縮刷版2016年8月中旬号


【8月20日】 ラッシュ&メダル。38度の熱が出て40度の部屋で気を失って目覚めるとリオデジャネイロ五輪のシンクロナイズドスイミング、女子チームがウクライナを破って銅メダルを獲得して女子デュエットの銅メダルと合わせて2つのメダルに輝いていた。井村雅代コーチを呼び戻してとてつもない練習量でもって引っ張り上げたことについては、個人的にはそこまでしなくちゃいけないことかといった気もしないでもないけれど、国内でリーグ戦がある訳でもなく個人でどうにかできる競技でもないシンクロナイズドスイミング。日本代表という看板を背負いそれが唯一絶対の財産になっている以上は、世界大会でのメダル獲得のためには何でもやらせるし、選手も何だってやるというコンセンサスがあってのスパルタなんだろう。

 もちろんああした罵倒や猛特訓を言われなくてもやれる精神力が個々人の選手たちにあれば罵倒も飛ばなくなるんだろうし、上からの締め付けといった構図も薄れるんだけれどそこは人間、怠惰に流れる性格だけは止めようがない訳で井村コーチという重しがまだまだ必要ってことになるのかも。とはいえ同じ井村コーチが鍛えた中国が、抜けた後も実力を保ってリオ五輪ではデュエット、チームともロシアについで2位を獲得。後任が井村コーチの弟子筋ってことはあるんだろうけど、あれだけの厳しさはないだろうからそれを補って余りある意志を選手たちが持ち、支える体制も整ったってことになる。日本でもそういう風になっていけるのか。アテネ五輪後にそうはならなかった状況を思うと心配も浮かぶけど、2度見せつけた実力とそのメソッドを、捨てる間抜けではないと信じて様子を見よう。

 そして陸上男子400メートルリレーで日本代表が何と銀メダルを獲得。あのウサイン・ボルト選手を擁してアサファ・パウエル選手までいるジャマイカ代表にこそ及ばなかったものの、最終走者として走ったケンブリッジ飛鳥選手が9秒84の自己ベストを持つ19歳の新生、アメリカ代表のトレイボン・ブロメル選手の追い上げをかわして堂々の2位でゴール。アメリカ代表がたぶんバトンの受け渡しか何かで失格となったところで関係なく、繰り上げではない生成堂々の銀メダルを確保した。

 これは凄い。1人1人の選手では誰1人として9秒台を持ってないのに、チームではバトンの受け渡しという部分で他を圧倒して互角以上に戦った。もしも他が同じだけのバトンワークを持ってきたらと思うけれど、それに時間をかけるにはスター過ぎる選手たち。ウサイン・ボルト選手とアサファ・パウエル選手が定期的に集まっては、同じグラウンドで何時間もバトンパスの練習をするとは思えないし、それはアメリカ代表とかだって同じ。中国代表なら出来るだろけど、個人に強い選手がいるだけにそちらに力を割きたいって計算も働くかも。対して個人を優先できる境遇にはない日本の短距離ランナーたちだからこそ、チームワークを鍛える時間もあったんだろう。これからもあるのかな。

 ケンブリッジ飛鳥選手にしても山県亮太選手にしても桐生祥秀選手にしても飯塚翔太選手にしても、個人で日本人選手初の9秒台ってのを見せて欲しい気はするけれど、出そうで出ないところを見るとやっぱり足りない何かがあるって印象。それでも陸上のトラック競技で世界を相手に戦える分野があるのなら、そこだけは負けないようにしていってくれると嬉しいかな、でもやっぱり1人1人の選手がウサイン・ボルト選手を黄塵に追いやって1位でゴールに飛び込んでくれる姿を見たいかも。それはちょっと贅沢か。ウサイン・ボルト選手、東京でだって金メダル3つくらい持っていきそうだし。

 そして男子50キロ競歩。荒井広宙選手が3位に入ってこの競技で初の銅メダル。カナダの選手と抜きつツ抜かれつの時に接触して相手がグラついたのをカナダのチームが訴え一時は失格とされた荒井選手だったけれど、見ると近寄っていた時に肘で打たれて荒井選手もグラつきながらもこらえて前へ、そしてすかされたカナダの選手がペースを乱しているような感じもあってどっちもどっち感があった中で日本側の抗議が認められ、荒井選手の銅メダルとなった。

 カナダの選手も分かっていたようでお互いに健闘をたたえ合っていたからこれはこれで良い結果。しかし50キロもぺたぺた歩くのってどういう気分なんだろう。そして50キロもの距離を4時間以下で歩ききってしまえる体力ってどうなっているんだろう。真似したらきっと死ぬ、筋肉が。普通に50キロ歩いたって翌日歩けなくなるんだから。鍛えよう。ほか、男子レスリングで銀メダルとかいろいろあったけどいろいろありすぎてちょっとメダル疲れも。こんな贅沢が味わえるのは今回限りか、それとも東京もか。かなうなら女子サッカーに復活の金メダルを。そのための準備を今から。

 そんなリオ五輪に合わせて世界中から集まってくる人たちに向けて日本ってのをアピールしようと、リオデジャネイロには「ジャパンハウス」ってのが作られていてそこでは日本の文化なんかが紹介されているそうなんだけど、小池百合子東京都知事がそこを訪問したってニュースが流れてて見たら季節外れのひな人形なんかが飾ってあっても、日本が得意とするアニメーションやゲームのキャラクターをかたどったフィギュアは並んでいる雰囲気がなかったし、アニメーションが上映されてアニメソングが流され漫画が束で置かれて自由に読めるような感じでもなかった。書道だとか日本食だとかいった日本がいかにも紹介したそうなものばかり。それも確かにそうだけれど、それだけって気がしないでもない。

 撮った画像を漫画的に変換して擬音を着けるAR的な装置の「漫画カメラ」はあったけど、それは漫画的な表現であって漫画そのものではない。それで遊んだ人の楽しそうなツイートがあったところを見ると、漫画的表現はブラジルなんかにも伝わっていてそれと同時に漫画でありアニメなんかもきっと伝わっているだろう。そこに本物が来たらいったいどれだけの反応があったのか。もしもジャパンセンターで1日をオタクな日にして影山ヒロノブさんがライブを行い大友克洋さんがサイン会でも開いたら、何千人、いや何万人の人が集まってきたことか。なんて思うとやっぱり日本のお偉いさんにとっての日本の文化には、サブカルチャーやらポップカルチャーは今だ彼方の存在なのかも。まあAKB48を連れて行ってレセプションとか行わなかったっぽいところは認めてもいいかな。東京五輪の開会式とかちょっと心配になって来た。

 テレビアニメーションの「ジョジョの奇妙な冒険」にいよいよ吉良吉影が登場、連載の時に呼んでいた記憶だともうちょっと地味かと思っていたら、案外に派手目な格好をしていた。それだと女性社員から目をかけられたり男性社員からやっかまれたりして大変じゃないか。そこは目立たないとう設定がすべてを上回っているか、気にした奴らを爆破して来たってことなのかも。今だスタンドがどいう能力かは見せてないけど、その非道な活躍ぶりは見知っているからまずはしげちーが大変な目に遭い、そして次々に起こる悲劇の果てに凄い戦いが繰り広げられるってことになりそう。そのあたり、詳細は覚えてないんでアニメの展開を見ながら思い出していこう。それにしてもジョジョ、花京院とかしげちーとか、もったいないキャラクターを居なくさせるんだよなあ。辻彩とかも。そこが荒木飛呂彦先生、あれでなかなかに残酷な。


【8月19日】 「あれがデネブ、アルタイル、ベガ、僕はじっと見入る白の大三角」という言葉が下半身をずぞぞぞぞっと持ち上げるような衝動とともに浮かんだ西尾維新さんの小説「傷物語」を原作にしたアニメーション映画「傷物語1 鉄血篇」だったけれども、その感動を何度も味わいにTCXの大きなスクリーンで上映されている映画館を狙っては、最前列に近い場所のスクリーンほぼ正面でその真っ白な大三角をにらみ網膜に焼き付けた記憶を振り返りつつ、今度のはそういうシーンがあるのかまだ分からないからと、とりあえず前目だけれども端っこの席を取った「傷物語2 熱血篇」。その結果は。失敗した!

 それはもうその場で地団駄を踏みたいくらいの失敗で、まず1回、回想としての白の大三角が登場しては官能の記憶を呼び覚まし、そして本編に入って阿良々木暦の挑発的な言葉を受けて羽川翼が今度は自ら、スカートの裾をつまんで持ち上げ見せるそれは! 小三角。それでいったいどこまで隠せるのか、覆えるのか、防御力が低いとスカートのことを攻めながら、その下に着けているものの防御力がこれまた最低に近いものだなんて、言葉が矛盾しているけれどおそこはそれ、前に見せて喜んでもらえた記憶がそれなら、もっと見せたい、そしてもっと奥底に迫って欲しいという気持ちを呼んで、ああした小三角を選ばせたのだろう。何という罪作りな奴だよ阿良々木暦。

 しかし逆に言うならそれだけの執着が単純に誰にでも優しい羽川翼で片付くはずもなくって、時に何かをしてもらった訳でもない、ただ会話しただけの阿良々木暦の後についてまわるように出没してはいろいろな事件に巻き込まれ、その真実に近づいていく。ただの興味本位とかではなく、夜に家にいづらい環境もあっての逃避でもあるんだろうけれど、そんなところで行き当たって言葉が弾んだ阿良々木暦に執着するしか他に道がなかったのかも。

 一方の阿良々木暦が白の大三角も小三角もピンクの脱ぎたてほかほかも目の当たりインして、羽川翼に靡いていかなかったかが分からないけれど、物語的に「化物語」の戦場ヶ原ひたぎとの出会いからなれ初めを書いた以上は、過去にそうした色恋沙汰を交える隙間がなかったのか、最初から計算尽くだったのか。そこはこの作品にとって永遠のテーマなんだろうなあ、惚れっぽくて人気者なのに戦場ヶ原ひたぎ一筋。そりゃ三角定規やコンパスで刺されたり、ホッチキスで口に穴を開けられたら痛いけれど、それを含んでも捨てておけない何かを見いだした、ってことなんだろうなあ、どSとか? でも胸は圧倒的に羽川翼だし眼鏡だって羽川翼だし。趣味が分からないよ阿良々木暦の。

 あと見所と言えばたわわに実って眼前に迫る羽川翼の胸があるけど、それ以外だとやっぱり戦闘シーンかなあ、迫力たっぷりでそれにしてはな決着の付け方。力量の差って奴が浮かび上がって吸血鬼の力が恐ろしくなるし、それ以上にキスショット・アセロラオイオン・ハートアンダーブレードって吸血鬼が持つ底知れない力に旋律が走る。なおかつ今回は幼女から少女となりちょっと大きくなってと変形も自在。前身に麦畑も見えそうになるくらいのその成長ぶりを目の当たりにして阿良々木暦はなんで大きくなっちゃうんだと嘆いたか、今が1番と喜んだか。羽川翼に傾くんだからやっぱり大きい方が好き、なのかな。

