縮刷版2016年6月中旬号


【6月20日】 虎の尾を踏んだと言ったところか。親友の急な死という不幸に直面した小玉だけど、いつまでも哀しんでいる暇はなさそう。その原因となった人物が、影で誰かに操られていたかもしれないといった懸念から調査に乗り出した夫で皇帝の文林が、調べた帳簿から怪しい地域を割り出しそこに小玉を派遣する。といっても、皇后の身では身動きがとれなくなるからと、身代わりを立ててそのお付きの者として現地に入って街に出て調べ始めると、どうにも妙な空気が漂っていた。母親といっしょではない娘がどうにも不安げな様子で歩いている。そして戦闘訓練に参加している子供たちには女の子の姿が見当たらない。

 何かある。そうは思いつつ決定的な何かをつかめずにいた小玉だったけれど、前にちょっとしたことで知り合い、今は小玉が率いる軍隊にいる3人娘の1人が行方不明になる事態が発生し、それを理由に小玉は軍隊を動かし、土地を治める役人を絞りつつ真相へと近づいていく。そして分かったのは、経済や軍事といったものではなく、母性愛的な感情で惹かれ引き合っている集団の存在。それはどこか宗教にも似て狂信的なところもあって、小玉を襲い人々を圧迫しつつ特定の勢力の崇拝を集めてじわじわと広がろうとしていた。そんな展開の雪村花菜さん「紅霞後宮物語 第四幕」(富士見L文庫)。

 親のいない女子をさらおうとしていた理由。そして子供たちに女の子が見当たらない理由。相手にとっての筋はあっても、一般から見れば狂信に過ぎないその見解を邪悪と見て小玉は討ち排除する。そのことが、功利ではなく思慕であり信心で結びついていた者にとっては仇も同然の存在として小玉を認識させた。以後、そんな小玉を狙った復讐が幕をあけるだろう。それらと戦い勝ったからこそ後々まで、強い皇后として歴史に名前を残すんだろうけれど、そうなるまでのおそらくは陰謀があって、血で血を洗うような陰惨な出来事もあってと、小玉をいろいろと惑わせそう。それを打破して突き進んでいく戦いが今後、描かれることになるのかな。どこか天然で純粋な小玉の猪突猛進の裏側で、策を巡らせる文林の苦衷にも触れて差し上げて欲しいかな。憎まれ役となって泥を被る彼のそれが小玉への愛なのだから。

 9巻も出ている「週刊少年ジャンプ」連載の漫画がアニメーション化されて1クールで終わるってことはないと思いたいし、クオリティの高さとストーリーの面白さではこのシーズンで群を抜いていたって思いもあるから、きっと続きが放送されると信じているけれど、7月からは「アルスラーン戦記」の第2期がスタートすることになっているんで、日曜日の午後5時代からちょっとだけ「僕のヒーローアカデミア」はいったん終了。生徒たちの実習場面にヴィランたちが現れ、オールマイトを誘い出してはやっつけようとしたけれど、そこはオールマイトだけあってどうにかこうにか返り討ちに。でも当人はそろそろ時間切れで正体がバレそうになっている。いったいどうなる?

 ってあたりが次週の展開になるのか。そこで露見してしまっては後が続かないから、隠して漫画といっしょの展開を、2期以降でやってくれると思っているけれど、そうでないならこれで終わりって可能性も。「食戟のソーマ」も「ハイキュー!!」も、第1期をTBSで放送しながら第2期が違う局になってしまってたりして、あんまりアニメを大事にする感じがしないからなあ。あるいは「僕のヒーローアカデミア」も違う局で再スタートって可能性もあるのかな。生徒たちではようやく梅雨ちゃんの活躍が見られ始めたけれど、、これでいったんの見納めになるのはちょっと寂しい。胸とか柔らかそうだったし、もうちょっと活躍の場を与えて欲しいもの。伏して願いつつ来週の最終回を待とう。

 厄介としか言い様がないというか。チネチッタ川崎で「ラブライブ! The School Idol Movie」の応援上映が開かれたんだけれど、そこに集まった一部の人間が、アニメーションの展開とは無関係な歌を歌い、不届きな写真も持ち込んだりしたことで、劇場がこれは次にやっても同じように暴れる奴らが出てくると感じ、それで他の観客が嫌な思いをしてしまうのは遺憾だと、予定していた応援上映を中止にしていしまった。さっそくメディアなんかが、応援上映を行って収益を伸ばしている「KING OF PRISM by PrettyRhythm」なkなを例に挙げ、応援上映という形式が問題を招きやすいような論調を繰り広げ始めているけど、それはちょっと違うんじゃなかろーか。

 なるほど「キンプリ」の応援上映にも、場内の統率感を高めようといった考えなのか、自由な応援をしづらい雰囲気を作り出し、団長の指揮下でもって応援団的な統率感をもった応援上映が行われ、もうちょっと自分のペースで自分なりの発声で応援したかった人を戸惑わせていたりする。キャラクターへの偏愛が講じてネガティブな言葉も発せられるようなこともあるらしいけれど、それが上映中止といった事態を引き起こすようなことにまでには至っていなかった。なぜなら参加者たちは自分たちが騒ぎたいがために応援上映に行くのでは無く、一緒になって作品を盛り上げ一体感の中に喜びを味わおうとする共通音意識が通っていて、ひとり悪目立ちして騒ぐような真似を、状況として許していなかったから。

 やってやれないこともなかっただろうけれど、それをやって起こるリアクションの怖さを思えば突出はできない。何より作品を愛する心、その場を求め続けたい願望が将来を壊すような真似を許さなかった。きっとラブライバーと呼ばれる「ラブライブ!」のファンたちも、自分たちの喜びを最大限に発揮しつつも、そうした場が壊されることを嫌って騒動を起こすような真似はしていなかっただろう。作品を愛する気持ちがあるなら、作品が壊され集う場が壊されるような振る舞いなんて出来るはずがない。そう思うとチネチッタ川崎で起こった騒動は、応援上映という形式に問題がある訳でもないし、そこに参加するファンが悪い訳でもない。ラブライバーがイコールで悪だなんてことは絶対にない。

 問題の所在は、ひたすらに場を壊そうとする厄介な存在にあって、自分たちが楽しければ他のことはどうでもいいといった心理にあって、そこを諫めるなり排除できるシステムを整えていきさえすれば、応援上映という素晴らしい試みは、興業の世界にひとつの新しい収益基盤をもたらし、エンターテイン面の楽しみ方に新しい道をもたらす。だからこそ、そうした可能性を潰すような存在を許してはいけない。Jリーグのチームはヘイトな発言をした者を引っ張り出して態度を改めるように促し、自分たちの将来が奪われる懸念から、周囲がそうした振る舞いを許さないように自治的な振る舞いをしていく。それと同じような動きが起これば、厄介も消えていってくれると思うんだけれど、そういった自浄がなかなか働かないんだよなあ。サッカーならチームの勝ち点剥奪なり罰金といった罰則が、自分たちの愛するチームを損なうとしてファンが立ち上がるけれど、映画ではそうした仕組みが働きづらいし。どうなることか。

 自分たちの心地よさが、場といったものを守り育んでいこうとする意識を上回って発露される、これもひとつの例なんだろうか。フジロックフェスティバルに政治的な活動をする人たちが出ることに、そういうのは止めてといった声が起こったけれど、ロックなんてもとより反体制で政治的なメッセージも含んだカテゴリーだし、フジロックだって反原発ちったメッセージを打ち出して世間をアジって来た歴史がある。もともとがそういう場であったにも関わらず、自分たちが心地よい音楽に浸りたいのにノイズを混ぜるのは止めてというのはやっぱり自分優先、アニメを楽しむより自分たちが騒げてハッピーな厄介と重なるところがある。どこかピントが外れた政治的なメッセージを持ち込まれることへの異論はあって当然。そういう批判もあって良いけれど、政治性など不要といった言説をさすがに退けるあたりに、まだまだ自浄への意識がありそう。そこがちょっと羨ましいかも。


【6月19日】 入学したばかりとはいえ艦長として任じられたならその職務に精勤すべきなんじゃないかと思うけれど、ここまで厳しい戦闘もあって船が傷つきけが人も出たりするとやっぱり上に立つ者として逡巡もしてしまうものなんだろう。これが普通の軍隊だったら上に立つ者は下から順を追って偉くなる過程で部下を使い時には命を捨てろと命じる覚悟も育んでいる。そうでなければ戦闘なんで出来はしないと知っている。行き過ぎればそれが兵の命を命と思わない采配となって全滅の憂き目に遭うんだけれど、勝つためには時に犠牲も必要だという心理はやっぱり必要だろう、士官には。

 だからただの入学時の成績でもって士官だ兵卒だと分けてしまって良いのかって気がしてならない「ハイスクール・フリート」は、いよいよ艦影が見えた武蔵に向かってブルーマーメイドが攻撃を仕掛ける中で、砲門を積んだ戦闘可能な艦船として近くにいた晴風に武蔵を追尾するよう指令が下るけれども近くに寄って大砲でもくらって仲間に負傷者が出たらどうしようって岬明乃がポンコツ化。そこで叱咤すべき副長の宗谷ましろもそれなりな付き合いの中で教条的に振る舞うことができず、武蔵に明乃の親友の知名もえかが艦長として乗っていることも分かっていっしょに逡巡してたりする。その間に食らう攻撃。下らない指令に船は立ち往生…。

 するかというとそこはそれぞれが自主性を持って動いているだけあって、ポンコツな艦長の心理を組みつついっしょに事態に当たろうという気概も状勢されている様子。どうにか団結も計られ次はいよいよ武蔵戦。艦橋に立てこもっているもえからを助けつつ操られているだけの乗員たちも助けることができるのか。何しろ武蔵だからなあ、大戦艦の、超重力砲もデカいのを積んでる、ってそれは別のムサシだった。一方でましろの母親の真雪も動き始めて本格的な戦闘の指揮を執る様子。いったいどんな戦いが繰り広げられるのか。そもそもあの人を操るウイルスってどこから来て誰が持ち込み何を目的にしているのか。そういうデカい設定が背後に隠れているのが気になるなあ。ただの自然現象? まあそれでも良いけれど。

 「境界線上のホライゾン」シリーズを読んでいれば別に分厚くもないとは思うけれどもライトノベルにしてみればやっぱり厚いかもしれないオキシタケヒコさんの「筺底のエルピス4 −未来廃棄−」(ガガガ文庫)。前の第3巻「絶滅前夜」で言葉通りに絶滅前夜まで追い詰められて「門部」と呼ばれる日本在住で鬼を狩ってる一党の面々が、現れた敵対勢力でもトップクラスの実力者によって次から次へと倒されていって、もはや絶体絶命といったところでどうにかこうにか数人だけが抜け出して、向かったところが女医さんの故郷だったというとある島。そこで立て直しを図るものの敵もさるもの、ローマを火の海に変えるくらいの非道を平気で繰り出しては拠点を掴んで攻めてきた。

