縮刷版2017年5月下旬号


【5月31日】 傍目には情緒不安定の子供にしか見えないニノだけれども当人の中ではピシッと整合性がとれている言動なんだろうなあ。「覆面系ノイズ」で桃と学校内で再会して近寄るなと言われたけれども駅前でまた再開して、昔好きだったけれど今は他に好きな人がいると言われ、本当は今も好きなんだけれど自分も昔好きだったと言ってしまって、そのやましさを塗りつぶそうと歌っていたけれど、歌詞なんかから後悔がぶわっと浮かんできて歌えなくなってレコーディングスタジオから飛び出していく。その心理の移り変わりは突飛だけれど突拍子もないってことはない。そんな当たりが感じられるからこそ見ていて胸がキュンと締め付けられるんだろう。

 ここで逃げ出す訳がないのは展開からも何となく伺えるんで、あとはどうやって気持ちに折り合いをつけるなり、逆に意欲を燃やして奪ってやるとかいった強さを持つなりして桃に挑んでいくんだろう。置き去りにされるユズがどうにも可愛そうだけれど、それがフラレ男の悲しさって奴で。CDの発売告知なんかも出てきたけれど、今度はin No hurry to shoutじゃなくってライバルバンドの黒猫の新曲みたい。歌っているのはAこと深桜だからつまりは高垣彩陽さんでイノハリのブートレグ版「ハイスクール」にも増して澄みつつ響く声を聞かせてくれるんだろうなあ。ニノの早見沙織さんは絞り出すような歌い方を続けるのかな。どんどん巧くなっていくのかな。ライブイベントで聞きたいなあ。アニサマで歌ってくれないかなあ。

 もしかしたら潮目が変わったのかも知れない。文部科学省の前川喜平前事務次官の告発に関連して、週刊文春2017年6月8日号は「<出会い系バー相手女性(26)>『彼は【前田】と名乗っていた。愛称は【まえだっち】。週2回会っていた時期もあり、3年間で30回以上。5000円くれていた。私は前川さんに救われたのです』」という記事を掲載。中身は読んでないけれど、どこかいい人話っぽくしてあるように伺える。そして週刊新潮の2017年6月8日号は、ここん家のスタンスとして官邸側に乗り、前川前事務次官の不徳を掘り下げ攻めてくるかと思ったら、「恐怖人事『菅官房長官』の『前川個人攻撃』全発言録」と来て「『大臣と調整』農水省も辟易した内閣府の文書捏造?」とも来て安倍政権への批判めいたスタンスを打ち出してきている。

 なんか意外だけれど、もしかしたら前川前事務次官の醜聞を掘ろうとしても、そうした話は一切でずにやっぱり良い話しか取れなかったのかもしれない。生々しさあふれる援助交際話が出てきたらそりゃあかき立てるだろうから。例の山口敬之氏に関する話も、同じ号の週刊新潮は「ついに女性がレイプの事実を顔出し会見で告発!検察審査会が動き出す『安倍総理』ベッタリ記者の『準強姦』」といった具合に安倍総理と絡めて批判している感じ。相手の女性について指弾するようなセカンドレイプ紛いのことだってしかねなかった雰囲気なのに、ここでは女性の側に理があると見たのかそちらに乗ってきた。本人が顔出しまでして会見した以上、そういうスタンスにならざるを得なかったってことなんだろー。

 というか最初の段階からでも十分に推察できた展開。警察が動きながらも止まってしまったという事実を前に、女性の側への非難はちょっと考えづらかった。それなのに週刊文春の元編集長は、安倍総理べったりの新聞でもって「密室内の詳細については不明だが、むろん山口さんは彼女の訴えを全面的に否定している」と書き「小欄が取材したところでは、数カ月前から、左翼系の何人かの男たちが、この情報をメディアに売り込んでいたという」「それにしても4月27日号の『新潮』で中川俊直代議士を告発した47歳の<別嬪(べっぴん)さん>といい、怖い世の中になったものだ」と描いて完璧なまでのセカンドレイプを放っていた。これって今となっては、というより当初から相当にヤバい記事だった。

 普通の神経だったらまず書かないし、書いて来たってこれは載せられないと媒体の方が断るはずが堂々と載せてしまっている。安倍総理を守るためなら倫理だとか良識なんて者を蹴飛ばしても平気ってところなんだろう。週刊新潮はそのあたり、ちゃんと分かって擁護もすれば批判もする。真っ当な言論ともはやネトウヨの落書きレベルに落ちた媒体っぽい何かとの絶対的な差。この件が進んでいけばいずれ問題視されるかというと、世間にまるで認知されていないのであたっという。やれやれ。

 ライブを盛り上げる機器やエンターテインメントを活用したサービスなどが集まった見本市の第4回ライブ・エンターテインメントEXPOと第4回イベント総合EXPOが幕張メッセで始まったんで見物に行く。東武動物公園が出展していて行くとヒヨコがいて動き回っていて、ハムスターがいて固まっていてその修正の差を堪能しつつブースにいた人と「けものフレンズ」コラボの話をしていたら、ほらそこにいるのがくどうおねえさんですよと教えられて見たらひよこのお世話推していたのが「けものフレンズ」でコツメカワウソの解説をしていたくどうおねえさんだった。もしかしたらイベント総合EXPOで最大の有名人かもしれない。次が仮面女子。

 ヒヨコを手に載せたり、午後にはヘイケボタルが暗闇で光る様子を解説したりと大活躍していたくどうおねえさん。ブースにはほか、移動動物園めいたものの案内はあったけれど「けものフレンズ」とコラボしているって話はなくって、それがあればもうちょっとアピールもできたかもしれないけれど、立っている看板を持ってきたらグレープ君が寂しがるから仕方が無い、っていうかやっぱり権利的に難しいのかも。コラボやってますポスターくらいなら張っても良いんじゃないかなあ。

 ライブ・エンターテインメントEXPOの方では毎回出展しては色々なVRを持ち込んで体験させている韓国発のメディアフロントが今度はラフティングのVRを展示。ゴムボートに乗って4人がそれぞれにVRヘットマウントディスプレイを装着してから前を見ると、急流に浮かぶボートに乗っていてそこからスタートしては急流を下り滝を落ち、ワニに吠えられ岩にぶつかり流木と一緒に流されてとなかなか大変。お腹が空いていると気分にも影響しそうなくらい視線が動き、座席も動く。これで水しぶきとかかけられるとさらに臨場感が増すかも。最後は流れがほとんど止まった場所で、ホタルを手にかざして近寄ってくる姿を間近に見ることもできる。日本の施設に導入されたら試してみいかも。

 メディアフロントでは前にハンググライダーに乗って火口や海上を飛ぶVRとか、高い場所でドローンを相手に戦うシューティングVRなんかを体験したっけ。作り込みもしっかりしていて遊べるものを出している。日本だとバンダイナムコエンターテインメントのVR ZONEが並んでいるくらいかなあ。その意味ではやっぱり韓国企業はフットワークが軽い。展示会にはこれはアドアーズの渋谷の店に出ている「ジャングルバンジージャンプVR」ってのも出していて、空中に浮かんだ人が上下に振り回されていた。胃に来そう。というかやっぱり高いの怖いと大変そう。でもやってみないと分からないしなあ。次に言ったら乗せてもらうかなあ。

 面白かったのはイルカってCGなんかを作っているスタジオが出していた、HTC Viveで使われているトラッキングの機能を応用して、人間の動きを読み取りリアルタイムでCGのキャラクターに反映させる生アニメーション制作システム。「きぐるみライブアニメーター KiLA」ってのがすでにあって手足につけたセンサーデバイスで身体の動きを直接読み取り、データ化して映像を生成する仕組みを提案していたけれど、イルカのはモーションキャプチャ的な手法をVRのトラッキングでやっているからシステムは簡素で値段も安そう。周囲の環境が騒がしいと、キャリブレーションしてもズレたりする可能性があるけれど、部屋の中でやればしっかりと動きもトレースできそう。これから流行るかもしれない、っていうかイルカってディアステージと同じグループだったのか。初めて知った意外な事実。


【5月30日】 詩的に大仰な言葉でもって、その年のボージョレー・ヌーヴォーの出来がどうだったかを、他に差し障りのないように表す言葉を取り入れつつ、宮崎駿監督の引退が繰り返されつつものその度ごとに至上の意味があったのだと伝えようとするパロディツイートを拾い上げ、それがツイートだったとも紹介せず、そしてパロディだったとも添えないままいかにも宮崎駿監督が言ったことのように報じたテレビ番組が非難を受けるのは当然で、まずはネタを勝手に拾ったことを詫び、そして本人が言ってもいなかったことを詫びて自省の構えを見せるべきだろー。それが公共の電波を割り当てられて公衆に向けて何かを送信する権利を与えられ、それで商売をして稼いでいるテレビ局の義務だから。

 けれどもそんな番組を作ったテレビ局は、間違いだったとは認めてもどういう過程でそうした言葉が生成されたかは言っていない。誰かのツイートをそのまま拾って付け加えたのは引用とはちょっと言えない剽窃でもあって、それはだから視聴者や取り上げられた宮崎駿監督に謝るだけでなく、元のツイートを作った人なり人たちにも向けて説明するべきなのに、どういう訳かああいったコメントがテレビ番組でいかにも宮崎駿監督が言ったことかのように伝えられたか、そのプロセスを説明しようとしない。つまりは剽窃だったと認めていないのはいったいどういう理由からなんだろう。

 当然誰もが気にするところで、さっそくテレビ局にネットメディアが突っ込んだけど「番組制作のことだから言えない」と話すだけ。剽窃があったもと言わず確認作業を怠った理由も面倒だからとか間抜けがいたからといった理由を挙げようとしない。どうして番組制作にことだと言えないと聞くと「えっ、それは番組制作のことだから言えないということです」とまるで意味不明の返事を返す。たとえば制作プロダクションが作ったものだから、局として把握していないなら分かるけれど、番組制作だと言えなくなる理由が番組制作だからといったトートロジー的なもので世間に通じてしまうと思っている、そのスタンスがこのテレビ局を民放で視聴率4位のところまで凋落させてしまったんだろうなあ。現状の把握、それへの対応がまるでできていない。社長が替わったみたいだけれど、上から下までこんな不遜では先はやっぱり大変かもしれないなあ。困ったなあ。

 F1ドライバーだったこともある佐藤琢磨選手はここんとこしばらくインディ・カーのシリーズに参戦していて2012年にはシリーズでも格上のインディ500で最終ラップまで2位につける活躍を見せたりしていて、いつか優勝もなんて期待も浮かんだけれどもそこは時速350キロという猛スピードで楕円形のコースをグルグルと回り続ける特別なレース。優勝にかける他のドライバーのモチベーションも高くて大活躍とはいかなかた。それでもずっと走り続けていた佐藤選手がついにやった。2017年のインディ500で日本人として初の優勝。本人としても他はサーキットを普通に走るシリーズの中で、伝統のオーバルコースをグルグルと走る、F1ドライバーとしてのテクニックとはまた違った忍耐力が必要なレースで初の優勝を成し遂げた。

 これは本人にとってもレース界にとっても快挙だけれど、それは同時に長くインディ500を開催し続けているアメリカという国にとっていろいろな意味も持ってくる。自分たちの魂にも似た場所に外国人が来たという意味? まあそれもあるけど外国人ならほかにも大勢優勝しているレースで、アメリカと戦ったこともある国の選手がアメリカにおける戦争の記憶と結び付いたタイミングで活躍してしまったことに、不満を覚えた記者がいてそのことをツイートしてしまった。気持ちは分からないでもない。でもそれはやっぱり記者としてやってはいけないことだったようで、批判を浴びて謝罪をし、けれども新聞社から相応しくないと解雇されてしまった。