 惜しかった、というのはちょっと違うか、リオデジャネイロ五輪の女子レスリング53キロ級決勝でヘレン・マルーリス選手に敗れて銀メダルに止まった吉田沙保里選手。見ていたけれども相手に伸ばした手に指を絡められて前へと出せずタックルもクビの後ろもつかめないまま攻めあぐねていた様子。裏返せばマルーリス選手が吉田選手にうまく攻めさせなかったとも言え、それが消極的だと見なされ1点を与えてしまったけれども我慢をしては吉田選手の焦りを誘ってか攻めをミスらせたすきにしっかり、4点を奪って逆転した。そしてまた攻めさせない堅守の組み手。それならばと果敢に突っ込み自爆したって良いやとなるかというと、そういう冒険が今の吉田選手には見られなかった。

 4連覇というその頃では女子のオリンピック選手では初となる記録への意識、そして日本を代表するレスリング選手だという自負はプレーにだって活力を与えただろうけれども、同時に負けたらどうなるといった気持ちも呼んでしまって心身を縛る。そんな柔な人間じゃないという意見もありそうだけれど、でもかつてだったらあの点差、あの時間になる前に攻め手を見せては相手を屈服させていっただろう。追われるとは、高見にあるとはそういうことなのかもしれない。対するマルーリス選手は12年前のアテネ五輪で吉田選手の姿を見て、レスリングを続ける道を選び親を説得したという。そんな人が晴れ舞台、決勝の場で吉田選手を破って金メダル。嬉しいだろうし、アメリカの女子レスリング界にとっても大きな1歩となるだろう。世界に広がる女子レスリング。その中で日本の選手がたとえ苦戦しようとも、乗り越えていくはず。なぜなら僕たちには吉田沙保里選手がいて、伊調馨選手がいるのだから。

 そうそう女子レスリングでは初参加の川井梨紗子選手が63キロ級で金メダルを獲得していて吉田選手の分を取り戻したというか、そっちも金ならダブルだったけれどもそれを言うのも詮無い話なんで、階級を上げて挑んだ本来とは違い階級で、しっかり結果を出したことを心から喜ぼう。もう1人、75キロ級へと12キロくらい上げて臨んだ渡利璃穏選手が残寝ながら1回戦で負けていたけど3対2というのは僅差であとちょっとだけ、攻め手があれば勝ち抜けていたかも知れないと思うと残念無念。かといって次も同じ階級で臨むとなると体作りに無理も出そう。五輪は五輪として出られる階級で出てそして、日頃は元の階級で本来の強さを磨いていってほしいもの。63キロ級なら金メダリストの川井選手とぶつかるけれど、それで勝てれば金メダル級ってことになる訳だから。

 38度3分ばかりあってふらふらだったけど医務室で解熱剤と抗生物質をもらったら落ち着いたんで夕方まで生き続けて日本武道館できゃりーぱみゅぱみゅの5周年記念ワールドツアーの日本会場初日をちょっとだけのぞく。去年と比べて露出が著しく減っている感じがあって、タイアップが立て続けに発売されていた一昨年あたりとは比べるべくもない雰囲気に、もう終わったのかなんて思いも浮かんだけれども少なくとも、ライブにおけるパフォーマンスはずっと変わりがなく、そして観客も武道館に満員近くが来場しては幼女から外国人からおじさんからティーンから種々雑多なファン層が手にペンライトを持って声援を送っていた。明日は土曜日だけあって満員は確実。その意味で動員力は未だ衰えていないって感じか。

 ただ一時期に比べて新曲がまるでないんでライブはほとんどベストアルバム状態。ちょっと前に出たのを受けたと言えば言えるし5周ねんの記念だからといった理由もあるんだろうけれど、最新のは4月に出た「最&高」で、その前が2015年9月に出たハロウィンを狙った「Crazy Party Night 〜ぱんぷきんの逆襲〜」といった具合に相当間隔が開いてきている。13枚目のシングルも発表になったけれども11月発売とかで紅白に向けたチューンって感じでもない。外国人アーティストとのコラボレーションも発表になったけれど相手も形式も今は不明ではどういう筋に向けてどんな曲を売り出すのか、今はちょっと見えなくなっている。

 CMについていうならコカ・コーラがあったり日清紡があったりシャープもあったりと時々を抑えてはいてもそんなに露出が多いわけでもない感じ。これはバリューが衰えてタイアップとかCMに起用されなくなっているからなのか、戦略として露出の激しさに消費されてしまうのを抑えようとしているのか。分からないけれども海外ツアーでのそれなりな好評と、そして武道館の入りを見る上ではとりあえずいまはまだ保たれている。問題はだから今のこの分水嶺をどう乗り越え、年齢も年齢なだけに大人のアーティストとして立ちあがっていくのか全年齢に向けたkawaiiのイコンであり続けるのか。そんな辺りを見極めたくなってきた。11月に行われる中田ヤスタカさんとのツーマンあたりがそんな未来のきゃりーぱみゅぱみゅをうかがわせるライブになるのかな。寝よう。


【8月18日】 第3回富士見ラノベ文芸大賞で審査員特別賞を受賞した汐見舜一さんの「トリプルエース 君のいない夏に、なくしたものを探して」(富士見L文庫)がめっちゃ良い。夕という名の小学校時代からの友人が事故死し、その“遺言”で高校からテニスを始めた東風という少年が、同じ学校に進学してきた、そしてテニスクラブで夕のダブルスでのパートナーを務めていた夏目という少年も誘うけれども応じようとしない。そして奇妙なことを言う。夕は自分のせいで自殺したのだと。

 そんなはずはない、あんなに明るくて前向きだった夕が自分から命を絶つはずがないじゃなかと東風は主張して、そして夏目をメンバーが足りていない弱小テニス部に引っ張り込もうとあれやこれやと画策しつつ、自分も鍛えて夏目から1ゲームでも取れるように頑張るけれど、調べていくうちに状況はだんだんと夕の自殺といった可能性を裏付け初めていく。夕に起こったある出来事。そして残された日記。夏目が自分のせいだというその背景。なるほどこれは自殺したって不思議はない。

 けれども、そんな可能性に閉じこもっていることを夕は許さない。分かった真実。夏目の真相。それらを受けて飲み込んだ上で2人はそれぞれの弱点と向き合い、トラウマを克服して未来へと向かって歩み出す。そんな青春ストーリーになっている。親友の死があり、夏目に対するいじめのようなものがあり、そこからの脱出を狙った謀略めいたものもあってと、スポーツという健全さの裏側にあるどろどろとしたもの、学校生活というパブリックなものの底に蠢く人の見にくい心理と言ったものが要素要素に現れる。そう聞くと、ダークな青春ストーリーになって当然の設定でありキャラクター配置かもしれないと思えて来る。

 けれども違う。めちゃ明るい。そしてめちゃ前向き。東風は夕が死んでも落ち込まず、夕の家族も内心はともかく引きずらない。夏目は自責に溺れているけど東風相手には強くでる。軽口も言い合いコミカルな展開もある。ひとりの死、友人でありパートナーであり、息子であり兄でありといった身近な人間の死が絡んでも、こんなに読んで苦しさよりも喜びが浮かぶ小説はなかなかない。もちろんテニスの勝負もあってスポーツ青春小説の面白さはばっちり。そんな展開から夕の死の真実、夏目の事情がだんだんと見えてくるあたりはミステリっぽくもある。この文才、この作風。これからが楽しみ作者だ。

 秋葉原とか神田あたりをぶらぶらしていると目に入るのが「日乃屋カレー」と「上等カレー」のはびこりぶり。秋葉原だと九十九電機とかがある界隈の日乃屋カレーが出来たりしたし、前はラーメン屋だった中央通り沿いの建物の1階に上等カレーが出来たりもしてと大阪系のインディアンカレーに似た甘辛いルーを薄いお皿の中央に持ったご飯の回りにかけるタイプのカレーを出してくれる。トンカツとかトッピングのバリエーションがあるのはタイプは違うけれどそれで全国を制覇したCoCo壱番屋の影響かな、インディアンカレーにはそういったバリエーションってあんまりないし。

 でもって上等カレーとか全開の神田カレーグランプリを受賞しているし、日乃屋カレーも第3回の神田カレーグランプリをとったりしてとカレー激戦区ともいえる神保町界隈でもトップクラスの実力って奴を持っている、って言えるのかどうか分からないのがそのグランプリへの取り組みで、上等カレーだったっけ、行くとテーブルに応募はがきがおいてあってガンガン投票してねって感じに積極的にアピールしてた。それで乗るかどうかは判断だけれど、来店客の一部でもそれならと応募した積み重ねは、長く神保町なり神田の顔としてカレーを出してきた店の常連の不動ぶりを確実に上回る。それでもって味と知名度で神田トップと言えるか否か、ってあたりは考え物だろう。

 もちろん日乃屋のカレーも上等カレーも嫌いじゃない。食べれば美味しいししっかり食べられるのも良いけれど、ボンディなりエチオピアなり共栄堂のスマトラカレーなりまんてんのカレーといった神保町の老舗ではなく、実力はあっても全国で展開しているチェーン店が地域の冠を持ったコンテストに入って良いのかどうか。ちょっと考えてしまう。まあそれくらい、地方から来たカレー屋さんにとっては地域にアピールする上で看板になるタイトルってことなのかもしれないけれど。でもそれだけはびこる店に行くかというと僕は秋葉原ならジャンカレーに行くかなあ、カレーは普通だけれどとにかく量が多いんだ。満腹になりたくて味も良いならそれが1番。CoCo壱番屋はグランドマザーカレーが入ったらまた行こう。

 最初は48キロ級の登坂絵莉さんで残りわずかなところから逆転をして金メダルを獲得して、凄いなあと思いつつ伊調馨さんなら最初からこてんぱんにしてあっさり金メダルになるんだろうかと見ていたら、58キロ級に登場した伊調さんは点をとりながらも相手に奪われ逆転できないまま残り1分を切るところまで来てしまった。もうこれはないかと諦めていたら足の取り合いからグラウンドになってそこで必至に伊調馨選手の足を絡め取ろうとしていた腕をふりはらい、自分の足を抜いてしっかりバックをとって2点を奪って逆転してみせたところに力だけではない、何らかのテクニックって奴も詰まっていたんだろう。パワーでもって引き絞っていた腕を外すんだから。あとはバックをとった時に両腕で抱え込んで締め上げていたあたり。すごいパワーが放たれているように見えたもの。

