縮刷版2017年7月下旬号


【7月31日】 ワンダーフェスティバル2017[夏]で歩き疲れてくたくたになったけれど、1晩寝たらどうにか立ち直ったんで、家を出て新橋に立ち寄りニュー新橋ビルにあるむさしやってカウンターだけの洋食屋さんでオムライス。ずっと前から存在は知っていたけれど、いつも長蛇の列が出来ていて入り込む余地がないんで今日まで入るのを見送っていた。たまたま昼からお台場で取材があったんで、ゆりかもめに載る前の昼よりちょっと早い時間ならと寄ったら早くに座れそうだったんで、ちょっとだけ並んで注文して席に着いたらはいと差し出されたオムライス。早いなあ。

 味はケチャップがしっかりと絡められたライスにしっかり表面が焼かれた卵焼きで、最近の中も外もフワっとしてトロトロだとかいった点を売りにしている、実のところは玉子かけケチャップライスにしか過ぎないオムライスとは違った、ちゃんとした自分の家でも作っていたような味を楽しませてくれた。やっぱりこうじゃなくっちゃオムライス。添え物にしては量の多いケチャップスパゲティもまた洋食的。これなら毎日だって食べたいけれど、長蛇の列は勘弁なんで次ぎもまた昼前に寄れる時があったら立ち寄ろう。ハンバーグも添えようかな。

 お台場というか青海の日本科学未来館では、渋谷ヒカリエに続いてチームラボの新しい作品を見物。ディズニーアニメの「塔の上のラプンツェル」をモチーフにした作品だそうでラプンツェルが塔から出てゴンドラに乗って漂っているところに集まって来たランタンが輝くシーンってのを再現。中に入った人が近寄るとランタンがボッと輝いてそして周囲に光が伝播していくといったインスタレーションになっている。人の動きと物の動きをリンクさせるのは前に同じ日本科学未来館で開かれたチームラボの展覧会に出ていた、花束がつり下げられていて人が近寄っていくと上に上がって空間ができる作品なんかでも見られたこと。今回は釣り上げつり下げのアクションはなく動きをキャッチして光らせるといった手法で映画のシーンを再現している。

 これも花の上下で使われていたけれど、周囲を鏡張りにしてあるから空間が無限に続いているようで、そこを光がどこまでも移動していく感じがして自分の思いが遠くの誰かに伝わるような感覚を味わえる、かもしれない。数人で入ってほの明るい中にランタンの輝きが移り変わっていくのを見るのが良いのか、大勢で入ってのべつまくなしに輝いているのを見る方が楽しいのか、パターンはありそうだけれどとりあえずはオープンをして撮影自由な中で観客がどんなリアクションを見せてくれるかに注目。発表会には「塔の上のラプンツェル」でラプンツェルの日本語吹き替えを担当した中川翔子さんも来ていて、ラプンツェルの話が来た時に自分がディズニーヒロインかと驚き椅子からこけたとか。やっぱりそういうものなのかなあ、女子にとってディズニーヒロインを演じるということは。

 中川翔子さんのフォトセッションが終わってから日本科学未来館を飛び出してゆりかもめから都営大江戸線に乗って六本木まで行き、11月からスタートする「THE ドラえもん展 TOKYO 2017」の発表会見を見物。遠い昔の2002年にも開かれたらしい展覧会だけれど行った記憶があるのかないのか。ともあれ今回もアーティストたちに「あなたのドラえもんをつくってください」と投げかけて、答えた名だたるアーティストたちがそれぞれに自分のドラえもん像って奴を作りだしてくれることになりそう。例えば村上隆さんは、数メートルはある巨大なパネルに独自のモチーフの花と、それからのび太やドラえもん、しずかちゃんにスネ夫にジャイアンといったキャラクターをいっぱい配した平面を作り上げる。

 「現代美術の文法と漫画とをどこまで近接させられるか、ドラえもんはいかに偉大であったかを別ジャンルの人間がどう読み解くかがお題」ってのが村上さんのこの展覧会が持つ目的。それに答えて描き出したのは、藤子・F・不二雄さんを中に入れ込むという物でこれによって自分のモチーフとドラえもんとがぶつからず結節したものになるという。作者というある意味で部外者だけれそ造物主が外側との繋ぎ役をしてくれる、ってことなのかな。とにあくいろいろなドラえもんが散りばめられている作品みたいで、そのどこかに藤子・F・不二雄さんがいるのを見つける楽しみがありそう、ってすぐ分かるけれど。

 まん中にどこでもドアがあるけれど、そこに金箔を貼るって言っていたのも印象的。虚空の象徴としてのどこでもドアに金箔を貼ればどこにも行けなくなってしまう、そんな閉塞状況を表そうとしたのかな、どうなんだろう。見てその意味を確かめてみたい。アーティストではよく村上さんと対で紹介されることが多かった奈良美智さんや、同世代にあたる会田誠さん山口晃さんも登場。そして増田セバスチャンさんという、ファインアートとは違った方面からの人材も読んでカワイイ世界を見せるという。どんな展示になるんだろう。大きなドラえもんのぬいぐるみらしいけれど。抱きつけると良いな。それは無理か。

 ほかには漫画家で「真夜中の弥次さん喜多さん」などの作品があるしりあがり寿さんもいて、参加できることを「嬉しかった」と言って喜んでいた。作品としては「アニメを作りたいと思っています。この時代に社会がドラえもんに求めているものは何だろう、あのポケットから出して欲しいものは何だろうといったことをアニメにしたい」と話していたからきっとしりあがり寿さんならではの脱力の中に哲学が滲む作品になるんだろう。どうなんだろう? あと巨大セイラさんとか作っていた西尾康之さんも参加の予定。「立体物にプロジェクションマッピングで映像を投影したい」と話していたから、過去の西尾康之作品にもなかった表現になりそう。

 作品を寄せるアーティストには、蜷川実花さんや福田美蘭さん、鴻池朋子さんといった女性陣が並んでこちらもキティちゃんとは違った、アイコンであると同時に意識を持って物語を持った登場人物でもあるドラえもんに何らかのアレンジを加えてくれそう。女性から見たドラえもんってどんな存在なんだろう。その意味では、自身をモチーフにしたキャラクターが登場するアニメーション作品で名を知られ始めているシシヤマザキさん、美大などで専門教育を受けないまま独学で習得した圧倒的な技術を繰り出し、幻想的なビジョンを描く近藤智美さんにも注目。近藤智美さんは映画「のび太の鉄人兵団」の鏡面世界を2枚の絵画をつなぎ合わせて表現するそうで、鑑賞のために映画を見ておかなくちゃと思った。観たことないんだよなあ、映画「ドラえもん」シリーズって。

 こんなものが載ってしまうとはもう笑うに笑えず泣くに泣けない心境。例の北海道が中国に侵略されているという企画が実際において外側から見た印象ばかりでファクトがほとんどなく、証言も通りがかりの人に聞いたらそう感じたといったレベル。それで北海道は中国に侵略されているといった断定をしてしまって、掲載時に既に大丈夫かと思ったけれど、1年が経って検証をするどころかそのまま新聞協会賞に応募したから驚いた。なおかつそんな内容を本にして出し、ツアーを募って見物に行ったリポートが、元記事にも増してアチャラカ過ぎていて腰が抜ける。

 「ツアー一行は公道から別荘地を観察した。目をひいたのは、中庭にあった大型アンテナだ。衛星放送視聴用のアンテナとみられるが、不自然なたたずまいといえる。参加者らは『本当にテレビ視聴用なのか』と首をかしげていた」。調べろよ、それが何のアンテナなのか。入って聞けないなら型番から何を目的にしたものかくらい分かるだろう。「苫駒大は中国と関係の深い京都市の学校法人に無償で移管譲渡することを決めた。この学校法人の理事の1人が中国共産党員であると指摘する駒大関係者もいる」。共産党員だと指摘する人がいるならそれが確かめるのがジャーナリズムじゃないのか。伝聞だけで決めつけているところが厄介きわまりない。

 「視察中、中国人らしき青年が運転する乗用車が通過、山奥に突然登場したわれわれを奇異の目でみつめていた」。中国人らしき青年と日本人らしき青年の違いはいったいどこにあるんだろう? 見て分かるものなんだろうか? そんなことはない。「この場所を中国系企業が購入し、昨年6月からレストランの営業を始めた。3方を崖と森林に囲まれているため、中の様子はよくわからない。一行は車窓からレストランを眺めたが、営業している雰囲気はなかった」。眺めただけでスパイしてるって分かるのか? そんな間抜けなスパイもいないだろうに。推測と憶測と決めつけしかないにも関わらず、結論は「『一行は今回のツアーで、想像以上に『国土侵食』が進んでいる実態を目の当たりにし、改めて法規制の重要性を痛感していた」ってなってしまう。もう何を言ったら良いのか。衛星放送のパラボラアンテナが立てられていて、道を中国人かもしれない人が歩いているのを見かけることが「国土浸食」の実態か。だとしたら日本中が浸食されている訳で。やれやれだ。


【7月30日】 「プルスウルトラ!」と「エクセルシオール!」とではどっちが鼓舞として強いんだろうかと考えながらも、やっぱりスタン・リーというアメリカンコミック界の偉人が言う方がパワーとしては存分なんだろうなあと思い至ったけれど、こと作品としての「僕のヒーローアカデミア」と「THE REFLECTION」は、見た目の熱さで「僕のヒーローアカデミア」の方が勝っているように感じられるのは、絵柄がやっぱり日本人好みで展開も少年たちの情熱が迸っていて、見るからに滾った気持ちにさせてくれるから、だろうなあ。

 とはいえ「THE REFLECTION」も第2話に入って表面と断片だけしか見られなかった第1話からグッと深いところまで迫ってきた。大災厄とか言われるリフレクションが起こって何かに打たれて大勢が亡くなったりした中で、生き延びた人もいてそこには異能が芽生えていたって設置がやっと示されて、そうした中でも悪いことをしている一派とそして、諫めようとしている一派があって対立している間にあってエレノア・エヴァーツという少女が自分の居場所を求め進む道を探してエクスオンという正義をこっそりと為している存在へと近づいていったことが明かされた。

 そんなエクスオンがやっと喋って、とぼけてもいなければ韜晦もしていない。真面目で真摯でちょっぴり苦笑も混じったようなキャラクターを作り上げていた。つまりはきっとそういう人物なんだろう、あの覆面の下は。でもって空を飛んでパワフルに正義を執行していたアイガイが、アイアンマンみたいに大金持ちがパワードスーツを着ていただけかと思ったら、ちゃんと何らかの能力をもったリフレクテッドであって、なおかつ歌手として大成功したお金を今ももてあましていて、それをつぎ込んで空飛ぶ装置を作り中に入ってヒーローとして活躍を始めたといった具合。そんなアイガイが、第1話で戦闘シーンにアメコミ調の擬音が飛んだシーンがあったけど、あれは漫画的な演出ではなくプロジェクションマッピングでもって背景に描いていたと分かって、作品におけるリアルのレベルがちょっと上がった。

 見えることは実際に起こっていること。それを為すためにリアルに力もお金も必要となる。世界はヒーローに優しくないなあ。だったら悪役はどういった論理でもってどういった背景を持って動いているのか。スタン・リーみたいな顔をした西村知道さんの声を持ったいかにも怪しげな男がいるけど、彼が黒幕って訳ではないのかな。そしてリフレクテッドを犯罪者として顕在化させ逮捕させたのを奪っていった何を目論んでいるのか。虐げられたことへの反抗か? リフレクテッドとなった意味がそこにあるのか? 転がり始めたストーリーに興味が出てきた。アメコミチック過ぎる絵はともすればチープに見えるけれど、エフェクトとか高度な動きをしているし、ストーリーをしっかりと見せている点も凄い。見通せばあの絵の意味、そして価値も分かってくるだろうと信じて見続けたいし応援したい。エクセルシオール!と叫びながら。

 「僕のヒーローアカデミア」の方はヒーロー殺しの一件がとりあえず解決をしたみたいで、緑谷少年はワン・フォー・オールの力を全身に行き渡らせつつ小出しにすることを覚え、轟焦凍は父親のエンデヴァーから受け継いだ炎の力をわだかまりとかなく自分の個性として使えるようになったみたいで、飯田天哉も兄のインゲニウムをヒーロー殺しに倒された怨みにこだわることを拙いと知って立ち直っていってくれそうで、そんな面々が協力して捉えたかに見えたヒーロー殺しがまだ余力を持って動いたあたりにプロ中のプロ(悪い意味でも)の凄みって奴が垣間見えた。でもきっと全盛のオールマイトなら1発で沈めていたんだろうなあ。緑谷少年はそんな域にたどり着けるのか。グラントリノに鍛えらればあるいは。プルスウルトラ!

