縮刷版2016年4月下旬号


【4月30日】 どういうことだ、今日で1年も3分の1が終わりとは、まったくもって時の流れるのが早くなっている感じ、でそれなら使うお金も少なくなっているかというと変わらないどころかむしろ増えている。金で時を買うんじゃなく売っているというこの不思議。まあでも決してスカスカだったわけじゃなく、面白い映画も見たし演劇も満たしイベントにも行ったし本も読んだ。濃い密度の中でめいっぱいにいろいろと味わった結果が早く過ぎていった時間であり、飛んでいったお金と思えばそれもまた悪くない4カ月だったのかもしれない。金も使わない中を漫然と何もしない時間だけが過ぎていく苦痛に比べれば。どうせ死んだら金なんて何の役にもたたないし。ってことで残る8カ月も頑張っていろいろ見に行こう。

 って訳でもないけど今日も今日とて「ニコニコ超会議2016」へと行ってとりあえず、NTTのブースで昨日は人が多くて見られなかった展示なんかをいろいろと体験。トンネルの中を進むロボットをモニター越しに操縦しながら進んでいくのでは、ルンバめいたロボット掃除機の上に、360度全天球カメラを取り付けたものが使われていて手作り感が満載だったけれど、操縦系はモニターがついた座席をくるりと回転させてロボットの進む方向を決めるやり方が何かジャンボーグAっぽかったというか。いやさすがにそこまで人の動きを読み取る訳ではないか。

 操縦者は平面のモニターを見ているだけだったけれど、別の体験者はその映像をVRヘッドマウントディスプレイで見ては進行方向だけでなく、上下左右を見て敷設してあるケーブルや天井に開いたマンホールを模した穴なんかを眺めてた。いずれはこうしたVRヘッドマウントディスプレイでモニタリングしながら自分の体の向きを変え、手にしたスイッチとか、あるいは視線誘導なんかで操縦するようなインタフェイスに発展していけば、離れていた場所へと自分の身を置くようにして、観測とか監視なんかを出来るようになるのかも。それこそ遠く離れた月面でも火星でも金星でも。今はまだ寄せ集めの実験装置だけれど、いずれ登場してくる装置に関心。

 視線という意味では、前にR&Dフォーラムで見かけた、瞳孔の開き具合とか動きなんかをモニタリングして、人がどういった映像に関心を示して心を動かすのか、なんてことを調べていた装置が簡易版として登場。登場する3人の動画像を見ては、自分が誰が1番好みかなんてことを調べる装置で、最初にギャルが出て次にアイドルめいた子が出て最後に赤ちゃんが出てきて、誰が1番かをまずはボタンで答えさせ、そして瞳孔の様子から本当は誰を凝視していたかってことを教える、という展開。僕の場合はアイドルめいた2番をボタンで押したんだけれど、実際には1番に興味を持っていたらしい。そうなのか。そうかもな。

 まあでも順番としていきなりギャルが来てぎょっとして、次にアイドルが来てほっとしてしまった反応なんかをどうとらえるかで結果も変わってきそうで、驚いたことをもって好きととるか、落ち着いている方を好みととるか、そんなところをどう処理しているか気になった。あとは視線の動きとか。今回はそういうトラッキングをしていなかったそうだけれど、たとえば水着の子が出てきて、顔とか胸とかに視線をめまぐるしく移動させた場合と、普段着で顔はきれいでもそれだけで視線が動かなかった場合とで、どっちを好みとみていると判断するかが分析する上での課題となりそう。そのあたりは心理学との重ね合わせも必要になって来るのかな。ちなみにボタンでの回答では、赤ちゃんが1番だったとか。人前で自分がギャルが好きです、アイドルが大好きですって押せない大人の見栄が安全牌へと向かわせた可能性。大いにありそう。

 そして向かった「超歌舞伎」は出足も早くて整理券はとっととはけた様子。プレスで開場と同時に入って整理券をもらうのも気が引けるんで、そこは朝は早くから並んだ人に譲るとして、とりあえずざっとVRのコーナーを眺めたりして痛Gフェスタin超会議でレヴィがトゥーハンドしている姿も眺めつつ、戻ってお昼頃から席を取り、まずは昨日の2回目と同じくらいのスタンド席やや上手寄りから見物。これで良いかなあとは思ったものの次が千秋楽の最終回とあってきっと盛り上がるに違いない、これを見逃したら一生心残りになるとも思い直して、今度はサイドのスタンド上手寄りの、花道が斜め方向から見下ろせる場所に陣取り見物。これが大正解だった。

 もう盛り上がる盛り上がる。クライマックスへと向かう場面で、昨日までは左右に分けて引っ込めていた目隠しを、ぶち破って復活を遂げた中村獅童さんが登場してはすっくと立ち、そして鳴り響くロック調の「千本桜」にあわせて花道を通って観客席に近づき手であおり声まで出してコールを求めからもう観客席は総立ちに。昨日の3回目でもそんな総立ちは見られたけれど、どういうタイミングで何をあおれば観客席もノってくれるかを感じ取ってのあおりとなっていただけに、こっちとしても受けざるを得ないというか、そうするのが心地良いとすら感じられるようになって、盛り上がりが何倍にも膨らんでいた。成長する舞台。それを促す中村獅童さん。巧いなあ。歌舞伎座での興業でそんなコール&レスポンスはなかなか出来ないだろうけどここは超歌舞伎、そして中村獅童さんの舞台なだけに観客が求め、自分がやりたいことをやった結果と言えるかも。

 それだけならまだ昨日とか、今日の1回目と同じだけれど千秋楽はさらに凄くて、カーテンコールを終えてエンドクレジットが出た後で、また幕が開いて中村獅童さんも、青龍役の澤村國矢さんも、そいし青龍の分身をつとめた役者たちもそろって登場しては、壇上で踊り花道で踊り観客席に飛び降りては通路を練り歩いて踊りまくる。中村獅童さんまで降りてきての大騒ぎ。舞台上では澤村國矢さんが連獅子のような毛振りを何度も見せたりと、めいっぱいのサービス精神を示しては、観客席からの歓喜に答えるように舞台上かも喜びを表していた。演じ手と観客が一体となってのグランドフィナーレ。ちょっと前に見てスタンディングオベーションの中を終えた舞台版「クジラの子らは砂上に歌う」とも同じような感動を味わえた。見て良かった行って良かった。そんな舞台になっていた。

 そんな「超歌舞伎」の演目「今昔饗宴千本桜」を振り返ってみるなら、まずはストーリーとして初音ミクのボーカロイド曲「千本桜」と歌舞伎の「義経千本桜」を融合させるという手段でボカロのファンと歌舞伎に興味のある人の関心を、ポジティブネガティブを問わず引きつけて見せる。初音ミクを知ってる人にはいったいそれがどういう風に歌舞伎と関わるのか、って興味が浮かぶし知らない人はボカロって何? それが歌舞伎とどういう関わりがって疑問からのぞいてみたくなるだろう。そんな人たちに対してまず、幕を開けて中村獅童さんが口上で、初音ミクとは何で「千本桜」とはどんな楽曲で、それが「義経千本桜」とどう関わるかを伝えて観客を導く。続いて舞台上に初音ミクを呼び込んでは口上させ、舞台上に置かれたモニターに投影された立体に見える映像がそれなんだと分からせ、共演といったもののスタイルを分からせる。

 そのあたり、初音ミクのライブを見慣れている人なら驚きはしないけれども知らない人だとコンピューターの中とかにいるCGのキャラクターがどうやって舞台に、ってまずは思うだろう。それをこうなんだと見せる。なおかつ普段から初音ミクのライブで立体映像風の初音ミクを見ている人にも、その仕草や声音なんかでこれはちょっと違うと思わせる。何しろ動きがスムースで、ライブなんかでダンスをしながら手足を動かしているのとはレベルが何段も違ってる。途中、中村獅童さんが演じる白虎が転生して佐藤忠信となって、初音ミクが演じる美玖姫と再会を遂げて舞を踊る場面があるんだけれど、その初音ミクの動きは指先からつま先までが整った、とても美しいものになっていた。

 それもそのはずで、日本舞踊の宗家、藤間勘十郎さんが振り付けに参加しただけでなく、モーションキャプチャでもって舞った動きを取り込んでは初音ミクの動きに仕立て上げていた。つまりはあれは初音ミクの舞であると同時に藤間勘十郎さんの舞でもあって、舞台に立つ役者に写す舞を通して見ていたその舞が、初音ミクというスキンだけを通してほぼ直接、見られたことになる。それも中村獅童さんとの共演という形で。何という贅沢。映画「コングレス 未来会議」なんかで人の表情をデータ化してリアルなCGで再現された役者に写す未来が描かれていたけれど、遠からず日本舞踊のような伝統的なモーションもこうやってデジタルに写され、キャラクターに反映されるようになるのかもしれない。そんなことも感じさせられた。

 一方で、肉体を持って登場してくる役者さんたちによって繰り広げられた舞台は、歌舞伎の中でもグッとくる要素を大きく抽出して、ダイジェストでありクローズアップとして見せては歌舞伎の面白さを伝えようとしていた感じ。白虎から転生した佐藤忠信が狐のような仕草を残しつつ、向かってくる青龍の分身たちを右に左に倒して歩く場面なんかは殺陣というより舞のような様式で、歌舞伎がそういうお約束でもって作られているものだと感じさせる。でもって荒さを増していく戦いを経て分身たちを蹴散らしていく場面では、六方という荒事を花道で見せては歌舞伎のダイナミックな、それでいて様式として整っているからこそ感じられるある種の法則めいた美しさってものをアピールする。

 ただ左右に首を振り前後に動きながら演じているじゃない、どの動作にも意味があるんだと思わせる。見得ひとつとってもそこでそれをやる意味ってのが伝わってくる。現地で見ていればそういうことがより分かって、歌舞伎って古典だけれどそこには凝縮された娯楽としてのエッセンスが詰まっているんだなあと思えてくる。これを歌舞伎座とかで見たらいったいどれだけ凄いんだろう。なんて思わせたらそれこそが「超歌舞伎」に松竹が乗り中村獅童さんが参加した意味がある。かつて将棋を中継とそれからコンピュータとの対戦によって盛り上げ、相撲への関心を誘ったニコニコの若い人と双方向で繋がったプラットフォームの真骨頂が、今度は歌舞伎にも発揮されることになるのか。ちょっと興味をそそられる。

