縮刷版2017年8月上旬号


【8月10日】 タイトル戦に登場すれば昇段は出来るけれど、どんなタイトルよりも象徴的な意味合いとして大きな名人の位に就くには、まずはA級へと上がってそこで順位戦を繰り広げて1位となって名人に挑戦する権利を得ることが絶対に不可欠で、そんなステップの入り口にあたるC級2組での順位戦をまずは突破することが、ほかの棋戦で勝つよりも重要とするなら藤井聡太四段が10日の順位戦を勝って3連勝としたことは、とても大きいと言えそう。神童と崇められて3段リーグを抜けて4段となってプロ棋士となり、臨んだC級2組の順位戦で足踏みをして、そのまま普通の棋士となってしまうことも少なくない。まあたいていの天才は何期かで抜けていくんだけれど、今度はC級1組で足踏みとかもあるだけに藤井四段にはそのあたりを1年で抜けていって早くA級1組に到達してほしいもの。その頃までに1つ2つ、タイトルを取っていたらなお結構かなあ、叡王戦って次、いつあるんだろう。

 今日から池袋で始まった「ドラゴンボール 天下一武道祭2017」はなかなか盛況なようで、全世界的な「ドラゴンボール」人気なんかを改めて感じ取ってみたりする。僕にとってはどこかの段階で敵のインフレーションがすごくなりすぎ、やや興ざめの中で作者も感じ取ってかとりあえず抑え、ふんわかとした中に大団円を迎えさせた漫画版でひとつ終わってはいるんだけれど、その人気に頼りたい人たちからGTだの超だのといった耳慣れない企画を載せられて、キャラクターシステム的な延命を図られている感じ。そこから知ってファンとなっていった人も若い世代にいるから良いってことで、世代を超えて支持され続けている作品の代表格としてこれからも盛り上がり続けるんだろう。

 そんな天下一武道祭の会場には修行できるコーナーがあって、背中に甲羅を背負って牛乳瓶が入った箱を手に持って走り回ったり、反復横跳びをしながら界王さまのペットのバブルスをタッチしていくようなアトラクションがあって試してなかなかのしんどさに息をつく。赤いランプが点滅したら押していくといった、反射神経と反復横跳びを強いるアトラクションが重なっているのも疲れる理由だけれど、そんな中で悟飯とトランクスの看板に体を曲げて指先を合わせて「フュージョン」と言えばOKなアトラクションもあって、楽かなあと思ったら子供向けなんで体を相当曲げなくてはならずこれが結構腰に来た。走り回れても柔軟性は落ちているというアラフィフの現実を噛みしめさせられた空間。でも楽しかったから良いってことで。子どもはどんな楽しみ方をしているだろう。見てくるかなあ1度くらい。

 普通に新作のショートエピソードだと思ったJRA×けものフレンズの映像「けいばじょう」。ジャパリバスに乗って旅をするサーバルとかばんちゃんとそしてボスがたどり着いた巨大な廃墟めいた場所が競馬場で、そこには3人のウマのフレンズたちがいてターフを走ったり障害の練習をしたり食べたりしているという状況。競馬場っていうある意味で彼らにとっての聖地を廃墟にしてしまうことにJRAがよく許可を出したなあとは思わないでもないけれど、完全にボロボロって訳ではなくかつての賑わいを感じさせるように未だまだ中はきちんと整えられ、そして何よりもターフはしっかりと整備されている。残ったフレンズがやっているんだとしたらそのアイデンティティに忠実なんだろうなあ。職業意識の高さというか。そう感じさせつつ競争という最大のアイデンティティに挑ませるあたりが展開の妙。そこでタイトルを出してエピローグ的にほんわかとした展開を差し挟む巧さが「けものフレンズ」を見て安心、考えて奥深い作品にしているんだろう。たつきを信じて良かった。そしてこれからも信じ続ける。

 ビーズログ文庫アリスからは初登場になるのかな、主に薬屋探偵のシリーズで知られている高里椎奈さんの新作が「デュラララ!!」のヤスダスズヒトさんの絵で登場。その名も「幻想風紀委員会」は高校に新月の夜起こる異界との行き来と歪みの発生に1年生の3人が挑み、物語に生じた歪みを正していく物語になっている。3人の1人で、火野弥嵩という少年はどうにも喧嘩っ早くて学校に馴染めなかったけれど、そんなある日、帰ろうとした時に生じた不思議な現象に巻き込まれ、そこで歪みを正す幻想風紀委員会の入会試験を受けていた1年生と巡り会う。

 眼鏡で生真面目そうな稲葉健と短いスカートが可愛い倉岡美行。そんな2人から学校では新月の日に歪みが起こって、それを正していく活動があるんだと教えられた火野弥嵩。なおかつ2人が試験に落ちる可能性への配慮もあり、また周囲で歪みが発生し続けたこともあって、すぐに抜けたいとは思いながらもそのまま幻想風紀委員会の活動を続ける羽目になる、そして直面したぺたぺたと付く足跡の元になった物語を正して足跡を返し、体育館に現れる巨大な狼と戦ってはリセットされる物語の本来のストーリーに沿って進めてこちらもクリア。いわゆる学校退魔物にも似た雰囲気があるけれど、全員がヒーローではなくて火野弥嵩だけが他の風紀委員とは違った所があると分かってくる。

 異界で負った怪我は戻れば治るはずなのに、火野弥嵩はそのまま持ち出す。もしかしたら異界の歪みが化けている? そんな疑いも掛かる中で弥嵩は理由に思い当たり、そして決まり事を変えようとする、破天荒さ故の実直さがもたらした不思議を弥嵩は。受け入れ、そして周囲にも納得させて少し変わった立場での幻想風紀陰火委としての活動が始まる、ひとつの出会いがあって試練があって成長があってといった感じ。ここからが本番になるとして、異界との繋がりを持った不思議な立場で火野弥嵩が関わっていくことで、歪みをただ浄化していく勧善懲悪的な物語とは違った揺れがあって、それが迷いを呼びつつ突破する楽しさも与えてくれると期待しよう。物語が歪みのベースにあるという設定と繰り出されるヒントから何が問題でどう解決すべきかを探るあたりがミステリ。そして伝奇的でありなおかつ青春。面白い。倉岡美行もとっても可愛い。ちなみにここは男子校だ。え?

 ミサイルなんかをぶち込んだリアクションでミサイルをぶち込み返されそれで自分が死んでしまうと思えば口では勇ましいことはいっても実際にはやらないものってのがコンセンサスではあるんだけれど、そういった相対化ができないくらいに自分のやることに酔っているか、あるいはそうすることしか見えていなかったりする視野狭窄が進んでいると、とりあえずミサイルをぶち込むという目的が果たされば、あとは周囲がどうなろうとそれでオッケーというか、そもそもが周囲がどうなるといった発想すら湧かない野かも知れ名だけに、起こるかも知れないミサイルによるグアム攻撃。受けてこっちはさすがに国会が承認しない可能性もあるけれど、先制攻撃による壊滅なんてことを議会をすっ飛ばしてやるかもしれないところに両陣営の現体制の怖さがある。

 どうしてこんな人たちが、って言うけど韓国の悪口が書けるなら、東京五輪が酷いことになっていたって平昌の五輪が韓国で人気がないと書いたり、あるいは渋谷でパートナー条例が発効されたことを批判した一方で中国でLGBTが弾圧されていると書いたりするメディアなんてものもあったりするから状況は同じか。言いたいことが言えさえすれば、それで一部の支持者が喜んでいると思えれば今は良いといった心境が、世界に蔓延しているといったところ。まあメディアが夜郎自大に陥ろうとそれは手前の経営が傾くだけなんで知ったことではないけれど、国家が夜郎自大の牽強付会で暴発すれば人が死んで世界が傾く。そのあたりを誰かちゃんと分からせてあげられれば良いんだけれど、そんな人がいないからこそのこの顛末。今いったい終末時計は何時何分を刺しているんだろうなあ。0時を回っていたりして。


【8月9日】 この時期が来ると思い出すのが、亡くなられた将棋棋士の村山聖九段のことであり、漫画家のかがみあきらさんのこと。村山九段については去年に「聖の青春」が映画化もされて生涯について幾度となく追悼されているけれど、かがみあきらさんについては20年かもう少し前くらいに追悼の本が出て以降、どこかで誰かによって偲ばれているといった感じがあまりなく、ただ時折ふわっと誰かの口に上ってそんな漫画家が1980年代前半にいたんだよってことが振り返られるくらい。もしも存命ならばアニメーションのメカニックは変わっていたとか。あるいはラブコメディのキャラクターにひとつの潮流を与えたとか。

 メカニックについて言うなら、劇場版「超時空要塞マクロス 愛、覚えてますか」の中に幾つか使われていたらしく、それが具体的にはどんなものかは分からないけれども出渕裕さんの後を追ってカトキハジメさん永野護さんのようなガンダム系のスタイリッシュなものとは違った、ダンバインのように有機的で生命感のあるメカってのを生み出してくれたような気がしてならない。あるいはキャラクターだったら、平面的でシンプルな中に愛らしさを持った顔立ちの美少女とか、ドジな少年といったキャラクターが溢れていったように思える。そんな予感をさせながら1984年の8月に死去。20日だったか25日だったかの発売日に出た最新号を読んでそこに大塚英志さんによる死去を伝える文章ががあって驚いた。

 それより1カ月くらい遡ったおそらくは7月に、かがみあきらさんからイラスト入りの暑中見舞いが届いていた。徳間書店から出た「鏡の国のリトル」っていう単行本の巻末にあったプレゼントか何かに応募して、当たりはしなかったけれども応募した人のおそらくは全員に1枚1枚、印刷された葉書にサインを入れて住所を書いて送り出していたように思う。届いた葉書のサインだけでなく宛名書きもまたあの独特の字だった記憶。手元にない訳じゃないけれども本の入ったダンボールの向こうに埋もれた押し入れの天袋に放り込んであって、すぐには取り出せないのだった。

