縮刷版2017年8月中旬号


【8月20日】 池袋の新・文芸坐で片渕須直監督による映画作品「アリーテ姫」「マイマイ新子と千年の魔法」「この世界の片隅に」の連続オールナイト上映があったみたいで、これでまだ観ていなかった人にも「アリーテ姫」で奏でられる千住明さんの音楽や大貫妙子さんの主題歌「金色の翼」の良さも広く知られたことだろー。こうなるともう「マイマイ新子と千年の魔法」のあの独特の音楽を作られた村井秀清さんMinako“mooki”Obataさん、そして「マイマイ新子と千年の魔法」のエンディングを手掛け「この世界の片隅に」へと繋がったコトリンゴさんで是非、片渕須直音楽祭を開催して欲しくなって来た。

 あるいは「名犬ラッシー」の主題歌で森岡純さんによる「終わらない物語」なんかも含めつつ大々的にやって欲しいところ。残念なのは「アリーテ姫」の中で印象的な楽曲「Krasno Solntse」を歌われたOrigaさんの不在で、これは「ファンタジックチルドレン」が今、盛り上がってもやっぱり思うことかもしれない。ならばと代わりに今は活動を停止してしまったMELLさんを誘って「BLACK LAGOON」の「Red fraction」をどかんとぶちかましてやって欲しいけど、他の楽曲に比べればパワフルすぎるかなあ。そこはMinako“mooki”Obataさんによる「The World of midnight」も入れしんみりしっとりとしたバランスを、とか。実現しないかなあ。でもしたらしたでチケット争奪戦になりそうだなあ。

 ULUTIRAのとてつもなく巨大なスクリーンで見上げるように多し被さってくるような感覚を味わいながら及川なずなの旧型スクール水着を観たかったので、イオンシネマ幕張新都心へと出向いて朝1番の上映で長編アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」を観てくる。およその帰結と展開がわかって見るとまた味も変わって、ゆれ動く中学生たちの心理にもグッと近づけてキュンキュンさが増すのだった。改めて傑作と認定したい。これが傑作でなくて何を傑作というんだろう。まあ考えてみれば、新海誠監督が前ならやろうとしてて川村元気プロデューサーが止めさせる、曖昧でハッピーエンドかわからないけどグッとくるエンディングでもあって、それを通したが故に分かりやすさにしか反応できない人を戸惑わせているのかも。でもだからこそこれは傑作だと思うのだった。世界が批判し続けても僕は好きだ、大好きだと言い続ける。永遠に。

 夕方に今度はULTIRAで9.1chで「この世界の片隅に」の上映もあるんだけれど既に観ているからととりあえず遠慮して、京葉線を乗り継ぎ東京ビッグサイトへと出向いてコミティアを見物、やっぱり行かなくちゃとたつき監督らが所属するirodoriのブースへと行くとコミケほどではない行列でもって新刊とかが買えるってんで最後尾に並んで15分ほどで売り場へとたどり着いて4冊買ったら1冊は前のコミティアで買ったものだった。まあ良い誰かにあげよう。2列でサクサクと裁いていって行列もサクサクと進んでいったけれど、それでコミケではどうしてあんな大行列になったのか。想像するなら今回はDVDの販売を冊子販売後に回して1000円かける冊数と分かりやすい値段で裁いたからかもしれない。前々回までは普通に島中のアニメーションDVD屋さんだったのが一気に壁サーになってこの適応ぶり。やっぱり頭の良い人たちなんだなあ。

 そこから沼田友さんのところをのぞいて近況とか聞き、世界遺産と女子高生のTシャツでお馴染みのバラ色のクマタローさんのブースにも寄ってTシャツの柄となったイラスト集を買い、マンガ論争ブースによってダブったirodoriの冊子を押しつけつつ近況を聞いて19号以降のマンガ論争の様子なんかを確かめてる。大丈夫でしょうネタのある限り。それこそガリ版切っても出してくれるって。ガリ版切る方が今だと難しいかもしれないけれど。あとは安倍吉俊さんのところで「飛びこめ!!沼02」をようやく購入。SIGMAのカメラを買わされた青年に先輩がいろいろとアドバイスを送る内容は分かってないけど無茶はする先輩の推しがレンズ沼への入り口になっていた。少年はハマったか。あと女子会でラテ取るのにSIGMAのSD持っていくとか無茶過ぎるけれど、コケ脅しにはなるから個人的にはやってみたいところ。女子会ではやっぱり引かれるだろうけれど。男子会でだって同様に。

 小説家になろう×モーニングスターブックスという組み合わせで、いったいどういうものが出来るのかと手に取った山路こいしさん「椅子を作る人」(新紀元社、1200円)がまるで翻訳物のサスペンスでありシリアルキラーを描いたミステリなんかをを読んでいるようで驚いたというか。小説家になろうってこういうのもあるんだというか。チェス・ボールドウィンという名前の家具職人がいて腕はとても良いと思われている。チェスには医者の経験もあって音楽にも文学にも造詣が深く料理も上手。着る服はチェスター=バリーと高級紳士服。まるで上流階級の男みたいだけれど、今は田舎町で家具職人をやっているというのがちょっと不思議。

 なおかつチェスは椅子は作らない。作ろうとしない。その理由が今の境遇にも影響していたりする。 親との確執。幼少期のトラウマ。それらが身を苛み結婚生活も巧くいかず父と同じ家具職人への道をチェスに選ばせ得つつ、父に否定された椅子作りを再開できずにいた。そのチェスがまた椅子を作ろうとした。ニックという名のチェスを慕う地元の快活な少年のために。ところが少年が死んでしまった。ひき逃げ事件。チェスは嘆き悲しむ。それから間をおかずして、周辺で奇妙な事件が起こり始める。人が殺害され中に吊され椅子になったような形にされる。老女が死に薬物中毒者が死に女子大生が死に。そしていつしか事件は「サセックスの椅子職人」と呼ばれ始める。

 犯人は、といった想像はすぐつくけれどもすぐには見せず、元FBIで行動分析ななkを専門にしていたバニー・ベルという男が捜査に駆り出されてやって来ては、尋ねた先でチェスと知り合い仲良くなる。英国紳士前としたチェスとアメリカナイズされた正確のバニーではまるで似てはいないけれど、どこか足りないものを補い合うような関係になっている。互いに家を行き来するような仲にもなる中で、バニーは相次ぐ捜査の捜査に向かい、そしてチェスはバニーを見守る。でも事件は止まず起こり続けてそして決定打ともいえる事態が訪れる。

 チェスが椅子を作ったニック少年をひき逃げして殺した男の存在が浮かび上がって来る。「サセックスの椅子職人」がチェスなら男を狙う。バニーは迷う。さらに……。もやっと見えている事件の真相を、周囲から撫でて形を浮き上がらせていくような展開が面白い。チェスという明らかに不穏な人物とバニーという明確に正義に立つ人物とが対立せず対決しないで仲良くなる。でもそこには緊張感もある。不思議な関係。猟奇的ではあっても魅力的な部分もある人間の複雑さを現していると言えそう。そんな関係に終止符が打たれる時が来る。「サセックスの椅子職人」がすべての根源を乗り越えようと向かった先で、緊張の走る事態が繰り広げられる。

 そしてすべてが終わった時、彼の行動はどう間違っていて、けれどもどこかに何かの理もあったのかと問いたくなる。そんな彼を悪と断罪したくてもしきれない思いが何から来るかも考えたくなる。大人同士の情と理が通う物語。これが小説家になろうから出るというのが不思議だけれど、別に小説化になろうだって異世界転生ばかりじゃない。そういう中から見つけ出し拾い上げる目があれば、こうやって本格的な翻訳風サスペンスだって見つけ出せるんだろう。気になるのはなぜ舞台がアメリカではなくイギリスなのかってところか。

 チェスを英国紳士に仕立てたかったのだとしてもニューイングランドあたりならそれも可能。FBIが絡む理由も説明しやすくなる。シリアルキラーもアメリカならわんさかいそう。もっとも、 切り裂きジャックをはじめシリアルキラーはイギリスにだっていたりする。ヨークシャー・リッパーのピータ・サトクリフに9人を殺して硫酸で解かしたジョン・ヘイグに殺人医師ハロルド・チャップマン。そんな中に混じって芸術と復讐を同時に成し遂げた「サセックスの椅子職人」は見劣りはしない。だからイギリスが舞台でもそれはそれで良いのかも。それにチェスター=バリーで固めた几帳面な椅子職人という魅力的なキャラを成り立たせるならやっぱりイギリス。ブルックスブラザースではアイビーだしポールスチュアートでは洗練が過ぎるから。


【8月19日】 エンディングの山下達郎さんによる「僕らの夏の夢」をカットするとか信じられないんだけれど、「時をかける少女」でもそれがあって1本の映画になるははずの奥華子さんによる「ガーネット」をカットしたりしているからテレビっていう奴は本編だけ見せておけばオッケーだという、映画をどこか軽んじた扱いをするところだということは分かっているから残念だけれど呆れはするけど怒らない。怒ったって仕方がない。そして本編に関して言えば細田守監督の「サマーウォーズ」は割とちゃんと放送されていて、最初から最後までを違和感なく観ることができた。

 ナツキ先輩の声が桜庭ななみさんで聞いてこれって「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」の広瀬すずさんと比べてどうよって思わないでもなかったけれど、今が旬なのを叩きたいから叩くネットの論調から外れると存在すらしていなかの如くに扱われるから無反応。個人的にはどっちも好きだから気にしないんだけれど、でもやっぱり世間の理不尽で不公平な態度っていう奴はきにかかる。メディアスクラムならぬ小言スクラムによる不評がもたらす不幸を思うと、やっぱり流れに乗っての根拠のないバッシングは倫理的に取り締まるなりしないと世の中がどんどん薄暗くなっていくと思うのだった。

 本編についてはやっぱり細田守監督が「時をかける少女」から作り続けてきた長編アニメーション映画では1番好きかもしれない。まとまっているしカタルシスはあるし大事件はあるし得られるメッセージもあるし。田舎の大家族による圧力めいた結束が嫌いという人もいるけれど、そうやって見知った人たちがつながって何かを成し遂げるのって悪い話じゃないし、決して血縁だけではない過去の繋がりも活かして事態の収拾に当たるシーンもあるから、真面目に生きてコミュニケーションは欠かさずそして道を踏み外さないことの大切さってやつを、感じ取ってもらえれば十分なんじゃなかろーか。決戦のその先にもう1つ山を持ってきた展開も抜群。奥寺佐渡子さんの脚本があっての細田守監督作品なんだと改めて思った次第。次の細田守監督作品って何なんだろう? やっぱり気になる。

 数学者だった祖父に憧れ数学に嗜み中学生の頃にはおっぱいと乳首を関数グラフにして描く式を提示してみせたナオキだけれど祖父が死に遺産相続で揉めている間に大学を出てしまい職なくアルバイトしていたそんあ矢先、異世界へ。長田信織さん「数字で救う!! 弱小国家 電卓で戦争する方法を求めよ。ただし敵は剣と火薬で武装しているものとする」(電撃文庫))はそんな感じで始まる物語。ナオキが手にしていたのは電卓くらい。そして出現した部屋に並んでいた地図とかデータから異世界のそこが周辺国家から責め立てられている弱小国家であることを感じ取り、ナオキは埋まっていなかったデータを計算によって埋め尽くす。そこに現れた部屋の主。正体は?