 そんな辺りまでを見てまどろんでいたら69キロ級だなんて日本人にとってはとてつもなく重たいクラスの方で土性沙羅さんが金メダル。ことらも追い上げて勝利を掴んだって感じで3人とも楽勝はく、けれども敗北もないまま競り合って勝ち取った金メダルって感じだった。これなら余りに日本が強すぎて全世界的に女子レスリングはつまらないとなって、そして男子の方の人気低迷とも重なってオリンピックに必要な競技化って話が再燃し、除外されるなんてことにもならないだろう。願うなら世界がもっと女子を強化して日本人選手がせいぜい半分でメダルに入ってそのうち1つが金メダルくらいになれば、全体の底上げもかなったってことになるのかな。寂しいけれどもそれが世界化するってことだから。

 暗号物のミステリであり、壊れてしまった少女の壊れっぷりを味わうサスペンスであり、そんな少女を見守り保護しようとする少年のダークな青春ラブストーリーといったところか。井上悠宇さんによる「きみの分解パラドックス」(富士見L文庫)はとある学校に入学した友紀という少年と、玲夏という少女がメインキャラクターで、玲夏は何でもバラバラにしてしまわないと気が済まない性格で、てんとう虫から羽をむしるわシャーペンは壊すわで、いずれは人すらもバラバラにしかねないかもと友紀には思われている。そんな彼女を守る意味でも近くにいた友紀だったけれど、同級生が立ち上げたパズル研究会に誘われ、それは何でもバラバラにする部だとう説明を聞いた玲夏が入部を言い出したことから、友紀も追いかけて入っては、さっそく玲夏が顧問を探して乱暴な教員を脅そうとするのを止めさせたりもする。

 そうして始まった部活だけれど、なぜか近隣で相次いでいる殺人事件に取り組むことに。死体があってそばに2つのURLアドレスが残されている事件。犯人はまだ捕まっていないその事件のアドレスを解き明かすことによって玲夏は犯人にぐっと迫るけれど、そこで新たに発声した辞退に巻き込まれることになる。犯人は誰か、それはどうして分かったか、そして起こった事件の真相は、誰が何をどうしようとしているのか、等々。数式のようなパズルを解いて後にも繰り出される事態から、手がかりを拾って真相に近づいていく楽しみはありそう。そうでなくても明らかにされたひとつの不幸とそれを覆ってしまう暗い熱情が、次にどんな事態に向かっていっては無茶をして、そして友紀がどれだけ苦労をするかに興味が向かう。玲夏は天然にサイコなんだろうか。そんな彼女の暴走も見てみた気が。


【8月17日】 「か、完売!? バルト9スクリーン9の429席が完売? 3分も経たずにか?」by庵野秀明さん。先の発声可能上映会が7分で完売という好成績を見せながらも、3分で完売してくれたら「機動戦士ガンダム」のセリフが言えたのにって悔しがっていた総監督が、同じ「シン・ゴジラ」の今度は女性限定上映会が3分を経たずに完売したことに大喜びをしている感じ。これなら当日も現れては女性客に向かって同じセリフを言ってくれるかもしれないなあ。見たかったけれども女性限定だから仕方が無い。特撮好きなのかスーツ姿の男性が見たいのか分からないけれども、当日の客席を埋める女性たちには大いに拍手でもって映画を盛り上げていただきたい。でもってはしゃぎすぎで泉ちゃんから「まずは君らが落ち着け」と言われるんだ。きゃー。

 大会を主催なり後援をしている、ということはすなわちそれらの活動を称揚しているということで、もしもそうした大会を目指すところがあるならば、最大限に敬意をはらってそれらの活動にめいっぱい取り組めるよう後押しする、というのが主催者としてのスタンスだし、義務だろう。然るに、ここに全国高校野球選手権大会、いわゆる夏の甲子園というのがあって、それへの出場を目指している学校なり、すでに出場を決めた学校があるならその活動が滞らないよう支える、というのが主催者の役目になる。一方で、全日本吹奏楽コンクールというのもあって、そこへの出場を目指すなり、日頃から吹奏楽に取り組んでしている学校があったなら、目前にどんな壁が立ちふさがろうとも、出場に向けて全力で取り組んでくれ、あるいは吹奏楽を頑張ってくれと訴えるのも主催者だ。

 それでだ。そんな夏の甲子園を主催している新聞社が、全日本吹奏楽コンクールの主催でもあったりする状況で、どういったスタンスを持つべきなのか。野球部に対しては頑張って甲子園を目指してくれと言葉をかけ、そして吹奏楽部にはコンクールに向けて取り組んで欲しいと頼むのが主催者としての弁だろう。けれども。そんな甲子園に出場が決まったある学校の野球部を、甲子園で応援するためにその学校の吹奏楽部が、全日本吹奏楽コンクールへの出場を諦めなくてはならない、なんて事態が起こった場合に主催者としてどういう態度を取るべきか、ってあたりがひとつの問題として浮かんで来る。

 それは熊本県の高校で、野球部の甲子園への出場が決まったものの、吹奏楽部も小編成ながらそれなりな実力を持っていて、全日本吹奏楽コンクールへの主催者と同じ新聞社が後援している、南九州の小編成しかない吹奏楽部にとってはどうやら頂点にあたる大会への出場を狙っている。ところが、甲子園で野球部を応援するとなると、自分たちにはそのその大会に出られなくなってしまう。だったら甲子園での応援を止めて、吹奏楽部は吹奏楽部としての晴れ舞台を目指して欲しいと、吹奏楽コンクール主催者であり、その大会の後援者であるところの新聞社なら言うべきだって気がするけれど、一方の夏の甲子園の主催者として、頑張っている野球部を支えて大会を盛り上げるためにも吹奏楽部には甲子園に来て欲しいと言うべきか否か。そこがちょっと気になっている。

 野球部ではない吹奏楽部に、甲子園の主催者として無理強いをするのは筋が違うとは思えなくもないものの、バリューとして甲子園での活躍の方が高いとなると、自分たちにとっての“甲子園”を捨ててでも甲子園を優先すべきだって気分が、学校の側なりに生まれるのも必然の流れ。そんな時に主催者は何を言うべきか。言論機関でもある新聞社が主催者なだけに、大いに論じて欲しいところだけれど、甲子園を大事ととらえ女性マネジャーの進出に竿を差す主催者側に根ざす体質が、甲子園こそが晴れ舞台と考え同じ主催でありながら吹奏楽の“甲子園”を辞退しでもそちらに協力すべしって雰囲気に、持っていきそうでちょっと鬱陶しい。学校がそう考えたなら主催者としては口を出しません、って態度なんだろうけれど、そういった雰囲気を作っているのも甲子園を大事としてメディアが報じた結果であって、そんな雰囲気を変えられるのもメディアとするなら、やっぱり大いに論じて欲しいもの。さてはていかに。

 そして気がついたらリオデジャネイロ五輪のシンクロナイズドスイミング、デュエット競技で日本が銅メダルを獲得していた。北京五輪以来の銅メダルだけれど先のロンドン五輪でデュエットでもチームでもメダルを失っていたからどん底からの復活に近いもの。それをあっさり成し遂げたのが北京五輪から中国代表のコーチになってまずはチームでの銅メダルを取らせ、としてロンドン五輪ではデュエットに銅メダル、チームに銀メダルという実力からすれば最高に近い結果をもたらした井村雅代さんというから、やっぱりその実力は相当なものだったって証明された。と同時にそれほどまでの人を北京五輪から外して蚊帳の外に置き、中国への才能流出をもたらした存在のポン酢ぶりも浮かび上がった訳だけれど、それを反省するような組織でもないんだろうなあ。

 そして中国はと言えばデュエットでも全開ロンドンの銅メダルから1つ挙げて銀メダルを獲得。強豪のロシアに迫る上達ぶりで残るチームの結果なんかも踏まえて、完全にロシアと中国が抜け出た競技になって来た。その原点を作った井村雅代さんをあれこれいう人がいたりするけど、でもそうした状況を招いた組織こそがあれやこれやと言われるべき。それこそ三角帽子を被せて前屈みにさせては、公衆の面前で自己批判をさせたいくらいの憤りも浮かんで仕方が無いけれど、そんな組織が井村さんの復帰を認めたからこその銅メダルでもあるんでまあ、ここは今後の態度を見た上でその進退を伺うべきかもしれないなあ。残るデュエットで日本はどこまで中国に迫れるか。かつて強かったスペインやアメリカはどう巻き返してくるのか。面白くなってきた。

 銅メダルといえば卓球でも日本の団体が銅メダルを獲得してこれで男子の金が銀かどちらかと合わせて共にメダルを持って帰れることになった。素晴らしい。というか他の国の代表を見ていると中国からの帰化が大勢いてそうした人たちの大会になっている感じ。それにくらべてとりあえず、日本出身の選手で構成している日本が強いのは凄いんだって声も起こっているけど過去、それこそ1990年代から2000年代にかけての日本だって女子は小山ちれさんや東堂多英子さん、男子は偉関晴光さんや新井周さんといった人たちが帰化しては五輪に出て活躍し、日本でも活動をして先進国の卓球の技を見せてくれたことで、全体が底上げされて今に至っているってこともある。

 だから今、中国からの帰化選手を多く抱えている他国を日本がどうこう言う資格なんてないし、言う必要だってない。そうした卓球の技の伝播によって各国の卓球が底上げされ、強さが大勢の関心を呼んで盛り上がり、競技人口も増えていくといった感じに卓球という競技が受ける恩恵なんかも、考え言葉を発していくべきなんだろう。問題は今の状況に世界的な中国への批判が乗って卓球という競技の可能性を潰してしまわないかってこと。そうならないためにも日本が強さを見せて、こうなる可能性を示してくことが必要だろうし、それを見事に成し遂げた。おめでとう。そしてこれからも。福原愛さんだって東京五輪、充分狙える年齢んだから。

 これでとりあえず終わりかなあ、縹けいかさんによる「食せよ我が心と異形は言う2」(ノベルゼロ)は、恐怖心を異次元から来た人類が別の形に進化を遂げたとも言える存在に食わせるために犠牲になった少女をようやく救い出し、裏切った仲間への復讐を始めた少年が、少女を奪われ自身も傷ついて意識を失っているところからスタートし、異形なのに意識を持って登場したイーヴァって幼女とそして、少年にとって仲間であり裏切りものでもあったマコトって少女が少年を世話していたらそこに異形。逃げだしたもののマコトは残り、そこにロシアからの異能力者が現れ少年の行方を聞いてくる。

 どうやら自分たちの国を脅かしたのが日本の異能力者だったらしい、その復讐をしたいといった意向。そして復活した少年がイーヴァを連れてロシアの異能力者と殴り合った果て、意気投合をして少女の救出へと向かいそして真実を知る。それは。見えたのは世界の終焉のその先で、そこに浮かび上がった人類の未来を果たして平穏と喜ぶべきか、経てきた大変な事態を嘆くべきか迷うところ。それでもかつて訪れた異形との戦いを人類が乗り越え独自の未来を切り開いたことは事実で、そうした過程でひとりの少女の犠牲があり、少年の献身があったことは認めざるを得ない。ありがとう。それにしてもあの可愛いイーヴァはどうなってしまったんだろう。あれだけの能力が簡単に潰えるとも思えないし。そっちの物語があるなら読みたいなあ、それが第3巻となっても良いし。