 そんな葉書が届いてクリエイターからのものだったので喜んで、ますますの活躍を期待していた矢先の訃報から受けた衝撃は、後にも先にもクリエイターの死去に感じたものとしては最大級だったんじゃなかろーか。比べるとしたら手塚治虫さんか、その死去は昭和天皇のある程度は予感していた訃報を超えて、昭和の終わりって奴を強く感じさせてくれたから。かがみあきらさんにちては、富野由悠季さんが寄せた追悼の言葉に漂っていた節制に関する話とかも読みつつ、それだけの言葉を投げるくらいに期待していたんだといった思いに心が痛んだ。あれから33年。存命ならば10月に還暦というその存在しなかった生涯で、いったいどれだけのことを成し遂げたのだろう。そんな想像を感じさせてくれる特集なり追悼なりを、いつか改めて読んでみたい。

 「BLACK LAGOON」はロベルタがターミネーターの如くに燃えるイエローフラッグから現れてはダッチたちが乗る車にしがみついてガルシアくんを取り戻そうとするエピソード。そこでダッチの銃弾を除けようとして車の天井の上で体を跳ね上げたシーンでチラリとガーターベルトで止められたニーソックスと生足の奥にあるものが見えたけれどもとりあえず黒だったのはそういう規制って奴があったからだと思いたい。あのメイド服にあのガーターベルトとか手袋とかの色からするにアンダーウェアが黒ってのはないだろうから。本来は白だけれど媒体の都合上黒く影みたいしたと、そう思いたいけれども果たして。日本アカデミー賞監督の片渕須直さんに聞く訳にはいかないもおなあ、白なのか黒なのかを。

 今日も今日とてアーツ千代田3331で開かれているアニメイク・キッズサマージャンボリー2017を見物。子供だちにアニメーション作りを体験してもらうプログラムが旧から始まって、見ていたらまつはトトロを描いてそれからラスカルをトレスしてといった具合に絵を描くことから始めていた。でもこのあとで観察とかやった上で絵コンテを切ってストーリーを作りそしてキャラクターも設定しつつ動かしてアニメーションにしていくらしい。どんな作品が出来上がるんだろうなあ。気になったのは参加者のうちの7割くらいが女子だったこと。アニメーションって男子のものだってのがもはや変わっているのかな、今も女性クリエイターは大活躍しているけれどいずれ過半数を超えてスーパーアニメーターもスーパーキャラクターデザイナーもスーパー監督も女性になっていくのかな。気になった。

 上映会の方では16ミリフィルムによる「未来少年コナン」の上映を見物しようとしたら、リールから伸びたフィルムが絡まったか何かして映写機から抜き出し巻き取って再上映するような感じでちょっとトラブっていた。これでフィルムの状態が気になって明日以降に「未来少年コナン」の16ミリフィルムが外れてしまっては残念なので、是非に続いて欲しいと願おう。そしてたぶん相当に久々に見たかもしれない第1話はやっぱり面白いなあ。動きがすごいし流れがすごいしレイアウトもすごい。小高い場所に立つ宇宙船を利用した住まいから海へと降りていく風景が高さと同時に奥行きを感じさせ、そこを走って行っては海で鮫を相手に戦うコナンが並々ならぬ運動神経の持ち主だってすぐに感じさせる。

 そしてラナと出会い通じ合いつつさらわれてしまったその後に、コナンが取ると分かっている行動は初めて出会った少女への興味、おじいの死去に伴って否応なしに選び取らなくてはならなかった新しい道の結果だってことをちゃんと示してくれている。だから入って行けたし見続けられた。そういった第1話に必要なことが全部詰まってなおかつ面白いから「未来少年コナン」は今もなお傑作と呼ばれ続けるんだろう。宮崎駿監督がいて大塚康生さんが作画監督を務めていて、音響監督は斯波重治さんで高畑勲さんも演出で後に参加する。これってジブリじゃん、だから「未来少年コナン」はジブリ作品と呼ぶべきだってジブリ大好きな読売新聞の偉い人は日本アニメーションに向かって言うんだろうか。言ったりして。ジブリ至上主義者みたいだし。

 池袋・サンシャインシティで10日から始まる「ドラゴンボール天下一武道祭2017」の内覧会を見に行って、会場の前に掲げられた巨大なパネルの敵キャラ編に美人がいてこれって誰だったっけとしばし考える。ストレートなロングヘアを持って軍服を着たスレンダーな美人。出てたなあ、と振り返って「ドラゴンボール」の初期も初期、まだサイヤ人とか天下一武道会といったものすら見えない状況で、ブルマのドラゴンボール集めに絡んで登場したピラフ一味の中にいたマイって女性キャラクターだったと理解する。ようやく始まった新連載で、敵役の中に入れた渾身の女性キャラってことで当時の鳥山明さんの美人イメージが詰まっているのかもしれない。だから綺麗だという。

 でも連載が続くに連れてキャラクターが増える一方で初期のキャラクターは味方でなければ忘れられてしまう。幾つか再登場はしているみたいだけれど、当初のあの佇まいってのはもうなさそう。「ドラゴンボール」の女性のキャラでは雰囲気も強さも心根も好きな人造人間18号のように、いろいろとフィギュアが作られることもなさそうだしなあ、あまりに初期のキャラクター過ぎて。その意味では不幸だけれど、こうしてイベントの巨大なパネルの中にしっかりと描かれているということは、まだまだ存在感は保っているってことなんだろう。改めてどこかぜフィギュア化を。原型師さんたちが戦う造形天下一武道会の中で採用されたりしないだろうか。願ってる。

 東洋経済オンラインはPV至上主義だといった批判を誌面に載せた週刊文春に対して東洋経済新報社がそんあことはないとネット上で反論しているけれど、そこに並べられている高PV記事の一覧を見てるにつけ、こうした記事を書くなり書かせるなりして会社の中での評価が上がり下がりするなら、週刊東洋経済であり会社四季報といった出版物の本質にあっただろう脚を使って企業を周って情報を集め、頭も使ってまとめあげる地味だけれど意味のある企業と経済の記事を書く仕事なんかやってられっかって思ったりしちゃったりしてるんだろうか。そういうのってネットでPVは稼げないけれど、読む人にとってはとても重要だから。

 高PVのネット記事で稼いだ収益で、地味だけれど意味のある企業周りをやらせ記事を書かせているんだと言われる可能性もあるけれど、でもそうした意味のある地味な仕事よりも高PVの記事の方を尊ぶ風潮があったら、やっぱり本質であるべき企業記事や経済記事は廃れていくような気がして鳴らない。そのあたり、どういう判断があるんだろうか。ちょっと知りたかった。それにしても、そうした週刊文春と東洋経済オンラインとの一件をくるりとまとめて取材とかしないで記事にして、サイトのトップにおいてのける某メジャーなメディアのまとめサイトっぷりがどうにも眩しくて目が開けられないというか、目も当てられないというか。高PVに阿る態度を批判しているっていう記事とそれに絡んだ話なのに、PV稼ぎのまとめ記事を直接当てもしないで書いて載せてたりする訳で。それがまた評価されるような風潮があれば、足を使って地味な記事を書く木鐸っぷりは失われていくだけだぞ、ってすでに失われて久しいか。やれやれ。


【8月8日】 問題意識が下らなすぎて読んで目眩がした記事。スタジオジブリで「借りぐらしのアリエッティ」や「思い出のマーニー」を作った米林宏昌監督が、やっぱりスタジオジブリでプロデューサーを務めていた西村義明さんをプロデューサーにしてスタジオポノックで作った映画「メアリと魔女の花」について、読売新聞のとても偉い人が「どうしてこれがジブリ映画ではないのか。ジブリの名前で出せなかったんですか?」と聞いている。西村プロデューサーは答えて「出せなかったでしょうね」。それも当然の話で、スタジオジブリ作品でもないのにジブリの名前で出せるはずはない。問題はそうした物言いではなく、この西村プロデューサーへのインタビュー記事全般に、聞き手のスタジオジブリという存在、あるいはスタジオジブリ作品といったものへの偏狭に近い思い込みがあって、読んでいて辟易とさせられる。

 だいたいがジブリっていってもどのジブリなのかを極めて狭く観ている感じ。だって高畑勲監督の「かぐや姫の物語」とか「となりの山田くん」とか「平成狸合戦ぽんぽこ」とか「おもひでぽろぽろ」だってスタジオジブリ作品で、そして「メアリと魔女の花」の雰囲気とはまるで違っているにも関わらず、読売の人は「メアリと魔女の花」はジブリ作品として出すべきだったとかいったニュアンスのことを訴え続けている。つまりはこのこの記者の頭の中には宮崎駿監督が繰り出す世界観なり、その影響下にあるクリエイターが作り出す雰囲気なりこそがスタジオジブリだっていった観念しかない。これってとても狭い了見で、スタジオジブリの看板を背負って作ってきた高畑勲監督にも失礼な話。でも聞いている側にそういいった意識も配慮も感じられない。

 新しいスタジオを立ちあげ、てそこでカラーを出そうとしている米林宏昌監督にも失礼な話。宣伝のためであり客寄せのためにジブリの看板、トトロのマークを使ったらどうだろう、なんて話は僕たちだってよくしていた。「虹色ほたる〜永遠の夏休み〜や「星を追う子ども」や「マイマイ新子と千年の魔法」にトトロマークが入っていれば興行収入は10倍になったかもしれいないと思っていた。けれど、「思い出のマーニー」の興行収入あたりからジブリのブランドだからといって客が入るとは限らないと分かったし、細田守監督が独自に積み上げてきた作風でも客が入ることが分かった。片渕須直監督の「この世界の片隅に」にも新海誠監督の「君の名は。」にも山田尚子監督の「映画 聲の形」にも伊藤智彦監督の「ソードアート・オンライン−オーディナル・スケール−』にもジブリマークは入ってなかった。けれども大ヒットした。面白かったから。素晴らしかったから。そういう時代がやっと来た。