 何と 小国ファヴェールの王女さま。病床の父王に変わりデータを元にした合理主義で執政に取り組むも騎士だの司教だのといった旧勢力が邪魔をし改革できない。そこに現れたのがナオキ。彼の数学や数字の知識を借りて王女は改革を進め攻めてきた強国と対峙するが、父王は娘を認めず騎士は名誉のために無謀を通し司教は宗教の名を借りて何かを企む。四面楚歌。でもどうにか戦ったナオキと王女ソアラにとてつもない危機が訪れる。国を滅ぼしかねないほどの。そこで起こるか大逆転? 起こらない。でも起こる。どうやって?

 そこが「数字で救う! 弱小国家」の読みどころ。軍師が才能を発揮し将軍が勇猛に戦い敵を撃退する戦記物なら割とあっったりするけれど、ここでは戦術的勝利など不可能で戦略的にも追い詰められながら国家として存立し生き延び栄えたりもしそうになる。なぜ? 数字で未来を見通したから。 隣国がどうこうしているときに軍備をどうこうすべきといった論調が世界で蔓延る中、プライドではなく実利をもって存立し反映していく道があることを教えてくれるライトノベルだ。ゲーム理論だとか囚人のジレンマとかいろいろ出てくる例題。解けないなあ、やっぱり数学は苦手だ自分。おっぱい関数から入ればもっと興味が持てたかなあ。

 帝国というらしい異星人によって地球が蹂躙されて500年、滅びはしなかったものの支配下に置かれた人類たちを押さえ込み進歩を促すために帝国は神話を題材にしたさまざまなギミックを仕掛け、それが長い年月の中で一種の伝統となる習俗となりつつも反発を呼んで変質を遂げつつあるといったのが、白井弓子さんによる「イワとニキの新婚旅行」(秋田書店)におけるおおまかな設定と言ったところ。例えば表題作ではコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを娶らされようとしたニニギノミコトが美しいコノハナサクヤヒメだけを娶り醜いイワナガヒメを追い返してしまったことで人類の寿命が短くなってしまったといった神話を題材に、巨大な岩のような存在のイワナガヒメのところに族長の第一皇子が出向いて遺伝子を捧げることになっていたけど、その代では第一皇子が死んで第二皇子がイワナガヒメのところに赴いた。

 そう説明して納得を得られた第二皇子はイワナガヒメに拓いたハッチの中にある肉に身を浸し、美しいコノハナサクヤヒメに包まれるようにして遺伝子を提供するものの、なぜかずっとその中に身を置き続けることをせず、外に出てイワナガヒメと共に歩んで遺伝子を届ける場所へと向かう。けれども途中で露見した第一皇子の策略に、第三皇子の反乱で2人は傷つく。どうにか生き延びた2人の間に芽生えた感情は支配するもによる支配のための儀式でしかなかった出会いに意味を持たせ変化の可能性を示す。「神託と灰色の少年」では帝国による支配はあらゆる芸術活動に及んでアクロポリスの後に作られたムセイオンなる場所でしか彫刻に絵画に舞踏に諸々は認められていなかった。

 なおかつ彫刻も絵画も舞踏も帝国のAIめいたものが即座に解析して人間よりも素晴らしいものを作ってしまうからすぐにお役御免となってしまう。他の場所では芸術活動は認められて折らず未来に希望の持てなくなった一行にいた少年が、定期的に芸術を見せろと迫る神託の場に呼ばれてダンスを披露したところ未来が変わった。面白いのはそのダンス事態はAIだけあって解析もして月並みと感じた一方で、それを観ていた人たちが抱いた感動なり感情がてんでばらばらで、そうした影響の多様性をAIは受け止められずに壊れてしまう。作り手の創造性も大事だけれど受け手の想像力もまた芸術にとっては大事の要素ってこと。一括して管理したがく帝国には理解不能は人間の凄さってのがそこに出た。

 人類を宇宙へと誘うアンドロメダとプロメテウスたちを描いた「アンドロメダ号で女子会を」は定められた運命に従いつつも逆らいながら最善の時間を楽しもうとする人間の女子たちのしたたかさって奴が感じられる。ただ逃げずに留まり運命を受け入れ続けるところは人類の進化を促すための礎として自らを任じている現れか。そういう風に作られたことを受け入れながらもそういうことならと最善を尽くしつつ楽もする。それもまたしたたかな人間の有り様ってことかもしれない。「さよなら私の兵馬俑」「海の女神と旅立つ船」では電子化された人間の情報が役目に逆らい逃げて逃げ延びるまでが連続しえ描かれる。そうやって得られた自由の先で人類は帝国の頸城を逃れて新たな文明を築けるのか。神話という人間たちに特有の心の拠り所を軸にして、抑圧から逃れ羽ばたく人類を描いたSF短編たちをお楽しみあれ。


【8月18日】 「緋色の肉球」「四つの鳴き声」「ボス猫の醜聞」「三毛組合」「黒猫失踪事件」というのがとある書籍に収録されている各章のタイトル。勘のいい人ならこれdけでもうアーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズの短編をもじったタイトルだと気づくだろう。書籍の名前は「黒猫シャーロック 〜緋色の肉球〜」で作者は和泉弐式さん。その名前のとおりにシャーロックという名の黒猫が事件を解決するという話だ。もっぱら猫の。そして人間も絡んでいたりする。

 大学生になってひとり暮らしを始めた綿貫には子供の頃から猫の話す声が聞こえる能力があった。生まれた時から暮らしてきた猫とも会話をして親しんでいたけれど、死んでしまってしばらく落ち込んで、それもあってひとり暮らしを始めた綿貫が入学式に行こうとした途中で足を引きずっているぶち猫を見かけたけれど、助けようとする気が起きず見捨ててしまって、けれども忘れられずにとって返したらもう猫はいなかった。どうなった? 不安になって探していたところに現れたのが尻尾の先が曲がった黒猫。そして綿貫を見て大学生で左足に大怪我をしたことがあって、そして三毛猫を飼っていると言った。

 すべて当たっていた。どうして分かった。綿貫は黒猫に話しかける。黒猫は驚く。綿貫は自分が猫の言葉が分かると説明して、そして黒猫が観察によって言い当てたと知ってぶち猫がどうなってしまったかを聞いて、それも見事に言い当てた黒猫と組むようになっていろいろな事件に挑むようになる。大学にある猫サークルに入った新入生の周囲で猫の声が聞こえたけれども姿が見えないという事件では、人間の恋情がもたらした妄念めいたものが浮かび上がる。周囲を支配下に置いたボス猫が見初めたメス猫の行方が分からなくなった事件では、流離う猫が見つけた居場所への思いが見えてくる。

 三毛猫だけを探し求める不思議な人物が何者かを探り撃退した事件の後、行方をくらました黒猫を今度は黒猫に世話になった猫たちの力を借り、綿貫の行動も加わってどうにかこうにか見つけ出す。観察によって答えを見つけて解決へと到るところは本家のシャーロック・ホームズにも似た展開。そしてそれぞれの短編が元ネタとなっている短編とも重なるところを持っていて、ホームズファンを楽しませつつ猫好きたちも喜ばせる。ホームズとくればライバルとして登場するモリアーティ教授に匹敵する存在が未だ現れていないところを考えると、続けばそうした対決めいたものも行われるおんかもしれない。でも悪事を働く猫って何だろう? そんな興味も抱きつつ続きを待とう。まずはこれが売れる必要があるけれど。

 「スクール水着、下から見るか? 前から見るか?」という映画を見た気がした。あるいは「絶対領域、下から見るか? 横から見るか?」だったかも。そんな気持ちにさせられた長編アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」で大切なのは、あの世界線で三浦先生の胸はどうなっているかということ、それだけだ。なんて前置きはそれとして、岩井俊二監督による古い映像作品を、「モテキ」の大根仁監督が脚本を書き、「魔法少女まどか☆マギカ」の新房昭之総監督の下、プロダクションデザインを多く手掛けてきた武内宣之さんが初めて監督を務めて作り上げたのが長編アニメーション映画「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」が公開された。

 やっぱり初日の初回を見たいってことで、帰省中の名古屋へと出向いていっては新しく作られていたミッドランドスクエアシネマの第2劇場へと足を運んで鑑賞。思ったのは、夏の1日、ここから先に進みたくないと迷っている子供たちに、最善を選び続けることへの安楽さを悟らせつつも、それで良いんだろうかとふと気付かせるような、柔らかい出っ張りを持った映画だっってことだった。予告編とかだと、時が戻り、間違いが正される。そんな設定を持ったストーリーなんかが仄めかされる。そこから真っ先に浮かぶのが、2016年の大ヒット映画「君の名は。」であることは間違いない。