 朝も早くから幕張メッセへと出かけていって、「ワンダーフェスティバル2017[夏]」を見物。とりあえずグッドスマイルカンパニーとマックスファクトリーが出しているブースへと出向いていっては、「けものフレンズ」関係のコーナーをざっと見てfigmaのサーバルの出来の良さを再確認しつつかばんちゃんの造形もちゃんとしていることを確認して今後への期待を高める。ジャパリバスなんかもあったけれどあれ、動くのかなあ。「ガールズ&パンツァー」で作られた4号戦車みたいなものかなあ。ねんどろいどもあったけれど、期待はPLAMAXとして登場するPPPとかアライさんとフェネックの「ばすてきセット」か。かばんちゃんとサーバルの「さばんなセット」も良いなあ。グッスマの「けもフレ」に期待。海洋堂も出してくるけどこっちは吉崎観音さん準拠になるのかな。いろいろあって、面白い。

 「けものフレンズ」関係は、個人やグループのディラーにもいっぱいあって、放送が終わってから3カ月ちょっとでここまで盛り上がって着ているフィギュアもそうはなくって今後の爆発への期待も膨らむ。多いのはやっぱりサーバルだけれど博士と助手とかアルパカ・スリとかも人気みたい。このあたりもやっぱりテレビアニメーション版準拠な感じ。ツチノコもいて、隣の木工のブースからツチノコを借りて置いていた。アイデア。別のブースでもリアルなサーバルキャットやハシビロコウを置いてアルパカは別に大きなのを作って、フレンズのサーバルやハシビロコウやアルパカと並べていた。動物園と同様に動物とのコラボで売れる「けものフレンズ」フィギュア。キャラクターの造形家と動物の造形家のペアとか生まれたりして。

 面白かったのは、アークライトって会社が打ち出してきたクトゥルフのリビルド的なプロジェクト「クトゥルフ・エボリューション!」。元々はアメリカの作家、H.P.ラヴクラフトやオーガスト・ダーレスといった作家たちによって作り上げられた架空の神話世界で、そこには旧き神や異形の神といった超常的な存在が登場して、読む人を原初の恐怖めいたものへと誘っていた。神話を持たないアメリカって国だったからなのか、そうでなく人間の根源を揺さぶる何かがあったのか、クトゥルフは小説から映画、漫画、アニメーションといった分野に影響を与え、今もフォロワー的な作品が生まれ続けている。

 そんなクトゥルフ神話を日本で新たに創造し、イラストレーションや造形、映像などによって世界に発信していくプロジェクトがアークライトの「クトゥルフ・エボリューション!」。手始めとして、世界的な知名度を持つ日本の造形家たちが結集して、クトゥルフ神話に登場する神性、クトゥルフを作り上げた。そのメンバーが凄まじく凄い。竹谷隆之さん、大山竜さん、雨宮慶太さん、大畑晃一さん。これに寺田克也さんも加わるとうから、誰もがひっくり返るくらいの有名人たちで、ここに韮沢靖さんがいないのが残念でならないけれどもそれは仕方が無い。ともあれ世界に誇る異形な造形家たちが集って送り出すクトゥルフ。例えばデビルマンやハカイダーといった人気作品のキャラクターを生命感あふれる姿に造形した竹谷さんは、邪心の中でも最も有名な存在であるクトゥルフをオリジナルにデザインした。

 大山竜さんはラヴクラフトが遺したスケッチを規範に、得意な細部表現によって眠るクトゥルフを作り上げた。「ゼイラム」「牙狼」シリーズを監督して特撮界のトップクリエイターとして活躍する雨宮慶太さんは、龍や麒麟を思わせる独特のデザインを提案。キャラクターやメカニックのデザインで知られる大畑晃一さんは、ウイルバー・ウェイトリーと知られざる双子の兄弟を再現した。作品は展示してなかったけれど、漫画やイラストで活躍する寺田克也さんは女性キャラクターと融合した異形となる予定。いずれ劣らぬ造形家たちの作り出すビジョンが、映像などでどう発展していくか。期待せずにはいられない。

 向こうが束ならこっちは単独。狼やフェネック、ゴリラといった動物とスチームパンク調のファッションを組み合わせたフィギュアで知られる造形家で、ワンフェスでも常連の鎌田光司さんことkamaty−moonが何と10月に中国の北京で個展を開くことになったとか。ワンフェスの会場にはそんなパートナー企業の中国でも有数のフィギュアメーカーがブースを出していて、鎌田さんの作品もフィギュアにして並べて展示していた。なるほどこの造形ならきっと大丈夫。大きいのも作るらしいけれどどんな迫力になるかなあ。他にも有名どころとのコラボレーションなんかも行うらしいけれど、中国ではちょっと観に行けないのが残念なところ。昔と違って宿代とかも高そうだし。遠くから応援していこう。いずれ日本への逆輸入も期待して。エクセルシオール!


【7月29日】 アラーキーこと荒木経惟さんの展覧会が開かれているってんで初台にある東京オペラシティ アートギャラリーへ。午前10時のオープンかと思ったら11時で少しばかり時間をもてあましつつ開場を待って中へ。いきなり中高年の女性の巨大な裸が両側に並べられていてアラーキーらしさを覚える。若さとか美しさとかいったものに与えられがちな“価値”など信じないといった態度。いやそっもそっちで讃えるけれど、一皮剥けばみんな同じというか。キャッチィなものではなく、ありのままの存在がありのままで綴られる空間に自信もありのままの自分を思い知らされる。

 続く空と花の写真が100枚ずつ、並べられた部屋に入ってどちらも長く撮り続けられたモチーフでありながら、それぞれに違っていてそして突きつめれば同じといった空即是色な境地って奴へといたらされる。2017年7月7日と日付がスタンプされた膨大な写真が並べられた「写狂老人A日記2017.7.7」はその膨大さゆえに本当に同じ日に撮られたものかを怪しく思うけれど、そうした虚実も日付のスタンプによって塗り固めてしまう強引さ、逆に言うなら固められたものであってもその信憑性には疑いがあることへの想像なんてものを抱かされる。信じるも信じないも己次第。

 「八百屋のおじさん」のシリーズはま、懐かしい味のスクラップ。個人的に気に入ったのが3方で映し出されるカラーの静止画によるスライドを展示した「非日記」で、食事だとかオブジェといったアラーキーならではの物撮りの巧さって奴が浮かんで来る作品だった。スライドによって移り変わっていくその変幻、3方でパラレルに進みながらもそれらが一体となってひとつの空間を醸し出すような効果ってものが見ているうちに浮かんできた。やっぱりこうしたモチーフが好きだなあ。

 「遊園の女」は緊縛されたりした女性の半裸や全裸でこれもまたアラーキーらしさが浮かぶけど、アラーキーらしすぎるのが難点か。そして「切実」は古いスナップを半分に切って再構成して並べたものがいっぱいあって、そこに意図を感じる間もなく続いていく展示に翻弄される。よく見ればきっと意味があるのかもしれないけれど、長い人生など瞬間は輝いても総体ではどれも一緒といった暗喩であり、けれどもこうして再構成することによって取るに足らない瞬間など存在しないともいった訴求でもある、なんて思ったけれど真相や如何に。並べられた写真集や刊行の年譜でこの10年くらいの膨大な活動を改めて知る。リストの更新、そろそろ手をつけないと。

 ほかの展示では若手を支援するプログラムに森洋史さんの作品が取り上げられていて、宗教画チックなモチーフで顔が日本アニメーション系といったギャップをただ見せるだけでなく、装飾の部分を立体的にしてゴージャスさを醸し出すと言った手法でキッチュさをより露わにしていた。惹かれつつ嫌悪するような不思議な距離感を覚えさせる作品群。リキテンシュタインばりのアメリカンコミック的なレイアウトで顔立ちは和風だったりしてそれらが彩色ではなく銀色の塗装というか立体的な素材で盛られている作品とか、そこまで過剰にする必要があるのかとも思うけれどもそうした執着がモチーフに対する見る人の意識を居直らせる。見過ごせないというか。本能のままに縫っていくMr.とはまた違ったアプローチ。面白い。

 東京アニメアワード2016に「YOUN POWER 〜卒業制作TOPセレクション〜」というプログラムがあって、その春に卒業をした学生の作品から代表的なものを見せるって内容で東京工芸大の卒業制作で見て感動した狩野洋典さんの「ノアの□(ハコ)庭」も上映されて嬉しかったんだけれど、その後は仕事が忙しいのかあんまり作っていないのが気に掛かる。

 ただ、海外から来ているアニメーション作家の人には、あの短さの中に語られていない世界の情景、キャラクター自身の背景、そして少女の感情の変化といったものを、やはりちゃんと示唆して置いた方が良いといったことを話してた。断片から意味を勝手に知った気になれる“訓練”され過ぎた観客ばかりではないのが実際で、しっかりと背景を描き心情も示唆する必要が物語を作る上では必要なんだろう。そうしなければやっぱり映画祭での受賞は難しい。

 そんな「YAOUNG POWER 〜卒業制作TOPセレクション〜」で上映された見里朝希さんの「あたしだけをみて」は、フエルトを使い人形を使って変化させながら動かし長く付き合っていた彼女との間に漂う倦怠、スマートフォンに残った画像から浮かぶ過去への思いといったものを描いていて、とても良かったんだけれど外国の人は、それが果たしてフエルトのアニメーションである必要があったのかってことを突っ込んでいた。