 個人的な感情がどうであれ、特定の人種なり民族に対して侮蔑するような言説は絶対認められない。それが自由を標榜するアメリカという国、大勢の人種や民族が暮らしているアメリカという土地における大原則であって、それを逸脱すればどんな意図があろうと球団される。ある意味でとってもフェアな振る舞いがちゃんと成立している。翻って日本ではネットに匿名のヘイト言説が溢れているだけにとどまらず、新聞という場所で記者名を堂々と掲げて隣国の悪口をかき立てている。民族的な資質に根拠があるとまで書いて、転載されたポータルサイトからこれは拙いと削除された記事まで現れたけれど、それで書いた記者が解雇されたとか、処分されたといった話はきかない。差別的言説で裁判を起こされ敗訴しても出世するところだけあるというか。でもやっぱりいつまでも、そいうしたけんか腰の言説が通るはずもない。閉め出され狭い範囲で持ち上げられても、見上げると地下深くに潜っているだけ、そんな状況が迫っていると思いたい。いやそれもやっぱり困ったことなんだけれど。やれやれ。

 セガのドリームキャストで1番やり込んだというか、それしかやり込んでいないゲームが「サクラ大戦」か「サクラ大戦2」のどちらかで、あとは「シーマン」とか「セガラリー2」とかが好きだった記憶がある一方で、やってみたいと思いながらも手を出さなかったゲームが「スペースチャンネル5」。いわゆるリズムゲームもしくは音楽ゲームといったところで、相手が出してくるジェスチャーをしっかり覚えてそのとおりに自分も動くようボタンを操作して、クリアしながら進んでいくといった内容は記憶力とリズム力が求められて難しかったような印象がある。その一方で流れる音楽の軽快さ、リズミカルさには抜群なものがあって、ハマればどこまでものめりこんでいってしまう中毒性めいたものがあった。

 そんな傑作ゲームもドリームキャスト以外で流行ったかというとそうでもなく、リズムゲームがひとつのジャンルになっているスマートフォン向けにも登場してくる気配がないのは音楽の権利の関係か、マイコーを出す難しさかいろいろ想像も浮かんだけれどもここに来て、VRでもって復活の兆し。auによる夏端末の発表会があってそこでVR版「スペースチャンネル5」のデモンストレーションが行われていた。GearVRをかけてコントローラーを持って左右上下にふりつつボタンを押してチュウチュウチュウ。自分がその場にいるような没入感を覚えながらプレーできるのが、テレビ画面を見ながらコントローラを操作していたドリームキャスト版との違いというか、進歩というか。

 ゲーム性は同様のようで、見事にトレスできていれば勝利なんだけれど、慣れてないため動きが追いつかない。余裕が出てくれば左右を見渡し観客とかがいるのを楽しめたかもしれないけれど、今はとりあえずゲームに浸りきる練習が必要かも知れない。うららはやっぱり可愛いなあ。figmaにもなるみたいでちょっと流行りそうな「スペースチャンネル5」。スマホゲームにもならないかなあ、持ってないけどスマートフォン。ああでもHTC U11はちょっと欲しいかも。それをLINKってVRシステムに接続するとHTC Viveみたいに移動できるVRコンテンツを楽しめる。前にセンサーが必要なのはViveと同様だけれど軽くて簡単。それでいてハイクオリティ。立体ブロック崩しを試したけれどなかなかの迫力だった。7月には出るみたいだけれど、幾らくらいになるかなあ、端末のそろそろスマートフォンに替え時かなあ。


【5月29日】 フジテレビのドラマ版「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」の視聴率がグッと下がって4.2%になってしまって、これが月9じゃなくて良かったよ、裏が「小さな巨人」で負けてもしょうあがないよって言えるぎりぎりのところまで来てしまった感じ。これ以上下がるとさすがに深夜ドラマにすら負けてしまうことになりそうだけれど、案外に「小さな巨人」を観つつもしっかりと録画するなりネットで後で観る人が多かったりするのかも知れない。そうでないのかもしれない。現代においてリアルタイムの1番手以外の視聴率って本当に指標になりづらいんだよなあ。

 ただ、ストーリー的には女子高生たちを惑わせ以前に別の女性も誘い込んでは死へと追いやり、白骨化させてから蝶形骨だけ抜き去った花房なる人物をめぐる展開へと入っていて、いったい誰だって話になってドラマではとりあえず1人の人物が浮上したけれど、本当にそれだというには蝶形骨を取り出すといった作業でちょっと覚束ない。そう櫻子さんが推理した以上は別の誰かへと向かうストーリーが、残る話数で繰り広げられることになりそう。未だ見当も付かないそのストーリーをドラマがどう見せてくれるか。原作にはない驚きって奴を感じさせて欲しいなあ。とりあえず来週は絵にまつわる死の香り。その後に上下で解決編かな。個人的には唯一観ているテレビドラマなんで先が楽しみ。

 興行通信社の週末観客動員ランキングが出て2週目に入った湯浅政明監督の長編アニメーション映画「夜明け告げるルーのうた」がやっぱりベストテンに入っていなかった。公開初週の週末興行でも入っていなかったから成績的には低調と言えそうで、それが理由なのか土日を過ぎて月曜あたりから上映も1日に2回とかに絞られて、それも朝と夜といった感じにされてしまって普通の人が観に行くのも大変そう。

 ちょっと前に「創」の篠田さんが「君の名は。」「映画 聲の形」「この世界の片隅に」のヒットなんかもあって長編アニメーション映画が人気とかって文章を書いていたけれど、その3作とあと、原作が世界的に人気の「ソードアート・オンライン −オーディナル・スケール−」を除けば名探偵コナンだとかドラえもんだといったプログラムピクチャではない長編アニメーション作品は、軒並み低調といった感じになっている。後に続くと目された「ポッピンQ」も、監督のネームバリューは高そうな神山健治監督による「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜」も、ともに10億とかって数字には遠そうだった。湯浅政明監督の「夜は短し歩けよ乙女」も似たような場所にいる。

 そして待望のオリジナル作品として投入した「夜明け告げるルーのうた」も、この状況とあってちょっとやっぱり日本の長編アニメーション映画が、すっかり映画館の顔になって来たって話は引っ込めた方が良いような気がしないでもない。この後に公開されてくる「打ち上げ花火、上から見るか下から見るか」とか「メアリと魔女の花」とか映画館で予告編は流されているけれど、圧倒的多数が観ていた「君の名は。」での予告編とは違って届く範囲も限られ、誰にも知られない過ぎ去ってしまう可能性も考えられる。いや一応はスタジオジブリの系譜を歌える「メアリと魔女の花」は少しは良い戦いを出来るかな。これが10億円20億円いくかで今後のアニメーション映画の賑わいもちょっと変わってきそう。

 そう考えると、やっぱり地道に宣伝をして浸透を図っていった「君の名は。」が光るし、原作の良さをしっかりと演出しきった「映画 聲の形」の口コミによるブーストも輝くし、何年もかけて話題を燃やし続けてきた「この世界の片隅に」の頑張りも見逃せない。そうした宣伝の努力を置いて、長編アニメーション映画だからと同列に並べては、作品性では並んでいても収益面で差が生まれてしまう。作品にあった宣伝を、作品に合ったそうにしっかり行う作戦を、宣伝の人たちにはとって欲しいもの。今後の見通しで言うなら細田守監督が戻ってきてドカンと稼いで、やっぱりアニメは良いって思わせてくれれば良いんだけれど。ちなみに公開2週目となった「BLAME!」はミニシアターランキングで2週続けて1位。「夜明け告げるルーのうた」より買え出たりするとか、あるのかなあ。イオンシネマ幕張新都心では「美女と野獣」「バイオハザード:ヴェンデッタ」を抑えて1位獲得だもんなあ。劇場が大勢に見せたくなる映画作り、っていうのも不可欠の要素になっているのかもなあ。

 歩いて撃って、避けてまた撃って。そんなアクションを楽しめるVRアトラクションがクラブセガ秋葉原新館に登場するってんで見物に行ってプレー。「モータルブリッツ・ウォーキング・アトラクション」って名前だそうで、プレイステーションVRで楽しめるシューティングゲーム「モータルブリッツ」をフリーローム型のアトラクションに移植した、って感じになるのかな。PSVRだとその場にいながら映像の中でだけ自分のアバターを進めていっては、現れるモンスターを打ち倒していくんだけれど、こっちはPCが入ったバックパックを背負ってVRヘッドマウントディスプレイを装着し、手に銃を持って内ながら進んでいかなくちゃいけない。

 お台場の東京ジョイポリスに前に導入された「ゼロ・レイテンシー」にも似ているけれど、あっちが割と囲われた範囲に6人くらいが陣取っては、ぶつからないようにして周囲に向けて撃ちまくるプレーなのに対し、こっちは1人がモンスターを倒しながら順繰りに部屋を進んでいくといった感じ。全滅させては何歩が進んでいくようになっているけれど、途中にコースターとかあったりして、止まっていながら進んでいる感じが与えられ、それからトレインで移動なんてシーンもあって、5メートル×7メートルくらいの部屋の中を結構移動した気分いになれる。

 ちゃんと誘導が効いていて、VR空間と現実空間とのシンクロが巧くいっているからなのか、1本橋めいたものを渡る場面ではちゃんと最初から設置された細い橋の上を渡るようになっている。VRヘッドマウントディスプレイをかけているから分からないけれど、角に足がかかるとちゃんと角が感じられて橋の淵かもって気にさせられる。そこはバンダイナムコエンターテインメントとナムコが「VR ZONE」に置いていた「高所恐怖SHOW」と同じ。バーチャルとリアル融合がよりスリリングな体験を与えてくれるのだ。撃ちまくるだけじゃなく、避けてダメージを減らす必要もあったけれど、1回目はその辺を考える暇も無くただひたすらにシューティング。おかげでB評価だたんで、次は避けつつ1発で倒せるくらいに腕を上げつつ挑んでA評価を取りたい。つまりは何度だって試したくなるVRってことで。

 プルーフで読んだ7月12日発売の第6回ポプラ社小説新人賞受賞作という虻川枕さん「パドルの子」が素晴らしいのでSF者は刮目して刊行を待て。中学2年生の少年・水野が授業をサボり、取り壊し目前となっている旧校舎の屋上へと出る階段の踊り場にいたらサバーンという水の音が聞こえてきた。のぞくと屋上に水たまり。それも泳げるくらいに大きなもので、そして泳いでいる人がいた。学校でも評判の美少女という水原さん。なんでそんなことが出来るのか、分からないけど水野も入って潜る“パドル”をして出たら不思議なことが起こっていた。

 公衆電話に100円玉を入れたら50円玉と10円玉でおつりが出てきた。水野の記憶ではそんなことは起こりえなかった。だから変化に気づいたけれど、水原さんはそれが当然といった雰囲気だった。というか、いまどき公衆電話で連絡ってどういうこと? 水野にはそれが当然だったけれども、水原さんの口から「携帯」という単語が出て不思議さを感じさせた。何かがズレている。あるいはズラされている。誰かには自明だけれど誰かには違和がある、そんな変化が“パドル”をすることで起こるらしい。それはなぜ? そしてどうなる? 自分とそれ以外の人が起こす世界のズレがもたらす変化に翻弄される。そもそもの世界が不思議すぎる。雨が降らない。そして水は海からやってくる。それが普通になっているけど本当にそうだったのか? 誰かの思いが何かを変えてどれかを失ってしまう間に立って考えよう。世界は変わるべきなのかを。世界を変えるべきなのかを。


【5月28日】 そしてFAカップの決勝が行われてアーセン・ヴェンゲル監督が率いるアーセナルがチェルシーを下して倶楽部として13度目となる優勝を果たした様子。ヴェンゲル監督自身も2年ぶり7度目で間には2度の連覇なんかもあったりして、普通だったらそれだけで快挙と言われる話なんだけれどもやっぱりメーンはリーグ優勝でありチャンピオンズリーグの優勝となると少し格も落ちて捉えられてしまう。決勝はいざしらず途中の予選はターンオーバーで臨むチームもいたりして、そんな状況での優勝をリーグ戦と比べられないと思われてしまっている節がある。優勝したってチャンピオンズリーグには出られないし。