 決定的にして絶対的な災厄から逃れるために足掻こうとして行き詰まる。そんな展開に緊張感が生まれ、そしてすべてが終わった時に良かったといった安心が浮かんだ。「君の名は。」そこでのやり直しはたった1度のチャンスしかなく、そこを東京と山奥でずっと離れて生きて来た少年と少女の2人の意識が重なることで突破した。そうやって得られた緊張感と解放感を、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」にも期待すると少し外されるかもしれない。ループということで桜坂洋のライトノベルを原作にした「オール・ユー・ニード・イズ・キル」のような、果てしない失敗を重ねながら、狭い狭い突破口を探り見つけて潜り抜けた果てに得られる歓喜を期待しても間違う。

 「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」はそうした、到達点での解放をあまり目指してないような気がする。というより、果たして何が変わったのかすら明示されない。三浦先生の揺れ跳ねるおっぱいですら守られたかどうかが描かれない。そんなことはどっちでもいい。それはヒロインのなずなであり、ヒーロー役の典道にも言えること。家にいろいろあって心が沈んだ先で浮かんだ家出、もとい駆け落ちのアイデアをなずなは実行しようとする。それにつきあ合わされて典道も引っ張られて旅路へと足を踏み出す。

 けれども、そんな中学生の思いつきに過ぎない冒険が成功するはずはないことぐらい、なずなもわかっているし典道だって感じている。だからと言って抵抗もせずに親たち、大人たちの横暴に引きずられるのは嫌だという、思春期にある反抗と反発の気持ちを、少しでも出して少しでも分かってもらい、少しでもその状況に浸っていたいというモラトリアムを、見せて同世代の観客の共感を誘う。 それで十分。あとは、散りばめられた現実的とか非現実的とか様々な可能性に想いを馳せつつ、可能な範囲での最善を選び取る努力をする。その意思を周りに分かってもらう。周りもその想いを分かってあげる。そして、明日からの歩みを良きものにしていこう。そんな感慨を、決意をもたらしてくれる映画だと言えるかもしれない。

 ループということで、細田守監督の長編アニメーション映画「時をかける少女」もやっぱり比較に出されそうだけれど、救われる命があって引き換えにされる永遠の離別があってといった切なさに、見た人を涙ぐませる物語的な強さもまた、「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」からはあまり漂ってこない。ただ、だからと言って感動が薄いということもない。 人生は都合よく変わらない。運命は簡単には変えられない。日常は積み重なっていくけれど、その中にちょっとした決断を入れ、冒険を混ぜ込むことで生まれる楽しさを、この映画から感じ取れば良いのだ。

 アニメーションとして見た場合に、映像には申し分ない。シャフトの西尾維新を原作にした<物語>シリーズとかを見慣れた目には、そこでのやや構築的で記号的な背景をリアルに戻しつつ、人物のとりわけ女性の生々しさと艶かしさを残しつつ、全体は普通のジブリで新海誠監督で長井龍雪監督でといったところに整えたって感じに映る。一般の人でもこれならついて行けるだろう。とはいえ、そこはシャフトだからなのか新房昭之総監督だからなのか、フェティッシュとしての人体のクローズアップがいっぱいあって、オトコノコ的には嬉しいけれどさて、中高生の女子はどう思うのかが気になった。彼女たちはいったいこの映画の誰に身を重ねて見るんだろう。なずなの境遇?  典道からの第三者的視線?  サブに過ぎない宮野真守さん演じる裕介に気を向けたって本筋には絡めない。そんなつかみどころのつかみづらさが気になった。

 声についても申し分なく、広瀬すずのなずなは顔立ちは大人びていても、心はまだまだ子供の中学女子を演じていて、菅田将暉も同様に、優柔不断で気弱そうな典道をしっかりと演じきっていて、見ている間で何にの違和感も覚えなかった。シャフト渾身の女子中学生が旧型のスクール水着で横たわってその声が広瀬すずさんでコケティッシュに誘ってくる映画を見ない理由なんて何もない。何もないのだ。他のメンバーはベテランに精鋭で隙はない。祐介は高校生っぽかったけど、大人びた中学生だっているから。祐介の父親は声的に不穏さが漂っていた。ドラッグの密売人か密造酒のバイヤーかダークヒーローでもやっていそうな声だった。巧いなあやっぱり。

 展開について最後に言うなら、何か起こるまでが長くて導入でやや気がダレる。そこに至るまでの関係性の提示、感情の明示が必要って感じでもないだけに、テンポよく何か起こしてなずなや典道といった登場する面々を飲み込ませ、ラストにもう何枚かのクライシスを置いて引っ張り回した方がエンターテイメントにはなったかもしれない。けれども、基本そういう映画ではないってことは先述したとおり。中学時代に浮かぶ未来への迷いと可能性への憧憬、そして選び取る自分の道を描く青春ストーリーなのだから、これでいいのだろう。ということにしておこう。

 名古屋駅前のレジャックビルにあるあんかけ屋であんかけパスタをかきこんでから、あおなみ線に乗って金城ふ頭まで行ってレゴランドの入り口へと到達したけれど、手荷物検査とかしていて正面まではたどり着けそうもなかったし、入るには大金が必要なんで諦めて退散。お盆の前後とはいえ平日で蒸し暑い昼間でもちゃんとお客さんが入っていったからそれなりに繁盛しているんじゃなかろうか。いったんネガティブなレッテルが貼られると、その文脈でしか語りたくなるなるものだから、ネットもメディアも。でも行く人には関係ないってことで。規模が大きくなって値頃感も出てくれば大丈夫なんかないかなあ。分からないけれど。


【8月17日】 絶滅、って言葉にああそうなんだやっぱりと納得したの本放送時の「けものフレンズ」第4話「さばくちほー」で、そこへと到る途中で砂に埋もれた舗装された道路があって、そこから巨大迷路のような場所へと入って途中が壊れ道がふさがれおまけに周囲は砂漠といった状況に、この世界に何かが起こっているんだとはうっすら感づいていたけれど、そこに決定打となるカバンちゃんに対するツチノコの「絶滅してなかったんだ」というひと言。つまりはザ・デイ・アフターな世界に暮らす動物たちのフレンズの中に突如現れた動物と言って良いか分からない存在が、過去にいったいどうなっていて、そしてかばんちゃんだけどうしてといった展開が来るんだろうって想像がついた。

 ただし、そうした予測は最終回で明かされるんじゃなく、次のこはんから続いたへいげんでハシビロコウによって仄めかされ、そして先に行った図書館でもって博士と助手から明らかにされてひとつの問題として解決する。そして、だからこそやっぱり旅を続けなくちゃいけないって動機も生まれて前へと進み始める。通して自分探しをやらせるとダレるところを2段ロケットのように新たな目的を与えて物語に緊張感と期待感をもたらした。やっぱり巧い構成だよなあ、これを考えた人はやっぱり天才かもしれない。でも未だにエンディングの脚本はずっと最初の人になっているんだよなあ。書き換えるのはBlu−ray付きのガイドブックの記述から? 今は名誉になったとしても、ちゃんと名前が掲げられ続けるのはそこに気持ちを込めているってことだと思う。喧嘩別れして揉めて作品の持つ幸せ感が損なわれるのは嫌だから。

 コミケをすっ飛ばして先週末から帰省するつもりが月曜日に仕事が入って帰省を延ばした件について記事が出たようでまずは善哉。押井守監督と田中敦子さんへのインタビューでありました。ハリウッド映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」のパッケージがもうすぐ出るってんでその宣伝のために映画でスカーレット・ヨハンソンさん演じた少佐の声を演じた、そして押井守監督によるアニメーション映画「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」で少佐こと草薙素子の声を演じた田中敦子さんと、そしてアニメ版を監督して田中敦子さんを草薙素子に起用した押井守監督が揃って登場するって聞けば、これはもう行って話を聞くしかない。聞けば絶対に受けると確信したんだけれど、映画の興行が全体に振るわず世間の関心も薄れているからって、あんまり記事を欲しそうな感じじゃなかったのはやっぱりオシイストとしての訓練が足りていないからだろーか。

 押井守監督が何かを喋ったとあれば必ず読む人はいる。そして広まる。ましてや田中敦子さんとおそらくは2008年の「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊2.0」で並んで登壇して舞台挨拶をした時以来のすれ違い系ではないツーショットなら、後の記録にもなると思い取材して話を聞いて記事にしたら案の定、とてつもない閲覧があってツイッターの紹介にはリツイートが溜まり、Facebookへのいいねも200を超えた。押井監督なら、そして田中敦子さんならこうなるってことを、古手のオシイストなら感じ取れるんだけれど一方で、そうでない若い層も増えているのも実際のところ。そうしたギャップを解消するためにも、押井守監督には若い層でも観たくなる映画を1本、出来ればアニメーションで撮って欲しいなあ。「スカイ・クロラ」は傑作だったし、絶対作れると思うんだ。

 そんなインタビューでは、押井守監督の声がまずはそれほど大きくなくて、なおかつぼそっとしたトーンでもあって対面でも聞き取りづらくてこれは録音されているかなあと不安になって、テープ起こしをする気力がなかなか湧かなかったけれど、いざICレコーダーのデータを回してみたらちゃんと細部まで録れていたんでホッと一息。いつもはiPadの録音アプリだけを使うんだけれど、予備のために12年前に買ったオリンパスのヴォイストレックV−50って奴を引っ張り出して、ステレオマイクをピンプラグに差して卓上に置いておいたらぼそっとした声も割としっかり入っていた。マイクってやっぱり本体内蔵じゃあダメだなあ。

 問題はもうひとつあって、話していることがどこか唐突でふわっとしていてあっちこっちに飛んでいて、これで記事を書けるのかって取材している間は不安になったけれど、、聞き直すと要点は押さえてあって、つなげば何となく言いたいことは分かってくるといった感じだった。その意味では天才なのかもしれない押井守監督。ただしやっぱり整えるのは大変で、長く押井守監督を観て言いそうなことを了解しつつ並べていく必要がある。押井守監督と言えばな犬とか銃の話は、あるいは本筋と関わりのないノイズとして知らない人だと切っちゃいそうだけれど、それがあってああやっぱり押井守監督なんだと了解するのがオシイスト。そんな人たちに向けてタームを交ぜて興味を引きつつ、哲学的な言動をロジックの上に置いて筋を通し、なおかつ田中敦子さんとの対談めいたニュアンスもつけていくは大変だった。どうにかまとめて取材翌日に出したのがあの記事。罵倒されず押井守監督が言いそうなことだと喜んでもらえたのもまた僥倖といったところだろー。ちゃんとあの口調、出てたかな。出ていたと思おう。