 それでもローマが落ちたなら次はといった想像から、対策も立ててどうにかこうにか最小メンバーだけは抜け出したものの途中で主要な面々が次から次へと命を落としていくという展開。これで誰も生き残らなかったら話も終わってしまうけれど、そんな「デビルマン」みたいな破滅エンドで満足させるはずもないから誰かが生き残るだろうと思っていたら、ちょっと意外な人間だけが最終的な目標へとたどり着いてひとつ時間を巻き戻し、さあリスタートだってことになった。とはいえ進んでしまった時間は厳然としてそこにあって、時系列から切り離されても消滅することはなく続いていく。その過程で起こったさまざまな哀しみもそこに生き続ける者たちによって引き継がれていく。

 とても哀しくて痛ましい状況。なおかつそれを主観として知り、抱えて過去へと戻った者はたとえ目の前に巻き戻された時間があったとしても、切り離された時間での記憶と経験はずっと残り続け、引きずり続ける。そんな痛みを抱えるくらいならどこかで終えてしまっても良いんじゃ無いか。なんて思えたりもするけれど、そこはそこで生きている者たちがいる場所。捨てることも諦めることも許されないなら戦うしないってことを、感じて再び戦いの場へと戻っていくことになるのかな、それとも後は任せたと引き下がるのか。たとえ“身内”どうしの見解の相違から生まれた抗争は終わったとしても、鬼という存在を滅ぼさなければいつか人類は滅びてしまう。その方策は果たして手に出来たのか。インターネットという情報と共に憎悪をも拡散させ蔓延させる装置の存在を確認してなお留める手段は見つけ出せるのか。あらたに生まれた問題にどう挑むのかがこれからの注目ポイント。どうなる人類。読み続けるしかなさそうだ。

 なでりこリーグカップが始まっていてフクダ電子アリーナでジェフユナイテッド市原・千葉レディースとINAC神戸レオネッサが戦うみたいなんで観に行こうかと家を出て、とりあえずレナウンのバーゲンが開かれている幕張メッセに寄ったら何かライブがるみたいで参加者たちがちらりほらり。1つはPerfumeでもうひとつは韓国の人気アイドルグループか。どちらも数万といった人が来そうでそんな流れに巻き込まれる前に退散しようと服を買い、ベルトを買って会場を出て海浜幕張駅まで来たら蘇我方面へと行くはずの京葉線が止まっていた。どこかで信号機故障があったみたいですぐに動く気配はない。これは困った。

 仕方が無いので早速長蛇の列ができはじめていたバスで幕張本郷まで出たれど、外房線だかも止まっていて電車が千葉までしかいってないようなんでフクダ電子アリーナに行くのは諦めいったん帰宅。昼寝をしてからまた起きて、夕方に開かれるよていの「アルケミアストーリー」ってゲームの声優オーディション最終選考会を見物に行く。会場は蒲田。いつも同人誌即売会が開かれている建物の上まで行って成り行きを見物。30人ほど集まった最終オーディションの参加者を見ると、それぞれが声優なりナレーターなりレースクイーンなり司会なりといった分野で活動している人たちで、話す声も格好良ければ演技も達者。それでもやっぱり大役を掴もうとして頑張ってオーディションに臨んできた。

 集まっている観客の投票も影響するとあってアピールするのは声だけじゃなくそのキャラクター性も。詩吟をうなるわ縄跳びを跳ぶわコロッケを作は鹿児島弁で話すはと様々な個性を見せてくれた中で、最終的には大人からだんだんと子供に化けていった人とかRPGの頭文字をお題にセリフを喋った人、イケメン声も出そうだけれどももっぱら老人声で勝負した人、そして謎解き体験型イベントの司会なんかをしている人が通った感じ。人気というよりも芸達者なところが通ったのかな。まあ前々からずっと行われていたオーディションだけにファンもついていたんだろう。それなら証明写真のモデルになている美女とか通りそうなものだけれど、そうじゃなのが顔より声の世界ってことか。

 ゲーム自体はMMO+JRPGってことでジャパニーズなRPGならではの取っつきやすさを目指しているらしい。テスト版が遊べたんで試してみたけど美麗なグラフィックで表現された広いフィールドをずんずんと旅して行けそうな感じ。キャラクターも自分で顔立ちから髪型から体型から年齢までを選べて設定できるんで、自分好みのキャラクターを作ってフィールドへと送り出せそう。太らせたり胸を大きくさせたりしてムッチリ好みの人でも安全。もちろんスレンダーな幼女も。ちょっとだけ試したけれども簡単操作でさくさく進められてなおかつ奥も深そう。出てくるキャラクターも可愛いし、これはちょっと遊んでみようかなあ。年内にはリリースできるかな。それまでに手持ちのスマートフォン環境を整えておくか。iPadもいい加減古くなってきたし。


【6月18日】 「ジョジョの奇妙な冒険 第4部 ダイヤモンドは砕けない」ではいよいよレッドホットチリペッパーズとの戦いが佳境を迎えて、ずっと姿を見せなかった本人が登場したらこれがなかなかのギター弾き。アニメーションとしても弾いていたけどそのライトハンド奏法を、担当しているのはいったい誰なんだろうかとちょっと気になった。レッチリのメンバーって事はさすがにないだろうし。ギターで人の声を表現するところは誰か喋ったのをギター風に加工したのか、それとも本当にギターで出していたのか。今だとギター入力のボーカロイドエフェクターを使えば喋らせることも出来るしなあ。それだと声、初音ミクになっちゃうけれど。

 そして戦いは海にスタンドを落とした丞助の勝ちかとおもったらしつこく生き残っていた音石明の船室進入。けれども莫迦で鳴る億泰がどっちかでもなくどっちもぶっとばす意気込みで倒してジョセフ・ジョースターは無事、丞助と体面を果たす。老いているようだけれどジョセフ、この後活躍とかしたっけ。すっかり原作忘れてる。そして話はいよいよ吉良吉影の登場へ。重ちーとか仲間の死とかも乗り越えながら成長していく康一とかの姿を見守ろう。しかし本当にこの第4部、実写化するのかなあ。誰がやってもあの雰囲気は出せないと思うんだけれどなあ。

 長谷敏司さんが帰ってきた、ってどこに行った訳じゃないけど最近ちょっとSF方面で活躍し過ぎてライトノベルといったカテゴリーに属するレーベルでの活動が、ちょっと観られていなかっただけに小学館のガガガ文庫で「ストライクフォール」(611円)を発表し、それこそ「円環少女」シリーズ最終巻以来のライトノベルレーベル帰還を果たしてくれた。同じ長谷さんだけに何が違うってことではないけれど、ティーンという読者層をある程度は視野に入れたカテゴリーだけに、物語はストレートに分かりやすくなっていて、そして未来ある少年少女をワクワクとさせるような設定に溢れていて読むと心も浮き立ってくる。

 「宇宙の王」を名乗る異邦人、おそらくは異星からの客人がもたらした万能の泥なる物質によって人類は、文明を大きくリフトアップされることになって宇宙への進出を果たした。得たそのテクノロジーを使って人類は最初、やっぱり争いごとを起こすようになるけれどもハタと気付いたか何かして、争うのを止め代わって得たテクノロジーを使ってスケールの大きなスポーツを行うようになった。それがストライクフォール。搭乗者を包み込むような安全装置のその上からストライクシェルと呼ばれる人型のロボットのようなものをまとって戦う競技で、15対15に分かれて相手のフラッグ車を……じゃなかったリーダー機をクラッシュさせるべくバトルを繰り広げる。

 そんなストライクフォールの地球代表チームに若くして入った天才少年の鷹森英俊を弟に持つ鷹森雄星は、地球に残ってプロを目指しながら鍛錬を重ねていた。そこに帰国して1軍入りを報告に来た弟の英俊。せっかくだからと手合わせをしたけれどもまったく歯が立たない。やっぱり弟は天才で自分は凡才。でもそこで諦めたりすねたりもせずにいつか高みに近づき一緒に宇宙で戦うことを夢見ていた雄星の身にとてつもない自体が降りかかる。英俊の1軍デビューを見に上がった宇宙。試合前に新鋭機のテストを始めた英俊につきあっていた雄星に、ちょっとだけ巡ってきた希望が絶望へと転じ、そして雄星は英俊との願望をかなえるために宇宙へ出る。

 どん底からの這い上がりと、凡才の覚醒を描いた青春ストーリーを軸にしつつ、宇宙で繰り広げられるスピーディーでスリリングなロボットどうしの格闘戦を楽しめる作品。映像で見れば一目瞭然かもしれないバトルを言葉で追っていくのは大変だけれど、その辺りも分かりやすく綴ってあるから今がどういう状況で、誰が何をしようとしているかは分かる。そうでなくても重要なポイントを抑えておけば大状況はつかめるから大丈夫。そして訪れるクライマックスで、雄星が発動させる「王の御手(ハンズ・オブ・ア・モナーク)」という特殊な装備がもたらす異質のビジョンを感じつつ、それと引き替えの生命の危機を勘案しつつ勝利までの薄氷を渡るようなプロセスを、噛みしめていけるだろう。

 どういう意図で異邦人が万能の泥を介してチル・ウェポンを人類へともたらしたのか。これが鷹見一幸さんの「宇宙軍士官学校−前哨−」シリーズならばリフトアップは人類を付け狙う粛正者への対抗勢力を増やすためで、いずれ訪れる恐怖の侵攻と戦うためでもあったし、庄司卓さんの「銀河女子中学生ダイアリー1 お嬢様ひろいました」の場合だと、確か地球圏との交易のためでもあったけれども「ストライクフォール」は戦争のための技術を磨くことがあるいは目的で、いずれ遠からず現れた異邦人が強くなった人類に娯楽のための戦いを挑んでくるのか、それとも他の何かと戦う列に加わるように求めてくるのか。そこが気になる。

 ライトノベルは宇宙が熱いといった呼びかけにも答えて書かれたらしいこのシリーズが積み重なっていった暁には、リフトアップされた技術を使って宇宙で少年少女がレースに勤しむ「銀河女子中学生ダイアリー」も途切れている2巻以降が刊行されるなり、別のところからシリーズごと再起動されるなりして欲しいもの。宇宙も舞台になっているロボットどうしの格闘戦といった意味合いでは佐島勤さんの「ドウルマスターズ」シリーズもあるし、電撃文庫にはあと長月渋一さん「アウトロー×レイヴン」というスペースオペラも存在する。続きが出てないけれど。ライトノベル出身の鷹見さんによる「宇宙軍士官学校」はいよいよ人類の存亡をかけた大戦争が始まりつつある。そんな宇宙のムーブメントを加速させる意味でも売れて欲しい「ストライクフォール」だけれど、さて。

 デマを裏付け取材もせずに拡散しては大恥をかいたメディアもメディアなら、デマを頭から信じ込んで発言しては批判されて平謝りする国会議員も国会議員というか。常に真実を探求して正義のために振る舞わなければ体面が保てないはずのセクターが、誰かを貶めるためにはデマでも嘘でも引っ張り出し、時には捏造だって平気でやるようになってしまった。教育の衰退とかいったものよりそうした風潮の方がよほど怖いし、明らかなデマであっても何かを非難したいためには必要だといわんばかりの言説を見せる人たちの、デマ有理的ニュアンスがじわじわとにじみ出していることも恐ろしい。