【8月16日】 とはいえ一般メディアは無視だろうなあと思った昨晩の「シン・ゴジラ」の発声可能上映会は、庵野秀明総監督の登場という“バリュー”を受けてかフジテレビの「めざましテレビ」が上映中の観客席も抑えながらしっかりと紹介。ペンライトの色を変える場面とか、声を出すところとか会場に来ていたコスプレ姿の人とかを並べてユニークな試みがあったことを伝えていた。盛り上がっている感も伝わった雰囲気でこれを見てそこまで盛り上がっているなら自分も行ってみようと思う人が増えれば、33億円に達した興行収入もさらに伸びていくだろう。女性とか子供とかまだまだ巻き込めていない層はいそうだから。

 とはいえそもそもが「シン・ゴジラ」の発声可能上映会が、漫画家の島本和彦さんによる大学で同級生だった庵野秀明さんへの屈折した感情に端を発して、漫画とドラマで人気沸騰中の「アオイホノオ」なんかも絡めて庵野さんへの屈辱混じりの賞賛を、映画館で吠えたいといった気持ちをかなえるために開かれたってところが大きい。そんな根源であり発端でもある島本和彦さんについて「めざましテレビ」ではカケラも紹介していなかった。観客席で見入っているベレー帽を被ったおっさんがいて、最後にかけ声をかけている同じおっさんを捉えながらも説明はなし。見た人はあれは誰なんだ? って思うだろう。

 じゃあどう説明するか、庵野さんとは大学時代の同級生で人気漫画家ながらも庵野さんへの才能に嫉妬していて「シン・ゴジラ」にも打ち負かされた感情を抱いている島本和彦さんです、って添えるにはあまりに説明が長すぎる。見知った人には当たり前でもテレビで一気に伝えるには学生時代からのいきさつも含めたコンテクストが必要。それを説明しきれないなら、今最も旬なクリエイターであるとこの庵野秀明さんが来て、発声可能上映会という面白いイベントに現れ観客にお礼を言った、ってストーリーに抑えるしかないんだろうなあ、テレビ的に。

 でも観客は知っているし、ネットも併用している今の人たちはたいてい分かっている。そうした部分を取りこぼして不足感を醸し出しながら進んでいくテレビが、社会の気分からズレていって衰退していっているのも分かる気がしてきた。いずれにしてもフジテレビだけってのはやっぱり寂しい話ではあるけれど。ネットの方ではしっかりと各社が島本和彦さんとの握手も含めて紹介していて、その屈託も改めて世に喧伝していた。庵野監督がまだ一介のアニメーターだった頃に、増刊や週刊の少年サンデーで「風の戦士ダン」とか「炎の転校生」連載していた島本さんが、どうしてそこまで庵野監督に敗北感を抱くのか分からないけれど、学生時代から感じていた才能が、時を隔てて爆発して一気に追い抜かれ、今も先を行き続けるって自覚しているのかも。才能は才能を認める、って現れか。

 そんな発声可能上映会を振り返ると、観客はなるほど特撮好きとかアニメーション好きな中年オタクも少なからずいたけれど、若い男性もいたし女性も結構な数いた。自分は最前列に座っていたけれど、隣の2人は若めの女性たちでそれぞれがキンブレ(ペンライト)2本持ち。そして後ろも女性のグループでいろいろ突っ込み入れていた。突っ込みのタイミングとかライトの色選びとかを見ていた感じでは、「キンプリ」応援上映あたりで鍛えられていた雰囲気。「シン・ゴジラ」そのもののファンではないかもしれない。応援上映みたいなものとして来たって感じ?

 とはいえ隣の2人は泉ちゃんの「まず君が落ち着け」の場面で、手にしたペットボトルを掲げていたから既に見て何が起こるかをしっかり理解していた派。そんな泉ちゃんと矢口の関係も含め、スーツ男たちの大集合に腐的な要素を見いだし、脳内で妄想を燃やすために通っているファンも増えてきているのかもしれない。そっち方面に爆発すれば、今年の上半期を接見した「おそ松さん」が映像として途切れている今の餓えを満たそうとするリピーターでムーブオーバーするかもしれない。目分量で2割くらいだった女性が7割になった劇場で、女声による激しい応援が飛び交う「シン・ゴジラ」。見てみたいなあ。

 とか言っていたらなんと「シン・ゴジラ」で女性限定上映会が。ゲストが長谷川博己さんでも竹野内豊さんでも石原さとみさんでもないけれど、そんなところは実はどうでも良くって本当にファンが見てみたいと思っていた、尾頭ヒロミさんを演じた市川実日子さんと泉修一政務調査会副会長を演じた松尾諭さん、そしてパンと叩く手が評判の生物学者、間邦夫塚本晋也さんが揃って登壇というから、これは行く人が大勢出そう。尾頭ヒロミに寡黙な理系女子の姿を見てきゅんきゅんしたり、荒れる矢口蘭堂をペットボトル差し出し抑えた泉ちゃんに心ときめかしたり、飄々としてしっかりと鍵を解き明かす間准教授に感心したりした人なら、行って目の当たりにしたいだろう。チケット争奪戦、凄くなりそうだ。ってか自分が行きたい、切ってでも、ってどこをだ。

 日本でも幕張辺りで始まっては人気上昇中のエアレースをフィクションの中で楽しめる物語が登場。富永浩史さんお「ゴースト・ギャロップ−蒼空の幽霊機」(ノベルゼロ)は、戦争中に撃墜王となった男がいて、実は目が悪く軍に残れないと言われて退役もしないで飛び出しては、エアレースに出場してどうにかこうにか稼いでる。速いけれど乱暴で周囲に迷惑をかけるけれども我関せず。その日も危ない飛び方で勝利をして一悶着あったところに、ひとりの男の子が現れ自分は息子だと言った。

 身に覚えはありまくり。そして息子だとは認めたもののその息子は母親がギルドの重鎮と結婚をして息子には危ない真似をしてほしくないと思っていた。けれども息子は本当の父親に憧れ空に憧れ飛行機に憧れつきまとう。そんな息子に良いところでも見せようとしたのか、男はヘマをして乗機を落とし、ライセンスも剥奪され、大公が言い出したデカいレースに参加出来そうもない。困ったなあ。でも男は諦めない。敵だった帝国が残した墜落機を探して整備し、レースに出ようとする。そして物語では、空を飛びながらの駆け引きと空を飛ぶことへの情熱が綴られる。

 これが何かの始まりというよりは、大きな歴史のエピローグ的な時間的位置づけがあるらしい感じ。男が直した帝国の飛行機をめぐる過去とか乗ってた誰かの正体とか、それ以前の空戦の華々しさなんかがドラマとしてあるらしい。読んでみたいなあ。そんなライトノベルで空戦というと犬村小六さんの「飛空士」シリーズがあるし、ササクラさん「緋色のスプーク」も乾いた感じが良かった。「ゴースト・ギャロップ−蒼空の幽霊機」はもっと明るくちょっぴりの陰謀もありながら繰り広げられるエアレースが楽しげ。読む「紅の豚」的な男どもの空にかける情熱と、背後で蠢く謀略の間で男がどう立ち回るのか、どんあ凄腕を見せるのかを楽しもう。


【8月15日】 野球でライトノベルといったら石川博品さんの「後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール」(ダッシュエックス文庫)ってのが赫奕たる異端として強い存在感を放っているんだけれど、そっちのシリーズはしばらく置いて石川博品さんが挑んだのがアイドルの世界。といってもそこは石川さんだけあって「メロディ・リリック・アイドル・マジック」(ダッシュエックス文庫)は、美少女たちがしのぎを削ってアイドルを目指す青春ストーリーの仮面は被っていても沖津区という女子高生アイドルたちが国民的アイドルのLEDを敵と見なして侵入してきたら殺しそうな勢いで立ちふさがっている場所で、過去にちょっとした経緯をもった美少女がアイドルを目指すといったバトルモードもちょっぴり漂う作品になっている。

 高校生のアイドルたちはライブハウスで歌って踊って焼いたCDを手売りしながらアイドル活動を続けている。いわば地下アイドルだけれどそういった言葉で自分たちを卑下した見方はいっさい無し。沖津区ではそれこそがアイドルなんだといった主義で貫かれているところが面白い。そんなアイドルうたちの頂点に立つ「世界」ってユニットの女性が見せるヤンキー系アネゴ肌が、ふわふわとしたアイドルの世界に熱と血を持ち込んで殺伐としてせめぎ合う厳しさってものを物語の中に醸し出す。

 そんなアイドルたちが上にひしめく戦線へと飛び込んでいくのが、ヒロインの尾張下火と飽浦グンダリアーシャ明奈たち。それを主人公の少年で音楽を聴くといろいろと起こってしまう吉貞摩真という少年がサポートする形となり、他の面々も巻き込んで盛り上がっていく中で浮かび上がる下火の過去。LEDという沖津区でもっとも疎まれている存在との関わりを乗り越えて、彼女たちは乗り頂点をつかめるか、ってな展開がちょっぴりズレた世界の上で、アイドルという青春に燃焼する高校生たちの今って奴を感じさせる。ハレムでも女装でも野球だけは真剣だった「後宮楽園球場」と同様にパンクでヤンキーでもアイドルとして歌に向き合う態度は真剣。そんなギャップの面白さを味わえる作品って言えるかも。

 第2セットで何度かマッチポイントを握りながらも2度にわたってサービスをブレイクされてはタイブレークに持ち込まれ、それを落として第2セットをとられてタイに並ばれた時点で、あっさり崩れて負けるんだろうなあと思っていたリオデジャネイロ五輪でのテニス競技3位決定戦、錦織圭選手とラファエル・ナダル選手との戦いだったけれど、怖くて眠くて消してしまったテレビの向こうで錦織選手が気分を変えたかナダル選手が力を入れすぎたのか、拮抗しないままナダル選手がゲームを落としていった感じで開けて見れば6−3で錦織選手があっさり取って見事に勝利し、日本にテニス競技で96年ぶりとなるメダルをもたらした。

 四大大会だと優勝しなければたとえ全米オープンで決勝に残ったところでタイトルにはならないテニスだけれど、五輪だと3位でも銅メダルという“勲章”が手元に残るところが嬉しいし、日頃は国とか関係成しにプレーしている人でもどこか、心に拠り所となる場所を持って戦いに挑んで勝利し讃えられる喜びってものもあるんだろう。それはだから1回戦で敗れて涙を流したジョコビッチ選手でも同様の気持ちだったのかな。とはいえやっぱり決勝に残って欲しかったのは、他の大会でも良いところまで逝きながら敗れる錦織選手の“癖”がなかなか抜けてないからで、メダルがなければアンディ・マリー選手に負けた段階で終わってた。だからこそ次に来る全米オープンでは体調を整え初のグランドスラムを、そうでなくても決勝の場へとコマを進めて欲しいもの。ジョコビッチ選手を破ってといった勲章も伴いながら。