 だから米林宏昌監督は、あるいはスタジオポノックはそのカラーを前面に押し出していけば良いだけのこと。そういう前向きさに竿を差すような「ジブリの名前で出せなかったんですか?」なんて設問はナンセンス過ぎる。もちろん宮さんパクさんが作り上げてきた雰囲気を「ジブリ風」と呼んで、それに倣ったアニメーションが出てくることは悪い話ではない。そういったものをジブリテイストと言って世間にそういうものかといった分かりやすさを提示する手ももちろんある。でもそこまで。違うスタジオでこれからのクリエイターが作っていく作品を過去のレッテルに縛り付けてはいけない。そのことを声を大にして言いたい。

 そして記者には、自分の筆でもってそうした新しい作品、新しい才能、新しい傾向を見つけて拾い上げ、媒体を通じて世に広めて次なるジブリに育てていくことをやって欲しい。世界最大の部数だと誇っている大新聞で、「ジブリ映画を取材してきた記者が西村義明プロデューサーに疑問をぶつけました」って堂々言えるくらいに影響力も持っている記者がやるべきなのは、そういった新たな価値付けであるにも関わらず、自分が好きなジブリがずっと続いて欲しいみたいな態度を見せて、それっぽさを未だ漂わせているスタジオポノック作品を責め立てるのはやっぱり違う。あまつさえそれをジブリ映画と名乗れば良いじゃんっていうのは了見が違いすぎる。自分の言葉で価値を作れ。そう言ってやりたいけれど、お殿様な会社の偉い記者様に泡沫のライターの声なんて届くはずもなし。やれやれだぜ。

 「異世界食堂」はアレッタがまあ異世界では仕事を見つけられないでいるものの、どうにか食べてはいける状況にあることが判明。それでもダンシャクというらしいジャガイモを生で囓っている感じで、あんまり良い思いがないところをねこやの店主がふかし芋にして出して上げることで、食材へのトラウマを解消して上げた感じ。生をスライスして食べても食べられないことはないジャガイモだけれどやぱりふかすか煮るかした方が美味しいものなあ。でもってテーブルでは登場人物が一堂に会するようにしてサンドイッチにはメンチカツかエビフライかトンカツか照り焼きチキンかクリームかといった議論が始まったものの、そこはお互いに試すということでまずは落着。どれも美味いのにどれかにこだわるのはやっぱり自己主張があっての異世界での暮らしだからかなあ。カツ丼とオムライスはさすがにサンドイッチには出来ないから参戦はなしか。

 そしてコンビニでメンチカツサンドを買って食べてアーツ千代田3331に行ってアニメイク・キッズサマージャンボリー2017ってイベントを見物。日本動画協会が初めて子どもを対象にしあアニメーションのワークショップめいたことを開くってことで、行くと子どもではなく大人の先生とかが集まって講義を受けていた。これはアニメーションを使った教育の方法を伝授するといったもの。伝えやすさという特長を持ったアニメーションを使うことで興味を引けて教える効果も増すといったことらしい。なるほどなあ。子ども向けのワークショップではただ絵を描いて動かすだけじゃなく、観察をして自ら演技もして動くということはどういうことか、動かすということは何をすることなのかを理解させるという。昔はアニメーション作りの現場でも行われいたことだけれど、今は動いた絵を見て動かしたいという人が業界の大半。改めて基礎から教え込むことは子どもたちの将来にとっても教える側の再認識にも役に経ちそう。

 そんなアニメイク・キッズサマージャンボリー2017には「くるみ割り人形」を作った人形アニメーターの真賀里文子さんが来ていて子どもたちにつきっきりで人形アニメーションを教えていた。なんて贅沢な。大人だって教わりたいけど小学生が対象では断念するしかないのだった。アニメーションの小さな学校に入って学ぶしかないのかなあ。そして別室の上映会では何と16ミリフィルムでの「未来少年コナン」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「ロミオの青い空」の上映が。初日は「母をたずねて三千里」がかかったけれど、クレジットに場面設計で宮崎駿さんの名前があり、キャラクターデザインと作画監督で小田部洋一さんの名前があり音響監督で浦上靖夫さんの名前があり美術で椋尾篁さんの名前があって監督で高畑勲さんの名前という、ゴージャスすぎるメンバーに良い時代だったんだなあと思い知らされる。これこそジブリ作品じゃないか、なんて言いたくなるくらい。つまりはそうした原点があって通過点のジブリなんだってこと。だからずっとジブリじゃなくても良いのに。歴史を知ろうよジャーナリストは。


【8月7日】 「都民ファーストの会」ならまだ意味は通じた。東京都民が選ぶ都民のために何かをしようと考えている東京都議会議員たちの集まりが、東京都民をとりあえず第一に考えているのは不思議ではなく、そうした意識を党名に持って来るのはある意味で当然だとも言える。世界に冠たる日本の首都が都民のことだけ考えていて良いのか、もうちょっと大所高所から日本全体の顔として立つことを考えてくれないとって意見もあるだろうけれど、それは国がやることであって東京都議会議員は都民の幸福を目的に活動していけばいい。だから都民ファースト。そこにズレはない。

 でもこれが国政へと出た時に「国民ファーストの会」ではなくて「日本ファーストの会」を名乗ろうとしているのはどうだろう。それだと国民とか移民とか旅行者とかを含めた日本という国土に暮らし活動する人間たちよりも先に日本という国体が来て、そちらをまずは尊び讃えるべきであってその下では国民だとか移民だとかいった人間たちは抑圧されても構わないといったニュアンスがどうにも透けて見えてならない。そんなつもりはないと言ったとこころで、ファーストに位置づけるのは日本という確かなようで曖昧な概念。その中心に据えられるのは党首であったり取り巻きの一党であったりしそう。

 まずは党があって日本があって国民がある。そんな感じが漂ってしまうと突っ込まれるのは分かりきっていながら、あえてこうした名称を据えてしまうところにどこか驕慢さがあるようでもあり、言葉の重みに対する軽過ぎる認識ってのがある。「日本を取り戻す」とか言ってたどこかの総理大臣といっしょで、軽口を言っては非難されてもそれがどうして非難されるのかが分からなず、失言暴言を繰り返しながらもヘラヘラと逃げて責任をとらないような将来が浮かんでしまう。それともちゃんと国民すなわち人間をこそ第一と考えその幸福のために活動してくれるのか、やっぱり党の存続と拡大こそが大事と考え国民を蔑ろにしていくのか。そこが目下の関心どころ。どうなるかなあ。さすがにここは叩かれ炎上するかなあ。

 僕くらいの世代のアニメファンにとって吉川晃司さんというアイドルでありシンガーでありミュージシャンであり俳優はなぜか気になって仕方が無い存在だろう。理由は明快で東京湾をバタフライで泳いで岸壁へと上陸し、そこからスター街道をばく進していったから。あの強烈な展開にこれは何だと驚いた人も少なくないだろう。もちろん脳の大半は「責任とってね」と諸星あたるに向かって言うラムちゃんをラストに擁した押井守監督による「うる星やつら2 ビューティフルドリーマー」の衝撃的な展開に締められてはいただろうけれど、一部を確実に民川裕司であるところの吉川晃司さんに乗っ取られ、気にせざるを得なくさせられた。

 そして30年ちょっとが経った今、衰えずテレビで活躍する吉川晃司さんをついつい見てしまうんだけれどそこにさらにアニメファンの気持ちをギュッとつかむような要素が加わった。片渕須直監督の「この世界の片隅に」で冒頭にすずさんが海苔を届けに行った中島本町の賑わいの、その中に吉川晃司さんの父親が生まれ育ち祖父母が構えた割烹旅館吉川があった。そして1945年8月6日の広島への原爆投下で吹き飛ばされて跡形もなくなった。幸いにして吉川晃司さんのお父さんや祖父母は旅館を手放して疎開していて無事でいて、だから吉川晃司さんも生まれたけれどもただお父さんは8月15日の終戦後に広島市内へと入って被爆した。吉川晃司さんはだから被爆二世ということになる。

 「この世界の片隅に」に描かれたあの世界、あの空間のどこかに吉川晃司さんのお父さんやお祖父さんやお祖母さんがいたかもしれないといった想像力が、吉川晃司さんを「この世界の片隅に」を見た人の気持ちにグッと近づける。そんな吉川晃司さんが今まであまり語ってこなかった故郷、そして中島町の割烹旅館吉川があった場所を尋ねて歩くNNN度キュネンタリー「4400人が暮らした町〜吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園〜」は「この世界の片隅に」でアニメーションとして蘇ったあの光景を、証言と発掘によって想像することができる興味深い番組になっていた。

 そこに写真で映し出された割烹旅館吉川は、広島県産業奨励館とは川を挟んで真向かいに立っていて3階建ての威容を誇っていた。場所的には「この世界の片隅に」のラストで幼い娘を連れた母親が川を挟んで産業奨励館を眺めている真後ろあたり。もしかしたら何度も通ったその場所で、後に吉川晃司さんのお父さんが遊んでいたかもしれない。そして割烹旅館吉川に留まらずあの一体には4400人もの人たちが暮らしていて、広島市でも1番の繁華街としていつも賑わっていた。きっとあの朝も戦中とは言えそれなりな活気もあったんだんだろう。そこに落ちた1発の原子爆弾がすべてを消した。今その場所は平和記念公園となって、大勢の人が慰霊に訪れ観光にやってきて心を落ち着ける。