 どこかで誰かがそれは違うと言わなくちゃいけないんだけれど、そんな影響力を持った人なんてもういない。だったら司法がお灸を据えなくちゃいけないんだけれど、それすらも気にせず開き直って相変わらずデマを拡散し続けている人間が、偉くなれるメディアが存在するから困ったものというか。そういえばそのメディアでは、大統領が大きな事故が起こったときに、官邸に詰めたまま連絡がとれなくなったことを挙げて、証券街の噂とやらを引っ張ってきてセクハラまがいの中傷をして、特派員が名誉毀損で訴えられたことがあったっけ。

 それが大統領の権力をふるえる範囲を超えていたといった判断から、裁判では無罪となって刑事罰は下らなかったものの、判決では噂自体は虚偽であってそれを裏付ける取材をしなかったことを非難された。特派員もそうした指摘を含めて判決を受け入れた。その特派員だった人は今、帰国しては権力と戦って勝利したと言って講演に勤しんでいるけれど、ペンタゴンペーパーとかウォーターゲート事件のような権力の基盤を揺るがす報道をとがめられた訳ではなく、嘘だったセクハラまがいの噂をそのまま書いていただけってことを勘案するなら、もうちょっと身の処し方を考えた方が良いし、上も考えさせた方が良いんじゃないかって気がしないでもない。

 嘘でも貶めたい相手を貶められる情報ならば、書きとばして省みない態度がオッケーとなってしまった時、メディアは真実を報道するという最低限にして最上級の使命を忘れて扇情的な情報の垂れ流しに走ってしまう。だってその方がアクセスが稼げるから。だから勝訴は勝訴として事の推移を吟味すべきだったものが、それを怠った結果、今また誰かを誹謗するような噂を、本当かどうかも確かめもしないでそういう噂がありますと報じて、結果として誹謗の拡散に荷担してしまった。

 謝ったから良いとか取り消したから良いなんて話じゃない。嘘を嘘だと喝破することなく拡散してしまったこと、それ自体がもはや真実を報じるというメディアとしての本分を大きく逸脱してしまっている。信頼を貶めたとも言える。同じメディア業界を標榜する者たちは、業界にそうした虚偽でも拡散上等な存在がいて暴れ回っていることを、もっと真剣に考えないといずれ競争が厳しくなった時、あそこがやっていたからと安きに流れ扇情に走るところが出て、我も我もとなって全体の評判を落とし信頼を失って、そして共に滅びていくことになりかねない。止めるなら今だけど、どこにも緊張感はなく危機感もない。やれやれだ。


【6月17日】 禁止されている場所でフラッシュモブのようなパフォーマンスをしたから問題になって止められて、それが表現を狭めることになっていると訴えたのだとしたら、もうちょっと行政も融通を利かせてパフォーマンスを誘致して、街を豊かにしたって良いじゃないのと思ったけれどもそのフラッシュモブと“自称”するパフォーマンスが、マネキンのように止まって手に安倍政権を批判するプラカードを持っていたとなると、それは一種政治的なデモンストレーションであって、その場所で禁止されている行為に該当するからと、止められ排除されてもそれはそれで仕方が無いんじゃないかって気がしてきた。

 デモンストレーションなら別にやれる場所はあるし、そうしたメッセージ性を持ったデモンストレーションを敢えてフラッシュモブとしてやる必要もない。それともフラッシュモブ的にやることによって評判になり、広く浸透できるとでも言うんだろうか。それだって政治的なデモンストレーションな訳で認め始めると切りが無い。だから禁じた。逆にフラッシュモブ的なパフォーマンスだったら認められていると行って、それに政治的メッセージを載せたのだとしたら、隙間を狙う根性は買えても堂々の主張とは言いがたく、どこかに後ろめたさが漂ってしまう。いったいあの場所では一般のフラッシュモブ的なパフォーマンスは禁止されていたのかいなかったのか。そこに触れられていないんだよなあ、新聞報道。どっちいしたって堂々と。それが1番。

 「問題解決をデザインするアイデア」ってのを求めるジェームズダイソンアワードってのがあって、画期的でスタイリッシュな掃除機だとか羽根のない扇風機だとかを世に送り出したダイソンの創業者が、若い人たちの情熱を形にする手助けみたいなことをしているアワードで、前にとても格好いい筋電義手のexiiiが応募して世界で第2位になったこともあって、そこからビジネス化が始まったことを考えると、起業を目指していたりプロダクトの開発を考えている人には、とても意義のある試みってことになる。その最新の募集が7月19日まで実施されていて、今応募を考えている学生さんたちや、応募が可能な卒業4年目までの人とかが集まって、どう応募したら良いのかってことをexiiiの人に相談できる会合があったんで見物に。

 すでにプロダクトにしている人もあれば、アイデアをスケッチしたのを見せる人もいて様々だったけれど、若い時からモノ作りの情熱に燃えている姿が見えてまだまだニッポン、捨てたものではないのかもと思えてきた。とはいえそうした画期的な試みをすくい上げ、商品として世に送り出せる仕組みが今の起業にはないのが残念というか。だからこそクラウドファンディングのような仕組みが立ち上がって、あちらこちらで画期的な製品を世に送り出しているんだけれど、その段階へと至る途中にあるのがジェームズダイソンアワードへの応募者。だからどこか製品として曖昧だったりする。

 日本での審査員をしているITジャーナリストの林信行さんが、アメリカ帰りの体を運んでその辺りを説明してくれて、応募を考えている人の中には技術はあるけれども肝心の、問題解決の課題をそこに乗せ切れてないものがあるって指摘してた。たとえ技術は画期的でも、それが自分たちの課題解決に繋がらなければ意味がない。もちろん技術を生み出した以上は、それが今までなかったことによる物足りなさを感じていたんだろうけれど、それが具体的にどういうプロダクトになれば問題解決につながるか、ってところまでは考えが及ばない。そういう場合は、周りの人とかに見てもらい何が出来るか言ってもらうのも良いってことを林さんは話してた。

 何かに使えると確信している技術でも、どう使うかって案外に難しいし。林さんが例としてあげたのは、スマホで音声を発する機能で、当初は酒場のようなやかましい場所で自分の声を張り上げるのが面倒といった思考から生まれた技術だけれど、それが咽頭がんで声を失った人に便利だと指摘してくれた医師がいた。そして製品化が進み実験に使われ始めているという。そういう出逢いが話すことによって来たできる。僕個人的には技術よりもまず問題解決という設定があって、そこに技術を当てはめていく流れが好ましいけれど、理想家は技術に疎く技術者は夢想しないもの。そうなると間を結んでパッケージにまとめあげ、プレゼンする役割も必要なのかも。そんなチームが機能するとexiiiみたいな格好いい筋電義手が出来るんだろう。今年はいったい何が来るか。日本から夢の世界一は出るか。見守りたい。

 リャンンハン乗ったとかどうとかいった言葉でもって、新聞なんかの世界で記事に注文がつけられたり、バリューが変わったりするケースが昔からあったりする。それは犬が人が噛んでもニュースにはならないけれど、人が犬を噛んだら大ニュースだといった類のものとはちょっと違って、そのままでは取るに足らないニュースであっても、当事者が有名人であったり、何か因縁があるような舞台だったりした場合に、バリューを引き上げ場合によっては大ニュースとして取り上げ報じたりするといったもの。ただの街ダネに過ぎない、ベタにすらならないニュースであっても、そうしてリャンハン乗せることによって社会面アタマとあ、あるいは1面トップになるようなこともあるから、名を売りたい記者が頑張ってリャンハン乗せようとしたり、デスクが記者にリャンハン乗せろと求めたりする。

 それが事実に即したものだったら仕方が無い。でも時として無理にリャンハン乗せようとして事実をねじ曲げたり、事実を捏造したりして記事を作って世に出して、それがバレて大変な目に遭ってしまう。新橋でテレビのインタビューに答えて次の東京都知事に誰が良いかを聞かれてニュースで答えた女性が、熊本でピースボートの仕事をしていてテレビに登場した女性と同一人物かもしれないという噂を、こともあろうに全国紙の看板を背負ったメディアが、ネットで報じて大騒ぎになっているように。この場合、発端としては新橋でインタビューに答えていた女性が、TBSと日本テレビの番組に登場して同じようなことを言っていたことがある。服装も顔も背景も一緒だって話題になったようだけれど、それも当然、だって同じ場所で同じ人間が答えているようなんだから。

 それがヤラセというかといとちょっと違う。たとえばイベントなんかに参加している人を取材する場合、話してくれそうな人のところに取材陣が殺到して囲むようにして話を聞くことがある。だから同じ人のコメントが違う新聞に載ったりする。別に不思議ではない。そりゃああそこがあの人を出すなら、うちは別の人を出そうっていうのがブンヤの魂かもしれないけれど、コメントの取りやすさに走ってしまうこと、それ自体は否定できない。テレビの場合はなおさらで、顔もさらしつつ聞き応えのあるキャッチーなコメントをしてくれる人に群がりがち。それが同じ時間帯、同じ場所で取材していたのなら同じ人に向かって不思議は無いだろう。それでもあえて外すとなると、現場も結構大変。そうした労力をかけなくなったことがテレビの衰退に繋がっているという話があるとして、一方にそれも仕方が無いといった理解はできる。

 2つのテレビ局が示し合わせて同じ人間を引っ張り出しては、現政権に反発を持っている人を推薦するような人を仕込んでインタビューしてもらった、なんて噂はあっても現実にはそうした手間なんてかけるはずもない。現場で見かけた、女性で見栄えも良さそうで弁も立つ人に群がった、そのやり方自体にヤラセだといったニュース性なんてまるでない。ただ、そこにリャンハンが乗った。新橋で答えていた人とよくにた女性が、TBSの別の番組でピースボートという団体に所属して熊本で活動していたのを捉え、放送していたという話が出た。こうなると受ける側も違ってくる。世間的に反安倍政権的とされ、人によっては反日とまで誹る団体のメンバーが、TBSという番組に続けざまに出演していた。これは仕込みだ絶対に。そんな勘ぐりがネットを駆け巡り、それに全国紙を標榜するメディアが乗って、関連があるかのような印象を醸し出す記事に仕立て上げた。

 その仕立て上げ方がまたふるっていて、熊本にいた女性と新橋にいた女性が似ているといった趣旨であるにも関わらず、熊本の方の女性は写真で乗せず新橋でインタビューに答えていた女性のTBSと日本テレビのそれぞれに出ていた画像を切り取って並べて乗せていた。そりゃあそっくりだ。きっと同一人物だから。でも見出しから引かれ冒頭だけ読んで写真を見た人は、そのそっくりぶりを熊本と新橋がそっくりだったと受け止め、ほらやっぱりピースボートの女性はTBSと結託して新橋でもインタビューに出ていたなと思うだろう。そう思わせるような雰囲気が意図のあるなしに関係なく存在していた。