 この時期に帰省したのは豊橋総合動植物公園ことのんほいパークに行って「けものフレンズ」とのコラボを観るのともうひとつ、豊田市美術館で開かれている奈良美智さんの展覧会を観るという理由もあってその後者の方を果たしに朝から豊田市へ。到着した豊田市美術館には会館と同時にチケット売り場に行列が出来て、あんな僻地(ごめん)の美術館で、おまけにお盆休みの所もありつつ一応は平日に結構な数の人を集めるくらい、奈良美智さんのファンは大勢居るんだってことが確認できた。これが村上隆さんの展覧会だったらいったい……とは言わない。どっちいしたって僕は行くから。そんな奈良美智さんの展覧会は、だいたいにおいて目つきの悪い三戸なつめさんのような前髪ぱっつんで下ぶくれの子供たちがカンバスに大きく描かれた作品がならんでいて、ああいつもの奈良美智さんだなあとは思ったものの、時代の流れの中でペインティングがドローイングになりミクストメディアにもなってまたカンバスに戻って来るといった変遷の中で、放たれるような鋭さが達観のような静寂へと移っていって今があるなんてことも感じられたりした。

 あれは1997年だったかに奈良美智さんが出した画集を、週刊SPAで担当していた書評コーナーで紹介したことがあって、可愛いイラストレーションに見えつつも子供たちが単に慈しまれるものでも労られるものでもない、その体内において反攻の気構えを宿し鋭い眼光から世間をにらみつけているといった解釈を覚えたような記憶がある。そうした描き手の意思が込められているからこそ見た目のキャッチーなキャラクター性を持ったイラストレーション的なモチーフなりタッチが、ちゃんとしたアートの文脈で語られ受け入れられて世界で人気となっている理由なのかもしれない。どうなんだろう。入ると最初の方は混みがちになるけれど、奥へと進めば人も減って2階に上がるともうあんまり人は居ない中を大きなカンバスに描かれた子供と思いっきりにらめっこできるんで、行くなら平日の午前を狙おう。土日はやっぱり混みそうだし。

 そんな2階から豊田スタジアムの方を観て相変わらずバッフクランの重機動メカのような形をしているなあと感じつつ、愛知環状鉄道に乗って八草まで生きそこから乗り換えて愛・地球博記念公園へ。今は万博のキャラクターから名前を取られてモリコロパークとも呼ばれているけれど、聞く所によると愛知県知事がジブリパークにしたがっているようで、いつまたモリゾーとキッコロがお役御免になるかもしれないんで、今のうちに見ておこうと思った次第。そして今はまだ各所に鎮座しているモリゾーとキッコロに安心したけれど、かつて愛知青少年公園時代に存在した、1970年の大阪万博から移設されたフジパンロボット館で演奏を見せていたロボット達(手塚治虫さんがプロデュース!)が追い出され、そして愛知県児童総合センターの一角にわずかに残っている状況もあるだけに、いずれそこにモリゾーとキッコロも並んで司会業でも始めるのかもしれない。モリゾーとキッコロに運命や如何に。

 そんな愛・地球博記念公園にあった愛・地球博記念館の中でのぞいたらひとつ気になる展示が。動物の顔なんだけれど甲胄をまとっていたりして、どこかガルム・ウオーズの世界観に重なる佇まいがあってなおかつ犬に甲胄って押井守監督っぽいなあと考えて、そうだった愛・地球博には押井守監督が総合演出を手掛けた「めざめの方舟」という作品が展開されていたんだと思い出した。当時からやっぱり好みは変わってないんだなあ。並んでいたのは六将と名付けられた狗奴、百禽、魚皇の3つの頭部で、説明書きによればこうして3つが揃っているのは珍しいこととか。いい時に立ち寄った。これもジブリパークになって愛・地球博食を薄めようとなって記念館が廃止にされたらやっぱりどこかへ散逸してしまうんだろうか。それともジブリだからと鈴木敏夫さんが出てきて押井守監督が絡んでいるならと無理矢理にジブリ作品に仕立てて展示を続けるんだろうか。興味津々。でも騒ぐほどのことでもないか。


【8月16日】 片渕須直監督が登壇した舞台挨拶も終わって「この世界の片隅に」を観た新宿ピカデリーからとって返して家について日付が変わってすぐ。NHKで始まったのが「この世界の世界の片隅に」で音楽を手掛けたコトリンゴさんのライブを追ったりスタジオでライブをやってもらったりする番組で、渋谷のマウントレーニアホールでとりあえず生を観てはいてもやっぱり変幻自在に奏でられるピアノに乗って跳ねるコトリンゴさんの歌声の美しさに惹かれ、耳に強く残る楽曲を作ってのけた才能に惹かれる。

 似た雰囲気に矢野顕子さんもいるけれども、矢野さんが即興の曲球を豪腕でねじ伏せるのとはまた違って、定型の上を揺れ動きながら全体をまとめあげていく柔らかさがあるように感じた。そんな素晴らしい演奏の合間には、音楽をつけた映画「この世界の片隅に」のシーンが流れ監督をした片渕須直さんのインタビューも流れて世界は優しさと慈しみに満ちたものとなる。それはやっぱりああいった厳しい境遇の中でも助け合い寄り添い合って生きてくことの大切さを描いた監督だからこそ醸し出せる雰囲気って奴だろー。

 ちょうど裏番組あたるTOKYO MXでは、血が飛び散り硝煙がたなびく中でRPGがぶっ放される無法で野蛮な世界に生きる奴らの自分勝手で我が侭放題が描かれた「BLACK LAGOONってアニメーションが放送されていた。アニメーションにも色々あるってことで、あとはやっぱり監督にも優しい世界を描く人、バイオレンスを突きつめる人といった両極がいるんだろうなあと……えっ、同じ人がやっているって? まさかぁ……本当に? ってちょっとカマトトぶってみる。それを描くに必要な表現だからこその一方の優しさであり一方の野蛮さってだけのことなのだ、クリエイターにとって、って思いたいけどしかし根底は似ていても表層はまるで毛色が違う作品を、よくもまあ作れたものだなあ、片渕須直監督は。そこがやっぱり才能って奴なんだろう。

 本当だったら先週末から夏休みに入る予定を、飛び込んで来た珍しい人への取材という仕事のために後にずらして今日から週末までを夏休みにすることにして、とりあえず早起きをして「けものフレンズ」の第3話を観ないで家を出て新幹線に飛び乗り豊橋まで。豊橋総合動植物公園ことのんほいパークで開かれている「けものフレンズ」とのコラボレーションを見物に行ってとりあえずコラボレーションの缶バッジを購入する。アクリルキーホルダーはPPPのフルルが残っていただけなんで買うのを見送り、園内を歩いてサーバルチャンがどこにいるかを探したけれど気づかない。

 マンドリルがいてカバがいてといった感じで続いたアフリカ園を抜け、フルルとイワビーのパネルがおいてあるペンギンとかがいる極地の生物を集めた建物を舐めたもののサーバルはおらず。サルを観てシマウマを観てフラミンゴを観て入ったところから反対の西門までたどり着いて、さてサーバルはどこかと調べたら、最初に寄ったアフリカ園の中にある夜行性の動物を集めた建物にいるって分かってああそうだたんだと折り返す。損をしたってことはなく先でも後でも動物を見て回るのが動物園の楽しみ方。まずはいろいろと動物を見て、そして真打ち登場とばかりにたどりついた建物では早速フェネックが動き回っていた。

 「けものフレンズ」だと泰然自若として落ち着きのあるキャラに描かれているけれど、本物はちょこまかと動くものらしー。そういうものなんだなあ、それが知れたのも「けものフレンズ」で動物たちを観て実物を観に行ったから。そういう意味では伝播力と吸引力のある作品。ここで得た動物への理解と関心が将来、どんな革新的なビジョンとなって現れるか。ちょっと気になる。そしてサーバル。名前がステルっていうのは夜行性のステルスな動物だから? 理由はちょっとわかんないや。

 でもって暗くしていある部屋の中でフェネックみたいに歩き回ってサーバルジャンプでも見せているかと思いきや、木の上に乗ってずっと動かなかった.何だろう、夜に見えていても野生の勘が今は昼間だから動かないって決めさせていたんだろうか。それともお昼前でまだ眠かったとか。多摩動物園だと昼間は外から見える檻の中に出して自由に歩かせていて写真も撮りづらいくらいに動き回っていたから、決して日光が苦手な訳ではないんだろう。そこは色々な飼育条件を試しているってことなのかな、のんほいパークは広めの土地に雰囲気を再現して自由に動き回らせている感じだったから。名古屋の東山動植物園ではどうなっているか時間があったら観てきたい。

 二川駅から豊橋へと戻って知らないうちに豊橋名物になっていたらしい豊橋かれーうどんでも食べようかと思ったけれども昼時で混んでそうだったんで今回もパスする。美味しいのかなあ、ご飯の上にとろろでカレーうどんを持ってうずらの卵を入れるって、そうなる理屈がよく分からないところがあって悩ましい。鴨川のおらが丼は“おらが”というだけあって鴨川産の食材が使われていればあとはおのおのの創意工夫でやって良しとなっているから店によって違うものが食べられる。それもまた名物性を薄れさせるけれど、選べる自由さはあるよなあ。豊橋カレーうどんもレギュレーションの中で差異性は持たせているみたいなんで、通って食べ歩くのが良いのかも知れない。B級グルメとして登場して関東で食べられる機会が出来れば良いんだけれど。帰省中にまた行くか。

 名古屋へと戻ったら何か名古屋市博物館でゴジラの展覧会がやっているってんで立ち寄ることにする。昔だったら鶴舞線が出来てようやく御器所からバスで行けたけれども今は桜通線の桜山から歩いて行けるから便利になった。陸の孤島めいてあんまり活用あれていなかったのがこうしてサブカルチャーの展覧会でも利用されるようになったんだから出世したなあ。そんな「ゴジラ展」は歴代のゴジラ映画のポスターが並び設定画が並んでファンなら食い入るように見たい感じ。