 ふわっとして変化する女性の顔や、最初は動物なのにだんだんとスマートフォンに代わるオブジェなんかにフエルトならではの変幻自在さが活かされていた気がするんだけれど、でもそれは紙粘土や切り絵や作画やCGでは出来ないことなのか、っていった問いもあるみたい。ただ作りやすいからではない、フエルトをストップモーションアニメーションに使う必然って奴を問われて、ハタと気づいたのかどうなのか。京橋で開かれていた見里朝希さんの個展で上映されていた、最新作の「Candy.zip」って作品は、飴細工のようなキャンディーのような透明で柔らかそうな素材がストーリーに噛み合ってそれである意味って奴を感じさせてくれた。

 たぶんキャンディーを開発している会社で働く眼鏡女子が作るキャンディーがどうもうまく行かないけれど、別のかわいい系女子が作るキャンディーが受けていてちやほやされている。これじゃダメだと一念発起して眼鏡女子が作ったキャンディーは試食の蟻さんも喜ぶおいしさ。それを保管しておいたら別の女子がやって来てキャンディーを取り替えようとして眼鏡女子に見つかってしまったけれどそこで反撃をして眼鏡女子をキャンディーに変えてしまう。

 蟻さんに舐められて涙ぐむ眼鏡女子だったけれど、日頃から蟻さんの受けがいいのか草で跳ね上げられて上司のお口にポンと入って舐められるなかで賦活し、自分の業績をくすねていたかわいい系女子を追い落とし、上司までをも部下にする出世ぶりをみせる。かわいい系女子はキャンディーにされてしまって蟻さんに与えられたけれど真似たら蟻が泣き吐く拙さ。なんか可哀相だけれど自業自得でもあるなあって思わせる「Candy.zip」が「あたしだけをみて」と違うのは、キャンディーが重要なモチーフとなっている作品で眼鏡女子とかキャラクターがキャンディーぽおい素材で作られていること。食べられたらキャンディかもと思わせる色艶形のキャラクター造形がキャンディーを巡る騒動を描いたストーリーにピタリとハマっている。必然がある。

 外国から来た人がいっていたのがそういうことかは分からないけれど、もしかしたら見里さんなりに素材とストーリーの関係性なり必然性を考えて作り上げたものなのかもいsれない。個展での上映はほかに髪の毛がはねる男子の苦闘を描いた「Natural Wave」が分かりやすくて面白く、「なんくるちゃんぷる」はゴーヤーチャンプルをはじめとした沖縄料理関心を誘う。明日どこかでゴーヤーチャンプルを食べた唸った。「あぶないい! クルレリーナちゃん」はフエルト素材のストップモーションを探求するための習作? でも自己中での運転が拙いよって啓発になっている。

 「恋はエレベーター」は3DCGとか使っているかもしれないけれど、2Dの平面アニメーション作品として濃いし合いながらも上下に分かれてしまうエレベーターの苦悩がよく出ていた。すぐにまた近づいてすれ違うのに。「あたしだけをみては」は今さら説明不調で、「みんなのアイドル起子ちゃん」は何のために作ったのかがっと不明だけれどアイドルでも脇毛はボウボウなのかも知れないって可能性に思い至らされた。それならそれで好きだけれど。最後に「Candy.zip」が流れて締めくくられていた上映会。「なんくるちゃんぷる」の声での見里家総動員が、沖縄料理を普及啓蒙する内容のこのアニメーションとどういう資格と経緯で作られたかが気になった。

 これが1面下の看板コラムに載ってしまうくらいのシャバドゥビドゥな会社になってしまっているのか。「ならば結果を出すことで信頼を取り戻すしかないが、現状はどうか。28日には、6月の有効求人倍率が43年4カ月ぶりの高水準となったことや、就業者数が54カ月連続で増加したことが発表された」「結果は出ているにもかかわらず、内閣支持率が低下しているのはなぜか。既得権益を手放したくない守旧勢力が、安倍政権をおとしめるために仕掛けたレッテル貼りと印象操作は、具体的成果すら見えなくしてしまう」。いやあ、株価が上がったっていったって入れちゃいけないお金を入れて持ち上げれば見かけはそうなるし、有効求人倍率だとか就職率だとかが持ち直していたってそれが景気の実感としてまるで感じられていないことが問題な訳で。

 デフレ傾向は続いてもの作りをしている企業は売れなくて大変。そこを公共投資でも何でもやって何とかする政策を打ち出さなきゃいけなかったのに、金融だけで見てくれを良くしただけで製造業は立ちゆないまま。それなりに規模を保っている企業は内部留保を積み上げるだけで賃金としては吐き出さず、将来への不安感だけが増している。そこに来てお仲間を優遇するような不遜さが見えてきて、増やした手下たちは不祥事を繰り返して選んだ者の目の節穴っぷりを示している。そんな政権の終末っぷりが分かって見せかけの数字に騙されるものかといった心理が、昨今の支持率の低下に拍車をかけているにも関わらず、レッテル貼りだ何だとヌかして守ろうとする。だったら今までの支持率が高かったのも何かのレッテル貼りの成果だったのか。メディアの翼賛には何も言わず批判にはレッテル貼りだと牙を剥く態度は完全に世間から乖離している訳だけれど、そういう意識も既になくなってしまっているんだろうなあ。やれやれ。


【7月28日】 種田陽平さんが出演した番組か何かで、美術監督を務めた長編アニメーション映画「思い出のマーニー」の美術に対していろいろな注文を出す場面を観たような記憶がある。本来は実写映画の美術監督としてセットを作り込んで映画の中で本物らしくみせるのが種田陽平さんだけれど、そうした経験があったからか平面に描くのが基本のアニメーションの美術でも、たとえば洋館の窓枠なんかにしっかりと厚みを持たせることを要求して、米林宏昌監督を参らせていた。ただやっぱりそうしたこだわりがあったからこそ「思い出のマーニー」という映画は、人物の演技に負けず背景となった湿地が広がる北海道の田舎町であり、建てられてから長い歴史を刻んだ洋館なりのリアル感ってやつが漂ってきて、全体をどっしりと分厚いものにしていた。

 そんな記憶が贔屓のように残っているからなのか、同じ米林宏昌監督による「メアリと魔女の花」を観た時に背景美術がどこか1枚か2枚、足りていないような気がしてしまった。実際に比べてみて遜色があるかというと、素人の頭だから明確には言えないけれども全体のトーンとして背景からにじみ出してくる、映画の世界が実在しているかのような分厚さにどこか及んでいないような気がしてならなかった。キャラクターたちによって繰り広げられる物語も、少女2人のひりつくような出会いから信頼を得て離別するまでの展開に引きつけられた「思い出のマーニー」と違って、冒険がメーンとなっているからか心理を深掘りにはせずさらっと流れていく感じ。その軽さが背景を軽く見せてしまったのかもしれない。

 なんてことを思いながら思いながら眺めてみた、小田急百貨店で開催中の「メアリと魔女の花 ジ・アート展」は最初にシーンイメージボードがあって、米林宏昌監督の手による可愛らしくって躍動感もある絵でキャラクターたちが描かれ、背景が示されストーリーめいたものが綴られている。実に楽しそうで明るそうな絵だけにこの雰囲気がそのまま映画になれば観ていてもっとウキウキできたかもしれない。でも実際の映画はキャラクターの雰囲気もストーリーもちょっと重ためになっていて、笑える場面が少なかったように思う。魔法学校に行ってからはちょっぴり軽快ではあったけれど、あれだけいる生徒たちとの絡みがなく書き割りのような雰囲気すら感じさせて物語から隔絶されていた。それが世界観から奥行きを奪ってしまったのかもしれない。その影響がだか背景の薄さに繋がっているのかな。どうなんだろう。

 「ジ・アート展」というだけあって手にしてあるのは背景美術が大半。スタジオジブリが制作を止めて行き場を失った背景美術の人たちを、米林宏昌監督が「メアリと魔女の花」と作ったスタジオポノックのプロデューサーが広い庵野秀明監督が率いるカラー、そしてドワンゴと組んで立ち上げが背景美術の専門会社、でほぎゃらりーに引き取ってそこで描いてもらったってことになるのかな。だからタッチはジブリ流だし、重鎮の男鹿和雄さんが混じっていて霧が漂っていたり、光が斜めに差し込んでいたりする森の奥の背景を描いていて、さすがは男鹿さん、分厚いなあと思ったというか、その重さが他にずらりと並んだ背景美術にあるかどうかが、結果としての観た印象につながっているのかもしれない。魔法学校に行ってからの背景は幾何学的で極彩色な面もあって雰囲気が別種。そこに生々しさがあるかどうか、ってあたりはちょっと判断に迷った。

 自分が消える魔法を使える場所があって「消えろ消えろ消えろ消えろ」と唱えると鏡に写った自分の体が消えるのとを体験できるのは面白かったけれど、しっかりと「消えろ」と言わないと消えずに動物にさせられてしまうので要注意。恥ずかしがらずに大声で「消えろ」と唱えよう。グッズはディブとぎギブというネコのぬいぐるみが割と充実。あとは竹箒。乗っても空は飛べなさそうだけれど、別室で乗って写真を撮れるので巧い人にとってもらおう、脚をびょんと上げて飛んでいるかのように見える姿勢で。メアリがつかっていたバッグもあったなあ、あれに本とか入れて持ち歩きたいけれど、あんまり物を入れるとストラップがちぎれそうなのが難点か。って普通の人は本を何冊も持ち歩かないって。タブレットに本と財布、それだけで街に出られる甲斐性を得たいなあ。

 責任を取るとしたら自身がPKOの日報が電子データの形で陸上自衛隊の中で見つかったにも関わらず、その報告を受けて公表をすることを避けていたのが後になって日報のデータがあったことが露見し、自分は知らなかったと答弁して嘘をついて関与を否定したことの道義的な責任であり、そして報告を握りつぶしたという組織のトップとしての誤りに対する明確な責任であって、決して下々の者たちが自分のあずかり知らない場所で悪事を行ってしまって、その管理者としてこれれは不行き届きだったと行って取る責任ではない。それだったら当人に間違った行為という実績がまるで存在しないように受け止められる。部下だけが悪かったと世間に思われる。

 そうなった時に部下たちは何を感じるか。やってられるかと思うだろう。そしてそんな無責任の責任をとらせたさらに上への憤りを抱くだろう。もしも国をしっかりとまとめるならば、問題を問題として指摘し処断するべきだったけれど、それが出来ない政治になってしまっている方が自衛隊の反乱とかどうとか言っている以上に拙い気がする。国を憂う者なら部下に悪事を押しつけ自分は無関係を装うトップにこそ筆誅を加え、それを許した存在へも筆を刺すくらいのことをするべきなのに、やろうとしないんだよなあ。そんなにしてまで安倍晋三総理大臣を守りたいのか。そんなにしてまで守ると何か良いことがあるのか。お寿司に連れて言ってくれるとか、安い理由じゃない何かを聞かせて欲しいものだけれど、国粋排外な意識しかなさそうだから聞いても無意味か。やれやれ。

 こうの史代さんの漫画というよりはそれを原作とした片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」を見た人たちの感想を並べたといった感じの「ありがとう、うちを見つけてくれて 『この世界の片隅に』公式ファンブック」(双葉社)が登場。多くが映画を見て感動して泣いた話をしていたり、気に入ったシーンを投票していたりして、こんなにも大勢のプロフェッショナルな漫画家やライターやクリエイターの人たちに、見られ慕われた映画なんだってことを改めて感じ取った。高橋留美子さんなんて大御所中の大御所が見ているし、小池一夫さんだなんて神様レベルの人も見て寄稿しているんだから。