 でも違ってた。熊本で活動している人はずっと熊本にいて新橋には存在しなかった。新橋でテレビに出ていた人は特定の層にネガティブな印象でもってヒットするピースボートの人ではなかった。そうした批判的な文脈で盛り上げようとした記事は根底から否定された。リャンハンは乗らなかった。問題は、そこでどうして全国紙を標榜するメディアが記事を作るときに、噂が本当なのかを当のピースボートに確認しなかったこと。聞けばそれが同一人物かすぐに分かったはずだけれど、そこで分かってしまってはリャンハンが乗らず記事に出来ず、ピースボートの批判が出来ない。だから聞かなかったのか。噂を報じることによって全国紙を標榜するメディアがかねてから批判しているピースボートに対するネガティブな印象、TBSなどテレビと結託して人を融通しているじゃないのかといったニュアンスを蔓延させる、それが目的だと思っていたのか。

 いろいろと想像はできるけれど、でも結果としてそうでないことは露見した。そこで謝ればいいものを、報じた余蘊合うわさがあったことは事実だといった感じで逃げることも考えられたもののとりあえず、事実ではなかったことは認めた様子。ただここでもうひとつ、問題として起こってくるのは、ピースボートの人と同じではないかと見なされた、新橋でインタビューに答えていた女性にいらぬ“嫌疑”がかかったこと。ピースボート自体が良いとか悪いという訳ではなく、それを悪く言う人が結構いたりする世間の中で、自分の心情とは違うプロフィルを一瞬とはいえ被せられたことに、当人はどう思っているのか。怒っているならまずはその女性に謝らなくてはいけないのに、そうした態度が前々見えないところに、問題の所在への理解の乏しさが感じられる。このままだとまた、リャンハンを無理矢理乗せた針小棒大な記事が、アクセス稼ぎのために捻り出されて掲載されることになるだろう。そして突っ込まれ逃げていって逃げる繰り返しが、なけなしの信頼をも失わせてそして後は野となれ、山となれ。やれやれ。


【6月16日】 そして目覚めるとイチロー選手がが4256本目と4257本目のヒットを打ってとりあえず、日米通算ながらもピート・ローズが持っていた大リーグでの通算安打記録4256本を上回って“条件付き”ながら世界一になっていた。日本では大喜びだけれど世界のメディアも讃えたい一方でやっぱり大リーグだけの記録ではないことを理由院「条件付き」って意味で「With an Asterisk」って言葉を添えて報じている。なんかちょっと格好いいので商談の席で「ウィズ・アン・アスタリスクでアグリーです」って言えば相手を圧倒できるかな。意味不明な奴だと呆れられるかな。

 困っているのはやっぱり当のイチロー選手で、自分が積み重ねてきた安打の本数、それ自体には絶対の自身を持ちながらも記録として問われると、ピート・ローズが認めてない以上はやっぱり手放しで喜んで良い物では無いといった認識。たとえ賞賛はもらっても大リーグ記録ではないという意味から逡巡は持ち続けるんだろう。だからこそ達成したい3000本安打。この大台を突破すればさしものピート・ローズだって“仲間”と言ってくれるんじゃなかろーか。

 一方でアメリカのメディアでも意固地なピート・ローズを窘める声も。イチロー選手が重ねている練習の多さを見てその実力を認識しつつ、賭博問題で永久追放にあるピート・ローズが歩み寄ることで、彼自身の復権にも繋がると。殿堂入りだってもはや無理だと言われているその境遇を、変えていくためにもここは人間として懐の広いところを見せようといった感じか。そんな誘いに乗らず自分は自分、その記録に絶対のプライドを持っているからこそ、曲げずに主張し続けるのもまたピート・ローズってところなんだけれど。そんなローズを非難するなら張本勲さんはイチロー選手が通算で自分の日本での安打記録を抜いたことを、手放しで賞賛すべきだよなあ。してたっけ。

 泉鏡花も加わって賑やかになった武装探偵社。一方でポートマフィアの側では最強に近いはずの芥川龍之介が中島敦のワンパンチ(虎だけど)によって全身打撲で虫の息となって入院しているところをさらわれて、樋口一葉と仲間たちの奮闘もあって助け出されたもののしばらくは療養中のところを、海外勢の進行も激しくなってこれからいろいろ大変そう。太宰治は元気そうだけれども大きく役になっている感じは無し。江戸川乱歩は推理はしてもそれが仕事だから武闘には向かない中でいったいどんなバトルが繰り広げられていくか、ってたりがこれからしばらくの「文豪ストレイドッグス」か。もう元の文豪のスタイルとか関係なしにその名前がキャラと一体化しているよなあ。これで今更爺さんの乱歩とか泉鏡花とか見せられたって誰これってなもんだ。

 しかしいっぱい出てくる文豪たちの、その名前ごとにいろいろと文学賞が存在しているのはこの国が結構文学において豊穣ってことか。太宰治賞の授賞式があったばかりでまた1人、受賞者が誕生したみたいだし来月には芥川龍之介賞と直木三十五賞の発表がある。先月は三島由紀夫賞賞と山本周五郎賞の発表があったばかり。泉鏡花賞の谷崎潤一郎賞、樋口一葉やまなし文学賞に江戸川乱歩賞に吉川英治文学賞等々があって新人が生まれたりベテランが懸賞されたりしている、そんな賞の受賞者たちが徒党を組んで闘って、いったいどの賞のチームが最強になるんだろう。武闘家とか空手の有段者とか抱えていそうなのは乱歩賞か直木賞か。でも最強はやっぱりアニメでも主役の中島敦の名を冠した歿後五十年中島敦記念賞かなあ。なにしろ受賞者は1人でそれが酒見賢一さん。強そうだろ?

 電車で移動して中吊りを見られる生活だと気づけるけれども普通の人だとあんまり気づいていないようだった「週刊文春」への萩尾望都さんの登場。といってもスキャンダルとかセンテンススプリング砲の類いではなく「ポーの一族」が久々に描かれてそれが話題となって掲載された月刊誌が完売増刷となったことを受けてのもの。どういう漫画かって紹介はファンには不要だしそれがBLの起源と言われてしまうとその間にある認識なりフォーマットなりの変化をすっ飛ばして良いのかって気にもなるけれど、どうして今、この「ポーの一族」が復活したのかって話はとても知りたいところだったんで、それが夢枕獏さんのアプローチによるもだと分かって納得した。

 「作家の夢枕獏さん(65)にお会いすると、いつも『「ポーの一族」の続きを読みたいなあ」と言われるのですが、二年ほどまえにもニコニコしながらそう仰ったのです」というのが「ポーの一族」の続編を執筆したきっかけ。そして「その笑顔にお応えしたいなあという気持ちが芽生えました」。そういうものなのか。お2人の接触というと遠い昔、まだロフトプラスワンが別の場所にあったころに2人が登場するイベントがあってのぞいて親密さを感じてはいたけれど、その後もいやがられない顔つきで、ニコニコと依頼を続けた夢枕さんい感謝。そんな夢枕さん自身が続きの途絶えた作品をいっぱい持っていることも知られているだけに、ここは毎日、鏡に向かって自分の作品をつぶやき「読みたいなあ」と言い続けていってもらえれば。何の効果もないだろうなあ。そういうものだ。人間って。

 ってんで最先端のライブ演出テクノロジーを実地に見るためにPerfumeの幕張メッセへ。1から3ホールを使ってのライブはアリーナ級のキャパなんだけれどそれを一部椅子席を設けながらもほぼほぼスタンディングでやってしまうという快挙。あるいは怪虚。本人たちはずっとずっとやりたかったらしいけれど、フェスなんかでスタンディングでやってもそれはワンマンじゃないから全体が一体といった感じにはならず、最前に次の出待ちしている人もいたりで雰囲気が違う。全員がPerfumeを待っていて、そして全員がスタンディングといったワンマンフェスの雰囲気を味わえる場として今回、幕張メッセをその実験的ライブの会場に選んだという。

 でも実際のところ椅子があっても立つんだから一緒じゃ無いかという話もあるけれど、それだと場所は限られ見る方向もほぼほぼ前向き。左右を見渡し前後に移動するなんてことは無理。それがスタンディングでは可能になる。なおかつスタンディングならではの配置もできるってことでやってみたセットは四角いホールの中央に円形のステージを置いて左右に延びる花道を作り時々移動しつつ1回くらいは突端のステージで背景にビジョンを置いたパフォーマンスも見せつつほぼほぼ中央で、3人が入れ替わりつつ3方を見渡しながら歌うといった感じで、それを四方八方から見つめる上で、椅子の無いスタンディングに意味があったといった感じ。

 とはいえ3人が並んでこそのパフォーマンスってこともあるんでほぼほぼGエリア側、邦楽表示では南を向いて歌っていた感じ。そんなGエリアを当ててほぼほぼ真正面から見られたPerfumeはただただ可愛かったというか。脚がきれいだたというか。あーちゃんの広島弁が炸裂していたというか。何言ってるか時々分からなくなるくらいに広島弁が濃く出てた。でも可愛かった。かしゆかも髪がつやつやでのっちもボブな髪型がキュートで三者三様の雰囲気を味わわせてくれたけれど、それでも引っ張るのはあーちゃんだなあ。とりまとめて盛り上げてあおって落ち着かせ先に進める。天然でもちゃんと計ってる。そこが才能なんだろうなあ。

 演出については公演が続くので相変わらず凝ったものが見られたといった程度に留めておく。中央に置かれた円形のステージだと背景が使えないんだけれどそこはヘキサゴンなパネルを立てて映したり引き上げたりといったところ。どこまでがバーチャルでリアルなのかはライブ中だと分からなかったから、いつかパッケージでも出たら確かめよう。セットリストはほぼほぼ新譜からってことになるのかな。ただ今回は、おおそらく今回に限ってだけど「ジェニーはご機嫌ななめ」「ポリリズム」「チョコレイト・ディスコ」という古いファンにはたまらない楽曲が並んで心爆発。生で聴けて幸せだった。今年の運も使い果たしたと言ったところか。明日もこれが聴けるとは限らないのが演出ってことで。その際のメンバーのやりとりにも注目。ドキュメンタリー映画でも観られたライブ作り、楽曲の流れへの検討会を生で見られる感じだから。


【6月15日】 101キロかあ、って投球スピードの話。神スイングで知られるモデルの稲村亜美さんは、投げる方でも結構な腕前でプロ野球の始球式なんかに呼ばれては、その長身から繰り出すダイナミックなフォームでもって女性にしては、そしてタレントにしてはと言うのももったいないくらいの速球を投げ込んでみせている。それが100キロ超。プロの投手からみればまるでスローボールだけれど、普通の人は男性でも100キロに達するのはなかなか難しく、ましてや女性で、それが仕事でもないタレントが投げられる速度では無い。でも稲村亜美さんは投げてしまう。凄い。そして素晴らしい。