 2話くらいとばしていたら「真田丸」、徳川家康暗殺未遂とかがあって真田昌幸が噛んでいたって展開になっていて成功していたら歴史はどうなったかと思ったもののどうにもならなかったからこそこうしたエピソードが差し挟まれる。そしてそんな対立が石田三成への不審を呼んでその生真面目な性格を煽るようなこと押して自滅へと持っていく展開へと繋がっていく。向かう葉関ヶ原。その過程で本来なら豊臣秀吉に報恩があって簒奪しようとする徳川家康に対立すべき加藤清正とか福島正則が、ただただ石田三成憎しって感情から家康に与して暗殺未遂事件を引き起こし、関ヶ原でも西軍には味方せず三成崩壊を煽った心理も分かるだろう。そこがどうにも解せなかったから。そして待ち受けるのは豊臣家滅亡。本当の父親と次の父親と母親と兄だか弟だかを殺された茶々の“復讐”といったニュアンスを浮かび上がらせるのか。その感情に真田信繁だどう引きずり込まれていくのか。いよいよ目が離せなくなってきた。

 「マイダスタッチ」といったら山下達郎さんの曲が思い浮かぶけれどもこちらはライトノベルで正式には「マイダスタッチ 〜内閣府超常経済犯罪対策課〜」(ガガガ文庫)。ますもとたくやさんという人の小説で、大恐慌が起こって世界中が金融危機にまみれて人々が苦渋に喘いだことが何かの発端になったのか、お金に関する異能を持った人々が人類の間に生まれるようになった。それが「マイダスタッチ」。その能力は千差万別で他愛のないものもあったけれど、中には人の暮らしや生活を脅かす物もあって、そうした異能による犯罪を取り締まる組織として国の中に超常経済犯罪対策チーム、通称「エイプス」ってのが作られた。水町袈裟郎もそんなエイプスのメンバーだけれど、いつもお金に汲々としている。公務員なのに。どうしてだ。

 それは彼がお金を使えば使った分だけ時を止められる「マイダスタッチ」の持ち主だったから。そしてとある目的のために銀行口座にお金をいれず部屋の金庫に溜め込んでいたから。過去、ジャーナリストだった父親は何かの事件に巻き込まれその真相に近づいたことえ「髑髏」なる「マイダスタッチ」に命を狙われた。どういう手段か分からないけど息の根を止められたことで袈裟郎は、「髑髏」に復讐する機会を狙ってその時のためにどれだけでも時間を止められるようお金を貯めていたのだった。何と包ましい。そんな彼が所属するエイプスに現れたのが一万田こがねという少女。財閥の令嬢で使える金は桁知らず。そして彼女自身がお金の流れを認識できるという「マイダスタッチ」の持ち主だった。

 コンビを組むことになった袈裟郎とこがねは銀行員が死んだ事件の謎に迫っていく。その先に現れた「髑髏」の影。さらには世界を混乱の渦へとたたき込もうとしている組織の存在。その手先となって蠢く輩が日本を崩壊へと導こうとしているのを果たしてこがねは、そして袈裟郎は止められるのか。異能の力をふるいつつ、お金の流れというものを手がかりに真犯人に迫っていくミステリー的な要素も持った作品。「髑髏」の能力とかいったいどういう条件で発動するのかを考えた時、逃げられる人間なんているんだろうかと思うけれどもそのあたり、ちゃんと本人の確認がとれたルートを使わなければ影響は及ばないってことなんだろうか。世界は混沌として今だ組織の正体は見えず。続きでもってそんな敵に挑んでいく話が読めるのかな。異世界転移でもゲーム物でもない経済異能バトルが読める、そんなガガガ文庫はやっぱり面白い。

 あー、面白かった。例の3博士に笑うなと行ってる人が観たら憤死しそうなくらいに全編、「シン・ゴジラ」って映画を笑うことも含めて楽しもうって人たちが詰めかけて、それこそ予告編の前のCMから声を出して最後まで突っ走っていったって感じ。戦闘のシーンが盛り上がるのはもちろんのこと、そうでな会議の場でも海の上でも海ほたるでさえも「あっちゃ〜ん」といったかけ声が飛んだりして皆がしっかり映画を中に入れつつそれを、言葉でもってどう表現するかを考えつつ進行を見てアドリブを入れながら言葉を発し、ペンライトを降って場を盛り上げ、自分自身を盛り上げる。

 どんな場面で何を言うか、ってのは「シン・ゴジラ」については前例がないんだけれど、こと応援上映って意味では先行して「KING OF PRISM by PrettyRhythm」という作品があって、どういうリアクションをすれば良いかを実地で体感している人が結構良そう。とりわけ女子にそういう人が多いこともあってか「シン・ゴジラ」の発声上映でも結構な女子が来てはタイミング良く言葉を入れては場面に応じた色のペンライトを振っていた。ゴジラがメインだからやっぱり赤だなあという了解があって、そして自衛隊なら緑だろうという感じに。あとカヨコ・アン・パターソンだと最初に着ていた服が青だから青にするとかいった感じをめいめいがその場で考えて色を作っていた。

 別に揃わなくたって良い。自分がそれに何を思ったかを表現する。それを周囲が見て自分はどうかと考える。スクリーンと自分だけでなく、周囲と自分とスクリーンといった三つどもえの関係が生まれて映画をより広い視野で楽しむことが出来るのだ。新幹線が突っ込む場面は青で、そして在来線だと山手線の緑とか京浜東北線の青とか東海道線のオレンジとかを拾っていたなあ。だからいろんな色が乱舞していて面白かった。そしてやっているみなが嬉しそうだった。その背景で日本が大変で都民が大変で自衛隊員が大変だって話しもあるだろうけど、それはそれで別に考えれば良い話、発声可能上映というイベントを、あるいはアトラクションを今はめいっぱい楽しむんだという意識が誰にもあってそれが同じ方向を向いて立ちあがって、一体感を持った空間ができあがった。それに浸ることが出来た。応援上映ってそれも楽しくてみんな通うんだよね。あるいはアイドルのライブにも。

 一体感、って意味では凄かったのが矢口の最後の戦いに向けた演説のシーン。並ぶ決死隊を前に悲壮感を込めた言葉を重ねていく場面を皆が静まって聞き入った。色はない。声もない。ただスクリーンを見つめてその言葉を耳に刻んでいった。後で登壇した島本和彦さんが、あの場面では皆もいっしょにゴジラと戦うメンバーになっていたよねって話してた。誰かが何かを言える場面ではない。誰もが何かリアクションして良い場面ではない。そういうコンセンサスが誰が音頭を取ることもなく出来上がっていたのは、前例の踏襲以上に映画がそこに力点を持って作られていた、からなのかもいしれない。今後僕が『シン・ゴジラ』を見るときに、あの静寂を思い出して背筋を忠ながらあの場面を見るだろう。あるいは現実に大切な言葉が紡がれるとき、居住まいを正して聞き入るだろう。

 発声可能上映だなんて冗談にしか思えない、そうとしか受け取られかねないイベントからでも学べることがあった。伝えるべき仕草があった。それが良かった。見て島本和彦さんも感動していたし、駆けつけていた庵野秀明監督も島本和彦さんの来訪に「ありがとう」と言い、そして映画をある意味“作り上げた”観客にも「ありがとう」と言っていた。そして僕たちも心から島本さんと庵野さんに「ありがとう」と言いたくなった。映画が平面を越えて立体となり空間を埋めて心にまで入り込んできた瞬間だった。2度目があるかは分からない。島本和彦さんが見ている、その庵野秀明さんへのある種のコンプレックスなりライバル心なりが会場に満ちていてこその緊張感であり楽しさだったかもしれない。

 同じだけの感動が味わえるか分からないし、前例みたく型にハマってワクワク感が削げていくかもしれないけれど、やらないよりはやった方が絶対に良い。そういう映画の見方があっても良い。笑うなとか叫ぶなとか言われたって関係ない、それはまた別の機会にしっかり考えれば良いことだ。今はただ全身で味わいたい。全力で表したい。そんな気持ちを発揮できる場を今一度、与えて欲しいと切に願う。今度は3分で売り切れるかもしれないから争奪戦も知れついなりそうだけれど。何で3分? 庵野秀明さんおオーダーなんで。それで『ガンダム』ネタを言いたいそうで。「か、完売? 『シン・ゴジラ』の発声可能上映が3分ももたずにか?」とか、そんな感じに。


【8月14日】 寝たり起きたりしながらリオデジャネイロ五輪の中継とか観つつふとネットを立ち上げたらSMAP解散の報。来るものが来たって感じではあるけどそれならいったいどうしてこのタイミングでといった気分が頭に浮かぶ。だって五輪期間中じゃん、中居正広さんとか司会でテレビに出ていてリオデジャネイロに行ってるじゃん、釈明とかそろってテレビ出演とか不可能なタイミングでの解散決定。当然にどこかのスクープじゃなくスポーツ新聞あたりを抱き込んで大本営発表的に一斉解禁するつもりが、ちょっとだけ漏れて先にネットに情報が出たってくらいで、14日未明での解禁ということには変わりがない。

 仕組んだのは当然事務所で、その意図がこのタイミングでの発表を許したってことはリオデジャネイロ五輪が放送中で所属タレントが出ていて音楽が使われていようと、その番組の迷惑を顧みないで発表しなくちゃいけないって気分が働いたってことになる。それが誰の気分なのかはまあ、想像がつかない訳ではいけれどもそこまでして活動休止の発表を急がなくちゃいけなかった理由が単純にトップの暴走なのだとしたら、いよいよテレビあたりもちょっとつきあいきれないって思いにかたむいていくんじゃなかろうか。折角の番組に泥を塗られて、それでもヘイコラしていられるほどテレビだって甘くはないだろう。いや甘いかな。

 そこはまあ局によって斑模様だけれど、少なくとも中居正広さんを今この時期に担いで応援しているテレビ局にとっては、背中から切りつけられたも同然の思いで今後を当たっていくような気がするし、そうしなければ企業としての矜持にも関わる。だからもう一切の付き合いを断つとなったら面白いんだけれど果たして。あえてヘイコラしてまで視聴率を稼げる面々があとどれあけいるかってことにもかかってくるんだろう。見渡して絶対追うじゃだった嵐もどことなく存在感が希薄になってきているし、続くグループはどれも特長が見いだせない感じ。かといってTOKIOにしてもV6にしてもグループで冠持たせられる時期でもない。個々とは仕事してもおんぶにだっこはこれで終焉に向かうのかなあ。