 一方で最新のテクノロジーをこうしたエンターテインメントに活用すると、何が起こるかといった可能性も存分に示してくれた「超歌舞伎」。舞台上にバーチャルキャラクターを出す、ってことではライブでの初音ミクがひとつ先駆として存在するけれど、今回は仕草をつけて役者としての可能性を見せ、そして音声でも歌舞伎的な言い回しなり抑揚を合成音声で再現することに挑んでいた。聴くと藤田咲さんの台詞を歌舞伎役者の方の監修のもとに吹き込んで、それをもとに合成音声を設定していったとのこと。パラメータをいじるだけで作るのはどさすがに無理みたいだけれど、動きだって手付けではなくモーションキャプチャを使ってあとは微調整な訳で、それだけアナログな人の声なり動きは最初の段階で重要だってことなんだろう。

 そうやってバーチャルなキャラクターをリアルで見せることに成功した次の段階として、「超会議」で注目したいのがNTTによるイマーシブテレプレゼンス技術「kirari!」の応用。というかスクリーンに投影させた映像がくっきりとリアルに見えたのも同じ「kirari!」の技術なんだけれども今回は、より進化したリアルタイムで人の動きをとらえては、それを伝送して別の場所にくっきりと映し出すという技術が一般の人の前で実験ではなく実用としてお披露目されていた。中村獅童さんが花道を通って途中にあるボックスに入った場面。そこで照らされる光の中で手足を動かし見得を切りといった動作を始めると、ステージのスクリーンに中村獅童さんがくっきりと映し出されては、ボックスにいる中村獅童さんと同じ動きをしはじめる。

 テクノロジーによって生み出された分身の術。凄いのはそうやってリアルタイム中継の技術を舞台上で実行したことだけでなく、演出の中で分身の術として使い、ステージ上のスクリーンに映し出された3人の中村獅童さんが、ボックスにいる本体の中村獅童さんも入れて4人となって、それぞれが青龍の分身たちを相手に戦っているという姿を見せたこと。新しい技術は技術として、それをストーリーの中でどう使ったら面白いのかを考えて実行したところに大きな意味がある。いくら画期的なアイデアでも、そして革新的な技術でも実用のレベル、実生活のレベルで便利だったり面白くなければ意味がない。それを「超歌舞伎」ではこれぞといった形で実現してしまった。この発想力と展開力があれば、さらに新しい「kirari!」の活用法も生まれてきそう。次はどういう演目の中、あるいはスポーツ競技の中で使われるのか。ちょっと楽しみになって来た。

 青龍との戦いに勝ちはしたものの、傷つき息絶えようとしながらも白虎が転生した佐藤忠信が、多くの言の葉によって桜に花をと呼びかける場面は千本桜の復活を願うストーリーにも沿いつつ、コメントを発するユーザーがネットの向こうで大勢見ているだろうことをも含めた「超歌舞伎」ならではの仕掛けで、会場にいるリアルな観客だけでなく中継を見ている人たちも巻き込み、というよりむしろそちらを共演者とも位置づけてストーリーを組み立て演出に生かしているのも面白かった。紅白歌合戦での小林幸子さんへのダンマク応援コメントが演出に取り入れられていたのと似た発想で、さらにストーリーに絡ませたところが新しい。エンドロールにニコニコユーザーの名前がクレジットされていたのも、共演者という位置づけとの認識があったからなのかも。そういう配慮が嬉しいし、そういう企画があってこそこれからの新しいエンターテインメントは作られていくって現れでもあるんだろう。そんな多様な要素が詰まった「超歌舞伎」。これ1回で終わるのはもったいないんで次回も是非に。


【4月29日】 強いのか弱いのか強くなりたいのかなりたくないのか。ただそこにて、ダラけているだけで強くなってしまった怠惰の魔王だったけれど、食欲の魔王を相手に戦って部下の配下が全滅させられたり自身も小さいながら傷を負ったりしたことが、配下のナンバーワンに知られ気にされ反抗を呼んだみたいで、食欲の魔王に負けた2番手3番手を粛正する気満々だったんで2番手はさっさと逃げだしたものの、3番手は魔王の下に残って1番手からこっぴどくやられてほとんど瀕死。とりあえず1番手の手下についたように見せかけた女悪魔の画策もあって生き延びたものの、肝心の魔王は1番手を相手に戦いつつ死んでも良いかなと思ってみせたりと怠惰さ全開で、勝負にならなさそうな中をひとまず大魔王が取り持って事態は集束を見せる槻影さんによる「堕落の王2」(ファミ通文庫)。

 それで大魔王から第3位という魔王の中での序列を剥奪されて魔王ですらなくなったもののそれで落ち込んだり嘆いたりするくらいなら、最初から第1位の配下を相手に本気を出して勝っていた。ただそうやって本気を出すことがひとつ、怠惰の王には似つかわしくないからやらなかったら案の定のていたらく。そして嘆きもせず憤りもしないで怠惰に過ごせる生活を喜んでいるというか、喜ぶことすら面倒くさいと毎日をごろごろしているというか。それでよく話が成り立つと思うけれども不思議と呼んでいて面白いのはそうありたいと願いつつ、生きていくためだとか、欲を満たしたいだとかいった思いが必ず浮かんで、そうはいられない人間の姿を理想と現実、ともに映し出しているからだろう。ひとまず決着はついいたけれどこの後、一悶着があるのかいよいよ本気を出すのか。そんなあたりにも関心を持ちつつ続きが出るのを待とう。怠惰に。

 超会議だ超会議だ。ニコニコ超会議2016が始まったんで家を出て幕張メッセへと向かうものの強風で電車が遅れていたりしてたどり着けるかちょっと不安も浮かぶ。行きは幕張本郷駅からバスで海浜幕張あたりまでだから、総武線が止まらない限りはどうにかたどり着けるんだけれどそうでない、京葉線を使う人は風に弱い路線だけに大丈夫だろうかとやきもきしただろう。それは帰りで的中したようで遅れとかある電車を待つ人で海浜幕張駅のホームは人でいっぱいになって、来た電車に乗るのも大変そう。仕方がないので下りで蘇我まで行って内房線を千葉まで戻り総武線で帰ってきたけど他の人たちはスムースに帰れたんだろうか。千葉ロッテマリーンズの試合もあったしなあ。

 その試合は何とニコニコ超会議2016に組み込まれていて「超野球」として行われたみたいで、強風の中を幕張メッセからQVCマリンフィールドへと向かう人も結構いたみたい。もとよりファンの熱い球団だけにスタジアムは千葉ロッテマリーンズのユニフォームを着た人たちでほぼほぼいっぱいになっていたようだけれど、それでも入れる自由席を求めてニコニコ超会議の参加者も来ていたようで、ここに生まれたクロスオーバーがニコニコユーザーに野球の面白さを感じさせ、衰退が叫ばれるプロ野球へのファンを増やす呼び水になったのかどうなのか。いや衰退といってもそれはテレビ中継だけで、こうして球場で野球を見るファンは減ってない。そういう意味では球場で満員の中で青空の下、野球を見る楽しさを知ってもらえる機会にはなったかな。野球のファンがニコニコに関心を持ったかは不明。そういう双方向性が来年もやるなら課題が。

 そんな「超野球」も見に行ったついでに、スタジアムの外は超強風で屋台の豚丼を勝っても食べてられないんで幕張メッセへと戻って食べたんだけれど、中に入ればいろいろフードコートもあった模様。でも近寄らず。近隣の音楽祭に入りたい人でホール内に行列も出来ていた感じでちょっと長居は無理だった。これなら来年は音楽祭がイベントホールになるかなあ、ってそれじゃあイベントホールでの開催から分離して秋の開催にしてさいたまスーパーアリーナに会場を移したニコニコ超パーティと変わらなくなるからなあ。というかビジュアル系のステージがあり演奏してみたのステージがありゲーム音楽とか見せてるステージもあってとステージ系が多くなっているかなあという印象も。

 もとよりボカロと踊ってみたと歌ってみたと、あと踊ってみたあたりで盛り上がったニコニコの祭典だからそれらがメーンになるのも仕方がないんだけれど、著名になった人たちが現れパフォーマンスをするのを、楽しむファンといった感じに彼我に壁が出来ているのかもしれないなあという思いも。こっちからそっちへと行ける夢があったのがニコニコなのに、そっちはそっちで成り上がり、こっちはこっちで需用しまくる分断が、進化というか発展のひとつの姿だとうことも分からないでもないけれど、そこから生まれた格差が乖離を呼んで衰退へと向かった文化も過去にあるだけに、流動性の高さだけは維持していって欲しいとも思ったり。有名人をもてはやす一方で無名人を掘り起こして愛でるリテラシーが必要なのかもしれないなあ。

 しかしこれで音楽祭がイベントホールに戻ってきたら、こういう画期的な試みも行われなくなってしまう心配がある「超歌舞伎」。歌舞伎役者の中村獅童さんがVOCALOIDの初音ミクを共演しては、ボカロ曲でも有名な「千本桜」を拾いつつ、歌舞伎の「義経千本桜」ともフュージョンしつつ新しいテクノロジーもぶち込んで、今までにない歌舞伎を見せるといったもので、3月に実施が発表されてスポンサーにNTTがついたってことで、どんな舞台になるのかという期待を抱きつつ、その発表会でNTTが開発したイマーシブテレプレゼンス技術「kirari!」を使うといったアナウンスを受けてこうなるんじゃないかと予想しつつ、見た「超歌舞伎」はそれはもう凄かった。素晴らしかった。

 いつもはPCのモニターとかスマートフォンのディスプレイの中にいる初音ミクが、ステージに現れてパフォーマンスをするっていうだけなら僕たちは初音ミクのライブなんかで見ていたりする。透明のスクリーンに投影されて、まるでそこにいるような初音ミクがバンドと共演したりするのを歌舞伎に置き換え、中村獅童さんや澤村國矢さんといった歌舞伎役者の演技に合わせて投影された初音ミクがしゃべりつつ、藤間勘十郎さんが振り付けたのをモーションキャプチャしてCGの映像に反映させたとおりに踊ってみせた舞台といった見方もできて、そこに技術的な進歩はあったり、歌舞伎というカテゴリーで行われたという発展もあったと評価はできる。

 もっと大勢の人に歌舞伎を見て欲しいという中村獅童さんが、若い人が来るニコニコ超会議でボーカロイドという文化を取り入れた歌舞伎を作り演じたことは賞賛に値する。当人にもだから相当に気負いはあって、舞台に挑む思いには強いものがあっただろう。どうやったら楽しんでもらえるかを考え、見せ場をいっぱいつくっては荒事を見せて六方を踏みはしごに登って殺陣も見せてともう盛りだくさん。そしてクライマックスで「千本桜」をロック調でがんがんならしてはそれに併せて喝采し、あおって立たせコールまでするアピールをして大勢を感動の渦へとたたき込んだ。そこへと至るまでのさすがは歌舞伎役者といった演技、そして声でもって観客を魅了していたことも舞台を面白くした。