 9年ほどの野球の経験があるからといっても、いつまでも体力を維持できるものではないけれど、それが看板となった今は、バッティングセンターに通いキャッチボールおして、元の体調を取り戻しては維持しているんだろう。もしも稲村さんを超える投球を見せる美女が出てきたら、その立場も危ういだけに。ってこともあってか、テレビ番組が探したタレントさんたちが、稲村さんに挑む企画が放送されていたけれど、80キロ超えといったそれはそれで凄い球を投げる人たちを上回って、稲村さんが101キロを達成して優勝した。フォームがきれい。そしてコントロールも抜群。そのまま女子野球にだって行ける? プロはもうちょっと投げるかな。でもやっぱり凄い。来年は140試合に始球式で登板とか、やって欲しいなあ。もはやプロじゃん、始球式の。

 そんな稲村亜美さんも登場する発表会があったんで渋谷へ。バンダイナムコエンターテインメントが誇る3D対戦格闘ゲームの代表的な作品「鉄拳」の最新作のアーケード版が7月5日から稼働するって発表で、稲村さんとそれから美女ボクサーとして有名な高野人母美さんが登場してコスプレ姿でアクションを繰り広げた。キックボクシングもやってたってだけあって、高野さんの脚の上がること。稲村さんも軽くステップを踏んで登場したりとスポーツが得意そうな雰囲気を漂わせていた。そして稲村さんは登壇した「鉄拳」のプレーヤーとして世界ナンバーワンに輝いた人からのたってのたのみで、あの神スイングを披露。手にしたバットをブンと振ると、音が鳴って周囲の人たちを愕かせていた。当たれば飛びそうなスイングだけど、バッティングそのものはどうだったっけ。

 「鉄拳」については深く遊んだといった記憶はなくて、「バーチャファイター3」をドリームキャストで遊んでいたのが3D対戦格闘ゲームのだいたいかなあといったところだけれど、アーケード版として間もなく稼働する「鉄拳7 FATED RETRIBUTION」は映像もクリアで迫力もたっぷり。なおかつ「ウルトラストリートファイター4」から豪鬼っていう凄いパワフルなキャラクターも参戦していて、そっちのファンにも遊んで楽しい作品になっている。2D対戦格闘の「ストリートファイター」のキャラが3Dになって操作性も雰囲気も変わっていそうだけれど、豪鬼使いとして知られるプレイヤーの人は新しさもあるし、2Dへのリスペクトもあって楽しいと話していたから、そっちに慣れた人でも試して面白いゲームになっていそう。春麗とか来ないかな。逆に鉄拳のキャラが2Dになって「ストリートファイター」に参戦とかってあるのかな。今後に期待。

 政治というよりむしろ、メディアに絶望的にならざるを得ない状況。メディアといっても幅は広くて、新興のネットメディアもあれば新聞雑誌のような旧来からのメディアもあるけれど、ここで絶望的なまでの醜態をさらしているのはもっぱらテレビと雑誌、そして新聞か。朝のワイドショーから昼のバラエティを経て夕方のニュースに至るまで、東京都だなんて首都ではあっても全国的にはローカルの自治体を率いる知事が、賄賂をもらった訳でも金ぴかの御殿を建てたわけでもなく、ちょっとした財布の使い間違いを挙げて法律面で違反をしている訳でもないのに責任を問い続け、全力で批判して辞職へと追い込んだ。

 見渡せば、企業から金をもらってそのことを明確に否定できなかった大臣が、そのポジションこそ手放したものの国会議員という職には残って、不起訴になったのをこれ幸いと国政に舞い戻ろうとしている。現時点では法的な責任を問えないといったところだろうけれど、その胡散臭さは東京都知事の金遣いに比べてはるかに強い。なおかつ議員という立場、大臣という地位を何かしらに使って見返りをもらったかもしれないという“雰囲気”が漂っている状況は、李下に冠を正さずの言葉にも例えられるとおり、罪深さを認めて退くべきだおる。にも関わらず、メディアの矛先は前の大臣には向かわず、連日連夜に電波を使って非難を浴びせることもなく、家族を追いかけ回すようなこともしない。

 このあまりに非対称な状況を、作り出しているのがテレビを中心としたメディアであることを誰もが感じ取っていて、ネットという場でその異常さに憤り、嘆き、呆れ憐れんでいる。あるいはそれがテレビでありメディアなんだという了解のもので、背を向けて違う場所へと目を向けようとしているんだけれど、そのことに当のメディアは、テレビは気付いているのかいないのか。たぶん分かっているだろうし、出てくるコメンテーターの中にも少しはそうした非対称ぶりを批判する人もいるけれど、大勢とはならず別の言葉にかき消されて全面的なバッシングの渦に巻かれ消えてしまう。分かっているのに止められない。止めようともしない。

 どうして? たぶん怖いんだろう。他の何かを報じることによって遅れをとって視聴率が下がり、責任を問われることに怯えているんだろう。だから、他が扱う題材を同じような角度から伝えては、同じような視聴率を取れてそこで安心している。何を伝えるべきか、どう伝えるべきかなんて判断はそこにはない。結果、どこのテレビ局も同じようなテーマで同じような角度からの放送がなされ、そこに限定された空気を作り出す。それにまだ、テレビを情報源の最たる存在にしている大勢も流され、その方向で落ち着いてしまう。何が正しくて何が間違っているかという判断をする暇も無く、材料も与えられないまま。そんなことがまかり通ってしまうこの国が将来、どこに向かっていくのか。考えるのも怖いけれど、それを変えるだけの力はまだ、ネットにはないんだよなあ。参った。本当に参った。

 しかしそうはいっても辞職してしまった舛添要一東京都知事に代わる新しい都知事を選ぶ選挙が否応なく始まる。そして立候補者がこれから続々と出てきては、その有象無象っぷりを見せつけてくれることになる。誰が出て来たとしても、まっとうに政治の道をひた走り行政に通じて鋭く都政を回しつつ、金銭にきれいで性格も良好な人が出てきたとして、そうした人が当選する状況にないのが今の都知事選。見渡しても石原信雄さんという官僚の鏡のような人が候補になったものの青島幸男さんに敗れてそれ以降、東京都知事選は行政手腕というより一種の人気投票めいた様相を呈するようになって今に至っている。

 石原慎太郎さんだって東京国際アニメフェアを立ち上げてくれたりと嬉しい施策は出してくれていたし、新銀行で莫大な損失を出しながらも都政をどん底に陥れたようなことはなかった。猪瀬直樹さんは任期が短かったから判然とはしないけれど、都政にとって悪いことはしなかったように思う。けれどもそれでも辞めさせられ、さらにまっとうな施策をとっていたはずの舛添都知事も辞める寸前。そして次、来るのはさらなる人気投票選挙ってことで想定される元弁護士で都構想の主だのお笑い軍団のメンバーで元県知事だのといったところが並び知名度を競いあい、当選した暁にはトンデモな施策を打ち出して都政を泥沼化させてしまうんだろう。どうなってしまうんだろう東京都政。まあ千葉県民には関係ないんだけれど。行政手腕を評価されてる熊谷俊人千葉市長とか引っこ抜いたりするのかなあ。


【6月14日】 新国立競技場のコンペのやり直しでいったいどれだけの無駄金が発生したのかをまず考え、そしてシンボルマークの選び直しでこれまたどれだけの無駄が発生したのかを考えた時に、2020年の東京オリンピック/パラリンピックに関連したこうした事業に携わっている人たちは、全員が頭を丸めて身代を差し出し、勢い余って腹まで切ってようやく世間に申し開きが立つというもの。何億円何十億円といったレベルで発生した無駄は、それが産業を潤すような生きた無駄にはなっておらず、違約金として海外の建築家に渡って海を越えたり、物品となって廃棄されて資源の消耗を引き起こしたりして誰のところにも戻ってこない。

 そんな悲惨な状況を生み出しながらも、いったい誰が責任をとったのか。腹をかっさばいたのか。頭を丸めた人はいたけど、それだって病気との関連も言われる中での坊主頭。なおかつその地位を降りてもおらずに今もってトップに君臨しては、あれこれ言い訳めいたご託を並べていたりする。ほかにも得体の知れない何億円ものお金が海外へと流れては、招致のための賄賂に使われたといった話も。これが本格的に捜査され、摘発でもされたらオリンピックは開催できず、さらに何十億円何百億円といった無駄が発生する。そうなって誰がどんな責任をとったところで何の役にもたたない。それでも溜飲を下げる意味で求めるだろう。その首を。

 けれどもどこのメディアのチャンネルを回しても、もはや五輪の招致に絡んだこうしたごたごたを追求しているところはカケラもない。忘れてしまったのか、最初からなかったのか。いずれにしてもメディアの上で報じられることはない。そしてそんなメディアでは、私利ではあっても私欲ではなく行政においてほとんど影響の乏しい、迷惑など被っていない舛添要一東京都知事のちょっとした金遣いについて、こぞって追求しては連日のように罵詈雑言をぶつけている。過去により激しく使い込んでは開き直っていた都知事がいたにも関わらず、一切の追求をしなかったメディアが、今回は手のひらを返して追い詰める。相手を見て拳を使い分けるみっともなさが漂うし、どうでもいいことに必死になる面倒さも窺える。

 相手が取材拒否のような強硬な手段に打って出てこないこともあるだろう。叩いてもメディア自体の人気が落ちるようなこともない。だから全力で叩くんだけれど、そうしたメディアの思惑の外で、世間はいったいどうしてそこまで激しく罵詈雑言の類いをぶつけられるのか、といった疑問もそろそろ浮かび始めている。朝のワイドショーがフロリダ州で起こった全米史上で最悪の犠牲者を出した乱射事件にまるで触れず、悼みもしないその態度にやれやれと呆れ、大赤字を出した博覧会の責任をとることなしに姿勢を投げ出した前横浜市長の発言に、お前が言える立場かと憤っている。でも、肝心のメディアがそうした世間の嫌気に気付かず、正義のふりを見せれば見せるほど、世間との乖離が生まれて見捨てられていくだけだろう。分かっているとは思うけれど、止めたら落ちるという恐怖が止めさせない。そんなチキンレースの行く先は? 真っ逆さまに奈落の底、なんだろうなあ。やれやれ。

 あと1本でピート・ローズが持つプロ野球の安打記録4256本に、日米通算ながらイチロー選手が並ぶとか。日本で打ててもメジャーでは打てないから日本でのヒット記録なんて意味ないよとピート・ローズあたりは言ってたりするけれど、イチロー選手の場合はそんな日本で打ったヒット数よりも、すでにメジャーで打ったヒット数の方が上回っているし、年間最多安打という記録まで持っていたりするから、日本もメジャーも関係なしに打てる人は打てるだけって言えば言える。逆にメジャーで打てても日本では散々だった助っ人も大勢いる。そのレベルの違いをだから、言って悪くは無いけれど言いつのるのもちょっと難しい。