 「特撮博物館」のようにプロップが並べられて撮影の現場に近づけるって感じではなく、資料からゴジラ映画がどのように企画され造形され撮影されていったかを確かめていくって感じの展覧会になっている。もちろん着ぐるみも幾つか着ていて「ゴジラ FINAL WARS」のガイガンとか凶悪そう。あと平成ゴジラのキングギドラとかゴジラとか。あれって中に誰かはいったんだろうか。デカくて重そうだった。中島春雄さんが入っていた時とは違って重量感とディテールのために造形も進化している感じで、それに人間が対応できなくなっていった先、「シン・ゴジラ」がCGになったのも分かるような気がする。

 そんな「ゴジラ展」でもっとも感動したのが生ョ範義さんによる「ゴジラ」「ゴジラvsビオランテ」「ゴジラvsモスラ」「ゴジラ FINAL WARS」のポスターのそれも原画が展示してあったこと。絶妙な構成と圧倒的な筆致による迫力のビジュアルが、筆先の細かなタッチまで分かる距離で展示してあって目を近づけて見てしまった。モスラのあの羽根のふわふさとしてふさふさとしていそうなニュアンスは、細かく筆先を走らせて描いてあった。「FINAL WARS」は的を描かずただゴジラの迫力のディテールを中心に据えて王者感を出してあった。もし、存命な中に「シン・ゴジラ」のポスターを描いたらどんな感じになったかなあ。そこが残念。あと原画が意外と大きかったのに気がついた。上野の森美術館で開催される生ョ範義さんの展覧会には来てくれるかなあ。手掛けたゴジラポスター、全部まとめて観たいなあ。


【8月15日】 まさかこの日まで上映しているとはというのが本音のところで、2016年の11月12日に劇場公開されてから9カ月と少し。普通の映画だったら1カ月で上映は終わりとなり客入りが悪ければ2週間で打ち切られる映画だってある中で、スタート時の小規模公開から一気に上映館数を100館以上に広げて数カ月を上映し続け、数々の賞を受賞することによってもっと上映したいという映画館を獲得して冬を越え春を迎えて夏にまで到達。そして映画に描かれた6月22日であり、8月6日であり、8月15日といったエピソード的に厳しくも重たく、そして大切な日に映画館で映画を観ることを実現させた。これはやっぱり快挙だろうし、何より映画の力って奴だろう、「この世界の片隅に」。新宿ピカデリーにてスクリーン1で上映。ほぼ満席となった会場に片渕須直監督が登壇して舞台挨拶を行った。

 それはなるほど区切りの日ではあるけれど、でもこれですぐに何かが終わった訳でもなければ状況が劇的に改善した訳でもない。新宿ピカデリーでの上映後の舞台挨拶によれば、この後に本当に食べるものがなくなり配給による代用品の石鹸なども使用が続けられてすずさんが戦前の、あるいは普通の生活に戻れたのは1950年ごろなんじゃないかといった話が出た。節目の日はたしかにそうであっても、続く日々の中で当時を生きた人たちは何を思い何を見て暮らしていったのかを、追い続けるためにもこの日の上映を区切りにしないで、まだまだ続くすずさんの日々に沿うように映画の上映も続いてそして、見た人に日々を生きているという確信を、与えていってほしいもの。さすがに9月にパッケージも出るからそれ以降の上映となると厳しいかもしれないけれど、公開1年を次の目標として映画を大勢の目にとまる場所に置き続けてあげて欲しい。可能な限り観に行くから。

 それにしても改めて見て、本当に空襲が激化する1945年の春頃までは一般市民の戦争への関心はそれほど濃くはなく、そして権力によって雁字搦めにされているという意識も、だんだんと進んでいった中でそれが当然のことといった感覚に到らされていて大きく反発を生むといったことはなかったのかもしれないなあと思った。ちょっと前に新進気鋭の美人とか言われているらしい政治学者が終戦前の2年間だけが日本が大々的に統制を行い弾圧もして非道な全体主義的国家になていたと言って袋だたきに遭っていたけれど、こと一般市民の目線で言うならそうした感覚ってのももしかしたらあったのかもしれない。

 憲兵さんが怖いといったところで憲兵さんに気にされるようなことをしている市民なんて地方にどれほどもいないなら、やっぱり監視と弾圧といった感覚は抱かなかったとしても仕方が無い。ただし美人かどうかは判断に任せるところにしたい政治学者の言うように、学徒動員めいたことが起こって本格的に全体主義が過剰になったのは終戦前の2年くらいだと限定して、それ以前は平穏な日々で誰もが陽気に暮らしていたといった意見にはあんまり与したくないのは、極めて先鋭的な部分ではやっぱり激しい弾圧があって検挙も日常茶飯事で、すさまじい統制が行われていたことがあるからだったりする。

 そうした、一面ではあっても歴史的な事実から目をそらさせるような言動は、謹むなり行うならば注意を求めることが必要だろう。あとはじわじじわと物がなくなり徴兵が行われ日常が不便になっていった終戦前のそれこそ10年くらいのスパンを考えるならば、終戦前の2年はいきなりやって来た訳ではなく、それ以前の飼い慣らされるように不便と弾圧が暮らしの中に浸透し、それが当たり前だと思わされるようになっていっただけのこと。そうした経過も含めていったい何が行われていたのかを、考えることによって今行われているかもしれない締め付けと洗脳めいた操作について、問い直すことができるんじゃなかろーか。なんて声を出しても安倍ちゃんのメシ友らしい美人っぽい政治学者に言葉が届くわけでもないし、向こうが考えを改める訳でもないからなあ。まあ良い、現す馬脚を引っ張られて足踏みをしてくれれば幸いってことで。でも一部に持ち上げ褒めそやすところも出てきそうだしなあ、櫻井某の後釜として。やれやれ。

 そして第2話の「じゃんぐるちほー」が放送された「けものフレンズ」は冒頭の「おえかき動物図鑑」が第1話のサーバルから虎になっていて、アニメーションには登場しなかったけれどもしっかりとキャラクターは存在する虎を出しつつこどもたちが本物の虎を描く様子を映し出してた。あとの展開はだいたい同じ。Furuのくじで当たるパペットなんかをいっぱい出しててちょっと欲しい気がしたけれど、南砂町のSUNAMOで試した時はステッカーしか当たらなかったんだよなあ。それでもPET製だからしっかりと貼れて見ずにも強そうだし、台紙のままで持っていても下敷き程度の雰囲気は出せるからこれはこれで集めたいかも。ラストワン賞のかばんはちょっと無理だ。残り少なくなった所で一気に買い占めるか。それよりワンセットをまとめ買いするか。出来るのかそれ?

 ストーリー的には第2話は、冒頭からボスがかばんちゃんだけにしか喋らず何か含みがありそうだし、記録されていた地図とはまるで地形が変わって橋とか流されて廃墟みたいになっていたりして、その世界があるいは人類滅亡後の状態なんじゃないかってことをある程度確信させた。もちろん第1話の「さばんなちほー」の段階で、ジャパリパークを案内するボードが古くなっていたりして、それからセルリアンが陣取っていたゲートも古びた感じがあってテーマパーク的なものが衰退した後かもってことを予感させていた。だから第1話を見て展開に不安を抱いたことをツイートして、これが1番かもしれないと書いたんだけれど当時はここまで評判になって、夏に再放送まで行われるとは予想が付かなかった。今はもう再放送どころか映画化だてされても不思議は無い。日本SF大賞は確実だな。って夢ばかり膨らむけれど本当のところはどうなんだろう。見守りたい。支えつつ。

 ははははは。どこかの新聞に関する暴露本が出ているとかでネットメディアが取り上げていたけれど、それを読んでなんだこんなことになっているのかって驚いている人たちにそれなりにメディアで活躍している人たちもいて、いったい何を見てたんだと思わないでもなかったけれどもそれだけ世間的な影響力が乏しくて、一部への影響力だけを夜郎自大的に増幅して大きく見せていたのかもしれないなあと考える。まっとうなメディアが本気で暴き叩いて告発したらあっと言うまに化けの皮も剥がれそうなんだけれど、そこまでして潰す相手でもないって判断なのかも。だからお目こぼし的に生きていられる。ただそれに乗っかって騒ぎを外に広げようとしているだけに、いつ虎の尾を踏まないとも限らなさそう。そうなった時に何が起こるかを、想定しておくのが良いのかもしれないなあ。売れそうな物、部屋の中に何かあったかな。


【8月14日】 行けなかったけれどもなでしこリーグカップでジェフユナイテッド市原・千葉レディースが浦和レッドダイヤモンズレディースを破って初のタイトルを得た様子。過去に2012年の皇后杯で決勝まで進出しながらもINAC神戸レオネッサに負け、去年のリーグカップでも決勝を浦和レッズレディースに4点を奪われ敗れてタイトルに手が届かなかっただけに、今一度のチャンスにしっかりと守り抜いてそして後半のアディショナルタイムにミドルを決めて勝利とはまた感動もひとしおだろう。山根恵里奈選手という日本代表のなでしこジャパンにも入っているゴールキーパーが途中で抜け、そしてシーズン前にはエースの菅澤優衣香選手を浦和レディースに持って行かれて厳しい状況ではあったけれど、守り抜いて勝てたことはとても大きい。この勢いでリーグの方の残り試合も勝ちを重ねて残留を、そして優勝を目指して欲しいなあ。頑張れジェフ。兄貴もついでに。

 8月6日に阿佐ヶ谷ロフトで開かれた山賀博之さんと貞本義行さんを招いての「王立宇宙軍 オネアミスノ翼」のトークイベントで、山賀さんが松本零士さんの漫画表現そのままのアニメーションって今まであんまりないので作りたいとかどうとかいったことを話していた。松本アニメといえば原作の流麗な部分を抜き出して小松原一男さんがキャラクターをデザインした雰囲気がやっぱりパッと浮かぶ。でもそれはやっぱり松本零士さんの漫画の一面でしかなく、例えば漫画版の「宇宙戦艦ヤマト」の冒頭で、沖田十三艦長が降伏を勧告してきたガミラスを相手に「バカめと言ってやれ」と言って、通信手が「バカメバカメ」と打電したらガミラスが怒ってきて「うわあ怒った」と慌てふためくといった感じに、デフォルメされたキャラがあたふたするギャグっぽい絵になったりする。