 けれども、ここで注目しておきたいのはNTTが開発した「kirari!」の真骨頂、とりわけ2月に発表されたリアルタイムに離れたところにいる人の動きを別の場所に投影する技術がエンターテインメントの場、それも公開されたステージで使われたこと。どういう風にかはまだ舞台が残っているから言わないけれど、それは遠からずスポーツ中継を離れた場所で臨場感たっぷりに見られるようにし、そして映画館での演劇などのライブビューイングをより迫力たっぷりに見せられるようにする技術かもしれないってこと。あるいは全世界に散らばるアーティストがひとつ舞台に集合するようなことも可能にする技術かもしれないってこと。そのことをだから、「超歌舞伎」を見る人には感じてもらいたいし、報道なんかでも注目して欲しいんだけれどテレビなんかはわかりやすさに流れて、人気のボカロが伝統の歌舞伎役者と共演って方にばかり目を向けてしまうからなあ。そこは残念。だからせめて見る人は、そこに凄い潜在力を感じて次に使うならどうなるかなんてことを感じて欲しいもの。明日の舞台もその技術、完璧に動くと良いな。


【4月28日】 BABYMETALについてはほとんど聴いていないし、ヘビーメタルについてもほぼほぼ聴いていないんで、何がフェイクで何がリアルかなんて分からないけれどもただBABYMETALについてピーター・バラカンさんが「まがい物」といった意味は分からないでもないというか、別に自分たちで演奏している訳でもなく、アイドルグループの中にあって3人でひとつユニットを組んで演奏の巧いバックもつけて、ヘビーメタルを演じさせてみたらどうだろうといった企画がまずありきの中から出てきたことをもって、まがい物と言われるのもまあ仕方がないといったところ。

 メタルがやりたいか、あるいはメタルしかできないからとメタルに向かった多くのメタルなバンドのスタイルを借りた訳で、傍目には本気には見えなかったと捉えられて不思議はない。じゃあ今はどうかというと、迫力のあるパフォーマンスで世界的に認められてきてはいるけれど、やっぱり演奏はバックバンドで、それも白いマスクとかした面々がおどろおどろしさものぞかせながらメタルってこういうもんでしょって感じで演奏していて、その前でメタルだからやっぱりねって感じにヘドバンを見せるメンバーをもってして、外観的にフェイクでありまがい物であり剽窃であり借景だといった言い方はあてはまる。見る方だってそういうもんだ感を味わいつつ、そうじゃないんだ感も漂うその狭間で、ニヤニヤしつつそれにのめり込める自分を愛している、ってな部分もあったりしそうだし。

 ただ、ヘビーメタルかどうかという意味合いにおいて言うなら、もはやそうしたあり物のカテゴリーに当てはめて、フェイクだリアルだなんって言って良いほど音楽ってのは狭いものじゃない。あらゆるカテゴリーがフュージョンし、あるいは競い合う中で生まれる新しいカテゴリーってものが音楽を次の時代へと進歩させてきたのだとしたら、BABYMETALもそんなひとつとして何かを切り開いているって言えば言えるかも。アイドル的なルックスで、年齢も相当に低い女の子たちがヘビーメタルと言われている、大人のそれも野性的な面々がど派手に繰り広げる音楽のサウンド面をかじりながら、ダンスといった要素を乗せつつティーンに対してメッセージ性を持った音楽を繰り出す。そのギミック感がひとつのジャンルとして成立している。

 センターだけが歌ってサイドの2人はもっぱらダンス、そして演奏はプロ中のプロが務める構成も含めて、何かのカテゴリーにあてはめ語るというよりはBABYMETALというひとつの音楽、ひとつのカテゴリーとして捉え語るべき状況にあると思えなくもない。それは聖飢魔IIという、やっている音楽はどストレートのヘビーメタルでありながらそうとはとられず、ヘビメタ雑誌の「BURRN!」でデビューアルバムが0点などという屈辱的なレビューを付けられ、もっっぱら色物的に見られながらも気にせず自分たちのジャンルを確立させていったバンドにも通じるもの。当人たちは気にはしてないだろうけれど、周囲もヘビーメタルじゃないとかアイドル的でもないちった声に惑わされず、BABYMETALはBABYMETALなんだと内に認め、外に叫んで行けば良いんじゃなかろーか。大胆に。

 どうして熊本弁が出ないんですかと突っ込みもちょっと浮かんだ芝村裕吏さんの「セルフ・クラフト・ワールド2」だったけれども、そんなことが気にならなくなるくらいにすさまじい展開が待っていて、この後に続く第3巻がどうなってしまうのかって興味に今はいっぱい。第1巻1では主役を務め、ゲームの中で大活躍していたGENZもその相手で熊本弁をしゃべるAIも今回は脇役で、もっぱら登場するのは片方がGENZとは古い友人らしい総理大臣の黒野無明、そしてもう片方がネットワークゲームらしい世界を走り回るカトーという男。2つのワールドが交互に出てくる感じで進んでいくことに、いずれは何か重なるんだろうかと思ったけれども読み進んでいく中で、意外過ぎるつながりを見せて時間がつながる。

 それは何かというのは話を露見してしまうことになるから触れないでおくとして、現代を描いた黒野のパートでは彼が秘書にしているAIが妙にかわいらしいというか、ボスの役に立ちたいと頑張りその頑張りがズレた方向に向かって、VRというかAR的な世界でいじらしい仕草を見せたりバニーガールの姿になって膝の上に乗ったりする。ナムコがお台場につくったVR ZONEで楽しめる「アーガイルシフト」に登場して、いきなり目の前に現れぐっと迫ってくるAIナビゲーターのアカネに興奮してしまった記憶を重ねるなら、現実を拡張するARの世界でぐっと美女が顔を寄せ、息こそしなくてもかかりそうなところからしゃべり、何か言いたそうな顔をし、迫り捨てないでといったような言葉を吐き、膝の上にのって来ると、誰だって転んでしまうだろう。普通なら。

 かろうじて年上が好みだったか自制が働いたか、そいうしたAIのライフハックに乗る黒野ではなかったけれども日本の外側では事態は急激に進行していて、経済が衰退に向かう中で自動的な進化を行うようになったチクワたちから画期的な技術が生み出され、それが富をもたらすようになった日本の「セルフ・クラフト・ワールド」とは違って、何も生み出さないネットワークゲームを動かしては貧困を増している世界が日本に向ける目は厳しく、それがひとつのきっかけを経て大爆発してしまう。結果、起こったとんでもない悲劇の続きめいた世界が間に挟まれるエピソードと言えそうだけれど、そでもやっぱり繰り広げられるAI的な女性のアプローチ。冒険を続けるカトーという男について回る女性キャラクターがいるんだけれど、年上が好みだというカトーの言葉も出て別れが来たと思ったら、自分は姉だと言って年上だと言うこの強引さにちょっと惚れてしまった。AI怖い。人間チョロい。

 「セルフ・クラフト・ワールド」内での人工生命の進化から、現実の技術革新が行われていく事例としてあげられた生態ともいえそうな戦闘機の描写とか、実に未来的で驚きのビジョンにあふれているし、AIが進化の果てにライフハックをして来るような描写は、長谷敏司さんの「BEATLESS」なんかにも通じる展開。あとはバーチャルを飛び出て世界を染めていく人工的に生み出された生命によって起こる激変といった描写が、来るかもしれない未来を予感させて身を震わせる。自分のライフデータをすべて記憶していった果て、それを持ったAIのキャラクターが自分に成り代わってネットの世界で生きていくことへの思いは、映画「楽園追放」にも重なるけれどもこっちはまるまる自分の置き換えだったものが、「セルフ・クラフト・ワールド」では自分の思いを託す相手といった感じ。残るのが自分か否か、それを自分と見なすべきか否かといった部分に迷うけれど、でもいずれこれも来るビジョンなのかもしれない。第2巻でこれなら第3巻は。期待して待とう刊行を。

 もう頭がどうにかなっているとしか。安倍総理への落書きがトイレにありましたってことすらニュースで報じることにためらわれるのに、手前の新聞が地下鉄の広告の上にパロディコメントを張られてからかわれていましたって話を取り上げては堂々、サイトのトップに持ってきてニュースに仕立て上げてしまうんだからもうポン酢ぶりの突き抜けて遙か彼方のアンドロメダ星雲にまで届きそう。何か事件になっている訳でもないし、誰かが訴え出たということでもない。もちろん器物損壊といった犯罪に当たる可能性がない訳ではないけれど、対象が自分のところであり、一種アウトサイダーの言論でもって挑戦してきた相手に対して、大上段から怒りをあらわにしてみせるのもみっともない話。巧い切り返しでもって笑いにもっていくのが最良なのに、そういう考えもなく自分たちの無様をさらけ出してしまう。だいたいが本当に話題になっているのかも不思議な現象。区役所に自衛隊がよろうとして拒否されたって話を勝手に書いてすべての区役所から抗議を受けた人が書いているだけに、ちょっと引いて眺めるのがよさそう。こんなのでアクセス稼がないとやっていけないのかなあ。やばいなあ。


【4月27日】 そもそもが入院している同級生とかに仲間が早く元気になってよと、ひとりひとりが気持ちを込めて追った鶴が束ねられて送られるのが千羽鶴といったもので、受け取って飾って自分も頑張ろうと思うといった具合に、パーソナルな関係の中に情交をもたらすものとして存在していた。それが何か災害があって悲惨な目にあった人たちがいて、それを励ます思い出、あるいは犠牲者を弔う気持ちで千羽鶴が作られ、送られてくるようになってしまったことが、不必要なものを見ず知らずの人からもらって何の役にも立たず、励みにもならないままもてあまして廃棄処分するといった行動に、向かわせているんじゃなかろーか。

 追悼の場合はまたニュアンスが違ってくるけれど、快癒とかの励みにならない鎮魂は送り手の自己満足に過ぎない部分があるだけに、受け取った側が喜ぶかというとやっぱり微妙。なおかつ、そうした鎮魂の千羽鶴が全世界から送られてくるとなると処分だけで莫大な費用がかかってしまうだけに、内心ではいろいろと思うところもあるのかも。ただし、世界的な悲劇について大勢が悲しみ、その思いをかみしめながら次代につないでいく行為として千羽鶴といったものはあって悪くはなさそうで、そうした気持ちの継承を受ける側も担って思いを受け取り、飾って時間が経ったら廃棄しつつ、受け継がれた思いをまた受け取り飾るといったサイクルを維持するってこともある。つまりはTPOってことで千羽鶴、被災地に送るのはちょっと止めておこー。