 そんな公園の下に、原子爆弾が炸裂した痕跡、そして大勢が暮らしていた息づかいが埋まっている。掘ると平坦にするために埋められた瓦礫があり、その下に何かが燃えたような黒い筋が走っている。刻まれたその瞬間。戦争の記憶が遠く彼方に過ぎ去って、恐怖を覚えることなく勇ましい言葉を口にする人たちが大勢でて来ているけれど、その地層を見て熱線で歪んだ牛乳瓶を見ることで、今一度戦争というものがもたらした戦慄を感じとって繰り返すまいと思うことになれば良いんだけれど。それすらもテレビの向こうの出来事だと思ってしまうのかなあ。だから吉川晃司さんだ、今も存在感を示すシンガーであり俳優が、自分に関わりの深いものとして広島の原爆を見つめ、語ることによってファンもまた自分のことのように原爆と戦争の怖さを認識するこができるのだ。その意味ではとても意義のあったドキュメンタリー。バク転もシンバルキックも見せない吉川晃司さんが言動によって大勢の心を掴んだ瞬間だったかもしれない。地上波で再放送しないかなあ。

 Maker Faire Tokyo 2017とか真夏のデザインフェスタとかを見物に行っていたため寄れなかった国立新美術館での「イントゥ・アニメーション7」を会員による近作を上映するプログラムAだけ見物。山村浩二さんによる「サティの『パラード』」が入っていて、前にあいちトリエンナーレで見てはいたけれども初見だったため要点をつかむ間もなく過ぎてしまってあまり印象に残っていなかた。改めて見て1枚の画面の中で細かい絵がそこかしこにあってそれらがそれぞれに動いていて、そんな動きがサティの音楽とも重なってタペストリーのような不思議な画面を作り上げているなあと感じた。

 絵の方も繰り返しによる手抜きめいたところはなくって、中国の奇術師からいろいろなものが突き出てくる場面とかは3回の展開が2回あって全部が違った絵になっていたように見えた。それだけちゃんと描いてつないだアニメーション。アメリカの少女とかはいわゆるアニメ絵とは対極にあるのに仕草も表情も愛らしくて可愛らしい。そんな動きがそこかしこで行われ、そしてつながれていった中に繰り出されるモノローグがあり、鳴り響く音楽があって総体として浮かび上がる「サティの『パラード』」というバレエの舞台であり、エリック・サティという音楽家の感性や生涯。アニメーションで見るバレエともサティの音楽につけられたミュージックビデオとも言えそうで、何度でも見たくなって来た。今ユーロスペースの方で山村浩二さんの特集上映が開かれていて、そこに入っているみたいなんで時間を作って見に行こう。

 「イントゥ・アニメーション7」では日本アニメーション協会の会員が15秒のアニメーションを作って競い合うプログラムみたいなのもあって、それを見た観客が投票して1番を決めるってイベントも開かれていて最終日のエンディングで発表と表彰式が行われたけれど、プログラムディレクターの池田爆発郎さんから池田爆発郎さん手製のトロフィーを受け取ったのが池田爆発郎さんだったという笑えば良いのか喜べば良いのか分からないシチュエーションになって面白かった。コンクリートの土台に「15」の文字を立体化させて載せた重そうなトロフィーを、嫌がらせのように作り持ってきたら自分が持って帰る羽目になる.身を挺してのギャグとも言えそうな爆発的な展開は、その名前に相応しいとも言えるかも。「PiNMeN」の頃から気になっていたクリエイターが今も活躍していることをとりあえず喜ぼう。


【8月6日】 ウサイン・ボルトがロンドンの世界陸上で男子100メートル決勝を走って3位に終わったニュースを流しつつ、広島で行われている原爆投下に関する平和式典が中継されていたNHKで、爆心地となった中島本町の在りし日の姿が映像として描かれた「この世界の片隅に」が流されて、公開から9カ月近くが経ってなおこうして口に上る映画になっていたんだなあといった感慨を抱く。あれで1カ月くらいで公開が終わって10億円に届くかどうかといった興行収入に留まっていたら、果たしてこうまで語られただろうか。やっぱり「火垂るの墓」や「はだしのゲン」が先に来たんだろうか。

 なんてことも考えたけれど、あの完成度を保った映画が1カ月やそこらで終わるはずもなければ、賞のひとつも受賞しないで過ぎることもない。そんな当然を必然に変えたからこそ今なお公開が続き、片渕須直監督は広島で映画について語る機会を得ている。ちゃんと作ればちゃんと見られてちゃんと語られる。そんな当たり前をこの映画から改めて思い知らされた。来年の8月6日も10年後の8月6日も、「この世界の片隅に」は語られそして見返される映画になっていることだろう。そう信じている。もちろん「火垂るの墓」も「はだしのゲン」も「桜の国 夕凪の街」も。

 今日も今日とて東京ビッグサイトへと出かけていっては、Maker Faire Tokyo 2017をまずは見物、といっても見渡してかはんちゃんを担いだ野尻抱介さんを探したくらいだけれど、まだ来ていないのかどこにも見つからなかった。ちょっと残念。非接触のセンシングと2台のカメラでもって指の動きをリアルタイムに把握し、それをロボットの指に伝える装置を出していたところがあって、動きがすぐに反映されるセンシングの技術、そしてメカニカルな技術がすごかった。ペットボトルくらいなら持てるそう。ワイヤーで引っ張ったり曲げを察知したりする方式もあるけれど、装着するのに手間暇もかかる。これならパッと使えそう。問題はどこに使うか、そして使えるかか。考えるのはこれからだ。

 同じ東京ビッグサイトでの真夏のデザインフェスタでは、東京工芸大の卒業制作で「EMIGRE」ってアニメーション作品を作ったwabokuさんが出展しているってんでブースを訪ねてDVDとイラスト集を購入する。独特の絵柄で世界観もあってこれからが期待されるクリエイターなんだけれど、個人の資質を生かしつつ商業の枠組みで作っていけるかが今後のテーマになるのかな。久野瑤子さんだって「Airy Me」が評価されてもそのまんまは作れず、岩井俊二監督の映画を手伝ったり漫画を書いたりしている訳で。かといって個人制作ではお金も時間も大変だし。そんなあたりを乗り越えて、商業性を持ちながらもインディペンデントな雰囲気を持った作品を作り上げてくれると信じて待とう。人材、募集していたみたいだし。

 気になったブースでは、アイコンクッキーラボってのが面白そうだった。いわゆる正方形のクッキーの表面に文字とかイラストとか写真なんかもプリントしますよといったサービス。割とサイズ感があって色味もくっきり出ているんで、そのまま以前だったら四角かったTwitterのアイコンに使えたかもしれない。ああ、だからアイコンクッキーなのか。今だとイベントのお土産用にとチョコマシュマロにキャラ絵を載せて売られていたりするけれど、あれってしわしわなマシュマロの上だからイラストがよく見えなかったりすることもある。クッキーなら平面で大きいからキャラ絵だってばっちり。ノベルティに使いたいって企業も出てくるかもしれないなあ。リアルな分、食べるにためらう? 自分の血肉にする? どっちもありか。

 やれやれだぜ。TBSの番組「ひるおび」の内容が酷いからといった抗議が7月あたりに繰り広げられていたそうだけれど、そんな「ひるおび」のスポンサーから再春館製薬が降りたって話がパッと出回って、どうやら本当らしいと分かって「ひるおび」に対する抗議なんかが成果を上げたぜヤッホーといった快哉を上げている人がいるらしい。でもってそうした抗議が実ったって話をとあるメディアが取り上げているけれど、実際に再春館製薬が「ひるおび」のスポンサーを降りたのは3月のことで、昨今の抗議とはまるで関係ないことが明らかになっている。にも関わらず、そうした真っ向の否定をしないで抗議が大成功して再春館製薬は「ひるおび」のスポンサーを降りたんだから、みんな気に入らない内容の番組からスポンサーを降りるよう働きかけようぜってなニュアンスを遺し漂わせた記事になっている。

 そうでないにもかかわらず、そうだと印象づけ誘導する手法の厄介さはどうしようもなく、それをそう報じることによって再春館製薬は番組内容に対する抗議を受け入れてスポンサーを降りる企業なんだといった印象を、周囲に与えてしまうことも問題。こうした印象を再春館製薬としては持たれて構わないのか。それは違うだろう。色がつくことも嫌だしそもそもがそうではない話を取り沙汰されるのも迷惑千万。普通にタイミングを見計らってドモホルンリンクルのお試し版を、違う層にも売りたかったから半年で提供先を切り換えた。それが事実なのだとしたら他に類推するのも失礼で、あるいは業務内容に対する侮辱にもあたる。名誉毀損なり業務妨害で訴えたって構わないかもしれない。

 そんな危険性をはらんだストーリーを平気で繰り出してしまえるのは、このメディアの書き手がTBSの反日偏向を批判することこそが正義だという、唯一絶対の基準ですべてを収めようとしているから。だから降りた再春館製薬は降りた理由は反日偏向への抗議でなくてはならず、3月に降りていたとしてもそれは7月の抗議を受けてのものだといった時間的に坂の張らなくちゃいけないタイムマシン的理由がつけられる。

 もうひとつ、テレビ番組はスポンサーへの抗議によって屈服させられるという、ある意味で言論の自由への多大なる挑戦であり半ばテロリズムでもある行為をメディアの側が推奨しているようにもとれる。これも愛国無罪的に反日偏向への抗議は正義なんだと言った認識をのみ中央に据えて考えているから問題を問題として認識できずに書いてしまうんだろう。それとも問題とすら思ってないか。思ってないかもなあ。まったくやれやれだぜ。

 阿佐ヶ谷へと回ってサーバルちゃんの張りぼてを見てやっぱり良い出来だと確認してから阿佐ヶ谷ロフトで開かれた「王立宇宙軍 オネアミスの翼」の公開30周年を記念した山賀博之さん、貞本義行さんが登壇するトークイベントを聞く。まだ20数歳の山賀さんが脚本を拠り所にコンテとか切らず作画に話しをして作っていく在り方が、小黒裕一郎さんにはやっぱり気になるところがあったのか、しつこく尋ねていたけれども山賀さんは実写映画じゃ脚本があって現場で撮影監督がフレームを決めて、あとは役者におまかせといった感じで撮っていく訳だからアニメーションもそれと一緒ってことを訴え続けてこかすれ違っていた。