 だからあと1本、打ってピート・ローズと並んだ時に世間はイチロー選手を賞賛するだろう。それを世界一と認めるかどうか、ってあたりは迷うし少なくともメジャーリグの最多安打ではないことは確かだけれど、こき下ろすことはなくてひとつの到達点として評価するだろう。この年齢でここまで打って走っているアスリートのプレーに対して、認めないなんて選択肢は存在しない。それがフェアだってことをたぶん、メジャリーグの関係者もファンも感じていると思いたい。とはいえ、やっぱり浮かぶ異論をねじ伏せる意味でも、3000本安打というこれも殿堂入りに匹敵する記録を成し遂げて、その名を改めてとどろかせて欲しいもの。こちらはあと23本。行くだろうなあ、確実に。

 誰かと顔をつきあわせている子供の頃なら出来たけど、大きくなって時間がなくて場所がなくて相手がいなくてトレーディングカードゲームを止めてしまう人もいたりする中で、ネット化すればそうした不満もなくなるんじゃないかと言われてはや幾年月。「マジック:ザ・ギャザリング」のネット版とかも登場したし、他にもさまざまなオンラインでの対戦型カードゲームが生まれてはいたけれど、日本人の遊びに合っていなかったかであんまり普及はしていなかった。そんな状況を打破しようとタカラトミーが送り出すのが「WAR OB BRAINS」というデジタルカードゲーム。スマートフォンとかタブレットを使って遊ぶアプリだけれど、超を付けて本格的カードゲームと言っているからには、トレーディングカードゲームならではの対戦の面白さがきっとしっかり再現されているんだろう。

 残念ながら、そうしたトレーディングカードゲームにあまり浸ってない身として、ゲーム性そのものを評価することはできないけれど、世界観がちょっと面白かったので、これは触れてみたい気が。戦争やら紛争が相次いで疲弊した世界は、国連めいた「国際電子裁判所」なんてものを作って、そこで「模擬戦」を行うことで紛争の勝敗を決めている。銃弾ではなくデータの戦いってことになるけれど、そうした「模擬戦」の結果に謎のIT会社が立ち上げたゲーム「WAR OF BRAINS」の結果が絡んでいるようだといった噂が出回るようになり、そこで勝つためにいろいろな国が予算を投じるようになった挙げ句、レアカードめいたものには莫大な価値が生まれて闇の通貨のように扱われていくという。

 そんな近未来の社会を映したSF的な設定の上で、プレーするゲームの名前も「WAR OF BRAINS」と来れば、プレーヤーは自分が世界の紛争を解決するような大勝負に関わっているのかも、なんて気分を抱きそう。ゲームへと向かうモチベーションも高まる上に、デッキの組み方次第で勝負の結果も変わるような本格的なゲーム性もあって、かつてトレーディングカードゲームで遊んだ人たちを、これなら自分も出来そうだって引っ張り込んでいきそう。声優さんも田村ゆかりさんがいて上坂すみれさんがいて、悠木碧さんがいて内田真礼さんがいて佐倉綾音さんがいたりと豪華きわまりない。いろいろな面から楽しめそうなゲームなだけに、ちょっと試してみたいけれどもネットを介してとはいえ、誰かと対戦することに慣れていない身に大丈夫かってのが目下の悩みか。でも早く始めればそれだけ強くなれるしなあ。要検討。


【6月13日】 2007年にバージニア工科大学で発生した乱射事件で亡くなった人が33人。1999年のコロンバイン高校での乱射事件や、1966年のテキサスタワー乱射事件の15人を大きく上回ってアメリカ史上でも最大にして最悪の犠牲者を出した無差別乱射事件になったけれど、それを遙かに宇和間って50人もの犠牲者を出す事件がフロリダ州のオーランドで発生して世界中が驚きと哀しみに包まれている。性的マイノリティと呼ばれる人たちが良く集まっていたナイトクラブに押し入った男が、銃というよりおそらくは自動小銃を、300人くらい集まっていた観客に向けて乱射したようで、逃げ場も無い中で次々と撃たれ倒れていってしまったのだろう。

 フランスの劇場で起こった乱射事件とも似た光景。だからこそ防げなかったのかとも悔やまれるけれど、移民の問題が長くあって軋轢もあったフランス社会で新聞社襲撃事件も起こって厳重に警備もされていながら、事件を起こされたことを思うなら個人がふと思い立って起こしたようなフロリダでの事件に完全な対処なんて出来るはずもない。銃器を手に入れやすいアメリカだからこその事件と言えば言えるけれど、そこで観客なりナイトクラブの用心棒なりが銃で武装していたらすぐに反撃できただろう? だから銃器は禁止したらいけないんだというような言説に、対抗するのもなかなかに悩ましいという状況を突きつけられている。

 でもそれは違う。事件を起こす銃がなければ、事件から身を守る銃もいらないんだという根本への理解がなければ、いつまでも対抗手段としての銃器保有が公然となり続けてしまう。そこをどう変えるのか、せめて所持の部分で大きく制約を設けられないかって話に、史上最悪の事件を受けてなっていくものだけれど、そこはやっぱり“自由の国”だけあって、既得権を縛るような方向にはやっぱりなかなか向かわないんだろうなあ。なおかつ今は、事件の背景にいらぬ移民問題やら、宗教問題を見いだして煽る大統領候補もいたりする。その扇動に乗せられてアメリカが、とんでもない方向に向かわなければ良いんだけれど。いろいろヤバい感じ。

 しかしこれほどまでの事件が起こっていながら、朝のワイドショーは日本テレビ放送網の「スッキリ!」が冒頭から伝えていたいほかは、だいたいが舛添要一東京都知事の問題についてあれやれこやと糾弾。全国的に見ればローカルに過ぎない東京都知事の、収賄とかいった政治的に厄介な話でもない個人的なミスをあげつらって罵詈雑言を浴びせる番組を朝から見せられて、地方に住んでいる人たちはいったい何を思うだろう。それだったらもっと生活に役に立つ情報を教えて欲しいって思いそう。以前だったら「花まるマーケット」があったけれども今はNHKの「あさイチ」くらい。なるほど視聴率がそっちに向くはずだ。だったらと民放だって追従したいだろうけれど、それで視聴率が下がったらと思うと踏み切れない。だから横並びで舛添問題。そうやってだんだんと失っていく信頼を、取り戻すすべなど無いというのに。

 JR山手線の原宿駅がいよいよ立て替えってことになっているらしく、あの風情のある駅舎を取り壊してまで建て替えるべきか、仮にホームを違う場所に作るとしても駅舎自体は残すべきなんじゃないかって話が浮上している。第二次世界大戦でも焼夷弾とか落とされながら不発で燃えなかったとう伝説を持つ駅舎であり、大正のモダンでロマンチックな雰囲気を今に伝える木造建築でもある以上は、保存しておくのが文化を世界に訴える日本として当然の振る舞いといえるだろうけれど、こうした商業施設の場合はやっぱりビジネスという側面もあって判断が難しい。そのままでは損になるなら排除したい。企業がそう思うのも仕方が無い。

 だからこそ国であり行政なんかが出張って保存のための予算を組むとかするべきなんだけれど、一企業の施設にそうした国庫を振る舞えないというのなら、やっぱり民間でなんとかするしかない。ってことでやっぱり浮上する明治村。大正の建築だからちょっと無理なんじゃって話も出そうだけれど、それをいうならフランク・ロイド・ライトが設計した帝国ホテルは大正11年から12年にかけての竣工・完成。つまりは明治の建物が今も玄関だけではあっても明治村にあるなら大正13年の原宿駅だって明治村にあって悪い話ではない。鉄道も走っていることだし、その駅舎として置いてみてはいかが。移設費用については国が持つってことで。無理かなあ。

 立て替えといえば銀座にあるソニービルにも立て替えの話が。芦原義重さん設計による日本のモダニズム建築の代表作で、中が階段を使ったらせん状にフロアが作られていて回りながら上っていくという特異な設計はアメリカにあるこれもフランク・ロイド・ライト設計のグッゲンハイム美術館からヒントを得たというから貴重である上に革新的で、是非に残して日本にもこんな小粋な建物があったんだってことを、世界に感じさせて欲しいんだけれど商業の論理は文化の思いを簡単に打ち砕く。さらに古くてアールデコ様式を持った三信ビルを保存もしないであっさり取り壊して長く更地にしていた日本に、建築を大切にする風土なんてない。ソニービルも解体されては思い出の中にぐるぐる回って上ったビルだった、って残るんだろう。寂しい話。

 今が最高! って最後に誰もが心の中で叫んだだろうなあ。「ラブライブ!」の劇場版「ラブライブ! The School Idol Movie」の公開から1年を記念した特別上映が新宿ピカデリーであって、チケットの争奪戦にどうにか勝利して最前列のやや上手側から巨大なスクリーンを見上げる感じで鑑賞。映し出される「Angelic Angel」でのえりちの巨大な顔からのウインクにもう心はバクバクで、そして曲の終わりにえりちがターンを決めながらセンスを2度ほど手のひらにぱちぱちとやる仕草に脳天メロメロなって、やっぱり大スクリーンで見るべき映画なんだろいうことを確信する。

 実を言うとテレビシリーズの一切を知らず、映画もとりあえずμ’sのファイナルライブに取材に行くんで見ておかなくてはと、東京アニメアワードフェスティバル2016でコンペティションへのノミネート作品として上映されたの見たのが初だったけれど、そこに繰り広げられた歌と踊りと、そして青春の限りある時間をかけて精一杯に取り組む素晴らしさに感動して、いっぺんに大好きになった。これならもっと早くから劇場に足を運んで、「ガールズ&パンツァー劇場版」みたいに繰り返し見るべきだったと思ったけれども後の祭り。もう見る機会も無いんだろうかと諦めていたところに今回の特別上映がやって来て、これは行かねばとネットにアクセスし、瞬殺されたチケットが決済の手続きが滞って再浮上してくるタイミングにうまくアクセスして購入し、2度目を見えることができた。

 そのまま活動を続ければ、スクールはつかないけれどもアイドルとしてやっていけただろうμ’sだったけれど、自分たちはスクールアイドルでありたいと決意した気持ちは固くて崩せず、そうした思いをスクールアイドルとして受け継いでいって欲しいと行ったラストライブに、全国から集まったスクールアイドルたちも、自分たちがμ’s解散の引き立て役にさせられるんじゃなく、スクールアイドルとしての思いを受け継ぎ、大きく羽ばたくための後押しをしてくれているんだと分かって、一緒に秋葉原の路上に経って歌い踊った。そんな心意気が伝わってきて、お金じゃなく名誉でもない、今という時間を最高にしようという思いを貫く尊さが感じられて涙が出てきた。最高の今を積み重ねていくことで、最高の明日があって、来年があって、永遠があるのだ。