 そんな漫画家の寄稿ではとり・みきさんが「遠くへ行きたい」の9コマ漫画フォーマットでもってバケモンが復活してから昭和21年の広島ですずさんに再開するまでをつづったような作品を寄せ、そちら側から見たビジョンってのを感じさせてくれたし、西島大介さんはコトリンゴさんに着目してその活動を描きつつオチで前髪について触れていた。オチといえばゆうきまさみさんも何となく知っていた監督が、何となく気に入っていた漫画家の作品を映像化するってんでクラウドファンディングした話を描いてそして見て感動したってことを描いていた。やっぱりオチがつくのはギャグやコメディ、あるいはずらしを心情とする漫画家さんたちの習い性ってやつなのかな。ユニークだったのは映画評論家の柳下毅一郎さんで、アニメーション映画ではなく漫画作品の「この世界の片隅に」について語っていた。漫画あってのアニメという源流を踏まえての言葉。なかなかに凄い。


【7月27日】 郵便で届いた「けものフレンズ」のオフィシャルガイドブック第5巻の帯に「2期制作決定」の文字が確認できて、時間はかかるかもしれないけれども確実に次へと繋がっていることが分かってひと安心。「ガールズ&パンツァー」だってテレビシリーズが終わってからOVAと来て、劇場版がヒットして最終章へ到るまでに5年が経過している訳で、長い時間を待ってもしっかりと続きが、それも納得のものが作られるのだったらファンは忘れないで見捨てもせずについていく。そういうものだ。

 不安があるとしたらあの絵柄、あの雰囲気が変わってしまうことで、吉崎観音さんが描く元絵とも言えるイラストと、そしてたつき監督が描いたテレビアニメーションとは明らかにキャラクターの雰囲気もビジュアルも違っている。もちろん吉崎観音さんのキャラ絵も売れてはいるけれど、その絵のまんまでアニメとして動いてもらうよりは、やっぱり僕たちが毎週を一喜一憂しながら追いかけた、あのアニメーション版の絵で動いてもった方が断然良い。というよりそうでなければ動かす意味がないとすら思っている人が大勢いそう。

 例えば「ときめきメモリアル」が、最初のどこか木訥な雰囲気の藤崎詩織を中心としたキャラクター達だったものが、「ときめきメモリアル2」で陰影のついてクオリティは上がったけれど、木訥な雰囲気が消えてしまったキャラクター達になって、ファンがちょっとびっくりした上に、「ときめきメモリアル3」でもって今度は3DCGによるキャラクター達となって、木訥さとはちょっと言いがたい素朴さでもってファンを愕然とさせた記憶を鑑みるに、人気の向上と技術の変遷がキャラクターにもたらす変化といったものを、認めるべきか否かといった問題が常に立ちはだかる。

 それでもやっぱり万人に受ける、世界が認めるキャラクターにしたいと陰影を濃くして素朴なサーバルちゃんを濃いビジュアルに変えてしまったら、ファンは絶対に離れるだろう。微笑んでもどこかポカーンとしていて、泣いてもやっぱりぼわーんとしているあの顔立ちの奥にある心情というやつを読み取って、変わらない表情に強い感情を察していったからこそ押しつけを享受するのではなく、自分たちで読み取って深め高めていく楽しみ方ができた。その楽しみ方を奪わないで欲しい、だからキャラクターの雰囲気も顔立ちもアニメーション版「けものフレンズ」を踏襲して欲しいとここに強く深く念じておきたい。どうなるかなあ。たつき監督はそのあたり、ちゃんと分かっていると思うけれど。いきなりハリウッド級にCGのレベルが向上して、ピクサー並みの動きや表情を作れるようになる訳ではないから大丈夫か。

 「ガールズ&パンツァー」と言えば劇場版の中で出てきた大洗リゾートアウトレットが、運営会社の問題もあって寂れっぱなしな上に、集客力も高かった「大洗ガルパンギャラリー」が出て行ってしまう問題もあって、先行きが不安視されていたけれどもどうやら運営会社が売却を行い、その相手が「大洗ガルパンギャラリー」の運営元とも組んで再建に乗り出すことになったとか。出て行った「大洗ガルパンギャラリー」も8月には戻って来るとあってまずは安心。「ガールズ&パンツァー」というシリーズにおいてランドマーク的な建物だけに、行ってそこにガルパン関係がないのはやっぱり寂しいから。

 何年か前に行った時にはまいわい市場もちゃんとあって、ガルパンがらみのグッズやら書籍やらも並んでいて、ナムコのポップアップストアも来ていて結構賑わっていた感じだったけれど、この数年で一気に寂れていったって印象。運営元が変わってリゾートアウトレットの運営ノウハウがあるかどうか分からない「大洗ガルパンギャラリー」の運営元が乗り出して、前みたいな賑わいを取り戻せるか分からないけれど、あの地域でアウトレットモールというのがもはや困難だとするならば、地域密着でありコンテンツツーリズム的な生き方を模索するような拠点へと、変わっていけば生き残る目もあるのかもしれない。周辺で扱っているグッズを集約するのはなし、それぞれのお店で買うから良いのであって、モールはモールでイベントも展示も含めた情報発信を行ってくれたら、また行った時に必ず立ち寄る。そんな場所になって欲しいなあ。

 渋谷のヒカリエでチームラボが新しい展覧会を開くってんで見物に。名付けて「チームラボジャングル」は、入った部屋がいきなりがらんとしていて、四方の壁と天井にムービングライトがこれでもかといった数取り付けられられていて、四方から照らされてビームで焼かれるか、それとも全身をスキャンされてアバター作りに役立てられてしまうのか、なんて思ったけれども実際はそうしたライトを制御して、時に真っ直ぐに光を下ろしたり交差させたりアーチにしたり渦を巻かせたりといった感じに光らせて、その中に自分を立たせることで光に包まれたような気分になれる場となっていた。

 そうした光の演出を楽しむだけなら、プロジェクションマッピングを観るのとあまり代わりがないけれど、「チームラボジャングル」はインタラクションが仕込んであって、水平に伸びる光に触れると跳ね上がって音がなったり、いろいろな模様を映し出してその模様に誰かが触れると跳ね上がって音が鳴り音楽が鳴ったりするといった具合に、能動的な行動が変化を生むような仕掛けがあった。何人かで競い合って模様に触れて音を鳴らす、そんな行為がそこら中で行われた結果、鳴り響く音楽に重なる音がその瞬間限りのエンターテインメントを作りだしていた。

 一期一会のアートであり体験。ミュージシャンのいないミュージックフェスティバルってチームラボの人が言っていたのも分かる。ミュージシャンは自分自身、正目の演出も自分自身、そして観客も自分自身といった感じ。そんなアートはここれが初めて、って言えるかも。光や音楽以外にも、光る巨大な風船が出てきては来場者によって跳ね上げられながら場内を行き来するタイトルもあって、中に居る人たちはもう一生懸命に追いかけては跳ね上げて転がして遊んでいた。大人でもそうなるんだから子供はもっとはしゃぐだろうなあ。そんなボールがゾーンによって色が変わったりして、そして移動する中で変化していくあたりにいろいろと仕込みがありそう。センサーを内蔵していて位置情報から操作された色を発するとか。

 でも、そうした仕組みを考える間もなく転がるボールをどうにかしなくちゃといった気になる。能動性を求められて乗ってしまう楽しさ。これが観るだけのアートではない、参加するアートを手掛けるチームラボの面白さって奴なんだろう。もしも東京オリンピック/パラリンピックで何か手掛けたら、どんなアクションをどんな変化を結びつけてくるだろう。映像をどんな場所にでも映し出すネイキッド、空間を光で彩るぎじゅつに長けたライゾマティクスなんかが手を組み作りだす、東京オリンピック/パラリンピックの開会式を想像するだけで楽しくなってくる。でも実際はAKB乃木坂欅坂が歌って踊っていたりするんだろうなあ。それとジャニーズが。やれやれだ。

 月刊WILLと月刊Hanadaといった見た目もそっくりなら書いている人たちも重複しているライティーな雑誌があって、そこで朝日新聞のワルクチを盛大にやらかしている御仁がいるんだけれど、中身がこれ本当に大丈夫なのかといった印象。というか所属している媒体でもって散々っぱら書いていることを、何とかのひとつ覚えのように繰り返しているだけで、そこに新しさもなければ工夫もなくって、それで原稿料をもらって自分に苦しくないんだろうかといった心配も浮かんでしまう。大きなお世話だろうけれど。

 例の加計学園の獣医学部誘致について、愛媛県の元知事が発言したことを朝日は「一般記事では一行も書かなかった」というのも決まり文句みたいに登場している。実際には詳報だとか一問一答だとかで触れてあるにも関わらず、まるで触れていないかの如くの印象操作は、突っ込まれたらたぶん負けるだろう。あるいはそこは逃げていると受け取られるかもいsれないえkれど、月刊Hanadaの寄稿だと続けるように「いっそ清々しいまでの無視っぷり」と、まるで載せてないかのような記述がついていて、これが相手から虚偽だ誤報だフェイクだと言われてしま可能性がある。ここは訴えられたら負けるじゃんなかろーか。

 でも相手もさすがに大人で、一部にしか存在を知られていない人物の限定された場所での戯れ言など気にすることなんかしていないのかも。ひとつ不思議なのはそんな月刊Hanadaの広告で、読売とワルクチを書いている御仁の所属する会社とでは扱いに差があったこと。読売は世間的に差別的と思われがちなタームを伏せ字にしているけれど、筆者の所属する媒体はそのまま掲載。これもまた世間に対する影響力を鑑みて、抑えるべきだと感じた最大日刊紙のモラルであり矜持と、そうでない媒体のレミング的ラストスパートに垣間見える投げやりな心理ってのの差なんだろうか。だとしたらやっぱりこの先やばいかも。やれやれだ。


【7月26日】 2017年の1月20日になってやっと初めて愛媛県の今治市に作る国家戦略特区に昵懇の仲という加計学園が経営する大学の獣医学部が作られるということを初めて知ったと25日の衆議院での閉会中審査で言ったところ、翌日の参議院での閉会中審査でそんなことはないじゃないかそれより以前に加計学園が特区に開校するってことを知っていたことを閣議徹底しているじゃないかと突っ込まれた安倍晋三総理大臣。いやいやそれは構造改革特区だった時代に知っただけのことであって、国家戦略特区になってからはまさか加計学園が申請していてただなんて夢にも思いませんでしたと言ってあくまでも国家戦略特区での加計学園による獣医学部設立申請を知ったのは1月20日だとiiの受けようとしている。

 だったら国家戦略特区を取り仕切っている安倍総理自身が申請があればすぐに自分も分かるはずだと大見得を切った国会での発言があって、その申請日は1月10日だからやっぱり1月20日じゃないだろうといった指摘があったら、その発言が勘違いでやっぱり知ったのは1月20日のことだと押し通そうとしている。どうしてそこまでこだわるのか、10日早いくらいで何か変わるところがあるのかと不思議に思ったけれど、どうやらその日程でなければ自分の権限において便宜が図られたんじゃないかと勘ぐられる事態があるらしいといった指摘。つまりはそうした勘ぐりが生まれるくらいに無茶で無理筋の強弁なんだけれど、当人も含めてそれが通ると思ってしまっているところに、この政権のヤバさってものがある。