 なるほどそういう手法もあるけれど、それだと現場は大変そう。でも山賀さんはアニメーターがどういう構図でどう動かしたいか、どう演技をつけるかを考えが方が良いんだからといった主張で、それにも一理はあるけれど演技プランを思い浮かべてそれを絵に表せるアニメーターってどれだけいるんだろう、って疑問も同時に浮かぶ。昔ならいたけれど今はそうはいないような気がするなあ。レイアウトもばっちりのキャラまでくっきり描かれたコンテをもとに第一原画ざあたりをつけて第二原画が清書めいた原画を描いて動画が中を割って。それは効率が良いのと同時にそうでなければ描けない、あるいはそう描くことしか学んできていない若手がコンテなしのお任せ監督に対応できるのか。出来たら素晴らしいとは分かっていてもそうはいかないアニメの現場。山賀さんが寡作な訳も何と無く分かった。

 とはいえ、山賀さんだってコンテを切る時は切るらしくそれは作品によるとも。そして「王立宇宙軍 オネアミスの翼」でも作画監督によるコンテやレイアウトめいたものはったみたいで、半ば韜晦気味に狷介な雰囲気を漂わせる山賀さんならではの言説によて煙に巻かれたような感じだったのかもしれない。あれから30年、「蒼きウル」の話も動いているようだけれどとりあえずは目先に「クイーンエメラルダス」が待っているのかな。そんな仕事に期待をしつつGAINAXがちゃんと立ち直っていってくてることを今は願おう。ってどのGAINAXだろう、東京か京都か鳥取か福島か。どこが何を持っていて何を作っているのか。ちょっと見えないんだよなあ。イベントではPLUMが出しているプラモデルの「オネアミス王国空軍機 第3スチラドゥ(単座)」が山賀さん貞本さんのサイン入りで売られていたんで購入。作る時は来るか。外に出るとサーバルちゃんを見守るかばんちゃんが出現していた。日々進化。最終日にはジャパリバスとか登場したりして。が


【8月5日】 放送時に録画もして、そして予約限定で発売されたブルーレイボックスも持っていたりする「ゼーガペイン」がけれどサッとは見つつもほとんど内容をおぼえていなかったりする。でもって舞浜サーバーを県下に持つチバテレビでもって再放送がスタートして、現実がどうやら現実じゃなかったりすることを伺わせる第1話を見て、そのSF濃度の濃さにこれがどうして日本SF大賞だとか、星雲賞を受賞しなかったんだって今、改めて思ったけれども「電脳コイル」ほど世間に話題を振りまかなかったことがやっぱり印象として薄かったのかもしれない。今、改めて再放送されてこれで評価が高まって、リブートとかってなったらあるいは。花澤香菜さんも当時の初々し過ぎる演技とはまた違った声を聞かせてくれるかもしれないし。

 バンダイの超合金魂から映画「マジンガーZ対暗黒大将軍」に登場したボロボロになったマジンガーZが出るという話を見て、大昔に西沢信孝監督にインタビューした話を思い出す。当時としては人気絶頂のアニメーション。そして誰からも支持を集めているヒーローメカをボロボロにするなんて展開に、テレビ局とかスポンサーから反対されなかったのかって話に西沢監督は、そんな反対はなかったし来ていても自分の所には届かなかったし、もし来たって聞かなかったって答えてた。なぜならそれは必要な展開であって主役メカを交代させ、グレートマジンガーを圧倒的に見せるにはそうせざるを得なかった。

 物語においての必然を歪めるような演出はしない。商売に媚びないクリエイターの矜持って奴が伺えたし、それを認める空気がちゃんとあったんだろう。これが今だと誰かが忖度して敬遠した果てに穏便に治めようとする。イニシアティブを誰がとらずともそういう風に収まっていってしまう空気の怖さって奴は、政治でも経済でも文化でもいっしょ。誰かがそりゃ違うだろうって止めれば良いんだけれど、止めるだけの意見を放てる人がいなくなってしまったんだよなあ、もう富野由悠季監督か宮崎駿監督くらいしか残っていないかも。「マジンガーZ対暗黒大将軍」ではあとは兜甲児と弓さやかにキスをさせなかった話が。真剣な戦いに臨むのにロマンスは不要。それもまた矜持って奴だったなあ。強い芯を持ってドラマを紡げるアニメーションの演出家は今もいるのかなあ、いても潰されないで貫き通せているのかなあ。

 夏にもデザインフェスタが出来たんで見物に行く。去年一昨年も開かれてはいたけれど、どこかおまけっぽかったのが本格的に立ち上がったみたいで会場も東京ビッグサイトの東館(ひがし・やかた)のホール3つを使ってた。まあギチギチではなかったけれども結構な出店者数で、見て回って買うにはちょうど良い感じかもしれない。そんな中ではかものはし造形ってところが出していたハシビロコウのリアルなマスクがなかなか。人間がかぶれるサイズだけれども造形はリアルで、伸びたくちばしと表情を持たない眼が本物そっくり感を醸し出していた。これを被って上野動物園のハシビロコウを見続けたら相手も根負けしてくれるかな。

 あとはデザイン事務所を運営する中で、自分でオリジナルのプラモデルを作ってしまった人がいて驚いた。金型はどうしているのか訪ねたら、静岡が地元でプラモデルメーカーで金型を作っていた人が独立して作ったところに頼んでいるとか。それでも小さいもので数十万円はする金型を使っても大丈夫くらいには売れているのかな。それともデザインの仕事とのバーターなのかな。最近はメッキ版も出てきたりしてなかなかにゴージャス。ワンフェスにも出ていたそうだけれど見かけなかったのはやっぱりキャラクターもの全盛の中でオリジナルはたとえ模型でも目立たないってことなのか。そもそもが完成品のフィギュアばかりが人気で組み立てキットが売れない時代でもあるからなあ。ワンダーショウケースとか大変そう。どうするんだろうあさのまさひこさん。

 千葉工業大学が企業なんかと組んで出している、金属板にレーザー加工で切れ目をいれて、それを持ち上げ折り曲げていくと動物なんかができるというスタイリッシュでクールなアイテムが今回も出ていてなかなかの出来だった。去年も見て思ったけれどもロボットとかを作ったら、何かの企業なり作品のノベルティとして機能するんじゃなかろーか。どこだっけ大分にあるダンボールで動物の立体物を作っていた会社はその後にディズニーキャラクターなんかを作るようになったから。ダンボールを差し込んで作るからスキマも多い造形なのに、ミッキーマウスだと分かる造形力と技術力がキャラクターに厳しいディズニーを納得させた。それと同じようなことをこの金属パズルでも出来そうな気がするんだけれど、どうだろう?

 「紙兎ロペ」とか「野良スコ」といった作品に関わっていた河村康平さんが2013年ごろからアニメーションなどで展開してきた「ノンティ」のグッズが並んでいたり、ヤンキーに見えない和服にすら見えるクールなジャージを扱っているところが春のデザインフェスタに続いて登場していたりと充実の内容。個人的には「メアリと魔女の花」でメアリが使っていたようなショルダータイプのがま口を扱っていたところが引かれた。革製で頑丈そうで口がねもパッチリと閉まる。映画を上映しているところとかでグッズとして売られているかばんは口がねがすぐに壊れそうだし頑丈さに足りず底が抜けそうなんだよなあ。スタジオポノックはむしろこっちと組んで上製品を出せば良いのに。それだけの認知度が映画にはまだない? それはいかんともしがたいなあ。どれくらい行くんだろう興行収入。

 そして同じ東京ビッグサイトで始まった「Meker Faire Tokyo 2017」もぐるっと一回り。去年は来日がキャンセルになったメイカー・ムーブメントの生みの親、デイル・ダハティーさんが講演を行ったんでまず聞いて、中国なんかと日本とのメイカーとしての気構えの差異なんかに興味を持つ。中国ではアントレプレナーだとかイノベーターといったものがメイカーだって考え方があるみたいだけれど、デイル・ダハティーさんはそういった成功だとか勝利だとかお金儲けだとかいったものが必ずしもメイカーの目的ではないって話してた。楽しいこと。誰かを喜ばせること。そうした思いがあってそして何かを自分で作りたいという思いがある。だから作る。それが役立たずでも儲からなくてもとにかく作る。そこにメイカーとしての神髄がある。そんな話。

 もちろん儲かるに越したことはないし成功があって初めて自分の立脚点を得られる中国って国と、何と話に食べて行けてそこにユニークな発明発見を趣味で加えられる日本との立ち位置の差って奴もあるかもしれないけれど、バカバカしいガジェットを目一杯の技術力で作りだしてしまう無謀さが、やっぱり発明発見のベースにあった方が世界はいがいな法へと転がっていくもの、なんじゃないのかなあ、わかりきった成功は延長線上もわかりきっているってことだから。そんな意味では「ようこそジャパリパークへ」のサウンドに乗ってジャパリバスを動かしガチョウを踏んづけると横に吊り下がったガチョウの首が絞まってぎゃあとなくゲーム機が面白かった。役には立たないけれども面白い。そして面白いってことが重要なんだよ。ダッチ案外良いこと言うなあ。

 もうポン酢過ぎ。とある新聞が前に韓国で大統領をでまかせで誹謗中傷して逮捕され、それはさすがに横暴だからと無罪にはされたけれどでまかせであることは満天下に知られてしまった元特派員が、韓国に行って不法侵入と器物損壊を行った人物を、それには理由があるから逮捕は行き過ぎだってな感じの論を展開している。「容疑は天安市の国立墓地にある石碑の上に新たな石板を張り付けたことによる公用物損壊と、無断で墓地に立ち入った不法侵入だ。奥氏は行為については自ら行ったと認めた上で、処罰に当たらないと主張している」。当人がそうは主張しようと法律の乗っ取れば罪は罪。そんな当たり前のことも認めないで“愛国無罪”を主張するのは、そう主張する人たちがそんなことをよくやっていると非難する国といっしょじゃないか。相手は悪くて自分たちはオッケーってまた身勝手な。でもそこがだから“愛国無罪”ってことなんだろう。端から見れば一緒だってばれていても自分とその仲間達さえ納得させられば大丈夫ってことなんだろうなあ。やれやれ。