 何よりSMAPを未だに看板として掲げて来たフジテレビあたりが梯子を外された感をどう受け止めてどう対処してくるかに興味津々。すでにして「SMAP×SMAP」で生謝罪という誰が観たって旧態依然としたパワハラだと思うような仕打ちを何の躊躇いもなく放送しては視聴率の糧にしたと非難されている局が、この後に及んでその番組でどういう扱いをしていくのかに注目が集まる。というか散々っぱら不協和音が謂われながらも番組を止められず、9月以降も続ける考えをしばらく前まで示していただけに、お前らいったい何だって憤っても不思議じゃない。

 解散を公表して仲違いが明確になってもなお、即座に打ち切らず年末まで続けるとしたらそれは出演者にも拷問だし、視聴者だって嬉しさよりよ居たたまれなさが先に来るだろう。そんな公開処刑を年末まで視聴率のために続けたら、それこそ局として終わりだと思うんだけれど、すでに終わっている局だからやりかねないなあ。年末に特番やったって美談にはならないよ。でもやるんだろうなあ。さすがにそのあたり、世間がどう思っているかも汲んでNHKは仲違いから解散を発表したグループを紅白歌合戦に引っ張り出して、あり得ない仲直りを見せて美談に仕立てるような真似はしないと思うけれども果たして。ちょっと注目。

 そんなSMAPの解散報道とほとんどタイミングと同じにして「スター・ウォーズ」に出演してR2−D2を演じていたというか、中に入っていたケニー・ベイカーさんが死去したとの報が入ってきてこちらのように愕然となる。既にしてモフ・ターキン役のピーター・カッシングさんやオビワン・ケノービ役のアレック・ギネスさんらが亡くなっているけれども、これまで描かれたすべてのエピソードに登場してR2−D2の役を演じてきたレジェンドが亡くなるのはこれが初。残るはC−3PO役のアンソニー・ダニエルズさんだけになってしまう。

 だからこそ死去に対して何か言うかが興味あるけど、仲悪そうだったから何も言わないかなあ。レイナード・ニモイの葬儀をウィリアム・シャトナーが欠席したように、義理とか人情とか関係なしに嫌いなものは嫌いと自己主張する人たちだから。俳優って。ただ「スター・ウォーズ」においてはダース・ベイダーとR2−D2は双璧ともいえる一種のイコンであってその中に入っていたデビッド・プラウズさんとケニー・ベイカーさんはたとえ中の人であってもキャラクターと同様の人気があり知名度があって、そして永遠のレジェンドとして第1作(つまりはエピソード4)を公開時に観た僕たちの心に刻まれている。13歳だった僕が公開時に名前を覚えてしまったんだからたとえ中の人であってもその存在はとても大きい。

 12月に公開される「エルストリー1976」というドキュメンタリー映画で、「スター・ウォーズ」に出演した端役やエキストラの人たちがコンベンションに来てサインで稼いでいる様が登場したけど、そんなコンベンションに来ればやっぱり集まる人数が違う代表として、デビッド・プラウズさんとケニー・ベイカーさんは共に語られていたくらい。そんな偉人が逝く。これは映画界にとってもSF界にとってもトップニュースなんだけれど、SMAPに隠れて誰も気付かないまま行き過ぎてしまいそう。寂しいけれども、僕たちは深くその存在を心に刻んで、これからも語り続けたい。たとえR2−D2は動き続けても、僕たちはその中にケニー・ベイカーさんの姿を想像し続ける。合掌。

 なぜか舞台が愛知県の常滑で、そして野球ものなら読むしかないじゃん愛知県民(元)的に。それが「ロウきゅーぶ!」の蒼山サグさんによる新刊「ステージ・オブ・ザ・グラウンド」(電撃文庫)。小学生の時にクラブチームであぶれた面々がそれならと抜けて集まりチームを作って野球を始める。中にものすごい魔球を投げる投手がいて、小学生では変化球が禁じられているため文句を言われるもの、この魔球があれば楽しく出来ると湧いていたらその投手がすぐ転校。捕手も強打者も気が抜けてしまって野球を辞め、4番サードの女子は仲間を無視して高校デビュー。1人ふとっちょは中学でも野球を続け高校の野球部に入てバラバラになってしまう。

 そして捕手は草野球に駆り出されつつ、酔っ払いが投げる球を受けつつ漫然とした日々を送ってていたところに、高校生になった魔球の投手が帰ってきた。何を投げても変化してしまうため、魔球しか投げられないけどそれは凄い。そして空気を読まずに野球部に入りたいという。捕手は監督に疎まれ強打者は自分たちを置いていなくなってしまった魔球の投手に今も複雑な心理を抱いている。でも空気を読まない投手は入部をかけて野球部に勝負を挑み、それに皆が巻き込まれていく。抜けてしまった少女までもが。

 1直線の青春は違い夢があったけど、手から抜け落ち空虚になっていた気持ちにまた来た希望。でも道は閉ざされかかっていてという、地団駄踏みたくなる気持ちが迫ってくるストーリー。でもみんなまだ若い。やりゃあいんだよやりゃあ。そして始めた野球の道は何処へ?   起伏があって面白い展開。高校デビューして野球なんて何さという態度の女子まで本領発揮の可能性を見せたりして、そんなメンバーが野球部員たちに溶け込めるのか、そして目指せるのか甲子園。でも常滑だものなあ。愛知は私立が強いからなあ。ちょっと期待。しかし自分の知ってる常滑は港べりに狭い路地があって家が建ち並び常滑焼の工房もあって競艇場とかあったりして賑わいつつも漁港といった感じだったけど今は空港がありイオンモールもあるトッポイ街になっているのか。行っておこうかなあ、1度くらい。


【8月13日】 笑福亭鶴瓶さんが出ている番組に志田未来さんが出演。子役の頃から見知っているかというとどことなくすれ違っていた感じで、君塚良一監督の映画「誰も守ってくれない」で、身内に犯罪者を持って追われる少女という役を、怯えながら頑なになり黙して語らず震えているような雰囲気でもって演じていたなという印象を何となく覚えているくらい。あとは「借りぐらしのアリエッティ」での小さなヒロインか。演技は上手かったけど声に飛び抜けた可愛らしさがあるって感じでもなく、声優というよりはやっぱり女優の発声だったなあという記憶。つまりは存在そのもので魅せるというより物語の中でしっかりとその役をこなして作品のテーマを浮かび上がらせる、スターというより職人といった感じの人と言ったら言えるのかも。

 そんな志田未来さんがピンで出演したトーク番組で見せてくれたのが志田未来さん自身の人となり。川島海荷さんとの関係とかでいつもいっしょにどこかに言っては喋り込んでいるといったエピソードは23歳のまだ学生気分も引きずった女の子といった感じだし、妹が大好きで自分で稼いだ中から何でも買ってあげて喜ぶ顔が見たいというのも、人としての優しさが見えてとても良い感じ。そして「ラブライブ!」。μ’sが好きで矢澤にこが大好きで鶴瓶師匠からみんな同じ顔していると言われて同じじゃないとガチギレ気味で訴えて、そしてあのファイナルライブにたぶん2日間行ってそれぞれ5時間を立ちっぱなしでララブライブレード降り続けた話を嬉しそうにしてこれはガチだと思わせた。

 大声で「エンジェル!」って叫んだというのは「Angelic Angel」での合いの手だろうなあ、そして次は「パッション!」と。「Snow Halation」ではちゃんと手にしたラブライブレードの色を切り替え手がちぎれるくらいに降り続けたんだろう、そんな真剣さを聞くにつけて今一度、そんな機会を与えて上げたい気もするけれども残念ながらファイナルライブでμ’sとしての単独公演はしばらく封印、とはいえ映画の中で解散したはずのμ’sが東京ドームでのラブライブに登場したように、記念碑的な復活なんてこともあるかもしれないと思って今を生きている人たちと同様に,志田未来さんも心にラブライブレードを灯し続けながら、その日を待ち続けているのかもしれない。そう思いながら今後、出演した場面を見ていくと気持ちの入れ方も変わってくるかも。次に何に出るのかな。ちょっと注目。

 晴れたんでとりあえずコミックマーケット90へ。今回でもって「SF」とうジャンルが消えてしまって創作とかに吸収されてしまうとかで、根っこにSF大会でのディーラーズルームがあったりもする同人誌即売会から「SF」がなくなってしまうことを、寂しく思う節もありまた愛情の退潮を言う向きもありそうだけれど、実際にのぞいてみたSFあたりの島は島すら作りづらい感じにサークルがなくて、向かいの特撮がまだ島として活気があって今後もテレビとかに混じって特撮という言葉が残るのとは対照的に、これなら創作に吸収されても仕方がないかなあと思わせた。

 というかかつてだったらアニメーションだとかライトノベルだとか漫画だとか特撮だとか中でもSF的な部分を抜き出し研究して、そうしたものが小説とかの創作や評論と並んであるていどの島を形成していたこともあっただろうけれど、SF的なスピリッツがあらゆる漫画やアニメーションや特撮に行き渡って、言うならすべてのジャンルにSFが浸透し拡散していった一方で、創作として、あるいは評論として残ったSFが逆に縮小傾向にあったりする状況が、今回のSFという名称での応募の中止につながったのかなあ、なんてことを考えた。

 かつては主体を占めていたなろう大学のSF研究会だってそんなに並んでない感じで、今はむしろ「文学フリマ」の方にいっぱい来ているかなといった感じ。創造するなら大学のSF研もアニメやら漫画やらライトノベルやらを読む人たちのたまり場になって“げんしけん”化して評論とか翻訳とか創作をやって同人誌を出す、なんてことにはなていないのかも。ファンダムはそれでもしっかり続いていて、「はるこん」とか「科学魔界」とか頑張っているサークルもあるだけにもったいない気はするけれど、島の名前は消えても居場所が失われた訳じゃないんで固まりつつ盛り返しを狙って活動を続けていっていただきたい物。まあファンダム上がりじゃないんで直接的な縁もあまりないんで、遠巻きに応援していこう。

 そんなに滞留しないで会場を出てから近くにある有明防災公園がコスプレイヤーさんに開放されていると聞いて見物に。炎天下だけれど風もある雰囲気の中を緑の芝生の上にいろいろな格好を下人たちがいて楽しそう。コスプレ広場の灼熱感から少し離れてまったりとした空気が漂っていた。あの場所まで行けば写真もスタイリッシュなのがとれそうだけれど、コスプレ広場という場にあって混雑の中でも立ち続けることに意味もあるんで広いからといって移動するのは憚られるのかも知れないなあ。同人誌即売会がどれだけ広がってもコミックマーケットに出るという意味はますます大きくなっているのと同じで。西川貴教さんとか小林幸子さんとかも他には出なくてもコミケには出るし。

 そんな有明の防災公園で開かれていた有明防災フェスタをさっと見物。なぜか創芸社が出ていてクリア文庫から「RAIL WARS!」の最新刊のサイン本を並べてた。レーベルの休止が決まったけれどもその中にあって1番人気のシリーズで、ライトノベル全体でも存在感を持っていた作品だけにどうなるんだろうか心配で、たずねたら作者は続けたい意向だし、版元が変わるかレーベルが変わるか分からないけど続いていくんじゃないかという話だった。それは僥倖。ならばやっぱりイラストはバーニア600さんで続けて干しもの。この人の鉄道への情熱とこだわりと女の子の可愛らしさで、支えられているシリーズでもあるのだから。