 そんな映画を観てμ’sというアニメーションに出てくるグループの終わりが認識できて、だからμ’sという声優さんたちが演じて歌うグループのファイナルライブも理解できた。絶好調で紅白歌合戦にまで出てどうして? って誰もが思っただろうけれど、それで大きな騒ぎが起こらなかったのは、誰もがこの映画を観てμ’sの今を最高にしようと心に決めていたから、なんだろう。そんな映画だけにファイナルライブも終わった今、繰り返して見ることの後ろめたさもないでもないけれど、活動としてのμ’sは終わっていても記録としての音楽は残っているし、映画もこうやって残っている。その余韻を嗅ぎつつ改めて、最高の今を作り続ける必要性を思い返すという意味で、時を見ながら上映するってこともありなんじゃないかなあ。また来年にでも。是非に。


【6月12日】 ハンバーグを作り、リンゴの花摘みをやってそれだけで終わるアニメーションなんてものが存在する、この日本はやっぱりとてつもなく幸せな国なのかもしれない。そんな「ふらいんぐうぃっち」は前半が調理実習で、料理が下手ななおがハンバーグ作りなんて大役を任されおそるおそる包丁を使ってタマネギをみじん切りにして、肉をこねて丸めて焼いてソースをかけてはい完成。やってみれば何てことはない工程だけれど、前に失敗しているとどこかで繰り返すんじゃないかと気持ちが怯えてしまうものなんだろう。

 圭の方はあっさりとカレーを作り真琴はサラダを完成。そしてご飯にしようとジャーをあけたら炊けていませんでしたというオチ。そういや誰も頼まれていなかった。粗忽。周囲でわいわいとやっていれば気付きそうなものだけれど、それで気付いてはお話にならないから仕方が無い。そんな家庭科の調理実習を受け持っていた先生も若干の青森弁というか津軽弁だったけれど、圭の父親の方はさらに濃くて、花摘みに連れてこられてどうやるかを説明されたものの、真琴あたりではついていくのがまだ不可能だったみたい。

 とはいえ作品を見ていた側として、今日のはなんとなく分かった気がしたのは、それをやるだろう作業の説明だったから。そう思い聞けば何となく通じるってことは、現場で周囲も含めて観察しながら聞けば何をしたいか、何を言っているか、何をさせようとしているかも分かるものなのかもしれない。英語だって教科書の上じゃ無く実地で覚えた方が圧倒的に早くそして濃く覚える。そういう意味でも学校教育は小学校の1年間を英語の国に送るか英語しか使えない状況に追いやるかすれば、もっと英語が話せるようになるんじゃなかろうか。そんな教育をする国でもないけれど。

 前兆があったのか分からないから同じような経緯だったかは分からないけれど、アメリカのフロリダでYouTubeなんかでの楽曲が認められオーディション番組での活躍なんかもあって有名になりつつあった女性シンガーのクリスティーナ・グリミーさんが、ライブの後でサイン会をしていたら寄ってきた男に射殺されてしまうという痛ましい事件が起こった。ちょっと前に日本の立川でもあった、女性シンガーソングライターがライブハウスに入るところを襲われ全身を差された事件とも重なるアーティストへの襲撃事件。何か関連があるんだろうかなんて思いも浮かぶ。影響されたとか。

 ネットを介しての偏愛がだんだんとこじれて憎悪へと向かって爆発した日本のようにアメリカでも、前々からのアプローチがあったのを放置していたら捻れて襲撃へと繋がったのか、単純に何かで見て有名らしいからと襲っただけなのか。そこがまだ見えていないけれど、いずれにしてもネットが人を“有名”にしやすくなった一方で、そんなちょっとした“有名”をネットが探し見つけてアプローチしやすくした。結果世界で相次ぐ似たような事件。1つが連鎖を呼びかねいだけに今後が心配。兆候があるなら早めの対策を。そしてファンはアーティスト本人よりも作品に関心を向ける心の訓練を。

 出かけるついでに渋谷に寄ってパルコの地下1階でシシヤマザキさんの展覧会。「Ya−ne−SEN a Go GO」の原画なんかが飾られていたり売られていたりして、値段によっては手を伸ばしたくなったけれども大昔に観た時と違ってYUKIさんとのコラボレーションもしたり、ファレル・ウィリアムズのPVでロトスコープを受け持ったりして世界的なクリエイターになっていることもあって値段も結構上がってた。でもまだ変えない値段じゃないんでボーナス入ったら考えるか。ってかボーナス出るのか。出てもたいしたことないよなあ。100万円のボーナスなんてもう一生、もらえることもないんだろうなあ。そんな時代が来るとは。責任者出てこい。

 パルコを出て代々木公園へと回ってベトナムフェスティバルへ。似た催しだとタイフェスというのがあってとてつもない人間が集まって一帯が歩けないくらいの混雑ぶりを見せるんだけれど、ベトナムフェスの方は歩ける上にご飯も食べるスペースが残っていて屋台に並ぶ列も少なく、それでいてちゃんと美味しい東南アジアのご飯が食べられる。行くならむしろこっち。時東ぁみさんのライブもあるし、ってそれは時間の都合で見られなかったけれど、たぶんベトナムから来ている人たちがやってる店でブンチャーってビーフンに焼き肉を載せサラダも添えて酢みたいなドレッシングをかけたものを1枚と、あとこれはタイの料理だけれど別の店で出してたパッタイを食べてアジア気分を満喫する。シンハーでも飲んで極楽気分となりたかったけれど、1人でそれをやってもつまらないので食べるだけで退散。来年もやっていたらまた行こう。

 京都市役所に入った新米の女性公務員が面接で潔癖なまでの仕事への熱意を見せたら配属されたのが表向きは「いきいき生活安全課」を名乗る「陰陽課」。京都に住まう古い妖怪の類が今は「異人」として把握され、人間に混じって生きている中で起こる「異人」関係のごたごたを扱う部署で、そこには先輩がいたけれどもどうやら人間ではなく古く安倍晴明の時代から使役されていた式神らしい。でもっていろいろあって新米公務員の火乃宮祈理が上司にして式神でもある五行の主となるまでが描かれた第1巻に続く峰守ひろかずさん「お世話になっております。陰陽課です2」(メディアワークス文庫)は、夜中に動き回る獣のような妖怪の正体を突き止める話があり、独学で陰陽道を勉強して二代目蘆屋道満を名乗る人物と対峙する話があり、以津真天という危険を告げる妖怪が現れる話がああってとそれぞれに「異人」が絡む事件に祈理と五行が関わっていく。

 怪談のように伝えられる事件の裏をそれなりの知識を持って占いの能力も高い五行が突き止める展開があり、つい悪さをしてしまったり粋すぎてしまう人や妖怪を生真面目だけれど純真さもある祈理が諭して進んでいく連作は、それぞれにちりばめられたピースが最後に1つまとまって、京都の町の裏で進んでいたちょっとした陰謀へとたどり着く。その主が突き止められてのち、もたらされた運命を思うと人は、というより妖怪も見た目で判断してはいけないってことで。そのことを五行は知っていたんだろうか。古さでは負けない五行ならあるいは。個人的には根は生真面目な以津真天の人間ビジュアルと見たいところ。あとミズチも。「絶対城先輩の妖怪学講座」みたいに漫画化とかされないかなあ。こっちも。

 21世紀も10余年が過ぎた現在に森口博子さんの「水の星へ愛をこめて」とそして「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中〜」をご本人の歌唱で、胸元も谷間がくっきりとして美しいその姿態を見ながら聴けるこの幸せに勝るものなどあるだろうか。なんて思ったパシフィコ横浜での「ガンダムLIVE EXPO 〜ジオンの世紀」の公演は、ミネバ・ラオ・ザビあるいはオードリー・バーンの独白によって振り返られる宇宙世紀の半ばより立ち上がって宇宙を席巻しつつ燃えさかりそして滅していった「ジオン」という存在。その理念が半ば潰えつつザビ家へ、あるいはキャスバル変じてシャアへと受け継がれていった傲慢であり憎悪といったものがぶつかり合って起こる戦乱を、さまざまな作品から浮かび上がらせていく。

 「機動戦士ガンダム」であり「機動戦士Zガンダム」であり「機動戦士ガンダム 第08小隊」であり『機動戦士ガンダムF91」であり「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」でありそして「機動戦士ガンダムUC」といった宇、宙世紀に連なる作品群の映像を流し、シャア・アズナブルでありフル・フロンタルでもある池田秀一さんと、セイラ・マスを演じる潘めぐみさんが変わりゆく内心と、そして離れてしまった母への、消えてしまった兄への思いを語るスタイルで進んでいく、そんな合間に挟まられるそれぞれの作品からの楽曲では、先週も「スーパーロボット大戦」の25周年記念イベントで聞いた米倉千尋さんによる「嵐の中で輝いて」が歌われ石田匠さんによる「THE ORIGIN」からの『風よ 0074」が歌われた。

 さらに「聖戦士ダンバイン」の主題歌が個人的には心に残るMIOさん変じてMIQさんによる「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」からの「MEN OF DESTINY」が歌われそして森口さんの「水の星へ愛をこめて」が歌われと言った具合に、さまざまなシンガーによる時代を超えて残る歌が奏でられて「ガンダム」というシリーズが持つ息の長さであり、時々にしっかりと心に残る楽曲を選び伝えている凄さに感じ入る。中でも圧巻だったのは「機動戦士ガンダムUC」のラスト2作品で歌唱したAimerさんで、ステージではスポットを当てず抜きの映像もぼかして表情を見せない中で、「RE:I AM」とそして「StarRingChild」を披露する。

 声量があってよく響く声が奏でる澤野弘之さんの独特の旋律は国立音楽ホールをアニメーションのイベントでありながらも、ちょっとした歌曲のコンサート場へと変幻させる。こういう人を起用して来るところが「ガンダム」というシリーズの懐の深さであり、また冒険できるだけのしっかりとした存在感ってことなんだろう。それは「機動戦士ガンダム サンダーボルト」であの菊地成孔さんを音楽に起用したことでも明白というか、当人はクールジャパンをジャパンクールと言ってしまうくらいにアニメーションにも漫画にもゲームにも疎いミュージシャンだけれどジャズが必要なんだろうという依頼からの推察でもって圧巻のジャズとそしてポップスを作り上げて貼り付けた。

 配信版の第1話では監督の松尾衡さんが張ったもののジャズを知らない身ではどうにもと菊地さんに依頼し第2話から菊地さんがおおよそを担当。そして劇伴といったものがない、ジャズとポップスの音楽だけが画面に響くという他にない映像に仕上がった。過去の栄光にすがっていても存分に受け入れられる作品でありながら、新しいチャレンジをして取り入れては、次なるトレンドとして送り出してしまう。そんな温故知新であり新規開拓のスピリッツが、「ガンダム」という作品を廃れず古びないものにしている。ちなみに菊地さんの音楽の凄さは劇場上映される「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」でさらにソリッドさが高まっている感じで、もう菊地さんのミュージックビデオに「ガンダム」の映像が使われているかのような錯覚を起こさせるくらいに、全編にわたって響き渡るフリージャズでありオールディズな音楽があふれかえっている。