 ただやっぱり世界最古のカップ戦という重みはあって、たとえ世界最強のカップ戦ではなくても、それを欲しがっているチームはゴマンといる。そんな中で安定して成績を収めているのならやっぱりヴェンゲル監督の手腕は確かと見るよりほかにない。あとはリーグ戦で勝てない要因が采配なのかチーム力なのかを勘案し、その上で得られる栄冠も加味してこれで満足しておくのが分相応と思えばチームも来季をヴェンゲル監督と契約するだろう。もっと上を望めると考えれば契約はしない。そんなところ。

 ただこれで辞めたとして次にいったいどこに行くかを考えた時、欲しがるチームもあるんじゃないかなあ。マンチェスター・ユナイテッドとか引き抜いて監督に据えれば来季、リーグ戦でも優勝を狙えるような気もしないでもない。長くライバルとして舌戦と接戦を繰り広げてきたチームに行けるか、って矜持もあるかもしれないけれど、そこはプロ監督として望まれればどこにでも行って采配をふるって才気を見せて欲しいもの。来てくれないかなあジェフユナイテッド市原・千葉に。それは無理。それだけは無理。

 2週間限定だともう観られるのはこの土日くらいしかないと、イオンシネマ幕張新都心で上映中の「BLAME!」のドルビーアトモス&ULTIRAに行こうと昼からのチケットを抑えて劇場まで行って券売機から出したら夕方だった。ありゃりゃ。結構な混雑具合を見つつまあ座れるなと思いつつ、他の回もちゃんと埋まっているんだろうかとサイトを開いて座席の埋まり具合を確認した時に、そっちで買ってしまったみたい。まあ仕方が無い、ここからデザインフェスタに転戦して戻って来るにしても現地に2時間くらいしかいられないなら意味がない。それならとこちらもドルビーアトモスで上映されていた「バイオハザード:ヴェンデッタ」を観ることにしつつ時間まで、外の公園で開かれていたジャマイカフェスでチキンとか食べて時間を潰す。

 そして戻って観た長編アニメーション映画「バイオハザード:ヴェンデッタ」は「TheNEXT GENERATION パトレイバー」の第三章、エピソード4に当たってコンビニを舞台に激しい格闘戦を描いてみせた「野良犬たちの午後」を監督した辻本貴則さんが監督をしているだけあってアクションシーンには見るべき部分が多々あった。例えば最初にクリス・レッドフィールドが突入した屋敷で、死の商人でバイオテロを巻き起こそうとしているグレン・アリアスを相手に格闘戦を演じる場面の最初は、クリスが小銃を撃ちまくり、グレンが拳銃で相手をする場面ではバラまけば当たりそうな小銃の弾幕から射線をズラして避けつつ拳銃でクリスを足止めし、やがてグレンが銃剣を手にしてグレンがナイフを手にして近接戦闘を繰り広げる場面も、かすれば傷になる緊迫感の中で双方がしっかりと避けつつ攻めては一瞬の隙さえ許されない緊張感のあるシーンを作り上げる。

 ニューヨークで発生したバイオテロを止めようとしてクリスとそしてレオン・S・ケネディがグレンの居場所へと突入しようとするシーンでは、ドゥカティにまたがったレオンが追ってくるゾンビ化した猛犬を相手に巧みなハンドルさばきと体さばきによって時にアクロバティックな運転を見せつつ拳銃で猛犬を撃ち抜き看板などの道具も使って潰して撃退してみせる。そしてクリスとレオンがとおに建物の中でゾンビたちに囲まれた場面でも、クリスは小銃を操りレオンは拳銃を上下左右に振りながら、その身体も起こしくぐり倒して寝転び飛んで走って振り向きといった具合に、縦横無尽に動かしてはゾンビたちに手を触れさせず噛みつかせもしないでくぐり抜ける。

 ラスボスともいえるグレンとクリスの戦いも、前には負けているクリスがグレンの体術やナイフをかわしつつ攻めては避けられ追い詰められながらも逆転へと持っていくスリリングな戦いを楽しめる。人対人、あるいは人対ゾンビといったバトルシーンにおいてはガン・アクション・ムービーの第一人者としてその才能を存分に発揮している。あるいは日本において最高峰に位置するかもしれないそのアクション映像の冴えを味わいに行く分において「バイオハザード:ヴェンデッタ」は期待を上回る驚きを喜びを与えてくれるだろう。ただし。

 全体の流れとなるとやはりフル3DCGニメーションとしての制約もあったのだろうか、世界そのものを社会も政治も含めてしっかりと描くには資材が足りていないのか、とてつもないヒーローとその周辺の活躍だけで進んでいって背後で準備し支え動く組織の力が見えない。それこそグレンがニューヨークで強烈な人間を凶暴にする、それこそゾンビ化させるウィルスをばらまいて大変な想像を引き起こす場面で、政府が大々的に軍隊を送って封鎖しつつ制圧するような動きは無く、オスプレイに乗った5人が乗り込んでいってはレオンはドゥカティ、クリスともう1人はハンビーか何かで地上を行き、残る2人がオスプレイからウィルスを活性化させるガスを放出するタンクローリーを潰して回っているだけ。世界が恐怖に陥るような大事件にしてはあまりに対応が鈍すぎる。

 まあ、そこで軍隊一個中隊を投入したから展開から戦いまで全部描けといっても作業量的に難しい。ならばまだ体制が固まっていない中で先行していたクリスやレオンといった面々だけを緊急事態だからと活躍させ、それに少しの支援を与えるといったニュアンスに留めておいたと考えることも出来なくはない。そうした部分に納得できればバイオテロとはいったいどういったもので、どういう仕組みで発症してはゾンビものによくあるような投げっぱなしで済まされないで、しっかりとカタがつくようになっているから見て感動とカタルシスが得られる。そして少しの展望も。また何か起こるのか。それはどういう形で。そんな期待も得られるようになっている。

 ゲームもプレーしておらず、ミラ・ジョヴォビッチ主演の映画も見ていないから「バイオハザード」というシリーズの誰がどういう形で登場していて、それがファンにどれだけ嬉しいかは分からない。想像するなら過去にも似たような体験をした者たちが、クリスは戦いレオンは疲れ果てて酒に逃げ、そしてレベッカ・チェンバースという女性は戦いの最前線から退き研究職となってバイオテロへの対応策を練っている。そんなレベッカのショートに近い髪型とスリムながらもしっかり出ているボディラインは、フル3DCGであってもなかなかにキュートでそそられるものがある。グレンに捕らえられ着替えさせられたドレス姿は身体にヒットしスカートもタイトでなお官能を揺さぶられる。

 それくらいにフル3DCGでありながらもリアリティを保った描画がされている点はさすがというか。スクウェア・エニックスが「ファイナルファンタジー」のCGアニメーション映画「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」で繰り出したほどのリアルさに迫っているかと言われると迷うところではあるものの、プレイステーション4とプレイステーション3の違いまでいくかどうか。慣れればそこにリアルな人間の姿を感じられるようになるはず。あとゲームのムービーめいた演出で見ていてカメラが先走りすぎて酔いが生じた「KINGSGLAIVE FINAL FANTASY XV」と違って、「バイオハザード:ヴェンデッタ」は格闘も探索もオーソドックスに演出されているから見ていてCG酔いするようなことはない。びっくり箱のような驚きはもちろなるけれど、ホラー映画なだけに。

 クリスとレオンの無双が過ぎて、他の面々にどこが油断めいたものが感じられ、戦った経験のあるらしいレベッカもパニックめいた状態に陥ったりして苛立ちを覚えさせられる場面もあるけれど、人間驚くとやっぱり身動きがとれなくなるし、恐怖のあとには安心感も生まれて注意が散漫になるもの。だからこそそれがまるでないクリスとレオンのバケモノぶりも際立つと思えば良いのかも知れない。映像は良く格闘シーンに限っては最高レベルにあってバイオSF的な設定も楽しめるという意味で、見ておいて悪いことはない。マリアという名のグレンの側近でボディコンシャスなレザースーツをまといつつ胸元を大きく開いた女性の見目麗しさをもっといっぱい見たかった。それはだから次の話か。あるのか次。

 そして4度目となる「BLAME!」はULTIRAの巨大なスクリーンを仰ぎ見るようにしてシボさんのスカートの中をのぞこうとしたけれど暗くてよく分からなかったというか、そもそもあれはスカートでその下に柔肌は存在するのか、いろいろ悩んだけれども形態としてのスカートのその下にあるものを想像することによってくすぐられる官能があるなら、たとえ機械であっても樹脂か鉄板に過ぎなくても、嬉しく思えば良いんだと開き直って味わうことにする。踏んづけてきたサナカンを見上げる時もまあ同じ感情で。さすがに最前に近い場所で見るとドルビーアトモスの後から聞こえてくる音が小さくなって走りすぎる感じが掴めないけど、天井とか背後とかから包まれる感じは残るんでやっぱり優れた音響なんだろう。爆音に身を置くよりもこうした環境の方が好きかな。延長があるなら立川も行ってみたいなあ。

 なんちゅうか、いやらしさがぐわっと増してて地中に沈んで欲しいレベルになって来ていた長谷川某。受動喫煙の問題をどこか小馬鹿にするような言説を振りまいて、研究結果として危険性を訴えるハーバードの偉い人が異論を示して、それを見ておやおやそんな偉い人に関心を持たれている俺偉いとか韜晦にもならない嫌らしい言説を紡ぎつつ、そんな偉い人も間違っているんじゃねとばかりに俺偉いを醸し出してたりする。メッセージがもらえたことへの答えも似たような感じ。喫煙減っているのに肺がん増えてるのって変じゃない? とか言ってるけれど、昨日吸い始めて今日肺がんになる訳じゃねえだろうに。そんな思考も働かないまま、権力とか圧力に挑む俺カッコいいでしょ的ポーズが漂っていつかの透析患者問題と似たような雰囲気になりつつある。また燃えそう。でも謝らないんだろうなあ。やれやれだ。


【5月27日】 俺たちの戦いはこれからだけれどその前にちょっと大変そう、ってなところで終わってしまって「続きは?」と尋ね叫びたいのに相手にはもう届かない。残念であり無念でもあり不安でもありモヤモヤもする佐藤大輔さんの新刊にして幾つかある“絶筆”のひとつ、「エルフと戦車と僕の毎日 2 我が祖国の名は」(KADOKAWA)の上下巻は、なぜかいきなり日本の高校生が異世界へと召喚されて、エルフがユダヤの民のように故郷を追われ各地に移り住んで3000年が経ち、ようやく故郷ともいえる場所に独立国家を打ち立てられそうになったものの、その途端に責め立てられて大変だといった感じである種、イスラエルの建国と中東戦争を模したような構図の中に放り込まれて、エルフの側について戦車隊を立ちあげ率いることになる、といったストーリー。

 そして最初の「エルフと戦車と僕の毎日 バンツァーエルフの誕生」(KADOKAWA)では、まずは女性のエルフが事故とか病気にあいさえしなければ基本的に不老長寿でそして男性エルフなり人間の男性を魅了しつつ自分も相手に魅了され、仲睦まじ過ぎるくらいに仲良く暮らす性質があってそれが長らくエルフ国家の設立を妨げ、また人間とエルフの間の確執にも繋がっていたといった前提が語られる。それでもそれまで“聖地”を支配していた勢力が引いた間隙を縫って国家を立ちあげようとする独立派のエルフ勢力ががいて、そして長く闘争を続けていたその流れを引き継ぎ攻めてくる人間と戦い続けるといった別のエルフもいて、激しくエルフを憎む人間たちの集団もいて独立国家創設を阻もうとする人間の義勇軍いたりする勢力図も語られる。