 完成度の高さではやっぱりこのシーズン、図抜けたところがある「ジョーカー・ゲーム」は上海が舞台となった「魔都」のエピソードを1話完結といった感じでやってしまってそれで1クール、エピソードが保つんだろうかと思えてくるけど、時に2話に伸ばしたりオリジナルも混ぜたりすればどうにかなるものなのかな。D機関の人間が直接それっぽく暗躍するというよりは、上海を根城にしている憲兵の身に起こった殺人事件とその上司の住んでいる部屋の爆破事件を捜査する過程において、糸を引いたり導いたりして真犯人へと近づけさせては結果として、憲兵の間に勢力を潜り込ませていくといった感じ。もちろんそうした憲兵の犯罪を排除することによって、日本が被害を被ることも避けられるんだけれど、結城中佐が目指しているのが本当にお国のための活動なのか、組織のための活動なおんかに迷うところ。本当の愛国者は声を立てず裏で静かに不義を撃つ。そんな感じなのかなあ。

 先月に続いて東大へ。入学した訳でも教える訳でもなく、TORONにしてユビキタスな坂村健さんが最近、というか実態としてはTRONの時代からずっと熱心にやっているネットワーク社会の構築に不可欠となりそう、IoT(モノのインターネット)に関するテクノロジーの発表があって見物に。その内容がいったいどれだけ重要で、そしてすごいものなのかを判断するだけの頭はないけれど、あらゆるものがインターネットにつながって、そして操作できるようになった社会を考えた時に、それぞれのデバイスに重たいOSめいたものを持たせ、それぞれのデバイスの間でやりとりをして動かしていては、チップの容量が足りなくなるし拡張性にも問題が出る。そこで坂村さんが目指すのが、ここのデバイスに組み込むチップにはOSのようなものは持たせず、そこからネットワークでアクセスするクラウド上に、仮想デバイスを置いてメタOSを回して統御する、なんてことらしい。

 そんな解釈すら合っているかどうか分からないけれど、ともかくそうしたクラウド上に操作のための機能をもたせ、APIを開放してほかのネットワークとも連動できるようにするって構想を実現するためには、個々のデバイスに組み込まれるチップは統一された規格でなくちゃいけない、ってことで今回は、同じ形状を持ってコネクタの配置も同じだけれど、チップについてはちょっとづつ違って、様々な機能を実現できるような規格を打ち出し、それに沿ったチップを作ってもらったといった感じ。ルネサスだとか東芝系の会社といった世界に名だたる企業が参集しては、参加をアナウンスしていたくらいだからそこには大きな可能性があるんだろう。部屋の鍵開けからランプの転倒からセキュリティシステムの稼働から、家電の動作から何からなにまでを統合し、スマホで操作を命令したら、いったんネットに上げてクラウドの方で操作の信号を送り返すような、そんな空間がこれから出来てくるのかな。いつかこの日の会見が、世界のIoTに大きな一歩を踏み出したものだったと語られたりすると面白いんだけれど、果たして。

 ギャランGTOだとかパジェロだとかランエボだとか作っていれば、三菱自動車工業も、燃費がどうこう言われることもなくそういう車なんだからと誰からも思われ、受け入れられていっただろうけれど、そういう車がなかな売れず、どうせカタログデータに過ぎない、実際には何割か落ちて当然の燃費の数字をユーザーもあれこれ気にして、値引き交渉のネタに使うような社会になってしまって、なおかつそれに合わせないと生きていけない時代になってしまったことがこの不幸を呼んだのか。25年も前から燃費のデータをいじっていたという話が出てきてこれはもう、会社としての存続すら危うくなっている感じが漂ってきてパジェロとランエボとギャランGTOを傑作自動車を見る身には不安も浮かぶ。

 あるいは名古屋の大江とか愛知の岡崎なんかに工場やらテストコースを持って、愛知県経済に大きな貢献をしている三菱自動車工業の撤退なんてことがあったら、やっぱりダメージも小さくないだけにここは穏便に、且つ的確に事態を収めて立ち直っていってほしいけれど、前にも1度、リコール隠しという重大な悪事を働いては死亡者まで出している会社だけに、そのガバナンスの行き届かない様が払拭されない限りは、誰もそこの車を買おうとしないし乗ろうとはしないだろう。そのためには経営陣がまるっと変わるだけでなく、看板すらすげ替える必要すらありそう。それはつまり三菱グループからの離脱なり、逆に三菱重工あたりに帰参して新たな看板でスタートすることが求められるわけだけれど、ただでさえ縮小気味な自動車市場でメーカーとして生き残るのが困難なら、パジェロのような部門だけ切り分け、どこかに吸収させてあとは消滅って道も視野に入れないといけないんだろうなあ。寂しいけれど。

 佐々木則夫監督ですら立て直せなかったサッカー女子日本代表を、同じ男性監督が立て直せるとは限らない一方で下の世代を率いてそれなりな成績を収めている以上、女性監督でもしっかりやれるといったことが分かって、日本サッカー協会も踏み切ったんだろうか。なでしこジャパンことサッカー女子日本代表の監督に高倉麻子さんが就任。日テレ・ベレーザが読売ベレーザとして全盛だった時代に、中心選手として活躍したプレーヤーで、その後はあちらこちらに移ってスペランツァ高槻で現役を終えた、その頃にもしかしたらプレーを見ているかもしれないけれど、引退後はどこかのチームに入ることなくもっぱら日本サッカー協会でコーチや監督の実績を積んできた。そんな色のついてなさもあって今回、監督に選ばれたのかもしれないなあ。ほかの誰、ってのが思い浮かばないこともあるけれど。これでどうにか立ち直り、東京五輪は開催国で出られるからその前のワールドカップに出場をして好成績を収めることが目下の至上命題。果たせるか。見守っていこう。


【4月26日】 その昔にデザインフェスタで家紋とかが入った戦国武将のストラップを売っていた「まさめや」ってディーラーさんが、その後に起業してそうした戦国グッズに限らずさまざまなアイテムを作って売り始めて何年か。これまでは街のショップに卸して売ってもらうのが中心だったけれど、自分たちでもコンセプトを立てたお店を持ってみたいと考えたようで、東京の銀座なんて日本の中心地にお店を構えることになった。名前を「primaniacs」というその店に入るとまずは目に飛び込んでくる「おそ松さん」のフレングランス。キャラクターの表情こそ版権を使っているけれど、パッケージのデザインとか光沢でないマットな色の選び方とかはまさめやさん独自のものとなっている。

 香りについても「おそ松さん」のキャラクターの性格なんかを鑑みながら独自に調合したものになっていて、たとえばおそ松だと素朴な軽やかさを含んだウッディノートをメインにして、甘いムスクが余韻として漂うものになっている。イメージしているのは包容力。長男にふさわしい香りになっている。そしていつも元気というか何も考えていなさそうな十四松は、ピュアっていう言葉を軸にして軽やかなフローラルノートと混じり合うベリーの酸味を含んだフローティーノートって感じになっている。よく分からないけどどこか十四松らしい。

 格好つけてるカラ松は男性的な渋みと強さを感じさせる香り.シザーウッドとサンダルウッドとレザーとムスクとローズウッドとラズベリーを土台にいろいろ混ぜた香りからはたぶん、気取った感じが漂ってくるだろう。誰よりも愛らしいトッティことトド松は、ピンクのパッケージもそれっぽければ香りもピーチのフローラルノートで甘く、あざといまでに甘くかわいらしい香りになっている。着ければ女の子からモテモテに? ってこれ、買うのは女子な訳だしなあ、買って着けるんだろうか「おそ松さん」フレングランス。あるいはキャラクターをイメージして、アロマ代わりに部屋とかに漂わせたりするのかも。あるいは肩口につけて漂う香りにキャラクターが身近にいると感じるとか。ともあれここが初お披露目となるフレグランスにどれだけの松子たちが集まってくるか。時間があったら開店の日も様子を見てこよう。

 「primaniacs」は別に「おそ松さん」のフレングランス専門ショップではなく、「おそ松さん」関連ではテレビ放送から間を置かずに発売されたという、先読みの鋭さもあって大いに売れたらしいキーチェーンや「おそ松さん」の雰囲気をグラフィックにしたキャンバスアートなんかも販売。そしてほかにもブースを置くようにして戦国武将のグッズや妖怪アートがあしらわれたアイテム、アメリカから来たアニメーション「HAPPY TREE FRIEDNDS」のアートパネルやグッズやフィギュア、そして「カイジ」の関連グッズなんかをそれぞれ並べてちょっとした世界観の中で販売している。時期がくれば入れ替えていくそうってことは、ほかにも取り扱っているプロパティがあるってことで戦国グッズの手作りディーラーから知らない間に大きくなったものだなあと感嘆する。

 そうした成長物語もすごいけれど、やっぱり今というこの時期に銀座を狙って店を出す先見性も買いたいところ。女性が多く集まる地域だけにキャラクターグッズでも秋葉原とか池袋のショップにある、どキャラクターといった感じのものとは違って大人の女性たちが買っておかしくないアイテムを並べている。そして銀座といえばインバウンドで外国人も大勢くる街。キャラクターとか戦国といったアイテムに対する興味も強いだけに、そうした場所に店を構えることで外国からの観光客も呼び込める。果たして外国人がどれだけ「おそ松さん」を知っているかは分からないけれど、いずれ遠からず知るだろうその時に、銀座で唯一くらいの取扱店だとすれば結構な賑わいも期待できそう。あとは戦国グッズか。聞けば石田三成が人気とか。敗軍の将で堅物で不人気の代表格と思っていたらそうでもないらしい。知的で明晰でそして敗れ去った哀愁が女心を誘うのか。ちょっと注目していこう。

 ファンクラブの立ち上げイベントで最速の第2話上映を見て「美少女戦士セーラームーンCrystal」が前のシリーズに近いテイストを持った絵柄と演出になっていると知って振り返りつつ進むのを見ている今日このごろ。今千秋さんがそういう風にしたいと言ったのか、製作側がファンを広げるために絵柄を昔に近づけ雰囲気もそうしているのか、分からないものの見ていて安心ができるのは古手のファンにはありがたいし、新しいファンもそういうものだと思ってみていけそう。もちろん1期もクライマックスに近づく中でピリピリとした雰囲気が漂って見ていて切なくなったくらい、雰囲気には良いものがあったけれども昔のがやっぱり強烈すぎた。なので今のこの絵柄とギャグテイスト、さらには天王はるかと海王みちるのフォルムはそんな強烈な印象を振り返りながら見ていけてありがたい。

 気になるのはやっぱり天王はるかのキャラクター設定だけれど男装っぽくてもどこまでも女子だった前のシリーズとは違って、男装の時は男めいた雰囲気になる今の天王はるかには果たしてついているのかいないのか。ちびうさを迎えにヘリコプターでやって来て身を乗り出した私服の天王はるかにはしっかりと胸の谷間があったし、スカート姿がまるで違和感なかったら肉体も含めて女の子といった感じがありそう。とはいえ学校には男装して通っている訳で、レースなんかも男子として走っているっぽいんで謎は深まる。ちびうさの前では女子だけどうさぎの前では男子ってこと? そのあたりも含めて今後どうなるかを気にしていこう。ほたるちゃんの声は皆口裕子さんテイストが感じられて良いなあ。「ルパン三世」の時とはまたちょっと違った藤井ゆきよさん。巧い声優さんになって来たなあ。