 そんな出展者に混じって自衛隊応援クラブってのが来ていて、ずっと存在だけは知っていた「大日本サムライガール」の神楽日毬さんが表紙絵に使われている冊子をいっぱい並べて無料で配っていたんでまとめてもらってくる。中に何か登場している訳じゃないけど、小説では見せてくれていなかった表情とかを見せてくれているので嬉しいのだった。真性なる右翼は、日本には私1人であると高らかに叫んでいた日毬さんの、あの本心から国を思い言葉をつむいで訴え続けるスピリッツが今こそ欲しいなあ、権力にすり寄り天皇陛下のお言葉すら蔑ろにしがちな一団が右翼的と見なされている状況を一変させる力が彼女にはあった。その存在感じを今一度、発揮して欲しいものだけれど。アニメーション化、あるいは実写映画化しないかなあ。

 そして歩いて例の映画に出てきたオペレーションルームを見物。もっと人が詰めかけているかと思ったけれども普通に窓ガラスにはりついて見られる感じだった。広いなあ。そんな例の映画について年寄りの編集者がよってたかってゴジラを最新兵器で殺すだけの映画じゃんとかヌかしていたけど、いったいどこを観てたたんだ。そもそもそゴジラは殺されたのか? そんな肝心な部分すら誤認して繰り出す論に説得力なんてありはしない。震災や原発を模しているならなぜそのまま描かないというなら、それはその編集者が讃えるオリジナルの「ゴジラ」にだって言えること。水爆実験や米帝の圧力をそのまま描かずメタファーとして描いて往事の感情を揺すりつつ、怪獣映画の迫力でもって一般にも広がる作品になった。それを非難せずこちらを非難酢るのは新しいものを否定すれば居場所を得られるあの界隈の末期的状況を表すもの。同じ年寄りから信者として奉られてはいても、やがて神輿を担ぐ手は消えて、転げ落ちるだけだろうに。やれやれだぜ。


【8月12日】 例えば。蒲田などで「シン・ゴジラ」の参加したエキストラがいたとして、映画のどこかに自分が映っていたとして、それをもって出演したと世間に自慢したとしても、10年後、あるいは30年後にイベントなどに呼び出され、あの映画のあの場面に出ていて逃げ惑っていたエキストラだからと言われて、サインを求められることがあるだとうかと考える。まずないだろう。それは他の日本映画でも同様だし、それこそ黒沢明の映画のどこかに端役として登場して、しっかりとクレジットにも名前が残されている大部屋役者であっても同様に、何十年後かのイベントに呼ばれてサインをする代わりにお金をもらって糊口を凌ぐといったことは無理だろう。

 それなのに。「スター・ウォーズ」は違う。あるいは「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」だけは違うと言うべきか。デススターでのあの場面。ストーム・トルーパーが管制室に押し入ろうとする時にひとり、頭をぶつけたストーム・トルーパーがいた。その中に入っていたと目される役者は後々まで、誰だったということで話題に上って、コンベンションに招かれることが起こりえる。デススター攻略に向かう反乱軍の作戦会議のどこかにいただけのエキストラが、「スター・ウォーズ」ファンの集まるコンベンションに招かれその場面を抜いた写真にサインをして、幾ばくかの対価を得ることも起こりえる。

 ハン・ソロを演じたハリソン・フォードでもなくルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルでもないただのエキストラ。クレジットに名前すら載っていない俳優志望だった中年男でも存在が認められてサインを欲しいと言われるくらい、「スター・ウォーズ」という作品は、あるいは「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」という映画は少なくない人たちの心に金字塔としてそびえ立ち、登場しているキャラクターは仮面を着けた者でも、その中に入っている者でも構わず“スター”としてもてはやされる。こんな映画が他にあるだろうか。ここまで世界が特別な映画だと認めるに至った理由、誰もが画面の隅々に登場する端役やエキストラも含めて特別な存在なんだと感じるに至った理由を考えた時に、「スター・ウォーズ」という映画が最初に与えたインパクトの大きさであり、40年にわたって積み上げてきた影響力の大きさといったものを認めない訳にはいかない。

 だったらどうして「スター・ウォーズ」がそうなったかといえば「スター・ウォーズ」だからといった答えにもならない答えくらいしか浮かばない。あの時代、あの映画を観て心躍らせた少年少女やもっと大きな大人たちならなんとなく分かる感性だけれど、それを明確にする言葉を今はまちょっと持てない。ただ、ここに製作されて12月17日に日本で公開される「エルストリー1976 新たなる希望が生まれた街」というドキュメンタリー映画を観ることで、現象としての「スター・ウォーズ」に対するファンの熱烈ぶりといったものを感覚ではなく実相として感じ取ることは出来るだろう。コンベンションというものが欧米では頻繁に行われ、そこに「スター・ウォーズ」なり特撮なりアメコミなりのファンが集まり物販を購入し、あるいはクリエイターや俳優たちのサインをもらおうと行列に並ぶ。

 1回いくらといったお金が必要なサイン会。日本だとワンフェスだとかスーパーフェスティバルといった特撮が絡んだイベントに、「ウルトラマン」のような作品に出ていた誰かが来て参加券の購入の代わりに持ち寄った何かにサインしてくれるようなことが行われている。2007年に日本で開かれた世界SF大会でも海外からの参加者が有料でサインをするような場所が設けられていた記憶がある。それが欧米のコンベンションだと普通にある。あるいはそれが大きな要素となっていて、「スター・ウォーズ」の出演者たちもそこにやって来てサインをしている。そんな光景が「エルストリー1976 新たなる希望が生まれた街」には登場する。

 マーク・ハミルもキャリー・フィッシャーもハリソン・フォードもいないしピーター・カッシングやアレック・ギネスも当然いない。ケニー・ベイカーやアンソニー・ダニエルズやピーター・メイヒューだっておらず、いるのは酒場にいた頭の大きな女であり、ハン・ソロにうたれるエイリアンであり、本編では登場シーンを削られてしまったルーク・スカイウォーカーの親友のXウイングパイロットでありといった具合に、端役やエキストラすれすれの人たちが並んでいる。そこに人が集まってくる。そんなシーンを挟み込みつつ映画では、そうした端役でありエキストラを務めた人たちによる、「スター・ウォーズ」に出たことについて何をどう思い今どう感じているかが語られる。

 浮かぶのは、端役であってもエキストラに過ぎなくても、矜持であり熱意といったものを抱いて役に取り組み、そして端役であるからこそ直面する絶望感や劣等感などを示しつつ、それでも負けない、負けた訳ではないと思って役者という夢にかけ続ける心の強さだ。見れば今は大部屋の端役でも、あるいは言えてひとことにガヤな声優でも気持ちを新たにして役に取り組もうといった思いが浮かんで来るし、役者声優でなくても日々をしっかりと仕事に、人生に向かい合おうといった気持ちが湧いてくる。

 興味深いのは、「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」を見ていた世代にはスター中のスターともいえるダース・ベイダー役のデビッド・プラウズが、端役やエキストラの中に混じって登場しては境遇を語っていること。巨体を買われて出演しては世界最大ともいえる悪役を演じた役者が、その存在を認知されず声を出す機会を奪われ今はディズニーやルーカスフィルムが開くファンイベントから閉め出されているという。役への矜持を訴えすぎてルーカスに疎まれたといった話が伝わってはいるけれど、そういう気分にさせられるくらいに、“中の人”への会社側の遇し方には至らない部分もあるのだろう。そんなデビッド・プラウズでも市井のコンベンションには招かれそれなりの遇され方としている。顔も見えず声も聞かれない“中の人”であるにも関わらず。それはボバ・フェットを演じたジェレミ・ブロックも同様で、顔など見えない“缶の中”の人がキャラクターとしてだけでなく、演じた人間として遇され讃えられ囲まれる。こんな映画は他にない。

 端役ではあってもクレジットに名のある役者と、単なるエキストラが同じ「スター・ウォーズ」に出ているからといって、同列に語らえて良いのかといった疑問が役者の中にあるらしいといったことが示されるシーンもあって、そこにも役者の矜持といったものが見え隠れする。とはえい同じ映画に出た仲間なんだし、どこに違いがあるのかといった声を上げる者もいて千差万別。もっとも、他の映画ではエキストラはエキストラに過ぎず、端役ですらその他大勢に埋もれてしまう他の映画では起こらない論争でもある。やはり「スター・ウォーズ」は特別なのだろう。CGで端役がどれだけでも作られ合成されてしまう時代に、いつまでも特別であり続けるかは分からないけれど。

 病弱で保健室登校をしている少女という割にはあんまり弱々しい感じがしないのは、性格が開けっぴろげで明るくて、リアクションも大きいからなのかもしれない。そんな少女だから、保健室に居ながらにして推理をする話かと思った竹原漢字さん「気ままで可愛い病弱彼女の構い方」(ファンタジア文庫、600円)は案外にあちらこちらに出張っていっては、誰かと会って聞き込みもしたりするアクティブ探偵ストーリー。名前を病夜宮美闇という、あり得ないけどあったりする少女をヒロインにして、かたわらには病夜宮係の仕事をあてがわれた甘口廿日という少年がいて、持ち込まれるちょっとした悩み事を解決していく。

 図書委員の女子で廿日が憧れ惚れている先輩の白泉泊がもちかけて来た相談は、同じ本を借りに来る女子生徒が何人もいるけど読んでいる気配がないといたこと。そんなことを喋らず表情だけで語る泊先輩の真意を勝手に読み取り語る廿日のストーカー気味な気色の悪さをはじめとした、キャラクターたちの大げさでセルフ突っ込み全開な雰囲気が面白いといえば面白い。とうか事件そのものは割と単純で推理らしい推理もないんで、そうしたキャラの立ちっぷりとやりとりを楽しみのが良いのかも。泊先輩の妹で廿日とは同級生の泉なんかのまっすぐな暴走ぶりも楽しいけれど、個人的には眼鏡で保険医の久凪崎美陽の大人びたエロさが好きかなあ。次巻があればもうちょっと活躍と暴虐ぶりを読みたいなあ。

 もはや人として壊れているとしか思えないかもしれない鳥越俊太郎さん。東京都知事に立候補したものの敗退した後、インタビューに答えて言うには演説なんかは言われたままに出ていただけで数が少ないのは選対の設定の責任だし、落選の翌日に自分のサイトから都知事選に関するコンテンツがきれいさっぱり消されていたのも、サイト管理をしているマネジメント会社がやったことで自分は全然知らないとか。ニコニコ生放送にも報道2001にも出なかったけどそれもやっぱり選対なんかが判断していることで自分は知らないし聞いてもいない。挙げ句にネットは裏社会だから信じてないと放言する。受けてさっそくTwitterで鳥越情報をリアルタイムで流して頑張っていた選対のメンバーが何だそりゃと怒り心頭。それを見て答えてくれた有権者は裏社会の人間なのかと非難している。当然だ。