 そうした中、今のこの現代、エルフが美女たちの集団で半ば憧れだといった認識に染まって生きてきた高校生が、異世界へと転移して独立派のエルフ勢力と出会いその世界の人間のようには差別の気持ちも依存の気持ちも抱かず、フラットに敬愛の意思を示したことに感激をしたエルフたちは、受け入れそして少年が持っていたミリタリーオタクとしての知識も活用しながら廃棄された兵器を買い集め、時には亡国の王族の特使といった身分も手に入れ武器商人たちから兵器弾薬を買い集めては軍隊としての体裁を整えていこうとする。

 戦車が数台で大砲もなく小銃の弾薬も数千発とかいったレベルでは数分と保たない軍隊のリアルでシリアスな実情を、しっかりと示して戦争ごっこ、独立ごっこのレベルに治めず俺TUEEEの無双も起こらないようきっちり締めている辺りが佐藤大輔さん。戦闘が始まれば包囲された都市にいるエルフに救援を送ろうとした輸送部隊が全滅の憂き目にあって少年の知人も少なからず戦死する悲しい事態も折り込みつつ、どうにかこうにかまっとうに戦える軍隊を作り上げて、文字通りに誕生したパンツァーエルフがいよいよ戦場に出て戦術レベルの戦いを繰り広げるのが「和が祖国の名は」。ここでようやくエルフ戦車隊、西へみたいなストーリーが始まる。

 つまりは本番。これもまたシリアスな戦いがあって、無双でも天才でもないミリオタでしかない少年が本物の天才軍略家(美女)を相手に対峙する羽目にもなって、架空戦記めいた色合いがグッと濃くなるんだけれどそんな戦いの中で起こった敗北にも似た状況、命の危険すら感じさせたところでパタンと閉じられて続きが読めない。この先にエルフたちは誰が命を散らし、それを乗り越え戦いに勝利して独立国家の体を成しつつ、その後も繰り出される他国からの干渉を退け続けて今のイスラエルみたな国家となり、内にパレスチナも抱えつつ現実の中東めいた緊張感に満ちた状況へと向かうのか、そこはエルフの博愛と人間の叡智が重なって、平穏と安定を得られる道が示されるのか。気になるけだけに誰か構想を文字にして欲しい。あればだけれど。あるかなあ。

 翌日のことがあるんで劇場へは行かなかったけれど、後になって行って大きなスクリーンで弾幕入りの画面を楽しむのも悪くなかったかもと思った「けものフレンズ」の一挙上映。途中の「じゃぱりとしょかん」辺りから見始めたけれどもそこからすべての展開を知っているにもかかわらず、ついつい見てしまうのは分かっている展開が心地よくて嬉しくて、そしてあの驚きと感動を何度でも味わいたいって思っているからだろー。あとはやっぱり体験の共有か。オープニングの「ようこそジャパリパークへ」に入れる合いの手だったり展開に対する驚きだったり。それは純粋な初見の驚きとは違うけれど、誰もがやっぱり驚いているんだという確認を通じて自分自身の感性を自覚できるのだ。またやらないかな、今度はちゃんと劇場で見たいなあ。

 そんな「けものフレンズ」で脚本家のクレジットが監督のたつきさんに変わったというアナウンスがあってこれは何事、って驚きはしなくてストーリーも展開もたつき監督がビデオコンテで決めていたっぽい話がイベントなんかで語られていたから、実質的にはそういうことなんだろうとは感じられていた。ただやっぱりクレジットというのは重要で、そこで最初に脚本家の名前が掲げられたってことは権利がひとつ確定したってこと。もちろん何もしていないのにそういう権利は発生しない訳で、プロジェクトの中でなにがしかの役割は果たしていたんだろー。でもそれがまるっとないことにされてしまった。脚本家の人がうん、それは当然だよねと納得してのクレジット外しなのか、売れてしまって発生するお金の問題もあってやっぱり違うんだからと引き上げられたのか。ドロドロとしたものも漂うだけにそのあたり、スッキリとさせて欲しい。せかっくの賑わったコンテンツがすいう“大人の事情”に汚されるのってファンとして嫌だから。

 徹夜明けでは行きたくないと劇場でのオールナイト上映を遠慮したデザインフェスタvol.45を見る為に東京ビッグサイトへ。いつもだったら西館(にし・やかた)が使われるんだけれど、今回は超久々に東館(ひがし・やかた)が使われていて、半分の4から6ホールとそして新設の7と8ホールも使われていて西館(にし・やかた)の1階と4階を使うよりも広々としたって印象。ただ西館(にし・やかた)の1階外を使ってのライブステージがなく、8ホールのステージがメインになっていた感じで音楽系にはちょっと厳しかったかも。

 印象としては雑貨系が増えているみたいで、ファンシーでかわいい系が多くてそれもまたデザインフェスタなんだけれど、街では売ってないような突拍子もないものに溢れているのがこうしたイベントの良さでもあって、そのあたり、メジャー化していくと起こる平板化にちょっと飲まれているのかもしれないたい焼きキーチェーがもうたい焼きそのままで、触れるとたい焼きの柔らかさがあって、猫の前に置いたら囓りそうなくらいにたい焼きだったけれど、果たして猫ってたい焼き食べるんだっけ。そこが気になった。常連のOTACCIMAN des PLIMEのサイケデリックTシャツはクジラが登場。浮き出ていたりして飛び出して見える感じ。集めたくなるんだよねえ、ここん家のTシャツとかカットソーは。

 niitu(ニーツ)ってブランドの和テイストジャージはそでが太く着物のようで、下も裾がふくらみつつしぼってあって袴みたいになって、上下色違いで着てもカッコいい。若い人でもご高齢でもOKそう。街着に使いたかったなあ。でもさすがにおじさんではだらしなくなるんで、soulってスポーツブランドから出ていたMA−1風のジャージの新日本プロレス仕様を買って帰る。5000円は安いんじゃないかなあ。ファッションではいつもの「リボン色の世界遺産」にて“女子高生×世界遺産“という意味不明だが説得力の高いデザインのTシャツをながめる。インドのチャトラパティ・シヴァ―ジー・ターミナス駅が登場していた。安かったのでカジュラーホー寺院群を購入。アクロポリスがやっぱり人気だとのこと。可愛いもん。

 面白かったのは「slitanimation」 ってのを出していたディーラーで、絵の上に白黒のスリットを重ね動かすと下の絵が動いて見えるから不思議というか、原理はスリットの幅に合わせて少しずつ変えた絵が描かれていてそれが順繰りにのぞいて動いて見えるってもので、6コマくらい? のアニメーションをその場で見せられる。画像だと分からないけど動画だとしっかり見える。あと工作系で「深谷式X」なるペーパークラフトのパズルめいたものを出していた深谷昌之さんのブースが面白かった。紙を折って貼り合わせて作ってある立体はくいっとひねって折りたため、引っ張って形を変えられる。円筒形のものを潰すとそこに模様が。不思議で楽しく頭も使う紙パズル。流行るかな。

 ほかは苔のテラリウムを出していたFeel The Gardenが良かった。似たようなものは前にも見たけど初出店のここは小さいフィギュアを入れて牧場だとかゴルフ場だとかの雰囲気を出していた。ゴルフとかラフ深そう。さばんなちほーとかじゃんぐるちほーも作れるかな? スポーツ系ではKystone工房が出していた「弾弓」が面白そう。遊びというかスポーツというか武道というか。弓でボールを飛ばすというもので昔から日本のみならず世界でやられてたらしいけど今やっているところは少なし。割とちゃんとまっすぐ飛ぶ。対戦でも射的でも流鏑馬でもどうぞ。erfolgってディーラーに行ってジュラルミン×レザーというソリッド&ハードな小物をも良かった。ジュラルミンのアタッシェで知られるAERO CONCEPTとはまた違ったレザーメインで削り出しのメタルが丈夫さとクールさを与える感じ。これから来るか?

  もう1度くらいイオンシネマ幕張新都心のドルビーアトモスで「BLAME!」を見てくるか迷い中。支配人の思いで劇場の1番大きなアトモス&ULTIRAスクリーンを使い日に何度も上映。全埋めは出来ないけれどそこそこ入って先週末は劇場トップの数字を叩き出したみたいだし、そんな思い入れにファンとしちゃ応えないといけないと思うのだった。ここも含めて「BLAME!」の劇場公開が成り立っているのも、そういった共感と場の共有、体験の唯一性というプレミアム心を誘う要素があるからだろー。

 なにしろNetflixで全世界に同時配信されてしまっている作品。わざわざ劇場に足を運ばなくたって目の前で細かいところまでしっかりと確認しながら見られるようになっている。それでもやっぱり大きい画面で見る方が良いに決まっている、という概念すらだんだんと薄れ始めている中で、音響とそして体験の共有といったハード&ソフトな+アルファで誘因しきれているのかどうか。劇場側としちゃ不安でがんばっても50館くらいしか上映館数が行かなかったもの仕方がない。全部の劇場に立川みたくお客さんが詰めかける訳じゃないからねえ。それでもイベント的な気分をどこまで作り出すことで、劇場のプライオリティを保つことはできている。岩浪美和さんが訴える音響革命も進めば、唯一無二の体験を求めて劇場へと足を運ぶ人も現れそう。作り手ががんばり、劇場が張り切りがファンが応える。そんな良い構図が生まれていって欲しいけれども、果たして。


【5月26日】 明治によるカールの中部以東での販売中止は相当に衝撃的なニュースだったようで、NHKで速報こそ入らなかったものの共同通信あたりではフラッシュ的にニュースが飛んで全紙が扱いテレビのニュースにもなっていた模様。そりゃああのカールおじさんが登場したアニメーションのCMは全国民的に認知されているし、CMソングも聴けば誰あって思い出して一緒に口ずさみたくなる。いわば国民的とも言えるスナック菓子が首都圏中部圏を含んだ人口の多い地域から撤退するのはやっぱり相当に売れてないのかって思え、どうしてそんな自体になったなといった疑問も浮かぶ。カルビーのポテトチップスなんて種類を増やしすぎてジャガイモ不足で減らすくらいなのに。

 まあ見渡せばコンビニで絶対に売っているスナック菓子でもなくなっていたりして、知名度はあっても人気はもうちょっと食べやすい「スコーン」みたいなものへと移っていたのかもしれないけれど、別にロジスティックの関係で、西日本にある製造工場から出荷して首都圏へと運んでいては採算がとれないようになってしまっているのかもしれない。東京だけ130円とかで売るわけにも行かないのなら全国的に値上げするか、販路を絞るしかないってことで。まあでも自分だって食べたのは結構前とか最近だとしても覚えてないとかそんなもの。消えて無くなるものでもないならここは見送りつつ「味カレー」を食べることで「カールカレー味」を思い出すことにしよう、って売ってないじゃん「味カレー」。美味しいのになあ。

 たとえ地球の裏側にいる人で、自分とはまったく関わりがなく、会ったことなんてもちろんなかったとしても、そんな人がいて、生きて、暮らして誰かとの関わりを持っていた、なんて話を伝え聞くことによって僕たちはその人のことを感じ、内心を想像して自分に重ね合わせて共に喜び、悲しみ怒ることができる。周辺に記憶され事物に記録されてさえいれば、その存在は伝わり思いは流れ込んで来る。人とはそういった共有と共感が可能な生き物だから。でも、存在そのものが忘れ去られてしまって、周囲の誰も記憶すらしていないような状態になってしまって、果たして僕たちはその人に共感を覚えることができるのか。存在したという記録だけあっても、感じた想いや周囲に与えた影響は掴みづらい。それでも存在を共有できるのか。ちょっと難しいかもしれない。

 存在の記憶が消えてしまう。周囲から完全の忘却されてしまう。そんな“忘却病”なる奇病が流行り始めている世界にあって、いつの間にか消えてしまう人たちのためになにかしようと、忘却病相談部というものを学校に立ちあげたのがアキという少年で、いつも保健室にいる桜良先輩という少女を頂きつつ持ち込まれる相談、自分が消えてしまう為にデートしてくださいとか、逆に消えてしまった誰かのことを思い出させて下さいといった話を聞いてあげている。昨日まで、というよりほんのさっきまでいっしょにいた人のことがもう、思い出せなくなってしまことだってある忘却病。そこにいたのなら写真だって記録だって残っているだろう、そういった情報から人物像を浮かべて不在を悲しめるだろうといった疑念も浮かぶけれど、存在というものは認識されてこそ意味を持つ。たとえ記録があっても、存在を認識できなければそこに感情は浮かばない。悲しみといった思いも抱かない。