 そんな漫画のニュアンスをアニメーションで再現してこそ、真の松本零士アニメと言えるのではないか、なんてことだろーけれど漫画だからこそ一瞬の息抜きでもって面白がれるものであって、ずっと世界観が続くアニメーションの中で一瞬のギャグを入れてしまうとどこかがちぐはぐになってしまう。安彦良和さんの漫画版「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」を、富野由悠季監督の「機動戦士ガンダム」のリメイクとして作るということは、たぶんそういったことであってつまりは時としてギャグ的漫画的表現がシリアスな展開であっても入ってしまう安彦さんのタッチが、そのまんまアニメーション化され得るってことになる。

 すでにしてそうした傾向は「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」でも顕著になっていて、ドズル・サビの頭から血がピューと噴き出したり、ネコの動きがドタバタしてたりと漫画だったら片隅を賑やかす表現が、リニアな映像の中に挟み込まれて雰囲気を不思議な感じにしてしまっている。最新作となる「機動戦士ガンダム THE ORIGIN 激突 ルウム会戦」ではそうした演出がさらにいっぱい盛り込まれていて、「機動戦士ガンダム」では強面ながらも純粋で熱情的で死に際とか格好良かったドズル・ザビが、面白さを時に漂わせ可愛いと思わせるようなキャラクターになってしまっている。そんな演出プランがソロモンの会戦に取り入れられた時、ミネバとの別れでどんなギャグを見せるのか、なんて思いが浮かんでしまうとやっぱり安彦さんによる「機動戦士ガンダム」のリブートに、いろいろと悩ましい思いを抱えて仕舞わざるを得ないのだった。せめて演出にプロが入って統一感を出せばなあ。でもやっぱり安彦さんで押していってしまうんだろうなあ。

 建前ではあっても自由の国で平等が重んじられ、差別は許されないことになっていたりするアメリカが州谷で差別的な思想を持った人たちと、それに反対する人たちが激突して死者まで出る一大事となっている。言論はもちろん自由でお互いが主張をぶつけ合うことはたぶん憲法に保障されているんだろうけれど、行き過ぎた差別の意識は忌避され嫌悪されるというのもまた常態。にも関わらずヴァージニア州シャーロッツビルに集まった白人至上主義者たちは、それに反対する人たちの列に車を突っ込ませて1人の命を奪い大勢の身に傷を負わせた。主義主張がぶつかり合ってけが人がでることはあっても、反対者を抹殺するような言動は……ない訳ではなくキング牧師はだから暗殺されたんだけれど、この21世紀になってそうした事態に到るとはアメリカ人でも思っていなかっただろう、1年前くらいまでは。

 でも状況は変わって、差別を正しいと認識し排除を必要と認識している人たちがその思いを煽られて吹き上がってしまった。顕在化された差別的な感情は方向性を持って物理的な攻撃へと転化し、人を傷つけ命まで奪ってしまった。そうした事態にさすがの“責任者“でアルトランプ大統領の懸念を表明したみたいだけれど、あからさまな白人主義者ではなくどっちもどっちに気をつけようぜといた態度だったことからまたしても炎上が怒っていたりする。とはいえそれはトランプ大統領と側近レベルの話であって、まっとうな大人達は真っ当な言語を紡いで異常事態を非難する。中でもヴァージニア州知事テリー・マコーリフのスピーチが凄まじく妥当で素晴らしい。

 それは「ャーロッツビルに集まった、すべての白人至上主義者とネオナチに伝えたいことがある。私たちのメッセージはごく単純なものだ。帰れ」といったシンプルで明確で力強いもの。「君たちはこの偉大な州に必要ない。恥を知れ。君たちは愛国者を気取っているようだが、愛国者なんかではまったくない」と真正面から糾弾している。そこに貧困故の視野狭窄だとか移民の増大による不安といったものへの同情はまるでない。悪いことは悪い。だから糾弾する。それだけ。本当はこうしたシンプルさこそが尊ばれるべきなのに、我らが日本の総理大臣は差別的な言動を振り回して養護施設を襲い多くの人の命を奪った事件にすぐさま会見を開いてメッセージを発するなんてことをしなかった。

 誰に配慮しているのか。何を守ろうとしているのか。そんな勘ぐりを生むこの国とは違って、悪いことには党派を超えて結束するアメリカの、自由を守らずんば成り立たない国の根幹への理解がしっかりなされている。それ故の行動にもブレがない。今は揺れ動いているけれど、気づいてきっと遠からず収まるだろうと信じたい。一方でこの国では弱者を見つけて非難し追い込むことによって優越感を覚え苦境を忘れようとする人たちが溢れている。「君たちが成功することなどない。ここに君たちのいる場所はない。アメリカに君たちの場所などないのだ」だなんて明言をして、人権無視とか非難されるのが怖いのか? でも、もはや相対論で語れる状況ではない。現実に気概が及び戦火が広がりつつある中で、何が正しいのかを見極め惑わず引きずられないで生きる力を誰もが持たなければ、遠からずこの国も分断と闘争の果てに来る長い衰退へと向かうだろう。どうなるか。トップが率先して哀悼と非難を行うなんて格好いいことをできる政権でもないんだよなあ。そこが中途半端。保身が根底にあるからなのかなあ。

 おお、ジャパリバスのタイヤが回っている。そして冒頭に「おえかき動物図鑑」なんてものが放送されている。14日から夏休み中の子供たちが観るだろうってことで放送ガスターとした「けものフレンズ」だけれど、ただ放送されたものを流すだけじゃなくって子供が観て飛びつきそうな企画を冒頭に添えて自分もそこに混じりたいと思わせ、そして中身はブルーレイ向けにリテイクされたものを持ってきて放送では間に合わなかった部分を補い見せたかった絵を見せようとしている。作品を愛する人たちによるアイデアが詰まった再放送を、もはや再放送と呼ぶのも間違っているような気がしてきた。リブートキャスト? そんな英語が正しいかは知らないけれど、何か画期的なことが起こっているとだけは断言したい。明日は「じゃんぐるちほー」だけれど、オープニングがちゃんと付く話数で「おえかき図鑑」でオープニングを重ねられるんだろうか。ちょっと謎。子供にはジャガーの「わからん」が口癖として伝わって欲しいなあ。それともやっぱりコツメカワウソの「たーのしー」だろうか。


【8月13日】 アルタイル強すぎるだろう、ってのが率直な感想でメジャーな場所で大人数が気持ちを入れて作り上げられた人気キャラクターの最強の技を、ネットの中だけでひっそりと盛り立てられているキャラクターが防ぎ跳ね返すなんていったいどうやったら出来るのか。それこそ「Re:CREATORS」というシリーズにおける神様によって創造されたキャラクターがファンの思いを乗せて顕現しては力を発揮するといった設定を、崩しているようにしか思えない.

 けれどもそこはまた別の理由めいたものがあってアルタイルを未だ最強に祭り上げているんだろう。作り手の命を賭けた思いのつよさって奴? もそれままた難しいところで、「Code Babylon」の原作者の駿河駿馬がブリッツ・トーカーと対話していた時みたいに命そのものは賭けてないにしても命を削るような思いをして物語を考え、キャラクターを動かしながら世界を創り上げていたりする。それが読者に対する責任であって、だから非道なことも出来るし銃だって向けられたって動じない。

 そんな覚悟を持って筆を取っている神様が、たかだか被造物の恨み言なんて聞いていられるか? っていうところでそんなプロフェッショナルの強さが入れ込まれた世界が、ネットの同人から派生したフリー素材のキャラクターにどうして負けることが信じられない。そこがやっぱり気になるけれど、そうでなくては物語が転がらないというのが外側から見ての思い。逆転があってきっとまた大逆転もあるんだろう中、揺れるセレジア・ユピティリティの気持ちと蚊帳の外にいる水篠颯太の役割が、展開に何か影響を与えてくれると思いながら観ていこう。築城院真?がどんな暴れっぷりを見せてくれるかも。

 今日も今日とてコミックマーケットへと出かけていっては西館(にし・やかた)の企業ブースをさっと見る。初日のような大混雑がなかったのは既に売り切れてしまったアイテムが多いからなのか。それとも初日に企業ブースを回った人たちが今日は東館(ひがし・やかた)の同人誌を買うと決めてそっちに回ったからなのか。分からないけれどもスムースに回ってなぜか出展していたボールのミカサのブースでガチャを回して缶バッジを2つ取り、そして冊子をもらって帰ってながめたら壁井ユカコさんが短編を寄せていた。そういえばバレーボールの小説をずっと書いていたんだった。城崎広告とのコラボもやっているしミカサもちょっとは目立とうとしているのかも。モルテンはどうするんだろう。

 東館(ひがし・やかた)へと回って氷川竜介さんの卓にたどり着く前に森川嘉一郎さんのところで東京国際マンガミュージアムの現時点での取得目録を購入。末尾にプレイステーションVRとニンテンドースイッチという、ともに店頭ではとんと見かけないアイテムが並んでいていったいどうやって手に入れたんだろうと不思議に思う。やっぱり朝から並んだんだろうか、それとも僕みたいにスイッチは店頭でのくじ引きでゲットしたんだろうか。って思ったらご本人からネットのリアルタイム在庫情報から購入したとの報。そうかそういう手があるのか。それで気になるのはやっぱりソフトで配信なんかが多くなっているタイトルを保存するのって大変そう。フローとして流され消えていくのかなあ、そんな時代のソフトって。

 氷川竜介さんを周りそしてふらっと見つけた小山田いくさんの追悼同人誌を購入し、かつて熱中した時代を思い出しながら涙ぐむ。超人ロックの50周年を記念した同人誌も出ていたけれどこっちはおめでた、小山田さんの方は……。流れる時の長さを噛みしめつつ最前線に立ち続けられるクリエイターの凄みといったものを改めて思い知る。そこから東7ホールへと行くのに難儀をしたものの、人混みをどうにかかきわけ行列に続いて東5ホールの外に出て、外周を回って東7まで行って長谷敏司さんのところで1冊と、そして「人間噂八百」の頃から気になっていた足立淳さんの最近の大ヒット作「日高屋のアライさん」の新旧2冊を購入する。

 アライさんの方は「けものフレンズ」のアライグマとフェネックが日高屋に行って食べる話でしかないんだけれど、どのメニューを食べたら良いか、それがどれだけ凄いかがアライさんとフェネックの会話から伝わってきて、自分で生きたくなってきた。っていうか行ってW餃子定食を食べたんだけれど。やっぱり12個はすごいボリュームだ。読み込んで次に食べるメニューを考えよう。船橋にも日高屋、あるみたいだし。せっかくなんでビッグサイトから南砂町へと回ってSUNAMOってショッピングセンターでタイアップしている「けものフレンズ」のパネルなんかを見てくる。結構大きかった。サインも入っていてなかなか可愛い。これで明日から再放送が始まれば、見た子どもたちがどったんばったん大騒ぎすることになるんだろー。コミケに来ていた外国人が泊まったホテルで朝見て帰りたくなくなったりして。2週間滞在が延びたらインバウンドも拡大。「けものフレンズ」特需だ。あるかな?

