな無様をさらすのか。それでもフランクスに乗り続ける道を選ぶのか。そこが気になる当面の展開。しかし女子の尻を見ながら操縦するのってやっぱりエロいよなあ、フランクス。

 西部邁さんが死去との報、それも自死ということで決して若くはないとはいえ、まだまだ衰えを見せない言説が、差別的な態度を愛国と思い込んでいるような偏狭な保守しかいなくなりかかっている状況にあって、広く視野を持って生き方としてまっとうな保守のあり方を見せてくれていただけに、今の退場は残念である以上にこの国がとんでもない方向へと向かいかけている歯止めを失ったという問題を示して困惑する。いくらメインストリームから外れていても存在していれば語ってくれて、それが世に問われる可能性はあった。いないとその言説が利用され偏狭を補強する方に使われてしまう。どうしたものかと思いつつもとおあれ自らを処した潔さに黙礼し、今までの活動を敬いたい。合掌。


【1月21日】 やっと登場の小松未可子さんによるポプ子と、上坂すみれさんによるピピ美だったけれども後半に登場の中尾隆聖さんによるポプ子と、若本規夫さんによるピピ美に全部持って行かれてしまった感じで目立たないことこの上ない。いくら小松さんがポプ子としていびきの演技とか頑張っても、中尾さんの独特なトーンの声によって上書きされてしまうし、上坂さんがドスの利いたピピ美を演じても、それは若本さんの完全なる守備範囲。ビジュアルがピピ美として放たれる凄みある声の前には、誰が何を演じようともかすんでしまう。そんな小松未可子さんと上坂すみれさんによる発表時のメイン声優が、果たして来週以降も登場するのか。しょせんは大勢の中の2人に収まってしまうのか。それは来週を見てのお楽しみ。そういう意味でも引きずる要素の多い「ポプテピピック」。上手いなあ。

 毎週のように登場していた新しいインディペンデントなクリエイターは、今回はあまり見られず。レギュラーとして「さとうのちひろ」のさとうちひろさんがいろいろ関わっている感じで、あとはアイドルが登場したエピソードでの衣装デザインとして池亜佐美さんの名前があった。世界中のアニメーション映画祭に作品を出品して来た実績を持つアニメーション作家の、それが現在の仕事かといった見方も出来そうだけれど、むしろそうした世界で万人にアピールできる才能の持ち主でもあったということでもあるのだった。ここをきっかけにして、さらに知られていってくれれば、独特のビジュアルを見せる作品も作ってくれるようになるのかな。来週以降はまた誰か新しいクリエイターが出てくれるかに興味を抱いて放送を待とう。「カーニバルファンタズム」はシリアス系2本か。これで打ち止めにて来週から「Fate/EXTRA Last Encore」。まるで知らないけれども見ていくんだろうなあ。

 中高生向けに起業と経営についてちょっとした理解を与える副読本として読ませたら良いんじゃないかと思ったいえいちださんの「君のみそ汁の為なら、僕は億だって稼げるかもしれない」(電撃文庫)。20万人が通う学校では、生徒による部活動としての起業や事業が認められていて、そうやって稼いだ仮想通貨の“ホープ”は願い事を唱えると自動的に消費されて効果へと変わる。物理的に物を買うこともできるけれど、たとえば誰かと仲良くなりたいといった願いもそうしたポイントを使うことによって叶えることができるらしい。人の心を弄ぶのが認められているかは別にして。そんな学内にあって長く食堂を経営して美味しい味噌汁を出してくれている夢路さんが、16歳の誕生日とともに学内でも権勢を誇る事業家による1億ホープで結婚するという願いの対象宇手になっていることが判明した。

 夢路さんを相手に裏の意味を持った「美味しい味噌汁を毎日飲みたい」という言葉告白して、文字通りに毎日味噌汁を飲んできてくれるんですねと返された翔は、それでも夢路さんを守りたいと思うものの貧乏学生では手元に資金などなく、1億ホープを払って願いを打ち消すことなんて出来そうもなかった。それでも諦められない翔は仲間とともに、学費として貯めてあった100万ポイントを元手に事業を始めて半年後までに1億ホープを稼ぎだそうとする。そんなことが可能なのか? といった辺りで描かれるのが起業と事業化の要点。まずは手堅く中古の自販機を仕入れて安い缶飲料をそこに入れて稼ぐところから始め、妨害によって大手からの仕入れが難しくなったならまだ小さい飲料クラブを当たり、美味しい味噌汁が提供されているならそれを缶入りの冷製味噌汁に入れて売ることを提案して、炭酸オンリーの部長に却下されたら会社ごと買収することを考える。

 夢路さんの食堂の隣に的が安価な牛丼屋を開いたなら、同じ商品をより高品質で提供する同質化戦略でもって対抗し、コストダウンの果てに味もサービスも落ちた敵の牛丼屋を停滞へと追い込む。そしてさらに……。そんなビジネスによるステップアップが、現実には無茶だけれども学園内を舞台にした一種のファンタジーめいた設定の中でスピーディーに語らていて、れそうかそうやって事業は広げていくんだといった理解を得られる。コンビニチェーンを運営する女子生徒に対して情ではなく理で商談を持ちかけ、ギリギリの交渉で理解を得るといったところも、シビアだけれど実際のビジネスの上では必要なこと。そうした感覚を養えさらに逆転のドラマを楽しめる物語として、中高生が読んだら将来この国も起業家で溢れるかなあ。ちょっと興味。