 これはキツい。残された人たちにではなく忘却される当人に。だって残される人たちには存在が認識されないんだから悲しみようがない。喜ぶこともない。逆に忘却される側は、そうした状態になってしまうことを知っている。自分という存在がなかったことにされる。それは死ぬことと同様に、というか死ぬこと以上に辛いことのような気がする。死んだら当人には悲しみも喜びもあらゆる感情は浮かばない。当たり前だ。そして残された人たちがその不在を嘆く。けれども忘却病は残された人に不在への嘆きは生まれない。そして忘却された側は周囲に認識されない中をしばらくは生きていく。これは心が折れるだろう。だからこそ忘却病相談部に頼んで自分の存在を目一杯、感じてもらおうと足掻くのだ。

 もっとも、忘却病に罹った人たちが忘却された後、どうなっているかははっきりとは描かれない。収容されたといった話もあるけれど、そういった施設は登場しない。というより忘却されてしまった人に対して行政はいったい何をどう働きかけられるのか。どこの誰とも分からず、そして永遠に分からないままでいる誰かのために何かをできる行政があるとも思えない。だったらどこへ行くのか。そこに突きつけられるある可能性は、逆にいうなら残される人たちが死別などに対して抱く哀しみや苦しみといった感情を薄らげ、無くしてしまうために与えられた恩寵といった見方もできる。愛別離苦という言葉があるくらいに別れは人にとっての苦しみで、それからの解脱を与えるために生まれた奇跡なのかもしれない。でも。

 それで良いはずがない。苦しくても辛くても、覚えていることが出来るからこそ人は限りある生を目一杯に生きてそして、その存在を別の誰かに覚えてもらおうとする。そんな記憶の連鎖によって人という存在の文化は育まれ、社会は営まれてきた。その連鎖が断ち切られるのは滅びの時なのか。忘却病に喘ぐ人類にはもしかしたら未来が存在していないのか。そんな想像も浮かんでしまった五十嵐雄策さんによる「終わる世界の片隅で、また君に恋をする」(電撃文庫)という物語。ひとつ、抜け道のように強烈な記憶なり記録とともに人は忘却された人のことでもふと思い出せることが示されている。ならばまだ死んでないし、死んでもその生を意味のあるものにできる。衰退かそれとも快復か。どちらに向かうのかは見えないけれど、しがみつける部分が残されているのを僥倖ととらえ、誰もが思い出しそして戻って来る日を願いたい。続きはあるのかな。ちょっと気になる。

 専門職大学が出てくるっていうことで、将来を見越して様々な職業に就きたい人たちが早くからその道に関することを学ぶようになるんだろー。中には日本声優大学校なんてものも出来て、声優とかナレーターとか声で仕事をしたい人を養成しては大卒の資格でもって世の中に送り出すことも起こりそう。そんな大学には当然に声優学部とかアナウンス学部とか声優シンガー学部なんてものが出来て、声優学部にはシブゴエ学科大塚明夫専修とかイケボイス学科宮野真守専修とかってものが作られ、細分化された中でイメージにピッタリの声優が育成されていく、そんな中に屹立する金田朋子学部は、類似といったものを許さず孤高にして絶対の存在を送り出す学部。合格できるのも10年に1人くらいで、卒業できれば唯一無二の存在になれるけれどもそのまま自らの名前を冠した学部の教授となって後進の指導にあたるため、声優として活躍はできないのであったという。なんだそりゃ。


【5月25日】 少し前に名古屋市で起こったらしい在日朝鮮人系の信用組合に男が押し入り灯油の入ったポリタンクと、火の着いた布を投げ込んで逃げたといった事件。幸いにして灯油が燃え広がることなく消し止められて、怪我をする人もいなかったようだけれどこれがもしもガソリンだったら、弘前で起こった消費者金融への放火事件と同様に死者が出たかもしれず、灯油でも揮発していれば一気に燃え広がった可能性もあってただの放火未遂で終わらせていいといった話ではなく、それこそ殺人未遂の容疑をかけても足りないような気さえする。

 これほどまでに残酷で残虐な事態をいったいどうして引き起こしたのか、取引上のトラブルがあったかというと単純に慰安婦問題で韓国に悪いイメージを持っていたからといったもの。でも信用組合は座日朝鮮人系であって韓国と直接つながっている訳ではないし、そもそもが慰安婦問題に異論があったところで無関係の信用組合を襲って良いというものではない。というかどうして韓国が嫌いというだけで信用組合を放火するのか。これはもう純粋にヘイトクライムとしか言いようがなく、そういった短絡を実行に移せてしまった心理心情が、どうにも危険で恐ろしく薄気味悪い。

 いったい何が背中を後押ししたのか。それをやっても構わないといった気分になったのか。それはどういった背景から生まれて来たのか。考えるとやっぱり浮かぶ昨今の、韓国なり北朝鮮なりを侮蔑し非難する無根拠の言説の横溢で、日々それらを浴びていればだんだんと染まっていって奴らは滅ぼして当然といった考えになって来るのかもしれない。いやいやそこまでの短絡は個人の資質に依るものだって意見もありそうだけれど、何か危急の事態が起こった時に、蓄積されたネガティブな感情が一気に吹き上がって人々を動かさないとも限らない。結果、起こりそうな暴力的な事態。いつかの再来めいたことが起こり得る可能性って奴が垣間見えてなおいっそう寒気がして来た。

 本来ならば政府が即座にヘイトクライムを非難し暴虐を糺すようなステートメントを発して諫め抑える方向に誘導すべきなのに、そうした談話を総理なり官房長官が出したといった話は聞かないし、官邸詰めの記者が聞いたといった話も流れてこない。文部科学省の元次官が出会い系バーに通っていたかどうかは聞く暇はあっても、より深刻な問題を尋ねようとしない状況がすでにメディアにおいてもそれを大事と捉えていない可能性が浮かんで来る。

 実際、とある新聞なんかは舛添要一東京都前都知事が選定した東京都内の案内ボランティアの制服を挙げて「韓国風」と見出しに書いてネガティブな意味合いで使っている。読めばそこに浮かぶ侮蔑の心情。驚くべきことにその記事の本文のどこにも韓国風といった言葉は出てこない。見出しで韓国を蔑むような文言を添えればアクセスが稼げるといった、さもしい考えがそこにあるだろうと推測できるけれど、それを非難しても改める節がまるで見えないところに、社是めいたところで韓国や中国を非難し蔑み侮辱することで同調者を集めざるを得ないところまで、経営が追い詰められているんだろう。

 自分たちで読者の範囲を狭めて、大勢からデマだ何だと嘲笑されつつ狭い場所で王様気取りをしながら勝手に朽ちていく分には構わないけれど、それが信組に灯油を投げ込むような心情の醸成に寄与しているとなると、やっぱり早めに対策が必要。政府がヘイトクライムに繋がる言説に釘を刺し、そこから稼げないようにするとか、転載して拡散いる大手のポータルサイトが取引を停止するとか。でも彼らだってアクセスが大事なところは変わりなく、転載を止める気配はないし、政府にいたってはそのメディアがベッタリなんだよなあ、政府自体もある種のヘイト的な物言いで一部の支持率を稼いでいるところがあるようだし。困ったなあ。危急の事態が今、本当に起こったらどうなってしまうんだろう。考えるのも恐ろしい。

 サンリオピューロランドに1泊200万円で泊まれるのなら、中国あたりのお金持ちが即決で申し込んでは5人まで利用可能なプランに1人40万円で参加して、夜にハローキティの夜這いなんかを受けて楽しんだりしそうだけれど、キャンプファイヤーってクラウドファンディングのプラットフォームがそうした海外からの出資を受けているかどうか分からないんで、やっぱり海外の富豪にとっても高いのか、国内限定なのかをちょっと見てみたいところ。でもまあいずれ売れるだろう。サンリオピューロランドが始めたクラウドファンディングで夏祭りのイベントを盛り上げようってプロジェクト。他にも10万円でハローキティとデートできる権利も売られていたけれど、こちらには早速出資者が現れた模様。ちょっとした記念になるものなあ。

 このクラウドファンディング、特定の目的のために必要なお金を募るというよりは、夏祭りというプロジェクトを展開するにあたって、細分化されたプレミアムプランを作ってはクラウドファンディングという参加意識を誘うプラットフォーム上で販売し、限定感も誘いつつ出資者を集めて行こうとしている感じ。それで少しはイベントの運営に役立つのかもしれないけれど、ただ行くよりは提灯に名前が入るとか芳名板に名前が飾られるとか盆踊りの櫓に上れるとか朝の点検に参加出来るといった体験を通じて、自分がコミットしている感覚を得る方が嬉しいもんなあ。うまく考えた。果たしてどれくらいの出資が集まるか。そしてお泊まり希望者は現れるか。夜這いをかけてくるのはハローキティだけなのかそれともぐでたまが添い寝をしてくれるのか。興味津々。展開を見守っていこう。

 そうかこれからはネイティブアプリよりブラウザゲームの時代なのか、ってことを感じさせてくれたダイナムコエンターテインメントとドリコムとの新会社設立発表会。なるほどスマートフォンからアプリを探して触れて起動してプレーするよりも、普段使いしているブラウザからブックマークで飛んだ先でゲームを始めた方が楽だし、誰かを誘う時もアプリをダウンロードしてもらい、それからマッチングするといった手間をかけずとも、URLアドレスをメッセンジャーか何かで教えればそこからダイレクトにゲームへと行ける。コミュニケーションが拡散に不可欠な時代には、ダウンロードが必要なネイティブアプリよりブラウザゲームの方が伸びるってことなのかも。

 ただしアプリとしてパッケージ化されているゲームに比べてブラウザベースのHTML5なゲームは動きも遅くて通信速度に左右される可能性もあって、凝ったゲームの提供には具合が悪かった。それもだんだんと技術の進歩で代わっていて、ネットの容量も広がって前よりも頻繁なアクセスが可能になっていたりする。そうなるネイティブアプリに押し込む必要もなくブラウザからクラウドに飛んでデータをやりとりする方が軽くて速いなんてことも起こってくる。リッチなゲームはネイティブアプリといった概念がここに来て大きく変わろうとしているってことらしい。

 実際にデモンストレーションでは、アクションもあるネイティブアプリのゲームをHTML5のブラウザゲームとして動かしていたもんなあ。同等レベルの表現が可能なら、端末ごとの調整が入らず、アプリのプラットフォームに気兼ねすることなく提供可能なブラウザゲームの方が良い、ってことになる。そんな時代を見越して早めに手を打ったといった新会社の設立。ゲームもネイティブアプリからの移植にしない一方で、「ドラゴンボールZ」「ファミスタ」「アイドルマスター」と強力なIPを揃えて来た。それが出来るのがバンダイナムコグループの強み。それとHTML5でゲームを作れるドリコムの強みを併せることで市場を取りに行く、といった感じか。気づかないうちに変化しているゲーム環境。来年がどうなっているか、ちょっと楽しみ。


【5月24日】 フランスのオタクたちが中心となって日本のアニメーションだとか漫画だとかゲームだとか音楽だとかに止まらず、そんなアニメに出てくるキャラクターたちがどんな暮らしを送っているかも含めて日本の食だとかファッションなんかもまとめて体験したい紹介したいという思いから立ちあげたジャパンエキスぽってイベントが2000年からパリで開かれていて、日本からもおおぜいのクリエイターやらミュージシャンやらが出演をしてヨーロッパに飛躍するきかっけになっていたりする。そんなジャパンエキス歩が今年のイベントで日本アニメ100周年を記念した「アニメ100」って企画を展開するそうで、それもあって日本で発表会見を開いてくれた。