 せっかくだからと錦糸町へと回ってTOHOシネマズ錦糸町で「ノーゲーム・ノーライフ ゼロ」を観る。2回目。夕方からという良い時間帯なのと日曜日なのとで満席になっていて、公開からもう4週目だか5週目に入っていながらの人気ぶりに改めて映画そのものの出来の良さが反映しているんだなあといった思いを確かにする。だってテレビじゃもうアニメーションは放送していない訳で、ライトノベルが「魔法科高校の劣等生」とか「ソードアート・オンライン」ほど売れているといったものでもない作品の映画が、こんなに長く支持されるのやっぱり出来そのものに理由があると考えるのが道理だろう。

 観れば泣けるしまた観たくなる。そんな映画。改めてみてシュヴィの無念、リクの残念が痛いほど伝わってきて、それがちゃんと繋がっていったことを嬉しく思えた。泣けてそして笑って終われる。あとは6000年の後の未来で空と白とが世界をちゃんと丸く収め続けることを願い、そんな物語が映像になることを願って映画を応援し続けよう。いしづかあつこ監督の凄さってのも感じるんだけれどどこがどう凄いのかを言語化するだけの力がない。ヒントもない。誰か本格的ないしづかあつこ論とか書かないかなあ。僕じゃあ無理だよ教養ないし。

 これはいけない。随分といけないのだけれど、そういった自覚があるかどうかが見えないところになおいっそうのいけなさが渦巻いていたりする。とある全国紙を標榜するメディアのサイトに掲載された「記事」で、沖縄本島におけるメディア状況が旧来からある2紙に占められていて“真実”とやら伝わらないけれど、新しく参入した1紙はちゃんと“真実”を伝えているのだといった主張がなされている様子。問題はそうした主張をしているのが誰か第3者ではなく、また記事を掲載しているメディアの記者でもなくって、自分のところは正しいと言っている新しく参入した1紙の編集担当者だったりすること。つまりは自画自賛でしかない宣伝の言葉が、「記事」としてニュースサイトに掲載されてしまっている。これはちょっと芳しくない。

 そういった論調が取材の結果として出て来たというならまだしも、当事者がそうだといった認識の元に書いたものだから単なる自画自賛でしかない。金をもらって載せているんじゃない、その主張に共感して寄稿してもらったんだからステルスマーケティングとは違うといった意見も出てきそうだけれど、一般的な主義主張ではなくて自分のところの“商品”の良さを訴えつつ、他のところのはよくないとこき下ろす、極めて利己的な言葉に過ぎない。そこには第三者的な目から見た公平性も公共性もない。そんなものを「記事」として載せていいのか否かを第三者に判断させたら、いったいどんな見解が出るのか。

 朝日新聞が似たようなことをやったら大騒ぎをする人たちが、まるで黙っているのは相手が朝日じゃなければ騒いでも反響が薄いってことなのか、それとももはやメディアとしての埒外にあるので、何をやろうが知ったことではないと思っているのだろうか。そんな形式の問題とは別に、書かれている言葉がまた医事法にでも引っかかりそうなくらいに支離滅裂で、はた目には苦笑しか生まない。既にある主要2紙から新しく参入した1紙に切り換えた読者が語って曰く、「ドクターから胃潰瘍を手術しないといけないといわれたが、県紙の購読を止めると3カ月で完治した」。なんだこりゃ?

 ある種の冗談として語っているんだろうことは分からないでもないけれど、内輪で盛り上がるために言うならまだしも、公器たる場でそうした“効能”があるかのごとくに綴ってしまっているところに事態の危なさがあり、またそうした言葉が平気で綴られている文章を「記事」として載っけてしまうところに思考の危うさが感じ取れる。言いたいことのためにはファクトをねじ曲げようと平気ってのは前々からの傾向ではったけれど、それが常態化しつつやがて本気でこうしたフェイクをリアルと勘違いして掲げ出さないかが気になって仕方が無い。嘘は100回言おうと嘘だけれど、嘘を100回言われて本当と思った人たちばかりの空間では、嘘もリアルとして通じてしまうとうのが厄介な話で。やれやれ。


【8月12日】 公開も始まってアメリカでの「この世界の片隅に」評をネットで漁る日々。批評を集めて白黒具合を評価するRotten Tomatoesではレビューが35個まで来て、rotten評価がサンフランシスコクロニクルの1紙だけで、それも聞くと長いし日本のことなんてよく分からないという、映画のそれもまあ本質ではあるけれども内容を吟味する嗜好からは外れた評価によるものだから、作品性そのものが否定されたってことでもなさそう。ニューヨーク・タイムズにロサンゼルス・タイムズと来たら次はワシントン・ポストと来て欲しいところだけれど、商都のニューヨークや娯楽の街ロサンゼルスとは違った政治の街では映画すら観る場もないのかな、そこはちょっと不明。

 個人で見たといった人のブログとかツイートなんかが出始めていて、泣いたって人も結構いたりして洋の東西を問わずに人の営みがあってそれらが理不尽な状況によって途切れることへの怒りと悲しみは共通なんだと教えられる。あとはアメリカなんで公開がどこでもって訳じゃなく、車で何時間もかけて見に行かないといけないんだと投げている声もあった。まあそれは日本も同様で、スタート時期はやってない県とか市とかもあったのが、だんだんと増えて行って、そして今は巡回のように各地を回っている。そういったじわじわと広がる動きをアメリカでも見せてくれれば面白いんだけれど、より興行にシビアな国だけにまずは先行の大都市と、続く地方都市での評判が少しの延長を呼び、賞レースに乗ってメキシコみたいな再上映となれば御の字か。歌広場淳さんもたくジャスティ・ビーバーが観て何度も観に行って泣けば一気に広まる? それはさすがにないかなあ。

 週末から来週央にかけて規制するつもりが週明けに仕事が1本入ったんで帰れなくなったんで、間に入っていたイベントの取材とか、面白そーなトークの見物へと出かけていく。まずは銀座三越で始まったパックマンのイベント。「PAC−STORE」っていう若い人向けにアメリカンテイストのレトロなデザインのパックマンを展開する新しいブランドが、去年にアソビシステムとかの企画でスタートしていて、それのグッズを主に展示して銀座に集まるスタイリッシュな層にアピールしようといった感じ。発表会の時にゲームゲームさせないっていったデザイナーの発言があったように、絵柄なんかもモロにゲームて感じではなくワンポイント的なものが多かったけれど、今回は分かりやすさも狙ってかゲームの盤面をあしらったTシャツもあった。まあその高度に洗練されたデザインはもはやトラディショナルだから、ゲームかどうかなんて関係ないのかもしれない。

 イベントには原宿のカリスマ店員らしいぺえさんと、その家に同居しているぱあさん、じゃないへえせんが訪れて2人で仲良くトーク。でも途中でアイスクリームショップで働くへえさんが死にたくなって家を出て連絡がとれなくなってしまった話になって、聞くと親とかがいる大阪に帰っていろいろ会ってから死のうと思ったものの死にきれなかったってヘヴィーな話をしてくれた。それがパックマンと何の関係があるかっていうと関係はないんだろうけれど、食べられてもまた復活してくるゲームのような生き方をしていこうて話に繋がるのかも知れない。繋がらないのかも知れない。イベントではあとぺえさんとへえさんに加えて子どもがパックマンに挑戦するコーナーもあって、大きな盤面を持ったパックマンに挑んで見事にクリアしていた。巧いなあ、僕なんてタブレットに入れてあるパックマンの1面ですら滅多にクリアできないんだから。そういうものだよ大人って。

 イベントを見終わって原稿にして叩き込んでから、下北沢にある本屋のB&Bで開かれた、「キッズファイヤー・ドットコム」の刊行を記念しての海猫沢めろんさんと表紙絵を描いた漫画家の鳥飼茜さん、そして「キッズファイヤー・ドットコム」にも似たような人間が登場していたりする荻上チキさんが並んで最近の子育てをめぐる状況を、そして旧態依然とした考え方がなかなか変えられない状況への不安めいた思いなんかを話し合っていた。

 朝に父親が満員電車に子どもを保育園へと送り届けるために乗ろうとする、そのシチュエーションそのものがギョッとされてしまうというマインドは、果たして代わり得るのか。離婚して片親だけで育てること、無痛分娩を選ぶこと、シェアハウスでみんなで子育てすること、そして「キッズファイヤー・ドットコム」に描かれたクラウドファンディングでウェーイな子育てを選ぶこと等々、常識からは外れているけどその常識っていったい何だといった問いかけを、していかないと将来において雁字搦めの国になってしまう気がした。とはいえ子育てなんて当面どころか一生縁がなさそうだからなあ、自分。せめてだから理解をし、邪魔をしないような言動を心がけよう。

 海猫沢めろんさんからサインをもらってB&Bを出て、下北沢からは京王井の頭線に乗って渋谷まで出てそこで山村浩二さんの作品を集めた上映会「山村浩二 右目と左目で見る夢」を観る。ちょっと前にイントゥ・アニメーション7の会場でも観た「サティの『パラード』」のほかに山村さんが2011年の「マイブリッジの糸」以降、作り続けていた作品をまとめて上映。トークイベントもついて近況などが聞けて、帰省できなかったことが悪い話ではなくなった。