 ペンが弱っていて何も通じないから選挙に出て訴えたんだと言っているけれど、その肝心の選挙でどこまで行って何をどう訴えるかを自分でまるで判断していなかったといったことが満天下にさらされた。あるいはそっちへと責任を押しつけた。どれだけの演説をするのかは選対が決め、どこに出るかも選対が決め。それでよく選挙で何かを訴えたかったなんて言えるものだと思う人が多いだろう。そんな無責任な人を都知事にしなくて良かったと胸をなで下ろしているだろう。以後、その口が何か言ったところで信じる人はもういない。付いていく人だっていない。ネットで何かを言ったところで裏社会呼ばわりした場所で何を言うと知らん顔。そんな人間がだったら何で訴えていくのか。活字をパージしたならあとはテレビかラジオか。でもそんな人間だと分かった人を出すテレビやラジオはあるのか。あるんだろうなあ。でもそれを見る人聞く人はもういない。どうしていくんだろう。やれやれ。


【8月11日】 そして目覚めると、内村航平選手がリオデジャネイロ五輪の倒す男子団体総合でも金メダルを獲得との報。5種目目までに1点近い差を付けられての2位に甘んじ、逆転はもはや不可能と思われながらも最後の鉄棒で内村選手は自身の演技で満点近いものを出し、一方でトップをいっていたウクライナのオレグ・ベルニャエフ選手は着地で1歩足が出てしまってそれが減点となって、1点近い差を逆転して内村選手がトップに立って、ロンドン五輪に続いて2大会連続の男子総合での金メダル獲得となった。日本ではメキシコ五輪とミュンヘン五輪で成し遂げた加藤澤男さん以来、2人目の快挙らしいけれど、体操王国と言われた時代が廃れて後、復活してきたところがまず凄いし、団体でも金メダルだったところに、王国の復活どころかさらなる隆昌って奴も感じられて東京五輪への期待も膨らむ。女子もだんだんと良くなってきているようだし。

 そんな内村選手を始め、団体に出場した5人のうちの4人までもがコナミスポーツクラブ所属というのも興味深いところ。もともとは強かった大和銀行の体操部が休部となったところを、監督も含めて居抜きで引き受けたって感じだけれど、それでも初期の頃は有名な選手とかおらず、成績も伸ばせずここまで凄いチームになるなんて予想できなかった。コナミがピープルっていうスポーツクラブの大手を買収し、日産系のフィットネスクラブも傘下に入れて、そっちの分野でとだんだんと事業規模を広げてきたとはいえ、やっぱり後発だし元々がゲーム会社で、プロ野球とかオールスターといった運動へのスポンサードはしても、企業の中で育成するだけのノウハウなんてない。成績が出なければ反発も生まれるだろう中でそ、れでも我慢して保持して来た成果が、金メダルという偉業となり連覇という大偉業へと繋がった。

 コナミに関しては、ゲームそのものへの腰の入り方が弱まっていて、「ラブプラス」だとか「メタルギアソリッド」といった人気ゲームを作り上げてきた人たちが続々と会社を離れていくことに、ゲームファンからの批判も出ていたりする。あれだけあったゲームプロパティを生かし切れているともいえなスマートフォン向けゲームの戦略もあって今後、ゲーム会社としての立ち位置はどうなっていくのか、業務用でメダルゲームが強くてもそれだけで生きていられる世界じゃないよって気持ちもないでもなかった。バンダイナムコゲームスやセガゲームス、スクウェア・エニックスといった主要ゲーム会社が今なお存在感を保っているのと比べると、ゲームにおけるKONAMIブランドは決して一時期ほどの重さはない。新興のレベルファイブにだって負けている。もちろんポケモンにも。

 その一方で、スポーツのこと体操に関しては今や日本のトップであり、ひいては世界のトップとして先頭を走っていることがこれで満天下に示された。これは他のゲーム会社にはない特長。かつて、それこそ10年以上も前にピープルを買収した時から、ゲームという世界にだけ足を据えてアミューズメントの企業として存在するのではなく、人の暮らしに貢献することで認知され続いていく企業になろうというスタンスを見せていたコナミ。そのためにコナミスポーツを作り地域からスポーツ施設への指定管理者の認定も受けてきた。考えるなら経営者の、社会に認められる企業になっていきたいという思いがあったのかもしれない。もちろんゲームだって充分に社会に認められた娯楽ではあっても、より広い世間の認識が頑なで、「ポケモンGO」の大ヒットがすぐさま非難される。それが現実だ。

 そんな空気感の中で、ゲーム企業でありつづける悩ましさってものを感じながら、違う道を模索してきたその成果が、10余年を経て結実した。そう言えるのかもしれない。今はまだ体操くらいしか強くないし、他にもいた競泳なんかの契約選手も今はいなくなってしまったけれど、こうして認知されたことを生かして次は競泳なんかを再びもり立て、他のスポーツなんかにも取り組んでそして、世間からあまり認知されていないけれどもこれから延びそうな分野で頑張っているアスリートたちを、見つけ支えていって欲しいもの。ボルダリングなんて五輪の競技にだってなった訳だし、スケボーのようなXゲーム系だってまだまだある。超人スポーツってカテゴリーなんて、まさにデジタル分野を持つコナミグループにふさわしい。これを機会に是非、目を向け関与を示していって欲しいもの。離れていったゲームファンもこれならと納得するる成果が遠からず見られると信じて見守っていこう。

 1999年2月27日の土曜日にロフトプラスワンで開かれた伝説的なイベント「lainの逆襲」に登壇した姿を見たのが1度と、その前日に初台で開かれた第2回文化庁メディア芸術祭の授賞式に小中千昭さんらと来場していた姿を遠巻きに眺めたのが1度、あったくらいだろうか。中村隆太郎監督の姿を見たことは。当時の日記を見るとやたらと身長についての言及があって2メートルとか2.5メートルとかいった大げさな書きっぷりに、相当に背の高い人だったんだなあという記憶がふんわりと浮かんで来る。そんな中村隆太郎監督が、アニメーションの現場でどんな人となりあったのかを語ってもらうイベントが、あれから17年と半年は過ぎたロフトはロフトでも阿佐ヶ谷ロフトAで開かれたんで見物に行く。

 アニメ評論家の藤津亮太さんを案内役にして「serial experiments lain」とか「神霊狩/GHOST HOUND」なんかで脚本家として組んだ小中千昭さんと、それから劇場版にあたる「キノの旅 病気の国 −For You−」を制作したシャフトの当時はプロデューサーで今は代表の久保田光俊さんが中村隆太郎監督について印象とか、仕事の仕方を話してくれた。そこで浮かんだのがまずは“寡黙”といったこと。喋らない。ああとかうんとしか言わない。それでどうしてクリエイターとかプロデューサーとかと仕事がなりたつんだろうとは思うけれど、例えば脚本なんかを頼んで上がってきたものであったり、絵コンテを描いて現場にわたしたりした後で上がってきたものが、良ければ通すし良くなければ黙考しつつ模様眺めといった態度から、現場が意図をくみ取りその意図へと迫っていくような作り方をしていたのかもしれない。

 ただ身長が2メートルは大げさでも結構な大男が座って寡黙でむーんとしている前でクリエイターたちはいったい何を思ったか。無言の威圧感は相当なものだったのかもしれない。ただ一方で、上がってきたものが期待を上回っていた場合、そして予想を越えていた場合の喜びようはたいそうなものだったそうで、自分を媒介にして現場がめいっぱいを出してくる、それによって作品が意外な方向へと転がってかつてない雰囲気のものができあがる、そんなことを狙っていたのかおしれないし、だからこそ「lain」とかはああいった、他にないし今もないものになったのかもしれない。

 会場に来ていた音響監督の鶴岡陽太さんも、lainでいろいろと手探りながらもその加減をつかんでいった先、「キノの旅」でも不思議な場所に音を出す、それこそ絵で見れば分かる音ではない音をつけることを狙っていったようだし、「神霊狩」では一流のミュージシャンを使ったフリーな音楽を着けたそうで、そんな現場の“暴走”を許容しながら、クリエイターのめいっぱいが幾つも集まった作品にしようとしていた、そんな人物像が浮かんできた。アニメーターとしても一流だったらしいけれど、そう言われることを良しとはせず嫌な顔をしていたのは、自分より優れたアニメーターがいたことへの敬意もあるんだろうし、演出家として立っていきたいという意志と決意にとってアニメーターとして凄いう言葉は褒め言葉に聞こえないし、聞こうとしなかったのかもしれない。

 現場で絵に手を入れるようなことはしなかったというそのスタンスを、東小金井の大御所さんとちょっと比べてみたくなった。まあどっちが良いとか悪いとかではないけれど。誰かを信じる気持ちの強さは中村隆太郎監督の方が大きかったんだろうなあ。とはいえ描く絵コンテは絵も上手で奥行きもあるものらしく、シャフトが中村作品をグロスで引き受ける時も、現場で中村監督の絵コンテでなくてはいやだという話を受けてそれならと書いてきたという。クリエイターをひれ伏させる何かがその絵コンテにあるんだろうか。絵コンテの読み方をよく知らないだけに解説が欲しかったところだし、それならばと絵コンテ集の登場も待ちたいところ。『木野の旅』以外にどれだけの中村隆太郎監督の絵コンテって残っているんだろう。ちょっと気になる。

 それにしても没して3年になるのか。かつてないほどの人数を集めたロフトプラスワンでのイベントから17年経ってもなお、阿佐ヶ谷ロフトAをそれなりに埋めるだけの人が、休日の昼間であるにも関わらず集まってくる。それだけの魅力がやっぱり中村隆太郎監督の作品にはあるんだろう。多くは「lain」かもしれないし、一部にちょっと前にBD化がかなった「ちびねこトムの大冒険」で知った人がいるかもしれない。ライトノベルの原作があまりに有名なため「キノの旅」について中村監督作品と意識している人も案外に多くないのかもしれない。「サクラ大戦」のテレビシリーズってBD化されないんだろうかとか思ったりもする。

 ただ、それでも忘れていない人はいる。こんなにも。集まってくれるクリエイターさんもいる。伊藤郁子さんや大橋学さんも会場にいたっぽい。そんな希有なアニメーション監督が忘れられていいはずはなく、埋もれていいはずはないんでここはやっぱりいつまでも、忘れないためにその作品を語り続けたいもの。そのためには「lain」以外の作品にも目を向ける必要があるかなあ。「キノの旅」なら手元にあるし「ちび猫トム」もクラウドファンディングで手元に届いたしCOLORFUL」もあるけど「神霊狩」はないんだよなあ。ここで決意して買っておくか。


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