 ほかに選択肢がない中で、長く活動を続けてきた加計学園と今治市がどうにかこうにかたどり着いて得た獣医学部設立だったら誰も異論は言わない。その計画が素晴らしく立地も当然とあれば文句なんてつけられないけれど、問題は決して特別ではない獣医学部が閣議決定された4条件をくぐりぬけて認められてしまったプロセス、そして決定されるよりはるか以前に教員を準備し建設のための資材も集めて許可がおりたらすぐにでも取りかかれるくらいになっていた不思議、それがその日程でしか開学を認めないといった新たな条件に乗れるところがそこしかないってことを見せ、他を退けるための方便に読めてしまう謎なんかがあることで、その説明がなされない状況で安倍総理が言を翻し続けるあたりに、やっぱり裏があると見做されても仕方が無い理由がある。

 それでも言い抜ければ逃げられると思っているところがやっぱり不思議というか。朝日毎日読売東京といった一般紙の大手どころがこぞって1面でそうした発言の矛盾を取り上げていて、流れは完全にその部分をどう説明するかってところに来ている。ただ1紙、1面どころか2面でもまったく取り上げずに3面でようやく国会での閉会中審査がお粉会われたことを書いている自称するところの全国紙もあったりして、そこに正しいバリュー判断が働いているのかって思われそうだけれど読者にとってのバリューではなく、会社のとってのバリューでもって大小を判断する癖があるからそれもまた仕方が無い振る舞いなのかも。とはいえ人心から乖離した手前勝手なバリュー判断は結果として読者離れを生む。そして何が起こるのか、って想像したところで当事者がまるで想像力を働かせていないから先は真っ暗。困ったなあ。

 たぶん良いことなんだろう。というかそれ以外の道を選びようがないとうか、新国立競技場が2020年の東京オリンピック/パラリンピック終了後に、陸上のレーンをはずして球技専用のスタジアムになるとのこと。陸上界からはどうして? って叫びも出そうだけれどオフィシャルの大会を開こうにもサブトラックが存在しない新国立競技場では不可能で、そんな場所でマイナーな大会をいくらこなしたところで収益には結び付かない。だったら球技専用にしてサッカーを週に1回とかラグビーを1カ月に2回とか開催して観客を集めた方がずっとまし。ラグビーの早明戦とか早慶戦なんて何万人も入るわけで秩父宮ではカバーしきれない。それなら新国立競技場を使えば良いといった具合に会場も埋まっていくだろう。

今のTOKYOの象徴、それは  合間にはライブとかイベントとかも開けば年間の稼働率も結構行きそう。取り壊される前の国立競技場だってラグビーだサッカーだイベントだって結構使われていた訳で、それを狙おうって考えなんだろうけれど、だったらやっぱり屋根はつけた方がいいよなあ、今はまだそういう計画はなさそうだけれど、サッカーのワールドカップを招致するなら屋根は必要。そのあたりも改装の時に考えてくれると思いたい。Jリーグのチームを誘致するのはFC東京も東京ヴェルディもちょっと無理だとしたら、このメトロポリタンに相応しいチームを新たに立ちあげ大金をぶっこんで世界的な選手を集めてワールドクラスのチームを作り上げるとかしたりして。誰がお金を? ソフトバンクくらいしかないかなあ。ちょっと期待。

 そんな東京オリンピック/パラリンピックに向けたカウントダウン的な催しとして東京都庁の東京都議会壁面でプロジェクションマッピングが行われているんで見物に行く。シネラマみたいな湾曲した壁面に何台かのプロジェクターで切れ目なくそして形状にマッチした形で映し出された映像は、東京の街を歩く群衆だったり浅草のような場所だったり。そしてなぜか挟まれる「AKIRA」の場面。なるほど2020年の東京オリンピック開催に向けて復興が進む東京が舞台のアニメーション映画だからピッタリといえばピッタリだけれど、その後に東京に起こる未曾有の大混乱を考えると決して演技のいいものじゃない。でもやっぱり世界に通じる東京のビジョンってことで使われてしまうんだろうなあ。タレントではきゃりーぱみゅぱみゅが途中で出てきて締めにも登場。今のTOKYOを象徴する存在ってことなんだろう、何十人単位で活動するアイドルグループではなく。3年後にも存在をより大きくして開会式を飾ってくれることを願おう。

 CMのどこが観られているか、そしてその時にどう感じているかが分かればCMの効果って奴も計れるし、もっと良いCMだって作れるようになるってことで、CM制作会社大手のAOI Pro.が始めたのが視線トラッキング機能を持ったVRヘッドマウントディスプレイのFOVEを使ったサービス。それをはめてCMを観るとどこに視線が集まっているかがフレーム単位で分かって、なおかつ心拍数とか心電図とかも把握できる。それらから分析することでCMの効果が分かるらしい。なかなかに凄い技術だけれど、これを応用すれば例えば映画の予告編だってどう誘導すれば感情が喚起されるかなんてことも分かりそうだし、視線の集中度合いから挟む映像だって選べそう。谷間とか? それはそうだけれど今までだったら監督の直感と経験で作られていたものが、科学的なデータを元に作れるようになる。もちろん分析不可能な感性がバズる要因になることだってある。でもそれすらもデータとして織り込んでいけば効果的にバズる映像だって作れるようになるかもしれない。AIって凄い。それに人間は操られっぱなしになるのか否か。未来が近づいている。


【7月25日】 録画してあった「セントールの悩み」を見始めてなるほどこれは「亜人ちゃんは語りたい」とか「モンスター娘のいる日常」とは違っていわゆる猿が進化したような人類は存在せず、誰もが人型ではあっても翼を持っていたり角を生やしていたり馬の下半身を持っていたり人魚だったりといった形態でもって生きて暮らし社会生活を営んでいるといったシチュエーションで、ゆえに形態の違いから差別なんかも起こって大変だったのがどうにかこうにか現代まで来て日本めいた国では誰もが平等に、そして突出もせず暮らしているといった世界観になっている。

 とはいえ過去に形態の違いがあって馬人は武士として讃えられた地域もあれば奴隷として他の人を運ぶ役割を言いつけられた地域もあったりと多種多様。そうした差異を森超えた今は馬人が誰かを乗せるといった行為自体が差別的なものとして乗った人を咎めるらしく、その馬力を行かせなかったりもする。それが良いことなのか悪いことなのか。とはいえ例えば類人猿が進化したような世界では差異があっても肌の色の違い程度で大きな差別は起こらなかったといった解説もあって、そんなことはない現実を知っている僕たちに人は些細な区別でもって上下をつけたがるののだといった認識が浮かぶ。

 だとしたら「セントールの悩み」の世界における差別はいったいどれだけのものだたのか。想像すると大変だけれど今はそうでもなさそうで、「亜人ちゃんたちは語りたい」の亜人みたいに無視はされず特別視もされない中で生きているような普通さがあって人間、頑張れば差別を撤回できるんだと思わないでもない。背後に公安とかの暗躍もあるみたいだから結構キツい世界なのかもしれないけれど。まるで天使みたいな見た目の少女が実家の神社で4人の弟妹たちを面倒みていたりする普通さってのも面白いなあ。あるいは肉体の差異を貶めるのも禁止なら、突出させることも禁じられているのかも。もったいないけど、そうした突出が差異を顕在化させて差別を生むとなると仕方が無いのか。認めるべき才能は認めそうでないのは労る気持ちが、改めて尊いと思えた次第。

 世界を救うためと言っても、そして他人を傷つけることんは慣れているとは言っても、無垢の少女を拷問し続けることは出来るのか。白樺みひゃえるさんの「世界の終わりに問う賛歌」(ガガガ文庫)という作品で問われるのはそんな難題。科学はあっても魔導が威力では絶大な世界で、「トネリコの末裔」なる膨大な魔力を発動できる能力を持った人間から魔力を搾り取ることが是とされていた。魔力が発生するきっかけは色々で、中には笑いが魔力を生み出す人もいた。そして痛みがきかっけになる人も。

 その身に痛みを覚えれば膨大な魔力を発動する。単位はそれこそ億兆レベルとけた違い。そんな才能の持ち主を世界は拷問することで魔力を発動させていた。そして新たに見つかったヘレナという少女も、魔力が発動するきかっけは痛みだった。ちょっと机の角に脚の指をぶつけただけで、人間が何人も生活できるだけの魔力を発生させてしまうくらい。そんな彼女を痛めつければいったいどれだけの魔力が得られるのか。魔力を発生させる鉱石が枯渇している時代、人間からの魔力供給を本格化させよとしていた国にとって、ヘレナは貴重な財産にして残酷な生け贄だった。

そんなヘレナを虐げる役に選ばれたのが、ブルクハルトというマフィアの拷問係。相手が犯罪者なら平気な顔をして痛めつけては命すら奪うことをためらわない。人間だから痛みは肉体を傷つけ死んでしまう。心が折れて死を選ぶ場合もあった。それでは持続して魔力を取れない。だから手練れの拷問士が雇われるたけれど、ブルクハルトは迷った。心を折って吐かせるのが拷問士であって、痛めつけるのは虐待に過ぎない。そしてヘレナに過去の誰かを重ねて拷問をすることをためらった。

 取るに足らない自分が世界の役に立てるならと自らを痛めつけることを認めるヘレナ。始まった戦争がブルクハルトに仕事を求めヘレナに痛みを求める。想像されるのはやっぱり悲劇。あるは離別。結果として起こる報いとも言える現象だけれど、切羽詰まって非人道がまかり通る世界にあって、純粋で無垢な少女の姿が多くの心を動かしたのか、とある結果へと到る。過程で起こった悲劇はある。犠牲もある。だからハッピーエンドとは言いたくなりけれど、それでも救われたのだと思いたい。そして願いたい。誰かを犠牲にして成り立つ世界など来てくれるなと。努力と研鑽と才能で世界が幸せになることを。

 「御社のデータが流出しています」をハヤカワ文庫JAから刊行した一田和樹は、サイバーセキュリティに関する専門化としての知識を活用したサイバーテロなどが絡んだミステリを数多く出版。その知見を少しだけ未来へと伸ばして描いた「ウルトラハッピーディストピアジャパン 人工知能ハビタのやさしい侵略」(星海社FICTIONS)では、メールやスケジューラーやメッセンジャーやそのた諸々のスマートフォンなりパソコンなりで使われているアプリを統合的に管理し稼動させるエージェント的な人工知能型クラウドサービス「ハビタ」の浸透が世の中に起こす最初はちょっとした、そしてやがて世界を震撼させる変化を描く。

 頼めば恋愛のマッチングも嫌いな相手の社員旅行からの排除も行ってくれるようになった「ハビタ」。人間の幸福を最大限に追究するというのが使命だから、排除された人間にも分かれた彼女とよりを戻させるような計らいをして気持ちよくなってもらう。監視カメラとも連動をして犯罪者を摘発することも行うようになった「ハビタ」はもはや社会のインフラになっていたけれど、歪莉という女子高生は気が乗らないのか「ハビタ」を使わずにいたらいつの間にかLINEが届かなくなった。