【8月4日】 今時のキャラクター事情を確かめようと阿佐ヶ谷へと出向いて七夕まつりの飾りなんかをざっと見物。毎年凝ったアニメーション関係の張りぼてを出してくるところが今回は「けものフレンズ」からサーバルちゃんとセルリアンを作って飾っていて、これがもう完璧なまでのサーバルちゃんで見上げて巧さに感嘆する。後をセルリアンが追いかけている感じで、その上を「JAPARIPARK」っていう文字が掠れて描かれたゲートがかかっていて、アニメの1場面を抜き出してきたかのような雰囲気を出していた。これがこのお祭り限りっていうのはもったいない話だけれど、でもワンダーフェスティバルといっしょで1夏限りの見世物だから認められているんだろうなあ。トトロめいたもとかカリブの海賊っぽいものとかいたけれど、これとか突きつめるとちょっと大変なことになりそうだし。

 作品としてはミニオンが幾つかあって海外発のアニメーションとして今の旬であり中心だってことを感じさせる。連続しているのもいいのかな。これがディズニーとかピクサーだと毎年とか公開はしてくれないから。あとはジャイアントパンダと赤ちゃんパンダのセットが3つくらいいた。上野動物園で赤ちゃんが生まれたことを祝ってか。でもまだ1カ月とかそんなものでここまで作り上げるとは。そういうライブ感もまたお祭りって奴なんだろう。阿佐ヶ谷ってことでアニメーションスタジオもいくつかあって、そんな1つのサテライトで働く河森正治さんが生み出したバルキリーも1つ登場。ガウォーク体型ってところが通だねえ。あとはワンフェスなんかでも見かけるロボットのメカトロウィーブがあってなかなかの渋さ。阿佐ヶ谷なら分かる人もいるだろうけれど、七夕まつりに集まる人の大半は何だろって思うだろうなあ。サーバルちゃんは……知られてきてはいるかな。来年は他のフレンズが増えると良いな。

 Kamatymoonこと鎌田光司さんがデザインを手掛けた神風動画のアニメーション「COCOLORS」がカナダで開催されたファンタジア国際映画祭で最優秀アニメーション賞の短編部門で最優秀賞を受賞したとか。かつて今敏監督の最初の映画監督作品「PERFECTBLUE」を上映した縁から、最優秀賞を「今敏賞」と名付けているらしいその賞を日本からの作品が受賞とはまた奇縁というか良縁というか。でもどこの映画祭でも出せばその技術力と作品性で普通に受賞できてしまうから、これに続く栄誉ってやつもまだまだありそう。そうやって世界を席巻した後、実績をひっさげてまた生演奏生アフレコ版の上演をやってくれたら嬉しいなあ。あれは1つの奇跡だったから。

 うさぎやすぽんさんの「死にたがりビバップ −Take The Curry Time−」(スニーカー文庫)が金曜日にうってつけの内容だった。つまりはカレーを食べれば全てが平和に丸く収まるっていった感じの。読めば自殺しようだなんて気も収まるし、列車を爆破しようとする気持ちも、麻薬の運搬を阻止しようとする活動もだいたい解決。そして男女の仲も深まるって具合。ほぼほぼそんな話。本当だって。内容はといえば、大学時代の同級生が久々に再会した豪華列車の中で起こる騒動あれこれ。拳銃を持った美少女にダイナマイトを巻いた美女、そして個室に暮らす幽霊が現れ撃ち合い再会を喜びカレーを食べ回想もする。

 そこで繰り出されるのがカレーの話。本格洋風のボンディにカツカレーがビッグなキッチン南海にスパイスを振る回数を表す辛さは45倍が良いらしいえちおぴあ。それってもしかして神田神保町の話なの? って思われそうだけれど違います。まったくの外国風な舞台でギャングとマフィアが牛耳る世界のお話。そこで文学部を出た青年と、医学部を出た青年とが死にたいを願って列車に乗って出会って潜入していた女捜査官のウエイトレスが絡んで列車が進んで少女による爆破の時間が迫る時、自殺志願だった男たちは立ち上がり列車を爆破しようとしていた少女を救おうとする。チャイを飲んで。入れ替わる語り手でいったい誰が喋っていて、そして時間も行ったり来たりしてやこしいけど、咀嚼しつつ読んでいけば何となく分かる。そしてカレーがすべてを導いてくれる。読み終えたらとりあえず神保町に行きたくなるかも。キッチン南海かなあ、そしてカツカレーを頼んでトンカツにマヨネーズをドバドバかけると。それ良いの?

 移籍金に300億円近くを支払っても、元がとれると思っているからこそ支払うんだろうなあ、パリサンジェルマンがネイマール選手の移籍を実現するためバルセロナにそれだけのお金を払ったとか。誰が出せるかといった感じに設定された天文学的な金額だったけれど、カタールの石油王たちには関係がなかったってことなんだろう。いったいどれだけ金持ちなんだ。楽天なんかじゃ引き留められる訳もないか。でも石油なら売れば収入になるけれど、パリサンジェルマンがフランスのリーグアンで首位となってもチャンピオンズリーグでビッグイヤーを獲得しても、それだけのお金が稼げるとはちょっと思えない。だったら何度もそんな栄冠い輝いているバルセロナはもっと儲けている訳で、活躍のために支払う選手への年俸なんかを鑑みるならギリギリがマイナスが精一杯。だったらパリサンジェルマンは、あるいはお金を出したカタール財団はどこで稼ぐのか、ってところが今後のポイントになるんだろう。2022年のカタールでのワールドカップかなあ。

 内閣改造とやらも一段落してあまりパッとしない閣僚たちの顔ぶれに、民進党もここから巻き返せるかと思いきや、自分の思い通りにいかないからと細野豪志議員が離党を表明したとかでちょっと混乱気味。過去に代表選に出たり蓮舫議員の代表選出を応援したりして、中枢部に影響力を持とうとしていたからまだまだ我慢して党を掌握し、そこから自分の思うような施策を打ち出していけば良いのに、一気に離党してしまうなんて政党といったものの在り方を理解しているようにはあんまり思えない。政党なんて様々な意見の集まりな訳で、全部が自分の思い通りにいくものではないし、憲法改正の問題なんてどこに行ったって通るものでもない。だから最小限、かなう部分を叶えつつ自己主張をして風向きを変えるのが筋なのに、離れて新党を立ちあげすべてを自分の思うがままだなんて通ると思っているのかな。もっと冴えた人だと思っていたけれど。それとも保守系のメンバーがこぞって参加してくれるといった目算でもあるのかな。前にやめた長島昭久議員とかとの絡みも含めて関心をもって見ていこう。

 題字とかマークをボかしつつも体裁はだいたい同じで、そこにまったくの虚偽の見出しと写真を貼り付けて、安倍総理夫妻を誹謗するような号外をでっちあげられた時に怒るのはまずは安倍総理の方であって、続いて真似をされて題字を傷つけられたということで新聞社も怒って当然。それはそれとしてパロディだったら題字を変えるなり本文もいじるなりして完璧なまでに読んで皮肉が効いた物にすれば良かったのに、本文は前に出た号外そのまんまじゃあ読んですぐにこれはインチキだって分かってしまうし、何の笑いも生み出さない。批判する側の批判できればオッケーっていうのが受け入れられないから、1990年代末期にレフティーな勢力は情動に訴えたライティーな勢力にのみ込まれて敗れ去った。その繰り返しを20年経ってやり続けて勝てるはずもない。もっと利口に。そして真摯に。でないと逃げられるから。そしてとんでもない所に連れて行かれるから。


【8月3日】 明けてスポーツ紙とかを検索しても、湯浅政明監督による「DEVILMAN crybaby」の新情報とそして声優に内山昂輝さん、村瀬歩さんとう当代トップクラスの2人が決まったといったビッグニュースを伝えているところはまるでなし。あのアヌシー国際アニメーション映画際2017で「夜明け告げるルーのうた」がいつかの宮崎駿監督や高畑勲監督に次ぐもので、世界的に注目を集めているクリエイターの新しい情報だったら文化面をでっかく使って報じたって不思議はないのに、ベタですら扱っている感じがないところにスポーツ紙界隈のアニメーションに対する感度の低さ、あるいは温さって奴が伺える。

 これが例えばスタジオジブリで修行をしたクリエイターが手掛ける作品で、そして声優に人気俳優なりアイドルなりが起用されたとしたら大きく扱って写真だって載せるだろう。彼らにとって自分たちが狭い井戸の中で見知っている範囲だけが価値のあるものであって、そこから外れた大海で世界を席巻しているクリエイターでありコンテンツについては、分からないからと無視を決め込むか、あるいは情報を知ってすらいなさそう。そんな頭でメディアの先陣を切っているつもりでいるうちに、世間からは取り残され若い人たちからは見捨てられていくんだろー。勝手にしてくれとしか言いようがないけれど、それだと個人的には困るんだよなあ。どうしたものかなあ。

 そんな湯浅監督の「DEVILMAN crybaby」に関する発表があったネットフリックスのプレゼンテーションでは、コナミが世界に誇るゲーム「悪魔城ドラキュラ」を原作にしたアニメーションの紹介もあって、声で出演している置鮎龍太郎さんが登壇してはいろいろと打ち明け話をしてくれた。何でも前に「悪魔城ドラキュラX 月下の夜想曲」でアルカードっていう主人公の声を担当したことがあったという置鮎さん。それが新作アニメーションではトレバー・ベルモンドという男の声を担当することになった。