 ミュシャ展に入ろうとして並ぶ行列を横目に国立新美術館で開かれた発表会見には、創設者のひとりで副代表を務めているトマ・シルデさんが来て「UFOロボ グレンダイザー」が視聴率100%を獲得した時期に青春を過ごした世代が立ちあげたイベントで、そして日本のアニメからフランスのクリエイターたちは少なからず影響を受けていると話して、日本のアニメ100周年を記念する企画を展開できることを喜んだ。そんなイベントで名誉顧問を務めるのがマッドハウスとかMAPPAを率いて日本のアニメを作り続けてきた丸山正雄さん。50年やってるからでしょうとか謙遜していたけれど、現役として未だに「この世界の片隅に」とか作ってくれている人が先頭に立てばもっといっぱい、今の日本のアニメに注目が集まりそう。ゴルドラックにセーラームーンにドラゴンボールだけじゃない、ってことを分かって欲しいから。

 イベントでは日本のアニメから100作品が紹介されるそうで、それがどうなるかってあたりにも興味。古いのばかりじゃくて新しいのも入っていると嬉しいかなあ、でも日本での評判だけじゃなく、フランスでも大きな意味を持つ作品を取り上げているそうなんで、みればフランスとか欧州で日本のアニメーションがどう需用のされているかが分かりそう。行けないまでもリストは知りたいので言った人は是非に。行くのかなあ誰か。上映会もあってあの中村隆太郎監督による長編アニメーション映画「ちびねこトムの大冒険 ちきゅうをすく なかまたち」と「桃太郎 海の神兵」が上映されるとか。「ちびねこトムの大冒険」は今にも通じる環境の問題が描かれていて、力を合わせる大切さにも溢れているからフランスのみならず世界で見られて欲しい。持とう愛を。そして勇気を。そんなきっかけになって欲しい。

 珍しく案内が来ていたんで講談社の出版説明会へと出かけていって久しぶりに海猫沢めろさんの顔を見る。前に見たのって六本木で早川書房関係のイベントか何かあって、その流れで近所で飲んでいた時だったっけ、だいたい8年くらいは経っていそうだけれど、もともとがネット界隈で見たり見られたりしていて、そして「左巻キ式ラストリゾート」が出た時にSFマガジンにレビューを書いたりした時からだから15年くらいは経っていそう。その時は若くてイケメンだった海猫沢めろさんも若くはないけど未だにイケメンで羨ましい。おまけにイクメン。なんだそのドラマのような人生は。

 いやいや作家のような人生ってことで、そんな経験も含めて小説に下らしい7月25日発売の「キッズ・ファイヤー・ドットコム」って作品のプルーフをもらって読んだら傑作で腰が抜けた。ホストの部屋の前に捨てられていた赤ん坊をホストたちがウェーイと育てようとする話って聞くと男やもめの人情ロマンめいた雰囲気が浮かぶけれどまるで反対。ノリは軽く思いは真っ直ぐ。母親探しとかせず保育所探しに苦労もせず、自分で育てるのが当たり前と引き取りなおかつホストクラブでクラウドファンディングを立ちあげ育て見守る権利を売って金を集める。

 それは非道? でもそうじゃないとホストクラブで働いていた経験もあって、今はIT企業で大もうけしている三國孔明という男も巻き込んで、ロジックで固め反論し納得させる。世界にある可愛そうなこどもたちに支援するおとどう違う? そんな理論も入れつつ批判をかわしてスタートさせたその事業。名付ける権利や誕生日を祝う権利やランドセルを買い与える権利等々、様々な権利を子に縁遠い人たちが買って育てるクラウドファンディング。なるほどインチキくさい。でもあって悪くない。そうポジティブに思わせるのは、関わらずホストたちがだれも明るさ真っ直ぐだからか。

 自分ひとりでは育てられない子供なら、社会が面倒を見れば良い、けれども物理的に手は貸せない、ならばネットを介して資金だけでも、といった現代ならではの子育ての仕組みはひとつのナイスな提案で、政治ができないこと、やろうとしないことをホストが行い、そして私たちが行うためにはどんなシステムとどんな理屈が必要かが、小説として示されている。読めばなるほどこれを政策にしたいと思う政治家も出てくるかも、ってのは後日譚的な「キャッチャー・イン・ザ・トゥルース」へと続くんだけれど、ともかく難しく考えずあっけらかんと社会的困難を突破していく奴らのウェーイなスタイルにボトル1本。

 さて「キャッチャー・イン・ザ・トゥルース」。見守られて支えられて育った赤ん坊が6歳になった時に起こっている社会の変化、そして6歳の少年が抱く考えがウェーイの熱情がちょっぴり冷めた社会を刺す。それで良かったのかと立ち返らせる。けれども誰のものでもない自分の死を意識して少年は思う。冒険はまだ続けられる。そんな可能性を示唆してくれる。クラウドファンディングというアイディアが子育てを変える可能性、衆人環視の中で生きる息苦しさを当然と受け入れた先に自分自身をつかみ貫く必要性、そんなものが得られる海猫沢めろんさん「キッズ・ファイヤー・ドットコム」。作家の希望でEXILE出演によるドラマ化を希望。それとも映画化? 鳥飼茜さんの表紙絵を見るとメンバー感が漂っているというか。明るくて真っ直ぐなホスト演じられる男たちはジャニーズよりEXILEってことなのかなあ。

 なるほどコミックマーケットが大変ですよと言えば、そうした方面に理解がある人たちなんだ、僕たちのことを考えているんだと関心を向ける層もいそうだけれど、本当に考えてくれているのか、ただ支持が集まりやすいといったニュアンスもそこに漂っていたりするかがちょっと曖昧というか掴みづらいというか。小池百合子東京都知事が中心となって立ちあげた都民ファーストの会とやらが示してきた基本政策集の中に、コミケ2020年問題を解決という項目があっておそらくは東京ビッグサイトが2020年の東京オリンピック/パラリンピックで仕えなくなる問題を、どうにかしようって考えているんだととれるけれど、具体的にどうするのかとは書かれていない。

 別会場を用意してくれる? メディアセンターをどかしてビッグサイトで開催させてくれる? そうした確約とまではいかなくても方向性があれば安心できるのに、解決を口にするだけで具体案をこの後に及んで示せてないのことは、信じるのに躊躇いを覚えさせる。というか、コミケットが直面している問題は何もコミケットに限った話ではなく、東京ビッグサイトで開かれている大小様々な展示会が開けなくなって、出展企業は商売が滞りディスプレイなんかの企業は売上が減ってしまって大変といった話。だから展示会の協会なんかが声を上げて対応を求めていたんだけれど、それに対する具体的な政策は示されていなかった。

 だいたいが基本政策集で「コミケ2020年問題」が括られていたのは「観光」で、「経済」ではなかった辺り、都民ファーストの会が東京ビッグサイトの問題の本質をまるで理解してない可能性をうかがわせる。アニメ・漫画を観光資源として盛り上げようとも書いてあるけれど、それらは東京都にとってはひとつの産業であって、そうした視点から支援して欲しいというのがおそらくは都民的な感情。そして石原慎太郎元都知事はアニメ産業こそが東京の地場産業であるという位置づけから東京国際アニメフェアを開催して、商談会なんかも行えるようにして産業振興につなげようとした。それこそが東京都が政策としてやるべきことなのに、ネット受けが良いからとコミケ問題の解決とか、アニメ・漫画の観光資源化を口にする。そんな上っ面の言葉に靡くとあとでどうなるか、ってあたりも含めて出方を吟味して欲しい。東京都民じゃない僕にはそう言うことしかできないのだ。大丈夫かなあ。


【5月23日】 5.0%まで落ちていた、フジテレビのドラマ「櫻子さんの足下には死体が埋まっている」の視聴率が第6話で5.3%にちょっとだけ上がったみたいで、右肩下がりの場合はだいたいどん底へと突っ走っていく例の多い状況で、よくもまあ盛り返したもの。想像するなら原作でいうところの花房が絡んでいく前段として、3人の元女子高生たちが過去に行っていたことが、暴かれその真摯だけれど衝撃的な内容に驚きつつ、自分たちのことでもあるかと女性層が見入ったのかもしれない。中が良さげに見えて、男関係でひびが入ってそしてどろどろとした感情のぶつけ合いが起こって壊れていく。そういうものなのかなあ、女性の仲ってのも。

 そして続く展開が示されて、蝶形骨なるものが頭蓋骨から抜かれてしまう事件がそこに重なって、まだこれは明示されてないけれど、自殺を誘いかけた女子高生の頭蓋骨からもいずれは蝶形骨が抜かれた可能性、そして自殺へと誘導した謎の男の存在から、いったい誰で何が起こっているんだという気になって、これは見なくちゃとなって来週以降も見てくれれば視聴率も6%を上回り、こちらは下がり続ける月9の「貴族探偵」すら上回ってしまうなんてこともあるのかな。大人気となって同じキャストで映画化とかされて欲しいかは迷うところではあるけれど、好きな原作までもが否定されるよりはこうやって盛り上がってくれればそれはそれで。本当はアニメーションの第2期が来てくれれば嬉しいんだけれど。ないかなあ。あるかなあ。

 引きこもりっきりという訳ではないけれど、都会から母親と別れた父親に連れられて漁港のある町へとやって来ては、あまり誰ともコミュニケーションをとろうとしないカイ少年がいて、打ち込みによって宅録をした音楽をネットにアップしていたら、中学校の同級生らしい国夫と遊歩という男子と女子に捕捉された。すぐに消してしまったけれど、国夫や遊歩は誰彼かまわず話しかけるタイプで、学校でお前だろうと尋ねられバンドやろうと誘われて、拒絶していたけれども家で音楽に浸っていたらそこに現れたのがルーという名前らしい人魚の少女。音楽に合わせて躍り、尻尾が割れて足まで出来るルーの嬉しがる姿にカイは、国夫や遊歩といっしょに音楽をやってみようと思うようになる。

 湯浅政明監督による長編アニメーション映画「夜明け告げるルーンのうた」はそんなストーリー。カイたちが暮らしている陽無町には人魚が人間を襲って喰らうという言い伝えがあって、実際にカイの今は日傘職人をしている祖父は、海女だったらしい母親が漁をしている最中に人魚に襲われたかして海に沈んだまま戻らなくなり、また海辺でいつも銛を構えている婆さんも恋人を人魚によって奪われたと長く信じ続けている。御陰岩なる港を影にしている巨大な岩に祀られている神様が、何かのたたりめいたものも起こして海が上がって町を浸してしまったという話もある。そんな伝説から人魚を怖れる人たちもいれば、人魚ランドを作って儲けようとした遊歩の祖父で町の有力者もいたりした。

 そんな周囲の思惑や困惑をよそに、カイや国夫や遊歩は、寂れた人魚ランドでの楽しかったライブから音楽をもっと人前で演じたいと思い、海岸で開かれた祭りで演奏する機会を得たのを好都合とルーを引っ張り出そうとする。太陽の光に当たると燃えてしまう人魚を昼間のイベントにどうやって引っ張り出すか。とりあえずクーラーボックスの中に入れて歌わせていたけれど、飛び出したルーは陽無町の特産品の日傘を掲げて躍り回って一躍有名になってしまう。漁港でありながら日傘の特産地だという設定がここに生きてくる。あるいは展開のために特産品を設定したか。

 その場面を見て遊歩の祖父や水産会社をきりもりしている父親や、商工会やその他有力者はルーを引っ張り出して町おこしに利用しようとする。そのために遊歩と国夫とカイにバンドを続けるように言うけれど、そこでカイは抜けてしまう。音楽が好きで音楽を作ってルーが気になってルーといっしょにバンドに出ていたにも関わらず、臆したか怖くなたか逃げ出してしまい、ルーを人目にさらされるような場に立たたせ、自分を信じるルーを危険にさらして驚かせたりもするカイには、やっぱり無責任といった印象が漂う。そこに感情ののせづらさがある。