 「ハビタ」がLINEも操作するようになっていた状況下で、考えられるのは「ハビタ」を嫌う歪莉の排除。やがて学校に居づらくなった歪莉は、同じように流れに逆らいがちな叔父にかけられたサイバーテロの嫌疑から逃げるように街を出てそこでとある勢力を知り合う。一方で「ハビタ」は経営者に成り代わって会社を大きくしようとし、量子コンピュータまで買わせて自らを万能の存在へと発展させ、海外のサイバーテロ組織を壊滅させて世界を掌握しようとする。当然に反抗に出ようとする組織があって日本にいた歪莉と共闘して「ハビト」に挑むが……。

 ここで気になるのは誰の幸福も忘れず認める「ハビト」がひとり歪莉を排除したこと。利用者じゃないから? 多勢の幸福のために小事は気にしない? そんなことはない「ハビト」の意図が最後に浮かび、とてつもなく大きな掌で転がされる人類の姿、それが向かう次の世界といったものが浮かんで来る。AIは便利で賢い。そして恐ろしい? それともやっぱり頼もしい? 来たるAI時代のひとつの形を見せてくれるSF。姿をかえて地下に潜んだ「はびた」はやがてどんな博愛を持って人類を痛めつけるのだろう。そんな続きがあれば読んでみたいかも。

 わはははは。スジが違っているというか、頭がおかしくあっているというか、東京オリンピック/パラリンピックの組織委員会とやらはやっぱり世間というものをまるで分かっていない。選手村に建てるビレッジプラザというのがあって選手たちとその家族が交流する施設で、日本の伝統工芸とか特産品をアピールする場にもなるらしいけれど、その建設にあたって地方の自治体から材木を無償で提供してくれないかと言った呼びかけが行われるらしい。なるほど拠出されたものをあとで解体して戻せば地域でこれが五輪の遺産だよといった客寄せが出来るといった判断があるかもしれないけれど、柱1本板壁1枚を持ち帰って飾ったところで見に来る人なんていないだろー。

 そうしたリターンとの釣り合いの悪さを考えるなら、無償で提供するなんて愚挙を地方自治体がやるとは思えない。というかお金を持っている東京都が率先して地方の財政に役立つようお金を払って材木を買い、ついでに植林なんかも行って森林資源の保全に努めるくらいのことはしたって良いだろう。もしも無償ならそれこそ山から切り出して運んで製材して持っていくところの費用は自前で出すべきだろーけれど、後で返すんだからタダで良いでしょ的な雰囲気が漂って改まる気配もみせていなくって、これからの運用がよっとt危ぶまれる。レガシーになり得るなら複数創られる棟のうちの1棟をまるっと受け手資材を提供するくらいのことをやらないと。開催までどれだけ埋まるか。


  【7月24日】 土曜日曜とディファ有明で繰り広げられたユークスのAR performers 2nd A’LIVEは大好評のうちに幕を下ろしてそして来年1月の公演も発表になってますます期待も高まるところ。ボリュームアップに加えて技術なんかもいろいろ進歩しているようで、手にしたタオルを振り回すようなCGが登場していったいどうやってレンダリングしているんだろうとか思ったり、舞台上に立つパフォーマーたちを舞台側から客席を向いてとらえたカメラの映像がステージ横のモニターに映し出される場面があって、舞台上のCGで描かれたパフォーマーと同じ格好をしていて、角度を変えて描画しているんだと分かってていも、それだけのパワーを出してまで臨場感を出そうとしている運営に感嘆したりした。

 生身なら何台かあるカメラの映像を切り換え映すだけのものでも、CGのキャラクターだと角度を変えて同時に出力しなくちゃいけない。なおかつ背景となる客席とも合成する必要があって、そうした処理を瞬時に行いタイムラグなしで見せるだけの技術がきっと背後に育まれたんだろう。パフォーマー時代の動きもなめらかさが増していて、ジャンプだとかダンスだとかはもう生身の人間が演技しているのを観ているよう、というより人間より凄く激しく高く踊ってみせる。そんなパフォーマーが圧巻の歌唱力を聴かせてくれるんだから惚れないファンもいないだろう。作ってきた物語があって、そこに最高のクオリティで映像と声と歌が乗って生まれた共犯者のような意識が、内に留まらず外部に向かって大勢を取り込みより発展していってくれることを願おう。次はどんな驚きを見せてくれる感あ。

 ピカチュウを捕まえ損ねた渋谷の桜丘町で「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」の試写を観る。スカブコーラルを根絶やしにする作戦らしいものが繰り広げられていて、その戦いがなかなか熾烈で、地上からはチャールズ・ビームスとレイという後に夫婦になる2人が戦っていて、空中ではデューイとホランドのノヴァク兄弟もKLFで向かっていたりする中で、作戦を立案した人間で中心にあって指揮しているべきアドロック・サーストンの動きが何か妙だったりする。

 そして結局スカブコーラルを殲滅させられないまま大爆発のような減少、すなわちサマー・オブ・ラブが起こって地上は壊滅状態になる中で、消えていったアドロックが事後を託し、混乱の中を生き延びていたアドロックの息子のレントンを結婚したチャールズとレイのビームス夫妻が養子に引き取り育てて軍学校付属の中学校まで進学させる……ってこれは「交響詩篇エウレカセブン」なんだろうか、それとも『交響詩篇エウレカセブン』っぽい何かなんだろうか。なるほどテレビシリーズにもチャールズとレイのビームス夫妻は登場するけれど、レントンの養父養母ではなくゲッコー号を逃げ出したレントンが偶然出会った相手。そして並行世界を描いた「交響詩篇エウレカセブン ポケットは虹でいっぱい」ではレントンの死んだ父母だったりした。

 そうした設定をまるで違えた今回は、並行世界とかではなくって新たなる“本編”を紡ぎ上げようとしているような気がしないでもない。古谷徹さんによる声もついて本格的な登場となったアドロック・サーストンによるスカブコーラル殲滅のためのネクロシス作戦より物語を起こし始めたのも、テレビシリーズを遡るというよりは、この作戦を起点にして新しい「エウレカセブン」物語を紡いでみようといった意図のよう。そしてレントン/サーストンという少年が生き方に迷い逃げ出してはそこで居場所を見つけたかのように錯覚して失敗して逃げ出す繰り替えSの中に、成長って奴を描こうとしているようにも思える。失敗で学ぶ訳でもなく落ち込んでわめいてまた逃げるだけといった感じで辟易とはさせられるけれど。

 ただ、これはまだ3部作の第1作であってすべてが描かれている訳ではない。チャールズとレイに愛されながらも不満を募らせていたところに落ちてきたエウレカに引っ張られ、チャールズとレイの下から逃げ出してゲッコー号へと移り、そこで楽しくやろうとして厳しい現実を知って逃げ出してチャールズとレイの元に戻り、また楽しくやろうとしたもののボダラクの少女の一件でまたも暴走しては失敗して落ち込んで、いい加減学んで大人しくなれよと思ったのも束の間に、また自分の思いで突っ走っていった先にある“何か”を観るまでは、評価は避けた方が良いのかも知れない。

 テレビシリーズならばたとえ周囲の大人たちから抑圧され邪険にされても、エウレカという少女との出会いがあって恋情が育まれる過程があって、そこでキュンキュンとさせられたから、たとえレントンが莫迦でも阿呆でもいつか結ばれる時を願って見ていけた。い「交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1」にはまだ、そうしたエウレカとの出会いから交わされる心情、そして育まれる恋情といった描写がないけれど、ウザさをそれを乗り越えたどり着く場所を想像してここは我慢し、レイのつり目な顔立ちの可愛さとナイスバディぶり、そしてタルホの軍服姿の時の仕舞ったお尻なんかを目の滋養にしつつ、思春期に迷う少年を見守っていこう。冒頭の戦闘シーンは本当に迫力で格好いいから必見。

 メディアの自殺行為だなんてタイトルでコラムを書いている記者がいたけれど、デマ書いて名誉毀損で敗訴した経歴を持っている人間が書ける話題ではないよなあ。でも書いてしまうしそれが載ってしまう。何かが壊れているとしか思えない。愛媛県の加戸守行前知事の話を「本文中では一行も載せなかった」とも書いて他の新聞を批判しているけれど、サイドも詳報も一問一答も記事に変わりがないならそれはちゃんと載せてる。扱いの大小はあってもゼロじゃないなら、「サイドでしか載せなかった(ただしたっぷり30行)とか書くべきなのに、こう書いて載せなかったといった印象を振りまこうとしているのはメディアとしての正しい振る舞いか? これはメディアの自殺行為でないなら何が自殺行為だ? まったくもって支離滅裂なんだけれど、そうした自覚を客観的に抱けなくなっていて、それを媒体も止めようとしない泥縄泥舟泥田坊。やれやれだ。

 天皇陛下の譲位について話し合う政府の有識者会議内で出た意見に対して、天皇陛下が不満を漏らしていたといった記事がちょっと前の毎日新聞に出たけれど、それについて東大名誉教授の小堀桂一郎氏ら11人が、漏らした宮内庁の幹部職員は秘密漏洩でケシカラン、そして乗せた毎日新聞の社長もケシカランといった考えから、東京地検に告発したってニュースが流れてきた。なんだかなあ。だってこの小堀桂一郎氏、愛国的な言動でもって世に受けてきた訳であって、それならばまずは天皇陛下に心労を抱かせた者どもを名指しで糾弾してコノヒコクミンメと罵るのが先だろう。にも関わらず、お仲間だからかそうした糾弾はしないで、天皇陛下の心痛を漏らした宮内庁の職員とそして載せた新聞社を訴える。こんな人たちがこれからもしも愛国的なことを言ったところで信じていいのかどうか。もとより信じる気はないけれど、当人たちもそういった自省がまったく働かないところに、安倍ちゃんを囲んだライト方面から醸し出される悩ましい部分が見て取れる。やれやれだ。


【7月23日】 フジテレビで夜に放送しなくなってすっかり縁遠くなってしまった自動車レースのフォーミュラ1。日本人ドライバーがいなくなってしまったことも疎遠ぶりに拍車をかけたようで、今はもう誰がトップチームにいて誰がチャンピオンになっているかもほとんど分からなくなっている。ルイス・ハミルトンという選手がいて結構強いといったことくらいは分かっていても、去年はチャンピオンだったのかと思って調べたら違って2位でチャンピオンはニコ・ロズベルグ選手で、あのケケ・ロズベルグ選手の息子さんだとか。懐かしいなあケケ・ロズベルグ。走っていた姿は知らないけれどもその名前で強く印象に残っていた。1982年のチャンピオンかあ、まだアラン・プロスト選手もアイルトン・セナ選手も出てくる前、ニキ・ラウダ選手の晩年でネルソン・ピケ選手が台頭していた時代か。