 これはイントゥ・アニメーション7で「サティの『パラード』」を観て思ったことで、「頭山」から「カフカ 田舎医者」と来て「マイブリッジの糸」へと続くストーリーを持った重厚な作品が、「サティの『パラード』」では一転して軽快になって動くパーツが集まったような作品になっていでどうしたんだろうと思ったけれど、2013年の「古事記 日向篇」でこれはストーリーを持ちながらも描かれる断片が重なり合って連なっていく感じになっていて、余白がありながらもしっかりとアニメーションしているところに何かを開眼したみたい。少しずつ変化していく絵を何千枚も重ねていくのもアニメーションではあるけれど、何かが動く、それも音楽に合わせて動く楽しさをまずは見せ、そこに物語性を宿らせることで作品として成り立たせることができるのでは。そんなことに気づいたのかもしれない。

 そんな合間にカナダの重鎮、ノーマン・マクラーレンの追悼にも絡んだ企画を手掛けて改めて、音と動きのシンクロがもたらす画面の躍動感を感じ取り、「サティの『パラード』」によってバレエ音楽として作られた楽曲にバレエとして演じられたものとはまた違う、音楽から浮かんだビジョンを浮かべて置いて重ねてつないでいくことで、音だけの空間に色を与え絵を与えてみせた。そこで掴んだ感触に、文字を載せる意味も察して「怪物学抄」などを手掛けそしてキャサリング・ベルヘイストの音楽に乗せた「水の夢」へと到ったと行ったところかも。

 とはいえご本人はもう絵を描くのがしんどいとかおっしゃりつつ、あの内面が形となって表されるビジョンを決して捨ててしまった訳ではなさそうで、「サティの『パラード』」でのエリック・サティらしき人物の動きにそんな仕草が現れている。いつかまた重厚で物語性を持った大作を作って欲しいけれど、そうなるにはやっぱりアニメーション作家が作品を作れる場を用意し,資金を用意してあげる必要があるんだろうなあ。Netflixとかには期待出来ない分野だけに、国が今一度システムを立て直して世界に誇れるインディペンデントなアニメーション作家を育成して送り出して欲しいなあ。海外のアニメーション映画際にノミネートされて受賞する日本人の作家がここんとこ、ぐんぐんと減っている気がしてならないだけに。


【8月11日】 アメリカでの公開がいよいよ始まる片渕須直監督の長編アニメーション映画「この世界の片隅に」に関する評がアメリカの主要紙にも一斉に載り始めた様子。中でもやっぱり世界的に影響もあるだろうニューヨーク・タイムズとそしてロサンゼルス・タイムズにネットだからか結構な分量で紹介されていて、それらが批評サイトのRotten Tomatoes的に言うならFRESH、すなわちポジティブ評価だという状況にああ、片渕須直監督があの映画に込めようとしたこと、それは元よりこうの史代さんの原作に込められていたことが、しっかりと伝わっているんだと感じられて嬉しくなった。他のどの国でもないアメリカで、つまりはすずさんたちの上に爆弾を振らせた国への批判ともとられかねない内容を、戦火にある誰にとっても普遍のことだと解釈して理解するのはやっぱり相当に冷静な思考と判断が必要となるだろうから。  

 そこはやっぱり世界に冠たるハイクオリティな2紙だけあって丁寧に描かれた戦前戦中の庶民の暮らしぶりについてしっかりと理解を示し、そんな庶民の暮らしぶりを描き出すために片渕須直監督がとてつもない年月をかけ、そして多くの証言を得て資料を集めていったことにも理解を及ぼしているところに、単なるイデオロギーではない映画といったものを見る目の確かさって奴を感じる。原爆については遠く呉から見た光景として退いているところもあるいはアメリカ人の中にある諸々の感覚を刺激しなかったのかもしれないけれど、事実として大勢がなくなった悲劇が淡々と続きつつ段々と悪化していった日常の延長にフッと起こってしまったことをこれで感じ、今もどこかで段々と悪化していく日々の果てに起こる災厄への思いを育もうとしているのかもしれない。

 かつて起こった悲劇は誰かのものだったけれど、今度起こる悲劇は自分たちのものかもしれないという想像力。そこへと到る道を示してくれる映画として、受け止めてもられればこんなに嬉しいことはない。どうなんだろう。公開の規模がどれくらいか分からないし、PG−13がアメリカの興行においてどういった影響を持つのかもちょっと分からないけれど、これだけの高評価によって迎えられているのだからあるいは後半の賞レースにおいて何らかの栄誉を勝ち取るって可能性は高まったかも。とはいえRotten Tomatoesで94%という効率の認定FRESHを得た原恵一監督の「百日紅〜Miss HOKUSAI〜」は賞レースにはまるで絡んでこず、98%という凄まじい効率の認定FRESHを受けた新海誠監督の「君の名は。」もアカデミー賞には残れなかった。そんな2作品と比べ遜色はないけれど、かといって派手さにも書ける「この世界の片隅に」が残れる可能性はあるんだろうか、内容と描き方への評価で行けるか、そんな想像を巡らせながら眺めていこう。

 ようやくやっとノイタミナで放送されている森絵都さんの小説を原作にしたアニメーション「DIVE!!」を第6話まで一気に見て、とりあえず麻木夏用子コーチのハイレグと尻にヤられない中学生なんて信じられるかと思ったというか、高校生だってヨロめいたって不思議はなさそうなのにそうした関心をあんまり見せずに健全な男子高校生が日々、飛び込みの練習に励んだり仲間内で嫉妬に燃えたりしているのが不思議でならない。主人公の坂井知季なんて中学生のくせして彼女がいて、それが飛び込みの練習に忙しくて構ってやれないうちに年子の弟に取られて落ち込んで2週間も引きこもっているとか、まるで理解できない。

 目の前にあんなにすごい美人がいるのに。そして家まで尋ねて来てミニスカから伸びる脚と巨大な胸の谷間を間近に見せつけてくれているのに。どうして靡かない? どうしてベッドに引きずり込まない? これだから中学生って子供過ぎて嫌になるけど中学生の14歳15歳といったあたりにとって、夏陽子コーチがたとえば28歳くらいだったとしたらやっぱりもうとてつもなく年上のオバさんに見えてしまうものなのか。まあ実際、14歳だった僕にとっての28歳だったあべ静恵さんや今陽子さんが萌える対象だったかというと微妙だからなあ。それは仕方が無いとはいえ、でもやっぱり目の前にいつもチラつくあのハイレグでありあの尻であり、突き出た胸はもっと堪能した方が良いと思うのだった。少なくとも視聴者としてはそれを目当てに最後まで見ていこう。ブルーレイボックスすら買ってしまいたくなって来た。お話は……飛び込みをよくもまあ緻密にアニメーション化しているなあ、戯画化せず止めにもしないでちゃんと描いている。すごいなあ。

 せっかくだからとコミックマーケットへ。珍しくりんかい線の国際展示場駅の前から列整理が始まっていたけれど、ちょっと行った先の広場に行列を作っている感じはなくって、そこでの整理をするにはもう時間が過ぎていたからなのか、少しさばき方が変わったのかと想像したけれどもとりあえず行列にくっついて中にはスムースに入れたので、明日以降に行くことがあればどういう差配になっているかを眺めてみよう。とりあえずは西館(にし・やかた)へと回って1階の企業ブースを眺めてKADOKAWAのブースに並ぶ長蛇の列を確認。とてもじゃないけれど参加は出来そうもないんで、日本郵便のブースへと行って「けものフレンズ」のフレーム切手の先行販売を買って退散する。たぶん普通に市場には出るだろうけれど、そこで買うとなると探すのも頼むのも苦労するからやっぱりはやい内、見つけた時に買うのが吉ってことで。

 そして東館(ひがし・やかた)へと回って人手不足が懸念されている「マンガ論争」のブースで新刊を1冊求めて、さあいった「けものフレンズ」のたつき監督が率いるirodoriと、そしてファビュラスな叶姉妹がいるというブースがどうなっているかを確認に言ったらとんでもなかった。irodoriの方はシャッターの外に列途中の看板が出ていて、それならと見たら割と近くに最後尾の札があったんだけれどそこからはるか前方へと列が伸び、そして折り返してきてといった感じでいったいどれだけの人数になるのか、想像するのも恐ろしかったんで看板は取らずに通り過ぎる。去年の今ごろにこんなことになるなんて、誰も想像してなかっただろうなあ。コミティアで普通に寄れてた時代が懐かしい。

 そしてファビュラスな叶姉妹のブースはといえばこれまた東京ビッグサイトではもっとも隅っこに配置されていたとはいってもそこにそれだけの行列できるスペースがあるからといった配慮のもと。そんな配慮を真正面から受け止めるように長蛇の列がグルグルと回っていて、なおかつすでに商品は完売となっているにも関わらず、お二方から名刺を受け取るためだけに並んでいると知ってその人気ぶりに驚嘆しつつここも今からでは名刺すら頂けそうもないと分かって眺めるだけにする。すごいなあ、前回は普通に一般参加、今回はサークル参加ですっかりコミケの顔になってしまった。

 芸能界からホされていた感じの小林幸子さんがニコニコ動画で注目を集め、ニコニコ超会議で観客を集め、コミックマーケットで大行列を得て人気を再燃させて紅白歌合戦への正式ではないとはいえ出場を果たして復活を遂げた時みたい。でも叶姉妹はここから芸能へと復活する必要もないゴージャスなユニットであって、テレビへとカムバックするような目的も持ってはいなさそう。紅白に出られる訳でもないし。だったら目的はといえばやっぱり自分たちを表現することで、それが叶うのがテレビではなくコミックマーケットのような公衆が集まり衆目を集められ、喧伝への波及もある場へと変わっていることを、しっかりと認識しているんだろう。だからしっかりと場をリスペクトして慣習に倣い騒がせず粛々と頒布を行った。とはいえここで目的を果たしたとか飽きたとか言って次回から出るのを止めたら反発も出そうなんで、どこまで続けるか、どうやって抜けるかといったあたりが今後の動静の鍵になるのかな。


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