 やれやれ。国連から日本の報道の自由度について調査にやって来たアメリカの大学教授が会見で日本には記者クラブ制度があってそれがアクセスとか報道の自由とかに影響を与えているんで廃止した方が良いんじゃないかと提言したことを、触れずに済ます記者クラブに所属しているメディアも大半な中にあって、触れたには触れたけれどもその触れ方がどうにもポン酢だったりしてお腹が痛くなる。だってホワイトハウスや国防総省にも記者クラブはあるだろ? そっちについて調べるのが先だろって文句だもん。いやいやそういうものについても調べた上で出しただろうランキングな訳だし、そうでなくてもホワイトハウスや国防総省の記者クラブは一種セキュリティ的なものであって、報道関係者と分かれば加盟はできて一部にのみ開かれた日本の記者クラブとは性質が違う。

 あとホワイトハウスにはインナーサークル的なものがあってUPIとかAPといった通信社をまずは大事にし、それから新聞テレビといったメディアの記者をそばに座らせるような区別はするけれどもほかのメディアだって大統領の記者会見に安全さえ担保されていれば入って見られる。日本新聞協会所属のメディアを基本にしてあとはオブザーバーってな区別をする日本の記者クラブ制度とはニュアンスがやっぱり違っているし、何より記者クラブに所属していることがなれ合いめいたものを生み、質問を手控えたり日々質問内容を調整したりするようなことはアメリカの記者クラブではない。それをやったらメディアの死だと分かっているから。でも日本はそれが普通。そういう彼我の違いを知ってか知らずが、余所もやっているならそっちを避難しろという逃げ口上が平気で出てしまうところに、やぱり日本のメディアの衰退ぶりってもの窺える。やれやれ。


【4月25日】 しまむら、って使えなかったのは一説によれば出てくるブランドをそのまま使えずそれで仮名にしたらしまむらに仮名のブランドが売られているようにとられるのでしまむらも仮名にした方が良いとなったから、なんて話もあったりする「くまみこ」のしまむらならぬしもむら回。ヤンキーに連れられ近所のしもむらへと連れて行かれたまちちゃんは、そこでとんでもないしもむらマスターぶりを発揮してはブランド物もしっかりあっておまけに安く、たとえサイズが切れていても近所の店に行けば置いてある可能性なんかも示唆してしもむらの凄さを訴える。聞けば次は絶体行かなくちゃって思わせられるけど、ユニクロと違ってそうそう街中にはないんだよなあ。船橋だと西船橋か津田沼に行かないと。でも遠くないんで今度のぞいてこよう。すごいブランドとのコラボとかあるんだろうか。西友のゴルチェコラボに負けないような。

 4月19日に公開されて1週間も立たないうちに76万PVまで来た岡崎体育さんの「MUSIC VIDEO」のミュージックビデオは「手さぐれ!部活もの」との類似性も指摘されながらもミュージックビデオ界隈によくある話を手堅くまとめて分かりやすい言葉に載せて楽しい音楽とともに送り出したところに大きな意味があったようで、あるあるあるあるといった声とともにぐんぐんと広がりテレビにも出てこれから始まる夏フェスとかにも引っ張りだこになる、かというと映像あってのものだけにそこはちょっとどうなのか。ただ歌の巧さと音楽の良さってのは強く強く伝わったんでそこを起点にしてファンを増やしてミュージシャンとして、ラッパーとしてどんどんと世に出て行く可能性も低くはない。「俺はぜったいプレスリー」「俺ら東京さ行くだ」で歌詞の面白さが認められた吉幾三さんが歌の巧さにも関心をもたれ、やがて大物演歌歌手になっていったように。

 そんな「MUSIC VIDEO」とほぼ同時期に公開されたきゃりーぱみゅぱみゅさん「最&高」のPV再生が1週間で50万に届かず「MUSIC VIDEO」よりも少ないというのがちょっと気に掛かるところ。インパクトで「MUSIC VIDEO」が凄いとあいえ基礎票だってある紅白出演アーティストがこの程度であって良いかというとちょっと迷う。コカコーラとのタイアップだってあるのに。ちなみに映画「ちはやふる」とのタイアップがついたPerfumeの「FLASH」は1カ月ちょいで212万近くまで伸ばしている。BABYMETALの「KARATE」に至っては800万。何か差が付きすぎている。BABYMETALは別にタイアップもついてないけど、世界で絶賛という話題もあったから伸びた感じ。でもそれにしてもちょっと凄い。

 きゃりーぱみゅぱみゅさんだって前作の「Crazy Party Night 〜ぱんぷきんの逆襲〜」が600万近くまで伸びているからその時は関心も高かったと言えそうだけれど、その後、大きな話題があったかというと紅白歌合戦に出られなかったことと、ユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションになったことくらい。タイアップもそれほど多くなかった。それが戦略としてそうしているだけなのか、ちょっと世間の関心とズレて来ているのか、判断もつかないところで、今回のコカコーラから始まるタイアップの行方と、夏に控えている日本武道館でのライブと、あとは海外での反響なんかを見ながらどういう戦略で世界にアプローチしていくのか、それは今までと同じなのか違うのかを見極めたいところ。やっぱり行っておくかなあ、日本武道館でのライブ。

 しかしミュージックビデオあるあるの「MUSIC VIDEO」を受けて、ライトノベルあるあるをまとめてアニメーション化されたものから映像を引っ張ったMAD「LIGHT NOVEL」なんてものを誰か作ってくれないかなあ。「カツアゲされ歩きながら帰る」「急に横からトラック出てくる」「突然目覚めて周囲を見渡し」「次のカットでエルフが立ってる」って感じ。途中で挟まれる女の子との出会い方講座なんてのももちろん登場。「めくる 怒らす おっぱい揉ます シャワーのぞかせる 倒させる」。階段を上から落して縞々のパンツを見せるとか、出会い頭にぶつけさせるとかフラグの立て方はほかにも多々あるけれども、そんないかにもが寄せ集められた映像が、歌とともに披露されたらちょっと作った人を尊敬してしまうかも。挑むか、誰か。

 朝顔になるかなあ、って思ったけれども誰かが指摘していたように、色つきのなかで唯一、単色で推したA案が採用された2020年東京オリンピック/パラリンピックのエンブレム。フレッドペリーだとかサントリーだとか吉野屋だとかいろいろありそうな円環のデザインだけれどそれだけにたった1つのものに似ているとも言いがたく、なんとなくありそうだけれどどこにもないデザインとして通ってしまったといったところか。ただなあ、オリンピックとパラリンピックのそれぞれのマークが多色なのに対してシンボルマークにもなるエンブレムが単色とうのは並べるとどうにもバランスが悪い。色校とか出すのが楽で良いのかもしれないけれど、見てどこか寂しい感じがしてしまう。だからこそ朝顔が来てほしかったけれども決まったからにこれを推しつつ使うかどうかを考えながら、来る五輪とパラリンピックを迎えよう。あとはどんなマスコットが登場するか、だな。日本ならではの動物ってことでニホンザルか。それともニホンカモシカか。

 「Re:ゼロから始める異世界生活」は前週でカンテレ弾けそうな雰囲気をしたお姉さんがとりあえず引っ込んで、主人公の命は救われリセットもなかったんだけれどそれで連れて行かれたお屋敷で、食事をしてついでに雇われ家事やら料理やらを学んでどうにかこうにか一段落、さあこれから姫君とデートだってところでまたしてもリセットが起こってしまう。ここで最初に戻って八百屋前で会話し戦車道にはいろいろ詰まっているとご託を言いそうなお姉さんを相手に死闘を繰り広げることになったら絶望も深まっただろうけれど、とりあえずベッドで見知らぬ天井を見ながら目覚める時点へとセーブポイントが進んでた。その理由は不明ながら主人公をこの世界に連れてきた何者かが、望む展開になっていたらそこまででセーブ、そして意に沿わなければそこからスタートっていった法則でもあるのかな、なんて想像も浮かぶ。原作を読めばその辺も分かるかもしれないけれど、ミステリアスな展開なんでここは我慢してテレビを見ていこう。仲良くなてもすぐリセットはキツいか、また仲良くなれるチャンスを得たと思うべきか。

 やっぱりというか、当然というか。たとえ「攻撃の主な対象は県教組と書記長の女性」だっとしても、その攻撃の理由に差別的な思惑があって、差別したい相手に与したものを罵倒する内容のものであったら、それを「差別を直接、扇動・助長する内容まで伴うとは言い難い」と言うのはちょっと無理。控訴審でもって「一連の行動は人種差別思想の現れ」と見なされ前にもましての賠償を求められることに、あんまり違和感は覚えない。ただ、こうした裁判の結果が出て、それが最高裁で確定しようとも変わらず差別的な言動を振りまき、なおかつ隙間を狙って差別風のことを言うようになっている状況があることの方が問題で、根本として差別の意識が改まらない限り、事態は続いて傷つく人もいっぱい出そう。そして感化されてすさむ人も大勢現れそう。どこかで歯止めをかけたいけれど、からからないのはやっぱりこの国が、心身ともに貧しくなっているからなのかなあ。油田でも出て金鉱でも掘り当ててジパングにでもなれば誰もがハッピーに生きられるようになるのかなあ。


【4月24日】 イントロが流れ始めたところで身構えて、まずは素直にストレートな拍手をしてからメロディが変わったところでリズムを変えて、画面とおなじようなタイミングで拍手をし、それをしばらく続けてから終わりがけにまた拍手をしてオープニングを見終え、始まった本編で畑を作って記事を追い回し、姉がやって来てカラスを呼び寄せるだけのまったりとした展開が、淡々と綴られる映像をながめて気分をホッと落ち着かせる。そんなことができるアニメーション「ふらいんぐうぃっち」。青森出身の小形満さんが演じたお父さんが喋った津軽弁がまるで聞き取れなかったけれど、しっかり通訳していた千夏ちゃんはあれでちゃんと聞き取れるんだろうなあ。生まれながらにバイリンガル。

 畑を耕し作物を育てるあたりは「おおかみこどもの雨と雪」なんかにも描かれていたけれど、結構大変そうな上に指導も厳しくちょっと大変そうな印象だった。「ふらいんぐうぃっち」にはそんな面倒な描写はなくってしばらく寝かせたところに植えれば何かスッと生えてきそう。マンドレイクとか。それは無理か。それにしてもご近所にキジが出るとは。って言うけど昭和40年頃の実家の近所は名古屋市内だけれど普通にキジとか歩いてたし、サギだって飛んできたしイタチだって走ってた。里山なだけにイノシシは流石にいなかったけれど、動物なら割といたからまだ、本当の山とつながっている青森ならイノシシだってクマだって現れ来そう。でもって日本語喋るんだ。それは違うアニメーション。