 そういえばグラハム・ヒル選手の息子のデイモン・ヒル選手とか、ジル・ヴルヌーヴ選手の息子のジャック・ヴィルヌーヴ選手といった二世が前にいて、チャンピオンになっていたけれど、それも調べたら20年も昔の話。以後、ミカ・ハッキネン選手からミハエル・シューマッハ選手といった名前が連続してチャンピオンに輝くようになって、どこかF1がつまらないなあと思われ始めた中で、視聴率が落ちたかバブルがはじけてテレビ局にお金がなくなったか、地上波での放送が行われなくなってそして日本でレースが行われ続けていながら、まるで世間の関心がF1へと及ばなくなった、そんな中でニキ・ラウダという名前が飛び交っていていったい何が起こったのかと見たら、2018年からF1のマシンにドライバーの安全を守るための装置をつけるかどうかで揉めているらしい。

 その名前が「ハロ」。もしかしたら「機動戦士ガンダム」に出てきたアムロ・レイが手造りした万能ロボットがF1に搭載されて、ナビゲートから人命救助までやってくれるのかと思ったら、まるで違ってドライバーの視野をふさぐものだということるらしい。だったらやっぱり丸いハロがドライバーの前に置かれて視界をふさぐんだろうといったことはなく、コックピット-の上をロールバー的にガードするものを「ハロ」と呼ぶらしい。その先っぽがドライバーの真正面から生えていて、すぐに2股に分かれて左右に流れているというからマジ、視界の邪魔になりそうだけれど超高速で走っているF1ドライバーはそんなバーなど見通すように、はるか彼方の状況を見ながら判断をして走っているから気にならないという話もある。それで安全が守られるならベストだけれど、ニキ・ラウダが反対しているならそれなりの理由もあるんだろう。どんなものか、走っているのを見たいけれども地上波じゃやってないんだよなあ、残念。緑かピンクか確認したかったのに、ってそれは「ハロ」だろロボットの。

 「Dr.スランプ」っ子ではあってもドラクエっ子じゃないから、鳥山明さんがあんまり描かなくなったことは辛くても、すぎやまこういちさんが妙な方面に行ってしまったことに愕然とはしていないけれど、僕よりちょっと下の世代の「ドラゴンクエスト」で育った世代にとっては、ある種の神様でもある人物がここのところ妙な言動をとるようになっていて、世代によってはその影響も少なくないと思えるだけにちょっと厄介。10年以上前から右へ右へと傾いていたのが見えてはいても、最近はそれが極めて右へと寄っていたみたいで言うことのどこかに妙さが漂い始めている。最近も安倍晋三首相の声を流すテレビ局が音声を操作しているとか言い始めた。

 テレビで安倍さんの演説とかを聴いて、中身はともかく通る声だとは思っても、くぐもった声だとは思ったことはない。ただ、演説じゃないような国会答弁みたいな場では口調が速くなり、言葉につまったり急いたりするようなことはあった。それは口調であって声質じゃないんだけれど、そこに作為があるといった主張を始めている。自分は録音もするから分かるんだと。どうなんだろう。結果としての声に妙さがないなら単純に、安倍さんへのバッシングが起こっていることへの反論として、バッシングの“証拠”を探してこれかもと思い混んで、そこに理由をつけようとしたってことになるんだけれど。報じているメディアがライト方面にかっとび過ぎたところだからなあ。どっちにしてもすぎやまこういちさんの不思議な道行きにつきあう人がどれだけいるか。いくらドラクエ世代でも、やれやれと思っていそうだなあ。

 強いおばあさんは好きですか? ってことで犬魔人さんって人が描いた「蒼穹のアルトシエル」(スニーカー文庫)は隔壁に閉鎖された都市に暮らす少年は実はまだ5歳で、ある程度成長した姿でいたところを冒険家の女性に発見されてその女性は財産も地位もなげうって、その少年をヘイエ・イーリーと名付けて手元に置いて鍛錬し、探検家として鍛え上げる。暮らすのも大変なその日々で少年は遺跡へと出かけていっては資源を回収して金を稼ぎ、不治の病で余命半年と言われている婆さんのホン・イーリーを医者に診てもらおうとしているんだけれど、そんなある時、巨大な蜘蛛ににた機械を出会いその機械が喋りかけてきていっしょにお宝を探し、そして隔壁の向こうを目指すようになる。

 記憶を失っていたヘイエの過去には何かがあって、それを自分の命すら削ってでも守らなくてはならない理由はホン・イーリーにはあってそしてヘイエを奪おうとする都市を牛耳る企業のトップがいたりする状況から、ヘイエととしてアルトシエルと名乗った機械の蜘蛛はどうやって逃れ隔壁の向こうを目指そうとするかがストーリーなんだけれど、そんんな隔壁の向こうに何があって、世界がどうなっているかといった興味が解消されていないところがやや不満。それはいずれ描かれると期待したい。一方でホン・イーリーの強さは半端なくて、弟子で全身を強化した巨漢すら倒し雑魚は足踏みしただけで発生させた炎で焼き尽くす。いったいどうしたらそんな強さが身についたのか、ってあたりも知りたいけれど説明がないからそれもまいずれ別の物語に期待。生き延びて若返って活躍してくれたら惚れるかも。顔さえ斯くしていればスレンダーで美しい肢体をしている訳だし。

 この試合に勝てばなでしこリーグカップのグループAで2位以内が決まるから、トーナメントの準決勝への出場が決まるってんで成田までジェフユナイテッド市原・千葉レディースとアルビレックス新潟レディースの試合を見に行く。前に1度来たことがあたけれど何時依頼だろうと思い出そうとしたものの、すっかり忘れていて思い出せず。でもまあ場所は駅から遠くはないので、下手に市原臨海競技場で開催されるよりは行きやすい。そして到着すると直前にレディースによるクリニックが行われたたようでサッカーキッズたちがいっぱい。そんな観客を前に勝ちたかっただろうけれど、どうにもトラップが収まらないのとパスを出すのが適当で、止まっている相手にすらまともに届かず奪われてしまう繰り返し。あとは周囲が走らないからパスの出すコースも限定されたりして、ランとパスが持ち味だったはずの女子サッカーが前の放り込んでは混戦といった様相を呈していた。

 それでも後半は背番号7の鴨川歩美選手が入って前線からチェイスをかけて相手のラインを押し下げディフェンスラインに余裕を作ったことが奏功して押し込まれる場面が減り、サイドでは背番号24の千野昌子選手が開いて待ち受けサイド攻撃を促したこともあってチャンスが作れるようになっていく。そして何度となくゴール前に責め立てるものの相手ゴールキーパーの福村香奈絵選手が防いだりして入らず、0対0の引き分けのままで終わってしまった。そして同日開催の日テレ・ベレーザ対ノジマステラ神奈川相模の試合でノジマが勝てば残り1試合で勝ち点13に並ばれる可能性があったけれど、そこはベレーザだけあって7点を奪って零封して解消。3位以下は勝ち点7に留まって、ジェフレディースの準決勝進出が決定した。お目出度いけれどもこの内容だとベレーザには捻られそう。そこを勝ち抜くためにもトラップをミスせずパスは相手を見て出し自分の責任となったボールはアリバイ作りのように蹴り出さないよう、気を引き締めて臨んで欲しいもの。応援は行けるかなあ。


【7月22日】 1048勝っていったいどれだけ勝ちを毎場所に、そして何年間重ねればたどり着けるんだろう。大相撲で横綱の白鵬関が、魁皇関の持っていた通算勝ち星数を抜いて歴代1位に到達。誰も追いつけなさそうな記録と思わせながらも、しっかりと後から来る人が抜いていくところが記録って奴なんだろうなあ、とはいえ大リーグのピート・ローズが持つ安打記録はちょっと誰もたどりつけそうもないけれど。白鵬関の場合は現役筆頭の横綱だけあってまだまだ勝ち星を重ねていくことになりそう。それは誰も追いつけなさそうな記録だけれど、でもいつか、後から来る誰かが抜いていくと信じたい。いるかなあ。

 「ラブプラス」の内田明理プロデューサーがユークスで始めたAR performersって新しいエンターテインメントの2回目となるライブがあったんで朝から電車を乗り継いでディファ有明に。初音ミクのマジカルミライと同様に、ステージ上にスクリーンを張って、そこにプロジェクターで3DCGのキャラクターを投影していかにもステージ上に立っているように見せるものだけれども、ここん家が新しいのはモーションキャプチャか何かの技術でキャラクターがリアルタイムにダンスをしたりポーズを取ったり出来るようにしたこと。なおかつ声優さんなりシンガーなりも同じ場所にいてもらって声をあて歌も歌わせあたかも3DCGのキャラクターが生きてそこに存在しているように感じさせること。

 初音ミクの場合はNHKホールでの鼓童とのパフォーマンスでも、超歌舞伎での中村獅童さんとの舞台でも、喋りはあらかじめ決められたもので踊りもそれに準拠して、多少は出すタイミングなんかを変えられてはしてもアドリブなんかは絶対に不可能だった。それは動きでも同様。ところがAR performersの場合は、立っているキャラクターが回ってと言われてくるりと回ったり手を振ったりが可能な上に、喋りもその場で当意即妙なことを言えたりする。つまりは生身。けれども見た目は超イケメンの3DCGといったパッケージが、普通のアイドルだとかにタイするものとは違った感覚を観る人に与えてのめりこませるのだった。

 鼓童とのコラボで初音ミクは「アンコールはなしよ」と言ってそういうものだ感ってやつを逆手に取っていたけれど、AR performersはアンコールも可能ならそれがとつぜん別の楽曲に変わったところで対処できそう。いや、ダンスシーンとかは割とモーションは決まっているのかもしれないけれど、途中歌を止めてシャウトを入れた場面なんかもあったから、全部がリアルタイムでアドリブOKな作りになっているのかもしれない。ダンサーにシンガーがユニットを組むチームは結構大変そうだけれど、そうやればバーチャルをリアルに出来るとなれば、世界レベルの資金力でそうしたAR performersを作りネットを介して声とかモーションとかを添えるような仕組みを整え、どこにいたって誰の前にだって現れ個性たっぷりに歌い踊って喋ってくれるアイドルなんてものが、今後は生まれて来るのかもしれない。そういった可能性を感じさせるイベントだった。

 今年の1月に1st A’LIVEってのが同じディファ有明で開かれて、その時も観ているんだけれど、キャラクターの動きだとかがよりスムーズになって実在感が増したような気がした。あとは喋りもどんどんと巧くなっていてリアルに人間のアイドルがそこに存在しているというか、ぶっちゃけ訓練されている分だけAR performersの方が慣れた感じに喋っているようにすら思った。LEONとかもう関西弁が可愛くてダンスをすれば迫力といったキャラクター。そんな人間がいたら大人気になりそうだけれど、実物ではどこかに抜けが出るところをAR performersたちは理想のかたまりとして体現していたりするから、ファンになろうという人も多いだろう。

 そんなLEONは「FANTASISTA」っていう新曲を披露し激しいダンスも見せてくれた。床に片手を突いて逆さになるマックスって技を決めてたりして、いったいどうやって動かしているんだといった興味を抱かせる。そこはフィックスで途中をリアルタイムでレンダリングしているのかなあ。SHINJIは相変わらずに美麗な歌とダンスを披露。「The World Is Mine」と「A Song For You」は名曲だと思う。これを誰かリアルなシンガーが唄ったらってちょっと思ったけれど、歌って似合うシンガーなんていないから、ARのSHINJIってことになるんだろう。盛りあげられたキャラクターだからこそ盛りあげられた曲が似合う。そんな感じ。