 その背後でつづられる戦争というものの残酷さ。これは必見。サントラみたいな音楽集も出るそうだけれどなぜかイベント会場では見せちゃダメって言われていたそうで、それでも見せた菊地さん。どういう理屈だったんだろう。ともあれ、そんな盛りだくさんの内容をやっぱりしめた森口さんの「ETERNAL WIND〜ほほえみは光る風の中に〜」で心洗われる気分になったイベントは、次の「THE ORIGIN」のプロモーション出使われるらしい「ジーク・ジオン!」の大合唱を収録して終了。2時間ちょっとの中に宇宙世紀のとりわけジョンという鬼子のような存在が、生まれ出ざるを得なかった事情が描かれ滅びざるを得なかった哀しみが綴られつつ人間の傲慢といったものが感じられた。そんなイベントになっていた。最高だった。


【6月11日】 ジャガーさんだジャガーさんだ。千葉の英雄にして全宇宙で最高のロックミュージシャンことジャガーさんが東京おもちゃショー2016に来場するってんで東京ビッグサイトへ。昨日までのビジネスデートはうって変わって子供たちをメーンとした展示になっていて、どこのブースも展示物を下げつつ子供たちが遊べるようなコーナーを用意したり、物販を行ったりして来場者に楽しんでもらっていた。一時、日本の玩具メーカーの元気がなくなって。おもちゃショーも衰退気味となって開催が滞り、一般公開が行われなかったりパシフィコ横浜が会場になったりと迷走していたけれど、やっぱりおもちゃは子供に遊んでもらってこそっていう感覚が戻ってきたのか、2006年から一般公開が再開され、中身の方もだんだんと充実が図られてきたって感じ。

 一時の衰退を少子化のせいにしていた雰囲気もあったけれど、今の方がよほど少子化も進んで人口減少も進みつつあるにも関わらず、東京おもちゃショー自体はとても元気に見えるのは、やっぱりおもちゃを遊ぶって子供がちゃんと存在してることを確信して、そうした子供たちに向けたおもちゃを作ってきているからなんだろう。パズルにしたってブロックにしたって人形にしたってぬいぐるみにしたって遊具にしたって、それらを一切遊ばないで育つ子供はいない。ただ、そうした遊びのシーンにピタリをはまるような玩具を作っていたかというと、どこか旧態依然としたスタイルであったりシーンに合わせた提案が出来ていなかったんじゃなかろーか。

 そこをキャラクターで埋めようとして、あれやこれやメディアミックスを展開したけど死屍累々。「美少女戦士セーラームーン」の夢よ今一度とはならないなかで、ニンテンドーDSのようなゲーム機を中心とした遊びへとシフトしてしまって、玩具への関心がそれてしまったといったところ。だから、そうした玩具を作るのは作るとして、どうやって遊ぶのか、どうやって競い合うと面白いのかを文脈に乗せて語り興味を引いていった。あるいは、ゲームの要素も取り入れながら玩具としても遊べるものを作っていった。そうした流れがだんだんと、玩具への関心を呼び戻していった、なんて適当に語っているけど個別の商品をそこに位置づけられないのは勉強不足なんで、そうした流れを踏まえつつ、この10年くらいのの玩具の浮き沈みを調べてみるのも面白いかも。

 さてジャガーさんだ。千葉県民にはチバテレビでの「ハロー・ジャガー」でおなじみのロックミュージシャンにして実業家。自分のお金で番組枠を買って自分のライブを流したりするスタイルが、どこか笑いを持って語られていたところもあったけれども、そうした活動の中で次代のロックミュージシャンを送り出したことや、どこまでも真剣にそしてスタイリッシュに「ジャガーさん」を“演じ”続けてきたスピリッツに感銘を受け、これを本物と言わずして何を言うのかといった気持ちも高まり、だんだんと英雄になっていった。そして千葉テレビでの「ファイト!ファイト!ちば」の放送が、その楽曲をヘビーローテーション気味に流して誰の耳にも残るロックミュージシャンへと押し上げた。もはや千葉県で知らぬ者はなく、そして宇宙に名をとどろかせる偉大な存在と言えるだろう。言えるかな。

 そんなジャガーさんが、いったい東京おもちゃショー2016だなんて子供たちがいっぱいの場所に出てきて何をしたかというと、タカラトミーから登場するTシャツやキーチェーンのPR。キーチェーンはジャガーさんのの衣装というか体の一部も含めて立体化されていてぐわっとしたあの表情ともども実によく再現されている。買えば金運とかいただけそう。Tシャツは一般向けにジャガーさんが描かれたものや、ジャガー号がプリントされたものがあったけれど、白眉はジャガーさんのロックミュージシャンとしての格好良さが炸裂したフルグラフィックTシャツ。これには自身が1枚1枚、手書きでサインをいれてくれるそうで千葉県民ならマストバイ、そうでなくてもロックミュージシャンなら着てその偉大さに敬意を示すべきなんじゃなかろーか。受付期間はしばらくあるけど、ジャガーさんの手も大変なんで枚数は限られるとか。早めの注文が吉。急げ「e組」サイトへ。

センシャラウンドって言葉を聞いたのは、渋谷にある試写室で「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦」の上映を観たときで、プロデューサーの杉山潔さんが音響に工夫を凝らしてあるって話してた。その時が確か4.1chで、センタースピーカーに音声を振り向けあとは効果音とかをさまざまなスピーカーから出したりして臨場感を出すってことを聞いたような記憶があるけれど、そんなセンシャラウンドもいよいよ9.1chまで来たそうで、いったいどのスピーカーにどんな音が割り振られているのか、分からないなりになんか凄いってことだけは感じられた。

 もしかしたら4.1chに背後からの音響もつけた5.1chとして残る4つのうち2つは、戦車が出てくるたびに右の耳元で解説する秋山優花里のつぶやきと、そして左の耳元でことわざについて講釈するダージリンのささやきに割り振ってあって、あとはよく分からないけど耳に聞こえない超高音と重低音なんかが出ていたりするのかも、って冗談も思いついたけれど、いずれにしても聞いてみないことには分からないんで東京ビッグサイトからイオンシネマ幕張新都心へと回ってセンシャラウンド9.1ch仕様での「ガールズ&パンツァー劇場版」および「ガールズ&パンツァー これが本当のアンツィオ戦」の2本立てを見る。久しぶりだなあ劇場で「アンツィオ戦」見るの。

 アマゾンのプライムビデオに上がってるしテレビでも放送されたんで見ようと思えばいつでも見られるけれどもやっぱり、あの大きなスクリーンでテレビ版のオープニングを見られるのが嬉しいところ。ねこにゃーの眼鏡を外している美人顔とかがアップになって見られるし、強そうで悪そうな黒森峰学園がバーンと写るところとか実に最高。あそこを突破して今がある、なんて振り返るだけで心が熱くなる。そんな「アンツィオ戦」を見て面白さを堪能してさて劇場版。なるほど砲塔が回る音にクローラーがアスファルトを噛むおとに砲弾が当たる音にカップが置かれる音等々、こだわりぬかれた音響があるときは激しく、ある時はクリアに響いて耳に届く。そこが戦場であり戦車の中であり学校でありといった気分にさせられる。

 一方でしっかりとセリフも響いてきて、効果音とかに負けない力で物語を紡いでいく。隅々までクリアな声を聞いてダーさま愛してますとかまほ姉やっぱりみほに愛情いっぱいだなあとか思ったりしていたのも途中まで。大学選抜との試合で追い詰められた大洗女子学園の混成チームが遊園地跡へと向かう途中、逸見エリカが「急造チームでチームワーク?」と混ぜっ返すあたりから急に音声がくぐもり始め、途中回復したりくぐもたりを繰り返しながら最後は完全にくぐもった状況になってしまった。セリフはよく聞こえずエンディングの歌でもボーカルがぼけぼけ。これでくぐもったり直ったりなら納得も出来たけれど、クライマックスとも言えるシーンとエピローグのシーンが完全にダメになっていた。

 これはさすがに許せんなあと思ったら向こうもそう感じたようで無料チケットを1枚くれた。2本立て特別興行で3000円の割増料金を取った上映で普通の無料券くれてもなあと思わないでもないけれど、アンツィオ戦についてはちゃんと見られたんでまあいいか。あるいは9.1chだなんて壮大な実験に挑む過程で起こる試行錯誤にも触れられたってことで、これを踏み台にして完成へと近づいていく段階を、改めて追っていけると思えば勉強にもなったかも。とりあえず音響が直ったらまた言って耳を澄ましてあらゆる音を聞こう。どこまで聞こえるか。どこまで聞かせているか。そんな挑戦が4DXとはまた違った、音響面での映画という体験のアップデートに繋がるから。うん。

 参ったなあ。とりあえず全国紙を標榜していて、関連している会社は社会化の教科書なんかも出していたりして、教育の再生なんかを訴えていたりもする新聞が、生活の党と山本太郎と仲間たちって政党の小沢一郎代表が、新潟県の長岡市で演説したことを取り上げて、「小沢氏は田中元首相の弟子を自任しながら、北陸地方ではない新潟県を『北陸で最大の県』と発言する基本的なミスを犯すありさまだった」なんて書いてしまった。おいおい。越後に佐渡は北陸道の頃から北陸だぞ。今だって北陸四県とされているんだぜ。

 なるほど、国の行政区分的には関東甲信越の役所が管轄している場合が多いけれども、気象庁だと新潟は北陸に入っているし、国土交通省でも北陸の管轄となっている。県民の意識は関東に向いているかもしれないけれど、北陸であるというのは基本的なミスでもないし、決定的な間違いでもない。それをあたかも決定的な勘違いのように指摘して、言った公党の党首をあげつらってはさすがに拙くはないか。もはや悪口のための悪口であって、それこそ名誉毀損による訴訟だって起こされて不思議は無い。事実でないことでもって人間性を批判している訳だから。

 そんな声もわんさか寄せられ、ライバル会社(向こうはそうは思ってないだろうけれど)の記者からも誤りを指摘されて大騒ぎになっているこの一件、書いた側が気付いていないはずもないから早く直せばいいのに、記事が出てからもう3日、直す気配がないのは開き直っているからなのか、それとも本当に気付いていないのか。ちょっとよくが分からない。それとも田中角栄さん自身は新潟を北陸に入れてくれるなと存命中から訴えていたのか? それを弟子が知らないのはおかしいとでも言いたかったのか。そんな記述は添えられていないしなあ。だから勘違いだろう。書いた側の。

 ただ、勘違いなら勘違いとして訂正すれば良いんだけれど、この場合は決定的でもないミスをミスだと言いつのり、それを元にして相手の人間性を批判していることがちょっと怖い。ここん家は前々から、悪口を言いたいがためにいろいろな材料を並べるんだけれどそこに誤解もあれば間違っているとされた言説を、我関知せずと並べて悪口へと持っていくことが割とある。悪口さえ言えれば、それが広まりさえすれば勝利という感じはネットでもよくあることだけど、それを公器と呼ばれる媒体がやってしまっては拙いだろう。自分たちと支持者はそれで溜飲が下がっても、世間は何言ってんだと思うはず。だから離れていってしまうんだけれど、それに気付いているのかどうか。気付いていてももう止められないんだろうなあ。やれやれ。


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