 まず声ありき。やがて広がりて宇宙となり、そして今。やがて未来。そんな話だと説明したら分かってもらえるんだろうかと思うと、普通に声優カラテを究めたアイドル声優がバナナワニ園で声優仲間と百合デートをしていたらフードを被ってきた暗黒声優に襲われたって言った方が興味も惹くだろうなあ。そして読んでそのワイドスクリーン・バロックでありハードSFぶりに驚くんだ。草野原々さんによる「最後にして最初のアイドル」(ハヤカワ文庫JA)所収の書き下ろし中編「暗黒声優」。のけっから千葉県市川市あたりの森で女性らしい声優2人が争っていて1人はナイフを持って声優の口に突っ込み下を切り取りそしてのど元にぶら下がった発声管なる声優に不可欠の器官を切り取り冷蔵する。

 もちろん相手の声優は死亡。その死体をすでに身に移植した10近い発声管の力で消し炭へと変えて職場に戻って四方蔵アカネは声優としての仕事に就く、宇宙船を動かすという、って聞いてそれはいったいどんな声優なんだと言われそうだけれど、「暗黒声優」における声優とはアニメーションの吹き替えにあらず。特殊な器官を使ってエネルギーを取り入れ生み出す一種のエンジンとなっている。ランクがあがればそれだけ強い力を持つようになって稼げもする一方、そうでない声優は下働きに甘んじる。動物などを無理矢理声優にした存在もあって、さらに下層の仕事をさせられている。アカネは中の上くらいの一から脱するためにより強い力を得ようと声優を殺し、発声管を身に移植してだんだんと力を付けてきた。あと1つ付けられるというところで見かけたのが、声優を襲い殺している謎の「暗黒声優」で、その立派な発声管を移植したくてメッセージを出しバナナワニ園に現れた「暗黒声優」と戦っていた最中に地球が崩壊する。

 それはなぜ? 重力が消えたから。どうして重力が消えた? そんな疑問の奥、アカネが後輩のサチーとともに崩壊する地球を脱し、木星の大赤斑に沈んで追っ手を振り切り、銀河系の果て宇宙鯨を操り辿り着いた先で「暗黒声優」と対峙して得られたものこそが宇宙の成り立ちの根源であり、声というものによってもたらされた宇宙の構造そのものであったという、聞いても意味が分からないけれども聞くほどに説得力のありそうな宇宙論と物理学の知識がばらまかれる「暗黒声優」。読み終えてああ声優って凄い仕事なんだなあと思い、テレビに出る声優さんたちへの敬意も……わかないよなあ、違いすぎるよなあ。声のお仕事という基本設定から、声を宇宙の根源にして声優を凄い存在に祭り上げる筆致の凄さを味わえる作品。ガチャを進化の根源に仕立てた「エヴォリューションがーるず」と言い、ポップカルチャー的事象をサイエンスに混ぜて時間的空間的にビッグなスケールの物語を生み出す才能が、次は何を題材に選ぶだろう? 楽しみだ。

 というわけで舞台「けものフレンズ」の千穐楽は2列目の舞台に向かって左端からの観劇となってセルリアンと戦う時のクロヒョウが脚を跳ねあげて蹴る時にスカートの奥が見えたような見えないようなそんな感じでまずもってハッピー。あとはフィナーレでの「ようこそジャパリパークへ」でマンモスとオカピとクロヒョウとオオフラミンゴ先生が降りてきて近くを通ってくれたので間近にお顔とか見られてこれまたラッキー。3人ともアニメーションの「けものフレンズ」には関わっていない舞台とかドラマとかで活動している女優さんであり、マンモスの仁藤萌乃さんは元AKB488だったという経歴で、押し出しが強く歌えば張りもあって強い存在感を示してくれた。

 オオフラミンゴ先生の幸野ゆりあさんは舞台上でのひかるぼーさばきが派手で目立って今回の舞台にかける意気込みを見せてくれた。そんな舞台「けものフレンズ」がまたあって、オカピ役の野本ひかるさんやクロヒョウの稲村梓さんらにまた会えるのか、というとこれはなかなか難しいところ。前回は公演の終わりに会場をAiiAに移して再演するって発表が千穐楽の舞台挨拶で発表されたけれど今回はなく、カンパニーのメンバーも今度また会えるだろうかといったことを口にしていた。12公演がほぼほぼ満席で通せた舞台は再演でも稼げそうな気がするけれど、プロパティとしての「けものフレンズ」にどこまでファンを駆動する持続力があるかが今は例の一件もあってなかなかに曖昧だったりする。

 目先だと指原莉乃さんによるプロデュースユニットだかの舞台もあるけどこれは人気プロパティと売り出し中のアイドルを重ねた一種の企画で、従来のファンがどこまで向かうかわからない。とりあえず見に行こうとというファンも多そうではあるけれど、その中身いかんによってはただのコスプレショーにしちゃってといった呆れも乗ってプロパティの寿命に影響しかねない。逆に良ければなお一層といった期待もあるからまずはそのできを確かめたい。でもやっぱりまた見たい舞台「けものフレンズ」。同じストーリーではあきられるなら同じ脚本演出で違う話をとも思うけど、そうなると出られないフレンズたちも出てくるだろう。そうやって入れ替わりつつ声優組の核は残して続けるか、この多幸感を永遠のものと封じるか。そんな分かれ目が来ているって言えるのかも。ともあれ素晴らしい舞台をありがとう。慣れない舞台を声優組もよく突っ走った。舞台組もすっかり馴染んだのでやっぱり見たいこのカンパニー。次はさらに大きな場で。よりスケールもアップして。


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