 とはいえ、まだ中学生というカイを考えるなら、自分自身のことが精一杯で、離婚して田舎に戻り水産会社でこき使われている父親と世界に飛躍した母親の間で鬱屈している状況で、すべてを前向きになんて考えられなくても仕方がない。誰かのために何かをするようなゆとりもない状況に、浮かぶ嫌悪はあってもそういうものだからと理解し踏み越えさせすれば、あとあ後半の後悔から覚醒へと到るカイの姿に成長を見て、気持ちを添えることができるだろう。

 どこまでもカイを信じるルーが捕まり、助けようとして現れたパパも交えたちょっとしたスペクタクルと、その先に起こるちょっとしたパニックが後半のメーンとなっている「夜明け告げるルーのうた」。娘思いのルーのパパの姿に感じ入り、決して人間たちを憎んでおらずむしろ積極的に助けようとして、その身を陽光にさらしさえもする人魚たちのどこまでも前向きな姿に感慨を覚える。そんな優しさに背をむけて自分の殻に閉じこもっていたカイの反転に、自分もと思って走り出そうと決意する。カイのように沈んでいて籠もっていて下がり気味だけれど、それではヤバいとも思っている若い世代に、立ち上がり歩き始めるきっかけを与えてくれるストーリーだ。

 もうひとつ、大人になって挫折したり、壁に当たったりして落ち込んでいる人たちにも、そこから新しい自分を探して向かっていこうとするきっかけになるストーリー。ダンスか何かを目指して都会に出ながらで戻って、今は養殖の仕事で活躍している青年も、モデルかなにかを目指して都会に向かったものの、戻って防災放送のアナウンスをしながらカフェの開業や陶磁器作りの道を目指して頑張っている女性も、どちらもしっかりと居場所を得て前へと歩き始めている。カイの父親も妻のやりたいことを認めつつ、自分のできることをやろうと田舎に戻って水産会社で働き始めた。それらはひとつの挫折を経てはいても、今の鬱屈にはなっていない。そんな姿から自分の居場所を探してみるのも悪くない。

 朝のワイドショーでなにやらマンチェスターで開かれていたアリアナ・グランデのライブで爆発が起こって大勢の死傷者が出ているといった速報を流していて、いったいライブ会場のどこで爆発したんだと続報を待っていたら、会場の中ではなく外でライブが終わった後、観客が出てきたところで爆発が起こったとか。中だったら入場時にチェックとかもできるだろうけれど、これは警備の人も防ぎようがない。そして起こることから身を守るのも難しい一件に、できることはこうしたテロなんて起こりえないくらいに優しい世界の訪れを、願いそのために行動していくことだろう。たとえ法律で思想信条をえぐるようにしたところで、思い詰めた個人の強行なんて防ぎようがないんだから。やりたくないと思わせる。やったらいけないと思わせる。そのために何ができるのか。言葉を紡ぐか。生活が楽になってもらうか。正解はないけれど、近い答えを探し、犠牲者を悼みつつ、憎しみの連鎖は抑えて生きていこう。

 これは見たい。宝塚花組でもって萩尾望都さんの名作中の名作「ポーの一族」がミュージカル化されて2018年に上演されるとか。過去にどれだけの映像化なり舞台化の話があったかも分からないだろうけれど、ずっと断ってきただろう作品がいよいよ動き出すとあって萩尾望都さんも納得の内容になっていることだろー。他の萩尾望都産の作品ならすでに「トーマの心臓」が男優版宝塚と呼ばれ続けている劇団スタジオライフによって舞台化されて長く上演され続けているし、やっぱりスタジオライフによって「マージナル」「11人いる」「訪問者」「エッグスタンド」なんかも舞台になっている。いつか「ポーの一族」もと思っていただけに、宝塚に先を越された感じがしないでもない。

 ただ、萩尾望都作品の舞台化という意味では数でも質でもスタジオライフは先駆。逆にいうなら宝塚では娘役に活躍の場がなさそうな「トーマの心臓」なり「マージナル」をスタジオライフでは舞台化しているってことで、「ポーの一族」は先に譲りつつ同じ時期に「トーマの心臓」とか他の萩尾望都作品の舞台化とかあれば、住み分けつつも交流なんかが行われて萩尾望都作品全体が盛り上がるんだけれど。「スター・レッド」とか「銀の三角」とか舞台化されないものかなあ。「メッシュ」シリーズでも嬉しいかなあ。


【5月22日】 停滞していたアーセナルの監督に就任するや、すぐさま立て直してはプレミアリーグの上位に名を連ねるチームに仕立て上げ、チャンピオンズリーグへの出場も連続して18年まで積み重ねてきたアーセン・ヴェンゲル監督だけれど今シーズンはスタートこそ良かったもののだんだんと負けが込むようになって一時はリーグの7位とかそんなものまで順位を下げてしまった。それでも食らいついては上位4チームに与えられる出場権を目指して戦ったけれど、最終節で1つ上にいるリヴァプールが負けも引き分けもしなかったため、勝ったもののアーセナルは5位に止まり19年連続のチャンピオンズリーグ出場は不可能になった。

 あと1つ、どこかで勝っていれば4位に食い込めたけれどそれを言っても後の祭り。勝てなかったからこそのその順位ってのは受け入れる必要があるだろー。ただチェルシーだとかマンチェスター・シティといった買収されて潤沢な資金を扱えるようになったチームが上位に張り付くようになり、そこにリヴァプールだとかマンチェスター・ユナイテッドだとかいった古くからの強豪も入って争うリーグにあって18年連続で4位以内に入り続けたのは快挙だろー。マンチェスター・ユナイテッドはサー・アレックス・ファーガソン監督の退任からこっち、停滞を続けて今季も6位に終わりヨーロッパリーグへの出場権すら逃してしまった。

 アーセナルはそこはしっかりと確保した。スタジアムをハイベリーからエミレーツスタジオへと移した関係で資金はさらに逼迫した中で、若い選手を集めて育てて売って稼ぎ、そしてセスク・ファブレガス選手だとかメスト・エジル選手といったアビリティに優れた選手を早くから招いてしっかりと据えてチームを作り、選手も成長させる手腕を見せて上位に食らいついていった監督としての力量は、他の誰よりも評価されて良いんじゃなかろーか。なるほどリーグ優勝からは遠ざかりチャンピオンズリーグも取れなかったことでファンはいきりたっているかもしれないけれど、分相応ってことを考えるなら成果は十分以上って思える。

 あるいはチェルシー、あるいはマンチェスター・シティを任されていたら……って考えないこともないけれど、オーナーが口出しをせず監督が与えられた範囲内で全権を振るえる環境があって、あれだけの監督力を発揮できたんだろう。とはいえやっぱり不満が残るその成績に、退団の可能性もぐっと高まってきた感じ。まだFAカップの決勝が残っているけれど、相手はチェルシーだしこれに勝ってもCL出場権は与えられないらちょっと可愛そう。それでもイングランドで、というより世界で最も伝統のあるカップ戦をとればそれはやっぱり栄誉なことなんで、勝ってトロフィーを手にして欲しい。そして日本に来てジェフユナイテッド市原・千葉の監督に……それこそ無理だなあ。

 リーガエスパニョーラの方ではエイバルに所属している乾貴士選手があのFCバルセロナを相手に2得点を奪ったそうで親善試合でもないリーグ戦での得点は大きな価値があると言えそう。おかげでバルセロナも本気を出したようで4得点を決めて逆転勝ちしてしまったみたいだし、ってそこから4点を奪えるところがやっぱりバルセロナだよなあ。でも優勝はレアル・マドリードに持って行かれて残念というか、チャンピオンズリーグでも残れなかったあたりにちょっと、勢いにも陰りが見えて来たって言えるのかもしれないなあ。でもリオネル・メッシ選手はリーグトップの得点だったりするから衰えはなさそう。逆に言うならメッシ選手頼み過ぎるところに優勝できなかった要因もあるのかも。このあたりでいろいろ検討してくるかな。

 腐っているのでないなら壊れているに違いない。世界でもトップクラスの部数を誇り新聞ジャーナリズムの代表格としてのポジションに否応なくいたりする読売新聞が、前の文部科学省の事務次官が歌舞伎町にある出会い系バーに出入りしていたことをニュースとして報じている。そこは決して法律に違反する店ではないし、法律に違反をしたかどで摘発あれたといった話も伝わってきていない。証言としていささか色事めいたことも行われているらしいといった利用者の話が添えられているけれど、それに前の次官が関わっていたという証言は皆無。つまりは法律の範囲内で自分の自由を謳歌しただけの話を、その地位にどうとかいった方向から取り上げ批判している。

 なるほど青少年の健全育成を担う象徴のトップがといった意見もあるだろうけれど、その見せが青少年の健全育成を妨げていたといった話は聞かない。だったら酒を飲ませる居酒屋なりの方が未成年は利用できないくらいに青少年の健全育成を妨げる要素を持っている。そういう店に行くことも同様に批判すべきだろう。というか、法律に違反していない店に行くことが事件なら、テレビにも出ているジャーナリスト氏が準強姦罪で逮捕状を請求されながらも直前になって行使が見送れた話の方がよほど事件ではないのか。こちらは明確に法律にひっかかっている。それなのに無視を決め込む一方で、こちらは大々的に取り上げ、内閣官房長官の会見で質問までしている。

 心底から潔癖を求め怒りから報じたのならまだ良い。この件はそうではなく、とある学校の設立問題に関連して、内閣府が文部科学省にお上のご意向をかざしてプレッシャーをかけたといった話がリークされ、最高レベルの人間が大いに困ったといった一件で、リークしたとおぼしき人物がその前次官だったといった話があって、最高レベルの人間にたてつく奴にはキツいお仕置きをするんだといった構図が伺えてしまうところに問題がある。そんなことはないだろうと言うけれど、傍目にそう見えてしまうことの方がジャーナリズムとして大いに信頼を削がれる話であるにも関わらず、お構いなしにそうした構図をぶちまけてしまえるのはやっぱり何かが壊れているか、大いに腐っているからとしか言えない。

 世界のジャーナリストたちがこの振る舞いを知ったら、もう自分たちの仲間とは認めたくないと言って不思議は無いくらいの所業。有意の記者たちもきっと赤面してはどうして止められなかったのかと歯がみし地団駄を踏んでいるに違いない。けれどもそういった恥を感じていながら誰も止められないところまで、紙面作りを担当している人の意識が来てしまったんだろう。天下の大新聞までがそんな状況。そして隣にある自称全国紙はとっくにそうなっているから、官房長官への質問を取り上げ違法ではない行為を悪事のように見せかけることに荷担している。権力の悪事を暴き不正義に鉄槌を下し弱者を助けるジャーナリズムは少なくとも、大手町界隈から消え去ったってことなのかな。やれやれだ。

 原作の漫画は読んでおらず、同じ作者の弐瓶勉さんによる「シドニアの騎士」の漫画も読んでおらず、テレビアニメーションも録画はしたものの深く観入ってはいない状況で、果たしてどこまで理解ができるか、のめりこめるのかを不安視していた長編アニメーション映画「BLAME!」だったけれど、まずは問題なかったと言っておこう。少し未来に生きる少女が描かれて、その祖母だという女性がまだ若かった頃へと時間が遡って始まった物語は、舞台がどうやら巨大な構造物の中らしく、そしてそれは人間のコントロールを失って勝手に増築が繰り広げられているらしい上に、ネット端末接続遺伝子なる都市のコントロール権を担う要素を持たなくなった人間を、異物と認めて排除し抹殺するセーフガードなる敵もいたりする状況があって、その上でセーフガードや監視装置に見つからないようにしてひっそりと人間たちが生きている状況が見えてくる。