 アフリカを旅していたらしいお姉ちゃんも突然の帰還。っていうかアフリカであれで暑くないなら初春の青森だと寒くないのかとか思ったけれど、中身はざっくばらんな人っぽいから気になんてしなんだろう。そして試したカラス集めの魔法。1羽どころか何羽もあつまりガアガア。その勢いに使い魔の猫のチトさんとケニーさんは抱きかかえられて安全地帯に避難していた。「ハイキュー!!」みたく路地裏の対決とはいかないものなあ、あれだけ烏の数が多いと。キジを引き寄せる魔法ってのはないのかな。いずれそんなお姉ちゃんも加わり賑やかさを増しそうだけれど、バッケの天ぷら作りにはたけ作りといった日常が、淡々と重ねられていくだけでも魅入ってしまうアニメーション。テンポと音楽と何より出てくる人の気質が優しいってことが大きいんだろう。今期もしかしたら1番になれる作品かも。

 SF者として叙述トリックなんかも想定して、出港した横須賀女子海洋学校の生徒たちは途中でまとめて異世界へと移ってしまってそこで元からいるブルーマーメイドや横須賀女史海洋学校の教官たちから侵略者と見なされ攻撃を受け、仕方なく反撃をしたら反乱と見なされてしまった、その一方で彼女たちが出校した世界に入れ替わるように現れた違う世界の横須賀女史海洋学校の生徒たちが、見知らぬ世界に恐れおののき現れた船をのべつまくなしに攻撃をしてこれは反乱だと学校側もみなしたという、そんな違う時空で起こっている事態が交互に描かれて同じ世界で起こっているように思わせる、なんてことも考えたけれど実際に、晴風には世界が自分たちを反乱したとみなしているって情報が届いているから、同じ世界で何か行き違いが起こっていると見るのがここは正しいのかもしれない「ハイスクール・フリート」。

 ではいったい何が起こっているのか、といったあたりがまるで不明なところが不気味であり、また展開への興味を誘われるところ。武蔵の方でも何か起こったみたいだから、晴風1隻だけが反乱と見なされている訳ではないようで、洋上で誰かの身の上にいろいろなことが起こってそれが、謝った情報を与え間違った認識をもたらしているといったところか。だったら何が起こっているかというと、救助されたアドミラルシュペー副艦長のヴィルヘルミーナが直面した、誰も言うことをきかなくなるっていったあたりがヒントになるのかな。艦長だけは真っ当で彼女に帽子を預けたようだけれどでも、ほかは異常となっってミーちゃんが逃げたのを追って攻撃した。精神が止んでいるのか違う命令系統が動いているのか。そんな可能性を想像しながら、本当のところを楽しみにして続きを見ていこう。これだからオリジナルは面白い。たとえポン酢な落ちがまっていても。

 何か来るってんで電車を乗り継ぎ越谷にあるイオンレイクタウンへと行ってマツコと、じゃなかった待つことしばらく。そして現れたマツコならぬマツコロイドが消臭効果を持った柔軟剤のキャンペーンを芸人と繰り広げるのを見る。前にAMDアワードの表彰式で見たマツコロイドだけれど、表情とか仕草なんかで不気味の谷の前後を行き来して、マツコデラックスさんの存在に迫りつつ離れつつそんなニュアンスをも含みつつ、マツコロイドというキャラクターをどんどんと確立させている感じ。いっしょい出ていた芸人さんより稼いでるなんて話も、あながちギャグではないのかもしれないくらいに色々な場所で活躍していきそう。

 喋りのタイミングとか内容にもうちょっとAIっぽさがあれば良いんだけれど、マツコロイドはヒューマノイドロボットというか人間に似た仕草や表情を見せることに主眼が置かれていて、それを動かし言葉を喋らせるのはまた別の要素なんで使うとなると人間によるオペレーティングが必要になってくる。映画「さようなら」でも動きや仕草なんかを穫りつつ声は別に発していて、リアルタイムに芝居をしていた訳じゃないから。演劇はちゃんとその場でのリアルタイムなやりとりがあったと思うけど、それだって仕込まれたものに役者が応対していくといった感じだからなあ。なので石黒浩教授の研究をAIの将来性と絡めて考えるのはちょい、ズレている気もするけどインタフェースとしての人間らしさもAIの浸透に一つの要素になるから、そういうアプローチから石黒教授の研究と、そしてヒューマノイドロボットの将来性を考えるのもありなのかも。次はどこに出張るんだろうマツコロイド。いつかマツコデラックスさんより稼ぐ存在になったりして。

 ごうごうと吹き荒れている暴力的な嵐の中心にあって、風がまるで吹いていないところに立ってほら、風なんて吹いてないから嵐なんて存在しないんだと言っていった誰がそれをまともな言葉だと思うだろう。批判する者に対して権力側が陽に陰にいろいろなプレッシャーを加えて潰そうとしている状況を一方に見ながら、というかまるで見えないふりをして一切の批判をしないでおいて、だから当然にプレッシャーなんて受けてないことをもってプレッシャーなんてものは存在しない、だから報道はまったくもって自由に行えるでしょうと言ってのける、そのスタンスはすなわち自分たちは政府の批判はいっさいしません、政府が嫌がることは書きませんと言っているに等しい。

 讃えはしても誹りはしないといった具合に、自らの身を縛って完全なる自由から遠ざかっていることを、これが自由だと言ってしまえるその思考がいったいどんな回路から出てくるのか。相手に都合の悪いことを書かない自由をも言論の自由と読み解いて、都合の悪いことを書いた者たちに不自由が起こっている状況をまるで無視して日本には言論の自由が完璧なまでの保証されているのだと、堂々主張してしまえるその口の奥へと手を突っ込み、脳味噌を引っ張り出してどんな回路になっているのあ、調べてみたいけれども開いたところできっと空っぽなんだろう。だからこそ権力から言われたことがそのまま加工もされずに通り抜け、口から出てくる。やれやれ。


【4月23日】 ガンダムだガンダムだ、「機動戦士ガンダム」の新しい立像が出来るってんで超早起きをして電車を乗り継ぎ、総武線快速から横須賀線を経て武蔵小杉から南武線に乗り換え稲城長沼って駅へ。始めて降り立った場所で、いったいどれだけ寂れているのかって思ったら、そこはメカニックデザイナーの大河原邦男さんが暮らす土地だけあって、駅前にあるコンビニには「機動戦士ガンダム」の関連グッズがいっぱい並んでいた。ってそれは本末転倒か。もともとは何もない場所だったんだけれど稲城市が、新しい観光スポットを作ろうといった構想を持ち、そして南武線の高架化が進んで稲城長沼駅の下にもスペースができたんで、そこをどう使うかって話の中で大河原邦男さんをフィーチャーしたプロジェクトを進めようという話になって、アンテナショップが作られそしてガンダムとシャア専用ザクのモニュメントが作られることになったらしい。

 というか当初は大河原さん、ガンダムはいろいろと権利関係の処理が難しくって面倒も多いだろうから話がスムースに進む「装甲騎兵ボトムズ」に登場するスコープドッグを置こう、それも鉄を叩いていろいろ作るアーティストの倉田光吾郎さんが手掛けた鉄のスコープドッグを置こうという話で、いろいろと構想していたんだけれど、大河原さんの奥さんがやっぱり最初に置くならガンダムじゃないの、世界に通用するのはガンダムだよって話になって、だったらと仕切り直して相談をして、どうにかガンダムとシャア専用ザクのモニュメントを置けることになったらしい。ただ、そこでも大河原さんなりのこだわりがあって、デザインは自分が最初のテレビアニメーション「機動戦士ガンダム」のためにデザインしたガンダムでありシャア専用ザクを立体化したいと要望。今時のシュッとしたガンダムなりザクは自分のものではないという思いが、もしかしたらずっと大河原さんの中にはあったのかもしれない。

 バンダイなんかだとやっぱりスタイリッシュな方が売れるからと、プラモデルでもフィギュアでもリファインされたデザインのものを商品化したがるけれども、そうした流れに棹さすように自分なりのデザインを求めていった大河原さん。そうしたことを堂々と、サンライズの社長とか創通の偉い人が来ている前で行ってしまえるところに御大ぶりというか、クリエイターとしての矜持ってものもうかがえるけれど、その結果登場したシャア専用ザクが実に素晴らしくって、これだよこれが僕らがアニメで見てきたシャア専用ザクだよっていった感動を与えてくれる。ずんぐりとして脚なんかとっても太くって、大河原さんいわく女子高生の太もものイメージといった感じ。でもそのぶっとさが見上げるような大きさのシャア専用ザクを、逆に新鮮でなおかつ人間味めいたものを持ったものにして、メカひとつのキャラクターとしてそこに存在させている。

 そういえば大河原さん、メカを描いてはいてもそれはアニメの中でひとつのキャラクターとして存在するようなデザインを常日頃から繰り出している。「タイムボカンシリーズ ヤッターマン」のヤッターワンとかを筆頭にして、メカであってもそこにいて心を持っているような雰囲気で主人公たちを支え導いている。ザクもガンダムもだからミリタリー的な道具ではあっても、そこに大河原さんなりのキャラクター性を持たせたデザインにしてあったんだろう。けれどもだんだんと、メカとしての濃度が濃くなりそのためには無駄な曲線なんかを削られクールに、そしてスタイリッシュにリファインされていった。そして生まれた齟齬を、今回はざくっと解消したものとして作り出せた。それも自分の地元に。嬉しかっただろうなあ。

 そんな喜びをこれからも、他の場所でいろいろと作り出してくと大河原さん。ヤッターワンとかどこかに出来たりするのかな。そして今回は見送られたスコープドッグも。そんな大河原メカがあふれた稲城市に、住んでみたい行ってみたいという人が増えたらうん、面白いまち作りが出来そうだなあ。職場に通うには東京から遠いけど、暮らすには楽しい町になったらちょっと、引っ越しとか考えてみる人も増えるかも。ガンダム関係はさすがにいろいろきびしいだろうけれど、勇者シリーズがありタイムボカンシリーズがあり他にもいっぱいあるキャラクターが、あちらこちらに立っている稲城市。夜中にこっそり動いてはワルモノを退治してくれる、ってことはまだないけどいずれそんな時代が来るのかも。