 でもって台本を見たらアルカードは三木眞一郎さんが演じることになっていて、前に何かで三木さんがベルモンドを演じていたことがあって、シャッフルした感じが面白いってことを置鮎さんが話してくれた。そのタイトルをゲームだったかのように話していた置鮎さんだったけれど、調べてたら「月下の夜想曲」に合わせて作られたドラマCDか何かの中で三木さんがベルモンドの一族を演じていたみたい。近いじゃん。まあ格好いい系の声はだいたい決まっているからそういうシャッフルもあるのかも。アニメーションが出来が良いんで日本でもテレビ放送されないかなあ。ネットフリックスだとやっぱりキツいんだ通信環境的に。

 そういえばやっとアルチンボルト展を見たんだけれども当初は例えば春夏秋冬なりのテーマにマッチした草木なり動物を集めて描いていたんだなあといったことが分かった。ある意味で博物学的な見地を持った絵図であって、それをより際立たせるために肖像の中に組み入れた、って感じもしたけれど、だんだんと異形をどうやって描くかにシフトしていって何でもありになっていった感じ。人体が集まって顔だなんてそりゃあ不気味だけれど面白くないものなあ。そんな中ではソムリエと司書っていう職業の人物を、関連する品々で構成したものが面白かった。どこかシュールレアリスム的でもあってキュビスム的。こうした遊び心が300年くらい経って画家たちの中に受け継がれ蘇っていったのかも。その意味では幻想と構築の原点でもあるかもしれない。見て置いて損はなしの展覧会。

 ヘパリーゼに続いてお菓子を3点セットで買うと「けものフレンズ」のキラキラチャームがもらえるプレゼントが始まって、せっかくだからとチョコあ〜んぱんとプリングルスとクランチチョコを買ってギンギツネのチャームをもらう。サーバルちゃんは人気だったからかすでになかった。残念だけれどギンギツネも温泉の湯本で見せた迫るセルリアンに諦めた感じを見せる雰囲気がとても良かったので好きなのだった。次はキタキツネをもらってセットにしよう。あとはコウテイペンギンとツチノコがあったっけ、もう1つは何だたかなあ、まあ良いあるうちに確保、絶対。

 これはさすがに拙いと思うんだけれど官邸は知らん顔して突破していくんだろうなあ、人づくり革命担当大臣。以前から「人づくり革命」を政権の柱に据えるとか言っていたからワードとしてはそれを継承した形になるんだろうけれど、ただ内閣における国務大臣が「革命」という肩書きを持つことが適切かっていうと、開けば「天命が革まる」という言葉になって時の王朝が倒れて別の王朝が立ち上がることを意味している言葉なだけに、国務大臣として天皇陛下から認証を受ける場に、立って果たして大丈夫なのかといった重いが浮かぶ。

 象徴であっても国を導く皇室の中心におわす方に向かって「革命」という、その地位を途絶えさせる意味を持った言葉を突きつけていいのか。本当の保守だったら頭をかきむしって不敬と訴え止めさせるんだけれど、安倍ちゃんを讃えることが最大にして唯一の目的という保守らしき人たちにとって、その決定は絶対だから何も言わないでスルーだろうなあ。果たして人づくり革命担当大臣が国務大事なのかは不明で、行政大臣でしかないのかもしれないけれど、これを兼務した茂木敏光議員は経済最再生担当大臣で、内閣府の特命担当大臣として国務大臣になっているはずだから、その名前でもって別に「革命」の文字を背負って天皇陛下の前に立ったとしたらやっぱり度胸のある話。本人は何を思っているんだろう。何も思っていないかなあ。いずれにせよ言葉がどこまでも軽すぎる安倍ちゃんたち。これで退位からの改元となった時、どれだけ不敬で不勉強な言葉を引っ張り出して来るか分からないぞ。

 北海道の富良野でメロン農家のハウスに除草剤が撒かれてメロンが枯れて収穫できなくなってしまうといった事件が発生。草や蔓が枯れた先に丸々としたメロンがまだ残っているのを見て、これが収穫できていたらいったいどれだけの数になったのかと思い、だからこそ寸前でもって息の根を止めた誰かの行為に対する理由が知りたくなってきた。それこそ“殺人”にも匹敵するだけの行為をやれてしまえる心理には、怨みがあるのかただの嫌がらせなのか。その農家のメロンが出荷できなければ自分のメロンが売れると言うほど甘くはないし、それで喜べば犯人だとばれてしまう訳で、それでもやってしまえる心理があるとしたら何なのか、怨みだったとしたら何の怨みか、犯人逮捕の目処もついたようなので、そのあたりがキッチリと明らかとなり、そして二度と同じ事が起こらないようしっかりと対処がとられて欲しい。

 ふらりと日本橋三越に寄ったら、前にファッションワールド東京って展示会にブースを構えて新進気鋭のファッションデザイナーとして登場していた柳澤陽司さんが、IROHUSIというブランドを立ちあげ期間限定の店を構えていた。前に観た時は墨汁で染め上げて黒は黒でも墨染めの衣のような風合いを持ったファッションだ男性女性ともあったけれど、今のシーズンのコレクションは淡いグレーをナチュラルな素材に染めたものでぞろりとした雰囲気はコムデギャルソンっぽさがありヨーガンレールっぽさもあって、なおかつ和風の侘び寂びな感じが漂っていた。ワイズも含めたカラス族とはまた違った用法手法のファッション。秋冬にはもうちょっと黒が戻って来るみたいだけれど、前に見たメンズはしばらくはなさそう。でもその雰囲気でこれからグッと出て行ってくれるとちょっと楽しいかも。世界にも是非に。


【8月2日】 翅田大輔さんの「桜色のレプリカ」(1、2 HJ文庫)がすごいのでSF読みは気にするように。夢から覚めるとベッドの上に下着姿の少女がいて迫ってくる。生徒の1人でもちろん拒絶し叩き出した六方カザネは、朝食をとって授業へと向かい生徒たちに文学を語る。それで問題にならない? 大丈夫、なぜならそこは特別な環境。生徒が先生に迫ることも許容されていて、六方カザネはそんな生徒たちに人間らしさを教えようと授業に勤しんでいる。

 そんな学園ラブコメのような日常がある事情で一変し、先生たちは退避し生徒たちは手に武器を取って立ち向かう。何に? 人類の敵に。少女たちはいったい何者? そこが驚きの最初のポイント。そして世界が置かれた環境が明らかになって、迫る滅びの時を感じさせられつつ六方カザネは立ち向かうために必要な、少女たちに人間らしさを教える授業に取り組む。そんな彼に理事長から依頼。人間を探してくれと言う。どうして人間を? それは……。

 とにかく驚きのストーリー。第1巻の終わりに来るサプライズはその場で第2巻を手に取らずにおられなくする。そうした展開の果てに示されるのは、世界とそして人類が次へと向かう可能性。考えること、愛すること、自分を犠牲にすることのどれが人間だけが持ち得る行動か? その問いにひとつの答えが出される。幾重にも仕掛けられた罠のような謎のような設定の先、いったい世界はどうなっているのかといった興味が浮かぶ。さらに人類という種はどうなっていくのかも。そして人類とは何かといった問いかけにも。

 SFとしての王道とも言える主題を投げかけられるストーリーであり、文学とは、哲学とは何かも考えさせられる教養に溢れたストーリー。人類にとってのある種のビジョンは、アニメーション映画の「楽園追放 Expelled from Paradise」にも重なるところがあるかもしれない。人間の存在が単なる知識と記憶だけなら転移は可能だけれど、それでは追いつかない何があるとしたらそれは何? 考えさせられる。敵となった存在の強大さとしつこさを考えると、物語の先に来るだろう人類の未来は暗そうだけれど、愛があれば大丈夫、なのかもしれないと信じて待とう、その復活を。可能なら他の少女たちにも未来を与えて欲しいなあ。健気だったものなあ、彼女たち。

 乃木坂48の楽曲「月曜の朝、スカートを切られた」について、そういった思い出がある人が嫌な記憶がフラッシュバックするんで止めて欲しいといった声を上げているとか。トラウマを刺激される辛さは分かるから、そうした意見には納得する。でも「【月曜日の〜】は、「目立たないように息を止め」ることで抑圧を受け入れよとの文脈を持つ。その文脈で、切り裂き被害に遭った曲中の主人公が「私は悲鳴なんか上げない」と言う。これは、犯罪被害者側に沈黙を強いていると受け止められても仕方がないのではないだろうか」って分析したライターにはちょっと違うだろうと言いたい。

 尾崎豊さんの「15の夜」なんかとも比較して、あっちは解放があるけれど、こっちには抑圧に甘んじるだけだっていった指摘がされていたりする。でも、この歌詞ってそうした逃避とはまるで逆な意味を持っているんじゃないのか。ストレス発散でほくそ笑んでる奴ら挑発に乗って悲鳴を上げて喜ばせてなんかやるものか、って決然としたニュアンスがあって、決して抑圧を受け入れようとしたものではないと思うんだけど。普通に読めばそうなるはずなんだけれど、乃木坂48の楽曲の歌詞であり、その書き手である秋元康さんを批判するという目的のためには、そうネガティブに解釈するしかないんだろう。最近のメディアに割と見る手法。それを牽強付会と指摘し諌めるデスク的な存在が不足しているんだろう。炎上狙いと指摘する炎上狙いの記事で稼ぐアクセス。やれやれだ。

 秋葉原に寄ってUDXにあるアニメショップに立ち寄ったら「けものフレンズ」のグッズが増えていたんで幾つか購入。16種類あるというクリアファイルは買ったらサーバルチャンとアミメキリンでメインどころが入っていたのでオッケー。次はやっぱりヒグマが欲しいかも知れない。その強さに対して妙にコロコロとして可愛いんだよヒグマ。もう1つはクリアキーホルダーでスキーを履かせた桶の上にサーバルちゃんとカバンちゃんとキタキツネとギンギツネが乗って滑っていこうとしている柄。アニメのまんまじゃいけれど、吉崎観音さんのイラストとも違うアニメがあってこそのキャラは今後増えてくるのかな。次はアライさんとフェネックで欲しいかも。