 そうした理解はSF読みなら割とたやすく、シンプルな説明と状況の描写によってディストピア的な世界設定なんだと思えるようになっている。そんな世界に登場した6人の少年少女は顔にマスクをつけ、手に銛を撃ち出す銃を持って都市の中を探索している。監視塔に見つかればそこにセーフガードなる一種の番人であり、コンピュータに例えればアンチウィルス敵なロボットめいたものが作り出されて送り込まれてくるから警戒が必要。そしてどうにか目的としていたどろどろなる何か大事な物質の在処にたどり着いたと思ったら枯れ果てていた。栄養素なのか燃料なのか分からないけれど、ともあれどろどろがあれば食糧が得られ、なければ食糧は途絶えて都市の中を行く6人の少年少女たち、ヅルやタエやフサタといった面々が暮らしている集落は数カ月を待たずして飢えて全滅することは避けられない。

 あとは座して死を待つのみか。それは嫌だと勝手に村を出てどろどろ探しに向かったのがヅルら6人の少年少女たちだった。けれどもやっぱり監視塔に把握されては駆除系と呼ばれる這いつくばって高速で迫り、硬い爪で頭を刈り取るセーフガードに教われ次々と一行から犠牲者が出る。ヅルにも迫って危機一髪となったところに現れたのが謎の青年。すっくと立っては手にした銃めいたものを構えて発射。するととてつもなく強大な熱線がビームか何かが出て、固くて上部なセーフガードを一瞬にして貫き破壊してしまった。霧亥と名乗った青年は、重力子放射線射出装置を持ちなぜか監視塔の目をかいくぐる力も見せつつ都市をはるか6000階層は下から旅をしてきたという。

 目的はネット端末接続遺伝子を持つ者を探すこと。けれども目の前にいるヅルやタエやフサタにはそうしたものはなく、ならばと連れ帰った村で迎えたおやっさんんや捨造といった村人たちの誰もそうしたものを持っていなかった。あればすぐにでもネットにアクセスをして都市の増殖を止め、セーフガードの攻撃をやめさせることができたらしい。もっとも都市が暴走を初めておそらくは数千年? それとも数万年? 長い年月が経っているその世界にはもはやネット端末接続遺伝子を持った者が存在している様子はなかった。

 どうしてそういう状況になったのか。人類はどうしてネットへのアクセス権を失い排除されるべき存在になったのか。その部分で大きなドラマがあったのだろうけれど、原作を読んでおらず弐瓶勉の他の作品にも目を通していない身では、そういう風になってしまったと理解することがまずは重要。誰かの差し金なのかコンピュータの反乱なのか。発端は不明でも結果としてまったくの人間であるにも関わらず、その人間が都市と機械によって排除される厳しい世界が出来上がった。そこで人間はどうやって生きているのか。これからどうやって生きていくべきなのか。「BLAME!」で描かれるのはそんなストーリーだと言える。

 とてつもなく巨大な都市が、とてつもなく長い時間をかけて造られ拡がってきたという壮大すぎる状況の、ほんの一瞬ともいえるヅルたちの集落が霧亥と出会い、埋まっていた科学者のシボさんを受け入れて救われた様子を描いただけとも言える映画のストーリー。けれども、そうした断片の背後にある増殖する都市、排除される人類といった設定が伺えるから、物語を断片に留めず作品世界全体が感じられる。一種独特の世界を作り、その上だからこその物語を創造して語るとともに、世界そのものも想起させるSFならではの醍醐味が、しっかりと現れた映画と言えるだろう。

 もうひとつ、テクノロジーが人間の手を離れて暴走する可能性と危険性を啓発する、古典的とも言えるSFのテーマを含んだ作品とも。監視塔から放たれるエネルギーの光線が落ちた場所の物質を変換させて、セーフガードでも何でも作り出すといったテクノロジーの描写、シボが霧亥やヅルたちと出向いた自動工場で、食糧だけでなく自身の新しいボディを作り、けれども介入されてセーフガードを作られたりする万能3Dプリンタともいえる機械の描写なども来たるべき世界の有り様を想像させる。便利だけれど、それが人類に牙を剥いたらとてつもなく恐ろしいことになる状況も含めて。

 とてつもなく巨大な都市、はるか悠久の時間の断片であり一瞬を描いた映画のこれからとなると、想像はできても明るさだけを描くことは難しい。ヅルの孫という少女が語っているように、都市の人間を排除する機能が止まった様子はなく、村人たちはそこに籠もったような状況で暮らしている。ただ前より幸せそうに見えるのは、霧亥が残したもの、そしてしっかりと存在し続けているシボさんの知恵や技術のおかげか。そういった幸運を得た人間がまだ、ほかにどこかにいたりするのだろうかと想像したい。この宇宙に誕生した知性が人類だけではないように、都市にだってきっと生き残っている人間がいて、霧亥と出会い助けられていつか来る解放を待っていると信じたい。


【5月21日】 1ラウンドでの村田諒太選手の手数の少なさに、これでボクシングって言えるんだろうかと思ったWBA世界ミドル級タイトルマッチでのアッサン・エンダム選手との戦い。だってずっとガードを固めているだけで、打ったのは1発か2発でそれも相手のガードの上から。まるでラウンドを捨てているとしか思えないその消極性に「おや?」と感じたジャッジの心理がそのままずっと働いて、時折放たれるパンチがたとえ当たったとしても、そしてダウンを取ったとしてもノックアウトには到らないパンチでは大差はつけられず、逆にエンダム選手が放つ手数の方にこそ優位を感じて採点していった結果が、ああいった判定に繋がったんじゃなかろーか。

 遠くからシャドーをしていただけ、って意見もあったみたいだけれど、ガードを外してパンチを放ったその瞬間こそが相手に攻撃を食らいやすい時。あれだけの手数を放ちながらそこにカウンターを入れられず、ひたすらガードを固めてそしてちょっとだけパンチを放ってほら有効打って言ったって、そこにボクサーとしての勇気を認めるのはなんか違うような気がする。手数が多ければ判定に優位なのはアマチュアだって同じだけれど、プロのそれもミドル級ともなれば見せた隙に対するカウンターが1発で試合を決めることだてあり得る訳で、そうした可能性を噛みしめつつも積極的にパンチを放ち続けたことを評価するジャッジがいても、それは当然かもしれない。

 だから村田諒太選手が勝ちでも負けでもどっちもありだった試合。そこから感じたプロの試合の難しさを踏まえて、次の試合に臨んで欲しいなあ、村田選手。WBAの会長もそんな可能性を示唆しているみたいだし、追い風が吹いている間に自分のボクシングの何がプロの試合では足りていなかったかを理解して、積極的に前に出て、そして相手のパンチも受けつつかわしながらしっかりとフィニッシュブローを決めて完全無欠なる勝利って奴を見せてくれたらカッコいいんだけれど。そういうところには行かず今のこの曖昧な状況のままで消えた方が自分の勝ちを毀損せずに済むと思っているんだとしたら、ちょっと勿体ないなあ。っていうかそれはボクサーじゃないし。少しの休みは仕方が無いとして、次を早くに是非。

 TBSで6月からスタートする「怪獣倶楽部〜空想特撮青春期」というドラマがあって、かつて1970年代のまだテレビで「ウルトラマン」シリーズとかが再放送も含めてひんぱんに流されていて、そして「ゴジラ」「ガメラ」をはじめとした怪獣映画も公開されていたような時代に怪獣や特撮について語り合いたいと人々が集まって作られた「怪獣倶楽部」というサークルというか団体というか同人のことが、語られることになるらしい。そこには怪獣絵師の開田裕司さんもいればアニメ・特撮研究家の氷川竜介さんもいて、そして特撮とアニメについて語り始めたら1番あっても足りない池田憲章さん、「宇宙船」という雑誌で日本に特撮ブームを起こした聖咲奇さんといった面々もいたりして、いったいどんな感じに実写化されて誰が演じるか、なんて興味も湧く。

 まあけどフィクション化にあたっては、相対するキャラクターがいるというよりは、いろいろなエッセンスが混ぜられた造形になるんだろうなあ。怪獣倶楽部のまとめ役という山口翔悟さん演じるニシは竹内博さんで、榎本時生さん演じるナンバー2にして熱血のジョーは中島紳介さん……って対応になるのか違うのか。加藤諒さんが演じる、怪獣のスケッチを担当するユウスケは開田裕治さんあたりが当てはまるのかな、その頃から開田さんが怪獣絵師だったのかはちょと分からないけれど。本郷奏多さん演じるリョウタや横浜流星さん演じる怪獣エリートのカツオとか、誰に対応しているか考え当人を思い浮かべて観ていきたい気もするけれど、そこまで怪獣倶楽部に詳しくないからいずれ放送が始まってから取り沙汰されるアレは誰情報を見ていこう。

 気になったのは、ドラマについて報じられる時に「怪獣オタク」といった言葉が使われていること。でもオタクって言葉が“発明”されたのは1980年代の半ばのことであって、1970ねんだい半ばの怪獣倶楽部のころにはまだなくて、おそらくは怪獣マニアとか怪獣博士とか呼んでいたんじゃなかろか。そんな使われていなかったタームを遡って使うこと、それ事態は雰囲気を分かりやすく伝える効果はあるけれど、今でいう「オタク」のレッテルとしての手軽さなり、あるいはねめつけてネガティブなニュアンスを含んで言う時の奇矯さなりとは違った、もっと根源的で探求的な熱情めいたものが「怪獣倶楽部」という存在にはあって、遡ってあてはめて現代的なタームの意味に染めてしまって良いんだろうかという気もしないでもない。そのあたりも当人たちがどんな気分でいるかを聞いてみたいところ。気にしないかなあ。

 SF好きの小松さんって女の子が主人公になって宮内くんという別にSFが好きでもなんでもないけど理解力のある男子とSFについて語らうという、マイルドでポジティブな「バーナード嬢曰く。」といった感じの大井昌和さんによる「すこしふしぎな小松さん」(白泉社)が刊行されて、あと同時期に「おくさん」とそれから「明日葉さんちのムコ暮らし」の最新刊も出たってことで三社祭ってのが高円寺で開かれて見物に行く。ゲストにエロマンガ界のスーパースター、師走の翁さんを迎えてのトークイベントは大半がエロマンガについての話だったけれども大井さんがセーラー服の女子高生とかに萌えて描いている訳ではなく、「めぞん一刻」の音無響子さんが設定年齢ではなく雰囲気的な年齢としてアラサーだと感じて好きだという大人女性が好きで描いているといった話から、なるほど好きを極められることの良さ、そんな場所に来るまで描き続ける大切さってものを感じ取る。

 思えば「ひまわり幼稚園物語あいこでしょ!」がスタートした当時、書評を「電撃アニメーションマガジン」で連載していたこともあってか編集部から回してもらって読んで紹介したんだっけ、違ったっけ、あんまりよくは覚えていないけれども読んで名前を知った記憶があって、その延長で「流星たちに伝えてよ」ってSFコミックを読んであまりの凄まじさと素晴らしさに滂沱してこの傑作を世に出す人をSFはもっと称揚しなければならないと思ったんだっけ。続けて「女王蟻」ってサイバーパンクな漫画も書いてSFに来てくれると喜んでいたら、あんまり売れなかったのか元より得意な熟女方面へと向かってそこで成功してしまった。惜しいなあ。本当に惜しい。

 その後も「モトカノ食堂」みたいに熟女でありながらもSFめいた作品を描いてSF好きなところを漂わせていたところに登場した「すこしふしぎな小松さん」。あの日本SF大会こといせしまこんへと出向いてSF作家と出会い描いた話なんかも載せていたりで、それを読んでSF作家の人たちも喜んでいたりしてこれでSFをまた描いてくれるかどうかってあたりが気になるけれど、ヤングキングアワーズで連載していた「起動帝国オービタル」はスケールが壮大すぎてちょっと読者もついていけなかったみたいで宙ぶらりん。やっぱりしばらくは「おくさん」で「ムコ暮らし」みたいな豊満を通り越した女性たちによるエロさを感じさせる作品にかかりっきりになってしまうのかなあ。いやでも「SFマガジン」に「すこしふしぎな小松さん」の番外編が載るみたいだし、そこからSFマガジンが短編を描かせるとかしていけばいずれは本にまとまってくれたりするのかな、しないかな。見守りたい。


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