 届いた宮内悠介さんの「彼女がエスパーだったころ」(講談社)を訥々と。すなわちシュードウ・サイエンス・フィクションとでも言えそうな科学と魔法と思い込みの間を行き来するような不思議な出来事に絡めて人が右往左往するようなエピソードを連作にように積み重ねては、人は信じたいものを信じてしまう生き物なのかもしれないってことを示していく。例えば表題作。スプーン曲げで一世を風靡した女性を取り扱ったこの話で、毀誉褒貶あってアップダウンも激しかった彼女の使ったそれが本当に超能力なのか、単なる手品かってところまでには深く突っ込まず、ただスプーンを曲げるといった行為とそれがもたらす結果から、起こったひとつの悲劇であり、それに伴う当人の懊悩めいたものを描いていく。

 どこかちょっとだけ人と違ったところがあると信じたい、中二病的な人間の自分を誇りつつ髭するような、複雑な心理も滲むエピソード。それでも異能を人は求める? ちょっと考えてしまう。ほかには猿が火を使うようになってそれが他の猿に伝播してあらゆる猿が火を使うようになってしまって起こる人類への挑戦的な行為が、けれども猿にとって火は必要なのかといった根源へと経ち戻って火を扱う猿はもはや猿ではいられなくなってしまう皮肉めいたものを浮かび上がらせる。未来に生きず今だけを生き続けている猿にとって火も芋洗いも実は必要のないもの。刹那の仕草が何かに見えてもそこに意味なんてない。それは人間が何かにすがり頼らなくてはいけない脆弱な生き物であることの証明でもある。そんなメッセージが浮かぶ。

 ロボトミーならぬ脳をピンポイントで削るような手術によって怒りの衝動を抑えられてしまったミュージシャンがだとる運命と、そんなミュージシャンに自分たちを映した学者であり女のあるいは寄り添い、あるいは去って行く様を描いた話から、人はそう簡単に変われるものではないんだと教えられ、声をかけることによって浄化する能力を持つに至った水をもって洋上に浮かぶ原発の汚染水を綺麗にできるかといった問いかけがなされる話からは、効果があろうとなかろうとも信じて生きることに意味はあり、けれどもそれは個人的な範囲でしか通用しないとも教えられる。エンターテインメントというより特定条件に生きる人たちの諸相を連作でつづった文学といった面持ち。それだけに直木賞となるときびしいけれど、今となっては芥川賞には入らない。だとすれば三島由紀夫賞? 「アメリカ最後の実験」で山本周五郎賞をとって次にこれで三島賞とかいったら、格好いいなあ宮内さん。

 ああ、もうダメかもしれないな、この人。朝日じゃない新聞はちゃんと訂正したって言うけどおいおい、その朝日の元記者を糾弾にいってお前さんのところだって酷い記事を書いて、なおかつ今に至るまで訂正していないじゃないかと突っ込まれて、焦りまくってこっそりひっそり訂正を出したじゃないか。そんな状況も知らずに擁護するのって、よほど周りが見えていないのか、見ようとしないのか。自分に都合の良い情報しか集めず見ようとしないジャーナリストがジャーナリストなんかであるものか。朝日が訂正していないことをいくら挙げても、それは植村元記者個人に対する誹謗的な文書を認めて良いことにはならい。そんなベーシックなことすら分からないくらいに、自分が見えなくなっているんだとしたらきっと、裁判には負けてしまうだろうなあ。でも降りない。何と戦っているんだろう。どうしてそんな風になってしまったんだろう。生きるため? だとしたら辛いなあ。本当に辛いなあ。


【4月22日】 今日も今日とて幕張メッセへと行って「国際ドローン展」。といっても展示はほとんど見ないでもっぱら千葉市の熊谷俊人市長が喋った講演を聴講。ちょっと前にイオンモールからドローンを飛ばしてワインを届けてもらったり、高いマンションの上に荷物をドローンで運んだりする実証実験を行って、テレビなんかに取り上げられて注目を集めていたけれどもそれがどういった思惑で行われたのか、そして何を目指しているのかってあたりが市長の口から説明された。なるほど山間部とか島嶼部での配送にドローンは有効で、それにむけて各地で実験は進んでいるけれど、公的な補助も出そうなそういった分野にばかり頼っていても、産業としては成り立たないといった認識があるみたい。

 だからこそ市街地でもドローンを使った配送を有効に行えるような体制を整えることが必要で、そのためにはどんな運用が可能か、どういった条件なら運用できるのか、法律的な問題はないのか、安全性については大丈夫かといったデータを蓄積していくことが大事。だからこそどこかスタンドプレー的に見えてもイオンモールでワインを運んで女性の政務官に受け取ってもらいつつ、地域の自治会長らを集めてマンションの上へと荷物を運ぶ様子を見てもらって、どれだけ便利か、そしてどれくらい安全なのかを感じてもらおうとしている。なるほど計画的。そして未来を見据えた行動が、しっかりと行えるところにこの市長さんの為政者としての明晰さを見て取れる。去年もコミケ的なイベントへの理解を示しつつ、それだけじゃないこともちゃんと訴えていたからなあ。その場限りの事は言わない。

 ユニークなのはそんなドローン特区的なこと以外にも、例えば道路や歩道を使って人を運ぶパーソナルモビリティについても特区的なことを構想しているようで、まずは人を乗せて時速10キロくらいまで出して運べるようにした上で、運び終わったマシンが自動で戻って来られるように法律面で配慮を求めていくという。何でも人が乗っていないものを自動で走らせるのは道路交通法的にダメらしい。だったら流しの自動タクシーだって無理じゃんと思ったりもしたけれど、そんな自動運転タクシーについてもDeNAとZMPがやってるロボットタクシーと組んで地域での実証実験を検討しているらしい。広くて整備された道路がある幕張新都心ならではの地の利を活かし、そうした分野への傾注を深めることでそこに産業も立ち上がり、住民も増えるような施策を打ち出す。分かってる感がにじみ出る。

 ほかにも千葉市に先進的な企業を集積させたいとそうしたスキルを持った外国人の在留資格緩和を行ったり、海外の企業が事業所を設立しやすくしたりして次代を担う産業をここに集めて盛り上げようとしている。なるほど東京都の湾岸にはそんな地域はもうないし、横浜のみなとみらい地区も大企業はあっても新鋭の企業が立ち入る隙なんてなさそう。これが幕張からあの近辺ならまだ土地もある上に、特区的な活動もあって新しいことがいろいろと出来そう。千葉大学に千葉工業大学といったロボティクスとかドローンに強い学校もある。そんな産学官の連携から何か生まれる可能性を、考えたいけどそれを言い続けて四半世紀、経っているのも事実なんで熊谷市長の先進性に、ついてくる企業があるかどうか、そこにかかって来るんだろう。さてどうなる。

 「驚くほど細腰で、クールささえ漂う『白地に青と赤と黄色』で彩られた機体は、右脚が地面から離れるや、グイとザクを見据えた。『コロニーの大地』に厳かに立ち歩きに始めた、巨体の肩に刺さる『円柱の白』に感動したのも瞬く間、抜き放たれたサーベルがザクを両断した」。そんな書き出してもって「機動戦士ガンダム」の第1話「ガンダム大地に立つ」を紹介するならまだ文学的かと言われただろうけれど、日本が次世代のステルス戦闘機を開発するために作った実証機が初飛行したのを見て「驚くほど細身で、しなやかささえ漂う『白地に赤く』彩られた機体は、前脚が滑走路から離れるや、グイと大空を見上げた。「空の青」に鮮やかに溶け込み始めた、操縦席直下に映える『日の丸の赤』に感動したのも瞬く間、頼もしい爆音とともに、かなたへと消えていった」なんて書いたら、そりゃあポエムっていわれるだろう。

 細身ったってそれは記者の印象で、何に対してどれだけ細いかが説明されていなければ記事として何の役にも経たないいし、「大空を見上げた」って別に飛行機には目なんてなく頭もない。「見上げた」と書くなら機首を顔にでも例えて上昇していった様を例えたように書かないといけないんだけれど、そうした配慮もなしに自分の頭の中で描いた擬人化された飛行機でもって言葉を紡ぐ。なるほどポエムだ。それも独りよがりの。だいたいが「心神」なんてコードネームは今はまったく使っていない。だから他紙もそんな名前は出さずにX2と書き実証機と添えるんだけれど、ここん家はただひとり、今や愛称ですらない「心神」をしつこく使っている。でもこれって誤報じゃん。違う名前を平気で使ってる訳じゃん。

 Windows95を紹介するのにコードネームのChicagoだなんて書いたら訂正もの。でもそれを平気で書く。脳内のお花畑に響かせるポエムなら何を書いても良いけれど、公器として読者に届けられる媒体が、平気で間違いを書いて良いはずがないんだけれど、それを咎める人もいないのが、ここん家の目下の問題なんだろう。誰もが勝手に、そして思い込みの中で書き飛ばしている。勇ましい愛国まみれのポエムを北朝鮮かよと軍事評論家の人あ指摘していたけれど、はっきりいって状況はそれ未満。なぜなら北朝鮮にはまがりなりにも金正恩という中心がいて、とりあえずはその意思を、たとえお飾りであっても祭りあげられてはいても、周囲が一応は受けるといった形で運営されている。つまりは主体が見えていて、崩すにはそこを叩けば良い。

 けれどもここで指摘されている媒体には、もはや思想的な主体はなく、ただそれをやれば受けるんじゃね的雰囲気、安倍ちゃんよいしょしてけば楽しいんじゃない的雰囲気だけが漂って、超偉い人が指導するでもなしにそんな空気に誰もが阿り従っては逸脱しないようになってしまっている。そしてそれで稼いだ数字をのみ正しいと信じて逸脱してより広大な市場を狙おうという意識を失っている。主体のない中心がぽっかりとあいた状況でただ気分だけが支配する。日本と似ているっちゃあ似ている状況。誰もだからこれを曲げたり変えたりはできない。主体をもって責任を背負ってやる人がいない。だからどうしようもないまま突っ走っては濃度だけ高め、そして時代からズレて崩壊していくのだ。遠からず。やれやれ。

 ひねくれモンなんで世間が小山薫堂さん案件のくまモンを掲げて頑張れ絵を描いている人をもてはやしている風潮をみると、同じ熊本県が推している熊本城キャラのひごまるを使った頑張れ絵でも絵はどうして出て来ないんだろうかとちょっと思ってしまうのだけれど、世間的にはくまモンが熊本とイコールなイメージを持って語られてしまう状況になっているのなら、それも仕方が無いなあと思いつつ以後、こちらはビジネスなんかにくまモンを使いたいといった案件が増えて、くまモンだけが大儲けするようになるのもちょっと哀しい話かなあと嫉むのだった。 別にゆるキャラ添えなくたって自分たちのキャラで応援すれば良いのになあ、東日本大震災での羽海野チカさんがマンガ大賞経由で寄せたイラストは、島田八段が手にネコヤナギと福寿草を持ったもので、それだけで応援しているな、って感じたし。ううん。