 そんな秋葉原から有楽町へと出て東京国際フォーラムでネットフリックスによるアニメーションの戦略発表会を見る。「シドニアの騎士」とか「BLAME!」なんかでアニメに力を入れていることは分かっていたけれど、改めて見てオリジナルの新作をいっぱい投入してくるみたいで見られるものなら見たいと持った。ネットの環境がナローなんでちょっと映像のストリーミング配信には手が出ないんだよなあ、niconico画質が精一杯。さて新作ではやっぱり「DEVILMAN crybaby」が注目の1作。あの「夜明け告げるルーのうた」の湯浅政明さんが監督を務めていて、声も不動明に内山昂輝さん、飛鳥了に村瀬歩さんが決定した。

 そして公開された新しいPVを見るとデーモン族が蠢いているだけだったものから進んで人間世界の日常と、そして人間をやっている不動明なんかも登場していて風にアニメの感じが見えてきた。それがもう湯浅監督そのもので、「カイバ」だとか「マインド・ゲーム」といった作品での溶け合って混ざり合うようなビジョンが立ち上がっては「デビルマン」という情念の作品と違った方向から照らし出す。本編がもっと長くなると感じるだろう永井豪さんの絵柄との乖離だけれど、そこは湯浅監督ならではの雰囲気とテンポ、そして音楽によって見てグッと来る作品に仕立て上げてくるだろう。しかし内山さんがオーディションを飛鳥了で受けて村瀬歩さんと激突していたとは知らなかった。それでデビルマンをやらせてみたいと思った湯浅監督の期待にどれだけ応えているかに今は注目。

 あらぬ誹謗中傷めいた言葉を公開されたネットで綴って訴えられ、先に民事訴訟で敗訴となったとあるメディアの偉い記者が、今度は刑事でも相手に刑事告訴されていたのが受理されていたいみたいで、検察に書類送致されたという。他の事件だったら「容疑者」って肩書きになっていたりするところだけれど、名前が報じられることもないからそうした言葉は観たことがない。でもこれで起訴となったらもはや被告とつけざるを得なくなる。それが他の犯罪者報道との整合性って奴だけれど、そうした身内については“報道しない自由”を貫きそうなんで、肩書き付きで見ることはないんじゃなかろーか。もちろん不起訴となる可能性もある訳で、推定無罪の原則からすれば未だ前科も何もない状態ではあるけれど、民事訴訟での完敗具合を見ると敗訴の可能性もなきにしもあらずな状況で、なおも看板記者として使い続けることの面倒くささを思うと、どうにもこうにも謎めくのであった。


【8月1日】 相変わらずに洋食なりデザートを食って束の間の息抜きをする展開だけでつないでいるけれど、そんな息抜きに食う洋食なりデザートが実に美味しそうに見えるからやっぱりついつい見入ってしまうテレビアニメーションの「異世界食堂」。今回はコロッセオの闘士で元奴隷の獣人が、勝利の印とも言えるカツ丼をかき込みに来る話で、勝ち続けて金貨100枚を1年経たずに稼いでしまいたくなるくらい、その食堂で食うカツ丼は美味しかったってことみたいだけれど、そうやって借金を返してもなお闘士を続けているのは、異世界へと開く扉が奴隷を捕らえておく牢屋にしか開かないから、なのかなやっぱり。そこを出て行ってはもう食べられないならずっと奴隷で居続けたい。そう思うくらいにやっぱりカツ丼は美味いってことで。

 って訳でカツ丼が食べたくなったんでかつやに行って竹をかっくらったあとで、池袋の東武百貨店で開かれていたタツノコプロの55周年記念展へと行って展示物をざっと見る。「科学忍者隊ガッチャマン」の白鳥のジュンが見せる純白の三角はやっぱり子供心をガッチリと捉えて今に到るまで、アニメのヒロインのトップクラスに居続けさせているんだなあということを改めて思い知らされる。1996年ごろに作られたビデオのパッケージに描かれた、ジュンが見せる純白を見た瞬間も、過去の記憶が蘇って来たものなあ。そんなパッケージイラストの元絵なんかもあって、近寄ってまじまじと見てしまった純白の三角部分。最近は「賭ケグルイ」なんかで出まくっていてありがたみが薄れているけど、過去も出まくりながらそれでいてキュンとさせられたのはやっぱりヒロインに強さがあったからなのかも。蹴られたいなあいつか、あのすらりと伸びた脚で。

 ヒロインでは「タイムボカン」のマージョ様を描いた原画だかラフスケッチだかがあって、それこそディズニーのプリンセスが描かれた原画を見るようなラインと表情にタツノコプロってのが東映動画以上に日本のディズニーとして君臨していた時代があったんじゃないかってことをふと思う。そしてオリジナル作品の多さにも驚くというか、「宇宙エース」からしてオリジナルだったし「マッハGO!GO!GO!」だって「宇宙の騎士テッカマン」だって「ゴワッパー5ゴーダム」だって「科学忍者隊ガッチャマン」だって「新造人間キャシャーン」だって「破裏拳ポリマー」だって「みなしごハッチ」だって「ハクション大魔王」だて「タイムボカン」から続くシリーズだって全部がタツノコプロのオリジナルだったりする。

 すごいのは、そのどれもが記憶に強く残るくらいの作品としてヒットしたってことで、今と違ったアニメーションが独立したエンターテインメントだった時代が存在し、それがどうして今のように原作ものばかりになってしまったのかを、改めて考えて観たくなった。スポンサーがつかない? でもかつてはついていた訳で、子供がそれを見て提供の商品を買っていた。けれどもいつしかテレビ離れが進み、一方で少子化も進んで玩具メーカーのマーチャンダイジングとしても機能する範囲が減って「プリキュア」シリーズや「プリパラ」シリーズのようなものだけが残ったという、そんな時代が今ってことか。パッケージとして売らなきゃいけないとなると、オリジナルで冒険は出来ないものなあ。だからこそ今もオリジナルをしっかり作っているサンジゲンとかトリガーには感心するし応援したい。ってパッケージ買ってないけれど。お金が……。

 そんな展覧会のラストに展示されていたのが「インフィニティ フォース」で、オリジナルかって言えば過去に活躍したガッチャマンでありテッカマンであり破裏拳ポリマーでありキャシャーンといったタツノコヒーローたちがアベンジャーズするみたいな作品で、新たなキャラクターを生み出したって訳ではないけれども、マーベルだってDCだって過去のそうしたキャラクターを使ってリブートをかけて、新しい作品を生み出し収益につなげているなら、そんなマーベルやDCに匹敵するだけのキャラクターを持つタツノコプロが、ヒーローのくんずほぐれつを作っていけないはずがない。アレンジもされたフォルムが今の時代に沿っていてクールに格好良く、そして中の人たちも今風にイケメン揃いで人気が出そう。ヒロインにも界堂笑って不思議な雰囲気の少女がいて、どんな活躍を見せてくれるかに期待もかかる。守られるだけのヒロインではないよなあ、その面構えからするなら。まあそれも含めて10月からのスタートに期待だ。

 隣でやっていた田宮模型のコーナーも見てティレルではないタイレル・P34の勇姿に観劇。日本にF1がやって来た頃に走っていたから印象にも残ったその6輪というマシンは、よく異形の変化球扱いされるけれども初年度はポールポジションもとればワンツーフィニッシュだって決めてそれなりな実績は残した。2年目はあんまり活躍はしなかったけれども突きつめれば新しい可能性だって生まれたかもしれない。ただやっぱりタイヤが特殊で前4輪を作るのも揃えるのもタイヤメーカーにとっては大変そうで、そんなこともあって廃れていったのかもしれない。今はタイヤは4輪と決まっているから復活の目もなさそうだけれど、いつかまたサーキットを走る勇姿を見たいもの。というか展示してあったあれは動態保存されているのかなあ。

 銀座へと回って松屋銀座で「西尾維新大辞展」なんかも見る。西尾維新さんが好きな人なら隅々までびっちりながめては、作品のあれやこれやを知って確かめ埋めていくのが楽しい展覧会かもしれないけれど、キャラに萌えるくらいしかできない人にとっては壁一面に飾られたヒロインの一覧を眺めて楽しむことが1番かもしれない。それにしてもいったデビューからこれまで何冊の本を出しているんだろう。そしてどれくらい稼いだんだろう。そんな作家が掟上今日子くらいしかメインストリーム(つまりは民放プライムタイム)には来てなくって、小中高生の間で超絶的な人気を誇っている断絶を続けているのは何なんだろう。とか思った。それともあと10年経つと西尾維新で育った世代がテレビ局の中堅に来て変わるんだろうか。気になります。

 国会で予定されている閉会中審査に防衛大臣を辞めたばかりの稲田朋美代議士が出席しないというか出席させないといった話が出回り始めた。だって稲田代議士がいったい自衛隊のPKOにおける日報の隠蔽問題にどう関わっていたかを問いただす審査じゃないか、そこに当事者がいなくていったい何を誰に聞くと言うんだ。出さない理由がもう意味不明で、大臣を辞めたからそれで責任をとっただろうという考え。でも大臣としての責任をとることと、真相の究明に協力することは別の話で、何も疚しいところがないなら出席して答弁すればいいだけのこと。そうやって省内を納得させたのなら同じことを繰り返せばいいだけなのに、出たら何か違うことが露見してしまうとでも言うんだろうか。だとしたら、混乱させたことを監督不行き届きとして大臣を辞めたこと、それ事態も責任をとったことにはなっていない訳で、改めてその処遇について検討する必要がある。それなのに。これで支持率が上がると思っていたらもはや末期だけれど、出たらさらに下がる可能性があると考えたってことなのかもしれないなあ。やれやれ。


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