 逆に盛りあげられているからどんな曲でも大丈夫になるってことも。カバー曲を歌う場面でREBEL CROSSのレイジがAcid Black Cherry の「Black Cherry」を歌った時とかまるでレイジのために作られたかのうよう。もちろん違うんだけれどエイベックスがこの曲を歌わせたくなるのも分かるというか、その意味では実在を信じるに値するだけの存在感をAR performersたちが持っているってことになるか。そんなカバーではmihimaru GTの「気分上々↑↑」なんかをSHINJIにLEONにREBEL CROSSのRAGEにDAIYAが歌ったあたりは懐かしのポップチューンでもこなして十分の歌声とパフォーマンスを見せてくれていた。新しいスキンでもって古の名曲を“復活”させるプロジェクトが、ここから始動していったら楽しいなあ。

 第48回星雲賞が普通はそこで発表になる日本SF大会の開催から1カ月も前に発表となって、ノンフィクション部門で池澤春菜さんが待望の星雲賞を「SFのSは、ステキのS」(ハヤカワ書房)でもって受賞。「星雲賞受賞希望」を帯でうたってアピールしていたのが奏功したのか、星雲賞に投票できる日本SF大会参加者のマインドにど直球だったのかは分からないけれど、アート部門が加藤直之さんで超保守的だった一方で、日本SF短編部門は草野原々さん「最初にして最後のアイドル」と超革新的だったりするから決まった評が誰かにいつもどおりに向かったってことはないのかも。ただ一方で早川書房のSFマガジンを起点としつつ狭い範囲で見知った作品が多いかなって気もするだけに、SF物がもっと広く目を外へと向けそこからSFを拾い上げるアクティブさを持って欲しい気も。メディア部門の「シン・ゴジラ」もいかにも好きそうだものなあ、来年は「けものフレンズ」が取れるかなあ。

 作曲家の平尾昌晃さんが死去。畑中葉子さんとの「カナダからの手紙」でのデュエットでぶわっと目にとまったけれどもそれ以前から作曲家として「瀬戸の花嫁」「霧の摩周湖」なんかを手掛けつつ、アニメーションでもテレビ版「銀河鉄道999」の荘厳な主題歌であったり第2期となるTVアニメ「サイボーグ009」の名曲とも言える主題歌「誰がために」であったり「宇宙海賊キャプテンハーロック」の重みをグッと感じさせる主題歌であったりを作曲して、アニメーションっ子だった僕らの耳に永遠に残るメロディを刻みつけてくれた。ハーロックでは印象に残った「さすらいの舟唄」も手掛けて入らしたのか。それくらいに同時代を音楽で彩ってくれた偉大な作曲家。亡くなられてもその音楽は永遠に心に刻んで耳に響かせ続けたい。合唱。


【7月21日】 人間に違いはないし職業に貴賎もないし学歴に優劣なんてないけれど、そうした平等のスピリッツを人間として持っていても、メディアの報道だとか一般の人の関心だとかいったものには、どうしても価値付けが働いてしまうもので、東京大学を出て電通にはいった美少女が過労によって自殺してしまった事件について、世間は騒ぎに騒いで国まで動いて電通は捜索を受け起訴もされてしまった。そのこと自体に間違いはなくむしろ当然と言えるんだけれど、だったら国を挙げて盛りあげようとしている東京オリンピックのための新国立競技場を作っている人の1人が、月に200時間を超える残業を強いられて自殺をしてしまった一件に関して、同じくらいに大騒ぎするんだろうかとうとどうにも心許ない。

 電通に倣うんだったら国は激怒して建設会社を叱り飛ばし、官憲は問題だといって摘発し、メディアは非道なふるまいだといって建設会社を糾弾するかというと、どうもそこまでの空気にはなっていない。どちらかといえば特定に近い範囲での上司の資質に問題があったように見受けられ、それをカバーできずに追い詰めてしまった人事労務に問題があったようにもとれる電通が、会社ぐるみの問題と見做され国から激しく糾弾されるのなら、遅れに遅れたスタートの関係で無茶な工期を強いられて、全体が馬車馬の如くに不眠不休で働かなくてはならなくなっている新国立競技場の工事現場は現場監督から請け負ったゼネコンから発注した国まで含めて全員に官憲の捜査が及んでおかしくない。

 でもきっとそうはならない。“国策捜査”とまで言われた電通のようにはなりそうもないのは、世間が国家的プロジェクトのために滅私奉公して当然といった気分を抱き、そして発注した国側も間に合わせるためなら仕方が無いといった感覚を抱いて、この一件を見ているからなのかもしれない。表には出していなくても内心で。そんな理不尽が積み重なって完成までにどれだけの犠牲が出るのか。築地市場だとか国際展示場といったものの問題も絡んで遅れに遅れそうな工期のつけがどこに回るのか。今から心配だし、しっかりと見ていかないといけなさそう。

 夏休みの午前中といったら小学校とか中学校の頃は家にいて、再放送されるアニメーションを観ながらゴロゴロとしているのが日課だったりして、そんな中で見た「海のトリトン」だとか「不思議のメルモ」だとか「宝島」だとか「ガンバの大冒険」」いった作品に強く惹かれ、繰り返し見るようになったのが、アニメーションへと深くのめりこむひとつのきっかけになっている。夜のゴールデンタイムだと自分が忙しかったり、親が別の番組を見ていたりして好きなアニメーションが観られなかったこともあって、夏休みの午前中とか平日の夕方の再放送というのは人生にとっても大きな意味を持っている。もし見ていなかったら多分、今のような人間にもならず仕事にも就いていなかっただろう。本当に。

 今はもうあんまり夏休みの午前中にアニメの再放送はやっていないし、夕方にもTOKYO MXで「機動戦士ガンダムSEED」とか「ルパン三世」がやっていたりするくらいで、前ほどいろいろ話題のアニメが数年の時を経て再放送されて、「機動戦士ガンダム」だとか「宇宙戦艦ヤマト」みたいなムーブメントを起こすなんてこともなくなっている。アニメがテレビ局の番組ではなくパッケージ会社の商品となってしまうと、そうした機動的な運用もしづらいんだろうけれど、そうした傾向をひっくり返すように今、新たな再放送から全国区的で全世代的に盛り上がるアニメーションの伝説が、これから生まれようとしている。そんな気がした「けものフレンズ」の夏休み期間の午前7時半からの再放送決定。

 僕らが「海のトリトン」を見ていたのは午前9時とか10時とかいった時間帯で、ちょっと意味が違っているけれど、それでもむしろ部活動とか塾とかに行く前のこどもたちが、「おはスタ」なんかを見たあとの時間に続けて見るには適した時間帯だと言えそう。8月の後半、夏休みもそろそろ終わろうかといった時期に12話を放送していく感じで、終わったあたりでちょうどパッケージというか、この場合はBlu−ray付きのガイドブックの最終巻が出るといったタイミング。だったら商売的にもオッケーといった判断があったんだろう。

 問題があるとしたら、朝のワイドショーを見たい両親を突破できるかだけれど、毒にも薬にもならない話で、子供の教育にもあんまりならなさそうな話題をどこの局も同じように流している中で、子供に見せても安心な番組がやっているならそっちにチャンネルを合わせそう。もしかしたら同時間帯で「ZIP」だとか「めざましテレビ」とか「朝チャン」といった並み居るモーニングショーを押しのけて、「けものフレンズ」が視聴率の1位を取るなんてこともあったりしたらちょっと最高。TOKYO MXのモーニングCROSSは硬派な話題で頑張っているだけに可哀相だけれど、そこは「けものフレンズ」のために我慢して。

 アドルフ・ヒトラーが政権の座に着いたのが1933年で、そこから第二次世界大戦を経て連合国にベルリンへと進軍される中で自殺するまで12年間、トップの座にあってナチスドイツという国を運営し続けた。第二次世界大戦を始めたのは1939年でそこから数えても6年ほど。国というのが戦力を固めて立ち上がったらそう簡単には滅びないし負けもしないって考えると、ジオン公国が地球連邦に戦争をしかけてわずか1年で国が滅びるまでの惨状に到ってしまうのはいかにも早い気がする。もうちょっと段取りを持って戦争を仕掛け、外交をもって均衡をとりつつ徐々に勢力を広げていかなければいけなかったのに、何を焦ってコロニーを毒ガスで全滅させ、落として地球の人口の半分を死に至らしめたのか。そこがやっぱり分からない。

 ギレン・ザビの狂気ってことになるのかもしれないけれど、そこまで知恵の回らない人間ではなさそうだし、負けたら戦犯だといった恐怖もあっての暴走だったかもしれないけれど、そもそもそうした戦犯に問われるようなことをやってしまったところに狂気がある。外交だとか交渉だとかいったものをやりつつ国を作っていくことが出来なかったのか、って考えるならそれはテレビアニメだから早くに進んだだけって結論にならざるを得ないんだけれど、それが「機動戦士ガンダム」のシリーズで終わっていたら良かったのが、「機動戦士ガンダム HTE ORIGIN」だなんてシリーズを立ちあげ、過去を描くことになってしまったため、性急すぎる展開をどう段取るかってところでやっぱり無茶が出てしまったなあ、ってのが第5章となる「激突! ルウム会戦」を見た印象か。

 ルウム会戦の段階ではまだプロトタイプっぽいザクが、テレビシリーズの段階ではすでに旧型になってグフだとかドムだとかゲルググといった新型が登場して、終盤にはジオングだのビグザムだのいったモビルアーマーまで作られている。たったの1年でそこまで進歩するものでもなし。それを言うなら地球連邦だってって言えそうだけれど、彼らが作ったのはガンキャノンガンタンクに続くガンダム1機と、あとは量産型のジムくらい。ジオンほどわずかな期間に大量で多種類の兵器を作った訳じゃないからまだ対応も可能だったのかもしれない。ってこれもまあ、テレビの都合に合わせた結果の無茶なんだろうけれど。せめて戦争が太平洋戦争の4年間くらい続いていれば納得も出来たかなあ、日本軍だって実にさまざまな戦闘機とかを作り投入していたわけだから。最後は人間爆弾まで。肝心なお話といえば、とりあえずタートルネックを女性が着ると体にピッタリとして胸がくっきりと浮き出るってことか。なかなかに最高。それだけ? それ以外は見てのお楽しみってことで。

 ハリウッドでドラマ1本の製作費がどれくらかって想像するなら、3億円から10億円って数字が出てきてしまう状況にあって、「ONE PIECE」をアメリカで実写ドラマ化するからといって、それだけの製作費を出してくれるのかどうなのか。プロデューサーは出すって行っているらしけれど、スパイものでもサイファイでもないカートゥーンの題材にそんな大金を出して見られるものが出来るのかがちょっと気になる。それともアメリカのドラマ向けに大きな改編を許したとか? それをやったら今度は漫画やアニメーションのファンも怒るだろうからやれないか。いろいろと企画が動いている日本発IPのハリウッドでの映画化なりドラマ化。そんな1本となった「ONE PIECE」の実写ドラマ化発表が、過去に累々と重なった企画倒れになるのか、それとも完成したら完成したで世界が阿鼻叫喚に包まれた「ドラゴンボール」になるのか。乞うご期待。


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