 プリンスが死んでしまった。クイーンのフレディ・マーキュリーが逝きマイケル・ジャクソンが逝ってデビッド・ボウイも逝き1980年代にミュージックビデオとして見ていたアーティストたちが次々にいなくなっていく。それは単純に洋楽の人気者たちが消えていくという意味合いだけでなく、もっとも洋楽を聴いていた時代に最もたくさん見かけていた人たち、つまりは自分にとって洋楽の中心となっている人たちがだんだんといなくなっていくことに等しい。1990年代に入って活躍したヒップホップもラップもメタルもあんまり知らず、だから誰が逝っても、たとえばニルヴァーナのカート・コヴァーンが逝っても気分はそれほど落ち込まなかった。凄い人だと感じてはいても何かが抜けたような気分にはならなかった。

 プリンスは違う。そしてマイケル・ジャクソンも。どちらもとてもよく見ていたアーティストだった。そして今なお語り継がれるくらいの高い音楽性を持ったアーティストだった。1980年代に20代の半ばで大成功して頂点を極めた2人は1990年代も2000年代もともにしっかりと音楽を世の中に送り出してはリスナーを集めていた。つまりは音楽の中心だった。その2人が逝ってあとに残るのは誰だろう。マドンナか。彼女もまた世紀を超えて生き残っているけれど、でも音楽性という意味で、それも斬新さという意味ではやっぱりプリンスは飛び抜けていた。ポップというよりキッチュで、耳になじまず目にも異形に見えたかもしれないけれど、でも聞き込めば滲むその巧さ、その深さ。だからこそ長い時間を歌い作り続けられたんだろう。それが終わった。次は。考えられないところが寂しい。自分も、音楽業界にとっても。とはい言っても詮無い話。だから今、残された曲を聴いて、それも前にも増して聞き込んでその意味を噛みしめ、時代につながる何かがないか、残された者は誰かを感じたい。合掌。


【4月21日】 ヒリつくような緊張感の中で活路を見いだそうと必死になるスパイの姿が描かれていた「ジョーカー・ゲーム」に堪能して、そして異能を持った者たちがぶつかりあう迫力のバトルが描かれていた「文豪ストレイドッグス」に感嘆してと今期のテレビアニメーションは頭脳でも肉体でも良いバトルを楽しめそう。「ジョーカー・ゲーム」は最初の2回が陸軍から送り込まれてきた中尉の目を通してスパイの愛国的ではないようで、しっかりと任務のために全力を傾けるすさまじさを描いていたけれど、3回目で名字しかないメンバーが遠くフランスで経験したことを描いて、戦争中に生き抜くことの大変さ、そうしなくてはならない戦争の理不尽さって奴を存分に噛みしめさせられた。

 「文豪ストレイドッグス」の方はポートマフィアでも飛び抜けた実力を持っていそうな芥川龍之介が現れ武装探偵社に雇われたばかりの中島敦をその虎にかけられた懸賞金も含めて奪おうと画策したところに、さっそうと現れた太宰治が異能を使って芥川や中島の異能を消し去って場をとりあえず収めてさてこれからどうなるか。元ポートマフィアって過去も明らかにされたけれどもそれがどうして今は武装探偵社に、なんて興味を引かれつつ今後を観ていくことになりそう。それにしてもポートマフィアの樋口一葉、声が小林ゆうさんかと思ったら瀬戸麻沙美さんだった。あの綾瀬千早のような天真爛漫さはどこに行ったと泣けてきたけど西絹代のようなポンコツぶりで画伯に近づいていたから案外に今はそういう声質的な立ち位置になっているのかもしれない。これに変態が加われば画伯すら越える逸材に。期待しよう。

 枕元に埋もれていたのをようやく見つけて大泉貴さんの「古書街キネマの案内人」(宝島社)を読み進める。神保町の名画座っていうと神保町花月と同じ建物に入っている神保町シアターが知られているけれど、オープンは2007年とまだ新しくって10年も経っておらず、戦後まもなくから高度成長期あたりをくぐりぬけて若者に古今の名画を安価に見せて、レンタルビデオ店なんてない時代に日本人の映画への造詣をたっぷりともたらした伝統といったものはそんなに漂わない。

 とはいえ今ある名画座だって目黒シネマや早稲田松竹が古いくらいでギンレイホールは1974年、昭和49年の開業だから戦後とは離れ、新文芸坐も建て替えによって2000年に再登場してきた映画館だから古い緞帳があってシートは薄くて座るとぎしぎしと良いそうで、ロビーと劇場とを仕切る扉も薄くてカーテンも重ならなくって出入りすれば光や音も漏れ出しそうな、そんあ古き良き映画館といった感じではない。まあでも今残る名画座だって設備は新しくなって三軒茶屋にあった三軒茶屋中央劇場のような雰囲気も残ってはおらず、衣をそれなりに新しくしながらプログラムでもって勝負をして、今も若い世代に映画の良さを伝え、年配者にはビデオで見るのとはやっぱり違った映画観という体験を与えている。

 そう体験。映画館で映画を見るという行為は何かしらの記憶をもって体験として人生に刻まれる。家でひとりでDVDを観てもそれは観たという行為にしかならないけれど、映画館に行ってひとりででも、あるいは誰かと映画を観るという行為には必ずそこに劇場という空間で大勢の人たちと、あるいは少ない人数の中でポツンと映画を観たという体験が伴ってくるし、誰かと行ったのならそれは誰で、どうしてその人で、今どうなっているといった体験が必ずついてくる。それは後、記憶となって残り人生をさまざまに彩る。嬉しいことだったとしても、逆に哀しい思い出だったとしても。

 「古書街キネマの案内人」に登場するのは、そんな映画に伴う体験にまつわるちょっとした不思議と、さらりと解き明かしてくれる映画案内人の女性。名を六浦すばるというその女性は神保町にある名画座の「神保町オデヲン」にいて、映画館の運営に関わる仕事をしながら時々持ち込まれる、映画に関するちょっとした疑問や謎について相談にのったり、映画館界隈でおこる不思議な出来事の真相を探っていく。物語はまず、母方の叔父が病気で死んでその遺品となった映画のパンフレットなどを神保町に売りに来た大学生の多比良龍司が古書店でも売れなかった「E.T.」の使われていない前売りチケットを手に、たまたま「E.T.」が上映されていたその「神保町オデヲン」を訪れたところから始まる。

 そこで出会った六浦すばるが自分は映画案内人だと自己紹介し、封切り日が全国とは1週間だけ違っていた前売り券の日付と、そして今はもうない劇場の名前について調べ教えたことから龍司は彼女に頼り、映画に関する悩みがあるといって叔父が残した「E.T」と刻まれた指輪を持ち込みつつ、彼に何があったんだろうかと相談する。何枚も残った映画の前売り券の意味。ロードショーに続く2番館3番館がどうやってフィルムを得て上映をするのか等々、映画に関する知識が披露されつつ叔父が「E.T.」を子供だった龍司たちと観に行って涙ぐんだ理由などにも推察を重ね、指輪の謎も使われなかった前売り券の理由も解き明かしていく。

 そんな彼女に感動した、というよりたぶん色気先行で惹かれた龍司は、「神保町オデヲン」が募集していたアルバイトに応募して働き始める。映画なんてまるで観ず、支配人に何を観たか問われてセルスルーのビデオ作品を挙げたりする通俗以下の映画知識でシネフィルたちがわんさか押し寄せる名画座の店員が務まるか、そこがひとつの見物だったけれども常連の老人3人の間に起こったちょっとした事件で最初は疎まれつつも誠意でどうにか乗り切り、そして貴重なフィルムの上映に出没しては盗撮してネットに上げて「フィルム・ガーディアン」と気取っている人間を見つけて捕らえようと奮闘する。

 そんな彼に六浦すばるもだんだんと惹かれていくか、というとそんな甘い関係はまるでなく、映画に関する謎を知識と直感で解き明かす彼女に告白することもないまま、映画館での日々は過ぎていく。朴念仁なのかそういう要素が入って関係が壊れることを嫌ったのか。分からないけど物語り的にはそっちにぶれずに映画とそれにまつわる知識を謎解きの中で深めていける。本当のシネフィルが読んで薄いか濃いか、どう思うかは分からないけれども通俗的な関心だけは持っている人なら読めばああ、そういうこともあったんだなあと楽しめそう。「羅生門」とか「E.T.」とか「トラ・トラ・トラ」とかいった、誰でも知っているけど見逃していた映画をちょと見て見るかって気にもなる。その時はやっぱり映画館へと足を運びたいもの。そのために名画座の上映スケジュールをチェックしTOHOシネマズがやっている名画の週替わり上映「午前10時の映画祭」のスケジュールチェックを始めてみるか。

 何もないから文句をいっておにぎりを差し入れしてもらったのか、あったのがおにぎりだけでこれはタマランと別の何かを差し入れしてもらったのか、分からないけれども復興の最前線に立つ政治家が、現地に入ってホットラインで差し入れを求めるというのは決して格好の良い話ではなくて、そもそもどうして用意していないのかといったロジスティック面への配慮のなさに糾弾はできたとしても、そういった状況に自分だけではなく大勢があるといったことへの想像力を働かせ、我慢をしつつ精一杯の謙虚さでせめておにぎりくらいはないものかと求めるようにしなければ、世間は納得しないだろう。でも上から目線で飯よこせってやってしまう気の大きさが、安倍政権に関わる人たちにつきまとっているようで、それがじわじわと世間にも知られ始めているといった感じ。権力の側にある自分たちは何をやっても許されるといったような。でもそんなに世間は甘くないのでこれも含めてジリジリと、支持に影響を与えてまずは衆院の補選と、そして参院選になにがしかの結果が出てくることになるのかな。

 雉も鳴かずば打たれまいというか、お前が言うなというか、元杉並区長で今度の参院選では自民党から出馬予定らしい人が、過去に隠し子を作っていてその面倒を見ていなかったことを奥さんに暴露されているんだけれど、その出馬予定らしい人はつい最近、保育園が足りないことに憤ったブログに対して親の責任だろと言い放ってそして、ツイッターにも「まずは『親の責任』という、人としての当たり前の責任感があってこそ、全ての子育て支援が活きるということを、口だけのあなた方は知るまい」と書いていた。おいおい自分が1番、親の責任とやらを果たしていないじゃないか。夫婦間での考え方の齟齬に話を収斂させようとしているけれど、子供に対する責任云々には触れず逃げてはやっっぱりダメ。そこを突っ込まれて炎上する可能性もあるのに、そうはしないで権力側にいてどうにか逃げ切れると思っていそう。これにも世間は甘くはないと言ってきたいし、政党も甘い顔をしないで欲しいと言っておこう。でも甘やかすんだろうなあ。お友だちだし。やれやれ。


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